1 : 名無しさ... - 19/12/08 21:06:07 ywo 1/84紗枝→幸子の悲恋ものです。Twitterでつらつら書いてたやつを少し修正してまとめたやつになります。
自分の好きなものをこれでもかと詰め込んだので、読みにくくなっていないかと恐れるばかりですが、個人的にはとても好きなssになりました。
よろしければ是非。よろしくお願いします。
元スレ
【モバマスss】あい、くるしい
http://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1575806767/
【哀狂しい】
◇
「───ほな、夜が明けるまで、一緒にいましょか。」
優しい声だ、と思った。その声が自分から発せられたという事実に気づくまで数秒を要し、嘲笑にも似た笑いが聞こえて来る。
──────なんや。結局、自分のしたいようにしとるだけやないの。
少し低めの声。心の声。客観的であろうと決めたのに、どこまでも主観に支配された女の声。まるでこうなることを心のどこかで望んでいたかのような、浅ましくてずる汚い欲望塗れの自分。それを全部飲み込んで、彼女を布団の中へと案内する。
「……手。握りましょか。」
彼女の反応を聞いているわけではない。相手に判断を委ねた形を作り、でもその答えを聞く前に行動はすでに終わっている。事後承諾、というのが正しいかもしれない。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ……」
根拠なんて何もない。自信なんて何もない。こんな言葉で慰められるとしたら、きっとそれはとんでもない大莫迦者か、それか───
『うちを好きで好きでたまらんみたいな、そんなアホみたいな子なんとちゃう?』
【哀苦しい】
◇
夜は更け、朝が近づいて来る。夜露の中で光が七方向に散乱する。最も強度が高い緑色は、草木を濡らし朝の匂いを醸し出す。山の向こうで放射状に光る太陽。まだ姿は見えないけど、その存在証明は十分になされている。
妙に寝苦しいと思ったが、それは当たり前の話だった。結局夜通し、彼女と手を握ったまま過ごしたらしい。背中にも汗が滲む。それが妙に気になり、布団から体を起こす。
────横にいた彼女は、未だに幸せそうな顔をして眠りこけている。昨夜の弱々しい姿など、まるでなかったかのように。それが少し癪に触り、鼻を摘んでみる。少し顔をしかめるも、その寝息の周期が乱れることはない。
少女ははぁ、とため息を浅く吐き、再び布団をかぶる。しかしその目蓋が閉じることはなく。目を開けたまま夢を見ているかのような心持ちで、彼女の頭を胸に寄せる。
しばらくもしないうちに彼女の目が覚め自らの状況を把握すると、顔をぼぅ、と真っ赤にして逃げるように去っていく。それを笑って見送る少女はようやく責務から解放され、ぐうと座ったまま背筋を伸ばす。
力を緩めると、小さい頃どこかで聞いた、歌とも言えない一節が頭の中を巡回する。
ひとつ、故郷(ふるさと)超えて。
ふたつ、盈ち虧け(みちかけ)超えて。
みっつ、宵月(よいづき)超えて。
よっつ。
────何時も(いつも)に戻ってまた明日。
【愛苦しい】
◇
「フフーン! ここがボクのお婆ちゃんの家です! 遠慮せず、寛いでくれて良いんですよ!」
「あ、これ……ふふ。おおきに。二日間、お世話になります。」
「いやーーーー、幸子ちゃん家デカイねぇ! あ、これお土産です。良かったらぜひ!」
師走を1週間後に控えた、霜月の最後の週。多くの人にとって去りゆく年を惜しみ、また来る新たな一年への支度を始める時期だ。
しかし彼女たちは違う。
毎年夏と冬に行われる、事務所を挙げてのスーパーライブ。今をときめくアイドルたちが魔法をかけられ、そして魔法をかける一瞬の永遠。夢のような時間と空間を提供する、一大エンター・テインメント。
世間は忙しく動いているが、その要因にこのライブをあげる人も多いだろう。このライブを見るために、作るために、見せるために、歌うために。多くの人の思いが、そこに集約するのだ。
神秘の歌姫、高垣楓を筆頭に、おしも押されぬトップアイドルユニット、トライアド・プリムス。女子中高生から圧倒的な支持を集めるメロウ・イエロー。その他にも、多くのユニットが参加する。
そんなライブの初日の公演が、今年は山梨県で行われることになった。東京に隣接しているとは言え陸路で2時間はかかるし、お世辞にも大きい都市とは言えない。だが、今年は山梨県でライブを始まる、ある「理由」があった。
それが、輿水幸子である。
普段の彼女はロケなどの仕事が多く、日本にいる時間が他のアイドルに比べて圧倒的に短い。しかし今年は奇跡的にスケジュールを調整することに成功し、緊急参加が決まったのである。
彼女は今の事務所に所属するメンバーの中では渋谷凛、前川みくらと並んで最古参の部類である。しかし彼女がメインとする仕事の都合上、彼女がスーパーライブに参加したことは今や伝説となった一番最初の一回のみであった。
それから数年の年月が経ち。彼女は「凱旋」という形で山梨県に帰ってきたのである。
しかもそれは奇しくも、彼女の誕生日、というおまけ付きで。
○
実家の風呂という空間は、現実世界という複素平面における真性特異点だ。
これを囲まない経路は自由に形を変えられ、しかもその経路の大きさすら自在であるのに、ひとたびその閉領域内に含まれた途端、積分値として確定値を与える。そして積分値はその特異点の個数のみで決まってしまうような───思い出としての留数である。
世界中を回ってきた。熱湯風呂にも入れば、地獄のようなサウナにも入った。湖にも、川の中にも入った。時には鮫が蠢く海の中に潜ったことすらある。それと同時に、心休まるような経験もたくさんさせてもらった。けれども、自らの心の安寧の場所として、この浴槽に勝るものはない。
目を閉じると、同僚アイドルと祖父が野球談義に花を咲かせている声が聞こえる。スターの球団の康永JUMPや津々剛のメジャー挑戦の話しから、キャッツの主力、坂友はいつまで遊撃手として活躍できるかなど、よくこうも話が尽きないものだ。
○
祖父母とは毎週電話で話をしているものの、実際に顔を合わせる機会は、アイドルを始めてからとんと減った。結晶として記憶にあるのは、強くて逞しい祖父の姿と、傍らでにこやかに微笑む祖母の姿だったが、最近は会うたびに祖父は小さくなっているような気がする。
「気のせいじゃねぇさよぉ、お爺ちゃんもお婆ちゃんも年寄りだから、ちっちゃくなっちもうだよ。」
と祖母は笑って言う。その笑顔にも、しわがまたひとつ刻まれていた。さらに笑顔を深くし、
「でもいいだよ。幸子ちゃんが幸せにしてるのを見れればそんだけで嬉しいだから。」
という言葉を祖母から聞いたとき、とても嬉しいはずなのに、涙が流れた。
彼女が無理やりにでもライブに出ようと決めたのは、2ヶ月前の電話で祖父の足が悪くなったと聞いたときだった。それからというもの彼女は、そして彼女とユニットを共にするアイドルは、ロケ先で絵葉書を買うのが恒例となっていた。
日本中、世界中への旅の証。その場の空気は吸えなくても、その感動を少しでも共有できる空想旅行。
その絵葉書は、玄関先から居間に至るまで、ただの一枚も引き出しの奥に仕舞われることなく、老夫婦の過ごす空間を彩っている。世界最高峰の雪山から鏡のような湖、山の奥地に作られた遺跡に天空から見える印象画。
そして───左右非対称の、富士の山。
○
少し長めの風呂から上がる。湯当たり気味な頭を冷たい水で濡らしたタオルで包み、そのまま水道水を手に取って口に含む。日本が誇るアルプスの恵みが喉をぐぐと駆け下りたら、冷気と共にはぁと息を吐き出す。
「お風呂、上がりましたよ」と居間に声をかけると、はぁいという声が2つ聞こえた。一つは聴き慣れた祖母の声、もう一つの声は妙に張りのある声だ。再び野球の話へと戻っていくその声の主の手元には、アルミ缶がひと缶、握られていた。
「友紀さん、もしかして飲んでるんですか……!?」
「えっ何だってそんな、藪から棒に。」
「藪から棒じゃないですよ、手に持ってるじゃないですかぁ! お酒飲んだ後にお風呂入っちゃいけないんですよ!」
「大丈夫大丈夫! これは『上がった後に飲む用』だから! まだ飲んでないよ、本当だよぅ!」
……確かに机の上に空き缶は一つもない。それでもと思って祖母にアイコンタクトを送ると、どうやら本当に(まだ)飲んでいないようだ。それにしては随分と上機嫌な様子だが、そんなに野球の話が面白かったのだろうか。
「むぅ……まあわかりましたケド……ん、あれ?」
ふと、ここにいない彼女の姿が思い浮かんだ。
「お婆ちゃん、紗枝さんはどこですかね?」
「ああ、紗枝ちゃんなら寝室に案内したよ。着物着替えたりするずら。」
ああそうか、得心がいく。夕飯も食べ終わったなら、楽な格好に着替えたいのは道理だ。
しかし、なぜ唐突に彼女のことがふと思い出されたのか。そんな、なんの理由も見出せないような全く偶然の日常の離散感覚に厳(いかめ)しい名前をつけるとしたら、そう──────『彼女』ならそれに、『愛』と名前をつけるのだろうけれど。
○
「紗枝さん?」
「あら、幸子はん。お風呂上がりはったの。次うち入ってええ?」
「ええ、それはもちろん……紗枝さん?」
着物から少し緩めの寝巻きに着替えた彼女は、寝室の一つとなり、畳部屋の応接室にかけられている賞状を眺めていた。
「ああ、それは、」と少し声が上擦りながら説明をする。
「お爺ちゃんがもらった勲章です。昔、色々お仕事を頑張っていたみたいで。もちろん日本がどうとか、世界がどうとか、そんな話じゃありませんが。」
「……立派なお人なんやねぇ。」
「フフーン! 当然じゃないですか! なんて言ったってボクのお爺ちゃんなんですよ! あ、ちなみにお婆ちゃんも同時に表彰されていてですね、それが奥の方に……フギャ!?」
そこにあったのは。立派な勲章とメダル、賞状が一組になった立派な額縁の横には。
───彼の、彼女の『孫』がクレヨンと水彩絵の具で描いた、『うんどう会』というタイトルの絵が、並べて掛けられていた。
「ち、ちち違うんですよ紗枝さん! 今のボクはこんな前衛的な絵は描かないというか、いえ、これも当時のカワイイボクがカワイク描いた絵ですから可愛いのはそれはそうなんですが、少し今の目線から描き直したいところもあると言いますか……!」
「あら。ええやないですの、この絵。幸子はんの可愛らしさ、よう伝わりますえ?」
「そ、そうですか…!? さ、さすが紗枝さん! よくわかってますねぇ!」
「ほーら、みーんな正面向きはって、楽しそうに踊っとるなぁ。」
「うぐぅ!」
「斬新な振り付けやねぇ。ほら、こっちの男の子、顔は幸子はんとおんなじくらいの大きさやけど、首から下は全部棒だったんやねぇ。さーすが幸子はん。小さい頃からおもろい人が小学校に通っとったんや。」
「うぐぐ……ち、違いますよ! これはその、なんというか……とにかく、楽しかったってことが伝わったので良いんですよ! 校内コンクールで優秀作品に選ばれたんですから!」
確かに絵の技術という点で未成熟な点が多いのは幸子本人の目からしても明らかである。
自分と家族以外の人間は棒人間だし、顔はクレヨンで丸を描きにっこりと笑顔を描いているだけ。人間のサイズに比べて、後ろの校舎のサイズが小さすぎる。そのほかにも諸々の課題が散見されるが、でも当時はこれが持てる限りの全ての技術だったので仕方ない。
「ふふ。意地悪言うてすまんなぁ。……でも、素敵な絵や思たんはほんまやさかい、かんにんえ。……そう。ここに描いてはるの、幸子はんのお父さん、お母さんと……」
「そうです! そしてこれがお爺ちゃん、これがお婆ちゃんですね! みんなボクが活躍するのをみてすっごく喜んでくれたんですよ!」
「そうやろなぁ。そんな姿が思い浮かぶわぁ。……ほんで幸子はんも、小さかった頃は甘えたやったんやろうなぁ。」
「むむ…? そんなふうに見えますか……?」
「──────うん。」
最後の言葉は、少し声色が違った。いつもの優しく、そしてどこか自分をからかっているような笑みが積まれた声ではなく。まるで滝の水が遂に途切れたかのような、そんな終わりを想像させるような、細い声。
畳の匂いが脳に届く。正しくは、認識したというべきか。
紗枝は一心に絵を見つめ続けている。
目をそこから一瞬も逸らさないまま、唇だけが音なく動く。
「─────────。」
彼女が何を言いたかったのか、何を思っていたのかを知るすべはない。その行動の一切を見届けた幸子はしかし、今のすべての瞬間を記憶にしてから、一言、紡ぐ。
「でも、紗枝さんとボクは友達ですから。」
紗枝は少し驚いたように目を見開く。
そしていつものように少しの悪戯心といっぱいの親愛に満ちた声で
「あほ。」
と言い残し、薄紅に染まった顔に笑みを浮かべその場を後にした。
○
───寝室の電気を消す。目を閉じて、今までの練習風景を思い出し、明日の成功を想念する。浮かんでは消え、浮かんでは消し。浮かんでは消え、浮かんでは消し。
そんな繰り返しを何度か繰り返した後、自分の喉がからりと渇いているのが気になり、水を飲みに階段を降りる。
ライブの前日。アイドルとして様々な経験を積んできた幸子とは言え、その緊張は常時のものとは別種である。ファンの前で見せるパフォーマンスに陰りはないか。歌の音程。ダンスのキレ。表情筋の全てに至るまで、笑顔を見せられるか。
特に注目を浴びる立場になっていることは、彼女自身、よく承知している。
だからこそ、ベストなパフォーマンスを見せたい。カワイイ自分を、まっすぐ可愛く思って欲しい。褒めて欲しい。認めて欲しい。───笑顔になってほしい。
その本質は承認欲求にあるのではなく、根本からのプロ意識。しかしそれが今の彼女に最適な重みになっているかという問いに対する答えは、議論の余地もなく明らかである。
恐れ。不安。心配。憂虞とまとめられる感情が、明日の舞台を想像するたびに駆け巡る。頭の中を走り、血流に乗って、足の先へ。戻ってきた静脈血に元の温度は失われている。
どくん。
心臓が不必要に高く鳴る。
きりり。
肺が取り込む空気が薄い。
きゆう。
指先は寒く感じるのに、体は熱い。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫───。」
自分に言い聞かす。不安な自分を塗り隠すように。
「だい、じょうぶ───。」
こくりと飲み込んだ唾は、少し血の味がした。枕元に持っていくつもりで汲んだコップ一杯の水をその場で飲み干し、喉の奥から息をつく。失敗したら、なんて。考えるだけ無駄だ。もう一度、こぽりとコップに水を汲み、寝室へと戻る。
道中、廊下のフローリング部分がみしりと軋んだ音を上げる。なんの理由もないのだけどその場に立ち止まり、真っ暗で何も見えない足元を見つめる。焦点は当然定まらない。闇を見ているせいで、何も見えてはいない。
階段を上がろうとした時、先ほど紗枝と話し込んだ畳部屋に行ってみたくなった。お爺ちゃん、お婆ちゃんはすごい人なんだと。そして、そんなすごい人に愛されている自分はきっとすごいんだと、そう思いたくて。
襖を開ける。黒闇にすう、と音が吸い込まれる。目を凝らし、鈍く光る勲章を見つめる。そして、傍らの自分の絵も。その色彩を定義づける光は押し並べて無視できる強度しかない。
「素敵な絵……」
先ほど紗枝が言った言葉を反芻し、ゆっくりと咀嚼する。あの運動会の時、自分は何を思っていたのだろうか。それを絵にしている自分は。……笑顔、だったのだろうか。深く記憶の海に沈み、断片的な状況証拠をつなぎ合わせる。
そうだ。楽しかった。なんの恐れや躊躇いもなく、純粋に面白かった。あの時の自分と今の自分は、何が変わったのだろうか。当然、様々な経験をしてきているから、人間的な成長があるのは間違いない。背だって多少は高くなったし、体つきも……少しは大人らしくなったはずだ。
では何故、今の自分はこうも目前の壁を恐れているのか。怖がっているのか。不安で心がいっぱいになってしまっているのか。それを成長と呼ぶのなら───この先もずっと、加速度的に数を増す破裂間近の風船ばかりを抱えて生きていくのだろうか。
それが、大人になるということなら───それは、なんて悲しいことなんだろうか。
「幸子はん」
びくりと体が強張る。声が出なかったのは大したものだと自分でも思う。しかし手に持ったコップからは、一口分くらいの水が畳へと溢れる。
「寝れないんやろ? ───おいで。」
「──────ぁ…───」
「───だいじょーぶ、誰にも言わんよ。───な、幸子はん。」
─────────おいで。
畳に落ちた水が染み込むのには、少しばかりの時間がかかる。
水痕が少し残る頃に、客室の電灯の豆灯りはもう一度、糸にひかれて消えた。
【愛くるしい】
◇
ライブ当日。全体曲のリハーサルを終え、各ユニットの最終確認作業に入る。入りのタイミング、立ち位置、コール煽りの担当・セリフなど多くのことを確認していく。それが終わるといよいよステージ衣装に着替え、セット裏で待機のタイミングになる。
もうお客さんは会場に入っていて、開演の30分ほど前だと言うのにその熱気がぴりぴりと演者たちにも伝わってくる。何度か味わうことでそれを心地よく感じるアイドルもいるし、いつまで経っても、この緊張に慣れないアイドルもいる。
小早川紗枝は前者、輿水幸子は後者である。
このライブにおける彼女たちの曲順は連続していて───というより、紗枝は2曲続けて出番なのである。と言ってもこれは特段珍しいことではなく、幸子も同様である。
渋谷凛、前川みくのMCの後。
まずそのブロックに出演するアイドル全員が歌う『とんでいっちゃいたいの』。
そこから三村かな子の『ショコラ・ティアラ』、ホーリーナイトウィッシュによる『Snow Wings』が続く。
そして関裕美の『楽園』が続いた後、紗枝の出番はこの次。
佐久間まゆとのデュオによる『あいくるしい』。そのまま幸子と城ヶ崎美嘉、小日向美穂が加わり『shabon song』と言う流れ。この先も数曲続くけれど、ひとまず紗枝の出番はここで終了。
幸子はまた最終盤で『To my daring』のソロがあるため気は抜けないものの、まずはここを超えるのが今日最大の課題とも言えた。
○
事務員のちひろが注意事項を読み始めた。会場の熱気は爆発的に増し、いよいよ出陣の時である。今日出演するアイドル全員で円陣を組む。発声は、幸子が請け負った。
しかしいつもの自信満々な表情を顔に貼り付けたまま声は震え、舌が回らない。焦りが顔に浮かび、大粒の汗が一雫、床を濡らす。
しかしここは友紀の咄嗟のフォローにより、場はむしろ普段以上に和んで終えた。皆が笑いながら円陣を解くと、緊張をほぐしてくれてありがとう、などと後輩のアイドルから声をかけられる。その言葉に苦笑いで返したのとちょうど同じ時、アイドルを呼ぶ声は最高潮に達する。
その声に応えるように、まずニュージェネレーションズの3人が舞台に飛び出す。次に炎陣、メロウ・イエロー。そしてあと2組後にいよいよ幸子がステージへと顔を出す。
「幸子ちゃん。」
そんなタイミングで、佐久間まゆが幸子の手を握る。もう前のユニットは出発した。早く行かなければいけないのに───
そんなありえないはずの光景を見たはずなのに、一瞬の迷いもなく、紗枝と友紀が幸子の頭を撫でてから駆け出す。後に続くアイドル達も、皆一様に優しい笑みを浮かべ、ステージへと駆け出していく。
何が何だかわからない。混乱する幸子を尻目に、まゆがゆっくりと口を開く。
「幸子ちゃん。お誕生日、おめでとう。」
まゆが放った言葉が頭に浸透する前に、彼女に引かれて足が動く。彼女は笑っている。優しそうに、楽しそうに。少女のように。幸子の頭はまだ現状に追いついていない。その時間遅れの応答に、彼女の個性が反映される。
光が強くなり、目の前が真っ白になったかのような錯覚を覚える。
心臓の音がとくん、と一瞬大きくなり、それを最後に音が途絶(き)える。幸子が感じるのは自分を引くまゆの手の感覚と───
広いステージに円を組み、その中心を向いて並ぶ、アイドル達の姿。曲率半径はちょうど中央ステージの幅と同じ。そのまま一曲目の『ミラーボール・ラブ』のイントロが流れる。そして紗枝がマイクを構え、にっこり笑顔で───
「幸子はん、おめでとーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」
ボルテージは最初からクライマックス。会場のあまりの熱量に幸子はただ押されるがままになっている。しかし、このままポケっとしているわけにもいくまい。何ていったって、そう。
彼女は、輿水幸子なのだから。
焦燥。恐怖。不安。そういったつまらないものは、みんな吹っ飛んだ。
空っぽになった頭に入ってくるのは心底楽しそうに笑う、いっぱいの笑顔の絨毯。
自然と口角が上がる。マイクを左手に持ちかえ、右手をめいっぱい開き、高く掲げる。
この心の熱量は、誰にだって負けはしないと。そう思ったから。
「カワイイボクに、ありがとーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
照明はくるくると回り出す。銀色の球からは光線が放射状に湧き出す。みんながくるりと一回転し、そう。始まりはなんてことない夜にやってきた。だけどこの夜を一生忘れられないものにするために、彼女達は踊る。
輿水幸子は、踊る。
○
最初のブロックが終わると、もともと予定されていたブレイクタイムのMCを務める。そこでも盛大にお祝いをされ少々気恥ずかしい思いもあるが、しかしこんな大勢の人に祝ってもらえることが、正直に嬉しかった。
次のブロックが始まると、幸子の出番は少々後になる。楽屋まで戻ると、友紀と紗枝、そしてまゆが花束を持って迎えてくれた。
「もう! すっっっっっごく驚きましたよ!! ありがとうございます!」
「せやろなぁ。ステージに出てきた幸子はんの顔、豆鉄砲に打たれたみたいやったもん。」
「まゆが手を引いてる時、幸子ちゃん、本当に何が何だかわかっていないような顔をしていて……ふふ。とっても可愛かったですよぉ。」
「いやーサプライズは大成功だね! もうずっと前から企画してたからさ、バレないか心配だったよー。」
「え、え、これアドリブじゃなかったんですか!?」
「そりゃーそうだよ。だってアドリブであんなことやったら音響さんとかいろんな人に迷惑かけちゃうじゃん。全員に事前に伝えてからだよ、もちろん。」
「……ちなみに、企画されたのはいつ頃からなんですか……?」
「んーーー……幸子ちゃんがライブ出るって決まった時からだよねぇ? 確か最初紗枝ちゃんがやろうって言い出して……」
「───友紀はん? うちのことはええんどす。結局、みぃんな、幸子はんのためにって乗っかってくれたのが大事なんやから。」
「ふふ。でも、紗枝ちゃんはプロデューサーさんと一緒に、いろんな人にお願いに行ったんですよ。本当に、このサプライズの立役者さんです。」
「ま、まゆはんも…ええって……!」
「そう、だったんですね……紗枝さん、ありがとうございます! もちろん友紀さんも、まゆさんも! あ、他のみんなにもお礼を言わなきゃ、でも……」
「ふふ。おおきに。でも、みんなにお礼言いはるのは、らいぶが終わってからでええんちゃう? 」
「そうですねぇ。まだ始まったばかりですし、ここで一旦切り替え、というのはどうでしょうか、幸子ちゃん。」
「わ、わかりました……その分、さいっっっっこーにカワイイボクを見せてあげますから、期待しててくださいね!」
「おー期待してるよー! あ、じゃああたしは準備だから。今日はこの後なかなか会わないと思うけど、幸子ちゃん紗枝ちゃん、まゆちゃんも頑張ってね!」
「はい!友紀さんも、ファイトです!」
友紀は準備のために笑ってその場を後にする。彼女の姿が見えなくなるまで見送り、そして───
「そういえば紗枝ちゃんは、まだ幸子ちゃんに渡すものがあるんですよねぇ?」
「ぴぃっ!?」
紗枝が聞いたこともないような声をあげた。そしてそんな事実などなかったかのように一つ咳払いをし、「何のことやろ」と笑って返す。その姿に普段のような余裕はない。
「さっき、見てたじゃないですか───ポストカード。」
「──────っ……」
「ポストカード? あ、もしかしてお爺ちゃんとお婆ちゃんにですか!?」
二人に両側から寄り詰められ観念したのか、紗枝は「ちょいと待ってえな」と自分の荷物の中から一枚の絵葉書を取り出し、幸子へと手渡す。
「あ、これは……富士山ですね! それも山梨県側から見た!」
「……ほんま、びっくり。すぐにわかるもんなんやねぇ。」
「フフーン! 簡単ですよ! 静岡県側から見た富士山には手前に山があって、全体の形が左右対称じゃないんです。山梨県側から見た富士山は、お札にも書かれている通り、左右対称の形をしているんですよ!」
「へぇ、そうなんですかぁ。……あ、本当だ。千円札の裏側の富士山、山梨県側から見たものだったんですねぇ。」
「ま、まぁ富士山を巡る争いはいらぬ軋轢を生みますから……でも紗枝さん、これ……」
「……うちが前買ったの、違かったやろ? 昨日幸子はん家で見て気づいたんやけど。……だから、さっき。」
最後はしゅんと言葉尻をすぼめなんとも弱々しく話す紗枝の姿が、何故だか、幸子にとってとても誇らしかった。「紗枝さん」と彼女の名を呼び、今度は逆に、幸子が紗枝の頭を撫でて言う。
「大丈夫です。紗枝さんからもらったものなら、なんでも嬉しいんですから。それに、ボクのことを思ってくれたものなら、尚更です。」
なでり、なでりと右手の掌を紗枝の頭で二周させる。一周目の彼女の表情は、どこか気恥ずかしそうで。二周目の表情は、安堵に満ちた表情だった。
○
いつからか、楽屋にいるのは幸子と紗枝の二人だけになっていた。
上のフロアでは熱狂的なライブが行われていると言うのに、何故かこの空間はそれから切り離されたかのような静寂に包まれていた。幸子はそれに気づいていなかったが、紗枝は少しでも永くこの瞬間を味わっていたいと、そんな願いを込めて深く息をついた。
そして、静寂を破ったのは、むしろ紗枝の方であった。
「───なあ、幸子はん。」
「うちとまゆはんの曲、幸子はん、ちゃんと聞いてくれますやろか?」
「……え? そ、それはもちろん。だってボク、そのあと出番ですから、ちゃんと聞いてますよ……?」
幸子は何を今更、という表情で返事をする。
「──────せやなくて。……ちゃんと、聞きはって。」
「……? 紗枝さん……?」
紗枝は自らの頭を撫でていた幸子の手を両手で握りしめ、顔を紅く染める。決意の眼差し。何が彼女の心に火をつけたのかはわからなかったが、しかしその思いの深さは余すところなく伝わった。
「──────お願い。」
ぎゅう、と力が入る。幸子はその姿に圧倒され、ぽかんと口を開けたままでいる。そうしているうちに思考が感情に追いつき、なんとか言葉を並べて返答をする。わかりました、と。
この六文字を言い終えた後、水を打ったかのような静かな重さが幸子の心に飛来していた。
○
「もう。まゆはんもいけずやなぁ。」
「ふふふ。でも、しっかりお話できたでしょう?」
「……ほんま、いけずや。うちが何も言い返せんようにしてはるんやもん。」
「……ちゃんと、伝えられましたか?」
「ううん。伝えてへん。」
まゆの目が少しだけ大きくなった後、あふれそうになる言葉を飲み込んで、静かに微笑む。
「……そうですか。」
「……阿呆なことしとるって、自分ではわかってるんよ?」
「……自覚していないのかと思っていましたが……」
……やや刺のある言い方だ。しかしそれも甘んじて受け入れよう。自分でも自分がどれだけ愚かなのかということはわかっているつもりだ。
「やっぱり、自覚していなかったんですね。」
な。
それは、どういう。
「まゆはん、それって───」
紗枝が言葉を紡ぐ前に、唇はまゆの人差し指によって塞がれた。彼女は、白色矮星が落ちるのを見守るように、張り詰めた表情で紗枝の両の目をじいと捉える。
それは睨んでいるようにも見え、哀れんでいるようにも見えた。そして何より───慈しんでいるように。
「……きっと、紗枝ちゃんは辛いです。今までも、この先も。」
「……うん。」
「でも、それは紗枝ちゃん自身が、紗枝ちゃんを傷つけているからです。」
「……?」
まゆの目線は下に落ちる。紗枝にはその言葉の意味がわからない。全部の思考回路をまゆに投げ任せ、その一挙手一投足を追う他にないように思われた。
「まゆは───」
言葉が続かない。だらりと下がった彼女の拳が強く握られている。全身から哀しみが溢れ出しているように見えた。それが示すのはきっと、怒りの感情なのだろうけど。
でも、怒りの感情の別の名前は、愛である。
がばり、とまゆが紗枝の体を抱く。耳元での息遣いで、彼女の声が涙に濡れていることが察せられた。しかし、それにどうしたのだろうと思いを馳せることはなかった。
それは、わかったから。
それだけで、わかったから。
それでようやく、わかったから。
「まゆはんは、ほんまに優しいんやねぇ……うちの代わりに、泣いてくれるん?」
「まゆ、そんなの嫌ですぅ……まゆの涙はあの人とまゆだけのものですからぁ……!」
「……でも、泣いてくれるんやろ?」
「だから……っ! そん、な、そんなの……!」
「……友紀はんが大きな声で歌ってはるわ。そろそろ、前のブロックの最後の曲やなかったかなぁ。だから、な。ほら。だいじょーぶ、だいじょーぶ。」
昨日に続き、赤子をあやすかのように頭を撫でる。まゆはすぐに落ち着きを取り戻し紗枝から体を離す。
にこりと笑う彼女の姿に、今度は紗枝自身の中から熱いものがこみ上げたが、それは何とか押し留めた。「堪忍な」と告げると、彼女はまた先ほどのように小さく優しく笑い、アイドルとしての顔に戻る。
後ろから、続々とほかのアイドルの声がする。中には、幸子のものも混じっている。紗枝とまゆはお互いに視線を交わし合い、そして微笑む。
ブレイクタイムが終わる。いよいよ、のちに語り継がれることになる一瞬が始まる。
○
『とんでいっちゃいたいの』を歌い上げた後、そのまま連続して『ショコラ・ティアラ』がかかる。紗枝とまゆは、幸子達とは別のルートで一旦ステージを後にする。
どくん。緊張の音がする。しかし紗枝にとってそれはパフォーマンスを上げるための出囃子に過ぎない。
『ショコラ・ティアラ』が終わるとさらに連続でホーリーナイトウィッシュによる『Snow Wings』が始まる。しっとりした曲調から、少しずつ明るさを増していくセットリスト。舞台裏では、次に歌う関裕美がこれ以上ないような強張った表情で準備をしていた。
紗枝は彼女に特別言葉をかけることはしなかったけど、肩を叩きにっこり笑い、「いってらっしゃい」というだけで、彼女の表情は夢に溶けていく。せりあがりに立ち、さん、に、いち、という合図の後、E♭(add9)のコードが会場を楽園に染め上げる。
───いよいよ紗枝とまゆの出番が近づいてきた。セット裏にはさらに次の曲を歌う美嘉、美穂、そして幸子が控えている。幸子はぴょんぴょんと飛び跳ね、大きく手を振っている。美嘉も美穂もそれに倣い、ノンバーバル・コミュニケーションでエールを伝える。
それがなんだかおかしくて、ふふっと笑っているうちに、幕が上がる。
どくん。再び、心臓の音がする。これはしかし、決して緊張から来るものではなく。
「好きな人に伝わりますように」という願いを込めた鼓動。
そして、曲が始まる。
○
今まで共に歩んできた思い出。交わした会話。秘めた思い。そして、あなたに送る笑顔。全て偽りなく、本当の気持ち。これをみんな抱えて歌うのが、ほんとうの───小早川紗枝や。
幸子はん。
うち、幸子はんに会えて幸せなんどすえ?
本当に可愛らしゅうて、強くて、優しくて、素敵な子。
まるで御伽噺みたいやなぁって、いつも思っとるんよ。こんな夢みたいな女の子に会えて、うちのつま先から頭の天辺まで、全部変わってしもうて。
夢の中にいるみたい。
ずっと、ずっと。
ずぅっと、ずっと。
うちな、幸子はんとお喋りするの、好きなんどす。
なんもおもろくない話でええんどす。幸子はんが大変やったっていうお仕事の話でもええ。今度はどこにいくって話でもええ。美味しい食事の話でもええ。好きな人の話、でもええやん。
一緒にれっすんから帰ったときに、こんびにであいす買うたね、とか。
学校からの帰り道、偶然ばったり会うたね、とか。
幸子はんがレッスンの教室間違うてしもて、うちと友紀はんも一緒に謝りいったなぁ、とか。
そんな、なんでもないような話。うちにとって、どれも特別だった話。
───本当は、特別なんて思ったらあかんって、知っとったけど。でも、思い出の名前をお札に書いて、手ぇ合わせたくなるような。……そんな時間に、なってしもうたんやもん。
……そんな時間を、一秒でも長く続けたいって思ってしまうんは、悪いことやないですやろ? とっぷあいどるになるーとか、新曲もらえるーとか、胸がぐーっておっきくなるーとか、そんな大した望みやないやろ?
せやから、ほら。
ひとつ、故郷(ふるさと)超えて。
ふたつ、盈ち虧け(みちかけ)超えて。
みっつ、宵月(よいづき)超えて。
よっつ。
────何時も(いつも)に戻ってまた明日。
何時もに戻って、また、明日。
いつもどおりに。
【あいくるしい】
◇
乾いた空気の中で目を覚ます。軽く吸った息は震えるほど寒く、冬の訪れを感じずにはいられない。北海道では、もう雪が積もったそうだ。じきに関東にも雪が降るだろう。そうしたら、京都にも。
見慣れない天井を見回し、昨日の煌びやかな照明と少し比較してしまう。もちろん比べるまでもなく華やかなのは会場をまあるく照らすミラーボールに決まっている。
しかしその匂いと表現するべきか───光の匂いなどというものを形容するのは馬鹿らしいけども───そういった機微は、この小さな木造に取り付けられた古い電球に軍配が上がる。
熱気と、歓喜。
粘気と、寒気。
二流三流の言葉遊びが頭に浮かぶ。そうして自分が、不連続点を通り過ぎたことを実感する。内心では狂おしいほど繋ぎ止めたかった毎日を、見栄の一点張りで強引にちぎり切った先に存在する、未来たる現在。
だから自分は今日も小早川紗枝としていられる。笑顔も泣き顔も浮かばないけど、理想とは程遠いかもしれないけど、自分が自分らしくいられる毎日を、確かに勝ち取ったのだ。
嘘をつき続けると決めた毎日だけが、続いている。嘘を笑顔で覆い隠した毎日が。
ようやく手に入れたのだ。苦悩の先に、震える手で掴んだ解答を。
「あなたが笑うから、笑う───」
○
これ以上ないほどの盛況を見せた昨日のライブ。最初に魔法をかけられて変わったのは、彼女たちだった。そんな彼女たちが誘(いざな)う一夜の夢は、魔法の伝搬とも呼ぶべきか、確かに世界の幸せの総量を増やして幕を閉じた。
その中でも格別のパフォーマンスを見せた紗枝であったが、アンコールが終わって楽屋に戻ってからの記憶はほぼない。唯一、幸子とその両親、そして祖父母と泣きながら握手を交わしたのは覚えている。
だから今日ここでこうして目が覚めたことに少しの焦りを覚えているのは確かだ。朝一番彼女に会って、どんな顔をすれば良いのか紗枝の中で答えが決まってはいない。
ほろんぽろんとした頭を動かすことはせず、成り行きに全て任せてしまおうか。でも、それを受け止められる気概が自分の中にあるのだろうか。本来の問題と離れたところでまどろみを打つ。そうこうしているうちに、襖が音もなく開いた。
「おはようございます紗枝さん。」
「おはようさん。よう眠れましたわぁ。」
「それはよかったです。……昨日のステージ、凄かったです。ボクも、正直舌を巻いたというか。」
「おおきに。頑張った甲斐がありましたわぁ。」
その言葉に少し上機嫌になりながら、寝巻きを整え、布団を片付ける。昨日のライブ後は疲れてきった紗枝を、幸子と祖父母が連れて帰ってくれたらしい。友紀はプロデューサーと一緒に打ち上げに行ったそうだ。だから今日は、少し隣りが寂しかった。
「ほんで、今日はどこか行くん? うちも、連れてってくれはるの?」
「え、紗枝さん、よくわかりましたね。」
「何言うてはりますの。短くもない付き合いやし、そないなことわからんくらい、どんくさくあらしまへん。」
照れ隠しではないのだけど、素直に言葉を口にすることはできない───しない。
「昨日のポストカード、ありがとうございました。早速貼らせてもらいました。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、すごく喜んでくれて……」
「そう。そらうちも嬉しいわぁ。」
「それでですね、紗枝さんに見せたい景色があるんです。ちょっと、車を出すんですけど。」
「ああ、それで今日はこんな早くから起きてはったんやねぇ。……うちも早く準備した方がええやろか?」
「そうですね、30分後には出たいかな、なんて。」
無言で少し笑って、承知の合図を返す。襖が閉じられ、またぷつりと孤独の世界へと立ち戻る。うまくやれた。きちんとできた。そう自分に言い聞かす。
朝の太陽はまだ姿を見せない。山際に薄く白い薄絹のような光がかかるけれども、それが目につくまでは、それこそ30分ほどの時間がかかるだろう。
紗枝が身支度を整え居間に向かう途中、真白い廊下に一枚、ポストカードが飾ってあった。それがどうにも嬉しくて、おはようございます、の声がいつもより少し大きくなってしまった。
○
「だいやもんどふじ?」
「そうです。山梨県でも、南西の方しか見えないんですが……お爺ちゃんの家から車で40分くらいの所に、ちょうどうまく見える場所がありまして。……もう少しで、着きますよ。」
「へえ……それでその……だいやもんどふじ、って、どんな感じなん?」
「それこそ見てからのお楽しみですよ! でも、きっと感動すること間違いなしです!」
「幸子はんも大きく出ましたなぁ。うちもアイドルのお仕事で綺麗な景色、たっくさん見せてもらってますえ?」
やっぱり少し意地悪にからかってみる。そうでした、と焦るものかと思っていたけれど、フフーンと鼻高々に笑う姿に相当の自信を感じる。
そしてなんだか、それに負けないくらいその景色を楽しみにしている自分がいることに気づき、可笑しくなってしまう。
「でも、幸子はんがそない言うんなら、きっと綺麗なんやろねぇ。」
「もちろんです! あ、着いたみたいです。降りてみましょうか。」
車から降りると、温寒の壁をひしひしと感じる。幸子は駐車場から少し小高い場所にある公園にささっと走っていってしまう。紗枝が呼気で悴む手を温めていると、幸子の祖父が手袋を貸してくれた。
その手袋は、老年にさしかかった男性が手渡すにしては随分と可愛らしい手袋で。傍らの幸子の祖母が、それは昔幸子にプレゼントしたものなのだと教えてくれる。
「幸子ちゃんはねぇ、昔はよく傘だったり手袋だったりをよくなくす子でねぇ。でも、幸子ちゃんが小学校5年生の時かな。これ、お爺ちゃんが縫っただよ。おばばと一緒にねぇ。そしたら幸子ちゃん、ずぅっと大切にしてくれてねぇ。」
彼女がゆっくり語り終えると、彼は「はやく、幸子のとこにいってやってくりょう。」などと照れ臭さを霧散させるように少し笑って、ほらほら、と手を払う。
「……さいですか。……幸子はん、出会った頃から、うちにもよくしてくれはって。それはきっと、おじいはんとおばあはんが優しかったからなんやって、わかりました。」
思ったままの言葉が口をついて出る。自分がこんなに素直に、優しい言葉を人にかけられるなんて信じられなかった。
「ありがとうねぇ、紗枝ちゃん。紗枝ちゃんのことは、幸子ちゃんからも電話でよく聞くもんだから、なんかしてあげたいと思ってただけど。でも、おばば達の方が良くしてもらっちゃってわりぃじゃんねぇ。……さ、お爺ちゃんとはゆっくり行くから、先行っててくりょう。」
手袋をはめ、軽くお辞儀をしてから、幸子のところへ小走りで向かう。
○
相変わらず日はまだ出ていない。しかしそれは霊峰の裏に隠れているだけで、漏れ出した光で周囲は薄雲色に染まっている。
幸子は公園の柵に手をかけ、太陽の方角を見つめていた。横から見た彼女の顔は頬(ほお)が赤く、しかしその目はそれ以上に燃えて、赫(あか)く見えた。「本当は」と幸子が声だけをこちらに向け、喋り始める。
「本当は、ダイヤモンド富士はもう少し冬にならないと見れないんです。それこそ、クリスマスとか、お正月とか。でも今年は、例年より早く観測されたって、昨日のニュースでやってたんです。」
「……そうなんや。」
「その時は、ライブ、ライブで頭がいっぱいで……でも、昨日ライブが終わって……」
「紗枝さんと見たいなぁって、思ったんです。」
───どうして、うちなん?
とは、聞けなかった。代わりに、「うん」という短い返しが意識せず出る。
「……昨日のステージ。ボクも精一杯がんばりましたし、最高の出来だったと思います。……でも、紗枝さんの歌の方が、もっとずっと凄かった。」
「……そないなこと、あらしまへんよ。みんな一等賞、でええやない。」
「……そんなこと、あります。ありますよ。紗枝さんはどうでしたか? 昨日の『あいくるしい』、自分で歌っていてどうでしたか?」
「……まぁ、幸子はんに「ちゃんと見といてー」なんて言うてしもたもんやから、うちも特に気張ったんは、そうやなぁ。」
「……そうです。ボク、ちゃんと見ましたよ。紗枝さんのステージ、歌う姿、指の先の先まで、ちゃんと。」
「……そう。……ど、やった?」
「……すごくかっこよかった、です。」
「……おおきに。」
「……すごく、可愛かったです。……ボクほどじゃあ……ボク、くらい。」
「……おおきに。」
左手を右手でぎゅうと握りしめる。粗めの縫い目から外気が差し込まれるものの、内部の熱と相殺するほどの熱量ではない。だから、手は熱い。熱いのに、まだ力を込めて、握りしめる。
ぎゅうと。ぎゅぅう、と。
「……ボクはやっぱり少し、悔しかったです。昨日のライブ。あんなに頑張ったけど、一番輝いてたのは、誰がどう見ても、紗枝さんでしたから。」
「何言うてはるの。……幸子はんのそろ曲。うちはセット裏におったけど、エモさ、いうの? びしびし感じましたわぁ。」
「でも、ボクがすごいと思ったのは、紗枝さんです。」
「…………」
幸子の言葉に、紗枝は何も返すことができない。持ってきた水筒から温かいお茶をカップに半分ほど注ぎ、口に含む。幸子も欲しがったのでもう一度、今度はカップ一杯にお茶を注ぐ。
はぁ、と一息ついた彼女達の呼吸は白く水滴に変わり、そして空へと溶けていく。
「でも」
と幸子が会話のまとめに入る。何故か、今から幸子が口にする言葉の一つ一つがわかってしまう。何を言うかわかってしまう。
「一番輝いてたのが紗枝さんで、嬉しかったです。」
やめて。
「他の人だったら、きっともーっと悔しくて。いや、悔しいのは今もそうなんですけど、でももっと心がざわざわしてたと思います。」
もう、ええよ。
「だから、紗枝さんで良かった。」
もう、笑わんで。かいらしい笑顔を、うちに向けんで。
「だって。」
もうこれ以上、うちに『正解』を見せんで。
「紗枝さんは、ボクの最高の友達、ですから。」
「……嬉しいこと、言うてくれはりますなぁ。うちだったらそないなこと、恥ずかしゅうて言えませんわぁ。」
「むっ……は、恥ずかしいけど、本当に思ってることですからね! いいんですよ! ボクが言えばどんなに恥ずかしいことも、カワいく聞こえるからオーケーなんです!」
それはやっぱり、彼女のおじいさんとよく似た仕草だった。照れ隠しに彼女は笑う。
あなたが、笑うから。
「ふふっ……」
「ほんまにそういうとこアホやなぁ、幸子はんは。」
○ ◇ ○ ◇ ○
特別だということは、わかっているつもりだった。自分が彼女に、その、恋をしてしまったことについて。それが多数派の愛の形とは異なるということは、わかっていたつもりだった。
そして、自分から彼女へと向いたベクトルが、帰ってくるということはないということも、わかっていた。彼女には、信頼すべき大人がいる。それはプリミティブな愛情という意味においても、そして親愛という形においても。
怖かった。自分が、彼女の世界から外れてしまうのが。
怖かった。自分が、彼女の世界を壊してしまうことが。
怖かった。彼女が、自分の世界の全てになりつつあったから。
だから、当たり前になろうと決めた。幸せの定義を書き換えようと、決めた。
一人で抱えた思いだった。無抵抗で、無意味で、無価値な戦いだった。
でも、今日と変わらない明日がくるなら、それを幸せと呼ぼうと決めた。迷いも葛藤もあったけれど、それが幸せだと思える世界を選んだ。
そのつもりだった。
だから、何時(いつ)もに戻って、また、明日。
それでよかったはずなのに。
そう自分の中で思っていればよかったのに。自分だけが思っていればよかったのに。
決めないで。
観ないで。確定しないで。正しい答えなんて、いらない。何度測ったとしても同じ値を返すようになりたくないから。
友達という存在として、限界(き)まりたくなかったから。
『……でも、もう。』
認めたくないけど、受け入れなければいけない。それが自分が決めた幸せなのだから。必要なのは時間だけだから。だから……すこし、待っててな。
○ ◇ ○ ◇ ○
「あっ紗枝さん観てください! あれ! あれ!」
隣で幸子が急に大声をあげる。急に何やの、と軽く嫌味を言いたくなる気持ちを抑え、彼女の指す方向を見る。
山の後ろに日が昇る。逆光は黒白を反転させ、十字上の光が世界を円く照らす。
富士の山の頂上に太陽が置かれ、それは世界が世界自身を祝福しているかのようだった。
朝日が灯す、オレンジ色のダイヤモンド。目を開けると、眩しくて見えない。目を閉じると、涙で見えない。でも、目を閉じても感じる眩しさがどうしようもなく心に浸透した。
諦めの光は何故こうも煌めいているのだろうと恨めしくもなるけれど、でもそれは同時に祝福でもあるのだから、それはむしろ喜ばしいことなのかもしれない。
鳥が鳴く。木々がさざめく。風が歌い、地は踊る。こんなにも美しい一日の始まりがあるなんて知らなかった。きっと、この世界中誰に聞いたって教えてはくれないだろう。自分だって、この美しさをどう表せば正確に伝わるかなんて、全くわからない。
おもむろに振り向いた彼女の笑顔が、どうしようもなく愛しく、そして哀しかった。
「紗枝さん、ほら、あれ───! すごいでしょう!?」
「……ほんま、綺麗。」
それを言い表す言葉は自分の中にはない。だからきっと正確ではないけれど、この言葉を使わせてもらおう。
「──────恋色、やね──────。」
「───? こい、───? 紗枝さん、なんて?」
「ふふふ。幸子はんには、秘密。」
「むー! イジワルしないで教えてくださいよぉ…… はっ!もしや、ボクをからかってるんですか、そうなんですかぁ!?」
まったく、かいらしい、かいらしい。ちょっとからかうと本気にして、でもきちんとするときはしゃんとして。そんなんやから、うちみたいなもんに好かれてしまうんちゃう?
『ほんま、困りもんやなぁ……』
最後の言葉は声に乗ったが、幸子までは届かない。それでいい。それがいい。
日はさらに高く昇る。偶パリティの扇型の直上は白く空間が切り取られたようだ。
その隙間を埋めようと焦がれる。焦がれるだけで、もう十分だ。だってどんな選択の先にも、美しいと思える世界はあるのだと、他の誰でもない彼女から教えてもらえたのだから。
だから、最後にもう一度。古い古い詠(うた)を。
ひとつ、故郷(ふるさと)超えて。
ふたつ、盈ち虧け(みちかけ)超えて。
みっつ、宵月(よいづき)超えて。
よっつ、何時も(いつも)に戻ってまた明日。
いつつ。
──────愛(いと)しい人は、あいくるしい。
84 : 名無しさ... - 19/12/08 21:50:29 IfG 84/84以上です。
途中デバイスの不調でIDが変わってしまって申し訳ありませんでした。
次は少し明る目のssを書きたいと思います。多分シスターと鍋。
他には最近こんなものを書いていました(最近の3つです)。
これらも含め、過去作もよろしければぜひ。
よろしくお願いします。
【モバマスss】腹ペコシスターの今日の一品;カップスープ・リゾット
https://ayamevip.com/archives/55925558.html
【モバマスss】雨色伝導【高垣楓】
https://ayamevip.com/archives/55925535.html
【モバマスss】腹ペコシスターの今日の一品;肉じゃが
https://ayamevip.com/archives/55925528.html