妹「ほぉら、は、や、く」
兄「……」
妹「そう、ちゃんと握って……」
兄「……」
妹「当てがって、ゆっくり引いて……」
兄「……」
妹「さあ!」
兄「……っ」スッ
妹「あ……あは、あはは!ほんとに切ってる!手首、切っちゃってる!」
兄「うっ……くそ、これで満足かよ……」
妹「んふっ、血、たくさん出てるよ……舐めてあげる」ぺろぺろ
兄「お、おいよせ……っ」
妹「ほら、早く止血しないと……ふふっ」
元スレ
妹「ふふっ、ほら、あたしの前でシて見せてよ……」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1332264738/
兄「事の発端は、遡ること1ヶ月前」
兄「妹が今まさに手首を切らんとしている現場に、俺は出くわしてしまった」
兄「俺は当然止めた。妹の、剃刀を持った左手(彼女は左利きなのだ)を掴んだが、直ぐに振り払われてしまった」
兄「暴れる妹を押さえつけようとするうち、妹の振り回した剃刀は俺の手首に」
兄「妹ははっとしたようで、剃刀を取り落とした。俺は、その隙に剃刀を取り上げた」
兄「へたり込んだ妹は、そのまましばらく黙っていたのだが、ふと俺を見やり、傷は痛まないかと訊いてきた」
兄「傷はじっさい浅かった。俺は、このくらい何とも無いと言ったが、妹の目は俺の右手首の傷を見据えていた」
兄「妹は、俺の腕を取った。俺は妹の一挙手一投足に注目したが……あろう事か、妹は俺の、もう乾いてしまった傷口を舐め出した」
兄「俺は言葉も出なかった。気持ち悪いとさえ思った」
兄「舐められる度、傷口はくすぐったく、また、ぴりりと痛んだ。傷口を舐められている間、俺は押し黙ったまま、妹のなすがままにされていた」
兄「ようやく妹は傷口から口を離し、手首を掴んだまま、顔を上げた」
兄「そして、えへへ、と笑った」
兄「俺はぞっとした。屈託なく笑う妹は、
とても美しかった。口元には薄っすら血がついていて、妹の白い顔とあいまってまるで……」
兄「直後、妹は笑みを消すと、俺の腕を乱暴に離し、口元を袖でこれも乱暴に拭った」
兄「それから妹は、何で止めたんだと俺をなじった」
兄「俺は、手首を切るなんて駄目だ、そんな事はしてはいけない、と至極真っ当な事を言って諭した」
兄「妹は、何度止めても無駄だ、絶対に手首を切る、と言って聞かなかった」
兄「俺と妹はしばらく問答を続けたが、終に妹は折れなかった。しかし、妹はある条件を出してきた」
兄「それは、妹がリストカットしたくなったとき、自分はしない代わりに、妹の目の前で俺がリストカットする、というものだ」
兄「馬鹿げている!」
兄「しかし、頑として折れない妹を見ているうち、だんだんそれでもいいような気もしてきた」
兄「そう、これは我が身と妹の身、どちらを差し出すかという話だ」
兄「俺は、妹のリストカットを止めてしまった。その時から、もう決まっていた事だったのだ……」
兄「あるいは、妹が俺の傷口を舐めた時から……」
---
兄「おい、朝だぞ」
妹「ん……」
兄「飯出来てるから」
妹「……何で勝手に入ってきてるわけ」
兄「お前が起きないからだよ」
妹「ふぅん。ねぇ、あたしの寝姿見て、興奮した?」
兄「そんな事より寝癖がついてる……?」
妹「お兄ちゃんの手って綺麗だよね。特に薬指なんてたまんないね」
兄「……おい離せ」
妹「……んっ」
兄(妹は俺の薬指を口に含んだ。そのまま、しばらく舐めていた)
兄(しかし、次の瞬間、妹は犬歯を立てたかと思うと)
兄「痛っ」
妹「……んふふ」
兄「お前なぁ……」
妹「んっ……じゅる、ぷはぁ。ごちそうさま」
兄「……」
妹「ご飯は要らない。シャワー浴びてくるね。お兄ちゃんは先に行ってて良いよ」
兄「……何なんだよ」
兄(薬指は、酷く痛んだ)
兄「妹は学校でいじめられているわけではないらしい」
兄「部の後輩が妹と同じクラスだったので訊いてみたが、そのような事は無いと言っていた」
兄「また、妹さん可愛いですよね、とも言っていたので、無視した」
兄「ただ、妹はクラスに馴染めていないようだった。友達もいないみたいだ」
兄「昔から陰気な奴だったが、はっと息を飲むような美人だった」
兄「妹のやる事なす事は絵になる」
兄「その美しさは快活なものではなく、むしろ寒色の、物哀しい美しさだ」
兄「何かいけないものを目にしてしまったような……直視してはいけないけれど、でも見たくなる、そのような感触がある」
兄「妹に友達が出来ないのは当然の事のように思えた」
---
兄「おい、×××」
妹「!」
兄(しん、と妹のクラスは静まり返った。放課後だったが、クラスには半分ほどの生徒が残っていた)
兄(妹は日直だったのだろうか、日誌に向かっていた)
兄(声をかけて、一緒に帰ろうと思った)
兄(ここのところ、妹はどうにも危なげだ。目を離した隙に消えてしまうような、そんな……)
兄(妹は日誌をぱたんと閉じて教卓に置くと、カバンを持って近寄ってきた)
妹「……」ぎゅっ
兄「……帰ろうか」
妹「……うん」
兄(教室内を見渡すと、皆こちらに注目しているようだった)
兄(会釈をして教室を出た)
妹「……何で迎えに来たの?」
兄「何となくだ」
妹「何となく……」
兄「ああ、何となく」
妹「……ふふ、そっか」
兄(そう言って俺の腕に抱きついてきた妹は、俯いていて、表情は伺えなかった)
兄(しかし、たぶん、笑っていた)
妹「帰ったら、話があるの」
兄(……今朝噛まれた薬指が、熱を持った気がした)
妹「昨日の傷口、見せて」
兄「……ああ」はらり
妹「……うわぁっ」
兄(初めて傷の出来た日から一ヶ月、傷は5つに増えていた)
兄(昨日の傷は癒えていなかった。とうぜん血は止まっていたが)
妹「……んっ、ちゅっ」
兄「……!」ぞくっ
妹「んん……ふふっ、んっ」
兄「……」
兄(妹がリストカットをしたくなったら、代わりに俺が手首を切り、その様を妹が見る)
兄(傷口を、妹は舐めたがった。俺はそれを拒む事はなかった。そうするのは自然なことのように思えた)
妹「んっ、ぷはぁ……」
兄(ただ、気持ち悪いと思った)
兄(美しい妹が、傷口を舐める姿も)
兄(俺がそれを受け入れている事も!)
兄「こんな事を言うのも何だが、俺と妹は情愛の関係ではなかった」
兄「まあ、傷口を舐めり、舐められる行為は肉体的な関係と言えない事もないが……」
兄「ではこの関係は何なのか?」
兄「俺は、妹に傷をつけまいと、自らの体を差し出した」
兄「妹は、その傷口を舐める」
兄「俺は妹に何を与え、妹は俺に何を与えているのだろう?」
兄「そこに邪なものはないようにも思える。ただ、行為があり、それをお互い受け取っている」
兄「だから、深く考えるべきではなかったし、何を与えて、与えられているかに気づくべきではなかった」
兄「俺と妹は、もともとそこまで仲良くはなかったし、会話もあまりなかった」
兄「物心ついたときからそうだった」
兄「しかし、このところその関係にも変化が訪れている」
兄「それはたぶん、リストカットを止めたあの日からだろう」
兄「あの日に、俺は罪を負ったのではないか?」
兄「だとしたら、その罰とは、傷を作る(!)事だろうか?」
兄「あるいは……」
---
兄「んん……そろそろ寝るか」
兄「まだ11時か」
ガチャ
兄「?」
妹「お兄ちゃん、ちょっといい?」
兄「……どうした? 手短に頼むよ、もう寝ようと思っていたし」
妹「つれないなぁ」
兄(そう言いながら、妹はベッドに寝転がり、靴下を脱いだ)
兄(妹の足が、ベッドに投げ出された)
兄「何してるんだ?」
妹「……ねえ、一緒に寝てもいいかな」
兄「……」
兄(……綺麗な足だと思った)
兄「……ここ最近のお前は変だ」
妹「そうかな、そうでもないと思うな。どこが変だと思うの?」
兄「……」
兄(全部変だ。手首を切ろうとするのも変といえば変だが、むしろそれはいい)
兄(俺に手首を切らせるのも変だし、急に馴れ馴れしくしてくるのも変だ)
兄(しかし……しかし、それを受け入れてしまっている俺も変だ)
兄「まあいい。とにかく、お前は自分の部屋で寝ろ」
妹「あたしの事、嫌いになったの?」
兄「……そうじゃないさ」
妹「じゃあ一緒に寝て……あはっ、もしかしてお兄ちゃん、あたしが怖いの?」
兄「何を……」
妹「急に"病気"づいちゃった妹に、何かされるのが怖いんでしょ? でもそれ以上に、自分がそれを受け入れてしまいそうで、それが怖いんだ。受け入れたら、自分もそうなっちゃったら、そうなっちゃうから、だから怖いんだよね」
兄「……」
妹「あはは、はぁ……でも大丈夫。何も起こらないよ。何も起こらない」
兄「……好きにしろよ」
妹「良かった。お兄ちゃん」
兄「何だ」
妹「大好きだよ」
兄「そうか」
妹「大好きだよ」
兄「……そうか」
妹「じゃあ、寝よ?」
兄「……そうだな」
兄(何も起こらない……)
兄(妹は何もわかっていない。何か起こるのが怖いわけじゃない)
兄(俺は、俺の中でこの1ヶ月育ち続けてきたとある感傷に気付くのが怖かった)
兄(つまり、妹によって、何かが起こるのならまだいい。それは妹のせいにできるからだ)
兄(何も起こらない事によって、何か起こるのを期待している自分に気付くのが、ただ怖かった)
妹「……まだ起きてる?」
兄「……ああ」
妹「手首、痛い?」
兄「……別に」
妹「痛いよね」
兄「……」
妹「痛いよね。でも、その痛みは、必要な痛みなんだよ」
兄「……」
妹「あたしの事好き?」
兄「……」
兄(俺の手首の痛みは、妹が望んだからだ)
兄(しかし同時に、この痛みを手放したら、俺は、俺達は終わりだと思った)
兄(この痛みは、無償の愛だ)
兄(……無償ではない)
兄(しかし、惜しみなく与う愛ではあった)
妹「……手首、出して」
兄「……」
妹「……切ってみせて。あたしの前で」
兄(俺は無言で従った。午前0時半の事だった)
兄「……っ、はぁ、はぁ……」
妹「ああっ……血が流れてる」
兄「そう、だな……」
兄(これは二人の行為である!)
妹「あ、シーツに垂れちゃった……もったいない」
兄(妹は、ベッドのシーツに垂れた血をちゅうちゅう吸った)
兄(それから、俺の新しい傷口に口をつけた)
妹「んむ……んんっ……」
兄「うっ……」
妹「ん……」
兄「っく……」
妹「……ぷは、痛い?」
兄「あ、ああ、痛いよ……」
妹「……嫌だ? こんな事、したくない、って思う?」
兄「……」
妹「思わないよね、だってあたしの事好きだもんね。あたしに『される』の、好きだもんね」
兄「……」
妹「お兄ちゃんは、自分の身を、何の見返りもなくあたしに差し出すような人じゃないもんね。兄妹だからよくわかるよ。お兄ちゃんも、受け取ってるんでしょ?」
兄「……」
妹「だから、もっと差し出してよ。あたしももっとあげる。いくらでもあげるよ。だって兄妹だもんね。それが自然なんだよ。すごく、すごく自然なんだよ……」
兄(俺は何も言えなかった。月の見えない、暗がりの深い夜だった)
兄(デスクライトに照らされた妹の顔はいやに白く、口元には血が付いている)
兄(ああ、これは、俺の血だ、俺の体液だ)
兄(俺は何も言えなかった。妹は優しい目をしていた)
兄(妹の唇に指をそっと触れると、妹は静かに目を瞑った。俺は妹の口元の血を指で拭った)
兄(それから、指についた血を舐めると、鉄の味がした)
兄(妹は、俺の新しい傷口に消毒液を吹きかけ、ガーゼを貼り、包帯を巻いた)
妹「好きだよ、お兄ちゃん……」
兄「……俺は」
妹「うん?」
兄(俺も妹を愛している)
兄(これは、情愛よりも浅く、むしろ寒色の、物哀しい愛だ)
兄「……もう寝るよ」
妹「そうだね」
兄「おやすみ」
妹「おやすみ、お兄ちゃん」
---
兄「それから、いくたびも俺は手首を切り続けた」
兄「それから、いくたびも妹は俺の手首を舐め続けた」
兄「まず、手首に消毒液を塗ったガーゼを擦りつける」
兄「その後、煮沸した剃刀をあて、横に引く」
兄「動脈めがけて思い切り縦に引く(刺す)と出血の勢いは凄まじく、おそらく死ぬだろう。それはリストカットではなく自殺だ。俺は(妹は)自殺したいわけではなかった」
兄「重要なのは痛みを感じる事だ。そして、さらりと血液が流れること」
兄「リストカットは生へと向かう衝動だった」
兄「生を感じる事で、俺と妹は繋がっていた」
兄「これは、ある意味性行為である」
兄「この奇妙な蜜月(?)はしばらく続いた」
兄「そうして、おおよそ1年が経った」
---
兄「妹は、学校以外ではほとんど外に出たがらなかったが、それでもたまに二人で散歩をした」
兄「家の近所の川沿いを歩く間、妹は俯いたまま、俺の手首を柔らかく掴んでいた」
兄「ふと妹が立ち止まり、土手の斜面をじっと見つめた。男女が一組座り、仲良さそうにしているのが見えた」
兄「妹はため息をついた。俺も同じ気持ちだった」
兄「ああ!」
兄「あのような普遍の幸福を、俺も妹も知らずに、一生を終える気がした」
妹「楽しそうだね」
兄「そうだな」
妹「でもね、意味がないんだよ」
兄「……」
妹「意味がないの。本当だよ」
兄「……そうだな」
妹「見て、あの男の子。手首。傷がない」
兄「……」
妹「何も残してないんだ。可哀想に」
兄「……そうかな」
兄(妹は俺の目をじっと見つめた。長いまつげが二度揺れた)
兄(それから薄い笑みを浮かべてみせた)
妹「帰ろう」
兄「そうだな」
---
兄「日々には、いつか終わりが来るはずだ」
兄「終わりが来ても傷は残る……それが愛なのか?」
兄「そんな単純な話なのか?」
兄「下世話な例えだが、キスマークと一緒だ。情事の証、ただの痕跡」
兄「もっと言えば、犬のマーキング」
兄「そんな事のために俺は、痛みを差し出しているのか?」
兄「……そう考えた途端、急に手首が痛み始めた気がした」
兄「俺は何をしているのだろう。妹は、俺に何をさせていた?」
兄「俺は妹を愛していたのか?」
兄「受動的な自虐に酔っていた?」
兄「ああ!」
兄「……もうやめよう」
妹「……どうして? あたしの事、嫌いになった?」
兄「……そうじゃない。こんな行為には終わりがない事に気づいたんだ」
妹「終わらないよ。これが終わる時は、二人が死ぬ時」
兄「死?」
兄(突然、全てが陳腐に思えた。死という言葉は一番出してはいけない言葉だった)
兄(俺達は、もっと深い部分の愛を交換していたはずなのに)
兄(それが取るに足らない、「死」という言葉によって、表に引き摺り出され、笑いものにされているような気がした)
兄(俺はひどく狼狽してしまった)
兄「それは……ああ、死……その程度の……」
兄(妹も、言ってはいけないことを口にしたというのがわかったらしく、口をつむぎ、俯いた)
兄(俺は妹の頭を撫ぜようと手を伸ばしたが、その行為はさらに陳腐であった)
兄(手を伸ばしかけてやめたので、妹は顔を上げ、俺の目を見た)
妹「……うん、そうだよね。もう終わりにしなくちゃね。こんなの、良くないもんね」
兄「……」
妹「お兄ちゃんと私は、どこまで行ってもお兄ちゃんだもんね。だから終わらないし、終わらせないと終わらないよね」
兄「……」
妹「ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね……」
---
兄「それから、俺達は急速に離れていった」
兄「もう手首に傷が付くこともないし、また、妹が傷口を舐める事はない」
兄「どこまで無益で、ぐるぐると回り続ける愛があり、それが終わった」
兄「だけれど、終わりから1ヶ月たって最後の傷が癒えても、何だか手首は痛む気がした」
兄「完全に閉じて乾いた傷口が、何故だかじくじくと痛む気がして、自分で傷口を舐めてみるが、そこに感傷はなく、塩辛い汗の味がするだけだった」
兄「嫌な痛みだと思った」
兄「あの日々の痛みとは違う、硬質の痛みだ」
兄「もしかしたら、妹は自分の手首を切りつけるのではないか、という懸念はあったが、それは杞憂だった。1ヶ月経ってもまるでその徴候はまるでなかった」
兄「ただ、以前にもまして妹は色白になった気がした。妹の存在は、儚く、希薄になっていくように思えた」
兄「俺の血を舐めた時の、まるで蜂蜜を舐めたような(甘さに顔をしかめつつ恍惚となるような)その表情は、もう今の妹のどこにも認められなかった」
兄「苦しんでいるのでは、とも思えたが……しかし、思えば『蜜月』においても妹はたぶん苦しんでいた」
兄「苦しみながら愛を受け、苦しみながら与えていた」
兄「それは俺も同じだ。苦しみながら傷を作り、苦しみながら愛を与えられた」
兄「二人は、息の詰まる愛に溺れていただけだ!」
兄「それは、祝福の日々であり、紛れもなく真実の愛だったと思う」
兄「兄妹愛とも、異性愛とも違う、純粋な愛の交換だった」
兄「純粋な愛は、行為は、ただそこにあるもので、始まっても終わってもいなかった!」
兄「一番新しい、最後の傷から1ヶ月、俺はそれをようやく認識した」
兄「午前3時だった。妹は寝ているだろうか? 妹と、話さなくては、愛を」
兄「また、祝福の日々を続けよう」
兄「妹の部屋のドアを開けたが、誰もいなかった。机の上には置き手紙が、そこには」
妹『愛をありがとう』
兄「俺は、家を飛び出した。いなくなった妹を探すというその行為の陳腐さ、取るに足らなさに愕然としながら、俺は歩き続けた。夜明けは近い」
兄「いつだか、二人で散歩をした川沿いの道に辿り着く」
兄「どこまでも陳腐で、それでも純粋な俺達であったなら、またここで(どうせ)出会えると思った」
兄「街灯がちらちらと川の流れに反射していた。夏が始まろうとしている。木々は明け方の風に揺れている!」
兄「妹は、土手の斜面にちょこんと体育座りをしていた」
兄「それはちょうど、以前『男女』が談笑していた場所だった」
兄「そこは、お前には似つかわしくないのに……」
兄「何してるんだ?」
妹「!」
兄(後方から不意に声をかけられた妹は、びくんと肩を震わせた)
兄(片手で簡単に握りつぶせる紙っぺらのような、弱々しさがあった)
妹「……お兄ちゃん」
兄「こんな所で何をしてたんだ」
妹「……死のうと思って」
兄「……」
妹「死のうと思って。川に入って、死のうと思って」
兄「……そうか」
兄(川は、お世辞にも入水自殺できるような深さではなかった)
妹「ふふ、信じてないよね? 確かにこんな浅い川じゃ死ねないと思うでしょ?」
兄「……俺は、お前の事をいつも信じてるよ」
妹「いいんだよ。しょうがないもんね。もうすぐ雨が降るよ。Yahoo!の天気予報で見たから間違いないんだよ。もうすぐ雨が降ります。すると、水かさが増します。すると、川の勢いが増します。そこであたしは川に入ります」
兄「もういいよ、もうわかった」
妹「あたしは死のうと思えばいつでも死ねるんだよ」
兄「……そうかな」
妹「……何それ。信じてないんじゃん。嘘つき」
兄「そういう事じゃない」
妹「じゃあ――」
兄「お前が死のうとすれば、俺が止める。傷を作っても止める」
妹「……っ、でも」
兄「俺が止めて、例えば今なら川だけど……もうすぐ雨が降って、水かさが増して、川の勢いが増して、お前が川に飛び込もうとしたら、俺がお前を抑えつけて、それで何故だか、俺が代わりに飛び込んで、お前はそれを見て、だから、その、たぶん、おそらくだけど、お前は死なないと思う」
妹「……そんなの」
兄「そんなの、おかしくはない。そうするよ。だって、そうしただろ?」
妹「……」
兄「俺は、お前のために、何度でも手首を切ってあげる」
妹「……あたしのために?」
兄「そうだ。そして、俺のために。俺に、お前がくれるからだ。お前がくれるから、俺は、お前の目の前でしてやる」
妹「……あたしの事、愛してるの? 好き?」
兄「愛してるよ。純粋に愛してるよ」
兄(思えば、俺は妹に口で愛を表明した事はなかったような気もするし、あったような気もした)
兄(ただ、妹は驚いていた)
兄(まるで、俺が妹を愛してるなんて言わないと思っていたみたいに!)
兄(ああ、これは、妹が俺の事を信じていなかったという事ではない)
兄(むしろ、俺が俺自身の妹に対する愛情に気付くとは思っていなかった、という予想を裏切られたからだ)
兄(俺は心変わりしたわけではなく、最初から持っていたものに気づいただけだ)
兄(妹が手首を切ろうとした日、俺が初めて傷を作った日に手に入れたものを!)
妹「……ふふ、じゃあ死ねないんだね、あたし」
兄「死ねないな」
妹「でも、いいんだよね。終わらないんだよね」
兄「ああ」
妹「じゃあ、まだ生きられるよ」
兄「そうか」
妹「あたし、お兄ちゃんが好きだよ、『純粋』に」
兄「……そうか」
妹「この1ヶ月、ずっと、実は、どうやってやり直そうか考えていたんだけどね」
兄(驚いた)
兄(妹は、何というか、そういう、その、未練というか)
兄(そういうものを持たないし、持っていても、それを認めたがらないと思っていた)
妹「でも、やり直さなくてもいいんだよね。今まではそこにあるものを無視していただけで、……だから、終わっても始まってもいないんだよね」
兄「そうだな」
妹「だから、ただ、戻ろう」
兄「そうだな」
妹「……ふふん、あたし、お兄ちゃんに嘘をついたんだよ。だから、謝るね」
兄「?」
妹「雨なんて降らないよ。今日は1日中快晴だって」
兄(朝日が眩しかった。風が広い空へ抜けてゆき、生活が動き出す)
兄(夜が明けていた)
兄(確かに快晴だった)
兄「俺と妹の関係は、もしくは形が変わるだろう。変わらないかも知れない。俺はまた、傷を作るかも知れない」
兄「あるいは、もう二度と、傷を作らないかも知れない」
兄「それはやり直しではないし、始まりでもない」
兄「どうあれ、たぶんそれは、自然な事だ」
兄「形を変え、色を変え、重さを変え、味を変え、匂いを変えて、愛はそこにあり、息づいているはずだ」
兄「だから、無償の愛を与えよう」
兄「だから、無償の愛を受け取ろう」
兄「ああ!」
---
兄(まぶしい、新しい朝の、流れの弱く浅い川の土手で、俺と妹は並んで座っていた)
兄(まるで、いつだかの『男女』のように!)
兄(俺と妹は、戻っていく)
兄(そして俺と妹は、変わっていく)
兄(ように思えた)
妹「ねえ、手首、見せて」
兄「……ああ、いいよ」
妹「あ……ふふっ、まだ一番最初の傷、跡残ってるね」
兄(妹は、綺麗な指の腹で、俺の最初の傷跡を優しく撫ぜた)
兄(こそばゆい)
兄(そうして、俺はぞくりと身震いしてしまった)
終わり