Chapter 1/3
今年の夏は何故だか蚊に刺されないと思っていたら、どうやら蚊は35℃を上回る気温では活動が鈍るらしい。夏の風物詩でさえ白旗を上げるような暑さに信じられないような人混みが加わり、桃子は自分が少しずつ不機嫌になるのを感じていた。
元スレ
桃子「見てお兄ちゃん、マイティセーラーのコスプレだよ」
http://viper.2ch.sc/test/read.cgi/news4vip/1535860254/
「ちょっとお兄ちゃん、この暑さと日差しでどうして日傘を持ってきてないわけ?」
「会場は日傘を持ち込めないんだよ。もう少しだけ我慢してくれ桃子」
今日はお兄ちゃんと一緒にコミックマーケットにいる。しかし目的は買い物ではなくむしろその逆。企業ブースでシアター関連グッズの販売があり、アイドルたちは売り子として30分毎に交代でファンの皆さんに挨拶をすることになっていたのである。
空になったペットボトルを弄びながら歩いていると、可愛らしい恰好をした女性と若干の人だかりが目に留まった。あれは…。
「見てお兄ちゃん、マイティセーラーのコスプレだよ」
765プロ主演の特撮番組「アイドルヒーローズ」で百合子さんが演じているのがマイティセーラーだ。眼前の彼女のコスプレは全く見事で、百合子さんと同じ髪型で同じ衣装。ハサミでザックリ切ったのだろうか、あのよくわからない短さのセーラー服も見事に再現されている。
「本当だ。俺たちの番組のファンをこうやって見かけるとやっぱり嬉しいな」
アイドルヒーローズに出演しているわけではないが、やはり桃子も嬉しかった。アイドルがファンを楽しませ、ファンの姿を見てアイドルはもっと頑張れる。その関係性は何より素晴らしいものだ。
女性の周りにいる人々はどうやら写真を撮っているらしい。大抵の人はスマホを用いていたが、ちらほらと立派なカメラも散見された。
そんな中一人…いや二人…女性に近づいて深く屈み、見上げるようなアングルで写真を撮っている。どうやら女性のパンツを撮ろうとしているようだ。全く呆れた。悪いのは当然撮る側だが、撮られる側もやめてくれと言えばいいものを。
そんなことを思った時、何故か桃子は言いようのない違和感に襲われた。何かが引っかかる。なんだろう? 思案した刹那、脳内で火花が散り、次の瞬間には猛烈な吐き気が込み上げてきた。
何も持っていなかった左手で口を押えたが嘔吐を止めるには至らず、その場で桃子は盛大に吐いた。朝食の菓子パンと先ほどまで飲んでいたスポーツドリンクの甘さが鼻を突き、胃酸の刺激が口腔いっぱいに広がった。
桃子の異変に気が付いたお兄ちゃんが慌てて桃子の手に手を重ねる。お兄ちゃんの手はとても大きかったが、無残にも吐瀉物は零れ落ちて桃子のシャツを汚した。中身が無くなってもえずきが止まらぬ胃は今にもひっくり返りそうだ。
お兄ちゃんが必死に何かを言っているが全く耳に入ってこない。息すら苦しい。視界がぼやけてよくわからない。足の力が俄に抜け、膝から崩れ落ち、そして桃子は気を失った。
Chapter 2/3
桃子の子役としての全盛期がいつだったかはよくわからない。あのCMに出演していた頃か、はたまたあのドラマで主役だった頃か。当時は相当ちやほやされたものだった。
桃子自身演技に自信はあり、そして相応に褒められ、持ち上げられた。願わくは世間からだけでなく両親からも認められたかったものだが…いや、今はその話はやめておこう。
年を経る毎に桃子は業界での作法を覚え、演技にも磨きを掛けた。では人気も増していったかというとそう上手くはいかなかった。仕事は減る一方。特にお芝居のお仕事が無くなっていったのは桃子にとって耐え難いものだった。
どうもこの世界は、いや少なくともこの業界は、個人の努力だけではどうにもならないところがあると知った。
しかしコアなファンというのはいるもので、桃子のことをずっと応援し、期待していてくれる人たちがいた。彼らは真のファンだ。だから彼らと会えるイベントを桃子は大切にした。
業界で生き延びるためにファンを楽しませないといけないという面はもちろんあったが、それ以上に、純粋に桃子は彼らを大切にしたかった。
そんな中、ある日のことである。仕事がひと段落して控室で休んでいた桃子に当時のPが大きなプレゼントの包みを持ってきてくれた。日頃頑張っている桃子にご褒美だという。
素直に感謝を表して受け取るとそれは意外なほど軽かった。不思議に思い開けてみると中からは茶色い箱が出てきた。
「箱…? ねえこれ何に使うの?」
「ははは、違うよ。それは踏み台さ。乗ってみな」
踏み台? 訝しみながら桃子はそれに乗ってみた。するとそこから見える景色に桃子は眼を見開いた。机が低い。ハンガーラックが小さい。これが大人から見える世界か!
「すごい、これすごいね!」
桃子はそれを心の底から気に入っていた。
そうだ。桃子は体こそ小さいものの芸歴はそこらの新人よりずっと長い。それに収入だって多かったのだ。視線さえ同じ高さになれば対等に渡り合える。
桃子をクビにしたあの監督にも、桃子に聞こえるように陰口を叩いたあのスタッフにも、もう遠慮する必要は無い。踏み台の上で桃子はかつてない程の高揚感を感じていた。
翌日の仕事は握手会と撮影会だった。
これは定期的に開かれるもので、会話しながら1人ずつと握手し、ファンが持参したカメラで2ショットをサービスするものだ。
桃子はこれにさっそく踏み台を持ち込んだ。
ファンと同じ目線での握手。視線を合わせて行われるそれは、こそばゆいようでしかしとても充実したものだった。
どうやらそれはファンも同じなようで、素直に喜びを表現する者もいれば大いに照れてしまい会話にならないような者もいた。
その後の撮影会にも桃子は踏み台を持ち込んだ。
桃子はいつも通りにファンとの2ショットを撮るつもりだったのだが、最初の順番のファンが桃子だけを撮りたいと主張した。
折角2ショットを撮れる機会なのに変わったファンだ。しかし断る理由もない。Pも問題ないと言っているのでファンの好きなように撮らせた。
彼は様々な角度から桃子を撮ると、満足げに帰っていった。変わり者もいたものだとその時は思ったが、驚いたことに、その次のファンも桃子だけを撮りたがった。その次のファンも、その次のファンも。
結局殆どのファンが桃子だけを撮っていった。
その日を境に桃子の撮影会は人気を博していった。
これも踏み台のおかげであり、踏み台が桃子もファンも満足させるのだと考えた。
それは間違っていなかったが、桃子にとっての踏み台とファンにとっての踏み台が全く別のものであるということを桃子は分かっていなかった。
Chapter 3/3
純白のシーツとカーテンの中で桃子は目を覚ました。腕に点滴が刺さっている。まだ少し頭が痛い。
少しだけ体を起こすとお兄ちゃんと目が合った。
「桃子!! 大丈夫か?!」
「うん、もう平気…。それよりごめんなさい」
「いや、そんなことは気にするな。それより本当に大丈夫か?」
桃子は救急車で病院に運ばれて熱中症の手当てを受けた。今日の仕事については何も心配いらない。器用にリンゴを剥きながらお兄ちゃんはそう教えてくれた。
「食欲はあるか?」
お兄ちゃんはそういってリンゴの乗った皿を差し出した。
折角だし頂こうと思って手を伸ばすと、お兄ちゃんの足元には桃子の踏み台があった。
「ああ、踏み台か? 桃子といるときにはいつも持ってきているぞ。まあ、病院では使わないけどな」
踏み台。桃子はとっさに口を押えようとした。だってその踏み台は…。
しかしその時、吐き気の代わりに込み上げてきたのは意外にも全く別のものだった。
「あはははははは!! あっはははははははは!!」
桃子は笑った。心の底から笑った。
桃子は沸いてくる笑いに一瞬当惑したが、すぐに納得した。
だって考えてもみてほしい。桃子が大人と対等に渡り合うために、渡り合えると信じて使っていた踏み台は、なんと児童の性的消費のための装置だったのだ! こんなにおかしい話があるだろうか!
「桃子…どうした? 本当に大丈夫か?」
「いや、大丈夫…ほんとに大丈夫だから」
笑いすぎで浮かんできていた目尻の涙を拭いながら桃子は答えた。
その時に一瞬だけ、踏み台はもう捨ててしまおうかと考えたがすぐに思い直した。
過去の過ちをいつでも思い出せるように、いわば烙印としてこれから踏み台を使っていくのも悪くない。
しかし仕事の中で心細くなったときは、そんなことを都合よく忘れていつものように踏み台を使うのだ。
いや、もしかしたら“よすが“なんてものは案外そんなものなのかもしれない。
季節外れで腑抜けた味のするリンゴをかじりながら、桃子はそう考えた。
おしまい
41 : 以下、?... - 2018/09/02 14:05:42.408 ia8zQzeQ0 24/24いわゆる過去捏造モノだが設定と矛盾は無いようにしたつもり