前回
傘を忘れた金曜日には【1】
◇
市川鈴音が部誌づくりに参加することになった。
瀬尾と俺と真中、大野と、そして市川……鈴音。
トントン拍子という言い方が正しいかはわからない。
結果として、参加メンバーは(人数に数えるかどうか微妙な人間がいるにせよ)五人となった。
とはいえ、だ。
人数が増えたところでやることは変わらない。
俺と瀬尾は内容を書かなきゃいけないし、真中がどうするつもりであるにせよ、がんばって書いてもらうしかない。
鈴音に関してもそうだろう。
結局の所、力を合わせてどうこうするような活動じゃない。
個々人が努力して仕上げることしかできないのだ。
そんなわけで、俺たちは部活動の時間を部誌の原稿作りの作業のための時間にあてることにした。
作業を実際にしていくかどうかは自由だ。
本を読んでアイディアを集めているのだと言い張ってもよし、ノートに落書きをしていてもよし。
瀬尾はノートを開いて何かを書きはじめてしまったし、真中はひとりで本を読んでいる。
真中が実際に何かを書いてくれるかどうかは、まあ、微妙というところか。
鈴音はというと、物珍しそうに他の人間がしていることを眺めている。
さて、俺もノートを開いて、何かを書かなくては、と思ったところで考えに詰まる。
何も思いつかないのだ。
これが初めてではない。最近はずっとそうだ。
書くことが何も思いつかない。
何もかも、書くに値しないことのように思えてしまう。
文章を書くという行為は、取りも直さず自分自身の中にある何かに触れることのように思える。
それは欲望であったり、暗闇であったり、絶望であったり、空虚であったりする。
俺たちはそれを知識と知恵とユーモアとアイディアで脚色し、形を整え、あの手この手でこねくり回す。
けれど、一度書き上げてしまったものは、手を離れていく。
欲望、暗闇、絶望、空虚。
それらは文章という手段を経て形式を与えられる。
けれど、だからといって、自分自身の中からそれが消え去っていくわけではない。
それは絶えずそこにあり、文章によって癒えることはない。
だから、文章を書くことが、本来的に無意味に思える瞬間がある。
さくらのことを思い出して、さっきのことを思い出して、
でもそれが、文章を書けない自分自身からの逃避にしか思えなくなる。
からっぽな自分自身からの逃避に思えて仕方ない。
「ねえ」
「……」
声をかけられて顔をあげると、鈴音がそばに立っていた。
「……なに?」
「ちょっと、聞いてみたいことがあって、いいかな」
「なに」
「ここだと、ちょっと」
「……」
無言のまま立ち上がって扉へ向かうと、鈴音は黙ってついてきた。
「ちょっと飲み物買ってくる」
声をかけると、真中は静かに頷いた。瀬尾は、やっぱり俺を睨んでいる。
東校舎の一階、渡り廊下の傍に自販機がある。
俺と鈴音はそこに向かって、ついでに紙パックのジュースを買った。
カフェオレにストローを挿し込みながら、俺は鈴音に訊ねかける。
「それで?」
「うん。三枝くんの書いた小説のことなんだけど」
「隼でいい」
「え?」
「不平等だろう」
「……ん。わかった。隼くんの書いた小説のことなんだけど」
そこで鈴音は一旦言葉を止めた。
「こないだの質問と一緒か?」
彼女はこちらの方を見た。
――どうして、あんな話を書いてるの?
――べつに書きたくなかったんでしょう?
「だったら、答えられないよ」
「それも訊きたいことは訊きたかったんだけど、それとは別」
「別っていうと?」
「わたしが訊きたかったのはね、内容のこと」
「……内容?」
「そう。前にした質問は、わたしの個人的な印象の話だったから」
印象、と俺は頭の中で繰り返す。
そして訂正する。印象ではない。それは事実だ。
「今回は別のこと。本当はこんなことを聞くのってよくないのかもしれないけど」
「言ってみなよ」
「うん。前に読んでて不思議に思ったんだけど」
「うん」
「あれ、フィクションなの?」
「……」
「それとも……」
「あのさ、市川」
「うん」
「あんなおかしなこと、現実にあるわけないだろ?」
「……そっか」
書いた小説の中身。
神さまの庭のお話。
◇
その日の部活は、結局たいした成果もなく終わった。
もちろん、鈴音が部室に来たというだけで十分すぎる結果とも言えるのかもしれない。
部室を出ると、また真中に声をかけられた。
「せんぱい、今日はバイト?」
「いや。なんもない」
「途中まで一緒に帰ろ?」
「……ん」
さすがに今度は、この前みたいにどういうつもりだと聞く気にもなれなかった。
どうせ帰るだけだ。
昇降口までの道を歩く途中だけで、真中は二回ほど知らない女子生徒に話しかけられていた。
たぶん、一年生だろう
「彼氏さん?」と囃し立てられながら、「うん」と素直にうなずく真中になんともいえない気持ちを覚える。
もうそれも飽き飽きだ。俺の方だって、本当に問題があるならとっくに解消したってよかったのだ。
それをしないのは、俺に不都合があるわけじゃないから、という理由に過ぎない。
いや、本当は、不都合はあるけれど、それを真中に明かすつもりになれないというだけかもしれない。
もしかしたら、都合よく利用しているのは俺の方なのかもしれない。
そんなことを考えていても仕方ないので、割り切ってさっさと校内を出る。
春も終わり、ずいぶん日が長くなって、なんだか時間の流れまで変わったみたいな気分だった。
「せんぱい」
「ん」
校門を過ぎたところで、隣を歩く真中が口を開いた。
「さっき、鈴音先輩と何話してたの?」
「……」
思わず口ごもったのは、話の内容が言い出しにくいものだったというのもあるが、真中の視線が妙に冷えていたからでもあった。
……なんで俺が、浮気を目撃された亭主みたいな気分にならなきゃならんのだ。
仕方なく、俺は進行方向の景色だけを眺めることにする。狭い車道には歩道もない。
大通りに抜けるまでは、ほとんど学生用の歩行者天国だ。
「べつに。去年の部誌のこと」
「去年の?」
「そう」
「せんぱいも、書いたんだよね」
「ああ。たいした量書かなかったけど」
「ほんとにそれだけ?」
「そうだよ。他に話すことないし」
これは本当だ。あのあと、べつに会話だって弾まなかった。
鈴音は妙に俺の小説のことが気になっていたみたいだけど、俺だって馬鹿じゃない。
話すべきじゃないことくらい自分で判断できる。
「そっか」
真中は、納得したような、していないような、よくわからない顔をした。
「……せんぱい」
少し歩いてから、また真中が口を開いた。
「なんだよ」
「あのね、もし、もし、本当に、せんぱいが嫌だったら」
「嫌、って?」
「わたしのこと」
さすがに俺は、真中の方を見る。
彼女はもう、こっちを見ていなかった。うつむきがちに地面を見ている。
「もし、嫌になったら、教えて」
「……どうしたんだよ、急に」
「わたしが邪魔になったら、ちゃんと教えてね」
「あのな、真中。俺がおまえのことを邪魔だって思ってたら、とっくの昔におまえとの縁なんて切ってるぞ」
「……」
「俺がそんなに心優しい人間だとでも思ってるのか?」
真中は、こちらを見ないで首を横に振った。
それはそれで腹が立つ。
「せんぱいのは、でも、やさしさじゃないから」
またこれだ。わからないようにばかり喋る。
それについてはお互い様か。
でも、案外、図星をつかれたのかもしれない。
表情は、よくわからない。
いつもどおり平然としているようにも見えるし、勘違いじゃなければ、少しつらそうにも見える。
でも、やっぱり俺には、彼女の表情の変化はよくわからなくて。
そして真中は、次の瞬間には顔をあげて俺を見て、いたずらっぽく、ほんのすこし、そうと分かるくらいの控えめな笑みを作った。
だからもう、俺はなんにも言えなかった。
彼女は俺の肩越しに空を見て、「もうすぐ夏だね」なんて言う。
いや、と俺は否定しそうになって、言葉をとどめた。
その前に、雨の降る季節が来る。
真昼でも暗い季節が来る。
「ね、せんぱい」
「ん」
「わたしのことも、柚子って呼んでよ」
「……」
「鈴音先輩のことは、下の名前で呼んでたでしょ?」
そう言ったときの彼女の表情が、見たことがないみたいなきれいな笑顔だった。
こいつは魔性だ、と俺は思った。
きっと、みんなこの笑顔にやられたんだと思う。
だからきっと、こいつは笑わなくなったんだ。
わかったよ、と、そういうことしかできなかった。
◇
家に帰ると、純佳がまたドラマの再放送を見ている。
「ただいま」
「おかえりなさい」と純佳はチョコレートを頬張った。
「だらけてるな」
「だらけるの得意です」
いまいちよくわからない返答を受けとりながら、俺はカバンを置いた。
「兄、なにかありました?」
「ん。なにかって」
「変な顔してます」
「生まれつきだよ」
「違いますよ。兄は子供の頃はそこそこ可愛い顔してました。なので生まれつきではないです」
とにかく今は変な顔だと言いたいらしい。
「冗談はさておき、不思議な顔をしています」
「どんな」
「わたしにはわかります」と純佳は言う。
「兄、柚子先輩と喧嘩しましたね」
「してない。ハズレ」
「おかしいな」
純佳は首をかしげている。
「じゃあ、なにか変わったことが学校でありましたね」
「……なにかって?」
「これは図星みたいですね」
さすがに妹の目は欺けない。
というより、やはり俺がわかりやすいのかもしれない。
純佳は袋に包まれたままのひとくちサイズのチョコレートを俺に差し出して、ソファの自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「まあ、座ってドラマでも見ようではないですか」
ドラマの中ではたまたまバスに乗り合わせたひねくれ者の男と神経質そうな女医が夫婦に間違われて腹を立てている。
「話くらいなら聞いてあげてもいいですよ」
「いいよ、べつに、話したいことなんてないから」
「そうは言っても兄が本心ではわたしに相談したいと思っているのをわたしは知っています」
「何を根拠に」
「少女純佳はエスパーですので」
知らない設定が出てきた。
「エスパーはごまかせないな」
べつに本当に相談したいと思っていたわけではないけれど、たぶん純佳が俺の話を聞きたいんだろう。
ソファに腰掛けると、純佳が急に俺のほっぺたを指先でつついた。
「なんですか」
「特に意味はないです。緊張をほぐそうと思って」
「緊張なんて……」
してない、と言おうとしたときに、自分の肩になんだかひどく力が入っていることに気付いた。
やっぱりお見通しらしい。
「純佳にはかなわない」
「うん。兄は純佳にはかなわないです」
これだ。どうしようもない。
「だから教えて」
笑いやがった。
本当に、俺の周りの女は笑うタイミングが巧すぎる。
「いいけど、笑うなよ」
「それは、内容次第ですね」
そう言って彼女はまたひとつチョコレートを頬張った。
でもきっと、純佳は笑わないだろうなと思った。
昔からずっと、こいつは俺のドクターだった。
良きにつけ、悪しきにつけ。
どれを話せばいいんだろう。
思い出せるのは、さくらのこと、真中……柚子のこと。
でも、頭を悩ませていたのは、本当はどちらでもなかった。
「純佳は、夢を見ることがあるか」
「夢? 夜寝ているときの?」
「うん」
「それは、まあ、ありますよ」
「そっか」
「……また夢ですか」
ぼそりと、そう呟いた言葉の意味が、俺にはうまくつかめなかった。
「またって?」
「……あ、いえ。以前にも、そう、他の人に、同じようなことを言われたことがあって」
「……他の人?」
「ええと、兄の知らない人です」
あからさまに、何かをごまかしたみたいに見える。
知らない人、とわざわざ言ったということは、俺の知っている人に似たようなことを言われたということだろうか。
まあ、純佳が言わないなら、なにか理由があるんだろう。
それに、他人の相談事を問いただす趣味もない。
「それで、夢がどうかしたんですか?」
――前に読んでて不思議に思ったんだけど。
――あれ、フィクションなの?
市川鈴音のその言葉が、なんだか無性に突き刺さって仕方ない。
「夢を見るんだ。ずっと同じ夢」
「……」
「俺は、気付いたら、森の中の、どこか開けた場所に立ってるんだ」
太陽は中天に浮かび、燦々と日差しを撒き散らしている。
吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、影は川の流れのように姿を変える。
その隙間にさしこむ木漏れ日は枯れた噴水に溜まった雨水をちらちらと照らす。
噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
木々を背景に、迷路の入り口のように、滝の飛沫のように藤の花が揺れている。
周囲には人の気配もなく、動くものといったら、風と日差しと影と雲くらいだ。
その藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。
俺は、そこに向かわないといけない。
誰かが、そこに向かった。
追いかけないと、探しに行かないと、見つけないといけない。
俺はそのとき、誰かと一緒にその場所にいた。
自分よりも少し背の高い女の子と一緒にいた。
藤棚を抜けて、俺はその先の森の迷路に向かわなきゃいけない。
迷路の先は、暗い暗い、夜に繋がっている。
俺は、それを既に知っている。
そういう夢だ。
「その夢が、どうしたんですか?」
「……変じゃないか。昔からずっと、同じ夢を見るって」
「でも、そういうことってありますよ。わたし、遅刻する夢ばっかりみるもん」
「うん。そうだよな」
それはわかっている。
問題はそれが、ただの夢とは思えないことだ。
ほとんど妄想だと、自分でもわかっているけれど。
それになにか意味があるような気がして、結局、俺が去年書いた文章だって、その素描にすぎない。
その感覚を、鈴音は見抜いたんだろうか。
だとしたら――。
……眼光紙背ってやつだな。
そう考えると、たいした出来事でもないような気がしてきた。
「……なにかあるんですよね」
そこで、純佳が俺の方をじっと見ていることに気付いた。
「そんな話、ただ同じ夢を見るってだけだったら、そんな顔しないです」
そう言って、彼女は俺の耳を指先で掴んだ。
引っ張るというよりは包むみたいな感じで。
どうしてかわからないけど、俺と純佳は話しているとき、相手のからだのどこかに触れることが多い。
自分でもどうしてそうするのかわからない。
俺がそうしていたから純佳が真似するようになったのか、純佳がそうするから俺も真似するようになったのか。
「まあ、そうなんだけど、よく思い出せない」
「……というと?」
「そこに行ったことがあるような気がするんだ」
「……えっと。そんな変な場所に?」
「うん。ずっと昔」
「それって……」
「ん」
「いつのことですか?」
「いつって……わからないよ。そんな気がするだけだから」
「……そうですか」
純佳はようやく俺の耳から指先を話したかと思ったら、そのまま俺の後ろ髪をたしかめるように手のひらで触った。
俺は彼女のほっぺたを人差し指でつついた。
「純佳、変な顔してるぞ」
「……変な顔?」
「うん。何か考えてる顔」
「それは否定しませんけど。でも、兄には教えてあげません」
「どうして?」
「……いえ、ちょっと自分で考えたいんです」
それなら別にいい。
頬をつつかれていてもなされるがままにされている。
おもしろい。
それから俺たちは、なにか話をするでもなく、夕飯の準備をはじめるまでずっとそうしていた。
最後にはなんでか指相撲がはじまった。
なんでか俺は勝てなかった。
◇
その晩、部屋に戻ると、瀬尾からメッセージが届いた。
「いくつか問う」
と彼女は言う。
「なんだね」と俺は問い返した。
「市川鈴音さんとはどういう関係か」
……邪推されている気がする。
「なにもない」と一言送ってから、「本当に、なにもない」と追撃した。
「わかりました」とメッセージが届く。
「それでは、部活の前に会っていた子は?」
これにはさすがに反応に困った。
「その子のことは、たぶん改めて説明すると思う」
「どゆいみ?」
「たぶんその方が話がわかりやすくなる」
それでは説明が足りないと思い、付け加える。
「俺もよくわかってない」
「ふうん?」
わかった、じゃあそれはいい、と、瀬尾はあっさりしていた。
「それはともかく」と続く。
「副部長はもう少しゆずちゃんに配慮すべきだとわたしは思う」
なるほど。
まあ、瀬尾からみたら、たしかにそういう話になるのかもしれない。
今のところに、瀬尾に真中の――柚子のことを話す気はない。
柚子が芝居を続けるつもりなら、あいつに合わせるのが一番だろうから。
だったら、もう少し上手く立ち回るべきなのだろう。
そういう意味では、市川鈴音との絡み方はしくじりだった。
あいつの空気感みたいなものにしてやられて、下の名前で呼ぶことを承認してしまった。
これに関してはどう言い訳しても所詮自己弁護にしかならないのだが、俺は柚子を下の名前で呼ばないように最新の注意を払ってきた。
距離感を詰めて本気になったらまずいと思ったからだ。
その注意を市川に払えなかったのは、ひとえに彼女の空気感のせいだとは思うのだが、やはり言い訳がましい。
こうなってしまった以上は、仕方ない。
これまで以上に気をつければいいだけだ。
「気をつけるよ」とメッセージを送ると、「そうしなさい」と返信が来た。
納得しているかどうかで言ったら、たぶんしていないだろう。
そんなわけで、翌週の月曜の朝、俺はいつもどおりに純佳に起こされて学校へと向かった。
いくらか時間的余裕があったので、話をしようと瀬尾の教室に向かう。
二年二組。
瀬尾は既に教室に来ていた。どうやら、自分の席で友だちと話をしているらしい。
どうしようかいくらか迷ったけれど、結局声をかける。
「瀬尾」
何人かの生徒の視線が一気にこっちを見る。こういうのは苦手だ。
瀬尾のところまで近づくと、彼女の友人らしき何人かの視線が集中した。
本当に勘弁していただきたい。
「ちょっと話がある」
「え、なに……?」
「ちょっと」
「うん」
「……ちょっと、ついてきて」
「……あ、うん」
そう言ってようやく、瀬尾は俺の言葉の意味を把握したみたいだった。
教室を抜け出して、とりあえず廊下で話す。
「こないだの話。ちょっと聞いてもらいたいことがある」
「え、わたしに?」
「そう。誤解されるとたまらないから」
「……誤解ってなに」
「ちょっと、いろいろあるんだよ」
外は生憎の曇り模様。五月とはいえ、日差しがないと気温も景色も寒々しい。
廊下にはあまり人影もなかった。
渡り廊下を渡って、俺達は東校舎の屋上へと向かった。
あいつが居れば話が早いし……居なければ困る。
でも、居るだろうと俺は思っていた。
でも、いなかった。
ただ曇り空が浮かんでいるだけだ。
「話って……なに?」
辺りをきょろきょろ見回してみるけれど、やっぱりさくらの姿はない。
きっとここに来れば会えると思ったのだけれど、思い違いだったのか。
「ねえ、副部長!」
さすがに振り返ると、瀬尾は、妙におろおろしていた。
「なんなの。怒るよ……?」
妙にむっとした顔をしているのに気付いて、さすがにちょっと戸惑う。
さすがに、話をしているところを半ば無理やり連れ出したのはまずかっただろうか。
「……いや、悪い」
頭の中だけであれこれ考えて、人に話さないのは、たぶん俺の悪い癖だ。
「こないだの話で、ちょっと説明したいことがあったんだ。それで、ここに来れば居ると思ったんだけど」
「居る? って、誰が?」
「……まあ、会ってみれば分かると思うんだけど」
それにしても、いないなんてこと、あるんだろうか?
「……さくら!」
物は試しと名前を呼んでみる、が、やはり出てこない。
面倒な説明は全部任せてしまおうと思ったのに、無駄足だったか。
「……副部長?」
怪訝げな瀬尾の視線が痛い。
「出てこい、さくら! キミにきめた!」
「……なにやってんの、副部長」
……恥を重ねるだけになりそうなので、諦めよう。
と思ったところで、背後から声が聞こえた。
「まったくです。何をやってるんですか、いったい」
さくらがいた。
「……性格悪いぞ、おまえ」
「慎重を期したと言ってください。あなたが話も通さずに強行策に出るからです」
「でも、結局来たんだろ」
「ええ。一応、確認したかったこともありましたし」
そう言ってさくらは、ちらりと瀬尾の方を見た。
「……こないだの」
と、やはり、瀬尾は言う。
目は、しっかりとさくらの方を見ている。
やっぱり、
「見えているみたいですね……」
考えたことを、さくらが同時に呟く。
瀬尾は、少し混乱しているみたいだった。
「あれ、今、どこから……」
「……どういうつもりなんです」
瀬尾には反応せずに、さくらが俺の方を見る。
「少し考えたんだけど、おまえのことを説明しとかないと、あとでこいつに面倒がかかるかもしれない」
「……まあ。まあ、そうなりますね」
そっか、それはそうですね、と、さくらはこくこくと頷いた。
「たしかに、あとで面倒になるよりは、最初に話していた方がいいですね……」
「ね、何の話してるの? 副部長。わたしに関係あることなんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど。俺も上手いこと説明できそうにないんだ。こいつのこと、俺もよくわかってないから」
だから、と俺はさくらの方を見た。
「本人から直接説明を、と……思ったんだけど」
さくらの様子が、少しおかしい。
いかにも不審そうに、瀬尾を眺めている。
「……やっぱり、あなたもましろと同じ」
「……さくら?」
かと思うと、今度は俺の方を見て、いかにも不可解そうに眉をひそめた。
「どうして、あなただけ……」
前に言っていた、「変な気配」という奴のことか。
そんなの、俺に分かるわけもないが……。
考え込むさくらを見ていると、瀬尾はじれたみたいに声をあげた。
「ね、置いてけぼりにしないでよ。ちゃんと説明して。いったい何の話?」
「……確認は済みました、けど。どうするつもりで連れてきたんですか?」
俺が考えてることなんて、とっくに気付いていそうなのに、さくらは訊ねてくる。
「……あ、そういう」
どうやら、今ようやく考えを読んだらしい。
「うん。そういうことだ」
なるほど、とさくらは頷く。俺は瀬尾の方を見た。
「な、瀬尾。とりあえず、話を聞いてほしいんだけど」
「だから、聞くって」
「こいつ」と、俺はさくらを指で示す。
「この学校の守り神」
「は?」
「そんで、俺たちにしか見えない」
「……何言ってるの?」
「まあ、詳しくは説明するけど、とりあえず」
どう言ったもんかな、と少し考えてから、まどろっこしくなった。
「おまえも協力しろ」
「……え?」
瀬尾はきょとんとしていた。
さくらはそれから、俺にしたのとだいたい同じような説明を瀬尾に繰り返した。
こうしてちゃんと話したところで嘘くさくなるし、納得できるような話でもない。
だったら巻き込んでしまえばいい。
しかも、こういうのはたぶん、俺よりも瀬尾のほうが得意分野だろう。
おせっかいを焼くのが好きなやつにはもってこいだ。
「……つまり、どういうこと?」
瀬尾は、話の内容を理解できないというより、本気で言っているのか、というふうに首をかしげた。
からかわれてると思ってるのかもしれない。
さて、困った。たしかに俺だって、最初は戸惑っていたのだ。
信じるまでには、いくつかの状況が必要だった。
心を読まれたこと。
姿が他の人間に見えなかったこと。
どうしたものか、と迷ったけれど、
「そういうことなら」
とさくらが口を開いた。
「わたしに任せてください。ちょっと、外に出ていてもらえますか?」
そう言われて、俺はすぐに屋上を出てふたりきりにした。
少し経って、扉の向こうから「もういいですよ」とさくらに声をかけられる。
屋上に戻ると、瀬尾が膝をついてうなだれていた。
「……どうした、瀬尾」
「なんでもない。信じた」
なにやらショックを受けているが、やはり手っ取り早い方法だったと言えるだろう。
いったいどんな方法を使ったかは知らないが。
「あなただって反対しなかったでしょう」
と、心を読まれた。これを使って証明されたら、それはさぞかしショックだろう。
とはいえ、それにしても、尋常ではない気がする。
いったい何を言ったんですか。
「それを教えるのは、さすがにやめておきます」
「……副部長!」
「え、なに」
「聞かないでよ、その子に」
思いの外、真剣な様子だった。
「……さくら、おまえ、やり方を少しは考えろよ。だいぶダメージあるみたいだぞ」
「やり方はあなたが考えました」
「じゃあ、内容」
「それに関しては、わたし任せだったでしょう」
「……酷いやつ」
愛がどうこう言ってた奴と同じとは思えない。
「聞かれたくないことは言わないし、たぶんさくらも言わないよ。心配すんな」
「……ひどい。あんまりだ」
すっかり落ち込んでしまっている。なんだか少し意外な気がした。
瀬尾に、そんなにも隠したいことがあるというイメージがなかった。
いつも素直で、腹芸が得意なイメージなんてまったくない。
そりゃ、誰にだって、そういう秘密くらいあるだろうけど……。
「それで」
と、さくらは話を続けた。
「話はわかってもらえたと思うんです。べつに、あなたを不快にさせたくてこんなことをしたわけじゃないってわかってくださいね」
「……よく言うよ」
瀬尾は、うめくみたいに答えた。
「でも、わかった。本当だってことは、わかった」
頭を落ち着かせようとするみたいに、彼女は額を抑えて目を瞑る。
「とりあえず、立った方がいい」
自分が蹲っていることにようやく気付いたみたいに、瀬尾は立ち上がり、
「……ごめん」
となぜか謝った。
「……大丈夫?」
一応訊ねると、彼女はこほんとひとつ咳払いをする。
「大丈夫。話はわかった」
さっきからそれを繰り返していたけれど、今度はいくらかしっかりと口調だった。
「話はわかったけど、意味わかんない。……どうして、そんなことをしなきゃいけないの?」
「どうして?」
さくらはその言葉を繰り返した。
「どうしてって、理由が必要ですか?」
心底疑問だというふうにさくらは問いかける。
これは、けれど、俺にはない視点だった。
俺がさくらの『使い』を引き受けたのは、俺の個人的な心理事情に依る部分が大きい。
いくらちゃんと説明したところで、瀬尾が引き受ける道理なんて、ないと言えばないのだ。
そもそも、どうしてさくらが、縁を結ぶ必要があるんだろう。
それを俺はまともに考えたことがなかった。
さくらはこの学校の守り神だ。逆を言えば、この学校以外の縁は結べない。
ということは、さくらがいなくても、人と人は出会うし、結びつくのだ。
どんな場所にでも守り神がいて、そこに役割分担があるというなら話は分かる。
けれど、少なくともさくらはそんな話はしていなかった。
「世界は愛に満ちています」
と、さくらはまた繰り返した。
「でも、それはとても細く弱々しい糸です。だから、誰かがそれを繋ぎ止めなきゃいけないんです」
「それが、あなたってこと?」
いかにも納得いかない、というように、瀬尾は少しだけ眉を吊り上げた。
「それって、余計な介入なんじゃないの?」
急に口調を尖らせてそう言った彼女に、戸惑う。
どうしてそんなに過敏になったのか、わからなかった。
「あなたが介入したせいで失われてしまった縁も、ひょっとしたらあるんじゃないの?」
「……」
「どうしてあなたが、その縁を判断する立場にあるの?」
「瀬尾」
「大事なことだから、聞きたいの。副部長。ねえ、それはあなたの恣意で判断していい事柄なの?」
「……」
さくらは答えなかった。
ただ、黙って瀬尾の顔をじっと見ている。
そして、短く、
「じゃあ、“あなた”はどうなんですか?」
と、瀬尾に向かって小さく呟いた。
「……わたしが、なに」
「あなたは、何も変えないんですか?」
「……おまえら。俺に分かるように話せ」
さすがに口を挟むと、ふたりは気まずそうな顔をした。
「べつに、そこらへんはいいだろ。大事なのは、ましろ先輩がこいつの手伝いをしてて、俺もこいつを手伝ってるってこと。
そりゃ恣意的かもしれないけど、基本的には背中を押してるだけだろ。悪いこと考えたって仕方ない」
「……誰かと誰かを結びつけることで、他の誰かがその誰かと繋がれなくなったとしても?」
「でも、その誰かと結び付けないことで、その誰かと誰かは繋がれなくなるわけだろ。結果はおんなじだ」
瀬尾はそれでさすがに黙った。
どうして、こうなったんだ。
「とにかくそれで、どうせだったら瀬尾に手伝ってほしいわけ」
「なんで」
「さくらのこと、見えてるからだよ」
「……」
「とりあえずさ、やってみない? って言っても、俺も、こいつの言いなりになってるだけなんだけど」
「……仕方ないから、引き受けてあげる」
案外、瀬尾は素直だった。
「円満解決ですね」
……そうなんだろうか?
よくわからなかったけど、結局チャイムが鳴って、その朝はそれで終わった。
◇
そんなわけで、俺と瀬尾の会話は昼休みに持ち越されたわけだが、
授業が終わってすぐに彼女は俺の教室にやってきて、「副部長、ちょっと来て」と入り口から俺を呼んだ。
衆目を浴びるのが苦手な人間の立場も考えてほしいものだ。
瀬尾は俺を引っ張って階段を降りていく。途中で廊下を歩く真中――柚子とすれ違う。
ひらひらと手を振ってみせると、彼女はきょとんとした顔のまま手を振り返してきた。
引きずられるみたいにして瀬尾に連れて行かれたのは、中庭のケヤキのそばだった。
「どうした」
「どうしたもこうしたもないでしょ。ないよね?」
いかにも切羽詰った様子だった。
「今朝は納得した様子だったじゃないか」
「そりゃ、あの子の前ではそうするしかないもん。あんなの脅迫だよ」
脅迫。脅迫ね。
まあ、正しいと言えば正しい。が、「あの子の前では」ということは、結局、
「ひどい言いようですね」
まあこうなる。
ケヤキの木のそばに、既にさくらは立っていた。
いつからいたのか、俺達にはわからない。きっと最初からいたといえばいたし、いなかったといえばいなかったのだろう。
「あなたも納得していたことだと思うのですが」
「……なんなの。盗み聞きがアイデンティティなの?」
「神出鬼没がモットーなんです」
モットーってそういう意味だったか?
「あなたがどうしても協力したくないというなら、それでもかまわないですよ」とさくらは言う。
瀬尾は返事をしない。
「そういうわけでもないなら、素直になればいいじゃないですか」とさくらが続ける。
そしてまた、瀬尾が言い返すより先に、
「見えるんだから、仕方ないじゃありませんか」
と続く。これは見ている側からすると非常に不気味だ。
「やめてよ。……やめてよ、それ」
本当に、瀬尾とさくらは相性が悪いらしい。
これは、無理に誘ったのは悪手だったか?
「でも、とりあえず、今日手伝ってほしいことがさっそくあるんです」
さくらは、おかまいなしに続ける。まあいい。瀬尾がやりたくないというなら、無理にとは言わない。
俺だけでも、べつにやれるし、俺はやめるつもりはない。
……俺はさくらという存在に、なにか期待しているんだろうか?
それとも、ましろ先輩に頼まれたから?
わからないけれど、やめる気にはなれない。
昔からそうだ。
自分の身に降り掛かったことに、なにか意味があると信じたくなってしまう。
「手伝ってほしいこと。新しいのか?」
「はい」とさくらは頷いた。こいつと話すときは、考える前に返事をしてしまうに限る。
幸い、瀬尾がいれば、独り言を言っているようにも見えない。
「今日のターゲット、あなたたちも知ってる人です。たぶん」
「知ってる人?」
「はい。たぶん、知ってる人たちです。けっこう骨が折れるかもしれません」
知ってる人。誰だろう。真っ先に浮かぶのは大野だが、あいつは恋愛に興味がないというし……。
「合ってます」とさくらは言う。
「え?」
「え、じゃあ、市川さんが……?」
「え?」
「え?」
俺が目を丸くして瀬尾を見ると、彼女もまたきょとんとしていた。
「どっちも合ってます」とさくらは言った。
「は?」
「大野辰巳、市川鈴音。このふたりです。今回は」
「……」
ちょっと、さすがにピンと来なかった。
「いや、待て。たしかなのか、それは」
「たしかです」
「……ね、副部長、わたし、知っちゃいけないことを知っちゃった気分なんだけど」
「事実そのとおりだから安心しろ。なあさくら。人違いじゃなくてか?」
「人違いじゃないです」
結局押し問答になった。人違いじゃないのか。人違いじゃないです。放課後手伝ってください。人違いだろ。
そんな感じだった。
◇
そんなわけでやってきた放課後、俺と瀬尾はさくらに言われた通りにふたたび中庭を訪れた。
なんだかんだ瀬尾が素直にやってきたのは、やっぱり気になったからなのかもしれない。
「あなたは来なくてもよかったんですよ」とさくらは言う。
「そんな皮肉言わなくてもいいでしょ」
「皮肉のつもりじゃないです。素直にそう思うんです」
「そう。余計なお世話です」
仲がいいのか悪いのかわからない。
「わたしとしては仲良くしたいんですけどね」
「……それで。大野くんと市川さんがなんだって言うの」
もう気にするのも疲れてきたんだろう。瀬尾は開き直ったみたいだ。
「今日、ふたりが顔を合わせます。そこで大切な話をふたりはします」
「それで、わたしたちはどうすればいいの」
「ここにいてください」
「……は?」
「あなたたちがあのふたりのところにいくと、邪魔です」
「な、なんだそれ……」
今回もなにかさせられると思っていた俺としては、あまりにも意外な指示だ。
しかし、親しい人間の話となると、無性に罪悪感が湧いてくる。
これは、瀬尾の言葉にも理があったといえるだろう。
……とはいえ。
やはり俺は、さくらに従う気になっている。
俺たちがこのあとなにか行動を起こすにせよ、起こさないにせよ、それは『さくらに言われたから』そうしたことになる。
どちらにせよもう、まっさらな状態では動けないのだ。
だったら俺は、さくらに従う。
瀬尾は、考え込んでしまっているようだった。
「考えていていいですよ」とさくらは言う。
「決断しないこともひとつの決断です。そうしている間に時間は流れていますから」
なんともいやな言い方をするやつだ。
瀬尾は、結局ケヤキの下の芝生に座り込んだ。
「……もう、どうしようもないじゃない」
と彼女は言う。
それで俺も、諦めて座り込んだ。
「そうですか。じゃあ、わたしは二人の様子を見てきます」
そう言って、一瞬目をそらした瞬間、さくらの姿はかき消えていた。
「……悪い夢でも見ているみたい」
「そのうち慣れるぜ」
「慣れたくない……」
溜め息をついた瀬尾の横に、俺は座り込んだ。
「大野くんと、市川さんが……? そんなことって、ある?」
瀬尾は驚いた様子だったが、あの二人の関係性については、たしかに市川が不自然なことを言っていた。
なにか、思うところがありそうな。だからといって、そういう関係の話だとは思わなかったが。
とはいえ。
……縁結び、か。
必ずしもそういう話、というわけでもないのかもしれない。
ひとまず、今日のところはこのまま待機か。
「副部長……あのさ」
「ん」
「恋って、恋ってさ……しないと、だめなのかな?」
瀬尾の方を見る。
意外なくらい、真剣な面持ちだ。
俺は少しだけ考えて、答える。
「べつに、しなくてもいいんじゃねえの」
「そう、だよね……?」
「うん。そう」
真剣な答えというわけじゃない。
人のことなんてどうでもいいというだけだ。
「……あっ」
「ん?」
不意に声をあげた瀬尾の方をまた見ると、彼女は二階の渡り廊下のあたりを見ていた。
「……どうした?」
「……う、ううん。なんでもない」
その声が、なんでもなさそうには聞こえなかったことは、どうせ問い詰めたって確認のしようもないことだろう。
「……副部長、わたし、ちょっと行ってくる」
「どこに?」
「えっと、ちょっと用事が」
「やめとけ」
「なんで? 部室に行かなきゃいいんでしょ?」
「『ここにいろ』ってあいつは言ってた」
瀬尾はぐうと呻いた。
「あいつの計算がずれたら面倒だ。文句を言われるのも面倒だ」
「でも……」
「でも、なんだよ」
瀬尾はもどかしそうに口を歪めた。
「副部長は、なんでそう……」
「なんだよ」
「なんでそう、女の子の扱いが雑なの?」
「……ああ?」
唐突な言葉に、さすがに驚いた。
「なんでそんな話になる?」
「だって……こんなの」
そこまで言ってから、彼女はなにかハッとしたみたいに口を開いたままにした。
「……なんだよ」
「……わたし、やっぱりちょっと行ってくる」
「どこに? ……おい!」
言うが早いか、瀬尾は立ち上がって颯爽と駆け出した。
文化部員にしておくにはもったいない走り出しだ。
「などと感心している場合でもない……」
どうするか。さくらの言いつけ。いや、でももう破れてしまっている。
追おう。と決めたときには駆け出していた。
颯爽と、とは行かなかったかもしれない。
瀬尾の背中を追いかけてたどり着いたのは、さっき彼女が見ていた二階の渡り廊下だった。
俺がついたときにはもう、瀬尾は言葉を口から発していた。
「あのね、違うんだよ」
と、肩で息をしたまま。
そこで俺は、瀬尾の背中越しに真中――柚子の姿を見つける。
「……なにが、違うんですか?」
彼女は、けれど、ひと目でそうと分かるような、彼女にしては稚拙な作り笑いをしている。
「だからね……」
「青葉先輩」
柚子はそこで瀬尾の言葉を遮った。
「先輩が気をつかう必要はないです。一切、ないです。せんぱいとわたしは、なんでもないから」
「……え?」
「せんぱいにとってわたしはなんでもない、せんぱいはわたしのことなんてなんとも思ってないんです」
「そんなこと!」
「何を知ってるんですか?」
ひんやりとした声が、瀬尾の言葉の続きを奪った。
「……真中」
「ほら、だからこうやって、すぐ苗字で呼ぶんです」
彼女はそう言ってさらりと笑う。
いつもと違う、隠していない笑顔。
だからその表情はとても魅力的で、そのせいで責められているような気分になる。
……いや、たぶん、責めているんだろう。
「付き合ってるなんて嘘です。せんぱいはわたしを助けてくれただけ。
だからわたしは、せんぱいが青葉先輩と一緒にいたってやきもちをやく資格なんてないんです。
そんなの、理屈が通らない。ずるだから。だから、先輩が気に病む必要なんてないんですよ」
「……嘘?」
「そう、嘘です。せんぱいがわたしのこと好きだなんて、そんなの嘘です」
「真中」
「そんなふうに呼ばないでください」
真中は、敬語でそう言った。
「せんぱいはわたしのこと、好きじゃないんだから」
俺は、この期に及んで、それでも、真中にかける言葉を見つけられない。
「……ほら、だから、なんにも言ってくれない」
どうして、そんな言葉を、そんなふうに言うんだろう。
真中は最初から知っていたはずなのに。
――だって、先輩は、わたしのことを好きにならないと思うから。
だからこそ、真中は俺に声をかけたはずなのに。
こんなの詐欺だ。
「……ごめんなさい。ちょっと、行きますね」
「ねえ、ゆずちゃん」
「ひとりになりたいから。そっとしておいてください」
そう言って、渡り廊下の向こう側に歩いていく。
俺は呼び止めもしない。
「副部長!」
「……なんだよ」
「いいの? 追いかけなくて」
「追いかけて何を言うんだよ。……事実だよ。あいつの言ってること」
「何が事実なの。副部長がゆずちゃんのことを好きじゃないってこと?」
「そうだよ。俺はあいつを好きにならないし、あいつも俺を好きじゃない。そういう約束だった」
「違うよ。気付かないの? ゆずちゃんはさっき一回も……」
言いあぐねるみたいに、もどかしそうに、瀬尾は口を歪めて、ためらうみたいな顔で、
でも、結局言葉にした。
「ゆずちゃんは一回も、『自分が副部長のことを好きじゃない』なんて言ってなかったよ!」
「……」
それが、どうしたっていうんだ。それを根拠に何が分かるっていうんだ。
言っていないだけだ。
だから真中だって、俺のことが好きだなんて真面目に言ったことは一度もない。
言ったところで俺はどうせ信じない。
あいつが俺を好きになるなんてことはありえないし、
俺があいつを好きになることもない。
いや、俺はあいつを好きになりたくない。
真中以外の誰であれ、好きになんてなりたくない。
人を好きになることは、おそろしいことだ。
茫漠とした塩の砂漠に放り出されるような、
涯のない桜の森の下で求めたものさえかき消えるような、
ひとりで深い森をさまよい歩いたあの夜のような、
人を好きになることは、そんな孤独に身を置くこととしか思えない。
俺には。
「いいからいけ!」
と、瀬尾が俺の背中を叩いた。
「泣かせたら許さないからな!」
動かないでいるともう一度、しつけの悪い犬でも叱るみたいに、瀬尾は俺の背中をはたいた。
俺は、結局、真中がどこにいるかも、何を言えばいいのかも、わからないまま歩きはじめる。
俺には、真中にかけてやれる言葉なんてひとつもない。
そう分かっているのに。
◇
真中は東校舎の屋上の前にいた。
開かない扉の前で膝を抱えてうつむいていた。
俺の足音がきっと彼女にも聞こえていただろうと思う。
でも彼女は顔もあげなかった。
どうしてなんだろうな、と俺は思った。
「真中」
声をかけても、彼女は身じろぎひとつしなかった。
膝に顔を押し付けて黙っているだけだ。
隣に座る資格があるのかどうかすら分からない。
結局ただ、彼女がそうしている姿を眺めているだけだ。
俺は卑怯者だ。
でも、みんなそうだ。
真中だって、こんなふうになるまではっきりとしたことなんて一度も言わなかった。
あんなふうに俺をけしかけた瀬尾だってそうだ。
ついさっきまで、「恋をしないとだめなのか」と言っていたくせに、
「泣かせたら許さない」なんて無茶を言う。
なんにも知らないくせに。
みんな勝手だ。俺だけじゃない。
でも、違う。
そうじゃない。
「なあ、真中。おまえが何に腹を立ててるのか、俺にはわからない」
「……本気で」
ようやく返ってきた言葉は震えていた。
「本気で、わからないんですか」
「……こうなのかな、というのはある。でも、正直、わかりたくないんだ」
「……なんで」
わかりたくない。
知りたくない。
「真中、おまえさ、俺のこと好きなのか」
「……そういうこと、普通訊きます?」
「俺は普通じゃないんだ」
「知ってる」
「そうじゃないんだよ」と俺は言う。
本当は、言わなきゃいけないんだろう、きっと。
自分でもうまく言語化できないこと。
どうしてそう感じるのかわからないのに、うまく説明もできないのに、たしかにそうだと自分自身で感じること。
きっと、どう言ったとしても、誰の耳にも悪い冗談にしか聞こえないようなこと。
あの夜の、事実としか思えない夢、あるいは夢としか思えない事実。
けれど、それを、俺は、どうしても、引きずり出す気になれない。
俺自身が、蓋をしようとする。けっしてそこに踏み入る気にならない。
触れることが、おそろしい。
だから、言えない。
「真中、俺はおまえを好きにならないし、おまえも俺を好きにならない。そういう約束だった」
「二番目の方は、約束してない」
「でも、そういう話だった。だから、俺たちはこれまで一緒にいられたんだ」
「そんな話、聞きたくない」
どうしてだろう。いつからだろう。
「俺はおまえを好きにならない」
と、そう言うしかなかった。
嘘だ。
真中のことが、好きじゃないわけではない。
真中を好きになれないわけでもない。
魅力的な子だと思う。かわいいと感じることもある。
もしこの子と一緒に過ごせたら幸せだろう。
でも、俺は、真中を好きにならない。
ならない。なってはいけない。
そこは決して『俺』の居場所ではないから。
根拠なんてない。理由がはっきりと分かるわけでもない。
ただ降りかかる実感として、認知として、思う。
仮にそんなことが起きたとしても、それは本来、俺の身に起きるべきことではないんだと。
強迫観念に近い。原因がどこにあるのかもわからない。
でも、俺のその感覚は、どこまでも強固だ。
逃れようもなく、強固だ。
どうせ、誰に言っても理解してくれない。気取りや韜晦と思われるのがオチだ。
それでも俺は知っている。
何度も夢に見た。眠れない夜も、眠たい昼間も、ずっと夢に見ていた。
俺の本来の体は、まだあの暗い森の中にある。
冷たく暗い枯れ木のうろに投げ込まれたまま、骸になる日を待っている。
今この瞬間だって、俺は、
暗い森の枯れ木の虚で、森のざわめきに怯えている自分を、同時に体験している。
そのどちらが本当に俺が見ている景色なのか、俺には分からない。
この現実のすべてが、夜に見る夢のように思えて仕方ない。
「……もういい」と真中は言う。
「なんにも言わなくていい」
彼女は顔をあげて俺の方を見た。
「いい。せんぱいがわたしのことを好きじゃなくてもいい」
そんなの、最初からわかってたことだから、と彼女は言う。
「べつにいい。そんなの、いい。ちょっと混乱しただけ。いまさら、気にしたってしかたない」
彼女の言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
「せんぱいがわたしを好きじゃなくたって、わたしがせんぱいを好きでいることは、せんぱいには動かせない」
「……」
「どうせせんぱいは、誰のことも好きにならない。だったら、わたしはずっとせんぱいにつきまとってればいいだけ」
「真中」
「最初からそのつもりだった。そのつもりでこの学校に来たんだ。わかってるもん」
「あのな、真中」
「せんぱいが最後の最後に、他の誰かよりほんの少し、ほんの少しだけでも、わたしのことを大事に思ってくれたら、それだけでわたしは勝ちなんだ」
ひどく、苦しげに、うめくみたいに、彼女はそう言って、
でも、
俺は、彼女がそんなふうに言ってくれるほどの価値を、自分自身に見いだせない。
「だから、べつにいい」
まっすぐに俺の方を見ながらそう言うと、彼女はいつもみたいにすまし顔を作って立ち上がった。
それからもう、ひとりで階段を降りていってしまった。
何事もなかったみたいに。
取り残された俺はため息をついて、そしていつものように二重の視界がざわめくのを感じる。
一瞬の錯乱。
それはけれど、すぐに過ぎ去った。
あと、何時間かすれば、また夜がやってくる。
そうすればまた、あの葉擦れの音が、今よりもはっきりと聞こえてくるだろう。
夢なのかどうかすら、わからない。
それなのに、俺はばかみたいにそれに縛られている。
身動きだってとれやしない。
◇
「なんてことをしてくれたんですか」
と、不意にさくらがそう声をあげた。
俺はまだ屋上の扉の前に立っている。
「俺に言うな。瀬尾のせいだ」
「おかげで予定が大幅に狂いました」
短く嘆息して、さくらは階段の一番上に座り込んだ。
俺もまたそれに倣う。少し、気疲れしてしまったようだった。
「そっちはどうだった?」
「予定が大幅に狂いました、と今言いました」
「具体的にどうなったんだ、と聞いたんだ」
「本来、和解する手筈でした。あなたたちが騒ぐので、ふたりが部室を出て様子を見に行っていたんです」
「……聞かれてたのか、あれ」
「騒いでいたのに聞かれるも何もないでしょう」
それはそうだ。溜息の理由ばかりが増えていく。
「さくら」
「はい」
「あのさ、おまえ、前に言ってたよな。俺は、へんな気配がする、って」
「はい。匂いにたとえると生ゴミです」
「……ひどいな、それ」
「あ、すみません。傷つきましたか?」
「むしろ傷つかないと思ってたのかよ」
「人の心は複雑怪奇の摩訶不思議なので……」
「おまえの存在のほうが奇々怪々だよ……」
「会話する元気があるようで何よりです」
と、さくらは笑った。
そうだ。こいつは、心が読めるんだった。俺のことなんてお見通しなんだろう。
「なんでなんだろう。その、へんな気配ってやつ」
「甘えないでください」とさくらは言う。
「あなたの『それ』は、たぶん違う理由です。それを責める気はないですけど、でも、責任転嫁はよくないです」
「……」
見透かされてしまっている。やっぱり。
いっそ、その変な気配とやらのせいで、俺がこんな具合だったとしたら、それはそれで楽なのだけれど。
「まあ、必ずしも無関係とはいえないかもしれませんけどね」
「……どっちだ」
「人の心は複雑怪奇の摩訶不思議なので」
そうかい、と俺は溜め息をついた。
「とりあえず部室に戻ってもいいか?」
「そうするといいです。でも、状況を把握したら協力してください」
「状況?」
「見ても分からなければ、聞けばいいんです」
いまいち自信がないことだな、と俺は思う。
◇
部室に戻ろうとして扉の前に行ったところで、廊下の向こうから誰かの声が聞こえた。
階段の近くだ。
誰かが何かを喋っている。
誰かの足音が遠ざかっていく。
俺は階段の方へと近付いていく。誰の姿も見えない。
踊り場の方に視線を下ろすと、瀬尾がひとりで立ち尽くしている。
「瀬尾?」
「あ」
声をかけると、はっとしたみたいに、彼女はこっちを見た。
「副部長」
「どうしたの。誰かいたんだろ」
「うん。鈴音ちゃんが」
「……どうした」
「あの……なんでもない。ちょっと、ほっといてほしいって」
「言えよ」と俺は言った。
「さくらの話と関係ありそうか?」
「……うん。でも、他人に土足で踏み込むのは」
「だったらおまえ、なんで震えてるんだよ」
「……鈴音ちゃん、泣いてた」
「……」
「わたしが、動いたせい? あの子の指示にちゃんと従わなかったから?」
「瀬尾」
「わたし、やっぱり」
「瀬尾」
もう一度名前を呼ぶと、彼女は黙った。
「おまえが傷つけて泣かせたわけじゃない。気にすんな」
「でも」
「でもじゃない」
「……」
「な」
「……うん」
なんて日だ。
真中は泣くし、市川鈴音も泣く。大野だってどうなのか怪しいもんだ。
なんて日だ。
――見ても分からなければ、聞けばいいんです。
……まあ、やることは決まってる。
大野に聞いてみればいい。
このありさまは、いったい誰のせいなんだ?
◇
瀬尾が落ち着くのを待ってから、俺は大野を探すことにした。
真中がどこに行ったのかも、市川がどこに行ったのかも分からない。
みんなばらばらに散らばっているのだろうか。
市川は階段を降りていった。大野と口論になって出ていったとしたら、少なくとも大野はそっちにはいない。
俺は、さっき通り過ぎたばかりの部室の扉の前へと向かった。
ドアノブを捻ってみる。
思ったよりも簡単に見つけることができた。
大野は、窓際にパイプ椅子をおいて、背もたれに体をあずけていた。
疲れ切ったみたいに、うなだれている。
「大野」
声をかけても、彼は反応しなかった。
「どうしたんだよ、いったい」
大野は反応しない。
俺の声なんてまるで聞こえていないみたいな感じがした。
泥の壁にでも話しかけてるような気分だ。
窓の外の空は曇り始めている。
夕立が来そうだと俺は思う。
やがて、ぽつりと、
「嘘だったんだな」と大野は言った。
「嘘?」
「真中さんと付き合ってるって」
「……聞いてたんだ」
既に知っていたことを、知らんぷりした。
嘘をつくのも上手にならなきゃいけない。
「どうして言ってくれなかったんだよ。本当のこと」
「……」
「なんで、嘘をつくんだ」
大野は顔をあげようともしなかった。
声だけが苛立たしげに濁っている。
「どうして、嘘をつくんだ。どうして誰かを騙したりする」
「……そういう約束だったからだよ」
「だからって」
「おまえだって、自分の書いた文章と偽って俺の文を提出してる」
「……」
彼はようやく顔をあげてこちらを睨んだ。
「それとこれとは話が違う」
「そうかもしれないな。べつに責めてるわけじゃない。ただ、俺にも真中にもやむを得ない理由ってのがあった」
そう言うと、ようやく大野は俺を睨むのをやめた。
「……でも、嘘は好きじゃない」
べつに俺だって好きなわけじゃないが、あえてそんなことは言わなかった。
これ以上こんな会話を続けたところで、互いに何にもならないだろう。
いいかげん、本題にふれることにした。
「市川と、なにかあったのか」
「……なんで、あいつがこの部にいるんだ」
「最初からいる。話したろ。幽霊部員だった」
「あいつのことだなんて知らなかった」
「……知り合いだったのか?」
大野は頷きもしなかったし、首を横に振りもしなかった。
そもそも、市川が来たのは今日が初めてってわけじゃない。
どうして今まで気付かなかったんだ?
そう思ってから、大野は先週、部室に顔を出していなかったことを思い出した。
そうだ、委員会があった。
だから、あいつはここに来ていなかった。
担当の週が終わったから、部室に来た。そして、ここで市川鈴音と会った。
だから、今日だった。今日は月曜日だから。
「大野」
名前を呼んでも、彼はやっぱり反応しない。
「話せよ」
「何を」
「何があったんだよ」
「……じゃあ、おまえは、真中さんと何があったんだ」
「……」
少し、判断に困った、けれど。
「言えない」
それは真中の個人的な話だ。
俺ひとりで決めて誰かに話していいことじゃない。
「……さっきの話。どこまで聞いてたんだよ」
「途中から、最後まで」
「そっか」
「……なんでおまえ、あんなに邪険にするんだ」
「え?」
「真中さんのこと」
「べつに、そんなつもりじゃない」
これも嘘だ。
答えなんてわかりきっている。
冷たくするポーズをとっておかないと、心が揺らぎそうになるからだ。
「あんなふうにまで言われて、おまえ、まだあの子をそのままにしておく気なのか」
違う。
こんな話をしに来たんじゃない。
「応える気がないなら、突き放すのが優しさじゃないか?」
「……真中のことは、俺だって考えてる」
大野は長い溜め息をついた。
「だったらもう何も言わない」
「さっき、瀬尾が市川と会ったって」
「……」
「泣いてたって言ってた。何か、話したんだろう?」
俺は卑怯者だ。
自分のことを棚に上げて、市川や瀬尾を利用して、大野が秘密にしていることを暴き立てようとしている。
そこにどんな理があるのだろう。
さくらの言われたとおりに、ただ従っているだけだ。
急に自分が、ひどく浅ましい存在に思えてくる。
「……市川と、どんな関係なんだよ」
それは、どんな意味のある質問だったんだろう。
興味本位、なのだろうか。
でも、頭をよぎるのは、さっきの瀬尾の表情だった。
さっきの、震え。
怯え。
このまま、大野と市川を放置して、そのままにしていたら、瀬尾はあのまま、自分を責めてしまいそうな気がする。
でも違う。
それは俺のせいなのだ。
俺が真中にはっきりした態度を取っていなかったから、だからこんなことになった。
そんなことで、瀬尾を追い詰めるわけにはいかない。
「市川は……」
と、大野は、無表情のまま口を開いた。
俺の卑怯さになんて、こいつは気付いてるだろう。
でも、話してくれる。
やっぱり、良い奴は損だ。
「俺は、市川が好きだった」
◇
大野辰巳と市川鈴音の出会いは、彼らが中学一年生だった頃まで遡る。
彼と彼女は同じ中学校に入学し、同じクラスに通い、同じ授業を受けて過ごした。
入学時の席が近かった関係で話をする機会が多く、彼ら彼女らは自然と親しくなった。
一年の最初の学期に、それぞれが同じ委員会に入ったのも理由のひとつとして挙げられるだろう。
とはいえ、双方、それを即座に恋愛関係に発展させるような性格はしていなかった。
そんなわけで、彼らの関係性は中学三年になるまでの間、奇妙な安定と不安定の中間にあった。
互いが互いをまったく意識していなかったわけではないと思う、と大野は言う。
少なくとも俺にはその自覚があった、と。
市川がどうだったかは市川に聞かなければ分からないだろう。
それでとにかく、少なくとも大野にとっては、市川は他の誰とも違う存在だった。
大野はその先をなかなか語りたがらなかったが、俺は辛抱強く続きを待った。
本当は聞くべきではなかったのかもしれない。俺は少し迷っていた。
けれど結局、彼はその続きを口にしたし、彼がそうした以上俺は聞くしかなかった。
三年の秋だったと思う、と大野は話を続けた。
彼はずいぶんと迷っている様子だった。あまりにもくだらないことなので、他人に話すのも馬鹿らしいというふうに。
「同じクラスの男子がな、ラブレターを書こうとしていたんだ。べつに本気でってわけじゃない。ただのいたずらだよ」
当時、大野は文章を書くことにそこそこの自負があったという。
今を知っていると意外な話だ。
「それで、俺もその話に加わった。そいつらは字もあまり上手くなかったし、文章も思いつかなかったみたいだ」
べつに誰に出すわけでもなく、単に遊びでそうしようとしていただけなんだと聞いて、大野はその話に加わった。
そうして彼は、そつなくそれを書き上げた。
文章に多少の自負がある奴らしく、けれどシンプルに、率直に、ラブレター然としたラブレターを。
問題はそれだ。
大野はそのラブレターを書き上げて、友人たちとその出来を共有したあと、その場を去った。
そしてその友人たちは、このいたずらにさらなるいたずらを付け加えた。
その手紙の末尾に、こう付け加えた。
「大野辰巳より」
そして、その手紙を、市川鈴音の机の中に入れた。
そのことを大野が知ったのは少しあとになってからだ。
それによって起きたことはシンプルだ。
市川鈴音は、その手紙を読み、数日間悩み、返事を書いた。返事として、返事を書いた。
大野は手紙を受け取るが、その心当たりがない。市川に手紙を出した心当たりがない。
そのため彼は、末尾に「市川鈴音」と書かれたその手紙に戸惑い以外のものを覚えない。
困ったことに、市川鈴音の手紙には、好意を受け取る旨は書かれていたが、宛先が書かれていなかった。
名前すら出てこなかった。
そのため、大野はこう考えた。
市川は誰かから告白の手紙を受け取り、その好意に応えた。
そして(大野は手紙を出していないのだから)、それは自分以外の誰かだ、と。
大野は大野らしい誠実さによって、その手紙の誤配を市川に伝える。
市川はそれを大野から直接伝えられ(「間違って入っていた」)、更に戸惑う。
お互いの多くを語らない性格が裏目に出た。誰も誤解を解くものはいなかった。
ふたりはそのような関係性だった。
そして、互いが互いに、なにひとつ訊けないまま疎遠になる。
大野がクラスメイトのそのいたずらを知ったのは、卒業式のあとだった。
大野は言う。
「文章なんて書くもんじゃないと思った」
文章なんて、書くもんじゃない。
「市川に宛てた文章じゃないものに、俺の名前を添えただけで、市川はそれを信じる」
それは当然といえば当然のことだ。
「けれど、その文章のなかで、俺は市川のことなんて考えていなかった。もちろん、市川宛てだったとして、嘘にならない部分もあった」
けれど、
「それは、市川宛ての文章ではなかった」
にもかかわらず、市川はそれを自分のものとして受け取った。
「言葉なんてそんなものだ」
言葉は偽れる。言葉はごまかせる。言葉は騙せる。
言葉は責任をとらない。
すべての文章は虚偽に過ぎない。
それは現実を切り取ることができない。
そこに生まれるのは虚偽でしかない。
真実は言葉の中には存在し得ない。
言葉によって切り取られた現実は現実の模倣に過ぎないからだ。
「俺は文章が書けない」
なぜなら、言葉は、文章は、感情を必要としないからだ。
猫がたまたま書き上げたシェイクスピアの戯曲でも、人を感動させることがおそらくできるのと同じように、
文章を読む人間は俺の感情なんて必要としていないからだ。
それはおそらく、致命的な隔絶だ。
文章はどこまでも嘘をつける。
嘘をつける。
嘘をつける。
そこに"俺"は必要とされていない。
そこにいなければならないのは、いるとされるのは、俺ではない。
読んだ誰かがそうあってほしいと期待する誰かに過ぎない。
市川と大野の間に生まれたすれ違いが、言うなればその偽ラブレターによって生まれたものだと大野は知った。
だが、そのときには既に彼らの間には閉ざしようのないひらきが生まれていた。
そして彼らは高校に入学し、言葉もかわさないまま一年が過ぎた。
大野は文章が書けない。
◇
話を聞き終えてから、俺はどういう感想を言えばいいのかわからなくなった。
どういう言葉を大野が求めているのかも、俺にはよくわからなかった。
話をさせたのは俺なのに、どう返事をすればいいのかさえ分からなかった。
大野は市川が好きだった。市川も大野が好きだった。おそらく。状況を鑑みるに。
けれど、それはうまくいかなかった。
結果として、大野は文章が書けなくなった。言葉を信頼できなくなった。
嘘。偽り。まがい物。
「さっき、市川に、責められた。あのときの手紙のこと、本当に、いったいなんだったんだ、って」
「……なんて答えた?」
大野は、苦しそうに、言った。
「あれは、市川に宛てたものじゃない、と答えた」
その、ある意味では誠実さと呼んでもいいような大野の性格が、市川を痛めつけた。
「市川は説明を求めた。そこで、騒ぎが聞こえた」
そして、大野と市川は話をやめた。
なるほど、さくらの理屈は合っている、と、俺は場違いにも思った。
俺たちがあの場を離れることさえしなければ、たしかにこのふたりは和解できたのかもしれない。
大野は説明をくわえ、改めて市川に想いを伝えることもできただろう。
けれどそうはならなかった。
ふたりの間にあったひらきはより大きくなってしまった。
「大野」
結局、けれど、俺に言えることなんてたかが知れていた。
彼は顔をあげて俺を見た。
「おまえ、市川を探してこい」
「……なんだよ、急に」
「今すぐに、市川にその話を全部してこい」
「なあ、おい」と大野は言う。
「なんでおまえにそんなこと言われなきゃいけないんだ?」
もちろん俺にそんなことを言う資格はない。
けれど、
「おまえ、市川とどうなりたかったんだよ」
「だから、なんでおまえに……」
「おまえはどうなりたかったんだよ。どうしたかったんだよ、市川を」
「……」
「泣いてたんだぜ」
考えてみろよ、と俺は大野に言う。
「いまさらだとか、遅すぎるとか、そんな話じゃない。市川がどう思うかってことも関係ない。
文章が書けないままだって言葉が信じられないままだっていい。べつにそんなの問題じゃない。
問題は、おまえがそのまま、市川とのわだかまりをそのままにしていたいのかどうかってことだろ」
「……」
「おまえが、そこに苛立ちを覚えるなら、おまえがすることなんて決まってるだろ」
俺はひそかに自分自身に感心していた。
泣いてたんだぜ。――誰が?
――瀬尾だ。
「大野」
「うるせえよ」と彼は言った。
「……ちょっと、行ってくる」
どうせ俺たちにできることなんてそのくらいしかない。
◇
文芸部室にひとり取り残された俺は、瀬尾はどうしただろうか、と考える。
瀬尾はどうしているのだろう。
どこにいったのだろう。あの場に残してきてしまったけれど、彼女は泣いているだろうか。
彼女の泣き顔は、よくない。
植え付けられた強迫観念みたいに俺を縛る。
(また半分の視界のなかで葉擦れの音がきこえている)
「でも、最善でしたよ」と、さくらの声が聞こえた。
「あなたが取りうる手段のなかで、おそらく最適な提案をしました。誇ってもいいです」
「べつにおまえに言われたからじゃない」
どっちにしたって、おんなじような言葉を吐いていただろう。
自分のことなんて棚にあげたまま。
「ずいぶん落ち込んでますね」
「そりゃな」
それはそうだ。
真中に言われた言葉の余韻だってまだ解けちゃいない。
今日はいろいろと起こりすぎた。
「でも、とりあえずはこれで、良い方向に向かうと思います」
「大野は市川を見つけられるのか?」
「もうひとりがちゃんと手助けしてくれますから」
……どうやら、瀬尾も回復はしているらしい。
「複雑そうですね?」
「それは、まあな」
いろんな意味で、複雑は複雑だ。
「……葉擦れの音は止まないですか?」
「……」
どうしてそれを、なんて問いはこいつには無駄なんだろう。
「相変わらず……世界は空虚ですか?」
俺は頷く気にさえなれなかった。
「さっさと見せてくれよ」と俺は言う。
「俺が、空虚じゃなかった頃って奴」
「もうすぐですよ」とさくらは言う。
その言葉になんの根拠があるのかさえ分からない。
最初から、俺は、空虚だったはずじゃないのか。
◇
俺は荷物を持って部室を出ることにした。どうせ今日はまともな活動なんてできやしないだろう。
真中も、瀬尾も、市川も、大野も、部室に戻ってなんてこないだろう。
誰もここになんて来ないだろう。
壁にかけられた一枚の絵を見る。
描かれた景色。空と海とグランドピアノ。
――なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?
――ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。
本当にそれだけだったら、どれだけよかっただろう。
◇
帰り道の途中で、俺はどうしてかまた『トレーン』に寄ってしまった。
ちどりはいつものように俺を迎えてくれる。
「いらっしゃい、隼ちゃん」
その表情に、俺は安堵する。ちどりはいる。ここにいる。
どこか遠い場所にいなくなったりなんかしていない。
それはたしかなことなのだろう、おそらく。
「……なんだか、元気がないですね?」
「そうでもない」
「ブレンドでいいですよね?」
店の中にはほかに客の姿はなかった。俺はカウンターの席に腰掛ける。
制服にエプロンをつけたまま、ちどりがカウンターの向こうへと行く。
ポケットから携帯を取り出してみると、大野と瀬尾からそれぞれ連絡が入っていた。
大野からは「話せた」。瀬尾からは「解決したみたい。副部長はどこにいるの?」
どちらも三十分以上前に来ていた連絡だった。俺はその両方をとりあえず無視した。
「ここにいるときはいつも……」とちどりは言う。
「隼ちゃんはなんだか、悩み深い顔をしていますね?」
「そうだろうか」
「彼女さんと、何かありましたか?」
「それとは違う……」と言いかけて、結局言い直した。
「それもある」
ちどりは意外そうな面持ちで俺を見た。
「隼ちゃんが素直に言うなんて、珍しいですね」
明日は嵐ですか、と彼女はおどけて笑って見せる。
そういえば予報では雨が降るらしい、と俺は返事をした。
自分が何のせいでこんなにダメージを負っているのか、自分でもよくわからない。
ただ、間違いなく、俺の身に何かが起きている。
それはこの消えない葉擦れの音の、二重に見える風景のせいなのかもしれない。
これはいったいなんなんだろう。
「予報では雨ですか」
「そう、雨」
ちどりは何かを思い出したみたいに含み笑いした。
「なに?」
「覚えてますか、隼ちゃん」
「なにを」
「小学生の頃です。ふたりで一緒に帰ってたときのこと」
「……いや」
「予報は雨だったのに、ふたりとも傘を忘れたんです」
カウンターの向こうに隠れたちどりの表情はこちらからは覗けなくなった。
「それで、帰り道で雨に降られて、わたしたち、神社で雨宿りをして……」
「ああ。なんだかそんなこともあったような気がする」
「そこで、捨て猫をみつけて」
三匹の仔猫だった。
瞼も開いていなかった。
「わたしたち、猫を抱えて、雨が止むまでずっとそこにいたんです」
覚えている。
何にも喋らなかった。何にも言わなかった。
猫だけが鳴いていた。
「たしか、金曜日だった。次の日学校がないからって、ふたりで夕方までそこにいたんです」
そう、そんな日があった。
あのときは、そうだ。
葉擦れの音なんて、まだ、聞こえちゃいなかった。
風景が二重になんて見えていなかった。
世界は何の瑕疵もなくそこに存在していた。
当たり前のように。
「隼ちゃん、わたしね、ときどきあの日のことを思い出すんです」
「どうして」
「あの日、何にも話さなかったのに、隼ちゃんの顔つきが、すごく優しくて……」
少し、悲しそうで。
「そのことを、思い出すんです。だから、わたしはちゃんと、知ってますよ」
隼ちゃんが、本当に、本当に優しい人だってこと。
「だからそんなに苦しまなくていいんですよ」
違う。
違うんだよ、ちどり。
それはおまえが見ている風景にすぎない。
おまえがやさしい人間だから、俺がやさしく見えるだけに過ぎない。
それはおまえの心の風物なんだ。
俺の景色とは少し違うんだ。
そんなことは口には出せなくて、俺はただ黙り込んでしまう。
結局俺は何にも話せないまま、正直になんてなれないまま、『トレーン』を後にする。
コーヒーを一杯飲んで、それだけで、「また来てくださいね」なんてちどりの言葉にうなずきだけを返して。
◇
家に帰ると、また純佳がひとり、ソファに座ってドラマを見ている。
「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と返事が来る。
そのまま彼女はこちらをちらりと見やると、「ひどい顔ですよ」と驚いた声をあげた。
「そう、たしかに」と俺は頷いた。たしかにひどい顔だろうと思う。
「兄、大丈夫ですか?」
珍しく、本当に心配そうな顔で、純佳は立ち上がった。
本当にひどい顔をしているらしい。
二重の風景が途切れない。
音が止まない。
「純佳……」
「なんですか。お水、飲みますか?」
「俺は……」
俺は必要な人間ですか。
そんな問いかけが口をつきそうになって、押しとどめる。
何も言うべきじゃない。
「……なんでもない。水を一杯、悪いけどもらえるか」
「……うん」
明らかに何かをごまかしたと、彼女にだってわかるはずだ。
でも、俺は言わない。純佳も触れない。
そういうものだ。
キッチンの流し台で、純佳はすぐに水を用意してくれた。
俺はそれを一息に飲み込んだあと、少し溜め息をつく。
鞄を置き、そして自分の身に何が起きたんだろうと考える。
いつからだ。
いつから風景が二重に見えるようになったんだ。
俺の半分があの景色の中に置き去りにされたのはいつからなんだ。
「兄、本当に大丈夫ですか?」
純佳は背中をさすってくれる。彼女は俺のドクターだ。今も昔も。
それだっていつからだ?
「あのさ、純佳……」
もう一度言いかけると、今度は純佳は返事もせずに俺を見上げる。
本当に心配そうな顔。
「夢の話を、しただろ。こないだ」
「……うん」
「純佳……おまえ、なにか知ってるか?」
純佳は、一瞬だけ表情を凍らせて、
「知らない」
と言った。
「兄、とにかく今日は早く休んでください」
純佳は何かを押し止めようとするみたいにそう言った。
「今日はとにかく早めに休むんです」
「……なんで」
「顔色が悪いからです。体調が悪いときに無理をするのはよくない」
「……前から思ってた。純佳、おまえ、なにか知ってるだろ」
「なにか? なにかって?」
とぼける風でもない、何かをごまかす風でもない、それでも純佳は明らかに答えを避けている。
「わたしは何も知らないです。兄のことなら、兄がいちばん知ってるんじゃないですか?」
それを彼女は本気で言っているんだろうか。
そうは思えなかったけれど、それ以上話ができそうにもなかった。
キッチンに向かい、冷蔵庫の中身を確認する。
「兄、夕飯は、わたしが作ります」
「今日は俺だろう」
「そんな青い顔で何を言ってるんですか?」
くらりと身体が揺れて、俺は、たしかに、と思った。
「……着替えてくるよ」
「そうしてください」
そのまま、引きずるようにして階段を上り、自分の部屋へと向かう。
荷物を椅子の上に置いてから、制服のままベッドに体を横たえた。
葉擦れの音はまだ止まない。
どんどん大きくなっている。
冷たい風、夜の暗さ、仄暗い月が生み出す梢の影。
持っていかれる、と俺は思う。
もうすぐ閾値を超える。半分を超える。
そっちが現実に、なってしまう。
そして俺は当然のように意識を失ったが、何事もなかったように目をさました。
五分と経っていなかった。
葉擦れの音は消えていた。ひとまずは。
ひとまずは、消えていた。
頭が妙にぼんやりとするが、さっきまでのような混濁したような気分はなくなっている。
大丈夫、日付も時間もちゃんと分かる。
携帯を取り出して画面を見ると、瀬尾からまたメッセージが飛んできていた。
「明日は部誌づくりの相談をするよ。副部長も手伝って」
了解、とだけ返信をした。
「いつの間に帰ってたの?」とすぐに返事が来る。
「具合が悪かった」
「そうなんだ。お大事に」
「どうも」
制服から部屋着に着替え、部屋を出る。
階段の下から料理の音が聞こえる。
俺は階段を降りていく。一段一段。
エプロン姿の純佳が料理をしている。
俺はゆっくりと彼女に近付いていく。
彼女はそれに気付いている。ちらりと横目でこちらを見てから、すぐに料理に意識を戻す。
「純佳」
「はい」
「ごめんな」
「いえ」
何を謝ったのかもわからないのに、純佳はすんなり受け入れてくれる。
「兄、もし何かつらくなったら、わたしのことを思い出せばいいんです」
彼女はこっちを向かないままだった。
「わたしがいることを思い出せばいいんです。わたしも、兄のことを思い出すようにしています」
「……うん」
それは、けれど、
まとも、なのだろうか。
俺は、キッチンの窓から外を見る。
徐々に暗くなり始めている。
夜が近付いている。
◆
夜になり、ベッドに横になる。俺の意識は眠る。
ある意味で、俺は眠りにつく。部屋を暗くしてまぶたを閉じれば、五分から十五分程度であっさりと眠りにつける。
けれどもう半分はまだ覚醒している。
風景が片方になる。
そこでは葉擦れの音が止まない。どこか遠くの方から鳥の鳴き声が不吉な予言みたいに響いている。
そこには時間がなく、変化がない。その意味でその夜は夜ですらない。
風景は森。枯れ木の森だ。けれど冬ではない。風は生暖かい。
そこはただ死んでしまった森に過ぎない。
ありとあらゆる親密さは損なわれ、関係性のようなものが剥奪される。
恩寵は既に取り消され、祈りはどこにも届かない。
遠くに月だけが見える。
どこか遠くから、ここではないどこかから笑い声が聞こえる。
そして俺のもう片方の意識は夢を見る。
気付けば俺は、森の中の、どこか開けた場所に立っている。
太陽は中天に浮かび、吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、影は川の流れのように姿を変える。
噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。
俺は、そこに向かう。誰かと一緒に。
藤棚を抜けて、俺はその先の森の迷路に向かわなきゃいけない。
迷路の先は、暗い暗い、夜に繋がっている。
夢はやがて、景色と重なる。
気づけば俺はひとり、暗い森の奥に立ち尽くし、やがて枯れ木の虚の中にひとり取り残されている。
葉擦れの音は止むことがない。
朝が来て、覚醒するまで。もう、それを見ているのが、ただ重なっている景色なのか、それとも夢の方なのか、俺には分からない。
◇
翌朝、純佳に起こされ、彼女の作ってくれた朝食を食べ、「今日は顔色がまともですね」とありがたい言葉をいただいて家を出た。
学校につくと大野が俺の席の近くにいて、「待っていた」という顔をした。
俺は頷いた。
「話せたらしいな」と俺は言う。
「ああ。……顔色が悪いな」
「あまり眠れなかったんだ。今は平気だ。それで?」
これは本当だ。今は、葉擦れの音は止んでいる。というより、遠ざかっている。
大野は少し言いよどむような顔をした。
「……おかげさまで」
「付き合うことになったか?」
「そこまではなっていない」
慌てた調子で彼は否定する。
「とりあえず和解だ」
「そうかい。よかったな」
「あっさりしてるな」
むしろ俺には、たったそれだけのことが今に至るまで複雑に入り組んでしまっていたことのほうがよくわからなかった。
みんな言葉足らずなのかもしれない。
どうしてなのだろう。大野も、市川も、たぶん、俺や瀬尾や真中だってそうだ。
自分について話すのを避けてしまう。
誰かに知ってほしいと思うことを、誰かに話すことができない。
どうして?
怖いから。疑っているから。信じられないから。
あるいは。
「もう少し喜んであげてください」とさくらの声が聞こえる。
「せっかく友人の長年の悩みが解決したところなんですから」
たしかに、と俺は思う。そう言われるまで、素直に大野の悩みの解決を喜ぶ発想にならなかった自分を発見する。
こういうところなのかもしれない、結局のところ俺は……。
「あなたは本当に、自分のことしか考えていない寂しい人なんですね」
心を読むな。
「読んでません。あなたがわかりやすいんです」とさくらはあくまでも俺を非難する。
「まあ、よかったな」と、俺は一応の祝福を述べる。
「ああ。ありがとう」
大野は珍しく素直だった。
そして、さくらに心の中で声をかける。
そこが俺の問題だという気がする。
「そう、そこがあなたの問題です」とさくらは肯定する。
「あなたは誰ともつながることができません。なぜならあなたは周囲に興味がないからです。
だから簡単な世間話もできない。相手に興味がない。相手が何を好きかにも興味がない。
人とうまく関わることができません。皮肉を言うのが精一杯。誰かと何かをしたいという欲望もない」
今まさに皮肉を言われている俺を誰かに哀れんでほしいものだ。
「でもそれはどちらなんでしょうね。ひとりでいるのが好きだから、楽だから、他人との関わり方がわからないのか。
それとも、他人との関わり方がわからないから、ひとりでいる方が楽になってしまったのか?」
そんなことは俺にももちろんわからない。
なるほど、けれどたしかにそうだ。
問題は、なぜこんな状態になったか、ではないのかもしれない。
この状態を、俺はどうするべきなのか? どうしようがあるのか?
「けれどそれは、もう少し先の話です」
彼女はそう言った。もう声は聞こえない。振り返ると、彼女の姿はそこにはなかった。
最初からいなかったのかもしれない。
「それで、瀬尾が張り切ってるぞ」
「ん」
「部誌作り。市川もやる気になったから」
「はあ。そうか」
「俺も、何かを書こうと思う」
「いいのか?」
「ああ。……たぶん、何かを書くべきだという気がする」
それは結構なことだ。……と、そこで。
俺は、昨日自分があんな状態に陥った原因のひとつであるやりとりを、急に思い出した。
……瀬尾と市川と大野は、やる気になった。
真中は?
昨日、真中は、あのあと、どうしたのだろう。
俺は大野との会話を打ち切って、教室を出た。
真中は来ているだろうか。それが急に心配になってしまう。
とにかく、教室まで行ってみようと思う。
けれど、何を言えばいいだろう。昨日自分が告げたこと以外のことを、俺はなにか彼女に対して言えるだろうか。
そこで俺は立ち止まってしまった。
真中に対して、俺が言えることってなんだろう。
それがわからないまま彼女と接することは、正しいことなんだろうか。
正しさなんてものを自分が求めているかどうかさえ、そもそも俺には分からなかったのだけれど。
そんな迷いのせいで立ち止まってしまう。
そんな状態のままで、彼女の気持ちをどうこうすることなんて、俺にはできない。
……だとしたら。
俺はこの状況を、どうにかしなければならないのかもしれない。
◇
放課後、文芸部室に、部員たちは揃っていた。
瀬尾青葉、市川鈴音、大野辰巳、三枝隼、真中柚子。
みんな、すっきりとした様子だった。
真中は俺が部室につくより先にやってきていて、「遅いよ、せんぱい」なんて言った。
瀬尾がホワイトボードの前に立ち、みんながそれを囲むように椅子に座っている。
俺は真中に手で示され、彼女の隣のパイプ椅子に腰掛ける。
相変わらず顧問は姿を見せていないみたいだ。
「揃ったね」と瀬尾は言う。
昨日のことには、誰も触れない。もう、一通り話し終わったあとなのかもしれない。
「ね、せんぱい」と、ひそめた声で真中が言う。
「なんだか、なにもなかったみたいだね」
くすりと彼女は笑う。そんなことを言うその表情は、けれど、俺と一緒にいたときの真中のそれとは違う気がした。
ほんの少し、彼女は表情を取り戻した、あるいは、解き放った、ように見える。
不意に真中はこちらに体を傾けて、俺に静かに耳打ちした。
「覚悟しててね」と彼女は笑う。そんな喋り方をする彼女を、俺はまだ、見たことがない。
「わたしももう、開き直っちゃったから」
◇
話の内容は、この間していたのと同じようなものだ。
『薄明』を出す。そのために、原稿を用意してほしい。
以前はいなかった市川に対しての、改めての説明ということになる。
けれど、前とはみんなの反応が違った。
大野も、真中も、乗り気だ。
変わらないのは俺だけだ。
何を書けばいいのかなんてまだ分からない。
でも、そうだな、と俺は思う。
書こう。書くことで何が変わるというわけではないのかもしれない。
あるいは書くことでより入り組んだ場所に連れて行かれることもあるかもしれない。
ひどく混乱した場所に迷い込んでいくことになるかもしれない。
でも、書こう。
いつだってそうだった。
書くことでしか、俺はどうせ考えることができない。
そこにどれだけの嘘が含まれていたとしても。
◇
話が終わったあと、みんながそれぞれに別のことをしはじめた。
瀬尾は本を読み、大野はノートを開いた。真中は何かを考えるように壁にかけられた絵を眺めている。
市川はひとり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
俺は、立ち上がって部室の隅の戸棚へと向かい、『薄明』のバックナンバーに目を通すことにする。
べつに考えがあったわけではない。何か、とっかかりのようなものを求めたのだ。
ふと思いついて、佐久間茂の例の散文に目を通す。
文章とはいったいなんなのか。大野も昨日、そんな話をしていた。
書くことによって、何が可能か。
あるいは、書くことは何を伝えうるのか。
ぺらぺらとページをめくりながら、なんだか自分が途方もない空間に足を踏み入れてしまったような錯覚に陥る。
手にとっていたものを、ひとまず棚に戻す。
それから、去年の『薄明』を棚から取り出した。
先輩たちの書いた文章と、俺と瀬尾が書いた文章が一緒になっている。
ましろ先輩の書いた文章も、ちゃんと残されている。
読んだ記憶はあるのに、どんなものだったか、具体的には思い出せない。
試しに開いてみると、見開きの一ページ目がエピグラフになっていた。
◆
しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに
くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに
◇
こんなページ、あっただろうか。見逃していたのかもしれない。
有名な童謡だ。タイトルは忘れたが、たぶん大抵の人が聞いたことがあるものだろう。
部誌の編集はましろ先輩がやっていたはずだ。彼女は何を思って、これをエピグラフにしたのだろう。
ヤギがお互いに向けた手紙を互いに食べ続ける、コミカルとも奇怪ともとれるエピソード。
多少ミステリアスな部分もあるが、示唆的だとも言える。
しろやぎは手紙の送り主がくろやぎであることをわかった上でそれを食べてしまう。
(どうして手紙だとわかっているのに食べずにはいられないのだろう?)
そしてやむを得ず、その手紙の用件を訊ねるために手紙を送る。
(どうしてその手紙に使う紙を食べずに届いた方の手紙を食べてしまうのだろう?)
それにもかかわらずここにはコミュニケーションが発生している。
内容のない(あるいは内容を必要としない)相互コミュニケーション。
空疎な交換。
◇
息が詰まるのを感じて、俺は部室をあとにして、屋上へと向かった。
さくらはそこで待っていた。
彼女の後ろ姿を見ながら、俺は少しだけ考える。
「とりあえずは、これでいいでしょう」
と彼女は言う。
「部誌作りは再開、みんなの心はひとつになりました。あなたの彼女さんも、本気を出すみたいです」
「……」
「それであなたは、これからどうなるんでしょうね?」
「おまえには、少し、見えるんじゃないか」
「あなたは見えない」とさくらは言う。
「あなたは少し違うから」
「どう違うんだろう?」
「それはわたしにもわかりません。ただ、あなたが、いくつかの意味で普通でないということはわかります」
「普通」
「そう。それがどうしてなのかは知らない。でも、あなたは近々、その景色に関わっていくことになると思います」
「……どうして、そう分かる?」
「逆を言えば、そのくらいのことしかわかりません。あるいは、ひょっとしたらあなたは、わたしに近い存在なのかもしれない」
近い存在。
さくら。
異郷、と、ましろ先輩はそう言っていた。
異郷?
「もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない」
彼女。
「彼女って……?」
俺の問いかけに、「もうすぐですよ」とさくらは笑いもせずに言った。
◇
それから二週間後のある木曜日に、俺たちはそれぞれに原稿を提出し部誌を発行した。
編集作業は主に瀬尾が担当し、俺と大野もそれを手伝った。
瀬尾は終始自分の編集の出来に不安そうにしていたが、歴代の『薄明』と並んで遜色ない程度の出来ではあった。
人数の関係で厚さはないが、それでも、見栄えも内容も、決して見劣りはしないだろう。
真中は掌編を三本仕上げた。「なんだか楽しくなってきた」とは彼女の言葉だ。
大野は、それまでの嘘を取り返すみたいに何本かの感想文を書いていた。
出来に関してはまあ、図書委員の顧問に「調子でも悪いのか」と心配されるくらいなのだが。
「今までが修飾過多だっただけですよ」と大野は俺まで貶めていた。
市川は、おそらくこれまでも、何本か書いていたのだろう、一本の短編小説を仕上げただけだった。
瀬尾もまた、短編小説を二本。
俺もまた、短編小説を二本。
もちろん去年のものには及ばないが、かといってペラペラというわけでもなくなった。
ついでに、顧問だって本当にコメントを寄せてくれた。
前年の部長にならい、瀬尾は部誌の冒頭にエピグラフを用意した。
それはこんなものだった。
◆
あなたに歌を歌ってあげる
そんなに長い曲じゃないけど
心地よくなれる歌だと思う
だから財布に手を入れて
こんなわたしに硬貨をわけて
そんなに多くじゃなくてもいいから
◇
それはどうやらマザーグースからの引用らしかった。どんな意味があるのかは、やはり俺には分からない。
べつに瀬尾自身の小説とは関係がないようだった。
「たいした意味があるわけじゃないけど」と瀬尾は言う。
「だったらどうしてこれにしたんだ?」
「だから、たいした意味があるわけじゃないってば」
彼女はそう笑っていたけれど、なんだか不思議な顔をしていた。
まるで何かを諦めようとしているみたいに見える。
「ねえ副部長、この絵をどう思う?」
彼女は部室の壁に飾られた例の絵を眺めている。
俺は彼女の視線を追いかける。
空と海とグランドピアノ。どこまでもどこまでも、淡く、けれど確かな線。
「どうって?」
「なんだか、この景色、どこかで見たことがあるような気がしない?」
俺は、少しだけ考えて、答えた。
「綺麗な風景っていうのは……どこかで見たような感じがするものじゃないか?」
「そう?」
「たとえば、空の写真を見ると、どこかで見たような気がするだろう。おんなじ空なんてどこにもないのに」
「まあ、たしかに」
「海も山も、街も、そうだろう。何もかも、似通っているように見える」
人でさえも。
「フラクタル」
「フラクタルだね」
「ねえ、副部長、最近、さくらって子に会った?」
「……ああ、まあな」
「なんだか、最近おとなしくない? 結局わたし、あの一回しか手伝ってないんだけど」
「さあな」
他に都合の良い手伝いでも見つけたのかもしれない。
あるいは、他になにか集中しなくてはいけないことでもできたか。
「ねえ、副部長、あのさ……」
「ん」
「ゆずちゃんとは、どうなったの」
「どうにも?」
実際、ここのところは原稿の作業でお互い忙しかった。
もちろん真中と過ごす時間がなかったわけでもないが、それだってたいした話はしていない。
「そういえば、鈴音ちゃんのこと」
「ん」
「苗字で呼ぶようになったよね」
「ああ、まあな」
市川は不服そうにしていたが、結局のところそのくらいの距離感の方がやりやすい。
というか、大野が市川と呼んでいるのに、俺が彼女を下の名前で呼ぶのも違うだろう。
「ね、いろんなことがあるもんだよね。一ヶ月とかそこらで」
「……そうか?」
「そうだよ。ゆずちゃんが入部して、大野くんも入部してくれて、市川さんが部活に出るようになって……」
「そう言われると、そうかもな」
「それで、部誌も完成させられて」
「うん」
俺たちが完成させた部誌は、もう、図書室の一部にスペースを借りて置かせてもらっている。
どのような評判になるかはわからないが、まあ、新生文芸部の最初の活動としては結果を残せたほうだろう。
「ねえ、それで……」
そして瀬尾は、突然にこちらを見た。
「それで……?」
それまで、何かを思い出すみたいに含み笑いしていたのを、彼女は突然にやめた。
「それで……?」
彼女はまた、同じ言葉を繰り返した。
あのとき、市川が泣いていたと、瀬尾が言ったとき、あの日のあの瞬間と同じ表情。
いや、ひょっとしたら、部員が揃わなくても廃部にはならないと聞いたときも、似たような顔をしていたかもしれない。
どこか虚ろな、
「それで、これで、どうなるっていうの?」
そんな言葉を、瀬尾は吐いた。
「これが、いったいなんになるの?」
子供が、詩でも諳んじるように、不意に哲学的な問いかけをするように、彼女は言う。
春は終わり、初夏が過ぎ、季節は梅雨へと移り変わり始めている。
空の色は暗い。
雨の降る季節が来る。
真昼でも暗い季節が来る。
「瀬尾……?」
「ねえ、なんだか、わかっちゃった」
「……なにが」
「わたし、わかっちゃったんだ。副部長」
ううん、と首を振って、
「三枝くん、わたし、わかった」
「……なにが?」
「ぜんぶ、つまんないんだ」
それが世紀の大発見だというみたいな綺麗な笑顔だった。
陰ひとつないようなその表情は、どこか空々しくて、俺は、昔のことを思い出した。
やめろ。
その顔で、そんな表情をするな。その顔で――。
「三枝くん」
「……」
「前から思ってたんだけど、わたしは、『他の誰か』じゃないよ」
「……」
「重ねるのはやめてね」
でも、知ってるんだ、と彼女は続ける。
「知ってる。知ってるよ。ぜんぶわかってる。本当は最初から。
ねえ、三枝くん、きみが今回の部誌で書いた小説、ね、どうしてあんなものを書いたの?」
「どうして、って」
「あれは……当てつけ?」
気付かれていた、と思った。
彼女はそれに気付いた。
「ねえ、あれ、わたしの真似だよね」
「……瀬尾」
「器用だよね、三枝くん。わたしがやってること、ぜんぶ巧くこなしちゃったね」
「瀬尾」
「どうして? 自分ならもっと巧くやれるって思ったの? わたしがやってることなんて誰でもできるって?」
「瀬尾」
「わたしがやってることなんて、誰かのモノマネ。模造品なんだ。劣化コピー。
でもそれだって、組み合わせて必死になってこねくり回して、それでなんとかやっていけるって思った。
でも、ねえ、三枝くん、そんなやりかたすらきみは否定するんだね。わたしは最初からなんでもなかったのに」
「違う、瀬尾」
「でも!」
と彼女はほとんど吠えるみたいに言った。
「きみがしたのはそういうことでしょう」
感情を抑え込むみたいに声が震えている。
「わたしにはなんにもないのに……わたしには、なにもできないのに。
でも続けていけば、普通くらいにはなれるかもって、もしかしたら、わたしだけのものができるかもって、そう思ってたのに。
でも、わたしがやってきたことなんて、きみに簡単に真似されるくらいのものでしかないんだ」
「瀬尾、俺は……」
「結局、そうなんだ」
もう、俺を見てすらいない。俺の声を聞こうとすらしない。
「結局、偽物なんだ」
途切れ途切れの音楽みたいに、
「わたし、やっぱり偽物なんだ」
彼女は言葉を吐き出して、
「やっぱり、いらないんだ」
それは、ついこのあいだ、俺が遮った言葉だった。
でも、今は、もう、瀬尾は俺の声なんかじゃ止まらない。
「わたし、やっぱり、いらないんだ」
それから、機械が突然電源を落としたみたいに、彼女の顔から表情が消える。
もう、言葉すら発さない。
そして彼女は、荷物も持たずに部室を出ていった。
少しだけ唖然としてしまったが、俺は慌てて彼女を追いかけ、部室を出る。
けれど、もう、彼女の姿は、気配や足音すら、俺には見つけられなかった。
◇
五月も末近いある日のことだ。
放課後の文芸部室で、俺と真中はいつものように「北斗七星と南十字星はどちらがかっこいいか」というようなくだらない話をしていた。
「断然北斗七星じゃないか?」
「北斗七星は男くさい感じがする」
と真中は譲らない。
「南十字星のほうが名前もスマートだし、英語にしてもかっこいいと思うよ。サザンクロス。北斗七星なんて英語だと、大きなひしゃくとかでしょ、たしか」
「いや、男くさいって、それは過去の名作のイメージに引っ張られてるだけだろ」
「北斗七星は男くさいよ。おおぐま座の一部でしょ。南十字星はみなみじゅうじ座だよ。上品でかっこいいよ」
「真中、おまえそれはかっこよさを履き違えてるぞ。第一、南十字星なんてここいらじゃ見えないし。その点北斗七星は……」
「履き違えてるのはせんぱいだよ。見られる機会が少ないからこそいいんでしょ」
そもそもべつに北斗七星と南十字星をこんなふうに雑に比較することに意味があるわけがない。
しかも俺も真中もさして星座や宇宙に造詣が深いわけでもない。
だからこの話の結論は、俺たちふたり自身、どうでもいいとわかっている。
のだが、退屈しのぎについくだらない話を長引かせてしまう。
こうなるといつも延々と同じような話を続けるはめになるのだが、今日はそうはならなかった。
「いるか」
ドアの向こうから声が聞こえて、俺と真中は顔を見合わせた。いるか。
「シャチ」
「合言葉じゃないと思うよ、せんぱい。ていうか、それなら立場逆だし」
ドアが開けられて、俺たちは話を中断した。
「居るみたいだな」
扉の隙間から顔を覗かせたのは大野だった。
「相談したいことがある」
背もたれに体をあずけて、腕を組み、足を組み、退屈そうな顔を窓の外に向けたまま、大野辰巳はそう言った。
頼み事をする態度には見えない。
「またか」
「まただ」
感想文は自分で書けるようになったというのに、いったいなんの話だろう。
「とりあえず話を聞こう」
俺は私立探偵よろしくテーブルの上で両手を組んで上段にかまえた喋り方をした。
「せんぱい、ばかみたいだよ」と真中が言うけれど気にしない。いまさらのことだ。
「実は、少し気がかりなことがあってな」
こうなると、大野の方も付き合いがいいので、俺の私立探偵ごっこの雰囲気に合わせて返事をしてくれる。
理解のある友人というのは貴重なものだ。真中は今度は何も言わなかった。
とはいえ、大野の言葉を、俺は少し意外な気持ちで聞いていた。
「気がかりなこと?」
「正直、話すかどうか、けっこう迷ったんだが、まあ見てくれ」
そう言って大野は手に持っていた一冊の本を長机の上に置いた。ボルヘスの『伝奇集』だ。
「これがなに?」
大野は本を手に取ると、裏表紙の内側を開いてこちらに向けた。
今時よそじゃ見かけないだろう古臭い貸出カードが入っている。
借りた人間の名前と借りた日付を記入し、カードを図書室で預かる。
返却された際は返却日を記入し、カードを本に戻す。
かなりアナログな管理の仕方だ。
うちの図書室はけっこう力が入っていると聞いたことがあるが、どうもそれはシステム面のことではないらしい。
大野は貸出カードを抜き出してこちらに差し出してきた。
なんとなく不穏なものを感じつつ、受け取り、カードの内容を見る。
まず、カードの一番上にタイトルと著者名、棚番号が書かれている。
その下に貸出の履歴。カードの半分も埋まっていない。その一番下に、見覚えのある名前が見覚えのある文字で書かれている。
「二年三組 瀬尾青葉 5/22 5/23」
貸出日が二十二日、返却日が二十三日。
書かれていたのはそのくらいの情報だ。
「どうしたの?」と真中が貸出カードを覗き込んでくる。
彼女は怪訝げに眉をひそめると、「どういうこと?」と首を傾げた。
「分からない」
そう、なるほど、これはたしかに気がかりというよりは、異様だ。
瀬尾青葉は、五月の半ば、つまり十日ほど前、部誌を完成させた直後から、一度も学校に来ていない。
あの出来事から、彼女は学校に来なくなってしまった。
連絡さえつかない。きっと俺のせいなんだろうと思う。
「これだけなら、まあ、瀬尾が授業に出ずに本だけをこっそり返しに来たんじゃないか、というふうにも考えられるんだが、問題があって」
いかにも頭が痛いというふうな表情をして、大野はぱらぱらと本のページをめくる。
何かが挟まれていたページでその手が止まった。
「……メモ用紙か?」
「ああ。見覚えは?」
見覚え、といっても、どこにでもあるようなメモの切れ端だ。
おそらく、リング式の小さなメモ帳から切り取っただけの、罫線が引かれているだけの、そっけないメモ用紙。
ただ、見覚えがあるかないかでいえば、ある。
「瀬尾が、そういうのだったな」
「そうか。そうなんだろうな」
そして彼は、四つ折りに畳まれたメモの切れ端を指先でそっと持ち上げて、俺に渡した。
嫌な予感を感じつつ、俺は受け取る。メモ用紙には見覚えのある文字が(というより、明確に知っている文字が)並んでいた。
内容は次のような具合だった。
◇
「こんなメモを見つけるということは、あなたはボルヘスに興味があるか、それとも勘がいい人間かのどちらかでしょう。
わたしの想像だと、たぶん大野くんあたりがあっさりこれを見つけてくれて、
部に届けてくれると期待してるんだけど、それが本当になったら、みんなわたしに少しは感心してくれるかな?
紙面がわずかなので手短に。わたしはいま静かな湖畔でまったりとこの手紙を書いてます。
メモ用紙が小さいから字が細かくなるのは許してね。
とにかく、こんなことになってごめんなさい。突然のことで驚いたと思うけど、でもわたしは無事。あんまり心配しないで。
いま、とてもくつろいだ気分で過ごしています。
心配しないで、なんて言わなくても心配なんてしないだろうけど、言っておきます。
わたしはいま穏やかだから、放っておいてね。
あ、何か伝えたいことがあったら、この本に挟んで本棚に入れておいてください。返事は書くようにするから。じゃあね。
瀬尾青葉」
◇
まいった、と俺は思った。確実に俺が知っている瀬尾の字だし、内容もいかにも瀬尾が書きそうなことだ。
こういう状況をどう思えばいいのか、ちょっとよくわからない。
額を抑えて考え込むが、どうも説明がつかない。
この十日間ずっと連絡がつかなかった人間が、こんな陽気なメモを残していたんだから、俺じゃなくても当然だろう。
思わず口をついて出た言葉は、
「静かな湖畔にいるやつが、どうして学校の図書室に本を返せるんだよ」
とか、そんなどうでもいいことだけ。
「どう思う?」
まともに考えるのも嫌だというふうに、大野は溜め息をつきながら訊ねてくる。
「どう、っていうと?」
「このメモ。瀬尾だと思うか?」
俺は少し考える。とりあえず、いろんな要素は脇においておいて、瀬尾かどうかだけを判断しろというなら、
「高確率で本人だろうな。いや、絶対とは言えないが」
「だけど、本人だとすると、授業には出てなくても、学校には普通に来てたことになるよな」
本が返却されているわけだから、そうなる。
とはいえ、彼女は実のところ、登校していないだけじゃなく、家にも帰っていない。捜索願が出されたという話も聞いた。
にもかかわらずこんなメモが見つかる、ということは、
「家出?」
真中の声に、俺と大野は顔を見合わせた。
少なくとも、メモの文章からすれば、自分の意志で望んで帰っていないというふうに見える。
しかも、最後の文章を見るに、学校の図書室を頻繁に訪れることができる場所でもあるらしい。
まさか図書室で生活しているわけでもないだろうが。
「だとしたら、人騒がせな話だが……瀬尾が、そんなことするか?」
大野の言葉に、俺は考え込む。もちろん、そんなことをしそうには思えない。
根拠はいくつでもあげられる。だが、絶対とは言えない。
それに、このメモの中にも、気になることはいくつかある。
「わたしは無事」という言葉は、なんだか不自然にも思える。
それに、「静かな湖畔」というフレーズも。このあたりに湖なんてない。
何かの比喩か、冗談だろうか。いずれにせよ、考えてもわかりそうにない。
俺は鞄からルーズリーフと筆記用具を取り出して文面を考えた。
「どうする気だ?」
「お返事を書こうと思って」
大野が呆れた顔でこちらを見た。とはいえ、他にどうしようもないだろう。
「本気で返事が来ると思うか?」
来ないと考える方が自然だろう。
仮に本当に反応するつもりでメモを残したとしても、もう本人だって忘れている可能性がある。
今頃は静かな湖畔を後にして、熱帯林の中で色鮮やかな鳥たちとハミングしている頃かもしれない。
とはいえほかにどうしようもないだろう。
とりあえず俺はメモ用紙に「ふざけんなバカ。どこで何やってんだ」とだけ書き込んだ。
それから『アル・ムターシムを求めて』のタイトルのページにその紙片を挟んで大野に渡す。
「本棚に入れといて」
「本気か?」
「反応がなかったら、気にするだけ無駄だってことがわかる。反応があったら、捕獲に希望が持てる」
「絶滅危惧種の保護みたいな言い方だな」
「溺れる者は藁をもつかむのだ」
「まあ、無駄だと思うが」
大野はそう言った。ところが反応はあった。
◇
「三枝隼くんへ。いきなり「ふざけんなバカ」とはご挨拶ですね。
そんなのだから女の子にモテないのです。猛省しなさい。
まあ、どうやら心配してくれていたようなのでそこだけは感謝しておきます。
というかごめんね。でもまあ、わたしひとりいなくても、ぜんぶぜんぶ、どうにでもなるでしょう。
前回のお手紙にも書きましたが、わたしはいま静かな湖畔でまったり晴耕雨読の日々を過ごしております。嘘です。
晴耕の部分は嘘です。ごめんね。ていうか雨読も嘘です。
何も気にせずまったり過ごしています、という程度の意味だと思ってください。
たぶんしばらくは帰るつもりになれないと思う。こっちに根を下ろすことになるかもです。
とにかく、わたしのことは気にせず、みなさんで日常をお過ごしください。
べつに誰のことも恨んでいないから気にしないでね。
瀬尾青葉」
◇
大野が混乱した様子でそのメモを文芸部室にもってきたのは、俺たちがメモを挟んで本棚に本を戻した翌日の水曜日だった。
つまり、一日しか間をおかず、俺のメモと瀬尾のメモが入れ替えられていたのだ。
「あいつは図書室の天井裏にでもいるのか?」
大野がそんな疑問を持つのも無理からぬことだろう。
「誰のことも恨んでないって。よかったね、せんぱい」
なんて素直な反応を見せたのは真中だけだった。
俺たちはそれから三十分ほどさまざまな可能性について検討したが、大した結論は出なかった。
出てきたのはむしろ疑問だけだ。
字や内容を見る限り、本人である可能性は高い。
だが、本人だとしたらいったいどこにいるというのか。
こんなに反応が早いということは、どこかで俺たちの様子をうかがっていたのか(部室に盗聴器でも仕掛けてあるのか?)。
こんなメモを残すことの意味はどこにあるのか(このご時世顔を見せずに連絡を取りたいなら携帯電話があるじゃないか)。
もちろん現実的に説明しようと思えばできないことはない。
が、どの説明にも、ただの悪戯にしては大掛かりすぎるという難点があった。
そんなわけで俺たちは考えることを諦めた。
なにせ本人がしばらくは帰るつもりにはなれないと言っているのだ。
監禁犯の目を盗んで瀬尾が書いた暗号文によるSOSという可能性も考えるには考えたが、そうだとしても解けそうにない。
それを学校の図書室の選んだ本に隠せることの意味がわからない。深読みするだけ無駄になりそうだ。
そういうわけで、どうしようもない。心配するなと本人が言うのだ。好きにさせておくしかないだろう。
そして、俺はまた返事を書くことにした。ルーズリーフにシャープペンで。
◇
「瀬尾青葉へ。
諸々の疑問については、訊ねたところでどうせ答えてくれそうにもないので訊かない。
どこにいるかとか、どうしてこんなまどろっこしい連絡手段なのかとか、
返事がやけに早いのはどういうことだとか、そういうことについてももういい。お互いそこまでの義理もないだろう。
せいぜい無理がない程度で生き延びてくれ。
ただ、もしも俺が原因だと言うなら話がしたい。言い訳させてほしい。
そっちがどこなのかは知らないが、根を下ろすというならそれもいいだろうと思う(具体的状況がまったく想像できないのでなんとも言えないが)。
こっちは少し寂しい程度のことだし、少し心配だという程度だ。まあがんばってくれ」
◇
名前は書かなかった。誰かなんて、見ればわかるだろう。
俺がペンを置いたところで、「わたしも書こうかな」と言って、真中が俺のルーズリーフを一枚勝手に取り出して、ペンを握った。
べつにそれもかまわないだろう。俺が書きたいことは書いたのだ。みんなも好きにすればいい。
真中は内容を考えるような素振りで、シャープペンをくるくると指先で回しながら、鼻歌をうたっていた。
それは、誰もが聴いたことがあるような童謡の響きだった。
名前は知らなくてもメロディーと歌詞は覚えているような、そんな曲。
「それ……」
真中は顔をあげて、笑いもせずに教えてくれた。
「やぎさんゆうびん」
◇
「しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきのてがみの ごようじ なあに」
◇
俺たちの手紙を挟んだ『伝奇集』はそれから大野の手に渡り、図書室へと運ばれた。
大野は疲れ切ったような呆れ切ったような顔をしていた。
「もう考えるのも面倒だ」と顔が語っていた。
誰も必死に心配していないのだから薄情な話かもしれない。
とはいえ、とりあえず生きていることははっきりしたのだ。ひとまず安堵してもいいだろう。
「ね、せんぱい。大野先輩が青葉先輩とグルになってわたしたちをからかってるわけじゃないよね?」
「それはわからないな」
「でも、こんなにすぐ手紙に返事が来るってことは、青葉先輩は誰かの家に転がり込んでるんだと思うんだよ。同じ学校にいる、誰か」
現実的に解釈しようと思えば、いくらでもこねくり回せる。
でも俺には、今回のことはそういうものとは違うように思える。
ほんの少し外の空気を吸いに出かけただけにしか見えないような気安さで、彼女は姿を消した。
部室に鞄を置いたまま、靴すらも下駄箱に残したまま。
おそらくは俺のせいで。
俺には、瀬尾青葉は本当に静かな湖畔で穏やかに暮らしていて、
そこから俺たちに手紙を送り、そこで俺たちの手紙を読んでいる、そんなふうにさえ思えるのだ。
ボルヘスの『伝奇集』を連絡手段にして。
俺が返事をしないでいると、真中は話の続きを諦めたのか、「ま、いっか」と溜め息のように呟いた。
お互い、こだわらないのは美点なのか欠点なのか。
◇
それでも空は分厚い雲に覆われている。まだ時間は早いというのに、あたりは暗い。
俺はいろんなことを思い出しそうになる。
さいわい雨は降っていないが、それもどう転ぶかはわからない。
俺と真中は階段のそばの自販機で飲み物を買ったあと、いつものように東校舎の屋上へと繋がる階段を昇った。
「そういえば気になってたんだけど、せんぱいってどうして屋上の鍵を持ってるの?」
この話は大野ともしたな、と俺は思った。
「譲ってもらったんだよ。先代の部長に」
「なんで?」
「なんでだろうな。たぶん先代も誰かに譲ってもらったんだと思う」
「ふうん」
「俺が卒業するとき、真中にやるよ」
真中の視線はこちらを向いていたが、たいして興味なんてなさそうだった。
階段の踊り場の窓から中庭を見下ろしながら、真中は口を開いた。
「青葉せんぱいのこと」
「ん」
「よかったね。せんぱいのせいじゃないって」
俺は、少し考え込んでから、思っていたことを言った。
「誰のことも恨んでないとあえて言葉にするということは」と俺は言う。
「恨んでいると思われる心当たりがあるってことだろ。その時点で思うところがあるって言ってるようなものだ」
真中は釈然としないような表情を見せたが、何も言い返してこない。
俺の考えを改めようとするのを諦めたのだろう。
階段を昇りきって、鍵穴に鍵を差し込む。ぐるりと回すと、小気味いい音を鳴らして扉が開いた。
「でも、じゃあ、せんぱいは、青葉先輩がせんぱいを恨んでるからいなくなったと思うの?」
「いや。それだけじゃないだろうけど」
真中の呆れた溜め息を聞き流しながら、俺は屋上の扉を潜り抜けた。
「せんぱいって、ネガティブ方向に自信あるよね」
「否定はしない。というかできない」
はあ、という真中の溜め息を聞き流しながら、体を外の空気のなかに放り投げる。
屋上から見える景色はいつもと変わらない。
フェンス越しの街並み、分厚く引き伸ばされた灰色の雲、ひっそりと肌にまとわりつく雨の気配。
湿り気を帯びた風が、だだっ広いだけの屋上を当たり前に吹き抜けていく。
ここは行き止まりだ。ここには何もない。どこまでも広がっているのに、どことでもつながっているのに、ここからはどこにもいけない。
デッドエンド。
「別に、瀬尾が俺のせいだけでいなくなったって思うほど思いあがってるわけじゃないよ」
「でも、理由のひとつではあるって思ってるんでしょ?」
思わず黙り込むと、真中は俺の目をじっと覗き込んできた。
俺は視線をそらした。
真中は屋上の縁に向かって歩いていく。
あんまりフェンスに近付くと教師に見つかると、何度も何度も言ったのに、やめてはくれない。
そうなってもかまわないと思っているのかもしれないし、高いところが好きなのかもしれない。どっちでもいい。
自販機で買ったカフェオレの紙パックにストローを差して、俺もフェンスの方へと歩いていく。
東校舎の屋上から見える街並みは、いつものように他人事みたいに見える。こことはべつの世界みたいだ。
無性にうんざりした気分になって、俺はフェンスに背を向けて網に軽くもたれかかった。
カフェオレの味が今日はやけに甘ったるい。真中はさっき買ったアップルジュースにまだ口をつけていなかった。
「真中、なにか話したいことがあるんだろ」
「うん。わかった?」
「まあ、一応……」
「わたしね、やっぱり、青葉先輩がいなくなったのはせんぱいのせいじゃないと思う」
「だから、そう思ってないって」
「うん。そっか」
瀬尾のことは、考えても仕方ない。
本人だって、自分がどうしていなくならなければならなかったのか、きっと自分で分かっていないだろう。
真中は、なおも何か言いたげな様子で、俺と目を合わせようとしなかった。
「どうした?」
彼女の視線の先には街と空がある。金網の向こうの空は、まだ明るい。
でも、いずれ赤く染まり、日が沈んでいくだろう。鳥の鳴き声が遠ざかり、暗い夜がやってくるだろう。
「さっき、ふと思い出したんだけどさ」
彼女はようやく、パックジュースにストローを挿した。
「この状況。似てるよね」
「この状況?」
「青葉先輩のこと」
「……が?」
いつもどおりの要領を得ない話し方が、今は妙にもどかしい。
続きを促すと、真中はほんのすこしだけ躊躇するような間を置いて、それでも結局口に出してくれた。
「似てると思う。せんぱいが去年書いた小説に」
「……小説?」
「覚えてないの?」
呆れたような顔をされて、むしろ戸惑う。
「むしろ、なんで真中が知ってるんだよ。去年いなかっただろ」
「バックナンバーあるもん。ほんとに思い出せない?」
真顔でそう訊ねられると、なんだか不安になってくる。
瀬尾の状況というのが具体的にどういうものをさすのかわからないが、そんな内容の話を書いていただろうか?
去年。……去年。市川も、俺の去年の原稿を、やけに気にしていたっけか。
「あとで、読み直してみるといいよ。ひょっとしたら、なにかのヒントになるかも」
「なにかって?」
「わかんないけど、なにか」
真中は拗ねたみたいな表情でそっぽをむくと、距離をとって片足をあげ、俺を蹴る真似をしてみせた。
「せい」とやる気のない掛け声までつけくわえられると、こちらがなんとも痛ましいような気持ちになる。
本当に何を考えてるのかわからない子だ。案外なにも考えずにしたことかもしれない。
「今日はそろそろ帰ろうか」
そう声をかけると、真中は小さく頷いてくれる。
瀬尾がいなくなったなんて嘘みたいに、俺たちは当たり前の生活を続けている。
瀬尾にわざわざ言われなくても、日常を続けている。
ほかに、ふさわしい態度を見つけられなかった。
◇
その日は夕方からバイトがあった。
店まで向かう途中で少しだけ雨が降った。傘が必要のない程度の。
行き交う人々の群れに混じって、俺はぼんやりと歩く。
葉擦れの音は、やはり止まない。
瀬尾がいなくなったあの日から、さくらも俺の前に姿を現さなくなった。
間違いなく、俺の身の回りで何かが起きている。
それは分かるけれど、それがいったい何を意味するのか、わからない。
去年の部誌に俺が提出した原稿の内容を、俺は本当は覚えている。
市川が、実話かどうか疑った話。
真中が、今回のことに似ていると言った話。
そのことを意味を、少し考えなきゃいけない。
あれは、ある意味では実話だ。そして、今回のことに似ている、という真中の言葉の意味も、正直わからなくはない。
とはいえ、読み返してみないことにはなんともいえない。
神さまの庭の話。
だが、仮に今回の件が、それに無関係ではないとしたら……。
瀬尾は、『神隠し』に遭ったのかもしれない。
神さまの庭。記憶のなかの夢うつつ。
そんな馬鹿な話があるか、とも思う。けれど、もしそうだとすれば、
『もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない』
……何もかもが、符合する。
『彼女』とは、瀬尾のことなのか?
さくらはその未来を見ていたのか?
聞こうにも、そのさくらも姿を見せない。
店について制服を着てカウンターに出ると、既に混みあいはじめていた。
先輩たちがてんやわんやでレジ打ちをしている。
しばらく袋詰めの作業を手伝っているうちに、波は過ぎ去った。
「お疲れさま」と先輩は言う。
「お疲れ様です」
「来て早々大変だったね」
「まあ、時間帯的に……仕方ないです」
「うん。まあ、そうだね」
そう言って先輩は品出しの作業を始めた。
俺は備品の補充をし、商品を陳列しなおす。
何もかもを整然とさせなければいけない。
そしてようやく、今度こそ店内は秩序を取り戻す。
失われるための秩序。
「あの」
と、不意に声をかけられた。
「はい」
振り向いて返事をして、驚いた。
中学一年生くらいの、小柄な女の子だ。
耳を覆うストレートの髪が活発そうな印象に短く整えられている。
少し、赤みがかって見えた。
「あの。……三枝隼さん、ですか」
問われて、また驚く。こんな小さな知り合いはいない。
「……えっと、どちら様ですか」
「三枝隼、先輩ですよね。わたし、一年の宮崎ちせと言います」
「宮崎。一年……一年って」
「先輩の高校の、一年生です。今年の春に入学しました」
中一どころか高一だったらしい。俺の見る目は当てにならない。
「えっと、どっかで会ったことあるっけ?」
「いえ、でも、先輩のお噂はかねがね……」
「どんな噂だよ」
「ええと、いろいろ。姉とか、青葉さんとかから」
気になるワードがいきなり二つも出てきた。
「えっと、一個ずつ聞くけど、きみのお姉さんって?」
「宮崎ましろ。ましろ姉さんです。文芸部で一緒だったって聞いてます」
「……きみ、ましろ先輩の妹か」
そう言われると、端正な顔立ちに彼女の面影があるような気がする。
何もかも見通すような澄んだ目や、話すときに口元をほんの少し緩める癖なんかが。
まあ、あの人の、厄介さみたいなものの影は、あまり見えない。
垢抜けていないわけではないが、純朴そうに見える。
俺の見る目は当てにならないが。
「ましろ姉さんから、いろいろ聞いてます」
「いろいろって?」
「からかうと面白いとか、冷めたふりした熱血漢だとか、厄介な荷物を持ってそうとか」
「……なんかひどい言いようだな」
ましろ先輩の見立てというあたり、微妙に反論しづらい。
「それで、瀬尾の知り合いなのか」
「はい、あの……隼さん。そのことで、少しお伺いしたいことが」
隼さん。隼さんと来た。悪くない。
「あの、バイト、終わるの何時頃ですか」
「……九時半頃だけど」
「あの、そのあと少し、時間ありますか」
「ないことは……ない」
「青葉さんのこと、訊きたいんです」
「きみ、瀬尾とどんな知り合い?」
「わたし、春からバイトを始めたんです。えっと、レストランなんですけど」
「ばいと」
この見た目で。
「あの、おっしゃりたいことは、わかるんですけど、気にしてるので……」
「いや、ごめん。そんなつもりじゃない。頑張り屋だなあと思って」
「ちょっと子ども扱いしてますね?」
「いや、そういうつもりじゃない」
「いいです。子ども扱いされるの、嫌いじゃないですから」
「……不思議なやつ」
「よく言われます」
やっぱりましろ先輩の妹だという気がした。
「とにかく、そこでいろいろお世話になったんです」
「待って。瀬尾、バイトしてたの?」
「はい。……知りませんでしたか?」
「……なるほど」
「じゃあ、えっと、九時半頃に来ますから、お話しできますか?」
「わかった。……けど、どこの店も入れないんじゃないか」
「任せてください」と彼女は言う。
「あ、わたしのことは、ちせでいいです」
「ちせ?」
「はい」
なんだろう、不思議な子だ。
一切、緊張せずに話せる。どうしてだろう。
◇
それで、九時半を回り店を出ると、ちせは外で待っていた。
「中にいたらよかったのに」
「大丈夫です」
大丈夫というなら、いいのだけれど。
「それで、どこに行く?」
「近くに公園があります」
「公園」
「はい。街灯もあります」
「……まあ、そうだな」
それでいいなら、いいのだが。
「何か買っていくか?」
「いえ。わたしは大丈夫です」
「飲み物くらいならおごる」
「ホントですか。ありがとうございます」
あっさり甘えるあたり、かわいげがある。
ちせに連れられて、近くの小さな公園にやってくる。
公園、と言っても児童公園で、ブランコと滑り台とベンチと砂場しかないようなところだ。
木立のつくる影が、夏の夜の街灯のせいでやけに熱っぽくみえる。
「ありがとうございます。ホントはちょっと、喉渇いてました」
「きみは素直でいい子だ」
「はい。よく言われます」
ちせはそう言って、買ったばかりの紅茶の蓋を開けた。
「それで、隼さん。青葉さんの話なんですけど」
それにしても、この子が真中と同い年と思うと不思議な感じがするものだ。
「学校にも来てない、んですよね?」
「うん」
「バイト先の店長、無断欠勤なんてする子じゃないから、どうしたんだろうって心配してて」
「うん。瀬尾は、そうだろうな」
「いったい、どうしたんでしょう? ほかに、こういうこと聞ける人、いなくて」
「……捜索願が出されてるらしい」
「捜索願?」
「家にも帰ってないってこと」
「えっと、じゃあ、家出ですか?」
「そう思うか?」
「いえ……青葉さんにかぎって、それはない、と、思いますけど、でも」
そう。そういうものだ。
誰がどうなるかなんて、誰にもわからない。
瀬尾があんなふうに取り乱すなんて、俺は思っていなかった。
かけらさえも思いつきやしなかった。
あんなに長い間話したのに、俺は瀬尾のことなんてなんにも知らない。
「あの、青葉さん、いなくなった日、会ったんですか」
俺は、言うかどうか迷って、結局、話すことにした。
「たぶん、俺が……」
でも、それは、おそろいしことでもある。
何を言われるか、何を聞かれるか。
「瀬尾と最後に話したのは、俺だ」
そして、おそらく、瀬尾がいなくなったのは、
きっかけは、
「文芸部の部誌で……俺は、瀬尾の小説の書き方を真似たんだ」
「……部誌。真似って?」
「パクったわけじゃない。手法を、真似たんだ。隠喩の取り扱い、構成、文体。そしたらあいつ……」
「……怒ったんですか?」
それなら、まだよかった。
瀬尾は泣きもしなかった。
「自分は、いらないんだって、言って」
荷物さえ持たずに。
最初からいなかったみたいに、消えてしまった。
あの日の、あの表情。
「……隼さん?」
ちせの顔を見ることができなかった。
責められそうで、誰にも言えなかった。
「違う。俺には、何もないから。何もないから、憧れただけなんだ」
確固としたスタイル。軽妙な語り口。アイロニカルな視点。
そんなすべてに。
「なんにもないのは、俺の方なのに、なんであいつ、あいつが……」
なんで、瀬尾がいなくなってしまうんだ。
なんで、いなくなるのが俺じゃないんだ。
「隼さん。……すみません。大丈夫ですか?」
「……ん。少し取り乱した」
「いえ。……じゃあ、青葉さんは」
躊躇するような間が置かれる。俺のせいで、というのをためらったんだろう。
「わからない。でも、きっかけはそうかもしれない」
「何か、手がかりはないんですか?」
ある。
俺は鞄からノートを取り出して、そこに挟んであった二枚のメモを取り出した。
「これは?
「ボルヘスの『伝奇集』って知ってるか?」
「いえ……」
「その本に挟んであった。あいつがいなくなってからのことだ」
ちせは俺から二枚のメモを受け取ると、しげしげと内容を眺め始めた。
うまく理解ができなかったのか、何度も読み返している。
「これを読むかぎりだと、瀬尾は自分の意思でどこかに行って、しばらく戻ってくる気がないらしい」
「湖畔……でもこれ、手紙じゃないですよね。挟んであった、って?」
「学校の図書室の本にだ。大野って奴が見つけた」
「誰かの悪戯って可能性はないんですか?」
「瀬尾の字だ」と俺は言った。
「見間違えたりしない」
「……でも、だとすると、青葉さんは図書室に出入りできる状況っていうことですか?
「わからない」
そう考えるのが自然だ、と答えようと思った。でも、できなかった。
「どういうことなんでしょう」
「わからない」
ちせは少しの間黙り込んで何かを考えている様子だった。
細い首筋が、本当に子供みたいだと思った。
「隼さん、わたし、どうしても気になるんです。青葉さんのこと」
「うん。俺もそうだ」
「あの人は明るくて、やさしくて、とてもいい人だけど、いつもどこか遠くにいるような気がする」
それは、俺もまた感じていたことだ。
「隼さん。わたし、青葉さんのこと、探そうと思うんです。放っておいてはいけないような気がする。
あの人を放っておいたら、よくないことになりそうな気がする。
見つからないかもしれない。余計なお世話かもしれない。でもそう思うんです」
「……」
「このままにしておいたら、青葉さんは、どこかとても暗いところに入り込んで、帰ってこれないんじゃないかって」
暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある。
みんな気付かないふりをしているだけで、知っている。
そして、そこには、誰の声も届かない。
「隼さん、ましろ姉さんから、隼さんのことを聞いてます。
とても、頭がきれて、感情表現が苦手だけど、いい人だって」
「それは、意外な評価だな」
ましろ先輩の言うことだ。乗せられてはいけないのだろうが。
「会ってみて、わたしもそう思いました。とてもやさしそうな方だって。
隼さん、もしよかったら、協力してもらえませんか。そんなに迷惑はかけませんから」
やさしそう。
やさしそう、ね。
だが、瀬尾のことが気になるのも事実だ。
「……できることは、そんなにないと思う」
「かまいません」とちせは言う。
俺たちはとりあえずその場で連絡先を交換した。
「それで、あの、ひとつお願いがあるんですけど」
「ん」
「あの、駅までついてきてくれませんか。このあたり、けっこう暗くて……」
……まあ、たしかに、この子をひとりで帰したら、今度こそ事件になりかねない。
そういうわけで、俺は初対面の後輩の女の子とふたりで夜道を歩くはめになった。
「ごめんなさい。急に押し掛けたうえに、送ってもらっちゃって」
「いや、べつにいいんだけど」
「やっぱり、ましろ姉さんから聞いたとおり、隼さんはいい人です」
「いい人?」
「はい。……違いましたか?」
「うん。違う」
「そうですか。それでもいいです」
変わった子だ。
「隼さんはわたしのこと、知らなかったかもしれないけど、わたしは隼さんのこと、ずっと前から知ってましたから」
「そんなにましろ先輩から聞いてたの?」
「はい。それと、青葉さんからも」
「あいつ、俺の悪口吹き込んだんじゃないか」
「そんなことは……なかったと思いますけど」
含みのある言い方だ。
「でも、隼さんの話をするとき、青葉さんは楽しそうでしたよ。……これ、わたしが言ってもいいのかな」
「どうだろうな」
「隼さん、あの……わたし、変だと思うんですけど」
「なに」
「勝手なイメージなんですけど、隼さんのこと、お兄さんみたいだなって思ってます」
「……」
本当に変わった子だった。
「変ですよね。初対面でこんな話……」
「変だね……」
さすがに肯定した。
「ましろ姉さんや、青葉さんから隼さんの話を聞くの、楽しくて」
「面白いことなんてないと思うけど」
「でも、そうだったんです」
「……」
「イメージしてたとおり、優しそうな人で、うれしいです」
「うれしい?」
「はい。いけませんか?」
「……」
優しい人間なんかじゃない。
でも、うれしいっていうのは、不思議な感じだ。
「隼お兄ちゃん」
「……」
本当に変な子だな、どうすればいいんだ、これは。
「……言ってみただけです」
ちせは照れくさそうに笑った。
こっちが照れる。
「青葉さんのこと」
「ん」
「……土曜日に、青葉さんの家に行ってみようと思うんです」
「……住所、知ってるの?」
「一応、バイト先に履歴書が控えてあるはずですから」
「いいのかな」
「よくないのかもしれない」
そうだな。
そういうものだ。
「ね、隼さん。手を貸してください」
「手?」
いうが早いか、ちせは勝手に俺の手を掴みとった。
「おっきいですね」
……あ、そっちの手か。
本当に、親戚か何かみたいな距離感だ。
誰にでもこうなんだろうか。
「……違いました。えっと、わたし、こんななりですし、ひとりで行っても、おうちの人に相手にしてもらえないと思うので」
「あ、ああ……そういうことか」
「隼さんに手伝ってもらえたら、助かります」
それからふと、我に返ったみたいに、ちせは俺の手をパッと離した。
「すみません。変なことしました」
「そうだね?」
「なんか……変なこと言ってた気がします」
「まあな?」
「忘れてください……」
「善処するよ……」
それからちせはほとんど喋らなくなった。
駅まで彼女を見送ってから、帰途につく。
妙な奴に会ったという気がした。
◇
家に帰ると、純佳がまだ起きていて、玄関まで迎えに来て鞄を受け取ってくれた。
「おかえりなさい。ごはんにしますか? お風呂にしますか?」
「なにそれ」
「新妻ごっこ」
「なんで?」
「やってみたかったからです」
そう呟くと、彼女は鞄を大事そうに抱えた。
ご丁寧にエプロンまでつけっぱなしだ。
「今日は少し遅かったですね」
「少しな」
「……ほかの女の匂いがしますね」
なかなか堂に入ったものだった。
「女と会ってきたんですか?」
「まあ……そうだな」
「浮気者!」
「いつまで続けるんだ、それ」
俺は靴を脱いで玄関にあがった。
ついでにネクタイを緩めるそぶりもして見せる。
「あなた、最近つめたいわ。昔はもっとわたしにやさしくしてくれたのに」
「……」
「なんとかいったらどうなの。口を開けば仕事仕事って……」
「もういいって」
「失礼しました」
そういえばこいつも十分に変な奴だった。
「それで女の子と会ってきたということでしたけど……」
「まあ、それはべつにいい」
「兄」
「ん」
「なにか、無理してませんか?」
俺は、突然の純佳の変化に驚く。
「……なんで、おまえはそう、いつも、分かるんだ」
「いえ。兄はだいたいいつも無理してるので、『無理してませんか』って聞くだけでいつもあたったように感じるだけです」
……あ、そういう仕組みだったのか。
「べつに無理なんて……」
「頭。痛いんですよね」
「……」
「兄のことくらい、見てればわかります」
厳密には、違う。
俺は、あの葉擦れの音を、あの二重の景色を、純佳にだけは、「頭痛」として教えていた。
「休んでください」
「いや、とりあえず、腹減ってるし……」
「じゃあ、ご飯食べたらすぐ寝てください」
「いや、風呂入りたいし……」
「わたしが代わりに入っておきますから」
「なんだそれは」
「倒れたらどうするんですか」
「今までそんなことなかっただろ……」
「兄」
「なに……」
「ごめんなさい。……わたし、うるさかったかもしれない」
急に、純佳はしゅんとなる。
ときどきこういうことがある。
やっぱり血だ。
あるいは環境だろうか?
どっちでもいい。
俺の鞄を胸の抱き寄せて俯いた純佳の頭に、俺はぽんと手のひらをのせた。
「大丈夫。今日はそんなにひどくないから」
「……ほんとう?」
「ほんとう」
「……それなら、いいんですけど」
それから俺は夕食をとった。
なんだか純佳の様子がおかしい気がして、部屋には戻らずリビングで課題を済ませる。
眠気がひどい。
ここのところずっと、瀬尾に言われた言葉を思い出している。
――わたしは、『他の誰か』じゃないよ。
――重ねるのはやめてね。
……重ねている、つもりではなかった。
べつに、重ねているつもりではなかった。
「兄、そういえば今日、ちどりちゃんに会いました」
「ん」
「なんか、近々、怜ちゃんがこっちに来るみたいです」
「……怜?」
「はい」
「怜が、ね……」
ずいぶん久しぶりに聞く名前だ。
「兄? どうかしました?」
「……いや」
「兄は……」
「ん」
「どこかにいなくなったりしませんよね?」
「……なんでそんなこと聞くの」
そう尋ねてみても、純佳は返事をしない。
言えないことがあるのはお互い様だ。
正直さは、べつに誠実さでもない。
言わない方がいいことだってある。
でも、純佳は、そうすることがまるで何かの義務かのように口を開いた。
取り繕った、余裕ぶった、いつもの表情を捨てて。
「……あのね、兄。わたしは、ときどきすごく不安になるんです」
「なにが、不安?」
「わからない。でも、足元にある地面が、急にぐらぐらと揺れて、今に抜け落ちてしまうんじゃないかって思うときがあるんです」
「……」
「ある日とつぜん、全部が嘘か、夢だったみたいに消えてしまうんじゃないかって思うことがある。
最初からなかったみたいに、ふわりと消えてしまうような気がするの。そのときわたしの近くになにが残るんだろう」
「……」
「ぜんぶがなくなっても、わたしはわたしでいられるのかな、って」
純佳の言葉はとても抽象的で、彼女自身、自分が何を不安がっているのかよく分かっていないのだろうと思わされる。
「ときどき思い出すの」と純佳は言う。
「わたしはランドセルを背負って、学校からの帰り道を歩いているの」
朝から降っていた雨は、放課後になる前に止んでいて、道路のアスファルトは濡れて、ところどころに水たまりができてた。
それでわたしは、家に帰ったらお兄ちゃんがいるんだって考える。
でも、すぐに思い出すの。お兄ちゃんはいなくなっちゃったんだって。
ひょっとしたら家に帰ったら、お兄ちゃんは当たり前の顔をしてそこにいるかもしれない。
そう思って、わたしはほんの少しだけ早足になって家に急ぐの。
でも、やっぱり家にはお兄ちゃんはいないの。
ちどりちゃんに聞いても、怜ちゃんに聞いても、誰もお兄ちゃんの行方を知らないの。
夜になって、布団のなかに入って眠るときに、お兄ちゃんが帰ってきますようにって祈るの。
誰に祈ったのかもわからない。それでも、祈ってた。
だけどわたしは、お兄ちゃんにその祈りが届いていないことを知ってるの。
そんな日のことを、ときどき思い出すの。
「……純佳」
「ねえ、お兄ちゃん」
昔みたいなそんな呼び方で、子供みたいな顔をして、純佳は俺を見上げる。
「あのとき、お兄ちゃんはどこにいたの?」
「……」
「あのときからずっと、お兄ちゃんは、ずっと、寂しそうな顔をしてる気がする」
俺は、
答えられない。
――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。
――巻き込んで、ごめん。
「わたしにも、言えないんですか?」
――ちどりを助けて。
――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。
「兄は、どこにも、いなくならないですよね?」
――きみ、この先に行くつもりなの?
――ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。
「兄は……わたしを置いていきませんよね?」
――隼ちゃん。
――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?
「……どこにも行かないよ」
葉擦れの音は止まない。
その中で俺は、純佳と一緒に麦茶を飲んで、平然と安らいだひとときを過ごす。
純佳は、俺の言葉なんか、きっと信じちゃいなかった。
◇
夜の十一時を回った頃に、玄関から扉の開く音が聞こえた。
「……あ、起きてたの」
「お母さんだ」
「母さんだね」
俺と純佳はソファの狭いスペースに隣り合って座ったまま、一緒にマンガを読んでいた。
「……相変わらず異様に仲いいわね、あんたたち。暑くないの?」
「久々にお母さん見ました」
「うん。久々に母さんだね」
「虹みたいな扱いね、わたし」
虹よりもいくらか珍しい。
たいてい日付を越えてから帰ってくるし、俺は朝が遅いから、なかなか遭遇しない。
「ごはん食べますか?」
「さすがに食べてきたわよ」
「そうですか。お仕事お疲れ様です」
「本当にね」
「好きでやってる仕事だろう」
「それはもちろんね。ふたりとも、寝ないの?」
「久しぶりに会ったのに、寝ないのもないものだと思いますが」
「心配してるのよ。明日も学校でしょう」
「働き詰めの人に言われたくないです」
「……なに、純佳。お母さんに久々に甘えたいの?」
「わたし、もう寝ますね。兄、電気は消してくださいね」
「そうするよ」
「……冷たい子たち」
拗ねたみたいに溜め息をついてから、母さんは静かに荷物を置いてダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
「疲れてるみたいだね」
「もう慣れたわ」
「そうですか」
母さんは仕事でいつもいない。なんの仕事をしているのか、俺は実のところ知らない。
夜遅くまで働いて、会社に泊まったり、どこかに出張したりと忙しそうだ。
学生時代にやりたかった仕事をしているとは言っていたが、詳しくは知らない。
「案外やり手なんだぞ」と、父がいつか言っていた。なんのだ。
「隼、大きくなったわね」
「同居してる親のセリフとは思えないな、おい」
そもそも、さすがに大きくなるほど長い時間会っていないわけじゃない。
「家事、任せちゃってごめんね」
「いいよ、べつに。どうせ純佳と交代だし」
「うん。まあ、仕事で忙しくなくたって、わたしがやるよりあんたらがやったほうが上手く行くだろうけど」
「否定できないけど、さすがにどうなんだよ」
「いいじゃない。画一的な価値観に惑わされることはないわ。家族のあり方なんでそれぞれよ」
それはまあそうかもしれない。
「学校はどう?」
「平々凡々です」
「部活は?」
「……平々凡々」
とは言えない。なにせ部長が失踪している。
「……そっか。あんたたち、しっかりしてるから、心配はしてないけど」
しっかりしてる。
しっかりしてる、か。
「親がだめだと、そうなのかしらね」
「……知らないけどさ」
「そう……隼も、もう寝なさい」
「ん。母さんも」
「母さんは、お酒飲んで寝ます。明日はおやすみ」
「ふうん?」
「今週の土日、ひさびさに家族でどっか行こうか。父さんも休みだって言うから」
「……いや。ごめん。予定がある」
「そっか……。ね、明日は朝ごはんつくってあげる」
「いらない。心底」
「失礼なやつ。……ねえ、隼」
「ん」
「ごめんね」
「……なにが?」
「……ううん。なんでもない」
「俺、もう寝るよ」
「そっか。おやすみ」
「おやすみ……」
俺は自分の部屋に戻り、すぐに明かりを消した。
ベッドに倒れ込む。
もう慣れた。
葉擦れの音にも、他のいろんなことにも。
しっかりしてる。優しそうな人。
まともそう。食えない奴。
そんなふうに言われる。
そんなふうに見えるらしい。
それも慣れた。
目を閉じると、睡魔はすぐに襲ってくる。
けれど、やはり、もう片方の視界は目覚めたままだ。
影絵のような葉擦れの森は、まだそこに浮かんでいる。
風の冷たさ、白々しい月。
不意に、その景色が――動く。
「そろそろですよ」と声が聞こえる。
俺の視界に、誰かがいる。
けれど俺は、声をあげることはできない。
『そちら』の体は、ひどく衰えているし、俺の意識は、まだ『こちら』にある。
だから、何もすることができない。
「不思議なものですね。まるでわたしは、あなたのために生まれてきたみたいな気がします」
その声を、俺は知っている。
さくらの声だ。
「違います」と声は言う。
「わたしは、さくらじゃない」
そうだ。こいつは、俺の心を読むことができる。
……いや。でも、こいつは、俺のこの現象には関係がないのではなかったか。
そもそも、学校にしかいられないのではなかったか。
「さくらでは、ないのですが……名前がないと不便なら、つけてもらってもけっこうです」
……。
「ああ、喋れないんですね」
じゃあ、自分で考えることにします。
「……大切なことは、越境という言葉の意味について考えることです」
そして彼女は、歌を歌うように、つぶやく。
「その場所に名前はない。入口は無数にあるし、出口も無数にある。
けれど、その中は迷路にようになっていて、簡単には抜け出せない。
あるものはそこを仙境と呼ぶし、あるものはそこを異世界と呼ぶ。
冥界と呼ぶものもいれば単なる白昼夢と呼ぶものもいる。
あるものにとっては芳しい花の香りに満ち満ちた極楽の蓮池であり、
あるものにとっては暗雲垂れ込める枯れ果てた木々の森であり、
あるものにとっては地中深くの水晶の谷間であり、
あるものにとっては焼け落ちた家の跡地であり、
あるものにとっては近未来的なビルの林でり、
あるものにとってはただ茫漠たる砂漠であろうし、
あるものにとっては黴の匂いに包まれた光も差さぬ牢獄であり、
あるものにとってはそこは郷愁誘う民家である。
ふうけいはおそらく問題ではない。
問題は、そこには「なにともしれぬ暗闇」がひそんでおり、
彼らはその木々の虚めいた隙間から舌なめずりしてこちらを覗いているということだ。
そしておそらく彼らは『滲み出している』。
『あちら』と『こちら』との間に本来境界線はなく、ただ便宜的な住み分けがなされているだけに過ぎない。
彼らは『そこにいる』。
暗闇はどこにでもある。
暗闇はいつもそこにある。
足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある」
覚えていますか、と彼女は言う。
「……あなたが、書いたんですよ」
そうだ。
どうして、彼女が、そのことを知っている?
それは、去年、俺が書いた文章だ。
「思い出してもいいし、思い出さなくてもいい。忘れてもかまわないし、忘れた方が幸せなのかもしれない。
でも……音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない」
それだけ、覚えていてくださいね。
「わたしは、さくらではない。でも、名前が必要なら、いま、考えます」
そうですね、と彼女は微笑み、
「……カレハというのは、どうでしょう?」
得意げに笑った。
そうして彼女は姿を消し、森にはまた、葉擦れの音だけが響いた。
◆
「こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします。
悪い意味じゃなくて、なんだか、自分が世界で、世界が自分だっていう気がする。
そこではわたしは、他のなにものでもなく、でもたしかになにかではあって、でも誰もわたしに何も求めないの。
それって悲しいことのようで、実はとても気楽なことなんじゃないかって思うんです。
陽の光を浴びながら湖の水面を眺めていると、なんだかいろいろなことを思い出しそうになります。
でも、そっちのことを思い出す時間が、日に日に減ってきたような気がします。
本当にこっちに根を下ろすことになるかもしれない。
そうしたら、みんな、少しは寂しがってくれますか?
瀬尾青葉」
◇
放課後の文芸部室には、瀬尾を除く部員たちが全員揃っている。
今日もまた、ボルヘスの『伝奇集』に瀬尾のメモが挟まっていた。
俺と真中がメモを読み終えると、市川が深刻そうな顔で俯いた。
「どう思う?」
「……ううん」
「……なんだか、まずそうな感じがしない?」
「状況が、やっぱりわからない」
大野は、静かに呟いた。
「本当に湖畔で静かに暮らしているわけがないだろ。だって、瀬尾は図書室の本にメモを挟んでるんだ」
「そうだけど……これ、何かの比喩なのかもしれないし」
「比喩?」
「つまり、実際に湖畔にいるわけじゃなくて、そういう気持ちってこと」
「なんでそんな回りくどいことするんだよ」
「知らないけど……小説なんて、そういう回りくどい言い方しかできない人が書くものだと思うし」
そう言われれば、そうかもしれないが。
「……なんか、隼くんはさ」
「ん」
「あんまり、瀬尾さんのこと心配してないの?」
「……」
あまりに不意打ちで、返す言葉に詰まる。
「そういうふうに見える?」
「悪いけど、見える。平気そうに見える」
「そう」
そう。慣れてるよ。
「でも、瀬尾さんも……そういうふうに見えた」
市川は、そんなふうに言葉を続けた。
「いつも笑ってて、元気そうで、自分のことより誰かのことを考えてて、自分のことなんて、どっかに忘れてるみたいな顔してた」
「……」
「違うんだね」
大野と真中が、黙って俺たちの様子を見ている。
市川の言葉が続くのを待ってる。
「きっと、見た通りの人なんていないんだ。どんな言葉にも裏があって、すぐ揺らいで、だからわからないだけで」
だからすぐにわかんなくなっちゃうんだ。
「ひょっとしたら、わたしたちみんな、何かを演じているのかもしれない」
溜め息をつくみたいにそう言ってから、彼女は壁にかけられた絵を眺める。
空と海とグランドピアノ。
孤独。
そうかもね。
どうだろうね。
「ねえ、隼くん。……ひょっとして、なにか、気付いてることがあるんじゃない?」
「どうしてそう思う?」
「……質問に質問で返すのは、隼くんの悪いところだね」
俺は本当に何も知らない。
ただ、予感のようなものがあるだけだ。
そのとき、不意に、部室の扉がノックされる。
誰だろう、と考える間もなく、ドアが開けられる。
「失礼します。あの、隼さんは……」
「ちせ」
と、名前を呼ぶと、部員たちが一斉にこっちを向いた。
……もうだいたい、何を言われるか分かってきたような気がする。
と、思ったけど、そうだ。
こういうときに、真っ先に俺に文句をつけてきたのは、いつも瀬尾だっけ。
前までだったら、別に説明する理由もないような気がしたが、真中との話もある。
妙な誤解をされても愉快ではない。
俺はみんなの顔を見回した。
「ましろ先輩の妹だよ」
「え」
と声をあげたのは、大野ひとりで、残り二人は首をかしげていた。
……。
あ、そうか。
そりゃそうだ。市川も真中も、去年まで部に出入りしてなかったんだから。
知ってるのは、大野と瀬尾……。ここでもやっぱり、瀬尾だ。
瀬尾がいないと調子が狂う。
「ましろ先輩って……?」
首を傾げたのは、また市川だった。ひとり欠けるだけで、会話のバランスがこうも乱れるものだろうか。
「先代の部長だよ」
そのとき、ふと思い出す。
ましろ先輩には、さくらが見えていた。
俺と瀬尾にもさくらが見えて、他のやつには見えない。
今、俺にはさくらが見えない。
……ましろ先輩は、こういう状況に心当たりがないだろうか?
そもそも気になることだらけだ。
さくらとましろ先輩の話を思い出してみれば、去年だって、さくらはましろ先輩の周囲をちょろちょろしていたはずだ。
そのとき、俺はさくらの存在を認識できなかった。
それなのに、どうして今年の春になって、突然さくらのことが見えるようになったのだろう。
瀬尾にとってだってそうだ。
……もっと早く、思いつくべきだった。
「あの、隼さん」
突然黙り込んだ俺に向けて、ちせが不安そうな顔をした。
「少し、お願いがあるんですけど……」
「ん」
「職員室まで、一緒に来てほしいんです」
「……なんで?」
「えっと、土曜の話で……あの、行き先の住所が」
やけに遠回しな言い方をするのは、周囲に気を使ったのか。
まあ、瀬尾のことを探ろうなんて、こういう状況でもあんまり趣味が良いとは言えない。
家族の心境からしたら、俺達の応対なんてやってる気分でもないだろう。
大野あたりは反対するかもしれない。
「……ああ、それなら俺が知ってる」
「そうなんですか?」
「行ったことあるから」
「……そうなんですか」
ちせは、なにか複雑そうな顔をした。
「じゃあ、わかりました。とりあえず、あとで連絡します」
「うん」
ちせが去ったあと、三人の視線が俺に集中する。
「せんぱい」
真中が不意に俺のことを呼んだ。
「あのね……。あの、せんぱい」
一度はこらえるように言葉を止めたのに、彼女はもう一度話しはじめた。
「わざとなら、さすがに悪趣味だと思うよ……?」
「なにが……」
「たしかにね、わたしはせんぱいと付き合ってないし、せんぱいが誰といようとなにかを言う権利なんてないけど」
むっとした顔で、眉を逆立てている。
わたしは怒っています、みたいな顔だ。
「でも、でも、自分のこと好きだって言ってる相手がいる前で、平然と他の子と遊びに行く約束っていうのはどうかなって」
「……そういうんじゃない」
本当に調子が狂う。
例の騒動以降、真中の表情は徐々に豊かになってきた。
感情表現を取り戻したみたいに。
もちろん、あの無感動な雰囲気がなくなったわけじゃない。それでも、はっきりとした意思表示をときどき見せるようになった。
いろんなことが、一度に起こりすぎてるんだ。
「せんぱい、土曜日、あの子とどこいくの」
「……あー」
「……せんぱいがどこ行こうと、わたしには関係ないんだけど」
「……」
「せんぱい?」
俺だってべつに、真中に対して罪悪感がないわけではないのだ。
こいつのことを好きにならない、好きじゃないとは言っていても、突き放す気にはなれない。
(それは弱さなのだろう)
「……真中、ちょっとこい」
「ん」
彼女は素直にうなずいた。俺たちは立ち上がって、部室を出る。
廊下に出てすぐ、俺は真中にことの成り行きを説明した。
「さっき来たのはちせって言って、おまえと同じ学年の生徒だ」
「知ってる。宮崎さん」
「あいつには姉がいて、それが先代の部長だ」
「うん。さっき聞いた」
「あいつはどっかのレストランでバイトしてたらしくて、そこで瀬尾も働いてたらしい」
「……」
「瀬尾のことを、調べるつもりなんだって言ってた。俺も協力することにした。
それで、土曜、一緒に瀬尾の家に行くことになってる」
「……そうなんだ」
「……これで説明になったか?」
「うん」
「……なんで笑う?」
本当に、未だに、こいつの素直な笑い方には慣れない。
気を抜くと持っていかれそうになる。
魔性。
しかも、これを、俺にだけ見せてくるっていうのが、本当に厄介だ。
……どうして、俺なんだ。
もっと、別にふさわしい相手がいるはずだ。この笑顔を受取るに足る奴が。
「せんぱい」
「ん」
「あんまり、答えを急がないでね」
「……」
「わたしをどう扱うか、ゆっくり決めてくれていい。ちゃんと待てるから」
「……なんで」
「だって、今答えを出したら、きっとわたしに都合の悪い結論になるだろうから」
「意外と打算的だな」
「せんぱいとしても、都合がいいでしょ。ひとりキープがいるって思えば」
「言い方を……考えてほしい」
「うん」
本当に嬉しそうに笑うんだ。
素直に。
この子のことを好きになれたら、たぶん、それでよかったはずなのに。
風景がまた、二重になる。
何かを忘れさせまいとするみたいに。
誰かに近付こうとするたびに、誰かに触れようとするたびに、誰かにすがりつこうとするたびに。
「ね、せんぱい。……土曜日、わたしも、一緒にいったらだめかな」
「……」
「わたしだって、青葉先輩のこと、心配してるよ」
「……知ってるよ」
「だめかな」
「聞いてみるよ」
それで、そのときは話は終わった。
俺たちは、いつも何かを演じているのかもしれない。
誰の仕組んだ舞台なのかも、分からないまま。
俺たちはついでに、自販機まで歩いて飲み物を買うことにした。
そのとき不意に、廊下の向こう側に、人影が見える。
「さくら」が、見えた。
彼女は俺と目が合った瞬間、ふわりと体を翻して、なんでもなさそうに去っていく。
「真中」
「ん」
「今、誰か見えたか?」
「……ううん」
「そっか」
たぶん、追いかけても、もうそこにはいないだろう。
ましろ先輩に、連絡してみるべきかもしれない。
さくらのことを、俺はなにひとつ知らないままだ。
昨夜見た、『カレハ』のことも。
謎ばかりが増えていく。
……その謎は、俺が向き合わなきゃいけないものなんだろう、きっと。
空虚が充溢しているように思える景色。
俺の視界のその曇りを、俺がどうにかできるか。
いま起きていることのすべては、それに関わっているような気がする。
この葉擦れの音の正体も、きっと。
つづく
続き
傘を忘れた金曜日には【3】

