注意事項
・リメイク前の旧作(アルクGoodEnd + シエル先輩残留)を基準に書いています
ただし話の本筋には関係ない小ネタでリメイクのネタが出てきます
・リメイク版のみプレイした人でも大丈夫な内容(コメディ)になっています
・資料を確認しながら書きましたが、新旧月姫の知識がごちゃ混ぜになっている状態です
間違い等がありましたら申し訳ありません
「シエル。あなたはなぜ学校に通っているの?」
ほのかに漂う甘い香りと、鼻をつくスパイスの匂い。
口で味わう前に自然と鼻で味わってしまいながら、スプーンですくったカレーを口元に運んでいる時だった。
そんな白い服でカレーを食べて大丈夫なのかという心配を「“任せて!”」と意気込んで答えたはいいものの、薬品の調合をしているかのような慎重と緊張でスプーンを操り、恐る恐る一口ずつルーを食べていたアルクェイドから飛び出た質問である。
「――――――――――」
本当に意外だったのだろう。
目をパチクリと見開いた先輩は、その驚きを口にしようとして――自らの口がカレーでいっぱいな事を思い出す。
答える前に先輩は急いで口の中の物を咀嚼《そしゃく》し始めた。
その仕草は上品ではなかったけれど愛嬌があり、リスみたいだと言ってしまえば怒られるだろうか。
咀嚼を終えて呑み込んだ先輩は気を静めるように冷水を一口含み、ついで額《ひたい》に浮かんだ汗をハンカチを拭った。
そりゃあ汗もかくだろう。かくいう俺も汗をかいている。汗は汗でも冷や汗だが。
視線を少し下げればテーブルに並んだ食事が目に映る。
ここはカレーショップ“メシアン”。
このテーブルに居並ぶは先輩とアルクェイド、そして俺の三人。
この三人でこの店に入ることになろうとは……!
元スレ
教えて! アルクェイド先生
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1632736983/
――事の発端は30分前。
日差しで暖かくなり始めた午前10時頃に、駅前でフラフラと彼女らしくない様子で歩く先輩を見かけたところから始まった。
心配になって声をかけてみれば――
「これはこれは、恥ずかしいところを見られてしまいました。
実は昨夜から夜明けまでちょっと“お仕事”をしていまして。そこからさらにあと片付けやら報告を食事も取らずにしていましたら、気がつけばもうこんな時間!
ご飯を食べようにもカレーは作り置きもレトルトも切らしていたため、こうしてメシアンに向かっている最中なんです」
「そんなにお腹が空いていたなら――」
近くのコンビニで済ませれば良かったんじゃないですか? という迂闊な言葉をかろうじて飲み込む。
普段の先輩ならば「何を言うんですか遠野君! 心身ともに疲れた体を癒す食事を、適当なもので済ませていいはずがありません。ターメリックとコリアンダー、クミンにレッドペッパー。ガラムマサラに人参・玉ねぎ・リンゴ・牛肉。そこから導きだされる黄金比の輝き《カレー》こそが求められるのです!」と握り拳で語るぐらいで許してくれるだろう。
しかし今ここにいるのは飢えた獣だ。口調こそ柔らかいが眼がギラついている。
きっと“仕事”とやらを終えて、さあ食事だと意気込みながら冷蔵庫を開ける段階になって、ようやく作り置きを切らしている事に気づいたのだ。
世界に裏切られたと言わんばかりの絶望に襲われた相手に「コンビニのパスタでも食べてろ」なんて言ってみろ。
頭から齧《か》じられ、そして喰いちぎられる。
そんな飢えた獣を前に草食動物である俺ができる事といえば「そうだったんですか大変でしたねアハハハハ~」と刺激しないように流すだけだ。
――と、そんな風に流していたら。
「良ければ遠野君もご一緒しませんか?」
先輩から早めのランチを誘われました。
お腹に手を当てながら考える。
朝はそんなに食べてないため少しお腹が空いていた。
メシアンのカレーは美味しいし、先輩と一緒ならばより美味しく感じられるだろう。
「いいですね。俺も――」
「メシアンってカレーショップだったわよね? 人間は同じ物ばかり食べていたら体がおかしくなるんじゃないの?」
先輩のせっかくのお誘いに乗ろうとしたその時。
いつからそこにいたのか、アルクェイドが俺の肩越しからひょいっと顔を出してきた。
「ん? あっちの方を歩いていたら志貴の声が聞こえてきたから」
その黄金に輝く髪で俺の頬をくすぐりながら、アルクェイドが指さしたのは六車線道路の向かい側。
はて?
俺が先輩と話し始めてからまだ一分過ぎたかどうかというところだ。
日中の駅前で車は絶え間なく行きかい、信号機も歩いて一分ほどの所にある。
どうやってコイツは俺に気づかれることなく後ろに回り込めたのだろう。
「アルクェイド。人間社会で生活をするのなら道路交通法ぐらい守りなさい」
「ええ~? 人間だって歩いて渡っても余裕なら信号無視するじゃない」
「あなたの歩いてはロードバイクみたいなものです」
どうやら先輩にはコイツがどうやってここまで来たか見えていたらしい。
そうか~、この交通量をスイスイと歩いてすり抜けてきたか~。
うん、おまえのハチャメチャっぷりには慣れてるから驚かないよ。
……いい加減慣れろ、遠野志貴!
「ところでアルクェイド。今、あなたはカレーを侮辱しましたか?」
「別にカレーをバカになんかしてないけど、カレーばかり食べるあなたを不思議に思うわ。
人間はせっかく色んな料理を生み出したのに同じ物ばかり食べるなんてもったいないでしょ?」
俺が作った中華どんぶりや、学生にとって馴染み深いファミレスやラーメン屋のメニュー。
俺と一緒にそんな物を食べた結果、下々の食事がお気に召したお姫様にとってそれは当然の疑問だったのだろう。
しかし先輩はというと鋭い目つきから一転、今度は憐れむようにアルクェイドを見る。
「そうですか。あなたはカレーをまだ食べたことがないのですね」
「食べたことはないけど、どんな物かは知っているわ。この国ではそれなりに人気がある食事なようだけど、一日三食はあなたぐらいなんじゃない?」
「おや? 食べたこともない料理を知ったように語るとは、三つ子の魂百までとやらですかね」
「む」
「いいですかアルクェイド。
カレーとは――――――――――完全栄養食なのですよ!!」
「か、完全!?」
経験も無しに知識で語ったことを指摘されたアルクェイドは眉をしかめるも、言い返す間もなく自信たっぷりに断言する先輩に度肝を抜かれた。
「人はカレーと聞いて何を想像するか。一般的なところだと玉ねぎと人参にジャガイモ、そして牛肉でしょう。ではナスやオクラを想像するのは間違いでしょうか? いいえ、夏に食べるナスカレーやオクラカレーも暑さに弱った体に活力を与えてくれます。もちろんトマト、キノコ、ズッキーニ。カレーに合う野菜はまだまだあります。
そしてカレーのトッピングで選べるのは野菜だけではありません。エビ、イカ、ホタテ等を加えたシーフードカレー。キウイ、バナナ、パイナップル等によるフルーツカレー。いやそもそも、肉を牛肉にこだわる必要すらありません。鳥でも豚でも、なんなら鹿や猪でも構いません。
トッピング次第でいくらでも必要な栄養素を接種できる。それも、カレー味で!
好き嫌いの多い小さなお子さんでもカレーなら食べられるというケースもあり、全国――いな、全世界のお母さんの味方と言っても過言ではありません!
さらにさらに! ここまで自由自在なカレーですが、彼《カレー》は自らだけでなくその相方も変幻自在。ある時はライス、ある時はナン、ある時はうどん、ある時はラーメン、ある時はパン。人類の主食である穀物との圧倒的、調和力《シンフォニー》!!!
人はパンのみにて生くるものにあらず! カレーの彩りが必要なのです、わかりましたかこのアーパー吸血鬼!!!」
「お、おおぅ」
先輩のあまりの勢いにたじろいだアルクェイドは「“ねえ、シエルが言っているのは本当なの? スパイスの過剰摂取でおかしくなったわけじゃないよね?”」という不安そうな目を向けてきた。
ここは――
1.正直に話す。
2.先輩に話を合わせる。
「先輩の言う通りだよアルクェイド。カレーは日本三大国民食の一つにして、インド人十四億による魂の息吹。この世で最も至高の頂《いただ》きに近い完全栄養食なんだ」
「なんとぉ!?」
俺は草食動物。荒れ狂うルーの大波に逆らう事などできない。
決して「え、そんな知識知らない。二人ともどうしたの? お昼時によく流れている緑黄色野菜を絞った汁や、膝や関節の痛みが治りそうなサプリや健康食品を宣伝するドキュメンタリーみたいな“圧”が出てるけど」と困惑してオロオロするアルクェイドが見たいから悪ノリしたわけではない事を、ここに明言しておこう。
「本当ならば遠野君と二人きりのつもりだったのですが、これも主の思《おぼ》し召《め》しでしょう。あなたも行きますよ、メシアンに!」
「ん、んンン? 何がなんだかわかんないけど……まあ志貴とご飯ならいっか♪」
――こうして先輩、アルクェイド、俺の三人でメシアンに突入することが決まってしまった。
この選択の結果、真祖の姫がカレーを贔屓《ひいき》にしてしまい吸血鬼界のパワーバランスが崩れ、造物主に「カリードマルシェ? そんな死徒いねえよ」と存在を否定された男が祖に至ることになるが――それはまた、別のお話。
※ ※ ※
「へえ~、ふ~ん。なんだかシエルっぽい雰囲気のお店ね」
「そ、そんな。別に貴女に褒められても何もしてあげませんからね」
全体的に赤っぽくて茶色っぽい彩りと、厳かなのに奇怪な雰囲気が漂う店。
アルクェイドが軽く辺りを見渡しながら口にしたあんまりな感想を、先輩は満更でもない様子で受け入れる。
良いんだ……カレーショップらしいっていうのが誉め言葉になるんだ。
あ、でもこの店の何でも受け入れますという包容力は確かに先輩らしいかも。
「さて、遠野君は今日は何にしますか?」
四人掛けのテーブルに座り、二つあるメニュー表を俺とアルクェイドに差し出す先輩。
自分は後でいいという気遣いもあるだろうけど、この店のメニューは網羅しているという静かな自負を感じられた。
「そうですねぇ……このドロワットにしてみます」
「む」
「へえ、美味しそう。わたしもそれにしようかな」
「待ちなさいアルクェイド。あなたはカレーを食べに来たのですからカレーを選びなさい」
「え? これカレーじゃないの?」
「エチオピアカレーと呼ばれるものですが、厳密に言えばカレーではありません。いえ、美味しいんですよ? カレーとはまた違った辛さがありますし、私たちがアフリカ料理を食べる機会もそうそう無いですから遠野君が食べるのを止めたりはしません。
しかしまだカレーを食べたことが無いというあなたが、こうしてカレーショップの中のカレーショップであるメシアンを訪れるという機会を得たのに、カレー以外を注文するのは見過ごせません」
「え~、じゃあわたしは何を食べればいいの?」
「そうですね。わたしのお薦めはバターチキンカレーです。
でもコレが食べたい! というモノがあれば別にそれでも構いませんよ。
ドロワットは許しませんが」
「そっか。じゃあバターチキンカレーで。
お寿司屋さんだって最初の一皿目は卵じゃないといけないんだし、初めてのカレーはシエルの言う通りにするわ」
鍋奉行ならぬカレー奉行といった様子の先輩の意気込みに、アルクェイドは特にこだわることなく先輩のお薦めを受け入れる。
「すみません」
注文が決まったところで先輩は手を挙げて店員さんを呼び止めると――
「ドロワットを一つとバターチキンカレーを一つ、それとインドスペシャルを大盛りのスパイス20倍セットでお願いします」
「――――――――――」
「ご注文を確認させていただきます。ドロワット、バターチキンカレー、インドスペシャルを一つずつ。インドスペシャルは大盛りのスパイス20倍セットでよろしいでしょうか?」
よろしくないです。
目の前にそんな劇物がある状態で、おちおち食事なんてできやしません。
いや、大丈夫なのか!?
先輩ではなく俺たちが大丈夫なのか!?
そういうのを食べ慣れている先輩は大丈夫なんだろうけど、手を伸ばせば届く距離にそんな劇物に鎮座されて、俺たちの目と鼻は大丈夫なのか!?
あ、でもアルクェイドは3000℃の高熱にも耐えられるから辛いのもいけ――いや、あいつニンニク駄目だった!
食べ物に関してはそんなに無敵じゃないぞあいつ。
「んー、じゃあわたしもその20倍セットで。なんだか面白そう♪」
「――――――――――」
デトロイトやメンフィスを舞台にした映画で、チンピラが大した理由もなくゲラゲラ笑いながら人をなぶり殺しにするシーンってありますよね?
必要にかられたわけでもなく、むしろ自分たちから望んで笑いながら人を殺すシーンは見ていて「これって映画の中だけだよな? え? 実際のデトロイトもロボコップみたいな治安? うわっ」と文化の違いによる驚きと恐怖を感じてしまう。
今まさに、面白そうという理由で何の躊躇もなくスパイス20倍セットを輝かんばかりの笑顔で頼むアルクェイドが隣にいるのに、俺は止めることもできず恐怖と驚きで硬直していた。
「かしこまりました。バターチキンカレーとインドスペシャルをスパイス20倍セットで、インドスペシャルはさらに大盛り。ドロワットは……そのままで?」
店員さんの視線を感じる。止めなくていいのかと問いかける視線だろうか?
「“髪が青い女性は常連さんだから問題ないけど、こっちの金髪の女性は初見ですよね? わたしはノンケの美少年に好き勝手できると興奮するどこぞの博士と違って良識ってものがあるんです。今のうちに止めてください”」
……いや、違う。
店員さんの視線に込められた意味は――
「“お連れの女性は二人ともスパイス20倍セットを頼みましたよ。当然あなたも20倍セットにしますよね? え、しない? 初見の女性ですら頼んでいるのに? こんな美女を二人も侍《はべ》らせてるからどんな男かと思いきや……こんなんじゃすぐに愛想を尽かされますねぇ”」
そんな感じの視線を感じる。
まずい。
まだ現物を突きつけられたわけでもないのに、カレーとは思えないほど赤黒く胎動する暴力的スパイシーを鼻先に突き付けられたかのように冷や汗が流れ出る。
――待てよ。
アルクェイドはカレーを食べるのは初めてだ。
最初の一口目でスパイス20倍セットに挑むという暴挙を、果たしてあのカレー奉行が許すだろうか?
そう、先輩ならきっと――――――――――ッ!
「―――――――――あ」
助けを求めた先にあったのは、先輩の背中。
その背中が――
“――――――ついて来れますか”
蔑むように、信じるように。
俺の到達を、待っていた。
……ついて来れるか、じゃありませんよ。
二人の方こそ、戻ってきて――――――――――!
※ ※ ※
「――――――来たか」
こうして無力な俺は、テーブルにスパイス20倍セットが2つも並ぶのを止めることができず(俺のドロワット感度20倍化は断固阻止した)、圧倒的スパイシーな香りに息をのむ。
それは赤く、黒かった。
カレーと聞いてバーモントカレー(甘口)を思い浮かべる者たちの首根っこを鷲掴《わしづか》みにして、積み重なったガラムマサラの砂丘に生き埋めにせんとする暴力的な香り。
このカレーを口にする者、一切の希望を捨てよ。
同じトレーで運ばれてきたけど、俺のドロワットに辛さが移っていないだろうか。
「おお~」
恐れ慄く俺とは裏腹に、アルクェイドは感嘆の吐息と共に拍手で迎え入れる。
楽しそうで何よりだけど、それって注文した料理が来た時の反応として正しいのだろうか?
ああ、正しかったか。紫色のド派手なケーキが来た外国の子どもも、多分こんなリアクションだろうから。
一方の先輩は静かだった。
静かだけど目が据わっている。
暴力的な香りを前にして、嵐の前のような静けさを漂わせている先輩。
果たしてこの二つを接触させていいのだろうか? 対消滅が起きたりしないか心配になる。
「――いただきます」
「いっただっきまーす♪」
厳《おごそ》かな声と、底抜けに明るい声が地獄の開催を告げる。
俺はというと用心するあまり、まだスプーンに手すら伸ばしていない。いや、何に用心しているんだか自分でもわからないんだが。
何だか中華料理屋で神父と対峙する正義の味方みたいな気分だ。
「アルクェイド。お前の服白いんだから跳ねないように気をつけろよ」
「ん? だ~いじょっぶ、任せて任せて!」
味についての警告はできない。
20倍セットなんて俺にとっては未知の領域だ。
せめてその白い服だけは助けようと空《むな》しい忠告をする。
「わたしが知ってるカレーとは見た目がかなり違ってるわね」
スプーンで掬いあげたカレーをまじまじと観察するアルクェイド。
おい、そんなに眼へ近づけるな。
何の脈絡も無くボコッと湧いた飛沫が眼に飛びかかるかもしれないんだぞ。
クソ、もしかしてお前まだ俺にやられた傷が癒えてないのか。
本来の貴様なら一目で気が付いたはずだ。
その金色の眼を凝らしてよく視るがいい。
視えるであろう。その体内《ルー》に内包された、六百六十六素のスパイス達の混沌が――――――
「味もみておこうっと♪」
「ばっ――――」
ネロ教授の警告も空しく、アルクェイドはそのままスプーンを口に入れてしまった。
ナンにカレーを乗せるわけでもない、カレールーのみの純度100%
くっ。リメイクで出番をごっそりと削られたネロの警告じゃアイツに届かなかったか!
「……ッ!?」
パクッとスプーンを丸ごと口に入れてしまったアルクェイドは、目を白黒させると――
「うっひゃ~! ア、アハハハハハハハッ! 何これ! 舌がヒリヒリして面白い!」
けらけらと楽しそうに笑い始めた。
「……そうか、良かったな」
最悪の事態――あまりの辛さにスプーンを落とし、それが食器にあたって辺り一面に劇物《カレールー》をばらまくという惨事――が避けられて、安堵の吐息が漏れる。
気が付けば喉がカラカラだった。
知らぬ内に冷や汗が流れていたようで、まだカレーを一口も食べていないのに冷水をあおる。
「こういう味は初めてで楽しいよ。でもちょっと辛すぎるかな? 10倍ぐらいがちょうど良かったかも。
シエルはこれがちょうどいいの?」
「その日の気分によって変わりますね。今日は20倍を食べたい気分でしたが、普通の辛さを食べたい時だってあります。
貴女もカレーが気に入ったのなら色んな種類を味わってみてください。お店によって違う出会いがありますから」
アルクェイドの無邪気な反応をほほ笑ましそうに眺めると、先輩は上機嫌にゆっくりとカレーを食べ始めた。
その光景は減量明けのボクサーが小さくなってしまった胃を労わるように、一口ずつゆっくりと味わい――ん? 先輩?
「ん……ふっ……はふっ」
「……シエル?」
「――――――先輩」
先輩は本当なら、こんな風に食べる人じゃないんです。
ちょっと健啖《けんたん》なところはあるけれど、それだって普段の運動量を考えれば少ないぐらいだし、そもそも美味しそうに食べる女の子って見ていて癒されるよね?
けど今の先輩は食事休憩無しでの徹夜明け。一周回ってハイな状態ってやつだ。
「ふうぅ……んっ……この……っ……辛さ……ああ――嗚呼《ああ》!
生きて、います。今わたしは……んっ……生きて……いましゅ」
最初は噛みしめながら味わっていたものの、空っぽだった胃が刺激を受けて動き出す。そうなってしまったら睡眠不足の脳では止められない。
あとは衝動に突き動かされるままに目の前のカレーを喰らうのみ。
え? 先輩は年上の包容力と丁寧口調、隠し切れないほどお人よしな上にメガネ。こんなことはしないって?
文句なら二十年の歳月を経てもなお印象に残っている“カレーパン覚醒シーン”に言っていただきたい。
もしくは外道マーボー神父、激辛激甘シスターなど“教会関係者=食の変人”というイメージを作り上げた菌糸類に言っていただきたい。
「……変なシエル」
事情を知らぬまま先輩の狂態《きょうたい》を目の当たりにしたアルクェイドは、呆気に取られたのもつかの間。
不思議そうに一言漏らしただけで流すと、初めて食べるカレーに再度集中することにしたようだ。
さて、いい加減俺も食べるとしよう――
※ ※ ※
「シエル。あなたはなぜ学校に通っているの?」
その問いかけは先輩が大盛りのインドスペシャルを半分ほど食べ終わり、瞳に理性の光が戻ってきた頃を見計らってされた。
「――――――――――」
先輩は驚きで目を見開いたが、アルクェイドの意図を問おうにも口がカレーでいっぱいでそれも叶わず。
まずはと急いで咀嚼し、次いでカレーを食べているうちに流れ出ていた汗をハンカチで拭った。
「意外ですね。遠野君ではなく私に訊いたんですよね?」
警戒と疑念、そして何よりも戸惑いを見せながら先輩は確認する。
そりゃそうだ。今でこそ同じ食卓に着いているけど、二人には俺のあずかり知らぬ因縁がある。
犬猿の仲が続いたからこそ通じてしまう互いの呼吸と、同じ街で暮らすというこれまでに無かった状況、そして共通の知人である俺の存在。
それらが歩み寄る余地を生み出してはいたものの、話の流れというわけではなくアルクェイドの方から突然先輩のプライベートについて訊いてきたんだ。
「何よ。わたしがシエルに訊いたらいけないっていうの? それに志貴にはちゃんと前に訊いた事があるんだから」
「あ、いえいえ! 別に構いませんとも!」
先輩の当然といってもいい反応に、アルクェイドはふてくされた態度をとる。
それは友人だと思っていた相手につれない反応をされたもので、先輩は慌てて否定した。
「そうですね……わたしが学校に通う理由を話すのは構わないのですが、その前に理由を聞かせてもらえませんか。質問の意図がわからなければ、どう答えていいかわかりませんから」
「うん。前に志貴に訊いたよね? あなたは一日の半分を学校で費やしているけど、そうまでした知識や経験を全て使い切る事があるのか。人生に不必要な事を学んで、時間を浪費していたりするんじゃないかって」
夕焼けの赤色で染まる教室での事。
今でもありありと思い出されて胸が締め付けられる、思い悩むアルクェイドの姿。
「……ああ。俺はそれに、学んだ事の多くは無駄になるかもしれない。はっきりとした目的が今はないから、それまではこうやって無駄に生きていく。
アルクェイドの言う通り、ここで過ごす時間の大半は人生にとって余分なものだけど――そういう無駄な事、余分な事も悪くはない。俺はそう答えた」
いつか歳をとって、ぼんやりと過ごしている時に。
ああ、そんなこともあったなって、苦笑しながら思い出せる出来事なら、それはそれで意味があるんじゃないか。
「うん。私はそれを聞いてね、羨ましくって――でも手を伸ばせばわたしにも届きそうに思えた。
でも本当に手を伸ばしていいのかな? 志貴と一緒にいる時はこんな事考えないけど、一人になると昔のわたしが訴える。
アルクェイド・ブリュンスタッドは無駄なものを持ってはならない、余分は事をしてはならない。それは個体としての機能を落とす事に他ならない――って」
「おまえ……」
先輩と口喧嘩をして、眉をしかめるのを隠そうともしない姿。
俺と先輩にカレーの偏った知識を与えられ、戸惑いを隠せない姿。
初めて食べるカレーに心底楽しそうに笑う姿。
先輩のつれない反応にふてくされる姿。
今日一日を思い出すだけでも、天真爛漫を絵に描いたようなアルクェイドにしか出せない輝きの数々。
しかしこいつはまだ、それが許されるのかどうか――当たり前のコトを当たり前に感じる事を、自分自身に咎められている。
生まれ落ちてからずっと周りからそう教え込まれてきたんだ。
その価値観は一朝一夕で拭えるものではないだろう。
自分の在り方を変えようと思って簡単に変えられるものなら、生きるという事はもっと簡単で――空虚なものに成り果てる。
だから俺は、それに付き添いたい。付き合っていきたい。
こいつが俺といない時でも人生を楽しめるようになって――――――――――それからも、一緒に生きていたい。
「そんな風に色々考えていたら、あ、そういえばシエルはどうして学校に通っているのかなって」
「なるほど……そういうわけでしたか。
遠野君の次に私を選んでくれたのは、何というか面《おも》はゆいですね」
アルクェイドの告白を真剣な様子で聞いていた先輩は、困ったような、それでいて照れくさそうな笑みを浮かべる。
「まあシエルとの付き合いも結構長いしね。それでどうしてなの?
志貴はまだはっきりとした目的が無いから、自分にとって何が必要なのかわからない。だから例えその大半が無駄になるとしても、色んな事を学ばなければならない。そうして学び得た知識の大半が無駄になっても、そんな事もあったなって思い返して楽しむ事ができる。
けどシエル。あなたは自分に必要なものが何であるかわかっている。だってあなたは教会の人間で、代行者。ならば代行者としてのスキルを磨くべきでしょ?」
「もっともな意見ですね。というか実はですね、埋葬機関が出張るような大きな案件はそうそうありませんし、目的を果たしたにも関わらず真祖が活動を停止しないというこれまでにないケースなので、近くにわたしがいるのは正直助かるけど、なんで昼間は学校に通っているんだと本国からも突っ込まれています」
「えぇ? あなた教会の人間にまで突っ込まれてるの? もしかしてメレム?」
「ああ、本当に知り合いだったんですねあなたたち。彼も不愉快な感じで茶化してきますが、まだアレと比べればマシです。
何せ殺意を抱くほどではありませんから」
いったい誰に何を言われたのか。
うつむき加減で不敵に笑い始める。
というか二人の知り合いが教会にいたとか今初めて知った。
「今のところ埋葬機関としての仕事はありませんし、期せずしてあなたと奇妙な友好関係を築けたわたしが監視役として最適なのだから黙ってろとは言ってるんですがね。
別にあなたの肩をもつわけではありませんが、わたし以外の教会の人間が監視していたらあなたも嫌でしょう?」
「ん~、マーリオゥなら我慢してあげなくもないけど、メレムは付きまとってきてうっとおしいし、それ以外は問答無用で潰すかな?」
……なんだろう。
今初めて存在を知ったしどういう奴なのか知らないけど、今俺はそのメレムさんをすごく不憫《ふびん》に感じている。
何だか二人からの扱いが何というか――――――雑でした。
「つまりシエルってばお仲間に嫌味を言われながら、それなりに忙しい中で時間を割きながら学校に通っているわけよね?」
「そうですね。そしてそれをあなたは不思議に思っている」
ほほ笑ましそうに答える先輩の様子は、学校での俺や有彦と一緒に話している時のもので、年上のお姉さんとしてアルクェイドと向き合っていた。
「人間は仕事とそれに関する事、それ以外は休息だけという生き方をしていれば体ではなく心が壊れてしまう。だから趣味や娯楽が必要になる。
それは知っているんだけど、なら今みたいにカレーを食べたり、さっき貴方が言ってたみたいに違うお店を探して別のカレーと出会ったりすればいい。それ以外にも、ほら……あなた銃火器が好きだったじゃない。武器の手入れをしたり、カタログを読んで楽しんだり。そういった仕事以外の過ごし方があるでしょ?
それなのに一日の大半を学校で過ごしちゃって、学校はそんなに楽しいの? あなたにとってカレーや銃火器と並んだり、ともすればそれ以上に優先しかねないものなの?」
アルクェイドの言いたいことはわかる。
俺自身ロアの件が片付いた以上、先輩は学校から去ってしまうものとばかり思っていたから、こうして通い続けてくれるのは予想外の喜びだった。
しかし今の先輩は言ってみれば社会人が仕事終わりに夜間大学に通っているようなもの。いや、夜間大学より高校の方が拘束時間も長く融通も利かないからもっと厳しいか。
そのうえ“昨夜の仕事”のように突発的な事も起こりえる。今日は日曜で学校は休みだったが、仮に平日なら先輩は徹夜明けの状態で学校に顔を出していただろう。
アルクェイドでなくとも疑問に思う事で、俺だって考えた事はある。
けどそれを訊いてしまえば先輩が学校に来なくなってしまうような気がして、怖くて一度も口に出せなかった疑問だ。
「学校は確かに楽しいものですが……楽しいから通っているかというと、少し違いますね」
そんな俺も知りたかったけど知るのが怖い問いかけに、先輩は穏やかな表情で答えた。
「私が学校に通っているのは……憧れ……心残り……そういったものです」
在りし日の事を――まばゆい光のように思い返しながら、そう口にする。
「あなたには共感しづらいとは思いますが、わたしたち人間は子どもの頃は、数歳年上の相手が大人びて見えて憧れるんです。
小学生の時は中学生が大人っぽくて素敵に見えて――ああ、わたしもいつかは中学生になるんだ。あんな風に素敵なお姉さんになれるかな、なりたいなあ。中学校では何をするんだろう? わたしはこんな事をしてみたいなあ……と」
「先輩……」
子どもの頃の懐かしいオモチャに触れていたような楽し気な口調は、尻すぼみに途切れていく。
「……想い描いていたものは、全て無駄になりました。
それからはもう、子どもの頃の夢など考えないように、考えないように生きてきたのですけど……」
アルクェイドが目を見開き、前のめりになって先輩を見る。
俺だって同じ気持ちだ。
だって――――
「遠野君の学校に潜入して、クラスの皆にクラスメイトとして接してもらえて……皆で授業を受けて、休み時間に些細な事で笑い合って……そんな当たり前の、わたしが失ったはずの夢が……どうしようもないほど、楽しくて仕方なかったんです」
今にも泣きだしそうなのに、心底嬉しそうに笑う先輩が――――とても、きれいだったから。
「アルクェイド。あなたが今の在りようを過去の自分に糾弾されているように、わたしも今の自分を過去の罪に咎められています。
咎人の身で、何をのうのうと生きている。生きているのなら戦えと。
一匹でも多く吸血鬼を滅ぼせ、一人でも多くの人を助けろ、一つでも多くの善行を為せ、と」
それは許されない者の言葉。
誰よりも、何よりも――自分自身に許されない者の、己への弾劾。
「でも卒業までの数ヵ月……どうかこれだけは許してください、見逃してください。
のうのうと生きる事が許される身でないと、重々承知していますが……どうかこの、失われたはずだった夢だけは」
そう、静かに言い終えて。
涙があふれ出そうになったからか、先輩は目を伏せた。
「――――――――――」
沈黙が流れる。
言いたい事があった。
話しかけたい事があった。
しかし――今俺が口にしてはならない。
だって先輩がこうして胸の内を明かしたのは、アルクェイドに対してだ。
そこに居合わせただけの俺が、今の先輩に語りかける権利は無い。
それができるのは、許されるのは、しなければならないのは、ただ一人のみ。
「…………………………シエル」
どれだけの時間が経っただろうか。
長く長く感じて、でも実際はそうでもないだろう時の砂。
先輩の胸の内を、自分のただ一度の吸血《あやまち》によって引き起こされた、数多くの悲劇の一つを明かされて――
「ありがとう」
先輩を真っすぐに見据えながら。
アルクェイドは謝罪ではなく、感謝を口にした。
辛い過去――などという生ぬるい表現では済まない事をまざまざと思い返しながら、先輩は今の自分の生き方を語ってくれた。
それもこれまで幾度となく争ってきた自分に、何の打算も無く、一人の友人として。
これに謝るのは間違っている。
先輩はそんなつもりで胸の内を明かしたわけではない。
アルクェイドを糾弾するためではなく、アルクェイドの悩みと疑問に応えるためなのだから。
もちろんアルクェイドは申し訳ないと思っただろう。
けど先輩の心境をくみ取ったあいつは、決して謝罪の言葉を口にしてはいけないと理解し――――“ありがとう”という一言に万感の思いを込めた。
「……いいですよ。先に胸の内を明かさせたのはわたしの方なんですから」
先輩はアルクェイドの感謝の言葉に、静かに――でも本当に嬉しそうなほほ笑みを浮かべる。
ああ、良かった。
二人が胸の内を明かし合って、こうして互いに理解を深める事ができて。
似た者同士な二人だからこそ、一歩間違えれば致命的な決裂になる事も起こりえた。
でも、それはもう大丈夫。
ここでお互いの大切な事を理解し合えた二人は、例えこれから先争う事があったとしても、それはどうしようもない理由があっての事で。
決して憎悪で争う事は無いのだから――
※ ※ ※
「はじめまして、アシスタントティーチャーのアル美です!
みんな、今日はわたしのためにありがとーう!」
なんであの流れからこうなるんだ、このばか女ああああぁぁっ!!
ざわめく教室、血の気が引く酩酊《めいてい》感。
教壇から放たれるあっけらかんとした破壊光線《あいさつ》。
奴の顔には一度は危険物として没収したはずの丸眼鏡がかけられ、メガネ属性まで付加されている。
間違いない。
魔眼の力でなんやかんや有耶無耶《うやむや》にした特別講師・アル美先生まさかの再来か――――ッ!
待ってくれ。いや、ホント待ってくれ。
普通こういうのは予兆というか前触れがあってしかるべきだろう。
こっちだって心の準備というものがある。
こう、ほらね?
朝は翡翠に起こしてもらって、居間で秋葉と兄妹水入らずな胃が締めつけられる事で暖かくなる会話をして、琥珀さんが用意してくれた朝食を食べるじゃないですか。
そして登校している途中に、例えば下駄箱とか階段で何か違和感を覚えるとかですね、そういう前段階が必要になるでしょ。
それをコイツは一切合切無視した。
もうダメだ……おしまいだぁ……
頭を抱えながら横目で頼れる生徒《なかま》たちを見る。
当時の記憶《さんげき》を忘れてしまっている仲間たちは、あの日を繰り返すようにチャット会話を始めていた。
『どうしよう。いい匂いがして頭がクラクラする』
『我、有識者ノ意見求ム』
『やばいめっちゃ近いめっちゃ美人』
『あれ? この美人さんどっかで見たような気がするというか、この展開に覚えがあるような』
『知り合いなら紹介しろ』
『どうしよう。目が合っただけなのに顔が熱くなってきた』
『黒板前である事に神に感謝しています』
「ぐお……っ」
「遠野くん……!?」
あまりの絶望に頭を抱える勢いが止まらず、机に額を叩きつけるように突っ伏してしまう。
クラス中が喧噪に包まれているおかげで目立たなかったが、この異様な雰囲気に吞まれていなかったのが弓塚が驚いて振り返る。
それに手を軽く振って大丈夫だと応えながら、有彦が朝からサボっていることを神に感謝いややっぱしねーわ、こんな事態を引き起こしやがって。
今なら心の底から神に呪われたと、ガッデムと叫べるぞ俺は。
「わたしはあくまでアシスタント役なんだけど、英語の先生は今日はお休みだから代わりに進めちゃいま~す♪」
ま~すじゃねえよ。
おまえアシスタントティーチャーなんだろ。アシスタントを止めてメインになろうとすんなお願いだから。
しかし誰もこの暴走機関車を止められない。
ノエル先生の時と違って男子たちだけではなく、女子まで熱をあげている。
さもありなん。
アルクェイドほどの美人ともなれば、常人なら同じ場にいるだけで気後れしてしまうものだが、アルクェイドの無邪気な振る舞いは一般人の緊張を和らげる。
それはノエル先生の、男心をわかっている者が振り回して楽しむあざとさとは対極に位置するもので、女子に敵対心を持たせるものではない。
かくして絶世の美女の予期せぬ来訪にテンションを上げる野郎どもと、ハリウッド女優もかくやといわんばかりの美貌とスタイルに羨望と憧れの目線を向ける女性陣。
熱狂した民衆は自らをひき殺さんとする鉄の塊を、もろ手を挙げて迎え入れんとしていた。
そりゃあノエル先生に「“うふふ。この子たち、頭の程度は大丈夫なのかしら”」と言われるわけだ我が学級よ。
「さぁてと! それでは早速授業に入……ろうと思ったけど、なんだか皆それどころじゃない感じよね。
あ、そっかそっかゴメン! 自己紹介のあとは質問コーナーで、それから授業だもんね。
はい、というわけで先生に質問ある人!」
どうやらアル美先生とやらの自己紹介はあれで終わりらしい。
頼む、気づいてくれみんな。
コイツは自己紹介でアル美とかいうカタカナと漢字が混ざった名を名乗り、自分の肩書をアシスタントティーチャーと自称しただけだぞ。
これで教師役としての自己紹介が終わったつもりなヤベー奴だぞ。
「し、質問です! アル美先生はおいくつなんでしょうか!」
「好きなブランドは何ですか!」
「誕生日はいつでしょうか!」
「彼氏は!? 彼氏募集中ですか!?」
「どんなタイプが好みですか!?」
ダメだった。
政権支持率脅威の95パーセントを突破。(誤字であらず)
独裁国家でしかあり得ない数字だ。
……何か来ないかな。
おお、圧制者よ! なんてほがらかな笑みを浮かべた筋肉モリモリマッチョマンが助けに来てくんないかなぁ!
「うんうん、たくさんの質問ありがとう!」
現実逃避する俺とは裏腹に、圧制者は殺到する質問にご満悦だ。
「はい、それじゃあ質問に答えるね。
先生の年齢は――二十歳! そういう設定!
好きなブランドだけど、これって着ている服の製造元の事でいいのかな? 自分で選ばないで用意してもらったからブランドの好みとかは無いよ。
誕生日は12月25日で、彼氏の募集はもう終了しちゃってまーす♪」
ええええぇぇ? という男子たちの悲哀のどよめきと、女子たちの当ったり前でしょ、夢見てんじゃないわよ男子という嘲笑が鳴り響く。
ふっふっふ。わかってないなあ女子のみなさんは。
あれだけの美人なら絶対彼氏いるだろ、いないって言っても隠しているだけで本当はいるんだろと内心気づいていても、美人が彼氏はいないって言ってくれるのはそれだけで嬉しいんです。
夢と希望が持てるのだ。
だからな、アルクェイド。
おまえが二十歳を自称するのはまあいいさ。
おまえの外見年齢と、アシスタントティーチャーをやれる年齢で都合がつくのがそのぐらいの年齢だからいいよ。
そういう設定だって言っちゃうのもいいよ。
世の中には設定年齢19歳蟹座のB型な美形だっているんだから。
でもさ、彼氏うんぬんの時に思いっきり俺を見ながら話すのはもう止めような。
オマエの視線に誘導されてか、弓塚がビックリしてまた振り返っちゃったから。
……大丈夫だよな。
俺とアルクェイドが知り合いだって気づかれていないよな?
「それで好みのタイプだけど、ふふ」
おいバカ止めろ。
止めろって言っている俺のアイコンタクトが届かないのか?
アイコンタクトが届かなくても、打つ手が無くて頭を抱えている俺のジェスチャーは見えているよな?
全人類、全世界に通じる共通言語《ボディランゲージ》だぞ。
「わたしの彼氏ったら、わたしが大切なあまり小言が多くってね。
酷い時はわたしの事をばか女って言うんだよ」
『ええええぇぇ!?』
教室中からアル美先生の彼氏への非難が吹き荒れる。
おいおい。この場にアル美先生の彼氏とやらがいれば、きっと居たたまれない気持ちになったことだろう。
「大丈夫なんですか先生? それって束縛が強いDV野郎じゃないんですか?」
事情を知らない女子の発言に、女性陣を中心に賛同の渦が巻き起こる。
別れちゃえー! なんて無責任な言葉まで飛び交う。
「でもね、しき――じゃなくて彼氏が口が悪いのはわたしだけなの。
基本的には誰にでも優しいのに、わたしだけ例外。
その癖わたしが大変な時は、普段は子犬みたいな顔しているのに狼みたいなカッコいい顔つきで駆けつけてくれるんだ!
口の悪さだって、わたしへの愛情が隠しきれてなくて――――もう大好き! わたしの運命の人!」
『お、おおおおおぉぅ……っ!』
臆面もない壮絶な惚気《のろけ》に、感嘆の息による大合唱。
……メロ……止メロ……シテ……殺シテ……。
俺がいったい何をしたっていうんですか神様。
自分への惚気話を同級生たちにしている光景を見せつけられるのは、いったい何の罪でどこの地獄に落とされたのでしょうか?
あれ? 弓塚まで地獄に落ちたような表情だ。
何で前の席に座っている弓塚の表情がわかるかというと、さっきからテンポが早いメトロノームにように教壇に立つアルクェイドと俺を交互に見ているからだ。
首をあまりに酷使しているせいか顔が真っ青だけど、大丈夫なんだろうか?
「えへへ。まだまだ語りたい事はいっぱいあるけど、これ以上は怒られちゃうからそろそろ授業を始めます」
ああ、そうか。
これ以上は俺に怒られると思ったか。
もうとっくにそのラインを越えちまってるんだよオマエ。
今なら秋葉の気持ちがわかるよ。
辛抱と困惑が頂点を過ぎると、少し愉快な気持ちになってくるってやつ。
俺の口から乾いた笑いが漏れてくるのもきっとそれなんだろう。
え、絶望による自暴自棄だから違う?
そっか、秋葉は今の俺よりメチャクチャな心境だったのかな。
今日は寄り道せずに帰って当主さまのご機嫌を伺うとしましょうか。
――そう心に誓ったところで、アイツが嬉々として黒板にアレやコレを書いている以上、平穏無事に帰宅できるわけがないのだけど。
※ ※ ※
「はい。それじゃあ87ページ二段落目からの英文を――」
誰に当てようかと教室をアルクェイドが見渡すと――
「はい!」
「先生! 俺が読みます!」
「バカ野郎! ここは俺に任せて先に行け!」
男子たちが次々と手を挙げて立候補する。
小学校の授業参観でもここまでの意気込みで手を挙げたりはしまい。
でかい図体になった高校生男子が目をキラキラ、もといギラギラとしながら挙手する見苦しい光景には理由がある。
それは――
「それじゃあ先に行けって言われたそこのキミ、名前は――山田哲人くん! 読み上げてくれる?」
「シャッ!」
「しま……っ」
この通り指名された生徒はフルネームで呼ばれる権利を手にする。
名前を憶えてもらうには格好の機会というわけだ。
しかし最初はどうなることかと心配だったアルクェイドの授業だが、意外とまともというか――普通にわかりやすくて、その、なんだ……困る。
もともと知識量は並みの人間では太刀打ちできないほど豊富なんだ。
ただ人と会話した経験がほとんど……というよりまったく無かったため、知識を伝えるのが下手だったはず。
しかし俺を相手に少しは話し慣れたんだろう。
そのうえ授業の相手は俺と同年代の集まりで、さらにアル美先生への好感度は全員高く、邪念混ざりとはいえ授業に集中している。
これで相手が小学生だったりしたら、人間の幼体への対応経験が無い事で大苦戦したかもしれないが、このまま無事に授業が終わって――
「――はい、という風に使い分けることができます。つまりこの文章を和訳したら――あ、手を挙げるのは今回は無しね」
早押しクイズのように今か今かと手を挙げようとしていた男子たちを制止すると、アルクェイドは座席表を手に取る。
「先生が授業をするうえでやりたかった事の一つにね、これがあるんだ。
今日は〇×日だから、出席番号〇×番!」
「オイッス!」
「ん? 鈴木誠也くんはさっき当てたか。じゃあ無しで」
「なん……だと……?」
「う~んと、今は9時17分だから、9+1+7で――」
どうやら学校の先生がよくやる、その時の日時で生徒を当てるのをやりたかったようだ。
いや、なぜそんな知識を持ってるんだアイツ。
もしかして今日に備えて学園を舞台にしたドラマや漫画をチェックしたのか。
「出席番号17番の宮田……んん?」
出席番号17番の宮田を当てようとしたところで、これまで順調だったアル美先生が初めて戸惑いを見せた。
教室に何とも言えない居たたまれない雰囲気が流れ、宮田は諦めたような笑みを浮かべる。
「ねえ宮田くん。貴方の下の名前は何て呼ぶの? へきくう、で合ってる?」
「……アル美先生。俺の名前は碧空《あとむ》です」
「へえ、音読みも訓読みも把握していると思ったんだけど、この名前はそういうのとは別に歴史的な経緯が生まれた読み方かしら。大和と書いてやまとと読むように」
「いや、歴史的な経緯は……ない……はずですよ?」
日本アニメ史を語る上で欠かすことのできない鉄腕アトムの存在《パワー》に押され、歴史的な経緯は存在しないと言い切れない宮田。
碧空をアトムと読む設定なんて無いから言い切っていいんだぞ、宮田碧空!
「あれ? うん……ちょっと待って」
おっと。
何かに気づいてしまったのか、座席表をまじまじと眺めるアルクェイド。
「ねえねえ、そこの貴方。名前は大野……絆琉《はんる》で合ってる?」
「アル美先生。わたしの名前は絆琉《ほたる》って読んでしまうんです」
「ご、ごめんなさい絆琉ちゃん。間違えちゃって」
「ふふ。いいんです、読めるわけがありませんから」
「?」
沈んだ表情をしていた大野だが、アルクェイドの戸惑ってオロオロとした反応を見て思わず笑ってしまったようだ。
しかし当のアルクェイドはというと、いまいち状況が読み込めていない。
「どうしよう……他にもいる!
おっかしいなあ。わたし日本語の読み書き覚えたと思ってたのに」
いや、日本で生まれ育った者でも初見では読めないから。
約束された勝利の剣と書いて、エクスカリバーと読むぐらい無理がある。
しかしキラキラネームの異様さに気がつけるのは日本語に熟達している証拠だ。
『外国の人なのにすごいなあ』
『うろたえるアル美先生も素敵だな』
『うろたえるアル美先生は美しい、きっと明日も美しいぞ』
――という具合でアルクェイドを全員が見守り続けている中で、それは起きた。
「えーい、じゃあもういいや!
志貴! ここのジョージ・ナカタの言葉を訳してちょうだい!」
「ぐほぉ……っ」
ヤケになったアイツは唐突に俺を名指しした。
待て待て、おまえ生徒はフルネーム呼びで“くん”か“ちゃん”を付けていたよな?
なんで急に下の名前だけで呼び捨てにしてんだ!
「あっはっは。アル美先生が日本人の名前にキレた」
「良かったな遠野。わかりやすい名前で」
大丈夫か……?
よし、俺が下の名前で呼び捨てにされたのは、アル美先生がキラキラネームに憤慨したからだと受け取められている。
誰も疑ってないぞ!
ん、弓塚がカタカタと体を震わせているけど風邪かな?
「ほら、志貴。
早く訳してってば」
おう、おまえはちょっと黙ってろ。
ええと、ここのジョージ・ナカタの言葉だから――ああ、うん。
心を込めて訳せるな。
「――たわけ。口にしてはならない事を口にしたな、コルネリウス」
※ ※ ※
「――という事があったんですよ」
「それはそれは……ご愁傷さまでした」
「いや~、授業が思っていた以上に楽しくってテンションがつい上がっちゃって」
昼休みの茶道室での事。
俺の説明を聞き頬を引きつらせている先輩の横で、自分が何をしでかしたか自覚が足りないアシスタントティーチャーがいる。
俺もメガネ、先輩もメガネ、アル美先生もメガネという“磨伸映一郎のアンソロかな?”という空間を用意するのはそれなりの苦労があった。
急いでアルクェイドをとっ捕まえて事情を問いただしたいものの、相手はこの学校で渦中にいる人物。
うかつに接触して「“どうしたの志貴?”」なんて気安い態度を取られれば、哀れ遠野志貴は非業の死を遂げる。
学校関係者に注目されずにアルクェイドと接触を取り、人目のつかない所に誘導してくれる人物。
そんな頼りになる人、この学校どころか世界中に一人しかいなかった。
「休み時間に遠野くんが息を切らして走り込んで来て、何事かと思いきや……人間社会にここまでガッツリ関わるなんて」
「なにさ~、みーんなわたしの授業を喜んでくれてるっていうのに」
こめかみを抑える先輩に、アルクェイドは口を突き出してブーたれる。
――そう、問題はそこである。
このアル美先生によって迷惑をこうむっているのは、今のところ俺だけなのである。
これから三年の授業にも顔を出すなら先輩も被害を受けるだろうけど、基本的にうまくやっている以上頭ごなしに非難できない。
まあ授業中の俺への態度は断固として止めさせるつもりだが。
「しかしアシスタントティーチャーですか。それは確か大学生がバイトでする事が多いと聞きましたが……そこのところはどう設定したのですか?」
「近くに留学生の多い大学があったから、エチオピアからそこに留学している事にしたよ。
長いとボロが出て二人に迷惑かけるかもしれないから、期間は週二回で一ヵ月の短期アルバイト。
文書の方もばっちり!」
「おま……っ」
元気よく文書偽造したと言い張るのに突っ込もうとしたが、先輩が静かに目を逸らしたので止めておく。
うん、先輩も学校に潜入するために色々やらかしたようだ。
「……まあいいとして、何でエチオピアなんだよ」
「国籍なんてどこでもいいでしょ? 最初はパキスタンにしようかと思ったけど、シエルってば国籍をインドにしてなかったから。
それで昨日志貴が食べてたドロワットを思い出してエチオピアにしたの」
ゲームでのプレイングキャラクターの所属をどこにするか、ぐらいの気軽さで答えるアルクェイド。
「アルクェイド、あのですねぇ。
魔眼や暗示を使って潜入する場合は、なるべく相手に違和感を覚えさせないのがセオリーでしょう。
エチオピアって貴女、不穏な情勢の国からの留学生というだけで目立ちますし、あそこの民族構成で貴女のような容姿はいません」
「うん、なんだかそうらしいね。
でも日本にだって両親が帰化して日本で生まれた別民族だっているでしょ」
「貴女はただでさえ目立つのに、悪目立ちする要素を付け足すなと言っているんです」
「何さ~、悪目立ちなんかしてないも~ん」
などと暴走機関車は供述しており、教会は余罪を含め厳しく追及していく方針です。
おっと。
余罪といえば、まずこれを確認しなければいけなかった。
「アルクェイド。おまえ、どうして学校に来ようだなんて思ったんだ」
アル美先生の衝撃が強すぎてその対応ばかり考えていたが、そもそもの動機は何なんだ。
その質問にアルクェイドは満面の笑みで答えた。
「うん、昨日食べたカレーが美味しかったから!」
――――
――――――――
――――――――――――――――。
そう……か。
……カレーが美味しかったから、か。
カレーが美味しかったなら、そりゃあ……仕方ないよな……。
メシアンのカレーは……本当に美味しいもんな。
「?」
何となく……昨日のメシアンでの会話が関係あるんだと考えてたけど……そっか……カレーの方だったか。
あまりに突飛な返答に、頭が追いつかずに処理落ちしてしまっている。
ここは一つ落ち着くために深呼吸でもしよう。
「すうううううううううううぅぅ」
「ん~?」
深く、深く、深く。
息を吐く事を忘れてしまったように息を吸い続ける。
そんな俺に吸い寄せられたのか、不思議そうに首をかしげながらアルクェイドが俺に顔を寄せる。
よし、肺に空気は満ちた。
敵はこれ以上ないぐらい至近距離。
ゼロ距離で奴の鼓膜を破壊でき――いや、待てよ。
大義は我にあり。
されど茶道室にて大音量でばか女と罵《ののし》る無作法はいかがなものか。
ここは息を吐く事を思い出して落ち着こう。
「はあああああああああああぁぁ」
「ひゃんっ」
吐息を間近から浴びて、猫のように驚きながらアルクェイドは飛びのく。
そんな可愛らしくて間抜けな姿を見て、少し溜飲が下がった。
「……このバカップルは」
いけない、先輩にジト目で見られてしまった。
クセになる前に話を進めなければ。
「――で、だ。
カレーが美味しかった事がなんで学校に来るのにつながるんだよ」
「シエルが言ってたでしょ。
カレーが気に入ったのなら、色んな種類を違うお店で食べたらいいって。
それってカレー以外にも当てはまると思ったの」
「……すると?」
「わたしね、志貴と一緒にいるのがすごく好きなの。
でも志貴が人生で一番多く過ごしている学校という場所を良く知らない。
そこでの志貴をもっと知りたいと思ったの」
「――――――――――」
どうしよう。
こそばゆくて恥ずかしいけど、それ以上に嬉しい。
ずるいぞコイツ。
これじゃ怒るに怒れない。
「あ、ついでにシエルもね。
ふふ、わたしに悪目立ちするなって言っておいて、けっこうな評判じゃない貴方」
「な……っ!
いったい何を聞いたんですかアルクェイド!」
「よっ、耶高《やこう》の万能先輩!」
「こ、このエチオピア人が……っ!」
「あっはっは。日系フランス人なのかインド人なのかハッキリさせてから言ってちょうだい」
頬を紅潮させて震える先輩を、ここぞとばかりに攻撃する自称エチオピア人。
「それにね」
今にも先輩と取っ組み合いを始めそうな雰囲気だったが、アルクェイドはふいに頬をほころばせた。
「前々から気になっていた学校という場所を、人がたくさんいる普段の状態でもっと見たかったのもある。
今日一日は新鮮な事ばかりで、たくさん笑って、困って、考えさせられた。
大勢の人に自分の考えを伝えるにはどうすればいいかなんて、ここに来なければ考える事は無かったと思う」
アルクェイドは楽しそうに――――幸せそうに笑う。
以前のこいつなら不要だと切り捨てていた無駄を、触れれば壊してしまうんじゃないかと不安に想いながらも、慈しむように愛しむように優しく語る。
「わたしは今、二人が普段過ごす学校という場所の一部になっているんだって感じられて――――人の営みの一部を、少しだけ理解できたように思える」
「――ああ。
理解してもらえたと感じられて、俺も嬉しいよ」
その柔らかな語りに眩しいものを感じて、自然と俺も優しく返事をした。
気づけばついさっきまで言い争っていた先輩も、目を細めてほほ笑んでいる。
こんなに無駄な事を、余分な事を味わって人生を楽しむアルクェイドを見られるのなら……こいつが学校に来るのも、悪くないか。
もちろんこいつが学校に来る事で予期せぬ事態はいくらでも起きるだろうし、その度に俺の心労は積み重なるだろうけど――
「まあ、なんとかなるか」
この笑顔のためならば、なんて事はないに決まっている。
真昼の日差しが部屋に差し込むなかで、太陽に負けぬほど明るく笑う月の化身を見ながら――そう静かに確信した。
……この甘い考えは、二日後に朝からサボらずに出席したとある悪友によって木っ端微塵にされるが、それはまた余談。
~おしまい~
32 : ◆SbXzuGhlwpak - 2021/09/27 19:29:45.72 FpkFq5Eu0 32/32最後まで読んでいただきありがとうございました。
旧月姫ではアルクェイドとネロ教授が特に好きでした。
リメイク版ではアルクェイド、シエル先輩、秋葉さまが好きです。
また月姫のSSを書く機会があれば、お兄ちゃんと仲が良さそうにしている金髪の女に脳破壊される都古ちゃんを書くかもしれません。
次はデレステでちゃんみお・まゆ限定奉納SSを書く予定なんですが――
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2021.10.14 鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚
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次の投稿はだいぶ先になるかもしれません。
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