1 : 名無しさ... - 25/09/12 09:14:37 1CO1 1/54プロデューサーが友紀の心に触れる話。やや長いので一部をフライング投稿します。
前作 姫川友紀「シンデレラの魔法」
https://ayamevip.com/archives/59496863.html
ヤニのこびりついた天井から目を離すと、現実が戻ってきた。積み上がった書類と作りかけのExcelファイルがいくつか、それに冷めかかったコーヒーと薄汚れた灰皿。まぁ、これぐらいの量なら半日あれば終わる。さて、やるか。
「たっだいまー!」
「おわっ!」
決意は一瞬で無駄になった。亜麻色の髪と顎が頭頂部に触れ、指が視界を塞ぐ。こんなことをする人間はこの事務所には1人しかいない。隣の給湯室からこっそりと入ってきたに違いない、事務所のエース。
「ったく……ちゃんと正面から入ってこんかい、ユッキ」
「えー、腕どけなくたっていーじゃーん」
ぶーぶー不満を垂れ流すユッキーもとい、姫川友紀が、レッスンから戻ってきた。
姫川友紀、20歳。高校生と言っても通用するようなかわいらしいルックスと、酒と野球をこよなく愛するその性格面のギャップ、さらに大阪という場所で東京キャッツの熱狂的ファンを公言する度胸で人気を博しているアイドルである。俺は彼女をスカウトした時からずっと関わり続けていた。
「ねーねー、仕事無いの?」
「今のところ特にはないなぁ……この間の仕事は好評だったから、来てもおかしくはないんやが」
そこそこ人気のある友紀が事務所でだらけているのには理由があった。数日前、甲子園でのタイガースとキャッツの試合のゲスト解説を務めたばかりなのだ。
仕事についてはさすがと言うべきか、両チームの注目の若手についてのトークを交えつつ巧みに解説者の話を受け止め、補足や質問を入れて仕事を全うしていた。ネット上やテレビ局でも好評だ、だが。
「……こーへんなぁ、仕事」
「うーん……暇ー!」
「またレッスンかなぁ。すまんなユッキ」
メールを流し読みする。まぁ、所属アイドル4人ーしかも1人はまだデビュー前、1人はデビュー直後で顔見せが終わったばかりーの中堅事務所に、そんな簡単に仕事が来る訳はない。今日も来るのはスパムメールに、ト
レーナーの方との契約の連絡。346からの嫌味に、テレビからの……ん、テレビ?
震える手でメールを開く。出演オファーだ。それも事務所の3人への。
「……なぁ、唯とありすはいつ来る?」
「えっ?今日はあと30分もしたら来ると思うけど……」
「分かった。あとさ、ユッキは野球やる方も上手かったよな?」
「……うん!これでもリトルシニアでは1番センターだったんだよー!」
「ならちょうどええわ。詳細はみんな集まってからにするけど、家帰ったらバットの準備はしといてや」
「おっけー!まっかせといて!」
やる気に満ち溢れた明るい声。ただ、俺はこの時気が付かなかったのだ。ほんの一瞬の沈黙、その理由を。
プロデューサーから来た仕事の話は、確かにあたしに良さそうな仕事だった。女性アイドルの連合チームと男性アイドル連合とでの野球盤対決。その翌日に合同ライブがあって、勝った方はもう1回ドームでライブができる。NPB設立何周年だかのコラボイベントらしい。
「えーっ!ゆいたちも出られるのっ!?やったぁ!」
「私はレポーターですか……なら大丈夫ですね。完璧にやってみせます」
ホワイトボードの前で、イマドキのJKって感じの子ー大槻唯ちゃんと、大人っぽい感じの小学生の子ー橘ありすちゃんがそろって喜んでいる。唯ちゃんもこんな大きなお仕事は初めてだし、ありすちゃんなんてこれが初めてのテレビ出演だったよね。
言葉は穏やかですました感じだけど、大きな青いリボンは素直にぴょこぴょこと揺れてた。
「んでユッキは、女子アイドルチームの主力として頑張ってくれって指名入っとるんや。メインやぞメイン!ほんまよう頑張ってくれたわ!」
一番喜んでいたのはプロデューサーだった。あたしがあんまり言えたことじゃないけど、子供っぽいって思う。あたしと会ったばかりの頃はもっと真面目そうな人だったのになぁ。
「……っとまぁそんなわけで、ありすは普段の以外に滑舌なんかを鍛えるレッスンをしてもらうことになる。ユッキと唯はレッスンの邪魔にならんぐらいに野球の……やなかった、バッティングの練習するぞ!ユッキは経験者として、唯の指導も頼むわ!」
「うんっ!あたしがいるからには、ヒーロー間違いなしだよ!」
「ヒロインですよね」
なるべくいつも通りを装いながらにかっと笑う。大丈夫、大丈夫。みんなの知ってる姫川友紀なら、野球の仕事を迷わずやってくれるはず。だから。
「いやぁ、ほんまに良かったわ!野球好きのユッキにはこれ以上ない仕事やぞ!」
金属バットが白球を砕く音。
「こんな仕事もあるんですね……でも友紀さんにぴったりだと思います」
色んな高さでハモった悲鳴。
「ユッキー、ゆいに野球教えて~!」
大人の人の、ため息混じりの声。
「うん!まっかせといて!」
何とかVサインを作って、笑顔を浮かべる。あたし、変じゃないよね?
河川敷の広い公園。あたしはバッターボックスの近くに座っていた。球拾い役のプロデューサーが手を振るのを見て、ありすちゃんに合図を送る。ボタンが押されて、90キロぐらいのボールが飛んできた。空振り。
「ゼッタイ当たんないよー!」
「大丈夫、ちゃんとボール見たら当たるから!まずはじっくりボールを見て!」
転がったボールを取って、転がして返す。ありすちゃんがそれを取って、またボタンを押した。また空振り。そのボールを拾ってまた投げる、その繰り返し。
ふと、大阪のだだっ広い空が懐かしいものに感じた。6月の明るい空と、見覚えのある校舎の白がフラッシュバックする。あの頃はボールを見るのが少しだけ怖かった。あたしがのうのうと野球に関わってることを、嫌でも思い出させるから。
今はもう、そんなに気にしない。ペナントレースは143試合もある。でも今回は1回きりの試合だ。もし、唯ちゃんがホームランを打ってしまったら。あの日のあたしみたいに、誰かを絶望させてしまったら。押し込んだはずの言葉が、ぐるぐると回り出す。
ー女子に打たれるなんて、あいつも終わったな。
ーあの時、もっと厳しく攻めてたら。
ー高校からのスカウト、無くなったらしいよ。女子に打たれたから。
はね返って、また大きくなって。誰のものともわからない声が、わんわん響く。怖い。怖い。怖いよ。
カキンと鳴るバット。青空に高々と舞い上がった打球は、やけに白く見えて。必死でどこかにしまっていた何かがこぼれ落ちると同時に、あたしの視界は暗転した。
友紀が倒れてから数日が経った。唯たち3人を乗せ、社用車を病院へ走らせる。ポケットの中は何度も確認したのだが、それでももう一度確かめてしまう。しっかりと入っていた。多少なりともこれが慰めになればいいのだが。
「ねぇ、P」
助手席の彼女ー藤居朋が不安げに口を開いた。静かな車の中では、いくらか不気味にも聞こえた。
「あんたの今日の運勢、最悪に近いんだけど」
「言うてくれるやん」
なんてことを言ってくれるんだ。呆れかけて、少し思い直す。朋はまだデビュー前で経験が浅い。それに友紀と年齢が近く、彼女の悩みをよく聞いている。病院でも時折話していたようだし、何かあるのだろうか。
まぁ、嫌な予感はよく当たるとは言うが、後付けバイアスとか言うのが理由だろう。口角を上げて、いつもより軽めに言葉を返す。
「……ま、大丈夫ちゃうか。友紀はそう簡単にへこたれるようなタマしとらんし」
「だといいんだけど……」
軽い沈黙。ラジオが伝える気象情報が、やけに大きく聞こえた。台風は明後日にも大阪を直撃するらしい。それをかき消すようにアクセルを踏み込んだ。
正面玄関のドアが開いて、友紀が出てきた。ありすが真っ先に走り出し、笑いながら唯や朋が追いかける。友紀も笑顔で迎え、ありすの頭を優しく撫でた。事務所でよく見る、いつも通りの光景。いいリフレッシュになったようだ。
「プロデューサー、ただいま!」
「おう、おかえり。体調は?」
「うん!今からLIVEだって出来そうだよ!」
「良かったわ、やけどあと2日ぐらいは休むぞ。疲れはしっかり取らなあかんからな」
友紀の顔が曇った。気持ちは確かに分かる。これでも練習熱心な友紀のことだ、休んでなどいられないとでも考えているんだろうな。
だが、これを見れば変わるだろう。胸ポケットから2枚の紙を出す。
「そうそう、京セラでのキャッツ対ドラゴンズ戦の内野席を2枚取ってるから誰か誘って観に行き。ユッキは野球観るのが一番楽しいやろ」
「……いい」
信じられないほど低い声は、外の風をかき消すように耳に響いた。
「……まだ疲れてるってことか?それやったら確かに休んだ方がええけど」
「そうじゃなくって……野球はもういいかなって」
「はぁ?」
理解できない。友紀が、離れる?野球から?
「……おい、どういうことや」
「そのままの意味だよ。あたしは野球のことがあんまり好きじゃなくなった、それだけ」
「やっぱ変やぞ、悪い冗談はよせ」
「冗談なんかじゃない!」
ガラスで、床で、天井で、こだました声が耳を襲う。少し遅れて、感情が津波のように押し寄せた。何も言えなかったあの日のことを思い出す。中学生だった、あの6月の日。愛を捨てたはずだった、高校生の日々。強制的に捨てさせられた人間がいるというのに、許してたまるか。
「ざけんなボケ!自分が何言うとるんか分かっとんのか!?あんだけ愛した野球を捨てて何をするつもりや!」
「……っ!もういい!」
風の強まる外へと、友紀が去っていく。俺は一歩も動かない。頭の中の冷静な部分が万一この件がマスコミに暴露された時の対処法を探すべく回り出し、すぐに思考の全力がそれに向いたからだった。
「……帰るぞ」
薄汚れた廊下は、革靴の音だけが規則正しく鳴っていた。俺が逃げたと気付いたのは、社用車に乗ってからだった。
二日が経った。友紀は事務所に姿を見せていない。もっともそれは全員に共通することではあった。台風の時にわざわざ事務所に来るように言う人間はいない。
くすぶる煙草の灰を落とし、ため息をつく。奇妙に苛立ちを覚えた。シンデレラとは灰かぶりと言う意味だったか。畜生め。こっちは肥溜の中身をかぶってるというのに。
俺は彼女に電話をかけようとは思わなかった。これが未成年なら話は違ったのだろうが、彼女は大人だ。気持ちの整理がついたら、自分で決めるべきだろう。念の為メールでそうするように伝えている。既読だけがついていた。
オフィスの電気を消す。こんな時でも大阪城はライトアップされてるのだなと思ったとき、電話が鳴った。つとめて冷静にスマホを取る。
「もしもし」
「橘です」
2つ3つ事務的な話をした後で、すっと息を吸う音が聞こえた。
「……友紀さんから伝言です」
「!」
背筋が伸びる。内容はなんだ。ろくでもない妄想が頭の中をかき回し、呼吸が速くなるのを感じる。クソっ、辞めるだなんて言ってくれるなよ。今、友紀に辞められようなものなら。
俺自身の金策のおかげで経営に余裕があることは、この瞬間すっぽりと頭から抜けていた。
「アイドルを辞めるつもりはないけど、自分で話したいことがあるから、今から行っていい?……とのことです」
「この時間にか……」
よほど悩んだのだろうな、と好意的に受け止めることにする。少し考えて、口を開いた。決して逃げられないように。
雨音、唸る風、時々咳き込むようにも聞こえるエンジンの音、そして息遣い。騒がしい沈黙とおぼろげな暗闇の中、あたしは隠れるように目を伏せている。30センチ横の彼は、迎えに来てから一言も口を開かなかった。車通りの半ば消えた国道43号を、多少荒い運転で飛ばすだけ。
このまま高速にでも乗って、どこか知らない街へ連れて行ってくれたらいいのに。そんな考えが頭をよぎった。ぶんぶんと頭を振って追い出す。あたしはちゃんと話さなきゃいけないんだ。逃げちゃだめ。
「……あのさ」
誰かのーいや、自分の声がした。プロデューサーの視線が少しだけ動く。最近気づいた、話を聞くときの彼の癖。
「あたしはアイドルを辞めない。でもね、野球アイドルじゃなくてみんなを応援するアイドルとしてやっていきたい」
「野球はね……うん、いいんだ。いやー今年はキャッツも弱いもん!それに最近あたしも人気になってきたでしょ?観戦に行って喉ボロボロにして現場に来た、なんてあったら困るでしょ?」
「だいたい野球の試合結果でテンション左右されたら、アイドル失格じゃん!そんなあたしとはおさらばする、それが目標なんだ」
舌が勝手に動く。流れるように出てくる言葉を昔のあたしが聞いたら何て言うだろう?きっと納得してくれるに違いない。これはあたしの選択。あたしなりの、誠意。
不意に車が止まった。信号もないのにどうしたんだろう、なんて思う間もなく。
「目を醒ませ」
真正面からあたしを見つめた彼の声が、冷たく殴った。
「お前が野球を簡単に捨てられるわけないことぐらいこっちは分かっとんねん。今自分が言うた理由思い出してみぃ、野球ファンを辞める理由にはならんやろ?」
「でも」
「でももクソもあらへんよ。やったら答えろ、何でお前は泣いとんの?」
頬に手を伸ばす。指が確かに濡れていた。うそ。未練なんて無かったはずなのに。それでもあたしは、捨てなきゃいけないんだ。
関係ないじゃん、と言いかけて口が止まる。ウソのような静けさ。あたしがあの日ー始球式の時以来、初めて見たそれ。
プロデューサーは、泣いていた。鏡の世界に取り残された人間のように、ただ静かに。
「……ごめん」
「……悪い」
目を合わせずに謝る。薄暗くて狭い車内の中で、正面から見るだけの勇気はまだ無かった。雨の音だけが再び舞い降りる。
何で、あたしは泣いていたんだろう。未練かと思ったけど違うような気がした。じゃあ。
記憶が蘇る。あの日のバットの感触。悲鳴と歓声がない混ぜになった何か。秋の澄んだ空に、刻み込むように伸びていく打球。なんだ、簡単じゃん。
「あのさ、」
あたしは、聞いてほしかったんだ。私の心に刺さったままの、あの夏の話を。
忘れもしない中学2年生の夏。あたしはシニアリーグの宮崎大会決勝のスタメンに入っていた。ポジションは1番センター。絶好調なのを買われてスタメンに入って3試合目とかだっけ。俊足巧打のあたしにはぴったりだ、なんて喜んでた覚えがある。
決勝の相手は去年の優勝チーム。3年生のエースは三振を量産する剛腕ピッチャーで、色んな高校からスカウトが来ているらしい。その日もバックネットの裏にそれっぽい人たちがいた。そんななかで、あたしは無邪気にアピールしてやるぞー、って思ってたんだ。主人公が誰かも知らないまま。
試合は投手戦になった。最終回の裏に入って1-1の同点。運良く入った1点も、エラーの間にフォアボールで出たあたしが帰ってきた1点だった。確かに相手はプロでも通用しそうなピッチャーで、そんな彼と対戦できるだけで幸せだった。
この回も当然のように彼がマウンドに上がる。誰もが延長戦を覚悟して、どうやって彼を引きずり下ろすかを考えていた。そんな姿を見てふと思う。もし、ここで。ここであたしが決着をつけられたら。
沸き上がる大歓声。誰もが認めるヒロイン。運が良ければバックネットの誰かの目に留まるかも。心は決まった。
リトルリーグではよく、打球を転がせと言われる。フライだと守備側がする行動はボールを捕る1回だけ。でもゴロではボールを捕る/それを送球する/それを捕るって3回の行動が入る。その分だけエラーが起こる可能性が上がるから。
あたしは女子で、男子に比べて力が弱い。だから尚更そうするように言われた。効果はてきめん。ラッキーガールっていうのかな、相手がエラーしてくれることも多かった。だからシニアリーグになってからも、あたしはそれを続けた。
でも。その日、あたしは初めて監督の言葉を破った。普段から軽いアッパースイングの練習も、センター方向へのバッティングもやってきたんだ。きっと、あたしなら。
いかにも出塁目当てですよー、みたいな顔で打席に入る。監督のサインは……出塁。うん。先頭バッターだもんね。
相手のピッチャーは疲れてるように見える。あたしも含めたみんなが粘ったおかげだ。球数制限的に、あと少し粘れば彼は降りる。できればその前にけりを付けたい。
こつん。スリーボールからの高めの球をファウルにした。ベンチからはよく見ろって野次が飛ぶけど、これでいい。これで相手は勝負に行く気になったはず。ボール球に手を出すバッターにわざわざフォアボールを与えるピッチャーなんていないからね。
5球目。汗塗れのピッチャーの右手からボールが離れた瞬間、彼の顔が歪んだ気がした。まさに失投。外角低めに投げようとしたはずの球が、シュート回転してど真ん中へ吸い込まれていく。見逃すはずがない、チャンスボール。
レフトは一歩も動かなかった。
キャッチャーは「こんなのに打たれやがって」って悪態をついた。
ピッチャーは悲鳴に近い何かを叫びながらマウンドに崩れ落ちた。
スタンドは歓声と悲鳴が4対6ぐらいの割合で混ざり合って、だんだんと怒号が増えてきた。
初めて走らずに回ったダイヤモンドと、じっくりと見たホームベース。スタンドが、バックネットが、三塁側ベンチが、誰も望まなかった結末を責め立てるように感じた。監督の顔が作ったように明るいのも印象に残っている。でも、何よりもあたしが覚えているのは。
高校のスカウトみたいな人たちが、あきれたように帰っていく姿だった。
「……だからあたしは野球が出来ない。誰かの未来を壊したから。人を不幸にした、あたしには」
そう結んだ友紀は、大きく息をついた。陰鬱な何かが広くはない車の中に溶け出して、20センチの間で意地悪く漂う。ある意味で友紀らしい思考だ。
思えば彼女は誰かを応援することを、心の底から望んでいた。その誰かが幸せになれば彼女はもちろん喜ぶ。だが、そうでないのなら?その結果がこれだろう。
きっとこういうことはこれからも何度だって起こる。そして、俺はそこまで悪趣味な性格の持ち主ではない。ならば、今だけは。担当アイドルという殻を、外してやるべきだろう。
「……ふぇ?」
「ユッキは優しいんやな。みんなを幸せにしたいから、自分が誰かを不幸にしたことが悲しい。やろ?」
そっと右肩を叩く。震えるように小さくうなずいたのが分かった。
「やがそれはかなり厳しい。オーディションとか考えてみ、受かった子は幸せやけどそうやない子はどうなるん?」
「そっ、それは……」
不信感、悲しみ、そして怒り。彼女の顔に現れたそれを、真正面から受け止める。当然だ。俺に与えられるのは、逃げ道でしかないのだから。
シートベルトを外す。かちゃりという音が教会の鐘のように遠く響いた。
「何なら俺にも難しい。俺が落とした子が不幸な思いをするのもあり得る話やもん」
「……」
「でもさ、ユッキのホームランで喜んだ人やっておったやろ?その人たちにとってはユッキこそがヒーローやし、それは間違いない事実や」
ふっと何かが変わったような気がした。ほんの些細な変化かもしれない、けれど。間違いなく今がチャンスだ。
「やからさ、1人ずつ幸せにしていこうや。周りの仲間からファン、みたいに」
10センチの距離が、0になった。胸元でしゃくり上げる友紀を撫でながら思う。俺は救えたのだろうか?恩人と言っていい彼女を。答えは、そう遠くないうちに出る。
超満員のドームで、どよめきが湧き起こる。1点差、友紀の前を打つ唯の華麗なセンター返しで満塁になったのだ。満足げなネクストバッターズサークルの友紀と、元気よく拳を突き上げる唯をありすは見逃さない。
2人に話を聞きに行ってーさんざんに頬をつつき回されたり撫で回されたりして帰ってきた。本人はむくれているがいい映像だ。YouTubeチャンネルのサムネは決まりだな。
ベンチ裏の部屋でコーヒーを飲んでいると、ドアが遠慮がちに開いた。ありすだ。
「お疲れさん。初仕事なん抜きにしてもようやっとるよ」
「当然です。準備は完ぺきにしてきましたから」
「直前まで震えてたん誰や」
「聞こえませんね」
まだ足が震えているのは黙っておくとしよう。今は思い切り褒める時期だ。
「あの、Pさん」
アイスティーの氷をからころと回しながら、ありすがおもむろに口を開いた。
「ん?」
「友紀さんに、何を言ったんですか?」
「大したことは言うてへんよ。ただ心の持ち方の話だけや」
「そうですか」
ありすはぽつりと呟いた。その姿がいつか見た刑事ドラマの探偵と被る。もう少し成長したら、刑事ドラマの探偵役なんかも似合うかもしれんな。ああ、楽しみだ。
「……友紀さん、楽しそうに見えたんです」
「楽しそうに?」
「はい。まるで……誰か喜んでくれる人の顔が見えているみたいに」
「ふむ……」
いいことだ。他人という漠然とした括りよりは、誰かという明白な対象がいるほうが何倍もいいだろう。
「ま、それなら良かったわ。理由はどうあれあいつがまた野球を愛せるようになったってことやから」
「そうですね」
その顔は誰のものなんだろうな、という言葉は何とか飲み込んだ。頭を軽く叩く。ああもう、自分が何だか分かってるのか俺は。
また息をついた瞬間、痛烈な音が部屋まで聞こえてきた。迷いなく飛び出したありすを追って部屋を出る。友紀が何か大きなことをやってくれたという、確信めいた予感と共に。
相手の配球のクセは頭に入っていた。多分、あたしのところで回数制限のある150キロのストレートを使ってくるはずだ。最終回の表、逆転のピンチで残しているんだから当たり前だ。女の子ならまず打てないんじゃないかな。リストが違いすぎる。
(それに)
スタンドを埋める人たちは、6割ぐらいが相手のアイドルグループのファンだ。もしここであたしが何かしたら。想像するだけで嫌になる。
でも。マシンが唸りを上げる。すっと息を吐いて見つめると、迫りくるボールの縫い目まで見えた。一瞬だけその形が見覚えのある誰かの顔に見えて、迷いを消してくれた。腰を思いっきり回して、面で打ちに行く。吸って、吐いて、いち、にの、さん!
ドームの天井と溶け合って消えたボールが、ライトスタンドに落ちる。一瞬遅れて轟いた壊れそうな歓声の中に、あたしは何個もの残念そうな表情を見た。恨みがましくスタンドを見つめている男性アイドルもいる。今までのあたしだったら、きっとまたダメージを負ったはず。でも。
「……これで良かったんだよね、プロデューサー」
まだ勝ってないのにコーラをかけてくる唯ちゃんや他の事務所のアイドル。ぴょこぴょこと走ってくるありすちゃん。カメラマン席でぽかんとしてー今やっと気がついた朋ちゃん。そして。
ベンチ裏に続くドアから少しだけ身体を出して、ぐっと指を立てたプロデューサー。顔はよく見えなかったけど、きっと笑顔を浮かべているんだろうなって思う。
その軽いけど優しい笑顔のことを考えると、胸が少し高鳴った。ホームランの喜びとはちょっと違う感情。とくんと揺らめいたそれは、何だかとっても優しくて温かい。理由は分かんない、でも。
色んな人にもみくちゃにされた後で、ぎゅっと抱きしめた人の顔は、ずっと忘れない。照れながら優しく撫でた手が、あたしを本当に救い出してくれたから。
完
57 : 名無しさ... - 25/09/14 07:45:56 bRAL 54/54ユッキは意外と聖人なのできっといつかこうやって悩む日が来ると思うのです。ということでそれを書いてみました。反省はしていないし後悔もしていない。
なお野球描写に関しては実際と多分異なります。違ったらごめんなさい
完結報告してきます

