前回
傘を忘れた金曜日には【5】
「あんたは誰を探してるの」と子供は訊いてきた。
俺たちはふたりで手をとって藤棚のむこうへと足を踏み入れていく。
「さあ」と俺は首をかしげる。
「それを考えていたところなんだ」
「変なやつ」
そう、変なやつかもしれない。
周囲には花の香りが充満している。
それは分厚いカーテンのように周囲を覆っている。
自分自身のからだが、いまどこにあるのかもわかっていないような気がする。
このまま、こんなふうに、曖昧にまどろむような景色を歩くだけならば、悪くもない気がしていた。
隣を歩く子供は、怯えているようだった。
「……変なとこだな、ここ」
おかしな世界に、違和感があるのかもしれない。
それはそうだろう。
「そう、変なところかもしれない」
立ち並ぶ背の高い生垣が、迷路のように幾重にも連なっている。
太陽の位置は変わらない。
「……友達か」
不意に、そう呟いた。
「そうなんだ」と彼は答えた。
「その友達を、見つけないといけないのか」
彼は少し不思議そうな顔をした。
「ああ」
「どうして?」と訊ねると、その質問が不可解だというように、彼は首をかしげる。
「どうして?」と彼は繰り返した。
理由なんてきっと考えてもいないんだろう。
「あんたは、どうしてここにいたんだ?」
迷路の中を何も考えずに漫然と歩いていると、そんな問いかけを向けられる。
「思い出せないな」と俺は答えた。
「いつからここにいたんだ?」
「わからない」
「寂しくないのか?」
俺は少しだけ考えて、
「きっととても寂しかっただろうな」
と、他人事のような返事をした。
彼は少しだけ不服そうに眉をひそめる。
「へんなやつ」
そうかもしれない。
生垣の迷路をどのくらい歩いただろうか。
視界を覆う緑は徐々に現実感を失っていく。
この先がどこに繋がっているか、俺は知っている。
ずいぶんとさまよい歩いて、やがて迷路は終わりをむかえる。
そして俺たちは、夜の森へと辿り着いた。
線を引いたように切り替わる、昼と夜。
浮かぶ月は銀色に光り鏡のようだった。木々は手招きするように枝を広げている。
細い道が、頼りなく伸びている。
木々の枝に隠されたその道が、どこまで繋がっているのかは、わからない。
その夜が視界を覆った瞬間、俺は、立ち止まってしまった。
隣を行く彼もまた、気圧されたように立ち止まる。
驚いたのだろう。怯えたのだろう。
でも、その理由は、俺のそれとはきっと違う。
夜はすべての音を吸い込むような静寂に包まれている。
声のひとつさえどこにも響かないような気がした。
飲み込まれたままどこにも届かない。
光は浮かぶ月だけで、隣に立つこどもの顔すらよくわからない。
伸ばした手さえも黒い影でしかない。
「行かなきゃ」と子供は言った。
俺は仕方なく頷く。
小径の向こうへ歩き出す。
「友達っていうのは」
と俺は言う。
「良いやつだろうな」
子供は俯いた。
「……そう、良いやつなんだ」
「そうかい」
含みがありそうな言い方だったが、俺は何も言わなかった。
続く暗闇の道には何もない。
何もないように見える。
「……友達が心配なだけには、見えないな」
隣を歩く子供は、不快そうに俺を睨んだ。
「どうして、そんなことを言う」
「さあな」
彼が、何を考えているのかはわからない。
この頼りない月明かりの下では、なにもかもが不確かだ。
自分と世界の境界でさえ、あやふやだ。
「友達といるのは、楽しいか?」
「……ああ」
足を一歩踏み入れるたびに、まるで暗い洞窟を歩いているような気分になる。
声が反響しているような気さえする。
「でも、すり減っていくような気がする」
そんな言葉を俺は聞きたくなかった。
俺たちは歩いていく。深い森のなかを進んでいく。
「怜はなんでもできるから……」
「……そうじゃないだろう」
彼は何かを諦めたようにこちらを見た。そんな気配がした。
「どうしてそう思うの」
「羨ましかったんだろう」
「……そうだよ」
違う。こいつは嘘をついている。
「嘘をつくなよ」と俺は言った。
「なんでわかるんだ」
俺は答えなかった。
「おまえは怜を僻んでいたんだ。でもそれは、怜がなんでもできるからじゃない」
「……」
「怜だけが評価されたからだ。そうだろう?」
「……」
「花壇の花が枯れていたのはただの根腐れだ。水のやりすぎだった」
「そうだ」
「動物小屋のうさぎがいなくなっていたのは、単に小屋の清掃のために用務員がケージに移していただけだった」
「……」
「筆箱をなくした女の子は、前の時間の授業のときに、理科室に置き忘れていただけだったな」
「……そうだよ。全部、怜が解決した」
「そうだ。怜には観察眼も、推理力もあった」
「……俺は何もできなかった。あいつは探偵で、俺は助手なんだ」
「でも、探しただろう」
「……」
「花壇の花が枯れたときも、美化委員の仕事を手伝った。
うさぎだって筆箱だって、おまえは校舎中を駆け回って探した。
……そうだったよな」
「……」
「でも誰も、おまえに感謝なんてしなかった」
「……当たり前だ」
「そうだな」と俺は頷いた。
「別に感謝されたかったわけでもない。善意でやっておいて、感謝されたいなんておこがましいにもほどがある」
「……」
「でも……」
「うるさい」
と、子供は言った。
「黙れよ」
俺はひとつ息をついた。空には星ひとつ見えない。
「仕方ないじゃないか。実際、解決したのは怜なんだ。俺じゃない。俺がしてたことなんて見当違いの徒労だったんだ」
「……」
「それなのに感謝されないからって不満なんて覚えるわけないだろ? 俺には何もできなかったんだ」
「そうかもしれないな」と俺は言った。べつにそこまで否定するつもりはない。
彼は何も言わなかった。
やがて道は徐々に広くなっていく。
木々が懐を見せるように道を開けていく。
開けた場所に出る。
焼け落ちた、大きな建物の後。
そこに、泣いている少女たちがいる。
「……でも、少しだけ思ったんだ」
少年は言う。
「怜がここに来るって聞いたとき、俺はたしかに思った」
「……」
「怜には俺の助けなんていらない。俺がいなくてもなんとかするからついていく必要はないって」
「……」
「もしそうじゃなくても、もしうまくいかなくても、それはそれでよかったんだ」
そう、俺は思ったんだ。
「怜だって失敗するんだって、俺は思いたかったんだ。それで思ったんだ、怜が帰って来なかったとき……」
「……」
「『怜が失敗したんだ』って、俺は、心のどこかで喜んでたんだ」
「大した友達だ」と俺は言った。
やつは何も言わずに、俺の手をそっと振り払った。
「俺はなんにもできないくせに、怜の失敗を喜んでたんだ。自分は、なんにもないのに」
「……」
俺は目の前の景色を見る。
木々の枝、焼け落ちた建物。
泣いているふたりの少女。
小さな子供の背中。
俺はこんなところに来たくなんてなかった。
こんなふうにこんな景色を見たくなんてなかった。
「おまえ、がんばってたよ」
俺は、そう声をかけた。
「がんばってたよ。俺は知ってる。一生懸命だったじゃないか。
下心なんかじゃなかった。おまえは、誰かのためにがんばってただろ。なんにも考えずに」
「でも」と子供は、俺の方を振り返った。
「全部無駄だった」
歯噛みしたいような思い。
忸怩たる思い。
背中を見送りながら、思う。
俺はあのとき、何を考えていたのだろう。
怜を助け、ちどりを助け、そのときに、俺は何を考えていたんだろう。
そのとき俺にあったのは幼稚なヒロイズムだったんじゃないか。
助ける側に回れるという悦びだったんじゃないか。
俺は結局のところ、
何の努力もせずに、誰かに認められたかった。
だから、いままさに、空っぽなのかもしれない。
◇
いつのまにか、三人の姿は影も残さずに消えていた。
俺は、ひとり、焼け落ちたどこかの前に立っている。
ここに何があったのか、俺は知らない。興味もない。
いま、俺はひとりぼっちだ。
そうしてここで俺は、何を探そうというんだろう。
この何もない森で。
けれど、今、俺はなんら背負うものもなく、
だから心はこの森に馴染んでいる。
この森はもう俺からなにひとつ奪えない。
俺は何も持っていないからだ。
そう思うとおそろしかったこの森も、どことなく優しげにさえ見えるから不思議なものだ。
「酔ってんの?」
と、不意に声が聞こえた。
どうしてだろう。
本当に求めたときに与えられなかったものが、いまここにあらわれるのは。
「……瀬尾」
「副部長、暇してるみたいだね」
瀬尾青葉がそこに立っている。
高校の制服を着て、当たり前みたいな顔で、そこに立っている。
「なんでいるんだよ、こんなとこに」
「副部長こそ、こんなところでなにしてるの」
「暇してるんだよ、おまえが言ったとおり」
「なんで暇してるの?」
「なんでなんだろうな」
いまさら瀬尾がこんなところにいたって、驚きはほとんどない。
どこからでもこの森に繋がっている。そう言っていたのも怜だった。
「結局ここがお似合いだってことじゃないか」
「……副部長、くらーい」
「……うるさい。あっちいけ」
「心の装甲が閉じる音が聞こえたよいま」
「……やかましいやつだな」
「またまた。ホントはわたしに会えてホッとしてるくせに」
「なんだよ、その自信」
と、俺は思わず笑ってしまった。
「なあ、瀬尾」
「ん」
「おまえは分かるか?」
「なにが?」
「俺が──どっちの三枝隼か、分かるか?」
「なあに、それ」
瀬尾はおかしそうに笑った。
「瀬尾青葉はきみしか知らないよ」
「……」
「わたしが、鴻ノ巣ちどりだったって言ったら、信じる?」
「……信じない」
「ざんねん」
と、瀬尾はさして残念そうでもない顔でそう言うと、
「捜し物をみつけたんだ」
何の前触れもなくそう続けた。
「よかったな」
「うん。だから、わたしはそろそろ帰るよ」
「……」
「ごめんね、きみとここに残ってアダムとイヴごっこをするのも悪くないんだけど」
「……似合わないな、そういう冗談」
「そうかな」
「恋なんて、しなくてもべつにいいだろう」
「……ん。そうかもね」
「隼ちゃん」と、とつぜん彼女は俺のことをそう呼んだ。
「やめろよ、その呼び方」
「だめかな」
「どっちがどっちか、わからなくなる」
「うん。わたしもわかんなくなっちゃったくらいだからね」
「……」
「でも、わたしは瀬尾青葉だから」
「それでいいのか?」
「うん。考えてたんだ。わたしは、偽物なのかな、本物なのかな、どっちなのかな、って」
「……」
「でも、どっちでもいいやって思った。わたしには居場所があるから。
ね、じゃあ、なんて呼んだらいいかな。副部長じゃないなら……」
「……」
「三枝くん? 変なかんじ」
「なんでもいいよ、瀬尾」
「あ、うん。これいいね」
「なにが」
「なんか、対等っぽくてさ」
「……なんだそれ」
「きみは悲しいまま?」
そう、瀬尾は訊ねてくる。
「寂しいまま、からっぽなまま、誰も必要としないまま、誰にも必要とされないまま。
そうしていまもひとりぼっちで、誰にも手を伸ばせないまま?」
「……」
どうして何も求めることができないんだろう。
どうして誰のことも好きになるべきじゃないと思うんだろう。
その答えを俺ははじめから知っていたのかもしれない。
たとえば、失うことへの恐れとか、
不意にさめてしまう自分に嫌気がさしたとか、
そんな、聞き方によってはかっこいいような言い草でもなくて。
とてもシンプルに俺は、疲れてしまったんだろう。
俺が何もしなくても、何もかもがうまくいく。
俺がいなくても、誰も困らない。
みんなの好意を受け取ることができるくらいに、俺は自分自身が好きじゃない。
そんなに良いやつなんて思えない。
「三枝くんは、卑屈だね」
「そう。俺は卑屈なんだ」
そう言ってしまうといくらかすっきりした。
「立派な人間じゃない。誰かに好きになってもらえるような人間じゃない」
「そうかなあ」
「そうなんだ」
「ん。そうかもしれないね」と瀬尾は肯定した。
「精進しなさい」
「……そんな、あっさり言うなよな」
瀬尾ならわかってくれるかな。
どうなんだろうな。
結局のところ、どっちの三枝隼でも同じことだ。
俺がしてきたことに対する、手応えみたいなものがまるでない。
声をあげても、歩き続けても、どれだけ求めても、
誰からも返事はなかった。
全部、無駄だった、と。
さっきの子供の声が頭の中で響く。
だから、もう、声を出すことに意味があるとも思えない。
俺が求めたところで、誰かが返事をくれるかもしれないなんて期待は持てない。
「……セリグマンの犬」
「たぶんこれは、学習性無力感って呼ばれるやつなんだよな」
「……そういうの、詳しいもんね」
「そう、でも、知っていることは……どうにかできるって意味じゃない」
「……本当にそうなのかな」
「……」
「きみはでも、本当は……」
「『桜の森の満開の下』みたいだ」
「……なに、それ。とつぜん」
どこまでも続く桜の花。
伸ばした手すらも透きとおるように消えていき、桜の森の下にはただ虚空のみが残される。
覆い隠すように、花びらが降っている。
「とても孤独な気がするってことだ」
「そう、きっとみんな」
「そうなんだよな」
本当に繋がり合うことなんてできない。
理解し合うことも、触れ合うことさえ簡単じゃない。
「……そんな場所で、奇跡的に誰かと繋がり合える錯覚をしたからって、なんなんだ」
「……」
「結局俺は偽物なんだ」
「そうかな」
「何者にもなれない」
「何者かになりたかった?」
「誰にもやさしくなんてできない」
「やさしくなりたかった?」
俺は首を横に振った。
「嘘だ、全部。……心細いだけなんだよ、きっと」
「……きっとね」
瀬尾は俺を見て笑う。
ちどりみたいな顔。
でも瀬尾の顔。
「本当はおまえのために何か言ってやりたかったんだ」
「……わたしのため?」
「おまえがなにかに苦しんでるなら、何か言ってやりたいって思ってた。
おまえの居場所なんてあるんだって、おまえがどんな人間だってべつに、それでいいんだって」
「……」
「おまえがちどりと繋がりを持つ何かでも、スワンプマンでも、本物でも偽物でも。
べつにおまえは瀬尾青葉で、それでいいんだって、言いたかった」
「……」
「でも、それって結局、俺が誰かに言ってほしいことだったんだ」
「三枝くんは」と瀬尾は言う。
「やさしいねえ」
「茶化すなよ」
「いや、ここで真面目に反応しても、シリアス振り払えないなって」
「……シリアス扱いするな、人の悩みを」
「三枝くん、あのさ、わたしにも悩みがあってさ」
「……」
「残念だけど、偉そうなアドバイスしてる余裕もないんだ」
「俺が聞いてやろうか」
「いまに消えそうな人に聞いてもらってもね」
そう言って瀬尾は笑う。
「だからわたしは先に帰るね」
「……」
「きみにも、探しものがあるんだと思うんだ」
「……どうだろうな」
「見つけてあげてよ。じゃないと怒るよ」
「なんで、瀬尾が怒るんだよ」
「わたしにとっても、大事なものだからだよ」
「……」
「きっと、みんなにとってもね。……でも、きっと、きみはもう知ってるんだと思う」
だからさ、
「大事にしてあげてよ。それと……」
彼女はそこで、綺麗に笑った。
「もっと、楽しんだほうがいいよ」
そして瀬尾は去っていった。
背を向けて、俺の知らない道へ、歩いていった。
◇
取り残されて、ひとり、焼け落ちた何かの残骸を眺めている。
探せと瀬尾は言う。
けれど、俺は何を探せばいいのか、何を探しにきたのか、見当もつかない。
瀬尾がそうだと思った。俺は瀬尾を探しに来たんだと、そう思っていた。
でも、違った。
俺はべつに誰のことも探していない。
いまさら、誰のことも、見つけ出そうとはしていない。
たとえば、誰か迎えにきたら、どうだろうか。
ちせなら、こちらに来れるだろうか。
あるいは、ましろ先輩なら?
それとも俺がいなくなったなら、真中は探してくれるだろうか。
彼女は、いいかげん嫌気がさす頃かもしれない。
あるいは、怜なら?
ちどりなら?
純佳なら……。
純佳は、きっと、待つだろう。
俺が帰るのを、待つのだろう。
市川や大野は、呆れているだろうか。
でも、俺がいた場所には、俺じゃない俺がいるだろうから……。
たぶん、誰も俺のことなんて探していないだろう。
でも、瀬尾は言った。
俺には探しものがある。
それはみんなにとっても大切なものだって。
それはつまり、俺は、探される立場ではなく、探す立場にあるということだ。
本当にそうなんだろうか?
そんなものが、あるんだろうか?
俺は少しだけ考えて、首を横に振った。
そんなふうに考えて、いいものなんだろうか。
自分には何かが欠けているだなんて、そんな考え方でどこに行き着くっていうんだろう。
欠けた何かのせいにしていれば楽だ。
言い訳がつく。
話が簡単になる。
ものごとをそんなふうに物質的に考えたって、きっとうまくいかないだろう。
欠けた何かを見つければいいなんて、そんな単純な話だとは思えない。
それでも俺は探すのだろう。
それがなにかもわからないまま。
まだ、舞台の上で踊らされるのだろう。
◇
森の奥を分け入っていく。どこまでも、分け入っていく。
このまま帰れなくなったら、と思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
それはそれで、何もかもを投げ出す言い訳ができて、ちょうどいい。
帰れないなら、帰らないのとは違う。
逃げたのではなく、戻れなくなっただけなのだ。
そんなことを考える自分自身が、ほんのすこしだけ嫌になる。
月の光はやさしくて、俺は何かを思い出しそうになる。
たとえばこんな寂しさも、いつかはなくなってしまうだろう。
たとえばこのまま元に戻って、そして誰とも繋がれないまま、ひとりぼっちでいたとしても、
それはそれで、間違いなんかじゃないのだろう。
そう思った上で、俺はじんじんと心臓のあたりが熱を持つのを感じた。
……それでいいのだろうか?
わからない。
繋がる道はどこに続いているのだろう。
道をはずれれば、抜け出すことは簡単ではない。
俺はそれを既に知っている。
けれど、用意された道を歩くだけでは探しものにたどり着けないだろうことにも気付いている。
やがて、道が、分かれた。
中央は広場のようになっていて、そこを中心に、八つくらいだろうか、道が伸びている。
立て札……いや、道標か。
八つの道標はそれぞれの道へと矢印を伸ばしていた。
けれど、今俺が歩いてきた道の方には、何の矢印も書かれていない。
縦に並んだ八つの札には文字が並んでいる。
「退廃」「失意」「空虚」「期待」「焦燥」「愛」「保留」
と文字があり、そのなかのひとつだけ、何の文字も書かれていなかった。
こんな道標があってたまるか。
乗せられているような気もしたが、俺は何も書かれていない道へと進んだ。
乗せられている?
誰に?
それも分からない。
続く道は、やがて道とは呼べないものになっていった。
看板に文字がなかったのは、もしかしたら、道なんかじゃないからかもしれない。
誰も通らない道だからかもしれない。
そう考えた瞬間、俺は笑ってしまった。
誰が通るんだ、こんな道を。
でも俺は道標に出会い、そして進んできた。
あるいはこれは……誰もが通る道だとでもいうんだろうか。
やがて、木々が道を塞ぐように立ちふさがった。
それでも俺は歩き続ける。
引き返す気にはなれなかった。
それなのに、後悔はしていた。
素直に「愛」でも選んでいたらよかったか?」
あるいは「保留」というのもおもしろそうだ。
「保留」を「選ぶ」というのもおもしろそうなものだ。
それとも開き直って、「退廃」か「空虚」がよかったか?
そこまで考えて、俺はふと考え込む。
まるで「失意」や「焦燥」さえ、自分で選び取るものだというような気がした。
ひょっとしたら本当にそうなのかもしれない。
本当のことなんて、俺にはわからない。
それでいいのかもしれない。
木々の枝をかき分けるように歩いていく。
道が悪く、一歩歩くごとに体力が奪われていく。
どうして俺は歩いているんだ?
何に向かって歩いているんだ?
わからない。
わからないな。
やがて、また、開けた場所に出た。
そこに、人が立っている。
また、人か、と俺は思う。
今度は誰だ、と思うけれど、近付いてみても、誰なのかわからない。
誰かに似ているような気もするし、見たことがあるような気もする。
けれど、心当たりはない。
分かるのは、それが俺の学校の制服らしき服を着た男だということくらいだ。
らしき、というのは、どことは言えないが、デザインが少し異なっているように見えたからだ。
彼は俺の存在に気付いていすらいないみたいに、ぼんやりと月の光を浴びて立っている。
まるで誰かにしつらえられたみたいに、そこだけ木々が頭を垂れたように、月の光が差し込んでいる。
月の庭、と、そんな言葉が浮かんだ。
そして彼のそばには噴水があった。
まだ、生きている。
飛沫が霧のように浮かんでいる。
夜霧。そんな言葉をどこかで聞いた。
どこでだっただろう……。
「やあ」と、不意に彼は言った。
「探しものかい?」
背の高い、柔和そうな男だった。
その笑い方を、俺はやはり、どこかで見たことがあるような気がする。
「……人ひとりいない場所だと、思ってたんだけどな」
「意外かな? きみはお客さんだ」
「……いつからいるんだ、あんた」
「僕はずっとここにいるよ」
俺は思わず舌打ちをしそうになる。
怜、こんな奴がいるなんて話は聞いていない。
などと、頭の中で文句を言っても始まらないか。
「誰だよ、あんた」
「きみと僕とは初対面だ。だから、きみにそんな言われ方をする筋合いはない。……が」
彼はくすりと笑った。
見下されているような気がした。
「そうだね、そういう態度は嫌いじゃない。僕は人に嫌われると安心するんだ」
「マゾなのか?」
「違うよ。上っ面の好意なんかより、嫌悪感を表明されたほうが安心できるんだ。
好きって言われると疑わなきゃいけなくなる。でも嫌いって言われると、それ以上はない。安心だろう?」
変なやつだ、とそう思った。
その変な奴が、どうしてここにいる?
「それで、誰だって?」
「サクマだ」
「……さく」
「サクマ」
サクマ。
……佐久間?
どこで聞いた名前だ?
「といっても、それは便宜的な名前だ。まあ、便宜的じゃない名前なんてものはないだろうけどね」
「なんだよ、それ」
「どうやらきみは、ずいぶん僕に対してあたりが厳しいみたいだね」
「……」
言われて、思わず目をそらす。たしかに、やけにきつい口調になってしまう。
どうしてだ、と考えかけたところで、
「怖いかい?」
と笑われる。
それが図星だと分かる。
俺は目の前のこいつを恐れている。
「怯えることはないよ。少し話がしたいだけだよ。そういえば僕は、話し相手を求めていたような気もする。
退屈してるんだ。ずいぶん長いことね」
「……」
こいつは駄目だ、と俺は思う。
こいつは違う。
何か、質が違う。
熱がないみたいな肌の透け具合。
死人みたいだ。
「そんなにわかりやすく怯えるなよ。今のきみに怖いものなんてないはずだろ?」
「……誰だよ、あんた」
「ま、亡霊みたいなものかな」
「……亡霊?」
「そう、孤独なゴースト」
冗談めかして笑う顔つきすら気に入らない。
こいつは駄目だ。
こいつの話に耳を傾けちゃいけない。
それが分かる。
「佐久間……?」
佐久間、佐久間。
──これは極論ですがつまりこういうことです。
──ぼくたちは、なにが偽物で、なにが本物なのか、ほんとうの意味では、これっぽっちもわかっていないのです。
──区別なんて、できていないのです。
「……佐久間茂」
「そうだね、きみは知っている。きみが知っていることも、僕は知っている」
『薄明』の、佐久間……。
「あれは良いタイトルだと思わないか? 『薄明』。僕は好きだったんだ」
冗談よせ。
佐久間茂が文芸部の部誌に参加していたのは平成四年のことだ。
二十五年前だ。当時十六か十七だったとしても、今は四十を越えてるはずだ。
その佐久間が、どうして、俺と同年代みたいな姿でここにいるんだ?
「言っただろ、僕は亡霊だ」
月明かりがほのかに彼の顔を照らす。
これはどんな筋書きなんだ?
「少しきみと、話がしてみたくなっただけなんだよ」
そういって、佐久間茂は俺に笑いかけた。
噴水は水音をあげて飛沫を撒き散らししている。
佐久間茂は、にっこりと笑う。
それが毒のない笑みだと分かる。
食虫植物めいた笑みだった。
こいつにとっては何の裏もない笑みなのだろう。
ただその「裏のない」「表」が、俺には要警戒のものに見える。
捕食者のようだ。
「そんなに怯えるなって」と佐久間は笑った。
「噛みつきゃしないさ」
「……なんなんだ、おまえは」
「まったく、どういう冗談なんだ、ときみは今思っていることだと思う」
あたりだ。話が早くていい。
「だから聞きたいんだ。佐久間、あんたはここで何をしてる?」
いや、やっぱり、同じ問いを繰り返すことになってしまう。
「あんたは、いったい、なんなんだ?」
「ゴースト、とさっきも言った」
「そういうのはいい」
「でもね、残念ながらここはそういうルールで動いてるんだ」
「ルール?」
「何もかもが象徴化される幻、不確かな幻燈。景色を変える万華鏡みたいにね」
「……景色を変える、ね」
けれどここは暗い森だ。
カレイドスコープ。
洒落た言い回しだ。
「じゃあ、あんたもなにかの象徴か」
「そういう言い方もできる」
「冗談よせよ」と俺は思う。
「冗談? そうかな」
それから二回、納得するように頷いて、
「うん、そうかもしれないね」
と、よくわからないことを言う。
「……話したいって、何をだよ」
「なんだっけ?」
「あんたが言ったんだろ。少し話したかったんだって。
第一あんたは、俺が誰だか知ってるのか?」
「……どうだろうね? 知っていると言えば、知っているような気もする」
でも、と彼は続けた。
「僕が知っていることなんて本当は皆無なんだ。完璧に、皆無だ」
「言葉遊びはいい。話がないなら、俺はもう行くよ」
「行くって、どこに?」
そう言われて、言葉に詰まる。
行きたい場所なんて、俺にあっただろうか?
「少し話そうよ、少年。なあに、時間ならあるさ」
そういって佐久間は噴水の脇に腰掛ける。
俺は溜め息をついて、その前に立った。
「座らないのかい?」
「気が進まない」
「噛みつきゃしないって言ってるのにな」
「そうじゃない」
そうじゃないんだけれど、何を言えばいいのか分からない。
「あんたを見てると落ち着かない。……なんでだ? 不気味なんだ、すごく」
「ひどい言いようだね。でも、心地よいな、それが」
「……本当に、気味が悪い」
「どうして気味が悪いんだろう?」
「俺が知るかよ」
「たぶん……鏡でも見ているような気分だからじゃないかな?」
「……鏡」
「そういう場所なんだ」
「なるほどね」
さっぱりわからないが、さっぱりわからないと言うのも癪なので言わないでおく。
「調子が戻ってきたみたいじゃないか」と佐久間はくすくす笑った。
「気に入らないな」
「この場所では」と佐久間は突然話を変える。
「ある特定の条件で、きみの言うスワンプマンがあらわれる」
「……」
「よく似た呼び方だけど……僕はむしろ、それをストローマンと呼んでた」
「ストローマン」
「藁人形だね」
「藁人形と言えよ。かっこつけて横文字にするな」
「雰囲気ってものがあるだろう」
「英語にしてりゃ雰囲気が出るなんて、素人の小説じゃあるまいし」
「きみだって文章は素人もいいところだろう」
「よくご存知で」
「それにストローマンには含意もある。藁人形論法ってやつだね」
「藁人形論法」
「詭弁の一種さ。言葉遊びは嫌いかい?」
「あんたはストローマンなのか?」
「そうだね。きみの言うスワンプマンで、僕の言うストローマンだ」
「……ストローマンは歳を取らないのか?」
「そういうわけじゃない。僕が歳を取るのをやめただけだよ」
「……それで、ストローマンがなんだって?」
「スワンプマンのたとえは不適切だ。
スワンプマンは完全なるコピー。でも、ストローマンは、本当はそうじゃない」
「……」
「ストローマンは藁人形だ。身代わりに焼かれる」
「……五寸釘じゃなくてか?」
「五寸釘でもいいよ」
「たとえ話はもういい」と俺は言った。
「面倒なんだ。そんな使い古されたメタファーなんか聞き飽きてる。
俺が話したいことも聞きたいこともそんなことじゃない」
「でも残念ながら、その陳腐なメタファーが支配している空間がここなんだ。
今となっては古びてしまったもの。ここを造った人間はそれが真実だと信じていたからね」
「……待て」
「なに?」
「造った人間って、何の話だ?」
「ああ、聞き流してくれよ」と佐久間は言う。
「そこはべつにきみには関係のない部分なんだ」
「……俺に関係のある話をしてくれるのかよ?」
「ま、それはきみ次第だね」
なんなんだこいつは。
「ストローマンは……」と佐久間は続けた。
「本人が捨て去ったものだ」
「……捨て去ったもの?」
「もっとそれっぽい言い方をするかい? 抑圧され異化、分離された願望と言ってもいいだろうね」
「……」
「ただしそれは『人間』として生まれる。
だから、ずっと分離されたままでいるわけじゃない。
当時切り離されたものを、切り離されたまま、元の当人がふたたび抱くこともあるだろうね」
「……意味がわからん」
「たとえば僕はストローマンだ。僕は佐久間茂のストローマンだ。
さて、この森に来た佐久間茂が、『ああ、シュークリームが食べたい』と思ったとする。
けれどここにはシュークリームがない。困った佐久間茂は、シュークリームを食べたい気持ちを我慢する」
「……」
「すると、『シュークリームを食べたい気持ち』が、
シュークリームを食べたがっている佐久間茂という形をとってストローマンになる。
そして当人はシュークリームを食べたい気持ちを失うが、それは永遠に失われるわけじゃない。
佐久間茂は森を出てから、またシュークリームが食べたくなることもあるだろう」
「……食べたいのか?」
「残念ながらこれは比喩だ。それに願いというのはたいてい、誤った形で叶えられるものなんだよ。
祈りだってそう。間違った形で聞き届けられる。その意味でストローマンは『叶えられた祈り』なんだ」
「……叶えられた祈り、ね」
「人は暗闇に何かを期待するものなんだよ」と佐久間は言った。
「暗闇にこそ何か欠けている真実があると信じたい。たとえば、かつては山や森がそうだった。
少し前は宇宙だった。それも退屈になると人の心や意識や認識。それが言葉遊びだと気付いたら、今度は脳みそをあさりはじめた。
ひょっとしたらそこに何かあるのかもしれないってね。自分が知らないところに自分にとって重大な真理があると信じたい。
そしてそれさえ見つければ、今よりマシな自分になれるって信じたいのさ。だから人は未開の場所を求めるんだ」
「……なんだよ、急に」
「でもね、どれだけ探ったって、どんな言葉遊びを積み重ねたって、結局なんにも変わりゃしないんだ。
ただ退屈な自分がいるだけ。それは個人的な趣味であって、結局のところ探求なんかじゃない。暇つぶしだよ」
「……」
「きみが求めるものなんてここには何もない」
「あんたの主張はわかったけど、その話が俺とどう関係するんだ?」
「……あれ? どう関係するんだったかな?」
話を聞くだけ無駄なのだろうか。
「きみはどっちだろうね」と彼は言った。
「もちろん僕には、どちらが本物かなんてわからないけど……」
「つまりなんなんだ」
「慌てるなよ、せっかちだな」
「おまえの話しぶりは俺を苛立たせるんだよ」
「きっときみと話していた人もそうだったと思うよ」
「……うるせえな」
本当に、なんなんだこいつは。
「きみは僕を不気味に思っている。それと同時に、でも、僕がきみにとって重大な何かを伝えてくれるんじゃないかとも期待している」
「……」
「そうだね?」
「さあな」
いちいち癇に障る奴だ。
「僕はいま勝手に喋っている。だからきみが、必要そうなことを拾い上げればいい。その結果については僕は関知しない」
「あんたは、なんでそんなことを知ってるんだよ」
「デミウルゴスの子だからね」
「また横文字か。そういうのは中学で卒業しろよ」
「心当たりがある口ぶりだね。なに、恥じることはない。誰もが通る道だ」
「……そうでもないだろうと思うが。ていうか、デミウルゴスってなんだ」
あっさり返されると、どう反応していいかわからなくなるものだ。
「気にすることはない。ただの言葉遊びだからね」
「それで……なんだったっけ。ストローマンが、どうした?」
「きみはどっちだろうね?」
「……何がだ」
「失くした方かな、失くされた方かな」
「……」
知らねえよ、と俺は思った。
「もういいや。埒が明かない」
「埒を明けたいのかい?」
「その用法は初めて聞いたな」
「勉強不足だね」と佐久間は笑う。
「きみの探しものについてだけど、僕は教えてあげることができない。
でも、きみにまつわるものの在り処なら教えてあげられると思う」
「……」
「死んだきみは、この向こうだ」
そう言って彼は、背を向けたまま噴水の向こう側を指さした。
木々がぽっかりと口を開けている。
暗闇がそこにいる。
「ここにあるのは古びたルールだ。それでうまく行くなんて思わないほうがいい。
でも、この古びたルールのなかで失ってしまったものとは、そこで出会えると思う」
「……なんなんだよ、それって」
「さあ? きみにわからないものを、僕が知ることができるわけもない」
行くなら早めに行くといい、と彼は言う。
「きみとはまた会うこともあるだろう。そのときには僕の言っている意味を理解できているといいね」
「……どういう意味だよ?」
「予言はまだ半分だってことさ」
「……」
「きみはきみが失ったと思っていたものを取り戻し、けれどなにひとつ変われない自分を発見するだろうね。
そういうものなんだ。なにもかもが弾性を持っている。きみにも分かる日が来るだろう」
「……あんたもそうだったか?」
「さあ?」と彼は言う。
「でも、その答えはきみのほうがよく知っていると思うよ」
どういう意味だ、と考える間に、佐久間は立ち上がった。
「それじゃあお元気で、レッドヘリング」
「……その呼び方をやめろ、ストローマン」
「なんだかきみのほうが洒落た呼び名に聞こえて悔しいな」
「……うるさい」
「はいはい。そろそろ消えるよ」
……そして、瞬きの合間に彼は姿を消し、噴水の音も途絶えた。
さっきまで飛沫をあげていた水のうねりは、もうなくなっていた。
涸れてしまったのだ。
ぽっかりと口を開けた闇のなかへ、俺は進んでいく。
どうしてだろう。躊躇はなかった。
佐久間茂という人間と会ったことも、
瀬尾が誰の助けもなく帰ると言ったことも、
いま自分がここにいることも、
どうしてだろう、なにひとつ不思議ではないような気がしていた。
時間どころか、距離の感覚さえ曖昧で、自分がどのくらい歩いたのかはもう分からない。
やがて俺は"それ"を見つけた。
大きな樹の根本の"うろ"に、隠れるようにそれはあった。
闇に紛れ、見えづらいけれど、それがそうだとすぐに気づいた。
"それ"は力なく俺を見上げている。
「……」
どうしてなんだろう。
何も感じなかった。
だからこそなんだろうか。
もう身動きさえ取ろうとしないそいつに、俺は話しかけていた。
「やあ」
適当な、挨拶。いつも他人にするみたいな、どうでもいいような、挨拶。
「ずっとここにいたのか」
それはそうだろうな、と、答えなんてなくてもわかった。
いつかカレハに夢の中で見せられた。
あのときと同じ、枯れ枝のような腕。
干からびたような身体。
虚空を眺めるような目。
あるいは、虚空そのもののような目。
「おまえは……」
俺は……。
何を言うべきなんだろう?
どうしてだろう。
木々の合間を風が吹き抜けていく。
葉擦れの音を鳴らす木々。
それがこんなに優しいなんて不思議なものだ。
今考えてみても分からない。
どうして俺はこんなところに来てしまったんだろう。
怜や、ちどりを見つけるため?
どうして彼女たちを探したんだろう。
心配だったから?
きっと泣いているだろうと思ったから?
そうかもしれない。
怜に対する劣等感? 幼稚なヒロイズム?
それとも、そんな気持ちを抱いた自分に対して嫌気がさしたから?
そうかもしれない。
「どうしてここにいるんだろうな」
そんなことを訊ねたって仕方ない。
何もかもが弾性を持っていると佐久間は言った。
俺はそうは思わない。
何もかもが失われる。
何もかもが失われつつある。
それはけっして元には戻らない。
人は未開を求めるのだと佐久間は言った。
俺は、彼と出会えば何かを取り戻せるんじゃないかと思っていた。
からっぽに見える世界のこと、誰も求められない自分のこと、
何もしたいと思えない日々のこと、
そんなあれこれに決着がつくんじゃないか、と。
でも、こうして彼の姿を見つけた今、俺は気付いてしまった。
ストローマンの比喩。
彼は俺の失われた一部などではなく、俺ももはや彼から失われた一部などではない。
俺と彼は、もう、別の存在になってしまった。
彼と俺とのつながりなんて、もう、この葉擦れの音くらいのものだ。
今、同じ場所にいるという、ただそれくらいのものだ。
それを見つめるのは苦しい。
結局のところそれは、俺の空虚は俺自身の責任でしかないと認めることにほかならない。
自分が忘れているもの、自分が失ったもののなかに、自分にとって何か重大なものがある、
"それさえ見つければ自分は変われる"なんて理屈はないのだ。
過去のトラウマや両親の育て方に人格上の問題を押し付けるようなものだ。
それがなくなれば、それが見つかれば魔法のように現在が書き換わるような、そんな展開はない。
だけど、それさえももう……いいんじゃないか、という気がした。
もう、どうだって。
そう思った瞬間、
「ふざけるなよ」
と、そう、声が聞こえた。
目の前の抜け殻が、俺を睨んでいた。
「ふざ、けるな」
干からびた喉が、鳴動するように動き、かすれた声を空気に乗せる。
葉擦れの音にかき消えそうな、ささやかな声だった。
「なんで、おまえが逃げるんだ」
「……」
俺は偽物だ。
「違う」
と、声は言う。
「おま、えは、"失わなかった俺"だ」
「……」
「おまえは、俺だ」
「違う」
と、今度は俺が言った。
「なにもちがわない。おまえと俺は、ほとんど同じだ」
「……どこがだよ」
「この森のなかで、とりのこされた俺が」
干からびた瞳が、いま、俺を見ている。
力なく、俺を睨んでいる。
「おまえを、生んだのか、おまえが、俺を生んだのか、考えていた」
「……なにを言ってる?」
俺が偽物で、おまえが本物だ。
そういう話だった。
「違う。俺は自分を本物だと思っていて、おまえは自分を偽物だと思っていた。それだけのことだ」
違う。さっき佐久間は、俺をレッドヘリングと呼んだ。
あれは、"主人公ではない人物を主人公であるかのように描く"ような、ストーリーテリングの手法だ。
「考えろ」
と、そいつは言う。
「レッドヘリングは、"偽の手がかり"だ」
「……」
「思い出せ。佐久間にだって、本物と偽物の区別なんて、ついちゃいない。
あいつ自身が、そう、書いていただろう。誰にも、本物と偽物の区別なんて、つきやしない」
俺は、この抜け殻が、いったい何を言おうとしているのかと考える。
けれど、それは、どう考えても、不吉な結論しか導き出さない。
「おまえが、誰のことも求められないのは、おまえが、誰かを求める気持ちを、この森で抑え込んだからじゃないか?」
その瞬間、
動かない瞳のなかに、かすかな熱が宿ったのを見た。
「抑え込まれた欲望は俺の姿をとった。そう考えれば……説明がつく」
「……想像じゃないか、そんなの」
「"去りゆく一切は比喩に過ぎない"。過去のすべては、幻影だ。事実はとうになく、すべては主観的記憶のなかで、解釈される」
「……」
「おまえはただ……自分が偽物であってほしかっただけだ。偽物なら、言い訳がきくから」
「……」
「誰も求められない理由を、何かを失ったせいにしていれば、楽だった。
それができなくなったら、おまえは、ただ、自分が臆病なだけな人間だと気付いてしまうから」
この暗い森で、
どれだけ助けを求めても誰も訪れず、
どれだけ歩いても誰とも会えず、
やがて歩くのをやめた。
誰かに会えるという期待を、誰かに見つけてもらえるという期待を、誰かに助けてもらえるという期待を、
抑え込んで、なかったことにした。
そうすれば楽だった。
期待しなくなれば楽だ。
ずっと蹲っていればいいだけだった。
そして俺は今、
いつか抑え込んだ気持ちに、臆病さゆえに向かい合えずにいるんだろうか。
単に、臆病さゆえに。
「俺は、おまえにはなれなかった。もう、おまえとは違う存在だから」
「……」
「だけど、俺はおまえが、なかったことにしたいくらいに、誰かの存在を、強く求めていたことを、知っている」
俺は、おまえだから。彼はそう言った。
「だから、おまえは帰れ。それでももし、誰のことも求められず、誰のことも愛せないと思うなら、
それが苦しいなら、そのときは……簡単に消えられるなんて、思うな。
誰かがおまえの代わりを務めて、うまくやってくれるなんて、思うな。
そのときは、自分の判断で、自分の責任で、自分の手で、死ね」
「……」
「その結論さえ、出せないなら、勝手にしろ。勝手に、生きろ。だが、おまえを、待っている奴がいる。
俺じゃなくて、おまえを、求めている奴がいる」
そう、そんな言葉だけを残して、余韻ひとつなく、彼の身体が真っ黒な砂になって崩れていった。
煤のような粉の中に、鉛か何かでできた心臓だけが残っている。
持ち上げてみるとそれは果物だった。
煤を払うと姿が見える。それはひとつの林檎だった。
やがて葉擦れを呼ぶ風に、その黒い砂は吹き上がり、遠くの方へと運ばれていく。
ふざけるなよ、と俺は思った。
勝手にこんなふうに消えるなよ。
おまえだって生きたかったんじゃなかったのか。
俺のことを恨んでいたんじゃなかったのか。
こんなに簡単に消えてよかったのか。
そんなわけがない。
そんなわけはないのに、
もう声も、まなざしも、煤のようになってしまった。
手の中に林檎だけが残される。
これが夢だったらいいと思った。
何かが間違っている。
それなのに、時間が経つにつれて、身体の感覚も、意識も、はっきりとしてくる。
酔いがさめるように、視界さえも鮮明になってくる。
涙が滲みそうなほどに。
俺は、手のひらの中の林檎を、どうするべきか迷ったあと、
それに、齧りついた。
どうしてだろう。そうするべきだと、俺は思った。
◇
「終わりましたね」と声が聞こえた。
振り返ると、カレハがそこに立っている。
何をどういうべきなのかも、何を訊ねるべきなのかも、わからない。
すべてが悪い夢のようだった。
「見ていたのか?」
「……わたしはずっとここにいましたから」
「……」
本当に、何を、どういうべきなのだろう。
「それを」と、カレハは言う。
「わたしに」
俺は、求められるままに、彼女に、かじりかけの林檎を渡す。
彼女もまた、その林檎をひとくち頬張った。
しゃき、と小気味よい音を鳴らして、林檎は削られていく。
「……もらっても、かまいませんか?」
「……ああ。どうするんだ?」
「どうするって、食べる以外に何があるんですか?」
「食べるのか?」
「いえ。……弔います。あなたとは、もう会うことはないでしょう」
「……どうしてだ?」
「わたしはあなたではなく、彼のための存在でしたから。わたし自身がどういう経緯で生まれたにせよ、わたしが自分をそう決めました」
さくらは、万物が愛だと言っていた。
すべては愛だと。
カレハは違った。この世は愛に満ちてはいないと、そう言った。
誰も彼もに愛を語り、手を差し伸べようとするさくら。
それなのに、誰のことも直接愛することのできないさくら。
カレハはその反対だったのかもしれない。
ふと、そんなふうに思った。
「帰り道はあちらです」と、カレハは“うろ”のある樹の向こう側をさした。
「いずれ水の音が聞こえてくると思います」
「……そうか」
「ひとつだけ約束をしてください」
「……なにを」
「ここはもう道から外れています。絶対に振り返らないでください。そういう決まりですから」
「……ああ、分かった」
「それでは、もう行ってください。……良い旅を」
「……ありがとう」
本当に、そんな言葉を、俺が言ってよかったんだろうか。
カレハが示した方向へと、俺はまっすぐに、振り返らずに進んだ。
やがて、彼女が言っていた通り、水の音が聞こえはじめる。
その音に、無心に近づいていく。
そこには、大きな泉があった。
澄んだ、透明な泉。銀色の鏡のように、月の光にかすかに輝いている。
俺は、静かに泉のそばに膝をつき、その水面を覗き込んだ。
一際強い風が吹き抜け、葉擦れの音が大きく聞こえ、一瞬ののち、何ひとつ、聞こえなくなった。
◇
長い夢から目をさますように、ゆっくりと意識が浮上する。
身体が静かに覚醒していく。
不思議な疲労感がある。意識が身体に馴染むまでの酩酊のような違和感。
やがてそれもじんわりと溶け込んでいく。
そして、誰かが俺の手を握っていることに気付く。
目を開く。
俺は、自分の身体が自分の部屋のベッドに横たえていることに気がつく。
手を握っていたのは純佳だった。
彼女は俺のすぐとなりに眠っている。
俺はその姿に戸惑いを覚えるより先に、自分の視覚に変化があることに気付いた。
続いて、聴覚。
耳をすませて確かめる。
換気扇の音、純佳の寝息、自分の肌が布団に擦れる音。
これまで二重だった風景。
時に静かに、時に烈しく轟くようだった葉擦れの音。
それが、今、消え去っている。
今、俺は自分の部屋のベッドで休んでいる。
そこで得られる以外の感覚を、いま、俺はなにひとつ受け取っていない。
「純佳」
と、そう呼ぶ声でさえ、これまでの自分と違う気がした。
眠っていたのではなく、ただ目を閉じていただけだったらしい純佳が、そっと瞼を開いた。
「……起きたんですか」
と彼女は笑った。
とても自然に、当たり前みたいな顔で。
「……うん」
当たり前に、俺は返事をした。
「よかったです」
少し眠そうな顔のまま、純佳はそう言った。
どうしてそんなことを言うのか、わからなかった。
「このまま目を覚まさないんじゃないかって思ってたから」
「……俺、そんなに眠ってた?」
純佳は柔らかく首を横に振るような仕草をした。
「たぶん、一時間とか、そのくらいです。でも、様子がおかしかったから」
「……そう?」
「うん。とても、心配でした」
そんなことを素直に言われて、俺は何を言い返せばよかったんだろう。
「……今は?」
「……」
「今も、変?」
「少しだけ」
彼女は笑う。
「でも、昼間より落ち着いています」
「……」
そうなんだろうか。
よくわからない。
「昼間はなにか、不安そうでした。兄はいつも不安そうですけど」
「不安そう」
「何か、焦っているみたいに見えました」
「そっか」
そういうふうに、見えていたらしい。
「だから、よかったです」
「なにが」
「今の兄は、少し、落ち着いているように見えますから」
声がよく聞こえる。
俺は、それを望んでいたんじゃなかったか。
音が止むことを、景色が当たり前に戻ることを。
「……兄、どうして泣くんですか?」
「泣いてない」
「泣いてます。兄は泣き虫です」
「……」
わからない。
どうして俺は泣いているんだ?
どうして俺はここにいるんだ?
「たぶん、少し疲れてるんだと思うから、寝たほうがいいです」
「……」
「お風呂、入りますか?」
「ああ、うん……」
面倒だな、と思った。
とても眠い。
すぐに寝てしまいたいけれど、着替えなければいけない。
そんなことより何か、何か考えるべきことが、
確かめるべきことが、あるような気がしたけれど、
「……兄?」
身体が重かった、やけに。
何の感慨もない。
なにかをなくした、そんな気がするけど、たぶん何にもなくしてなんかいない。
──きみはきみが失ったと思っていたものを取り戻し、けれどなにひとつ変われない自分を発見するだろうね。
なにもなくしてなんかいない。欠けているところなんてひとつもない。
俺は健康で満ち足りている。きっと、そうなんだ。
「兄。……じゃあ、一緒にお風呂に入りますか?」
「ん……」
ん。
聞き流しそうになって、純佳のことを見た。
「冗談です」と笑うのを待ったけれど、いつまで経ってもそんな言葉は帰ってこなかった。
◇
それで、ああうん、なんてよくわからない返事をした俺はいったいなんなんだろうか。
身体を洗って、温かい浴槽に身体を浸して、どう考えても狭いよな、なんて思っていた俺は。
よくわからないまま、温かい湯船につかって息をついた。
反響している、声が、いつもより大きく聞こえて、それが不思議だった。
「変なの」と俺は呟いた。
この景色しか見えないことが、なんだか不安になる。
今までずっと、あの森の気配に悩まされてきたのに。
ふと、浴室の扉のむこうから衣擦れの音が聞こえる。
まあ、それどころではないよな、などとぼんやり湯気のなかで考える。
「おじゃまします」と、純佳が入ってきた。
「ああ」
俺は視線を壁に向けていた。とりあえず。
「どうしてそっぽ向いてるんですか?」
「気にしないでくれ。壁と話してたんだ」
「そうですか」
純佳が身体を流す音を聞きつつ、俺は目を閉じた。
「壁はなんて言っていましたか?」
「彼女に振られたってさ」
「それは大変ですね。大丈夫なんですか?」
「話を聞く限りだと自業自得だな」
「そうなんですか?」
「ああ。女心をわかっちゃいない」
「まるで兄にはわかってるみたいな言い草ですね」
「……ほっといてくれ」
やれやれ、というふうに純佳が溜め息をついた。
「入りますね」と声が聞こえて、思わず正気かと思ったときには水面が揺らいでいた。
伸ばした足に肌が触れて、俺はとっさに足を引いた。
「どうして目を閉じているんですか?」
「リラックスしてるんだ。デトックス効果を得るために」
「デトックスという言葉に科学的根拠はないと聞きましたが……」
「そうなのか」
「というより定義が曖昧で検証もできないと言いますか……」
「でも、湯船にゆっくりつかってリラックスするのはまあ、健康にいい気がする」
「兄が健康なんて気にしてたのは意外です」
「体調はメンタルに来る。気をつけておくに越したことはない」
「兄、目を開けないんですか?」
「……いま、目が疲れを感じていてな」
「それはいけませんね。兄、そのまま動かないでください」
と言って、純佳の気配が近付いてくる。
いけない、目を閉じているせいで妙に緊張してしまう。
と、濡れた手の感触が俺の鼻先に触れた。
それが、鼻のつけ根のあたりへと伸びてきて、挟み込むように押し込まれる。
「……なに、これは」
「ツボです」
「ツボは……どうなんだ、科学的根拠は」
「まあ、曖昧ですが……デトックスよりは具体的ですし、検証もされてます。
それでも経験医学の範疇らしいので、科学的にと言われると弱いですね」
「ふむ……」
「どうですか、効き目は」
「いや、よくわからん」
というか疲れ目自体嘘だ。
「そうですか。……じゃあ、今度は別のところを」
と言って、今度は足の方へと何かが触れた。
思わず引っ込めかけた足のかかとを、純佳は手のひらで掴んだ。
「動かないでくださいね」といって、足の甲のあたりに指を当てられる。
「純佳、くすぐったい」
「ちょっとです。まあ、プラセボでもあればいいじゃないですか」
……いや、そうではなくて、この姿勢のほうがまずい気がする。
「純佳、もういいから」
「目、よくなりました?」
「なったから」
「じゃあ、開けてください」
「……なにを」
「瞼」
「……」
「……見てください、早く」
こいつは、何を言ってるんだ。
「ほら、早く」
言われるがままに、俺は、瞼を開いた。
「……やっと見てくれましたね」
「ああ、うん」
「バスタオル、巻いてたのでした」
「ん」
「……裸だと思いました?」
わからん。
「裸だと思ったことでしょうけど残念ながらタオルを巻いてたのでセーフです」みたいな顔をしているが、
普通に考えてタオル一枚でもかなり危ない気がするのは気のせいだろうか。
いやまあ、旅番組なんかじゃタオル一枚で入浴してたりするか。
俺の感覚が変なのか。どうなんだ。そういう問題か? 地上波でオッケーなら健全なのか?
「……えっと、兄?」
「いや、まあ……」
とりあえず、何も言うことが思いつかなかったので、黙っておいた。
まあ、妹だ。
まさかこの歳になって同じ湯船に浸かることになるとは思わなかったし、
他の誰かに知られようものなら次の日から俺の扱いはかなりひどいことにはなりそうな気もするが。
ちどりなら、これを知ったらなんて言うんだろう。そんなことが妙に気になった。
「兄、何かまた考えてるでしょう」
「ん。人はいつも考えてるものだろう」
「そうでもないです」と純佳は言った。「そうでもないですよ」
「そうなのかな」
「そうです。人によります」
肩まで伸びた髪を今は後ろで留めている。
むきだしの肩は、くすみもなく、いやに白い。
こわれもののように細くて、薄くて、小さい。
こんなに小さかっただろうか、純佳のからだは。
「……あの、たしかにタオルは巻いてますけど」
「ん」
「そんなに見るものでもないです」
「……見てない」
「嘘です。じゃあ何を見てたんですか」
「湯気だ」
はあ、と純佳は溜め息をついた。
「湯気はなんて言ってますか?」
「湯気が喋るわけないだろう」
「……」
むっとした顔をされる。さすがに怒らせたか。
「まあ、調子が戻ってきたようでなによりです」
ちょっとふてくされたような顔になりつつ、純佳はそう言った。
「そんなに様子がおかしかったか?」
「普通の判断力を持った状態の男子高校生は、妹とおふろに入りません」
「たしかに」
「……」
「……」
……だとすると、それを言い出した女子中学生のほうが普通の判断力を見失っていないだろうか。
「ま、ともかくです。多少は元に戻ったみたいでなによりです」
もとに戻った。もとに戻った、か。
「わかんないな」
「わかんないんですか?」
「結局のところ……」
と、言いかけてから、何を言おうとしたのか、わからなくなる。
「結局のところ?」
「……」
「結局のところ、なんですか」
「……結局のところ」と俺は繰り返した。
「自分が自分自身の問題から逃げ続けてきたんだな、とわかった」
「どういうことですか?」
「言い訳を重ねて、何かのせいにして、目の前のことから逃げてるだけだった」
「……」
「とんだ自己防衛だ」
「ん。そうですか?」
純佳は不思議そうな顔をした。
どうしてだろう。
肩を撫でる、その手のひらの薄さ、腕の細さ、肩の小ささ、鎖骨のくぼみ。
「そうですか、って?」
聞き返すと、純佳は曖昧に首をかしげた。
「そんなこと、ないと思うんですけど。少なくとも、兄は言い訳なんて、自分で剥ぎ取ってたように、見えましたけど」
「……そうじゃなかった、と、思う」
ふうん、というふうに、純佳は息をついた。
「兄は、防衛機制って言葉を知ってますよね」
「……心理学?」
「そうです。兄が言いたいのは、そういうことですよね。すっぱいぶどうとか」
「……まあ、だな」
「でも、それって『防衛』のためなんです」
「……」
「わたし、前から思ってました。兄は自分の防衛機制、自分の認識の歪みみたいなものを自分で剥ぎ取ろうとしているみたいに見える。
フラットに世界を眺めるために、先入観を排除したいっていうふうに。自分を客観視しようとしてるみたいに見える」
「そんな……上等なことは、してない」
「かさぶたを剥がしてるみたいに見えます」
純佳はそう言って、天井に顔を向けて息をついた。
「防衛機制なんてものが存在するなら、それはきっと、心を守るものなんです。
そうしないと、傷ついてしまうから。自尊心が保てないから。だから、自分を客観視する行いは、自尊感情を削るんです」
「……自尊心。でも、そんなの、結局、誤った認識の上に立つ自尊心なんて、虚妄じゃないか」
「……そうでもない、と思います」と純佳は言う。
「自尊心のない自省は自虐です。自虐は、あんまりよくない」
「そうなのかな」
「わたしには、それは、土砂降りの雨の中で、傘もささずに立っているようなものに思えます。
人の心が足元にできた水たまりのようなものなら、傘もささないでいたら、波紋に邪魔されて覗くことさえ叶いません」
「そういうものかな」
「だから傘は必要なんです。もちろん、自分が傘をさしているということを、忘れるのは良くない気もします。
でも……雨に打たれるのは、冷たくて、痛くて、つらいことだと思いますから」
「傘……」
「自分を労らないことには、見えてくる自分なんて、結局、すり減って疲れ切った部分だけですから。
すり減って疲れ切った自分は、きっとうまく振る舞えないから。余計に自分が嫌いになるだけです」
だから、と純佳は言う。
「一度、傘を受け入れるのも、いいと思います。そうして、自分はこんな傘をさしているんだなと、理解すること。
そっちの方が、よっぽど建設的だという気がするんです。……ごめんなさい、自分でも、何を言ってるかわかりません」
「いや……そうだな」
傘をさしていることに気付くたびに、傘をさしてはいけないと、傘を放り投げる。
そんなことを繰り返したって、消耗するだけかもしれない。
「でも、癖みたいなものかもしれない」
「癖、ですか」
「傘をさしてる自分を見つけると、こんなんじゃだめだって、すぐに投げ捨ててしまう気がする」
「兄は……傘を投げ捨てることで、どうなりたいんですか?」
どうなりたい。
どう、なりたい、か。
考えたこともなかった気がする。
「でも……傘に隠れて自分をごまかすのは、正しくない気がする」
「……正しくありたいんですか?」
「……どうだろう、そうじゃない」
言葉の選び方を間違えた気がする。
正しく、というよりは……。
「自分の醜さを誰かのせいにしたり、誰かに押し付けたりするのは……。
正しくない、というより……誠実じゃない、気がする」
「誠実、ですか」
「わからないけど……それは、誰かをないがしろにしかねないことだと、思う」
「誰のことも、ないがしろにしたくないんですか?」
「……たぶん。みんな、そうじゃないか?」
「わかりません。どうなんでしょうね。でも、それなら尚更……。
尚更、まず、自分を労らないといけないんじゃないでしょうか。
他人のことを考える余裕がないくらいずぶ濡れになっていたら、やさしくなんてなれないです」
この比喩に限ったことを言えば、瞼を開かれたような気持ちだった。
『誰かをないがしろにしたくない』がために『傘を捨てる』。
その末に『誰かを気遣う余裕を失う』のでは、本末転倒だ。
そんなことが、いま、不意にわかったような気がした。
本当にそうかもしれない。
結果として俺は、いつのまにか、自分の心がどうだとか、そんなことしか考えなくなっていた。
本当は、そんなふうになりたかったわけじゃないはずだ。
「……そっか」
「それでも、その癖のせいで、兄が傘を忘れたり、捨てそうになったら……」
純佳は静かに、俺を見て微笑んだ。
「兄が傘を忘れたら、わたしが兄に傘をさしてあげます」
「……」
「あんまり濡れたら、風邪ひいちゃいますから。だから、傘を忘れたら教えてください」
さしのべられる傘。
そうだな。
もしかしたら……そっちのほうが、やさしさに近いんじゃないか。
「……純佳は、大人だなあ」
そう、思わず呟いたら、純佳は子供みたいな照れ笑いを浮かべた。
人の心が足元にできた水たまりのようなものなら、傘を捨てたところで意味なんてない。
明鏡止水という言葉を思い出す。
波打った水の向こうを、人は覗くことができない。
水の底まで眺めるためには、その水面が落ち着いている必要がある。
そのためには傘がいる。
「ありがとう、純佳」
「わたしは、兄の味方ですから」
「……」
「味方ですから。兄がどんなにずるくても、ひどくても、たぶん許しちゃうと思うんです」
「……それは、ちょっと怖いな」
「うん。だから、わたし、大人なんかじゃないんです」
「……」
「兄のこと、この世の誰よりひいきしてるんです」
「……じゃあ、ひいきなしでもマシな人間にならないとな」
「兄のいいところはそういうところです」
「……いいところ?」
「自己肯定感の低さは、向上心の裏返しなんです」
そんな、どこかで聞いたような言葉でさえ、純佳の口から言われると心強く思えた。
◇
翌日は土曜日だった。
目が覚めて、身体が重いことに気付く。
視界にも、音にも、未だに慣れない。響き方が違うのだ。
朝、起きて、自分の身体がしっかりと自分の部屋にあることを認識する。
手足がちゃんと自分の思うとおりに動くことをたしかめる。
そして、あの音が聞こえてこないかと耳をそばだてる。
けれどどれだけ待ったところで、そんな気配すら感じられなかった。
聞こえてくるのは雨垂れの音だった。
季節は梅雨の終わりへと向かいかけている。
やがてノックの音が聞こえて、純佳が「起きていますか」と声をかけてくる。
起きている、と答えると、彼女はびっくりしていた。
「兄がひとりで起きている。最近は珍しいことばかりですね」
「俺も成長するのだ」
「成長でしょうか」と純佳は首をかしげた。
「朝ごはんは食べますか?」
「せっかくなのでいただこう」
「今日はバイトは?」
「バイト……」
バイト……。
「……ある。たぶん、午後から」
はずだ。
「わかりました」
それだけ言って、純佳は部屋から出ていった。
さて、と、俺はぐっと伸びをした。
妙な疲れは感じたけれど、ひとまず、帰ってきた。
考えなければいけないことがいくつかある。
最初に日付を確認する。そう、土曜日なのだ。
記憶の欠落が二日ほどある。というより、記憶はあるのだが、曖昧になっている。
どんなふうに過ごしたのか、思い出せない。俺はそれを見ていたはずだ。それは分かる。
昨夜目を覚ます前まで、どこにいたのか、それもよく思い出せない。
印象だけが残っている。
一度眠ってしまったせいだろうか。それとも、昨夜のことのインパクトのせいだろうか。
いまいち、記憶が判然としなくなっていた。
けれど、いくつか、思い出せることもある。
俺は携帯のメッセージアプリを起動し、通話を呼び出した。
鳴らす。
鳴らす。
鳴らす。
出ない。
切らずに鳴らす。鳴らす。鳴らす。
そろそろ諦めるべきだろうか、と思ったところでつながり、
「うるさい!!」
と、声が聞こえた。
「土曜の朝からなに!」
「土曜も……」
「ん?」
「土曜も何もねえだろうが!!」
俺は怒鳴り返していた。
「……あのね、三枝くん。青葉さんは寝てたの。気持ちよく。今の今まで」
「ああ」
「その睡眠のね、邪魔をね、するのはね、大罪ですよ。大罪です」
「だからな、おい。わかるか、瀬尾」
「なにが?」
「昨日までいなかった奴が、そんな偉そうなこと言う資格ねえだろうが」
「……そりゃ、悪かったとは思うけど。ね、三枝くんちょっと怖いよ。寝起き?」
瀬尾は甘えたみたいな声を出した。
「でも、昨日は遅くまでたいへんだったんだよ。お父さんとお母さんにどう説明したもんかって」
「ちゃんと謝ったのか」
「なんか捜索願とか出されてたみたいだから、なんも覚えてないってことにしちゃった」
「……それ、通るのか?」
「いちおう来週は学校に話通しにいかないとってことになってるんだ。
ね、三枝くん。わたしがいなかった間も、授業って進んでたよね、やっぱり」
「そりゃな」
「んん……どうしよ。もうすぐ期末だよねえ……」
「出席日数は?」
「そこも心配だなあ。どういう扱いになるのかなあ」
「自業自得だ」
「ひどい。誰のせいだと思ってるの」
「……んん」
誰のせいって……。
「俺のせいなの?」
「そーだよ。まったくもう」
「いや、誰のせいでもないって言ってなかったっけ?」
「本音と建前は別」
「……めんどくせえやつ。なんだよ、本音って」
「あー、あんまりわたしにひどいこと言うと、三枝くんが小学生の頃同級生の女の子を裸に剥いたことあるのみんなに教えちゃうよ」
「むい……なんだそれ」
「いやだって言ったのに無理やり……水風呂に」
「ちどりのことかよ。あ、そうか。いや、小学二、三年の頃だろそれ」
瀬尾からその話を持ち出されることに違和感はあるが、彼女は思い出したと言っていた。
思った以上に厄介なことになったという気がする。
ペースが保てない。
同級生に過去の恥まで全部知られているような気持ち……というか、大部分そのとおりだ。
「えへへ」と瀬尾は楽しげに笑った。
「なつかしいねえ」
「……」
俺もまた、なつかしさは感じるけれど、やっぱりそこには違和感がつきまとう。
それをもう、瀬尾は受け入れたのだろうか。
ひょっとして、瀬尾が帰ってこなかったのは、思い出したから、だったんだろうか。
それをどう取り扱っていいか、わからなかったから、
……いや。
それを想像するのはやめておこう。
瀬尾は帰ってきた。それだけで今は、よしとしておこう。
「あとさ、三枝くんさ、むかし、騒ぎすぎて大人に怒られたりするときさ、ピエロの人形を見せるとめちゃくちゃ怯えてさ……」
「やめろ。なんか恥ずかしいからやめろ」
「えー? なんかわたしもさ、今の三枝くんのイメージが先にあるところにそういうのを思い出したもんだから、もう面白くて……」
「あのな、おまえだって昔うちに泊まったときに夜中トイレにいけないからって……」
「わー! わー!」
「……よそうぜ」
「な、なんでだろう……思い出すとめちゃくちゃ恥ずかしいことばかりしてた気がする……。
わたしだって感じはあんまりしないのに……」
「なんで敬語とれたんだろうな」
「敬語だったことを思い出すと……ものすごく恥ずかしい……」
「ちどりは今も敬語だけど」
「う、うそだ!」
「……なぜおまえが恥じらう」
「うう、なんだこれは……」
「まあお互い裸も見せ合った仲だ。仲良くしようじゃないか」
「開き直らないでよ! 恥ずかしいなあもう……」
「……他のことも覚えてるんだろ」
「ん」
「純佳とか、怜とか」
「ん、うん。なつかしいな。隼ちゃんは──」
と、瀬尾は言いかけて、
「……三枝くん、いつまで純佳ちゃんとお風呂入ってたんだっけ?」
「……」
「……」
「……」
「……え?」
「……いや、違う。話題が唐突すぎて驚いただけだ」
「入ってるのか! まだ入ってるのか!」
「入ってない!」
「し、信じられない……どういうことなの……」
「入ってないって言ってるだろ」
「わたしに嘘が通用すると思ってるの?」
「……」
俺は断固として認めなかった。
そんなふうにして、電話を切った。
なんだか考えないといけないことが頭から飛んでしまった。
ひとまず、瀬尾が帰ってきていることを確認できたことに安心する。
他のメンバーにも連絡しておくべきだろうか、と思いつつ、姿を見るまではなんとなく実感が湧かなかった。
そもそも……この記憶の空白の内容を、たしかめたくないような気もしていた。
何かまずいことをたくさんしていたような記憶はあるのだが……。
とりあえず、バイトのシフトを確認する。今日はたしかに出勤日になっていた。
あと、考えないといけないことはなんだろう。
何かを忘れているような気がするが、思い出せない。
まだ、曖昧になっている部分が多い。
……とはいえ、ひとまず、これで。
事態はとりあえずの解決を見た、のだろうか。
◇
バイトに出るのはなんだか久しぶりだという気がしたが、実際にはそれほどでもないはずだ。
土日は基本的に暇だから、何事もなく仕事は終わる。
不意に先輩から、
「なんだか目つきが変わったね」
と、知ったようなことをいわれたけれど、それがどんな意味なのかは分からない。
バイトを終えた俺は、どうしようかと悩んだ挙げ句に『トレーン』へと向かった。
何か落ち着いていられない気分だったのだ。
向かう途中でそういえばと思い、携帯を取り出す。
どうしたものかな、と悩んだあげくに、大野、瀬尾、真中、ちせの連絡先を呼び出して、グループトークのルームを作る。
「瀬尾さん、挨拶なさい」と俺が送る。
「ただいまです!」と瀬尾からすぐに返事が来た。携帯をいじっていたんだろうか。
少しして、真中から、
「青葉先輩?」
と疑問符付きのメッセージ。
「青葉先輩です」と瀬尾は返信した。
「ごしんぱいおかけしましたが、いま、家におります」と追撃。
黙っているかと思っていた大野が市川をルームに追加し、
「いつ帰ってきたんだ?」と送る。
「今朝です」と瀬尾は言った。
「連絡が遅い」
「たいへんなごめいわくをばおかけしました」
と、今度はちせがましろ先輩をルームに追加した。
「ぶじでよかったです。おかえりなさい」
ちせの文章は思ったよりなんだかそっけなかった。
とりあえずこれで全員に連絡の義理は果たしただろう。
あとでとやかく言われる心配もあるまい。
まあ、もっとも、みんなそんなことまで気にしないとは思うのだが。
と、真中から、
「せんぱいはなんで知ってるの」とメッセージが飛んでくる。
今気にするのがそこなのか、と思いつつ画面を開くと、どうやらグループルームではなく個人メッセージらしい。
「諸般の事情」とだけ答えてから、俺は歩くのを再開した。
「そうですか」と真中の返事はちょっと怖かった。
『トレーン』についた俺を迎えたのは、当然といえば当然だが、ちどりだった。
彼女は俺を見た瞬間、「うっ」という顔をした。
「……どうした?」
「あ、いえ。いらっしゃい、隼ちゃん」
ごまかすみたいに、ちどりは笑う。その表情が何かを隠しているんだと流石に気付く。
不自然に思ったけれど、ちどりは何気なく言葉を続けた。
「ちょうどよかったです。奥にいますよ」
「……誰が?」
「怜ちゃんです」
案内されて奥のテーブル席に近づくと、たしかにそこに怜がいた。
「やあ」
「やあ。……来てたのか」
「会っただろう、昨日」
「……そうだったか?」
「……ん。まあ、それについても話そうか」
そう言って、怜は向かいの席を示した。俺は頷いて椅子に座る。
ちどりは俺が何かを言う前に、奥にいるマスターに注文を伝えた。ブレンド、と。
ちどりは何かを言いたげに俺を見たあと、そそくさと厨房の方へと向かっていった。
「……ちどりになにかしたの?」
怜はそう訊ねてきたけれど、俺は首をかしげるしかない。
隠しても仕方ない。
「ちょっと記憶があやふやになってる」
「ふうん。なにかあった?」
「……それをおまえにも確認したいんだ。昨日、会ったっていったな」
「ん。……覚えてない?」
「わからない。そんな気もする」
「そっか。会ったよ、昨日。でも、そのまえにひとついいかな」
「……ん」
「きみは、三枝隼だよね?」
「……」
「きみは、ぼくが知っている三枝隼だよね?」
どうだろうな、と俺は思う。けれど、
「たぶんな」と、そう返事をした。
「そっか。ならいい」
怜は本当に、それならいい、という顔だった。
「……いいのか?」
「よくないほうがいい?」
「どうだろうな。ちょっとくらい、検討してほしくはある」
「ふうん……。でも、確かめようがないしね」
怜はそう言って、コーヒーに口をつけた。
「怜、なにしにこっちにまた来たんだ?」
「……おとといの夜、ちどりから連絡があったんだよ」
「なんて」
「説明が面倒だな」と怜は少し眉を寄せた。
「ええとね、おとといの夜、この店に、隼の学校の人たちがきたんだって」
「……学校の人たち?」
「そう。……ま、そこでいろいろ話したんだ。それでちょっと気になって、噴水に行った。
そうしたら隼がいて、ぼくは話しかけた。すると……ちょっと様子が変だった、気がするね」
「……俺の様子が?」
「覚えてない?」
「……ああ」
「……そっか。まあ、いいや」
ふむ、と怜は頬杖をついた。
「……珍しいな」と、俺は思わず言っていた。
「なにが?」
「怜がそんなふうに、受け流すなんて」
彼女は少しだけ目を丸くした。
「そう?」
「なんでもかんでも、理由を突き詰めないと我慢ならないやつだってイメージだった」
「ぼくだって、少しくらいは大人になったよ」と怜は言う。
「割り切れることばかりじゃない」
「……怜、実はさ」
「ん」
「瀬尾、見つかった」
「……見つかった?」
「ああ。今日、帰ってきた、らしい」
「らしいっていうのは?」
「まだこの目で見たわけじゃない。でも、たぶん、電話をかければ出ると思う」
「……ふむ」
しばらく黙り込んだあと、怜は困ったみたいに溜め息をつき、
「結局取り越し苦労だったかな」
と笑った。そうなのかもしれない。
「……まだ、心配事がありそうな顔だね」
怜は俺の方を見る。
本当にこいつにはなんでも分かってしまうのか。
それとも、俺がわかりやすいだけなのか。
「そのうち話すよ」と俺は言った。
「そのうち、話せるようになったら」
でも、そうだな。
「……でも、少し前までと比べたら、いくらかすっきりしてる」
「……ふうん?」
音が、景色が、消えたからだろうか。
それを寂しいと思うのは、どうしてなんだろう。
「まあ、それはいいや。それとはべつに、やっぱり気になるんだけど」
「なにが」
怜は、厨房の方をちらりと見てから、俺の方へと顔を近付けた。
「ちどり。……おとといから、絶対様子が変だと思うんだけど」
「……ふむ。というと?」
「気付かない?」
「いや、なんだかおかしいとは思ったけど……何かあったのか?」
「それがね」
と怜が小声になったので、俺は彼女のほうへ耳をよせた。
怜はささやき声で話を続ける。
「隼の名前を出すたんびに動揺してる気がするんだ。なにかしたんじゃないのか?」
「……んん」
なにか、と言われても。
「やっぱり思い出せないな」
「でも、絶対、隼の名前だけなんだ。それ以外は普段どおり。
もともとちどりは、感情を隠すのがうまいけど」
「……そうか?」
「隼は鈍いな。そこがいいとこだけど」
と、そんなことを言われると同時に、ちどりが厨房のむこうから顔を出した。
そして、あからさまにむっとした顔になる。
そんな顔は珍しいと思った。
とたとたと歩いてくると、テーブルの上にコーヒーのカップを置いた。
「隼ちゃん、ブレンドです」
「ん」
椅子に座り直し、コーヒーに口をつける前に、ちどりの顔をじっと見る。
彼女は俺の方を見ようとしない。
「……」
「……な、なんですか?」
「……あ、いや」
普段のちどりなら、ここまで視線を合わせないということも、ないような気がする。
なんとなくその表情が物珍しくて、視線が外せない。
と、ちどりは落ち着かなさそうにもぞもぞと体を揺らした。
それからぐっと、決意を固めたように、彼女は俺の目をじっと見返してきた。
「……あの、隼ちゃん」
「……なに」
「ちょっとお聞きしたいことがあります」
「……え、なに」
「ちょっとこちらへ」
と言って、ちどりは俺の服の袖を掴んだ。
怜を見ると、「いってらっしゃい」と彼女は動じていない。
何事かと思いつつ引っ張られるままついていくと、ちどりは店の裏の路地に俺を連れて行った。
「……あの。こないだのことなんですけど」
「……こないだって?」
「こないだ! ここで……したこと、なんですけど」
「……え?」
した?
何を?
ちどりは俺と視線を合わせようとしない。
まったく記憶にはないが、ただごとではないような態度だ。
「わたしもあのときは、頭に血が昇ってたというか、そういう状態でしたけど……あの。気になることがあって」
「……は、はい」
「隼ちゃん、まさか、あの……ああいうこと、他の子とも……」
「……ああいうこと、って」
「だから、その……」
「……」
「な……舐めたりとか……」
「な……?」
舐めたり。
「や、なんだそれ」
「だから! 具体的内容はともかく! ……ああいうの、よくないと思います」
「いや、全然、全然! 心当たりがないんだけど!」
「……」
じとっとした視線を向けられて、おもわずうろたえる。
なんだか不確かな記憶を忘れたままでいたい気持ちになってきた。
ふう、とちどりは溜め息をついた。
「隼ちゃん、このあいだは様子が変だったから。だから、仕方ないのかなって」
「……」
本格的に不安になってきた。
「でも、こないだみたいなこと、他の子にしちゃだめなんですからね」
「いや……あの……」
何をしたんだ、俺は。
「わたしだったからよかったものの、他の子に同じようなことしたら、大変ですよ」
いたずらをした子供を叱るような口調だった。
「……ただ、ちょっと、気分がおかしかっただけですよね?」
すがるみたいな声で、心配そうに、ちどりはそう訊ねてくる。
俺は、どう答えればいいかわからなくて、
「……うん、たぶん」
と、そうやり過ごすことにした。
ちどりはそのとき、ほっとしたような、どこかがっかりしたような溜め息をついて、
「それならいいんです」と言う。
「……わたしも、忘れることにします。隼ちゃんも、忘れてください」
「あ、ああ……」
……俺は何をしたんですか。
と、まさか訊ねるわけにもいかなかった。
店内に戻ってテーブルにつき、ブレンドを口に含む。
怜はなんだかけだるげな様子で俺のことを見た。
「どうした?」
「いや、なんだか不思議な感じがしてね」
「不思議?」
「ん。そういえば、隼、ぼくに隠していたことがあるだろう」
「何の話?」
「瀬尾さんのこと。ほら、ちどりにそっくりだって」
「ああ……」
俺は少しだけ考えて、頷いた。
「詳しい話を聞いてなかった。おととい、ここに誰が来たって?」
「大野くんと、市川さん。それから、ましろ先輩って人」
「……不思議な並びだな」
真中は来なかったのか、と俺は思った。
「隼の様子が変だっていうのと、瀬尾さんがいなくなったっていうので、話し合いをしてたんだって」
「話し合い」
「それで、スワンプマンの話が出たんだそうだ」
「……それ、ちどりも聞いたのか?」
怜は首を横に振った。
「ぼくが聞いた」
「そもそも、怜はなんでこっちに来てた?」
「違うよ。ちどりから連絡があったんだ。隼の様子がおかしいっていうので、何か知ってる人に心当たりはないかって聞かれたらしい。
それでぼくに連絡が来て、まあ、ぼくの方も暇だったからこっちに来た。そうしたらそういう話になったってわけだ」
「……なるほどな」
……スワンプマン。
たしかに、ましろ先輩に電話でその単語を出した記憶はある。
それでも、なんというか、不思議な気がする。
それで、ちどりと瀬尾のことにまで辿り着いたんだろうか? 経過が見えないから魔法みたいな気分にもなる。
「……怜は、どう思う?」
「なにが?」
「スワンプマンのことだよ」
「ぼくは……そうだな」
彼女はちらりと、カウンターのむこうから疑わしそうな視線をこちらにむけているちどりに視線をやる。
「ぼくにはよくわからない、というのが本音かもしれないね」
「……」
「そういうことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。本当なのかもしれないし、嘘なのかもしれない。
でも、ぼくが思うことっていうのはそんなに多くなくて、結局問題なのは……そうだな。
たとえば、隼やちどりがなにかに悩んでいたとして、ぼくがそれに気付けなかったとしたら、それはぼくにとっては悲しいことだよな、ってことくらい」
「……」
「ぼくはきみたちを友達だと思っているからね」
「友達、ね」
「不満?」
「いや……」
どう言ったものかな、と悩む。
不思議なものだ。
あんなにもざわついていた葉擦れの音が聞こえないというだけで、気持ちまですっきりしたような気がする。
「なあ怜、俺はおまえに嫉妬してたんだよ」
怜は、唖然とした顔をする。
「……嫉妬? ぼくに? 隼が?」
それから笑った。
「なんで隼がぼくに嫉妬なんてするの?」
「なんでもできたから」
「……」
「なんでも俺より上手くできた。それが羨ましかったんだ」
「……そうかな」
どこか寂しそうに、怜は笑う。俺はそんな彼女の表情を、新鮮な気持ちで眺めている。
「ぼくは隼が羨ましかったよ」
「……俺を?」
「隼の周りにはいつも人がいたから。それに……ちどりだって」
「ちどり?」
「うん。ぼくらは、よく三人で遊んだけど、ちどりと隼の間には、ぼくが立ち入れない壁みたいなものがあった気がするよ」
「……それは逆じゃないか? 俺は、怜とちどりをそんなふうに思ってた」
「……ふむ?」
「ふたりといると、自分が混ぜてもらってるみたいな気分になったよ」
怜は何か思いついたような顔をして、ちどりに声をかけた。
ちどりはとたとたと歩み寄ってきて、「なんですか?」と訊ねてくる。
「ね、ちどり。ぼくと隼とちどりのなかで、いちばん仲の良い二人組って、どの組み合わせだと思う?」
ちどりは柔らかく首をかしげて、本当に不思議そうな顔をした。
「隼ちゃんと怜ちゃんじゃないんですか?」
「……ふむ」と怜が言う。
「なるほど」と俺も思った。
「違うんですか?」
「逆に、どうしてそう思う?」
「だって、わたしにはわからない難しい話とかしてましたし、ふたりでいろいろ調べ物したりしてましたし。
こないだだって、コンビニにアイスを買いに行って、しばらく戻ってきませんでしたし」
「……」
「なるほどね」と怜は言う。
なるほどな、と俺ももう一度思った。
「ええと、それで、この質問には何の意味が?」
「いや」と怜が言った。
「やっぱりぼくらはずいぶんと仲がいいみたいだね」
そう言って、怜は俺を見て困り顔で笑った。
俺も思わず笑ってしまった。
◇
翌日の午前中、俺はひとり街へと出かけた。
本屋にむかい、確かめるように適当な本を手にとってみる。そしてページをめくってみる。
そうしないといけなかった。
手にとったのは『伝奇集』だった。
『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。
よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ。』
『八岐の園』のプロローグに、ボルヘスはそう書いている。
内容は問題ではない。
“読める”のだ。
頭に入ってくる。
これは一時的な状態なのかもしれない。
けれど今は……読める。
なるほどな、と俺は思う。
◇
本屋で吉野弘の詩集を買い、近くの公園へとわけもなく歩いた。
それはとてもいい天気だった。もう、梅雨は終わってしまったのだろうか。
梅雨が終われば夏が来る。
目が潰れるくらいに眩しい季節が来る。
公園の入り口の自動販売機でお茶を買って、歩きながら飲んだ。
それから広場の、木陰のベンチに腰をおろし、そこで本を開く。
空からは木漏れ日が降ってくる。
もう悲鳴のようなあのざわめきは聞こえない。
ここにはもう“ここ”しかない。
俺はぺらぺらとページをめくる。
順番にではなく、ひっかかりを求めるみたいに、ぱらぱらと。
◇
「海は 空に溶け入りたいという望みを
水平線で かろうじて自制していた。
神への思慕を打ち切った恥多い人の
心の水位もこれに似ている。
なにげなく見れば、
空と海とは連続した一枚の青い紙で、
水平線は紙の折り目にすぎないのだが。」
◇
詩は、よくわからない。
正しい読み方がわからない。でも好きだった。
なんとなく読むのが。
印象派の絵を眺めるような、そんな漠然とした居心地のよさが。
たとえばモネの描く緑や水面が、
ピサロの描く雪景色が、
ルノワールの描く女性が、
むずかしいことなんてなにひとつわからないのに、そのなかに行ってみたいと思うくらいに。
本当に、わからないのに。
それでいいんだろうか
それでいいのかもしれない。
それさえも間違いかもしれないけれど……。
◇
ふと読んでいた本に影が落ち、顔をあげるとそこに彼女が立っていた。
「……やあ」と俺は言う。
「うん」と彼女は言う。
「買い物?」と俺は聞く。
「さんぽ」と彼女は答えた。
「となり、いいですか?」
「へんな敬語」
「へんなひとに言われたくない」
そう言って、彼女はなにかをこらえるみたいな顔をした。
「座れよ」と俺は言った。
「少し話がしたかったところなんだ」
「……」
真中は、春までのような、感情の読めない起伏の少ない表情のまま頷いた。
「……話したかったの?」と真中は言った。
ベンチに隣り合って座っているのに、これまででいちばん、彼女との間に距離があるように感じる。
どうしてだろう。それもよくわからない。
「ああ」と俺は頷いた。
「せんぱいがわたしと?」
「そう」
真中は、自然とこぼれたというような柔らかな笑みを浮かべた。
「そっか」
俺たちが座っているベンチに木漏れ日がさしている。
子どものはしゃぐ声が聞こえる。そんな風景の一部に、俺達はなっている。
木の葉が風にゆすられて、爽やかな葉音を立てた。
木漏れ日が形を変える。
「……少し、考えてたの」と真中は言った。
「なにを?」
「これまでのこと」
彼女は視線を上の方へとさまよわせた。何かを見ようとしたというよりは、ただなんとなくそうしてしまったみたいに。
その姿が不思議と頼りなく、消え入りそうに見える。
「ね、せんぱい」
と、彼女は不意に、俺の方を向いて、口を開く。
「あのね、ましろ先輩に会ったよ」
「……うん」
「知ってた?」
「いや……」
どこか不自然なやりとりだと思う。
どうしてなのかはわからないけれど、自分が真中の前で今までどんなふうに振る舞っていたのか、わからなくなってしまった。
「綺麗な人だった」
「……そうか」
「せんぱいだって、そうわかってるくせに」
「……」
べつに、そんなこと、あえて考えちゃいない。
今までずっとそうだった。
「周りに美人が多いから、麻痺しちゃってるの?」
「自分のこと美人とか言うか?」
「……わたしじゃなくて。幼馴染の人とか」
「あ、ああ。そっちか」
「……あの。せんぱい、わたしのこと美人だと思ってるの?」
「……」
返事はしないでおくことにした。
毒気を抜かれたみたいな複雑そうな顔で、真中は自分の喉のあたりを指先で撫でた。
「……ま、いいや」
そう言って、彼女はもう一度俺と目を合わせた。
「それでね、考えてたの」
「……なにを」
さっきから、表面をなぞるみたいにそう言うけれど、内容についてはいつまでも踏み込もうとしない。
よほど言いにくいことなのか、それとも自分でもうまく言葉にできないのか。
やがて、覚悟を決めたみたいに息をすっと吸い込んだ。
それは本当にさりげなくて、きっと他の人には、そんな変化だってわからないのかもしれない。
ひょっとしたら、でもそんなふうに見えただけなのかもしれない。
いくら長い時間一緒に過ごしたからと言って、そうやって何かを感じ取れるほど、俺は真中のことを知っているだろうか。
「わたし、せんぱいにつきまとうの、もう、やめようと思うんだ」
そして、やっぱり俺は、真中のことなんて、なんにも分かっちゃいなかった。
「……つきまとう、って」
「うん。……ほら、せんぱいが言ってたとおり、あの嘘は、もう意味がないものだし」
そうだ。俺は言った。散々、何度も言ってきた。
付き合ってるふりなんてもう必要ない。
「でも、もうあれは……」
「そうだね。あれはもう、関係ないけど、でも、なんだかね、わかっちゃったんだ」
「なにが」
「なにが、とか、なにを、とか、そればっかり」
「主語がなかったら、わからない」
「……ん、それもそう」
そう言ってるのに、真中の言葉は途切れ途切れで要領を得ない。
ただ落ち着かない気持ちだけが高ぶっていく。
「……でも、だって、せんぱいは、わたしを好きにならないわけだし」
「……」
「勘違いしないでね、気を引きたいわけじゃなくて。うん、なんていったらいいか、わかんないんだけど……」
言葉を探るみたいに、口を動かす真中。
でもそれは、今何かを考えているというより、自分のなかで決まっている言葉を、言語化しようともがいているみたいだった。
それさえも、そう見えるだけかもしれない。
「考えちゃったんだ。わたしはせんぱいのことを好きだと思うし、好きだって何回も言ってたけど、本当にそうなのかな」
「……」
「せんぱいだって、そう思ってたんじゃない?」
否定は、できない。俺は、ずっとそう疑っていた。
「考えてみたら、不思議だよね。せんぱい、わたしたちの関係がはじまったとき、わたしがなんて言ったか、覚えてる?」
「……ああ」
「せんぱいは、わたしのことを好きにならない。"だから"、わたしは先輩に、付き合ってるふりをしてほしいって頼んだんだよね」
「……」
あのとき真中は、自分が周囲から向けられる好意の渦に苦しめられていた。
だからこそ、"自分を好きにならない相手"の存在が心地よかった。
そして実際、俺は決して真中を好きにならなかった。少なくとも、好きになろうとしなかった。
「考えてみたら、わたしはせんぱいのことを好きだったのかな?」
「……」
「ずっと考えてたの。わたしは、せんぱいのことを好きになれるほど、せんぱいのことを知ってたのかな、って」
「……なんだよそれ」
「……うん。わかりにくいかも」
そう言って真中は顔を俯ける。真中が何かを考えているのか、それとも考えていないのかすら、今はわからない。
「せんぱいがわたしを好きにならないからこそ、わたしはせんぱいと一緒にいられた。
せんぱいは、わたしがせんぱいに何も求めないからこそ、一緒にいてくれた。結局、わたしたちの関係って、そういうものだよね」
「……」
「だからわたしはせんぱいに深く踏み込まなかったし、せんぱいもわたしに踏み入らなかった。
そういう関係で好きとか、好きじゃないとか、なんだか嘘くさいなって思ったら、もしかしてって思うことがあったの」
「……なんだよ、それは」
「つまりね」と真中はことさらなんでもないような調子で言う。
「わたしは、単に、"近くにいるのにわたしを好きにならない相手"というのが新鮮だっただけなんじゃないかって」
そうだ。俺もそう思っていた。
そう思っていたのに、胸の内側がやけに重たくなるのはどうしてだ?
「つまりわたしは……せんぱいのことなんて、ちっとも見てなくて、単に、自分のことを考えてただけなんじゃないか、って」
そういう彼女の表情でさえ、今の俺にはよくわからない。
何の表情もないように見えてしまう。
「だからね、せんぱい、終わりにしようよ」と真中は言う。
「嘘も、演技も、偽りも、もう全部おしまいにして、本当の場所に帰ろう。
だってもう、せんぱいは……ひとりじゃない。わたしも、今はもう、たぶん、平気だと思うから。
そもそもが嘘から始まったことなんだから、あれは嘘だったんだって、そういうことにしよう?」
「……真中」
「青葉先輩は帰ってきたんでしょう? だったらもう、ちょうどいいタイミングだと思うの」
「どうして、瀬尾がそこで出てくるんだよ」
「だって、せんぱいは、青葉先輩のことが好きでしょう?」
思わず、言葉を失った。
「わたしには、そう見えたけど」
「……」
ぐつぐつと、煮えたぎるように感情が胸の内側で熱を持つ。
それなのに、今はそれがうまく言葉になってくれない。
これはなんだろう。
唇が何かを言おうとして震えるのに、吐き出す息は音にさえならない。
これは、歯痒さか、それとも、悔しさか?
「瀬尾のことは、いい。関係ない」
「……」
「ひとつ、聞かせろ。真中は、それでいいのか」
彼女は、なんでもないことのように、不思議そうに首を傾げた。
「だって、わたしが言い出してるんだよ?」
「……そうか」
「だから、普通の、ただの先輩後輩になろうよ。中学が一緒で、部活が一緒で、顔見知りで……ほんの少しあれこれあった、それだけの関係」
「……なんだよ、それ」
「だめかな?」
そんなふうに、当たり前みたいに笑われて、なんでもないみたいに言われて、いったい俺に、どんな返事ができるというんだろう。
どうしてだとか、そんなことを言える筋合いですらない。
いったい、具体的に何が変わるのかさえ、わからない。
それなのになにか、自分はやっぱりどこかで間違えたんだと、
あるいは、間違い続けていたんだと、そう言われたような気がした。
◇
「ごしんぱいおかけしました」
と瀬尾が言った。
翌週の月曜、文芸部の部室には部員全員と、ちせがいた。
「まったくだ」と大野がいい、「本当に帰ってきたんだね」と市川が言う。
そんなやりとりを聞きながら、俺はぼんやりとあの絵を眺める。
空と海とグランドピアノは、変わらずにそこにある。
みんな、もうそれに注意を払っていない。
俺は諦めて、視線を絵から外す。
ふと、真中と目が合ったのに、すぐに逸らされてしまう。
いや、俺が逸らしたのが先だったかもしれない。
少し考えてから、どちらでもいいか、と思った。
俺はひとり立ち上がり、荷物を持った。
「三枝くん、帰るの?」
「……あ、ああ」
瀬尾に呼び止められて、思わず戸惑った。
どうしてだろう。べつに変なところなんてないのに。
呼び方のせいだろうか。
「バイト?」
「そう」
「そっか。あ、そうだ。わたしもバイト先に顔出さないと……」
そう言って、彼女もまた立ち上がった。
慌てて大野が口を挟む。
「もう行くのか。詳しい話、全然聞いてないんだけど」
「んー。ごめん、また今度ね」
「……ま、いいよ。とりあえず、ほんとに無事みたいだし」
それから大野は、ちらりと俺の方を見た。
「……なに?」
「いや……慌ただしいと思ってな」
「そうかな」
「ああ」
それ以上大野は何も言わなかった。
「じゃあ、悪いんだけど、今日のところはまた明日ね」
瀬尾のそんな言葉を横に聞きながら、俺も部室をあとにした。
◇
「なんか、変だね」
部室を出て少し歩いたところで、瀬尾にそう声をかけられた。
「なにが?」
「三枝くん。なにかあった?」
「……どうかな」
「それに、みんなちょっと変」
「いろいろあったんだよ」
「ふうん?」
「原因のひとつがピンとこない顔をするな」
そう言って頭を軽く叩いてやると、「いたっ」と瀬尾は声をあげた。
「女の子をたたくな」
「うるさい」
「……やっぱり変だよ、三枝くん」
三枝くんと、そう呼ばれるのはやっぱり落ち着かない。
「なにがあったの?」
「……さあ。よくわからん」
「なにかはあったんだね」
「それをうまく説明できたらと思うんだが……」
残念ながら、俺の頭はそんなによろしくない。
「ま、そういう人じゃないと文芸部になんて入らないか」
「……そうか?」
「言葉はいつも思考に遅れをとってるから」と瀬尾は言う。
「ある意味、そのときどきにいつでもふさわしい言葉を使えるような人って、文章を書くのには向かないんだよ」
「なんで?」
「文章の萌芽は、『言いたかったのにうまく言えなかった言葉』なんだって」
「ふうん。誰が言ってたの?」
「『薄明』に書いてあった」
「へえ」
「平成四年夏季号、編集後記だったかな」
「よく覚えてるな」
「好きだったんだ、わたし」
そんな話を、俺は瀬尾と初めてしたような気さえした。
「瀬尾はさ」
「ん?」
「なんで文芸部に入ったの?」
「……そんなに意外?」
言うか言わないか迷って、結局、俺は言った。
「ちどりは入らなかった」
瀬尾はほんのすこしだけ息を呑んだ。そんな気がした。
「なんとなくね」
「なんとなく?」
「そう。三枝くんは?」
「……俺は」
「うん」
「べつにいいだろ、俺の話は」
「ま、いいんだけどね」
本当にどっちでもよさそうに、瀬尾は階段を降り始める。
「でも、ほんとに何があったの?」
「……」
「バイトって、嘘でしょ」
「嘘じゃない」
「それが嘘。言ったでしょ。わたしに嘘が通用すると思わないことですよ」
「……かなわないな」
「ん。観念して白状なさい」
やけにニコニコ笑ってる。何がそんなに楽しいんだろう。
よかった、とも思う。
でも、なんなんだろう。
この感覚はなんなんだろう。
「……ね、なんかあったんでしょ。ゆずちゃんと」
「なんで真中なんだよ」
「ふたりとも様子が変だから」
俺はひとつ息をついて、返事をした。
「たしかに、ないことはないが」
「わたしに言うことじゃない、って?」
俺は無言でうなずいた。
「なにそれ。寂しい」
「……勝手に寂しがってろ」
「ええー。三枝くん、なんか変だよ」
「変じゃないよ」
「……前と、ぜんぜん違う」
「前って?」
「いつだろ。……部員集めする前とか」
「……」
「……ごめん、なんか、イライラさせてる?」
「違うよ。ちょっと考えてるだけ」
踊り場の窓から中庭の様子が見えた。
思わず、立ち止まって、それを眺めてしまう。
俺は何をやってるんだろう。
俺は何を考えているんだろう。
いや、分かってる。
こういうことなんだ。
考えないようにしていたこと、頭の中で、言葉というかたちを取る前に押し留めていたもの、それが、噴き出すみたいに線を結ぶ。
"あらゆるものが、弾性を持っている"のだ。
「三枝くん……?」
「ああ、うん」
返事をしながら、俺は、自分の視界が二重にブレてなんていないことをたしかめる。
耳をすませて、葉擦れの音なんて聞こえないことをたしかめる。
どうしてだ?
瀬尾は帰ってきた。景色はもう二重なんかじゃない。もうひとりの俺は弔われた。
初夏の風が窓のむこうで緑を揺すっている。
あんなにも、純佳にも教えられたのに。
それなのに、いま、どうして俺は……。
「三枝くん!」
と、手をつかまれて、ハッとする。
「どしたのさ、いったい」
「……」
「ほんとに、どうしたの?」
「……なあ、瀬尾」
「ん」
「俺、しばらく、部室にいかなくてもいいかな」
「え……? どうして?」
「どうしてってこともないけど……」
「……やっぱ、ゆずちゃんと、なにかあった?」
「……振られたんだよ」と俺は言う。
「それだけ」
「それだけ、って……ほんとに?」
「ああ」
「そ、か。えと……」
「……」
「え、ほんとに……?」
「ほんとだよ」
「そんなばかな」
「なんでおまえが驚くんだよ」
「いや、だって、え、ほんとに?」
「ほんと」
目が、おかしいのだろうか。
前よりちゃんと、視界ははっきりしているはずなのに、夢の中にいるみたいにふわふわしている。
よくわからない。
どうして俺はここに立っているんだ?
ここ数日の記憶が判然としない。
俺は本当に目覚めているのか?
実は俺は目をさましてなんかいなくて、これはただの長い夢じゃないのか、
本当は俺はいまも、あの森をさまよっているんじゃなかったのか。
あの森を、さまよっているだけの、はずだったんじゃないのか。
けれど、その感傷は、
──人は暗闇に何かを期待するものなんだよ。
──暗闇にこそ何か欠けている真実があると信じたい。
きっと、単なる現実逃避なのだ。
俺はそう思いたいだけだ。
本当は俺は、あの森を出たくなんてなかったのだ。
あの音が聞こえてさえいれば、俺は、自分の問題をすべてあの森のせいにできていたのに。
「どうして、部活に出ないなんていうの?」
「……」
「それも、ゆずちゃんのせい?」
そうだ、と答えそうになった自分を、かろうじてのところで、諌める。
そうじゃない。
そういうことではない。
いま、ここで真中のせいにすることは、
すべてを森のせいにしていたことと、なにも変わらない。
「違う」
「じゃあ、なんで?」
「なんででもいいだろ。個人的な理由だ」
瀬尾は、むっとした顔になる。
「わたしが個人的にいなくなったときは、追いかけてきたくせに!」
「……」
返す言葉もない。
「わたし、ゆずちゃんと話してみる」
「なにを」
「三枝くんのこと、ゆずちゃんが振るなんて信じられない」
「あのな、瀬尾」
「そんなのおかしい」
「瀬尾、あのさ」
「……なに」
「それって、余計な介入なんじゃないか?」
「……え?」
「俺と真中の間に、縁みたいなものがあるとする。それがか細くて、今に切れてしまいそうなものだとする。
でも、それを繋ぎ止めるべきだとか、繋ぎ止めないべきだとか、おまえは判断する立場にあるのか?」
「……」
「それは、おまえの恣意で判断していいことなのか?」
「それは……」
瀬尾は押し黙る。
無理もない。
これは、瀬尾がいつか言っていたことだ。
「でも、わたしは……」
「悪いけど、俺も少し混乱してるみたいだ」
「……わたしは」
なおも何か言いたげに、瀬尾は俯いた。
べつに、こんな顔をさせたいわけじゃなかった。
本当は、いまは、真中のことばかり気にしているわけじゃない。
どうして俺は、こんなときでさえ、自分のことしか考えられないんだろう。
ただ、なんとなく、本当になんとなく、重なっていない風景は、葉擦れの音の聞こえない景色は、どうしてか、俺を失望させている。
そう思わないようにしていたけれど、考えないようにしていたけれど、そうなのだ。
ふと、純佳に会いたくなった。
◇
瀬尾は先に帰ってしまって、ひとりになった。
バイトだと嘘を言って抜けてきたのに、すぐに学校を離れる気にはなれない。
自分が何かに操られているような気にさえなる。
あるいはずっとそうだったかもしれない。
何気なく中庭へと歩いていく。
そういえばここは、文芸部の部室の窓から見えるんだったっけ。
春、この中庭に、俺は真中を見つけたのだ。
東校舎を仰ぎ見る。ここからでは、どこかどの部室なのか、わからない。
真中はどうして俺を見つけられたんだろう。
こんなたくさんの窓の中から、どうして俺に手を振れたんだろう。
「なにしてるんですか」
と、不意に声をかけられて、振り向くとコマツナが立っていた。
「ぼんやりしてる」
「部活はサボりですか?」
「……そもそも、部誌作ってる期間以外は自由参加なんだよ」
「ふうん」
コマツナは興味なさげにゆらゆら揺れて、俺の方へと近付いてきた。
「なんでひとりなんですか?」
「べつに珍しくもないだろう」
「ふむ」
何か言いたげに、コマツナは俺の顔をじっと見てくる。俺は負けじと視線を返す。
「……そんなに見ないでください」
「おまえが先に見たんだ」
「失礼しました」
こほんとひとつ咳払いをすると、彼女は落ち着かなさそうに制服の襟のあたりに触れる。
「ひとつ聞きたかったんですけど、柚子と何かありましたか?」
「ん」
俺は少しだけ考えて、
「まあ」
と答えた。
「あったんですか」
「そうだね」
「ふうん。……先輩、こないだとなんか雰囲気違います?」
「気のせいだろう」
「ん、そう言われるとそうかもしれないですね」
物分りがいいのは美徳だろう。
「柚子、こないだ、クラスの男子に告白されてたんですよ」
「……ふむ?」
「反応薄くないですか?」
「まあ……」
俺がどうこう言う立場でもない。
真中は、普通にしていれば、普通にしているだけで、やたらとモテる。
そんなのは、俺だって知っていることだ。
ひょっとしたら、そいつと付き合うことになったから、俺との関係を清算したかったのかもしれない。
あるいは、他の誰かかもしれない。ない話ではない。
「どうも思わないんですか?」
「どうもって?」
「どうもって、って……」
呆れ顔をされて、少しだけ落ち着かなくなる。
俺はそんなに変なことを言ってるんだろうか。
「……先輩、もしかして、かなり落ち込んでます?」
「そう見えた?」
「いや、見える見えないで判断すると、よくわかんないです。そんなに話したことないし。でも、ちょっとそんな気がしただけです」
「勘がいいのはいいことだ」と俺が褒めると、コマツナはわざとらしく「てれてれ」と自分の頭をなでた。
こいつもこいつでこんな奴だったか?
「慰めてあげましょうか?」
「遠慮しとこう」
「じゃ、お説教してあげましょうか?」
「なんで急にそうなるんだ」
「いきますよ」
否応無しか。
「いいですか、先輩」
こほん、と、また咳払いをする。癖なんだろうか。
「先輩、柚子を泣かせたら許しませんよ」
「……」
まっすぐに、こちらを見ている。射るような眼差し。
俺はそれを、なんとなく、受ける。巻藁にでもなったような気持ちで。
「どうして、俺が真中を泣かせたりする?」
「知りません。柚子が勝手に泣いてるのかもしれません」
「泣いてたのか?」
「わかりません」
「……」
「勘です」
「勘じゃあ仕方ない」
「はぐらかさないでください」
「勘で言われて、はぐらかすもなにもないだろう」
「それは、そうですけど」
なおも納得がいかないみたいに、コマツナは歯がゆそうな表情をした。
「泣かせるなというなら、真中の彼氏にでもいえばいいだろう」
「彼氏? 柚子、彼氏いるんですか?」
「……告白されてたんじゃないの?」
「振ってましたよ」
「そうかい」
「ほっとしました?」
「どうかな」
むしろ心配なくらいだ。
「……先輩と柚子の関係、やっぱり変ですね」
「変っちゃ変かもしれないが」
「柚子、ぜんぜん教えてくれないから。先輩、柚子と、何があったんですか?」
「真中が言わないなら、俺が言うことでもないだろう」
「でも……」
でも、と、俺も同時に思った。
べつに、話したってかまわないだろう。真中から言い出したことなのだ。
そう思って、俺は先週末の出来事を、コマツナに話した。
話しながら俺は、あのベンチで読んだ詩集の一節を思い浮かべる。
『海は 空に溶け入りたいという望みを
水平線で かろうじて自制していた』
部室に飾られていたあの絵。
海と空とグランドピアノ。あんなにも、溶け合うように滲んでいる海と空は、けれど、水平線ではっきりと隔てられていた。
そのことを、今不意に思い出す。
あの絵が、どうして途方もない祈りのように思えたのか、今の俺にはわかる気がしたけれど、
それをうまく言葉にすることが、どうしてもできそうにない。
話を聞き終えてから、コマツナはよくわからない顔をした。
怒っているような、悲しんでいるような、哀れんでいるような、その全部のような顔だ。
「柚子が、言ったんですか」
「そういうことになる」
コマツナは、少しだけうつむいたあと、すぐに顔を上げた。
「先輩は、それでいいんですか」
「……俺の気持ちなんて、関係ないだろ?」
「どうしてですか」
「どうしてって……」
「先輩は、柚子と、どうなりたかったんですか?」
俺は、答えられなかった。
◇
答えに窮した俺を、コマツナは置き去りにした。
用事があるとかないとか言って。それが本当かどうかはわからない。信じても俺に害はない。
スマートフォンが不意に震えた。ましろ先輩からのメッセージだ。
内容はこうだった。
「きみはスワンプマン?」
どうだろうな、と俺は思う。
「わかりません」
「なるほど」とましろ先輩からの返信が来た。それで何がわかるというんだろう。
彼女はメッセージを続けた。
「とにかくみんな無事でよかったですね」
たしかにな、と俺は思う。
「そうですね」
「ところで、さくらは元気ですか?」
ふと、そこで俺の思考が止まった。
「……さくら」
今の今まで、まったく気にしていなかったけれど……最後にさくらを見たのは、いつだっただろう。
記憶が、判然としない。
俺は、あいつと、何かを約束していなかっただろうか。
どうしてそれを、今、思い出せないんだろう。
さくらは、どうして今、ここにいないんだ?
◇
学校を出て、俺は『トレーン』へと向かった。
家に帰る気にはなれなかった。何か、それがよくないことのように思えた。
下校途中、俺は何度も自分の視界を確認した。並木道やアスファルトが当たり前に見えることを確認した。
それはたしかにそれだけで、今までのすべてをかき消すくらいの重みをもって現実として存在している。
途中で、不意に、携帯が鳴った。大野からの電話だ。
「……どうした?」
「ああ」と大野はため息のような声を漏らした。
「真中の様子がおかしいようだけど」
「どうして俺に電話するんだよ」
「どうせおまえ絡みだろう」
「……どいつもこいつも」
「なにがあった?」
「振られたんだよ」
俺はいいかげん慣れてきた。
「振られた?」
「もともと偽装の関係だったから、もういいだろうって」
「……それで?」
「それでって、なんだよ」
「おまえはなんて答えたんだ?」
「べつに、なにも」
「……おまえ、それで納得してるのか?」
「……さあ」
はぐらかしたわけではない。自分でもよくわからなかったのだ。
けれど、なんとなく、気付いていることもある。
大野は、ふと黙り込んだ。
「どうした?」
「実は先週まで、おまえを不審に思ってた」
「不審に?」
「スワンプマン。……真中や、市川や、ましろ先輩。みんなで、おまえの様子がおかしいって話をしてたんだ」
「ふむ」
「俺にはどうにもピンと来ないけど、みんなには心当たりがあるらしくてな」
「……白々しいな。おまえもちどりに会いに行ったんだろう」
「まあな。でも、結局俺は、そういうことを考えるのにはとことん向いてないらしい。確かめようもないしな」
「……」
「そのうえで、一個、言わせてもらう。勝手なことをな」
「なんだよ」
「おまえ、真中とどうなりたかったんだよ」
「……」
「おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、真中を」
「なんだよ、急に。……俺が、真中がどうとか、言ったかよ」
「どうせ、無傷でもないだろ。見てりゃわかる。おまえは真中が好きだっただろう」
「……なんで、おまえがそんなことを言うんだよ」
「違うな」と大野は言った。
「おまえが言ったんだ。問題は、おまえがそのまま、真中とのわだかまりをそのままにしていたいのかどうかってことだろ」
「……」
ああ、そうだ。
これは──俺が、大野に言った言葉だ。
「おまえが、そこに苛立ちを覚えるなら、おまえがすることなんて決まってるだろ」
「……」
俺は、真中を、
どうしたいと、思っていたんだろう。
深く関わり合ったら、傷を負いそうで、でも、突き放すこともできなくて。
好きにならない、好きになれない、好きになってはいない、そんなふうに考えて。
でもそれは、もしかしたら、
『俺が真中を好きになったら、真中は俺から興味を失うんじゃないか』と、
そんなふうに考えていたからじゃないんだろうか。
「泣いてたんだぜ」と大野は言った。
「……嘘だよ」と俺は言う。
「本当だ」
……大野が言うなら、本当なのかもしれない。
でも、真中は、そうは言っていなかった。
……本当に、そうだろうか。
「本当におまえは……嫌味なくらいに、いいやつだな」
負け惜しみみたいにそう言うと、大野が電話の向こうで不服げに溜息をついたのがわかった。
「少し待ってろ。全部片付けてくるから」
「……全部?」
「……まだ予言が半分なんだ」
それだけ言って、俺は電話を切った。
◇
『トレーン』の看板も、外装も、扉も、ドアベルの音も、すべて、ちゃんと、見えているし、聞こえている。
店の中に入ると、マスターがひとりでカウンターの向こうに立ってグラスを拭いていた。
「やあ」とマスターは言う。
「こんにちは」と俺も返事をする。
「なんだか久々だね?」
「けっこう頻繁に来てますよ」と俺は言った。
「マスターが出てこないんじゃないですか」
「うん。そうかもしれない」
面と向かって話をするのは、ひょっとしたら久しぶりだったかもしれない。
「コーヒーかい?」
「はい。ブレンドを……」
「かしこまりました」とマスターは笑う。
その笑顔がなんだか懐かしい。
……懐かしい?
そういうのとも、いま、少し違うような気がした。
既視感がある? ……いや、そんなもの、あって当たり前か。
……今は、そんなことはどうでもいいか。
思わずため息をつくと、カウンターのむこうでマスターがくすりと笑った。
「何か落ち込んでるようだね」
「ええ」
「ちどりがいないのがショック?」
「まさか」
というのも失礼な話だが、ちどりは関係がない。
「そう」
あっさりと笑って、マスターは体を翻した。
「ちどりは今日はいないよ。友達と勉強会だって」
「はあ……そうですか。珍しい」
「うん。たしかに珍しい。そうだね」
そういって、マスターはしばらく引っ込んだ。俺はひとり、店の壁に貼られた絵を眺める。
二枚の絵。
タイトルはなんだったっけ?
わからなくなったときは、絵の内容を見ればわかる。そういう絵だったはずだ。
一枚は、霧に包まれる夜の街を、もう一枚は、靄の立ち込める早朝の湖畔を。
しばらく、ふたつの絵を交互に眺めていると、また不思議な感覚に襲われる。
絵のなかに広がる景色。それが現実のどこかというよりは、その絵の中に奥行きを持って存在しているように思える。
「はい、おまたせ」
しばらくして、マスターがコーヒーを差し出してくれる。
「絵を見てたの?」
「ええ、まあ……。この絵、マスターが描いたんですよね」
「うん。ずいぶん前だね」
「……『朝靄』と『夜霧』でしたっけ」
「そうだよ。よく覚えてるね」
「たしか、もう一枚あるんでしたよね」
「うん。そう」
「……誰も知らない三枚目」
「そう」
くすりと、マスターは笑う。
笑い方がすこしちどりに似ている。
「どうして隠してるんですか?」
「隠してるわけじゃない。ここで見せる理由がないだけだよ」
「あの二枚には、見せる理由があるんですか?」
「そういえば、ないね」
ないんかい。
「まあ、思い出のようなものだよ」
「思い出ですか」
「飾りでもしておかないと、すぐに忘れてしまう」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
「つまりこれは……忘れないためなんですか?」
「そういうことになるね」
ふうん。
「……じゃあ、もう一枚は?」
「それも、忘れないためかな」
「……」
俺は、これを訊ねるべきではないのかもしれない。
「霧と靄のむこうに、かすかに人影みたいなものが見えますね」
「ふむ。そう見えるかい?」
「意図は、わかりませんが、そう見えます」
曖昧に滲んだ景色のなかに、影が見える。
いるかいないかも不確かな人影。ひょっとしたらそれは気のせいかもしれない。
人影はいつも、何かに隠されて曖昧に濁されている。滲んで、見えなくなっている。
人と人との距離もそれに似ているのかもしれない。
手を伸ばして、触れようとすれば消えていく。
けっしてつかめない。砂のようにこぼれていく。
ずっと繰り返されている。
はじめからずっと。
桜の森の満開の下で、消えていく女の姿。
どれだけ歩き回っても、影ひとつとらえられない森の中。
滲むような靄と霧のなかで、そこにいるように見える人影。
いるのに触れられない。求めても現れない。見えるのにつかまえられない。
他者は不確かだ。
不確かで、おそろしい。
もし、この二枚の絵に、もう一枚、姉妹や兄弟のような絵があるのだとしたら、
それはもしかして、
「逆光」
「え……?」
「いえ、なんとなくですけど。もし俺がこの絵の作者で、誰にも見せない三枚目があるとしたら、そういう名前をつけます」
「……ふうん。そのこころは?」
「『夜霧』と『朝靄』。夜と朝で二枚。もし三枚目があるなら、昼だな、というのが一点」
「単純だね」
「はい。それから、両方とも、景色は靄と霧に隠れて見えませんから」
「なるほど、『逆光』。おもしろいね」
「ハズレでしたか?」
「そうだね。残念ながら」
「惜しいですか?」
「『夜霧』と『朝靄』に関しては、いいところを掴んでいるし、発想としては近い。
でも、もう一枚は、このふたつとはちょっと違う。だからここには飾ってないんだ」
「……一緒に飾ってはいけない、ってことですか?」
「そうだね。答えが透けて見えてしまうから」
「突然ですけど、マスターって、高校のとき、どんな部活に入ってたんですか?」
「部活? なんで急に?」
「最近、部活でいろいろあったので」
「ああ、なるほどね」
親しみやすい笑みを浮かべて、マスターはカウンターに手をついた。
「僕は文芸部だったよ」
「俺と同じですね」
「うん。そうなるね」
「てっきり、美術部かなにかに入ってたんだと思いました。絵が上手いから」
「手慰みだよ。あれこれ手をつけて、結局どれも身につかなかったな」
「文章もですか?」
マスターは一瞬、ぴくりと頬を動かした。
「そうだね」
「三枚目の絵」
「うん?」
「『逆光』じゃないなら、『白日』ってところですか?」
マスターは驚いた顔をしてから、くすりと笑った。
「うん。それで正解だよ」
「靄のむこう、霧のむこうに何があるかをさらすから、『白日』。役割がまったく違うから、並べたら意味がない」
「……そういうことだね」
マスターは照れくさそうに笑った。
「聞いたことありませんでしたけど……マスターって、どこの高校に通ってたんですか?」
「……」
怪訝げに眉をひそめられる。どうしてそんな話になるのか、と思っているのかもしれない。
「三枚目、どこに飾ってるんですか?」
「……僕は、どこかに飾ってるって言ったっけ?」
「いえ。見せる意味がないとは言ってましたけど、でも、この二枚にもないと言ってたので。それに、忘れないため、とも言ってましたから。
だとすると、飾っているのかなと思っただけです。そうだとしたら、その三枚目には、特有の役割があるのかな、と」
「絵に役割なんてあるものかな」
「少なくとも作者がそれを籠めることはできるでしょうね」
そうかもしれないね、とマスターは曖昧に笑った。
「ところで、この店の名前なんですけど、どうして『トレーン』なんですか?」
「うん?」
「……」
「どうやら、何か話したいことがあるみたいだね」
俺は何を聞こうとしているんだろう。
「今日、放課後、部室を出たあと、少し知り合いと話をして、帰ろうとしました。
でも、その途中でふと思うところがあって、図書室に引き返したんです。『伝奇集』を見るために」
「『伝奇集』」
「ご存知ですか?」
「ボルヘスは昔から好きなんだ」
「店の名前に使うくらいですもんね」
「気付いたかい? 何度も読み返したよ。それで?」
「メモが挟んでありました」
「……メモ?」
「これです」
制服のポケットから、メモ用紙を取り出して、俺は彼に差し出した。
彼はそれをちらりと見て、ふむ、と目を細めた。
俺は、メモの内容を読み上げた。
「『よげんをはたして、あのこをむかえにいって』」
「なにかの暗号かい?」
「……いえ、まだ何枚かあります」
取り出して、それを広げる。合計で、三枚あった。
「『あなたのなかのかれとごういつをはたして』」
「……なんだか、よくわからないな。誰かのいたずらじゃないのかい?」
「……最後の一枚です」
どうして俺はこんなことをしているんだろう。
これをたしかめて、どうなるんだろう。
暗闇の中になにかがあると、そう思うのは、現実逃避だ。
そう言ったのは誰だったっけ?
「『さくらはでみうるごすのべつのえのなか かれは』」
「……これは」
この店の名前は『トレーン』。
瀬尾がむこうにいたとき、連絡に使った本は、ボルヘスの『伝奇集』。
マスターが何度も読み返した本だという。
文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。
誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。
俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。
佐久間茂のスワンプマン──ストローマンは、自らを『デミウルゴスの子』と呼んだ。
メモには、『でみうるごすのべつのえ』とある。
デミウルゴスとは誰か?
それがもし、実際の佐久間茂のことを指しているとしたら、その人物は今、どこで何をしているのか。
『でみうるごすのえ』という言葉を素直に受け取れば、瀬尾が入り込んだあの絵を描いたのは、佐久間茂だということになる。
そして、『べつのえ』ということは、佐久間茂は『他にも絵を描いている』。
『トレーン』、『伝奇集』。
『ちどり』と『瀬尾』。
『佐久間茂』。『デミウルゴスの子』。
『本物』と『偽物』。
『空と海とグランドピアノ』。
『夜霧』と『朝靄』。『三枚目の絵』。
『白日』。
ボルヘスの『伝奇集』に収められた『八岐の園』という短編集の一篇に、『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』というものがある。
『トレーン』というのは、作中に登場する架空の地名のことだ。
何らかの集団によって極めて緻密に捏造された『架空の土地』が、やがて現実の歴史を『修正』し、その価値観を覆すに至るまでの短い物語。
『夜霧』と『朝靄』。そして『白日』。
霧と靄が、人影を滲ませる。けれどもし、その霧と靄が晴れたとき、その人影は本当にそこにあるんだろうか。
『白日』は、その疑問の答えになるのかもしれない。
陽の光が鮮やかに晴れ渡り、すべてが白日のもとにさらされたとき、そこには誰もいないのだ。
「これは直接関係ないんですけど……マスターって、入婿なんですか?」
「……突然だね。違うよ」
「じゃあ、ご両親が離婚か何かされたとか?」
「……」
「もし違うなら、笑ってくれてかまわないんですけど……」
俺は、ほとんど妄想に近い点と点をつないで、無理矢理に理屈をこじつけているのかもしれない。
でも、無視できない何かがそこにあるような気がした。
「三枚目の絵は、俺の高校の文芸部室にあるんじゃないですか?」
もし、違ったとしても、笑ってもらえればいい。
それでも俺は、さくらを探さなきゃいけない。
デミウルゴスの別の絵を探さなきゃいけない。
そして、少なくとも彼は、まだ笑っていない。
結局、何かを取り戻したところで、俺は俺で、いまのまま、何もかもが弾性をもっていて、すぐにだめになってしまうのかもしれない。
変われない、何も求められない自分を見つけるだけなのかもしれない。
でも、本当にそうなのか? 俺にそう語ったのは、誰だった?
──佐久間茂だ。
俺はずっと、彼が決めたルールのなかにいた。
「マスター、『薄明』の佐久間茂は、あなたですか?」
彼は、ほんの少し怪訝げに目を細めたあと、どこか満足そうな顔で微笑んだ。
◇
「僕には、世の中がおそろしい」
マスターは不意に、そんなことを言った。
「砂を噛むような思いで生きてきたよ、ずっとね」
煙るような霧の中でで、マスターの体の輪郭は、かすかな光に覆われているようだった。
まるで彼のすべてが、内側から滲み出して、徐々に大気と混じり合っていくように、俺には見えた。
「笑うかい?」
彼はそう言って、いつものような落ち着いた顔で、俺を見た。
なんでもないような顔で。
「赤の他人なら……うまく笑えたかもしれないですけどね」
いいながら、俺は、彼の背後に広がる景色を見る。
霧の粒のひとつひとつに点描のように滲む月明かり。
版画のように影で塗りつぶされた高い建物。
濡れた石造りの街路を照らすほのかなガス灯の光。
どこかから聞こえる衣服の擦れる音、誰かの息遣いや咳払い。
けれど視線をそちらに向けても、そこには誰も居ない。
『夜霧』のなかを、俺と彼はふたりで歩いている。
「子供の頃から学校が嫌いでね」
「……意外ですね。マスターは……」
「マスター、じゃなくていい」
「……茂さんは、なんでもそつなくこなしてきたように見えるから」
「きみもそういうふうに見えるよ」
そう言った彼の表情もまた、宵闇にまぎれて、よく掴めない。
絵の中の人物みたいだった。
「昔からそうだったんだ。行ってしまえば、別に苦ではない。でも、行くのがどうしてもいやだった。
週末がいつも待ち遠しかったよ。それだけを心の頼りにして、一週間をやり過ごして、でも、ふと気付いたんだ。
平日をやり過ごして、休日を楽しみにして、でも、休日が終われば、また一週間が始まる」
「……」
「それがいつまで続くんだろう、って。それって、いつまでも終わらないじゃないか」
靴音が夜の街に響く。向かう先も分からずに、俺は彼の少し後ろをついていく。
迷子にでもなったみたいな気分だ。
「……でも、今まで、生きてきたじゃないですか」
「そう、砂を噛むような思いでね」
「……」
「とても、他人には信じられないような話かもしれないけど、僕には自分らしい自分というものがないんだ」
「……どういう意味ですか?」
「よく言うだろう。好きな食べ物とか、好きな映画とか、女の子の好みでもいい。音楽や、小説でもいい。
好きな遊び、好きな色、好きな街、好きな建物、好きな雰囲気、好きな植物……」
「……」
「僕には、自分の好きなものっていうのが、わからないんだ」
「……」
「自分が何をしたいのかも、よくわからなかった。そんな人間が、どうやってここまで生き延びてきたと思う?」
俺が何かを答えるまでもなく、彼は勝手に続きを話した。
「誰かが望んでるとおりに振る舞うんだよ。そうすると、何も考えずに済む。
考えてみれば僕は、自分で何かを選択することなんてほとんどなかった。“おまえはこうだろう”と誰かに決められていた。
それで、べつに他にしたいことがあるわけでもないから、それに従い続けていたんだ」
靴音が響く。
「学校でも、家でも、なんでもね。相手の仕草や表情を見れば、相手がどんなふうに僕に振る舞ってほしいかはだいたい分かった。
状況に合わせて、適当に振る舞うだけだ。そうしておけば角も立たない。幸い僕は、器用な方だったらしい。
相手が何を自分にもとめているのかをその場その場で感じ取ることなんて、ほとんど無意識でやっていた。
そう気付いたのは、ずいぶんあとで、当時は自分がそうしていたことになんて、気付いてもいなかったけど」
気付かないというのが、厄介なところなんだ、と彼は言う。
僕は自分がそんなことをしていたなんて、全然気付いちゃいなかった。
ときどき、違和感を持つことはあったけどね。
僕は平気で嘘をつけた。そして、その嘘を、自分で信じ込むことができたんだ。
たとえば誰かがある映画を褒めているとして、僕がその映画を観たとする。
すると、その人とほとんど同じ感想を持つんだ。
あるいは、誰かがある音楽をけなしていたとする。すると僕は、その音楽をたしかによくないものだと感じた。
そして、別の誰かとその音楽の話になったとき、その誰かがその音楽を褒めていたら、僕は一緒になってその音楽を褒めることができた。
適当に口先だけで合わせるんじゃない、本当にその場で“そう思うこと”ができたんだ。
「そういうことをしていると、自分がうすっぺらな書き割りで、風景がすべて平坦で、他人がみんな霧に包まれたみたいに不可解なものに思えたよ」
人と会ったり話しをしたりしたあと、ひどく疲れを覚える種類の人間だと気付いたのは、もっと前だった。
もっとも、こんな話、特別珍しくもない、誰だって、大なり小なりやっていることなんだろうと思う。
でもね、問題はそこじゃないんだ。
「ある人は、僕が何かを演じているんだと言った。別の人は、僕はいつも本心を隠していると言った。
でも、違うんだ。僕は演じてるわけじゃない。その場その場で本当にそう思っているし、隠すほどの本心なんて僕にはないんだよ。
他人が何かを言う。そうかもしれない、と僕は思う。別の誰かが、正反対のことを言う。ああ、それもそうだな、と僕は思う」
つまり僕は、からっぽなんだ。
建前はあっても本音がない、そういう生き物だったんだよ。
「そういうふうに過ごしていると、ときどき、自分を眺めている自分を見つけることがある。
僕の背後の少し上空から、僕を見下ろしている僕を見つける。そんなことが続くと、ある瞬間に、僕の意識は、僕を見下ろしている僕の方へと移っていった。
これはたとえ話じゃなく、本当にそういうことがあったんだよ。……まあ、誰も信じちゃくれなかったけど」
そういうことなんだ、と彼は言う。
「みんながみんな、周囲にある程度、適応して生きている。でも僕は、“本当はこうだ”という自分すらない。
頼まれごとはたいてい引き受けた。大人受けはよかったし、同級生にも嫌われるようなことはなかったな。
むしろ、誰かを嫌う側に回ることの方が多かった気がする。なにせ、みんなが誰かを貶めるとき、僕も一緒に貶めていたからね。
誰かに合わせるというのは、風見鶏のように振る舞うことじゃない。より大きな流れのようなものを見つけて、それに乗ることなんだ。
だから僕はきっと、“より同調すべき誰か”の視点に、常に合わせていたんだと思う。だからこそそういうことができたんだ」
でも、ふとした瞬間に気付くんだ。
ひとりになったときにね。
「僕は本当に、これが好きなんだろうか? 僕は本当に、この人が嫌いなんだろうか?
そうなったとき、特にそんなことはないんじゃないか、というのが、決まった僕の結論だった。
そうすると、普段の自分の言動や、感情さえもが、疑わしく思えてくる。そして、ついに結論が出た。
僕は、周囲に、ただ、合わせていただけだったんだよ」
やがて、夜の街路は、果てに行き着く。
煉瓦造りの高い壁、その合間に、大きな門扉が現れる。
その先の風景は、暗闇の中で、ぼやけてはっきりとしない。
「結局のところ、僕がそんなふうに振る舞っていることになんて、誰も気付かなかった。
なにせ、僕自身も、僕が誰かに合わせているなんて自覚がなかったんだから、当然だ。
友達もいたし、恋人もいた。趣味だって、あったように思えた。好きなものだって、あったように思えた。
でも、それは……本当のところ、誰かに言われて、そうしていただけだという気がする。
おまえはこうだろうと誰かに言われたことを、僕はそのまま、ずっと、こなしていたような気がする」
門の前で立ち止まり、彼は後ろを振り返った。
つられて俺も振り返る。
そこにはただ、人の気配だけがざわつく、霧に包まれた夜の街があるだけだった。
「結局のところ」、と彼は言う。
「何が偽物で何が本物かなんて、誰も分かってないんだ。僕自身でさえもね」
そう言ってしまうと、彼はその綺麗な手のひらで、門を押した。
扉は、悲鳴のような軋みをあげて、押し開かれていく。
その先は、森へと続いている。
自分の意見がない。
相手が何をしたいかを常に想像し、自分が何をしたいかをあまり検討しない。
他人に合わせること。
誰もが、程度はあれど、していることだ。
けれどそれが"過剰"であれば……。
たとえば食事を選ぶときに基準になるのは、相手が何を食べたいか、だけで、自分が食べたいものはない。
少なくとも、なにもないと自分では思っている。
自分と他人の境界線が曖昧で、他人から簡単に影響を受ける。
自分自身の好みや、目標や、生活態度でさえ。
「他人に合わせること」に困難を感じる人種とは反対に、「他人に合わせすぎるが故に自分がわからない」。
"過剰同調性"と、そういうふうに言われることがある。
空気を読む、という言葉がある。
空気を読めない、という困難がある。
そして、あまりに敏感に空気を読むあまり、相手の感情を掴み取ってしまうあまり、その相手に配慮し、自分の思うとおりに振る舞えない、ということもある。
そのように振る舞っていると、やがて、"自分の思うとおり"というものが、どこかに隠されてしまう。
結果的に、無自覚に、常態的に他人の顔色を窺い続けてしまい、強い疲労を感じる。
自分自身は抑圧され、"ふるまい"だけが残される。
HSP──ハイリー・センシティブ・パーソン。
知られていないだけで、五人に一人が、そう呼ばれる傾向を持つとも言われている。
それは"遺伝的性質"であり、生来的な傾向だとも言う。
「いつも、死ぬことばかり考えていたよ」
彼は、そう言って話を続けた。
草茂る森の合間を、縫うように道が続いている。
「でも、死にたい自分が本当なのかもわからなかった。死にたいのではなくて、"こんな人間は死ぬべきだ"という、誰かの考えに合わせているような気もした。
なにもかもが僕にはよくわからなくて、曖昧模糊としていたんだ」
暗い森に風が吹き抜け、耳によく馴染んだ葉擦れの音が空間を泳いでいく。
「どこにも自分の居場所なんてないように思えた。自分が誰にも必要とされていないんだと思った。
僕はからっぽで、なにもない。なにかに対する憎しみだけが強くなって、でも、自分が何をそんなに烈しく憎んでいるのかも分からなかった」
わかるかな、と彼は俺を振り返った。どうだろうな、と俺は思った。
「だから僕はこの国を造ったんだよ」
「……"造った"」
「まあ、順番が違うかもしれない。もともと僕はこの国をイメージしていて……それを、成立させようと思った」
「……」
「理解できないって顔してるね」
「……イメージするまでは、分かりますけど」
「架空の人間を作り上げようとしたことはない?」
「……どういう意味ですか?」
「ひとりの人間を想像するんだ。具体的に。性別や、体格や、髪型、顔つき、性格や趣味、服の好みや、小物のセンスに至るまで。
詳細であれば詳細であるほどいい。そして、"その人物がどんな部屋で生活するかを想像する"。
そして、ひとつの部屋を用意する。それから家具を用意するんだ」
「……」
「その人物の好みの机、たとえば学生だったら、学生机があるかもしれない。制服が部屋のどこかに掛けてあるかもしれない。
年齢によって、絨毯やベッドシーツ、枕のカバーなんかの趣味も違う。カーテンなんかもそうだね。
本棚にはどんな本があって、CDがあって、どんな映画を見るんだろう。
人によっては、たとえば、脱ぎちらした服がそのままにしてあるかもしれないね。そんなふうに……
居もしない人間が、いまさっきまでそこにいたかのような、そういう部屋を作りたいと思ったことはない?
ちょうどボルヘスの短編みたいにね」
「……何を言ってるのか、よくわからないです」
「僕がしたのはそういうことだよ。"あたかもその場所が存在しているかのように振る舞う"。
そこから持ち帰ったものや、そこで起きたことを"捏造する"。
どうやったと思う?」
「……」
「『薄明』を使ったんだよ。僕が高校生だった頃、文芸部の部員は二十人ほど居た。でも、僕以外の全員が、幽霊部員だったよ」
「……え?」
それは、おかしい。
『薄明』には……佐久間茂の他にも、
「……」
「最初にしたのは、架空の文芸部を作り上げることだった。
どんな人間がいるのかを最初に決め、どんな人間がどんな文章を書くかを決めた。
原稿を出さないような部員のことも、詳細に設定した。最終的には、『盗作を行った部員』がいたかのような展開まで作り上げた」
「……」
「気付いたかな、きみは。読んだんだろう、あれを」
「……どうして、そんなことしたんですか?」
「どうしてかと言われると、どうだろう。それが僕にとってとても楽しい遊びだったからだよ」
影絵のような森を歩きながら、その声に耳を傾けていると、徐々に現実感が失われていく。
この感覚が、嫌に懐かしい。
「意味がないと言えば、意味がない。でも当時の僕はそれを心の支えにするくらいには、他に何もなかった」
俺には想像することしかできない。
それなのに、どうしてもイメージできない。
目の前のこの人が、そんなことをしていたなんてことが。
そういうものなのかもしれない。
「僕は『薄明』それ自体に物語を付け加えることにした。今にして思えば、誰も気付かないだろうけどね」
「物語……?」
「部誌に参加しているメンバー……つまり、僕が作り上げた架空の部員たちの周辺に、奇妙なことが起きている。
そういう物語だよ」
「……」
「そこまでは気付かなかったかい?」
「ええ」
「まあ、そうなんだろうな。結局のところ……誰もそんなに注意深く、誰かの作ったものを見たりはしない」
「……」
「ああ、べつに、がっかりしてるわけじゃない。そういうものだと、割り切ってるし……もともと、そんな気はしてたからね。
でも、問題はそこじゃない。問題は、それが『起きた』ってことだ」
彼の進む道は、やがていくつかに分かれていく。
そのうちのひとつを、彼は迷うでもなく選んだ。
「僕は『薄明』を一年間、ひとりで作り上げた。そして、そのなかに物語を作った」
「どんな……物語ですか?」
「……そうだね」
と、彼は短く笑って、
「それについては、自分で確かめてみるのがいいかもしれない」
そして、彼の行く道はやがて森を抜ける。
こんなにも、
こんなにもあっけない、短い森だっただろうか?
それとも、この森は、俺が囚われていたあの場所とは、違うのだろうか。
「結局のところ」と彼は言う。
「この歳になってこんなことを言うのも面映いけれど……結局、人はみんなひとりぼっちなんだと思う」
俺のからだは森を抜け、空の色はもう闇ではなく、静かな藍色へと移り変わりつつある。
声はすぐそばから聞こえる。
木立の隙間に、大きな大きな水たまりが見える。
湖が、広がっている。一歩進むごとに、日が昇っていく。
湖面を覆う朝靄が、そのむこうを隠している。
この人に、そんなことを、言ってほしくなかった。
こんな人にまで、そんなふうに言われたら、これから先、なにを求めて生きればいいのかわからなくなる。
そこまで生きて、辿り着く結論が、そんなことでしかないなら。
「僕は、みんなのことが好きだよ。愛してるって言ってもいいと思う。
ちどりや……そう、きみのこともね。でも、ときどき全部がどうでもよくなる。そんな夜を、何度もやり過ごしてきた」
後ろ姿だけが、振り向きもせずに進んでいく。
「でも……ひょっとしたら、僕も年を取りすぎたのかもしれないね」
やがて、道は曲がっていく。湖畔に、小さな小屋が立っている。
その脇を抜けて、彼はまだ進んでいく。
湖に近付いていく。
「ずっと、靄がかかったみたいに、世界のことも、他人のことも、よくわからなかった。
今にして思えば、そこにはたいしたものは隠されていなかったのかもしれない。
本当のことは、まだ、わからない。人は結局、孤独なのかもしれない。
でも、いまは……それでもかまわないような気がする」
小屋の裏手に道は伸びている。その先に、古びた桟橋がある。
小さなボートが繋がれている。
揺れてはいない。
波すらも、ない。
凍りついているのだと、そのとき気付いた。
不意に、湖のむこうに視線を走らせたとき、そのむこうに、何も見えないことに気付く。
靄に隠れているのではない。
なにもないのだ。
あるのは水平線。
空と海。
視線をあげると、突然に、空が晴れ渡っている。
夜が、ガラスのように砕けて消えた。そんな気さえした。
遠く向こうに"何か"が見える。
それがなにかは、分からない。
「結局、人はある意味ではずっと孤独で、安らぎなんて求めるだけ無駄なものかもしれない。
あるいは、そんなもの、求めちゃいけないのかもしれない。人生に安らぎを求めると、不思議と、反対に苦しんでいくことになるから。
でも、それを受け入れてしまうと……ふと、安らげたりする。本当に不思議なことに」
「……」
「見えるかな」
「……なにが、ですか」
「きみが探してるものは、このむこうにあると思うよ」
「……」
「友達がいるんだろう?」
「……俺には、わからないです」
「……なにが?」
「どうして、こんな世界ができあがったのか、この世界が、結局なんなのか。ぜんぜん、わからないままです」
ふむ、と彼は息を漏らす。
「それはまあ、どうでもいいことだよ」
「……どうでもいい、ですか」
「迷惑をかけて悪いとは思う。きっと、きみにも、もしかしたら、ちどりや、他の子たちにもそうかもしれない」
「……ちどりのこと」
「ん?」
「気付いてたんですか?」
「……どういう意味?」
「……いえ」
気付いていなかったのだろうか。
佐久間茂。ストローマンは、気付いていた。
言わないほうが、きっといいのだろう。
「……茂さんは、どうするんですか」
「帰るよ、僕は。……ここにはもう、用事はないから」
「本当にないんですか」
「うん。……見つかるといいね、友達」
「……」
何を言えばいいんだ?
「……茂さん」
「……ん」
「本当に、人は孤独なんでしょうか?」
「……さあ?」
靄に隠れた湖。
霧に紛れた街。
見果てぬ水平線。
葉擦れの音が響く森。
鏡の中の国。
人気のない場所。
ここはどこか薄暗くて、ひとりぼっちの国みたいだ。
「たとえば、人と人との距離が……海と空みたいなものだったとしたら、結局、繋がりあえないかもしれないね」
そう言って彼は、湖の……あるいは海の向こうを指さした。
今は、凍てついて、静かに広がっている。
「もしかしたら、水平線のむこうで、つながることもあるかもしれない」
「……」
「きみが、たしかめるといいよ」
そう言って、彼は俺の方を見た。その視線が、少しだけ、背後にブレる。
「……」
なにかに驚いたように、彼の表情が止まる。
振り返らなくても、そこに誰が立っているのか分かった気がした。
けれど俺は、振り返らなかった。
「……じゃあ、俺は行きます」
そう言って、茂さんの横を俺は通り過ぎた。
振り返らずに、俺は、凍てついた湖の上を歩いていく。
結局のところ、彼のことは、今の俺には関係のないことなのだ。
どうして、ここに来たんだろう。
でも、この先にきっと、さくらがいるような気がした。
この凍りついた湖の先に、彼女がいる。
彼女を見つけなきゃいけない。
これが湖なのか海なのか、もう、わからなくなっていた。
空も水もどこまでも凍てついて、音も匂いもない。
自分の息遣い、靴音が、やけに大きく聞こえる。
それもやがて、徐々に曖昧になっていく。
ここは静かで、何もない。
ただ、空と海がある。
行先には、空と海とが混じり合う、一本の線があるだけ。
四方を見渡しても、元来た森は見当たらない。
もう、どこまでも何もない。
無音、無臭、無痛。
あるのは光と景色だけだ。
考えてしまう。
俺は本当に、ここに来なければならなかったんだろうか。
こんな何もない場所に、本当に来なければいけなかったんだろうか。
そんな思考ですら、やがて消えていく。
疲れや渇きも、いずれ消えていく。
足を動かしているという感覚すらも徐々に消えていく。
sa
最初に音が、
次に時間が、
最後に意識が消えていった。
歩いている、歩いていると思う。
歩き続けてきたのだと思う。
歩いていることすら忘れながら、歩き続けている。
いくつかの景色があらわれては消えていく。
歩いているのだ。
変化のない景色。
どこに向かっているのかもわからない。何があるのかもわからない。
どうして歩くんだろう。
わからなくなっていく。
何もかもがわからない。
何を目指して歩いているのか。
どうして歩いているのか。
そんなことさえ、歩いているうちに、考えなくなっていく。
そして、ふと気付くと、目の前にそれがある。
予期していたものだ。そこにはグランドピアノがある。
この景色が『白日』なのだ。
でもここに、いったい何があるんだろう。
誰も居ない。
さくらも、カレハも、佐久間も、"あいつ"も。
どうして、茂さんは俺をここに連れてきたんだろう。
わからない。
空っぽの椅子、誰も見るもののいないグランドピアノ。
おあつらえ向きに、無音。
けれど俺はピアノを弾けない。
ここで俺ができることなんてひとつもない、はずだ。
けれど、いま、どうしてだろう。
吸い寄せられるように、指先が、鍵盤のひとつへと伸びていく。
その瞬間、響いた音が、凍てついた湖面から、空へと泳いでいった。
その一瞬で、何もかもが動き始めた。
不意に風が吹き、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
雲の影が動き始め、日は俺の影を長く伸ばした。
やがて、足元から、ぴしりと音がして、
悪い予感のすぐあとに、浮遊感に襲われる。
氷が砕けたと思ったときには、水のなかに沈んでいく。
体は鉛のように重たい。
水は透明な膜のようにまとわりついて、俺の感覚を奪っていく。
冷たさは感じなかった。
ただ飲まれていく。
長いようにも短いようにも思える混濁の果てに、どうしてか、
俺は、高校の文芸部室に立っていた。
◇
眼の前の壁には『白日』がある。戸棚には『薄明』が並んでいる。
部室の中央に置かれた長机といくつかのパイプ椅子。
窓の外から昼の日差しが差し込んでくる。
少し薄暗い部屋の中で、やれやれ、と俺は思った。
どうしたもんかな。
とりあえず、今まで見てきた景色が全部夢だった、なんてオチではないのだろう、きっと。
だとすれば、俺はここで何かをしなければいけない。
でも、何かってなんだ?
目を閉じて、深く息をつく。
まあ落ち着けよ、と俺は俺に向けて言う。
ここまで来ちまったんだ、もうやるしかない。
どうしてこんな場所に辿り着いたのかはよくわからない。
それでもやることは決まってる。
──もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。
──それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
──でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
──あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。
──森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
──あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。
あーあ、と俺は思った。
あいつの予言もアテにはならない。
まさか、そう言ってた本人を探すはめになるなんて、誰が思うだろう。
それでまんまとあの絵の中に入り込んだ。
カレハの手紙にそう書いてあった。
さくらは、デミウルゴスの絵の中、だ。
茂さんの案内に従って、『夜霧』へと向かい、『朝靄』を抜け、『白日』を過ぎた。
そして今、見慣れた東校舎の文芸部室に、俺は立っている。
部室の隅の戸棚の中、『薄明』に目を向ける。
ここで佐久間茂は、あの国を造り上げたのだろうか。
今は、その中身を確認している状況ではない。
とはいえどうしたものか。
ここまで来て案内人もなしとなると、どうしようもない。
まあ、それも仕方ないか。
そもそもの話、ここまで来られたこと自体が奇跡みたいなものだ。
ここで正解だったのかも、まだ、わからないけれど。
それでもあいつは学校にしかいない。
だからきっと、ここでいいんだろう。
どんな理屈で氷が割れた先が高校なのかとか、そんなことはいまさら考えたって仕方ない。
最初から全部嘘みたいな話だった。
俺にしか見えない誰かとか、人が消えるとか、絵の中の国とか、そんなもの。
そんなあれこれの中で言ったら、むしろわかりやすいくらいだ。
「さて」と俺は声に出して呟いた。
探すしかない。
俺はそのために来たのだ。
さくらを見つけて、『合一』とやらを果たす。
どっちにしたって、そうしないとならない。
でも……。
どうして、そうしなきゃいけないんだっけ?
とにかく、周りには誰もいない。俺は部室を出て、廊下へと出る。
なんだか不思議な違和感があった。
それがなんなのか、最初はわからなかった。
徐々にそれに慣れていき、やがてはっとした。
人の声が聞こえる。
誰かが喋っている。
少し考えてから、それどころの話ではないことに気付いた。
廊下に並ぶ文化部の部室から漏れる話し声。
開けられた窓からは、中庭にいる誰かの笑い声。
悪い冗談だ。
どうして人がいるんだ?
ここは現実か? それとも『むこう』か?
……手をこまねいていても、埒が明かない。
埒を明かしたいのかい、と佐久間茂は言った。
今は埒を明かしたい。
そのために、まず、どうするか。
ひとつずつ確かめるしかないだろう。
階段を降り、中庭を目指す。
声が聞こえた中だと、そこがいちばん、気分的に近づきやすく思えた。
そこに、さくらが立っていた。
彼女は、俺を見て、俺も彼女を見た。
それなのに、透明な壁があるみたいに、彼女の目は俺をとらえていないように思える。
それでも彼女は、
「あなたは──」
と、そう声をあげた。
「……どういうつもりで、ここに来たんですか?」
そんな言葉が聞こえた瞬間、
彼女の体が一瞬の瞬きの間に消えていた。
光の粒になって辺りに溶けたみたいに。
気付けば俺はひとりで立っている。
笑い声はまだ聞こえている。
今起きたことの意味が掴めない。
……結局のところ、どうにかして、あいつを捕まえるしかない。
どういうつもりで?
何のために?
その答えは、まだ浮かばないけれど。
◇
中庭に取り残されている。笑い声はまだ聞こえている。
人々がいる。それが分かる。
それなのに奇妙な感覚だった。
この校舎のなかにいる誰もが、俺を認識していないという、確信に近い感覚。
試しに俺はあちこちを歩きながら、いろんな生徒たちの様子を見てみた。
一度は話しかけてもみた。けれど彼ら彼女らは俺の声にまったく反応を示さなかった。
俺の姿は誰にも見えていない。
それは当然のことだという気もした、けれど。
渡り廊下には市川鈴音が居た。
「市川」
と声を掛けてみるけれど、反応はない。
校舎の廊下を真中とコマツナが歩いていく。
「真中」
と声を掛けてみるけれど、やはり反応はない。
追いかけるようにちせが走り抜けていく。
図書室には大野がいる。
「大野」
と声を掛けたところで、彼は顔を上げる素振りも見せない。
自分が誰にも見えていない、自分の声が誰にも聞こえていないというよりは、
世界中のすべてに無視されているような気がした。
自分の居場所がどこにもない、自分がどこにいていいのかわからない。
誰にも自分の声が聞こえていない。
あの日のような感覚だと、ぼんやりと考える。
この場所はいけない、と俺は思う。
この場所は俺に何かを突きつけようとしている。
「さくら!」
と、叫んでみたところで、どこからも返事はない。
たしかに、さっき、姿を見たはずなのだ。
あいつはどこかに隠れているはずなのだ。
それなのに、どこからも返事がない。
チャイムが鳴って人々が教室へと去っていく。
散らかった部屋がひとりでに片付いていくみたいに、あるべき場所にみんなが戻っていく。
俺には帰る場所がない。
少しだけ考えて、俺はポケットの中の携帯電話を取り出した。
電源は入っている。
よくわからない状況だった。これがなにかに使えるのではないかという気がしたけれど、具体的には何も浮かばない。
誰かに電話をかける? それでどうする?
仮につながったとして、誰がこの状況をどうにかできるっていうんだろう。
まいったな、と俺は思った。
ここは異質だ。どう考えても、あの森とは別のルールで動いている。
でも俺はここで何をすればいい?
さくらを連れ戻しに来た。それはたしかなはずなのに。それだけだったはずなのに。
このままでは、ただ帰るだけでさえ覚束ない。
出口があるのかさえ、わからない。
まいったな、と、そう思っていられるのは最初だけだった。
授業が終わって、生徒たちが校舎にあふれる。
そしてやがて黄昏をすぎ、夜が来る。
校舎から人が減っていく。
誰もいなくなってから、長い長い夜がやってくる。
みんな気付いていないけれど、そうなのだ。
本当に世界を支配しているのは、夜だ。
人はまるでそれを克服したような顔をしているけれど、夜なのだ。
夜はおそろしい。
何が潜んでいるのかもわからない暗闇。
夜の校舎を亡霊のようにさまよっていると、自分自身が自分自身ではなく、ひとつの現象にすぎないような感覚があらわれる。
時間の流れがおそろしくゆるやかだった。
夜の校舎は冷え冷えとした空気に澄んでいる。
もう誰の声も聞こえない。
窓の外には月だけが浮かんでいる。
思い出すのは夜の森。
ざわつく葉擦れの音、
今に聞こえそうだ。
今に……。
現れるかもしれない。
溜息をついて、やり過ごそうとする。
真夜中の校舎に新鮮味なんてほとんどない。
ただ明かりもなく暗いだけ。
なにもない。
寒々しい気配、
聞こえる、
聞こえる。
「……」
今に現れる。
そんなわけがないだろ、と俺は思う。
俺は今歩いている。
廊下を、教室を、渡り廊下を、亡霊のように歩いている。
さくらはまだ見つからない。
どこにもいない。
早くしないと。
早く見つけないと、さくらを早く見つけないと。
早くしないと、現れる。
あいつが……。
あいつが来てしまう。
森の中、葉擦れの音、
あの景色はもう俺の視界のどこにもない。
それなのに、近づいている。
どうして今更思い出してしまったんだろう。
あの森を平気で歩けた理由が、今はわかる。
子供の頃、あの森をあんなに恐れていたのに、どうして今は平気で歩けたのか。
……でも、あれは本当なのか?
あいつは……。
あいつは、
でも、今は夜だ。
夜は暗い。夜は長い。夜はおそろしい。
でも、あんなことは、全部……
「──人を悪者扱いするなよ」
「……」
嘘だ、と思った。
これは悪い夢なんだ。
あいつは全部夢だったはずなんだ。
あの森には俺しかいなくて、そこにはただ、月と梢の音が聞こえるだけだったはずなんだ。
「都合の悪いことから逃げる癖は治ってないみたいだな」
それなのに、声が聞こえる。
「……そんな反応されると傷つくな」
「……」
「話をしようぜ、まあ、べつに大した話じゃないが」
「……」
「なんだよ、付き合い悪いな。いいだろ?」
声は、俺の頭の中で響いている。
スワンプマンや、カレハや、佐久間茂とも違う。
「──どうせ誰も、おまえのことなんて迎えに来ないんだから」
逃げ切れない。逃げ切れなかった。
『夜』が来てしまった。
「ずいぶん懐かしいな」
本当はずっとわかっていた。
「こうして話すのはいつぶりだろうな?」
ずっとずっと気付いていた。
「つれないな。少しは反応しろよ」
あの森がどうしてあんなに恐ろしかったのか、俺はずっと気付かないふりをしていた。
葉擦れの音が、二重の景色が、あんなに怖かったのは、ただ、あそこに置き去りにされたからじゃない。
この声が聞こえたからだ。
「どうだい?」
「……うるせえよ」
「聞こえてるんじゃないか」
けたけたと笑うように声は言う。
「無視するなよ」
「……うるせえって言ったんだよ」
息をついて、壁にもたれる。ここは教室だ。夜の教室。机が並んでいる。
何年何組の教室かはわからない。それでも窓から空が見える。
夜が覗いている。
「どうだい、調子は」
「おまえが来るまで好調だったよ」
「減らず口だな、相変わらず」
「……」
「なにか言いたげだな」
「喋るなって言ってるんだよ」
「ずいぶん強気になったな?」
「うるせえよ。……おまえなんて、俺の幻聴のくせに、うるせえんだよ」
「おまえらはいつもそうだな」と声は言う。
「都合が悪くなると、すぐに幻聴だとか、幻覚だとか言う。無意識の擬人化とか、そういうふうに、まるで自分の内部かのようなことを言う」
「……」
「佐久間とか言う奴もそうだっただろう。暗闇の中にはなにもないなんて言ってやがった。あいつは根本をわかっちゃいない」
「……」
「本当に暗闇に何もなかったら、ただの拗ねたガキでしかないあいつに、どうやってこんな世界が作れる?」
「うるせえって言ってんだよ」
「分かるだろう。ここは誰かの無意識でも自意識でもなんでもない」
「……」
「森は在る。俺が作ってやったからな」
「……わけわかんねえんだよ、バカ」
「今日はやけに喋ってくれるな。心細かったか?」
「……なんなんだよ」
「ん?」
「なんなんだよ、おまえは……」
「何でもないさ」
「……」
「何でもない。ただ在るだけだ」
「……それらしいこと言って誤魔化してんじゃねえよ。おまえは俺の幻覚だろうが」
「口調が荒いな。いつもの余裕はどうした? 何を言われたくなくて焦ってる?」
「……」
「そんなにショックだったか?」
「……」
「なあ、おまえが不貞の子だってことがそんなにショックだったかって訊いてるんだよ」
「デタラメ言ってんじゃねえよ……」
「デタラメなんて思ってないくせによく言うよ」
「……もう黙れ」
「勝手にしゃべるさ。おまえ、自分がどうして妹にあんなに縋ってるのか気付いてないわけじゃないだろ」
「……」
「だってそうだろう? 本当に両親から生まれた子供がいなかったら、おまえとおまえの両親のつながりなんて希薄なもんだもんな」
「……」
「ま、こんな話はどうでもいいさ」
「……信じねえよ、そんな話」
「そうかい?」
「おまえは俺の妄想だろうが」
「だから、そうじゃないって。前も教えてやっただろう? おまえが知らないことを、たくさん教えてやったじゃないか」
「……うるさいって」
「さんざん教えてやったじゃないか」
「何がしたいんだよ」
「ん?」
「何がしたくて俺にちょっかいかけてくるんだよ。……ほっといてくれ」
「そんなの決まってるだろ」
「……」
「俺はおまえみたいなガキが不幸になるのを見過ごせないんだよ」
「不幸?」
「だってそうだろ? 欲しいものもないやりたいこともない行きたい場所もない。
目指す場所なんて最初からなくてただなんとなく生きてるだけ。それがなんともしんどいじゃないか。
生きてる理由なんてひとつも思いつかない。誰かの劣化品でしかないし、そもそも自分が本物かどうかもわからない」
「……」
「不幸だよ、大層な」
「……」
「しんどいだけの日々なのに、どうせ死ぬまでそれが続くのに、なんでかそれを続けてる。
ずっと引き伸ばしてる。しんどいのをやり過ごして、でもやり過ごしてもどうせまたしんどいんだ。
なんでそれを続けなくちゃいけない?」
「……何言ってんだ、おまえ」
「何言ってんだよ、おまえの方こそ」
「……」
「それともおまえ、まさか本当に、おまえがこの森で何かを失くしたとでも思ってるのか?」
「……」
「前も教えてやっただろ。この森でおまえが失くしたものなんてひとつもねえよ。
あいつも言ってただろ。すべては弾性を持ってる。ここでおまえが失くしたものなんておまえはとっくに取り戻してた」
「……」
「おまえは何かを失くしたんじゃない。最初から何も持ってなかったんだよ。
何か理由があって何も欲しがれないんじゃない。何も求められないんじゃない。
おまえは最初から何も求めてなんかいなかったのさ」
「……うるせえ」
「おまえには何もないよ」
「うるせえって。そんなこと……そんなこと、ねえよ」
「ないよ」
「何が無いっていうんだよ」
「何も無いって言ってるんだよ」
「……」
「おまえ、あのさくらとかいうやつを探してるんだろ?」
「……」
「あいつがいつか言ってたよな。おまえはすごく恵まれてるって。それなのにどうしてつまらなそうな顔をしてるんだって」
「……」
「そうだよな。おまえはすごく恵まれてる。周りには良いやつばっかりだ。なんにも悪いことなんて起きてない。
結局全部おまえが満たされるように作られてる。だからだろ?」
「やめろよ」
「おまえはそれが嫌だったんだろ?」
「……」
「おまえは周囲に嫌な奴が居て欲しかったんだよな。自分に厳しい世界であってほしかったんだよな。
だって周りが良い奴ばかりだと……自分が惨めになるもんな?」
「……」
「それに良い奴ばかりだと……死にたいなんて言いにくいだろ?」
「……」
なんなんだ、
なんなんだ、こいつは。
「だっておまえは何もほしくないのに、何もしたくないのに、生きてる意味なんてなんにも思いつかないのに、
生きててしたいことなんて一個もないのに、生きてても自分の不出来が嫌になるだけなのに、
なんにもできない自分が疎ましくなるだけなのに、自分より全然上手くできる奴らがおまえを許してたら、許されるしかないもんな」
「……」
「周囲が良い奴だと、おまえみたいなクズは弱音も吐けなくて大変だよな。
いや……弱音を吐いて、弱ったふりをして、プライドを切り売りして、どうにか居場所でも作ってたか?」
「……」
「なあ、だから安心しただろ? ここに戻ってこられて」
「何言ってんだ、おまえ」
「あのときに言ってやっただろ、どうせおまえは生きてたってそのまんまだよ、良いことがあったってしんどいままだよって。
だからもう森から出るなって俺は言ってやったじゃねえか。おまえが不幸になるだけだって。
そんなことないっておまえはビービー泣いてたな。でもどうだ? 結果はどうだった? なあ、俺が訊いてるんだよ」
「うるせえよ」
「さんざん待ってやったんだ。答えくらい聞かせろよ。……なあ、どうだよ、救いとやらは見つかったか?」
「……」
「おまえはおまえを許せたかって訊いてるんだよ。……誰かがおまえを許すかどうかじゃなくてな」
夜が、
夜が続く。
耳の奥に、誰かのすすり泣きを聴いている。
「勘弁してくれよ」と俺はひとりごとを言う。
夜は始まったばかりなのだ。
つづく
続き
傘を忘れた金曜日には【7】

