私、黒澤ルビィが中学校から家に帰ると、家の中が少し、慌ただしい様相でした
どうやら音の出どころは、お姉ちゃんの部屋からのようです
ダイヤ「お母さま、タオルはどこですの?」
黒澤母「そうね…新品なら風呂場の棚にあったかしら…」
ダイヤ「そう、ありがとうございます」
ダイヤ「あ、後着替えと寝巻も一日分……」
黒澤母「はいはい、用意してありますよ」
ルビィ「……お母さんとお姉ちゃん?」
どうやら二人は何か、準備をしているようです
黒澤母「あら、ルビィ帰ってたの…お帰りなさい」
ルビィ「うん、ただいま…何してるの?」
黒澤姉「お姉ちゃん、お泊りに行くんだってさ」
ルビィ「おとまり…?」
黒澤母「ええ、といっても…すぐそこのお家だそうだけど」
ルビィ「ふーん……」
ダイヤ「私は一人で準備出来ると言うのにお母様がどうしても付き合うと言うのですから……」
ルビィ「あ、お姉ちゃん」
ダイヤ「というかルビィ…帰りがだいぶ遅い様ですけど…お琴の稽古はどうしましたの」
ルビィ「それは……その…」
ダイヤ「伸ばしてた髪も最近切って何やら珍妙な横結びにしたようですし…まさか、悪い付き合いなどしてるのではありませんわよね…!?」
ルビィ「そ、そんなことしてないよ…!」
黒澤母「…………私は別にどっちでもいいけど…ダイヤ、もうそろそろ五時よ?出発しないと約束の時間に遅れちゃうわよ?」
ダイヤ「わ、分かっています!」
ルビィも少し手伝った荷造りは、なんとか五時前に終わりました
着替えや手土産の沢山詰まったキャリーバックを引いてお姉ちゃんは家を出て行きました
ダイヤ「それでは、明日の昼頃には帰りますから」
黒澤母「行ってらっしゃい、お家の方々の迷惑にならない様に過ごすんですよ」
ダイヤ「はい、行ってまいりますわ」
そんなこんなでお姉ちゃんを送り出すとお母さんは一つ伸びをした後、踵を返して家の中へと戻ってきました
ルビィ「あの…お母さん」
黒澤母「んー…?」
ルビィ「あの…ルビィがお稽古辞めたこと…お姉ちゃんに内緒にしてくれてありがとう」
黒澤母「……なんだ、そんな事?…いいわよ、そんな事」
ルビィ「でも………」
黒澤母「別にダイヤも怒ったりしないと思うわよー?もう高校生だし」
ルビィ「…………うん」
黒澤母「あ、そんな事より……ルビィ」
ルビィ「……?」
黒澤母「今日から数日、お父さんお仕事でいないの…そして、今見た通りお姉ちゃんはお泊りへ出ちゃった」
ルビィ「う、うん……」
黒澤母「つまり、何が言いたいかというと…」
ルビィ「つ、つまり……?」
黒澤母「家に二人しかいないんだけど…夜ご飯何食べる?」
海老、帆立、細かく刻んだ玉葱、馬鈴薯。ステンレスの丸鍋で火を通されたそれらに小麦粉をまぶしていく
まるく、二重になったぼんやりと光る蛍光灯の下、麦の焦げた匂いが台所いっぱいに漂う
黒澤母「あ!横着しちゃだめでしょう?小麦粉入れるときは火を消さないと焦げちゃうわよ」
ルビィ「あ…ご、ごめんなさい」
お母さんに注意され、すぐさま腰の高さにあるつまみを捻り、火を消す
私は台所に立った事が殆ど無く、不慣れな事が多い。もうこれで注意されるのは五回目だ
ルビィ「うぅ………」
黒澤母「ふふっ…料理が手順通りに、が基本的よ…?」
しおらしくなった私を見て、お母さんは何故か微笑んだ
あらかじめカップに量っておいた牛乳を鍋へ注ぎ、木べらで中の具材を崩さない様に、ゆっくりとかき混ぜる
ルビィ「…お母さん」
黒澤母「なあに、ルビィ…?」
ルビィ「お料理って…どうやったら上手くなれるかな…?」
黒澤母「それはやっぱり愛情……」
ルビィ「愛情、かあ…………」
黒澤母「…っていうのは嘘ね、愛情があっても美味しくはならないし」
ルビィ「えぇ……」
お母さんはケラケラ笑い、慣れた手つきで木べらを扱いながら冗談を言って見せる
黒澤母「でもね、ルビィ」
ルビィ「……?」
黒澤母「こうやって、野菜を切ったり、炒めたり、料理って大変でしょう?」
ルビィ「う、うん…」
黒澤母「それを、誰かの為に出来るって言うのがきっと、愛なんだってお母さん思うな」
ルビィ「………」
黒澤母「もちろん、ルビィが…将来の為にお料理を勉強するのも、未来に出会う誰かへの愛だと思うわよ」
黒澤母「だから…覚えるなら、頑張るのよ?」
ルビィ「……うん!」
黒澤母「それとも…もう既に作ってあげたい人がいるとか…!?」
ルビィ「い、いないよ、そんな人!」
黒澤母「あら、ほんとかしら…?急に一緒に料理がしたいなんて言い出したあたり……」
ルビィ「ほ、本当だってば…!」
その料理は、オーブンで丸ごと焼き上げることで完成しました
表面の小麦が焼けて所謂きつね色になり、
オーブンの扉を開けた瞬間、麦の香ばしい匂いと乳の濃厚な香りが混ざり、鼻を擽る
ルビィ「わあ…おいしそう…!」
黒澤母「グラタンねえ…確かに、中々我が家じゃ出ないわね…ダイヤ食べないし」
ルビィ「お母さん、早く食べよ!」
黒澤母「はいはい、縁熱くなってるから台拭き下に引いて持っていきなさい」
ルビィ「台拭き…どこだっけ?」
黒澤母「…そこの棚の二段目よ」
もうもうと湯気を立てるグラタンを前に二人座り、手を合わせる
ルビィ「いただきます」
黒澤母「頂きます、熱いから気を付けるのよ…?」
ルビィ「うん、わかった………熱ッ!」
黒澤母「もう…だから言ったじゃない…はい、お水」
ルビィ「うぅ…………」
焦げ茶色の表面を銀のスプーンで割ると、中から具材が現れる
小さな塊を一つ掬い、口に運ぶ。少し赤いから、海老だろう
少し噛むと、濃厚な味に包まれたその奥に海鮮の旨味を感じた
ルビィ「うん…!おいしい!」
黒澤母「それは良かった、おいしく出来てて」
ルビィ「……おかーさん」
黒澤母「……なあに、ルビィ」
ルビィ「習い事辞めちゃったの…怒ってる…?」
黒澤母「………どうして?」
ルビィ「お父さんは、怒ってたから」
黒澤母「……そう」
黒澤母「………私は、怒ってないわよ」
ルビィ「……なんで…?」
黒澤母「なんでって…楽しく無かったんでしょう?花道も、お琴も」
ルビィ「………………」
黒澤母「だからきっと、それでいいのよ…無理にやらなくても」
ルビィ「無理に…?」
黒澤母「お姉ちゃんは頑張り屋だから、全部熟せる、でもそれを無理して、あなたがする必要は無いのよ」
黒澤母「だから……今まで、よく頑張ったわね」
ルビィ「…………」
黒澤母「ルビィが習い事辞めたのも、髪形を横結びにしたのも…きっと意味が有るのよ」
ルビィ「…………」
黒澤母「それがきっと、先のルビィに繋がってるのよ」
ルビィ「先の…私…」
黒澤母「ええ、そうよ…人生、何がどう転ぶか分からないんだから」
黒澤母「だからルビィは、ちゃんとお勉強だったり、まだ何に出会うかは分からないけど……色々な事を頑張るのよ?」
ルビィ「………うん!ありがと…お母さん」
黒澤母「ふふっ……」
ルビィ「でもお母さん!」
黒澤母「あら…?どうしたのルビィ?」
ルビィ「この髪形はツインテールって言うの!横結びじゃないよ!」
黒澤母「あら…そうなの…最近の髪形とか疎くてね…」
ルビィ「そんなに最近の言葉でも無いけどね…ツインテール」
黒澤母「まあまあ…ほら、早く食べないとグラタン冷めるわよ」
ルビィ「わわっ……そうだった…!…はむっ…」
黒澤母「ほら、気を付けないとまた火傷するわよ…?」
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ルビィ「ほっ………はぁ…」
夕食を終えて、畳張りの部屋の端に置いてあった座布団を引っ張り出す
藍に金の刺繍が施された座布団を壁と背中の間に挿し込み、体を壁に預ける
胃に収まった熱が体を温めて心地よい、脱力して重力に体を身に任せてしまう
夜はもうすっかり更けており、八割ほど欠けた月が天央で輝いていました
習い事を辞めると言い出した時、私は本当に、人生一の勇気を出して言い出しました
だから、お母さんにこうも簡単に受け入れられることに安心と、半分戸惑いがありました
お母さんの言葉のおかげで、いつか夢中になれることが見つかる。分からないけど、そんな予感がしました
どんなことだろうか、お勉強、スポーツ…どれを取ってもピンと来ない
ルビィ「まだ分かんないけど…か」
どうせなら、好きになれることがいいな、そんなことをぼんやりと思い浮かべます
グラタンのお陰かなんだか少し、温かい気持ちになれました
ルビィ「…………ふわぁ…」
不意に、今日の疲れが圧し掛かるような感じがしました
体が温まったので少し、眠くなったようです
背中の座布団を畳の床に投げる。体を投げ出し、顔を思い切り座布団に埋めてしまいます
線香のような、乾いた匂いが鼻を抜けます。四肢を投げ出し、お腹を床にぺったりと着け、寝転んでしまいました
後から、お母さんに起こされるのは、分かっていました
それでも私、黒澤ルビィは心地よい微睡みの中へと、自ら前へ前へと進んで行くのでした
おわり