<夕方.山中>
ガサガサ ガサガサ……
旅人「ハァ……ハァ……」
旅人「ここは、どこだ?」
旅人「山道に沿って歩いていたはずなんだが……」
カァー カァー
旅人「じきに日が暮れる……早く山を下りないと獣に襲われてしまうぞ……」
ガサガサ ガサガサ……
旅人「お、開けた場所に出たな……一休みするか」
旅人「ふう……」
旅人「ここはどのあたりだろう。村は遠いのだろうか」
旅人「親父を探して早数年……俺はここで終わるのか?」
旅人「そんなわけにはいくか。目的を達していないのに死ぬなんて……」
パキッ――
旅人「!」
ガサガサ ガサガサ……
旅人(何か来る……! 獣か……!?)
ガサガサ ――ヌッ
女?「……」
旅人(あ……)
旅人(……綺麗だ)
女?「……道に迷ったのか?」
旅人「あ……? あ、ああ、実はそうなんだ……山道に沿って歩いていたんだが――」
女?「ついてこい」クル
旅人「え?」
女?「どうした? 困っているのだろう?」
旅人「あ、ああ、でも……」
女?「助けてやるからついてこい」
旅人「わ、わかった」
<庵前>
ガサガサ ガサガサ……
女?「着いたぞ」
旅人(小さな庵だ。ここに住んでいるのか?)
女?「入るといい」ガラガラガラ……
旅人「邪魔をする」
女?「――ようこそ」
旅人「え?」
女?「ようこそ、わたしの住処へ。歓迎する」
ガラガラガラ――パタン……
<夜.夕食前>
グツグツ グツグツ
旅人「すまないな、泊めてもらえる上に食事もいただけるなんて」
女?「いい。わたしも助かる」
旅人「?」
旅人(話し相手ができる、とかそういうことだろうか?)
旅人「あ、そうそう俺の名前は藤というんだ。あんたの名前は?」
女?「……」
女?「ない」
旅人「ない? そんな馬鹿なことあるか」
女?「ないものはないのだからしょうがない」
旅人「……困ったな。それじゃあなんと呼べばいいんだ?」
女?「……」
『お前の目は遠く澄んだ大空のようだねえ……』
女?「空」
旅人「くう?」
女?「そう呼べ」
旅人「……空、空ね。なるほど。お空って呼んでもいいか?」
女?「……好きにするといい」
<夕食>
旅人「ハフ……」ムシャムシャ
女?「……」モグモグ
旅人「なあお空、何であんたはこんな山奥に住んでいるんだ?」
女?「住んでいてはいけないか?」
旅人「いや、いけないことはないが……」
女?「ならば聞くな」
旅人「……すまない」
旅人「……」ムシャムシャ
女?「……」モグモグ
旅人「そうだ」
女?「……どうした」
旅人「いや、面白い話を思い出した。さっき変なこと聞いたお詫びにあんたに聞かせたげようと思うんだが」
女?「結構だ」
旅人「そう言うなって。とても面白い話なんだ」
女?「……」
旅人「俺は各地を旅して歩いてるんだがな、三年ほど前にある村に立ち寄ったんだ」
旅人「数日間滞在していたんだが、ちょうどその間に村の長がなくなったようでな、葬式をやることになった」
旅人「長とは生前ちょっと顔を合わせていたんで俺も一応出席することになった。端っこのほうにな」
旅人「時間になって予定通り坊さんが入ってきた。坊さんは正座し、お経を読み始めた。ここまでは普通だ」
旅人「面白いのはここからだ。坊さんがお経を読み始めてしばらくすると何かが天井から降ってきた。何だと思う?」
女?「さあな」
旅人「鼠だよ」
女?「……」
旅人「鼠の野郎、天井から降ってきて着地した」
女?「……」
旅人「坊さんの頭に」
女?「……!」
旅人「だが、さすがは坊様だ。そんなことじゃ少しも動じない。そのまま読経を続けなさる。本当、さすがは坊様だ」
旅人「鼠の方もたいした奴で、ちょろちょろ動き回る割りに落ちる気配は全然ない。よほど居心地が良かったのかね」
旅人「さあ、問題はここからだ。俺を含めて結構な人数が鼠に気付いていたと思う」
旅人「かといって厳粛な葬式の真っ最中。まさか声を上げるわけにもいかず。葬式のさなか緊張走るってな具合だ」
旅人「さて、そんな中鼠は元気に鳴きやがる」
旅人「それもただ鳴くんじゃなくて、坊さんの読経に合わせて歌いやがる」
旅人「南チュウ妙チュウ法チュウ、ってな具合だ」
旅人「足が痺れているさなかそんなことされて笑うなってのが無理ってもんだ」
旅人「それでも俺は耐えたよ。あんときの俺を誰か褒めてほしい」
旅人「――と、油断していたのが良くなかったんだろうな。不意打ちが来た」
女?「?」
旅人「読経を終えた坊さんはゆっくりと振り返った。そして――」
お坊さん「これにて『チュウ』了にございます」
旅人「俺はもうだめだった。大笑いしちまって追い出された。他にも笑っている奴なんか山ほどいたのに、ひどい話だろう?」
女?「……」
旅人「……」
女?「……ふっ」
旅人(あ……)
女?「くだらない……」
旅人(……笑った)
※
旅人「本当にこの部屋を使っていいのか?」
女?「そう言っている」
旅人「そうか、じゃあ遠慮なく」
女?「ゆっくり休め」
旅人「お休み」
ス――パタン
女?「……」
山姥「さて……」
シャッ……シャッ……
山姥「一つ研いでは爪を剥ぎ――」
シャッ……シャッ……
山姥「二つ研いでは皮を剥ぎ――」
シャッ……シャッ……
山姥「三つ研いでは肉を削ぎ――」
シャッ……シャッ……
山姥「四つ研いでは骨しゃぶる――」
シャッ……シャッ……シャッ……シャッ……
<十年前.冬.夜.庵>
山姥母「ただいま」
幼山姥「お帰りなさい!」
山姥母「今日は客がいるよ」
幼山姥「?」
旅人2「やあ、お嬢ちゃん今晩は。ちょっと邪魔するよ」
幼山姥「わあ、いらっしゃい!」
<夕食前>
グツグツ グツグツ……
旅人2「お嬢ちゃんの名前はなんていうんだい?」
幼山姥「なまえ……?」
旅人2「?」
山姥母「わたしらにはそんなものはないよ。ずっと二人きりで暮らしてきたんだ。必要なかったのさ」
旅人2「なるほど、訳ありですな。いや大丈夫、私も深くは聞きませんよ」
山姥母「そうしてもらえると助かるね」
<夕食>
旅人2「――それでな、その熊を退治してその国は平和になったんだ」
幼山姥「へえ、面白いね!」
山姥母「これ、ちゃんと夕食を食べなさい」
幼山姥「あ、ごめんなさい……」
旅人2「はは、まあまあ。外の話なんてめったに聞けないんでしょう。興奮するなって言うのが無理ってもんですよ」
幼山姥「ねえねえ。他には面白い話はないの?」
旅人2「そうだなあ。旅の話はあらかたしてしまったし……次は俺の家族の話でもしようか」
※
旅人2「それでは部屋をお借りしますね。お休みなさい」
山姥母「はいよ」
幼山姥「お休みなさい……」
ス――パタン
山姥母「……よし」
幼山姥「……」
シャッ……シャッ……
山姥母「一つ研いでは爪を剥ぎ――」
シャッ……シャッ……
山姥母「二つ研いでは皮を剥ぎ――」
幼山姥「……」
シャッ……シャッ……
山姥母「三つ研いでは肉を削ぎ――」
幼山姥「……ねえ」
シャッ……シャッ……
山姥母「四つ研いでは骨しゃぶる――」
幼山姥「……本当に、やるの……?」
山姥母「……」
シャッ……シャッ……
ズブシュゥッ!
旅人2「が、は……」
山姥母「……」
幼山姥「ぁ……」
山姥母「やった、ね」
幼山姥「……」
山姥母「さて、運ぶよ。手伝いな」
幼山姥「……ぅ」
山姥母「……だめな子だね、そんなことでどうするんだい」
山姥母「……っ?」クラ
山姥母「う……っ」フラ……
幼山姥「母さん?」
山姥母「が……」ドサァ
幼山姥「母さん!」
幼山姥「どうしたの母さん! ねえ、母さんってば!」
山姥母「どうやら……限界が来たようだね……」
幼山姥「限界!? 何のこと!?」
山姥母「いいかい、わたしたち山姥はね、人を食わないと生きていけないんだよ。普通の食物だけじゃだめなんだ……」
山姥母「人間の精気をその身に取り入れなければ、やがて衰弱して死に至る……わたしのように」
幼山姥「そんな……待ってて、すぐあの人の……肉を持ってくるから!」
山姥母「お待ち」ガシ
幼山姥「何、母さん!? 急がないと!」
山姥母「いいからお聞き……」
山姥母「いいかい、一人の人間の精気では一人の山姥しか生かせない……。私たち二人のうち、生き残れるのは一人なんだ……」
幼山姥「……っ」
山姥母「……お前がお食べ」
幼山姥「そんなことできない!」
山姥母「いいから……」
幼山姥「お母さんを犠牲にして生き残るなんて、わ、わたしにはできないよ!」
山姥母「いいから……」
山姥母「わたしはもう何百年も生きた。十分なんだ……」
幼山姥「でも、でも……」
山姥母「お前は生きなさい。生きていろいろなものを見なさい。いろんなことを感じなさい……」
幼山姥「でも、わたし母さんがいなくちゃ生きていけない……」グス
山姥母「大丈夫。お前には生きていくために必要なことは全て教えたよ。だから、大丈夫……」
幼山姥「母さん……母さん……」ヒック グス……
山姥母「ああ……」
山姥母「お前の目は遠く澄んだ大空のようだねえ……」
<現在>
ピチョン……
山姥「……」
ピチョン……
山姥「……」
ピチョン……
山姥(……渇く、な)
<夜中.旅人の寝屋>
スー……トン
山姥「……」
旅人「スー スー……」
山姥(よく、寝ている)
山姥(……)
スラリ……
山姥(……)
山姥(……悪く思うな)
ブンッ――
旅人「あ、そうだ」パチ
山姥「……っ!!」ピタ
山姥(起きた!?)
旅人「……あんたさあ」
山姥(な、なんだ……?)ドクン ドクン……
旅人「笑うと八重歯がかわいいぞ」ニヤ
山姥「は?」
旅人「ムニャ……スー」
山姥(……寝た?)
<翌朝.庵>
山姥(あの後結局殺し損ねてしまった……)
山姥(今日は……)
山姥(……どんな顔をして向き合えばいいんだ?)
旅人「ふわぁ、おはよう」
山姥「……おはよう」
旅人「お、朝食もできているのか。悪いな」
山姥「……食べよう」
<朝食>
旅人「……」ムシャムシャ
山姥「……」モグモグ
旅人「うん、うまい」
山姥「……昨夜は」
旅人「うん?」
山姥「……よく眠れたか?」
旅人「ああ、ぐっすりだったな」
山姥(覚えて、いないのか?)
山姥「……そうか。ならいい」
<朝食後>
旅人「ふう、飯も食ったし……」
山姥(……まずい)
旅人「そろそろ出発するか」
山姥「……待て」
旅人「うん?」
山姥「この辺りはこの時期濃い霧が出やすい。崖が多い地形なのでとても危険だ。それに熊もよくうろついている。出発は先に延ばしたほうがいいぞ」
旅人「そうなのか? いつなら出発に適している?」
山姥「……春」
旅人「春!? ちょっと待て、それまでずっとここにいなきゃいけないのか?」
山姥「こちらはかまわんが。急ぎの旅なのか?」
旅人「いや、そんなことはないが……」
山姥「だったらいいだろう」
旅人「だが……」
山姥「こちらに気にしているなら無用だ。春までゆっくりしていくといい」
旅人「じゃあ、世話になろうか、な?」
山姥「ああ」
<数時間後>
旅人「……う~む」
山姥「どうした?」
旅人「あ、いや、その……暇だな、と」
山姥「山奥なのだ、仕方あるまい」
旅人「まあそうなんだが……そうだ」
山姥「?」
旅人「さっき言ってた崖に行ってみないか? 今なら霧も出ていないし安全だろう?」
山姥「それは、そうだが……」
旅人「な、いいだろ?」
山姥「……わかった」
<数分後.崖>
旅人「これは、高いな……」
山姥「……」
旅人「確かに霧が出ていたら危険だった。あんたの言葉に従っておいて正解だったよ」
山姥「まあな」
旅人「それにしても高い。地面があんなに下にある」
山姥「……」
山姥(……いまなら殺れるんじゃないか?)
山姥(奴は崖の下を覗き込んでいる。その背中をちょっと押してやればまっさかさまに崖下に落ちるだろう)
山姥「……」
旅人「なああれは何だ?」
山姥「っ……」ビク!
旅人「木の陰にいてわからないけど何かの動物かな?」
山姥「あ、あれはこの辺りにいる鹿だな。よく餌を探しに来るんだ」
旅人「そうか、目がいいんだな」
山姥「……」
旅人「うん、他に見るものもないし、帰ろうか」
山姥「……そうだな、そうしよう」
<次の日.裏の畑>
山姥「……」グイ ブチ グイ ブチ
旅人「お空、ここにいたのか」
山姥「……何か用か?」
旅人「いや、姿が見えないからどこにいるのかなと」
山姥「見ての通りここで草刈をしている」
旅人「ふーん。俺も手伝っていいか?」
山姥「かまわん。そこにある鎌を使え」
旅人「了解」
山姥「……」グイ ブチ グイ ブチ
旅人「……よっと」グイ ブチ グイ ブチ
山姥「ふう……」スク
山姥「……」
山姥(……奴があちらを向いている)
山姥(そしてわたしの手には……鎌)
山姥「……」
山姥「……」ソー……
旅人「ん? どうした?」
山姥「!」ビク!
山姥「いや、その」
旅人「……?」
山姥「……そちらはわたしがやるからあちらの根が深い草を頼めないだろうか」
旅人「ああ、そういうことか。なら俺に任せておいてくれ」
山姥「……頼む」
<二週間後.庵>
山姥(だめだ。あれから二週間が経ったが奴を殺すことができない……)
山姥(奴に隙がないからか? ……いや)
山姥(きっとわたしが……)
山姥「……」
山姥「……チッ」
山姥(……)
ピチョン……
山姥「……く」
ピチョン……
山姥「う……」
ピチョン……
山姥(渇く……渇くな……)
山姥「……っはぁ」
山姥「……」
山姥「……そういえば、奴はどこだ?」
<庵前>
山姥「いない……」
<裏の畑>
山姥「こちらにもいない……まさか……」
山姥「逃げられた……!?」
<森の中>
山姥「ハァ ハァ……」タッタッタッタッ……
山姥(奴がいなくなってからそれほど時間は立っていない……! そう遠くへは行っていないはずだ……!)
山姥「……どこだ、どこにいる!」タッタッタッタッ……
・
・
・
<数時間後.庵前>
山姥「……」トボトボ
山姥(……結局、奴を見つけることはできなかった)
山姥(……逃がした、か)
山姥(……)
ガラガラガラ……
旅人「おお、お帰り」
山姥「……!?」
旅人「ずいぶん遅かったじゃないか。待ちくたびれたぞ」
山姥「どうして……? 山を下りたんじゃ……」
旅人「? いや、俺はただ単に――」
ドサドサァ……
旅人「食事の足しになるかと思ってウサギを獲ってきたんだ」
旅人「だから別に――っておいおい」
旅人「あんた、何で泣いてるんだ?」
山姥「え……?」
山姥「え、あれ、わたしは……どうして」グイ
旅人「……」
旅人「……なんだか知らないが、悪かったな」
山姥「え?」
旅人「俺を心配して探してくれてたんだろ? 着物もそんなに汚してさ……」
旅人「心配させてすまなかった」
山姥「……」
山姥「……わたしは、別に……」
グウゥ~……
山姥「?」
旅人「……悪い、俺の腹の音だ」
山姥「……」
山姥「……ふ、ふふふ……」
山姥「あははは……」
旅人「そんなに笑うなよ……」
山姥「いやすまない。気が緩んでしまった。今から食事を作るから待っていてくれ」
旅人「でも……」
山姥「いいんだ。心配したのは事実だが、無事ならそれでいい」
旅人「そうか」
<夜中.旅人の寝屋>
旅人「スー スー……」
スー……トン
山姥「……」
旅人「スー スー……」
山姥(……)
旅人「う~ん」ゴロン
山姥(……なぜ)
山姥(なぜ、こいつを殺せないか、わかった気がする……)
山姥(……)
山姥(きっと、わたしは殺しに向いていないのだろうな……)
山姥「……」
山姥「……」スク
旅人「あんたは……」パチ
山姥「……!」
旅人「とても綺麗だけど、底抜けに寂しそうな目をしているな」スッ
山姥「……っ」
旅人「俺にはわかる気がするよ」ナデナデ
山姥「……」
旅人「……」ムクリ
山姥「……?」
ギュ……
山姥「なにを……」
スルリ
山姥(! 着物が……)
旅人「……」ソッ……
山姥「んっ……」
山姥(な、なんだこれは?)
旅人「いやだったら、言ってくれよ」
※
チュンチュン……
山姥「……!」ガバッ
山姥「……夢?」
旅人「スー スー」
山姥「……夢じゃない」
山姥「……」
旅人「綺麗だよ……」ムニャ
山姥「~~~~っ」
山姥「ちょ、朝食を、作ろう」
<朝食>
旅人「……」ムシャムシャ
山姥「……」モグモグ
旅人「……」ムシャムシャ
山姥「……」モグ……
旅人「……?」ムシャムシャ
山姥「……」
旅人「どうした?」
山姥「……昨夜は、その……」
旅人「ああ――」
旅人「よかったよ」ニヤ
山姥「~~っ」
<一ヵ月後.冬.庵>
ビュオオォォォオォォ――
山姥「……外はずいぶん吹雪いているな」
旅人「ああ。……寒い」
山姥「もっと囲炉裏に寄るといい」
旅人「ああ……」イソイソ
ビュオオォォォォォォ――
旅人「……」
山姥「……」
旅人「こう、吹雪いていると」
山姥「?」
旅人「あの日のことを思い出すよ……」
山姥「……何の話だ」
旅人「昔の……十、いや九年ほど前の話だ」
旅人「親父を探して旅をしているってのは言ったっけか?」
山姥「……いや」
旅人「……かつて俺の住んでいた村は貧しかった。親父が出稼ぎに出ることで何とか生活が成り立っていた」
旅人「親父は一年のほとんどを出稼ぎで過ごした。それでも決まって秋には帰ってきていたんだ」
旅人「ある年、親父は家に帰ってこなかった。俺とお袋は心配した。半年待って、二人で親父を探しに旅に出た」
旅人「そのときの話だよ」
旅人「冬の山を越えようとしていた。無茶は承知だったが、俺たちは焦っていた」
旅人「ちょうど谷のそばを通る道……」
旅人「そこでお袋は足を滑らせ……」
『母さんっ、母さあんっ……!』
旅人「谷底へまっさかさまに、落ちていった……」
旅人「深い谷でなあ……お袋が無事かどうかもわからず立ち尽くした」
旅人「ずっと、ずぅ……っと立ち尽くしていたよ……」
山姥「……」
旅人「……それから俺はあてどもなく彷徨い歩いた」
旅人「あてはなかったが、冬の山でも身体から水は抜けていく。喉は渇く。とりあえず水を探して歩いていた」
旅人「それから何時間経ったんだろうな、湖を見つけた……」
旅人「凍えた身体で屈みこんで、……そこで見つけたんだ」
山姥「……?」
旅人「俺の……俺の顔だ……」
旅人「彷徨い歩いてやつれた顔。そこに落ち窪むようにあいた目……」
旅人「それは、どこまでもどこまでも暗くよどんで……」
旅人「どこまでもどこまでも底抜けに寂しそうで……」
山姥「……」
ビュオオオォォォォォゥ……
幼旅人「……」
――どこまでもどこまでも、どこまでもどこまでも……――
ビュオォォォォォォ……
旅人「……あんたの目を見たときに思った。あんたはあのときの俺と同じだ。あのときの俺と同じ目をしているよ」
山姥「……」
旅人「……」
山姥「……藤」
旅人「……すまない、辛気臭い話をしたな」
山姥「いや……」
ビュオオォォォォォ――……ガタン!
旅人「……寒いな」
山姥「……」
旅人「ちょっと寄ってくれないか?」
山姥「……」スス……
旅人「もう少し」
山姥「……」ススス……
旅人「あともうひとつ」
山姥「……」スス……ピト
旅人「……うん、あったかい」
ビュオオオォォォォォォゥ――……
<数ヵ月後.春.庵前>
旅人「じゃあ、俺は行くよ」
山姥「……」
旅人「……寂しくなるな」
山姥「……ああ」
旅人「そんな顔するなよ、旅立ちにくくなっちまう……」
山姥「……」
旅人「そうだ、ここにはちょくちょく寄ることにするよ。それじゃだめか?」
山姥「……本当か?」
旅人「ああ、約束する。近くに来たら必ず寄るようにするよ」
山姥「わかった……」
旅人「……じゃあな」
山姥「……」
山姥「う……」
旅人「! どうした!?」
山姥「急に気分が……」
旅人「よ、よくわからんがとりあえず中に入ろう!」
山姥「……はぁ」
旅人「落ち着いたか?」
山姥「横になったら楽になった」
旅人「そうか、良かった」
山姥「心配をかけたな……」
旅人「いや……。いったいどうしたんだろうな?」
山姥「わからん……」
旅人「とにかく、そのままゆっくりしてるんだ。しばらく一緒にいてやるから」
山姥「え……?」
旅人「具合悪いのを一人にするほど薄情じゃない。夕食も作るからしばらく寝てるんだ。いいな?」
山姥「わ、わかった」
<夕食>
旅人「できたぞ」
山姥「ありがたい……」
※
旅人「……」ムシャムシャ
山姥「……」モグ モグ……
旅人「……ところで」
山姥「……?」
旅人「気分が悪くなった理由を考えてみたんだが……」
山姥「言ってみろ」
旅人「それ、つわりじゃないよな?」
山姥「つわり……?」
旅人「? 知らないのか? 妊娠したときになるという……」
山姥「妊娠!?」
旅人「っ……びっくりした……」
山姥「わたしが、妊娠……?」
旅人「いや、ただの勘だ。根拠があるわけじゃない。ただ……」
山姥「ただ?」
旅人「そうじゃないとも言い切れないから、確認ができるまでしばらくここにいることにするよ」
山姥「本当か?」
旅人「ああ、本当だ」
山姥「……」
山姥(わたしが妊娠……?)
山姥(信じられない……)
山姥(やはり、……あの時のか?)
山姥(……)
山姥(と、とにかく!)
山姥(藤がしばらくここにいる)
山姥(わたしと一緒にいてくれる)
山姥(……なんだこれは。わたしは別に……)
<さらに数ヵ月後.昼.裏の畑>
旅人「なあ、これはどこへ持って行けばいいんだ?」
山姥「あちらに持っていってくれ」
旅人「了解」
旅人「それにしても……」
山姥「?」
旅人「いや、やっぱり妊娠だったんだな、と」
山姥「……」
旅人「お腹、だいぶ大きくなったな」
山姥「ああ」サス……
旅人「……」
山姥「……」
チチチ…… チチチ……
旅人「なあ、お空」
山姥「なんだ、藤」
旅人「ああと、その、あのな」
山姥「なんだ? ずいぶんと歯切れが悪いな」
旅人「……」スー ハー
旅人「……っ」
旅人「俺と夫婦になってくれ……!」
山姥「……!」
旅人「その、順番が逆になってしまって本当に申し訳ないと思う」
旅人「でも、お前を愛おしく思う気持ちは本物だ。だから、ぜひとも俺と夫婦となってほしい」
山姥「……」
旅人「……だめだろうか?」
山姥「……」
旅人「……」
山姥「……仕方ないな」
旅人「! 本当か?」
山姥「ああ、嘘はつかん」
旅人「本当に、本当か?」
山姥「しつこいのは嫌いだが、本当だ」
旅人「やった!」
山姥「そのかわり、大切にしてくれよ」
旅人「ああ、約束する! お前も、生まれてくる赤ん坊もどちらも大切にするよ。絶対に後悔はさせない」
山姥「ふふ、それは頼もしいことだ」
旅人「じゃあ……」
山姥「ああ、よろしく頼む」
旅人「こちらこそ」
<さらにさらに数ヵ月後.庵>
山姥「……いやだ」
旅人「いや、じゃないだろう……」
山姥「それでも、いやだ」
旅人「人嫌いなんだなあ、本当に……」
山姥「……」
旅人「でもな、お前の問題でもあるんだぞ?」
山姥「……」
旅人「そんな顔をしてもだめだ。産婆さんは一番近い村からちゃんと呼ぶからな」
山姥「……」
旅人「だからそんな顔をするなって」
※
産婆「こんにちは」
旅人「こんにちは」
山姥「……」
旅人「お空、こちら産婆のトヨさんだ」
産婆「よろしくね」
旅人「トヨさん、こちらうちの家内のお空です」
山姥「……」
産婆「べっぴんさんだねえ」
旅人「こらお空、ちゃんと挨拶なさい」
山姥「……よろしく」
旅人「これからお産までの間一緒暮らすんだから失礼のないようにな」
山姥「……わかった」
旅人「じゃあトヨさん、俺は畑仕事に行ってきますのでゆっくりしていてください」
産婆「はいよ」
山姥「……」
産婆「お空さんだったね」
山姥「……」
産婆「お前さん――」
産婆「人を喰うんだね」
山姥「……!?」
山姥「……どういう、意味だ?」
産婆「ふふ……」
山姥「……」
産婆「いや気にしないでおくれ、たいした意味はないんだよ」
山姥「……?」
産婆「あたしゃ思ったことをすぐに口に出すからいけないねえ」
山姥「……」
山姥(こいつ、いったい何なのだ?)
<数週間後.夕食.庵>
旅人「それでですね、ねずみが落ちてきて――」
産婆「ほうほう」
山姥「……」モグモグ
旅人「最後にチュウ了って」
産婆「それはおもしろいねえ」クスクス
山姥「……」モグモグ
山姥「……!」
旅人「お空……?」
山姥「お腹が……」
旅人「まさか……!」
産婆「陣痛じゃね」スク
山姥「ハァ ハァ……くっ」
産婆「今は力んじゃいかんよ。もちっと力をぬきんさい」
山姥「そん、なこと、言っても……」
旅人「トヨさん、俺はどうしましょう……!」
産婆「お前さんは特にやることはないけど、とりあえずお湯をたくさん沸かしてくださいな」
旅人「わかりました!」
山姥「フゥ フゥ……」
産婆「よし、今! 力みんさい!」
山姥「くぅ!」
※
オギャー オギャー――
旅人「トヨさん!?」
産婆「ああ、生まれなすったよ」
山姥「ハァ……ハァ……」
赤ん坊「オギャー! オギャー!」
産婆「元気な――女の子だね」
産婆「お空さん、よくがんばったね」
山姥「ああ……」
旅人「お空、よくやったぞ!」ギュッ
産婆「赤ちゃんもよくがんばりなすった」
赤ん坊「オギャー オギャー」
<翌日.庵前>
産婆「それじゃあたしゃこれで」
旅人「本当にありがとうございました」
産婆「また何かあったら声をかけんさい。この歳になるとたいていのことは知ってるから」
旅人「はい、ありがとうございます」
山姥「その……ありがとう。助かった」
産婆「ん」
旅人(……へえ)
山姥「なんだその顔は」
旅人「いや、別に?」
<庵>
赤ん坊「ぁーぅ」
山姥「よしよし……」
旅人「そうやってると絵になるなあ」
山姥「ふふ……」
旅人「それにしても……」
山姥「?」
旅人「いや、俺が父親になるなんてな、と」
山姥「どういう意味だ?」
旅人「俺は親父を探してずっと旅をしてきた。これからもずっとそうやって根無し草の生活を続けるもんだと思っていたんだ」
山姥「……」
旅人「だからこうやって所帯持ちになるなんて夢にも思わなかった」
山姥「……どんな気分だ」
旅人「うれしいのが半分」
山姥「残りの半分は?」
旅人「不安、だな」
山姥「……不安か」
旅人「いや、すまない、情けないことを言って」
山姥「……」
旅人「大丈夫だよ。俺はやればできる奴だ」
山姥「……そうか」
旅人「お空は不安はないのか?」
山姥「わたしは……」
旅人「うんうん」
山姥「……なんでもない」
旅人「うん?」
山姥(うれしすぎて不安など感じない、なんて言えるものか)
旅人「とにかく俺はこれからもお前たちを守っていく」
山姥「ああ」
旅人「お空、俺についてきてくれ」
山姥「……ああ」
旅人「いい家庭にしていこうな」
山姥「もちろんだ」
<六ヵ月後.昼.庵>
山姥「ん、あれ?」
旅人「どうした?」
山姥「いや、いまこの子に乳をやっていたんだが、ちょっと違和感が」
旅人「ふうん? どれどれ……」
赤ん坊「ぅー?」
旅人「んー。おお」
山姥「どうだった?」
旅人「歯が生えているぞ」
山姥「何!」
旅人「なるほどな、それであたり具合が違ったんだろ」
山姥「ははあ」
旅人「そうかそうか、歯が生えたか」ヨシヨシ
赤ん坊「ぅー」
山姥「大人への一歩だな」ナデナデ
<四ヵ月後.夜>
旅人「ただいま。いやあ疲れた疲れた」
山姥「お帰り。どうだった?」
旅人「ああ、畑の方を見てきたんだが端のほうが猪かな、何か動物に荒らされているようだった」
山姥「やっぱりか」
旅人「そろそろそういう時期だもんな」
山姥「仕方ないといえば仕方ないが」
旅人「だから簡単な柵を作ってきた」
山姥「そうか、ご苦労だったな。もうすぐ食事ができるからゆっくりしていてくれ」
旅人「そうさせてもらうよ。――あれ?」
山姥「ん、どうした?」
旅人「あの子がいないぞ」
山姥「何!?」
旅人「布団が敷いてあるからそこに寝かせたんだよな?」
山姥「そ、そのはずだ」
旅人「おかしいな」
山姥「ど、どこに……」
赤ん坊「きゃーぅ」ハイハイ
旅人・山姥「!」
旅人「こいつ……」
山姥「ハイハイしている……!」
赤ん坊「ぅー?」
旅人「すごいな……」
山姥「もうそんな時期なのか……」
赤ん坊「んー」ハイハイ
山姥「おーよしよし」グイ ナデナデ
旅人「こいつはどんどん成長していくな」
山姥「本当にな」
旅人「俺たちだけが取り残されている気分だ」
山姥「ん? それは心外だな。わたしは日々進歩しているぞ」
旅人「そういえばまた大きくなったな」
山姥「! どこを見ている!」ボカ!
旅人「あいた!」
<五ヵ月後.夜>
山姥「……」ジー
旅人「……」ジー
赤ん坊「ぅきゃ」ハイハイ
山姥「……全然しないではないか」
旅人「あれえ、おかしいな?」
山姥「本当なのか、この子がつかまり立ちをしたというのは」
旅人「本当だ。お前が畑に行っている間に確かにしていたんだ」
山姥「……」
旅人「……なんだよその目は」
山姥「ハァ」
旅人「なんでため息をつく」
山姥「いや、馬鹿馬鹿しくなってな」
旅人「何だと?」
山姥「大体きのこも食べられないような奴の言葉を本気にしたのが間違いだった」
旅人「なっ……! それは今は関係ないだろ……!」
山姥「いいや関係ある。お残しをする奴の言葉には重みがなくなるからな」
旅人「重みがなくなるってどういう意味だ!」
山姥「そのままの意味だ」
旅人「わかったぞ……お前俺が前きのこを残したからそれを根に持ってるんだな?」
山姥「そのようなことはない」
旅人「嘘だ! お前は結構恨みがましい性格だろうが!」
山姥「何だと!?」
旅人「お前とはここではっきり白黒つけておかなきゃいけないらしいな……」ゴゴゴ……
山姥「……望むところだ」ドドド……
赤ん坊「ぅきゃー」ヨロヨロ
旅人・山姥「!」
旅人「み、見ろ!」
山姥「つ、つかまり立ちをしている……!」
旅人「それ見たことか! 俺の言ったとおりだったろうが!」
山姥「ぐぬぬ……」
旅人「人を信じないなんてだめな母親だよなー?」グイ
赤ん坊「ぅー?」
山姥(この……今日の夕食にはきのこたっぷり入れてやる……!)
<三ヵ月後.昼>
赤ん坊「とと」
山姥・旅人「!?」
山姥「今、もしかして」
旅人「しゃべった……のか?」
赤ん坊「とぉと」
山姥「これは……」
旅人「もしかして俺のことか?」
赤ん坊「とと」ヨチヨチ
旅人「俺のとこに来たぞ! やっぱり俺のことだ!」グイ ヨシヨシ
山姥「……」
旅人「お空、お前も聞いたよな!?」
山姥「……」
旅人「って、どうした?」
山姥「……別に」
旅人「……ははーん。お前、俺が先に呼ばれたもんだから嫉妬してるんだろ?」
山姥「だ、誰が嫉妬なんか」
赤ん坊「とぉと」ギュッ
旅人「おお、いい子だ」
山姥「……なあおい、かか、と言ってみろ」
赤ん坊「? とと」
山姥「くっ!」
旅人「あはは」
山姥「笑うな! お前の夕食を抜くぞ!?」
旅人「おおこわ、困ったお母さんですねー」
赤ん坊「きゃっきゃ」
<ある日.夕方.山頂>
山姥「……」
旅人「……」
赤ん坊「スー スー」
山姥「綺麗な夕日だな……」
旅人「ああ……こうしているとお前と初めて会った日のことを思い出すよ」
山姥「ん……」
旅人「あの時はいきなり人が現れて驚いた。美人だったからなおさらだ」
山姥「……」
旅人「あの時は助けてくれてありがとう」
山姥「今更だ」
旅人「確かにな。だが、俺はおかげで生き延びることができたばかりか家族を持つことができた。本当に感謝しているんだ」
山姥「そうか……」
旅人「……」
旅人「なあ」
山姥「……?」
旅人「何で俺を殺そうとしたんだ?」
山姥「!?」
旅人「その様子だとやっぱり俺の勘違いじゃなかったようだな」
山姥「な、なぜ……」
旅人「気付かないとでも思っていたのか? 夜の寝屋、崖のふち、裏の畑。お前が俺を殺そうとしていたのはわかっていた」
山姥「そ、それは……」
旅人「教えてくれ。なぜ俺を殺そうとしたんだ?」
山姥「……」
旅人「頼む」
山姥「それは……」
旅人「……」
山姥「やっぱり、言えない……」
旅人「頼むよ」
山姥「言ったらきっとお前はわたしを嫌いになる……」
旅人「そんなこと、ない。だから……」
山姥「それでも、無理だ!」
旅人「……」
旅人「そうか……」
山姥「……」
旅人「残念だ……」
山姥「時が来たら」
旅人「……?」
山姥「時が来たら全て話す。それではだめだろうか? わたしには時間が必要なのだ。覚悟する時間が……」
旅人「……」
山姥「お願いだ……」
旅人「……」
旅人「……わかったよ」
山姥「……」
旅人「そんな顔するなよ。美人が台無しだぞ? 大丈夫。言えないからって嫌いになったりしないから安心してくれ」
山姥「本当か……?」
旅人「ああ、本当だ。これからもずっとそばにいるから」
山姥「ありがとう……」
旅人「……それにな、実のところ、俺は殺されてもいいと思っていたんだ」
山姥「どういうことだ……?」
旅人「俺は帰ってこない親父を探して何年も旅をしていた。そう、何年もだ。いきなりいなくなっちまった親父を殴ってやるためにな」
旅人「それでも親父は見つからない。手がかりすらつかめなかった」
旅人「俺はもしかしたら、絶望していたのかもしれないな」
旅人「死んで楽になりたかったのかもしれない」
旅人「それに、こんな美人に殺されるなら悪くないかもって、半ば本気で思ったよ」
山姥「そんな……」
旅人「おっと、勘違いしないでくれよ? 俺は確かに昔はそう思っていたんだが、今は違う」
旅人「綺麗な奥さんももらったし、かわいい子供もできた。守るものができたんだ」
旅人「俺は変わったよ。絶対に長生きして幸せになるし、幸せにしてやりたいんだ」
山姥「……」
旅人「だから約束してくれ。もう俺を殺そうとはしないと」
山姥「もちろんだ、約束する」
旅人「それならいいんだ。安心した」
旅人「……」
旅人「……なあ、お空」
旅人「ずっとそばにいてくれよ……」
山姥「ああ……」
山姥(わたしは……)
山姥(わたしは今、幸せだ……)
山姥(まるで母と一緒に暮らしていたときのようだ)
山姥(暖かい何かがわたしを包んでいる)
山姥(渇きももう感じない)
山姥(あんなに荒れ狂っていたのに……)
山姥(これなら、これなら藤とずっと一緒にいられるのかもしれない)
山姥(わたしは……)
山姥「幸せだ」
<数日後.午前.庵>
シャッ……シャッ……
山姥「一つ研いでは爪を剥ぎ――」
シャッ……シャッ……
山姥「二つ研いでは皮を剥ぎ――」
シャッ……シャッ……
赤ん坊「きゃっきゃ!」
山姥「おや、刃研ぎ歌が気に入ったのか?」
赤ん坊「ぅー」
山姥「そうかそうか。お前が大きくなったらちゃんと教えてやるから楽しみに待ってるんだぞ」
ガラガラガラ……
旅人「ただいま」
山姥「ああ、お帰りお疲れ様」
旅人「困ったことになったぞ」
山姥「ん? どうした?」
旅人「今さっき裏の畑を見てきたんだがな、柵が壊されて食物は根こそぎやられてた」
山姥「なに?」
旅人「参ったな」
山姥「どうする?」
旅人「とりあえず数日分は蓄えがあるから問題はない。ただ、それ以上となると……」
山姥「そうか……」
旅人「トヨさんの村を頼るか。俺は一度山を下りるよ」
山姥「……」
旅人「そんな顔するなって。すぐ戻るから」
山姥「……ああ」
<庵前>
旅人「じゃあ、行ってくる」
山姥「……気をつけてな」
旅人「できる限り早く戻るよ」
山姥「……そうしてくれると助かる」
<九時間後.村>
旅人「村に着いたが……」
シーン……
旅人「誰もいないな……おかしい、人は結構いるところなんだが」
産婆「おや、藤さんじゃないかい」
旅人「これはトヨさん。ご無沙汰しております」
産婆「どうかしたんかい?」
旅人「それが――」
産婆「なるほど、畑がねえ」
旅人「すみません、助けてもらえないでしょうか」
産婆「そういうことならあたしの家にだいぶ貯えがあるから持っていきんさい」
旅人「ほ、本当ですか、ありがとうございます」
産婆「いいんだいいんだ、どうせ一人じゃもてあますものだし。ところで」
旅人「はい?」
産婆「お前さんは早く村を出た方がいい」
旅人「それはまたどうして。人の姿が見えないのと何か関係が?」
産婆「ああ、実はね、良くない病がはやってるんだ」
旅人「流行病ですか?」
産婆「その通り。うかうかしてるとお前さんにもうつっちまうよ」
旅人「トヨさんは大丈夫なんですか?」
産婆「あたしは身体の丈夫さだけが取り柄だから」
<山奥.庵>
旅人「ということがあったんだ」
山姥「ふむ……」
旅人「ん? どうした?」
山姥「いや、お前は大丈夫か、と思ってな」
旅人「俺も身体は丈夫だからな、問題ないだろ」
山姥「だと、いいんだが」
<二日後.裏の畑>
山姥「……」グイ ブチ
旅人「おーいお空、そろそろ休憩にしないか?」
山姥「ああ、分かった」
・
・
・
旅人「いやー今日は暑いな」
山姥「暑い……? こんなに肌寒いではないか」
旅人「そうか? おかしいな」
山姥「……?」
旅人「いや……確かに寒いな」
山姥「いや、言うほどじゃ」
旅人「寒い……!」
山姥「おい?」
旅人「それになんかおかしい……ぐらぐらする。気持ち悪い……」グラ
山姥「おい!?」
旅人「う……」ドサ
山姥「藤!」
<翌日.庵>
旅人「ぅ……ぁ……」
山姥(昨日倒れてから意識がない……)
旅人「……」
山姥(ものすごい高熱だ……やはり村の流行病が? このままでは……)
赤ん坊「ぅー……」
山姥(わたしたちはなんともないな。山姥の血が入っているせいか? いやそんなことはどうでもいい。今大事なのはなんとかしないと藤が危ないということだ……)
旅人「母さん……母さん……」
山姥「……うわごとか」
産婆『また何かあったら声をかけんさい』
山姥(……やはり、トヨを頼るしか……)
旅人「お空……」
山姥「藤……」
旅人「ずっと……そばに……」
山姥「分かっている。だが……行って、くるよ」
旅人「ぅ……」
山姥(またうわごとだったか……)
山姥「よし」
赤ん坊「ぁぅ?」
山姥「うん、行こう」
旅人「……」
山姥(待っていてくれ、藤……)
<十時間後.森>
山姥「はあ、はあ……もうそろそろのはずだが……」
ガサガサ ガサガサ……
山姥「! 見えた、あれが……!」
山姥「……」ゴクリ
赤ん坊「ぅー?」
山姥「いや、大丈夫だ。今は人嫌いなどとはいってられん。いくぞ」
<村>
山姥(藤の言った通りだ。誰もいない……)
山姥「トヨはどこに……」
赤ん坊「ぅー」クイクイ
山姥「どうした」
産婆「おや、お空さんじゃないか」
山姥「トヨ!」
産婆「どうしたんだい、こんなところまで」
山姥「実は……」
産婆「そうかい、藤さんが……」
山姥「助けてくれ! わたしにはどうしようもないんだ……!」
産婆「助けてあげたいところだけど……この流行病にはこれといった特効薬はないんだよ」
山姥「そんな……!」
産婆「それより、藤さんは発病して何日目だい?」
山姥「二日目だが……」
産婆「っ……そうかい」
山姥「それがどうかしたのか?」
産婆「あの流行病は二日目が一番危ないんだよ。今、大変なことになってるかもしれない。誰もついていない状態は……」
山姥「なんだと!?」
産婆「早く戻った方がいいよ……!」
山姥「わ、分かった!」
産婆「お待ち! これを持って行きんさい!」
山姥「これは?」
産婆「とりあえず滋養強壮の薬。ないよりはずいぶんましのはずだよ」
山姥「助かる!」
<庵>
旅人「う、あ……」
旅人「がふ……っ」ビチャビチャ
旅人「ゴボ……」
旅人「ガボ……――」
<森>
山姥「はあ……はあ……」
山姥「藤……今戻るからな……すぐ戻るから……」
山姥「だから、持ちこたえろ。絶対にだ……」
山姥「絶対に……!」
山姥「はあ……っ」
<庵>
バタン!
山姥「藤!」
シーン……
山姥「……藤?」
旅人「……」
山姥「おい……どうした藤?」
山姥(ぐっすり寝ているのか? いや、それにしては……)
山姥「おい、藤!」グイ
旅人「……」ダラン
山姥「……」
旅人「……」
山姥「……おい、変なまねはよせ。全然面白くないぞ」
旅人「……」
山姥「返事をしろ藤」ジワ……
山姥「おい藤。藤……」ツー……
山姥「藤ぃ……!」ポタ ポタ
旅人「……」
・
・
・
赤ん坊「かか」クイクイ
山姥「っ……」ハッ
山姥「あ……な、なんだ?」
赤ん坊「まんま」
山姥「……そうか、もうそんな時間だったか……ちょっと待ってろ」
トントン……
山姥「……」
山姥(あれから――)
山姥(あれから三日がたった)
山姥(藤の死因は分かってしまえばなんてことはない、窒息死だった。吐いたものが喉に詰まってしまっていたんだ)
山姥(……わたしが村に行かなければ、防げたはずだった)
山姥(……藤のそばにずっといてやれば、よかったんだ)
山姥「……」
赤ん坊「かか?」
山姥「すまん、もう少しでできる……」
<裏の畑>
山姥「……」ボー……
チュンチュン……
山姥(……)
山姥(身体を動かしていれば、と思ったが、どうにもうまくないな……)
チュンチュン……
山姥(……天気がいい。こんな日はおにぎりを食べるのがいいんだ。藤と一緒に……)
山姥(そう、藤と一緒にだ……)
山姥(藤と……)ギュ……
山姥「……」
<夕方.山頂>
カァー カァー……
山姥「……」
山姥「藤……お前の身体はここに埋めたよ。夕日が見えるところがいいだろう? あの日わたしたち三人で見た夕日だよ」
山姥「ゆっくり眠るんだ。ゆっくりと……」
山姥「……」
旅人『絶対に大切にするから。お前も、生まれてくる子も』
山姥「……」
旅人『ずっとそばにいるから、だからずっとそばにいてくれ』
山姥「くっ……」ジワ
山姥「くそ……」ゴシゴシ
山姥(泣くな……藤が心配する……)
山姥「藤、ごめんな……わたしのせいだ。わたしのせいで死なせてしまった……」
山姥「こんなことならもっとよくしてやればよかった……何かやり残したことはなかったか……?」
旅人『親父を探してることは離したっけか』
山姥(父親?)
旅人『一発殴ってやらねば気が済まんのだ』
山姥「藤の、父親……」
旅人2『次は、俺の家族の話をしようか』
山姥「? なんだ、この記憶は……わたしは何かを忘れてる?」
・
・
・
<十年前.庵>
旅人2「――次は俺の家族の話でもしようか」
幼山姥「うん、聞かせて!」
旅人2「まず、俺の村はここから二週間ほど北に行ったところにある。貧しい村でな、そこの男の大半が出稼ぎに出てるんだ」
幼山姥「へー」
旅人2「俺はもともとは出稼ぎ組じゃなかったんだが、とうとう数年前、蓄えがそこをついた。俺は出稼ぎに出ることになった」
幼山姥「ふんふん」
旅人2「俺は不安だった。家には家内と息子がいるんだが、この二人だけでやっていけるのだろうか。だが、息子が一言だけ言ったんだ。任せてくれ親父、って」
幼山姥「かっこいいね」
旅人2「だろ? あいつはやればできる奴なんだよ。ふふ、前見たときはずいぶん背が伸びて、たくましくなってたしなあ」
幼山姥「自慢の子供なんだね!」
旅人2「その通り!」
旅人2「……だがな、そんなあいつにも弱点があるんだ」
幼山姥「なになに?」
旅人2「あいつな、きのこだけは大の苦手なんだ」
幼山姥「えー、きのこー? おいしいのに」
旅人2「俺もそう思うんだがなあ、あいつ、どんなに腹減っててもきのこだけは食べないんだ。昔手当たり次第食べてひどいのに当たったことがあって、それ以来苦手らしい。面白いぞ? あんなにたくましくなった奴が、きのこを前にするだけでぴーぴー泣くんだ」
幼山姥「情けなーい」
旅人2「それ以外はしっかりしてるんだがな。はは、どんな奴にも弱みはあるってことだ。今、家に帰るところでな、またあいつらに会えると思うとうれしいよ。一年のうち、この期間しか帰れないからね」
幼山姥「……」
旅人2「どうしたんだい?」
幼山姥「……ううん、なんでもない」
旅人2「そうかい?」
<現在>
旅人2『あいつはきのこが大の苦手で――』
山姥「――――!」
山姥(まさか……まさか……)
山姥「わたしが……わたしたちが、こ、殺した……? 藤の父親を……?」
山姥「……!」
山姥(いや、それだけじゃない……!)
山姥「父親があの時ちゃんと村に帰りついていれば藤とその母親は旅に出ることはなかった……藤の母親は死なずにすんだ……」
山姥「藤だってそうだ。わたしに出会わなければ死なずに、すんだんじゃないか……?」
山姥「じゃあ……じゃあ……」
山姥「わたしは藤の家族をめちゃくちゃにして生き延びたのか……?」
山姥「あ……あ……そんな……」
ピチョン……
山姥「……!」
ピチョン……
山姥(これは……)
ピチョン……
山姥(渇き……渇きが……)
ピチョン……
山姥(今までなんともなかったのに……)
ピチョン……――――
<一週間後.庵>
山姥「……」
ピチョン……
山姥(渇きが、おさまらない……)
赤ん坊「?」
山姥「ああ、大丈夫……大丈夫だから……」
・
・
・
山姥「……!」ハッ
山姥「ここは……山頂か」
山姥「わたしはなぜここに……」
山姥「藤の墓?」
山姥「……」
山姥(この下に、藤が眠っている)
山姥(ゆっくりゆっくり土に還りながら)
山姥(……)
山姥(もし……もし腐っていなければ?)
マダ食ベラレルノデハナイカ?
山姥「……!」
山姥(今……わたしは何を考えた?)
山姥(まずい……まずいぞ」
<庵>
ガラガラ……
赤ん坊「かかぁ!」トテトテ……ギュ
山姥「あ……すまない、一人にしてしまったな」グイ
山姥「おーよしよし」
赤ん坊「ぅー……」
山姥(この子もずいぶん重くなったな)
山姥(そう、ずいぶんと――)
ズイブントオイシソウニナッタモノダ
山姥「――っ!!」
赤ん坊「ぅー?」
山姥「あ、いや、違う、違うんだ……そう、違う」
山姥「違うんだよ……」グス……
山姥(わたしは……わたしはもう駄目かもしれない……)
<数ヶ月後>
ズバシュ!
赤ん坊「――っ」ビクン! ダラリ……
山姥「……」
山姥「……」グイ ムシャ……
山姥「っ……」ムシャムシャ
山姥「っ……っ……」ガツガツ
山姥「うまい……うまい……」
山姥「ごめん。ごめんな……」グス……
・
・
・
山姥「っ――!!」ガバッ!
赤ん坊「スースー……」
山姥「ゆ、夢か……」ハァ ハァ
山姥「夢……そう夢だ。ただの夢……」
山姥「くそ……!」
<翌日.昼>
シャッ……シャッ……
山姥「……」
シャッ……シャッ……
山姥(……)
シャッ……シャッ……
山姥(……わたしはなんで包丁を研いでいるのだろう?)
シャッ……シャッ……
山姥(食事を作るため? そうだな、それ以外に何がある)
シャッ……シャッ……
山姥(……)
シャッ……シャッ……
山姥(……よく研いだ包丁は)
シャッ……シャッ……
山姥(柔らかな肉を実にきれいに切り裂くんだ……)
シャッ……シャッ……
山姥(そしてきれいな赤い血が流れる。桃色の肉が姿を現す)
シャッ……シャッ……
山姥(生の肉は柔らかい。口の中でとろけるようだ。子供の肉がいい。できれば生まれて間もないくらいの)
シャッ……シャッ……
山姥(温かい肉、血の味、すする脳、苦い内臓、弾力のある血管、こりこりした指、ねばい筋肉、熱い血潮)
シャッ……シャッ……
山姥(……)
ピチョン……
山姥「……ふ」
ピチョン……
山姥「ふふ……」
ピチョン……
山姥「ふふ、あはは……」
ピチョン……
山姥「あははははははははは」
ピチョン……
山姥「はははははあはははははあはははははは!!」
赤ん坊「かかぁ……」
<夜>
赤ん坊「スー スー……」
山姥「……」
ピチョン……
山姥「……」
ピチョン……
山姥「……もう駄目だ」
ピチョン……
山姥「ごめん……ごめんな……」スッ――
ピチョーン――……
<十年後.村>
女「く……っ」
産婆「あともう少しだよ、頑張りんさい」
女「ふ……っ」
娘「おばあちゃん、お湯持ってきたよ!」
産婆「ありがとう、カヨ。……ちょっとこっちきんさい」
娘「何?」
産婆「赤ちゃんはお前が取り上げるんだ」
娘「え!?」
産婆「お前にお産を手伝わせてからだいぶ経った。そろそろお前にやらせてみてみたいんだよ」
娘「で、でも」
産婆「産婆として働くならこれは大事なことなんだ。命の重みを直に感じること。できるね?」
娘「……う、うん、分かった、やってみる!」
赤ん坊「――オギャー! オギャー!」
娘「っ……生まれましたよ」ドクン ドクン
女「はあ……はあ……」
産婆「よく頑張りなすった。元気な男の子だよ」
娘(うー……緊張したあ……)プルプル
産婆「カヨ」
娘「は、はい!」
産婆「よくやった」
娘「……うん!」
産婆「ではあたしたちはこれで」
男「ありがとうございました。おかげで子供も家内も元気です」
産婆「今日はこの子が取り上げたからね、この子に言っておくれ」
男「それは本当ですか? ありがとう、カヨちゃん」
娘「い、いえ、お仕事ですし」
男「二人目ができたら、その時もお願いしていいかな?」
娘「よろこんで!」
産婆「ふふ」
<帰り道>
娘「赤ちゃんかあ」
産婆「ん? どうしたね?」
娘「……んー。何でもない」
産婆「そうかい?」
娘(私もあんな風に生まれてきたんだなあ)
娘(赤ちゃんを抱くお母さんの顔、とってもやさしそうだった)
娘(私が生まれた時も、私のお母さんはあんな顔をしてたのかな?)
でも、私は母の顔を知らない。物心ついたときにはトヨばあちゃんと一緒に暮らしていたのだ。
十歳の時に、私とトヨばあちゃんの間には血のつながりはないことを教えられた。私はトヨばあちゃんに預けられた子供だった。
トヨばあちゃんに不満はない。私のことを大事にしてくれるし、何より一人の働き手として扱ってくれる。
でも……
それでも母のことを思うのはいけないことだろうか?
<十年前.産婆の家の前>
トントン
産婆「……誰だい?」ガラガラ
山姥「……」
産婆「お空さん……! どうしたいこんな夜更けに」
山姥「トヨ……あなたに折り入って頼みがある」
産婆「また困りごとかい? 何でもとは言えないけど、任せておくれよ」
山姥「……何も訊かずにこの子を、引き取ってほしいのだ」
赤ん坊「スー スー……」
産婆「……なんだって?」
山姥「頼む……」
産婆「……ただの育児放棄というわけじゃないようだね。一体何があったんだい?」
山姥「言えない……」
産婆「それじゃあ無理だよ」
山姥「頼む……この通りだ」
産婆「ちょ、ちょっと。頭を上げとくれ」
山姥「頼む……」
産婆「……分かったよ。この子は預かる」
山姥「ありがたい……」
産婆「でもちゃんと引き取りに来ること。いいね?」
山姥「……大事に、してやってくれ」
産婆「ちょっと!」
山姥「では……」
産婆「まちんさい! あんたは……」
山姥「……」
産婆「死ぬ気かい? 駄目だ、あんたは……」
山姥「――なさい」
産婆「え?」
山姥「生きなさい、カヨ」フッ……
産婆「……」
<現在>
娘「あのさあ」
産婆「なんだい?」
娘「私の母さんはさあ……私のこと嫌いだったのかなあ」
産婆「それはないね」
娘「ホントに?」
産婆「それだけは断言できるよ」
娘「……そっか。おばあちゃんが言うなら、そうなんだろうね。おばあちゃんは嘘言わないし」
産婆「……むしろ、大好きだったからこそ、なんだろうね」
娘「あはは。それよくわかんない」
産婆「カヨ」
娘「何?」
産婆「お前は、笑うと八重歯が可愛いねえ」
山姥「生きなさい」
~了~