前回
傘を忘れた金曜日には【2】
「ね、せんぱい。今日、バイトは?」
部活を終えて帰ろうというところで、真中がそう声をかけてくる。
「ない」
「じゃ、一緒に帰ろう」
「ん」
「……わたし、うっとうしい?」
「……ことは、ない」
「ならへいき」
どうしてこいつはこんなに、俺にどう思われるかを気にするんだろう。
「……悪い。ちょっと行くところがある」
「ん」
真中は素直に頷いてくれた。
「わかった。……土曜のこと、あとで教えてね」
「ああ。ちせにも話しておくよ」
真中の後ろ姿を見送ってから、俺は渡り廊下へと向かう。
最初にそこを選んだことに深い意味はない。とにかく回ってみようと思っただけだ。
渡り廊下。三階。誰もいない。俺は階段を降り、二階の渡り廊下を渡り東校舎へ戻る。やはりいない。
最後、階段を降り、一階の渡り廊下へ。誰もいない。
次に中庭に目を向ける。やはり、いない。木の陰にも、建物の中にも。
校舎を見上げ、こちらを見る視線がないか、窓をひとつひとつ眺めてみる。
やはり姿はない。
いないのだろうか。
そうは思えない。
最後の最後に、俺は降りてきた階段を一段一段昇り、東校舎の屋上へと向かう。
鍵は制服の内ポケットに入っている。
鉄扉はいつものように開いた。
扉を開けた瞬間、強い風が校舎へと吹き込んだ。
俺は体を外へと投げ込み、扉をすぐに閉める。
あたりを見回す。空は灰色の雲に覆われていた。
フェンスの様子はいつもと変わらない。見渡す限り誰もいない。見えるのは街だけだ。
「……どっかで見てるのは分かってる」
隠れてないで出てきやがれ、と、声に出さずに言ってみる。
返事はどこからもやってこなかった。
俺はひとつ溜め息をつき、いったいこれはどういうことなんだろうと考える。
そして、考えたところでどうしようもない問題なのだと気付く。
「なあ、聞こえてるんだろ?」
そう声をかけてみたものの、いまいち自信が持てなくなってきた。
俺は、ただ妄想を事実だと思い込んでいるだけなんじゃないか。
ありもしない空想を現実と取り違えているだけなんじゃないか。
さくらなんて存在、最初からどこにもいなかったんじゃないか。
それを唯一確認できる相手も、瀬尾も、今はどこかにいなくなってしまった。
このままじゃ何が現実で何が嘘だったのかわからなくなってしまいそうだ。
さくらは本当にいたのか?
俺の作り上げた幻ではなく?
俺の夢は? この葉擦れの音は? ボルヘスの『伝奇集』は?
何が本当で何が嘘なんだろう。
「……そんなに泣きそうな顔をしないでください」
声に振り返ると、彼女は給水塔の傍に腰掛けていた。
「……ずいぶん探した」
「本当は、姿を見せるつもりはありませんでしたから。あなたが探してもわたしを見つけられなかったのは、そういうことだと思いませんでしたか」
「思った。でも、探すかどうかは俺の判断だ」
「面倒な人」
さくらはそう言ってひとつ溜め息をつき、ふわりと浮かび上がるみたいに、けっこうな高さから飛び降りた。
何事もなかったみたいに、彼女のからだは着地した。
「どうしてわたしを探していたんですか?」
「話をしたかった」
「どんな?」
「おまえ、カレハってやつを知ってるか」
「……」
黙ったまま、彼女は諦めたみたいに首を横に振った。
「知りません。……いったい、何が起きてるんですか?」
「“知らない?”」
「あなたに何が起きているのか、わたしには分からない。あなたの、それがいったいなんなのか、わたしには分からない」
「でも、おまえは、俺の未来も見たんじゃないのか」
森に向かうことになる、と、彼女はそう言っていた。
「分からない。ただ、見えるだけなんです。なにか、おそろしいことが起きるような気がする」
「おそろしいこと?」
世界が滅ぶとでもいうんだろうか。
「そんなことじゃないです。ただ、なにか、知りたくないことを……知ってしまうような、そんな気がする」
「おまえにも、そういうのがあるのか」
「わたしにだって気持ちくらいあります」
普段飄々としているのが信じられないくらいに、さくらの表情は素直だった。
「……しばらく、考えさせてください。わたしには、なんにも、わからないんです」
さくらはそう言って、まばたきの合間に消えてしまった。
ひとり残された俺の頭上を、一羽の鳥が過ぎ去っていったように思えたけれど、それだって錯覚なのかもしれなかった。
◇
約束の土曜の朝、引き伸ばしたような曇り空の下、俺は駅前広場のベンチに座って彼女たちを待っている。
真中の話をすると、ちせは「心強いです」と素直に受け入れてくれた。
「あんまり大勢で行くとご迷惑かもしれないですけど、三人なら……」
というかまあ、はっきり言って向こうからしたらいい迷惑だろう。
瀬尾の家には、あらかじめ俺が連絡しておいた。青葉さんのことについて話を聞きたい、と。
瀬尾の母親らしき女性は、あっさりと受け入れてくれた。
「かまわないけど、たいしたことは話せないと思う」と、どこか冷淡に聞こえる声だった。
訪問は午後二時半。ちせと真中は、この広場に二時に着く予定だった。
そして今、二時五分。二人からの連絡は未だにない。
これは、謀られたか。
などと考えているうちに、携帯が震えた。
「ごめん、すぐつきます」
と、真中から。
「なにかあったのか」
「寝坊」
本気か貴様。
「ごめんなさい」と二通目が来る。
仕方ない。少し待つとしよう。
どうせ、瀬尾の家は駅の近くらしい。間に合わないことはないだろう。
溜め息をついたところで、後ろから声がかけられた。
「ご、ごめんなさい。遅れました」
「遅い!」
と思わず声をあげて振り返って、息を呑んだ。
白いワンピース、桜色のカーディガン。
「出先でお姉ちゃんに捕まって……すみません」
次いで、ちせの背中越しに慌てた様子の真中の姿が見えた。
「……」
合流してすぐ、息を整えながら彼女はちせの方を見た。
「やってしまった」という顔を真中はした。
「……女子力で負けたな、真中」
「……完璧に油断していた」
寝坊なんてするからだ。
「あ、変ですか、この服。あの、わたしは普段どおりでいいって言ったんですけど、お姉ちゃんが……」
ましろ先輩にも意外とそういう面があるらしい、と思ったけれど、よく考えると彼女なら妹で人形遊びくらいはしそうだ。
「いや、似合ってるよ」
「あ、ありがとうございます……」
頬にさす含羞が妙に大人びていて、容姿とのギャップも相まって「よいものだ」という気がした。
いかんせんおめかしした小学校高学年児童に見えてしまうのがなんとも切ない。
「……真中も似合ってるぞ」
「……それって皮肉ですか?」
早起きは三文の徳という。
もちろん、正直なことを言うと、今の俺に、そんなやりとりを素朴に楽しむ余裕なんてなかった。
葉擦れの音は、徐々に大きくなっている。
瀬尾がいなくなってからというもの、より激しくなっている。
この場所は、このやりとりは、“俺のものではない”という感覚が、ひどく、強くなっている。
「……時間、押してるから、すぐ行くぞ」
ふたりは、真面目な顔になって頷いた。
雨が降らなければいいが、と俺は思う。
◇
とにかく時間は差し迫っていた。
俺たちは駅前広場を離れ、南側のビルが立ち並ぶ通りを抜ける。
木々に囲われた大きな公園の傍には住宅街がある。そのあたりに瀬尾の家があるらしかった。
俺は家々のガレージや駐車場に止められた車をひとつひとつ眺めた。
アウディ、レクサス、BMW、ベンツ、フォルクスワーゲン、ポルシェ……。
「真中、今日はなんで遅れた?」
いささか緊張を覚えて真中に声をかけると、彼女は平然としていた。
「ごめん。寝過ごした」
「寝過ごしたって、あのな」
……午後二時に約束したのだが。
「一時半に起きたの」
「どういう生活してるんだよ」
真中は、申し訳無さそうな、いたたまれないような顔をした。
「金曜の夜は好きなの。わたし、金曜の夜に思い切り夜更かしするのが好きなの。ああ、明日も休みだなって」
「……ふむ」
「それで、土曜の朝に寝過ごして、ああでも、明日も休みなんだな、午後はなにしようかなって思うのが好きなの」
「……それはわからんでもないけど、約束があっただろ」
「あの、せんぱい、言い訳させて。べつにね、忘れてたわけじゃないの。ただ、ベッドに入っても眠れなくて」
「ふむ」
「それでね、寝付けないとスマホいじったりしちゃうでしょ」
「はあ」
「動画とか見ちゃうでしょ」
「はあ」
「後味の悪いゲームのエンディング集みたいなのとか見ちゃうでしょ」
「いや、知らんが」
そういう趣味だったのか。
「ゲーム、好きなの?」
「……わりかし?」
首をかしげるそのときの仕草は、以前の、何を考えているかわからないときの真中と同じだった。
そこになんとなく安心する。
言いはしないが、以前と違う表情の起伏にくわえて、私服姿でいるせいで、真中が真中じゃなくなったみたいな気分でいたのだ。
「あの。隼さん……青葉さんの家って」
「あ、悪い」
少しだけ気が紛れたところでちせに言われて、俺はもう一度住所を見直す。
スマホのナビで入力してあるので、間違いがないかぎり瀬尾の家につくはずだ。
居心地でも悪いみたいに、ちせは俺たちから少し離れて歩いた。
……まあ、このままっていうのもよくないだろう。
共通の話題なんて、ふたつしかないわけだけど。
「ちせ、ましろ先輩は元気なの?」
「あ、ましろ姉さんは、元気ですよ」
まあ、あの人が元気じゃない様子というのも、あんまり想像できない。
「最近は日本のお城のプラモデルに凝ってます」
「……そう」
それは"最近の調子"という話題で出てくるべき情報なのだろうか。
「姉さん的には、岐阜城がアツいらしいです」
「あ、そうなんだ」
……そういうこと言うんだ、あの人。
「ていうか、さっき、お姉ちゃんって呼んでなかった?」
「……あ、えっと」
ちせは視線を泳がせて、戸惑った様子だった。
「……すみません」
「あ、や。謝らなくていいっていうか、べつに悪いことじゃないから」
「せんぱい、女の子いじめちゃだめだよ」
「いや、いじめてない、いじめてない」
「……ふうん」
「……なんだよ」
「せんぱいがそんなふうにうろたえてるの、初めて見たかも」
「……うろたえてない」
「うろたえてるもん。ふうん。そうなんだ」
いかにも何か言いたげに、真中はそっぽを向いた。
「うろたえてない。……そんなことはどうでもよろしい」
わざとらしい咳払いをして、俺はちせに向き直る。
「悪いとかじゃなくて。……なんか、変に気を張ってるのかと思って。べつに普段どおりで平気だよ」
「あ……はい」
ちせは恥ずかしがるみたいに肩を縮める。
最初に会ったときの雰囲気が嘘みたいに、普通の女の子みたいだ。
「あの。わたし、子供っぽいから。喋り方まで幼いと……なんだか」
「……そう?」
「はい。他の人は、気にしないのかもしれないですけど……」
ひょっとしたら、思った以上に自尊心の強い子なのかもしれない。
身勝手に、そんな印象を覚える。
「ふうん。なるほど」
続ける言葉に迷っているうちに、真中がちせを見ながら口を挟んだ。
「あの、えっと……」
「はい。……あ、ちせで、いいですよ」
「ちせさん」
「ちせでいいです」
真中は照れたみたいに唇をもごもごさせた。
「なにやってんの?」
「ううん、べつに。えっと、ちせ」
「はい」
「……そっちも敬語じゃなくていいよ。同い年だし」
「あ、うん……」
「ちせは……なんでせんぱいのこと、隼さんって呼ぶの?」
「……あ」
なぜか真中は俺の方をもの言いたげにみる。
「あの、わたしの姉が、隼さんのこと、隼くんって、いつも呼んでたので、それでわたしも、隼さんのことは、つい」
「ふうん……」
「何だよ。呼び方なんてなんでもよくないか?」
「……べつに、いいけど。仲良かったの?」
「誰と?」
「その、ましろ先輩? と」
「……さほど?」
「ふうん……」
ちせはさっきよりずっと居心地悪そうだった。
「……着いたな」
歩きながら、ナビを頼りに表札を眺めていたのが功を奏した。
瀬尾という表札が見つかった。
◇
時刻はちょうど二時三十分を回ったところだった。
場所を調べた上で余裕を持って待ち合わせをしたのが結果的にはよかった。
インターフォンを鳴らすと、はい、とすぐに返事があった。
玄関の扉が開かれ、小奇麗な格好をした痩せた女性が中から顔を出す。
「こんにちは」と彼女は笑いもせずに言う。
「こんにちは。はじめまして」と俺も言う。後ろの二人もそれに倣った。
「突然すみません。お電話した三枝という者です」
「とりあえず中にどうぞ」と彼女はさして興味もなさそうに背を向けた。
少し躊躇したが、家主の行動に従い、玄関の中へと踏み入る。
広めの玄関のすぐ向こうが廊下になっている。すぐ傍に客間が見える。
客間の壁は大きな窓になっていて、外からは見えなかったが中庭につながっている。
それを差し引いても大きな客間だった。
俺たち三人はそこに通されて、ソファに腰掛けるように勧められる。
俺たちはそれに従う。
家財は上品な焦茶色の木目のもので統一されている。全体的に落ち着いた雰囲気だ。
「ごめんなさいね、散らかってて」と彼女は言うが、散らかっているのはせいぜいテーブルの上の新聞くらいだった。
「お茶がいい? コーヒーにする?」
「あ、おかまいなく……」
「コーヒーは嫌い?」
「いえ……」
二人はどうなのだろう、と思いつつ見るが、特に何も言わないようだった。
緊張しているのかもしれない。
「……すみません、突然電話して、訪ねたりして」
「別に。問題があったら断ってるから」
言いながら彼女はカウンターの向こうに入り、コーヒーの準備を始めた。
「迷惑じゃありませんでしたか?」
「言ったわ。問題があったら断ってる」
怜悧な人だという印象を受けた。こう言ってはなんだが、瀬尾の母親とは思えないくらいに。
準備を終えると、彼女は俺たち三人の前に氷の入ったコーヒーを並べてくれた。
「ありがとうございます」と頭を下げる。どうやら俺が代表して話をする流れになっているらしい。
「いいえ。……青葉の、同級生って話だったけど」
「ええと、はい。クラスは違うんですけど、文芸部で一緒でした。俺が副部長で、青葉さんが部長を」
「文芸部?」
「……ご存知なかったですか?」
「あの子、あんまり話さないから、そういうこと。それも、部長」
「はい」
本当に?
それはなんだか……意外だ。瀬尾がそういうやつだと、俺は考えたこともなかった。
「……あの、青葉さん、ご自宅も帰ってないって聞いたんですが、本当なんですか?」
「うん。そう。帰ってきてない」
俺はそれ以上どう質問を続けたものか迷った。
何か伝えられていないか? それを聞きたいのはむしろ向こうのほうかもしれない。
捜索願が出されたって話だ。
両親に聞いてどうなる?
俺たちは何を聞くためにここに来たんだ?
「……率直に言います。俺は、青葉さんがいなくなった日に、彼女と口論をしたんです」
「……口論?」
「はい。というと、正確じゃないかもしれない。俺の行為……悪意があったわけじゃない。でも、それに彼女は憤った様子だった。
すごく、傷ついた様子でした。それで彼女はいなくなってしまって、家にも帰ってないという噂が流れてきた」
「……」
「彼女は自分の意思で、どこかに行ってしまったんだと、俺は思っています」
「ふうん。根拠は?」
俺は、ポケットの中に入れておいた、瀬尾からの手紙を取り出した。
彼女のメモの、最初の一枚だ。
「青葉さんがいなくなったあとに、ボルヘスの『伝奇集』が俺の家のポストに入っていました」
図書室にあった本に挟まっていた、と言ってしまうと、不都合が生じるので言い換えた。
事実としては似たようなものだ。
「そこに挟まっていたのがこのメモです。……彼女は、少なくとも、自分の意思でどこかにとどまっているはずです」
「そのメモを信じるならね」
「字でわかりませんか」
彼女は返事をしなかった。
「……湖畔、ね」
「……心当たり、ありませんか。ご親戚のところとか」
「ないわ」と彼女は言う。
「あの子に親戚なんていないもの」
「……」
その言葉の意味がわからずに、俺はただ戸惑うしかなかった。
「と、言うと」
「……」
彼女はテーブルの上の灰皿を引き寄せると、煙草の箱から一本取り出してライターで火をつけた。
数拍おいて、煙を吐き出してから、中庭の方を見つめたまま、彼女は話を続ける。
「わたしの旦那が、あの子の後見人なの」
「……"後見人"?」
ちせが、思わずというふうに繰り返した。
「知らない?」
「ええと、はい……」
「……あなたは、知ってるんじゃない?」
どうしてか、彼女は俺の方を見てそう言った。
「教えてあげたら?」
「……」
後見人。瀬尾の場合は、未成年だから、未成年後見人ということになる。
……後見人、だと?
――わたしは最初からなんでもなかったのに。
――わたし、やっぱり偽物なんだ。
――わたし、やっぱり、いらないんだ。
「……後見人っていうのは、何かの事情で親権者がいない子供を預かって、財産の管理や法律行為を行う人間のことだ」
「親権者がいない、って?」
「親や養父母がいない子供」
「……」
「未成年者は、保護者の同意なしでは契約行為ができない。部屋も借りられない。仕事もできない。
親権者や、その代理となる保護者がいなければ不都合が生じる。だから、親権を行使したり主張したりするものがいない場合……」
「正確には、もう少しややこしいケースもあるんだけどね」
そう言って、向かい側に座った彼女が俺の言葉を引き取った。
「あの子の場合は誰もいなかった。親戚もね」
「……どういう意味ですか?」
「本当に、誰も、いなかったの」
……どういう意味だ?
「ひとつ、確認してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「あなたは、瀬尾青葉の親戚ですか?」
「いいえ」と彼女は言う。
「……」
「あの子を見つけたのが、わたしの旦那だった。旦那がたまたま、選任されうる職種だった」
「……見つけたって、どういうことですか?」
「話してもいいと思う?」
「……どうして俺に聞くんですか」
「青葉は、あなたにそれを知られたいのか、どうなのか。わたしにも、よくわからない」
「……」
「あの子は少し特殊なのよ」
「特殊……?」
「六年前の五月。街の公園で、汚れた服を来て、地べたに倒れている子供を、わたしの旦那が見つけた。
病院に連れて行って、警察に届け出た。迷子かなにかだと思った。それだったらすぐにどうにかなったはずなの。
本人の意識が戻れば自分の名前や家の場所を言えるはずだし、もしそうならなくても、捜索願が出されていないかとか、そういうことを確認すれば済む」
そうはならなかった、という口ぶりだ。
「わかりやすく言えば、記憶喪失ってところ。あの子は自分の年齢を言えた。誕生日も言えた。
でも、それなのに、名前は言えなかった。誰かに盗まれたみたいに。住んでいたところも、両親の名前も」
……。
「その場合、どういう扱いになるか、分かる?」
「……棄児?」
彼女は首を横に振った。
「珍しいけど、そういうケースもありえたかもしれない。でも、青葉は発見された時点で小学校高学年くらいに見えたし、自分でもそう言った。
学校に入っていたという以上、記憶はなくしていても戸籍はあるはずだし、そこで手続きしてしまうと二重戸籍になってしまう。
それでも、学校に入っていたというなら、多少調べれば、身元は分かるはずだった。普通に考えればね」
「でも、じゃあ……」
「だから特殊なのよ。あんなに大きな子供がいなくなったら親だって捜索願を出すし、
そうでなくてもどこかの学校に入っていたなら写真が残っていて本人かどうか確認できる。
似た子がいれば本人がいなくなってしまっていないか確認すれば、いつかはたどり着けるはずだった。なのに、なかった」
「……なかった、って」
「厳密にいうと、とてもよく似ている子がひとりいたんだけど……その子はね、いなくなっていなかった」
「……待ってください。じゃあ、それで、身元がわからないままだった。そうなると、どうなるんですか」
「無戸籍者」
「……」
無戸籍者。
「……まあ、いろいろ大変だったし、だいぶ時間もかかった。いろいろな意味でね。
うちの旦那が後見人に選任されて……それで、就籍届を出した」
「……どうして、そうできたんですか?」
「どうしてって?」
「話を聞くだけだと、児童養護施設の仕事の範疇というのが妥当という気がする。
親が見つからないからと言って……。別に、いけないというわけではないですけど、納得がいかなくて」
彼女は指に挟んだままの煙草が燃え尽きそうになっていることに気付いて、灰皿に押し付けた。
「六年前だったからよ」
「……六年前?」
六年前。
二○一一年。
「……」
……“震災孤児”。
「でも、五月って」
「時期も場所も状況も、正直言ってそう考えるにはあまりに不自然だった。
でも……ありえなくはない。その二ヶ月の間何かがあって、あの子は記憶をなくしたのかもしれない」
……少なくとも、目の前のこの人はそう考えている。
「でも、だったら、被災した地区の学校の生徒を調べれば」
「……そう。そこも、不自然だった。でもね」
彼女は、少しだけ身を乗り出して、まっすぐと俺の目を見た。
「結果として、青葉はこの家で暮らしていた。あの子の親も、親戚も、知り合いも、どこにもいなかった。
テレビでだって流れた。ビラだって配られた。でも、あの子を知ってる人はひとりもいなかった」
「……」
「それで、あの子はこの家で暮らしていた。……もちろん、本人が望まなかったら、施設という形にはなっただろうけど」
「……」
話を聞きながら、一瞬、俺はまったく違う連想をした。
……ありえない。
六年前の五月。六年前の五月。そうだ。六年前の五月。
「……すみません。さっき、青葉さんの身元を調べたときに、よく似た子がひとりだけいたっておっしゃいましたよね」
「……ええ。それが?」
「その子の名前って、わかりますか?」
「……でも、無関係の子よ。調べてもどうにもならない。まさか押しかけもしないでしょうけど」
「そんなことをしても意味はないでしょう」
「だったらどうして知りたがるの?」
「いえ……少し」
彼女はいくらか迷ったような素振りを見せたが、やがて根負けしたみたいに溜め息をついた。
「名前は、思い出せないけど、苗字は珍しかったから、覚えてる」
「……はい」
「たしか……鴻ノ巣って言ったかな」
……。
「……ありがとうございます」
「……いいえ。ねえ、もし青葉からまた手紙が来たら、教えてくれる?」
「……はい。約束します」
「わたし、あの子のことを、なんにも知らない」
悪夢にうなされるみたいに、彼女は顔をしかめた。
「ときどき、夢を見るのよ。あの子の本当のご両親があらわれて、あの子は何もかも思い出して、いなくなっちゃう」
「……」
「……友達と喧嘩したからって、なんにも言わずに家を出ていくような子じゃない。
結局、この家はあの子にとっての居場所にはなれていなかったのかもしれない。
そうでしょう? ……何か、ずっと抱えていたものがあったから、この家にも帰ってこないのだと思う」
「……手紙が来たら、必ず伝えます」
俺は嘘をついた。
「……お願いね」
「……はい。何かわかったら、必ず」
そこで話は終わった。それ以上、お互いに伝えるべき言葉を持たなかった。
◇
瀬尾の家にいたのは、せいぜい三十分くらいと言ったところだった。
外に出たときにはもう、景色は灰色に澱んでいる。
結局のところ、収穫らしい収穫があったとはいえない。
瀬尾の過去を知ったところで、今瀬尾がどこにいるかはわからないままだ。
『こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします』
真中もちせも、黙り込んでしまっていた。無理もないだろう。
他人の事情に、勝手に踏み入ってしまった罪悪感みたいなものを感じる。
それでも今俺を悩ませているのは、瀬尾の事情ではなく、さっきの連想の方だった。
『鴻ノ巣』。『六年前の五月』。
瀬尾青葉。
「……とりあえず、瀬尾の居所のヒントはなかったな」
話の内容にはあえて触れず、俺はそう呟いた。
「そう、ですね」
ちせが頷く。真中は黙っていた。
さて、どうしたものだろう。
「雨が降りそうだな。このあとはどうしようか」
瀬尾の行方を知るという最大の目的に関しては、空振りだった。
話をしたところでなんら展開はないだろう。
俺の頭はそう考えている。けれど、耳に響く葉擦れの音が、何かを教えるみたいに騒いでいる。
そうじゃない、おまえはもう気付いている、と、誰かが言っている気がする。
さっきまでの話でわかったことはない、と俺は考えようとしている。
でも、そうじゃない。俺はそれを認めたくないだけで、ずっと頭の中に浮かんでいた。
それを確かめる手段も、実のところ、思いついている。
ただ、もしそうだったとして……どうやって、瀬尾を連れ戻せばいいんだろう。
それは、正しいことなのだろうか?
「……わたし、今日は、帰りますね」
ちせが、少し無理のある笑い方で、そう言った。
「夕方から、バイトもありますから。今日は、ありがとうございました」
「ああ、うん」
そうやって返事をする以外に何を言うこともできない。
ちせは、一刻も早くこの場を離れたいというみたいに、すぐにいなくなってしまった。
俺と真中は取り残されて、ふたりで顔を見合わせる。
「……真中は?」
「……どうしよう」
すぐ帰るという気分にはなれないらしい。
まあ、まだ夕方というほどの時間でもない。
「どこかに入るか」
それで、駅前の近くで休めるところを探したら、真中が急に「そういえば行ってみたい店があった」と言い出した。
携帯で位置を調べて向かうと、店の扉には「CLOSED」の札がしてあった。
「おかしいな。定休日じゃないはずなのに」
ネットで調べてみるとSNSのアカウントにたどり着き、「今日は臨時休業とさせていただきます」という旨の投稿があった。
「なるほど」と俺達は呻いた。
そうこうしているうちに、いよいよ雨が降り出しそうだった。
こうなったらなんでもよかろうと、俺達はとりあえず駅ビルに戻り、テナントのチェーン店に入った。
「なんだかなにもかもうまくいかないね」と真中が言った。
「そんなことはない」と俺は言ったけれど、よくわからなかった。
うまくいかないこともいくことも、そんなに多くはなかったんじゃないだろうか。
向かい合ってテーブル席に腰掛けて、俺と真中は話すことも思いつけずにいた。
彼女はエスプレッソを飲みながら壁にかけられた絵を眺めている。
「雨、降ってきたな」
店の窓ガラスの向こうで、雨音が強くなりはじめた。
真中は返事をしなかった。何かを考えているみたいだ。
言葉を探すのもばかばかしいような気がして、俺もあえて口を開くことはしなかった。
しばらく、そのまま時間が流れた。俺はコーヒーを飲みながら、どこから手をつけるべきだろうと考える。
瀬尾は家に帰っていない。
荷物ももたずに消えてしまった。
あいつの友人関係はかなり偏っていた。そしてその誰もがあいつの行方を知らないという。
そもそもの話、俺との口論の直後姿を消した瀬尾は、荷物も持たず、靴すら履き替えていなかった。
この不自然さは、今まで放置していた。というより、考えるのを避けていた。
財布も持たず、靴も履かずにどこかにいなくなることの不自然さ。
誰かの家に転がり込むなら、荷物くらいは持っていくし、靴だって履き替える。
であるなら、あいつはそもそも、学校から出ていないはずだ。
可能性として、考えなかったわけじゃない。
瀬尾がいなくなった日から、さくらは姿を見せなくなった。
そして再び会ったとき、あいつの様子がおかしかった。
さくらは、学校のなかで起きることなら、だいたいは把握できているはずだ。
瀬尾が学校の中でいなくなったとしたら、それをさくらが知っていたとしたら、
その結果、さくらの様子がおかしくなったとは考えられないだろうか。
そして俺は、瀬尾がいなくなってから、さくらに瀬尾のことを聞いていない。
「……」
もちろん、また空振りかもしれない。でも、確認する価値はあるような気がする。
けれど、もしそうだとしたら、俺は……。
「せんぱい」
「……ん」
「なにか、隠してるでしょ」
「……そりゃあね。人には隠し事っていうのがあるものだ」
「せんぱいは、隠し事だらけだけどね」
「どうしてそう思う?」
「そう思われてないと思うほうが、わたしには不思議」
「せんぱい、あのね。ずっと考えてたんだけど……」
「ん」
「せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?」
「……」
なに?
「なにって、どういう意味?」
「べつに、そのままの意味。友達なのか、それとも、べつのなにかなのか」
「べつのなにかってなんだよ」
「わからないけど……」
「俺は、自分にとって誰かが何かなんて、考えたことないよ。真中のことだって、何って言われたら言葉に詰まるし」
「そうかもしれないけど……」
話の途中で、俺の携帯が鳴った。
「電話?」
「ああ。ごめん」
「ん。どうぞ」
断ってから携帯を取り出して画面を見ると、ちどりの名前が表示されていた。
俺は少し考えてから、結局すぐに電話に出る。
「もしもし、隼ちゃんですか?」
「俺の番号なんだから、そりゃ俺が出るだろう」
「そうですよね。今平気ですか?」
「……まあ、一応」
「あ。そうですか。あの、このあとって空いてますか? 今晩なんですけど」
「は? ……まあ、べつに平気と言えば平気だけど、何の用事かによる」
「晩御飯。うちで食べましょう」
「なんで?」
「えっと、お父さんとお母さんが……あ、隼ちゃんの家にはもう電話してて、あと隼ちゃんだけなんですけど」
「ごめん、おまえが何言ってるのかわかんない」
「あ、そうですよね。えっと、怜ちゃんが」
「れい?」
「はい。帰ってきてて、それで、みんなで……」
れい。怜。
「それで、隼ちゃんも……」
俺はとっさに電話を切った。
驚いたみたいな顔で、真中が俺を見上げる。
それ以上に俺の方が驚いていた。
「切っちゃった」
「……どうしたの?」
「……ううん」
べつに、切る理由なんてなかったはずなのに、とっさに切ってしまった。
どうしてだろう。
「……今日はもう帰った方がいいかもね」と真中が言った。
帰りたい、でもなく、帰った方がいい、と。
「どうして?」
「気付いてないの?」
「……なにが?」
「せんぱい、顔、真っ青だよ」
……真っ青。
たしかに、さっきから、『音』がいつもよりひどい。頭まで、痛くなってきたような気がする。
「……ん。かもしれない」
「うん。今日は土曜日だし、帰って休むといいと思う」
「そうだな。今日は少し……疲れたな」
「うん。……気をつけて帰って。なにかあったら、連絡ちょうだい」
「そうするよ」
なにかって、なんだろう? そう思ったけど、詳しくは話さなかった。
◇
それで、真中とは駅ビルの入り口で別れてしまった。
ひとり取り残されて、俺はどうしようかと迷っている。
バイトはない。用事はもちろん、どこにもない。ちせも帰ってしまった。
今日は土曜日。明日は日曜でバイトがある。
ちどりからの連絡のことを思い出す。
突然切ってしまったが、掛け直してはこないみたいだった。
雨は徐々に強くなっていく。俺は建物の軒先で広場を打つ雨のしずくを眺めている。
空からそそぎ地面を濡らす幾つもの線を眺めている。
切り取られた絵画のように、何気ないスナップのように、景色が他人事めいて綺麗だ。
――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。
――巻き込んで、ごめん。
――ちどりを助けて。
――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。
……怜。
どうして、このタイミングで、怜が帰ってくるんだ?
まるで、なにもかもが仕組まれた舞台みたいだ。
すべてが繋がり合おうとしているみたいにさえ思える。
あの日の、あの場所に、俺は閉じ込められたままなんだと、教えようとしているみたいに。
『暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある』
――音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない。
◇
泉澤 怜について説明することは難しい。
外的な状況を並べ立てることは簡単だ。
たとえば、俺とあいつは小学校の同級生で、ちどりと俺と怜は、いつだって一緒に遊んでいた。
幼馴染と呼んでも、たぶん問題ない関係だろうと思う。
あいつは中学に上がると同時に転校してしまって、一応連絡先は知っているけれど、卒業以来顔を合わせたことはほとんどない。
俺は怜のことを親友だと思っているし、怜もたぶん俺のことをそう思ってくれていると思う。
怜は頭が切れて、物知りで、柔和で、鈍いのに鋭い、自信家で、でも弱くて、強がりで、バカで、そのどれもがどうしてかスマートだった。
言うなれば、あいつは探偵で、俺はその助手だった。
小学校の頃、学校はあいつのためにしつらえられたひとつの舞台装置のようだった。
あらゆる謎、あらゆる悩み、あらゆる失せ物、あらゆる困難が、怜のもとを訪れた。
そして、怜はそのひとつひとつを払いのけるように解決してみせた。
謎のあるもの、ないもの。
それはたとえば花壇の花がなぜか枯れてしまう理由であったり、
あるいは動物小屋から抜け出したうさぎの行方であったり、
あるいは女の子が失くした筆箱のありかであったり、
あるいは図書館から本を盗む生徒に隠された事情であったり、
あるいは新任教師に降り掛かった人間関係の悩みであったり。
怜は人助けを好んだ。
誰かのためになること、誰かの助けになること、誰かを楽しませること、誰かをもてなすことを好んだ。
「たぶん、ぼくはそういうのが好きなんだ」と怜は言っていた。
「誰かのためになること、そうすることで満たされるんだ」
その感覚は俺もわからないでもなかった。わからないでもないはずだった。
だからこそ、俺は怜と一緒にいることを苦にしなかったのだと思う。
あの日、怜があの場所に行こうとしたときだって、俺はべつに止めなかった。
六年前の五月、俺たちは、俺たちは、神さまの庭に迷い込んだ。
あれが白昼夢でないのなら、たぶん。
そして、そのときからずっと、俺の視界は、二重になった。
はっきりと見えるときもあれば、忘れられるくらいにおぼろげなときもある。
葉擦れの音も、またそうだ。
うるさいくらいに響くときもあれば、冗談みたいに静かなときもある。
けれど、止まない。消えない。
あの日からずっと。
……“神隠し”。
誰がそう言ったんだっけ。
一応、純佳にだけ連絡をしておこうと思い、携帯を開く。
見ると、すでに何件かメッセージが届いていた。
「今日はちどりちゃんの家で夕飯をいただきます。私達はもう向かっているので、兄は直接来てください」
……ずいぶん早く集まるらしい。怜が来るとなれば、当然といえば当然だろう。
あいつとも、一応家族ぐるみの付き合いだった。
「少し遅くなる」と連絡をする。とはいえ、まあ、夕飯時までには間に合うはずだ。
遅くなる、とは言ったものの、どこにいくという宛てがあるわけでもない。
とりあえず近くの商業ビルに入っていろいろと眺めてみるが、何か見つかるわけでもなかった。
本屋に入って手慰みにカポーティの「夜の樹」を手にとってみたけれど、頭には入ってこない。
俺は、その事実に、ひどく混乱した。
予兆はあった。葉擦れの音が大きくなって、二重の風景がぶれ始めることが多くなった。
それが今日、臨界点を超えた。
――またこれだ。
他の本ならどうだろうか?
「嘔吐」は? 「人間の土地」。「星の王子さま」。「曙光」。ダメか。「自由からの逃走」。駄目だ。
「羊をめぐる冒険」ならどうか? 「コインロッカーベイビーズ」は?
じゃあ「オラクル・ナイト」はどうだ? 「芝生の復讐」は?
「人間椅子」なら? 「砂の女」は?
駄目だ。
「容疑者Xの献身」。「ラッシュ・ライフ」。「レベル7」。「キッチン」。
駄目だ。
小説や思想書だけじゃない。戯曲もノンフィクションも、写真に添えられただけの詩も、芸能人の暴露本も、よくあるビジネス書でも同じことだ。
絵本や児童書でさえそうだ。一冊の本を読み切れる気がまったくしない。
なにひとつ、頭に入ってこない。
どのような文章も、どのような一節も入ってこない。頭の中で像を結んでくれない。
どれだけ丁寧に意味を拾い上げようとしても、頭の中に残ってくれない。
接続詞を挟んだ瞬間に、その前の語句を忘れてしまう。綺麗に頭の中から消え失せてしまうみたいに。
おそろしいほど、集中できない。……こんなことが、よくある。
原因は、わかっているといえばわかっているし、わかっていないといえばわかっていない。
葉擦れの音のせいだと、思うことにしている。
今日は、キツい日だ。
いままでで一番かもしれない。
「虞美人草」も「パンドラの匣」も駄目だ。
勘弁してくれよ、と俺は泣きたい気持ちになる。こんなことがあるたびに冷静でいられなくなる。
どうしていつもこうなんだ?
どうして俺はひとつの文章を読むことも満足にこなせないんだ?
何かを楽しむことがどうして出来ない?
どうしてこんなふうにすぐに何もかも駄目になってしまうんだ?
偽物なのも、なにもないのも、俺の方だ。
本棚から一冊抜き出して、開き、すぐに戻す。別の棚に向かい、また同じことをする。
何度も何度も同じことを繰り返す。
どれだけやったところで駄目だった。
もう、俺はどんな文字も受け入れることができない。
ひょっとしたらこの先ずっとこうかもしれない。もう二度と本を読むことができないかもしれない。
そんな不安が頭の中を支配する。一度その不安に気付くと、今度はそれがあたかも事実であるかのように感じる。
“俺はもう二度と文章を読むことができない。”
頭を振って、いま、目の前で起きていることを認識し直す。
冷静になれ、俺は本屋に立っている。本棚の前に立っている。それだけだ。それ以外、なにも起きちゃいない。
いったいどうしてこんなざまになったんだ?
動悸がいつになく烈しい。
呼吸が浅くなっている。自覚はある。
でも……でも、どうにもできない!
“どうしてこんなありさまになるんだ?”
本を置き、視界をととのえるためにまばたきをする。
目にうつる本棚に立ち並ぶ背表紙の文字列は、すでに意味を失っていた。
それは何かの影のように平面上を這いうねっているだけのように見える。
急に体の力が入らなくなるのを感じる。
かろうじて立っていることだけはできる。立っていることだけは。
けれど、歩き出すためには、もう少しだけ力が必要になる。
折れるな、と俺は思った。“折れてはいけない”。立ち上がれなくなる。それはまずい。
呼吸をゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を。そして、何も考えるな。
いいか、崩れ落ちちゃいけない。今崩れ落ちたところで、“誰も助けてなんてくれない”。
そう考えた瞬間、ひときわ強い風が“向こう”で吹き抜けて、木々の梢を揺らしたのが分かる。
いけない。持っていかれては、いけない。
保て。
維持しろ。
甘えるな。
誰もおまえを“助けてなんてくれない”んだ。
ゆっくりでいい。
取り戻せ。
落ち着け。
大丈夫だ。
なあに、たいしたことじゃない――こんなことは、今までにだってあった。
しっかりとした感覚を取り戻すまでに、十分ほどそこで立ち尽くしていなければならなかった。
さっきまでの眩暈のような感覚は、ようやく落ちついてくる。
けれど、ふたたび本を読めるかどうか試そうという気分にはなれなかった。
“誰も助けてなんてくれない”という言葉が頭の中でまだぐるぐると響いている気がする。
だから俺は立っていなければいけない。ひとりで。
本屋を出て、溜め息をつく。どうにか難所は切り抜けた。
しばらくは、本を読もうなんてしないほうがいいだろう。
なるべく、気分をゆっくり休めなきゃいけない。一度こうなったら、しばらく映画も漫画も何もかも無理だ。
からだが受け付けない。
胸焼けのような気分の悪さが喉の奥の方でつっかえている。
歩くとひどくなりそうで、店を出て少ししたところで立ち止まり、壁にもたれて休んだ。
大丈夫、さっきまでよりだいぶマシになっている。たぶん、無事に帰ることができる。
不意にポケットの中で携帯が鳴動した。
救いを求めるような気持ちで画面を見ると、ただのニュースアプリの通知だった。
――吐き気がひどくなる。
誰もいない。なにもない。
ポケットにしまい直したところで、ふたたび振動があった。
画面をつけるが、何の通知もない。念の為メッセージアプリを確認するが、やはりなにもない。
ファントムバイブレーションシンドローム。
うんざりする。
誰もいない。なにもない。もう一度言い聞かせる。
そこで、もう一度携帯が震えた。
ただのメールマガジンだ。
俺は瞼をぎゅっと瞑った。
理解している。
いいか、“誰も助けてなんてくれない”んだ。
ふたたび瞼を開けると、画面にメッセージの通知が来ている。
「薄情者」
と一言。
「……」
落ち着け。
縋り付いてはいけない。
浮足立ってもいけない。
とりあえず、内容を確認する。
ましろ先輩からだ。
「なんだか妹がひどく落ち込んだ様子で帰ってきたのですが」
「何をしたのですか」
「薄情者」
……妹。
ああ、そうか。ちせだ。
「落ち込んでいましたか」
少しだけ考えて、俺はとぼけることにした。
「きみが何かしたの?」
「いいえ。心当たりはないです」
「そうですか。後輩くんも女を泣かせるようになりましたか」
「人聞きが悪い」
少し待ったが、そこで返信が途絶えた。俺は携帯をポケットに入れ直し、深呼吸をする。
さっきまでと比べてどうか? ……いくらかはマシだ。
さて、と俺は思う。
……いつもどおりに振る舞わなければ。
◇
鴻ノ巣家は俺の家の真ん前にある。
郊外住宅地の狭くて見通しの悪い路地を挟んで、ちどりの家は俺の家に背中を向けている。
昔はずっと仲が良くて、今もこんなに近くに住んでいる。
それなのに、中学を卒業して別々の高校に通うようになってから、俺はちどりとほとんど会わなくなった。
たまに『トレーン』にでも出向かない限り、皆無と言ってもいいだろう。
彼女ができた俺に気を使って、ちどりが一緒に通学したりするのを避けようと言い出したのが一番の理由だ。
それだってもはや、バカバカしいという気持ちもないではない。
鴻ノ巣家の門の前に立つと、賑やかな笑い声が響いてきた。
辺りはまだ雨が降っていて、俺は自分がマッチ売りの少女にでもなったような気分だった。
自己憐憫はよくない。
少しだけ迷ってから、インターフォンを押した。以前ならそんなことはしなかったけれど、今は今だ。
「はーい」
中からすぐに声が返ってくる。なぜだかドキドキする。
こんなこと、昔はなかったけど、頻繁に会わないことに慣れすぎたかもしれない。
でも、その声がちどりだと、やっぱりすぐに分かった。
「あ、隼ちゃん」
ちどりは相変わらずのほわほわした顔で、ドアを開け放した姿勢のまま俺に笑いかけた。
(その表情が、いま、ほんの少し、他の誰かのものとダブる)
高校の制服のうえに、水色のエプロンをつけて、髪をサイドにまとめている。
くるりとした毛先を乗せた鎖骨がほんの少しだけ目に毒だ。
「やあ」
俺が棒読みで挨拶すると、彼女はちょっと不満そうに眉を寄せた。
「どうして急に電話切ったんですか?」
「いや、謎の衝動に襲われて……」
「……それは大変でしたね?」
よくわからないことでも、深く追及しないまま適当に返事をできるのが、ちどりの美徳と言えば美徳だろう。
「怜、来てるの?」
「来てますよ。みんな揃うの、久々ですね」
「そうだね」
俺はやっぱり、自分で分かるくらいの棒読みだった。
招かれるままに玄関に入ると、靴がこれでもかというほどたくさん並んでいた。
うちの家族ももう来ているらしい。
「急に呼び出してすみません」
「いいよ。どうせうちの親父あたりが無理やり呼ばせたんだろ」
「ううん。怜ちゃんが会いたがったんです」
「怜が? 俺に?」
まあ、べつに意外でもないか。久し振りだし、友達は友達だ。
ちどりはスリッパで文字通りスリップしながらダイニングの扉を開けた。
その仕草に懐かしさのような感慨を覚える。
俺が顔を覗かせると、「遅い!」と怒鳴り声が聞こえた。
大きめのダイニングテーブルを囲んで、大の大人四人と子供二人がオードブルに舌鼓を打っていた。
大人たちはもう酒が入っているらしい。まだ六時も回っていないのに気が早いことだ。
「怜が久々に帰ってきたっていうのにどこほっつき歩いてたんだ! それでもおまえ俺の息子か! おまえそれでも人間か?」
酔っぱらった顔で怒号を飛ばした親父を見て、俺はげんなりした。
怜、と呼び捨て。ほとんど自分の子供みたいな言い方だ。
自分の息子ともほとんど顔を合わせていないというのに、たいした親だ。
「我が子になんて言い草だよ」
適当に受け流しながら、俺はダイニングテーブルの隅の方にスペースを見つけて座った。
ちどりはすぐにコップと飲み物を用意してくれた。
俺とちどりは、家が近く、それぞれの両親の親交が深かった関係で、ほとんどきょうだいみたいな育てられ方をしていた。
怜は中学に上がるまで近くに住んでいて、家が近かった関係で仲良くなった。
そこに純佳が加わって、四人でよく遊んだものだ。
親が今みたいに多忙になる前には、バーベキューもしたし、サッカー観戦にも行った。
水族館にも行ったし、動物園にも行った。
夏休みの自由研究は共同でやったりみんなで協力したりしたものだ。
俺がそうしていたように、怜もまたちどりに五百円硬貨を握らせて読書感想文を書かせていた。
バレるのはいつも俺で、怜は上手くかわしていたっけ。
ちどりの両親と俺の両親は、酒が入ってもうだいぶ気持ちよくなっているらしい。
料理や飲み物はちどりがひとりで回していた。
昔からかわらず損な立ち位置だとは思うが、手伝おうとも思わない。
好きでやっているから気にしないでと遠慮されるのがオチだ。
怜は純佳の隣に座っていた。
久し振りにみても、やっぱりほとんど変わらない。前と同じ、綺麗な、不思議な表情。
この表情が、怜の魅力なんだろうと思う。
底知れない、意味深な、けれどなぜか親密さを感じさせるような、笑み。
怜は、こっちを見上げて、俺に笑いかけてきた。
「久しぶりだね、隼」
「ああ。……おかえり、怜」
「うん。ただいま、だ」
怜の声は、ざわめきのなかで役者みたいにすっと俺の耳に届く。
よく馴染む、前と変わらない、人を安心させる声だ。
純佳は、どうしてだろう、ほんの少し居心地悪そうに、オレンジジュースを飲みながら、俺と一瞬だけ目を合わせて、黙った。
親父たちは俺の存在なんか忘れたみたいに酒を飲むのを再開した。
「隼ちゃん、すぐにごはん用意しますね」と、ちどりだけが俺のことを気遣ってくれる。
「どうしたんだ。ずいぶん急だったよな?」
「うん。まあ、ちょっといろいろあってね」
「いろいろって?」
「それはまあ、あとで話すけど……」
怜は、前と同じように――ああ、俺が羨ましかった表情だ――少し意味深に唇を歪めた。
「少し、気になることがあったんだ」
「気になること?」
「うん。隼にも知恵を貸してもらいたいんだ」
「……知恵?」
怜が、俺の知恵?
皮肉か、とか思ってしまうあたり、やっぱり俺はだいぶひねくれてしまったんだろう。
こいつが俺の知恵なんて必要とするとは思えない。
「隼ちゃん、けっこうお腹空いてますか?」
「まあ、割と」
「いまあるので足ります? いろいろ買ってきてあるんですけど」
「あ、うん。……あ、自分でやるよ」
「いいです。隼ちゃんはお客さんなんですから」
とりあえず俺は怜の隣に腰掛けた。親父たちは騒いでいたけれど、たぶん無視しても問題ない。
「彼女ができたんだって?」
「あれ、言ってなかったっけ。……中学のときだけど」
「聞く機会がなかったじゃないか。上手くいってるの?」
「いや。いまいち」
「ふうん」
「怜は、そういうのないの?」
「ぼく? うん。そうだな。ぜんぜん」
ぜんぜん、と怜はへらへら笑った。
「猫は元気?」
「猫?」
「ほら、ちどりと拾ってきた猫。飼ってただろう」
「死んだよ」
「そっか。……学校はどう? 文芸部だって?」
「おまえは俺の親戚かなにかか」
「そう冷たいこと言わないでよ。ひさびさに会って、何話したらいいかわからないんだ」
怜は首を軽く揺すって、短い髪をさらりと揺らした。そんな仕草さえ絵になる。
はい、とちどりが俺の前に食器を運んでくる。
「ありがとう」
「いえいえ。たんと召し上がってください」
……どういう返事をすればいいんだ?
「ちどりも座れば」
「あ、はい」
と言って、エプロンを外すと、俺の隣に腰掛けた。
「みんな揃うの、ひさしぶりですね」
「だな。ちどり、何飲む?」
「あ、いいです。自分でやります」
「そう言うな」
「あ……じゃあ、オレンジジュースを」
「はい」
グラスに注いでジュースを渡すと、ちどりは両手で受け取って、「ありがとう」と笑った。
変なやつだ。文句のひとつくらい言ってもバチはあたらない立場なのに、平然としている。
こういうところで、ちどりと怜は似ている。損を損と思わないところが。
「兄、今日はどこに行ってたんですか」
怜を間に挟んで、純佳がそう声をかけてくる。
「駅の方」
「駅? どうして?」
「ちょっと約束があって」
「……柚子先輩?」
「……」
沈黙が答えになってしまった。
「少しな」
「柚子先輩って?」
怜が口を挟んだ。
「兄の彼女です」
「なんだ、いまいちとか言って、ちゃんとしてるんじゃないか」
「ちゃんとってなんだよ。べつに、本当に用事があっただけだ」
「ふうん」と、ちどりが息をついたのが少し意外で、三人が揃ってそちらを見た。
ちどりは面食らったような顔をして、「なんですか?」と言う。
「べつに」と、今度は俺がごまかす番だった。
◇
馬鹿騒ぎのあと、うちの家族がいよいよ帰るという段になった。
純佳は途中で眠ってしまったけれど、起こされればちゃんと起きて、帰り支度をはじめた。
少し怜と話してから帰る、というと、三人は俺を残して先に帰ってくれた。
ちどりの父親は眠くなったのか、さんざん楽しんで満足したのか、おぼつかない足取りでダイニングを出て行った。
自室に戻って眠るのだろう。
ちどりとちどりの母親が片付けを始めたのを見て、俺と怜はそろってそれを手伝った。
誰が散らかすわけでもないけれど、大勢でひとつのテーブルを囲むと、どうしても汚れてしまうものだ。
誰かがそれを片付けなきゃいけない。当然だ。
「ごめんなさい、ふたりとも、手伝ってもらって」
ちどりの母親は恐縮そうにしたけれど、むしろ恐縮がるのは俺の方だった。
「いや、人様の家を散らかして片付けもせずに帰ったうちの家族の方こそ、すみません」
「それはいいの。うちだって楽しいんだから」
「はあ」
そういうもんなのか。そういうもんなのかもしれない。
結局、俺ひとりで他人行儀になったって仕方のない問題だ。
片付けを終えると、ちどりが俺と怜に麦茶を出してくれた。
オードブルの食べすぎて胸焼けしていたけれど、よく冷えた飲み物をすんなりと俺の喉を通り過ぎていく。
俺たちはさっきまで賑やかだったテーブルを挟んで、ちどりが洗い物をする音を聞きながら話をはじめた。
「……隼、背が伸びたね」
麦茶のグラスに入れられた氷がからんと鳴った。
来る前の妙な緊張なんてはじめからなかったみたいに、俺は落ち着いて怜と向かい合っていられる。
こういう相手だからずっと一緒にいられたんだろう。
「怜だってそうだろう」
俺は肩をすくめた。こんな会話、よく知った同士でするのはどうも面映い。
「まあね。といっても、もう止まっちゃったみたいだけど。でも、隼が文芸部っていうのは意外だな」
「そうかな。……そうかもしれないな」
「うん。いや、どうだろう。意外なところが、隼らしいかもしれない」
「褒めてる?」
「ぼくは隼のこと、いつも褒めてるつもりだけど」
「怜に言われると、あんまりそういう気がしないんだよな」
「それはぼくに対して失礼だね」
テーブルに両肘をつけたままの姿勢で、怜は静かにコップを持ち上げて、ほんの少しだけ麦茶を口に含んだ。
その喉が鳴るのを眺めながら、俺は溜め息をついた。相変わらず、遠回しな喋り方をする奴だ。
「それで?」
と訊ねると、怜は首を傾げた。
「というと?」
「あのな。さっき自分で、知恵を貸してほしいって言ってただろ」
「ああ、その話」
すっかり忘れていた、というように、怜は肘を机から離して姿勢を正す。
「うん。ちょっぴり厄介な問題かもしれないんだ。説明が難しくてね、だから、うん。曖昧な話になるかもしれないけど……」
怜が言いにくそうに口を歪めるのを、俺は意外な気分で見ていた。
でも、考えてみれば、こいつが俺に相談ごとを持ち込むときは、だいたいこんな具合だったような気がする。
怜の場合は、問題の解決に他人の知恵を借りる、ということがほとんどない。
自分で判断し、自分で実行する。他人の手を借りるにしても、そのことを躊躇したりはしない。
だから、こいつが相談を持ちかけてくるときは、大抵、問題の解決の方法がわからないというよりは、何が問題なのかが自分で分からないときだ。
以前にもたしか、似たような相談をされたことがあった。
そのときは確か、誰かに告白されたけど、どうしたらいいかわからない、という話だった。
その告白をどう処理すればいいのか、ではない。
その告白がいったい何を意味していて、それがどうして自分の身に起きたのかがわからない、というような。
こいつは前提が不足しているときにばかり悩むのだ。
「ずいぶん持って回った言い方をするな」
そういうときにいつもしてきたような言い方で、俺は怜に続きを促す。
「単刀直入に頼む」
ああ、うん、と、怜は頷いて、それからちらりと流しで洗い物をしていたちどりの方を見た。
俺は立ち上がる。
「ちどり、悪いけど、少し散歩してくる」
「あ、もう帰りますか?」
「ああ、うん。どうしようかな」
「すぐ戻るよ」
そう答えたのは怜だった。
怜がそういうのなら、すぐ済むのだろう。俺は言葉を付け加えた。
「ついでにアイスでも買ってくるよ。何がいい?」
「あ、えっと、じゃあ、隼ちゃんに任せます」
「了解」
軽く頷いてから、俺と怜は玄関に向かった。
外に出ると、空には星が頼りない光で浮かんでいた。
昼間はうっとうしいくらいに主張していた熱気はもう掻き消えていて、今はひんやりとした冷気が火照った肌に心地いいくらいだ。
藍色の空を見上げながら、ぼんやりと物思いにふけりたくなるけれど、今は残念ながらそういうタイミングではなさそうだ。
「少し涼しすぎるね」
「昼間の雨で気温が低かったからな。油断してると風邪でも引きかねない」
「そうだね。でも、アイスを買ってこなきゃ」
「まあ、そうだな」
そのまま俺たちは目も合わせずに歩きはじめた。
コンビニまでは五分とかからない。住宅地を抜けて道路を渡ったらすぐだ。
いまさらもう、怜を促したりはしない。
今はきっと、自分の言葉を頭のなかでまとめているんだろう。
どう説明したらいいか、何から話せばいいのか。
俺の知っている怜はそういう人間だ。
半端な状態では、あまり言葉を吐かない。それがまるで恥ずかしいことみたいに。
交差点の横断歩道の前で信号待ちをする。
向かう先にコンビニ、少し離れてガソリンスタンド、通りの反対側には飲み屋と、少し先には焼肉屋がある。
でも、人通りなんてかすかで、行き交う車もほとんどない。並ぶ店のおかげで明るいけれど、それにしては静かなものだ。
道路越しにコンビニを見ると、軒先のあたりで何人かの若者がたむろしている。
知り合いはいないようだ。このあたりの人ではないのかもしれない。
「隼、少し突拍子もない話なんだけど、聞いてくれるかな」
やっとか、と思いながら、俺は返事をした。
「聞くには聞くよ。うまく期待に沿えるとは思えないけどな」
「うん。助かる」
ほんのすこしだけ、怜が安堵したように肩の力を抜いた。
いくらか緊張したらしい。まさかここまで来て、俺が話を聞かないと思っていたわけではないだろうが。
一度深呼吸してから、怜はまっすぐに歩行者信号を見つめながら口を開いた。
俺は横目で怜の方を見ていたけれど、目を合わせることをおそれるみたいにこっちを見てくれない。
「どこから話せばいいか、わからないんだ。でも、とにかくひとつひとつ話そうと思う。信じてもらえるか、わからないんだけど」
「前置きが長いな。おまえの話なら、俺は疑わないよ」
怜は照れくさそうに笑った。
「たぶん、隼は疑うよ。でも、それでいいんだ。ぼくだって本当は疑ってる」
こいつは未だに、自分のことを「ぼく」と呼ぶんだな、と、そんな場違いなことをいまさら考えながら、俺は続く言葉を待った。
不意に怜は顔をあげ、こちらを見た。
「ねえ、隼。……瀬尾青葉さんという人を、知ってる?」
俺は思わず反応できなかった。
どうして怜の口から、彼女の名前が出たのか、それがわからない。
でも、その説明は、いまからされるんだろう。
話をすすめるために、俺はひとまず疑問を飲み込んで頷いた。
「知ってる」
怜は何かをたしかめるみたいに頷いた。
「うん。そうだよね。そうじゃなかったら、筋が通らない。じゃあ、もうひとつ質問。その瀬尾青葉さんって、今はどうしてる?」
俺は少し考えてから、口を開いた。
「……そこまで言われると、さすがに質問の意図が気になるな。怜、どうして瀬尾を知ってる?」
そうだね、と静かに頷くと、怜は視線を前方に戻して、何かに気付いたように声をあげる。
思わず視線の先を追いかけると、歩行者信号の青が点滅している。どうやら気付かないうちに青に変わっていたらしい。
俺たちは顔を見合わせて、その場にとどまった。
「それで?」
「……うん。ちょっとした事情でね。瀬尾青葉さんの持ち物を、ある場所で拾った」
「持ち物?」
「うん。学生証なんだけどね」
「……そうか。どこでだ?」
「……」
「どうして嘘をつく?」
「嘘って?」
「学生証を拾ったなんてことは、ありえない。瀬尾は、荷物ひとつ持たずにいなくなった。鞄も財布も、靴さえも履き替えずに」
「……」
「身一つでいなくなった奴が、学生証なんて持ってるわけないんだ。……なあ、怜。どこで瀬尾のことを知った?」
俺は、静かに答えを待つ。怜の返事は、なかなか返ってこない。
「信号、青だ」
そう声を掛けてから、俺は怜の背中を押す。
コンビニの入り口を抜けるとき、軒先の若者たちがぼんやりとした視線を少しだけ俺たちに投げつけてきた。
べつにおかしなところなんてないはずだが、まあ、単に視線が何か対象を求めていただけだろう。
俺だって何気なく彼らを見ていた。
俺たちはいくらか余分にアイスを買った。
レジからの帰り際、俺は頭をさげ、怜は「ありがとうございました」とにこやかに言った。
店員も怜ににこやかに頭をさげた。こういうところだ。
ビニール袋を提げて、また信号待ちするハメになった。今度は軒先の彼らとは目が合わなかった。
怜は、少し思い悩むような素振りを見せたあとに、スキニージーンズのポケットに手を突っ込んで、
『それ』を取り出して、俺に差し出した。
「……」
受け取って、俺はめまいがした。
それは、瀬尾青葉の学生証だった。
学校名、氏名、クラス、学籍ナンバー、生年月日。全部、瀬尾のものだ。
……顔写真が、
顔写真の部分だけが、刃物かなにかで刻んだみたいに傷つけられていて、確認できない。
「拾ったんだ」
「どこでだ」と俺は繰り返した。
「……落ち着いて聞いてくれるかな。ここからは、たぶん、少し混乱すると思うから」
赤信号。赤信号が変わらない。
「……たぶん、隼は怒るだろうな」
「らしくない。……言えよ。怒ってやるから」
怜は笑った。諦めたみたいな笑い方だった。
「“むこう”で拾った」
「……」
「“森”だ」
「……」
一瞬、言葉を失っただけで、済むかと思った。
次に、俺は頭が真っ白になり、
葉擦れの森に風が吹き抜けた。
「――おまえ、行ったのか」
怜は返事をしなかった。
「あそこに行ったのか。怜」
「ごめん、隼。聞いてくれ」
「絶対に近付かないって約束しただろう」
「違う、隼」
「怜、おまえ、忘れたわけじゃないだろうな」
「分かってる。聞いてくれ」
「分かってるのか、怜、全部……」
全部おまえのせいなんだぞ、と、そう言いかけた自分にハッとして、
(――ちどりを助けて)
さすがに、続く言葉は吐かなかった。
「分かってる。ごめん、落ち着いて話そう」
……そういえば、雨はいつのまに止んだんだっけ?
そんなことを不意に思い出して、俺は冷静になれた。
「……どうして近付いたんだ?」
「違うんだ。隼、ぼくはあそこに近付いていない。第一、ぼくは別の街にいたんだ。分かってるだろう?」
「……」
「違ったんだ。隼なら、気付いていただろう? 入り口は、あそこだけじゃなかったんだ」
「……」
「入り口はある。どこにでもある。無数にある。どこにでもあるんだ」
そうだ。
俺だってわかっている。
暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある。
「……六年前のあの日から、ぼくはあの建物には近付いていない。
でも、ある日、何かの拍子で、本当に、何かの拍子でとしか言いようがない。あの場所にいた」
「……“神さまの庭”にか」
「隼は、そう呼んでるんだな」
「……」
「入り口はどこにでもあるんだ。隼に怒られる覚悟はしてた。でも、ぼくは、それを見つけてから、あそこに通ってた」
「よく、帰ってこれたな」
「うん。怖い思いはしたから気をつけてたんだ。本当に危ないところには、近付かないようにしてた。案内人もいたしね」
「どうして教えてくれなかった?」
「怒っただろう」
「当たり前だ。でも、おまえがあそこを調べたがることくらい俺にだって分かる。言っておいてくれたら、対策だって打てた」
「ぼくがいなくなってしまえば、隼には必ず連絡がいく。ちどりや隼が、ぼくの行く宛の筆頭だからね。
もしそうなれば、隼ならすぐにあっちを連想しただろう。ちどりは、わからないけど」
「……」
「信号、青だ。……アイスが溶けちゃうね。行かないと」
「……それで?」
「……うん。このあいだ、向こうで、それを拾ったんだ」
「あっちで、か」
「そう」
あっち。
あそこになら、そうだな。ありえる。
あるはずのない学生証が落ちていることも、それが刃物で傷つけられていることも、
あそこなら、すべてがありうる。
なにもない。でも、すべてがある。
あそこはそういう場所だった。
「戻ろう、隼。話の続きは、アイスでも食べながらゆっくりしよう」
釈然としない思いのまま、俺は怜の言う通りに歩き始める。
ちどりを心配させるのは、よくない。
今の俺には、そのくらいしかない。
◇
「夢じゃないかと思ってたんだ」と、帰り際、俺は怜に向けてそう言った。
「なにが?」
「あのときのこと」
「……」
「本当は、今でも疑ってる」
「……そうだったんだ」
含みのある微笑みを浮かべて、怜はそれ以上言葉を続けなかった。
何もかもが現実感がなくて、そのせいで俺は、覚えているべきなのか、忘れるべきなのかも分からなかった。
こうして久しぶりに怜と話したことで、それが事実だったんだと理解できる。
そうじゃなかったら、やっぱり夢だったんだと思っていただろう。
ちどりは、あのときのことを何も覚えていなかったから。
◇
六年前の五月だった。
当時は、俺も怜もちどりもランドセルを背負った小学生だった。
そして、その当時、怜は名探偵だった。
知識と頭の回転を武器に、快刀乱麻に日常の謎に光を当てる、陽の下の存在だった。
困っている人を捨て置けない正義感と、世界があたたかくやさしさに満ちているべきだという理想を持った善人だった。
そして、子供らしさのひとつのあらわれとして、自分の優秀さに対する自負心も持ち合わせていた。
もっともそれは、怜の魅力のひとつにすぎなかったように思う。
そのほんの少しの思い上がりは、他の面で大人びていた怜を子供っぽく見せて、むしろ親しみすら湧いたくらいだ。
第一、自負といっても、他人を見下すような態度をとっていたわけでもないのだから。
世知に長けているわけではなかったにせよ、怜の自負にはかわいげがあった。
それを帳消しにするくらいの愛想と愛嬌があった。
だから、怜はめったに人に嫌われなかった。
けれど人間というのは複雑な生き物だ。
嫌われないような人間だからこそ嫌われるということがある。
五月に起きたのはそういうことだ。
◇
「ねえ、隼。丘の上に公園があるだろう」
六年前の五月のある日の放課後、俺は怜にそう話しかけられた。
「あそこに、涸れた噴水があるって聞いたことある?」
「噴水?」
「なんでも、木立の奥に隠れてるんだって聞いたんだけど」
「いや……知らない」
ふむ、と怜はわざとらしく唸ってみせた。
「それがどうしたんだ」
「……シマノがね。そこで落とし物をしたっていうんだ」
「……落とし物?」
「そう。代わりに探してきてほしいって頼まれた」
「……シマノだろ。放っておけよ」
シマノというのは、当時、俺や怜につっかかってくることが多い男子だった。
特に、何かと注目を集めてみんなに人気だった怜のことは、嫌っていたみたいだった。
たぶん、僻んでいたんだろう。
「でも、頼まれた」
そういうときの融通の効かなさは、ある意味では美徳でもあったんだろう。
それでも俺は呆れた。
「なんでシマノは自分で取りにいかないんだ?」
「それがまた、変な話でね」
と、怜は言った。
そうだ。今にして思えば、警告はそのとき既になされていた。
変な噂があるらしいんだ、と怜は続けた。
ちょっとした怪談みたいなものがね。
まあ、漠然としてるんだけど……。
黄昏時の公園に、
人の気配が消えたあと、
涸れた噴水に水が湧き、
水面に木立の梢が浮かぶと、
水面の月が静かに揺らぎ、
ひときわ強い風が吹き抜け、
鏡を覗く誰かをさらう。
そんな漠然とした噂だった。
「……どうも、怖いらしくてね」
「……怖い? シマノが?」
そういう奴じゃない。仮に怖がったとしても、怜に対して、怖いなんて素直にいう奴じゃない。
俺にはもう、そのときちゃんとわかっていた。
シマノは、わざと怜をそこに近付けようとしていた。
からかうつもりで、怜を試すつもりで。
怜にだって、そのくらいのことはちゃんとわかっているはずだった。
「悪いんだけど、隼、付き合ってもらえないか?」
「……行くのか」
「うん、まあ、頼まれたから。でも、ほら……」
「……」
「ひとりだと、ちょっと怖くてね」
素直に言えるのも、怜のいいところといえばいいところではあった。
けれど、俺は一緒にはいかなかった。
俺が帰らなければ、純佳がひとりで家にいることになる。
まずいことが起きるわけではないが、それはなんとなく避けたいことだった。
「悪いけど、行けない」
「そっか。……なら仕方ない」
「落とし物って、なんなんだ?」
「……時計だって」
「時計?」
「うん。お父さんの時計なんだって」
「……そうか」
そのとき俺は、絶対に怜を止めるべきだった。そんなのはもちろん今だから言えることだ。
当時は、そんなくだらない、漠然とした噂なんて信じちゃいなかった。
怜だってシマノの思惑なんてわかった上だろうと思っていたから、それでもいいなら勝手にすればいいと思った。
せいぜい、「暗くなる前に帰れよ」と言うくらいが関の山だった。
怜はなまじ自負がある分、当たり前の危機に無頓着なところがあった。
そうわかっていたなら、やっぱり俺はついていくべきだったのかもしれない。
◇
ちどりの家に戻るまでに、そんなに時間がかかったわけではないはずだった。
袋の中のアイスは溶けていない。ただ、話の内容のせいで少し時間を長く感じただけだ。
「おかえりなさい」
「ごめん。遅くなったね」と怜は言う。
「ううん。ちょうど片付けも終わりましたから。何か飲みますか?」
「ん。……じゃあ、麦茶をもらえるかな」
「隼ちゃんは?」
「ああ、うん。もらうよ」
ちどりはくすっと笑った。
「どうした」
「いえ、べつに」
なんだか含みのある言い方だと思ったけれど、追及はしないでおく。
するとちどりは、勝手に言葉を続けた。
「なんだか、本当に、昔のままだなあって」
そんなことなんかで、こいつは本当に嬉しそうに笑うのだ。
でも、そのとき不意に、気付いたことがあった。
「……ちどり?」
「……はい?」
名前を呼ぶと、不思議そうに首をかしげる。
それで違和感は消えてしまった。
自分でも、その正体がうまくつかめない。
いま一瞬、ちどりがどこか遠くにいるように感じられた。
それが何か意味のある感覚なのか、それともさまざまな状況と情報が、俺を疲れさせているせいなのか、わからない。
……瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。
怜にも、話さないといけないだろう、おそらく。
買ってきたアイスを三人で食べながら、少しの間、なんでもない話をする。
それぞれの学校や部活のこと、友人や教師や勉強のこと、家族のことなんかを。
それから俺たちは、解散した。
ちどりの前で例の話をすることには当然抵抗があった。
俺と怜は、あとで改めて連絡することにした。
馬鹿騒ぎのあとだというだけではなく、三人とも疲れているのはわかっていた。
ちどりは食事を準備したし、怜はひさびさにこっちにきた。俺は俺で、昼間から混乱し通しだ。
やけに長く感じる、そんな一日だった。
家に帰ってシャワーを浴びたあと、いつものようにベッドに横たえる。
体が眠りたがっているのはわかっていたし、今日は例の音は控えめだった。
いつのまにか、また雨が降り出していた。屋根を打つ雨音のせいで、やけに考え事がまとまらない。
俺は起き上がって机に向かい、卓上灯をつけて、置きっぱなしにしてある筆記用具を手にとった。
考えること、起きたこと、いろいろなことを書き留めていく。
・瀬尾青葉
と、まず最初に書く。
瀬尾がいなくなったのは五月の半ば頃、部誌が発行された直後だ。
最後に彼女の姿を見たのは、おそらく俺だ。荷物も持たずに彼女はいなくなった。
その十日ほど後、五月の末に、彼女からの手紙を大野が発見した。
こちらから返事を送ると、二枚目の手紙が返ってきた。
その次に手紙が来たのは数日後のことだった。今のところ、瀬尾からの手紙は三枚ということになる。
考えなければいけないことを、そのまま並べてみることにする。
(1)瀬尾青葉は今どこにいるのか?
(2)どんな手段で『伝奇集』にメモを挟んでいるのか?
(3)彼女は今、どんな状態なのか?
……ひとまず、こんなところだろう。今日瀬尾の家で聞いた話については、考えることはない。
少なくとも、瀬尾の居所のヒントにはならない。
まず、(1)瀬尾がどこにいるのか、という部分。
誰かの協力を得て、普通に過ごしている、と考えることもできなくはないが、難しい。
なにより、やはり、『伝奇集』にメモを挟まなければいけない理由がわからなくなってしまう。
いろいろな情報を統合して考えると、可能性として検討の余地があるものはふたつ。
まず、瀬尾が──こう考えるのは俺にはひどく苦しいことだが──"神さまの庭"にいる、とすること。
根拠は、怜が持っていた学生証だけだ。
けれど、そのひとつが決定的だという気もする。
瀬尾は鞄ひとつ持たずにいなくなった。学生証は瀬尾の手荷物として部室に残されたままになっていたはずだ。
もしそうでなかったとしても、怜が"あっち"でそれを拾ったというなら、瀬尾が"あっち"にいるというのは突飛な想像とは言えない。
もうひとつは、瀬尾が学生証を鞄とは別に持ち歩いていた場合。
もしそうだとすると、怜が学生証を持っていてもおかしくはない。
怜が瀬尾をかくまっている、と考えることができるからだ。
けれど、実際的にそれはありえないことだろう。
怜と瀬尾は知り合いではないはずだし、やはり『伝奇集』の問題も残る。
付け加えて、怜が瀬尾をかくまっているのなら、俺に瀬尾青葉の学生証を拾ったとわざわざ報告する理由もない。
そうだとすると、やはり、瀬尾青葉は、"神さまの庭"にいる。あるいは、いた。
それ以外の可能性は、ありえなくはないが、"学生証"があちらに存在することに矛盾する。
あるいは……"あっち"では、そういうこともありえるのかもしれないが、いずれにせよ、
瀬尾青葉が、現状何かの形で"あっち"に関わっている可能性は否定できない。
それは、瀬尾の手紙からも、なんとなく想像ができる。
湖畔というのは……"あっち"の湖畔のことなのかもしれない。
次に、(2)『伝奇集』のメモのこと。
もし、瀬尾が"あっち"にいるのだとしたら、これはあながち謎であるとも言えないのかもしれない。
あんなおかしな場所があるのなら、その程度の不思議はありえないことでもない。
ましてや俺は、そうした不思議をいくつか目の当たりにしている。
さくら。彼女についても、考えたいところだ。
最後に、(3)瀬尾青葉がどんな状態にあるのか、だ。
ちせが懸念するまでもなく、状況がよくないのは確かだろう。
あの場所について、俺は詳しく知っているわけではない、けれど……。
あそこに長く居たら、きっと、戻れなくなる。それは、なんとなく分かる。
そこまで考えてから、俺は(4)を書き足した。
(4)瀬尾青葉を連れ戻すためにはどうすればよいのか?
怜は言っていた。
「入り口はどこにでもある」。俺もそう思っている。
けれど、あの中は迷路だ。
入り口は無数にあるが、その先の空間は必ずしも繋がっていない。
……とはいえ、ものは試しだ。やってみる価値はあるかもしれない。
俺は(4)の横にメモを書き足した。
「← 実際に行ってみる」
書いてから、重く鈍い痛みが頭の中にのしかかってくるのが分かる。
……あとで考えよう。
こうして書き出してみて、俺がいくつものことをごちゃごちゃとないまぜにして考えていたことがわかった。
自分のことや、さくらのこと、カレハのこと、真中のこと、……ちどりのこと、怜のこと。
六年前の五月のこと。
それは、たしかに、問題だし、今、やけに話に上がってきている。
けれど、それらは、瀬尾には直接関係はない。
今は、それについて、すぐさま考える必要はない。
肝心なのは瀬尾のことだ。
他のことは、とりあえずは、考えないほうがいい。
そのはずだ。
やれることを、考えてみよう。
ひとつは、さっきも書いたとおり、直接、あちらに向かうこと。
怜の手を借りる必要はあるかもしれない。
けれど、こうなってしまうと、真中やちせを巻き込む気にはなれない。
協力すると言った手前ちせには申し訳ないが、彼女には伝えないでおこう。
他にあるとしたら……。
「……」
見落としていた。
『伝奇集』を使ったやりとりは、まだ行える。
そこで直接、瀬尾の居場所を本人に聞くことはできるはずだ。
……それが、まだ繋がっていれば、だけれど。
困ったことに今日は土曜で明日は日曜。学校の図書室は閉まっている。
早くても、試せるのは来週だ。
となると、明日すべきことは……。
まあ、いい。
やれることを、いくつか検討してみよう。
怜の協力を仰ぐかどうかは、またあとで考えよう。
そこまで考えると、体が一層重くなった。
特別なにかしたわけではないにせよ、今日はひどく……ひどく、疲れた。
瀬尾を連れ戻すなら、行動をするしかない。
けれど、と考えてしまう。
みんな、瀬尾がいなくなったことで、心配している。
心配させるのは、本意ではないだろう。
でも……瀬尾は、それさえも気にかけることができないくらい、追い詰められていたんじゃないか。
そうだとしたら、瀬尾を連れ戻すことは、瀬尾にとっていいことなんだろうか?
彼女が抱えているものがなんなのか、俺は、かけらさえ知ってはいない。
それはもしかしたら、六年前の五月、あのときのことと、関係があるのだろうか?
考えても、たしかめようはない。けれど、考えてしまう。
無関係、なのかもしれない。でも、何もかもが符号する。
「こんなことってあるんだろうか?」と何度も思った。
瀬尾の顔を見るたびに、不思議な気分にさせられた。
彼女の顔は、姿は、鴻ノ巣ちどりに瓜二つなのだ。
でも、それがいったい、どういうことなのか、俺には、わからない。
どうしても眠る気になれずに、こっそりと家を抜け出した。
六月の夜の風は湿気を多く含んでひそやかに重く肌に張り付く。濡れたアスファルトに街灯の光が滲むのを見て、なんとなく息をついた。
もう少しすればもっと寝苦しい夜が来ることだろう。今はまだ、涼しいくらいだった。
妙に、目が冴えてしまっている。馬鹿騒ぎのあとだからかもしれない。
どうせ気分だって落ち着かないままなのだ。そのまま散歩をすることにした。
俺たちの暮らす住宅地は大きな丘の傾斜に沿った並びになっている。
怜があのとき向かった公園は、この丘のちょうど中腹あたり、住宅が途切れる場所に今もまだある。
夕方にはこのあたりの子供のたまり場になって、けっこう賑わっているが、この時間はどうなのだろう。
携帯を取り出して時間を確認する。自宅の灯りが消えているとだいぶ遅いように錯覚するが、まだ普段なら起きている時間だった。
歩こうと思った。去年の暮れから履き続けているスニーカーの靴紐が、もうだいぶ汚れたままになっているのに不意に気付く。
いつもそうだ。
街灯の灯りはゆらゆらと頼りなく揺れていた。
ひそかに息を吐いて、幽鬼にでもなったような気分で静まり返った家々の間を歩いていく。
と不意に、うしろから誰かが俺の服の裾を掴んだ。
びっくりして振り返ると、そこに純佳が立っている。
「……どこに行く気ですか」
少し、むっとしたような、けれど寝ぼけたような顔で、純佳は俺をじっと見た。
「どこって、散歩だよ。寝てたんじゃなかったのか」
「玄関の、ドアが開く音がしたので」
そんな過敏なタチだったか、と思ったけれど、口には出さない。
「どこまで行く気ですか」
「だから、散歩。ちょっと公園まで」
俺はひとつ息をついて、純佳の表情を見た。
居心地悪そうに目をそらして、けれど俺の服を掴んだまま離そうとしない。
「一緒にいくか?」
「はい」
「即答。寒くない?」
「へいきです」と純佳は言う。平気ならいいのだ。
どこにいく、とも聞かないまま、俺が歩き出すと、純佳は黙ってついてきた。
夜空を厚い雲が覆っていて、月明りも星明りも望めそうにない。
「……兄、今日はいつにもまして様子が変です」
「いつもどおりだと思うけど」
「そりゃ、いつも変ですけど、今日はことさら」
「……なんにもないんだけどな」
「そんなことないです」と純佳は言った。
「なんにもないこと、ないです」
どうしてなんだろう。
わからないけど、別に不快ではない。
「部活、ちゃんと行ってるの?」
「……はい。いちおう」
「そっか」
それ以上どう続けていいか分からなくて、すぐに黙ってしまう。
「もうすぐ、引退ですから」と純佳は言う。
そうか、もうそんな時期なのか、と、他人事のように思う。
「サボりすぎて、試合に出させてもらえるかは怪しいですが」
「まずいね、それは」
「それもひとつの結末です」と純佳は悪びれずに言った。
本当はどう考えているのか、俺にはわからない。そう簡単な話でも、きっとないだろう。
俺たちは風に吹かれながら坂道を昇る。民家の灯りはついていたり消えていたり、さまざまだった。
時折どこかの二階から騒がしい笑い声が聞こえて、それがかえって住宅街の物寂しさを浮き立たせる。
雨が降ったらどうすればいいだろう、と俺は思う。
純佳を、連れて行っていいのだろうか。
「兄、何か考えていますね」
「またそれか」
「今は本当にそう感じました」
裾を掴む手が、ほんの少し引き寄せられる。
「どうした?」
「……兄、どこにいくんですか」
と、いまさら純佳は訊いてきた。
「公園だよ」
「公園?」
「確かめたいことがある」
純佳は、黙ってついてくる。俺たちはそのまま坂道をのぼり、目的地までたどり着いた。
開けた空間に、ブランコ、滑り台。奥の方は展望デッキ……というと大げさだが、小高い位置からあたりの街を見渡せるように、四阿と柵がある。
敷地は広く整備されていて、木々の合間を縫うように小路が続き、囲うようにベンチが並んでいる。周辺には木立がある。
木立の向こうは鬱蒼として暗く、ここからでは覗けない。
「……」
俺は、どうしようか迷ったあと、結局、木立の方へと進んでいく。
純佳は物問いたげに立ち止まろうとしたが、俺が止まらないのを見てついてきた。
どう言ったものかな、と思ったけれど、結局そのまま口に出した。
「純佳がいれば安心だよ」
「……また、そんなことを言う」
純佳は文句ひとつ言わない。もっと怖いものがあるというみたいに。
「木立の奥には……」
そうだ。木立の奥には、涸れた噴水。
どのあたりだったろう、と考えながら進んでいく。
空間がねじれたみたいに、木立の奥は広く感じる。実際はさほどでもないのかもしれないが、わからない。
草花の露が服の裾を濡らす。
そこで待っていろ、と、純佳に言ったところできかないだろうとわかった。
やがて、少しだけ開けた空間があり、そこには確かに涸れた噴水がある。
雨水が溜まったのだろうか。汚れた水に、枯れ葉が浮かんでいる。
途端、耳もとに音が鳴り響く。いつもの音だ。
「……」
耳鳴りみたいに、意識が一瞬で持っていかれそうになる。
それを抑え込んで、噴水へと近付いていく。
夜の闇は暗く、周囲のものは縁取りくらいしかつかめない。
俺はポケットから携帯を取り出してライトをつけた。
他にはなにもない。
ここが、まずひとつ。
この奥に……小屋がある。
小屋には鏡がある。
怜は、そこ。
俺は、ここだ。
「兄、何を探してるんですか」
「……なにかを探してるって、どうして思うの」
「なんとなくです。ただの散歩にしては、変だから」
まあ、それはそうか、と納得した。
「少し、手がかりみたいなものを」
「手がかり?」
「友達と、ミステリーゲームみたいなのをしててな」
適当な嘘をついて、もう一度あたりを見回す。
「いなくなったやつを、探さなきゃいけないんだ。……そういう遊びだよ」
心当たりがここしかないから、ここに来るしかなかった。
とはいえ、やはり、何もなさそうだ。
もしかしたら、瀬尾の持ち物がこの辺にあるかもしれない、と思ったのだが。
「……どうして」と純佳は言う。
「どうして、兄が探さないといけないんですか」
その問いかけに、俺は意表を突かれたような気持ちになった。
「あのときだってそうだった。どうして、兄が探さないといけなかったんですか」
「……あのときって」
「怜ちゃんとちどりちゃんがいなくなったときのことです」
「……」
「どうして、兄が探さなきゃいけなかったんですか。兄が何かしたわけじゃないのに」
怜とちどりが、いなくなったとき。
あの、五月のこと。
「純佳」
「他の誰かが探してもよかったのに。他の誰かに任せてもよかったのに。なんで兄が探さなきゃいけなかったんですか」
「……結果見つかったんだから、よかったじゃないか」
そうじゃない、というみたいに、純佳はもどかしそうに首を横に振った。
それでも、言いたいことが言葉にならないのか、口は引き結んだままだ。
それは、そうかもしれない。『結果見つかった』、なんて、都合の良い言い方にもほどがある。
問いただして来ないのは、恐れているからかもしれない。
そのとき、俺は噴水の底に、何かが浮かんでいるのを見た。
……葉、ではない。紙切れ。
「……」
何かの紙片。汚れた水面に浮かんでいる。それは……。
メモ用紙。何かが書かれていた様子がある。けれど、滲んでいて、読めない。
もしかしたら、明るいところでなら、もう少しちゃんと見ることができるかもしれない。
破れないように、俺はそれをそっとポケットに入れる。
「兄は馬鹿です」
と純佳は言った。
「……なんだよ、急に」
そう訊ねてみても、純佳はそれ以上何も言ってこなかった。
結局、俺たちはそこで帰ることにした。それがちょうどよかったはずだ。
◇
家に帰ってからもう一度シャワーを浴び、今度こそ灯りを消してベッドに入った。
目が冴えているのは変わらないし、音はさっきよりも大きくなっている。
やっぱり、今日は止めておくべきだったかもしれない。
さっき拾った紙は、とりあえず机の上に置いておいた。
灯りの下で見てみてもよくわからなかったが、ところどころ読めそうな部分もあったので、明日検めてみることにする。
そう考えて、純佳のさっきの問いについてもう一度考えてみる。
どうして、俺が、探さなきゃいけないのか?
……責任を感じているから?
わからない。
瀬尾が何を望んでいるのかはわからない。
でも、俺は、瀬尾に訊きたいことがあるような気がしている。
それがなんなのかは、まだわからない。
わからなくなって、目を閉じたとき、ノックの音がした。
すぐに部屋のドアが開かれる。
「……兄、いますか」
「いるよ」
返事をすると、純佳は身体を扉の内側に滑り込ませて、ドアを閉めた。
それからおもむろにベッドに近付いてきて、静かに布団の端を持ち上げ、潜り込んでくる。
「どうした」
「文句がありますか」
すぐそばから声が聴こえる。
ないよ、とも、あるよ、とも言えない。
純佳がこんなふうになった理由が、俺には少しだけ分かるような気がする。
──あのとき、お兄ちゃんはどこにいたの?
──兄は、どこにも、いなくならないですよね?
──兄は……わたしを置いていきませんよね?
何も言わずに、俺は純佳の耳もとに手を伸ばし、彼女の髪を指先で撫でた。
彼女はその指先の存在を不安がるみたいに、そっと首を動かして自分から耳を近づけてくる。
そうして瞼をやさしく閉じてからも、口元が不安そうに、何か言いたげに震えて見えた。
「いくつになっても子供のままだな」
「……いけませんか」
「違うよ」
と俺が言うと、彼女は目を開いて言葉の意味を訊ねるみたいに怪訝げな顔をつくる。
俺がごまかすように首を振ると、純佳は小さく身じろぎをした。
髪がシーツに擦れる音がする。
子供なのは俺の方だ。
葉擦れの森に風が鳴る。
ここは俺のための場所ではない。
そう思った。
その日はそのまま、純佳と一緒に眠った。
不思議と、あの音は気にならなかった。ざわめいてばかりの日、ひどい一日だと思ってたのに、単純なものだ。
そのおかげといっていいのか、久しぶりにぐっすりと眠ることが出来て、朝起きるのだって純佳よりも早いくらいだった。
カーテンをほんの少しだけ開けると、空はようやく黒からかすかな藍色に近付いているところだった。
小鳥の声もまだ聞こえない。
なにか、不思議な気持ちだった。
ベッドから上半身を引き抜くようにして身体を起こしたあと、隣で眠る純佳の寝顔を見た。
子供みたいな寝顔だと思う。
俺は、布団からこぼれるようにほんのすこしだけ姿を見せている彼女の指先に触れる。
それから、静かにそれを、自分の指先で持ち上げてみる。
あたたかな指先だった。
どうしてなんだろう。
やっぱり、よくわからなくなってしまった。
純佳の手のひらを持ち上げて、両手でそれをすくいあげるようにしてみた。
ほっそりとした親指の付け根の、丘のように膨らんだ部分を、自分の指先でなぞってみる。
どうしてそんなことをしようと思ったのか、わからない。
──せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?
瀬尾青葉は、俺にとって、なんなのか。
友達なのか、それ以外のなにかなのか。
わからない。
──どうして、兄が探さないといけないんですか。
彼女がいなくなったのは、俺が原因だという気がするから。
彼女が、本当は、いなくなることを望んでいないような気がするから。
──隼さん。わたし、青葉さんのこと、探そうと思うんです。あの人を放っておいたら、よくないことになりそうな気がする。
よくないことに、なるかもしれない。
暗闇は、どこにでもある。でも、そこにさらわれるのは、きっと、瀬尾だけとは限らない。
──だから、わたしはちゃんと、知ってますよ。隼ちゃんが、本当に、本当に優しい人だってこと。
優しいから、探すわけじゃない。でも、じゃあ、どうして俺は、瀬尾を探すんだろう?
こんなことを考えるのは、人間としての欠格事由かもしれない。
友人がいなくなったんだ。心配くらいして、当たり前かもしれない。
──何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
でも、わからない。
──それって悲しいことのようで、実はとても気楽なことなんじゃないかって思うんです。
どうして俺は、瀬尾を探すんだろう。
──何か、ずっと抱えていたものがあったから、この家にも帰ってこないのだと思う。
瀬尾青葉について、俺がいったい何を知っているだろう?
──前から思ってたんだけど、わたしは、『他の誰か』じゃないよ。
俺は、
──重ねるのはやめてね。
瀬尾青葉の何を見ていたんだろう?
彼女に、誰かを重ねていたから、俺は彼女を放っておけないと思っているだけなのか?
──わたし、やっぱり偽物なんだ。
彼女は言葉を吐き出して、
──やっぱり、いらないんだ。
そのとき俺は、どうして何も言えなかったんだ?
そもそも、俺は本当に、瀬尾のことを心配しているのか?
──あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない。
本当のところ、実は俺は、瀬尾青葉を見つけ出すことに、何か期待をしているだけなんじゃないか。
彼女を見つけ出すことで、俺自身のこの空虚を根こそぎ帳消しにできるんじゃないか、というようなことを。
そんなふうに考え始めると、何がなんだかわからなくなってしまう。
窓の外の藍色の空を眺めていると、そんな視界が無性に滲んで、俺は思わず泣き出してしまった。
ぽろぽろと涙がこぼれるのを止められない。
俺は女々しくめそめそ泣いた。
泣きながら純佳の親指の付け根のあたりをふにふにと触っていた。
向こうで風が吹いているのが分かる。耳鳴りみたいに消えてくれない。
「……兄」
気づけば、純佳のまぶたが開かれていた。眠たげな瞳のまま、こちらを見ている。
「泣いてるんですか」
俺は首を横に振った。でも泣いていた。もう隠す気にもなれない。
純佳は静かに俺の手を握って、引き寄せるように俺の身体を倒させた。
それから、俺の頬をつねる。
「よしよし」
言っていることとやっていることが違うな、とか、そんなことくらいしか考えられなかった。
どうして自分が泣いているのかもわからない。
また音が響いている。
それがおそろしいのだ。
いつもいつもいつもいつも、ずっと鳴り止まない。静けさが戻っても、またすぐに連れ戻される。
意識の半分はいつもあの暗い森の中にある。
俺が知らないだけで、みんなそうなのだろうか?
それとも、俺だけがこうなのだろうか?
ずっと鳴り止まないのだ。ずっと自分が半分どこかに置き去りにされたままなのだ。
真中のこと、瀬尾のこと、怜のこと、ちどりのこと、俺には全部全部わからない。
本当はいつだって全部投げ出してしまいたい。
怜と会って、あの場所のことを話したせいなのか。
あの暗い森が、やっぱりたしかにそこにあるのだと、今も耳の奥にあるのだと、そう実感させられる。
それがひどく悲しい。
「泣かないで」
涙が止まらない。……葉擦れの音が、止まない。
ずっと夢だと思っていた。
嘘だ。
ずっと夢だと思おうとしてきた。
あんなのは全部悪い夢で、本当に起きたことじゃないんだと、そう思い込もうとしてきた。
それなのにあれは夢じゃなかった。なにひとつ終わってなんかいなかった。
「兄」
俺は黙ったまま、ようやくまぶたを擦った。
純佳は何も言わずに、俺の手のひらを掴んで、頬を擦り寄せてくる。
そのすべてが、なんだか俺をこの場につなぎとめてくれるような気がする。
それなのに、そんなすべてが、無性におそろしくもある。
なにかを騙しているようで、ふとした拍子に、表情を変えてしまいそうで。
純佳は、俺の手の甲をやさしく撫でた。
俺は反対の手を伸ばして、彼女の頬のあたりに触れる。
「泣いてない」
と俺は言った。
純佳は困った子供を見るみたいに微笑した。
「はい。兄は、泣いてません」
◇
そのまましばらく、なんにも話さずに似たようなことを続けていた。
日が昇り空がようやく白み始めた頃に、俺はベッドから抜け出した。
机の上に、昨日置いた、メモがある。
下手に触るよりもと思ってそのままにしていたが、やはり、湿っていて、滲んでいる。
ゴミを拾ってきたようなものだ。何の収穫にもならないかもしれないことなんてわかりきっている。
メモ用紙には字が書かれている。大半は読めないが、ところどころ、どうにか解読できそうな部分もあった。
もちろん、こんなものは、俺達には何の関係もないものなのかもしれないが……。
ありえないことなんて、ない。
俺があの噴水に行ったときに、俺たちに関係があるものが浮かんでいる可能性。
そんな可能性を否定できないくらい、事態は既に混乱している。
「……」
ふと、文字列だったもののなかに、くっきりと読み取れる部分があるのを見つけた。
まるでそれだけを伝えようとするみたいに、それ以外の部分がおまけか何かみたいに、そこだけがいやに綺麗に字の形をなしている。
そこには、
「わたしはだれ」
と書かれている。
……これは、瀬尾が書いたメモなのか、そうじゃないのか、それはやっぱりわからない。
わからないことの材料が増えていくだけで、事態はちっとも進展しない。
もどかしさばかりが募っていく。
「兄」
見ると、純佳がまだ、布団のなかに身体を横たえたまま、こちらを見ていた。
薄手のカーテンに透けた陽の光を浴びて、彼女の表情はやけに大人びて見える。
「昨日はああ言いましたけど……兄が、したいようにすると良いと思います」
「昨日……?」
どうして俺が瀬尾を探さなければいけないのか、という話だろうか。
「それをこらえても、苦しいだけですから。やりたいようにやって、それで文句を言われたら、そのあとにあらためればいいんです」
「……」
「兄ははじめから考えすぎなんです」
「肝に銘じとくよ」
日が昇ったからだろうか、純佳がいたからだろうか。気分はだいぶマシだった。
◇
それでもまだ、どことなく身体が重いような気がしている。
日曜の朝だったけれど、俺以外のうちの家族はみんな寝て午前中を過ごすつもりらしかった。
純佳は寝足りない様子で俺のベッドを抜け出す気配を見せなかったし、両親も部屋から降りてこなかった。
俺はひとりで朝食をとり、頭の痛みを感じて薬も飲んだ。たまの日曜に頭が痛くて何もできないというのも嫌なものだ。
何はともあれ、瀬尾のことを今すぐにどうこうすることはできない。そうでない以上は俺たちは平然と生活を続けなければいけない。
これは最初からわかっていたことだ。
最近はずっと、そんなふうに過ごしていたんだから。
午後はバイトがあった。いつもどおりに店に行くと、今日は人手が足りないとかで、いつもは夕方しかいない先輩が入っている。
「調子はどうだい」と彼は言う。
「普通ですよ」と俺は嘘のような本当のようなことを言った。
大半の状態は「普通」の振れ幅の範疇に過ぎない。
日曜の午後というのは基本的に暇な時間帯だ。
ピークタイムである昼を過ぎてしまえば、あとは夕方までほとんどやることもない。
少ない人数でも回せるからという理由で人手は少なく、ふいに忙しくなったときは大変だけれど、めったにそんなことも起こらない。
俺と先輩は、別に仲が悪いわけでもないけれど、お互い話す方でもないから、品出しや補充の作業を終えてしまっても、世間話に興じる気にもなれない。
先輩が発注を始めたので、俺はレジを見つつ床の掃除でもすることにした。
ときどき来る客と言えば、二十代くらいの男性客の立ち読みや、出かけた帰りか、飲み物を買っていく家族連れや、そんなところだ。
あとは、近所の家に集まっているらしい、同年代くらいの集団。
俺はレジを打ちながら、発注端末を首から下げながら棚の様子を眺める先輩の顔を盗み見た。
彼はいつだったか言っていた。俺の目に彼が変に見えるんだとしたら、俺の目が変なんだ、と。
ちどりは俺のことを優しいと言った。
でも違う。ちどりの目に俺が優しい見えるのは、彼女自身が優しい人間だからだ。
目に映るすべてはこころの風物に過ぎない。
さくらは世界が愛に満ちていると言った。
彼女はきっと世界を愛しているんだろう。
俺には世界が空虚に見える。
空虚が充溢しているように見える。
何もかもが、実感を伴わない。
生活はいつも、どこか、他人事めいている。
映画のなかの出来事みたいに。
バイトを終えて携帯を確認すると、怜からメッセージが来ていた。
「昨日の話の続きがしたい」とあった。
その話を聞くのは、とても大事なことだろう。
俺と怜はどこに行くか迷ったけれど、落ち着いて話せる場所というのがいくつも思いつかなかった。
それで、結果的に「トレーン」以外にふさわしい場所がないというのがおかしい。
ちどりは今日はいないようで、ちどりの父親が俺を迎えてくれた。
昨日もそうだったけれど、ちどりの両親はうちの親たちとは違って落ち着いた雰囲気なのが羨ましい。
そうは言っても、べつに両親に文句があるわけでもないのだけれど。
先に店に着いたのは俺で、少し待たされたあとに怜もやってきた。
「やあ」と怜は言った。黒っぽいスキニージーンズ、薄い水色のシャツ、いつもみたいに爽やかだった。
「待った?」
「少しだけ」
「うん。ごめんね」
いいよ、と俺は言った。
俺はブレンドコーヒーを、怜はカフェモカを頼んだ。
話を途中で分断されるのもよくないだろうと、注文したものが届くまで、俺達は世間話をすることにした。
「日曜だけど、彼女さんと会ったりはしなかったの?」
「今日はバイトだったよ。……それに、昨日会ったって言っただろう」
「ああ、そう言ってたね。たしかに、あんまりベタベタするのも隼らしくはない」
……そうだろうか。わからない。
怜は記憶のなかの俺と今の俺が符号するのがおもしろいみたいにクスクス笑う。
「怜はそっちで、そういうのいないのか……ああ、昨日もしたか、この話」
「うん。したよ。ぼくは全然、そういうの縁がないんだ」
こいつのことだから嘘だろうなと俺は思った。どうせそういう気分になれないだけだろう。
どうもうまく話せない。違和感があるとかそういうわけでもない。なんとなく、気まずさみたいなものがある。
カップがふたつテーブルに置かれて、マスターは別のお客の相手を始めた。
俺たちはようやく本題に入ることができる。
それでも少し声のトーンを落としながら。
「それで、昨日の話の続きをしよう」
怜は頷いた。
「俺はたぶん、いくつか話せることがある。その前に、おまえの話を訊きたい」
「うん。うまく話せるか、自信ないんだけど」
「謙遜は似合わない」と俺は言う。
「知ってるみたいに言うなあ。……けっこうひさしぶりなのにさ」
「まあ、そう言われればそうだけどな。そんな話がしたいわけじゃない。分かるだろ?」
「うん。そうだね。話をしよう」
怜は抱えていたリュックサックからノートとペンを取り出した。
そう、こういう奴だ。
「どこから話せばいいだろう、と思う。でも、やっぱり順番に話すべきなんじゃないかと思う」
「ああ」
「隼は平気?」
「なにが」
「あのときのこと、落ち着いて話せるかな」
「……」
「ぼくらはあのときのことを、真剣に検討したことってなかっただろう?」
「そうだな」
俺は頷いた。
たぶん、それは仕方ないことだったんだろう。俺も怜も、あのとき自分たちの身に起きたことをうまく消化できないでいた。
「……そこから話を始めるべきだろうな。おまえの身に起きたことと、俺の身に起きたことを、それぞれに」
「うん」
いくらかほっとしたみたいに、怜は微笑んだ。俺がまた怒ると思ったのかもしれない。
昨夜はいくらか、俺も感情的になりすぎた。おまえのせいなんだぞ、と言いかけるくらいに。
でも、落ち着いて考えてみれば……いったい、何が怜のせいだったんだろう?
俺のそんな戸惑いを無視するみたいに、怜は話を始める。
「始まりはシマノだった」
そう、俺の認識も同じだ。
「六年前の五月の始まり頃、ぼくはシマノから頼まれごとをした。シマノのことは覚えてる?」
「覚えてる。おまえを目の敵にしてた」
「正確にいうと、隼をだよ」
「……俺? なんで」
「彼はちどりのことが好きだったんだよ」
「それは初耳だ。俺はあいつに何かされた記憶はないけど」
「それは隼が気にしなかっただけだよ」と怜はなんでもないことのようにいった。
「それに、ぼくもいた。直接隼になにかをするなんて、シマノには怖かっただろうね」
たいした自己評価だと思うが、じっさい、そうだろう。
怜と仲の良い俺にどんな嫌がらせをしようとしたところで、きっと怜に看破されていただろう。
「シマノは、丘の上の公園で父親の時計をなくした。それで、ぼくに探してくるように頼んだ。
自分で取りに行くのが怖いから、と言っていたけれど、実際には違うだろうね」
「ああ。おまえを怖がらせたかったんだろうな」
「うん。……だからこそ、ぼくは引き受けたんだけど」
怜は、実のところ、怪談やおばけや幽霊の類が昔から苦手だった。
合理主義者に見える怜は、その合理主義ゆえに、霊的現象の存在を否定しきれなかった。
それは「起こりうるかもしれない」という畏怖を当時から抱いていたような気がする。
そう考えれば、怜は当時からずいぶん成熟した考え方をしていたわけだ。
あるいは単にそれは俺の錯覚で、当たり前に、子供らしく、怖かっただけなのかもしれないが。
怜は昔から独特のプライドのある奴だった。
シンプルに言うと、格好つけで、見栄っ張りだった。自分が怖がってるなんて悟られるのはいやなやつだった。
とはいえ、そんなのは普段から一緒に生活している人間なら、なんとなく気付いているような話だ。
シマノだって、まがりなりにも怜と同じ校舎で何年も一緒に過ごしたのだ。
怜のそういう性格だって、お見通しの上だっただろうし、怜はそれを見越したうえで、引き受けたのだ。
両方共、実は肝試しのつもりだったのだ。
「でも、さすがにひとりで行くのは怖かった。だから隼に声をかけた。覚えてる?」
「うん。俺は断った」
「純佳がいたからね」
「そう。純佳がいたから」
とはいえ、俺はいつだってそんなふうに付き合いが悪かったわけではない。
純佳だってひとりで家には帰れるし、留守番だってできたはずだ。
考えてみるとどうしてだろう、と思ったところで、怜が言った。
「純佳はあの時期、ちょっと過敏なところがあったからね」
「……ああ、そうだ」
そうだったかもしれない。
原因ははっきりしている。
あの地震だ。
あのときから、純佳は少し、いわゆる「赤ちゃん返り」のような状況になった。
もちろん、このあたりでは電気やガスや水道が止まったくらいで、人的被害なんて言えるものはほとんどなかった。
それでも、あの非日常と言ってもいい状況は、大人の心さえも不安定にさせていた。
それからまだ、ほんの一、二ヶ月後のことだったのだ。
そう考えれば合点がいく。
「それでもぼくは、ひとりで行くのが怖かった」
「ああ」
「それで、ちどりに声をかけたんだ。ちどりは、二つ返事で頷いてくれたよ」
「そうだろうな」
ちどりならきっと、シマノの悪意になんてまったく気付かなかっただろう。
昔から、そういうやつだった。あるいは、シマノのこととは無関係に、怜が困っていたら、ついていっただろう。
「それで、ふたりで行ったわけだ」
「そう。丘の上の公園。涸れた噴水」
「……例の都市伝説だな」
「そう。覚えてる?」
覚えている。不思議なものだ。
「昨日も思い出してたんだ」
黄昏時の公園に、
人の気配が消えたあと、
涸れた噴水に水が湧き、
水面に木立の梢が浮かぶと、
水面の月が静かに揺らぎ、
ひときわ強い風が吹き抜け、
鏡を覗く誰かをさらう。
「その噴水のそばに落としたって話だった。ぼくらはそこに向かったんだ」
「……そうだな」
「そしてぼくらは、"さらわれた"」
怜はそう言った。まっすぐに俺の方を見ている。俺だっていまさら疑ったりしない。
「気付いたときに、ぼくとちどりは、"神さまの庭"にいた」
もちろん、そういう話になる。
「でも、ぼくらはあの噴水からさらわれたわけじゃない。あの木立の奥に、小さな小屋があった。
たぶん、物置小屋かなにかだったんだと思う。スコップとか、そういうものを置いておくような。そこに、鏡があった」
「鏡」
「そう、鏡。あの廃屋に、鏡があったんだ」
「訊いてもいいか?」
「ん」
「どうしてその小屋に入ろうと思った?」
「時計が見当たらなくて、探しているうちに、その小屋を見つけたんだ。入ったのは、好奇心だったかな」
好奇心。
「なるほどな」
「鏡を見つけた。そして、それが光った」
「……」
「眩しくて、目を瞑った。そうして気付いたら、あっちにいた」
荒唐無稽な話。それが嘘じゃないと俺は知っている。
「あれは、どのくらいの時間だったんだろう?」
怜は、俺の目を見てそう訊ねてきた。
「……その日の夜、俺の家に電話がかかってきた。怜とちどりの家からそれぞれだ。
ふたりとも家に帰っていないが、行方を知らないか、という話だった。
俺は母親に、ふたりと会っていないか、と言われて、会っていない、と答えた」
「ふむ」
「たぶん、時計を探してるので遅くなっているのかもしれないとも思った。でも、ふたりの親がパニックになった様子でうちに来た」
そのとき俺が怜の父親に何を言われたのか、それはべつに話す必要のないことだろう。
もともと彼は俺のことをよく思っていなかった。
怜の父親は、怜があの頃のような性格に、つまり、何にでも首を突っ込みたがる、好奇心旺盛な性格になったのは、俺の影響だと考えていたらしい。
事実がどうかは、俺にはなんとも言えない。
それで、俺が何かを知っていると決めつけてきた。
子供を心配する親心と言えばそうだが、当時としてはけっこう恐ろしかったのを覚えている。
そうなると俺も余計に、知らない、と言い張るほかなかった。
でも、心の中ではちゃんと思いついていた。
結局、話を聞き終わると、ふたりの親は家へと帰っていった。
子供が帰ってくるかもしれないと、うちの親も説得した。
明日の朝になっても帰ってこなかったら、そのときは……。そんな話をしていたのを覚えている。
その夜は、もうどこからも連絡は来なかった。
ひょっとしたらちどりも怜も、家に帰ってきていたのかもしれない、と俺は想像したけれど、今にして思えば逆の話だ。
もしどちらかがだけでも帰ってきていたなら、帰ってきた、とうちに連絡をよこしたはずだろうから。
そして翌朝、ちどりも怜もいなかった。
普段一緒に登校していたから、朝の段階でそれはわかった。
俺は当然のように学校に行った。ふたりは当然のようにいなかった。
シマノが話しかけてきて、ふたりはどうしたのか、と訊いてきた。
わからない、と俺は言った。昨日は家に帰ってこなかったらしい、と。
シマノの顔ははっきりと蒼白になった。
俺は彼に、怜の言っていた噂の内容を問いただしたけれど、結局シマノもたいしたことは知っていなかった。
単なるうわさ話だと彼の方も思っていたらしい。
放課後、俺はひとり、丘の上の公園へと向かった。
木立の奥の噴水を見つけるのは簡単だった。
五月の夕暮れは、冬よりはだいぶ明るいにしても、いくらか暗い。
夕空がやけに綺麗だったのを覚えている。
涸れた噴水を見つけたとき、不意に話しかけられた。
中学の制服を着た、知らない女の子だった。
──きみ、この先に行くつもりなの?
不意に、そんな声をかけられて驚いた。
この人は、いったい何を知っているのか。そう思った。
──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。
俺は、息を呑んで、けれど言い返した。
──友達が、迷子なんだ。
彼女は困ったような顔をした。
本当に困った、という顔をした。
それは困ったね、と実際に口に出しもした。
──じゃあ、仕方ないから、ついていってあげる。
彼女は、なんだったんだろう。誰だったんだろう。
記憶のなかの彼女の顔はおぼろげだ。
ただでさえ黄昏時だった。
誰そ彼。陰影に飲まれて、記憶の中の彼女の顔はまっくらだ。
そして、俺と彼女はむこうに行った。
怜とちどりが帰ったタイミングがいつなのか、俺は知らない。
「たぶん、一日じゃないか」と俺は言う。
「一日……」
「うん。たぶん、一日だと、思う。怜とちどりが帰ってきた正確な時間は、俺にはわからない」
「……そうか、そうかもしれない。考えてみれば、一日なのかもしれない」
「……」
「ぼくらは、あそこに行って、隼と会って、助けられて……帰ってきたら、隼がいなかった」
「……」
「二週間。隼は、姿を消していた」
悔恨だろうか、後ろめたさだろうか、怜は、目を合わせようとしない。
俺が怜とちどりが帰ったタイミングを知らないのは当たり前だ。
そのとき俺は、まだむこうにいたんだから。
……あの日、あのときから、そうだ。
あの日、葉擦れの森に迷い込んでから、俺のからだの半分は、まだあそこに取り残されているような気がする。
あのときから、葉擦れの音が、止まないままだ。
「隼が帰ってきたのは二週間後のことだった」
と怜は言う。
「ぼくとちどりは先に戻ってきた。でも、ちどりはあっちのことを何も覚えていなかった。
ぼくは大人たちに説明しようとしたけど、あまり信じてはもらえなくて、途中で諦めた。
隼がいなくなったことで、状況はむしろ混乱していった。うちの親は……」
怜は、言いよどんだ。
「おまえは気にしなくていい、と言って、ぼくが隼のことを話すのを嫌った。
たぶん、心配していたんだと思う。また何かしでかさないようにと、ぼくは登下校親に車で送られて、自由に動けなかった」
「……そりゃ、そうなるよな」
「ちどりは何も覚えていなかった。鏡を見たところまでは覚えていたけど、それ以降の記憶は、ちどりにはなかった」
それは俺も確かめた。ちどりは何を話しても覚えていない。
あの日のことなんて、何にもなかったみたいに、ちどりは過ごしていた。
「隼がいなかった二週間、隼の家族は……当然だけど、憔悴した様子だった。
今度はぼくとちどりが、隼の行方を聞かれる番だった。
ちどりは何も覚えていなかったし、ぼくの言うことは……当然だけど、まともな大人なら信じられない内容だった。
途方に暮れただろうね。それでも、おじさんたちはぼくらを責めなかった」
「……」
「ぼくは、純佳にはあのときのことを話さないようにした。純佳にもし教えたら、彼女まであっちに行きかねないと思った。
ふたりは昔から仲が良かったからね」
「……どうだろうな」
そうかもしれない、とも思う。とはいえ、ミイラ取りがミイラ、が増えるのも馬鹿な話だ。
怜の判断は正解だった。
怜は身動きが取れず、
ちどりは覚えておらず、
純佳は知らない。
大人たちは怜の言葉を信じなかった。
だから、俺は……。
「でも、隼はひとりで帰ってきた。そして、それ以降、誰もいなくならなかった。
だからひとまず、一旦は、そこで話が終わった。ぼくも、けっこう怖い目をみたし、隼もそうだった。
だからぼくらは、今までその話を避けていたところがあったね」
「……そうだな」
──今もまた。
葉擦れの音が聴こえる。
「あの場所は、結局なんなんだろう?」
怜は、そう言った。それについて話すのは、きっと困難だけれど必要なことだ。
少なくとも検討の必要がある。
あそこがいったい、どんな場所なのか。
考えたところで、分かるものだろうか?
その瞬間、脳裏によぎる記憶があった。
──あそこは異境の入り口だから。
……そうだ。言っていた。
誰が言っていたんだ?
ましろ先輩だ。
ましろ先輩はたしかに言っていた。さくらのことを、去年、俺に説明するときに、確かに。
桜の木の下は異境の入り口だと。
『異境』ってなんだ?
ましろ先輩は、何かを知ってるんだろうか。
どうして、そのときの会話をよく覚えていないんだろう。
「なんなのか、は、わかりそうにないな。少なくとも、俺達の常識じゃ判断できない領域ってことはたしかだろう」
「ファンタジーだね」
「起きたことがファンタジーだからな」
「そこには、そこなりのルールがあるんだろうか?」
「あったとしても、俺達にそれを推し量れるとは限らない」
「……たしかにね」
あの空間、あの世界が、どんな理屈で人をいざない、どんな理由で人をあんな目に遭わせるのか、それを考えるのは、ひどく難しそうに思う。
世界そのものがひとつの生き物のからだの中のようだった。
「グリム童話に、『トルーデさん』っていう話がある。怜は知ってるか?」
「……知らない。どんな話?」
「あるところに、好奇心旺盛な女の子がいた。女の子はある日、トルーデさんの家に行ってみたいと言う。
両親は、トルーデさんという女の人はとても悪い人だからとそれを止めようとする。けれど、娘は止まらない。
そして彼女はひとりでトルーデさんの家に行く。家についた娘は、真っ青な顔をしている。
それで、トルーデさんは、どうしてそんな青い顔をしているんだって訊くんだ」
「……」
「娘は、トルーデさんの家に来るまでの途中でとてもおそろしいものを見たんだと答える。
最初は、真っ黒な姿の男、次に、緑の姿の男、最後に、赤い姿の男。
そして最後に、窓から見たトルーデさんの姿が、頭が火で燃えている悪魔の姿に見えたのだという」
「……」
「トルーデさんは答える。『おまえは、魔女の姿を見たんだ』と。
そして続ける。『私はお前を必要としていたんだ。さあ、光っておくれ』」
「……それで?」
「魔女は娘を一切れの木っ端に変えて、火に投げ入れる。娘はあっというまに燃え上がり、周囲をほのかに照らす。
魔女はその火で暖を取り、『なんと明るい光だろう』と笑う。……それで終わりだ」
「……終わり? それで?」
「ああ」
「なんとも……言いがたい話だね。どんな教訓がある?」
「見ようによっては、そうだな。人の聞く耳を持たない頑固さや、不相応な好奇心は身を滅ぼすとも取れる。
だけど、俺は違う見方があると思う。この話は、ある意味で、そのような理不尽があることを示してるんじゃないか」
「理不尽」
「そう。ただ他人の家を訊ねたというだけで、薪に変えられて火にくべられるような、理不尽だ」
娘は、おそろしいものを見ても引き返さなかった。
当たり前だ。どれだけおそろしいものを見たとしても、自分が薪に変えられ火にくべられるなんてこと、普通は想像できない。
けれど、そのような、普通では想像できないことは……起こりうる。
「そういう種類の、この世ならざる理とでも呼ぶべきものに対する、戒め」
「……この世ならざる理、ね」
少なくとも、俺や怜の身にはそれが起きた。
その意味を検証するのは、俺には不可能に思える。
俺や怜の身に起きたことに理由があるとすれば、それは俺たちがあそこに踏み入ったからだ。
それ以上のことを考えるには、材料があまりにも足りない。
「……冷静に話そう」と怜は言う。
「まず、前提。ぼくらが暮らしている生活空間。この日常。つまり、こっちの世界がある」
「ああ」
「それとは様相の異なる空間、つまり、むこう、がある」
その認識は、いまさら覆しようがない。あれが夢だとでも言われない限り。
「入り口は無数にある。おそらく。ぼくはそれを知っている」
「むこうに、何度も行ったって言ってたか?」
「うん。通っていた。あの建物には、近付いていない。べつの入り口から、向かった」
「入り口。たとえば、どんな?」
「多いのは、鏡、絵。それから、人目につかない自然の中。川べりや、木立の奥」
「……鏡」
「何でもいいんだ。条件は、あるのかもしれない。でもぼくは、たとえば、手鏡なんかでも、もうむこうに行ける」
「……どうしてなんだろう」
「たぶん、存在を知っているからじゃないかと思う。むこうの存在を知っているから、行けるんだ」
そうかもしれない、とも思う。でも、根拠はない。そう感じるだけだ。
「それはぼくらの世界と繋がっているし、隔たりもほとんどないように見える。
でも、たしかに別の場所、空間だ。少なくとも、あの木立の奥、あの小屋の中に……あんなに広い空間があるわけがない」
俺は黙って頷いた。そうである以上、あそこは『こちら』とは異なる空間なのだ。
「ぼくとちどりが迷い込んだのは、森の中の、広場のような場所だった」
「それはたぶん、俺が最初についたところと同じだ」
森の中の、どこか開けた場所。
太陽は中天に浮かび、
吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、
影は川の流れのように姿を変える。
噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。
「藤棚があった」
「うん。たしかに、あのとき、あった」
「……"あのとき"」
「そう、あのときは、それを見た。でも、二度目以降は、違った」
「どういう意味だ?」
「どこから入るかによって、着く場所が変わるみたいなんだ」
たとえばぼくの手鏡からだと、人の気配のしない西洋風の町並みに着く。
学校の廊下に飾ってあったある絵から入ったときは、暗い地下室についた。
あるいは校舎裏の木立のそば、切り株のそばからだと、ぼくの通っている学校にそっくりの、けれど誰もいない校舎についた。
「瀬尾さんの学生証を拾ったのは、図書室から入ったときだ」
「どこの図書室だ」
「うちの学校の図書室だよ」
「そこから着くのはどんなところだった? ……湖があったか?」
「湖? ……いや。森の中の小川のそばで拾った」
これが本当だとしたら、かなり厄介な話になってきた。さすがに頭が混乱してくる。
「訊きたいんだけど、隼は、あっちに行ったことはないの?」
「あのとき以来、一度もない。……どうして、怜だけ行けるようになったんだ?」
「わからない」と怜は言う。それはそうだろう。わからないことだらけだ。それはわかっている。
いや、考えるだけ無駄だ。
「わかるのは、どこから入ったとしても、ある一定の距離を歩いたところに、森があるってことだ」
「森……」
「そう。あの、森だ」
「あの……」
暗い森。
怜はそこで、俺の顔を見た。
「隼、あのとき……」
「ん」
「助けてくれて、ありがとう」
「……いや」
助けた。
そんな大げさなことを、俺はしただろうか。
◇
あの日、俺はあの噴水のそばで、ある女の子と出会った。
そして、彼女と手を繋ぎ、はぐれないように、むこうへと渡った。
そこにはあの、森の中の開けた空間があった。
俺も彼女も、すぐにそれが、この世ならざる場所だとわかった。
そう考えざるを得ないのだ。
夕暮れが真昼になって、木立が森になったのだから。
そして、少し歩いた先に、藤棚のアーチがあった。
その先に、怜とちどりがいるんだとわかった。
声が聞こえたからだ。
アーチのむこうから、怜とちどりの声が聞こえた。
……聞こえた、気がした。
あのとき俺はたしかに感じた。
俺は彼女と手を繋ぎ、怯えながら藤棚の先へと歩いていった。
並ぶ背の高い生垣が、視界を覆うみたいに立ちはだかる。
それは左右を遮り、道のように続いていく。
いくつもの分かれ道を含む迷路。
悪夢みたいに、空が赤く、夕焼けに染まった。
不思議の国のアリスのような、そんな景色だ。
その迷路を抜けた先に、あの森があった。
あの、枯れ木の森があった。
浮かぶ月は朧、雲は薄く、巨大な鳥の尾羽みたいだった。
真昼の広場を抜け、夕暮れの迷路を抜け、その先が、暗い夜の森だった。
ちどりと怜の声は、近くで聞こえたような気もするし、遠くから聞こえたような気もする。
森には、いざなうみたいに小径が伸びていた。
枯れ木の枝が視界のほとんどを覆い尽くして、先はよく見えない。
戻れなくなるかもしれないと、彼女が言ったのを覚えている。
それでも、彼女は手を離さなかった。
離したら自分の魂が砕けてしまうというように、俺の手を握っていてくれた。
ある場所で、うめき声を聞いた。
怜は、木々の間、崖の下で足を抑えていた。
俺と彼女はすぐに近付き、怜の様子を見た。
怪我をしていた。血が、少しだけ滲んでいた。けれど、無事だった。
──隼、隼……。
真っ暗闇が、怖かったのだろうか、深い森が、怖かったのだろうか。
それとも、怖かったのは、孤独だったのかもしれない。
もう大丈夫だ、と俺は根拠もなく言った。
怜は泣きながら頷いた。
――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。
ほとんど朦朧とした様子で、怜は言った。
――巻き込んで、ごめん。
怯えたみたいな濡れた瞳で、
――ちどりを助けて。
と言った。
ちどりはどこだと俺は聞いた。
はぐれてしまったのだ、探しているうちに、落ちたのだと、怜はそう言った。
俺と彼女は、怜とともに、どうにか崖の上へと戻った。
さいわい、それほどの高さでもなかったし、低めのところもちゃんとあって、観察さえすれば、道に戻るのは難しくなった。
俺は、彼女に怜を任せることにした。
「ここで待ってて」と俺は言った。
「ひとりで大丈夫?」
もちろん、大丈夫なわけはなかった。
――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。
けれど、他にどうしようもなかった。
ちどりだって、ここで泣いているはずだ。
ちどりの声は、俺の耳に届いている。
彼女は泣いている。
彼女が見つからなかったら、怜だって、泣いたままになる。
だから俺は、ちどりを見つけないと。
早く見つけないといけなかった。
小径の先に進めば進むほど、いろんな感覚がなくなっていった。
時間も、意識も、視覚も、どんどんとあやふやになっていく。
振り返っても、枯れ木の枝に隠されて、歩いてきた道の形はわからない。
ちどりのすすり泣く声だけが、ずっと聞こえていた。耳から離れなかった。
段々と俺は不安になってきた。
声はずっと、同じ距離で俺についてきた。
おんなじふうに聴こえるせいで、ちどりの居場所がわからない。
もう、通り過ぎているのかもしれない。もしかしたら、ずっと見つけられないままかもしれない。
月のあかりが眩しくて、なぜだか森がいっそう暗く感じられた。
嫌だと思った。
ちどりに会えないのは嫌だ。
ちどりがいなくなるのは嫌だ。
どこで泣いているんだ? どうしたら会える? まるで分からなかった。
でも、歩くしかないと思った。
やがてたどり着いたのは、開けた空間だった。
枯れ木はそこだけを避けるみたいだった。
焼け落ちた、大きな建物の跡。そんなふうに見えた。
その前で、ちどりは泣いていた。
──隼ちゃん。
どうしてそんなものが目の前に現れるのか、俺には分からなかった。
──隼ちゃん、隼ちゃん。
しゃがみこんで涙を流すちどりに近付いて、彼女が伸ばした手を掴んだ。
足りないみたいに、ちどりは俺の胸元に顔を押し付けた。
俺は彼女の背中に手を回して抱きしめた。
それはちどりを安心させるためというよりは、俺自身が安心したいからだった。
ちどりは、縋り付くみたいに泣いた。
枯れ木の森は笑うみたいに俺たちを取り囲んだままだった。
帰ろう、と俺は言った。
ちどりは、嗚咽を漏らしながら頷いた。
俺たちは来た道を引き返した。
戻るのは、意外なほど簡単で、怜も、あの女の子も、ちゃんとそこで待っていてくれた。
月明かりに照らされながら、迷路の入り口まで戻り、三人が先にその中に入るのを見てから、俺は森を振り返った。
振り返ってしまった。
ふたたび前を見た時、迷路の入り口はもうそこにはなかった。
俺は、森の中、小径すら見当たらない、木々の狭間に取り残されていた。
明かりひとつなく、道らしき道もなく、人の気配もしない。
もう、声も聞こえない。
そんな場所にいた。
◇
「……隼、ごめん」と怜は言う。
「……何で謝る」
「あのとき、助けてもらったのに。……助けにいけなくて、ごめん」
俺は、ひとつため息をついた。そして言う。
「こうして両方無事なんだ。もう済んだ話だ。今問題なのは……」
と、俺は言った。
「瀬尾青葉のことだ」
「……そう、だね」
こうして思い返してみると、やはり、あのときのことが原因なんだろう。
俺の耳の奥に響く音、二重の風景。
俺がむこうから帰ってきたのは二週間後だったと怜は言った。
実際、そんなものだったんだろう。
けれど、俺には、その時間が永遠のように感じた。
助けを求めて、喉が涸れるまで叫びながら、あの森の中を宛もなくさまよった夜。
やがて、歩くことも、叫ぶこともやめてしまった夜の森。
……俺は、結局、どうやってあの森を出たのだったか。
未だに、それが思い出せない。
たしかなのは、ちどりがあの夜のことを覚えていなかったということ。
――隼ちゃん。
――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?
ちどりがそのことを覚えていなかったということが、俺はおそろしくて、おそろしくて、泣いた。
葉擦れの音が止まないのが、おそろしくて、おそろしくて、泣いていた。
「瀬尾青葉さんは……湖のそばにいるの?」
「ああ。本人の言うことを信じるなら」
「……どうやってそれを知ったの?」
「手紙が届いた」
「手紙」
「……あっちにも送れる。それを使って、やりとりしてみようと思う。
それから、あいつが『むこう』に行くときに使った入り口を探す。
そうすれば、連れ戻せるかもしれない」
「……たぶん、正確な入り口じゃなくても大丈夫だ」と怜は言った。
「入り口が、こっちの位置関係として近い位置にあれば、むこうに出るときも近くに出る」
「……噴水と小屋か」
「うん。……今日は、このくらいにしておこう」
「……」
「隼、ひとつだけ」
「……なに」
「むこうには、ぼくが行く」
「……なんで。おまえは、瀬尾とは直接関係のない人間だろう」
「だからって、隼にいかせられない」
「どうして」
「前のことがあるからだよ」と怜は言った。
実のところ、俺は怜に言われるまでもなく、ためらっていた。
瀬尾はたしかに、むこうにいるらしい。
学生証のことを考えると、状況はきっと、よくはない。
それでも俺のなかに恐れが湧く。
またあの森に行かなきゃいけないのか?
あの、暗い夜の森に、俺はもう一度向かわなければいけないのか?
瀬尾がいなくなる前に、さくらが俺にした予言を思い出す。
──あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。
──森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
──あなたはそこで見つけなければいけない。
"あなたはそれを避けることができない"、と、さくらは言っていた。
どうして、そんな予言がありうるんだろう。
わからない。
頭が妙に、痛かった。
ふと、俺は店内の様子を見る。
マスターはカウンターの向こうにはいなかった。
途中から気にするのを忘れていたが、内容を聞かれてはいなかっただろうか?
「大丈夫だよ」と怜は言った。
「ぼくが見ていたから」
そう言って笑う。少し、不注意だったかも知れない。気をつけなければ。
いずれにせよ、やることはやはり変わらない。
むこうはある。
入り口を探すだけだ。
条件はある程度特定されている。
何をするにしても、明日だ。
話している間に、結構な時間になっていたことに気付いて、俺と怜は席を立った。
何度か呼びかけると、マスターはカウンターまでやってきて、会計をしてくれた。
「またのお越しを」と彼は言う。
「怜、おまえ、このあとはどうするんだ」
「……どうするって、帰るよ。明日は学校だし」
「そうか」
……そのとき、不意に思い出した。
「なあ、怜。昨日、瀬尾青葉について俺に聞いたとき、おまえ変なことを言ってたよな」
「変なこと?」
「瀬尾青葉を知ってるか、とおまえが聞いた。俺は頷いた。するとおまえは、"そうじゃないと筋が通らない"って言ったんだ」
「……ああ、そのこと」
「さっきまでの話を聞いても、俺が瀬尾を知ってるって理屈にはならない気がする」
「簡単な話なんだけど、それについては本人の名誉のために話さないでおく」
「……なんだそれ」
「まあ、気にしなくていいと思う。それに関しては別に不可解な事情なんてないよ」
「……」
いまいち話がわからなかったけれど、俺は頷いた。
「何かわかったことがあったら、連絡してくれ」と怜は言った。
「そうするよ」と俺は答えた。嘘だ。
「嘘だって顔をしてるな」
すぐにバレてしまった。俺は頭をかく。
「ひとりでどうにかするつもりだろう」
「……そんなこと考えてねえよ」
「隼はいつもそうだ。自分だけでなんでもやろうとする」
「なんだよ。やけに分かったようなことを言うな」
「分かるよ。ぼくだって隼のことは知ってるし」
「……はいはい。怜はすごいな」
「ぼくだからじゃない。隼が自分でどうにかしようとするのは、ぼくが女だからだろう」
「……」
まあ、否定はできない。
ボーイッシュな雰囲気は変わらないけれど、会わないうちに、怜もずいぶん成長した。
少年にしか見えなかった見た目も、中性的な女の子、とはっきりパッとみただけで分かるくらいになっていた。
「ぼくがむこうに行くのをよしとしないなら、せめて、ぼくと協力するってことは考えてくれる?」
「……そうしとくよ」
見透かされた気持ちで頷く。
『トレーン』の前で、俺と怜はそのまま別れた。
その日は、家に帰って、余計なことはせずに、早めに眠った。
頭痛、けだるさ、さまざまな不調が、家に帰った途端に一気に襲ってきた。
明日はすべきことがある。体調を崩してもいられないだろう。
瀬尾に手紙を出し、無事を確認する。可能なら居所など、詳しい話を聞く。
学生証のことを考えると余裕はないかもしれない、とそのことを思い出す。
急に、瀬尾の無事が心配になる。
あいつは無事だろうか。
……今まで悠長にやっていたことを、後悔しはじめた。
手紙の返事が来ているうちは、まだ大丈夫だと高をくくっていた。
あの、学生証。
昨夜それを見せられてから、それが妙に頭をよぎる。
翌朝俺は、いつものように純佳に起こされた。
「おはようございます」と純佳は言う。
「おはようございます」と俺も言う。
「今日は平気ですか」
どうだろう、と俺は考えた。
「……たぶん平気」
「ならよかったです」と純佳は笑った。
純佳の様子はいつもと変わらない。
俺の様子だってきっと、いつもと変わらないんじゃないか。そう思った。
◇
学校に着き、いつものように自分の教室に向かう。
席に向かい、荷物を置いて、教室の様子をたしかめる。
既にクラスメイトたちは登校してきていて、いつものように教室の様子は賑やかだった。
誰かの机を占領して話をしているやつら、教室のうしろでゲームアプリに興じるやつら、
机に突っ伏して寝ているやつ、イヤフォンをつけて窓の外を眺めているやつ。
どうしたもんかな、と俺は思う。
本当ならすぐにでも『伝奇集』を確認しにいきたいものだ。
朝のうちに挟んでおけば、放課後までには返事が来るかもしれない。
そう思っても、動き出すのが億劫だった。
こうしようと決めたことでも、いざ行動するとなると躊躇してしまうことがある。
周りに人がいるとなおさらだ。
自分が何をしようとしているのか、それが急に不安になったりする。
まあ、そんなことを考えても仕方ない。
そのままぼんやりと、今日の授業のこととか、そんなことを考えておく。
頭が鈍く重い。おとといから、ずっとそうだ。頬杖をついたまま、まどろみそうになるくらいに。
「三枝」
と、不意に名前を呼ばれて、意識が浮かび上がった。
教室の入口の方から、クラスの男子のひとりが俺の方を向いていた。
「なに」
「お客さん。女の子。ふたり」
「……」
隣の席で話をしていた女子が、「三枝、また女?」とニヤついた。
「やかましい。またってなんだ」と俺は返事をした。
「こないだも女子が三枝の席に来てたじゃん」
「こないだ? こないだ……」
市川が来たときのことか。
「あれは部活の子だ」
「じゃああれは?」
入り口をさされて、俺はそちらに視線を向ける。
立っているのは、ちせと真中だ。
「……あれは、まあ、部活の関係だな」
言いながら、俺は立ち上がる。
「文芸部、女子多いの?」
「男子二人だからな」
「あ、そうなんだ」
女子は三人なので比率的に考えればさほどの差はないが。
「……ふうん。かわいいね」
「まあな」と適当に頷くと、隣席の女子はびっくりしたみたいだった。
「三枝ってそういうキャラなの」
「キャラってなんだよ」
ひらひら手を振って、話はおわり、と合図をする。
「ふーん?」と、隣席の女子は意味ありげににやにやしていた。
俺が入り口につくと、ちせがぺこっと頭をさげた。
真中は「や」と適当な挨拶をむけてきた。
「おはよ、せんぱい」
「おはようございます」
「おはよう。どうした?」
「土曜日のことで」とちせが口を開いた。
「ちゃんとお礼を言わないとと思って。わたしが言い出したことですから、付き合ってもらって、ありがとうございました」
「……おお」
やっぱり、見た目のわりにしっかりしている。
見た目のわりに、という言い方はまずいか。
「いや、どういたしまして。結局俺はなんにもしてないし」
「そんなことないです。お話するの、結局ほとんど隼さんに任せてしまいましたから」
「そう……だったか」
というよりは、俺がどうしても気になってしまった、という方が近い。
「まあ、収穫はなかったけどな」
「……はい」
収穫、という言い方が気に障ったのだろうか。ちせは少し暗い顔をした。
「なんだか、余計なことを知ってしまった気がして……」
「あんまり気に病むな」と俺は言った。
「ちせのせいじゃない」
「……はい」
「せんぱい、なんでわたしを無視するの」
黙ってると思ったら、妙なところで口を挟んでくる。
いかにも、というようすで口をむっとさせていた。
「真中は、なにか用事?」
「ひどくない? その態度」
不服そうな態度は続く。率直に、真中の方もなにか用事があったのだろうかと思っただけなのだが。
「せんぱいはわたしに冷たいです」
「そんなことはない」
「……そうかなあ」
「そうだよ」
「ちせとわたしとで、態度が違う気がする」
「気のせいだ」
と言ってみたが、どうだろう。
誰に対しても均質な態度というのはあり得るものだろうか。
「ま、いいや。ちせがお礼しにいくっていうから、ついてきたの」
「なんで?」
「なんでって。だめですか」
「や。だめじゃないけど、なんでだろうって」
真中はもどかしそうに唇を歪めた。
「わたしも、せんぱいにお礼言いにきたの。ありがとう」
「……なんで?」
「せんぱい、やっぱりわたしに冷たいよね」
「違う。お礼を言うなら、俺じゃなくてちせだろ。俺たちはちせについていったんだから」
「……ん。あれ? そっか」
頭の中で状況を整理するみたいに、真中は人差し指を額に当てた。
「ちせが行くのに、せんぱいが付き合って、わたしは……ちせに頼んでついていったから、そうか」
納得したみたいに、真中はひとつ頷いた。
「ちせ、土曜日はありがとう」
「えっと、どういたしまして……?」
……何を見せられているんだ、俺は。
「まあ、それはあくまで口実で、せんぱいとちせをふたりきりにしたくなかったんだけど」
「それは胸の中に秘めておけ」
「うん。今後はそうしようかな」
手遅れだ。
「隼さん、あの、青葉さんのことなんですけど」
「ん」
「『伝奇集』……何かあれば、わたしにも」
「ああ……うん。そうだ。そのことで、真中にも訊きたいんだけど」
「ん。なに?」
「真中もあれに手紙を挟んでたよな。あっちには返事って来たのか?」
ああ、と真中は頷いた。
「来たよ」
「いつ?」
「こないだみんなで見たのより前」
「……そうか」
だとすると、それ以降は途絶えていることになる。
といっても、それは先週のことだ。
「今はあれ、どこにあるんだろう」
「……さあ。図書室じゃないかな。なにか見つけたら、大野先輩が教えてくれると思うけど」
「だよな。わかった」
「それじゃ、戻りますね」
「ああ。気をつけろよ」
ふたりはきょとんとした顔をした。
「……なにに?」と真中。
「……あ、いや。そりゃそうか」
「へんなの」
今度はそろってくすくす笑う。
仲の良いことだ。……そうか? わからないけれど。
ふたりを見送ってから席に戻ると、さっき俺を呼んだ男子に声をかけられた。
「さっきの子、また文芸部?」
「そう。片方は」
「もう片方は?」
「文芸部の先輩の妹」
「ずりいよ三枝」
「なにが」
「あの、比較的ちっこくない方、が、文芸部?」
「……比較的ちっこくない方」
真中だろう。
「そうだよ」
「……やたらかわいかったな?」
「……」
「な、なんだよ、その目」
「いや……」
真中は表情を抑え込むのをやめた。
こうなるのは、当たり前と言えば当たり前か。
……厄介なことにならなければいいけれど。
けれど、俺はどういう立ち位置でいればいいんだろう。
真中に対して、どう振る舞えばいいんだろう。
たとえばあいつを好きだという男があらわれたとき、俺はどんな態度をとるべきなのか?
俺が答えを出せないまま、昔のようなことになってしまったら……それは、俺のせいなのかもしれない。
「あいつは難敵だぞ」と、そう言うと、あからさまに驚いた顔をされた。
「べつにそこまで言ってないだろ。なんだよ、急に。世間話だよ」
「それならいい」
本当にそれならいいと思った。
「……縁の匂いがしますね」
不意に後ろから声が聞こえて、俺は飛び上がるほどびっくりした。
「どうした、三枝」
振り返ると、さくらがいる。心臓が止まるような思いだった。
姿を消していたかと思えば、急にあらわれたり、いったいこいつはなんなんだ。
「なんなんだとはご挨拶ですね」とさくらは言った。
「ほら、話しかけられてますよ」
「あ、ああ。なんでもない。悪寒がしただけだ」
「そうか……?」
彼はそう言って、不思議そうな顔のまま自分の席に戻った。
ひさしぶりの感覚に、俺は慎重になりつつ、さくらを見た。
どうしたんだ、急に。ずいぶんひさしぶりじゃないか。
「サボってばかりでもいられないと思いまして」
こっちはそれどころじゃないんだが。
「そうみたいですね。なので、べつにかまわないですが」
……縁の匂いって言ったか?
「はい。さっきの子と、今の男の子。縁の匂いがします」
「……」
こないだまで、様子がおかしかったのはなんだったんだよ。
「あれは……気にしないことにしました。考えても仕方ありませんから」
さくらについても、いくつか、気になる点はあった。
けれど、今は瀬尾のことが優先事項だろう。
「瀬尾さん、ですか」
さくらが人の名前を呼ぶのは、珍しい。ましろ先輩以外だと、初めてかもしれない。
……そんなこともないか?
「そんなこともないです」
そうかもしれない。
「いなくなってしまったんですね」
……おまえは、何か知ってるか?
「なにも」とさくらは言う。
この間言っていた、予言みたいなのは……。
「なんとなく、そう思ったんです。……あるいは」
あるいは?
「わたしにとっても、無関係のことではないかもしれないから」
……そう言われても、今は点と点が結びつかないままだ。
「あなたはどうするんですか」とさくらは言う。
何がだ。
「あのふたりの縁。わたしがつなぐと言ったら、手伝ってくれるんですか?」
「……」
俺は、答えられない。
答えられない。
「時は流れます。望むと望まざるとにかかわらず」
「……」
「あなたは、そのままでいいんですか?」
「……うるさい」
今は、それどころではない。
──今は?
じゃあ、いつならいいんだ?
そんなふうに自問したけれど、俺にはやっぱり、答えられない。
誰かを求めることは、誰かを好きになることは……俺には、どうしてもおそろしいままだ。
そんな言葉を積み重ねたまま、誰にも離れていってほしくないと思うのは、不誠実なのかもしれない。
けれど、たぶん順序は逆なのだ。
好いた人に離れられるのが怖いから、求めた人に応じてもらえないのがおそろしいから、俺は誰のことも好きになれない。
きっと、そうなんだろう。
◇
その日の昼休み、俺は図書室へと向かった。
さくらは結局、あのあと、真中たちの縁とやらについては何も言わずにいなくなってしまった。
どうする、とも何も言わずに。そのことについてはひとまず考えないことにする。
いくつものことが一気に押し寄せてきている。
俺のことなんて後回しでいるべきだろう。
図書室には担当の委員がいたが、それは大野ではない。
大野も、いつも図書カウンターにいるわけではないのだ。
『伝奇集』……。ボルヘス。岩波文庫だ。棚を見れば、場所は分かるだろう。
案の定、特徴のある背表紙の並びはすぐに見つかった。
伝奇集を探すのはいくらか骨が折れたが、そう難しいことではなかった。
俺は、その本を手にとり、開いてみた。
『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。』とある。
よりましな方法は……と続くが、それ以降は頭に入ってこない。
そのまま、ぺらぺらとページをめくってみる。
すとん、とあるページが開かれる。栞を挟んであるみたいに。
当然のように、それはメモ用紙だった。
俺は四つ折りにされた紙を手に取り、広げてみる。
案の定、それは瀬尾からの手紙らしかった。
とりあえずほっとする。瀬尾からのアクセスは途絶えていない。今のところは。
内容に目を通そうとして、文字を受け取れない自分に気がついた。
……まだ、戻っていないらしい。さっき、ボルヘスの一節がすっと頭に入ってきたのは、なんだったんだろう。
鈍い痛みが頭に宿っていることに、今更のように気付く。
聴覚を埋めるみたいに音が響く。ずっと鳴っている。
ひとまず、俺はそのメモをポケットの中に入れることにした。
そして、『伝奇集』を持って図書カウンターへと向かった。
図書カードに借りた日付と名前を記入し、図書室から持ち出す。
ひとまず、試してみるのは悪いことではないだろう。
頭がくらくらするのを感じて、教室に戻ると、大野がいた。
「おう」と手をあげられる。────
「ああ」と俺は答える。────
「どこ──てたんだ?」
「図書室」
図書室、と大野は不思議そうな顔をした。
風が吹いている。
「な──図書室──かに」
「……いや。『伝奇集』を」
「──集。今度はな──ってたか?」
「ああ」
……体調が悪いせいだろうか。いつも以上に、葉擦れの音が、うるさい。
「瀬尾──いだな──かりでもあれば──だが──」
「……心配だな」
「おま────ぶか? カオイ──るい──」
「ああ、うん、大丈夫だ。ちょっと、頭痛がするだけだ」
「────」
「……悪い、ちょっと、今日は具合が悪いみたいだ」
「────」
汗が滲むのが分かる。
「悪いけど──まは──りに──れ」
ついに、自分の声すら聞こえなくなった。
まいった。ここまでひどいのは久々だ。
自分の声がちゃんと音として響いているのかどうかさえ、確信がもてない。
視界が二重にブレる。
最近、あのときのことを思い出すことが多い。そのせいかもしれない。
いつもどおり、なるべく普通に振る舞わなければ。
大野は何かを言った。その表情もいまはよくわからない。
たぶん、けれど、俺を気遣うようなことを言って、今は気をきかせて去ってくれたんだと思う。
後ろ姿になって去っていくのが分かる。
そういう想像をするのも、いいかげん慣れてきた。
砂嵐が重なっているみたいに、視界が灰色に、半分、透けて潰される。
……。
自分の席に向かおうとしたけれど、うまく、空間の奥行きがつかめない。
慎重に、一歩一歩、歩く。慣れているはずの教室の机の間の感覚さえおぼろげだ。
けれど、大丈夫。
自分の席について、息を吐く。
目を閉じて、深く深く呼吸をする。
音──音は──
ひゅーひゅー、びゅーびゅー、ざわざわ、ひゅるひゅる、
轟々、颯々、蕭々、轟々。
──があのとき──ッテ──タカら────でも──さ──レ──みた──で──アシ──さ
ため息をひとつ。
それから、落ち着け、と自分に言う。
──かいて──キ──で──アカ──しん──イえ──の──くが──たで──とき──
いずれ止む。
止むんだ、これは。
──だけどあ──シラ──んだ──ていうかあい──シ────シラナイ────
この音は、いずれ止む。
俺はそれを知っている、経験上。
──ざ──せん──イッテて──ど──ショセン────りだろ──カカヨ────いいがかりだ──
……そうなんだろうか。
ずきずきと、頭が痛む。目の奥が痛む。
それが徐々に、吐き気に近付いていく。
──きこえ──な──しら──てすと──きにあい──ドクネ────ろ────
喉の奥から、気持ちの悪い気配がせり上がってくる。
こらえろ、こらえろ。
数を数える、それに徹する。
一から順に、終わりが見えるまで、ずっと数えていく。
──えば────パイサ──きょとって──こうじこ──んだよ──あのば──ウマンシ──
目は、瞑っておく。目さえ瞑れば、問題は音だけだから。
音は……音は、耳元で、鳴り響いている。
頭の中を支配するみたいに、意識を全部もっていこうとするみたいに、響いている。
でも、いずれ止む。
……そうだろうか。
これまでがそうだったからといって、これからもそうであり続ける保証なんて、ひとつもない。
もしかしたら、この音はやまないのかもしれない。
その考えを否定して、数を、数える。
数える……数える……。
息をつく。
少し、音がマシになってきたが、吐き気がおさまらない。
気分が悪いままだ。
どうしようもないなと俺は思う。どうしようもない。
慎重に呼吸しなければ、どうにかなってしまいそうだ。
それでも、さっきよりマシになったのだから、いずれおさまるだろう。
「──さ、おまえ大丈夫──顔色──」
「……ああ、うん」
「まっさお──」
「いや、うん。朝から体調が、悪くてな」
「そっか。保健室──」
「大丈夫だよ」
「そっか。ならいいんだ」
ようやく、落ち着いてきた。
「いや、悪いな。心配かけて」
「……おまえがそんなふうに素直な反応すると、気持ち悪いな」
「……俺のことをなんだと思ってるんだよ」
「胡散臭いやつ」
「……ひどいぞ、それ」
……大丈夫、ちゃんと見えるし、聴こえる。
話しかけてきたのは、クラスメイトの男子。部活は違うが、話す回数は多い。
真中のことを訊いてきた奴だ。
そう、そのくらいのこと、わかる。
「まずそうなら言えよ」
「いや、平気」
「それにしても、三枝もそういうふうになることあるんだな」
「俺だって人間だぞ」
「ん。まあ、そりゃそうなんだけど。あんまりそういうイメージないからな」
「……」
そう言って、彼は去っていく。
昼休み、だ。昼食を、まだとっていない。
身体を軽く動かしてみる。もう、大丈夫そうだ。だいぶマシになってきた。
いつもながら心臓に悪い。教室で吐きでもしたら、人に迷惑がかかるだけじゃすまない。
まったく、俺の生活に暗雲がたちこめたらどうしてくれる。
と、音に文句を言っていても仕方ない。止まないのだから、慣れるしかない。
そのとき、不意に、雨の音に気付く。
一瞬混乱したけれど、どうやら現実に雨が降っているらしい。
ほっと、今度は安堵のため息が漏れる。
雨音に気付けるくらいに、落ち着いてきた。
この分なら、飯くらい食えるだろう。
純佳が作ってくれた弁当に口をつけないのは申し訳ない。
俺はそのまま、雨を見ながら弁当を食べることにした。
たぶん、大丈夫だ。……きっと、大丈夫だ。
◇
葉擦れの音は落ち着いたけれど、俺はその日、部活は休むことにした。
頭痛がひどく、耐えられそうになかった。純粋に体調を崩しているのかもしれない。
瀬尾のことを考える余裕が、今はない。
それでも、帰り道の途中でふと思い出して、例のメモをポケットから取り出した。
瀬尾の手紙。
今度は、内容を、どうにか理解することができる。
「机の角に足をぶつけることが増えました。なんだか、これまでと全然違う生活を送っているせいで、からだの感覚がすり減っているみたい。
そんなわけで、朝起きるたびに、最近のわたしはラジオ体操をしています。
といっても、ラジオなんてないからうろ覚えだし、ラジオ体操なんて小学校のときにやって以来だから、合っているかどうか自信はないんだけど。
まあ、そんな感じで過ごしています。さいわいこっちには本がたくさんあって、暇つぶしには困らないみたい。
これを最初に見るのは大野くんかな。どうなんだろう。三枝くんかもしれない。
最近わたしは変な夢を見ます(こっちの景色のほうが変な夢みたいと言えばそうなのだけれど、ともかく)。
その夢には、なんだか三枝くんがよく出てきます。どうしてなのかはよくわからない。
でも、三枝くんはわたしの夢の中で泣いています。
わたしたちはけっこう長い期間一緒に過ごしたはずだけど、わたしは三枝くんのことをなんにも知らないような気がする。
急にいなくなったせいで、思いつめていないか、最近はそんなことが妙に気がかりです。
ときどき無理をしているような気がしていたから。……こんなこと言っても、困らせるだけかもしれない。
でも、手紙なら素直に言えるような気がする。
わたしはいま小説を書いています。どうしてなのかはわからない。でも、書いています。
だから、心配せずにいてください。わたしは大丈夫だから。
瀬尾青葉」
大丈夫と自分で言うやつが、大丈夫だとは、あまり、思えない。
けれど今は、その言葉に甘えたい気がする。結局は俺の杞憂で、瀬尾は元気にしているんだと、信じたい。
家について、部屋に戻り、ベッドにうつ伏せに倒れ込むように身体を投げた。
葉擦れの音。これはいったい、なんなんだ。
泣き出したいような気分になる。
何に対する罰なのか、それとも、罰ですらないのか。
ただの、理屈に合わない、起きるだけの出来事なのか。
そうだとしたら、どうしてそれが、俺に起きるのか。
わからない。
なにもわからない。
俺はまともじゃない。
ずっと、まともじゃない。わかっていた。
──ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね。
──あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、
──あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?
──そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?
不満なわけじゃ、ない。
ただ、どうしても、ここが、この景色が、自分のためのものではないように思えてならない。
俺が本当にいるべきなのは、いや、本当にいるのは、あの暗い森の中で、
それ以外の風景は、俺が他の誰かから、不当に奪い取ったものだという気がする。
本当は焦がれている。そのすべてを、受け取りたいと思っている。
それなのに、どうしても、そうすることがおそろしい。
いつか誰かに、「返せ」と言われそうで。
「おまえのものじゃない」と、言われてしまいそうで。
どうしても、怖くてたまらないのだ。
こんなありようの人間だと、いずれ見透かされはしないかと。
◇
目を覚ましてから、眠っていたことに気付いた。
自分のベッドに身体を横たえて、布団を被っている。
ぼんやりする頭のまま、身体を起こす。
帰ってきてそのまま眠ってしまったのだろう、と思ってから、違和感に気付く。
制服のまま眠ったはずだが、寝間着に着替えている。
覚えていないだけで、ちゃんと着替えたんだろうか。
頭が痛むせいで、思い出そうとすることも難しい。
周囲を見ると、放り投げたはずの鞄は机の上に置かれている。
誰かが階段を昇る音が聞こえる。
ドアが開けられた。
「あ、起きましたか?」
入ってきたのは、
「……瀬尾?」
「え?」
……違う。
ちどりだ。
「……なんで」
「寝ててください。熱があるみたいですから」
「熱?」
「はい」
「……なんでちどりが」
さすがに頭が混乱する。いつもなら、『トレーン』の手伝いをしている頃だ。
いや、それ以前に、ちどりがうちを訪れる理由がない。
彼女は呆れたみたいに溜め息をついた。
「純佳ちゃんから連絡があったんです。『兄に連絡したのに、返事がない』って」
「純佳が?」
「はい。最近調子が悪そうだったから具合が悪いのかもしれないって」
「それで、なんでちどりが」
「純佳ちゃん、部活の大会が近くて練習に出なきゃいけないから、代わりに様子だけでも見に行ってやってくれないかって」
「……おせっかいな」
「迷惑だったとは言わせませんよ。三十八度三分です」
「計ったのか」
「計りました」
「悪かったな、面倒かけて」
「面倒では、ないです」
「なこと、ないと思うんだけど」
やれやれ、というふうにちどりは肩をすくめて、それ以降は反論もしなかった。
「純佳ちゃん、心配してましたよ」
「純佳は、心配性だから」
「そう思うなら、心配かけないようにしないと」
……だからこそ、心配をなるべくかけないように隠すんだと思うのだが。
いや、べつに、純佳に隠そうとしていたわけではない。
「……気付かなかった。熱があるなんて。頭が痛いとは思ってたけど」
「無頓着すぎます」
珍しく、ちどりは怒っているみたいだった。
「ひょっとして、土曜から調子が悪かったんですか?」
「そんなことは、ないけど……」
「でも、ちょっと様子、おかしかったです」
「そんなことはない……」
「さっきから、否定してばっかりですね」
「……ちどりが、俺の言ってること、聞いてくれないから」
ふう、と彼女はまた溜め息をついた。
「とにかく、横になってください。いい子ですから」
今度は俺が溜め息をつく番だった。
「子供扱いするなよ」
「体調管理もできないなら、子供と一緒です。子供だって、具合が悪かったら自分でわかります」
うまく言い返すことも出来ずに、俺は身体を横たえた。
「……店の手伝いはいいのか」
「今日はお休みです。もともと、忙しい店でもないですし、趣味で手伝ってるだけですから」
「趣味だったんだ……」
「はい。実は」
話しながら、ぼんやりとちどりの顔を見る。
やっぱり、似ている。まるっきり同じではないけれど。
髪型だって、雰囲気だって違う。でも、どうしてなんだろう、本当に瀬尾とちどりはそっくりだ。
「ちどり」
「……はい」
「助かった」
「……んふふ」
「……」
珍しいものを見たという気持ちになる。
悪戯っぽい表情が、普段とは別人みたいだった。
普段は、丁寧で控えめな雰囲気のちどりだけど、もともとのイメージはそれとは違う。
もっと子供っぽくて、わがままなところがあった。
年をとるにつれて、だろうか。そういう態度を見せることは少なくなっていった。
「感謝してるなら、ありがとうって言ってください」
「ありがとう」
「うん。よいこです」
「……子供扱いするなって」
「じゃあ次は、『ありがとう、ちどり。とっても嬉しいよ』って言ってください」
「調子に乗るな」
「言ってくれないんですか?」
「……とっても嬉しいよ、ちどり」
「棒読みですけど、許してあげます。……熱、計りましょうか」
「……ん」
なんとなく、言いなりになっていることに不服を覚えながら、体温計を差し出されて受け取る。
本当に子供にでもなったみたいな気分だ。
「こうして隼ちゃんと会うのも、ひさしぶりですね」
「……そうでもないだろ? 店で会ってただろ」
「店は店です。お父さんだっていますし、お客さんだっていますし、わたしも仕事中ですから」
「……まあ」
「わたしはもっとお話したいの、がまんしてたんですよ」
「……」
そう言われてもな、という気持ちになる。
「ちどりが俺を避け始めたんじゃないか」
「それは、隼ちゃんに彼女ができたからじゃないですか」
「……」
どうしたものかな、と迷う。
「あのさ、ちどり」
「……はい?」
「実はさ、嘘なんだよ、それ」
「……え?」
ちどりは目を丸くした。
「彼女ができたって話」
「……え?」
何を言っていいかわからない、という顔を、ちどりはした。
それはそうだろう。もう何年目かもわからない嘘だ。
今までずっと隠していたこと。
「嘘なんだ」
詳しい説明は、できない。
どうしていま、言ってしまうんだろう。
そもそも、どうして俺は、今の今まで、ちどりに言うことができなかったんだろう。
俺が真中の嘘に付き合ったのは、ひょっとしたら、ちどりを割り切るためだったのかもしれない。
「だって、でも……」
「うん。言いたいことは分かる」
「だって、わたしたちと同じ中学の子で、純佳ちゃんも知り合いで……」
「うん。それはそうなんだけど」
「嘘って」
「嘘なんだ」
「じゃあ、隼ちゃんは……」
「……うん」
「年齢イコール彼女いない歴……」
「表現」
ずっと嘘をついてたんですか、とでも言われるかと思っていたのだが、思いの外軽い表現だった。
「……そんな」
とはいえ、やっぱり衝撃だったみたいだ。それはそうだろう。
嘘にしては、あまりに期間が長過ぎる。
「いろいろ、事情があってな」
「……事情、ですか?」
「うん」
「純佳ちゃんは、知ってるんですか」
「……知らない、はずだけど」
勘付いては、いるかもしれない、とも思う。
昔から純佳にはそういうところがある。
「……そう、だったんですか。なんかわたし、ばかみたいですね、ひとりでいろいろ気を使って」
「いや……まあ、俺が悪い」
「でも、事情があったんですよね」
「まあ……」
「……話してほしかったです」
返す言葉もない。
ちどりはしばらく、考え込むように黙り込んだままだった。いろいろ、整理しているのかもしれない。
やがて彼女は、ぼんやりとした表情で俺の腕を掴んで引き寄せると、そこに唇をつけ、
俺の手の甲を噛んだ。
がぶりと。
「痛い痛い」
「……あ、つい」
「ついじゃないよ。おまえは犬かなにかか」
「わん」
「わんじゃねえよ」
茶化すみたいな調子だが、顔には笑みひとつ浮かんでいない。まだ混乱しているのかもしれない。
「……わたし、ばかみたいじゃないですか」
言いながら、また手の甲に唇をつけ、歯を当ててくる。
不満のあまり攻撃してきたというよりは、そうしていないと落ち着かないみたいに。
生暖かい感触に戸惑いつつ、思い出す。
……そういえば、子供の頃、ちどりには、『噛み癖』があった。
攻撃、というよりは……赤ん坊のおしゃぶりみたいに、甘噛みする癖があった。
「怜ちゃんが転校しちゃって、隼ちゃんに彼女ができて……ふたりと距離ができて。
距離を置いたのは、わたしかもしれないけど、でも……寂しかったのに」
「……」
「ひどいです」
手を掴まれたまま、懇願するみたいな目で見られて、困る。
こんなつもりで伝えなかったわけでもないし、こんなつもりで伝えたわけでもない。
「悪かったよ」
「……許しません」
ちどりは、俺と目をあわせずに、俺の手を見ていた。
それから、今度は指先をくわえて、人差し指の付け根に歯をあわせた。
「ちどりさん……あの」
返事はない。他にどうしたらいいのかわからないみたいに、ちどりは俺の指を噛んでいる。
「あのな、ちどり。子供じゃないんだから、やめろ」
「……今だけです。悪いのは、隼ちゃんだから」
「……そりゃ、悪かったけどさ」
さすがに、落ち着かないし、困る。
というより、これはさすがに、まずい。
人差し指の先端に、ちどりの舌先が触れる。
「ちどり」
すねたみたいに、ちどりはこっちを見ない。
……まずい。これは。
ちどりだって子供じゃないし、俺だってもう子供じゃないのだ。
俺はひそかに自分のなかで何かがうごめくのを感じ、
その事実に、
怯える。
「……ちどり」
からだが、こわばるのを感じる。
それが伝わっただろうか。
ちどりは、ようやく我に返ったみたいに、口を離した。
「あ……ご、めんなさい」
「……ん」
俺は、自分の指先を見る。
人差し指の先に、歯の跡が残っている。
痛みはない。
ただ、暖かに圧迫された感覚だけが残っている。
「……わたし、なにか、拭くもの、とってきますね」
逃げるみたいに立ち上がって、ちどりは部屋からぱたぱたと出ていった。
顔は見えなかったけれど、耳がほのかに赤かったのに気付く。
こんなつもりで伝えたわけじゃない。
熱のせいか、いまの光景のせいか、ほのかに濡れた指先のせいか、
それとも、それ以外の何かのせいか、
頭がぼんやりとしたままだ。
「頭が、おかしいのか、俺は……」
おかしいのかもしれない。おかしいんだ、きっと。
こんな……こんなありさまは。
──だから、心配せずにいてください。わたしは大丈夫だから。
自分が、何を考えるべきなのか、どうあることが誠実なのかわからなかった。
ちどりの混乱が、俺にまで伝播したみたいだ。
ちどりが寂しがってるなんて、それがここまでなんて、まったく気付かなかった。
自分が彼女にとってそこまでの存在だとは、思っていなかった。
卑屈と傲慢は、紙一重なのだと思った。
つづく
続き
傘を忘れた金曜日には【4】

