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<妹の怒り>
拗ねていたあたしはさっきとは逆にお兄ちゃんからの電話で呼び戻された。逃げ出したことに後悔し始めていたこともあったし、集団行動を乱すわけにはいかないこともわかっていた。さっきもお兄ちゃんにはそう言った手前もあったし。
妹ちゃんは何の気まぐれかわからないけどお兄ちゃんが座っていた後部座席に入っていた。何でそうなんだろう。妹ちゃんは自分の行動がお兄さんとお兄ちゃんを惑わせていると考えたことはもないのだろうか。彼女はあたしの唯一の親友だった。でも今の妹ちゃんが自分の感情だけを優先していて、他者の感情を慮っていないことを認めないわけにはいかなくなってきた。
お兄さんとお兄ちゃんを競わせ自分への愛情を試しているかのような彼女の行動。
お兄ちゃんについては自業自得とも言える。ママへの思慕から妹ちゃんを利用しようとしているのだから。でもお兄さんはどうなるのだ。以前はともかく今のお兄さんは純粋に妹ちゃんを家族として慈しもうとしているのだけど、妹ちゃんの行動はそう決心したお兄さんをいたずらに刺激するだけだ。わざとしているのだとするとたちが悪い。
それでもお兄さんの隣に座れたことは幸運だった。あたしはお兄さんに謝罪しお兄さんは苦笑した。あんなことくらいで動揺してはいけなかったのだ。お兄さんにとってはさっきの発言は無理もないとあたしは思えるようになってきた。妹ちゃんに振られ実際につらい思いをしたことは確かだったのだから。
「さっきはごめんな。勝手におまえの行動の意味を決め付けるようなこと言って」
お兄さんが車を運転すながらそう言った。
「あたしこそひどいことを言ってごめんなさい。それに出会い方がああだったからお兄さんには誤解されてもしかたないです」
「悪い」
「でも今朝、夜明けの海岸で話したことは嘘じゃないです。それだけは信じて欲しかった」
「今さらだけどわかったよ」
「よかった」
あたしは勇気を出して片手ハンドルで運転していたお兄さんの左手に手を重ねた。
「ちょっとさあ」
「大丈夫です。妹ちゃんからは見えません」
「・・・・・・うん」
「大丈夫ですよ。こんなことでお兄さんに選んでもらおうなんて考えていませんから」
「別にそんなこと考えてたわけじゃねえよ」
「何か急がなくてもいいような気がしてきました。妹ちゃんとの関係とか女さんとかお兄さんはゆっくり考えたらいいんじゃないかと思います」
半ば自分に言っていたのかもしれないけど、あたしの言葉にお兄さんは素直に納得してくれたようだった。
「そうだな」
お兄さんが前を見つめながらそう言った。
「それで少しでもいいからあたしのことも候補に入れておいてください」
「・・・・・・わかった」
「お兄さんと仲直りできてよかった」
「やっと笑ったな」
前方を見つめて運転しながらお兄さんが言ったその言葉にあたしは何でかほっとした。
「へへ。あまり顔を見ないでください。さっき少し泣いちゃったから変な顔してるでしょ」
「全然変じゃねえよ。むしろ可愛い」
あたしの顔は赤くなっていたと思う。
「いやそのだな」
「でも、前向いてください。よそ見運転はだめです」
「確かに」
もう時間的には熱帯植物園を回る時間はなさそうだった。既に夕食の心配をしなければならない時間だ。
「妹ちゃん。これからどうする? 熱帯植物園に行くのは無理っぽいって」
お兄さんが無理だと言っているのだから無理なのだろう。それでもあたしは念のために妹ちゃんに声をかけた。妹ちゃんは返事をしなかったのであたしの言葉は宙に浮いたままだった。そのとき、妹ちゃんの態度にお兄さんが少し顔をしかめたようだった。
「妹ちゃん、呼んでるよ」
お兄ちゃんが妹ちゃんに声をかけたけど、妹ちゃんはそれを無視した。続いてお兄さんもたしなめるように妹ちゃんの名前を呼んだ。お兄さんの言葉に初めて妹ちゃんは反応した。
「・・・・・・あたしのこと、もう姫って呼ぶのやめたんだ」
車内の空気が凍りついた。でも、それであたしは自分が本当に恐れ心配していたことが何なのかはっきりと思い知らされた。それは知らないほうが心穏かだったことだたろう。妹ちゃんの声を聞いたとき、あたしの胃がきりきりと痛み、あたしの足は意思に反して震えた。
妹ちゃんの心をお兄ちゃんに向けようと足掻いていた頃からあたしの目標はお兄さんだった。お兄さんが妹ちゃんを一方的に好きで、そのお兄さんの好意により妹ちゃんは心を乱されているのだとあたしはずっと考えてきた。お兄さんが身を引けば妹ちゃんは自然と落ち着きを取り戻し、側にいるお兄ちゃんのことを見るようになるだろうと。
ただし、妹ちゃんは自他共に認めるほどのファミコンだった。だからお兄さんの自分への恋愛感情を退けた彼女は、そのことに拗ねたお兄さんが兄貴として振る舞うことさえ放棄して突然一人暮らしを初めて連絡を絶ったことにすごくショックを受けていたことは間違いなかった。
だからあたしは、お兄さんに接近してお兄さんに妹ちゃんへの恋愛を諦めさせ、かつ良い兄として振舞うよう働きかけたのだ。そのためにはなりふり構わずに。その甲斐あってか、お兄さんは良い兄としてだけ妹ちゃんを悲しませないように振る舞うと約束してくれて、実際にそれを実行してくれた。彼女まで作ってしまったののは少し誤算ではあったけど、当時のあたしは別に本気でお兄さんに惚れていたわけではなかったから、それは正直どうでもよかった。
でも、お兄さんのことが気になるようになり、やがて自分の中の恋心をはっきりと自覚してからのあたしは、以前にましてお兄さんだけを見るようになった。お兄さんのあたしへの態度や妹ちゃんへの態度に一喜一憂するようになっていたのだ。さっきのお兄さんの言葉に過剰に反応してお兄さんの前から逃げ出したのだってそれが理由だった。
でもあたしは間違えていたのだ。今この耳に届いた妹ちゃんの言葉を聞くともうそうとしか考えられなかった。あたしが自分の恋を成就するに当たって警戒すべきはもうお兄さんの気持ではなく妹ちゃんの気持なのだろう。
『・・・・・・あたしのこと、もう姫って呼ぶのやめたんだ』
自分の兄貴から姫って呼ばれることを妹ちゃんは嫌がっていたはずだ。少なくとも人前でそう呼ばれることに抵抗があるのだとあたしは思い込んでいたのだけど、その思い込みは一瞬で吹き飛んでしまった。
もう認めざるを得なかった。この兄妹は兄が妹を溺愛しているのではなく妹が兄を求めているのだ。それも男女的な恋愛的な意味で。
はっきりとそう悟ったそのとき胃のむかつきとがくがくしていた足の震えが止まった。
考えてみれば今のあたしは今までで一番自由だった。もうマザコンのお兄ちゃんに手を貸す必要はない。そして既にお兄さんは恋愛的な意味では妹ちゃんを諦めている。それなら話は簡単なことじゃないか。妹ちゃんは確かに可愛いし、こういう一見清楚に見える女の子を好きな男の子には魅力的かもしれない。でもそういう意味ならあたしだって負けてはいないはずだ。少なくともこれまで男の子に声をかけられ告白された人数を考えれば。
それにお兄さんが妹ちゃんのことを諦めている以上、多分妹ちゃんはもうあたしの敵ではないのだ。
「ファミレスにでも寄って行くか」
それきり妹ちゃんが黙ってしまったので、お兄さんがそう提案したけど、妹ちゃんの言葉のショックから立ち直りだ出していたあたしはとっさに提案した。
「・・・・・・いえ。スーパーに行きましょう」
「だって」
「ちゃんと妹ちゃんと話してみます。最悪の場合でも、あたしが一人で料理しますから」
もうちゃんと話なんかできなくてもいいのだ。
「・・・・・・いいのか」
「ええ。あたし、こう見えても料理得意なんですよ」
「そうなん?」
「うちもお兄さんのお家と一緒で両親は共働きですし、料理は慣れてますから」
「じゃあ。おまえがいいならスーパーに行くか。最悪の場合は俺も手伝うから」
<あたしはもうお兄さんのことだけを考えるようにした>
スーパーであたしはお兄さんと二人で買物をした。それは妹ちゃんが拗ねてさっさとどこかに消えてしまったおかげだった。予想どおりお兄さんも妹ちゃんの後を着いていってしまった。さっき妹ちゃんの言葉にショックを受けたあたしには、お兄さんと二人きりの買物は時宜を得たプレゼントだった。まるで新婚の夫婦のように軽口を叩きあいながらカートを押して夕食の食材を買って歩けたのだから。
「お兄さんと一緒にお買物とかって、何か新婚の夫婦みたい」
「・・・・・・変なこと言うなよ」
「そうですよね。ごめんなさい」
全然すまなそうに見えなかっただろうけど、あたしは一応そう言ってみた。
「これにしようか」
「それはアジの開きです。でも、明日の朝ご飯用に買っておきましょうか」
「朝食に?」
「ええ。お兄さんは朝は和食派でしょ?」
「朝もおまえが作ってくれるの」
「はい。妹ちゃん次第ですけど」
「悪いな」
「ううん。今朝は妹ちゃんに作ってもらっちゃったし、お料理は好きですから」
そうやってスーパー内をうろうろしていると、お菓子売り場の隅で何やら言い合っているお兄ちゃんと妹ちゃんを見かけてしまった。せっかくあの二人のことは忘れていたのに。再び胃の底が重くなっていく。でも次の瞬間、お兄さんの言葉を聞いたあたしはその憂鬱から解放された。
「お兄ちゃんと妹ちゃんが何か言い合ってますね」
「どう考えても喧嘩だな」
「止めますか」
「・・・・・・いや。放っておこう」
「お兄さんが妹ちゃんのこと放っておくなんて珍しい」
「痴話喧嘩に兄貴が入ってもな」
「まあそうですけど・・・・・・」
「兄貴のことが心配か?」
「・・・・・・そうじゃないですけど。まあ、でもそうですね。心配したってしかたないか」
「行こうぜ」
お兄さんに促されたあたしは再び軽い気持ちになって、カートを押すお兄さんの片腕に掴まりながらレジに向った。
あたしの用意した穴子丼がお兄さんには好評だったことと、どういうわけか妹ちゃんがあたしに歩み寄ってきて仲直りしたことでより気軽になったあたしだったけど、就寝の時間になりお兄ちゃんと二人きりになると、再びあの嫌なストレスに包まれた。今まで以上にお兄ちゃんは負のオーラをまとっているように見える。
「電気消していい?」
お兄ちゃんは答えなかった。
「ねえ? 聞いてるの」
お兄ちゃんは隣の布団に仰向けに横になって天井を見つめていた。
「・・・・・・うるさいなあ。消したきゃ勝手に消せよ」
「じゃあ消すね。おやすみなさい」
「なあ」
でもお兄ちゃんはあたしをそのまま寝かせてくれるつもりはないようだった。
「・・・・・・どうしたの」
「妹ってやっぱり兄貴のことが好きなのかな」
それはそうかもしれない。でもあたしは黙っていた。正直、もうお兄ちゃんのマザコン故の卑劣な企みになんか加担したくなかった。あたしがこれまで妹ちゃんをたきつけてまでお兄ちゃんの味方をしていたのは、お兄ちゃんが純粋に妹ちゃんに恋焦がれていると考えたからなのだ。今では全く状況が違うし、そもそもあたしにだって優先すべきことができたのだし。
「さっきスーパーで妹ちゃんと喧嘩しちゃったよ」
「喧嘩って?」
関わるべきではないと思ったけど、妹ちゃんが何でお兄ちゃんを怒ったのか知りたくなったあたしは返事をしてしまった。
「約束を破るなんて最低だって言われたよ。兄貴の前だけでは付き合っている振りはしないって約束したでしょって」
「それはおかしいでしょ。旅行が始まってからは妹ちゃんの方からお兄ちゃんに近づいていたのに」
「僕もそう思ってたよ。それで有頂天になっていた。やっぱり付き合う振りをしているんじゃなくて、本当は僕のことが好きなんじゃないいかってさ」
付き合う振り。
あたしがお兄さんの気持を計りかねていた妹ちゃんに勧めたことがそれだった。お兄ちゃんと付き合う振りをしてお兄さんが嫉妬するか確かめてみればいいじゃないって、そう勧めたのは確かにあたしだ。でも、そのことはお兄ちゃんには秘密にしていたはずなのに。妹ちゃんがお兄ちゃんにばらしてしまったのだろうか。
でも、そういうことではなさそうだった。
「今までおまえには黙ってたんだけどさ。僕が妹ちゃんに頼んだんだよ。僕の彼女の振りをしてくれって」
「え? いったい何でそんなことをしたの」
「おまえがセッティングしてくれて一緒に登校したり休日に図書館に行ったりするようになったけどさ、何というかそういうことをしてても全然妹ちゃんとの距離が近づかないんだよね。それで、振りでもいいから恋人っぽく過ごしていたらそのうち何とかなるんじゃないかって思ってさ」
「んなわけないでしょ。だいたいどういう理由で付き合う振りをしてくれって頼んだのよ」
「それは言いたくない」
お兄ちゃんが言った。
「言いたくないなら無理には聞かないけど。それで? そのときに妹ちゃんと約束したってこと? お兄さんの前では誤解されるような行動はしないって」
「うん。そういう約束した」
「だから図書館で出会ったときに妹ちゃんが切れてたのか」
「・・・・・・うん。だからあれは僕の方が悪かったんだ」
「そうやって反省しているわりには、お兄ちゃんは旅行中妹ちゃんとべたべたしてたよね」
「そこなんだよ。僕は約束を守ってそういうことはしないようにしようと思ったんだけど、言い訳じゃないけど今回は妹ちゃんの方から僕に接近してきたんだよね。だから、妹ちゃんが僕に対する気持を変えたんだと思って嬉しくてさ。妹ちゃんに応えようと思って行動してたらこれだよ。いきなり約束が違うとかって言われるなんて」
お兄ちゃんにとっては妹ちゃんの行動は不可解で理不尽なように見えているみたいだったけど、あたしにはもうわかっていた。難しく考えるほどのことではないのだ。
「おまけにばか兄貴から怒られるしさ。妹を泣かせたらマジ殺すとかってさ。俺の方が泣かされてるのに」
謎に包まれていたように考え過ぎていただけだ。妹ちゃんの行動は恋する女の子の行動の典型的な例というだけのことなのだ。
お兄ちゃんとべたべたしていた理由は、お兄さんに嫉妬させるため。そして妹ちゃんがお兄ちゃんに対して切れたのは単なる逆切れに過ぎない。自分に嫉妬させようとしたお兄さんが自分の思いどおりにならずあたしと一緒に行動して満足しているらしいことに、妹ちゃんは逆に自分の方が嫉妬してしまったというだけのことだ。
自分の行動を棚に上げて自分にべたべたと擦り寄ったお兄ちゃんを憎むようになったのだろう。お兄ちゃんと妹ちゃん。その行動の自分勝手さはどっちもどっちだ。こんなことに巻き込まれる必要はない。
もうこれからはお兄さんのことだけを考えるようにしよう。あたしはそう思った。
<自棄>
あたしが起きてキッチンに行くと妹ちゃんがちょうど朝食の支度を始めたところだった。
「おはよう」
妹ちゃんがあたしに気づいて言った。
「おはよ。遅れてごめん」
「ううん。あたしも今起きたところだから。朝ごはんの支度、手伝ってもらっていい?」
「もちろん。そのつもりで来たんだよ」
「妹友ちゃん、料理上手だもんね。昨日の穴子丼、お兄ちゃんなんか夢中になって食べてたし」
「・・・・・・そんなことはないけど」
お兄さんに恋焦がれているはずの妹ちゃんにしては余裕の態度だった。昨晩、お兄さんと妹ちゃんに何かあったのだろうか。一瞬嫌な想像が頭をよぎった。
いや。それはいくら何でも考えすぎだろう。妹ちゃんとあたしは仲直りしたから妹ちゃんはあたしにフレンドリーなだけだ。
「それでさ。今日の予定なんだけど」
「あ、うん」
「ほら。あたしたちって無駄だと思いながら持ってきたじゃん」
「・・・・・・水着のこと?」
「そう。昨日スマホでこの辺りの観光施設を見てたらさ。ドームの温水プールがあるのよ」
「本当?」
「うん。ほら見て」
あたしたちは朝食の用意を放置して温水プールの情報を集めた。そうしていると何となく嫌な想像も消え去って行ってしまうようだった。
あたしと妹ちゃんは朝食の席で予定変更を宣言した。植物園に行くと思い込んでいて、突然予定が変更になったことで最初は渋っていたお兄さんとお兄ちゃんも最後にはしぶしぶ温水プールに行くことに同意した。
温水プールまでの車内の席順は再びシャッフルされた。妹ちゃんが迷わずお兄さんの隣の助手席に座ったからだ。でもせっかく持参した新しい水着を披露できることに興奮したあたしにはそのことは思ったより気にならなかった。
お兄ちゃんと二人で後部座席に座ったあたしたちは、昨夜の続きを話すわけにもいかずに、結局車の単調な振動に誘われて、あたしたちはいつのまにか寝入ってしまった。昨夜、お兄ちゃんと話していてあまり寝られなかったからだろう。
ふと意識が覚醒した。隣を見るとお兄ちゃんが目を瞑っている。あたしはあとどれくらいで到着するのか聞こうと思った。そのとき妹ちゃんとお兄さんの話し声がまだ半ば寝入ってる状態のあたしの耳に入った。
「後ろの二人は?」
「寝てるよ。昨日よく眠れなかったのかな」
「じゃあ、言うね」
「言うって何を」
「お兄ちゃんの告白に対する返事」
「それはもう聞いた」
「前のは取り消し。あとお兄ちゃんにも彼女を作って欲しいというのも取り消し」
「お兄ちゃん。返事をやり直すね」
「おまえは何を言って」
「お兄ちゃん。あたしを好きになって告白してくれてありがとう」
「ちょ、おま」
「返事はもちろんイエスだよ。喜んでお兄ちゃんの彼女になるね」
「着いたよ。妹友ちゃん起きて」
「ああ、うん。ごめん寝ちゃってた」
「爆睡してたよ妹友ちゃん」
「ごめんね」
「別にいいって。それよかチケット買ってきたから行こう」
「・・・・・・うん」
「じゃあねお兄ちゃん。更衣室出たところで集合ね」
「ああ。わかった。彼氏君行こうぜ」
「はい」
お兄ちゃんはさっきの会話を聞いていたのだろうか。それともあれは夢だったのだろうか。
「行こ」
妹ちゃんが明るく行った。なんだか彼女のテンションがやたら高い。泳げることに興奮しているだけとは思えない。
「・・・・・・うん」
あれが夢でなかったとしたらあたしはどうすればいいのだろうか。それに肝心のお兄さんの返事は聞こえなかったのだ。
それでも妹ちゃんのはしゃぐ様子を見ていると、あの会話が夢でなかったとしたらお兄さんは妹ちゃんにとって望ましい返事をしたとしか思えない。仮にお兄さんが妹ちゃんを拒絶していたら妹ちゃんのテンションがこんなに高いわけがないのだ。
そう考えるとあたしは再び暗い気持ちになったけど、それでもまだ決まったわけではない。そもそもあれは夢かもしれない。とりあえずあたしは精一杯お兄さんにアピールすることにした。それが無駄かもしれないことを必死で考えないようにして。
「お兄さん、あっちにウォータースライダーがありますよ」
「そうだね」
「一人じゃ恐いので付き合ってください」
「ええと。妹も行く?」
お兄さんが妹ちゃんを誘った言葉を聞いてあたしはまた暗い考えに押しつぶされそうになった。
「あたしはいいや。流れるプールでぷかぷか浮いてるから」
「そう?」
ここでほっとするべき何だろうけど、逆に仲が固まった彼女の余裕のようなものを感じたあたしはほっとするどころではなかった。あたしはもう自棄になっていたのかもしれない。自虐的にお兄さんをからかう言葉まで口をついた。
「お兄さん。ちょっと妹ちゃんをガン見し過ぎです」
「ち、違うって」
「お兄ちゃんは昔からエッチだからね。妹友ちゃんも気をつけてね」
「え?」
え? じゃない。妹ちゃんをガン見し過ぎと言われたお兄さんは今明らかに動揺していたのではないか。
「ちょっと、あまりじろじろ見ないでください」
「見てねえよ」
妹ちゃんの水着姿を見たと言われたときと違いそれは冷静な口調に聞こえた。
「早く行っておいで。戻ったらお昼にしよ」
妹ちゃんがすまし顔で言った。
<でもまあ、あの兄貴も偉いよな>
妹ちゃんとそれから多分お兄ちゃんを救おうと走り去って行ったお兄さんの後を追おうとしたあたしは、寸前で思いとどまった。お兄さんはあまり喧嘩をするような人には見えないし、何といっても相手は柄の悪そうな人たちで人数も多い。妹ちゃんを大切にしているお兄さんならどんな不利な状況下にも飛び込んでいくだろう。でも結果がついてくるかどうかは別だ。妹ちゃんとお兄さんとあたしのお兄ちゃんが危険な状況にあるのは確かだ。
あたしはお兄さんとは別な方向へ、プールの管理事務所の方に駆け出した。そこに行けば係りの人がいるに違いない。もう大人を呼んで解決するくらいしか手はないとあたしはとっさに判断した。
係員以外立ち入り禁止と書かれたドアをあたしは思い切り引いて事務所の中に飛び込んだ。運のいいことに、そこには制服を着た警備員の人やたくましい体格をした監視員の人たちがたむろしていた。驚いてあたしを見たその人たちにあたしは事情を話した。
後で聞いた話だけど、お兄さんは妹ちゃんを抱きかかえている男を妹ちゃんから引きはがしてプールに投げ込んだそうだ。かなり一方的な戦いで一見強面に見えた男はお兄さんに対して手も足も出なかったらしい。一方、お兄ちゃんも妹ちゃんを庇って殴られていた。いろいろあたしに理解できない行動を取っているお兄ちゃんも現実的な妹ちゃんの危機を目の前にしたとき、いつものお兄ちゃんならするであろう利害の計算をすることもなく、愚直に妹ちゃんを助けようとして殴られたのだ。
妹ちゃんを救ったお兄さんは次にお兄ちゃんを取り囲んでいる連中を相手にしようとしたらしいけど、さすがに多勢に無勢だった。四人がかりでお兄さんを床に倒した彼らがお兄さんに対して殴る蹴るの暴行を加え始めたとき、あたしが呼んできた警備員と監視員の人たちがその四人を取り押さえた。制服を着た警備員の人は年配の人であまり頼りにはならなかったけど、水着姿の監視員の男の人たちがその四人を取り押さえてくれた。
ここまで興奮からくるアドレナリンの放出のおかげで行動できていたあたしは、急に緊張の糸が切れてその場にへなへなと座り込んでしまった。情けないことに視界までがぼやけていく。そのぼやけて紗がかかった視界の中で、床に倒れたお兄さんに必死でしがみついている妹ちゃんの姿が見えた。
やがて警察が来て騒ぎを起こした人たちを連れ去って行った。お兄さんは妹ちゃんに付き添われながら担架に乗せられ医務室に連れて行かれたようだ。床にへたり込んだままのあたしの肩を誰かが抱いてくれた。
「お兄ちゃん」
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
あたしはよろけながらも何とか立ち上がった。
「無理しないで座ってればいいのに」
「お兄ちゃんこそ、殴られたんでしょ。医務室に行かないで大丈夫なの」
「僕のは怪我ってほどじゃないし。ボコボコにされてたのはバカ兄貴の方だよ」
相変わらずお兄さんのことを小ばかにしたようにお兄ちゃんが言った。でもどういうわけかこのときのあたしはその言葉に悪意を感じなかった。それはあえて言えば偽悪のようなものだ。口で言っているほどお兄ちゃんはお兄さんをバカになどしていない。そしてお兄ちゃんは妹ちゃんを庇って殴られた。それは本能的な行動だったのだろう。あたしが好きだった頃のお兄ちゃんは消えていなかったのだ。
「お兄ちゃん、すごく格好よかったよ」
「やられて殴り倒されたのにか」
お兄ちゃんは目を逸らして言った。あたしは思わず微笑んだ。
「それでも格好よかった。お兄ちゃんのこと見直しちゃった」
「それならよかったけどな。でも係員を呼びに言ったおまえの行動の方が正しかったよ。そういう意味じゃ僕もバカ兄貴も全然駄目だな。結局妹ちゃんを助けたのは監視員の人だしさ。つまりは人を呼びに行ったおまえが妹ちゃんを助けたようなもんだ」
「あたしは人頼みしただけだよ。お兄ちゃんたちは夢中で自ら妹ちゃんを救おうとしたんでしょ? そっちの方が全然格好いいよ」
「ああいうときは冷静な反応ができなきゃいけないんだよ。おまえはそれができた。僕とバカ兄貴は頭を使わないで突入して自爆したんだ。おまえの行動の方が正しい」
「お兄ちゃん」
不意にお兄ちゃんが笑った。最近見慣れている自嘲的で暗い笑いではなく、昔あたしが好きだったお兄ちゃんの屈託のない笑い方で。
「でもまあ、あの兄貴も偉いよな。とりあえず妹ちゃんを抱きかかえていたやつを投げ倒して妹ちゃんを解放したんだもんな」
「お兄ちゃん?」
「・・・・・・何だよ」
昔のお兄ちゃんがそこに帰って来たようだった。あたしはこの旅行中で初めて素直にお兄ちゃんに向って微笑んだ。
医務室にお兄さんを見に行こうとお兄ちゃんを誘ってみたけど、お兄ちゃんはそれを拒否した。
「ちょっといろいろ考えたくてな。おまえ行ってきなよ」
「考えるって?」
「いろいろだよ。いろいろ。いいからさっさと行け。ついでに今日この先どうするのかも打ち合わせてきなよ」
「・・・・・・わかった」
お兄ちゃんにもいろいろと心境の変化が訪れているのだろう。それは望ましい方向への変化だと感じたあたしはそれ以上無理にお兄ちゃんを誘わなかった。
「じゃあ、医務室に行って来るけど。お兄ちゃんは本当に平気なの」
「ああ。放っておけば直るだろ、こんなの」
「じゃあ、ちょっと待っててね」
「わかった」
お兄ちゃんと別れたあたしは係員の人に医務室の場所を聞いた。そのドアの前であたしは医務室のドアをノックした。返事はない。治療中ならまずいと思ってあたしはしばらく待ったけど、中からは何の物音もしなかった。
「お兄さん? 入りますよ」
あたしはドアを開けた。
「うん? もう帰って来たのか」
以前のお兄ちゃんを取り戻して心安らかだったときはほんの一瞬で粉々になり、あたしの感情はさっきとは間逆の方向に暗転していた。
「顔色悪いぞ。何かあったのか」
お兄ちゃんがあたしに問いかけた。
「行こうお兄ちゃん」
「行こうってどこに。妹ちゃんたちはどうするんだよ」
「ここから出ようよ。お兄ちゃんお願い」
お兄ちゃんは鈍い人ではない。それどころか人の感情を読み取る点では鋭すぎるところがある。だからこのときお兄ちゃんは既に何事かを察していたのかもしれない。でも、このときのあたしはお兄ちゃんの気持を察するどころではなかった。
「・・・・・・わかった。着替えたら出口で会おう」
抱き合っていた。水着姿のままで。妹ちゃんの水着はワンピースでそれほど肌が露出しているわけではない。でも、妹ちゃんを抱きしめたお兄さんの手が、妹ちゃんのむき出しの肩を撫でている様子ははっきりと目に焼きついている。深く重ねた二人のキスの様子とともに。
<熱帯植物園>
どうやって着替えたのか記憶がない。ふらふらと温水プールの出口に辿り着いたあたしをお兄ちゃんが迎えてくれた。もうお兄ちゃんは何も聞かなかった。あたしも何も言わず、歩いていくお兄ちゃんの後を黙って着いて行った。
バス乗り場に止っていいたバスの中に無言のままお兄ちゃんがあたしを導いた。あたしは何も考えられずにバスに乗って座席に座った。隣にもう何も聞こうとしないお兄ちゃんが座って、しばらくするとバスが動き始めた。昼時の時間のバスは結構混みあっていて発車する頃になると席に座れなかった人で車内は一杯になっていた。
海辺の半島の景色はこんな心境でなければすごく綺麗で目を楽しませてくれたのだろうけど、今のあたしには何も見えない。
「どうぞ」
お兄ちゃんの声が聞こえる。
「すみません。いいんですか」
「はい。よかったら」
「ありがとうございます」
お兄ちゃんが誰かに席を譲ったようだ。
「ありがとうね」
あたしの隣に座った老婦人らしい女の人の声が聞こえた。
「いえ」
「どこに行きなさるの」
「はい。妹と一緒に熱帯植物園に」
「ああ。あそこはいいところですよ。次の次の停留所でだからすぐに着くわね」
「そうですか」
ではお兄ちゃんは熱帯植物園に向っているのだ。車窓に海辺の景色が崩れて後方に流れて攪拌されていく。最初からわかっていたのかもしれない。この小旅行には主人公と脇役が出演している。お兄さんとあたしはその主役になれそうな気がしてそのことに酔っていた。偉そうにお兄ちゃんの行動を非難して切捨ててでも、ヒロインの座を手に入れるつもりだった。
でもそうじゃなかった。そこには主人公と脇役すらいない。王子様とお姫様は存在している。プールの医務室で抱き合い求め合っていた二人が。そのほかにその場にいたのは脇役ですらない。引き立て役のピエロが二人。お兄さんと妹ちゃんに振り回されて喜劇を演じたあたしとお兄ちゃんがいただけ。
あたしはようやくそのことをさとったのだ。妹ちゃんにとって、あたしとお兄ちゃんがこの場に必要だったことは確かだろう。別に自分の恋愛の成就に邪魔なあたしたちをあえてこの旅行に呼んだわけではない。あたしにはもうわかっていた。
妹ちゃんが考えたのはきっと、もっとひどいことだったのだ。
被害妄想かもしれないけど、ここまで来るとそうとしか考えようがない。
わざとお兄さんを避けお兄ちゃんと一緒に行動していた妹ちゃん。
思い通りにならず、あたしと一緒に行動したお兄さんに嫉妬してお兄さんに対して嫌味な言葉を連発していた妹ちゃん。自分のことを姫と呼ばないお兄さんに対して苛立ちをぶつけた妹ちゃん。
そして。
妹ちゃんは知らない男の人たちに襲われた自分を身を張って助けたお兄さんに対して、この旅行中で初めて素直な行動に出た。それはお兄さんに抱きついてキスすること。
よく考えるとあたしがショックなのは妹ちゃんの行動にではなく、お兄さんがそれを受け入れたことなかもしれない。妹ちゃんがファミコンやブラコンなのは十分に承知していた。でも、お兄さんはそれを克服していい兄になるって言っていたのだ。そのお兄さんががほんの短い間で豹変した。妹ちゃんの抱擁と愛撫と口付けによって。
あたしにはもう喪失感以外の何も感じられなかった。
「次で降りるぞ」
呆けたように脱力したまま腰かけていたあたしに、お兄ちゃんが声をかけた。
「おまえ、それしか食べないの」
お兄ちゃんとあたしは、三十分くらい並んで入場券を入手してから、植物に入場した。今となっては並んでまでここに入って食虫植物を見たいとは全く思わなかったけど、それでも何かしなければ時間が潰せないことも確かだった。
お兄ちゃんも熱帯の植物には何の興味もないようだったから、あたしたちは入園してすぐに植物園内のレストランに入った。食欲は全くなかったけど。
「うん。お腹すいてない」
「・・・・・・おまえが医務室で何を見たのかは想像がつくよ」
プールから出て以来何も核心に迫るようなことは何も言わなかったお兄ちゃんが、ようやくあたしを見つめて話し出した。
「え」
「まあ、僕が言うのも何だけどさ。あまり気を落とすな」
「何でわかるの」
「妹ちゃってファミコンなんだろ? 身を張って自分を助けた兄貴にべたべたするくらいは当然だろ。でもさ。おまえもそれくらいわかっていて兄貴のことを好きになったんだろ」
「それは・・・・・・まあそうだけど」
「だったらあまり慌てるな。僕はまだ妹ちゃんを諦めてないよ」
思わずお兄ちゃんの身勝手な発想に怒りが沸いてしまった。身勝手という意味では妹ちゃんも同じだったのだけど。
「それはお兄ちゃんが妹ちゃんのことを、ママを取り戻すための手段だと思っているからだよ。だからそんなに平気な顔をしていられるんでしょ」
「何だって」
「あたしは違う。最初はともかく、あたしは今では本当にお兄さんのことが好きで、だからこんなにつらいんじゃないの」
「だから落ち着けって。あいつらは普段は両親が忙しくていつも二人きりだったんだろ」
「そうだけど」
「共依存だよ。あいつらは本当に愛し合っているわけじゃない」
ここでお兄ちゃんの口から共依存という単語が出てくるとは思わなかったけど、それでも今のあたしにはお兄ちゃんへの反発心しか感じない。
「何でそう言い切れるの」
「実の兄妹だからさ。これが幼馴染とかだったら僕だって少しは焦るけどさ」
もう我慢できない。お兄ちゃんは頭がいいくせに真相を悟ることができない。それはきっと自分に自信がありすぎて真実をそのままに受け取れないからだろう。正直、今はお兄ちゃんのことどころじゃなかったけど、こんな楽天的な誤解をそのままにしておくわけにはいかなかった。
「あたしたちってさ」
あたしはお兄ちゃんに話し始めた。
「うん?」
「そもそも何で妹ちゃんからこの旅行に誘われたんだと思う?」
「それは親友のおまえと一緒に来たかったからじゃ」
「そうじゃないよ。妹ちゃんは本当はお兄さんと二人で来たかったんだと思うな」
「それならわざわざ直前になって僕たちを誘うことなんかないだろ」
「そのときの妹ちゃんはお兄さんからいい兄貴になる宣言をされてたからね」
「はあ?」
「妹ちゃんはきっとお兄さんと恋人になりなかったんだよ。でも、お兄さんがいい兄貴になるって頑なに言い張ってたからさ」
「どういうこと?」
「嫉妬させたかったんでしょ。お兄ちゃんとベタベタしているところをお兄さんに見せて」
お兄ちゃんが俯いた。やがて顔を上げたときのお兄ちゃんの表情はさっきまでと全く異なるものだった。
<せめて妹のおまえのことだけは>
「思い知らされたよ」
やがてお兄ちゃんがはっきりとした声で言った。
「何を」
お兄さんへの想いを断ち切られたあたしはお兄ちゃんのことなど構っている余裕はなかったはずなのに。それでも思わずあたしは声を出して聞き返してしまった。
「おまえの言うとおりだ。多分僕は妹ちゃんのことなんか好きじゃなかったんだと思うよ」
やはりそうなんだ。前から疑っていたこととはいえはっきりと口にされると結構ショックを受けるものだ。
「お兄ちゃんの好きな人ってやっぱり」
「待て。それは違うぞ。兄妹だってどうかと思うのに、自分の母親のことがどうこうなんて考えるわけないだろ」
「・・・・・・ママだなんて一言も言ってないじゃん」
「おまえは」
「もういいよ。どうせうちの家庭なんか壊れてるんだし。でもさ、お兄ちゃんには大好きなママと暮らしたいって言う目標があるんでしょ? あたしはどうすればいいの。お兄さんと付き合うこともできず、家族も壊れちゃってさ」
「壊れてないよ。つうか、僕が壊させない」
「どうやって? もうお兄ちゃんの穴だらけの計画なんて考える価値すらないじゃん。そもそも妹ちゃんに相手にされてないんだから」
お兄ちゃんは俯いて黙ってしまった。
「・・・・・・・ごめん」
言い過ぎた。あたしはお兄ちゃんに謝った。
「あのさあ」
「・・・・・・何」
「僕は確かに考えが甘かったかもしれないけど、せめて妹のおまえのことだけは守るよ」
この人は何を言っているのだ。自分の母親に恋焦がれた挙句結果的に頭の悪い作戦を立てて盛大に自爆しているくせに。この人はもうあたしが好きだった頃のお兄ちゃんではない。あたしはそう思った。あたしが口を開こうとしたとき、妹ちゃんからのメールを受信した携帯が鳴った。
from:妹ちゃん
to:妹友ちゃん
sub:無題
『そろそろご飯食べに行くよ~。今どこ? 出口で集合だから彼氏君と一緒にすぐに来てね』
これだけ無神経なメールも珍しい。あたしは無気力にそのメールに返信した。
from:妹友
to:妹ちゃん
sub:無題
『ごめんなさい。ちょっとお兄ちゃんと話もあったので勝手にバスで別荘に帰ってきています。連絡もしないで本当にすいません。お兄さんと妹ちゃんは予定どおりプールで一日過ごしてから帰ってきてください』
『お昼も夕食も勝手に済ませますからお兄さんたちもそうしてください』
メールを終えてスマホをテーブルの上に置いたとき、あたしはお兄ちゃんが何か言いた気な様子でいることにきがついた。
「妹ちゃんから。お昼の時間だから早くおいでって。ふざけてるよね」
「ふざけてるかどうかはわからないけど。もう別行動になってるしな」
「うん。だから夕食まで勝手に過ごしてって返信しておいた」
「それでいいの? おまえはバカ兄貴のことが好きなんだろ」
「もうどうしようもないじゃん。そんなこと一々言わないでよ」
するとお兄ちゃんが珍しくあたしを正面から見つめた。
「何よ」
「あのさ。僕は妹ちゃんに付き合う振りをしてくれって頼んだ話をしただろ」
「聞いたよ。本当にばかみたい」
「その理由を知りたいか」
「・・・・・・別に」
今さらどうでもいい話だった。
「教えてあげるよ。僕は妹ちゃんに言ったんだ」
『うちの妹のことなんだけど』
『すごく言いづらいんだけど。何かさ、あいつ僕のことを好きみたいで』
『最近、朝起きるといつも妹が僕のベッドで一緒に寝ている』
『二人で外出するとやたらに僕と手をつなごうとしたり、抱きついてきたりする』
『びっくりしたでしょ。僕だってそうだよ。最近じゃあ、両親までおまえたち兄妹はちょっと仲良くしすぎだとか真顔で注意するようになったし』
『あり得ないでしょ? 実の兄貴のベッドに潜り込んだり実の兄貴と外出中に抱きついてきたりとか』
『ごめん。そうじゃないんだ。僕は妹の僕への不毛な恋愛感情を諦めさせたい』
『僕の彼女の振りをしてくれないかな』
あたしは唖然とした。
「ふざけんな」
何とか声を振り絞ったけど、お兄ちゃんは動じなかった。
「だっておまえ、僕のこと好きだったろ」
確かにそうだけどそれは以前の話だしもうあたしはブラコンを克服している。このバカ兄貴は言うに事欠いてあたしのお兄ちゃんへの想いまでも妹ちゃんへの恋の成就に利用したのだ。
「何でそんなこと妹ちゃんに言ったのよ。あたし、もう妹ちゃんの顔を見れないよ」
「どうでもいいだろ? あいつらが近親相姦の仲に踏み込んでいくなら、もう僕たちはあいつらに関わらない方がいい」
事実かもしれないけど、それはお兄ちゃんにだけは言われたくないとあたしは思った。
結局どこを回ってもつまらない思いをするだけだった。あたしたちは混んだ路線バスで早めに別荘に帰ってきた。合鍵を預かっていたからお兄さんと妹ちゃんが不在でも中に入ることはできた。
「なあ」
何もする気力もなくリビングのソファに座り込んだあたしの目の前に立ってお兄ちゃんが言った。
「何よいったい」
「さっきの話だけど。僕はおまえのことは守るよ」
「・・・・・・できもしないことを適当に言わないでよ」
お兄ちゃんは動じなかった。
「おまえ、僕のこと好きだったんだろ」
何を言っている。確かにそうだったけど。
いきなりかがんだお兄ちゃんがあたしの頬を両手で挟んだ。
「前から知ってたよ。だから妹ちゃんに頼んだんだ。おまえ、僕のこと好きだろ」
「お兄ちゃんにはママがいるでしょ。マザコンのお兄ちゃんなんか大嫌い」
あたしは思わずそう叫んだ。でもあたしの叫び声を聞いてお兄ちゃんは笑った。
「初めて気がついたよ。おまえって母さん似だったんだな」
あたしは生まれて初めて自分の身体を抱きすくめられて愛撫されたことに狼狽した。
「ちょっと。やだよ、やめてよ・・・・・・お兄ちゃんやめて」
あたしは生まれて初めてお兄ちゃんに抱きすくめられたのだ。
<周りにとっては結構いい迷惑だよな>
「何かすげえ久し振りっつう感じ? 妹友ちゃんに会えて嬉しいぜ」
「あたしは別に嬉しくないですけど」
「またまたあ。会いたかったんでしょ? 俺と。そうじゃないなら連休の最終日にわざわざ俺を呼び出したりしないでしょうが」
「・・・・・・それにしても電話一本で突然の呼び出しに応えるなんて、兄友さんはさぞかし連休中はお暇だったんでしょうね」
「何でわかるの? 妹友ちゃんマジエスパーじゃん」
「こんなことをわかるのに超能力なんて必要ないです」
「そうかもだけどさ。今日だって妹友ちゃんの方が俺を呼び出したんじゃん。何で俺の方が立場が下なのよ」
「嫌でしたか?」
「別に嫌じゃねえけど」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「まあいいけどさ。で? 連休中はどうしてた?」
「好きな人と、片想いの人と一緒に海に旅行してました。二人きりじゃないですけどね」
「・・・・・・そ、そう。よかったね。楽しかったでしょ」
「ええ、本当に楽しかったですよ。彼と初チューもしましたし」
「よかったじゃん。妹友ちゃんおめでとう」
「・・・・・」
「兄友さんて無神経ですよね」
「・・・・・・それは認めるけど、無神経なのは君の方じゃない?」
「何でそうなるんです?」
「いや、別に。それより好きな男と結ばれたんだろ。おめでとう」
「好きな人にキスしたけど、結局失恋したみたい」
「あ~」
「あ~って何ですか」
「いやその」
「失恋して帰ってきました。ショックを受けるようなシーンも目撃しました。これでいいでしょ」
「いやさ。俺別に君には何も要求してないし、今日も呼ばれたから来ただけなんだけど」
「・・・・・・」
「いやあの」
「わかってますよそんなこと。呼び出しちゃってごめんなさい」
「まじめに謝られると対応に困るんだけど」
「兄友さんは休み中は何をしてたんですか」
「何もしてないよ」
「そんなわけないでしょう。人間が行きていく上で何もしていないなんて有り得ないです。最低でも栄養を摂取したり睡眠を取ったりはしていたはず」
「妹友ちゃんいったい何言ってるの?」
「で。休み中は何をしてたんですか」
「俺のことなんか興味ないでしょう。何でそんなにこだわるの」
「・・・・・・別に」
「まあ君の言うとおりかな。食って寝て、妄想してを繰返してたら連休なんかすぐに終っちゃったよ」
「いったい何を妄想してたんです?」
「君のことかな」
「・・・・・・あたしをからかってるつもりですか」
「いや、本当。君と恋人同士になってデートしたりプレゼント交換したりとかさ。何かそういう妄想を繰り広げていた。最初はそれだけで幸せだったんだけど、そのうちむなしくなってやめちゃったけどね」
「いい加減にあたしをからかうのはやめてください」
「正直に言ったんだけどな」
「・・・・・・ばか」
「ばかなのは十分承知してるよ。それで君は? 何で兄とチューまでしたのに失恋したのさ」
「だ、誰がお兄さんと一緒だったなんて言いました」
「そんなのわかるよ」
「何でよ」
「妹友ちゃんのことが好きだから。んで、君は兄のことが好きだったんでしょ」
どういうわけかそう断言した兄友さんに対してあたしは何も言い返せなかった。それに
しても兄友さんは、何でわざわざ好きだったという過去形を使ったのだろう。
「やっぱりか」
「何がやっぱりなんです?」
「いや。やっぱりあいつら兄妹ってお互いに好き会ってたのか」
「・・・・・・何であなたにそんなことが断言できるんです」
「わかるよ。俺だって高校時代からあいつらとの付き合いはそれなりに深かったしさ」
そんなことは前からわかっていた。あたしだって妹ちゃんの親友だったのだから。お兄さんと妹ちゃん、兄友さんと女さん。そしてあたしとお兄ちゃん。
その全員の最近の関係がお兄さんと妹ちゃんの関係に振り回されていただけだとしたら、そんなのはあまりにも惨めすぎる。男たちが妹ちゃんを求め、あたしを含めた女たちがお兄さんを求めた。でも、二人は互いに互いしか求めていなかったとしたら、そんなことはひどすぎる。
「兄と妹ちゃんってさ。本人たちは意識していないのかもしれないけど、周りにとっては結構いい迷惑だよな」
「迷惑って?」
「あいつらさ。一人一人はいいやつなんだと思うけど、一緒にいると周りに害しか及ぼさないじゃん」
「そうですか。あたしにはよくわからないけど」
「いーや。君にだってよくわかってると思うけどな」
「わかりません」
「現に一緒に旅行に行った妹友ちゃんが傷付いているでしょ。女だってそうだし、それに新ネタだけど女友も兄に告って振られたらしいよ」
「・・・・・・誰です?」
「女の親友。何か飲み会で男に絡まれていたところを兄に助けられて惚れちゃったんだと。ヘブンティーンの表紙を飾るモデルとかまでしてる子なんだけどね」
「ああ。前にあなたが可愛いから何とかしたいって言っていた人ですね」
「・・・・・・よく覚えてるね。だけど何なんだろうなあ。別に兄なんか格好いいわけでも何でもないのに、何でこんなにもてるのかな。そしてどんなにもてても自分の妹がいいとか俺には理解できん」
「あなたは妹ちゃんが好きだったんですよね」
「ああ。昔妹ちゃんに告って玉砕したぜ」
「あなたはあたしが好きなのではなかったんですか」
「昔の話だって。俺が今好きなのは君だけだけどさ」
「・・・・・・・すごく迷惑だから本気でやめてください」
「君が話を振ったんでしょ。まあいいや。妹ちゃんについては君のほうがよく知ってるでしょ」
「確かに彼女はもててたし、そのわりには特定の彼氏を作ったことは一度もないですね」
「好きな男がいたからだろ」
「・・・・・・それがお兄さんだと言いたいんですか」
「うん」
どう反応すればいいかわからなかったからあたしは黙った。
<兄と妹を別れさせる会>
「とにかく女が兄を好きならって思って身を引いた俺は全くのピエロだよ」
「あなたの場合は後輩を妊娠させたんだから自業自得でしょう」
「妊娠してないって。でもまあそうだな」
「あの。実の兄と妹の恋愛とかって本当に成り立つものなんでしょうか」
「さあ。俺には弟しかいないしよくわかんないな。君の方こそ兄貴がいるんでしょ? 兄貴のことを彼氏として見れるの?」
あたしは沈黙した。昨夜の恐かったお兄ちゃんの行動を思い出したからだ。
兄貴のことを彼氏として見れるの? その応えはイエスでもありノーでもある。あたしはかつてお兄ちゃんに恋していてお兄ちゃんを恋愛対象としか見れなかった時期がある。でも、そんな関係はありえないと自分で納得してからは、お兄ちゃんから距離を置き、そしてお兄ちゃんの妹ちゃんへの恋愛を手伝おうと思った。
でも今ではどうなんだろう。お兄ちゃんの恋愛を手伝う気なんかさらさらない。マザコンのお兄ちゃんは妹ちゃんを手段としてしか見ていないことがわかったからだ。
無理矢理素肌に残されたお兄ちゃんの手の感覚がまだ残っている。その手はあたしが恋しているお兄さんのものではなく、恐い実の兄の手の感覚だ。ただ、あたしは一時期その手の持ち主に恋していたことも事実だったのだ。
そういうことを踏まえてもなお、あの場をお兄さんと妹ちゃんが邪魔してくれたことはよかったのだと思う。仮にお兄さんへの恋を諦めなければいけないとしても、それはお兄ちゃんへの恋を復活させることと同義ではないのだから。
「どうなんでしょうね。二人がお互いを好きなら有りなのかもしれませんね」
「自分が振られたのにずいぶん冷静だな。やっぱり君も兄貴のことが気になるんじゃ」
「あ、違いますよ? 妹ちゃんたちのことなら有りなのかもしれないけど、自分とお兄ちゃんなんて有りえないですから」
少なくともマザコンのお兄ちゃんとは。あたしは心の中でそう付け加えた。
「・・・・・・やべえ。そろそろ時間だ」
「何か用事があるんですか」
「まあね。つうか君も一緒に行かね?」
「はあ」
「この後女と女友と会うんだ。前から約束させられててさ」
「何であたしが一緒に?」
「さあ。でもテーマが兄と妹のカップルのことらしいんだよな。どうせ俺は尋問を受けるんだろけどさ」
「繰返しちゃって悪いんですけど、何であたしが一緒に行く必要があるんですか」
「兄の被害者の会設立かもしれねえじゃん。それなら妹友ちゃんにも参加資格はあるしな」
「あたしは別に被害者では」
「いいから付き合ってよ。俺だってたまには君とデートしたいしさ」
兄友さんはそう言ってにかっと笑った。
この人はどこまで打たれ強いんだろう。少なくとも今まであたしの周りにはいなかったタイプの人だった。どうせすることもないのだ。家に帰ってお兄ちゃんと気まずく顔をあわせるよりは、いいのかもしれない。結局あたしは兄友さんに着いていくことに決めた。
女友「それでは第一回兄と妹ちゃんを別れさせる会を開催します」
兄友「・・・・・・そういうのマジでよそうぜ」
女「うん。周囲が介入しない方がいいと思う」
妹友「何なんですかこれ。兄友さんあたし帰ります」
女友「まあみんな。少し落ち着きなさい」
女「もうよそうよ」
女友「そういやさ。兄友、紹介しなさいよ。その可愛い女子高生は誰?」
兄友「ああ、彼女は妹友ちゃん。兄と妹ちゃんの知り合い」
女友「ああ。兄と妹ちゃんと一緒に旅行に行ったと言う。ふ~ん。で?」
兄友「でって何だよ」
女友「何で兄と妹ちゃんを別れさせる会に彼女が参加しているわけ?」
兄友「別れさせる会なんて聞いてないぞ」
妹友「あたしやっぱり帰ります」
女友「何でよ」
妹友「こんなの卑怯ですよ。お兄さんと妹ちゃんがいないところで勝手に別れさせるとか」
女「そうだよね。あたしもそう思うかも」
女友「これは彼らを救うためじゃない。どう考えたって先には不幸しか見えてないんだよ。友だちのあたしたちが目を覚まさせてあげようよ」
女「・・・・・・兄に告ったくせに。よく言うよ」
女友「振られたんだからあんたを裏切ったことにはならないでしょ。未遂じゃん」
女「全くもう。あんたはあたしの心配をしてくれているのかと思ったのに」
女友「心配はしてたよ。お友だちからやり直しているはずのあんたが兄のこと避けてたし」
女「それは・・・・・」
兄友「とにかくよそうぜ。たとえ不幸なことになるにしたって、周囲がお節介を焼いていいことじゃないと思う」
女友「あんたはもう兄から絶好されてるかもしれないけど、あたしと女はまだ兄の友だちだからさ。みすみす不幸になるのは見過ごせないよ」
兄友「そもそもあいつらが付き合っているって言う証拠はあんのかよ」
女友「決定的な証拠はないが限りなく黒だと思う」
兄友「証拠なしかよ。まあ俺も二人は好き合っているとは思うけどな。ね妹友ちゃん」
妹友「・・・・・・」
兄友「妹友ちゃん?」
妹友「旅行中、抱き合ってキスしてましたよ」
女友「・・・・・・マジで?」
女「うそ」
兄友「・・・・・・言っちゃったよ。女友が止められなくなるぞ」
妹友「無理に別れさせるとかはどうかと思いますけど、事実は事実ですし。それに」
兄友「それに?」
妹友「お二人もお兄さんことを好きなのだとしたら、事実を知る権利はあるんじゃないかと思って」
女友「お二人も? あなたも兄のことが好きなの」
妹友「あ・・・・・・」
兄友「自爆かよ」
女友「そうか。あなたも仲間か。じゃあ詳しく話してもらおうかな」
兄友「もうよそうぜ」
妹友「二人とも水着姿で、ベッドに仰向けになったお兄さんに妹ちゃんが上から抱きついてました」
女友「キスしてた?」
妹友「ええ。お兄さんが妹ちゃんの背中を抱きしめてて、妹ちゃんもお兄さんの首に両手で抱きついてて。その状態で二人はキスを」
女友「これはもう確定だね。やっぱり実の兄妹同士でできてたか。最初から怪しいとは思ってたけど」
女「もうやだ」
女友「泣くなよ。それより復讐だ」
兄友「復讐っておまえ。最初に言ってたことと違うじゃねえか」
女友「うるさいなあ。復讐でもあり兄たちを救うことでもあるんだってば」
兄友「何か相当無理がある気がする」
女友「一石二鳥だって」
妹友「本気で二人を別れさせる気なんですか。何だか大きなお世話だって気がしますけど」
兄友「そうだよ。妹友ちゃんの言うとおりだ。もうそっとしておいてやろうぜ」
女友「友だちだからね。二人が不幸になるのは放っておけないしさ。それに第一このままじゃ悔しいじゃん。あたしたちがバカみたいで」
妹友(・・・・・・確かにそうだ。振り回されるだけ振り回された感じがするし。最初は不純な動機からお兄さんに接近したあたしの場合はともかく、女さんと女友さんは犠牲者といってもいいかもしれない)
妹友(それにあたしの今の感情だって行き場がない。無理矢理別れさせるとか無茶な話じゃないんだったらあたしも協力して・・・・・・)
妹友(それにあの二人はきっと妹ちゃんの方がお兄さんに執着しているはず。お兄さんは一度はいい兄貴になるって決めてくれたんだし)
妹友「とりあえず何をする気なのか、お話を伺いましょうか」
兄友「マジかよ」
<新しい生活>
妹「お兄ちゃん」
兄「何だよ」
妹「浴室から出る前に身体を拭いてって言ったじゃん。何で毎日バスマットを濡らすのよ」
兄「一応、バスルームの中で身体を拭いてはいるんだけど」
妹「だってバスマットが濡れてるじゃん。次に入る人の身になりなよ」
兄「そんなに濡らしてるかあ」
妹「濡れてますぅ。ほら」
兄「ば、ばか。顔に濡れたマットをくっつけるな」
妹「・・・・・・ふふ」
兄「・・・・・・何だよ」
妹「冷たかった?」
兄「冷めてえよ」
妹「ようやく思い知ったか」
兄「何なんだよいったい」
妹「ほら。濡れたとこと拭いてあげる」
兄「こらよせ! くすぐったいだろうが」
妹「じっとしててよ」
兄「・・・・・・・おまえなあ」
妹「気持よかったでしょ」
兄「全く」
妹「ほら。テーブル片付けて。夕ご飯の準備ができないじゃん」
兄「夕飯何?」
妹「見ればわかるでしょ」
兄(これは。俺の好物のさわらの西京漬けと。あと、オムライス?)
兄(何この記念日的メニュー)
兄(さわらとオムライスって食い合わせはどうよ)
妹「じゃあ食べようか」
兄「(共通点は俺の好物ってだけだな)おう。いただきます」
妹「いっぱい食べてね」
兄「なあ」
妹「なあに」
兄「・・・・・・そのさ」
妹「何よ」
兄「あのさ。その。俺は・・・・・・。おまえのこと愛してる」
妹「へ?」
兄「父さんたちの離婚とかいろいろあったけど、今こうしておまえと一緒に暮らせて、おまえが料理してくれて。俺、本当に幸せだわ」
妹「お兄ちゃん・・・・・・」
兄「ずっとこうして俺と一緒にいてくれるか」
妹「・・・・・・」
兄「・・・・・」
妹「・・・・・・・はい」
今まで妹の姿はいろいろと見てきたのだけど、うっすらと浮かぶ涙で目をうるませた妹を見るのは初めてだったかもしれない。
妹「お兄ちゃん」
兄「うん?」
妹「ママがね。この先はあたしたち二人に任せるけど、いろいろと計画的に生活しなさいって」
兄「そうだな。お金の使い方とかもそうだし、毎日の生活のルールとか将来の目標とかも決めておくべきだし」
妹「・・・・・・もちろんそういうのも決めておかなきゃだけど」
兄「他に何かあるの」
妹「・・・・・・えと」
兄「何だ?」
妹「ママがね。その・・・・・・きちんと避妊できないならそういうことはしちゃ駄目って」
兄「あ、ああ」
妹「・・・・・・うん」
兄「それはそうだよな。当然だよな。旅行の時はごめん」
妹「生理がきたからあれはもういいけど」
兄「わかった。ちゃんとするから」
妹「勘違いしないでね? あたしは後悔はしていないんだから」
兄「何だよ」
妹「後悔はしてないけど。でもママがあたしから目を逸らしながら避妊しなさいって言ったのを聞いて、あたし思わず泣いちゃった。こんなことをママに言わせたのはあたしなんだって思って」
兄「姫・・・・・・(泣いてる)」
妹「ごめんね。もう言わないから」
兄「いや。姫のいうとおりだと思うよ。それに姫と暮らせるのだって火事場泥棒みたいなもんで、父さんたちが離婚しなければ母さんだって絶対に許してくれなかったろうし」
妹「うん。でも、あたしはこれでよかったって思ってる。好きな人と、お兄ちゃんとずっと一緒に暮らせるんだもん」
兄「うん。せめてこれ以上は母さんを心配させないようにしないとな」
妹「そうだね。あたしも頑張る。絶対にお兄ちゃんと同じ大学に合格してみせるから」
兄「おう。俺も勉強してちゃんと就職するからな」
妹「・・・・・・お兄ちゃん」
兄「こら。まだゴム買ってないんだしあまり抱きつくな」
妹「そこは理性で抑えないと」
兄「俺の理性にだって限界があるの」
妹「ふふ」
兄「だからよせって」
妹「計画的に生きるんでしょ?」
兄「・・・・・・コンビニ行って来てもいい?」
妹「あたしも行く。プリン買いたい」
兄「・・・・・・」
妹「冗談だよ。一緒に行こ」
「何かどきどきしてきた」
女友さんがそう言って落ち着かない様子でスタバの店内を見回した。
「今になって何言ってるんですか」
「だってさ。まさかもう来てたりしないよね」
「いませんよ。あたしは妹ちゃんのお母さんの顔を知ってますから」
「何と言って兄のお母さんを呼び出したんだっけ」
「それ、もう何回も説明したじゃないですか」
「今は頭の中が真っ白なんだよ。全然思い出せないから予習的な意味で教えて」
「お兄さんの大学での生活態度についてお話したいことがありますって。妹ちゃんのお母さんの会社に電話してそう話しました」
「そうだったっけ。でも、それってどういう意味なの」
「簡単に言えばモデルとかしているような尻軽な女の子に騙されて相当貢がされてるみたいです。放って置けないのでご相談したいんですけどって言いました」
「なるほど。それなら母親は食いついてくるよね。って、モデル? 尻軽?」
「はい」
「まさかあたしのことじゃないでしょうね。つうかあたしがいつ兄に貢がせた?」
「そんなことはどうでもいいんですよ。普通に相談があるって言っただけでは警戒されるでしょうし、かといって最初からお兄さんと妹ちゃんのことで相談があるなんて言ったら、話しを見透かされて事前に二人を問い詰めちゃうかもしれませんし。とにかく今日来てくれればそれでいいんですから」
「それはそうだけど。妹友ちゃんあたしのことをそういう目で見ての?」
「さあ? でもいいじゃないですか。お母さんが来たら本当のことを話すだけなんだから」
「何か納得できない。でも今は妹友ちゃんを問い詰めている心の余裕はないわ。やばい。何だかどきどきして来た」
「意外とメンタル弱いんですね。自分で言い出したことなのに」
「妹友ちゃんは最初は反対してたけど、その気になったら容赦ないのね。迷いが全くないっていうか」
「決めるまでは迷いますよ。でも、決めてまで迷うのは愚者の逡巡にすぎません」
「あなた本当に高校二年?」
「そうですけど・・・・・・あ、お母さんが店に入ってきました」
「うう。お腹痛い」
「もう覚悟を決めてください。あ、こっちです。お呼び立てしてすいません」
「妹友ちゃん。久し振りね」
妹ちゃんのお母さんはスーツ姿でとても若く見えた。この人も妹ちゃんのパパとうちのママの犠牲者なのだと思うと気が重くなった。そのうえ、更にショックなことを言わなければいけないのだし。でも、決めた以上もう迷っているわけにはいかない。
<密告>
「妹友ちゃんってうちのバカ息子と仲良かったんだっけ? 全然知らなかったわ」
おばさんがあたしに微笑みかけながら言った。
「えと。どうぞ」
あたしは少し席をずれておばさんの座る場所を空けた。
「ありがと」
おばさんがドリンクをテーブルに置いて腰掛けた。
「そちらは?」
女友さんを見ておばさんがあたしに聞いた。
「女友さんです。お兄さんの大学のお友だちで、女さんの親友です」
「は、初めまして」
まだ緊張しているらしく硬い表情と声で女友さんがあいさつした。
「こんにちは。まあ、女ちゃんのお友達なのね。女ちゃんはお元気?」
「あ、はい。元気です」
「最近会ってないのよね。いつからだろう。ああ、女ちゃんに彼氏が出来てからだ。ふふ。あのときはうちのバカ息子は女ちゃんに失恋したんでしょうねえ」
「いえいえ。そうじゃないと思いますよ」
てんぱっていた女友さんがよけいなことを言いそうだったので、あたしは慌てて口を挟んだ。
「あの。お礼が遅れましたけど別荘に誘っていただいてありがとうございました」
「あ、ああ。そうか。そうだよね。一緒に旅行に行ったんだっけ。だから兄のことを知っていたのね」
おばさんが今までそのことを忘れていたことが不思議だった。子どもたちが連休中に誰と過ごしていたかも覚えていないほど、子どもたちに興味がないのだろうか。妹ちゃんの家は家族全員がすごく仲がいいのだと、妹ちゃん本人から何度も聞かされていたあたしはおばさんの様子に疑問を感じた。
でもおばさんはそんなあたしの疑問なんかおかまいなしに話を続けた。
「ごめんね。仕事の途中だからあまり時間がないの。だから早速聞かせてもらおうかな」
「あ、はい」
「うちのバカ息子が性悪女に騙されてるって? まあ自業自得って気もするし、いい勉強だっていう気もするんだけどね」
「あ、いえ。それは違うんです」
ようやく気を取り直したあたしは本題に入った。それにしてもこの人は自分の子どもたちを大事にしているようには見えない。妹ちゃんの大好きだった家庭って何だったんだろう。何だか少し薄ら寒い思いが一瞬あたしの脳裏をよぎった。
「違うの? 電話では妹友ちゃんからそう聞いたんだけど」
「ごめんなさい。電話では本当のことを話すなんてとてもできなくて」
「・・・・・・どういうこと?」
ここまで作戦立案者である女友さんは黙って様子を伺っているだけだった。何であたしが正面に立たされるのよ。あたしはそう思ったけどもう後戻りはできない。
「お兄さんのことなんですけど」
「それはわかってるけど。いったいあのバカに何があったの?」
もう後戻りはできない。あたしは大きく息を呑んだ。
「妹ちゃんのことでもあるんですけど」
「妹? バカ息子のことじゃないの」
「いえ。そうなんですけど。」
「どういうこと」
あたしは言うべき言葉を口に出す前に一度胸の中で復唱した。
「本当はそうじゃないんです。お兄さんと妹ちゃんのことをお話したくて」
「兄と妹のこと?」
一瞬で叔母さんの表情が険しくなった。
「はい。嘘を言ってごめんなさい。でも聞いてください」
「聞くよ。だから早く教えて」
「お兄さんと妹ちゃんは恋人同士として付き合い出したみたいです」
「・・・・・・それで」
天晴れと言うべきか、おばさんはショックに耐えて表情を変えなかった。でも、実は相当に衝撃を受けたはずだ。あたしは次の言葉を口にした。
「旅行中に二人が抱き合ってキスしていたところを見ました。水着姿なんでほとんど裸の状態でした」
「そうか」
しばらくの沈黙のあとにおばさんが言った。
「それだけです。それがいいとか悪いとかはあたしたちには判断できないんで。でも、一応ご両親には伝えておいた方がいいかと思って」
おばさんがあたしを見た。表情からはおばさんがショックを受けていたかどうかなんて伺えない。
「そうね。聞かせてくれてありがとう」
おばさんは飲み物に手を付けずに立ち上がった。「教えてくれてありがとう」
おばさんの表情からは何を考えているのか本当にわからなかった。
「じゃあね。妹友ちゃんまたね。女友さんさよなら」
「はい」
異口同音にあたしと女友さんが答えた。
「うまくいったのかなあ」
おばさんがいなくなると急に元気が出たようでな女友さんがはしゃぎ気味に言った。
「どうでしょうか。いまいち反応に乏しかったですね」
自制したんだと思うけど、ひょっとしたらあたしが考えるほど妹ちゃんとお兄さんのことなんか気にしていないのかもしれない。そして、そうだとしたらその理由は一つだった。
自分の夫の浮気。自分の夫のあたしのママとの不倫。でも、そのことを誰がどこまで知っているのかはあたしにだってわからない。不用意におばさんに言っていいわけはないし、まして女友さんなんかに話すべきことではない。
「多分、目的は達成したんじゃないでしょうか」
確信なんかなかったけど、そのときあたしは女友さんにそう答えた。
それから二週間ほどたったころ、例の何とかという会の集まりがあった。何となく集まろうという話が緩く持ち上がり、あたしは兄友さんに誘われてその集まりに参加した。
あたしたちの作戦が成功していたことはもうみんな知っていた。
おばさんに告げ口した後、突然妹ちゃんは校内にある学生寮に入寮することになった。旅行以来学校でも妹ちゃんと全く口を聞いていなかったあたしは、その理由を直接聞くことはできなかったけど、それを推察することは難しいことではなかった。
あたしはそのことを別れさせる会のメンバーに伝えていた。
「死にたい」
女友さんが言った。それを聞いた女さんも彼女から目を逸らして俯いてしまった。
「おまえら今さら何言ってるんだよ。自信をもって始めたことなんじゃなかったのかよ」
「だって」
「だってじゃねえよ。これじゃあ、おまえに乗せられて一緒に動いた妹友ちゃんがバカみたいじゃねえか」
「決行してから後悔するって、それは最悪の選択肢ですよ」
あたしも女友さんに言った。
「違うのよ。兄君と妹ちゃんを別れさせたことじゃなくて」
「あれよりひどいことしたの? おまえ」
「黙っているのも何か気持悪いから言うけどさ」
「どしたの」
女さんが顔を上げた。
「兄君がさ。校内で寂しそうだったから、ちょっと声をかけちゃってさ」
「声って?」
兄友さんが聞いた。
「いやさ。あたしたちのせいで兄君につらくて寂しい思いをさせちゃったとしたら申し訳ないし。兄君、明らかに寂しそうにしてたから」
「はい? 何言っちゃってるのおまえ。おとなしい俺でもいい加減怒るぞ」
「何であんたが怒る必要あるのよ」
「おまえ、いったい兄に何したんだよ」
兄友さんと女さんが同時に言った。
「ロケに誘った。そんで飲みに言った。そしたら大学の変なやつらに絡まれたんだけど、兄君が助けてくれた。彼、やっぱ格好いいよね。あの良さをわからない大学の女たちがバカなだけで」
「・・・・・・それで何で死にたいとか言うの」
元気のない声で女さんが言った。兄と妹を別れさせる会の中で、恐らくニ番目に罪がないのが女さんだったろう。そして一番罪がないのが兄友さん。
結果としてお兄さんと妹ちゃんの仲をおばさんに密告したあたしと女友さんが一番罪が重いはずだ。でも、このときあたしはまだその罪の本質的な重さに気がついていなかったのだ。そして、何だか落ち込んでいるらしい女友さんもその罪悪に気がついてはいないのだろう。女友さんの死にたいと言う言葉から始まった懺悔は、とても重い内容だったのにその口調はとても軽いものだったのだ。
「もうやだ」
女友さんが繰返した。
「だからやだって何がよ」
女さんが食いついた。彼女の気持を考えると無理もないとあたしは思った。
「助けてくれた兄君が格好よかったからさ。次の日に思わず」
「もったいぶるなよ。思わずどうしたんだよ」
兄友さんが聞いた。
「兄君に告ちゃった」
「だってあんた、もう兄君に告白して断られたんでしょ」
「・・・・・・嘘なの」
あたしたちは唖然として女さんを見つめていた。お兄さんと妹ちゃんを別れさせる作戦は、二人を不幸から救うためだと女さんは言っていた。でもそんなことは誰も信じていなかった。女さんが口を滑らせたようにそれは復讐でもあり、また、リベンジの機会を得るための自分勝手な行動に過ぎない。それを承知であたしはその行動に手を貸し、女さんは積極的には加わらなかったけど、結局それを黙認した。
「じゃあ、いったい何で・・・・・・」
あたしと女さんの声が期せずして交錯した。
「好きは好きだったのよ。でも兄君と妹ちゃんを見ているととても勝てる気がしなくてさ。モデルって言ったって兄君は全然そういうことに関心がないみたいだし。だから、二人を別れさせてから告ればいいかなって思って」
そのためにみんなを集めたのか。あまりの身勝手さにあたしは言葉すら出なかった。
「それで?」
この場にいて唯一冷静だったのは兄友さんかもしれない。
「・・・・・・目的どおり兄君は家を追い出されて一人暮らしを始めたでしょ? それで学内でも寂しそうにしてたから。慰めてあげようと思ってお弁当を作ったりしてね」
あたしも女さんも何となく不戦同盟を結んでいた錯覚を覚えていたのかもしれない。冷静に考えればこんなにお節介でひどいことを共同でした以上、そこには暗黙の了解があったはずだった。それはお兄さんに関しては、妹ちゃんと引きはがされたお兄さんがどんなに弱っていようと、勝手に手出しをしないということだ。そうしないと、あたしたちのしたことは単純に妹ちゃんからお兄さんを自分に奪い取るための行為となってしまう。
女友さんはあたしの考えが揺れていることなんかに構わずに話を続けた。何か一刻も早く悩みを吐き出して楽になりたいかのように。
「そんで思わず告ちゃったの。前に言ってたのは嘘。でもそう言わないとみんな協力してくれないでしょ?」
もう言葉すら出ない。さすがの女友さんもその場の雰囲気に何か感じるところがあったのか、今さらながら言いわけを始めた。
「嘘言ってごめん。でも振られたわけだし結果的には嘘じゃなくなっちゃったから」
彼女はあたしたちに微笑みかけた。
『あの・・・・・・さ』
『うん』
『昨日はその。ありがとね』
『何が? ああ。撮影に付き合ったことか。別に気にしなくっていいよ、どうせ暇だったし』
『違うよ。あたしを助けてくれたこと』
『ああ。別に。つうかあれは俺の方が絡まれていたっぽいし』
『そんなことないよ。あたしがあいつらに手を掴まれたときあたしのこと助けてくれたじゃない』
『さっきから何考えてるの?』
『別に』
『冷たいなあ。友だちでしょ? あたしたち』
『まあそうだな』
『何か悩みでもある?』
『ねえよ』
『嘘つけ。あたしの勘は結構当たるんだって』
『だから今まで一度だって当たってねえだろ』
『おまえ、ひょっとして俺のこと好きなの?』
『一緒に来て』
『いや。悪い。俺、ちょっと考えなきゃいけないし。本当に悪いな』
『・・・・・・何でよ』
『え?』
『あたしが誘ってるのに何で来てくれないのよ』
『おまえさ。いくら女の親友だからって俺に弁当作る必要はないだろうが』
『・・・・・・わざと言ってる?』
『いや』
『俺のこと好きなのって聞いたよね? 答えるよ。その図々しい質問に。そうよ。君みたいな持てない冴えない男のことが好きになったの。そうよ、あたしは君が好き。悪い? 何か文句あるの。何とか言え。売り出し中の若手ファッションモデルに告られたんだよ。喜んで付き合うよって言えよ』
『そう』
『・・・・・・嬉しいでしょ? ねえ嬉しいって言ってよ『』
『・・・・・・すまん』
『すまんじゃないでしょ。嬉しいよって言って』
<暖かい腕>
女友さんの告白に続く重苦しい沈黙をあたしは破った。
「女友さんが綺麗で陽気な人なのにこれまでお友だちが少なかった理由がよくわかるお話でしたね」
女友さんが驚いたようにあたしを見た。きっと自分の嘘を優しくたしなめられつつ、軽く慰められるくらいに思っていたのだろう。女友さんの当てがはずれたのだ。
「・・・・・・悪いけどあたしもそう思う」
女友さんと大学で知り合い、彼女の親友になったという女さんもあたしに同調した。この場で黙っているのは兄友さんだけだった。
「それってどう考えても卑劣な嘘じゃないですか。いくら振られて自爆しているにしても」
「何だよ。兄のためとか言いながら結局は自分のためじゃねえか」
兄友さんが静かに言った。
「あんたには言われたくない」
「兄友には言う権利があると思う」
そのとき女さんが顔を上げはっきりと言った。
「何でよ。こいつはあんたを裏切ったんだよ。何で庇うの。女ってまさか兄じゃなくてまだこいつのことを」
「今は兄友よりもあんたの方がむかつく」
これまで女さんのほかには親友ができなかったという女友さんが呆然として傷付いた表情を見せた。お兄さんに振られる以上の衝撃を受けていたのかもしれない。それでもあたしはもう彼女に同情する気にはならなかった。
「何でよ。あたしたち親友でしょ? あんたの好きな男に告ったのは謝るけど振られたんだからチャラでしょうが」
女さんが答えるより前に兄友さんが声を出した。
「おまえバカか」
「な、何よ」
「結果じゃねえだろ。親友の彼氏に恋するなとは言わねえけど,告るならせめて筋通せよ。女にそう言ってから告りゃいいだろうが。それに騙してあの二人を別れさせるようなことまでしやがって。何が売り出し中のモデルだよ。ファンが知ったら悲しむぞ」
「脅迫する気なの」
「しねえよ。そんな価値すらおまえにはねえよ」
筋を通せか。あたしはぼんやりと考えた。兄友さんはああは言ったけど、女さんのショックはそういう理由じゃない。むしろ、女友さんがその秘密を黙って墓場までもっていってくれた方が女さんにとっては気が楽だったろう。女さんは、平然とその卑劣な行動をみんなにカミングアウトして慰めてもらおうとした女友さんのメンタリティにショックを受けたのだ。一時は親友だと思っていた女友さんが異星人のようにコミュニケーションできない相手だったことの方が、実際に裏切られたことよりもショックだったのだろう。
あたしはそう思った。
「女はともかく妹友ちゃんは実際に手を汚したんだぞ。二人のためだっていうおまえの言葉を信じてよ」
兄友さんが言った。それから彼はあたしを見た。
「もう女友と話してもしかたないな。解散。もう行こうぜ、妹友ちゃん」
あたしは黙って彼の後について行った。
翌日、あたしはまた兄友さんを呼び出した。兄友さんはまるであたしの精神安定剤みたいだ。
このときのあたしは女友さんの告白に受けたショックなんかどうでもいいくらいのひどい出来事に遭遇していた。そんなときに相談できる相手をあたしは本能的に考えた。妹ちゃんには会わせる顔がない。お兄さんにも。
お兄ちゃんは利害関係が複雑でとても相談できない。第一、あの出来事の後では親密にお兄ちゃんと話せば自分の身が危険かもしれない。あたしは消去法でいつのまにか兄友さんに電話をかけていた。
「今日はずいぶん早いんだね。つうかさ、授業さぼったんじゃ」
「してません。今日はオープンスクールだったんで役員以外は午前中で下校だったんですよ」
「そう。妹友ちゃんさ、昨日のこと気にしてるだろ」
「してません」
「嘘付け。じゃなかったら昨日の今日で俺を呼び出したりしないでしょ」
「もともと人間性なんかに過度の信頼を置いていなかったですから、女友さんの抜け駆けくらいじゃ動揺したりしないですよ」
兄友さんのくせに。兄友さんごときが何を偉そうに。
「今日は相談があって」
「相談って俺に?」
「あなたに相談がないなら呼び出したりしないでしょ。どこまで頭が」
「頭が悪いとか言うなよ。俺って意外と繊細で傷付きやすいんだから」
「・・・・・・」
「お願いだから何か突っ込んで。黙られるとつらい」
「・・・・・・ママの浮気相手と話しちゃった」
「何だって」
「意外と冷静に話せるものなんですね。我ながらびっくりしました」
「妹友ちゃん・・・・・・」
「ふふ。家族以外にこんなこと初めて話しちゃった」
「泣いてるの」
「泣いてない」
「泣いてるじゃんか」
「うっさい。黙れ」
泣き出したあたしを、兄友さんは最初はおどろいたように眺めていただけだったけど、しばらくしてあたしは自分の肩に暖かい手が置かれたことを意識した。そういう優しい経験はお兄ちゃんやお兄さんを考慮するまでもなく、あたしにとっては初めての経験だった。
「何なんですか。いったい」
あたしらしくもなく兄友さんに肩を抱かれたままかろうじて声を出した。
少し落ち着くとあたしは急に恥かしくなった。あたしは無意識のうちに兄友さんの胸に顔を押し付けて泣いていた。我に帰って顔を離すと彼のシャツに涙の跡がくっきりと残ってしまっていた。
「ごめんなさい」
「いいよ。こんなときに不謹慎かもだけど嬉しいから」
「嬉しいって?」
「初めて君が俺を頼ってくれた」
「ば、ばかじゃないんですか。いつあたしが」
「わかってるよ。俺の勘違いだよな」
「・・・・・・本当にバカなんだから」
兄友さんがまた少しだけ笑った。それから彼は真面目な表情になりあたしを見た。
涙とかで顔がぐちゃぐちゃになっていないだろうか。あたしは少し慌てたけど、そのことによってあのときから胸を繰り返し苛んでいたあの重苦しい痛みから一瞬だけ開放されたのだ。
「実は」
あたしはもう肩を抱く兄友さんの手に逆らわず素直に話し始めた。
<慰め>
いい加減、女友さんのことと自分のしでかしてしまったことに動転していたあたしは、ママに会って更に動揺していたけど、兄友さんに慰めてもらっているうちにだんだんと落ち着いてきた。彼はずいぶんと遠回りしてあたしを自宅まで送ってくれた。
「じゃあね」
「あ・・・・・・。あの」
「どうしたの」
「・・・・・・何でもないです。今日はありがとうございました」
「・・・・・・どうしたの」
「兄友さんって失礼ですね。何でわざわざそんなこと聞くんですか」
「いや。君がしおらしく俺にお礼を言うなんて何か恐い」
「どこまで失礼なんですか。あたしを何だと思っているんです? 感謝しているときはあたしだってお礼を言います」
「いやいや」
「いやいやってあたしのことは全否定ですか」
「否定とかしてないから。つうか感謝されるようなことはまだ何もしてねえし」
「まだ?」
「いや。まだっつうか・・・・・。妹友ちゃんは深読みしすぎだっつうの。とにかく俺は君に感謝されるいわれはない。以上」
「・・・・・・」
「・・・・・・何だよ」
「本当にありがとう」
「何なんだよいったい。後輩を妊娠させて女を振っておきながら復縁しようと画策するようなクズだぞ、俺は。礼なんか言われても戸惑うよ」
「あたしも人のことは言えないですけど、兄友さんって不器用ですね」
「・・・・・・わかったようなことを言うなよ。俺はただのクズだよ。君に何がわかるんだ」
「わかりますよ。とにかく話を聞いていただいてありがとうございました」
「ああ。それは別にいいけどさ。あまり考えすぎない方がいいぜ。兄の親父のことを見直しているようだけど、しょせん浮気するような男はクズなんだから」
「・・・・・・あなたがそれを言いますか」
「自分がやらかしてきたからわかるんだよ。兄の親父のことは信用するな」
「よく考えてみます。じゃあ、お休みなさい」
「お休み」
この日、あたしが兄友さんに相談したのは、お兄さんと妹ちゃんのことではなかった。
兄と妹を別れさせる会の会合のあと、あたしは兄友さんと一緒にその場を後にした。駅前で自分で期待していたよりもずいぶんとあっさりと兄友さんはあたしをリリースした。
その直後、あたしの携帯が鳴った。ママからだ。
「ママ?」
「もう学校終った?」
「今日はオープンスクールだったから。午前中で」
「今から会える?」
『別にいいけど。どうしたの』
何か嫌な予感がする。
「じゃあ、駅前のスタバでね」
「わかった」
ママと待ち合わせしたファミレスでママと向かい合って座ると、急に緊張があたしを襲った。本当はお兄さんと妹ちゃんとのことなんかのんびりと話し合っている場合じゃないんだ。今さらだけどあたしはそのことを思い出した。愛とか恋とか以前に自分の家庭が危ういんだった。海辺への旅行やお兄ちゃんに襲われかけたことでいろいろと自分を失っていたけど、自分にとって今の最大の危機はママの浮気だろう。
こんなことを今まで忘れていた自分に呆れるとともに、正面に座っているママの表情にびくびくするほどの違和感とストレスを感じる。
「ごめんね突然」
「・・・・・・どうしたの」
ママがこんな時期にあたしを呼び出す理由は一つしかない。あたしは暗い思いでそう考えながら返事した。
「うん・・・・・・。あ、そうだ。あなたお昼まだでしょ。ドリンクだけじゃなくて何か食べれば」
ママが突然名案を思いついたように言った。あたしは緊張していたのだけど、ママの言葉にイライラした。
「お腹すいてないし。それよか用事があるんでしょ」
「あ、うん」
「・・・・・・どうしたの」
「あのね。あなたとお兄ちゃんには本当に悪いんだけどね」
ママが俯いて言った。やっぱりその話か。あたしは覚悟を決めた。でも、言い難いのかママはなかなか本題に入ろうとしなかった。
「いったい何? 用事があるなら早く言って」
「うん」
「・・・・・・何か大事な話なんでしょ。わざわざ呼び出したんだし」
あたしは意地悪だ。でも家庭を壊す話をしようとしているママにならこれくらいのことはしてもいいだろう。
「そうね。あのね、あたしとパパは離婚するの。それをあなたに言いたかったの」
ストレートにきた。回りくどい言いわけなんか望んでたわけじゃない。
「・・・・・・本気で言ってるの」
「うん、ごめん。だけど本気。もうパパとは一緒に暮らせないから」
「最初から話して。本当にパパのせいなの?」
気のせいかママは少し怯んだようだったけど、見た目は強気のまま話を続けた。
「ママはね。結婚してすぐに後悔したの。何でこんなに理解のない人と結婚したんだろうって。でも、結婚してすぐにお兄ちゃんが生まれたし、続いてあなたが生まれたんでママは育児に必死だったのね。パパなんか仕事ばかりい夢中で全然役に立たなかった。けど、ママはあなたたちのことで精一杯で、その頃からパパとはもうやっていけないって思ってたけど子どもたちのためなら我慢しようって思ってた」
あたしは最初に覚悟していたほど慌てなかった。というか、目の前にいる女性が何か奇妙な動物のような気がして、辛いと思うことすらなかった。この人はあたしとお兄ちゃんの育って来た家庭を全否定しているのだ。
「一度妥協するとどこまでもずるずるとしちゃうのね。出産直後から育児に興味ないパパには未練なんかなかったけど、保育園の卒園までとか小学校卒業までとか考えているうちにここまで来ちゃった」
「・・・・・・ママは何が言いたいの?」
「ずっとつらかったの。もちろん、あなたとお兄ちゃんはあたしの生き甲斐だったけど、それ以外はつらいことだけだった」
「それで」
「でも、あたしにもようやく本当に信頼できる人が見つかったの。本当に偶然の出会いだったのだけど」
「ようやく浮気相手が見つかったってことね。よかったね」
「そんなこと言わないで。彼は浮気相手なんかじゃない」
「ママはどうしたいの」
「うん。ごめんね。あたしは彼ともう一度人生をやり直したいの。パパとじゃなくて彼と一緒に」
「ママとパパが喧嘩ばっかりしてたことは知ってるよ。だからといってパパを裏切って浮気するなんて最低じゃん」
「・・・・・・・あたしだってずいぶん我慢したのよ」
浮気して離婚したい人の言いわけとしてはそれはデフォルトの言葉なのだろう。あたしはもう冷静になっていたから、そんなママの言葉はスルーした。
<浮気相手>
「ママのしたことって浮気だし不倫じゃない。パパが嫌だったけど我慢したのはあたしたちのせいだなんて。そんなの責任転嫁じゃない」
「だって、ママが離婚したらあなたたちが悲しむと思って」
「そう思うなら何で今離婚するの? もう高校生だから悲しまないとでも思っているの」
「それは」
「結局、好きな男ができたからその人と暮らしたいだけじゃない。順序が違うでしょ?」
そのときママの目が泳いだ。あたしはママの視線の先を追った。やっぱりか。
以前、妹ちゃんの家に遊びに行ったときあたしは偶然にその人に会いあいさつしたことがあった。妹ちゃんはお兄さんがいる時はあたしを自宅に招こうとしなかったけど、それ以外の家族がいることは全く気にしていなかったから。
ママの視線の先にはそのとき会った人が座っていた。二人の視線が交錯し、その人は黙って頷いて席を立った。
最初からママはそのつもりだったのだ。あたしは席を立とうとした。
「待って。騙すようになっちゃったのは謝るから彼に会って。話さえすればどういう人なのかわかるから」
ママはあたしが妹ちゃんのパパと会っていることを知らない。でも、妹ちゃんのパパはどうなのだろう。自分の不倫相手の娘であるあたしが、最愛の娘の親友であることを知っているのだろうか。
「こんにちは」
穏かで深みのある低音の声がして、目の前にその人が立った。
「お久し振りです。いつも妹ちゃんには仲良くしてもらってます」
男の人とママは驚いたようだった。
「あれ? 君ってたまにうちに遊びに来ていたね」
「はい。妹ちゃんとは親友です」
「そうか。君だったんだ」
ママとこの人は富士峰の授業参観や保護者会で親しくなったということだから、ママの娘が妹ちゃんの友だちであることは承知していたのだろうけど、そのあたしが実際にあのとき家で会った子だとは思わなかったようだ。
「君だったんだね。初対面かと思っていたのに」
妹ちゃんのパパは動揺する様子もなくそう言ってさりげなくママの隣に座った。
「紹介する必要なくなっちゃったね」
ママが隣に座った彼を見て微笑んだ。
「でも一応言っておこうかな。この人は池山さん。あなたのお友だちの妹さんのお父さんなの」
「・・・・・・知ってる」
「改めて今日は。妹友ちゃん」
こんな人にちゃん付けなんかされたくない。あたしはむすっとして軽く頭を下げた。
しばらく奇妙な沈黙の間があいた。
「あなた。あの話をしないと」
あなたか。思い返せばずいぶん前からママはパパに対しては人称がない。あなたとも君とも、名前ですら呼んでいない。人称がなくても不便でないのはきっとママがパパに対してあまり話をしないからなのだろう。ママにとってのあなたはこの人なのだ。
「いや、その前に」
池山さんがあたしの方を見た。
「この間は息子と娘の情けない関係を教えてくれてありがとう」
すっかり忘れていた。あたしは妹ちゃんのママを呼び出して二人の関係をちくったのだった。ママの不倫のことしか頭になかったあたしは完全に不意を突かれた。
「あ、あの」
情けない。不倫男相手にどもってどうするのだ。
「妻から聞いたよ。一緒に旅行にも行ってくれたんだってね。あのバカ二人のせいで嫌な思いをしたでしょう」
あたしは黙っていた。
「教えてくれてありがとう。バカ兄貴は家を追い出したし、娘の方は寄宿舎に入れたよ。ちょっと手遅れっぽいけど何とか引きはがせてよかったよ。妹友ちゃんのおかげだ」
「妹ちゃん、何か言ってませんでしたか」
ママの不倫相手と話をするのは嫌だったけど、純粋な好奇心に負けてあたしはつい聞いてしまった。
「正直に言うと修羅場だった」
ちょっと辛そうな表情だ。妹ちゃんを溺愛しているこの人なら妹ちゃんの悲嘆はつらい出来事だったのかもしれない。
「娘は兄に抱きついて泣いてたよ。こっちの方がおかしくなりそうなほど悲し気に」
「そうでしょうね」
「それに比べて兄の方は落ち着いてたな。本当に妹のことが好きならもっと取り乱してもいいはずなんだ。その様子を見て私は思ったんだ。兄は妹のことは本気で好きになったんじゃないって。きっとあの年頃にありがちな恋愛欲求を手近な妹ですませようとしたんじゃないかって」
「そんなわけないでしょ」
あたしは思わずため口で池山さんに反論してしまっていた。
「そうとしか思えない」
池山さんが言い切った。
「だいたい妹の方が昔からもてていたのに比べて兄の方はさっぱり女っ気がなかったからね。情けないことに」
「あら。ご自分の若い頃はさぞかしおもてになったのかしら」
ママが微笑んでいった。
「そうじゃないけど。とにかく兄が本気ならあのときもっと私に反発したはずなんだ。そうされてれば私だって」
そうされていれば二人の仲を許したとでも言いたいんだろうか。
「お兄さんは女の子にすごく人気がありますよ。昔から仲のいい女さんとか大学の友人でモデルをやっている女友さんとかがお兄さんのことを好きみたいですし」
「本当か」
池山さんが驚いたように言った。妹ちゃんとお兄さんの仲を邪魔したあたしにとっては、論理的な思考ではなかったけど、なんだかお兄さんがバカにされているのが嫌であたしはこのとき少し興奮していたみたいだ。
「お兄さんの取り合いみたいになっているし。妹ちゃんの仲をご両親に告げ口しようという話だって、どうもお兄さんを妹ちゃんと別れさせたいからみたいだし」
「うーん。ちょっと早まったかな」
池山さんが苦い顔で呟いた。
「早まったもいいところでしょ。本当に愛し合っていたかもしれないですよ」
あたしはいったい何がしたいのか。計画どおりに二人を別れさせたのはあたしの方じゃないか。何を今さら池山さんを責めているんだろう。このとき、ママは黙ってあたしと池山さんのやりとりを聞いていた。その様子は嬉しそうだった。どうも、その話題が何であれあたしと池山さんが親しい口調で話をしていることが嬉しいようだ。
「だったら何で黙って家を出て一人暮らしを始めたんだろう。妹に泣きながら抱き着かれていたのに」
「妹ちゃんが好きだったから無理に添い遂げて不幸にさせなくなかったんじゃないですか」
「そうかな。私たちにばれて自棄になって諦めたんじゃないかな」
「自分の息子のことなのにそんな感想しか持てないの? あなたは妹ちゃんだけが唯一の大切な子どもなんですか。お兄さんのことは理解しようともしないの?」
あたしはいつの間にか目に涙を浮かべてなかば叫ぶように言っていた。恥かしい。こんなに感情的になるなんて。
<君みたいな子が兄と付き合ってくれたらいいのにね>
「・・・・・・君はなんで妻に兄妹の仲を教えてくれたのかな」
池山さんとママはきっとこのときのあたしの剣幕に驚いたに違いない。そのせいか彼はしごく穏かにあたしに問いかけた。
「どんなに真剣に愛し合っていたとしてもその関係には将来がないから。多分、いつかはふたりとも不幸になると思ったから」
「そうだね。君は正しいと思うよ」
「でもやり方ってあるでしょ。いきなり二人を引き裂く必要なんかないでしょ。あなたはひょっとして妹ちゃんのことでお兄さんに嫉妬でもしていたのかしら。自分の娘をお兄さんに取られた気がしたんですか」
「いい加減に言葉を慎みなさい」
ママが口を挟んだ。この人にはそんなことを言う権利はない。
「へ~。家族を裏切ったママがそんなことを言えるんだ」
ママは赤くなって俯いてしまった。一応、羞恥心という概念はを理解できていたらしい。
しばらく訪れた沈黙を携帯が鳴る音が破った。ママの携帯だ。
「はい。ええ・・・・・・あたし。これから? 何があったの」
ママは眼前のあたしを忘れて電話に集中していた。いつもそうだった。パパもママも携帯が鳴った瞬間に家族のことに興味をなくすのだ。ママの好きな男がパパじゃなくて池山さんになってもそれは変わらないらしい。池山さんの方はあまりママの様子を気にしていないようだったけど。
「ごめん。中東のツアーがトラブってるみたい。あたし社に戻らないと」
「そうか。大変だね」
「何か空港がデモで閉鎖されちゃってツアーのお客さんが帰国できなくて足止めされてるみたい」
「それは大事だね。すぐ戻った方がいいいよ」
「呼び出したのにごめんなさい」
「話はどうする?」
「あなたに任せてもいい? この子もあなたには心を開いているみたいだし」
「わかった」
「また連絡するね」
ここまで話を理解できないでいるあたしにママが言った。
「悪いけど仕事なんで社に戻るね。あとは彼から聞いて」
ママはそそくさと店を出て行ってしまった。
「兄と妹のことを心配してくれたんだね」
ママが出て行くと池山さんが言った。
「ええ、まあ」
「君みたいな子が兄と付き合ってくれたらいいのにね」
あたしは池山さんの言葉に意表をつかれた。それは突然にあたしの胸に入り込み、あたしを貫いた。
「な、何言ってるの」
「私が自分の子どものうち妹姫のことだけを愛していると思ってるでしょ」
姫か。この人もお兄さんと一緒で妹ちゃんのことを姫と呼ぶ。いったい妹ちゃんはどんんだけ家族からお姫様扱いされているのだろう。別に自分の家族のことではないのだけれど、あたしはなぜかこのとき妹ちゃんに嫉妬してしまったようだった。
「兄が生まれたとき、私も妻もすごく喜んだんだよ。私と妻の間にはもはや愛情なんかないけど、それでも兄のことを気にして大切に考えているのは二人とも同じだと思うよ」
「信じられません。あなたは妹ちゃんだけを贔屓にしているとしか思えません」
「そう見えるかもしれないとは私も思うよ。でも兄だって大切な息子なんだ。問題は兄が姫を抱いたということだ。いくら兄も姫も大事だとはいえそんなことは絶対に許せない」
何を言っているのだ、この人は。お兄さんと妹ちゃんは確かに水着姿で抱き合ってキスしていた。そこまでは事実だけど、お兄さんが妹ちゃんを抱いたって。池山さんが言う抱いたという意味は抱きしめたとかそっちの意味とは思えない。
「少しかまをかけたら二人は白状したよ。肉体関係があることを」
あたしは凍りついた。
「君のママに託された伝言を伝えるよ」
あたしは何も言えなかった。もう遅いのだ。お兄さんと妹ちゃんはついに一線を越えてしまったのだ。
「私は妻と離婚するし、君のママも君のパパと離婚する。民法で定めがあるのですぐにではないけど、半年後には私は君のママと再婚することになる」
「それで、できれば君と君のお兄さんには私と君のママと一緒に暮らして欲しい。私は妹も引き取るつもりだから」
「ずいぶん都合よく考えているんですね。妹ちゃんのママだって妹ちゃんを手放すとは思えませんけど」
池山さんの次の言葉はあたしを驚かせた。ここまで厚顔無恥なことを言える人がこの世の中にいるなんて。
「だから君には一緒に暮らしてもらいたいんだ。姫だって親友の君と暮らすことを喜ぶだろうし。そうしてもらえれば姫の親権を取るのに有利になる」
「そんなわけないでしょ。両親の離婚で親友と姉妹になるなんて、妹ちゃんが喜ぶわけないないよ。それにお兄さんはどうなるんですか」
池山さんはにっこりと笑った。
「兄の親権は私でも妻でもどっちでもいいよ。妻との間に兄の親権については争いはないんだ。どうせあと数年したら成人するんだしね」
やはりこの夫婦は妹ちゃんだけを優先している。お兄さんのことはどうでもいいのだ。
「でもね。さっきも言ったけど私は兄のことを心配している。自分の息子だもんね」
池山さんが突然あたしの手を握った。
「頼むよ」
「え」
「君が兄と付き合ってくれたら私も安心だ。君のママもそれがいいと言ってくれているし。君は兄のことは嫌いか」
「・・・・・・あたしは」
突然の甘い誘惑にあたしは戸惑った。池山さんとママの公認でお兄さんと付き合える道が、半ばお兄さんのことは諦めていたあたしに訪れたのだ。
「私と君のママと一緒に暮らして欲しい。それで兄と付き合って兄と姫をを救ってやってくれないか」
池山さんのその表情はどうやら冗談ではなさそうだった。
<お兄さん起きてください>
「初めて会った女の子に自分の息子と付き合うように勧めることなのかあるのかな。たとえ好きな女の娘だとしてもさ」
兄友さんはあたしの話を聞いたとき、疑わしそうな声を出した。それは普通に考えればもっともな疑問だった。でもあたしは兄友さんの言葉を無視した。自分の信じたいことを信じようという衝動が働いたのだ。
兄友さんはあたしのことが好きなのだろう。池山さんの容認の下であたしがお兄さんと結ばれるのを阻止したいと思ったのかもしれない。たとえ意識したのではなくても無意識のうちに。あたしは何も見えなくなっていたのだ。
『そのうち君にお父さんと呼んでもらいたいな』
あのとき池山さんはそう言った。
『何か勘違いしませんか。あたしはあなたとママの関係を認めたわけじゃない』
『ああ、それはそうだろうね。そんなに簡単に割り切れることじゃないだろうし』
池山さんが笑った。
『そうじゃないんだ。つまり君が兄の彼女とかお嫁さんになってくれれば、君は私のことをお父さんと呼ぶようになるだろ? そっちの意味なんだ』
『・・・・・・何言ってるの』
『君みたいな子が兄の彼女ならいいなって』
冷静に考えれば兄友さんの言うとおりだったろう。あたしのことなんか何も知らない池山さんがお兄さんの彼女にあたしがふさわしいなんて判断できる材料なんか何もない。
ママとの再婚に際してあたしを味方に使用と知っていると考えるのが妥当だ。それでもあたしは池山さんの言葉に乗ろうと思った。お互い様だ。どうせママと彼との仲は既定事項で今さらどうしようもない。それならせめてこの動きに乗じて自分の望みをかなえてもいいのではないか。あたしはそう考えたのだ。
「私と君のママと一緒に暮らす件に関してはよく考えて欲しいな」
「そうですね。よく考えます。パパと一緒に暮らすのかあなたたちと一緒に暮らすのか」
心が揺らいだせいか今でより穏かな口調になってしまた。こんな人相手に。
「君が私たちと一緒に暮らしてくれて、そして兄と仲良くなってくれると嬉しいと、私は本当にそう願っているんだよ」
「・・・・・・あたしが誰と暮らすことになるのかはまだわかりませんけど、それとお兄さんとのことは全然別な話でしょ」
池山さんはにっこりと笑った。あたしは自分の願望を読み取られているようで狼狽した。
「明日の夜は君のママと一緒に君を予備校に迎えに行くように頼まれているんだけど、いいいかな」
彼はそう言った。
「お迎えなんていりません」
「まあ、そうかもしれないけど。私も君のママに頼まれたんでね」
「今までだって一人で帰ってたんだから。何でママがそんなことを言うのかわかんない」
池山さんとあたしを親しくさせるためとしか思えない。
「いろいろ君のママと話し合っているんだ」
埒が明かないと思ったのか池山さんが話を変えた。
「いろいろって?」
「もう一つ別な考え方がある」
「何ですか」
「妹姫が私のことを嫌悪して君と君のママと一緒に暮らすことを拒否することもありえる」
ありえるって。それ以外は考えられないじゃない。
「その場合だけど。妹姫を私の妻に渡すことだけは避けたい」
この人は本当は妹ちゃんのことが好きなのではないんじゃないいいいいだろうか。あたしは直感でそう感じた。子どもがお気に入りのおもちゃを取り合っているのと同じだ。この人は自分の奥さんにお気に入りの妹ちゃんの親権を渡したくないだけではないのか
「その場合、姫には引き続き寮生活を続けさせる。もちろん、親権は私だけど」
池山さんはにっこりと笑ってあたしを見た。
「これは君のママの提案なんだけどね。その場合、君と君のお兄さん、そして兄も一緒に暮らしてもいいかなって思ってるんだ」
「お兄さん? お兄さんには一人暮らしさせるんじゃ」
「姫とは一緒に暮らさせないというだけだよ。姫が寮にいるなら私たちと兄が一緒に暮らしても問題はない。その方が君だって嬉しいでしょ」
この人はクズだ。自分の大切なはずの子どもたちまで、ママとの新しい生活を始めるための道具としてしか考えていない。妹ちゃんの切実なファミコンは全く実体を伴わない幻想であり彼女の空回りに過ぎなかったのだ。
今のあたしは妹ちゃんと仲違いをしている。旅行のときの彼女の振る舞いや態度は最悪だった。それでも池山さんの言動を聞かされていると、妹ちゃんが可哀そうに思えてくる。
「君と兄が一緒に暮らせばいろいろ楽しいだろうな。兄はいいやつだけどだらしないところがある。君みたいな子が兄を世話してくれたら、あいつも目が覚めるだろう」
「いい加減に」
「一緒に暮らすことで芽生える感情もあるだろうし。今にして思えば姫と兄の間違いだってきっかけは些細なことだろうしね」
二つの家庭を壊すための策略であることは十分にわかっていた。ただ、そのときあたしの脳裏に池山さんが囁きかけていた新生活の幻影がよぎったのだ。
新しい家の朝。あたしは隣の部屋でなかなか起きてこないお兄さんを起こすため、お兄さんの部屋に入る。声をかけてもお兄さんは起きてくれない。このままだと大学に遅刻してしまう。しかたなくあたしはお兄さんに手を触れる。そうしないとお兄さんが遅刻してしまうから。
『お兄さん起きてください』
『うるさいな。邪魔するなよ』
寝ぼけているお兄さんの声。しかたなくあたしはお兄さんに手を触れる。もう時間がないからだ。ベッドの中で温まって寝ているお兄さんの体は暖かい。もう少し寝かせてあげたいという自分の心を鬼にしてお兄さんの身体を揺さぶる。お兄さんはぶつぶつ文句を言いながら目を開ける。
『おはようお兄さん』
『妹友か。おはよ』
お兄さんが眠そうにあたしに答える。
これは今まで妹ちゃんが毎日繰返してきたことにすぎない。でも、その役目があたしのものになるのかもしれないのだ。
<じゃあ、帰るね。兄友さんはそう言った>
「変な夢を見て惑わされない方がいいと思うけどな」
兄友さんがあたしの回想を遮った。口にしたわけではなかったけど思考というかこの妄想はだだ漏れだったらしい。
「そんなことはあたしにだってわかってます」
情けなく兄友さんの胸に自分の顔を擦りつけながらあたしは弱々しく言った。
「まあ混乱するのも無理ないか。でも自分の両親の離婚と兄への気持はいったん切り離して考えた方がいいかもな」
「わかってるよそんなこと」
本当にわかっているのだ。ママやママと再婚するという池山さんを拒絶し、傷付いているであろうパパやお兄ちゃんの助けに専念するべきだということは。
「何かなあ。なし崩しに兄の親父さんと君の母親の手の内に落ちちゃいそうだな」
「・・・・・・そんなこと」
「ないって言い切れる? 君の望みが叶うんだよ」
「・・・・・・何でそんなに意地悪するの」
肩を抱いてくれていても兄友の言葉は今のあたしにとって辛らつなものだった。
「意地悪するつもりじゃないんだけど」
「ひどいよ。兄友さんがあたしのことが好きだからって、そんなに責めることはないでしょ。あたしとお兄さんを仲良くさせたくないだけじゃないんですか」
兄友さんは黙ってしまった。
これは考え得る限り最悪の言葉だ。好きだという気持をこんな風に非難される材料にされたら、あたしだったら本当に屈辱で悲しいだろう。そんなことはわかっているのにあたしはそういうひどい言葉を兄友さんに向って口にしたのだ。さっきまで抱きついて兄友さんの優しさに慰めを求めていたくせに。
しばらく沈黙が続いた。
「ごめんなさい」
「そうだな」
あたしたちは同時に声を出した。
「妹友ちゃの言うとおりかもな」
あたしの謝罪に押しかぶせるようにして兄友さんが言った。同時に彼はそっと自分の胸からあたしを遠ざけた。
「悪かったよ。君が決めることなのに余計なことを言って。嫉妬丸出しでみっともないだろ?」
あたしから身を離して彼は立ち上がった。目すら合わせてくれない。「じゃあ、帰るね」
「・・・・・・別にそういう意味じゃなくて」
彼はもうあたしの言いわけを聞く気はないみたいだった。
「さよなら」
それから何度か塾の帰りに池山さんに車で送ってもらうようになった。ママと一緒に送ると言われていたのだけど、いつもママに急用ができてしまうみたいで、塾の帰りは池山さんと二人きりで車で送られることがいつのまにか習慣のようになってしまった。
この頃になると、あたしはだいぶ池山さんに気を許すようになっていた。もちろん、ママの浮気や離婚を心から許したわけではないけど、これだけまめに送りをしてもらい車内でいつでも親身に相談に乗るよ的な態度を見せられると、やはり仕事だけが大切で滅多に家に帰って来ないパパよりも信頼できるような気がして来ていた。
冷静に考えればこういう大事なときだから、池山さんも無理によい大人をアピールしただけだろうと理解できたはずだった。妹ちゃんの話でも池山さんは滅多に家に帰ってこなかったはずだったから。それでもそのときのあたしは盲目だった。お兄ちゃんと気まずくなり妹ちゃんとも喧嘩状態だったあたし。唯一親身になってくれた兄友さんからはあの日以来何の連絡もない。一度自分から兄友さんにメールをしたけど、彼は返事をしてくれなかった。兄友さんと知り合って無視されたのは初めてだった。
池山さんは親身にあたしの話を聞こうとしてくれていただけではなかった。その日が近づいてくると彼はあたしに柔らかくだけど決断を迫るようになってきた。
「私と君のママのせいで二つの家族が壊れようとしていることは理解しているつもりだ」
彼はハンドルを握って夜の通りを真っ直ぐに見つめながら言った。
「それは本当に申し訳ないと思っている。でももう自分の気持に嘘はつけないんだ」
「また自分勝手なことを言うのね」
「それも承知している。その十字架は一生背負っていうつもりだ。でも、それでも君のママを愛しているし、一緒に暮らしたいんだ」
「あなたの大事な大事なお姫さまを傷つけることになるのにね」
一瞬池山さんの表情が暗くなった。それでもその後に続けた言葉はしっかりとしていた。
「それでもだ。四人の子どもたちには本当に申し訳ないと思っているよ。でも、だからこそチャンスが欲しい。君たちを幸せにするチャンスをもらいたいんだ。私たちと一緒に暮らしてほしい。大切にすると誓うよ」
あたしは初めて池山さんと会ったときから真面目に考えていた。
お兄さんとのことはひとまず置いておくとして、現実的に考えれば実はパパと一緒に暮らすという選択肢は全く現実的ではなかった。あの会社人間のパパと暮らすということは、実質的には子どもたちだけで暮らすというのと同じことだった。これまでだってどうしても避けることができない行事とかの際は、パパとママがそれぞれ何とか都合をつけて対応してくれていた。それをパパ単独でできるとは思えない。
あるいは親権はどっちになるにせよ、寮に入って一人で暮らすかだ。寮に入った後の妹ちゃんの落ち込みようを見るまではそういう選択肢もあったけど、あのひどい様子を見た後ではとてもそんな気にはなれない。あたしは妹ちゃんほど家族命のファミコンではないにしても。
「あなたは自分の子どもたちとお兄ちゃんとあたしの両方を引き取りたいの?」
「兄はともかく、姫と君、そして君のお兄さんの三人とは一緒に暮らしたい。でも、場合によっては姫には寮生活を続けてもらって、兄と君たち兄妹の三人でもいいと思っているよ」
「何で」
「親権争いは男親に不利だから。妻は姫の親権を主張しているし形式上は私が有責配偶者ってやつらしいから、争っても難しいと弁護士に言われているんだ」
「弁護士って・・・・・・そんなにどろどろしてるの」
「そうでもない。妻とはもう夫婦としては一緒には暮らしていけない。あっちにも男がいるしね。でもね、それでも私と妻が姫の両親であることには変りはない。姫の幸せを一番に考えることに妻とは同意しているんだ」
「じゃあどうやってどっちが妹ちゃんを引き取るのかを決めるんですか」
「君たちと一緒。姫の意向に任せるということで妻とは合意している」
家族のことが大好きな妹ちゃんにはつらい選択になるだろう。あるいは、お兄さんと一緒に二人で暮らすという選択肢があれば妹ちゃんも救われるのだけど、そんなことをこの人が許すはずはない。
<疑惑>
「信じてもらえないかもしれないけど、私には兄だって大切な息子だ」
「じゃあ何で」
二人を引きはがしたのか。
「必ずしも姫のためにだけじゃない。兄のためでもあるんだ」
嘘を言っている表情でも声音でもないとあたしは思った。
「君も考えているとおり、兄と姫の恋愛なんて将来なんか何もないんだ。姫にとってもそうだけれども、それは兄にとっても同じなんだよ。兄は中途半端にだけど頭はいい方だ。親としてはこのまま順調に自分の人生を進んで行って欲しいという気持には嘘はないんだ」
「・・・・・・妹ちゃんたちはそれを承知でお互いを選んだんだと思いますけど」
「それを止めるのが親の権利でもあり義務でもあると私は思うよ。妻も同じ考えだろう」
「二人は納得しないと思うな」
「兄に彼女ができれば姫だって納得するんじゃないかな」
「・・・・・・」
「妹友ちゃんみたいな子が兄の彼女になってくれれば自然に問題は解決すると思うよ」
「その話はともかく、妹ちゃんを一人で寮生活をさせている時点でお兄さんがあたしたちと一緒に暮らそうと思ってくれるわけないじゃないですか」
池山さんは前方の暗い道を見つめながら笑った。
「あたしたちって言ってくれたね。ありがとう」
「今のはそういう意味じゃなく」
「あとは君のお兄さんが一緒に暮らしてくれればそれでいい。兄のことなら任しておいてくれ。最悪は仕送りを止めるとか脅してでも説得するから」
「・・・・・・・お兄ちゃんはあなたのことを恨んでいますよ」
「わかってる。それは妹友ちゃんだって同じでしょ。それでもここまで心を開いてくれたんだし」
「それに」
池山さんが自信ありげに続けた。
「君のママに言われたんだ。あの子はあたしが大好きだから、どっちかを選べって言われれば必ずあたしの方を選ぶってね」
確かにお兄ちゃんはマザコンだ。何せ初恋の相手はママだというくらいの。でもそれは家庭的なママのことで、不倫して他の男のものになろうとしているママをお兄ちゃんが選ぶだろうか。
「じゃあ本音では妹ちゃんの親権とか一緒に暮らすことは諦めているということですね」
「まだわからないと思っているよ。私には姫に好かれているという自信もある」
それは家庭を大切にしていた頃のあなたでしょ。あたしは思った。妹ちゃんもお兄ちゃんも同じだ。自分の家族を裏切って崩壊させた池山さんやママと一緒に暮らすことを選ぶのだろうか。
それに妹ちゃんと一つの家族として一緒に暮らすことをあたしは本当に望んでいるのだろうか。本音で言えば、前に夢想したようにお兄さんと一緒に暮らすことに対しては期待があることは否定できない。でもお兄さんと一緒に暮らすことは保証されているわけではなく、池山さんはあたしとお兄さんを付き合わせたがってはいるけど、本音では妹ちゃんと一緒に暮らしたいという気持の方を優先しているとしか思えない。
「着いたよ」
「ありがとう」
「いや。また迎えに行くよ」
「・・・・・・別にいいのに」
「いや。私の役目を兄に譲るまでは、仕事の都合がつく限り送らせてもらうから」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
自宅は暗かった。誰もいないようだ。迎えに来なかったくらいだからママが会社にいることはわかっていたし、パパがいないことも意外ではない。それにお兄ちゃんも最近は帰宅時間が遅いようだった。あたしどころではなく予備校で受験勉強をしているのだろう。
学校でも妹ちゃんには無視されていたし、家庭にも話し相手がいない。いったいいつからこんなに孤独になってしまったのだろう。そう思うとママの浮気相手、再婚相手の池山さんとの会話だって、今のあたしには貴重なコミュニケーションになっていたのだった。
一月後に結論は出たけど、その結果は散々なものだった。
お兄ちゃんは浮気して家庭を壊したママと一緒に暮らすことを冷たく拒否した。自業自得ではあったけど、そのときのママの傷付き狼狽した姿を見るのは結構つらかった。お兄ちゃんはこのままこの家でパパと暮らすそうだ。実際にはパパはほとんど不在なのにも関わらず。それでもママに裏切られたパパにはお兄ちゃんの選択はせめてもの救いのようだった。
あたしはママと暮らす方を選んだ。心の中にお兄さんとのことが燻っていたことは正直否定できないけど、それでもほとんど家にいないパパより浮気して家庭を壊したにしても、パパよりは家にいてくれたママを選んだのだ。
池山さんの方はもっと悲惨だった。妹ちゃんは池山さんに引き取られるのを拒否し、ママの方を選んだ。どっちも選べないようならそのまま寮生活になったはずだけど、彼女ははっきりと自分のママの方を選んだのだった。ファミコンの妹ちゃんにしてはよく決断したものだと思う。彼女ならどちらも選べず一人で悩み傷付いて、最悪の場合はそのまま壊れて行くのだと思っていたから。
とにかく彼女は母親を選んだ。
そして、池山さんのシナリオの破綻はそれに留まらなかった。お兄さんは両親のどちらからも望まれていなかった。それでも池山さんは妹ちゃんが自分と暮らさない場合は、お兄さんを自分と一緒に暮らさせるようにすると言っていたのに。別に池山さんのその約束を過度に期待していたわけではないけれど、結局それが実現しないと知ったとき、あたしは深いため息をついた。夢は夢に過ぎない。あたしはそれを思い知らされた。結局兄友さんの言うとおりになってしまったではないか。池山さんのことを信頼しすぎたのだ。
お兄さんはこれまでどおり一人暮らしを続けたがった。池山さんが兵糧攻めを匂わせて説得したけど、お兄さんのママが彼を救った。
『兄があなたや私と暮らすことを拒否している以上、強制する理由はないでしょ』
お兄さんのママは池山さんにそう言ったそうだ。『あなたがそういうことを言うなら兄は成人するまであたしの戸籍に入れます。それで兄の望みどおり一人で暮らさせるから』
新しいマンションは富士峰に通学するのに便利な場所だったし、部屋数も多かった。その広いマンションで結局あたしはママと池山さんと三人だけで暮らすことになってしまったのだった。それも最初の一月がたつと、二人は仕事で帰宅しないようになったため、以降はあたしは一人暮らしをしているのと同じだった。
あたしが新しいマンションに引越す前日の金曜日。下校しようとしていたあたしは、校門の前で妹ちゃんを見かけた。彼女は大きなバッグを抱えたまま寮の同室の子と抱き合っていた。何をしているんだろう。あたしは何となく校門前の木陰に隠れて二人の会話を盗み聞きした。
『いろいろありがとう。これからも友だちでいてね』
『よかったね。約束どおり友だちだよ?』
『うん。もちろん・・・・・・泣かないでよ』
『妹ちゃんと一緒に暮らせなくなるのが寂しい』
『ごめんね』
『こっちこそごめん。でも、本当は喜んでいるんだ。妹ちゃんがようやくお兄さんと二人きりで暮らせるんだし』
『・・・・・・うん』
『頑張ってね。寮で辛い思いをした分幸せになってね。応援してるから』
『ありがと。でも大袈裟だよ。また学校で会えるじゃん』
『うん』
あたしは呆然としてその会話を聞いていた。
『こっちこそごめん。でも、本当は喜んでいるんだ。妹ちゃんがようやくお兄さんと二人きりで暮らせるんだし』
妹ちゃんはママと暮らすのではなかったのか。お兄さんは一人暮らしを続けるのではなかったのか。
やがて妹ちゃんが同室の子と名残惜しげに別れを告げて歩き出した。あたしは思わず彼女の後を追った。
<妹不在の休日>
兄(あれ? 姫が横にいない)
兄(何時だろう? もう朝か。姫は先に起きたのかな。今日は休みなんだから弁当とかいらないのに)
兄(ベッドで一緒にゆっくりしたかったな)
兄(姫と二人きりの生活は良くも悪くも落ち着いてきた。最初は夢みたいでお互いに数分毎に愛してると言い合いながらいつも一緒にくっついていたけど、それは一緒にいないと何か不安だったからで)
兄(お互いの覚悟とか父さんにばれたらどうなるだろうとか、一人でいるとそんなことばかり考えちゃうんだよな。きっと姫もそうだったと思うし)
兄(でもお互いの気持は十分に理解できたし、それにまだ安心できるというほどではないけど、父さんが俺と姫の秘密の二人暮らしに気がつく様子もない)
兄(妹も学校では俺と二人で暮らしていることは信頼している寮で同室だった子以外には、誰にも話してないと言っていたし)
兄(そうして何となくお互いに気持の余裕ができてからは、姫も異常なほどいつも俺にくっついてこなくなった。それはそれで寂しいけど、別に喧嘩したわけじゃないし。落ち着いた愛情って言うのか? そういう感じに落ち着いた。それでも夜はいつも同じベッドで寝ているし)
兄(・・・・・・)
兄(それにしても・・・・・・。同居しだしてから一度も姫とああいうことしてないなあ)
兄(最初のうちはそんなことはどうでもよかったからだけどな。一緒にいるだけで幸せだったし)
兄(最近はどういうわけか落ち着きすぎちゃって、以前の仲のいい兄妹関係まで戻ってしまったし)
兄(それはそれで居心地はいいんだけど)
兄(でも、それでもいい。俺は一生姫を守るんだ。そのために一緒に暮らすことを選んだんだから)
兄(それはそれでいいんだ。それでいいんだけど・・・・・・。だが最近じゃキスすらしてねえなあ。つうか手を繋ぐ頻度すら減ったかもしれん)
兄(それでもいいんだけど・・・・・・姫が俺のことをどう考えているのかは知りたい。直接聞く勇気はないけど)
妹「あ。やっと起きた」
兄「うん。つうか休みなのに姫の方が早起きなんだよ」
妹「おはよ。おにいちゃん」
兄「おはよう。あれ? どっか行くの(何か着替えてるし)」
妹「忘れちゃった? 前に話したでしょ」
兄「ごめん、忘れた。何かあるんだっけ」
妹「・・・・・・今日は最初の面会日だから」
兄「あ(そうだった。今日は離婚してから姫と父さんが最初に面会する日じゃんか)」
妹「やっぱり忘れてたのね」
兄「うん、悪い。そうか今日だったのか」
妹「行きたくないけど約束だからね」
兄「そうだな(そのわりには何か服とか気合入ってる気がする。つうか薄く化粧してるし。俺とデートするときより姫が綺麗だとか・・・・・・複雑な気分)」
妹「もう出かけるね」
兄「うん。何時ごろ帰る?(まあ、裏切られたとはいえもともとこいつは父さんが大好きだったしな。久し振りに会えるのが嬉しいんんだろうな)」
妹「多分、そんなに夜遅くならないと思う」
兄「え? 夜って。まだ午前中じゃんか。面会って、一日中一緒に過ごすもんなの?」
兄(・・・・・・何か納得できねえ。それに父さんと長く一緒にいると秘密はばれる可能性も大きくなるし)
妹「お兄ちゃん?」
兄「俺の食事は?(何言ってるんだ俺。姫は俺の母親でも家政婦でもないのに)」
妹「あ、ごめん。支度してないから適当にお願いしていい?」
兄「わかった」
妹「ごめんね」
兄「別にいいけど。それよかうっかり俺と一緒に暮らしていることを漏らすなよ」
妹「わかってる。なるべく早く帰るから」
兄「・・・・・・別にゆっくりしてくればいいんじゃねえの」
妹「・・・・・・行って来る」
兄「ああ(俺の態度、嫉妬出まくりだ。最悪)」
兄(つまらん)
兄(飯の支度をするのも面倒で外出してはみたものの)
兄(ファミレスで飯を終えてしまえばもうやることは何もない。時間がたつのがやたらノロノロとしている感じだ)
兄(姫と一緒だと休みの日なんかあっという間に終っちゃうのにな。それも何をしているでもなく二人で話をしているだけですぐにニ、三時間は経ってしまう)
兄(不思議だ。生まれてからほぼずっと一緒にいるのに姫との間で話題が尽きたことなんか一度もないもんな)
兄(姫の話を聞いているのも好きだし、姫に話しかけるのも好きだ。要するに姫が好きってことになるんだけど)
兄(あ~あ。これじゃ共依存じゃなくて俺の方が一方的に姫に依存しているみたいじゃねえか。何が姫を守るだよ)
兄(・・・・・・まだ午後一時か)
兄(いつまでもファミレスにいてもしかたない。とにかく外に出るか)
兄(さて。どうしたもんか。家に帰ろうか)
兄(・・・・・・却下。夜まで一人とか気が滅入るわ)
兄(ついこないだまで一人暮らしをしていたわけだが、そんときは姫を恋しく思ったりはしたけど、ここまで寂しくは感じなかったな)
兄(まあ、あのときはどちらかというと一人で寂しいというよりは、失恋してつらいっていう感情の方が大きかったからな)
兄(しかし情けない。姫がいないと時間を潰すことすらできなくなってしまうとは)
兄(これじゃ本当に依存症だ。まじでメンタルクリニックとかに行くレベルかもしれん)
兄(こんなことが姫に知られたら確実に引かれるな。というより姫のことだから責任を感じかねない)
兄(思ったけど姫って学校とかで、友だちとかとどういう距離感なんだろう。二人きりで生きて行くしかないと決心してからは、俺は友だちとかどうでもよくて必死に勉強とバイトだけしてたけど。姫は学校で俺と一緒じゃないときは普通に交友関係とかあるのかな)
兄(俺も少しは姫以外の友だちとかと過ごすようにしないといけないのかもしれないな。そうしないとかえって姫に精神的負担をかけてしまう)
兄(それに家事だってそうだ。俺の飯は? とかでかける姫に平気で訪ねる自分の神経を疑うわ)
兄(よし。少しづつでもいいからいろいろ改善してみよう。長く姫と一緒に暮らすためでもあるんだ)
兄(そうと決まればさっそく夕食は自分で作ってみよう)
「兄?」
兄(やることができたぞ。スーパーに行って食材を、ってえ?)
女友「やっぱ兄じゃん。こんなとこで何やってるの」
兄「女友? え? 何々。何でおまえら一緒に・・・・・・」
<だってそれじゃあたしが兄に嫌われちゃう>
女「・・・・・・久し振りだね」
兄「おう。つうか何で」
兄友「よう」
兄「(ようじゃねえだろ)女と兄友ってやっぱり・・・・・・」
女「違うよ。違うって」
女友「やっぱりって何が?」
兄友「久し振りだな。元気か」
兄「・・・・・・まあな」
女「いろいろ誤解なの」
女友「そういうことはもういいじゃん。話し出すと面倒くさくなるしさ」
女「あんたはもう。いい加減にしてよ」
兄友「おいおい。一度仲違いしてようやく元通りに仲直りしなのにもう破綻か?」
女「そんなんじゃない!」
女友「そうそう。あんたらって深刻に考え過ぎだって。あはは」
兄(何だよ。結局こいつらつるんでんじゃんか)
兄友「あははじゃねえよ。いつまで間違いを繰返すつもりなんだよ」
兄(何言ってるんだこいつ)
女「あのさ。全部誤解だったっていうか、本当兄友は悪くないの」
兄「はあ?」
女友「それじゃわかんないでしょ」
女「あとさ。あたしはあんたのことも勘違いしてたんだけど、今さらもう遅いよね」
兄「(何言ってるだっこいつ)何だかよくわかんねえけど」
女友「わかんなくていいって。そんで? 相変わらず妹姫とは仲良くやってんの?」
兄友「よせよ」
女友「何でよ」
兄「まあ、そこそこな」
女「・・・・・・」
女友「そ、そか」
兄友「ダメージ受けるくらいなら最初からそういう話は振るなよ」
女友「うっさいなあ」
女友「あたしたちお昼食べるところなんだけど、兄も一緒にどう」
兄「(何で兄友とこいつらが一緒に行動してるんだろうな)俺はもう食べ終わって帰ると
こ」
女友「いいじゃん。お茶くらい付き合ってよ」
兄「悪い。ちょっと行くところあるから」
女友「ああそうか。ひょっとしてあんたの大切なお姫様と待ち合わせかな」
兄(・・・・・・女友を振ったのは悪かったけど、それにしてもこいつうぜえ。さっぱりしていいと思ってたけど、考えてみれば女友にはいろいろ振り回されてきたんだっけ。それに兄友と女てどうなってるんだ。いや、女に関しては今さらどうでもいいんだけどさ)
兄友「だからもうそういうのよせって」
兄(兄友ってちょっと感じが変ったかな。何か兄友のくせに常識的なことを言ってる)
女「そうだよ」
女友「何よ。あんたたちだって気になるくせに」
兄「俺、用事があるから帰るわ。またな」
女友「そう? まあ大事なお姫様と待ち合わせなら邪魔しても悪いよね」
兄「そうじゃねえよ。買物だって(こいつに言い訳しなくたっていいのに)」
女「じゃ、じゃあね。また」
兄(またなんてねえよ。俺はもうおまえらとは縁を切って姫とだけ)
兄(あれ?)
兄(姫への依存をやめるんじゃなかったっけ。そしたらこいつらと仲良くした方がいいんじゃないか)
兄友「じゃあな」
兄(そうだよ。このままじゃ妹にだって負担になるから、姫と二人だけで行きて行くっていうのを少しだけ修正するんだった)
兄(これは姫からの自立の一歩でもあるのかもな。よりによってこいつらじゃなくてもいい気はするけど、俺には他に友だちはいないし)
女友「どうした? 帰らないの」
兄「よく考えたら俺って今日は暇なんだった。ちょっとだけ付き合おうかな」
女友「やった。それでこそ兄だね」
女「・・・・・・」
女友「そういやさ。何っていっていいのかわからないんだけど」
兄「何?」
女友「・・・・・・お父様たちの離婚、残念だったね」
兄「え?(何でこいつらが知ってるんだ)」
女「よしなよ。そんなことわざわざ言うことないじゃん」
女友「そうだね。よけいなこと言っちゃった。周りからこんなこと言われたっていい気持ちしないよね。ごめん、忘れて」
兄「いやちょっと待て。離婚自体はもう自分の中では整理できてるんで、別に気にしてくれなくてもいいんだけどさ」
女友「そっか。ならよかった。つらかったね」
兄「いや、それはいいって。それより俺、両親の離婚のことは誰にも話してねえんだけど」
女友「・・・・・・あ」
女「ばか」
兄「何でおまえが知ってるの? 誰から聞いた?」
女友「誰って・・・・・・それはさ。つまりその」
兄「教えてくれよ。それとも何か言えない事情でもあるのか」
女友「女?」
女「どうしてあたしに振るのよ。この間から全部あんたの自業自得つうか自爆じゃないの」
兄友「これ以上はもうやめようぜ」
兄(何言ってるんだこいつ)
女友「ちょ、ちょっと兄友」
兄友「もう兄に隠れてこそこそするのはやめよう。もちろん俺も含めてだけど。もともと兄と妹ちゃんの生活に口を突っ込む権利なんか、俺たちにはこれっぽっちもないんだからさ」
女「・・・・・・そうだね。あたしも兄友に賛成」
女友「でも、でもさ。だってそれじゃ」
兄友「もういいだろ。今日偶然兄に会ったのはいい機会じゃんか。全部話そうぜ」
女友「・・・・・・だってそれじゃあたしが兄に嫌われちゃう。チャンスがなくなっちゃうじゃん」
兄(何だって)
兄友「おまえ、まだそんなこと言ってるのかよ」
兄(・・・・・・いったい何なんだろ)
<あたしは今ではお兄さんと同じ池山姓を名乗っている>
それから数日後、朝目覚めて階下のリビングに下りていくと、珍しくこんなに早い時間なのに、池山さんがそこにいて迎えてくれた。休日でも普段は朝早く出勤で家にいないのが普通だったのに。
「おはよう妹友ちゃん」
「・・・・・・おはようございます。って、どうしてこんな時間に家にいるの?」
驚いた様子を見せないように冷静さを装って聞いたけど、内心では嬉しかった。
別にこの人に心を開いたわけではない。自分の選択の結果とはいえ、この家庭を選んだことで結果的にあたしは孤独になったのだから。結局、この人が唆したようなあたしとお兄さんが一緒に仲良く暮らす生活は手に入らなかった。それどころかお兄さんと妹ちゃんは一緒に暮らしている。妹ちゃんは学校であたしを無視しているし、お兄ちゃんからも連絡はない。そして兄友さんは何度メールしても返事をくれない。そういう原因を作ったのはこの人とママだ。
それでもあたしは久し振りにこの家に人がいることが嬉しかった。
「もう少ししたら出かけるところだよ。朝食を用意しておいた。よかったら食べてくれる?」
「うん。ありがとう」
「君には父親らしいことをしてやれないから、たまにはこれくらいはしないとね」
池山さんが用意してくれた朝食を取りながらあたしは不思議だった。父親らしくも何も、この人は自ら破綻させた元の家庭で父親役を演ずる上で朝食の支度はおろか父親らしいことは何もしてこなかったはずだった。妹ちゃんを溺愛することを除いては。そのことは仲違いする前の妹ちゃんからずいぶんと詳しく聞かされていたことだから、あたしの思い違いではないと思う。
『パパって家事は何もできないんだ。食事の支度もお掃除も』
『ふーん。じゃあママが全部してるんだ』
『まさか。ママは何でもできるけど、パパと同じでお仕事が忙しいからね』
『もしかしてそれで妹ちゃんって料理部に入ったの?』
『それもある。せめてあたしが家の中のことを手伝おうかと思ってさ』
『妹ちゃんって偉いね。そんなパパじゃ家にいてもしかたないもんね』
『そうでもないよ。パパが家にいるとあたしは嬉しいし』
『・・・・・・何で?』
『パパはあたしのことが大好きだし、普段は家にいないけどいつもあたしに優しいの』
『そうなんだ』
『うん。それにママだって家にいる時は仕事で疲れていてもご飯の用意をしてくれるし』
『本当に妹ちゃんって家族のことが好きなんだね』
『うん』
『ご両親がいないときは妹ちゃんが料理しているの?』
『う~ん。最近は慣れてきたからなるべくそうしてるんだけど。それでも出前とかコンビニのときもあるかなあ』
『お兄さんはあんまりそういうこときにしなさそうだね』
『え? 妹友ちゃん、うちのお兄ちゃんと話したことあったっけ』
『あ、ごめん。ないよない。何となく男の人は気にしないかなって』
『そうか。でも違うんだ。お兄ちゃんって朝は和食がいいとか焼き魚は西京焼きがいいとか好みが面倒くさくてさ。そのわりにオムライスとかお子様味覚なとこもあるし。作るの大変なの』
『まさか、そんなの登校前に用意してるの? お兄さんのために』
『あ、いや。そうじゃなくて。ママがそう嘆いていたってこと。あたしは西京焼きもオムライスも作ったことなんかないよ』
『何で? お兄さんの好物なら作ってあげたらいいのに。あたしだったらお兄ちゃんが好きなら作ってあげるけどなあ』
『妹友ちゃんのブラコン』
『違うよ。そうじゃないって』
今にして思えばこのときの妹ちゃんは兄ラブ全開だったのだけど、そういうことは今はどうでもいい。むしろ、これだけ自分勝手に仕事一筋に生きていたにも関わらず、池山さんは妹ちゃんに嫌らわれていないということの方が重要な情報だった。
「どうかな。久し振りに作ったんだけど」
さわらの西京焼き。赤味噌のお味噌汁。
「料理上手なんだね」
見た目はすごくおいしそうだし、一から作ったとすれば多忙なこの人にしてはたいした
ものだ。あたしは素直にそう思った。
池山さんは照れたように顔を背けた。
「そんなことないよ。昔を思い出して何とか作ってみただけで。まずかったら無理に食べなくてもいいからね」
実際に食べてみると、さわらは焼きすぎで西京味噌が焦げて黒くなっていたし、味噌汁は赤味噌はいいけど出汁が取れていないため辛いだけだ。
「こんなのいつ覚えたの」
味に関する評価はさておきあたしはそう尋ねた。このメニューはお兄さんの好物だったはず。
「昔のことだけどね。前の妻が姫を出産するために入院したとき、兄の好きなものを必死に作ったことがあってね。あの頃は私も若かったな」
「・・・・・・お兄さんのこと本当は大好きなのね」
「さあどうだろう。姫を傷物にした兄のことは一生許せないと思うよ。でもまあ、姫は母親と一緒に暮らすことになったし、兄は一人で反省しているだろうし。このままま二人が冷静になったら、兄のことも許せるようになるのかもな」
二人は一緒に暮らしているのよ。あたしは思わずそう言いかけた。お兄さんへの愛情や執着やみっともない未練はまだあたしの胸の中で燃えさかっていた。それでも、あたしが言いつけていいことじゃない。
「よく覚えていましたね。そんなに昔に作っただけの料理のレシピを」
あたしは無理に兄妹の消息から話をそらした。
「こういうのって意外と忘れないものだよ。大事な人にはこれくらいはしてあげたいといつも思っているから」
「そうなんだ。やっぱり池山さんってお兄さんが大切なんですね」
「それは息子のことだからね。私は姫が好きで好きでしようがなかったし、前の妻ともその気持だけは共有していたんだ」
池山さんは笑った。
「どうしたの」
「その気持を込めた料理を久し振りに大事な人に作れて嬉しいよ。妹友ちゃんはもう僕の大事な娘だから」
「あ、どうも」
「・・・・・・君はどうなの?」
「はい?」
「君は僕のことを人称抜きで呼んでるでしょ。一緒に暮らす前は池山さんだったけど、暮らし始めてからは、池山さんともあなたとも君とも言わない。もちろん、パパとかお父さんとかもね」
「・・・・・・」
最近はこの人のことは嫌いじゃない。でも、パパとかお父さんという呼び方は今はお兄ちゃんと二人暮らしをしている本当のパパのためのものだ。かと言って池山さんと呼ぶのは既におかしい。あたしは彼の籍に入って名前は池山となっていたからだ。皮肉にも、あたしは今ではお兄さんと同じ池山姓を名乗っている。そして妹ちゃんは今では学校の名簿には結城妹と記されていた。それは妹ちゃんのママの旧姓ではないようだから、新しい父親の姓なのだろう。
「変なことを言ったね。悪い。そろそろ私は出かけるよ」
池山さんが立ち上がって上着を取り上げた。
「今日もお仕事なの?」
相変わらず人称を省略してあたしは彼に聞いた。
「いや。今日は姫との面会日なんだ。楽しみすぎて今朝は早く起きすぎたよ。妹友ちゃんに朝ご飯を作れたから結果オーライだけどね」
「・・・・・・そう」
「じゃあ、行って来るよ。姫と一緒に夕食をとってから帰るからね」
「行ってらっしゃい」
池山さんが出掛けたあと、あたしは彼の整えてくれた朝食を食べることを諦めてシンクの隅に捨てた。
続き
妹と俺との些細な出来事【9】