1 : 以下、新... - 2013/09/04 21:24:00.63 DVgSD76f0 1/28モバマス、輿水幸子のSSです
少しのあいだ、お付き合いいただければ幸いです
元スレ
【モバマス】「幸子、俺はお前のプロデューサーじゃなくなる」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1378297440/
真新しいドレスに袖を通し、メイクさんのお化粧が終われば、逃げ場はもうない。
立ち上がると、気を利かせたメイクさんが、おっきな姿見を転がしてくる。
ヤダなあ。
まあ、でも、見ないわけにはいかないし。
この目で、今日のボクを見てみよう。
光に透ける純白のドレス。
きゅっとタイトな長手袋。
桜色の花びらをあしらうカチューシャ。
こういう、ごてごてとした衣装が、ボクは好きだ。
ゲームのキャラクターが、武器や防具で身をよろうように。
お化粧やアクセサリーで身を着飾るほど、ひとまわり可愛く綺麗な自分になれる気がする。
もちろん、どれだけ軽装でも、きれいだったり、かわいかったりの子はいる。ごまんと。
「皆さんがお待ちです」
ボクは無言で頷くと、メイクさんの隣をすり抜けて、撮影用の別室に向かう。
今日は珍しく、雑誌に載せる写真撮影のお仕事だ。
背伸びをしたい年頃の女の子をターゲットにした人気雑誌。
ボクの姿に憧れてくれる子がいるかもって思うと、悪い気はしない。
ふふーん。
なんて。
部屋に入ると、高い天井と、柔らかな光と、たくさんの人たち。
その瞬間、空気が重みをもって、ボクを押し潰そうと迫ってくるよう。
ボクと同じ立場の人なら、この感じ、絶対に分かるはず。
おおげさな言い方だけど、今日のボクは主役のひとりだ。
ボクに向けられる視線には、何かしらの感情が込められてる。
良いものであれ、悪いものであれ、それは重圧となってボクを包み込む。
何度味わっても慣れない。
自分が主役になるたびに、ボクの前進を拒むように体が重くなる。
ボクは、アイドルである以前に、単なるひとりの人間で。
だから。
吹き飛ばされそうになる。
いつも。
だけど、こういうとき、一番に走り寄ってきてくれる人がいる。
ボクよりずっと背が高くて、年もひとまわりほど違ってて。
ボクのことを誰より信じてくれるひと。
「どうですか、今日のボクは」
微笑み、自分を誇示するみたいに胸を張る。
「可愛くて、綺麗だ。よく似合ってる」
照れもなく、ひどく直截で、だけど力強い。
その言葉は魔法。
「当たり前です。今日の撮影も完璧に決めてみせますから、見てて下さい!」
言葉は、魔法で、力だ。
ほら、体が軽い。
世界でいちばんカワイイみたい。
なのに。
終わりは突然。
握手会終わりの、しとしと雨が降る夕暮れ時だった。
「幸子、大事な話がある」
プロデューサーが運転する社用車には、仄かに煙草の臭いがかおる。つんと鼻を刺すこの臭いがボクは嫌いだ。なんだか自分が拒まれているみたい。
「煙草くさいです。吸わないって約束、忘れましたか?」
出会って間もない、まだ彼が煙草を吸っていた頃のことを思い出した。最初は冗談めかして拒んだだけ。だけど、本気で気分を悪くしたボクを見て、顔を青くしていたっけ。思えば、シートに染みついた煙草の臭いは、いつしか消えていた。大嫌いな煙草の臭いをかいで、彼と過ごした時間の長さを実感するなんて、馬鹿みたい。
「大事な話だ」
彼の横顔は真剣で、だからボクはまともに取り合いたいと思わない。嫌な予感はよく当たる。嫌だからと払いのけても、結局は戻ってくると知っているのに、拒むことをやめられない。わがままだって叱られ続けた、ボクの悪癖。ぜんぜん、治らない。
「カワイイボクへの告白ですか? ボクも罪な女ですね!」
プロデューサーは笑わない。
困ったように笑うところが好きなのに。
「幸子……」
怖い。
「俺はお前のプロデューサーじゃなくなる。すまない」
息が止まる。
全身が押さえつけられたみたいに重くなって、目の前の景色がぐわんと歪む。
視界がぐっと狭まり、喉からおかしな息がひゅっと漏れた。
やばい。
「幸子!」
叫んだプロデューサーが、車を路肩に停止させたのが分かる。
身を折り、呼吸をするたびに、ひゅーひゅーと音が鳴り続ける。彼がプロデューサーになってから、一度だって起こしたことがなかった発作だ。ぜんそくの再発こそが亀裂の象徴であるようで、苦しみが増した。
袋を取り出した彼が、ボクの口を覆ってくれる。気づかってくれる嬉しさが半分で、そうさせてしまった情けなさが半分だ。知らず知らずのうちに、彼の存在は欠かせないボクの一要素となっていて、彼が隣からいなくなることを思うだけで、ボクのすべてが軋むよう。
「プロデューサー、ボクのプロデューサーじゃなくなるって……」
「来月から、俺は新人の担当になる。連絡が遅れてすまなかった」
「……嫌です。認めません」
「上が決めたことだ。俺にはどうすることもできない」
魔法が解ける。
ボクを支える足場が崩れていく。
為す術もない。
「でしたら、ボクはもうアイドルを続けられません」
「……頼むから、わがままを言うな」
彼の瞳を見ることができない。代わりに、ボクは車窓を叩く雨粒をじっと見つめる。窓に反射してうっすらとだけ映る自分の姿……今、ボクはどんな表情をしているだろう。これはいつものわがままだろうか。
「今のボク、カワイイですか?」
「当たり前だろ。そんなこと、幸子だって知ってるはずだ」
知らない。
ボクはただ、貴方の一番になりたかった。
貴方の言葉がないボクに、なにがカワイイかなんて分からない。
翌日、無断でレッスンを欠席した。
だけど、家でぼんやりと過ごす時間は予想外に辛かった。心も体も溶け出してしまいそう。
次の日、だめもとでスタジオに行ってダンスレッスンに顔を出してみた。追い返されるかと思ったけど、あっさりと許可が出る。すごく助かる。今は存分に体を痛めつけたい気分だった。
大音量で流れているのは、心を芯から震わせるような激しい曲だ。一音一音が刃みたいだなと思う。切れ味鋭い刃に身を投げ出すようにして、ボクは踊りをおどりだす。
だけど、踊り回る体を置き去りにして、ボクの頭に浮かぶのは彼のことばかり。引っ込み思案だったボクの手を引いてくれた、彼の手のあたたかさを思い出す。笑顔ひとつ上手くつくれないボクをあちこちに連れ回してくれたっけ。
ボクの額から汗が滴り落ちる。床を濡らしたそれを踏みつけるようにして体を大きくひねる。筋肉が軋んで千切れるところを幻視する。それが今は心地よい。今はただ、何もかもを絞り出して、ばらばらになってしまいたい。
彼の背中は大きくて、その一歩一歩が新たな道を築くよう。ボクはいつだって道を踏み外してしまいそうで、彼の足跡を必死になぞりながら歩いてきた日々だ。鏡を覗き込めば、そこにはアイドルになる前から見続けてきた、代わり映えしない自分がこわばった笑みを浮かべてる。
ボクには主役になるだけの価値があるのかな。鏡の中のちっぽけな自分に足を取られて、ボクはいつだって立ち止まる。カワイイですよと虚勢を張っても、生まれ持った顔も体もかわらない。今でも鏡を見るのは怖くて、自分自身の弱さに押し潰されてしまいそう。
そんな時、彼は振り返って言うのだ。幸子は可愛いと。
そして、ボクが道を踏み外すとはみじんも思ってないような微笑みを浮かべて歩き出す。
ボクは世界で一番カワイクなんてなくて。
世界で一番綺麗なんてことはもちろんなくて。
知ってる。
でも。
彼が信じる輿水幸子は、きっと、世界で一番かわいくて、きれいだ。
なら、行こうと決めた。
彼と一緒なら、立ちはだかるあらゆる困難は、ボクにとって困難たりえない。
だって、彼といるとき、ボクは世界で一番かわいくて、きれいで、そして無敵だ。
ボクはもう、前で踊るトレーナーさんを見ていない。周囲の子たちだって見ていない。
音の刃に切り裂かれ、血を流す自分の幻を思いながら、踊り狂う。
汗がぼたぼたとこぼれ落ちる。無茶なステップのせいで足の裏の皮だってずる剥けだ。
手足の動きだって滅茶苦茶だ。周りの子に当たらないのが不思議なぐらい。
これが彼との旅の終わりだと思うと切なさに胸が締めつけられた。
最近、少しは追いつけたかなって思ってた。
追いついて、今度は隣を歩きたいと思ってた。
手を引かれてばかりだと、いつまでも対等になれないから。
それなのに、どうして、今なの。
音楽はもう止まっている。知っていたけど、止まらない、止まれない。
ボクのそばにいてくれないなら、どうして、ボクに夢を見せたんですか。
貴方がいないボクは、もう、どこにも行けない。
糸が切れたように動きが止まる。
スタジオがしんと静まり返る。
うつむいたボクの前の床に、ぽつぽつと、しずくが落ちる。
それが涙なのか汗なのか、ボクにだって分からない。
トレーナーさんにスタジオから連れ出され、誰もいないベンチへと。
「貴方達のことは、だいたい聞いてる」
「ボク、プロデューサーさんに捨てられたんです」
「その言い方は誤解を招く」
トレーナーさんが困ったような声を出す。
「でも本当です。いきなり、こんな……」
はぁ、と溜め息がひとつ。
「貴方と離れたくない気持ちは彼も同じよ。幸子だけは勘弁してくれって、社長に直訴しに行った話、有名よ?」
とくんと心臓が高鳴る。
思わず顔を上げると、トレーナーさんの優しい笑みがあった。
「声を荒げて、うるさいのなんの。周りの人達に丸聞こえだったらしいわ。最後は、いい加減にしろって一喝されて終了。所詮はサラリーマンよね。お上の決定には逆らえませんってわけ」
頬が熱を帯びたのが分かる。
少し前まであれだけ落ち込んでたのに、単純な自分が嫌になる。
「それでも、どうしても離れ離れが嫌だって言うなら、二人揃って移籍でもする?」
顔を伏せたボクは、首を横に振る。
いくらわがままが板についたボクでも、そんなことは言えない。
「プロデューサーさんの気持ちは分かりました。でも、やっぱり、ボクにはプロデューサーさんがいないとだめなんです。だから、もう……」
「私は貴方の保護者じゃないし、貴方の人生は貴方が決めること。だけど、もう少しだけ考えてみて。少なくとも、私の目から見て、貴方はもう一人の立派なアイドルよ」
ボクは答えを返せずに、だけど。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それじゃ、私は戻るわね。お疲れ様」
去っていく背中に、ボクは深々とお辞儀をする。
もういちど、彼と話をしてみよう、と思った。
事務所に戻ると、緊張感のある空気が漂っている。
複雑な視線がいくつもボクに向けられて、それだけで事情を察した。
足早に廊下を駆けて、社長室へと向かう。
息を切らせて、扉の前に立つ。
呼吸を整え、意を決してノックをしようとした。
「――幸子には、まだ俺が必要です」
手が止まる。自然と扉に耳を寄せるようにする。
「ご存知の通り、先日、幸子は持病のぜんそくを再発させました。俺がプロデューサーになってからは、一度としてなかったことです。レッスンの欠席も。今回の件が原因であることは明白です」
「だがね……」
「最近、幸子の成長は著しいです。ようやく良いリズムができてきたんです。ここで幸子にストレスをかけるのは、彼女の人生を大きく狂わせることになりかねません。お願いします、どうか……」
「ふむ……」
よかった、という思いが込み上げた。
これで何もかもが元通りになるんだ、とほっとした。
帰ろう。
扉に背を向け、踏み出そうとした足が、何故だか動かない。
どくん、と心臓が大きく脈を打ったのを感じる。
ボクの心の最も弱い部分が、震え出さんばかりに歓喜していた。これでもう二度と彼から離れなくて済むと。彼は言ったのだ。幸子には俺が必要だと。それは、ボクが彼を必要とし続ける限り、彼のそばにいられるということだ。ボクが道を踏み外しそうになった時、必ず彼は手を差し伸べてくれる。そうせずにはいられない人なのだ。なんて素晴らしいことかと思う。ボクが彼の後ろで間違い続ける限り、彼はそばにいて間違いを正してくれるだろう。彼の歩みを遅らせるほどにボクたちの時間はそれだけ伸びるのだ。
くそったれ、死んじまえ。
ボクは扉に向き直り、思い切り拳を叩きつけた。
弱い自分を叩き潰すみたいに。
必死にあがいて間違えるのはいい。悩み抜いた末に足を踏み外すのは勲章だ。だけど、失敗する為に失敗することだけはだめだ。彼が見せてくれた、世界で一番可愛くて、綺麗なボクに、それは相応しくない。そしてなにより、世界で一番可愛くて、綺麗なボクを、誰より信じてくれる、彼と、ボクのファンに、それは泥を塗る行為だ。
返事も待たずにドアを開け放ち、唖然とした表情の彼と社長の前に立つ。
「面白い話をしてるじゃないですか、プロデューサーさん。ボクも混ぜていただけますか?」
「幸子、お前、何を」
ボクは不敵な笑みを浮かべ、胸を張り、なけなしの虚勢を振りかざす。
「ボクにプロデューサーさんが必要? 面白いことを言いますねえ。いいですか、よく聞いて下さい。世界で一番カワイイボクに! 世界で一番キレイなボクに! 必要なものなんて、何もありはしませんよ!」
震えそうになるのを、声を張り上げることで必死にごまかす。
ボクは、世界で一番可愛く、綺麗で、そして無敵だ。
彼が育ててくれたボクを、彼が与えてくれたボクを、否定してたまるか。
ボクは行儀悪く、彼を指さす。
「というより、プロデューサーさんがボクのことを必要としているんでしょう? なにせ、ボクは世界一のアイドルに駆け上がる器ですから! ただ隣にいるだけで、プロデューサーさんはナンバーワンプロデューサーへの昇格間違いなしなんですよ! どうですか、悔しいですか、悔しいでしょう? もう、身近でボクを見守ることができないなんて、どれだけ、っ」
声が途絶える。
ボクの馬鹿。
ぽたり、
ぽたりと、
涙が頬を滑り落ちていく。
「どれだけ、不幸なことかっ……。今まで、ボクを、ここまで導いてくれたのに、こんなところでお別れなんて、悔しくて、悲しくて……ボクが、どれだけ、貴方に感謝しているか! そんなことも伝えられずに、何の恩返しもできずに、こんな……」
それが限界。
ボクは声を上げて泣いた。
彼が駆け寄ってきて、そっとボクを抱き締めてくれる。
彼の胸の中はあたたかくて、そのぬくもりこそがボクの失うものだった。
「ありがとう幸子。お前のプロデューサーになれて本当に良かった」
それがボクと彼の旅の終わり。あるいは途中。
その後、人事異動が撤回される、なんてことは当然なくて。
ボクはボクの、そして彼は彼の、互いの道を行くことになる。
事務所は同じだから、また新たな縁を持つこともあるはずだ。
その頃、ボクは、名実共に世界で一番カワイイアイドルになっている予定だ。
ところで、ボクは、彼の新たな担当アイドルが誰なのかをまだ知らない。
新人、というところまでは知っているけれど。
気にならない、といえば、もちろん嘘になる。
で、今日、まさにこれから、彼が新人を連れてくることになっている。
そして、現れたのは、口をへの字に曲げた子だ。
彼にがっちり手を繋がれ、けれど体は思い切り逃げている。
無理やり連れられてきたって感じで犯罪に見える。
「紹介する。森久保乃々だ」
「アイドルむーりぃー……田舎に帰らせていただきます……」
後日、ボクはこの子と奇妙な因縁で結ばれてしまうのだけれど、それはまた別の話だ。
12 : 以下、新... - 2013/09/04 21:40:19.19 DVgSD76f0 12/28以上です。
お読みくださり、ありがとうございました
14 : 以下、新... - 2013/09/04 21:57:05.95 DVgSD76f0 13/28以下、森久保編です
これでおしまいとなります
電車を降りて徒歩五分。
下り坂の向こう、ぐねぐね曲がりくねった道を行く。
切れかけの街頭はちかちか光り、河の下水はごぼごぼ歌う。
大通りから一本逸れた、悲しいほどに静かな路地の、その隣。
事務所から一駅離れたこの場所に、夏休みの間だけ、お母さんが借りてくれた家がある。
二階建ての小奇麗なマンションで、オートロックまでついている。
私が暮らす103号室の前に、一匹のセミが、おなかを向けて寝転んでいた。
「部屋に入りたいんですけど……」
セミはうんともすんともこたえない。
「死んでますか……?」
一歩。
「死んでますね……?」
一歩。
「死、」
ジィィイイイイイイイイイ!
「ううぅぅうぅう! もういやぁ……」
ぐるぐるぐるぐると回転し始めたセミに背を向ける。
半泣きで表の通りに出ると、ねっとりとした夏の風が吹きつけた。
見上げた空はずいぶん暗くなっていた。
「おなか、すいた……」
とぼとぼ歩いて近くの公園へ。
子どもひとりいない場所。
私はブランコに腰かけて、ゆらゆら揺れる。
ポケットの中の携帯が震え出す。
「電話……お母さん」
耳に当てる。
「……うん、仕事終わったよ。ご飯も食べた。そう……プロデューサーさんがご馳走してくれた。うん、優しそうな人だよ。……うん、うん。事務所の人とも……ちょっと話した。友達も……できたし。うん、頑張れそう、うん……ありがとう。また連絡するね」
携帯をしまう。
「……嘘ですけど……」
ぐうとおなかが鳴る。
「おなか、すいた……」
マンションに戻ると、103号室の前、セミの代わりに男の人が立っていた。
「ひっ」
男の人が振り返る。
「森久保さんですか?」
「そうですけど……」
「お届けものです」
ずいとダンボールを差し出される。
頷き、目を合わせないようにしながら、扉の内側へと滑り込む。
ハンコを押し、受け取った荷物を抱え……重すぎですけど……。
ほとんど押すみたいにして、奥の部屋へと滑り込ませた。
独特の臭いがかおる、来て日が浅い、真新しい私の部屋。
殺風景で、誰もいなくて、物悲しい。
急に、全身から力が抜けたみたいになって、床にぺたりと座り込む。
しん、と静まり返った部屋。
どこか遠くで車の排気音が聞こえるだけ。
目の前に置かれたダンボールをぼんやりと見る。
送り主には、田舎暮らしのおばあちゃんの名前。
「ばっちゃ……」
ダンボールを開くと、丁寧に折りたたまれた手紙が顔を出す。
『お元気ですか、乃々』
という書き出しの、達筆な文字。
『貴方がアイドルになったと聞いて、嬉しく、誇らしく思います』
「……ただの、偶然ですけど……」
『昔から頑張り屋な貴方ですし、根を詰めすぎていることでしょう』
「田舎に帰ろうとしてましたけど……」
『おばあちゃんは、最近、体の調子が良いです。立派な孫のお陰ですね』
「お母さんに嘘つく悪い子ですけど……」
『貴方の姿をテレビで見られるのを楽しみにしています』
「……そんなの、無理、ですけど……」
『家で採れたお野菜を送ります。くれぐれも健康に気をつけて、暮らして下さい』
ダンボールの奥には、形が悪いけれど、大きくて、新鮮そうな野菜たちが詰め込まれていた。
「ばっちゃ……ありがとう……ごめん……」
きゅうりを手に取り、丸かじりする。
しょっぱい。
美味しい。
「うっうっ、ううぅぅうう……」
涙がぼたぼたときゅうりを濡らす。
「人と目を合わすのが怖いです……」
肩が震える。
「思ったことを言葉に出せないです……」
目元を拭う。
「家族はみんな優しくて、良い人ですけど……」
私だけが、馬鹿で、出来損ないだ。
「アイドル、無理……。帰りたい……」
涙が止まらない。
みっともなく、泣いて、泣いて、泣いて。
その後のことは、覚えてない。
寝坊して、遅刻した。
涙で腫らしたひどい顔のまま、電車に飛び乗って事務所に行った。
プロデューサーさんは何も言わなかった。かえってそれが怖かった。
「すみません……」
こちらからそう言ったきり、目も合わせずに駆け出した。
彼がどんな表情を浮かべていたか、想像するだけでも気絶しそうなほど恐ろしかった。
レッスン場に入ると、既に、たくさんの人たちが音楽に合わせて踊っていた。
彼女たちのひとりひとりが、自信に満ち溢れているように見える。
同じ人間のはずなのに、熱気が違う、格が違う、生きてる世界が違う。
もし、この場の全員に順位付けしたとしたら、私は間違いなく最下位だ。
渦巻く熱気に吹き飛ばされてしまいそう。
何とか空いてる場所に入り込んで、見よう見まねで腕と足を振る。
だけど、すぐに気づく。私のは本当にただ動いているだけだって。
全くついていけない。キレもない。熱もない。冷え切った体が機械的に右へ左へ。なけなしの自信すらすぐに砕け散り、不安そうな瞳で周囲をちらちらとうかがう私は、みじめそのもの。誰も私のことなんて見てなくて、それが余計に場違い感を煽っていく。
音楽が止まる。前に立つトレーナーさんが私の名前を呼んで、それでようやく、周りの子たちが、私の存在に気づいたようだった。いくつものが視線が集中するのが分かり、怖くなってうつむいた。
トレーナーさんが、私を紹介してくれる。親切心なんだろうけど、さらし者にされているようにしか思えない。自己紹介を促されたけれど、名前を言うのが精一杯。最後は半ば逃げるようにして立ち去った。終始うつむいたままで。誰とも目を合わせずに。
休憩時間。
私は足早にレッスン場を後にして、トイレへと駆け込む。
個室の扉をかけて、バッグから携帯を取り出す。
ちかちか光る、一通のメールはお母さん。
『昨夜はよく眠れましたか? 慣れない環境で体調を崩していないか心配です』
大丈夫だよ。今、レッスンの休憩中で――。
震える指でボタンを押していく。
「あの子さ、何あの態度。舐めてんの?」
呼吸が止まる。
心臓が握り潰されたみたい。
「やる気ないんでしょ、いきなり遅刻とかありえない」
「さっさと辞めてほしいよね。ああいうのがいると空気悪くなるし」
『レッスンはまだ少し難しいけど、ついていけないってほどじゃなさそう』
罵りの言葉を受け流し、なめらかに指が嘘を打ち出していく。
自然にそうしてしまえる自分に気づいて、背筋がぞくりとした。
『さっき、友達に聞いてちょっとコツをつかめたし――』
指が硬直する。
私、こんなことをしに来たんだっけ……?
こんな、みじめな、嘘ばっかりつきに……。
目の奥が熱い。
「しかもさ、あの子のプロデューサーって、前まで輿水さんの担当だったんでしょ? プロデューサーも、輿水さんも、あんな子に引っかき回されて悲惨だよねえ」
溜まった熱が、すうっと瞳からこぼれ出す。
喉から漏れそうな声をせきとめるように、両手で口を覆った。
ぽたぽたと、手の甲を熱い雫が打っていく。
「面白そうな話をしてますね。ボクに続きを聞かせてもらえますか?」
一瞬の静寂が訪れる。
戸惑うような空気がトイレに満ちていく。
「いえ、何でも……すみません、失礼します。ほら、行くよ」
数人の足音が遠ざかっていく。
私は息を殺して、自分がここにいると悟られないようにする。
私に気づかないまま、出て行って欲しいですけど……。
どん、と音がして、私が入った個室のドアに、その子が背中を預けたと分かる。
「……あ、もしもし、プロデューサーさんですか。カワイイボクのためにお時間もらえますか?」
誰だか知りませんけど、トイレで電話なんて非常識だと思う。
それに、盗み聞きしてるみたいで、いい気分もしない。
「ええ、実は今ですね、陰口を言ってる子たちの姿を見ちゃったんです。ああ、知らない人たちです。いえ、ボクに対してでもないですよ。じゃあそれがどうしたって、プロデューサーさん、察しが悪いですね。ボクの担当になった自覚が足りてないんじゃないですか? いいですか、ボクは陰口というものが大嫌いなんです」
堂々として、ずけずけとものを言うこの感じ、私が苦手とするタイプだった。
「何故って、ボク自身が学校で陰口を散々に叩かれてきたからです。愛想がなくて暗いって。……いや、ボクの話ですってば。まあ、信じないならいいですよ。どうせボクは、悩みひとつないお気楽な人生を送ってきた女ですからね! ふん、いまさら取り繕ったって遅いです。……え? あ、そうですか……ではケーキ二つで手を打ちましょう。し、仕方なくですからね。ああ、なんて優しいボク!」
私も、学校ではこそこそと裏で文句を言われてたっけ。
そのたびに心臓がきゅってなって、お前は教室から要らない子だって、耳元で囁かれてる気がしてた。
よく、別棟のトイレにこもって、ひとりで泣いてたっけ……。
「これはボクだけじゃないと思うんですけど、自分の陰口を耳にしてしまうと、周りの全てから邪魔者扱いされてる気がしてくるんです。楽しそうな笑い声が聞こえるたびに、ここはお前の居場所じゃない、出て行けって言われてるみたいでした。いたたまれなくなって、トイレの個室でよく泣いてたんです。……言い返さないのかって? 意味ないですよ。嫌いな相手から、やめろって言われたって、やめるわけないでしょう?」
そうだ。陰口を言うのは、決まってずるい子たちだから、安全なところから石を投げてくる。
こっちから石を投げ返したって、届かないところに逃げてしまうだけ。
目障りな私がそこにいる限り、その子たちはずっと石を投げてくるんだ……。
「どうしようもないから、諦めるのかって? はッ、何を寝ぼけたことを言ってるんですか?」
熱っぽく、声を張り上げて。
「そういう時は、薄っぺらな言葉じゃない、何かを見せつけて、黙らせてやればいいんですよ!」
私が苦手とする子たちと同じだ、という評価は撤回だ。
この子は、凄い。
「世界で一番カワイイボクに何かご用ですか、ってね!」
だけど、私には無理だ。
この子は、最初から、持っていたんだろう。
アイドルになる、才能みたいなものを。
私にはそれがない。
だから、頑張ったって、この子みたいにはなれないし。
この子みたいには、頑張れない。
翌日、事務所に向かう電車で急にお腹が痛くなった。
座席で体を丸めるみたいにしていたら、降りる駅を通り過ぎていて、気がつくと痛みは引いていた。
もうどうしたって間に合わないと気づいた時、ほっとしてしまったことに自己嫌悪。
引き返す気にもなれなくて、適当な駅で降りてみる。
駅前はとても賑わっていて、若い人たちの姿が目立つ。
誰もが確かな目的をもって歩いているようで、ここでも私は場違いであるよう。
人ごみに混じっているのが耐えられなくて、私は人気のない小道へと突き進む。
人も車もほとんど通らない道の途中に、いくつもの看板が立っていた。
コンビニエンスストアが新しくできたらしく、駐車場の向こうから美味しそうな匂いがしてきた。
ぴかぴかの店の前、店長らしきおじいさんが、鉄板でフランクフルトを焼いている。
隣では、微妙に可愛くないウサギの気ぐるみが、看板を片手に立っていた。
今は真夏だ。中の人は大丈夫なんだろうかと、余計な心配をしてしまう。
余計な心配ついでにもうひとつ。
このコンビニ、駐車場はがらがらで、お世辞にも人が入っているようには見えない。
必死にフランクフルトを焼くおじいさんを見ていると……いたたまれなくて。
目にゴミが入ったみたいですけど……。
私はふらふらとコンビニの敷地内に入っていく。
いち早く私に気づいたウサギが、地面に看板を置いて、凄い勢いで走り寄ってくる。
完璧な仕草で次々とポーズを決めて、どうやら私を歓迎しているみたいだった。
うぅ。
反応に困る。
無視して、おじいさんの前に。数年前に他界したおじいちゃんと、どことなく雰囲気が似ている……気がする。
「いらっしゃい。お嬢ちゃん可愛いね。家はこの辺なのかい?」
「自分探しの旅の途中ですけど……」
おじいちゃんは大笑いし、美味しそうな焦げ目のついたフランクフルトを差し出してくる。
「旅人のお嬢ちゃんにサービスだ」
「ありがとう……ございます」
ウサギが間に割って入ってきて「私にはないの?」というように自分を指差す。
「馬鹿やろう。寝言を言う暇があるなら交替だ」
ウサギは両手を広げて驚きのポーズ。どこまで演技か分からないけれど、凄い根性だ。
おじいさんは本当に鉄板の前から姿を消し、代わりに気ぐるみウサギがそこに立つ。
ドアの開く音がして、店内に入ったおじいさんと入れ替わりで、スーツを着た男性が袋を片手に出てくる。
というか、プロデューサーですけど……。
「……乃々? 今日は、レッスンの日じゃなかったか?」
私はフランフルトにかじりついた姿勢のままで硬直。
頭はまっしろ。
私の視線はプロデューサーから逸れて、ウサギへと。
野球の審判みたいに派手な動きで「アウト!」のポーズを取られましたけど……。
プロデューサーは店内に戻り、今度は両手に袋を抱えて出てきた。
片方を手渡される。
中身はお茶とサンドイッチだ。
プロデューサーが、駐車場の、日陰になった縁石に腰を下ろした。
そのまま、弁当の包みを剥き始めたので、私も近くの縁石に座った。
三十円引きのサンドイッチをもそもそと食べ始める。
暇を持て余したのか、私たちの近くにウサギが行儀よく体操座りをしていた。
会話のない数分間。
「なあ、乃々はどうして……アイドルになろうとしたんだ」
責めるでもない穏やかな口調が、むしろ居心地悪くて、私はうつむいた。
「前に、私……駅前でスカウトされました。断りましたけど……」
「へえ。まあ、不思議じゃないな」
「その話をしてから、お母さんはことあるごとにアイドルのオーディションを受けるように勧めてきました。お母さんは昔にアイドルをしてたことがあって、結婚して辞めちゃいましたけど……私にも同じ道を歩ませたかったんだと思うんです。親戚中に触れ回って……気がつくと、私はアイドルを目指してるみたいになってました。だから、一度だけと決めてオーディションを受けたんです。あっさりと落ちれば、周りの目も覚めるだろうと……最初から無理だと思ってましたけど……それが」
「受かってしまった、と」
世の中には、アイドルになりたくてもなれない子なんて、ごまんといるはずなのに。
アイドルという立場から逃げてばかりの私が、その席のひとつを奪ってしまったなんて。
「それで、特に喜んでくれたのが、ばっちゃ……母方の祖母でした。ばっちゃは、何年か前にじっちゃを亡くしてから塞ぎ込みがちになりました。ばっちゃは、昔から私のことを可愛がってくれて……だから、凄く心配でしたけど……どうしようもなくて。ですけど、私がアイドルになったと知ってから、ばっちゃは少し元気になりました。親戚もみんな嬉しそうで……家族もとてもよくしてくれます」
みんなが背中を押してくれた。
乃々ならできると言ってくれた。
「みんなの期待が……重いです」
周りを見渡せば、私よりも遥かに可愛い子たちがいっぱいで。
歌も、ダンスも、ファッションセンスも、声質も、なにひとつ勝てる気がしない。
「私の代わりなんて、きっといくらでもいます」
自信を持てない痩せっぽっちの心は、今にも砕けてしまいそう。
「乃々の代わりは、乃々だけだ。アイドルとは、良くも悪くもそういうものだ」
「……ですけど」
「誰もが最初から自信を持てるわけじゃない。第一線で活躍してるアイドルだって、常に不安を抱えながらファンの前に立っている。俺が乃々の前に担当していた子も、出会った頃は、おどおどして、いつも周りの視線を気にしていたよ」
「その子は、今、どうなりましたか」
「俺の手を離れて、新しい場所で活躍してる。乃々がアイドルを続けるなら、いずれ会う機会もあるさ。もしかしたら、もう会ってたりしてな」
「その子には、才能があっただけだと、思いますけど……」
プロデューサーは少し気分を害したみたいに身じろぎした。
「そう思うのは勝手だ。だが、才能なんてのは誰にでも埋まってて、それを掘り出すのが早いか、遅いかの問題だと思ってる。そして、幸子が才能を掘り出せたのは、それに見合う努力をしたからだって、傍にいた俺が一番知ってる」
「その子、幸子っていうんですね」
失言に気づいたように、プロデューサーが渋い顔をした。
「ともかくだ、一度、大勢の人たちの前に立ってみるといい。まだ、乃々はアイドルというものを体験していないだろう? 何かを判断するのは、それからでも遅くない」
それでも、無理だと、思いますけど……。
その言葉を呑み込む。
「乃々は、自分じゃなく、家族のためにアイドルになりたかったんだろ? 確かに、私が私がって、がっつくタイプも多いけどな、全員がそうってわけじゃない。俺の持論だけど、アイドルってのは、本質的に、誰かを笑顔にさせる職業だって思ってる。だから、乃々、お前のそれは、アイドルの正道だ。自信を持て」
そう、でしょうか……。
視線を感じ、顔を上げた瞬間、微笑んだプロデューサーと目が合った。
息を呑む。不思議と目を逸らせない。
この息苦しさが、どうしてか、悪いものだと思えない。
私は……頷いた。
「もう少しだけ、アイドル、頑張ってみます」
背後から肩をぽんと叩かれる。
見ると、間近で例のウサギが力強く頷いてくれる。
このウサギ、サービスよすぎですけど……。
私は今度のアイドルライブイベントの前座を務めることになった。
とはいえ、たくさんの新人アイドルのひとり、悪く言えば、にぎやかし、引き立て役だ。
お客さんのお目当ては、最近ぐっと知名度を上げているトライアドプリムスの三人だ。
誰も私なんて見ていないからこそ、気負わずに自分を出すチャンスだとプロデューサーは言う。
全く実感が湧かなくて、私は他人事みたいに話を聞いていた。
今日はライブイベントの打ち合わせの日だ。
事務所の一室で待っていると、なにやらドアの向こうが騒がしい。
「信じられません。あれだけ感動的なお別れをしておいて……当たり前みたいに呼び出すなんて!」
「同じ事務所なんだ、顔を合わせるのは普通だろう?」
「偶然すれ違うのと待ち合わせをして出会うのは全然違います! デリカシーって言葉、知ってます?」
派手にやり合ってるみたいだ……というか、この声……どこかで。
ドアが勢いよく開いて、騒がしさの塊がふたつ、勢力を弱めずに飛び込んできた。
プロデューサーと、私よりも背が小さな、可愛らしい女の子。
「一旦休戦といこう。埋め合わせは後でする」
「高くつきますよ。ボクはお高い女なんですから」
二人を見てぴんときた。
この子が、プロデューサーの、前の……。
「初めまして。ボクは輿水幸子です」
堂々と胸を張るその姿。その声。
実際、この目で見てみると。
やっぱり、凄い。
「森久保乃々です。あの時は……ありがとうございました」
「さて、何のことでしょう。ボクにはさっぱり、分かりませんね」
何のことだと首をひねるプロデューサーを一瞥し、彼女は私に悪戯っぽくウインクしてみせた。
アイドルライブイベントに備えて、幸子ちゃんが私に稽古をつけてくれることになった。
彼女の仕草は、全てが自信に満ち溢れていて、圧倒されてしまう。
同じ年齢なのに、へこんでしまう。
だけど、私はもう、幸子ちゃんにも、弱い部分があるんだって知っている。
だから、才能なんて言葉で片づけてしまうのは、卑怯者のやることだ。
お母さん、ばっちゃ、みんな。
私、頑張ってるよ。
私たちはついに、アイドルライブイベントの日を迎える。
場所は、郊外にあるアウトレットモールの広場。
開始時間まで、私たちは控え室で待機する。
幸子ちゃんは平気な顔をしているけれど、少し手が震えていた。私もそうだ。
緊張感に耐えられなくなって、トイレに立つと、幸子ちゃんも一緒についてきた。
無言で歩く廊下。
「……っ!」
隣で幸子ちゃんが息を呑んだ。
思わず顔を上げた私の、視線の先に、揃いの衣装で着飾った三人組の姿。
全員の顔に見覚えがある。トライアドプリムスの三人だ。
凛とした顔をして、視線はまっすぐ。
どこか遠いところを見ているよう。少なくとも、私たちなんて見ていない。
だけど、彼女たちがただそこにいるだけで、鳥肌が立ち、強い圧迫感を覚えた。
思わず立ち止まる。
得体の知れない気迫が、私たちを絡め取り、身動きも、呼吸もできなくさせているよう。
同じ人間のはずなのに、こんなに違う。
これが……本物。
彼女たちが立ち去ってから、幸子ちゃんが身震いする。それは武者震いだ。
「上等です。壁は高い方が、越えていく甲斐がありますからね」
幸子ちゃんが自分の胸に刻みつけた宣戦布告。決して虚勢じゃないと思わせられる、強い口調。
……かっこいいな。
私も……。
そうして、時間はみるみるうちに過ぎていき。
ついに開演の時間。
衣装は万全。ダンスも頭に叩き込んだ。喉の調子も悪くない。
トークのネタも、渾身のものを用意してきた。
控え室の扉が開いて、スタッフさんが顔を出す。
「皆さん、そろそろ準備をお願いします!」
全員が返事をして、立ち上がる。
ぞろぞろと列を成して出て行く……その途中。
息を切らせたプロデューサーが、こちらに向かって駆けてくる。
思いきり両肩をつかまれて、驚きに私は目を見開いた。
「な、何ですか。もう、出番なんですけど……」
熱い激励でもくれるのかなって、少しだけ期待する。
だけど。
「乃々、お前の祖母が倒れた」
「……え?」
「今、お母さんから事務所に連絡が入った。容態が急変したそうだ」
変に緊張しちゃうから、ここに来てから携帯の電源は切っていた。
ですけど……そんな。
「……うそ」
「残念だが、本当のことだ」
「……ばっちゃ」
誰より私を可愛がってくれたおばあちゃん。
優しくて……私が大好きなおばあちゃん。
「私、アイドル、頑張るって、決めたんです……。行かなきゃ……」
私はプロデューサーに背を向け、先を行く子たちの後に続く。
「乃々!」
たとえ、お客さんたちが私を見なくても。
お客さんを放り出して逃げるなんて……絶対にだめだ。
不意に、幸子ちゃんに肩をつかまれ、強引に振り向かされる。
私の表情を見て、彼女が辛そうに顔を歪ませた。
「なんて、顔……ッ、してるんですか!」
「行かなきゃ……幸子ちゃん」
「後はボクらに任せて、乃々は早く行ってあげてください! 一生、後悔しますよ!」
「ここで逃げても……後悔する」
「それは逃げじゃない! 分からない人ですね、馬鹿ですか貴方は!」
幸子ちゃんを無視して、私は広場に向かって駆け出す。
歯を食い縛り、何度もまばたきをして。
既に広場は満員で、あちこちから歓声が上がっていた。
たくさんの人たちの視線に、私は手を振り、笑顔で応える。
そして始まる。
私の初ステージだ。
大勢の中のひとりだとしても、私はアイドルだ。
私の姿を見て、だれかひとりでも笑ってくれるなら。
全力を出す以外に、選択肢なんてない。
喉がかれるほどの大声で、一曲を歌いきる。
体が千切れ飛びそうなほどの動きで、ダンスを踊りきる。
客席からは、後に尾を引く、歓声と、拍手。
……終わった。
最後に、全員が順々に、ほんの数秒ずつ、マイクでコメントを残していく。
マイクが手渡されていく中、私の頭の中では、おばあちゃんのことがぐるぐるぐる。
ぽん、といきなりマイクが左隣から渡された。
元々考えていたネタなんて、全て吹っ飛んでしまっていた。
沈黙。
客席がざわめき始める。
右隣の幸子ちゃんが、危うい空気を変えようと、私からマイクを奪おうとする。
私はそれを制する。前を向く。
「……家族のために、アイドルになろうと思いました。私がアイドルをすることで、みんなが笑顔になることが、嬉しくて……」
涙がマイクに滴り落ちる。
みっともなく鼻をすすり上げる。
「田舎のばっちゃが、倒れました。私を応援してくれる、大切な家族……笑顔になってほしい人のひとりです。それなのに……ばっちゃが苦しんでるのに……私は……」
ぐしゅっと声が潰れる。
「私の姿を見て、ここに来てくれた皆さんの誰かが、笑顔になってくれたらいいってずっと思ってました。その気持ちは嘘じゃありません。だけど……最初の気持ちだけは……家族を笑顔にしたいっていう思いだけは、裏切りたく……ないんです。だから……ごめんなさい、私はばっちゃのところに、行きます。私はまだ、アイドルでいないといけないのに……本当に、ごめんなさい」
広場は静まり返っていた。
私は幸子ちゃんにマイクを手渡して。
振り返らずに、走り出した。
待ち構えていたプロデューサーの車に乗り、高速を飛ばして、おばあちゃんが入院する病院へ。
おばあちゃんは全身にたくさんの管をつけて、穏やかに眠っていた。
「一時期は危険な状態にありましたが、峠は抜けました。今は落ち着いています」
お医者さんの優しい声に、我慢できなくなって、私は声を上げて泣く。
「触っても……いいでしょうか」
「ええ。その方が、喜ばれるでしょう」
私は、おばあちゃんの、細く、がさがさした腕にそっと触れた。
「ごめんね、ばっちゃ……。私、中途半端で……こんな……」
拭っても拭っても涙が出てくる。
その時、おばあちゃんの腕がかすかに動く。
「……乃々や」
はっとして顔を上げる。
おばあちゃんが、薄目を開けて、私を見ていた。
「ばっちゃ……ばっちゃ」
「素敵な、衣装だねえ……」
「うん……私、これで、大勢の人の前に立ったよ」
「頑張ったねえ……乃々」
「うん……でも、私、失敗してばっかりで……」
「気負うことはないよ。乃々が思う通りにやりなさい。私は……何があろうと乃々の味方だから」
「ありがとう……ありがとう、ばっちゃ……」
「私は……立派な孫を持った。幸せ者じゃ……」
その日、私は、着替えもしないまま。泣き腫らした目のまま。
再び、プロデューサーの車で、アウトレットモールに引き返す。
ライブイベントの公演なんて、もう何時間も前に終わっていた。
辺りはすっかり暗くなり、アウトレットモール自体の営業時間がもう近い。
私は、お客さんも、お仕事も、放り出してしまった。
もう、アイドルとしてステージに立つことはないだろう。
それでも……私は、最後に、自分が立ったステージを見てみたかった。
人がいなくなった広場は大きく、ステージから見る景色は格別だった。
もし、ここにひとりで立つことができたなら、どれだけ喜ばしいことだろう。
「アイドルを続けられなくなってから……こんな気持ちになるなんて」
プロデューサーに優しく肩を叩かれた。
それが感情の堤防を決壊させたみたい。
私は鼻をすすり上げ、涙を流す。
「私……アイドルを続けたかった……もっと……もっと……」
その時、涙でかすんだ視界に、鮮やかな赤色が滲んだ。
今度は、別の場所で、青、黄色、と。
生じた光が、左右に、ゆらゆらと振られ始める。
「え……?」
袖で涙を拭う。
見ると、公演がとっくに終わった広場に、数人、男の人が残っていた。
「乃々ーッ!」
夕闇を引き裂くような、野太く、力強い声が、私を呼ぶ。
「俺はお前に惚れたぞ!」
声が。
「今時、君みたいなアイドルはいやしない!」
声が。
「貴方の姿は綺麗だった!」
声が。
「俺はお前のファンになったぞ!」
声が。
私の心の、奥深いところに、突き刺さっていく。
ふっと、広場の奥の暗がりから、小さな影が歩み出てくる。
「やれやれ、なんだかしゃくですけど、世界一慈悲深いボクが、乃々に主役の座を譲ってあげましょう」
軽やかに歩み寄ってきた幸子ちゃんが、私にワイヤレスマイクを手渡してくれる。
「ありがとう……幸子ちゃん」
「お礼は、乃々が帰ってくるのを何時間も待ち続けた、あの人たちに言うんですね」
「うん……」
幸子ちゃんは、ここにいるのは無粋だって感じで、私に背を向けて去っていく。
私は、マイクを握り締めて、
ありったけの思いを込めて、
アウトレットモールが閉まるまでの、ほんのわずかな時間。
私だけのステージの幕を上げたのだった。
29 : 以下、新... - 2013/09/04 22:07:53.98 DVgSD76f0 28/28今度こそ、本当に、以上となります。
ありがとうございました。