四月下旬のことだった。
木曜の放課後、時刻は昼下がり、東校舎三階の隅にある文芸部の部室の真ん中で、瀬尾 青葉はぽつりと呟いた。
「これは由々しき事態ですね」
部室の中央に二つ並べた長机を挟んで、俺は頬杖をつきながら瀬尾の様子を眺めている。
深刻ぶった声の調子に、やけに落ち着かない気持ちにさせられる。どうしてだろう。
とはいえ、それはべつに彼女のせいでもないだろう。
どうにか心の中だけでおさまりをつけようと苦心しつつ、俺は相槌を返した。
「進退窮まった、といったところではあるな」
まさしく、と言いたげな悲しげな表情で、瀬尾は頷いた。
思いのほか落ち込んだ様子の彼女の姿を、俺は意外な気持ちで見ている。
もっと無関心な奴かと思ったが、部長に任命されたことで責任感でも覚えたのかもしれない。
まあ、任命されたとは言うものの、この文芸部には現状、実質的には部長と副部長のふたりしかいない。
だから消去法だったはずだが。
そして、それがまさしく、いま俺たちに降りかかっている問題だ。
元スレ
傘を忘れた金曜日には
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1524148895/
傘を忘れた金曜日には.
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1541601293/
考えたことがないわけではなかった。
去年の春、俺と瀬尾が入部したときには、七人の先輩がいて、ただし全員が三年生だった。
彼ら彼女らは去年の秋の文化祭を最後に引退して、今年の春に卒業した。
結果、部室に残されたのは俺と瀬尾のふたりだけになった。
比較的まじめで熱心な瀬尾が部長に信任されたのは当然の成り行きだと言える。
反対に、俺のようなやる気のない人間に副部長を任せざるを得なかったのは、先輩たちとしても顧問としてもさぞかし苦渋の決断だったことだろう。
同情に値する。改善する気はないが。
この高校の文芸部の歴史はだいたい二十年だか三十年だか前までにさかのぼるという。
一度誰かに聞かされたはずだが、具体的には覚えていない。
ひょっとしたら四十年だったかもしれない。まあどうでもいい。
とにかくずいぶん長い間、この文芸部は文芸部としてこの学校の中にあった。
メンバーが入れ替わり、部室が移り、顧問がかわり、それでも文芸部は文芸部のままだったのだ。
あたかも、船の部品をひとつひとつ取り換えるうちに、最初と同じ部品がひとつもなくなってしまったあの神話の船みたいに。
まあ、爪や髪の生え変わりと思えば不思議でもないが。
そして目下の問題は、次の髪が生えてきそうにないことだ(悲しい話だ)。
「危機的状況」と瀬尾がうめく。こうされると、俺も対応に困る。
ことの発端は単純だ。
七人の先輩が卒業したあと残された文芸部の部員の人数。
これは部活動の成立要件である「部員数五名以上」を下回っており、よってこの項に抵触する。
瀬尾はそう言うのだ。
なるほど、と俺は思った。
とはいえ、四月から新入生も入学したのだ。
勧誘に成功して新入部員を獲得できれば解決、という話でもある。
仮入部期間は四月いっぱい。それまでに間に合えばいい。
簡単ではないだろうが、不可能な条件ではない。
「なんだかんだでどうにかなると思うよ」と、先代の部長も俺たちに言っていた。
ところが俺たちは失敗した。どうにもならなかった。
理由はシンプルだ。
勧誘がうまくいかなかったわけじゃない。そもそも勧誘しなかったのだ。
四月のはじめ、新入生歓迎会が終わったばかりの頃は、俺たちだって何も考えていないわけじゃなかった。
「そろそろ何か考えないとね、ビラ配りとか、ポスター貼ったりとか」
そんなふうに責任を果たそうとした瀬尾に対して、めんどくさいなあというのが正直な俺の感想だった。
それでも、そうだな、なにか考えないとな、と返事をした。嘘をついたつもりもなかった。
それなのに、気付いたら四月末になっていた。
「どうしてこうなったんだろう」
瀬尾は長机の上にほっぺたをくっつけてだるそうに溜め息をついた。
なにもしなかったからだ、とは言わないでおくことにする。
彼女はなおも不服げに、「こんなはずじゃなかったんだよなあ」とか言いながら指先で机の上面を叩いてリズムを刻んだ。
「ねえ、どうしたらよかったんだと思う?」
目も合わせないまま問いかけてくる瀬尾に、心の中だけで、勧誘すればよかったんだよ、と答えた。
「どうすればピアノが上手になると思う?」と訊かれたら「練習する」としか答えようがないのと一緒だ。
でも言わない。めんどくさいから。
「あんまり心配するなよ。そんなに考え込まなくても、最後には全部よくなるよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「いいか瀬尾」、と俺は偉ぶった口調を作った。
「この部は何十年も前から途絶えることなく続いてるんだ。俺たちが何もしなくても今日まで続いてきた」
「うん」
「ということは、俺たちが何もしなくてもこれからも続いていくって考えるほうが自然だろう?」
「……えっと、どっかで理屈がおかしくなってると思うんだけど、どこからかわかんないな。わたしつかれてるのかな」
「そうだよ。ゆっくり休め」
「なーんか、口車に乗せられてる感じがするなあ」
そう言って、彼女は机から体を起こすとパイプ椅子の背もたれに体重を預ける。
それからじとっとした目でこちらを見た。
それにしても、彼女の仕草、表情、相貌、姿かたちを見るたびに不思議な気持ちになる。
「こんなことってあるんだろうか?」というような。
起きるはずのない奇跡を目の当たりにしているような。
そんな奇妙な心境だ。
出会って一年以上が経つ今になっても、ときどきふとした瞬間にどきりとさせられる。
そのうち慣れるかと思ったが、そうもいかないらしい。
「あーあ。このままじゃ廃部かなあ。先輩たち、悲しむかなあ」
いまだに拗ねたような口ぶりで話し続ける瀬尾の様子を眺めながら、俺も少しだけ考えた。
正直なところ、文芸部に対して義理や執着はあまり感じていない。
だから、今回のことも彼女が言うほどの問題だとは思っていないのだが、目の前でこう落ち込まれると居心地が悪い。
「……あのさ、瀬尾」
「ん?」
「そんなに気にするくらいなら、勧誘すればいいんじゃないの、これから」
「なんで他人事みたいに言うのさ、副部長は」
「いやまあ、言葉のあやだよ」
勧誘なんかできることならしたくないからだ、とは言わないでおくが、たぶん瀬尾は察していることだろう。
俺は椅子から立ち上がって窓際に近付いた。
中庭の大きなケヤキの下で、何人かの女子生徒が休んでいるのが見える。
雰囲気からして、新入生だろう。
ぼんやりと眺めているうちに、そのうちのひとりに見覚えがあることに気付く。
窓を開けて身を乗り出すと、春先のゆるい風が心地いい。
空は高く薄い水色、曖昧な輪郭の雲が描かれたように動かない。穏やかな日だ。
窓枠に肘をかけて、新入生の一団を眺めていると、そのうちのひとりが、不意に顔をあげてこちらを見た。
思わず驚いて身を隠しそうになったが、そうする理由がないことに気付いてやめた。
やましいことなんてなんにもしていない。
「副部長はさ、廃部になってもいいの?」
「そうは言ってないよ」
まだ、中庭からの視線はこっちを見ている。
目が合ったまま互いにそらさない状況こうも続くと、さすがに気まずい。
そろそろ離れるか、と思ったところで、彼女はこちらを見上げたまま軽く手を振ってきた。
どきりとして、慌てて窓辺から離れ、瀬尾との会話に戻った。なぜかわからないが負けた気がする。
「じゃあ、勧誘しなきゃいけないでしょ?」
「それはどうだろうな、別の問題だと思うが」
「どうだろうなじゃないよ。どうすればいいのさ」
「とりあえずポスターでも描けばいいんじゃないか」
「やっぱり他人事みたいな言い方するよね、副部長」
「まあ、偉い立場の奴が積極的じゃないとな、こういうのは」
「そりゃそうだけどさ」
寂しげな瀬尾の表情を見ると、溜息をつきたくなる。
本当に俺はこいつの容姿に弱い。
どうしたものかな、と思ったところで、当の彼女がやけになったように声をあげた。
「じゃあいいよ。わたしひとりでポスターつくるから」
「いまさら効果はないと思うけどな」
「おかしいな。わたしの記憶が正しければ、ポスターって言い出したのは副部長だったと思うんだけど」
そういえばそうだった。うっかり本音が出てしまった。
いかにも文句があるというふうに睨まれると、さすがにいたたまれない。
「ところで、ポスター作り、手伝ってくれるんだよね、副部長?」
「瀬尾、俺トイレ行ってくるわ」
逃げるなこのー! という間延びした声を背後から飛ばされながら、俺は部室を離脱した。
帰りにジュースでも買ってきてやることにしよう。
廊下に出て、早歩きで部室を離れながら、さて、と考え込むはめになる。
そりゃあ一切勧誘なんてしていないから、新入部員なんて来る方がおかしい。
ましてや文芸部なんて、正直地味だし、あんまり流行りそうにもない。
勧誘したって入部する奴がいたか怪しいものだ。
中には興味をもってくれるような人間もいるかもしれないが、残念ながらこの時期に入る部を決めていない新入生はそんなに多くないだろう。
その中の何人が文芸部に興味を持ってくれるかと考えると、はっきりいって絶望的だ。
そういうわけで、そっちの線はあっさり諦めるべきだろう。
結果の見えているポスター作りを手伝う気にもなれない。
しばらく物思いにふけりつつ散歩でもするとしよう。考えを決め、中央階段を下ろうとしたときに、
「おう」
と今まさに降りかけた階段の下から声をかけられた。
ちょうど、会いにいこうか迷っていた相手だった。
手をあげて返事を返すと、彼は少し歩くのを速めた。
昇ってくるのを待って合流する。
同じ高さに立つと身長の差が際立って嫌な感じだ。
決して俺が低いというわけではない(と信じたい)が、こいつがデカすぎる。
大野辰巳というその男子生徒は、去年の春に一緒のクラスになってから、なんだかんだで付き合いが続いている数少ない相手だ。
恵まれた体躯と精悍な顔つきで見栄えはいいし、運動も勉強もできて、そのうえ人望もある。
しかもちっとも嫌味じゃない。絵に描いたようないい奴だ。
まあ、正直言ってそんなに羨ましくもないが。いい奴は損だ。
「また頼みがあるんだが、いいか?」
なかなかにタイミングのいい話だ。願ったりかなったりとも言える。
「ちょうどよかった。なんでも引き受けよう。カモがネギを背負ってくるとはこのことだ」
「ありがとう。……今なにか言ったか?」
「口が滑った。気のせいだ」
「割とはっきり聞こえたんだが……なにかあったか?」
「それについてはあとで話そう。ひとまず屋上にでも行くか」
「屋上? 閉鎖されてるだろ。ていうか、部室じゃダメなのか?」
「部室はダメだ」
理由は説明しなかったが、大野はとりたてて不満に思わなかったらしい。
俺と大野はそのまま階段を昇って、東校舎の屋上へと向かった。
鍵は俺の制服の内ポケットにいつも入れてある。
あっさり鍵を開けてみせると、大野は詐欺にあったような顔をした。
「なんでそんなの持ってるんだ?」
「先代の文芸部長が持ってたんだ。合鍵って奴だな。三月にもらったんだ」
そのまま扉を抜けて屋上に出る。
春先の埃っぽい風と白みがかった太陽の光がやけに眠気を誘う。
グラウンドから聞こえる運動部の掛け声に、新入生の不慣れなものが混じっている。
あれを少し分けてもらえたら、瀬尾もあんなに頭を抱えていないのだろうが。
「先代って、ましろさんか。どうしてあの人がそんなもの持ってるんだ」
「知らん。おおかた、あの人もそのまた前の文芸部員にもらったんだろ。伝統って奴だ」
「変な伝統もあるもんだな。おまえに渡すあたりもましろさんらしい」
「まったくだ。ところで依頼の話をしようじゃないか」
ビジネスライクな私立探偵よろしく俺が話をうながすと、「ああそうだった」というように大野は頷いた。
「いつもどおりといえばいつもどおりの話なんだが、実はまた頼みたい」
困り顔の大野をちらりと見てから、俺はフェンスのそばへと近付いていく。
頼みごとというのは、いつものことだ。
大野辰巳にはひとつ弱点がある。それを埋め合わせるために、こいつはたびたび俺に会いにくる。
内容については、言い方だけで伝わった。
さて、問題はそれをどうするかだ。
いつもなら何のこだわりもなく引き受けるのだが、今回は状況が少し違う。
「引き受けるのはかまわないんだが、実は問題があってな」
「問題?」
大野はちゃんと食いついてくれた。とりあえずほっとしつつ、それでも俺は慎重に話を進めることにした。
「文芸部なんだが、新入部員が入らなくてな」
「はあ」
「このままだと廃部になるかもしれない、と、瀬尾が言っていた」
「廃部? そんなに急に?」
「なんでも、部員が五人を下回るとまずいそうなんだ」
「そんな決まりがあったのか」
「瀬尾が言うにはな」
「そうか」
気の毒そうな顔で俺の方を見たあと、大野は少し考え込むような様子を見せた。
「そのせいでちょっとバタついててな。ポスター作ったりビラ配ったりしないと新入部員なんて期待できないだろ?」
「まあ、そうだな。忙しいなら、無理にとは言えないが」
あっさりと引き下がってくれるあたり、やっぱりこいつは良い奴だ。
「でも、少し意外だな。おまえは廃部阻止のために何かするようなタイプじゃないと思ってたが」
「それはそうなんだけど、瀬尾に任せるのも悪いしな」
「まあ、そうか」
「……ところで、大野。おまえ、委員会には入ってたけど、部活には入ってなかったんだっけか?」
「……なんだよ。文芸部には入らないぞ」
見え透いていたらしい。さすがに、そんなにうまく誘導はできないか。
ここで大野が入部すると言ってくれたらおもしろかったのだが。
とはいえ、そう言いながらも、大野は少し思い悩むような様子だった。
「だよな。余計な話だった」
まあ、入らないというなら仕方ないだろう。
俺は瀬尾と違ってそこまで熱心な部員じゃない。
でも、可能性はゼロじゃなさそうだ。
「それで、今回は何を書けばいいんだ?」
話を戻すと、大野は我に返ったようにこちらを見た。
「あ、ああ。図書新聞の、本の紹介文なんだ」
「題材は?」
「なんだったかな。春にまつわるおすすめの本だったか」
「分かった。任せとけ」
「悪いな」
「いまさら気にするなよ。こういうのはお互い様だ」
お互い様か、と大野はひとりで繰り返した。
大野は文章を書けない。
板書をうつしたりとか、そういうことはできるけれど、一定量以上の文章を自分の頭で考えるということに苦手意識があるらしい。
忌避感、と言ってもいいかもしれない。
それにもかかわらず、一年のときはじゃんけんに負けて図書委員になんてなってしまったものだから困り果てたそうだ。
委員会顧問の方針なのか、図書委員では割と頻繁に新聞を発行している。
本の紹介文や、読み比べの感想を書いたりして記事にするものだ。
大野があまりに途方に暮れていたので、俺が代わりに書いてやろうと言い出したのが始まりだった。
今にして思えばそれがよくなかった。
俺の書いた感想文が顧問だか司書だかに気に入られたらしく(奇特な人もいるものだ)、引っ込みがつかなくなったのだ。
今年に入ってからも図書委員を続けているのは、まあ、大野のくじ運の悪さだろう。
以来俺は、大野辰巳のゴーストライターをしている。
今回は春にまつわる話らしいので、『桜の森の満開の下』の感想でも書くことにしよう。
「とりあえず、わかった。すぐに仕上げる」
「悪いな。今週中に書いてくれたらいい」
「ああ。とりあえず、俺はそろそろ戻るよ」
「……いや、やっぱり、待て」
呼び止められて振り返ると、大野はまた思い悩むような顔をしていた。いちいち深刻な反応をする奴だ。
「俺も行こう」
「そうしてもらえると助かるな。鍵を閉めなきゃいけないから」
「そうじゃない。部室に戻るんだろ?」
「ああ」
「俺も行く」
まあ、来るというならべつにかまわないのだが、と、素直に頷いた。
屋上を出て大野とふたりで部室に戻ると、瀬尾は画用紙にああでもないこうでもないと言いながらポスターの文句の下書きをしていた。
「ただいま」と声をかけると、「長いトイレだったね」と皮肉を言われたので、
「トイレでトロールと出くわしたんだ」と適当な返事をしておいた。
「それは大変だったでしょう。少し休んでHPを回復していきなさいな」と彼女はあまり動じない。
バカらしいやりとりのあとに顔をあげて、瀬尾が大野の存在に気付く。ちょっとびっくりしたみたいだった。
「大野くん。どうしたの?」
「ああ、いや。新入部員、来ないんだって?」
「そうなの。神様もびっくりだよね」
むしろ当然の結果だと思うが。瀬尾のふざけた返事に呆れたのか、はたまた何か考えているのか、大野はまた黙り込む。
俺は自分の定位置に腰掛けて、筆記用具を広げた。『桜の森の満開の下』ってどんな話だったっけか。
「副部長、何するの?」
「内緒」
「わたしがひとりで勧誘がんばろうとしてるのに、副部長は他のことするんだ……」
「瀬尾さん、ごめん。俺が頼んだんだ」
「あ、大野くんのか。じゃあいいよ」
あっさりとした口調の瀬尾に無性に悲しくなりつつ、口を噤んでペンを手に取った。
大野と瀬尾はふたりで勝手に話し始めたので、聞き流しつつ作業に入ることにする。
うろ覚えでどうにかなるだろうか。いや、それはさすがにまずいか。
「部員入らないと廃部なんだって?」
「そうなんだよー」
なんて会話を適当に聞き流しながらペンを握る。
『桜の森の満開の下』、作者は坂口安吾。漠然とした雰囲気は思い出せる。
……流し読みの高校生が感想を書いていいような作品なのか、そもそも。
まあ、どうせ俺じゃなくて大野の名前で評価されるものだし、どうでもいいといえばどうでもいい。
なんかこう、安吾の女性観とか、知ったかぶりでそういうあれこれを混ぜて高尚っぽく見せてみよう。
俺が書き出しに迷っている間も、ふたりの会話は続いていた。
「なあ、瀬尾さん。もしよかったらなんだけど、俺、入部してもいいかな」
不意に耳に飛び込んできたそんな言葉に、俺は思わず吹き出した。
「どうしたの、副部長」
大野の言葉に喜びの表情を浮かべかけた瀬尾がこっちを向いた。さすがによろしくない。
「いや、なんでもない。最高に笑える書き出しを思いついてしまったんだ」と適当にごまかすと、
「そうなんだ、がんばってね」とスルーされる。
さすがに悔しかったので「爆笑必至だぞ」と付け加えておいた。
瀬尾は疑わしそうにこちらを横目で見てから大野に視線を戻した。
「ホントにいいの? 大野くん。委員会あるんじゃないの?」
「委員会は当番制だから空いてる日もあるし。そりゃ、いつもは来られないかもしれないけど」
「ホントに?」
近くで青春っぽいやりとりがおこなわれるのを不思議な気持ちで眺めつつ、俺は書き出しを考える。
さっきの言い訳を本当にするために笑える書き出しを考えなければいけない。
坂口安吾の感想文で笑える書き出しなんてあり得るのかと思わないでもないが、やってみなければ始まらない。
「じゃあ、ぜひお願いしたいです」
俺が苦心している間に、どうやら部員数が増えたらしい。
横目で見ると、うれしそうに照れたそぶりをみせる瀬尾の顔が見えた。
大野も大野で気恥ずかしそうに俯いている。仲が良くてたいへんよろしい。
「それで、部員は五人必要なんだっけ?」
「そう。五人を下回るとまずいの」
「てことは、あと二人か」
しかし、いいかげんふたりの誤解を解いておかないといけない。
「一人だ」
俺が口を挟むと、ふたりはまったく同じ動作でこちらを見た。
「副部長、ついに算数できなくなったの?」
「ついにってなんだよ。どう計算したって一人だよ」
「あの、大丈夫? この場に何人いるか、わかる?」
正直、こんなふうにからかわれるのも心地よくて仕方ない。
「部長のくせに部員数も把握してないのか。大野が入る前から文芸部員の数は三人だったよ」
「どういうこと?」
正直、ひょっとしたら知っているかもしれないと思っていたのだが、やっぱり知らなかったらしい。
「幽霊部員がいるんだよ。ひとり」
「うそ」
「ホント。名簿に名前が載ってる。なんなら顧問に聞けばいい」
「なにそれ。知ってたなら教えてくれればよかったのに」
「だって、知ってると思ったし」
半分本当で半分嘘だ。教えない方がおもしろいと思っていた。
「まあ、ともあれ」
呆れた溜め息をついてから大野は言葉を続けた。
「あとひとり勧誘すればいいってことか」
「うん。そうすれば……」
「ああ、同好会落ちは回避できる」
「廃部はまぬがれ……え、同好会落ち?」
ふたりが、また同じ動作でこっちを見る。
「廃部じゃないの?」
目をまんまるくして訊ねてくる瀬尾に頷きを返す。
「生徒手帳にも書いてある。部員数が五人を下回った部は同好会に格下げ。
五人未満になったからって即時廃部にはならない。ていうか、部員数がゼロになったって、休部扱いになるだけだ。
休部状態が二年以上続いて、ようやく廃部」
「そ、そうなの? じゃあ、設立要件の五人っていうのは?」
「設立っていうのは、『新しく作る』ってことだよ、文芸部部長。創部のときの要件だ」
「でも、おまえさっき、俺には部員数が五人を下回ったら廃部って言ってただろ」
不満そうに声をとがらせる大野に、俺はあらかじめ決めていた返事をする。
「俺が言ったのはこうだ。『このままだと廃部になるかもと瀬尾が言っていた』『部員数が五人を下回るとまずいことになる』。嘘はついてない」
大野ががくりと肩を落とした。
「そうだったよ。おまえはそういう奴だったよ」
こういう反応を期待していたので、してやったりという気持ちでいっぱいだ。
が、想像に反して肝心の瀬尾はまだ納得がいかないような顔をしていた。なんだというんだろう。
「……そうだったんだ。だったら、そんなに必死になることもなかったのかな」
そもそも必死になんてなってないだろう、というツッコミはしないでおいた。
困り顔の瀬尾を「まあまあ」と大野がいさめる。
「同好会に格下げになるよりは部のままでいた方がいいんだし、こうなったら四月中はやれることをやってみようぜ」
入部しなくても廃部にはならないと知ったあとでも、じゃあやめると言わないのが大野の人のよさだろう。
結局ふたりは勧誘ポスターをああでもないこうでもないと言いながら作り始めた。
俺も作業に戻ろうとしたが、やっぱり気になって仕方なくなり、結局瀬尾に声をかけた。
「なあ、瀬尾。訊きたいんだけど、五人下回ったら廃部って、誰に言われたんだ?」
「……ましろ先輩だけど、それが?」
ましろ先輩。あの人が、瀬尾に「部員が五人を下回ると廃部」だと教えた。
「そうか……」
なんとか相槌だけを返してから、作業に戻るふりをすると、瀬尾は気にした様子もなくポスター作りを再開してくれた。
ましろ先輩。文芸部の先代部長。
あの人が瀬尾に廃部の可能性を伝えた。
でも、それはおかしい。
生徒手帳の校則ページを開いて、部員が減っても同好会になるだけだと俺に教えてくれたのはそのましろ先輩なんだから。
とすると、彼女は、瀬尾と俺にそれぞれ別の情報を与えたことになる。
しかも、瀬尾に伝えたことは、嘘だ。明らかに、何かの意図があってしたことだろう。
まさかとは思うが、そういうことだろうか。
廃部になる、と言われたからこそ、瀬尾は勧誘しなければと言い始めた。
最初から同好会落ちとだけ聞かされていたら、まずそうはならなかっただろう。
逆に俺は、廃部と聞かされたとしても、何の行動も起こさなかったはずだ。
俺は、瀬尾が『同好会落ち』ではなく『廃部になる』と思い込んでいたからこそ、おもしろがって大野を勧誘するような真似事までして見せたのだ。
瀬尾をからかうのが楽しいから。
まさか、とは思うのだが、俺たちの性格を計算に入れて、わざとバラバラのことを言ったのだろうか。
瀬尾ならこう動く、俺ならこう動くと想像して。
もしそうだとしたら、エスパーもいいところだ。
が、あの人の場合、ないとも言い切れないのがおそろしい。
べつに、そうだったらどうだというわけではないのだが、卒業してなお俺を踊らせるのか、あの先輩は。
「勝手に踊ったんじゃないですか」と言われそうだけれども。
やるせない敗北感に支配されつつ、頬杖をつく。
でもまあ、先輩の思いどおりとも言い切れない。瀬尾が勧誘を始めたのはギリギリだったし、俺だって大野を全力で勧誘したというわけでもない。
今度のところは、引き分けだと思っておこう。
俺は溜め息をつき、ペンを意味もなく回してみた。それでもやっぱりもやもやする。
その日のうちに、大野と瀬尾は簡単な勧誘ポスターを何枚か完成させた。
画用紙に油性ペンで勧誘文句と部室の所在を書いただけの代物だが、ふたりはさっそく数か所の掲示板にそれを貼りにいった。
味方がいると、案外瀬尾も行動的らしい。
部室にひとり残された俺は、大野に頼まれた感想文を急いで完成させることにした。
桜の森の満開の下。著作権が切れているから、携帯があればネットでタダで読むことができる。
いい時代と言えばそうかもしれないし、悪い時代と言えばそうかもしれない。
いちめんに咲き花びらを舞い散らせる桜の森は、人の気を変にさせる。
そこには涯がなく、つめたい風がはりつめているばかりだ。頭上からはただひそひそと花が降り、それ以外には何の秘密もない。
最後には、伸ばした手さえもかき消えて、あとはただ、桜の花が景色を覆い隠すように舞い散るだけだ。
盗賊と女の間には、何か巨大な隔たりがあり、それが女を神秘にも俗物にも見せる。
ふと、この話はひょっとしたら真実なのかもしれない、などと、そんなことを思った。
どうしてだろう。そんな景色を、俺は見たことがあるような気がしたのだ。
けれど、俺はいま桜の木の下にいるわけではなかったから、そんな妄想にとらわれて気が変になるようなことはなかったし、惑わされたのも一瞬だけだった。
最後には、ちゃんとそれらしい感想を書くことができた。
まあ、爆笑必至の書き出しとはいかなかったが仕方ない。
所詮、図書新聞の紹介記事だ。そんなに長い文章にもならないし、限界はある。
俺はコピーライターでもなんでもないのだ。
机から顔をあげると、思わず深い息が漏れた。
気合の入った文章ではないとはいえ、書くとなるとやはり肩が凝る。何か飲み物でもほしいものだ。
両腕を組んで前に伸ばし、体を軽くほぐしてから、そのまま机に体重を預けて目を閉じる。
そういえば、部室を出る前に、帰りに飲み物を買おうと思っていたのを忘れていたな、と考えたところで、扉が開く音がした。
「早かったな」
目を閉じたままそう声をかけてから、いや、べつに早くはないかもしれないな、と思った。
文章を書いていると、すぐ時間の感覚が狂ってしまう。
大野と瀬尾が出ていってから、どのくらい時間が経ったか、よくわからない。
「そうでもないよ」と、案の定、声は否定する。
けれど、その声は、俺が思っていた声ではなかった。
顔をあげて部室の入り口に目をやると、ひとりの女子生徒が立っている。
小柄で、綺麗な顔立ちをしている。どこが、というわけではないが、目を引くところがある。
肩まで伸びたダークブラウンの髪が、からだを動かすたびに空気を含んでふわふわと揺れていた。
さっき見た顔だ。窓の外を眺めていたとき、中庭にいた。
そして、俺に向けて手を振ってきた。でもそれ以前に、俺はこの子を知っている。
「せんぱい、なんでさっき無視したの?」
彼女は当たり前の顔で部室に入って来ると、閉めた扉に背中をあずけて、不満げに眉を寄せた。
「入学式が終わってからもうすぐ一カ月だよ。せっかく後輩が入学してきたっていうのに、せんぱいは『おめでとう』の一言もなしなの?」
さして不服でもなさそうに、彼女は言う。きっと、俺をからかって楽しんでいるんだろう。
「メールしただろ」
「直接言われてないもん」
「はいはい。おめでとう」
案の定、雑な反応を見せたって彼女は不満げな顔ひとつ見せない。
ただ気まぐれに言ってみただけで、なんとも思っていないのだ。
同じ高校に入学してきたという話は聞いていたが、実際に制服を着ているところを見るのは初めてだ。
真中柚子との付き合いも、中学二年のときに出会ってからだから、もう三年が経つことになる。
「ここ、せんぱいが入ってる部の部室?」
「そうだよ。何度も言うけど、一応年上には敬語を使え」
「せんぱい以外には使ってるもん。せんぱい、特別扱いだよ。やったね」
真中は笑いもせずにそう言った。適当に受け流されているのをありありと感じる。彼女はそのまま、壁に飾られた絵に視線をやった。
「へんなところ。文芸部だっけ?」
「知ってたのか」
「まあ、偶然。さっきポスター見たから」
すごいタイミングだな、と思ったが、何も言わないことにした。
真中がまた何かを言おうとしたタイミングで、廊下から足音と話し声が聞こえてくる。内容はわからないが、どうやらふたりが戻ってきたらしい。
真中は入口の扉から離れて俺の近くへと寄ってきた。こういうときだけは近付いてくるのだから嫌になる。
「だれ?」
「部員だよ」
そんなのわかるよ、と言われたけれど、それ以外に答えようがないだろう。
この警戒心の高さも、やむを得ないと言えばやむを得ないのだろうが、改善の余地がある。協力する気はないので自助努力していっていただきたい。
扉が開いて、ふたりは上機嫌な様子で帰ってきた。
瀬尾は満足げに定位置のパイプ椅子に戻ろうとする途中で真中の存在に気付いたようだった。
「だれ?」
真中は、いくらか緊張している様子だった。
よく知らない上級生ふたりと突然向き合うはめになったんだから当然と言えば当然だ。
が、それならこんな場所にいきなり来るなと言いたい。
黙り込んだままの真中を見ていてもらちが明かないので、結局代わりに答えることにした。
「中学のときの後輩」
ああ、と納得したように瀬尾が頷く。
「そうなんだ。……が、どうしてここに?」
「あの、ポスター、見たんです」
真中はささやかな声でそう呟いた。本当に人見知りするやつだ。内弁慶ともいえる。
「ポスター? すごい奇跡だね。今貼ってきたばっかりなのに」
そこまで言ってから、瀬尾は考えるような間をおいた。
「あれ、ってことは、入部希望?」
真中はきょとんとした顔をしたかと思うと、俺の方にちらりと視線を向ける。それは一瞬のことで、彼女はすぐに瀬尾の方へと向き直り、
「はい」
と、ためらう素振りもなく頷いた。
「ホントに? ほら、副部長! ポスターだってバカにできるものじゃないよ、ぜんぜん!」
瀬尾の素直さもすさまじいものがある。
「いいのか、真中。ほかに入部する部とか考えてたんじゃないのか」
「友達に誘われてたのはあったけど、どうしようか悩んでたし」
「ともだち」
「わたしに友達がいると変?」
「めっそうもない」
友達ができてよかったなあと思うだけだ。
「でも、この部が何をする部なのか、おまえ知ってるのか?」
「文芸部でしょ? だいじょうぶ。それともせんぱい、わたしに入部してほしくなかったりするの? だったら考えるけど」
「そういうわけじゃないけど、他にやりたいことがあるんだったら」
「あのね、せんぱい」と真中は俺の言葉をさえぎるように口を挟んできた。
「せんぱいには、いつでも彼氏といっしょにいたいなあっていうオトメゴコロがわからないかな?」
「……ううん」
あからさまに嘘だし、そんなにけなげな奴でも恋愛主義者でもないだろうが。
「彼氏」
瀬尾が録音機械みたいに繰り返した。
「彼氏。誰が?」
あーあ、と俺は思う。
真中は俺の方を見て、くすぐったがる子供みたいな、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
こいつがわかりやすく笑うのなんて、こんなときくらいだ。
「せんぱい。訊かれてるよ」
俺に言わせたいらしい。文句があるわけじゃないが、中学の時はあえて自分たちから説明することなんてしていなかったから、微妙にやりづらい。
「せんぱい?」
首をかしげて、真中は俺の表情を覗き込んだ。どきりとしてしまうのは仕方ない。
「これは、真中柚子という生き物だ」
「いきもの」と瀬尾が復唱した。
「俺と同じ中学出身で、ひとつ年下だった。今年、うちに入学したらしい。どうぞよろしく」
「説明になってませんよ?」
瀬尾はなぜか敬語になって、俺の視界に割り込んできた。なんだってみんな、この手の話題が好きなのか、よくわからない。誰が好きとか嫌いとか。
「真中は俺の彼女ってことになってる」
開き直って言葉にした途端に、大野と瀬尾のふたりが顔を見合わせて、
「うそだ」
と声をそろえて呟いた。
まあ、わかりきっていた反応ではある。しかし、聞いておいてこれは失礼じゃないか。
信じられない気持ちも、もちろんわからないではない。
真中柚子という人間は、少し特殊だ。たしかに、それでなくても顔立ちが整っていて、どちらかというと線が細いが、スタイルは悪くない。
深みのあるダークブラウンの髪は綺麗に肩まで流れている。単純に、真中はかわいい。衆目を浴びる程度には。
俺なんかと付き合ってると言われても、簡単に信じられないのは仕方ない。
でもそのかわいさは、言ってしまえば、それだけで言えば月並なかわいさだった。
絶世の美少女だとか、そういうのとは少し違う。
そういったものよりは距離が近い、自然な愛らしさのようなもの。
容貌としてはそんなものだ。もちろん、それだって十分すぎるものではあるが。
でも、真中の特殊性は、そんなところにはない。
彼女には、どこから来たのかもわからない、何のためかもわからない、そんな魔性が宿っている。
人の警戒心をふとほどいてしまうような、心の隙間を縫って入り込むような。
この世のものとは思えないほどの、幻惑的な親しみやすさ。
彼女自身にすら選択不可能の、ただ立っているだけで人を吸い寄せてしまう魔性。誰も気付かない。
気付かないうちに、飲み込まれる。
それでも、いっときに比べれば、ずいぶん落ち着いたものだ。
かわりに、彼女の表情の起伏はだいぶ減ってしまったけれど。
「うそじゃないです」と真中は言う。
「わたしはせんぱいにベタ惚れということになってます。せんぱいも素直じゃないだいだけで、わたしにベタ惚れです」
「……いや、どう突っ込めばいいのかわからん」
平静な表情で淡々と妙なことを言う真中に、大野はあきれて溜め息を漏らす。
「本当だ」と俺も付け加えておいた。
「俺は真中にベタ惚れという設定だ。真中も俺にベタ惚れだ」
「設定って言ってるじゃんか」
「せんぱいは素直じゃないので」
さくっと反応するくせに、大野が視線を向けると、真中はとっさに表情をこわばらせる。
「ま、それはもういいや」と瀬尾が話を区切った。まあ、付き合っていますと認められたらそれ以上追及もなにもないだろう。
「それより、本当に入ってくれるの?」
期待を込めた瀬尾の表情。それがまっすぐに真中に向けられている。俺はそれを不思議な気持ちで眺めている。
本当に、瀬尾がこんなに部に執着するなんて、思ってもみなかった。
真中はやっぱり一度俺の方をちらりと見て、茶化すふうでもなく、ふんわり笑ってから、正面をまた向き直った。
「はい」
彼女は頷いて、それで瀬尾は笑顔になった。
これでよかったのかなあ、と俺は思う。なんだか狐に化かされているみたいな気がした。
廃部だと騒いでいたけど、実際には廃部になんかならないし、勧誘なんかしなくても部員が集まってしまった。
とにかくこれで同好会落ちすらなくなったのだ。そんなことでいいんだろうか。これってなんだか、理屈に合わないような気がする。
ほとんど何の労力も払わず、あるいは、払った労力とは無関係に望んだものを手に入れて、そんなことが許されるんだろうか。
ふと窓の外を見ると、日差しの白さは均したように薄く視界にひろがっている。
「なんだかんだでどうにかなると思うよ」という、先代の言葉を思い出す。
俺は、制服の内ポケットにしまいなおした屋上の鍵を取り出して、それを手の中でもてあそんでみる。
緊張したようすの真中と、嬉しげな瀬尾が、何かの話をしている。
とにかく、文芸部は文芸部として存続することになった。それは喜ぶべきだろう、たぶん。
◇
文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。
淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。
鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。
使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。
境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。
海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。
ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。
その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。
誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。
「でも、なんだか象徴的だよね」
そう言ったのは、文芸部の先代の部長だった。
「ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?」
何か、途方もない祈りのように見えるのだ。
主が訪れることのない椅子、誰にも触れられないピアノ。
去年の春に文芸部に入部して以来、時間を持て余すと、俺はついその絵をぼんやりと眺めてしまう。
その景色の中に人の姿はない。それは何かを象徴しているのか、それとも単なる空想が描かれただけなのか。
いくら考えたところで答えには辿り着けない。
「ウユニ塩湖みたい」と、真中柚子がそう呟いた。
彼女もまた、その絵を眺めている。
物知らずの俺のために、彼女はその場所について詳しく解説してくれた。
ウユニ塩湖。
南米ボリビア西部の広大な高原地帯に位置するその塩の湖は、世界でもっとも平らな場所だと言われている。
雨季になって雨が降ると、その平坦な大地に、水は薄く静かに広がる。
その浅さゆえに、水面はさざなみさえも起こさず、空を映す巨大な鏡となって見る者を魅了する。
天と地がくっついたようなその絶景は、ただし、条件が揃っていなければ見られない。
雨季でも運が悪ければその鏡を見ることはかなわない。雨が降らなければ、それはただどこまでも広がる塩の砂漠にすぎない。
地の塩。それはそれで圧巻の光景ではあるだろうが。
天空の鏡とあだ名されるその塩原は、標高約四○○○メートルの高さに広がっている(富士山よりも高いんだよ、と真中は言った)。
物見遊山で準備もなく向かえば、高山病の症状は避けられないだろう。
また、その面積は一万平方キロメートルにも及ぶという(岐阜県と同じくらいなんだよ、とやはり真中は言った)。
波打ち際から水平線までの距離が約四、五キロメートルだというから、歩くとなるとその広さは神秘的であると同時に悪夢的だろう。
どこまで歩いてもただ塩の海が広がっているだけなのだ。
もし道から外れて迷おうものなら、途方に暮れることになるだろう。
もはや誰も迷い人を見つけられず、迷い人はどこにも辿り着けない。
ただ茫漠と塩が広がるだけの砂漠に取り残されることになる。
どこに向かえばいいのかも分からぬまま歩き続けるか、それとも助けが来ることを信じ待ち続けるか、あるいはすべてを諦めてしまうか、いずれにせよ楽な話ではなさそうだ。
近年では、メディアやSNSで活発に取り上げられたことにより、観光客数が増加傾向にあるらしい。
観光客が増えればゴミが出る。なにせ標高四○○○メートルだ。処分も簡単じゃない。
現地の人間は苦肉の策としてゴミの埋め立てをおこなっていたらしい(いまどうなってるかはわたしも知らない、と真中は言った)。
騎兵隊とインディアンの関係に比べれば、多少の旨味があるのかもしれないが、それでも憤懣やるかたない現地人もいるに違いない。
そのことの是非を云々するほど、俺はその場所について知らない。
そんなもんだと、割り切ってもいいのかもしれない。
◆
「桜の森の満開の下には、秘密がある。春になるたびにうつくしい花が咲き誇るのを見て、人はおそろしさのあまり正気を失う。
酒席の賑わいでごまかしはするが、そんなのは、桜が本当はおそろしいからなのだ。
この小説の作者は親切なので、桜の森の満開の下の秘密について、それとなく、おぼろげに教えてくれる。
それは、孤独というものであるのかもしれない、と。
けれど、その秘密が運んでくるものを教えてくれはするものの、
その秘密が我々をどこに連れていくのか、我々はそれに対して何ができるか(あるいはできないのか)については何も語ってくれない。
ただ桜は毎年のように咲き誇る。それは押しとどめることも、逆らうこともできない。
できることと言えば、ただ足早に通り過ぎようとすることだけだ。
この小説に登場する女は、どこか奇怪な一面を持つようにも思えるが、
それは実のところ、作中の男からは、その距離、遠さ、隔たりゆえにそう見えたというだけで、幻想的な性質をもっていたのではないのかもしれない。
それは単に、現に生きている我々が、宿命的に抱える距離と隔たりを、象徴的に表現したにすぎないものなのではないか。
女の体は消え失せ、伸ばした手すらも透きとおるように消えていき、桜の森の下にはただ虚空のみが残される。
覆い隠すように、花が舞い落ちている。
透きとおるようにうつくしくおそろしいこの風物は、我々の内に宿るものではないか。
(二年・大野辰巳)」
◇
その日、部活を終えて家に帰る途中に、俺はひとりで『トレーン』という名前の喫茶店に立ち寄った。
喫茶『トレーン』は、コーヒーと軽食を出す、どこにでもあるような個人経営の店で、店内は落ち着いた雰囲気に装飾されている。
あまり広くはなく、客の入りもそれほどでもなく、いつも顔見知りの客が店主と談笑しているような店だ。
店の看板娘兼マスターの一人娘である少女はまだ高校生で、学校から帰ると制服姿にエプロンを重ねただけの恰好で手伝いをしている。
鴻ノ巣ちどりという名前の、俺の幼馴染だ。
「隼ちゃん、いらっしゃい」
ドアベルが鳴る音を聴きながら店に入ると、ちどりがすぐにこちらに気付いてふわりと笑った。
いつも店に出ているときと同じように、ゆるくウェーブがかったセミロングの髪を後ろの低い位置で束ねている。
ちどりは俺のことを「隼ちゃん」と呼ぶ。
小学校高学年くらいの時期には恥ずかしくなったりしたものだが、さすがにもう気にしているのが馬鹿らしくなってくる。
『トレーン』はちどりの父親がはじめた喫茶店だ。
家のすぐ近くにあるからと、俺の両親が頻繁に利用していたものだから、いつのまにか俺も入り浸るようになっていた。
迷惑な客だとも思うが、そういう店だろうとも思う。
俺がカウンターに座ると、ちどりはすぐに水を用意してくれた。
「苦しゅうない」と偉ぶって見せると、「ははあー」とにこにこしたまま頭を下げてくれる。
ノリのいい奴だ。
「ブレンドでいいんですよね。何か食べますか?」
「いや、もうすぐ晩飯だし、ちどりの顔見に来ただけだから」
「そうですか。真正面から言われると照れますね」
さして照れたそぶりもみせずにちどりは受け流す。
彼女は、誰に対してもいつも敬語を使う。
理由は、よく覚えていない。
最初からこうだったとは思えないから、たぶん、漫画か何かのキャラクターの真似をしていたのが、いつのまにか取れなくなったんだろうと思う。
ちどりは店の奥のキッチンにいたらしいマスターに声をかけると、自分はそばにあった椅子を寄せて、カウンターを挟んだ俺の向かいに腰かけた。
「サボっていいのか、看板娘」
「ちょうど落ち着いたところなんです。わたしはコーヒー淹れられませんしね。隼ちゃんがひとりで店に来るの、ひさしぶりですね」
「そうだったっけな」
よく覚えていないけれど、言われてみればそうかもしれない。
もともと、学生の身分でそう頻繁に来られるほど、ここのコーヒーは安くないし。
「何か用事ですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、元気かなあと思って。最近会ってなかったし」
「それは、でも、隼ちゃんに彼女ができたからじゃないですか」
「まあ、うん」
どうやら、そのあたりのことに気を使っているらしかった。
俺に彼女ができたと知ったときには、ちどりは「あの隼ちゃんが大きくなって……」といたく感動した様子で赤飯を炊こうとしたくらいだった。
固辞したけれど。
そんなわけで、
「まあ幼馴染とはいえあんまり仲のいい女の子が周囲にいてもよろしくないでしょう」
と言わんばかりにちどりは俺と距離を置くようになった。
まあ、どうなんだろう、そういうものなのかもしれないし、気の回しすぎという気もする。
でも本当は、たぶん、俺に彼女ができたから、というだけでもないような気がする。
そのことについては、いまさら俺も口には出さないけれど。
マスターがコーヒーを届けてくれてからも、ちどりは俺の前に座ったままだった。
こういう店では、常連と話をするのも仕事のうちという話はきくけれど、こいつの場合もそうなのだろうか。よくわからない。
「隼ちゃんこそ、どうなんですか?」
「俺?」
「なんだか、元気がなさそうに見えますよ」
「ちょっと、疲れてるのかもな。新学期、始まったばかりだし」
「あまり、無理しないでくださいね」
相変わらず、大人ぶったことを言う奴だ。昔から店に出て大人たちの話し相手に付き合わされていたら、こうなるのだろうか。
ブレンドに口をつけつつ、ちどりの表情を見やる。俺の元気がないというが、彼女の方だってあまり元気には見えない。
「べつに無理なんてしてないよ。夜は寝てるし、食事もとってる。それで十分じゃないか」
「それならいいんです。隼ちゃんは困ったことがあっても誰にも相談しないから」
それはお互いさまだろう、と言ったところで否定されるだけだから言わない。
「今日は部活だったんですか?」
「ああ」
「新入部員、入りました?」
「それがおもしろい話だったんだが……」
「だが?」
「うまく話せないから、いいや」
「そうですか。……文芸部でしたっけ?」
「そう」
ちどりは、なんだか複雑そうな顔をした。
俺が文章を書くということについて、思うところがあるのかもしれない。
無理もない。俺は昔から夏休みの宿題で読書感想文があればちどりに五百円硬貨を握らせて書かせていた。
そのくらい、文章を書くのが苦手なのだ。そんな俺が文芸部になんて入ってること自体、ちどりからすれば違和感だらけだろう。
なんとなく、俺は店の奥の方の壁に目を向けた。
『トレーン』の壁には、マスターが若い頃に描いたという二枚の絵が飾られている。
一枚は『夜霧』、もう一枚は『朝靄』。本当は三枚目があるんだ、と以前本人が言っていたのを覚えているが、見たことはない。
「誰も見たことがない三枚目があるって、神秘的だろう?」と言っていたが、どうだろう。
とはいえ、少なくとも、『夜霧』も『朝靄』も、綺麗な絵だ。
『夜霧』は、霧に包まれる夜の街を、『朝靄』は、靄の立ち込める早朝の湖畔を描いているらしい。
詳しくは知らない。どちらも、靄と霧に覆われてはいるが、曖昧に、人影のようなものを見つけることができる。
それがどんな意味を持つなのか、俺にはわからない。
「彼女さんとはうまくいってますか?」
視線を絵に向けているうちに、ちどりに世間話みたいにそう訊ねられて、戸惑う。
なんでだろう、やっぱり、昔なじみというのが気まずさを増長させるのかもしれない。
「あんまりうまくいってない」
適当なことを言うと、ちどりは「それはたいへん」と真剣な顔をした。
「喧嘩でもしたんですか?」と真顔で言うので、「そういうんじゃない」と嘘を重ねる。
「なんだか飽きたんだ」
「飽きた」と、ちどりが繰り返す。
「男っていうのは釣った魚には見向きもしない生き物らしいからな」
人類の半分を根拠もなく貶めてみると、なんとなく胸のつかえがとれた気がした。
「お姉ちゃん悲しいです」と本当に悲しそうな顔をされて、思わずうめく。
「同い年なんだからそのお姉ちゃんっていうのをやめろ」
ごめんなさい、と、ちどりは素直に謝った。
それから俺は恋人についての架空のあれこれのちどりに話し続けた。
メッセージがあったら五分以内に返信しないと怒られる、デートはなにもかもこちらに決めさせるくせに文句ばかり言う、だいたいそんなようなことだ。
ちどりはひとつひとつ真剣に頷いて、
「それはよくないです」
とか、
「それは隼ちゃんも悪いです」
とか、いちいち意見してくれた。全部嘘なのだけれど。
まあ、もちろんそんな嘘は俺の話ぶりから見透かされていたことだろう。
くだらない話を終えて帰るという段になると、ちどりは思い出したみたいにバックヤードへ向かって、小さなビニールの袋に入ったクッキーを分けてくれた。
「手作りです」と彼女は言う。
「彼女さんには、内緒にしてくださいね」
俺はクッキーをつまみながら帰路についた。ちどりの作るお菓子はなかなかに美味だ。
帰り道の途中、交差点で信号待ちをしているときに、ふといろいろなことを思い出しそうになった。
昔飼っていた猫のこと、死んでしまった祖母のこと、文章を書くことを決めた日のこと、今までついてきたたくさんの嘘のこと、これからつき続けるだろう嘘のこと。
そんなすべてが重なりすぎて、自分が今どこにいて、何を考えているのかすら曖昧になりそうな気がした。
文芸部のことを思い出す。新入部員が入って、部は存続することになった。
でも、それは結局のところ、俺にはあまり関係のないことだとも思う。どうしてだろう。
不足や不満なんてない。十分すぎるくらいに満ち足りている。欠けているものなんてひとつもない。
それなのに、いつも、自分がいる場所が、仮の場所だという気がしてしまう。
そんな感覚を振り払いたくて、俺はもらったクッキーをもう一枚口に含む。
甘みは舌の上で確かに広がる。信号は、すぐに青に変わった。
家に帰ると妹の純佳がソファに寝そべって眠っていた。
「おかえりなさい」と彼女は言う。
「ただいま」と俺は答える。
じゃがりこを頬張りつつ、純佳はテレビに視線を戻した。
「部活は?」と訊ねると、「早退しました」とすぐに返事が来る。
純佳はトレンディードラマの再放送から目を離さない。
「それ、なんて呼ぶ?」
「なにがですか?」
「早退」
「別名ですか? 世人はサボタージュとも呼ぶらしいですね」
「……まあ、人のことは言えんが。大丈夫なのか? レギュラーなんだろ」
「知りません」と純佳は言う。
「中学の部活が強制参加だからやってるだけです。レギュラーとか、知りません」
ポリポリとじゃがりこをかじる音がする。
堂々としたものだ。僻みなんて怖くもないらしい。
俺は純佳の背後に近寄って、彼女の頭をわしわし撫でた。
「なんですか」
「いや、褒めてつかわす。それでこそ我が妹。思うがままの道を行け」
「褒められるようなことはなにもしてないですし、あの、褒められてるとすると、髪がぼさぼさになってどちらかというといやな感じです」
犬ですかわたしは、と、純佳は不服げに眉をひそめた。
「兄、なんか変ですよ。いつも変ですけど」
声を聞き流しながら、俺は純佳の体を無理やり起こさせてソファの隣に腰掛けた。
「なんなんですか、今日は」
「ん」
クッキーの袋を差し出すと、純佳は怪訝そうな顔をする。
「……なんですか、これ?」
「ちどりにもらった。クッキー」
「浮気ですか? 良くないですよ」
「もらえるもんはもらう。悪いことじゃないと思う」
「程度にもよると思いますが……まあ、ご相伴にあずかる身で余計なことも言えませんね」
純佳はクッキーをひとつつまみとり、さくっとかじった。
「おいしい」
普段大人ぶった口調のくせに、こういうときだけ子供っぽい声を出すのだからかわいいやつだ。
「ちどりちゃん、また腕をあげましたね」
「そうか?」
「兄にはわからないです」
単に動くのが面倒なのか、それとも気にならないのか、狭いソファにふたりで並んで座っても、純佳は嫌がらない。
動くたびに長い黒髪がさらさら動くのが、見ていて気持ちいい。
我が妹ながらなかなか端正な顔立ちだと思う。
純佳の顔立ちをつくるときの巧みな技術を、俺のときにも少しは使ってくれたらよかったのだが。
純佳がクッキーを頬張りながらドラマを観るのに戻ってしまったから、俺も彼女に付き合うことにした。
ドラマの中では偏屈な独身男性が自分のオーディオ趣味について長々と語って、知人の女医をげんなりさせている。
「どんなドラマなの、これ」
「覚えてませんか?」
不思議そうな顔をされて、逆に戸惑う。
「……いや、まったく」
「むかし、お母さんがDVD借りてきて、一緒に見てましたよ」
「ふうん。よく覚えてるな」
「兄がいろいろ忘れがちなだけだと思いますが……」
そうかもしれない。
「兄、本当に、なにかあったんじゃないですか?」
「なんで?」
「元気ないですよ」
「ちどりにもそう言われた」
「だったら、元気がないんですよ」
……少し、疲れているのかもしれない。
元気がない、と言われて、ああ、今は家にいるのだな、と思ったら、体の力が急に抜けていくような気がした。
そうなってはじめて、ずっと体に力が入っていたことに気付く。
肩の力を抜いてみると、俺の頭は純佳の肩に乗っかった。
「重いです」
「うん」
いつもどおりの、そっけない口調。それでも、払いのけられたりはしない。
不思議なものだ。
「兄、疲れてますよ。なんでです?」
「なんでだろな」
なんでだろう。
「そういうときは、甘いものですよ」
純佳は、またクッキーをひとつ指先でつまみあげて、俺の口の前に運ぶ。
特にためらいも覚えずに、俺はそれを口に含んだ。
「……しかし、人様に見られたら、どう思われるんでしょうね、この光景は」
「さあなあ」
わからない。
わからないことは、どうでもいい、ようにも思える。
「兄。大丈夫ですか」
「うん。うん……」
「もうちょっとしたら、ごはん作りますね」
「うん」
「ちどりちゃん、元気でしたか?」
「うん」
「……柚子先輩とは、うまくいってます?」
真中柚子。彼女は、純佳から見れば、一個上の先輩ということになる。
「どういうのを、上手くいってるって言うんだろうな」
「わたしが知るわけないです」
そりゃそうだ。
「……純佳」
「はい」
「日が沈むと寂しくなるのは、どうしてなんだろうね」
純佳は、耳にかかった髪を指先で後ろに流しながら、考えるような素振りを見せた。
「夜が怖いからじゃないですか?」
「夜?」
「たぶん。動物だった頃、夜はおそろしい時間だったから。だから、寂しいというより、不安で、心細くなるんだと思う」
夜は、暗闇は、おそろしい。何が潜んでいるか分からない、暗闇。
それは人に、原始的な恐怖を覚えさせる。遺伝子が運んだ、動物の血脈。
「だから、夕焼けは、綺麗だけどおそろしいんだと思う」
純佳の真面目な口調は、コメディータッチのドラマを背景に、浮かび上がってるみたいに聴こえた。
暗闇。
だから人は、灯りをともし、寄り添い合う。
でも、それは、少し違うような気がする。
俺に限っては、当てはまっていないような気がする。今この瞬間の、寄る辺なさの正体は。
でも、それを口に出すことは、やっぱりしない。
嘘、偽物、偽装、隠し事。
「純佳は博識だなあ」
俺の適当な褒め言葉に、純佳はきっと、それと分かった上で頷いた。
「えっへん」
夕焼けはおそろしい。
何かを思い出しそうになる。
ドラマが終わると、純佳は水色のエプロンをつけてキッチンに立った。
両親の帰りが遅い日は、俺たちが交代で夕食を作るようにしている。
部活のレギュラー? 文芸部? 彼女?
知ったことか。
と、言いたいわけでもないけれども。
その日、純佳のつくったポトフは美味しかった。
でも、なんでだろう、その日、ものすごく些細なことで純佳と喧嘩をした。
たぶん、本当にとてもくだらないこと。テレビのチャンネル争奪とか、そんな程度のこと。
そのときの彼女の捨て台詞が、
「じゃあ、明日から兄のことを起こしてあげませんから!」
というものだった。
ああいいさ、別に頼んだ覚えなんてないね、朝ひとりで起きるくらいのことなんでもないさ。
第一俺を何歳だと思ってるんだ? だいたいそんなようなことを言い返したのを覚えている。
そのあとはもう単純で、「本当の本当に起こしてなんてあげませんからね!」と妹は繰り返すばかりだった。
俺も彼女も、そのあとは「もう口なんてきいてやらない」と言わんばかりにそっぽを向き合った。
妹は怒った声で「おやすみなさい!」と怒鳴ったし、俺もまた「ああ、おやすみ!」と怒鳴り返した。
そんな夜が明けて、当たり前に朝が来て、目を覚ましたらヤバい時間だった。
明らかに遅刻だった。
何度もスヌーズ機能を動作させたらしい携帯のアラームがむなしい。
ベッドから飛び起きて、自分でもおどろくほどの速度で制服に着替える。
寝癖も直さず洗面所で顔だけパッと洗って歯を磨き、キッチンに向かって素のままの食パンをくわえた。
ダイニングテーブルをふと見ると、弁当箱が置かれてた。
近くには書置き。
「兄へ。起こしませんでした。
あまりに哀れなのでお弁当だけ作っておいてあげました。
これに懲りたらけなげな妹の存在に感謝してケーキのひとつでも上納するのがいいでしょう。
それと、予報によると夕方は雨が降るそうなので傘を忘れずに」
ファンシーなメモ用紙に記された丁寧な文字がやさしい。
悔しい気持ちを覚えながらも、それでもやっぱりありがたい。
弁当箱をひっつかんで鞄にいれると、俺は食パンをくわえたまま家を出た。
折りたたみ傘なら鞄に入れっぱなしだ。
◇
俺の通う高校の手前は勾配の緩やかな長い坂道になっている。
ゆっくりと歩くだけならなんということはないが、自転車で登ったり慌てて駆け上がったりするのはつらいものがある。
日頃の運動不足も重なって、体中が軋みをあげかねない。
そんなわけで、坂の手前にさしかかった段階で、俺はいいかげん諦めて歩くペースを緩めることにした。
慌てて出てきたのがバカみたいだが、仕方ない。
ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、もう授業が始まっている。
今までは純佳に起こされていたから、高校に入ってから初の遅刻ということになる。
人の気配のない通学路が俺の心をわくわくさせるのと同時に、なんだか憶えのない緊張のようなもので、心臓が早鐘を打つのを感じる。
歩くペースを落として見れば、坂の途中から見える景色はそんなに悪くない。
朝が来てしまうと、俺は昨夜の自分が何を考えていたのか、それがよく思い出せなくなっていた。
坂を登りきった先の校門の傍に、大きな桜の木がある。
思わず、立ち止まって、見上げてしまう。
桜の木。
今年は少し開花が遅かったせいで、桜の花は、満開とまでは言わないまでも、そこそこきれいに残っていた。
花びらが、風に乗ってかすかに舞い落ちる。
人の気配のしない空間に、大きな枝を垂らすように伸ばし広げた桜の木がある。
俺は、その様子を立ち止まって眺めている。
ふと、一陣の風が吹いて、桜吹雪が散った。
嘘みたいに、花びらが舞った。
その瞬間、ほんの一瞬の間、ひとりの女の子の姿を、花吹雪の向こう側に、俺は見た。
目が合った気すらした。
でも、それは本当に一瞬の幻視で、風がおさまったときには、もう彼女の姿はなかった。
あとにはただ、桜の花が咲いているだけだった。
桜のせいにはできないだろうけれど、そのまま教室に向かう気にはなれず、俺は屋上への階段を昇った。
リノリウムの床を叩く自分の足音がひどくうるさく思えて仕方ない。
東校舎の床は埃っぽい。本校舎と違って、掃除される機会が少ないからだろう。
いつもどおりに鍵を回して屋上に出ると、白んだ風景が目に飛び込んでくる。
校門の桜の木が見える。
いくつかのことを考える。順不同に。
ちどりのこと、真中のこと、
昨日の喧嘩の理由、
さっきの、桜の下での出来事、
ましろ先輩が、俺に鍵を渡した理由。
昨日の喧嘩の理由、なんだったっけ。
本当に、なんだったっけ?
チャンネルの争奪。……本当に、そんなことだったっけか?
よく、思い出せない。近頃はいつもこうだ。
大事なことも、そうでないことも、なんにも思い出せない。
それは単に、きっかけでしかなかったような気がする。
どうしてだっけ。
純佳が急に不機嫌になって、些細なことで喧嘩になったんだ。
なんで、だっけ。
そうだ。真中の話をしたのだ。
どんな内容だったかはわからない。何気なく、話した気がする。
そうしたら、純佳は腹を立てたのだ。
「どうしてそんなに、人を信じられないんですか」、というようなことを言っていた気がする。
そこまで思い出すと、原因になった俺自身の言葉も思い出せそうな気がする。
でも、あえてそれ以上記憶を掘り下げることはしなかった。
人間不信。人間不信?
ときどき、そういう人間として扱われることがある。
他人を信じていない、いつも本当のことを話そうとしない、心を開いていない。
でも、そんなの、誰だってそうじゃないか、と、俺には思えるけれど。
ちどりのこと、真中のこと。
俺には難しいことばかりだ。
すぐに授業に出る気はしない。
俺は、屋上に寝そべって、静かにあくびをした。
このまま二度寝でもするとしよう。どうせ遅刻しているのだ。
それから、さっき見た景色のことを考える。
桜の木の下の少女。あれは、単なる目の錯覚だったんだろうか?
でも、なんだか、うわさ話を聞いたことがある気がする。
桜の木の下の少女……いったい、なんだったっけか?
誰から聞いたんだっけ? ……そうだ、それも、ましろ先輩から聞いたんだ。
――あそこは異境の入り口だから。
瞼を閉じて、少しだけ溜め息をつき、いくつかのことを思い浮かべる。
それから、自分がどうしてこんなことになってしまったのか、考える。
「ずいぶん不満そうですよね」と声が聞こえる。
俺は目を開く。
……女の子が、そこに立っていた。
すぐ傍に、本当に、すぐ近くに、膝を立てて、スカートの裾をおさえて、座っている。
そこは無防備でいるところだろう、と、寝ぼけたまま思った。
「きみ、誰」
「ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
「あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?」
「……」
「そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?」
ああ、そうだ。
さっき、桜の木の下で見た子だ。
次の瞬間には、彼女の姿は消えていた。
目を向けた先には、ただ虚空の先に、フェンス越しの景色がぼんやりと浮かんでいる。
何もかもが短い夢だったような気がした。
春が、そんな気分にさせる。
だからこそだよ、と俺は思う。
それから本当に眠ってしまって、ふたたび目をさましたのは、チャイムの音が聴こえたときだった。
なんだか、もどかしくなって、起きてすぐ、寝ぼけた頭のままで、俺は携帯を取り出した。
「ごめん」と、純佳にメッセージを送る。
三十秒くらい後になって、返信が来た。
「わたしの方こそ、ごめんなさい」
と彼女は言う。
続けて、
「今日はバイトですか?」と質問。
週に三日か四日、夕方からの四時間程度、俺は近所のコンビニでバイトしている。
部活に行ってからでもギリギリ間に合う程度のシフトだから、隙間時間の活用法としてはもってこいなのだ。
思い出してみると、たしかに今日はバイトの日だ。
「そう」とだけ返信すると、「じゃあ今日はわたしだけですね」と何気なく送られてくる。
「帰りになにか買っていくか?」
「じゃあ、甘いもの」
そうしよう。疲れているときには、甘いものがいい。
さて、と俺は立ち上がる。
現実に帰るときだ。
◇
教科書、ノート、板書、チョークの音。
周囲から、ペンを走らせる音、誰かが居眠りしている気配。
カーテン越しの柔らかい日差し。眠気を誘う教師の声。
俺も、その風景の中に混じる。
混じっている。たぶん、誰も気にしない程度には、馴染んでいる。
それなのに、違和感がある。
こうして過ごしている風景、日常のすべてが、全部、自分のものではないような気がする。
誰かのためのものを、かすめとっているような、そんな気がする。
ただの錯覚、誇大妄想、思春期特有の麻疹。
誰かはきっとそう言う。俺もそう思う。そう感じる理由がないんだから、なおのこと。
本当は俺は、文章なんて書かなくていいのだ。
◇
どうにかして授業をやり過ごして昼休みになってから、俺はすぐにまた屋上に向かった。
昼寝をしていても誰にも邪魔をされないのが、いいところ。
そういう日々が、たぶん、いい日々だ。
そう思ったのに、寝そべって目を閉じていると、ドアが開く音がした。
「……昼寝か、不良」
急に日差しが遮られた気配がした。目を開くと、大野の影が俺に落ちていた。
「いらっしゃい、珍客だ。ここにいるって、よくわかったな」
「最近、けっこう不思議だったんだ。昼休みになるたびにいなくなってたから。こないだ腑に落ちた」
「なるほど。それで来てみたわけか」
「ちょっと話がしたくてな」
大野は、汚れるのも気にせずに、制服のまま俺のそばに座り込んだ。
「話?」
「今日、どうして遅刻したんだ?」
「寝過ごしたんだよ。いつもは妹に起こしてもらってるんだ」
「妹がいたのか」
「言わなかったっけか」
「ときどき、おまえがものすごい秘密主義者だって感じるよ」
「話すタイミングがなかっただけだろ」
「そうかもしれないが」
大野は呆れたふうな溜め息をつきながら、両手をうしろに伸ばして杖にした。
「いい天気だな、しかし」
「絶好の昼寝日和だ」
「ああ。……でも、妹に起こしてもらってるのか?」
「朝は弱いんだ」
厳密に言うと、夜、あまり眠ることができないだけなのだけれど。それもあえて言うことはしない。
携帯のアラームなんて、役に立った試しがない。それでもやめないのは、まあ、神頼みみたいなものだ。
「仲が良いのか?」
「俺が他人だったらうらやましがるか気持ち悪がるかするくらいには」
「へえ。稀有だな」
「そう、俺は恵まれている」
自分で言うと、いくらか気持ちがすっとした。
俺は恵まれている。
「……話って、それか?」
「話? なにが?」
「話したいことがあるって、さっき言ってただろう」
ああ、と、大野はそれでようやく思い出したみたいだった。
「いや。ちょっと、聞いてみたかったんだ。本人のいる前で聞くのもどうかと思ったからな」
「本人?」
「真中さんのことだよ。付き合ってるって、本当なのか?」
本人は普通の顔をしていたけれど、大野がそんなことを気にするなんて思ってもみなくて、俺は少し意外な気がした。
色恋沙汰なんて興味がない、という顔をしているのに。
いや、顔で人を判断するのもよくないのだが。
「本当だよ。なんで?」
「今までそんな話聞いたことなかったから」
「話すタイミングがなかったからだろ」と、俺はさっきと同じ返事をした。
「真中の、何がそんなに気になる?」
「……何が、と言われると弱るんだが」
大野は、前のめりになって腕を組んだ。
「べつに、そんなに根拠があるわけじゃないんだ。ただ、おまえに彼女がいるっていうのが意外でな」
「失礼な奴だな」
「そういう意味じゃない。いや、そういう意味でもあるが」
本当に失礼な奴だ。
今までこんな話を大野としたことがなかったから、なんだか新鮮な感じがする。
「俺だって、人を好きになったりするよ」
「そりゃ、そうだ。べつにそこまで疑ってるわけじゃない」
この話は、あんまり続けるべきじゃないかもしれない。
「今日の部活だけど」と俺は自分でも分かるくらいあからさまに話を変えてみた。
「たぶん、瀬尾がなにか言い出す」
「なにか?」
「わからないけど、言い出すと思う」
「根拠は?」
「勘」
「さすがに付き合いが長いだけあるな。アテになるかはわからないが」
「まあ、頭数も揃ったし、なにかしたがるタイミングだろう」
「頭数って言えば、幽霊部員って、本当にいるのか?」
「いるよ」
そう答えはしたものの、俺自身詳しく知っているわけではないことを思い出す。
自分で話を変えたくせに、無性に気になって、俺は話を戻した。
「なあ、大野は彼女とかいたことあるの?」
「なんだよ急に」
「や。一年以上の付き合いになるけど、今までそういう話聞いたことなかったなと思って」
「……まあ、そういうのはなかったな」
「ふうん」
「なんだよ。彼女持ち特有の見下しはやめろ」
「そっちこそ、彼女ナシ特有の被害妄想はやめろ」
大野はハッとしたみたいに目を丸くした。
「あ、ああ。……今のは俺がどうかしてた」
……こう見えて、意外とコンプレックスがあるんだろうか。
俺だって、実際は大野と対して変わらないのだが。
それから、生真面目な大野らしく、しっかりと話題を続けてくれる。
「好きな子がいたことは、あるんだけどな」
「へえ。なんか意外だな」
「俺は人を好きになりそうにないか?」
「まあ、どちらかというと、惚れられていそうに見える」
「そんなことは今までなかったな」
「その子とはどうなったの?」
「まあ、いろいろあってな」
人に歴史ありと言ったところか。
「それ以来……別に、いいかなとは、思ってるんだ」
「そうなんだ」
適当な相槌を打ったわけじゃない。どう反応すればいいのかわからなかったのだ。
言い訳はできないけれど。
何を話せば良いのかわからなくなった。
俺と大野は結局それから、天気のこととか、空を飛ぶ鳥のこととか、そんな話をしてその場をやり過ごした。
「暑いな」と大野は三回言って、俺は三回とも「そうだな」と頷いた。
◇
その日の部活で、瀬尾は案の定何かを言い始めた。
「部員も揃ったことだし、そろそろ活動しないとね」
去年の秋以来、埃をかぶったままになっていたホワイトボードを引っ張り出して、瀬尾はペンを握った。
「さて、ゆずちゃん」
と、瀬尾は当たり前のように真中を下の名前で呼んだ。
この距離感の独特のとり方が瀬尾だという気がする。
「文芸部の活動とはなんでしょうか?」
真中は、窓際のパイプ椅子に腰かけたまま、首をかしげた。
「読書?」
「正解」
と、瀬尾は簡単に頷いていみせる。
「厳密にいうと、正解に含むって感じだね」
瀬尾は、淀みのない口調で続けた。
「文芸部は本を読んで感想を言い合ったり、それを文章にしてみたり、あとは自分で何かを書いてみたりする部なの」
瀬尾は本当に器用な奴だなあと、こういうときは思う。
求めていない言葉がでてきても、不正解と突っぱねたりせず、自然と自分の話したい方向へと話題を誘導していく。
普段の奇妙なテンションからは想像もできない。真似できない。
「で、今から話すのはね、その『書いてみたり』っていう部分」
半円形に椅子を並べて瀬尾の方を眺める俺たちに背を向けて、彼女はホワイトボードに文字を書き始めた。『部誌の発行について』。
「ふたりはちょっとイレギュラーというか、なんにも説明しないまま入部しちゃったから、今更だけど、説明するね」
ホワイトボードに新しい文字が増えていく。
『薄明』と瀬尾は記した。
「うちの部では、年に四回か五回くらい、部誌の発行をしてるの。
内容は、部員の書いた文章……なんでもいいんだ。小説や詩を書いてもいいし、俳句でも短歌でも川柳でもいい。エッセイでもいいし、何かの感想文や評論でもいい。
とにかく、それが文章でさえあればなんでも。で、部員たちで編集して、部誌として形にして、それを配布する。大野くんは知ってるよね」
自分には無関係のことと思っていたんだろう、突然話を振られて、大野はいくらか面食らったみたいだった。
「ああ。一応、図書委員だしな」
「図書委員って、部誌となにか関係があるんですか?」
入学したての真中からしたら、当然といえば当然の疑問か。
大野も瀬尾も質問に答えなかったので、俺が答えることになる。
面倒見が悪いわけではない。真中のことは俺に任せようという意識ができあがってしまっているみたいだ。
「発行した部誌は図書室の展示スペースに置かせてもらってるんだよ。フリーペーパーみたいな感じで」
「誰か読むの?」
「それが不思議なんだよな。実際、うちの高校の七不思議のひとつにもなってる」
「つまり?」
「けっこう読まれてる」
これは事実で、文芸部で発行している部誌は意外なほど知名度がある。
長年の歴史の賜物という奴かもしれないが、それにしても生徒が絶えず入れ替わるのだからファン層なんてできるはずもないのに、変な話だ。
「なるほど」と真中は頷いた。
こほん、と咳ばらいをして、瀬尾が話の続きをはじめる。
「部誌『薄明』。歴史はかなり長いみたい。一応、伝統ってことで、わたしたちもつくらなきゃいけないんだよね」
先代にも言われたしね、と、瀬尾は付け加えた。
「そういうわけで、一学期中に、部誌をつくりたいんです」
一学期中、とホワイトボードにまた文字が足される。
「で、みなさんにも何か書いていただきたいわけです」
瀬尾のその言葉に、俺たち三人は顔を見合わせる。
「……って感じなんだけど、どうかな」
何の反応も示さない俺たち三人に、瀬尾は不安そうに眉を寄せた。
とはいえ、どう反応したものだろう。
部誌『薄明』は、確かに瀬尾の言うとおり、これまで毎年、年数回、文芸部で発行されてきた歴史ある部誌だ。
部室の隅の戸棚には、歴代『薄明』のバックナンバーがずらりと並べられている。
部が存続した以上、活動実績として、俺たちは俺たちの『薄明』を作らなければいけない。それはまあ、自然な成り行きというものだろう。
問題がいくつかある。
「文章、ですか……」
真中は考え込むように眉を寄せた。
「あの、青葉先輩。わたし……」
「うん。大丈夫。書き慣れてなくてもサポートするし。楽しむことがいちばんだからね。
歴史があるっていっても学生のつくるものだしあんまり気にしなくて平気だよ」
「いえ、あの。わたし、文章ってあんまり書いたことなくて……」
「そうなの?」
「はい。あんまり興味がなくて」
「あ、そっか。うん。そっか。いや、入ってもらって助かったからいいんだけどね」
さすがの瀬尾も困り顔だった。無理もない。だったらなぜ入部したという話である。
「とはいえ、せっかくだからちょっと挑戦してみてもらえないかな」
「はあ……」
曖昧に頷いた真中の表情に、やはり瀬尾は不安そうだった。
まあ、でも、真中は書けといえば何かしら書けるだろう。問題は別にある。
案の定、次に手を挙げたのは大野だった。
「なあ、瀬尾。俺、文章は書けないんだが」
あ、という顔を、瀬尾はした。失念していたわけでは、きっとないだろう。
それでもいくらか、大野の人の好さに期待していたのかもしれない。
「あ、えっと、そう、だよね、うん」
瀬尾の頬が、カッと赤く染まった、ように見える。
そうだな、瀬尾ならそうなるだろうな、と俺は思った。
大野は、部員が足りないから、頭数として、入部してくれた。
それ以上のことを求めるのは、人の善意につけこむことだ。
瀬尾は、それでも期待していたのだろう。そして、期待していたことを見抜かれたと思って、恥じ入っている。
生真面目と言えば、生真面目な奴だ。あの手この手で言いくるめて、書かせてしまえばいいものを。
せっかくホワイトボードまで持ち出してきたのに、新入部員はこの様子だ。瀬尾の部長としての初仕事は、最初から行き詰まりを見せたことになる。
とはいえ、仕方ない部分もある。
もともと俺も瀬尾も、集団を引っ張っていくよりは、集団の隅っこで自分の好きなことをやっている方が性に合うタイプなのだ。
やりたくないやつを無理に参加させたり、その気にさせるためにあれこれ気を引いたりなんてできる人間じゃない。
難航は、ある意味で必然だ。俺たちは烏合の衆なんだから。
「いいんじゃないか」と俺は言った。
「最悪、俺と瀬尾のふたりで作ったって、『薄明』は『薄明』だ。大野には編集や製本を手伝ってもらえばいい。
真中は自分から入部するって言い出したんだし、書けるなら書いてもらいたいけど、一度目だし、雰囲気をつかんでもらってからでもいいだろう」
「……ん。まあ、そう、だね」
瀬尾は、やはり複雑そうだ。気持ちはわからないでもない。
今まではずっと、先輩たちがいた。俺たちはずっと下っ端だった。
そりゃ、去年の最後の部誌発行のときには、後継者としていくらか部誌作りの基本も教えてもらった、とはいえ、だ。
たくさんいた先輩が一気にいなくなって、じゃあこれから二人でやってみなさいと突然言われても、不安を感じるなという方が無理だ。
せめて人数がいれば相談しながらどうにかやっていけたかもしれないが、それも望めない。
大野や真中をアテにしたくなる気持ちもわかる。
俺が頼りにならないからなおさらだろう、というのはさておき。
とりあえずそういう話にまとまったかな、と思ったところで、大野が立ち上がった。
「悪い。今日は委員会あるから、いかないと」
「あ、ごめんね、当番だったんだ」
「いや、こっちこそごめん」
じゃあな、と短く言って、大野は部室を出て行った。心なしか表情が硬かったようにも見える。
当番というのは、嘘ではないのだろう。昨日だって、委員会の件でこっちに来たのだから。
人に任せてわざわざ顔を出したのだとしたら、やっぱり付き合いの良いやつだ。
「……怒らせちゃったかな」
閉じられた扉を心配そうに眺める瀬尾に、どう声をかけるべきか迷う。
たぶん、大野は怒ってはいない。いくらか普段よりもそっけなく見えたのは、きっと、やさしく対応して、期待をもたせるのが嫌だったからだろう。
押せば書いてもらえる、なんて思われたら、どっちも嫌な思いをするだけだから。
俺には大野の気持ちはわからないけれど、たぶん、そうだと思う。
「気にするな。部に入るって言った以上、大野だって言われる覚悟はしてたろ」
「でも、最初に自分で頭数って言ってたもんね。やっぱり、わたしの失敗かな」
「それはまあそうだろうな」
「大野くんの言う、文章が書けないって、ただ書くのが苦手なだけだと思ってたんだけど、違うの?
……って、副部長に訊いちゃうのもいけないよね、きっと」
「詳しい事情は、俺も知らない。でも、少なくとも、単純に苦手だというだけじゃないと思う。きっと、人にはわからない理由があるんだろうな」
瀬尾はちょっと考え込んでしまっているみたいだ。
黙ったまま、しばらく何も話そうとはしなかった。
なにげなく真中の方を見ると、彼女も俺の方を見ていた。
「どうしたらいいかな」という顔をされたので、「ほうっておいたら」と目で訴えた。
彼女はその瞬間、なにか素晴らしいことを思いついたみたいな顔で、指を狐のかたちにしてこちらに向けて上下に二度振った。
意味はよくわからないが楽しそうなので放っておくことにする。
部室の隅の戸棚に目を向ける。この部に入部してすぐ、俺は『薄明』のバックナンバーを読むことに熱中した。
べつに特別なものでもないと思う。どこにでもある、でもほかのどこにもない、ここにしかない言葉の海。
部誌『薄明』。文芸部。その歴史。のこされた言葉。
遺されたのか、取り残されたのか。
文章というのは不思議なものだ。口で話すよりもよほど簡単に嘘をつける。
おもしろいことがある。
『薄明』平成四年春季号。
部員『佐久間 茂』名義の小説。これは、江戸川乱歩の『白昼夢』の一字一句違わぬ盗作だ。
編集後記に付したコメントで佐久間は「江戸川乱歩に影響を受けて……」と堂々と語っている。
夏季号では、佐久間はモーパッサンの『水の上』の、固有名詞を変更し、文章を若干削っただけの、またしてもまごうことなき盗作をおこなった。
そして、秋季号から彼の名前は『薄明』から消えた。
その後の文化祭特別号にも、冬季号にも、彼の名前はない。
ただ、文芸部の部室がいまだに彼のしたことを保管している。大事に、失われないように、しっかりと。
こんなことってあるだろうか?
だが、この佐久間茂という人間について、もうひとつ語るべきことがある。
彼は『水の上』の盗作を載せた夏季号において、自身の散文に近いエッセイも掲載した。内容には、いささか目を引くところがある。
「ほんとうのことを言うと、みんなは文章を読んでいるのではなくて情報を読んでいるのではないでしょうか。
たとえば名のある現代詩人が書いたものであれば、いささか稚拙な感のある文章であれ大なり小なり感心してもらえるものです。
やれあえて定型を崩したであるとか、やれ詩に対する洞察がもたらした深みがあるのだとか、そんなようなことをです。
しかしたとえばです。もし仮に太宰治が『女生徒』を書いていなかったとしてみてください。
そしていまぼくが『女生徒』と一字一句たがわぬ小説を公開したとしてみてください。
そのとき、さて、太宰治が好きだと言っていた彼/彼女らはぼくの小説を気に入ってくれるでしょうか。本当にそうでしょうか。
ぼくには、太宰治の猿真似などして厭らしいと疎まれるような気がしてなりません。いや、太宰だと気付かれることもないかもしれない。
誰であれそうです。文章というのは畢竟ことばのつらなりにすぎぬわけで、そこにあるのはつまり語の選択と配置でしかないのです。
たとえば何匹もの猿にペンをもたせて、何十年何百年と紙に何かを書かせ続けることができたとしましょう。
そしてその猿の一匹が偶然にも寺山修司の名文句を書き上げたとしましょう。その文句はぼくらを感動させるでしょうか。
せいぜい、ああ、猿にしてはやるではないか、という程度ではないでしょうか。
これは極論ですがつまりこういうことです。
ぼくたちは、なにが偽物で、なにが本物なのか、ほんとうの意味では、これっぽっちもわかっていないのです。
区別なんて、できていないのです」
この清々しいほどの責任転嫁ともとれる文章には、どことなく悲哀がある。なるほど彼の言うことにも一理あるかもしれない。
キーボードの上で猫を遊ばせてシェイクスピアの戯曲ができあがるのを待つのは、
本来考える必要もないくらい困難であり得ないことだが、時間が無限であったならいつかは起こりうることだろう。
仮にそれが起きたとしよう。
そのとき、俺たちはシェイクスピアの血肉のこもった(と、想像するが案外そうでもないのかもしれない)文章と、
単に猫が遊んだ痕跡に過ぎない文字の羅列とを区別することができるだろうか。
そんな彼の思考と相反する言葉も、この文章の中には存在している。
たとえば猫が奇跡的に作り上げたシェイクスピアの文章を、シェイクスピアのものと言われずに、
猫の遊んだ痕跡だと言われて読んだときに、俺たちはシェイクスピアの戯曲を読んだのと同様の感慨を受けることができるだろうか。
俺にはどうも自信が持てない。
もちろん、猿が寺山修司の名文句を書くことも、猫がシェイクスピアの戯曲を作り上げることも、単に奇跡でしかない。
シェイクスピアは何本もの戯曲群をひとりで生み出したからこそ偉大なのだとも言える。
さて、それでは俺たちがシェイクスピアに対して抱く敬意なんてものがもしあるとしたら、それは作品そのものではなく、彼という文脈を経由した作品なのではないか?
俺たちは、本当の意味で、文章そのものを読むことができるか?
そんな空想は、案外楽しい。
「そうだ」
ぼんやりと物思いにふけっていたところで、不意に瀬尾が声をあげた。
「ねえ、副部長、こないだいってた、幽霊部員の子は?」
「は、って。何が?」
「その子は参加してくれないかな、部誌」
一瞬、何の話か分からなかったが、ようやく見当がついた。
「あのさ、瀬尾。それはさ……本人も自分の意思で出てないんだと思うし」
「でも、でもでも、聞いてみるだけでも、いいんじゃないかな」
「そりゃ」
一年間、一度も部室に顔を出していないような奴だ。あてにできるとは思わない。
仮にそいつが気まぐれに参加するといったところで、二人が三人になるだけだ。
そんなの誤差の範疇じゃないか。そのためにそんなことをするのは……面倒だ。
「いいんじゃないですか?」
真中はそう口を挟む。俺だって、瀬尾が勝手にやるというなら異論はないのだ。
「俺にそいつを探して来いっていうんだろ、瀬尾」
「ダメかな」
「……ダメかな、っていうかだな」
自分で行け、とか、そういうことを言おうとするのだが、こいつに弱々しい表情をされると俺は本当にダメになる。
自分でもどうしてここまでと思うほど。呪われてるのかもしれない。
瀬尾は極端な口下手、人見知りで、典型的な内弁慶タイプだ。
がんばって話そうと思わないとなかなか言葉が出てこない。
周りに友達がいるときなんかは平気みたいだが、ひとりで職員室にもいけないような人間なのだ。
そんな奴にとって、知らない誰かを探すという行為が簡単じゃないということもわかる。
けれど、だからといって、自分の言い出したことを他人に任せるというのはどうなのか。
「どうしても無理なら、ひとりでがんばるからいいけど……」
ぬぐえない不安を隠そうとして、瀬尾は不器用に微笑む。自覚がないから困りものだ。
「……わかったよ」
結局俺は頷いた。俺は瀬尾にはどうしたって勝てない。じゃんけんみたいなものなのだ。
とにかく、さっそく、部室を出ることにした。行動を起こすなら早い方がいい。
瀬尾はついてくると言ったけれど、すぐにその発言をひっこめた。
部室に真中をひとりきりにするのも、俺とふたりきりになるのもよくないと判断したんだろうと思う。
どっちにしても、真中に気をつかったということだ。たぶん、真中は気にしなかっただろうけど。
廊下に出ると、学校の敷地を囲んで並ぶ桜並木が見える。
本当に雨なんか降るんだろうか。そのくらい、いい天気だ。
本校舎に通じる渡り廊下を歩きながら、グラウンドの運動部の様子を眺める。
球技の音もこうして聞くと悪くない感じがする。物思いにふけるにはちょうどいい。
先代から幽霊部員の話を聞いたときは、俺もそんなに詳しい話を聞かなかった。けれど、考えてみれば少し妙な話かもしれない。
うちの高校は、部活動への所属を生徒に強制していない。
推奨はしているが、いわゆる帰宅部であっても問題ないとしている。
同好会の設立に関しても特に厳しい条件があるわけではないので、幽霊部員になるくらいなら、初めからどこにも入部しなくてもかまわないはずなのだ。
そう考えてみると、少し興味が湧いてくる部分もある。
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手始めに職員室に向かうと、案の定、文芸部の顧問である熊田が自分の机で何か書き物をしているのが見えた。
人の好さそうなこの小太りの中年男性の、控えめな笑い方が、俺は嫌いじゃない。
「やあ。どうした」
「ちょっと、聞きたいことがあって」
「授業のことか? 珍しいな」
「いや。授業のことではないんですが」
「ああ、そうか。なんだ。勉強に目覚めたのかと思ったが」
「まあ、それはそのうち。えっと、部活のことで質問があったんです。文芸部に所属してる生徒の名簿みたいなものってありますか?」
「名簿。……名簿か。まあ、あるよ。っていっても、去年のだぞ。新しいのはもうちょっと待たせることになるが。もうすぐ生徒総会だしな」
「……そっか。生徒総会」
よくよく考えたら、部員の一覧なんて秘匿されているわけじゃない。
幽霊部員の存在自体は、そういうときの書類をちゃんと読んでいたら気付いてもよかったはずだったのだ。
「なんで名簿のことなんて聞いたんだ?」
俺はいちから順番に説明をすることにした。
「瀬尾が部誌を発行しなきゃって言い出したんですけど、新入部員ふたりが戸惑い気味で、
このままだと俺と瀬尾のふたりだけしか原稿をあげられそうにないんです。
それで、えっと、なんだろう、部室にあんまり顔を出してないけど、所属はしている生徒がいるじゃないですか」
「そうなの?」
熊田はけっして部活に関心がないわけではないと思うのだが、基本的には放任であまり部室を覗きにこないので、そういう事情には詳しくないらしい。
「そうなんです。で、名前も知らなくて」
「ふうん。そうだったのか。たまたま俺が行ったときにいつもいないだけだと思ってたけど」
……案外、本当に関心がないだけなのかもしれない。まあ、今はどっちでもいい。俺が言えたことでもないし。
「それで、一応部員だし、参加するかどうか、意思確認だけしておこうと思って」
「まあ、確かに市川は一回も部誌に参加してなかったな」
「イチカワ、っていうんですか」
「ああ。市川鈴音。今年は……三組だったかな」
「三組……」
二年三組、イチカワ・スズネ。女子だろうか。
誰かと同じクラスだったらよかったのだが、残念ながらそうもいかないらしい。
大野と俺は一組で、瀬尾は二組だ。
とりあえず頭の中に刻んでおこう。
「ちなみに、どんな子ですか?」
「ん。どうかな。真面目だし、面倒見もいい。勉強ができる。いい子だよ」
あんまり参考にならない情報だ。まあ、まさか生徒相手に生徒のことを好き勝手言ったりはしないだろうから、無難になるのも仕方ないか。
「分かりました。ありがとうございます」
「ああ、部誌、楽しみにしてるよ」
「あ、そうだ。部誌なんですけど、先生にも何かコメントを書いてもらえます?」
「……唐突だな。これまでそんなことしたことないぞ」
「人数がいきなり減っちゃったんで、少しでも水増ししたいんですよ。
名前を貸してもらえるなら、俺が先生の名義でそれっぽいコメント書いてもいいかなって思うくらいに」
「いや、おまえにそれは任せられない。どうなるかわかったんもんじゃない」
いまいち信頼がないらしい。前科があるわけでもないはずなのだが。
「まあ、考えておくよ」
それだけ聞いてから、俺は職員室を出て、すぐに二年三組の教室に向かうことにした。
二年の教室は本校舎の三階にある。
俺や瀬尾や大野の教室も、今年からそうなった。新しい教室の場所にも、ようやく慣れてきたところだ。
三組の教室にはまだ入ったことがなかった。知り合いがいればよかったのだが、あいにく友人は多くない。
せめて無駄足にならなければいいのだが、と思いながら、三組の扉の前に立つ。
せめて誰かが残っていてくれるといいのだが。
扉は開きっぱなしになっていた。
中には数人の男女が残っている。新学期が始まってばかりだ。みんな交流を深めているんだろう。
どう声をかけるか迷っていると、ひとりの男子がこちらに気付いて「おう」と手をあげた。
「三枝じゃん」
「なんで俺のこと知ってるんだ、おまえ誰だ」
「……いや、去年一緒のクラスだっただろ」
たしかに、去年同じクラスだった奴だ。去年の体育祭で俺がクラスリレーをサボったとき、代打で走ったと言っていた奴だ。
途中で転んでしまったとかで、あとでさんざん文句を言われたのを覚えている。
実は最初から気付いていたのだが、とっさに冗談めかした反応をしてしまった。
「いや、覚えてる覚えてる」
「忘れてただろ、完全に。勘弁してくれよ。ちょっと前まで毎日顔合わせてたんだぞ。薄情にもほどがあるわ」
「ちょっとした冗談じゃないか」
本当に冗談のつもりだったのだが、本格的に呆れられてしまったらしい。どうも俺は冗談がうまくない。
いや、しかしこれは助かった。
「ちょっと訊きたいんだけど、市川っている?」
「市川? 市川鈴音か。どうして?」
「部が同じなんだ」
「ああ。……いや、帰ったんじゃないかな。あんまり話さないから分からない」
空振りだ。まあ、仕方ない。放課後なんだから、その可能性は最初から考えていた。
そう思い、礼を言って踵を返そうとしたタイミングで、奥にいた女子が声をあげた。
「市川さんなら、たぶん渡り廊下にいるよ」
「……渡り廊下? なんで?」
「知らない」とその女子は言う。「いつもいるよ」
とはいえ、しかし、本校舎と東校舎を通じる渡り廊下なら通ってきた。誰もいなかったはずだが……いや。
「何階の?」
「えっと……わかんない」
いや、聞くまでもない。三階は通ってきた。ということは二階か。
そういえば、二階の渡り廊下にはベンチが置かれいて、休憩できるようになっていたはずだ。
「よくそこで本を読んでるのを見かけるから、たぶん。今日はいないかもしれないけど……」
「いや、ありがとう。行ってみる」
礼を言って、今度こそ三組の教室を出る。
渡り廊下を歩いたり階段を昇ったり下りたり、ゲームのおつかいでもさせられてるような気分だった。
教室を出て二階に降り、渡り廊下までの通路を歩いていく。
二階は一年生の教室になっている。
去年卒業した先輩が、「どうして年を取るたびに昇る階段の段数が増えるんだ」とぼやいていたのを思い出す。
気にしない方がいいですよ、と俺は言ったものだった。どっちにしても三年間で昇る階段の段数はだいたい同じですよ、と。
一年の教室にはあまり生徒が残っていないらしい。
廊下は不思議な静けさと薄暗さに包まれていて、自分の足音が遠くから聞こえるみたいに反響する。
渡り廊下の手前に辿り着いて、俺は溜め息をついた。
ベンチは三つ。その真ん中の隅っこに腰かけて、ひとりの女子生徒が本を読んでいる。
絵になる女の子だ。日陰と日向のコントラストが、春の終わりが近付いていることを思い出させる。
絵画を眺めるみたいな気分だ。踏み入ったら、逃げ出しそうな雰囲気がある。
昼寝をしている野良猫みたいに、邪魔をしたら去っていってしまいそうだ。
少しの間そのまま躊躇していたけれど、結局、声をかけることにした。
根が話し下手なので緊張がないと言うと嘘になるが、大義名分があるだけマシだ。
渡り廊下に踏み入った瞬間、薄い皮膜を破ったような、奇妙な感覚を覚えたけれど、たぶんただの錯覚だったのだろう。
次の瞬間には、いつもどおりになっていた。
「なあ、ちょっといいか」
彼女は、本のページに向けていた顔を、ゆっくりとした動作でこちらに向けた。つぶらな瞳に、妙な迫力を感じる。
「市川さん……で、合ってる?」
彼女は怪訝げに眉を寄せた。唇をきゅっと結んだまま、何も言おうとしない。警戒されているのかもしれない。警戒される理由に心当たりはないけれど。
「えっと……文芸部の、三枝なんだけど」
適当なことを喋るのには慣れているはずなのだが、緊張が妙に緩まない。
返事がないせいで声が届いているのかどうかさえ不安になってきた。
「あの、市川さんだよな?」
人違いだけはまずいと思って繰り返すと、彼女はようやく頷いてくれた。
とりあえず、反応があったことにホッとする。
さて、ここからどう話を進めたものか、何のプランもない。
行き当たりばったりの自分のツケを払わされるのはいつも後の自分だ。
せめてなにか、あちらから言ってくれたら話しやすいのだが、と他人に期待するのもよくない。
「あのさ……」
「どうして、わたしがここにいるってわかったの?」
ようやく喋った、と思うより先に、その声の細さに驚いた。
意識しないと聞き取れないように思えるくらいの透きとおった声だ。それなのに、震えても掠れてもいない。
「あ……いや。三組の教室に行ったら、クラスの奴が、たぶんここだろうって」
「そっか。わたしを探してたの?」
「ああ、うん。確認したいことがあったんだ。文芸部のことなんだけど」
ようやく返事をくれるようになったことに安心して、俺は話を始めた。
「一応、市川も文芸部に所属してたろ。去年は参加してなかったみたいだけど、学年もあがったし、今年は先輩たちもいなくて二年だけだから、どうするつもりか聞いておこうと思って」
「そうなんだ」
「いや、無理にとは言わないんだけどさ」
「……ふうん?」
あんまり興味がなさそうな反応だった。
「無理にとは言わないけれど、是非にとは言いたいみたいな……」
「それ、だいたい同じ意味じゃない?」
「ニュアンスが違うんだ」
「そう」
ようやく緊張がほどけて舌が回ってきた。市川は、考えているのだろうか、ちゃんとした返事をくれない。
もっとあっさりとした話になると思ったのに、予想通りにはいかないものだ。
「部誌、つくるの?」
「ああ。部長がそろそろ始めようって」
「……きみも書くの? 三枝隼くん」
名前を呼ばれて、ぞくりとした。
俺は、苗字しか名乗っていない。
「わたしが名前を知ってるの、不思議?」
まるで、自分がなんにもしていないみたいな顔で、市川はこっちをまっすぐに見ている。
「いや、不思議では、ないな。ただ、びっくりしただけだ」
そう、べつに、不思議ではない。俺が市川の名前を知っているように、市川が俺の名前を知ることだって、べつに不可能じゃない。
一応、彼女も文芸部に所属しているのだし、三枝という名前の部員は俺しかいないのだから、苗字だけでも、分からないこともないだろう。
だから、本当に驚いただけだ。
「それで、書くの?」
「……ああ、まあ」
「そうなんだ」
自分で聞いておいて、さして興味もなさそうな相槌を返してきてから、市川は視線を本に戻した。失礼なやつだ。
「で、どうする?」
「どうしようかな」彼女は視線を下ろしたままだ。
「考えとく」
「ああ。まあ、まだ締切も決まってないし、その気になったら声かけてくれればいいから」
「うん。そうする」
思ったよりもいい返事が聞けたのに、どうしてか落ち着かない気分の方がまさっている。
この感じは、いったいなんだろう?
「えっと、邪魔して悪かったな。それじゃ、俺行くから」
無性に落ち着かない気持ちになって、その場を後にしようとしたとき、「ねえ」と声をかけられて、体が凍りついたみたいに動かなくなった。
「三枝くん、きみはどうして、あんな話を書いてるの?」
言葉の意味が、ぜんぶ、理解できなかった。
「あんな話、って?」
「去年の部誌、読んだの、わたし。きみのもね」
「そうなんだ。でも、あんな話ってどういう意味? そりゃ、巧くはないかもしれないけど」
そうじゃない、と言いたげに、市川は首を横に振る。
「純粋に、興味があるの。どうしてあんなものを書くのか。だって――三枝くん、べつに書きたくなかったんでしょう?」
返事ができなかった。彼女はただ、まっすぐにこっちを見ている。
いったい、なんて答えればよかったんだ?
◇
部室に戻ってことの顛末を報告したあと、その日の部活は終わりという流れになった。
真中と瀬尾がどんな話をしていたのか知らないし、聞こうとも思わなかった。
とにかく、市川には参加の意思がないでもないようすだった、とだけ伝えると、瀬尾はうれしそうに笑ってくれた。
実際に参加するかどうかはともかく、人が増えるということに心強さを感じたのだろう。
さっきまでは気持ちのいい天気だったはずなのに、いつのまにか空が暗くなっている。
じき、雨が降り始めるのだろう。
「せんぱい、このあとはどうするの?」
真中にそう聞かれて、俺は一瞬考えたけれど、よく考えたら予定がある。
「バイト」
「せんぱい、バイトしてたの?」
「ああ」
「知らなかった」
「話すタイミングがなかっただけだろ」
「……ふたりってさ」と、瀬尾が口を挟んだ。
「付き合ってるんだよね?」
俺と真中は顔を見合わせてから瀬尾を見た。
「ああ」
「はい」
「……そ、そうなんだ」
なにか言いたげな表情だったけれど、瀬尾は結局何も言わずに先に行ってしまった。
「じゃあ、途中までご一緒しますか?」
真中の言葉に、俺は頷く。
東校舎の階段を降りる途中で、他の文化部の連中と何度かすれ違う。
新入部員が入ってきて、どこも忙しいんだろう。
「なんだか、妙なことになったね」と真中は言った。
「なにが?」
「部誌。そんなことやるなんて聞いてなかった」
そりゃ、何も聞かずに入部したんだからそうだろう、と思う。
「第一、せんぱい、なんで文芸部になんて入ったの?」
「なんでって。俺が何部に入ろうとかまわないだろ」
「それは、かまわないけど。でも、せんぱいと文章って、なんか結びつかなくて」
「……いや、まあ、自覚はある」
東校舎から本校舎に戻り、そのまま昇降口へと向かう。
昨日から訊きたかったことを、ようやく訊けるタイミングが来た。
「なあ、真中」
と、声をかけながら、俺は、まだためらっていた。
「なに?」
平然と首をかしげられて、戸惑う。
こいつの表情のひとつひとつが、本当に魔的だ。
油断していると、ときどき吸い込まれそうになる。
結局、それが引き金になって、俺は言葉を続けることにした。
「なんで、俺と付き合ってるなんて言ったんだ?」
俺のその疑問に、彼女は目を丸くした。
「なんでって。付き合ってるからだよ」
「それ、続いてると思わなかった」
「どうして?」
「ここ一年、ほとんど会ってなかっただろ」
「連絡は取ってたし」
たしかに、連絡は取っていた。
といっても、ときたま真中からどうでもいいような内容のメッセージが飛んでくるだけだったのだが。
通学路で見かけた猫の写真とか、金曜ロードショーを観るかどうかとか、観たなら感想はどうだとか。
動画サイトで拾ってきたおもしろネタのURLだったりもしたっけ。
俺はそのたびに「猫だな」とか「観るな」とか「おもしろかったな」とか適当に返事をしていた。
雑な返事をしたかったわけじゃない。どう返答すればいいのかわからなかったのだ。
「でも」
「せんぱいは、嫌ですか?」
「……あのな、真中」
こういうときだけ敬語を使いやがるのが、こいつの困ったところだ。
かすかに甘えの混じった声音。わかっててやってる。そうわかっていて、それでも弱る。
「嫌とか、嫌じゃないとかじゃない。そうじゃなくて、潮時だったんじゃないかって言いたいんだよ、俺は」
「なにが?」
とぼけたふりをして、真中はまた首をかしげる。
結局俺は言いよどんでしまう。
嫌ですか。
嫌だとか、そういうわけじゃない。
ただ、不可解なだけだ。
◇
真中柚子と三枝隼は付き合っている、というのが、中学時代は周知の事実だった。
三枝隼。さえぐさしゅん。俺の名前だが、なんだか別の人間の話でも聞いているみたいな気がした。
俺と真中は、それぞれが中二、中一の秋に出会い、その冬に付き合い始めた。
自他共に認めるカップル。ただし、その自他共にという言葉の、「自」の部分が虚偽申告だった。
理由はいくつもない。
真中が困っていた。俺は暇をしていた。真中は俺を都合の良い人間だと思った。
真中を助けても俺は困らないと思った。利害の一致というほど大袈裟な話でもない。こっちは面白半分だったし、あっちは必要に駆られてだった。
真中は、こういう言い方がふさわしいかはわからないが、かわいかった。
自然で落ち着いた振る舞い、どことなく愛らしい仕草。
普通なら子供っぽく見えるだけのはずのスケールの小さな体さえ、容姿と線の細さが相まって、女の子らしい魅力に見える。
真中と同じ小学校に通っていた後輩は、「小六のとき同じクラスだった男子は、全員一度は真中に告ってました」と教えてくれた。
「そりゃすごい」と俺は素直に思った。なかなかできることじゃない。
そこまで来ると、もう容姿とか性格とかの問題じゃない。
男子の中で「かわいい」とされる女子というのは、不思議なもので、そんなにかわいくなくてもかわいいと思われてしまうのだ。
クラスだとみんなに人気の女子の写真を、他の学校の男子に見せたら「そうでもない」と言われるなんてよくあることだ。
そういう補正にくわえて、真中は実際かわいかった。
そんなわけで、彼女は中学に入ってからも大層モテた。あやかりたいものだ。
それで困ったことが起きた。
小学校の頃からそういうことはあったらしいが、まず女子にやっかまれた。
もちろんそんなにあからさまな嫉妬なんて見苦しいだけだから、女子だって分かりやすくいじめたりはしない。それでもやっぱり避けられたりはしていたみたいだ。
次に、小学校の頃とは違って、断っても引かない奴が現れた。
ラインを強引に聞き出して連日メッセージを送ってくる先輩もいたし(俺の知り合いだった)、
「そんなこと言わずに一回でいいから遊びに行こうよ」としつこく誘う同級生もいた(部活の後輩だ)。
それは別に責めるようなことじゃない。そのくらいの押しがあっても悪くないと思う。でも、こと真中に限って言えば、そういうのは逆効果だった。
真中は不器用な言葉と表情で、そういう誘いを必死に断り続けた。
さて、その結果、真中は男女双方からあまり良い目では見てもらえなくなった。先生たちからでさえそうだった。
女子の間では「男をたぶらかしている」「色目を使っている」「とっかえひっかえ」と噂された(真中に言わせれば、全部「ひどい言いがかり」だ)。
反対に男子の間では、「お高くとまっている」「ちょっとかわいいと思って調子に乗っている」「男を馬鹿にしている」他多数。
厄介だったのが、そんな状況でも真中を好きになる男子は後を絶たず、そのせいで余計に真中の評判が下がっていく一方だったということだ。
俺はその頃、校内の事情に疎かったから、そんなことはまったく知らなかった。
「一年に生意気な女子がいる」「あいつは調子に乗ってる」と友達に言われれば、
真に受けて「へーそうなの。そりゃすごい一年がいるもんだなあ」と困惑顔を作ったりもしていた。
最初の頃は「困るなあ」としか思っていなかった真中も、仲の良かった友達に避けられるようになったあたりで事態を深刻に受け止めた。
このままでは自分にとって大切な、何か重大なものまで壊れてしまう。
わたしが言っていないことをわたしが言ったことにされ、わたしが思っていないことをわたしが思っていることにされてしまう。
そんなつもりはない、そんなことは考えていないと、彼女がいくら訴えたって無駄だっただろう。彼女自身もそう気付いていた。
万人に共有された幻想は真実とほとんど同義だ。
この病は時間の経過と共に悪化していく。
どうにかしなければ、と真中は思った。
状況は日に日に悪くなる一方だ。
どんな解決策がありうるだろう?
彼女は特効薬を求めていたが、そんなものはいくら考えたって出てこなかった。
そこで登場したのが何を隠そう俺だった。
といっても、真中との出会いはただの偶然だ。
ある日の放課後、彼女が動物小屋のうさぎをひとりで見つめていたのを見つけて、なんとなく声をかけただけだった。
最初は警戒されていたけれど、それをあんまり気にしないでいたら、最後には諦められたようだった。
それで何度か話すようになって、まあ顔見知りから知り合いくらいまでにはランクアップしたかな、という頃。
いろいろ事情を聞かされて、俺はなるほどなあと思った。
それで、提案したのは真中だった。
「ね、先輩。わたしの彼氏のふりをしてくれませんか?」
とっても困っているんです、と彼女は言っていた。
どうして俺なの、と訊ねた。彼女は頼りなさげに笑った。
自暴自棄になったような、弱りきった微笑みだった。
「だって、先輩は、わたしのことを好きにならないと思うから」
ねえ、だめですか。
いいよ、と俺は言った。
早まったとは思っていない。
真中はそのとき、本当にまずそうだったから。
翌週にはその話が学校中で噂になっていた。そのくらい、真中の話はもともと広まっていたのだ。
樹の根のような深さと強固さで、変幻自在にあちこちに張り巡らされ、どこにいても誰といても、彼女はそういう目で見られ続けていた。
俺と真中はひとつの嘘をつくことで、その根を全部新しいニュースに塗り替えた。
もちろん、全部が一気に変わったわけじゃない。けれど、そこからは真中にとって少しくらいはマシな方向に動き始めた。
毒をもって毒を、嘘をもって嘘を制した。
俺は、誰にも、本当のことを話さなかった。ちどりにも、純佳にも、実は嘘なんだよ、とは言わなかった。
敵を騙すにはまず味方から。ほころびはどこから生まれるかわからない。
そして今も尚、その嘘は続いている。
もう、三年目になる。
俺たちは一緒に出かけたことすらない。手も繋いでいない。
嘘の付き合い。偽装カップル。虚構の関係性。
茶番は今も続いている。
嫌だとか、そういうわけじゃない。
ただ、メリットが、もうどこにもないような気がするのだ。
結局俺は何も言い出せなかったし、真中もその話題には触れようとしなかった。
そのようにして俺たちはそのまま別れた。
頭を切り替えなきゃいけない。今日はバイトだ。
◇
バイト先の店につくと、店は仕事帰りの(あるいはこれから出勤の)人間で混雑していた。
すぐに制服に着替え売り場に出る。一年もやっていると、さすがに時間帯ごとの空気のようなものにも慣れるものだ。
ホットフーズが飛ぶように売れ、陳列されていた弁当は片っ端からなくなっていき、パンの棚はそこらじゅうが歯抜けになる。
せわしなく働いているうちに時間が過ぎて、そうこうしているうちに新しい商品が納品され、今度はそれを陳列する業務が始まる。
客の流れが落ち着いて、商品の補充が終わったあと、ようやく話をするだけのゆとりが生まれる。
「今日は、特にバタバタしたね」
一緒のシフトだったのは、二年くらい前からここで夕勤をしているフリーターの男の人だった。
どうしてフリーターなのかは知らない。夜勤じゃない理由も知らない。人にはそれぞれ事情がある。
この男の人のことが、俺はあまり得意じゃない。
存在感が希薄というか、背景が見えないというか。
見た目はいたってまともな好青年という感じなのに、醸し出す雰囲気が、得体も知れず不可解だ。
「片付け終わったら、ちょっと休憩してきていいよ」
そう言われて、思わず戸惑った。
「いや、でも俺、時間的に休憩ないですよ、今日」
「いいよ。ちょっとくらいなら回せるし、べつに登録する必要もないから」
「……はあ」
商品と一緒に納品されてきた備品や消耗品を整理しながら、俺は曖昧に頷いた。
まあ、このくらいゆるい方がやりやすいのだけれど、悪いことをしている気分になる。
「新学期、どうだい」
「どう、と言いますと?」
「いや、具体的な質問じゃないから困るけど、全体的に、どうかなって」
「具体的じゃない質問ほど答えにくいもんはないですよ」
「ああ、うん。おっしゃるとおりだね」
「でも、まあ、調子は……どうでしょうね」
悪いと言えば悪い。普段どおりと言えば普段どおり。
良いとは、言いにくいかもしれない。
「先輩は……」
と、俺は彼のことをそう呼んでいた。
「どうですか?」
「なにが?」
「調子です」
「ん。……んん。どうかな。俺はほら、平坦だからね」
平坦。そんな感じもした。
それ以上、話は膨らみそうもない。
「そういえば、今日、変なことがあったんですよ」
ふと思い出したことが、思わず口をついて出た。
「変なこと?」
「はい。自分でも、白昼夢でも見たんじゃないかって思うんですけど……」
「おもしろそうだね。何があったの?」
「今朝、学校に遅刻して……それで、諦めて、学校につながる坂道を歩いてたんです」
「坂道?」
「ええ。で、登りきった先に、校門があって、傍に大きな桜の木があるんですけど」
「桜」
「はい。それで、一瞬だけなんですけど……女の子が」
そこまで言ってから、さすがに、口ごもってしまう。
俺は今何を言おうとしてたんだろう。
女の子の姿を見たんです、幻なんですけど、なんて言ったら、からかわれるのがいいところだ。
「……女の子が?」
ちょっと気付くのが遅かった。先輩は、もう最後まで聞く準備ができているらしい。
「……女の子の姿を見たんです。でも、次の瞬間には、いなくなってた、っていう」
「……いなくなってた?」
「はい。……白昼夢だと思うんですけどね、自分でも」
「ふうん。おもしろいね」
「そうですか? 自分で言うのもなんですけど、俺が他の奴に同じ話をされたら、ちょっと笑いますよ」
「でも、見たんだろう?」
「まあ、見えた気はしました」
「だったら見えたんだよ」と彼は言った。
だったら、という言葉の意味がわからなくて、俺は戸惑った。
「どういう意味ですか?」
「世界は脳の中にあるから」と彼は言う。
「だから、きみが見た気がするものは、きみが見たものなんだと思うよ」
説明されても、やっぱりよくわからない。
「……実は、二回見たんです」
「二回? その女の子を?」
「はい。一度目は、さっき言った校門の桜の木の下。二回目は、昼休みの屋上で」
「へえ。変なところにいるんだね」
「……」
「その子、なにか言ってた?」
「……」
何の含みもなさそうに、先輩は訊ねてくる。
俺は、さすがに口を噤んだ。
なんなのか、わからないけれど、この人のこういうところがおそろしい。
「……先輩って、ちょっと変わってますよね」
「そうでもないと思うけどな」
「言われませんか?」
「言われないね。まあ、仮に思ってても、直接言う人間っていうのもなかなかいないと思うけど」
そうかもしれない。
「でも、きみの目に僕が変わって映るとしたら……」
先輩は、いつもみたいに何気なく笑った。
「それは、きみの目が変なんだと思うよ」
……そう、かもしれない。
――ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね。
――あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?。
―― そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?
……。
「休憩、してきていいよ」
「……はい」
今度は、遠慮はしなかった。
急に、頭がくらくらしているような気がした。
結局、その日はそのまま、さしたる問題も起きずに、バイトを終えた。
先輩は、それ以上は何も訊いてこなかった。
◇
家に帰ると、純佳がダイニングの椅子に座り、テーブルに突っ伏して眠っていた。
ちょっとした悪戯心が湧いて、声をかけずに歩み寄り、彼女の耳をつまんでみる。
「ん……」
くすぐったがるみたいに、純佳は眉を寄せて身じろぎした。
すぐ起きてしまうかと思ったら、案外深い眠りについているらしい。
暗い帰路を歩いてきた身としては、少し寂しいような気もする。
純佳をそのままにしておくことにして、
夕飯代わりにもらってきた廃棄の弁当をレンジで温め、その間にやかんに火をかけた。
インスタントの味噌汁でもないよりはマシだ。
ちょっとやそっとの物音では、純佳は目覚めそうもない。
このまま寝せておいてもいいが、まだ夜は冷える。風邪でも引かれたらよくない。
とはいえ、すぐには起こさずに、俺は純佳の正面に座って、ひとまず弁当を食べることにした。
今日の課題のこと、それから、『薄明』用の原稿。
やらなきゃいけないことはある。それをこなしていかなければ。
両親も、そろそろ帰ってくる頃だ。洗い物はまだやっていなかったようだし、早めに食べて終わらせてしまいたい。
そう思って弁当をかきこみ、食べ終えたところで、純佳が目をさました。
「おはよう」と俺が言う。
「おかえりなさい」と彼女が言う。
「……寝ちゃってたみたいです」
「四月だし、疲れてるんだろ」
「そうかもしれないです」
「今日は早めに寝るといい」
「そうします」
寝ぼけた声でそう言ってから、純佳は小さくあくびをした。
彼女がシャワーを浴びるというので、俺は洗い物をして、ひとり自室に戻ることにした。
夜は暗い。
今日出た課題のことを考えるより先に、部誌の話を思い出した。
部誌『薄明』。一学期中。まだ始まったばかりだとはいえ、ぼーっとしていたらあっというまに終わってしまう。
まさかギリギリに発行するわけにもいかないだろう。
試験だってある。ゴールデンウィークが終わる頃までには、なんとか方向性を掴んでおきたいところだ。
文章。文章か。
少しだけ考えようと思ったけれど、結局やめにしてしまった。
そして、自分の部屋の中を見回してみる。
小さな本棚に並ぶ雑誌と文庫本、何枚かのCD。
何もかもが他人事みたいだ。まるで他人の部屋に感じる。
どうしてだろう。いつからこうなったんだろう。
そんなことを考えていても仕方ないので、今度は部屋を見回すのをやめ、部誌の原稿の内容を考えることにした。
いつもそうだ。
なにかが嫌になったらなにかに逃げて、逃げた先で嫌になったら別のなにかに逃げる。
ライオンから逃げ出した男が、その先で切り立った崖と荒れ狂う高波に出会ったとしたら、
彼はライオンの口の方へと引き返すのだろうか。
そんなたとえ話を思い出す。
そんな思いつきごと放り投げる。
――でも、きみの目に僕が変わって映るとしたら……それは、きみの目が変なんだと思うよ。
……今日は、さんざん人に好き勝手言われた日だった。
自分がどうしてこんなありさまになっているのか、やっぱりよくわからない。
何かが欠けている気がするのに、それがなんなのかわからないなんて、
そんなの、結局、単なる思いすごしなんだろうか。
真中と付き合っているふりなんてしているのも、
ちどりに距離を置かれてそのままにしているのも、
純佳に甘えてしまうのも、
大野のゴーストライターをやっているのも、
文章なんて書こうとするのも、
結局全部同じ理由だ。
何をしていいのか、何がしたいのかわからないから、流れに身を任せているだけだ。
携帯を取り出して、誰かに連絡をしようと思った。
とりあえず、最初に思いついた相手が瀬尾だったので、
「ばおわ」
とだけメッセージを送ってみる。
「日記帳にでも書いておきなさい」とすぐに返信が来た。
「じゃあ今度から瀬尾に向けて言うべきことは全部日記帳に書いておく」
「片恋の歌みたい」
「調子に乗るな」
「まあ青葉ちゃんはかわいいから副部長が惚れちゃうのもしかたない」
「調子に乗るなと」
「いや~モテちゃうもんな~困ったな~ホント。彼女持ちにモテてもなー」
イラッとしたので、ボイスメッセージ機能を起動して「人の話はちゃんと聞け」と怒鳴った。
「うるさい!」とボイスメッセージが返ってくる。ノリの良いやつだ。
「今日の晩飯なに食った?」
「おさしみ」
「タコたべたい」
「わたしタコきらい」
「おまえの好みなんて聞いてないんだが?」
「わたしが副部長の質問に答えたと思うなんて思い上がりもいいところだよ」
「やっぱりサーモンだよね」と追い打ちが来る。
「サーモンだな」と適当に返事を返すと、数分後、画像が送られてきた。
牛乳プリンだった。
「これより食す」
「太るぞ」
「太らないんだなーこれが」
「俺もたべたい」
「知りません」
返信を考えるより先に、また追撃。
「なんかあったの?」
俺は一瞬戸惑った。
「なんかって?」
「だって、そっちから連絡よこすなんて珍しいし」
「いやまあ」と、返信ではなく、思わず声が出た。
まあ、たしかに珍しいのだが。
返信しないでいると、音声通話の着信が始まる。
少し迷って、俺は出た。
「やあ」と瀬尾は言う。
「……やあ」と俺は返事をした。
「なんか、最近暗いねえ?」
「まあ、否定はできないけど」
「あは。変なの」
「なにが」
「さっきまでばかみたいなこと言ってたのに、声が真面目くさってるから」
真面目くさってるとはなんだ。
「根が真面目だからな。どうしても出ちゃうんだよな」
「そうなんだ。ふーん」
どうでもよさそうな声音に、してやられたような気持ちになる。
弱みを見せている気がする。
「寂しいの?」
と、なんでもないことみたいに、瀬尾は言う。
それは図星だったんだろうか。
「……そんなわけない」
「ふうん? ね、副部長」
「……なんだ」
副部長、と呼ばれるたびに、未だに違和感がある。
すっかり定着してしまったが、前までは苗字で呼ばれていたから。
「寂しいならさ、ゆずちゃんに連絡しなよ」
瀬尾はそういうしかないか。
困らせているのかもしれない。
「真中とは……」
と、言いかけて、やめた。
それを瀬尾に説明して、いったい何になるっていうんだろう。
どうもよろしくない。
「……あのさ、瀬尾。ちょっと聞きたいんだけど」
「ん?」
「前に、ましろ先輩だったかな。誰かが話してたのを聞いた覚えがあるんだけど……。
桜にまつわる七不思議みたいなのって、うちの学校にあったっけ?」
「桜?」
「そう。桜の木の下の……」
「守り神?」
「……そんな話だったっけ?」
「精霊だったかな。わかんないけど。女の子のやつでしょ?」
「そう。どんな内容だったっけ」
「わたしもあんまり覚えてないんだけど……」
「異境、って、言ってなかったか?」
「イキョウ?」
「うん。異境」
「異郷って、遠くの土地って意味だったよね?」
「そう、その異郷でもあるんだと思うんだけど……ちょっとニュアンスが違う。異界って言うのか?」
「ちょっとファンタジーなお話?」
「守り神もそうだろ」
「そうだったそうだった。なんで急にそんな話?」
「……いや、どんな話だったかなって、気になっただけ」
「ふうん。でも、たいした話じゃなかったと思うよ」
電話の向こうで、何かを整理しようとするみたいに、「んーと」と彼女は息をつく。
「たしか、だけど、うちの高校の桜には、精霊? 守り神? みたいなのがいるんだ。
女の子の姿をしてて、ときどき、その子に出会う生徒がいるんだって」
「……ありがちだな」
「そう。漫画なんかだとありがちだけどね」
「いまなにか食べてる?」
「プリン食べてるってば。なんで?」
「いや、そんな感じがしたから」
「へんたい」
「なんでだ」
「ま、それはそれとして。その子は、学校で起きてることは、なんでもわかってて、誰の気持ちでも知ってるんだって」
「なんだそれ」
「知らない。それで、人知れず恋の手助けなんかをしてるって話だったと思うけど」
「恋の手助け、ね」
本当にありがちな話だ。
「副部長がそんな話に興味を持つなんて意外だな」
「なんで?」
「だって、ばかにしてそうだもん。リアリストっぽいし」
「りありすと……」
かっこいいワードが出てきた。悪い気はしない。
「オカルトとか、星占いとか、嫌いそうなのに」
「まあ、別に興味があるってわけでもないんだけど、否定もしてないぞ」
「そうなの? 幽霊とか、超常現象とか、信じる方?」
「信じる信じないという言い方が正しいかはわからないが……中には本当もある」
「……ん」
まずいと思って、付け加えた。
「……かもしれない、とは思っている」
「あ、うん。まあ、そうだね。そういう言い方をするとね」
でも、と瀬尾は続けた。
「その、イキョウっていうのは、わたしは聞いたことないな」
「……分かった。悪かったな、変なこと聞いて」
「べつにいいよ。暇だったし。そういえばなんだけど、あの、幽霊部員の子」
「うん?」
「どんな子だった?」
「どんなって……」
――三枝くん、べつに書きたくなかったんでしょう?
「……まあ、変わった子だったな」
「そっか。なら安心だね」
「何が?」
「だって、うちの部には風変わりな人しか集まらないもん」
楽しそうに、瀬尾は笑う。
俺も思わず笑ってしまった。
不意に、ノックの音が聞こえて、扉が開けられた。
「兄、お風呂空いたから、早めに……」
「あ、うん」
「あ、電話中でした?」
「うん……。あと、もう入るよ」
「ごめんなさい。わたし、もう寝るので」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
扉が閉じられて、部屋が静かになる。
「今の、妹さん?」
「ああ」
「ふうん。かわいい声してるね」
「うん。声だけじゃないけどな」
「うわ、シスコンだ」
「べつに否定はしない」
「そうなんだ。仲良きことは美しきかなですね」
ふあ、と、瀬尾はあくびをした。
「ごめん……あくび出た」
「いや。悪いな。長々と」
「ん。いいよべつに、暇だったから。電話かけたのわたしだし」
そういやそうか。
「んでも、そろそろお風呂入って寝ようかな。副部長も早めに寝た方がいいよ」
「ああ。そうするよ」
どうせ、なかなか寝付けないのだけれど。
「あ、そうだ。副部長」
「ん」
「もっと、楽しんだほうがいいよ」
じゃあね、と瀬尾は言う。ああ、と俺も頷く。
瀬尾と電話なんてしたの、そういえば初めてじゃないだろうか。
彼女と話して、いくらか気分はマシになった。
純佳に言われたとおり、風呂に入ることにして、それからまた自室に戻る。
夜は暗い。夜は長い。夜はおそろしい。
さっき、瀬尾に聞き咎められそうになったことを、自分で思い返す。
超常現象を、信じるか。
まさか、巻き込まれたことがあるなんて言えるわけがない。
夜が怖いのは、そのせいかもしれない。
もっと、楽しんだほうがいいよ、か。
たしかに、そうかもしれない。
◇
翌朝は、純佳は当たり前に起こしてくれた。
「ありがとう」と言うと、「どういたしまして」とそっけない。
結局昨夜もあまり眠れなかった。
周囲にまぎれて学校までの坂道を歩きながら、今日のことを考える。
もっと楽しんだほうがいい、と瀬尾はいうけれど、どうすればそうしたことになるのかがよくわからない。
真中のこと、ちどりのこと、考えることが、たくさんあるような気がする。
そういうのを全部放り出して、眠っていられたらそれで幸せなはずなのだけれど。
と、そんなことを考えながら歩いていると、前方を歩くひとりの女子生徒に目がとまった。
更に前方を歩く男女一組の様子を、うかがっているように見える。
二人組の方は、ずいぶんいい雰囲気だ。
横恋慕だろうか。
と、考えた瞬間、ストーカーっぽい女の子がこちらを振り返ってじとっと睨んできた。
彼女は俺が追いつくまで、ずっとこちらを睨んでいた。
そして、声が届く距離まで近付くと、
「失礼なことを言わないでください」
と不服げにつぶやいた。
「……何も言ったつもりはない」
「でも、考えたでしょ」
俺は驚いた。
昨日の朝、桜の木の下で見た女の子だ。
昼休みの屋上で見た女の子だ。
「……守り神さんか」
「なんです、それ」
「いや。違うのか? そういう話を聞いたんだけど」
「気をつけた方がいいですよ」と彼女は言った。
「他の人にはわたしの姿は見えませんから、あなたはいま通学路の途中で突然立ち止まって独り言をつぶやき始めた危ない人です」
「……厄介なもんだな」
俺は溜め息をついた。いったいどうすりゃいいんだ。
「どうすりゃいいと聞かれましても、わたしは放っておいてほしいんです」
考えただけでわかるのか。便利なものだ。
「まあ、近くにいる人だけですけどね」
しかし、昔から疑問だったのだが、心を読むというのは不思議な話だ。
というのも、人は普通、普段行動するとき、「言葉」で考えているのだろうか。
ああ、忘れ物をしたなとか、あれを持っていかなきゃなとか、そういうことを考えるとき、
少なくとも俺は言葉ではなく映像やイメージで思い出している、考えている気がする。
それなのに、フィクションに登場する読心術者というのは、言葉を読んでいる気がする。
まさに今がそうなのだが。
「そこらへんはご都合主義ですからね」
と彼女は言う。
「わたしに見えるのは上澄みだけですから」
よくわからないことを言う奴だ。心を読まれていなかったら、電波扱いしているところなのだが。
しかし、こうなると俺の方もどうするべきか迷う。
「あ、へんなのの相手してたら前方のカップルを見失いました」
「やけに説明台詞だな」
「わたし、親切なので。あなたが邪魔だってはっきり言ってあげないとと思って」
「そういう親切さは配慮とかオブラートで丁寧に包装してようやく親切って呼べるんだ」
「無関心と善意を履き違えてるような人に親切を説かれたくないです」
耳に痛いことを言う女だ。ちょっと嫌いになってきた。
見た印象よりも、よく喋る奴だ、という感じがした。
「とりあえずわたしはさっきのカップルを追います」
「出歯亀か? あんまり良い趣味とは言えないな」
「違います」と彼女は言う。
「彼らは厳密に言うとまだカップルじゃないんです。今日が彼らの天王山」
「天王山」
「わたしは彼女の背中を押す義務があります」
「義務」
「そういうわけで、あなたに付き合ってる暇はないです」
「それ、俺に言ってよかったのか?」
しまった、という顔を彼女はした。
「じゃ、邪魔だけは。決して邪魔だけは……」
「しないよ……」
なんでこんなに嫌われてるんだ、俺は。
「あなたは信用できません。なんか、へんな気配がするから」
「へんな気配?」
「正直、この世のものとは思えません」
人間に対する形容じゃないだろ、それ。
真顔で言われるとさすがに傷つくものである。
「わたし、あなたのこと好きじゃないんです。あなただけは手伝ってあげません」
「なんで嫌われてるかな、そんなに」
「ていうかあなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。人の心は複雑怪奇の摩訶不思議」
「失礼にもほどがある」
「正直あなたみたいにスカした態度で斜に構えてる人間があんまり好きじゃないです。わたし、甲子園とか好きなタイプなので」
「どうでもいい情報ありがとう」
「いいんですか?」
「なにが?」
「さっきから見られてますよ」
俺は慌てて周囲を見回した。
何人もの生徒が、立ち止まって俺を見ている。
やっばい。
例の女は心底おかしそうにくふくふ笑っている。
非常に腹立たしい。
「……せんぱい」
と、声をかけられて後ろを振り返ると、真中が怪訝げな顔をしてこちらを見ていた。
「あ……」
「なにやってるの、さっきから」
……一部始終を見られていたらしい。
「いや……あの、真中」
俺は、一応、試しに、例の女を雑に指さした。
「ここに、なにか見えるか?」
真中は、不可解そうに眉を寄せた。
「……何かって?」
「人とか」
「見えないけど……」
女を見ると、ドヤ顔でうんうん頷いていた。
非常に腹立たしい。
「ならいい……」
「じゃあわたしはこれにてドロンしますね」
「なんだドロンって」
「せんぱい?」
ああ、厄介。
「さて、わたしは急がないといけませんね」
とたとたと走り始めた後ろ姿に、俺は声を投げた。
「おまえ、昼休みに屋上に来い、説明しろ」
「えー? 気が向いたらそうしますー」
「せんぱい、大丈夫?」
心配そうに見上げられて、さすがに溜め息が出る。
とっさのことに冷静さを失った俺が悪い。
「……ちょっと疲れてんのかもしんない」
「……そっか」
真中はそれ以上何も言ってこなかった。少しすると、周囲にいた生徒たちも校門に向かって歩き始める。
変な噂が立ったら厄介だが……いや。
どうせ遠巻きに見られるくらいが関の山だろう。気にするだけ無駄かもしれない。
それから真中は、俺に気をつかったのか、いつにもなく必死な雰囲気で話題をつないでくれた。
昨日のテレビとか、ネットで見つけた猫画像のこととか、そんな話だ。
俺は真中と別れるまで二ワードくらいしか喋れなかった。
◇
教室につくと、クラスメイトに「おまえなんかしたのか」と声をかけられる。
「なにが」
「校門で一人エチュードをはじめたって聞いたけど」
「エチュード」
練習曲。
「たぶん、おまえが想像してるやつじゃない。即興劇の方」
「ああ、ああ……」
遠巻きで眺められるだけでは済まなかったらしい。
「いや、気にしないでくれ、寝ぼけてたんだ……」
「盛大に寝ぼけたな……」
同情のまなざしで見られる方が、奇異の視線よりはだいぶマシだという気がした。
「で、なんだけど……あれ、おまえのお客さんか?」
「あれ?」
彼の視線に従って自分の席を見ると、誰かが俺の椅子に座っている。
誰かと言うか、市川鈴音だった。
「や」と彼女は手をあげる。
「……おはよう。どうした」
「ん。ちょっと伝えたいことがあって」
市川は、そうとだけ言うと立ち上がって、俺の方を見た。
「文芸部、今日からわたしも出ることにしたから」
「……ホントに?」
「なんで不思議そうなの」
「いや」
そりゃあ、俺が誘ったのだけれど。
こんなに急に、出るなんて言うと思わなかった。
「部誌、出すんでしょう? わたしも参加する」
「……まあ、そう言ってもらえると助かる」
正直、突然そういう話になるのは意外だったが、出るというならそれでかまわない。
瀬尾がいちばん喜ぶだろう。
せっかくだ、顔合わせも兼ねて、大野がいたらと思ったが、どうやらまだ教室に来ていないらしい。
俺よりも早く来ていそうなやつなのにどうしてなのだろうと思ったが、ひょっとしたら委員会かもしれない。
「今日の用事は、それだけ」
「……そっか。わかった。わざわざ悪いな」
しかし、たかだかそれだけのことを伝えるために、人の教室の他人の椅子に座って待っているものか?
俺が瀬尾に言ったことだが、本当に変わり者らしい。
瀬尾は喜びそうだけれど。
じゃあね、とだけ言い残して、市川はそのまま去っていった。
残された俺は、なんだか夢でも見ていたような気分になる。
さっきのクラスメイトに「いまの美人誰?」と聞かれたので、
「部の奴」とだけ答えた。
「いいよな。この学校の文化部美人多くて」
隣の席の女子(運動部)が、「なにをー!」と不服げに声を張り上げた。
朝からみんな騒がしい。
◇
午前中の授業が終わり昼休みになると、俺は迷わず東校舎の屋上へ向かった。
彼女がいるかどうかは分からない。
朝が弱い俺のために純佳が作ってくれる弁当の巾着をさげながら階段を昇り、いつものように鍵を差し込む。
彼女が来るかどうかは分からない。可能性としては半々くらいだろうな、と思っていた。
それこそ、朝見た景色が俺の妄想という線も未だに捨てきれない。
そう思って扉を開けたのだけれど、彼女は既にそこにいた。
「遅かったですね」
扉を開けると同時に、彼女はこちらを振り返った。こちらに背を向けて風を浴びながら、俺の方を見た。
その姿が、なんだか映画のなかの景色みたいに見える。
「……あのな」
と、俺はさすがに頭を抱えた。
「なんでいるんだよ」
「なんでって。あなたが来いって言ったからです」
「そうじゃない」と俺は言った。わかってて言ってるんだろうとは思うが、言わずにはおけない。
「鍵。閉まってたのに。なんで、もういるんだよ」
「そういう常識、わたしと会話してる時点で、一旦捨てませんか?」
そう言われてしまえば、もう考えるだけ無駄だという気もした。
まあ、いい。最悪、もう、俺の妄想だとしてもいい。
彼女の存在は、俺にはとてもリアルに感じられる。影も陰も気配も空気も声も、ちゃんと感じる。
世界に存在する他のありとあらゆるものと同様に、俺には感じられる。
仮にそれが俺の錯覚だとしても、その錯覚には意味がある、と思う。
「とりあえず、ひとつ、手始めに聞きたいことがある」
彼女は不服そうに眉をひそめた。
「あの。それ、わたしが答える義理はあります?」
「ないけど。ないけど……とりあえず聞かせてくれ」
「……まあ、聞くだけなら、かまわないですよ」
とりあえず、得るものもないまま逃げられることはなさそうだ、と、俺は少しほっとした。
「きみはいったい、なんなんだ?」
彼女は、目を丸くする。「そんなことを未だに気にしていたのか」というような。
「……なんだよ、その反応。そんなに意外な質問か?」
「いえ。あ、まあ。やけに順応性高いなあとは思ってたんですけど、へんなこと気にしてたんですね」
「順応性……」
「わりとあっさり、わたしのこと受け入れてるように見えたので」
受け入れたつもりは別になかった。ただ、そもそも冷静に考えられるような状況で遭遇していなかっただけだ。
「でも、残念ながら、わたしはその問いの答えを知らないんです」
「知らない?」
「わたしが何なのかなんて、わたしにはわからないです。それって、他の誰かが決めることだと思うから。
わたしは他の人に見られたことってあんまりないから。だから、何なのか、誰も決めてくれてないんです」
「テツガク的な話だな……」
自分を規定するものはなにか。
俺は人間だ、と言うとき、その自認を支えているのは何か。
俺自身? でも、たとえば俺が世界にひとりきりの人間だったとしたら、俺は自分を人間と呼ぶだろうか?
自分が何者であるかを規定するのは、いつだって、他者か、内面化された他者の視点だ。
他者が、自分の中に潜んだ他者の視線が、自分自身を規定する。
だとすれば、自分に対する『視線』を持たない彼女は、たしかに、何者であるとも自認できないのかもしれない。
少なくとも『当たり前』の人間ではなく、
かといって、鳥や獣や虫とも違う。
何者とも規定されていない存在。
ある意味切ない立ち位置とも言えるのかもしれない。
「名前は?」
「……ないです」
そりゃ、そうか。呼んでくれる人がいないんだから、名前だって必要ない。
「でも」と彼女は付け加えた。
「ましろは、わたしのことを、"さくら"って呼びました」
「……"ましろ"?」
「ましろじゃないです。さくらです」
「そうじゃない。いや、さくらは分かった。いい名前だ。でもそこじゃない」
「と、言いますと?」
「ましろって、誰だ?」
「ましろは、ましろです。わたしの、初めての友達です」
「それ、会ったのはいつ?」
「えっと……ましろが一年生のときです。でも、このあいだ、ましろはもう卒業なんだって聞きましたから」
ましろ先輩は、こいつが見えてた?
だったら、先輩は、こいつのことを知ってた。その上で、俺達に、こいつのことを話していたってことになる。
なんて言ってたっけ?
俺には、異境と、そして瀬尾には、守り神と言った。
だとしたら、ましろ先輩はきっと、噂について話したんじゃない。
“こいつ”のことを話したんだ。俺たちに。
「じゃあ、おまえは……人知れず、恋の手伝いをしているわけか?」
俺の質問に、ここまでで一番の満面の笑みを、“そいつ”は、さくらは浮かべた。
「我が意を得たりとはこのことです。そのとおり。わたしは今そのために生きています」
生きている、と来た。本当か?」
「あの、ひねくれ者のあなたにはわからないかもしれないですが……わたし、思うんです」
「はあ」
「世界は……愛に満ちているって」
「……はあ?」
酔いしれるように瞼を閉ざし、彼女は夢見るような口調で呟いた。
「世界は、愛に満ちているんです」と彼女は続けた。
「郵便ポストも信号機も、学校も町役場も、電信柱もアスファルトも、みんな愛なんです」
自信たっぷりの声音でつぶやくと、彼女は「どうだ」と言わんばかりの顔で俺を見た。
電波にしか聞こえない。
「……そうかな」
「……不服げですね?」
「俺には、悪いけど、そんなふうには思えない」
「……ふうん。そうでしょうか?」
さくらは複雑そうな顔をした。
寂しそうに見えるのは、どうしてだろう。
「俺には、世界は……」
世界が、空虚に見える。
あるいは、
世界が“空虚”で充溢しているように見える。
“空虚”によって“満たされている”ように見える。
「おそらくこれは、視点の相違という奴ですね」
さくらはそう語る。
「そういうことになるだろうな」と俺も言う。
そして俺たちは、どちらも間違っている。どちらも偏っている。
そういうものだ。
さくらはそして、にっこり笑った。
「だったら、わたしが思い出させてあげます」
「……何を?」
「からっぽなあなたに、からっぽじゃなかった頃のあなたのことを」
それは歌うような声で、俺は思わず、信じたくなってしまった。
このからっぽの正体を、こんな幻覚じみた存在に、確認してほしくなった。
だから、
「できるもんならやってやがれ」
と、俺なりの挨拶をした。
◇
拝啓ましろ先輩へ。
おひさしぶりです。
そちらの調子はどうですか?
文芸部の部員は揃いました。
思惑通りですか? したり顔の先輩を想像すると、ちょっと悔しい気持ちがあります。
ひとつ、質問したいことがあります。
「さくら」という少女に会いました。
先輩は、彼女のことを知っていたんですか?
◇
拝啓、愛しの後輩くんへ。
ひさしぶり。こちらは相変わらずです。
わたしは何も企んだりしてないよ。失礼な子ですね。
でも、部員が揃ったならよかったです。
さくらのこと、よろしくね。
わたしの大事な友達だから。
それが鍵の代金です。
よしなに。
◇
その日、授業が終わると同時にさくらが俺の教室にやってきて、
「善は急げです」とばかりに俺を急かした。
何の話だ、と頭の中だけで問いかけると、「今日が彼らの天王山なんです」と要領を得ない答えが返ってくる。
そう言われてようやく思い至る。そういえば、朝にそんなことを言っていた。
例の二人か。背中を押してやらないといけない、と言っていたっけ。
俺はさくらの存在をとりあえず無視して、廊下へと向かった。
「無視しないでください」と言われるが、返事をしている余裕もない。
「なあ」と後ろから声をかけられる。大野だった。
「今日も俺、図書室に行くけど……」
「ああ」と俺は頷いた。
「いいんじゃないか」
「……瀬尾、なにか言ってたか?」
「なにかって?」
「怒ってたりしたかと思って」
どんな心配をしているんだろう、と少し呆れる。
「まさか。なんでだよ」
「……いや、怒ってなかったならいいんだけどな」
ひとつ溜め息をついて、話を変えた。
「今日から、幽霊部員が顔を出すかもしれないって」
「幽霊部員? 前言ってた子か」
「うん。なんでかは知らないけど、乗り気になってくれたみたいだ」
「そっか。分かった。俺はいけないけど……いや」
大野は、ちょっと気まずそうな顔をする。
「どっちにしても、部誌の件は役に立てないだろうしな」
「そんなことないだろう。図書新聞の編集だってやってるんだろ」
「そりゃ、みんなでやってるだけだよ。できることがあったら、まあ手伝うけど」
「みんなできるをそれぞれにやってるだけだよ」
「……まあ、そうか。じゃあ、まあ、瀬尾に謝っといてくれ」
「何について?」
「……ああ、うん。そうだな。部活に出れないこと、かな」
「了解」
それだけの返事を聞いて、大野は図書室の方へと歩いていった。
さて、と俺はさくらの方を見る。
それで、と頭の中だけで訊ねる。
天王山がどうしたって?
「今日が彼らの天王山なんです。あなたにも手伝ってもらいます」
……やっぱり、頭の中で考えていることを読まれるというのはやりづらい。
移動するぞ、とそれだけ脳内で話しかけると、さくらは黙って頷いた。
校舎の端側、あまり使われていない南側の階段を昇り、踊り場へと向かう。
窓から中庭の様子がうかがえる。今日も今日とて、放課後を迎えた生徒たちが喋ったり遊んだりしていた。
憩いの場という奴だろう。
うちの学校は、部活動も強制ではないので、帰宅部の連中がけっこう多い。
バイトをしたり遊んだりと、何をしているかはさまざまだ。
自習室もあるし、図書室は夕方まで開放されているから本を読んだりもできる。
中庭や渡り廊下など、いろんなところにベンチがあったりするので、話し場所には困らない。
案外便利な空間と言えるのかもしれない。
「それで、手伝ってもらうってどういうこと?」
「だから、あなたにも手伝ってもらいます」
「どうしてそうなる?」
「わたし、思うんです。人間は何かをしていないと腐っていく生き物だって」
「腐っていく」
「そう。何かをしていないと、腐っていく。だから、何かしないといけない」
「……」
「見るところ、あなたは腐敗してます」
腐敗。
「……突然ひどい言いようだ」
「だからあなたは、何かをするべきなんです」
腐敗。
何かをしないと、人は腐っていく。
そのとおりかもしれないと思った。
何もしないでいると、倦んでいく。
ただ思考だけに絡め取られて、何も見もせずに、わかった気になってしまう。
汗もかかずに自分について知った気になってしまう。
本当は何もしたことがないくせに。
そして最後には、何もできなくなっていく。
今の俺みたいに。
なにかしなければと思うのに、なにもできないで空回りしている。
ハムスターの回し車みたいに、からからからから回っているだけだ。
かざぐるまであったならば、まだしも誰かの慰めにもなっただろうが。
「だから、あなたに手伝ってもらいます」
「あのさ。俺、これから部活があるんだけど」
「後回しです。あと十分で始まります」
「……後回しって。始まるって何が?」
「彼女の天王山です。今日、彼女は告白するはずです」
するはず。
その言葉に、なんだか奇妙な感覚を覚えた。
それが最初じゃない。今朝話したときも、そんな感覚があったのを覚えている。
「三階の渡り廊下です。時間を決めて、彼女は彼のことをもう呼び出しています」
そうだ。
こいつ、心を読んでいるだけじゃない。未来まで見ているんだ。
ついでに、起きたことまで把握している。
これは参る。
ましろ先輩は「よろしく」と言ったが、こんな規格外をどう相手にしろというんだ?
まあ、いいや。
「告白するならいいじゃないか。見た感じ、いい雰囲気だっただろ」
「そうです。問題なく告白できれば、今日でうまくいくはずです」
「はあ」
「告白までも必須イベントもちゃんとこなしてます。一緒にお昼ご飯、一緒に下校、一緒に登校」
「それ必須イベントだったのか」
「はい。彼の悩み相談を受けて励ますところまでやっていたので、これはもうトゥルーエンド確実です」
「……そういうシステムなのか?」
「はい」
「それじゃ何が問題なんだ?」
「察しが悪いですね」
呆れた溜め息をつきながら、やれやれ、とさくらは肩をすくめてみせる。
小生意気な態度がいちいちわざとらしい。
「彼女は彼のことを呼び出しました。称えるべき勇気です。でも、ひとつ問題があります」
「それは?」
「何階の渡り廊下か、伝えてないんです」
「……はあ」
「もっと驚いてください。『なに、そいつは由々しき事態じゃないか』というふうに」
「……いや。携帯で連絡とればいいんじゃねえの?」
「ところが残念。彼女たちは連絡先をまだ交換していません」
「必須イベントこなしてないじゃんか。フラグ管理ミスってるぞそれ」
「どちらも引っ込み思案なので、どちらかが聞くという流れにならなかったのです」
「……ふむ」
彼女は、三階の渡り廊下に彼を呼び出したつもりになっている。
そして、彼は何階の渡り廊下なのかを伝えられていない。
「別々の場所で互いが来るのを待ち続けることになるってことか」
「そういうことです。そして、それが起きることを知っているのは、わたしとあなただけです」
「……」
なるほど。
由々しき事態と言えばそうなるだろう。
「状況はご理解いただけましたか?」
「ああ」
些細な行き違い。不幸な勘違い。悲しい偶然。
俺たちが生きている世の中には、そんなもので削り取られてなくなってしまう光みたいなものがある。
それは本当にそうだ。
言葉の使い方、態度の解釈、そんなもので、俺達に見えるものは簡単に変容する。
こいつはそれを正そうというのだ。
……でも、それは、それ自体は、正しいことなのだろうか?
そんな考えが一瞬ちらついたけれど、俺はもう乗り気になっていた。
「おまえの言葉を信じようじゃないか」
さくらに向かって、俺はそんな言葉を投げた。
どうやら、俺の頭はいかれているのかもしれない。
嘘かホントか分からない、証拠も何もない話に乗るなんて。
でも、それはいつもどおりだ。
俺はいつだって、流されているだけだ。流れに身を任せて、あたりを眺めているだけだ。
だったら、今度もそれに乗ろう。
そして、この子との出会いが、俺をどこに連れていくのか、見定めてやろう。
「偉そうなこと考えてますね」と、さくらは不服げだった。
「今に、あなたから泳ぎだすように仕向けてあげますよ」
からかうような笑みが、今はなんだか心地良い。
さて、悪戯をはじめよう。
ひとまず俺とさくらは三階の渡り廊下に向かった。
あと十分で始まる、という言葉のとおり、彼女は既にそこに立っていた。
放課後になってすぐだというのに、行動が早い。
いかにも手持ち無沙汰というふうに、何度も服の裾を伸ばしたり前髪を手ぐしで整えたりしている。
「なんと尊い姿でしょう」とさくらは感心した。まあその気持ちは分からなくもない。
なんで最初にこっちに来たんだ、と俺はさくらに訊ねた。
「一応来ているかどうかの確認です。能力不足は足を動かすことで解決していくんですよ」
校内で起きることならだいたい把握しているんじゃないのか、となんとなく思ったけど言わずにおいた。
「わたしはそんなに万能じゃありません」と彼女は言う。
言わなくても聞かれているんだった。
「ルンバみたいなものだと思ってください」
「ルンバ?」
近くにあるものには反応するが引っかかったり絡まったりするし、階段を昇ったりはできないって意味か?
いや、ルンバについて詳しく知っているわけではないから、イメージだけれど。
「得意ではあっても行き届かない場所があるという意味です」とさくらは付け加えた。
「なるほどね」と俺は声に出してしまった。
瞬間、渡り廊下の中央あたりに立っていた女の子がバッと顔をあげてこちらを見る。
目が合ってしまい、思わず俺は顔をそらした。
「なにしてるんですか」とさくらは言う。
いや、なにって。ちょっとびっくりしちゃったんだよ。
「ここで踵を返したら逆効果です。不審がられないように通り抜けてください」
そうか、と頷いて、俺はさくらの言う通りに彼女の脇を通り抜けて東校舎に抜けた。
振り向くことはできなかったけれど、
「どうやらあまり怪しまれずに済んだようですね」
とさくらが言ったので、無事やり過ごせたらしい。
俺はそのまま階段を降りた。
ちょっと気になるんだけど、と頭の中でさくらに呼びかける。
「なんですか?」
今回は俺がいるからいいにしても、おまえ、普段はいったいどうやって……縁結び? みたいなことしてるんだ?
「縁結びですか。かわいい表現ですね」
反応してほしいのはそこじゃない。
「一応、わたしは姿を表すこともできますから、そうすることもありますし、でも繰り返しているとそのうち誰かに気付かれそうですから……」
こういうふうに手伝ってもらうこともあります、と彼女は言う。
「それって……」と口に出しかけて、慌てて引っ込める。幸い傍には誰もいなかったらしい。
それって、これまではましろ先輩にしてもらってたってことか?
「ましろは良き協力者でした。あなたみたいに迂闊でもなかったし、理解も早かったし、頭も切れました」
感慨にふけるような言い回しに、思わずむっとするが、今はそんな場合ではない。
階段を降りて、渡り廊下を覗き込む。
「まだ来ていないようですね」
「さっき、あと十分で始まるって言ってなかったか?」
「たぶん、さっきからまだ八分くらいしか立っていませんよ」
「そうかい」
どうでもいいやと俺は思った。
「どうでもいいとはなんです」と突っ込まれるのがいちいち不便だ。
とにかく、俺達は渡り廊下の様子をうかがう。
二階の渡り廊下に、市川鈴音の姿はない。部室にいっているとしたら、市川も瀬尾も真中も気まずい思いをしていることだろう。
さっさと終わらせてしまいたいものだ。
「そうやって目の前の出来事に集中しないのはあなたの悪癖です」とさくらは言う。
「改めてください」
そうはいうけどな、と俺は考える。
俺たちは今現在のことだけを考えるだけでは上手に生きていくことができないんだ。
過去を参照し、未来を予測し、そうやってはじめて地に足の着いた生き方ができるってものなんだよ。
「あなたの場合は今から目を逸らしているだけじゃないですか」とやはりさくらは刺々しい。
「少し気をつけてくれ」と俺は口に出して言った。
俺の心は繊細なんだ。
さくらは俺の言葉には応じずに、渡り廊下の向こうに目を向けた。
「来ました」と彼女は言う。
たしかに来ていた。
男子生徒。朝、見かけた二人組のうちの一人。
ああそうだったと俺は思った。たしかこんな顔をしていた。
人の顔を覚えるのは得意じゃない。
再び見たときに、誰かに言われてようやく、ああそうだった、こんな顔だったと思うくらいだ。
俺は一旦渡り廊下を覗ける位置から離れ、廊下の柱の影に座り込んだ。
「それで、どうするんだ?」
「どうするといいますと?」
「どうやって二人を会わせるんだ?」
「教えてあげればいいじゃないですか」
「教える? 何を?」
「待ち合わせの相手は三階の渡り廊下で待ってますよって」
「……いや、いやいやいや」
そんなのおかしいだろう。
待ち合わせはふたりの約束で、たぶん彼女は誰にも話していない。
俺がその情報を知っているのはおかしい。
第一、俺は彼らの名前も知らないのだ。
「ましろはやってくれましたよ」
「あの人は……」
そういうんじゃないだろう。
あの人は、ましろ先輩は、ちょっと特殊だ。
見通すような目、何もかもを理解しきっているような、不思議な目。
これから起きることを知っているみたいな顔を、ときどき彼女はしていた。
――――。
思わず、さくらの方を見た。
「……ましろ先輩は」
そうか。
知っているような顔をしていたんじゃない。
彼女は知っていたんだ。
ときどき彼女に心を読まれたような気分になるときがあった。
彼女が未来を見ているような気分になるときがあった。
彼女にはかなわない、と何度思ったかわからない。
でも、それは気のせいなんかじゃなくて、彼女は、本当に知っていたんだ。
さくらを通して、知っていた。
「……ましろの名誉のために言いますが、彼女はけっして無神経なことはしていませんでしたよ」
それに、とさくらは付け加える。
「わたしがあの子に教えたことだって、大雑把なことくらいです。いつもより落ち込んでますねとか、良いことがあったんですよとか、そんなところ」
「……」
「もちろん、協力してもらうときはそれだけではありませんでしたが、でも、ましろはもともと聡いところがあったので」
なるほど。
だとしたら、やれるかもしれない。
つまり、俺がすべきことは、詐欺師の真似事というわけだ。
ましろ先輩のように振る舞えばいいわけだ。虚仮威しでもかまわない。
何もかも見通しているような顔をすれば、それでいいわけだ。
「ちょっと、楽しそうじゃないか」
「楽しんでもらえて何よりです。お主も悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」
さて、だとすると、やることは決まった。
俺は立ち上がり、渡り廊下の様子をうかがった。
男子生徒は、携帯を取り出して、なんだか困ったような顔をしている。
時計を確認しているんだろう。
コホン、とひとつ咳払いをして、ゆっくりと身だしなみを確認し、俺はなるべく堂々とした態度で渡り廊下に近付いていく。
渡り廊下の入り口付近で、彼がこちらに気付くまで待った。
やがて、男子生徒は俺を見た。
なるべくおどおどとしないように、俺は彼の目をまっすぐに見返す。
そして、言う。
「ここじゃないよ」と。
怪訝げな顔を、彼はした。俺はひるまないように自分を鼓舞した。臆病な性格が今だけ疎ましい。
なりきれ。
そうだ。
これが『鍵』の代金なんだ。
俺は、ゆっくりと、なるべくゆっくりと、でも自然に見えるように気をつけながら、右手を顔の横にあげて、人差し指で上を指した。
「三階だよ」と、俺は、低めの声で呟く。震えたらどうしようと思ったが、俺も俺なりになかなかの役者らしい。
何の話かわからない、というふうに、彼は俺を見た。
「いい感じですよ」とさくらが言う。
そうだ。
俺は知ったかぶりをしてるわけじゃない。
知っているのだ。
だったら、怯える必要はない。
「あの子がいるのは、三階だよ」
「……あの、あんた、誰?」
「早く行ってあげなよ」
「……」
まだ、信じられないような顔をしている。
「あの子、泣きそうな顔できみが来るのを待ってるんだぜ」
それだけ言うと、俺は渡り廊下を後にして、階段を降りた。
追われたらどうしたもんかと思ったけれど、そうはならなかった。
階段を昇る足音が聴こえて、少しホッとする。
「とりあえずこんなもんか?」と訊ねると、「上出来ですよ」とさくらは言う。
「ましろほどじゃありませんが、まったく不向きというわけじゃなさそうで安心しました」
「でも、次顔を合わせたときが不安だな。何か訊かれたらどう反応すりゃいいんだ」
「心当たりがないって顔をしとけばいいんですよ」
「ああ、なるほど」
俺とさくらはその場で少しだけ休んでから、三階に昇り、渡り廊下の様子をうかがいにいった。
無事対面できたのを確認してから、身を隠して息をつく。
とりあえず、ことは上手く運んだらしい。
「めでたしめでたしだな」
「何が?」
と、横から訊ねられてびくりとした。
さくらではない。瀬尾だった。
思わず声をあげそうになったのを、あわてて口を塞いでこらえる。
「びっくりさせんな」
「副部長が勝手にびっくりしたんでしょ。何やってたの?」
「いや……まあ、散歩だな」
「散歩? 浮気じゃなくて? ……ま、いいや。それより、部室に、副部長を訪ねてきた子がいるんだけど」
「……あ、ああ。ごめん。忘れてたわけじゃないんだけど」
きっと市川だな、と思いながら、俺は頷いた。
「部室にいくか」
「……ね、ねえ」
と、今度はさくらが、話しかけてきた。
今は黙ってろ、と俺は頭の中で返事をする。
「そうじゃなくて。この子、今、浮気って言ってましたよ」
「……」
さくらは不思議そうな顔で俺をうかがった。
まあ、こいつからしたら、自分が見えているのかも、と訝りたくもなるのかもしれない。
たぶん、瀬尾は真中とのことで俺をからかっただけなのだと思うけれど。
「うん。だって、浮気現場でしょう、これは」
けれど。
瀬尾は、そう返事をした。
さすがに俺は息を呑んだ。
「……瀬尾、おまえ」
「なに」
彼女は首をかしげた。
「……こいつが見えてるのか?」
「……こいつって?」
「だから」と俺はさくらを指で示す。
「こいつ」
「何の話? ……普通に、そこにいるでしょう?」
ねえ? と、瀬尾はさくらの目を真っ直ぐに見て、変なことを言うやつだ、というふうに眉を寄せた。
「……どういうことだよ、さくら」
「いや、まあ、そりゃ……こういうタイプの人も、いるにはいますから。あなたと同じで」
だからって、安い守り神もいたものだ。
◇
「それではわたしはこれで」と、さくらはささっといなくなった。
「なんだったの?」と瀬尾は俺に訊ねたけれど、俺の方こそ訊きたかった。
俺に自分のことを話すのは良いのに、瀬尾には自分のことを話したくなかったんだろうか。
怖いものなんてなさそうな素振りだったのに。
不審に思ったけれど、さっきまでの策略の余韻で頭がやられている。
この場を取り繕うほうが火急だろう。
さて、どう言い繕ったものか、と考えかけたところで、瀬尾から話しかけられる。
「浮気?」
「ちがいます」
「ゆずちゃん、さっきも不安そうだったよ。副部長を訊ねてきた子、綺麗だったし」
「不安?」
思わず、鼻で笑ってしまった。真中が不安を感じるなんて、ちょっと想像できない。
「……なにその笑い方。さすがにちょっとひどいと思うよ」
瀬尾は思いの外真剣な様子で俺を諌めた。
「副部長さ、ゆずちゃんにちょっと冷たくない? 彼女なんでしょ?」
「そういうつもりは、ないけど」
「……ふうん。じゃ、さっきの子は?」
「……知り合いだよ」
さくらのことをどこまで話したものか、迷う。
俺に話すくらいだから、誰に話したっていいのかもしれないとも思った。
でも、もう共犯関係だ。
あんまり、人には言わない方がいいのかもしれない。
それにしても、どういう基準でさくらが見えたり見えなかったりするんだ?
「じゃあ、部室に来てる子は?」
「あいつ、名乗ってないのか?」
「名乗ってないって?」
「部員だよ」
「……え?」
「市川鈴音。今日、部室に来るって言ってたから、たぶんそうだと思う」
「……あ、え、部員?」
「そう」
それで、俺と瀬尾はとりあえず部室に急いだ。
真中と市川がふたりでいる場面を想像しようとしたけれど、上手くいかない。
変なことになってなければいいのだけれど、と思ったところで、部室のドアを瀬尾が開けた。
すると、
「え、本当にこれ鈴音先輩が描いたんですか?」
「ん。うん。まあね」
「上手……」
なぜだか和やかな空気だった。
市川は机の上にノートを広げて、ペラペラとページをめくっている。
真中はそれを見て目をきらきらさせていた。
「まあ、下手の横好きってやつだけどね」
「そんなことないですよ。これだけ描ける人、なかなかいないです」
「……市川」
話しかけると、市川はバッとノートをとじて、平然とした顔でこちらを見た。
「遅かったね。いないんだもん。困ったよ」
「なにしてたの」
「ちょっとお話してただけ。ね?」
真中は「はい」と頷いた。
「……仲良さそうじゃないか」
瀬尾の方を見ると、彼女は不思議そうな顔をしていた。
どこらへんを見て、真中が不安がってるなんて思ったんだろう。
へんだなあ、という顔で、瀬尾は進んだ。
「えっと……市川さん?」
「ん?」
「で、合ってるんだよね」
ああ、と市川は頷いた。
「名前、言ってなかったっけ。うん。市川鈴音」
彼女は堂々とした様子だった。
「瀬尾青葉さん、で、合ってるよね?」
「あ、うん」
「部誌、つくるって聞いたんだ。えっと、三枝くんから。だから来たの」
「参加してくれるの?」
「そのつもりだよ」
「ありがとう!」
不可解そうな様子だった瀬尾は、その言葉にあっさりと態度を豹変させた。
本当に現金な奴だ。
「えっと、ゆずちゃんと副部長とわたしと、市川さんで四人」
「鈴音でいいよ」
「鈴音ちゃん、よろしくね!」
本当に元気の良いやつだ。
「これで大野くんも参加してくれたら……」と、瀬尾は言いかけ、
「ううん。……今のは忘れて」
けっこう気にしているらしい。現金で律儀な奴だ。
「大野……?」
と反応したのは市川だった。
「ん。えっと、図書委員の、大野辰巳くんって知ってる? こないだうちに入部したんだけど」
「……そうなんだ」
「知り合いなのか、市川」
「鈴音でいいよ」と彼女は俺にも言った。
「どっちでもいいよ」
「よくない。わたしの名前だから」
「……じゃあ、鈴音、知り合いなのか」
なんだってこんな言い直しをさせられるのか分からなかったが、言われる通りにしておく。
「べつに、知り合いってほどじゃないよ」
「……ふうん?」
隣にいた瀬尾が、不意に俺を肘でつついた。
「なに?」
「だからさ……」
何かを言いかけたまま、言葉を続けようとしない。
やがて彼女は諦めたみたいに溜め息をついた。
「まあ、いいや」
結局そこで話は終わった。
少しだけ沈黙があって、ようやく俺はさっきまでの出来事について考えるゆとりができる。
さくらと、あの男女のこと。
あれはいったい、なんだったんだろう。
全部自分がしたことなのに、なんだか不思議な気分だった。
ふと、真中と目が合う。
「……なに?」
「……ううん」
なんでだろう。
そのときようやく、なんだか変だなと思ったけれど、それがなんなのかはよくわからなかった。
つづく
続き
傘を忘れた金曜日には【2】

