草木も眠る丑三つ時……というのでしょうか
パパもママもぐっすり眠る夏の夜。時計を見るとぴったり深夜の2時でした
「なんでこんな時間に起きちゃったんだろ……」
ぼんやりと口にしてみましたが、聞こえてきたのはかすれたような声でした
あ、喉が渇いてる
そう分かった時、夜の暑さで目を覚ましちゃったのかな? と、他人事のように思ったのでした
今の私は、背中と胸のあたりに汗をかいているみたいです
(ちょっぴり気持ち悪いかも……。…喉も渇いてるし、寝る前にミルクかお水でも飲もうかな…)
そう思って部屋を出て、私は自分の部屋を出てキッチンへ向かいました
喉だけじゃありません。今の私は、背中と胸のあたりに汗もかいてるみたいです
(ちょっぴり気持ち悪いかも……。…このままじゃ眠れそうにないし、ミルクかお水でも飲もうかな…)
そう思いながら部屋を出て、私はキッチンへ向かいました
私のお家のキッチンは、私の部屋とは少し離れた、ダイニングと繋がった場所にあります
部屋を出た私は、ドアを閉め、他に起きてる人がいないことを確認しながらゆっくりとキッチンへ歩を進めます
警備員さんならいいんですけど、もしパパやママに会ったら「こんな時間に起きているなんて!」と怒られそうで、怖い気分がするからです
だから、少しだけドキドキ、少しだけびくびくしながら、私はキッチンを目指し歩いて行きました
「はぁ~……」
無事キッチンへたどり着いた私は、冷蔵庫にあったミルクをカップ一杯分飲みました
「はぁ…冷えてて美味しいなぁ……」
汗が全部おさまったわけではないですが、喉の渇きが解決したので今はとってもいい気分です
「…カップはちゃんと洗わないと。ミルクを飲んだ後、ゆすぐだけだとカップに『あぶら』が残っちゃうもの」
ミルクに入ってる『あぶら』がなんなのかはよく分かりませんでしたが、以前ママに叱られたことを思い出しながら、私はカップをスポンジで洗い始めました
その時です
カッ…カッ……カッ………
という、窓ガラスを何かが叩くような音が聞こえます
この近くでは、私がいるキッチン以外には灯りはついていないはずです
だから私は(外にいる虫が、灯りにつられたのかな?)と思い、特に気にしないままカップを洗っていました
私はカップを洗い終わりました
ミルクを冷蔵庫にしまって、キッチンの灯りも消して、後は自分の部屋に戻ってまた眠るだけです
ここから部屋までは灯りが少なくて暗闇に近いのですが、ここは私の家ですし、一度通ったこともあってちっとも怖くなんかないです
でも、部屋に戻る前に
カッ……カッカッ………
という、未だに小さく響くあの音のことを考えずにはいられませんでした
どうやら、ガラスを叩いてる人(?)は灯りにつられた虫ではなく、さっきからあまり移動もしてないみたいです
その証拠に、私はキッチンにいてそこにしか灯りをつけてなかったのに、例の音はずっとダイニングにあるガラスの方から聞こえてきています
一度は「不審者」の可能性も考えましたが、そういう人が家の中にいる人に気付かれるようなことをするのは変だと思います
それに、あの辺りはジュニオールの犬小屋があってジュニオールが寝ている場所なので不審者は入りにくいはずです
ということで、私は意を決して、例の音のする方へ謎の正体を確かめに行くことにしました
音を出している相手に気付かれないよう、そろりそろりとガラスの方へ近づきます
さっき言ったように、ガラスのすぐ側にはジュニオールが寝ています。その向こうには、私のお家の庭が広がっています
遊び場所になる広い庭と、おやつを置いてあるキッチンの両方に近いということで、そこに犬小屋が置かれたそうです
そういうわけで、
(…もしかして、ジュニオール?)
と思いながら、私は音のする方へ近づいていったのでした
「………………」
少し立ち止まって、じぃっと耳を傾けます
カッカッ、カッカッ…
カリ…カリ……カッ、
カリ……カリッ、カリッ、カッ!
……どうやら、この音はガラスをひっかいている音みたいです
そういうわけで、私はガラスの側へ迷わず近づき、カーテンをちょっとのけてから窓を開け、音を立てている相手に言いました
「…何やってるの、ジュニオール?」
「ハッハッハッハッハッ」
ジュニオールは、どこか興奮しているようです
「……どこか具合が悪いの?」
「ウゥーン…」
「本当にどうしたの?大丈夫?」
「ウゥン……ハッハッハッハッハッ…」
「…………?」
『どうすればいいのかな?』。それが、私の頭に浮かんだ言葉でした
「ちょっとだけ待っててね!」
それだけ言って、すぐに私は玄関へ向かいました
もしもジュニオールに何かあるなら、すぐ確かめてお家にいる大人の人に知らせなければいけません
獣医さんを呼ぶようなことになったら、ちょっと嫌だと思います。私がここで何か出来れば、ジュニオールの役に立つかもしれません
そう思った私は、もっと近くで相手に触れるために外へ出ようとしたのでした
体の具合が悪くなったのかもしれませんし、寂しくなっただけなのかもしれません
もしかしてウンチでもしたのかな、と思ったので、回収用の新聞紙を持っていこうと思います
暑いから喉が渇いたのかな、と心配になったので、お水の入った犬用の水差しも持っていくつもりです
二つとも、普段から玄関に置いてあるお散歩のためのグッズです。ジュニオールと出かけるときは、いつもいつもこの二つを持ち歩いていました
玄関に着いた私は、灯りをつけてすぐにお散歩グッズを手に取りました
それからサンダルを履いて、ドアを開けて犬小屋の方へ向かいます
靴じゃなくてサンダルなのは、すぐにでも駆けつけてあげたいからです
私たち家族の一員で、私にとって一番の友達でもある相手を助けるため、私は短い距離ながらも急いで犬小屋へ走りました
「大丈夫!?」
すぐ側まで駆け寄った瞬間、ジュニオールは唐突に
「ワンッ!ワンッ!!」
と大きな声で吠えだしたかと思うと私の方へ走ってきました
なんとか倒れずに済みましたが、驚いたまま固まっている私に、ジュニオールは
「クゥーン…クゥーン…!」
と打って変わってお願いするような調子で鳴きながら私の顔を舐めてきます
『ちょっと待って!』と思いながらも、友達が元気だと分かり、少しだけ安心することが出来ました
さて、どうしましょう。ジュニオールがこうする時は、何かおねだりをしている時に決まっています
とりあえず、頭とお腹を沢山撫でてあげました。それでも、中々落ち着いてはくれません
お腹が空いているのでしょうか……とは思いましたが、普段食べているドッグフードはまだ残っているみたいです
持っている水差しからお水をあげようとしましたが、飲んでくれません
具合が悪いわけでも、寂しいわけでもなく、お腹が空いたわけでも、喉が渇いたわけでもないようです
…だとすると、相手がお願いしていることは一つだけです
「…ひょっとして、お散歩に行きたいの?」
「!! クゥーン…ウゥーン……!」
「駄目だよ、ジュニオール。こんな夜遅くに、庭で遊んだり外へ出たりするなんて出来ないもの」
「ウゥーン…!クゥーン……!」
「だから駄目だって……きゃっ!」
断って叱ろうとしたら、ジュニオールに押し倒されていっぱい顔を舐められてしまいました
……どうやら、今日のジュニオールはいつもより少しワガママだったみたいです…
「やっ、やめてジュニオール……っもう!」
ぐいっ、とジュニオールを引き離します。大型犬ではないですが、小型犬でもないので飛びかかられると結構大変です…
「ウゥーン……」
私から離れた本人はこの通り。お願いごとをしているような甘え声で、私をじーっと見つめてきます
ジュニオールも私みたいに暑さのせいで目を覚ましてしまったのでしょうか
今まで、夜に吠えたりして私たちをびっくりさせたことが無いわけではないけれど、こんな時間にこんなに元気でいるのは久しぶりに見ます
お散歩に連れていくか庭を駆け回らせたりしてあげれば落ち着くのかもしれませんが、それは出来ません
暗い夜に外出するのは言わずもがな
お庭だって、毎日整備してくれている人がいるんです
きちんと綺麗にした場所が朝になって荒れていたりしたら、きっと悩んじゃうと思います。そう思うだけで、少し胸が痛みます
そこで私は、うーん……と精一杯、私なりに考えてみることにしました
「うーん……」
「クゥーン……」
「うぅーん…………」
「……クゥーン…」
「んん~………………」
「ウゥーン……?」
……と、ジュニオールが悩む私を心配そうに見てきたちょうどその時、私は結論にたどり着きました
「…ちょっとだけだよ?」
そう言いつつ、私はジュニオールの首輪を外してあげました。これでさっきと比べて、ずいぶん動きやすくなったと思います
その証拠にジュニオールは、
「ワンッ!」
と小さく吠えて、嬉しそうに私の足へすり寄って来ています
「クゥンクゥン…」
という甘え声には、さっきと違って『ありがとう!ご主人さま!』といった感じの感情がこめられているような気がしました
普段ジュニオールは首輪をつけていないのですが、夜にどこかへ行ってしまうと困る(私のお家は広いんです)ので、寝る前はいつも首輪付きのリードをつけています
そして、そのリードは犬小屋の側面に留めてあるのです。勿論、リードをつけているジュニオールが小屋の周りから動かないようにするためです
つまり、私が首輪を外した今、ジュニオールは完全に自由になったわけです
私が考えたこと。それは、ジュニオールに庭で遊ばせず、外へも出さず、この犬小屋の側でだけ自由にしてあげることです
庭で遊んでは駄目ですが、私のお家は広い(二回目です!)ので、この辺りだけでも結構広い場所になっています
それに、お家の外にある通路の大部分はタイルになっているのです。ウンチのことだけ気を付ければ、朝になってもジュニオールが駆け回ったことはバレないと思います
と、こういうわけで私はジュニオールを自由にしてあげたのですが…
結果だけ言いますと、私の計画はあっけなく崩れ去ってしまったのでした
「待ってジュニオール!どこ行くのー!?」
たたたたた、と、さっきまで私にすり寄っていたのが嘘のように、ジュニオールは駆け出します
油断していました…。私は一応ジュニオールより足は速いですが、すーっと加速していくのはジュニオールの方がずっと上手です
「待って!待って~!」
夜更けということも忘れて、私は大きな声でジュニオールを呼び止めながら追いかけます
「うぅ……いきなりなんてずるいよ、ジュニオール……」
そう呟きながらジュニオールの走った方へ向かうと、不意に懐中電灯の光がぴかっ! と私の視界を横切ります
それと同時に、耳に飛び込んできた声が一つ、二つとあるようです
「おと……し……!」
「…ウゥー…ワフッ…!」
「…んで……るが……」
声の主は、ジュニオールと、ジュニオールと格闘している人のようです。多分、懐中電灯もその人が持っているのだと思われます
あまり目立ちたくないので少しだけ嫌でしたが、見て見ぬふりをしてどうにかなる様子でもなかったので、私はその人に向かって言いました
「ごめんなさい!私がジュニオールを放しちゃったんです!」
「その声…星梨花ちゃんかい!?……こらっ、大人しくしろと言うに…!」
「ウゥー……」
ジュニオールと格闘していて、今私が声をかけた人
それは、外へつながる門の側で働いてくれている、私のお家の守衛さんでした
守衛さんは夕方から朝までここで働いている方で、私が学校に行く時はいつも挨拶をしてくれます
私も挨拶を返したり、自分から挨拶したりと、一緒にお話しをすることは少ないですが、毎日のように言葉を交わす間柄の方でもあります
私は守衛さんを優しい人だと思っていますし、多分、守衛さんも私には良い印象を持っている……と思います
だから、この時も私に優しくしてくれるといいな、と思って正直に話をしたのですが…
「…………ふーむ。そういうことですか…………むぅ…」
私がジュニオールを放した理由を言うと、守衛さんはそのまま、難しい顔をして考え込んでしまいました……
「…ねぇ星梨花ちゃん。星梨花ちゃんて、今度いくつになるんでしたっけ?」
「えと、今13歳だから……次の誕生日が来たら、14歳です!」
「そうか……もうそんなに大きくなったのか…」
「へ?」
私が頭の上に?を浮かべていると、守衛さんは、私と足元にいるジュニオールとを見比べながら言いました
「あー……。…星梨花ちゃんはジュニオールを家の中に放したいみたいだけど、私は反対だね」
「は、反対?」
「そりゃそうですよ。ジュニオールは元々、広い敷地のどこへ行くか分からないというので犬小屋に留めてあったのに、こう暗い中でそれをきちんと見張っていられますか?」
「あぅ…」
「それに話を聞く限り、そんな限られた範囲ではしゃぐことが出来てもこの子が満足するとは思えません。星梨花ちゃんを見ただけで興奮するくらいですからねぇ」
「うぅ……」
守衛さんの指摘は的確です。さっきまでの自分の考えを思い起こすと、なんだか情けない気分になっちゃいます…
「まあ、これは一つの意見に過ぎないですがね、星梨花ちゃん」
「はい…」
やんわりと諭されているのが、伝わってきます
怒るでも叱るでもなく、『こういう所はおかしいんじゃないか』というような話し方をされると、悲しくはないけど胸がきゅうっ、となるような気持ちがします
私が中途半端な考えで自由にしてあげたせいで、かえってジュニオールには迷惑をかけてしまったかもしれません
『ごめんなさい、ジュニオール…』と私が心の中で謝っていたその時、
耳を疑うような言葉が、守衛さんの口から飛び出ました
「…だからね星梨花ちゃん。今からひとつ、ジュニオールと一緒にお家の外を歩いてきてはどうですか?」
『えっ?』と、私は思いました
陽が落ちて暗くなった後、まして深夜のこんな時間に外出なんて、パパも、ママも、許してくれるはずがありません
「ご両親には内緒で行くに決まってますとも。まさか、律儀にお起こしして散歩に行く旨を伝えようというわけではないでしょうね?」
「いえ、でも…」
「あくまで一つの意見として、ですがね。ジュニオールの様子を見るに、この際好きに歩かせてやった方がいいんじゃないかと思いまして」
「う、うぅ~ん……」
悩みます
確かに、ジュニオールの飼い主兼友達としては、一度解き放ってあげたこの子を好きにさせてあげないのはちょっぴり無責任に思います
けれど、パパやママが許していないのに深夜に外出するのはためらわれます。もし許されていても、私みたいに小さい女の子が暗い中で外を歩くのは、やっぱりよくないことです
それに、慣れていないのもあって、少しだけ怖いと思…わないこともない、です
…………悩みます…………
「…まだ決めかねますか」
「はい…」
「…一応、散歩する時の条件としてですね。星梨花ちゃんには、PHSを携帯してもらいます」
「……ぴーえいちえす?」
「ちょっと昔に流行った携帯電話みたいなもので…。時間の確認と連絡手段。それに、万が一のための位置情報もこれ一台で間に合います」
「……!」
…どうやら、私の知らない物事は、こんな身近な場所にもあったみたいです
夜更かししたお陰で、一つ物事を知ることが出来ちゃいました!
「一台だけでそんなにいっぱい出来るんですか!?」
「星梨花ちゃんに、私が持ってるPHSの予備を渡すという事です」
「昔に流行ったということは、パパもぴーえいちえすを持ってるんですか?」
「さあ…? 私を始め、星梨花ちゃんのお家に勤める者には皆支給されてましたが、ご主人が持ってるかどうかはちょっと分かりませんね」
「じゃあじゃあ、どこに行けばそのぴーえいちえすを……」
「…星梨花ちゃん。話が逸れてますよ」
「あっ!」
そうでした!今は、私が散歩に行くのを仮定した話であってぴーえいちえすの話ではなかったんです!
ふと見ると、足元に座らせているジュニオールが、どこか退屈そうにしています
そうです。元はと言えばジュニオールがきっかけなのに、ついつい忘れてぴーえいちえすに夢中になってしまいました
なんだかさっきから、ジュニオールも私も妙に元気すぎるような気がします
深夜というのに……。…いえ、深夜だからなのでしょうか…
とにかく、今はお散歩に行くかどうかについて考えないといけませんでした
「それで星梨花ちゃん。どうします? 行くか、行かないか」
「うぅ~ん…」
本当は、行きたいに決まっています。悩んでいるのは、それがパパとママに禁止されているからです
というより、パパとママに内緒でそういうことをするということが、ただ禁止されていることをするよりももっといけないような……正直、よく分かりません
一体私は、どうしたらいいのでしょうか?
「どうしたら……ですか」
「はい…。私が決めなければいけないのに、こういうことを言うのは良くないということは分かるのですけれど……」
「いえ、提案して星梨花ちゃんを悩ませてしまった私が悪いんです。気に病むことはありませんよ」
「で、でも…」
……うーん。なんだか、らちが明きません
何かヒントのようなものがあればいいのですが…私を決心させてくれる、きっかけになるものが……
「…守衛さんは、」
「はい」
「どうして、私にこうしてお話をしてくれるんですか?普通の大人なら、私みたいな女の子はすぐお部屋に戻しちゃうと思いますが」
「星梨花ちゃんが私の立場でも、そうしますか?」
「えっ。そ、それは分かんないですけど…」
「……星梨花ちゃんは、散歩に行くかどうか決める前に、私がこうしてお喋りに付き合っている理由が知りたいんですよね?」
「は、はい」
「……まあそれは、何と言うか、この子を散歩させるように提案した理由と似たようなものなんですがね、」
と、守衛さんは、ジュニオールに目をやってから話し始めました
「箱崎家に勤める者としては、当然、星梨花ちゃんの夜更かしは止めるべきだと思います。しかし、」
「星梨花ちゃんも、中学生になってから随分経ちました。まだまだ大人の庇護が必要だとは思いますが、そろそろ自分で物事を考えてあれこれしても良い頃です」
「何より、星梨花ちゃんのような年頃の子は偶にそういうことがあるんですよ。ジュニオールと同じで、なんだか妙な気分でいてもたってもいられなくなるということが」
「ですからまぁ、頭ごなしに部屋へ戻すよりはきちんと話してご自分で決めさせた方がよろしいかと思いまして。それだけです」
言い終わると、守衛さんはふぅ、と深呼吸のようなことをしました
さて、どうしましょう。出来るだけ早く決めた方がいいとは分かっていても、中々決心がつきません
じれったいです。守衛さんの言った『自分で物事を考え』るということはこんなにも難しかったでしょうか
多分、他の人から見れば私はすごく小さいことで悩んでいるように見えるでしょう。でも、今の私は本当に今までにないくらい悩んでいるのです
…あれ? 『今までにないくらい』って……自分で思いついた言葉なのに、なんだか変な感じです
自分のやりたい事と、やらなきゃいけない事の間で悩むということ
どちらを選ぶか、どちらも選ぶか、自分で考えて、決めるということ
私ではありません。いつかの時、私の近くにいた誰かが、こういったことで悩んでいたはずです
そうです。あの時は、確か雨の日でした
あの光景は、今でも思い出されます
××さんに答えを求められた、――さんが……
「…………、だけでいいんですよね」
あの時――さんが言った言葉。それが今、私の背中を押してくれています
「ん? 星梨花ちゃん、今なんて…」
あの時の言葉。たった今、私が呟いた言葉
それはどうやら、守衛さんの耳には届かなかったようでした
「守衛さんっ」
「はい?」
「私、行きます。今から、ジュニオールと一緒に外を歩いてこようと思います」
「ワウッ!」
「はぁ…。さっきまで随分悩んでいらっしゃったのに、スパッとお決めになりましたね…」
「思い出したんですっ。765プロの先輩が、前に言っていたことを!」
「事務所の先輩が?」
「はいっ」
「『どうしたいか』、だけで良かったんです!」
「ワンッ!」
さてさて
守衛さんとまた幾つかの約束をして、私とジュニオールは門の外へ散歩に出ることになりました
その約束とは
①15分以上したら守衛さんから連絡が来るので、現在地を知らせてから帰ること
②深夜で人が少なくても、通行人や車には十分に注意すること
③何かトラブルがあったら、どこにいるとしてもすぐに守衛さんへ連絡すること
④パパやママにこの事がばれた時は、二人で一緒に謝ること
の四つ。大体は守衛さんから言われたもので、どれも大切な事だと思います
特に、四つ目の約束が一番大切ですね!
リードは犬小屋の方に置いてきてしまったので、ジュニオールは完全に自由です!
お家の外を歩くわけですから、今度はいきなり走り出されても追いつけるように心の準備をしないといけません!
「じゃあいこっか、ジュニオールっ」
「ワンッ!」
こうして、私は私のしたいことをするために、多分初めて、パパとママの言い付けを破ったのでした
さて、行き先はどうしましょうか
いつものお散歩コースを辿るだけなら、暗い時でも安全には行けるでしょうし、安心感もあります
でも、こんな時間に、それもジュニオールと二人きり(?)でお散歩するなんて、私には初めてです
折角ですし、いつもと違うコースを行きたい気持ちもありますけど……大丈夫なんでしょうか…
……と、さっきに続いてまたまた悩み始めてしまった、その時です
「ゥワフッ」
小さく鳴くと、ジュニオールは歩き出してしまいました
「ちょ、ちょっとジュニオー…!」
どこかへ逃げたら大変です! 私もすぐに追いかけようと……したの、ですが、…
「フンッ…フン……」
…ジュニオールは、鼻を鳴らしながら道路に敷いてある、タイルの隙間に生えた草の匂いを嗅いでいます
「フスッ……フンッ…」
…かと思うと、また歩き出して、電柱の側まで行って鼻を鳴らし始めました
いつも着けているリードが無いからでしょうか? それとも、この時間に散歩が出来ることが嬉しいのでしょうか?
さっきも思いましたが、今夜のジュニオールはいつもと一味違うみたい……ですっ!
「…ジュニオールっ」
と、声をかけてみると、ジュニオールは『どうしたの?』というような顔を向けてきます
いわゆる『無我夢中』な状態ではなさそうです。気分は高まっていても、心のどこかはきちんと落ち着けているのでしょう
これなら、いきなり逃げ出すようなことは無いかな……と思ったところで、私の脳裏に、ある考えが浮かびました
まず、私の先を行っていたジュニオールに近づきます
そして、匂い嗅ぎ(とでも言うのでしょうか?)の最中に申し訳ないな、と思いつつ……
「…えいっ」
「…フスッ?」
私がお尻を強めに押すと、ジュニオールは不思議そうな顔をしながら私を見て、匂いを嗅ぐのをやめ、電柱から離れて…
…そして、タイルの上を、ゆっくりですが確実に進み始めました
私の考えとは、ジュニオールにお散歩のコースを決めてもらおう、というものです
元々はジュニオールのための夜更かしですし、時間制限もありますし、悩んじゃうくらいならジュニオールに任せちゃおう、と思ったのです
さっきの感じでは、いきなり走り出して私を困らせることも無いでしょうし、ジュニオールに先を歩かせても問題ない…はずです
こういう歩き方は、普段のお散歩ではあまりしません。広い所で、リードを外して遊ぶ時くらいでしょうか?
普段と違うお散歩を楽しめるのだから、どうせならお散歩のやり方も普段と違うものにしよう、というつもりもあります
…とにかく頼んだよ、ジュニオール!
出だしは順調です
私に先導を任されたジュニオールは、道端で匂いを嗅いだり、草や花を舐めたりしながら、てくてくてくてく、歩いていきます
自由なお散歩が楽しいのか、夜のお散歩が不思議なのか。とにかくそわそわ、ハフハフと鼻を鳴らしながら、歩いていきます
時々、私が付いてきているかどうか、後ろを向いて確認してくる仕草が可愛いんです!
私がいないと心細いからでしょうか?
それとも、私のことが心配だからでしょうか?
夜のお散歩は、いつもと違う友達の顔を見せてくれるのでした
なんだか、普段と違うお散歩も楽しめる雰囲気になってきた、その時です
ジュニオールが身構えたのが分かりました。ピタっと動きを止めて、視線の先にある何かを見ています
私も止まります。ジュニオールの真似をして、じっと前を見つめることにしました
じっ…と前を見ていると、私たちの進む先、道路の端に、何か黒くて横に長い物が落ちている(?)のが見えました
大きめの服のようにも見えますが……なんなのでしょう?
止まっているジュニオールを追い越して、その黒い物へ近づこうとした、次の瞬間……!
「ワッ! ワンッ!」
ジュニオールが吠えながら、黒い物目がけて走り出しました!
「…………!!」
すると黒い物は、ジュニオールに気付くと同時に起き上がって、走って逃げ出しました! 何かの生き物だったのでしょうか!?
「ウゥフッ…!」
ジュニオールは、黒い物の姿が見えなくなった所で追うのをやめました
突然のこと過ぎて、とってもびっくりしましたが…犬という動物のことを考えると、ああいうこともたまにはあるのでしょう
事実、私も懐かれる前は何度も吠えられ、追いかけられたような……苦い思い出です
ところで、私と苦い経験を共有することになった黒い物ですが、どうやらすぐ近くのお家の駐車場へ逃げ込んだようです
駐車場と言うより、『駐車スペース』と言った方がよいでしょうか
シャッターの無いガレージの中、丁度一台だけある車の下に、その黒い物は潜り込んだのだと思われました
私には、黒い物の正体に心当たりがありました
さっきの出来事が嘘のように落ち着いているジュニオールと対照的に、今の私はちょっぴり変な気分になっています
あの黒い物のことを確かめたい、と思うと同時に、もうちょっとだけ黒い物を困らせてやりたい、と思っていたのです
ジュニオールが近くにいることと、車や人の足が近づいていないことを、耳を澄ませて確認します
安全を確認した私は、例のガレージの側へ行き、そこに止まっている車の正面に立ちました
そして、猫のように四つん這いになって、車の下を覗きます
そこには、私が想像していた通りの眼光が待ち構えていました
「…にゃーん」
「……………………」
……むむむ。相手に合わせた言葉(?)で話しかけたのですが、効果は薄いようです
「にゃ~ん…」
「……………………」
「…うみゃお? みゃん…」
「……………………」
「にゃん、にゃーん…」
「……………………」
「にゃん。にゃん、にゃ~ん…」
「……………………」
「…なぁ~ん。なぁ~ん……」
「……………………」
「ふ~…! にゃんっ、にゃん…!」
「……………………」
…うぅ。私の言葉は、今見つめ合っている、あの黒猫さんには通じないのでしょうか……?
…いいえ、こんなことで諦めてはいけません!
たとえ言葉は通じなくても、私なりに一生懸命メッセージを伝えれば、相手も分かってくれるはず…!
「にゃぁ~ん…。ねこさ~ん…ナカマデスヨー……にゃ~ん…」
「……………………」
「…うぅ。にゃ~ん。にぁ~ん」
「……………………」
「なぁ~ん…! な~ん…」
「…………!」
!! 手ごたえありです!
今、黒猫さんのこっちを見る目つきが明らかに変わりました!
反応が怪しい時もありましたが、相手はどうやら、『にゃ~ん』ではなく『な~ん』の方に反応してくれるようです!
「…なんっ。なぁ~ん…」
「………!」
「なぁ~ん……なぁん…」
「……!」
「なぁ~ん…!」
「…!」
相手はとうとう身を起こしました! ここで一気に…
「(*>△<)< ナーンナーンっっ」
「!!!!」
「…あっ! ま、待っ…!」
「!!!!!!!」
「あ……あぁ……」
…私の声に驚いたのでしょうか
車の下に逃げ込んでいた黒猫さんは、私の脇を通り抜け、ジュニオールが吠える暇もなくどこかへと走り去ってしまいました…
私は、黒猫さんとお話しするのを諦めてお散歩を続けることにしました
あれだけ走っていたら、少なくとも黒猫さんがこの近くに戻ってくる可能性は高くないと思います
私の好奇心といたずら心が原因なのは分かっているけど、やっぱり寂しいです…
「……いこっか、ジュニオール…」
「フンッ…」
私が黒猫さんに構っている間、『おすわり』状態でじっとしてくれていたジュニオール
呼びかけに応える鼻息からは、くすぐったくなるような可笑しさと、頼もしさが感じられたのでした
その場から私が歩き出すと、ジュニオールがついてきます
さっきまでとは逆の順番ですが、そろそろ私が自分で行く先を決めて歩いてもいいような気もしました
行き先を決めると言っても、なんとなく気の向く方へ歩いているだけですけど……
…うぅん。これこそが、お散歩のだいご味ですよね!
てきとうに歩いていても、迷子の心配はありません
以前、響さんから犬には『きそう本能』があると教わりました。だから、いざとなればジュニオールに案内を任せればお家まで帰れるはずです
PHSを見ると、守衛さんと約束した15分の内、もう8分も過ぎていました
残り少ない時間の中で、心おきなくお散歩を楽しみたいという気持ちもあって、私は歩みを速めます
雲一つなく晴れた夜空は、暗い夜でも、とっても爽やかに私の目に映りました
…ただ、お星さまが見えなかったのが少しだけ残念でした……
「ほらジュニオール、なにしてるの」
「ウゥン…」
後ろを向くと、ジュニオールが道端に生えている背の高い草を舐めていました
普段、お庭や公園で遊ぶ時も、ジュニオールは草を舐めたり食べたりすることがあります
いつもだったら、汚いことなのでやめさせるのですが……
「…………」
「……フッス…」
「…………」
「……フン」
「…ほら。早くいこ、ジュニオール」
「クゥン……」
私がお腹を優しく叩くと、ジュニオールは鳴きながら草から口を放し、歩き出しました
普段と違う自由なお散歩なので、本当はそのまま続けさせてあげたかったのですが…
私はもっとたくさんお散歩をしたいので、やめさせました
そう。今日の私は悪い子なのです
パパとママの言いつけや、ジュニオールのやりたいことよりも、自分のやりたいことを優先させる悪い子だったのです!
「フンッ…、フンッ…」
草と引き離されたジュニオールは、それでも元気に鼻を鳴らしながら歩いています
興奮しているだけならいいけど、カゼだったりしたら少し心配です。明日、パパかママに相談しようと思います
それにしても、夜のお散歩、楽しいです
お家の中だと熱く感じた気温も、パジャマのまま外を歩き回るには、ちょうどよく暖かいくらいの温度だったので快適です
空は変わらず晴れやかで、季節のお陰か、暗さの中にも微かな明るさがしっかりと感じ取れます
どこからか、鈴虫の声も聞こえてきました。こういう使い方が正しいのかは分からないけど、とても『風流』だと思います
夏の夜のお散歩は、私の知らない、楽しいことが沢山見つかる素敵なものだったのです!
ところで、私たちはどこまで歩いてきたのでしょうか
辺りを見ると、マンションやアパートの建ち並ぶ住宅街になっています
この景色は、見たことあるような、無いような……そんな感じです
10分くらいしか歩いてませんし、そう遠くへ来てるわけでもないでしょう。このまま歩いていっても平気なはずです
多分、あと2,3分くらいで守衛さんからの電話がくると思います
私たちは、どこまで歩いていけるのでしょうか?
とはいったものの、残り少ない時間で行き先を気にしても仕方ないような気はします
元から目的地の無いお散歩ですし、あとはいつも通りにしようかな、とも思いました
まあ、猫さんとの会話以外に変わったことをしたつもりはないですけれど
…いえ。ジュニオールにリードを付けてないのも、いつもと変わったことなのでしょうか
とにかく、夜にお散歩をしただけで、普段通りでは知らなかった色々なことを楽しめたのは確かです!
「ジュニオール。こっち、こっち」
「……!」
考え事の最中に、ジュニオールを追い越してしまったので呼び寄せます
「車が出てきたりしたら危ないし、私から離れちゃダメだよ」
「…………」
注意された本人は、少しぶぜんとした顔をしていました
多分、私が勝手に追い越したのだと思っているのかもしれません……
「…それでも、離れちゃダメだからね。私も悪いかもだけど、何かあってからじゃ遅いんだって、いつもパパが言ってるもの」
「…………」
こうやって言葉で注意したり、話しかけたりするのもいつも通りです
相手は動物なので返答は期待していませんが、話しかけると、ジュニオールは大抵こっちを向いてくれます
さっき、注意されて表情を変えてみせたように色々な反応を見せてくれることもあります
私たちの言葉を、どれくらい理解できるのかは分かりませんが……
「…さっきはビックリしたよね。あんな所に猫さんが寝てるなんて、思わないもん」
「ワンッ!」
こうして返事をしてくれた時には、ジュニオールとすっごく分かりあえたような気分になれます!
だから、私の大事なお友達だと思えるんです! 大好きです!
…なんて思ったところで、PHSが鳴り出しました
守衛さんからの連絡が来たみたいです
『もしもし、箱崎星梨花です。……はい、はい』
『…はい、大丈夫です! 今から帰りますねっ』
どうやら、パパとママにはまだばれてないみたいです
そうと決まれば、約束通り早く帰ることにしましょう!
「じゃあ戻ろっか。ジュニオール」
と、横を歩いていたジュニオールに声をかけたところで、
ちかっ
と、急に何かの光が飛び込んできました
光は一つだけ。私たちがさっきまで進んでいた方向から、じょじょに近づいてくるようです
自転車? それともオートバイでしょうか?
「こっち! 早く寄って!」
ジュニオールを引き寄せながら、とにかく道のはじっこへ、私は光から身をかわそうと…
したのですが……
「……あれ?」
光は、私に近づく動きを止めてゆらゆらと空中を漂っているようです。そこでやっと、その光が懐中電灯のものだということに気がつきました
自転車かなにかと勘違いしたのは、暗がりで事故に気を付けるあまり過びんになっていたからなのだと思います
普段通りの私なら、自転車の灯りと懐中電灯の灯りを見間違えるなんてことはありません!
…多分、ですけど
さてさて
そんなことを考えていると、懐中電灯を持って私に近づいてきたその人は、私に向かってこう言ってきたのです
「…星梨花じゃないか! こんな所で…こんな時間に、何してるんだ!?」
顔はよく見えませんが、声ですぐにその人の正体は分かりました
その人はここで私と出会ったことにすごく驚いているようで、私は、かえって落ち着いたような気になりました
「そっか。眠れなくて、ペットと散歩してるのか…」
「はいっ。こういう時間に歩くのって、初めてだけどすっごく楽しいです!」
「そっかぁ…」
と、そこで
懐中電灯の光が、私の足元にお座りしてるジュニオールを照らしました
「…楽しいのもいいけど、リードはきちんと付けておかないと危ないと思うぞー」
「あぅ…」
覚悟はしていましたが、悪いことをしているのをとがめられると、気まずい気分になるものです
特に、『悪いことだ』と自覚していたことをとがめられた時は、いつもよりずっともやもやした気分になります
こっちを心配そうに見上げるジュニオールの表情が、私を更に暗い気持ちにさせるのでした
「…ごめんなさい。次からは、めんどくさがらないでちゃんとリードを……」
「いやいや、謝らなくても! …というか、こっちも星梨花のことをあまり強く言えないし…」
「え? どうしてですか?」
「いや、その、なんと言うか…」
「どうしたんですか?」
「あー……」
そうやってもじもじしている響さんの気分は、多分、ついさっきまでの私と同じなのだと思いました
「えぇっ!!? わ、ワニを逃がしちゃったんですか!?」
「に、逃がしたんじゃないし! 目を離してたら、どこかに行ったってだけだぞ!」
「でも、それって逃がしたのと一緒なんじゃ…」
「と、とにかく静かにして! 近所の人に聞かれたりしたら、軽くパニックになっちゃうぞ!」
「は、はい…」
「ワニ子はおとなしいけど、知らない人とかにビックリしたら何をするか分からないから…」
「え、っと……」
「星梨花も、もし見付けたりしたら無理に捕まえようとしないで自分に知らせてね?」
「……あぁぅ…」
響さんに言われたことは、正直に言って私にはよく分かりませんでした
まず、ワニのお散歩ということからして信じられません。響さんがワニを飼っているのは知ってましたが、こうやって事実としての実感を持つといっそう信じられなさが際立ちます
それに、逃げ出したワニが人を噛んだりしたらどうするんでしょう? 事務所の評判とか、噛まれた人の命とかは危なくないのでしょうか?
ワニも、どれくらいの大きさなのでしょう? 響さんから逃げたということは、きっと素早くて見つけることすら大変なような…
…そもそも、響さんが私の家から歩いて10数分の所にいるのも変な感じです。どうして…
どうして……
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして………………
「…………ピー…………」
「うわーっ! 星梨花、どうしちゃったんだー!?」
「…ワウッ!ワウワウワウッ!!」
「うわっ、吠えないでよー! 自分が悪かったからー!」
「ワンッ!」
「うぎゃーっ!!」
目が覚めると、疲れたような表情をした響さんがワニに逃げられるまでの話を教えてくれました
なんでも、人通りが少なく、気温もちょうどいい深夜にワニとお散歩をして、今日はたまたまいつもより遠くまで歩いてきて、
喉が渇いたために、自販機で飲み物を買って休んでいる所でワニに逃げられてしまったそうです
「自分がもっとしっかりしてれば…! …首元のリードが緩んだせいで逃げられるなんて、今までなかったから油断してたさー…」
と、本当に悔しそうに響さんは述かいしていました
その間、響さんがジュニオールにずっと睨まれていたのは何故なのでしょうか…
星梨花「あの、響さん」
響「ん?」
星梨花「その、ワニ子…ちゃん? の逃げた先に心当たりとか、ないんですか…?」
響「うーん、そうだなぁ…」
と、響さんは考え込むようにして手をあごに添えました
さっきの響さんは『どこかに行っちゃった』って言っていましたけど…
手がかりがまったく無いとなると、すごく怖いことになりそうです
ですから、私は響さんから良い返答がくることを一生けん命に祈りました
響「心当たりとは違うかもだけど、多分、ここからそんなに離れた場所にはいないと思うんだ」
星梨花「ほ、ほんとですか!?」
響「ワニってそこまで早くは歩かないし、この辺には水場もないからね」
響「自分も目を離してたのはジュース飲んでる間だけだったし、諦めずに探してけば見つけることはできるよ!」
星梨花「そ…、そうなんですか!」
響「うん! 多分ね!」
星梨花「…………っ」
…なんだかとっても不安な気持ちですが、動物に詳しい響さんがああ言うなら大丈夫……だと思います
と言うより、今はワニ子…ちゃんが、遠くに逃げないうちに探しに行くべきではないでしょうか?
響「…それは星梨花に悪いさー。ペットの責任は飼い主が取るものだし、さっきも言ったけど、危険だってあるから付き合わなくていいよ?」
星梨花「でも、私たちの暮らす側に大きなワニが歩いてるって思うと…!」
響「……よし! それなら、自分が探してくるから星梨花はここで待ってて! もしもワニ子がここに来たら、大きな声で自分の名前を呼んで欲しいさー!」
これは助かりました。どうやって来たか分からない道から、さらに外れていくと迷子になっちゃうかもしれないからです
それに、今話してる響さんの声を聞いたワニ子ちゃんが、ここに戻ってくるかもしれません。だから、これは重大な役目だと思います
……ワニの耳がそこまで良いかどうかは、知りませんけれども…
こうして、私たちは二手に分かれてワニ子ちゃんを探すことになりました
響さんはさっき来た道を戻り、別の道を探すことにしたようです。私が歩いて来た方にワニはいなかったし、これはふつうの考え方ですね
私の方は、目を凝らし、耳を澄ませてひたすら路面を注視しています
響さんによると『ワニはお腹を引きずって歩く』そうなので、何か路上を動くものや音がしたら、すぐにチェックできるようにしているのです
私は、響さんがワニ子ちゃんを見つけてくれることを祈り、がんばって暗い夜道に目を凝らします
一生けん命に……しっかり気をはって………
じっと……ずっと…………
………………響さんが待ち遠しくなってきました
どれくらい時間が経ったか正確には分かりません。もしかしたら2分か3分くらいかもしれません
道路に音がしないわけではありませんが、大体は風や虫のせいで草が擦れる音だと思います。路上を動く物なんて全然ありません
その場に止まったまま見張りをすることが、こんなに退屈だとは思いませんでした。正直、この役目を引き受けたことを後悔し始めています
…ワニ子ちゃーん。ワニ子ちゃーん…!
……その呼びかけに応える声が、あるはずもなく、夏の夜に寂しさだけが募っていきました
いえ、寂しいというのは正確じゃないかもしれません
退屈に耐えられなくなりそうな私に比べ、あくびもせず、側にじっと立ってくれているジュニオールは本当に立派だと思います
星梨花「よしよし。えらいね、ジュニオール♪」ナデナデ
ジュニオール「クゥーン…」
と、退屈しのぎをかねてジュニオールを撫でている最中、私は大事な用事を忘れていたことに気が付きました
星梨花『あの…ごめんなさい。…はい。はい、すいません…』
大事な用事
お散歩に出て時間が経ったり、トラブルに遭ったりしたら、必ず守衛さんに連絡をするという約束
星梨花『…ごめんなさい。私、ついさっきまで忘れていたんです…』
星梨花『…はい。本当に、本当にごめんなさい……』
幸いにも、守衛さんは私に怒ってはいないようでした
ただ、私から連絡がないことをとても心配していたということが受話器の向こうからひしひしと伝わってきます。とても辛い思いをさせてしまったのだと分かりました
私のわがままから始まったことなのに、二人で決めた約束を破るなんて、私はとても悪い子だったと思います
今夜は色々悪いことをしましたが、一番強く申し訳なさを感じたのは間違いなくこの時だったでしょう
それと同じく
この夜一番の怖さを感じたのも、間違いなくこの時だったのです
『それで、星梨花ちゃんはもう帰ってるところなんですか? 道に迷ったりしていませんよね?』
『あ、それなんですけど…』
そこで私は、『事務所の先輩にばったり会って、それから…』という具合に、
言葉を紡ぐ、つもりだったのですが
「ワウワウッ!! バウワウワウワウッッ!!!」
この夜初めての大音量が私の耳を打ち、のどまで出かかった声を飲み込ませました
何があったのかと驚き声のした方へ向き直ります。それはつまり、ジュニオールの威嚇が飛んだ方向と同じです
「ウゥゥ~…!」
唸り方だけで、私の足元から強い敵意が発せられているのが分かります
そして、まさかと思いつつ目を凝らした先にいた者は、
この道を通る街の人でも、
ここへ戻ってきた響さんでもなく……!
最初に口を出た言葉は、「うそ…」 でした
そこから私は何も言えず、ほとんど動かないまま立ち尽くすことになります
だって、本当に、自分の目の前に、響さんのいない状況で出てくるなんて思わなかったんです
思えなかったんです
手の中のPHSから守衛さんの声がします……が、何を言っているかは全然聞き取れません
目の前で起きることを、ただ見続けること
それだけが、私にできることでした
「ウゥ~……アウッ!!」
ジュニオールが吠えました。相手は動きません
いつの間にここまで近づいていたのか、考えようとしたけど頭が回りませんでした
私の目は、思考は、全ての神経は、眼前の光景を捉えるので精一杯です
「グゥゥ~…!」
時折瞳を光らせるそれを前に、ジュニオールだけが向き合っていました
はっきりとした大きさは分かりませんが、街灯と夜闇のコントラストがおおまかな輪郭を映してくれました
尻尾の分を差し引いても、とても大きい生き物でした。単純な体長で考えると、ジュニオールには自分の何倍ものモノが見えている筈です
「ウゥ、グルゥ…」
ジュニオールは威嚇を止めません。相手は、先程と同じく動かないままです
暗さも手伝い、表情や目の色が全く分からないのが不気味でした
「ワウッ!! ゥアゥアウッ!!!」
激しく吠えたてながらジュニオールが身を揺らします
すると、相手は(私の見る限り)初めて身体を動かし、頭をこちらの方へ近づけました
太い脚についたツメが、暗い中でもそれと分かるようにこちらへ向いています
応じるように、ジュニオールも半歩だけ足を踏み出しました
ここにきて、私はやっと自分たちが敵視されている可能性に気が付きました
繰り返しますが、相手は私と同等以上に大きな身体を持っています。硬そうなツメと、恐らく、それ以上に鋭いキバも持っています
響さんいわく動きは早くないそうですが、もし襲われたとしても、私たちが逃げられる自信はありませんでした
私が、逃げるどころか足を動かすことすら出来なさそうなのはもちろん、ジュニオ―ルには逃げる気すらないでしょう
二匹の生き物は、互いの威嚇に反応して今にも飛び出しそうでした
根拠はありません。が、互いの視線がぶつかり合うのが感じられました
このままじゃ、
だめ。
やめて。
私のことはいいから、逃げて。
でないと…!
『だめーっ!』という言葉は、声になる前に消えてしまいました
ジュニオールが、こちらを一瞥し、相手に向き直ります
私からの制止が無いことを確信してしまったのでしょう。先程までのように、ツメを立て、キバを剥き、
そして、何度も鋭く鳴きながら、自分より遙かに大きい相手へ向かっていきます
それをみとめた相手は、待ち構えるように少しだけ身を伏せ、
そして、今まで見せることの無かった最高の武器を……
「見付けたぞーーーっ!!」
…見せる間も無く、飼い主の響さんに捕まってしまいました……
「ワニを捕まえる時は、口を開けられないように真後ろから一気に顎を抱えるんだよっ。星梨花、知らなかったでしょ?」
「は、はい…」
「それにしても、大した犬さー。あれだけ大きな相手に怯まなかったなんて、結構凄いと思うぞ」
そう言って響さんはジュニオールを撫でました
褒められて嫌な気分はしなかったのでしょう。さっきは響さんを睨んでいたジュニオールも、今は私へのものと同じ、穏やかな目を向けています
「本当に良かったよ。この子の声が聞こえてこなかったら、自分、間に合わなかったかもな…」
ジュニオールを撫でながら、響さんは顔を曇らせました
確かに、あの状況で響さんがいなければ、凄惨な光景が現れることになったであろうということは否定できません
私とジュニオールがそういった苦境に陥る原因を作ってしまった。そういう、自責の念を感じているのではないでしょうか…
「…なあ、せり「ごめんなさいっ!」
響さんを気遣ったわけではありません。が、
「私のジュニオールがワニ子ちゃんを怖がらせ……いえ、怖くはなかったかもですけど…」
「とにかく、興奮させちゃってすいませんでした! ワニ子ちゃんにもそう伝えてあげてください!」
こちらが謝られる前に、これだけは言っておく必要があると感じました
例えば、たった一人で暗い夜道を歩くことを想像してみます
それは楽しいことかもしれませんが、歩いてる内、きっと心細さが募るはずです
まして、信じあえる友達と別れた後ならば、一刻も早く合流したいと思うのが普通のことではないでしょうか
そんな中、激しく威嚇し、剥き出しの敵意を向けてくる相手に遭ってしまったら
きっと、大きさに関わらず驚くでしょう
そして、どうにかして逃げるか追い払うかを考えることでしょう
それは多分、どんな生き物にでも共通する感情だと思うのです
「だから、私たちはワニ子ちゃんに『ごめんなさい』って言いたいんです。私たちもワニ子ちゃんに驚きましたけど、独りでいた分、きっとワニ子ちゃんの方が驚いたはずですからっ」
そう、きっとそのはずです
だって、響さんといる今のワニ子ちゃん、こんなに優しそうな瞳をしているんですから!
と、そこまで言ったところで、
私は響さんに抱きしめられ、言葉を続けることができなくなってしまいました
それから、響さんは私のPHSを通じて守衛さんにあれこれと説明をしてくれました
「とにかく、星梨花のお陰で助かった」という趣旨の言葉を聞く度にくすぐったくなりましたが、上機嫌で話す響さんに受話器の向こうの守衛さんも参ってしまったようです
代わった私には『寄り道しないで、早く帰ってきてくださいよ』と言っただけでしたが、その声に咎めるような調子がないのは明らかでした
お陰で、私も上機嫌です。連絡を途中で切った言い訳をする必要がなくなり、まさしく『重荷を下ろし』たような気分でした
さて、帰り道です
守衛さんと約束した時間はとうに過ぎていましたし、できるだけ早く帰ろうと、私たちはここまで来た道を早足で戻りました
お家から遠くないとはいえ、慣れない道を(行きとは違って)目的地を定めて往くのは、ちょっとだけ怖くて、楽しい気分になりました
気付けば行きの道と同じように、リーリー、リーリー、という『風流』な音色が周囲を包んでいます
夜空は変わらず、気持ちの良い暗さを保っていました。ひとつ、ふたつ、小さな星が私たちの目に飛び込んできます
どこかで見たことのある車。少しだけ期待して車体の下を覗きましたが、黒猫さんは見つけられませんでした
少し前に通ったばかりの道に関心はないのでしょうか
帰り道のジュニオールは、たまに道を逸れはするものの、私にぴったり付いて歩きます
なんとなく立ち止まってみます
するとジュニオール。私の立っている場所、その少し先まで進んでから
「どうしたの? 早くお家に帰ろうよ」
と言いたげな目を向けてきました
私たちのお家
お散歩の終点は、もうすぐそこです!
「ただいまっ!」
誰に言ったわけでもなく、ただそう言わなければいけない気がして言いました
「おかえりなさい、星梨花ちゃん」
私たちを出迎えた守衛さんは、それに笑顔で応えてくれました
「はい。ミルクかコーヒーか、どちらかお好きな方を」
「じゃあ、ミルクで! 一口だけで大丈夫です!」
「はいはい。ところで、先輩の方はあの後どうされたんですか?」
「守衛さんに電話してから、私と少しだけお話しして、それから別れました」
「そうですか。いやはや、ワニを一人で連れて歩く子がいるなんて、765プロも変わった事務所だなぁと思いましたよ」
「これからは、リードにも気を付けて目を離さないようにするって言ってましたよ!」
「そうしてもらわなければ困ります。今回だって、下手をすれば星梨花ちゃんだけじゃなくジュニオールまで大変な目に遭ってたかもしれません」
「……」
「本人も自覚なさってるでしょうが、星梨花ちゃんからも、もう一度釘を刺しておいていただけますか?」
「…は、はい……」
「まあ、この話は今はやめましょう。それより星梨花ちゃん。今夜のお散歩は、楽しかったですか?
「はいっ!」
「それは良かったです。今夜はもう寝て、また明日か明後日にでも、お散歩の話を聞かせてくださいね?」
「はいっ」
「うんうん。どうだ、お前も楽しかったか?」
言いながら、守衛さんはジュニオールを優しく撫でつけ、ジュニオールは甘えるように守衛さんに身体を擦り付けます
その様子は、何故だか見ていて「むっ」となるくらい和やかなものでした
ということでお休みの時間です
暗くなっている玄関から入り、自分の部屋へ向かいます
ジュニオールは犬小屋へ戻し、お散歩グッズも元の場所に片付けました
これでパパやママには、私の夜更かしがばれることは無い…と思いますが、
何か、大事なことを忘れているような……
見逃しているような……。そんな不安は否めませんでした
時計を見ると、深夜2時半を回って短針が「8」に来るところでした
お散歩に行く前に感じていた喉の渇きや気持ち悪い汗はもうありません
さっきまで感じていた高揚感や、夜更かしがばれないかどうかの不安もありますけど頑張って眠ろうと思います
明日は早く起きる用事もありませんが、ママはいつも『生活習慣は崩さないように』と言ってくるのです
ですから、「悪い子」をやめた今の私は、しっかり眠ってしっかり起きないといけないと思います
こうして、いつもと何も変わらない、私にとっては特別な一夜が幕を下ろします
ジュニオールはもう眠ったでしょうか
守衛さんは、今も門の側でお仕事を続けているでしょう
響さんとワニ子ちゃんはお家に帰ったのでしょうか
今日会った黒猫さんは、どこに寝場所を見つけたのでしょう?
そんなことを考えていると
私の中に、「おやすみなさい」の声が響きました…