春霞とスモッグで煙った空
行き交う電車の音
そして手には、レンタルの釣竿
市ヶ谷駅を降りてすぐの釣り堀には、たくさんの人
向かいに座っている小さな男の子は、釣り糸を垂らしたままお昼寝中
その隣りではお父さんらしき人が、何匹目かの魚を釣り上げました
なんだか、いい気分
「近くに釣り堀はありますか?」
私にそう聞かれたプロデューサーは、なんだか不思議そうな顔をしていました
「…魚釣りが趣味なので……変ですか?」
「あ、いや、ちっとも変じゃないよ。なかなか渋い趣味だな」
「…ふふ。田舎者なので」
「それはあんまり関係ないような…」
そのとき教えてもらったこの釣り堀
初めて来てみたけど……
まだ一尾も釣れません……
上京してからもうすぐ二ヶ月
転入した東京の高校は人数が多くて、最初は戸惑いました
だって、
だって、前の高校は300人もいなかったから…
おじいちゃんは三日に一度のペースで電話をかけてくるけど、内容はいつも同じ
『いじめられとらんか?』
『東京には変なやつがぎょうさんおるけぇ、気をつけぇよ』
『いけんかったら帰ってくりゃあエエけぇの』
私の返事もいつも同じ
『心配せんでええよ。みんなエエ人じゃけぇ』
それは本当のこと
だけど少しだけ寂しかったりもします
だってここには、土の匂いがしないから…
そんなことを考えていると、隣りで糸を垂らしていたおじいさんが一尾目を釣り上げました
私と目が合うと照れくさそうに笑いながら、
「なんだ、小さいなあ…」
って呟きました
風はほとんど吹いていません
窯と土、レンガで造られた煙突
たまに備前陶芸センター
それが私の原風景
おじいちゃんは有名な陶芸家で、備前陶芸美術館にも作品が展示されていたりします
まだ小さかった私に魚釣りを教えてくれたのもおじいちゃん
「土をこねるのと似とるから」
そんな理由だったけど、お父さんは、
「肇と一緒に遊びたいだけじゃろ」
って言ってました
たぶん、お父さんが正解
「お嬢ちゃん?」
「…え?…あ、はい!」
初めて作務衣を着たときのことを思い出していたから、おじいさんに声をかけられたことに気付きませんでした
「いい天気だねえ」
「そうですね。釣り日和です」
私がおじいちゃん子だってこと、他のおじいさん達にも雰囲気で分かってしまうみたいです
お母さんからは、
「アンタはほんまに爺様キラーじゃなぁ」
って言われました
正解…なのかなぁ?
「女の子一人で釣り堀なんて珍しいねえ」
「ふふ。田舎者ですから」
プロデューサーに言ったのと同じセリフを返しながら、エサを付け替えました
「東京なんて田舎者の集まりさ」
おじいさんも同じようにエサを替えながら、また照れくさそうに笑っています
「どちらのご出身ですか?」
「鳥取。田舎も田舎だよ」
「じゃあお隣さんですね。私は岡山です」
糸を垂らすと水面に小さな波紋が拡がりました
向かいの男の子はお昼寝から覚めたみたいです
「岡山か。桃太郎とばら寿司と…他に何があったっけな」
「……備前焼」
「ああそうだ!瀬戸大橋!」
私の呟き、聞こえなかったみたいです……
「お嬢ちゃんは鳥取っていうと何が思い付くかな?」
「うーん…やっぱり砂丘かな。あ、あと大山。中学二年生のときに登山にいきました」
『大山』を『だいせん』と読む人はたいてい中国地方、それも岡山か鳥取の出身らしいです
「大山か。懐かしいねえ」
「里帰りしたりするんですか?」
「前は先祖の墓参りに帰ってたけどね。年寄りに長旅は堪えるんだ」
「ふふ。まだお若いですよ」
「はは。ありがとさん」
竿の先がピクリと動いたけど、放っておきました
なんとなく、そんな気分だったから
「やれ。そろそろ帰るかねえ」
そう言って帰り支度を始めたおじいさん
バケツの中の魚も釣り堀に返しました
「持って帰らないんですか?」
「ん?うーん…なんとなくそんな気分だったのさ」
「…ふふ。分かります。なんとなく」
外堀の反対側では、何艘ものボートが小さく揺れています
日差しは少し和らぎました
「それじゃあお先に。釣れるといいね」
「ありがとうございます。お気をつけて」
出口に向かって歩くおじいさんの背中を見ながら、今日は私の方から電話をかけてみようと思いました
『心配なんぞしとらんわ!』
って言いそうですけどね、おじいちゃん
「私は大丈夫だよ、おじいちゃん」
水面に向かって小さく呟くと、それに反応したみたいに一尾の魚が釣り糸の側で跳ねました
「ふふ。そんなところにおったら釣り上げちゃうよ?」
方言と標準語が混ざった言葉を投げかけると、魚はもう一度跳ねてくれました
「大丈夫。田舎者じゃけぇ」
柔らかな五月の風が、私の頬を撫でてくれました
『遠く遠く 離れていても 僕のことが分かるように』
上京する新幹線の中で聴いていた曲を口ずさんでみました
『力いっぱい輝ける日を この街で向かえたい』
なんだか鼻の奥がツンとしてきたから、慌てて淡い空を見上げました
その空の真ん中には一筋の飛行機雲が西に向かって伸びていて、今度は瞳が濡れてくるのが分かりました
『どんなに高いタワーからも 見えない僕のふるさと』
頭のなかでひとりでに続いていく歌
『無くしちゃダメなことをいつでも 胸に抱きしめているけど』
土の匂い
ろくろが回る音
ちょっと荒っぽい、岡山弁の響き
私が無くしてはいけない、いくつもの思いや景色
腕時計に目をやると、いつの間にか16時を過ぎていました
「今度はみんなと来たいな」
瑛梨華ちゃんや早苗さん、それに薫ちゃんも
…
……
………早苗さん、ここでお酒飲んだりしないよね?
お花見のときの早苗さんを思い出していると、携帯電話が鳴りました
「はい、藤原です。お疲れ様ですプロデューサー」
『お疲れ。明日の仕事の件で電話したんだけど、いま大丈夫か?』
「大丈夫です。一人で釣り堀に来てるんですよ。プロデューサーに教えてもらった」
とっくにエサを取られている釣り糸を見ながら、私は小さく笑いました
『お、けっこう釣れてるのか?』
「ふふ。まだ一尾も」
『え?それにしちゃ楽しそうだな』
「はい。土をこねるのと似ていますから」
『なんだそりゃ……』
暖かな西日を背中に受けながら、私はまた、小さく笑いました
プロデューサーからの電話を切ったあと、もう一度エサを付けて替えました
あと少しだけ、こうしていたかったから
『遠く遠く 離れていても 僕のことが分かるように』
私は大丈夫だって、みんなに分かるように
『力いっぱい輝ける日を この街で向かえたい』
遠く離れた、この街で
『僕の夢を叶える場所は この街と決めたから』
春霞とスモッグに煙った、淡い空
五月の風は、匂いを運ぶ
それは原風景の中の、あの土の匂い
お し ま い
31 : 以下、名... - 2013/05/12(日) 16:37:09.06 qTChjQno0 19/20終わり
支援感謝!肇ちゃん可愛い!
読み返してきます
33 : 以下、名... - 2013/05/12(日) 16:50:05.05 qTChjQno0 20/20ちなみにスレタイと歌詞は槇原敬之の『遠く遠く』です