1 : 以下、名... - 2015/09/30 06:06:24.48 sL7Rumjxo 1/46デレアニ23話から後のお話です。
ようやく春が来る。
長い冬が終わる、そう思った。
けれど私の周囲には冷え冷えとした空気がまだ纏わり付いていて、
季節と時間だけが私たちを素通りしていくのだった。
私と、私が傷つけてしまった友人の時間は、あのクリスマスライブから止まったままだ。
○ ○ ○
未央「……そういうわけで、来週に舞台始まるからさ。良かったら観に来てよ」
凛「うん」
未央「友達割引にしといてあげるから、よろしくっ」
凛「……うん」
未央「……トライアドの方はどう? みんなと上手くやれてる?」
未央は私に気を使ってくれている。
私にはそれが痛いほど分かっていた。
凛「私の方は大丈夫」
そうやって答える私自身の言葉を、私は信じられないような気がした。
卯月もきっと、こんな気持ちだったんだろうか。
そう思うとやりきれなかった。
未央は困ったような笑顔を浮かべて、そして卯月の話をしだした。
未央「このあいだね、しまむーと一緒に買い物に行ったんだ」
凛「どこまで行ったの?」
未央「近所のスーパーまで」
凛「そう……」
私がいちいち重い沈黙で遮ろうとするのを、未央は優しげに為すがままにさせていた。
私と卯月を繋いでいるのは今は未央だけだった。
何かあるたびに未央が卯月の様子を報告して、私はそれを聞いて、
そうすることで直接会わずに済んでいる私の、醜い、厭な安堵が
次第に強い自責の思いに変わっていくのだ。
私には段々それが耐えられなくなっていた。
私は卯月が怖かった。
私が会いに行くことで、また卯月を傷つけてしまうかもしれないと思った。
そして、彼女から逃げているのだと自覚した頃にはもう、
彼女は取り返しのつかないところまで落ちてしまっていたのだ。
凛「学校には……?」
未央「まだ行けてないみたい。新学期も始まって結構経ったから尚更……ね」
私は何も言えなかった。
未央「もう遅いし、帰ろっか」
未央はそう言って、けれど中々席を立とうとしなかった。
凛「あ、あのさ」
未央「なに?」
私は言おうかどうか迷って、
凛「……たまには346に顔出しなよ。みんな喜ぶからさ」
未央「あはは……気が向いたらね」
未央は笑ってごまかして、その日は別れた。……
○ ○ ○
――数ヶ月前、クリスマスライブの日、結局、卯月は来なかった。
そのためNGはライブには出演せず、次の日、プロデューサーからNGの無期限活動休止が告げられた。
実質的な解散だ。
私たちは納得できないと言って卯月に会いに行こうとしたけれど、プロデューサーに止められた。
医者にかかっているから、しばらくは会えないと。
私と未央はまるで冷や水を浴びせられたように一瞬固まって、そしてお互いに何かよく分からない言葉を口にしたあと、
同じように言うべき台詞を見失って苦しそうなプロデューサーを見て、
そこで私は、少なくとも私は、絶望を味わった。
……未央はどう思っていたんだろう。
そのあとの事はよく覚えていない。
私がシンデレラプロジェクトを抜けて活動をトライアドプリムスに完全に移行したのと、
未央が346のアイドルを辞めたのはどっちが先だったか忘れてしまった。
当時の私の頭のなかにはいつも卯月のからっぽの存在だけが渦巻いていて、毎日が空虚だった。
私は私自身を責めることもあったけれど、それと同時に、卯月に会って謝らなければいけないと思っていた。
そんな風に悩んでいたせいか、トライアドの仕事にも身が入らず、奈緒や加蓮にも迷惑をかけていた。
私は卯月のためだけでなく、自分のためにも行動を起こさなくちゃいけないと思い、焦った。
一方の未央は、346のアイドルを辞めてから舞台女優の道へ進んでいた。
何度か連絡を取ることもあって、たまに会って稽古の話なんかを聞くと、
アイドルよりよっぽど厳しい世界にいるように思えた。
けれど未央は私のように卯月のことで悩みを引きずったりしている様子は無かった。
私にはそれが羨ましく、少し薄情だと思ったりもした。
けれども未央とそうやって話しているうちに、私が思わず口にしてしまった些細な弱音を
未央は意外なほど沈痛に受け止めることがった。
そんなことが続くと、次第に未央も、こんな私の弱音につられて
自分の責任と後悔をもらすようになった。
未央も私と同じように心に大きなしこりを残したまま、ごまかしながら過ごしてきたのだと知った。
私は未央と一緒に、卯月に会いに行くことを決めた。
NG解散から半月ほど経った日のことだった。
プロデューサーと相談し、それから卯月の両親に連絡を取ると、
今はもうだいぶ落ち着いているから来てもらっても大丈夫だと、驚くほどあっけなく承諾してくれた。
私と未央は卯月の家を訪ね、久しぶりに会った卯月は、最初は何も変わっていないように見えた。
むしろ前よりも明るく笑っているようにも感じた。
私たちは何から話せばいいか分からず、とりあえずその時の私たちの近況を報告した。
卯月は、すごいです、とか、そうなんですか、と笑顔で相槌を打ちながら、
なんだか久しぶりに会えた嬉しさを噛み締めているようにも見えて、
私はつい、彼女がすっかり回復しているものだと思い込んで、謝罪の言葉も忘れて
「もう一度NGをやり直そう」
と言った。
すると卯月は顔に微笑を貼り付けたまま私の方を見た。
私は思わずその瞳を見つめ返してぎょっとした。
卯月の目は笑っていなかった。
そして次第に彼女の顔からみるみる表情が溶けていき、「あ、」とか「う、」とか断片的な言葉を発して、
まるで電池が切れたみたいにぐったりとうつむいて止まってしまった。
未央がぎくりとして「大丈夫?」と声をかけたけれど、その時にはすでに卯月の視界に私たちは入っていなかった。
口元だけがパクパクと動いていて、私には彼女が「頑張ります」と言おうとして苦しんでいるように見えた。
卯月はその呪いのような言葉すら発せられず、無表情で、まるで人形のように力なく座ったまま、私たちの目の前で孤立していた。
地獄のような光景だった。
私は謝らなければと思った。
けれど卯月のそんな姿を見てしまうと、恐怖で何も言えなくなってしまった。
私の横で、未央もまた同じようにかける言葉を失って茫然としていた。
私たちはどうすることもできず、1人の心を閉ざした人間を目の前にして、
ただ時間が過ぎるのを耐えていた。
しばらく経って、未央が思い出したように立ち上がり、
卯月の両親を呼びに行った。
私は、卯月の姿をまともに見ていられず目を逸らしていた自分に気がついた。
部屋に呼ばれた卯月の母親は、申し訳なさそうに「来てくれてありがとう」と言った。
私と未央は帰る前にもう一度卯月に声をかけようとしたけれど、
卯月は私たちが帰ろうとしていることにも気付いていないように、
あるいは最初から私たちの存在を認識していなかったように、
ただ虚ろに床を見つめていた。
その去り際に見た人形のようなものが、私が最後に見た卯月の姿だった……。
…………。
○ ○ ○
あれからもう3ヶ月が過ぎようとしている。
私はそれっきり卯月に会うことはなかったし、会う勇気も無かった。
卯月の近況を知ることができるのは、今でも卯月のところへ頻繁に訪れている未央からの報告のおかげだ。
あの痛々しい亡霊のような彼女の影は未だに私の記憶に根を張っていて、
どんなにそれを振り払おうと思っても、かえって私の後悔と焦燥の傷をえぐるように広げて行き、
またそうした苦痛や悲しみに暮れていると、不意に、昔の彼女の笑う映像が強烈に蘇ったりする。
そのたびに、私は心臓が締め付けられるような思いがした。
そんな風に自分を責めながら、そうすることであたかも自分自身の罪を許しでもするかのように
何をしようともしない毎日を過ごしている私を、未央は心配しているようだった。
未央は私を元気付けようと思って舞台に誘ってくれたのだろうか。
今の私には未央の優しさはひとつの支えにもなっていたけれど、同時に、
新しい道へ真っ直ぐ進んでいく彼女のその眩しいほどの明るさと、
そして私にはできなかった卯月への献身と罪滅ぼしを一挙に背負っているのを知ってしまうと、
私の中にもう1つ別の暗い感情が湧いてきてしまうのだった。
それはきっと嫉妬のようなもので、結局、卯月も未央も、私には過ぎた友人だった…………。
――それからまた日が経って、私は未央の舞台を観に行った。
舞台に立っていたのは、当たり前だけれど、アイドルではなく役者としての未央の姿だった。
そして未央は、私が思い描いていたようなステージの主役ではなく、彼女の本来の性格とは正反対にあるような
静かで感情の起伏のない脇役を、目立たないながらも見事に演じきっていた。
未央がどういう成り行きで、そして未央がその役をどんな気持ちで演じているのか私には計り知れなかったけれど、
そうして舞台の上でただひたむきに動き、また急に立ち止まって一つ二つ台詞を言っては、
いかにもそうしているのが自然な風に表情を押し殺したりしている彼女を見ていると、
私はそれが本当に彼女が心の底に抱えている何か後ろめたいものの表徴なのではないかと想像したりした。
しかし演目が終わり舞台に幕が下りて、そしてカーテンコールで再び舞台に上がった役者たちの中に混じって
観客に晴れやかな笑顔を振りまいてる未央を見た時、私が少しでも想像した秘められた彼女の印象は
目覚めかけの白昼夢のように徐々に薄れてゆき、またそうやって彼女にある種の願望めいた幻覚を見たことを
すべて見透かされていたような気持ちがして恥ずかしくなった。
劇場から出て、他の客たちがまばらに歩き出す中、私は立ち止まってこの後未央と落ち合うべきかどうか迷った。
初めて見た舞台劇は、もちろん未央の素敵な演戯も良かったけれど、それを差し引いても素直に楽しむことができたし、
私はそんな懐かしいような気さえする新鮮な感動と、そして誘ってくれた感謝を未央に伝えたかった。
そうして私が携帯を取り出そうか劇場のスタッフに声をかけようか考えていると、
不意に、道の反対側の少し遠いところで、どこかで見かけたことのあるような人影がちらっと映り、
次の瞬間には、私は舞台の感想やら未央のことなどすっかり頭の内から抜け落ちて、
ただ人混みに混ざって、そこに立ちすくんでいた卯月の、その悲しいまでに怯えたような表情だけを
私の目に映し出していた。
私は思いがけず発見した卯月の姿を、ほとんど食い入るように見つめた。
しかしどうやら卯月は劇場の方を遠巻きにちらちらと見やっていながら私に気付いていないようだった。
私はどうにか卯月に気付かれないよう彼女から目を逸らしたい気持ちでいっぱいになったけれど、
彼女のうす暗い顔や、ぼさぼさになってみすぼらしい髪の毛、
部屋着のように野暮ったい地味な服、そして道行く人々にいちいち怯えて身動きが取れなくなり
切なげに誰かに助けを求めているような気配を無視することはできなかった。
そうして私が卯月の視界の中にずっと佇んでいるにも関わらず
卯月が何時まで経ってもちっとも私を認識しようとしないでいるのを、
私は不思議と空虚な気持ちで見つめていた。
私は未央が卯月を誘ったのだろうと察したけれど、すぐにはそれを信じられなかった。
そして今のこの状況のどこまでが未央の計らいによるものなのか私には分からなかった。
私はこのまま卯月に手を振って自分の存在を気付かせようかよっぽど迷った。
しかし私の姿を認めた卯月が反応してみせる様子を想像すると私の身体は強張ってしまい、
この居たたまれない時間をどうやりすごせばいいのか考えようとして、
それがどれくらいの時間迷っていたかも分からないまま、
そうしているうちに遠くの卯月は何か肌寒いような仕草をしてそのままどこかへ歩いて行ってしまった。
私は安堵のためにどっと力が抜け、そして急に染みるような春の寒さを感じた。
思い出したように街の喧騒が反響しながら私の意識を現実に引き戻した。
……すぐに私の思考はめまぐるしく回転した。
私は自分がなぜ安堵しなければならないのか考えた。
これまでよりずっと重く強い現実が私の周囲を満たしているような気がした。
自分がごまかし続け、あるいは逃げ続けてきたために麻痺していた何かが、
この突然の一方的な再会をきっかけにして、抑えようもなく肥大し、目覚めようとしていた。
それに連鎖して、久しぶりに見た卯月の、元気のない、少しやつれた姿が
私にどれだけの怒りと嫌悪を呼び起こさせたか知らない。
どこにぶつけていいか分からないような激しい感情に突き動かされて、
気がつくと、私は走り出していた。
まるで今しがた閃いたように彼女を追いかけることで、あたかも自分自身の最後の罪を認めて欲しいと願うように。……
…………。
卯月「凛ちゃん」
卯月は私の方を振り返ってそう言った。
私が息を切らせているのを訝しげに見やりながら、
その掌ははどこか所在なげに彼女の胸に握られていた。
そうして祈るように私にまっすぐな瞳を向けるのだった。
凛「…………」
私は少し咳き込んで、そして目の前に居る私よりちょっと背の低い少女、
今はもう以前のように煌びやかでないみすぼらしいほどな少女が、
あんなにも話すのを切望していながら同時に恐れてもいた少女が、
実際には拍子抜けするほど何ということもなく私にまっすぐな眼差しを投げかけていて、
そんな少女を一体私はどうしたいのか急に分からなくなって黙り込んでしまった。
少女はますます怪訝そうに様子をうかがって、
卯月「……どうか、したんですか?」
そんな風になんでもないような調子で尋ねた。
私は、さきほどの切羽詰って混濁した不明瞭な感情をどうにか翻訳しようとして、
けれども卯月のまだ少女らしい思い出の中にいるような瞳に見つめ返されているうちに、
すべての私の後悔を押し広げるように込み上げてきたのは、
ただ一言、
「ごめんなさい」
と、それを言い終わるか終わらないかのうちに、
これまでどんなに悔やんで悲しんでも流れなかった涙が、今更になって溢れ出てきた。
私は声にならないような声で静かに泣いていた。
そうして目の前に居た卯月は、まるで未央がよくそうするみたいに困ったような笑顔を私に向けていた。
とても遠回りで時間がかかったけれど、私はやっと私の平穏を取り戻したような気がした。
しかしこの時の私はまだ、自分自身をどうにかすることばかり考えていて、
事態そのものを全て丸く収められていたわけではなかったのだ。
私がようやく遡って得られたのはクリスマスライブのあの日の私たちであって、
卯月にとっての私と、私にとっての卯月は、まだ始まったばかりのゼロの関係だということを
後で思い知ることになる。
……私は卯月ともっと話したいと言った。
話すことがたくさんあると言った。
卯月はまだちょっと元気の無さそうな、けれども彼女らしいかつての明るさを保ったまま、
「私も、凛ちゃんに会いたかったし、それから……」
そんな風に少しぎこちないような言いにくそうな仕草で、
「お話したいな……って思ってました」
と答えてくれた。
彼女がそう言ってかけてくれる言葉は、それがどんな意味であれ、
私にある種の安心を与えてくれたけれど、
同時に、そんな安心のすぐ傍らに、何か認めたくない嫌な予兆があるのを感じずにはおけなかった。
卯月はちょっと躊躇うように後ずさりして、
私にはそれが今にも逃げ出そうとしているかのように見えて声が出かけたけれど、
単に私をどこか先へ導くようにのろのろと向こうへ歩き出しただけと気付くと、
そうしてお互いに何も示し合わせていないのに、私は従うままに卯月の少し後ろに並んで歩いた。
卯月「今日はなんだか寒いです」
凛「……うん」
私はいつも言葉少なに返事する。
それが相手にどんな印象を与えるか、分からないではないのに。……
卯月は、人通りの少ないところを歩いて行きながら
時々思い出したように天気の話をしたり、道なりに発見した他愛のない事を私に告げたりした。
「あ、猫」
そうして私と卯月が同時に声を重ねたりすると、平和な笑いが起きたりするのだった。
卯月「すみません」
彼女が出し抜けにそんな事を言い出した。
そして私が咄嗟に口を開こうとする前に、
卯月「なんでもないです」
そんな風にぼうっと遠くを眺めながら呟くように言うのだった。
私は、ともすれば数ヶ月のあいだ離れていたために本来の卯月を忘れかけているのではないかと
心配になる事もあったけれど、いざこうして卯月の声や姿に近づいてみると、
その奥底にはやはり昔の卯月の面影、名残のようなものがはっきりと感じられた。
けれど、しばらく彼女と並んで一緒に歩いていると、
そんな灯火のようなかつての光りは徐々に今の彼女の落ち窪んだ印象に蓋をされて、
次第に見分けがつかなくなってしまうほどだった。
長いあいだ、私は自分から何て声をかけたらいいか分からず、
ただ卯月がそうしたいようにしているままに並んで歩いた。
そしてそれがあまりにも長い時間だったので、ふと私は、
先の卯月の謎めいた「すみません」の言葉の意味に行き当たったりした。
2時間以上歩いて、私は卯月の家に着いた。
あの劇場からおよそ二駅は離れているような場所だった。
凛「もしかして、今日は行きもずっと歩いて……?」
ふとそんな事を口にした後、
卯月「たまにはゆっくり散歩するのも楽しいですよ。でもちょっと疲れちゃいましたね」
と何気なさそうに言うのだった。
私にとっては疲れなんてどうでもよかった。
そして、どうしてこんな分かりやすい想像に思い当たらなかったんだろうと、
かつて未央が語ってくれたことを思い出しながら考えていた。
卯月は人の大勢居るような場所に行けないのだと未央は話していた。
彼女にとっては外出すらも身動きが取れなくなるくらい辛いことなんだと話していた。
今日、卯月があんな遠いところまでわざわざ歩いて来たのだって、
それがきっと他にあそこまで行く手段を卯月は選べなかっただけなのだ。
卯月「ただいま」
卯月の言葉は電気の付いていないからっぽの家のなかに空しく響いた。
卯月「今日は夕方までお母さんたち帰って来ないんです」
そんな風に努めて当たり前のように振舞っている目の前の少女を見つめたまま
私は玄関にぼうっと突っ立っていた。
私はやっと、卯月が無理をしていることに気がついたのだった
卯月は一人ぼっちで、どんな思いをしながら、どんな恐怖に怯えながら
あの道のりを歩いてきたんだろう。
そして一体どんな思いで、私のこの無責任な再会を苦しんでいるのだろう。
ここに来るまでに私が感じていた些細な違和感の正体は、
何も主張しない、何も語ろうとしない卯月の態度のさりげない隙間から漏れていた、
彼女の悲痛な嘆きの声だったのだ。
私はなぜだか無性に腹が立って仕方がなかった。
こんな状態の卯月を演劇に誘った未央にも、自分の娘を置き去りにして家を空けている卯月の両親にも、
そして心のどこかで、卯月がかつての彼女のように笑って、私を許してくれる事を期待していた自分自身にも……。
そう思いはじめると、途端に目の前の少女が、ひどく痛々しい、
傷だらけのロボットのような形象を、私にさらけ出してるように見えた。
そしてそんな言葉にも姿にも表れない殻のなかの彼女が、私を激しく拒絶しているような気さえするのだった。
まるですべてを諦めて死だけを受け入れた囚人のように。
卯月は私を自分の部屋に招き入れた。
その動きは緩慢で、雑な動作だった。
部屋は綺麗で整っていたけれど、埃っぽく、どこか湿っぽい空気が漂っていた。
以前、ここに来た時とほとんど何も変わっていないような気がした。
卯月「はぁ……」
卯月はため息をついて床にぺたんと座り込んだ。
私にはそれが単に歩き疲れたために出たため息なのか、
それとも今のこの状況に対する苛立ちのために出たため息なのか判断できなかった。
卯月は部屋に入った私に座るように促す気配はまったくなかった。
すべてを私に任せ切っているように、あるいは私の存在を一切気にも留めていないように
卯月はそのまま何もしゃべらず、座り込んだままだった。
そこにはやはり、卯月の、自分も含めたすべてを諦めきっているような、
彼女に最後に残された私へのメッセージのようなものがあるのを感じた。
卯月は改めて何かを言い出すような素振りは見せず、
ただ座って、立ったままの私の足元をぼうっと見つめていた。
息苦しい冷たい空気が充満していた。
私は、未央がいつもこんな風にして卯月と対面していることを考えて、
それがどれだけ辛い事だったか、ようやく分かったような気がした。
卯月を救ってあげなくちゃいけない。
お互いに沈黙しあったまま、私は次第にそんなことを考え始めていた。
凛「卯月……」
私は彼女の名前を呼んで、彼女はそれに無言で
少し顔を私のほうに向けたきりだった。
私は、卯月が何か怯えたように手を細かく震わせているのに気がついた。
卯月はそれを抑えがたいもののように奇妙に力を込めて握っていた。
それが私の目にどんなに切なく映っただろう。
途端に胸が苦しくなって、このか弱い生き物を、
自分を脅かす者を目の前にしてどう振舞えばいいかさえ分からずにいるような
この哀れな生き物を、私は救わないといけないのだと思った。
けれども、私が卯月の横に寄り添うように腰を下ろして、
その震えている手に触れようとした時、
卯月はそんな私の安い気遣いを拒絶するようにそっと手をどけるのだった。
そしてまた私は自分の愚かな身勝手さに気付いて絶望した。
私は先ほどに私自身や未央や卯月の家族に抱いた理不尽な苛立ちを、
またしても繰り返そうとしている。
卯月を救おうと考える事、それ自体が単に私が卯月に望んで、卯月に求めている事に他ならないのだ。
卯月は、誰かに望まれたり求められたりするのを恐れて、
けれどもそんな風に自分に触れてくるものから自分を守るための手段を持てず、
そのためにこうやってどうしようもない無力感に打ちひしがれているのだ。
私がずっと前から意識の底に半ば確信的に感じていた事を、
そして私が人間としての強い良心でもって蓋をしていたその事実を、
私はやっと言葉にして認めることができた。
……私や未央、そして卯月も含めたあらゆる存在が、卯月にとっては耐えがたい苦痛なのだ。
私がこうして卯月の傍に近寄って、そして何かを求めるようにその少女の身体に触れようとしている、
その行為や存在が、丸裸な心の無防備な卯月にとって害悪なものでしかないのだ。
今の私が卯月のためにできるのはたった一つ、彼女の目の前から消え去ることだった。
それがどんなに悲しくて私の心を傷つけるとしても、私はその選択をしなければならなかった。
私が許してもらえなくても構わないと思っていた罪は、こんな惨いかたちの罰として私に科せられたのだった。
私はふと、未央のことを思い出していた。……
……未央もきっと、卯月と会っているうちに、こんな風に残酷な事実に突き当たったのだと思う。
けれども不思議なのは、未央は今でも卯月に関わり続けているし、
そして今日のことから察するに、未央は卯月に自分の演劇のことを話しているに違いなかった。
そうして考えていると、私は未央に対して理不尽な怒りを覚えずにはいられなかった。
こんな姿の卯月を外へ連れ出したり、ましてや無責任に関わって放っておくようなことを平然と続けている未央を、
私は許すことができないと思った。
卯月はそんな中途半端な気遣いによって傷つき、そしてそんな未央を責めることもできないでいるのだ。
…………。
卯月「……凛ちゃん」
卯月が私のほうを見ないで唐突に呟いた。
私はその苦しいような小さな声に動揺し、
いつのまにか険しい表情をしていた自分自身に気がつきながら、
そんな私の様子など知ろうともしない卯月の伏したままの横顔を見やった。
ぼさぼさの髪の毛と乾いた瞳、その先にある空っぽの眼差し……
それらの憂えた風景が、どこか絵画めいて私の目に映った。
卯月「……私も、」
凛「…………」
卯月「私も、未央ちゃんの劇……見たかったよ……」
途切れ途切れにそう言う卯月の声はだんだん震えて消え入り、
私はそのあまりにも思いがけない告白を前に、
気絶してしまいそうなほどの激しい衝撃を受けた。
それは彼女の控えめな、けれども精一杯の言葉であり、
そして未央の一方的な行為を受け入れようとする言葉でもあった。
卯月「…………」
卯月は何かを言いたげに私の方を振り向いて、
そして次にはまた何か諦めたように私から顔を背けて独りになってしまった。
私は何も言えなかった。
私はもう何も考えることができなかった。
さっき感じていた未央への怒りや、私が私自身に科そうとした残酷な罰などもすべて忘れて、
私は、ただ目の前にいる傷だらけの少女を、
心から哀れに、そして心から愛おしいと感じるのだった。
そんな呪いのような感情に支配されて、
生まれて初めて自分以外の人間の存在を知ったように、
私は貪るように目の前の儚げな少女を見つめた。
卯月は、私の求めるような眼差しに気付いているようなそうでないような、
曖昧な表情で返事をするのだった。
私は隣に座る卯月の腰に手を回して、意外なほどな力を込めて引き寄せた。
卯月がそれを拒むつもりがあったかどうかは分からない。
彼女は勢いのままに力なく私の肩にもたれかかって、
そして何を考えているのか分からないような私に向かって、
上目遣いの、遠慮がちなおずおずとした視線を投げかけるのだった。
私に寄りかかるその柔らかな身体から、
彼女の甘い匂いが香り立って、私の口元に漂ってくる。
そうして全てを私に任せきっているような彼女の、
弱々しい存在を肌で感じていると、
ふと、今彼女を支えている腕を放してしまったら、
それだけで何もかも失われてしまうような気がした。
怯えるような目つき、無意識のうちに震えている指先、
私のすぐ横で吐く生暖かい息、それに合わせて鼓動する豊かな胸……。
彼女を構成するあらゆるもの、彼女の人形のように意思を失くした肉体を、
私は自分のすべてを投げ打ってでも手に入れたいような気持ちで眺めていた。
……どれくらいそうしていたか分からない。
疲労も空腹も、そして私が私に科そうとしていた罰も、
こうして卯月に触れているあいだは一切私の意識に上ってこなかった。
ただ、この卯月の形をした肉体を、過去の卯月の魂と今の壊れかかっている卯月の魂とを宿した人形を、
私が求めるがままにしておきたいと願っていた。
そして私はとうとう、未央がどうしてあんなにしてまで卯月に求めていたのかを理解した。
私も未央も、自分のなかに住む卯月を救おうとしているのだ。
今ここにいる卯月はその代用でしかないのだ。
それがどれだけ残酷な行為か、
理解するのと同時に背徳に息が詰まりそうになったけれど、
私は、私を救うために、卯月を犠牲にせざるを得ないのだ。
私はそうやって罪を償わず、そして未央と同じように罪を重ねていく他にしようがなかった。
私たちのなかに住む卯月の、狂おしいまでの愛おしさを知ってしまうと、
私は悪魔にだってなれそうな気がした。
そして卯月はそんな私たちをずっと許し続けていくのだろう。
卯月は死人のように意思を失ったまま、私たちの人形になる…………。
……私は、震えたままの少女の、艶やかで汗ばんだ肌に指を這わせ、
私の背後、遠く向こう側を怯えた目つきで見ているその瞳を見つめ返す。
熱く燃えるような吐息が私の口元に吹きかかる。
辺りは静かなまま、そうしている私と少女の微かに途切れがちな声だけが
異様に巨大に響いているのを、私は切ないような嬉しいような気持ちで聞いていた。
…………。
おわりです。