関連
女「うぇっ……吐きそう……」【その1】
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女「うぇっ……吐きそう……」その2
男「では、お先に失礼します」
職員室で残りの教師達に別れの挨拶をし、
俺は家路につこうとする。
廊下の窓から空を眺めると、
西の太陽は沈みかけ、辺りを黒が覆い隠そうとしていた。
俺はその光景をじっと見つめる。
何秒、いや、何分ほどか。
次第に時間の感覚が狂い始め、
いつの間にか、空は黒に染まっていた。
……………。
暗い夜道を一人歩きながら、
今日の出来事を思い返していた。
俺は迷っていた。
男「…………」
少年の、女に対する恋心を知った時から、
仕事が全く手につかなかった。
無為に時間だけが過ぎて行き、
気が付けば、六時を回る。
原因を何かと考えてみると、
それは少年との会話に他ならず。
最後に受けた彼の印象が、
彼の笑みが、俺の脳裏に焼き付いている。
男「……ッ」
……………。
──『私の目□ 時■ なって』
……………。
純粋な恋心。
汚れ一つない、純白色。
そんな彼の心に触れてしまったせいか、
さきほどから感情が安定しない。
考えられる原因は一つ。
……俺は、彼に自分の過去を重ね見ている。
男「……ははっ」
俺が? あの少年に?
馬鹿馬鹿しい。
あまりにも滑稽だ。
不釣り合いなんてものじゃない。
彼と俺では、何もかもが違いすぎる。
環境も、状況も、過去も、現実も。
でも、それでも。
あの、真っ白な恋心だけは……
かつての俺が持っていたもので。
俺は……
男「……どうすればいい……?」
正直、迷っていた。
少年の手助けをするか、だ。
少年の、少女への想いに協力するのか、だ。
今、何故か偶然の結果、
少女は俺の家に泊まっている。
彼女の存在によって孤独の餓えを紛らわせてはいるが、
それが長く続くとは到底思えない。
いや、そうじゃない。
あの状況こそ、既にあってはならないものなのだ。
生徒との同居生活に安息など感じている
それ自体が、倫理的に問題であり、
異常に他ならない。
間違っているのだ。
全てが。あの初めの選択が。
彼女を家に泊まらせてしまった、あの決断が。
…………。
……だが、一つ気になることもあった。
男「……アイツは」
……彼女は、一体どう思っているのだろう。
俺との同居生活をどう捉えているのだろう。
ただの体のいい寝どころに過ぎないのか。
或いは彼女自身もまた、この生活に愛着を持ち始めたのか。
でも、それが……
仮に後者であったとしても。
男「……いつかは終わる」
今回は、一時の偶然が転がり込んで来ただけ。
この生活がこれからずっと続く訳もない。
必ず終わりがやってくるのだ。
たとえ、俺が一ヶ月という限度を設けなかったにせよ、
彼女はじきに本当の家へ帰らなければならないだろう。
あの娘想いの母親のことだ。
我慢の限界もそろそろ近づいている可能性だってある。
だから。
これがいいタイミングなのかもしれない。
男「……だな」
少年の恋を後押しして、
そのついでに彼女を家へ連れて帰らせよう。
ここが、大事な決断だ。
前のように、間違ってはならない。
後で後悔しても、
過去だけは変えられないのだから。
男「…………」
俺はこの同居生活を──
1.終わらせる
2.続ける
>>168
(ただし、連投は不可)
……………。
……………。
168 : VIPに... - 2010/04/06 22:39:47.93 GFyUwjso 134/4971
[1を選択]
家への足取りは重かった。
原因は分かっている。
しかし、それを認めたくない自分もいる。
葛藤。
心の中の軋轢。
目の前を自転車が通り過ぎる。
そこに乗っているのは、一人の学生。
練習着を羽織っていた。
部活動も終わる時間か。
何の用事もない少女は、
とっくに家に着いていることだろう。
もちろん、腹を空かせてだが。
不思議とその様子を思い浮かべて、
笑みがこぼれる。
男「…………」
そしてすぐにそんな自分に嫌気がさす。
もう終わるのだ。終わらせるのだ。
心にそう強く言い聞かせて。
重い足取りを必死に動かした。
……………。
我が家につく。
階段をゆっくりと上り、
扉の前へ。
俺は一つ息を吐いて、
鍵を差し込み、ドアを開ける。
誰かの優しい声が……
──確かに聞こえた
………………。
…………。
女教師「先生、男先生っ」
女教師「もう無視しないで、返事して下さいよっ」
男「…………」
女教師「……あーもうっ……」
女教師「って、あっ!!」
女教師「もしかして男先生っ、寝てるんじゃっ……!?」
男「起きてるよ……」
女教師「あーもう、やっと返事してくれた……」
女教師「なんで無視するんですか……私悪いことしました?」
男「いや……ちょっと考え事をな」
女教師「考え事って……」
男「…………」
女教師「…………」
女教師「で、何を考えてたんですか?」
男「……ああ」
男「ちょっと、昔のことだ」
女教師「……昔ですか……」
男「……悔やんでも仕方ないのにな」
女教師「…………」
男「何故かいつも、考えてしまうんだよ」
女教師「……男先生」
男「ん?」
女教師「もういいんじゃないんですか」
男「…………」
女教師「それがどんな過去のことは私は分かりませんけど」
女教師「時には、どうにもならないことだってありますよ」
男「……そうかな」
女教師「きっと、そうです」
男「……ああ」
男「多分、そうなんだろう」
男「俺に出来ることはなかった」
男「俺がすべきことはなかった」
女教師「…………」
男「……でも」
男「ふと思い出してしまう……」
男「そしてあの時、違う選択を選んでいたら……」
男「…………」
女教師「…………」
女教師「行きましょう、先生」
男「……ん」
女教師「……時間が、解決してくれますよ」
男「……ははっ」
男「……そうだといいな」
──俺は知っている
時間は誰にでも平等で、留まることをしらない。
巻き戻すことも、取り戻すこともできない。
女「はいっ、生徒たちが待ってますよっ」
女「急ぎましょっ」
男「おう……今日も頑張るか」
──俺は知っている
時がいかに残酷かを。
それが、人を苦しめ続けることがあるのだと。
男「…………」
俺は廊下を振り返る。
授業の開始を伝えるチャイムが鳴ったせいか、
人一人いなかった。
誰かの俺を呼ぶ声が。
聞こえたら良かったのに……。
振り返った先に……
男「……ッ」
やめろ。
それ以上は、考えるな。
心にそう言い聞かせて、
俺は生徒の待つ教室へ歩く。
あれから、時は止まらず進み続け、
もう三年目の冬が過ぎる。
アイツは……
女は……
──どこに消えてしまったのだろうか……
~BADEND~
[2を選択]
我が家に着くと、すぐさまリビングの方から
足音が聞こえてきた。
女「おかえりっ!」
満面の笑みを浮かべて、俺を迎える少女を見た時、
それが誰かと被った。
遠い過去の記憶だ。
思い出したくのない過去の断片だ。
自然と口元が緩む。
それが自らへの嘲笑だと気付いていた。
男「ただいま」
女「もう、帰ってくるの遅すぎっ!」
男「仕事が長引いてな……」
女「こっちは腹ぺこでもう死にそうなんだからっ」
あまりの予想通りの反応で、
笑いが漏れる。
女「あっ、なんで笑うのっ!」
男「そんなに元気なら、あと数日は死なんよ」
女「だめ、あと一時間も待てない」
男「お前は口を開けば、『腹が減った』ばかりだな」
男「ちょっとばかし色気の一つやふた……いてっ」
直撃するのは、彼女の空手チョップ。
少女は両頬を膨らませて、
心外だと言わんばかりのご様子だった。
学校での彼女とは違う。
顔の上に被された仮面は完全に脱げ、
そこからは年相応の少女が伺える。
初めは分からなかった。
ただの優等生だと。
何年かには一人いる、綺麗な生徒なのだと。
漠然と上辺だけで判断していた。
いや、中身を知るだけの機会すら無かった。
女「レディーに向かって、その言いようはひどいと思う」
男「レディーというか、まだガールだな」
きっかけは何だったのか。
全ての始まりはどこだったのか。
平穏と進むはずだった日常が、
綻びはじめたのはいつだったのか。
考えるまでもない。
すぐに思い出せる。
そう、あれは……
女「……むー」
男「言いたいとがあるならはっきりどうぞ」
女「……いいわ」
女「そんなに私の魅力的なバディーを見たいのなら」
女「幾らでも見せてあげるっ」
男「……なぜそういうことになる……」
女「私の身体はガールじゃないからですっ」
男「俺はそういうことが言いたいんじゃない」
男「精神的に大人の女性がそうだと言いたいんだ」
女「ふんっ、そんなこと口で言っても……」
女「正直、見たいんでしょっ?」
男「…はっ、そんなもん見てもどうにもならん」
女「ふふっ、強がっちゃって」
女「はっきり言って私、ちょっとばかしスタイルには自信があるの」
女「まあ見て、先生が判断してよ」
女「レディーなのか、ガールなのかを……ねっ!」
スルスル……
男「ちょっ……お前こんなとこで何脱いでるんだっ!」
女「うるさいわねっ、証明よ!」
なんとかして、服を脱ごうとする彼女の両手を掴む。
これ以上は、色々問題だ……。
女「ちょっとっ! 止めないでよっ!」
男「止めないわけあるかっ!」
女「でもそれじゃ、私が……」
男「いいよっ! お前はれっきとしたレディーだっ!」
女「…………」
男「俺が保証するからっ! ちょっとからかっただけさっ!」
女「……ホント?」
動きを止めて、
綺麗な両目でこちらを見つめてくる。
男「……ホントだ」
すると彼女は怒った顔を和らげて。
女「……うん」
女「なら、良かった」
心底、ほっとしたような表情を浮かべた。
………………。
あの肌寒むかった夜刻。
溜った仕事をある程度片付けて、
撮り溜めた映画でも見ようと帰ってみると、
一人の少女が家の前で泥酔していた。
初めはどんな女なんだと、多少苛立も覚えたが、
よく見るとその少女は自分の教え子に他なら無くて。
とにかく家の中に連れ込んで、酔いをさまさせ、
話を聞いてみると、何やら複雑な問題を抱えていることが分かった。
……きっとそれがきっかけだった。
全てはここから始まった。
だからこそ、気付かなければならなかった。
彼女を家へ泊まらせる決断した以上、
もう見逃すことは出来ない。
ピースが足りないのだ。
彼女の闇を紐解くには必要なのだ。
あとは、きっかけだ。
あとは、手がかりだ。
全ては、あそこから始まった。
物語は、異常は、全てあの日から始まった。
既に分かっていた。
気付いていた。
それなのに、俺は見て見ぬ振りをした。
この生活には笑いがあり、温かさがある。
それは人にとってかけがえのないもので。
俺にとっては、長年忘れていたもので。
正直、失いたくなかった。
今の俺は、心底この日常に幸せを感じていた。
でも……少女は違う。
彼女は俺とは違い、これからの未来がある。希望がある。
それを奪ってしまうほど、自分は愚かではない。
……だから、終わらせる。
全てはあの日。
どうして彼女は……
──酔っていたのか
初めの問題をまずは片付けよう。
……………。
……………。
二人で遅い夕飯を食べた後、
ふと彼女が口を開いた。
女「あ、そうだ」
男「どうした?」
女「今日は私が食器洗うよ」
俺は一瞬、耳を疑う。
男「……聞き間違いかな……」
女「……失礼ね」
女「それならもう一度だけ言って上げるわよ」
女「食器洗いは私がやるわ」
男「…………」
女「食器洗いは私がやるわっ」
男「何度も繰り返さなくても大丈夫だ」
女「心ここにあらずって感じだったじゃん」
男「いや……そうか……ふむ」
共同生活の一歩は、助け合いから始まる。
一方が施すだけでは、共同とは言えない。
それはただの居候に過ぎず、長くは続かない。
女「そんなにびっくりすること?」
男「ん、まあな」
俺から彼女に対して、家事の分担を願うつもりはなかった。
一時の期間のみ、教師という立場で彼女を預かる。
そこには責任がある。ただし、彼女に義務はない。
彼女自身も理解しているものだと思っていた。
男「理由を聞いてもいいか」
女「理由って……」
女「手伝いたいって思ったから」
女「それが理由ってことじゃ、駄目?」
男「そうか」
彼女の中でこの生活が違うものへと変わった。
そんな前触れのような気がしていたが、
俺の単なる思い過ごしなのかもしれない。
純粋に生活の助けになりたいと考えたのか。
男「よし、じゃあお願いしよう」
女「なんでそんなに偉そうなの」
男「一家の主だからな」
女「ワンルームの主ね」
小さい主だった。
………………。
………………。
彼女が食器洗いをしている間、
ひげ剃りクリームを買うために、一人家を出た。
向かう先は、少し歩いたところにあるコンビニだ。
店に入った瞬間、客の訪問を知らせる音楽が鳴る。
奥の方から現れたのは、一人の女性。
いや、少女か。
店員「いらっしゃいませー……って……」
店員「えっ?」
何やら怪訝の様子だったが、俺は雑貨のコーナーへ向かう。
すぐに目的のものを見つけたが……
男「……そうだ」
そういえば、酒のつまみがない。
これから作るのも微妙な時間。
即席のものを一つか二つ、買っておこう。
レジへ向かった身体を回転させ、
奥のおつまみコーナーへ向かう。
すると、誰かに肩を叩かれた。
店員「やっぱりそうだ」
男「……ん?」
店員「男先生でしょっ?」
男「そうだが……君は……?」
振り返った先にいたのは、
さきほどレジにいたアルバイトの少女。
名前はすぐに出てきた。
男「……女生徒じゃんか」
女生徒「先生、気付くの遅い」
男「いや、いつもは学校の制服姿しか見んもんでな」
女生徒「どう? 似合ってるっ?」
男「仮に似合ってると言われて、お前は嬉しいか?」
女生徒「ははっ、嬉しくないね」
男「可愛い制服とは……お世辞にも言い難いな」
女生徒「そういうのでバイト選んでるわけじゃないからね」
男「やはり時給か」
女生徒「まあね、この時間は結構いいし」
男「明日も学校だぞ」
女生徒「シフトが毎日入ってるわけじゃないから、大丈夫」
男「そうは言っても、つらいだろ」
女生徒「一日ぐらいは平気だよ」
男「んー、教師的には微妙だ……」
女生徒「ははっ」
突然、女生徒は笑う。
男「なんだ、どうした?」
女「いや、ごめん」
女「なんか男先生の言い方が変だったからツボって」
男「言い方がか?」
女生徒「うん」
女生徒「『駄目』じゃなくて、『微妙』なんだなーって」
男「あー……まあな」
学園でアルバイトは認められていない。
特別な場合を除いて、見つかった場合は何らかの処罰がある。
他の生徒は勿論のこと、教師に見つかればアウトだ。
彼女が言いたいのはそういうことだろう。
女生徒「男先生的には、バイトはOKなの?」
男「OKではない」
男「でも、駄目なわけでもない」
女生徒「どういうこと?」
男「金を稼ぐってことを、今の内に勉強するのは良いことだ」
男「何も知らないお嬢さんよりは、好感がもてる」
男「でもな」
男「だからといって、学生の本分から外れるのは駄目だ」
男「例えば、水商売とか」
女生徒「……戻れないね」
男「そうだ、戻れない。一回嵌ると、底は意外に深い」
男「だから、そういうのは許容できない」
女生徒「ふーん……なんか達観してるんだね」
男「達観じゃない、放任してるってだけだ」
男「分かってるのか?」
女生徒「え、何のこと?」
男「責任が付きまとうってことだ」
干渉しないってのはそういうことだ。
生徒側からすれば、いちいちルールが規定されているのは、
気分がいいものではないし、押し付けられるのは腹が立つ。
けれども、ルールの元を辿れば、
大半が生徒のことを考えて作られているものであって、
自由であることが得てして良いとは言い難い。
女生徒「で、こんな時間に先生は何を買いに来たの?」
男「何だと思う?」
女生徒「エロ本」
男「…………」
女生徒「18禁成年雑誌」
男「言い換えるな」
女生徒「男の人だからしょうがないよっ」
男「だから違うって」
女生徒「えー、つまんないなー」
男「おいおい……」
女生徒「やっぱ男は獣じゃないと」
男「…………」
ドン引きだった。
……………。
女生徒「はい、おつりとレシート」
男「ありがと」
女生徒「先生、また来てね」
男「ん、近いからたまに様子見に来る」
女生徒「同じ曜日のこの時間帯にいるから」
男「了解」
女生徒「じゃあね」
男「ん。帰る時は気をつけるんだぞ」
女生徒「はーい」
手を振っている彼女を尻目に、
俺は自動ドアへ向かう。
そして、思いついたようにゆっくりと振り返った。
男「……そういえば」
女生徒「ん、何?」
男「お前って、彼氏いるのか?」
女生徒「えっ……告白? 禁断の愛?」
男「それはない」
断言した。
女生徒「おかしいな……逆に振られた感が……」
男「で、どうなんだ?」
女生徒「どうだと思います?」
男「……最近別れた男が一人いる」
女生徒「えー何それー?」
男「正解は?」
女生徒「ぶーっ、残念でしたー」
女生徒「今まで付き合った相手はいませーんっ」
男「……そうなのか」
女生徒「ほんと無いよねっ、こんな良い女をほっとくなんてさ」
男「急がなくてもいい。君の価値は次第に上がる」
女生徒「えっ? どういうこと?」
男「大人になれば分かるよ、じゃあな」
そうとだけ言って、俺は店を出た。
………………。
………………。
早朝。
自然と目を覚ます。
男「……雨か……」
窓の外を見ると、疎らに雨が振っている。
今日は一段と冷え込む一日になりそうだ。
いつものように、目覚まし時計で時間を確認。
布団を畳んで、歯磨きを済ます。
昨日のうちから用意しておいた可燃ゴミを、
料理をする前に出しに行っておく。
男「今日は……」
ハムサンドでも作るか。
レタスをちぎり、キュウリを切る。
アクセントにトマトなんかも合うだろう。
着々と準備をする。
壁にかかった大きな時計を見ると、
時刻は既に七時を回った。
男「……よし」
そろそろ、お姫さまを起こさなければならない。
仕切りのカーテンを引き、
そこには未だぐっすりと眠る、綺麗な少女が。
男「…………」
そう言えば……。
思い出すのは昨日の夕方。
一人の少年が、俺の前に現れた。
彼はこの少女のことが好きだと言った。
そして、告白すると言った。
この想いを伝えねば、後悔するとも言っていた。
純粋にして、一途なそんな恋心。
それが今日、潰えるか、それとも叶うのか。
男「さて……どうなるだろう」
答えはまだ、誰も知らない。
………………。
………………。
女教師「男先生っ」
男「んー……」
女教師「まさか寝てるんですかっ」
男「ああ、悪い……ちょっと寝てたかも……」
職員室。
空き時間でのんびりしていると、
興奮し気味の女教師が俺を眠りから覚まさせた。
女教師「駄目ですよっ、寝たら死にますよっ」
男「ここは雪山か」
女教師「雪山なら先に死ぬのは私ですね」
男「ははっ……笑えない」
女教師「そんなことよりっ」
男「──体重が増えちゃったんですっ」
女教師「違いますっ! もうっ、ふざけないで下さいっ」
男「ちょっとした冗談なのに……」
女教師「ほら、これ見て下さいよっ」
彼女が手に持っているのは、一冊の本。
どこかで目にしたことがある、大手の男性雑誌だった。
男「なんだ、生徒から没収でもしたか」
女教師「いいえ、これは男教師先生のものなんですけど」
男「はは、またあの人何かやらかしたのか」
男「中身がエロ本とかそんなノリだろ」
女教師「……ありえそうなのが怖いです」
女教師「が、今回はまたちょっと違います」
男「ん?」
女教師「ちょっと気になったんで、借りたんです」
女教師「ほら、このページ」
彼女が差し出してきたページは、雑誌のグラビア。
モデルの女性がポーズをとっている写真が幾つも載っている。
そのモデルに……何やら見覚えが……。
男「ありゃ……」
女教師「ねっ? 分かりましたよね?」
見間違えるはずもなかった。
今朝も寝顔を見たばかりだった。
雑誌に載っている女性は、一緒に生活している女だった。
男「……はぁ……すげえな」
これでもう、読者モデルなんてレベルではない。
既に全国区だ。
恐らく事務所が売り込みに出たのだろう。
女教師「凄いですよね……」
男「現役の教え子がまさか、な」
女教師「同性の私から見ても、確かに可愛いからなあ……」
女教師「ほら、こっち見て下さいよ」
男「ふむ」
女教師「何が『ふむ』なんですか……」
女教師「これだから男の人って……」
男「ちょ、ちょっと待て……何か要らぬ誤解を……」
女教師「言い訳しなくても、わかりますよー」
女教師「このスタイルに釘付けですもんねー」
男「……否定はしない」
女教師「…………」
下衆を見るような目で見られた。
しかしこれで……
男「少々、問題が起きるな」
女教師「えっ?」
男「この雑誌はいつ発売したんだ?」
女教師「えっと、今日だと思いますけど……」
男「じゃあ、もう情報が生徒に回ってるかもな」
女教師「確かに……」
男「恐らく昼頃には、二年B組は凄いことになるだろう」
女教師「見物人が大量発生ですか……」
男「最低でも数日は続くな」
女教師「はぁ……担任としては重荷ですね……」
男「頑張れとしか言いようがない」
女教師「休みたいなぁ……」
男「こないだ休んだばかりだろうが」
女教師「えーん」
喋りながら俺は一つのことを考えていた。
それは多くの人間に囲まれるであろう……
少女の心配ではなかった。
彼女に告白しようと決意した少年のことだ。
彼にとって、今回のことは……
明らかにタイミングが悪すぎだ。
それでも彼は、今日、決着を付けるだろう。
一度決めた思いを、そう容易く曲げることは出来ない。
なんせ、それは一年半ほど悩んだ末の決意だったのだから。
俺は写真の中の少女をじっと見つめる。
彼女が口元に浮かべるのは、優しい微笑み。
恐らく見た者の心を揺さぶることになるだろう。
それほど、彼女は美しく、そして可憐だった。
けれども俺は……そんな彼女より……
家で見る、あの子供っぽい笑顔のほうが
……何倍も綺麗だと思った。
………………。
………………。
俺の予想は的中した。
見事、二年B組は人という人で溢れ帰り、
授業中にまで抜け出す奴も出る始末。
結果的に休み時間は、教師たちの見回りが行われ、
彼女の教室を警備員のようにガードすることになる。
特にひどかったのは、上級生。
既に受験を諦めた生徒たちの執念はそれはそれは凄まじく。
あらゆる手を使って侵入を試みた。
けれども、教師側も負けてはおらず。
担任である女教師は、職員室ではああ言ったものの、
熱心な仕事ぶりは目に見張るものがあり。
バスケ部エースにして、
引退後は受験戦争にすぐさま蹴落とされた
三年E組の金子司との一騎打ちは、後世に語り継がれることだろう。
なんて……
男「馬鹿なことを考えてる場合か」
六限の授業も終わり、生徒たちを家へ送り返した後、
職員室では、教師達の雑談が何となく始まっていた。
男教師「はぁ……しかし今日は疲れたな」
男「ですね……」
男教師「また明日も続くと思うと……ぞっとするよ」
女教師「そんなこと言っちゃ駄目ですよっ」
女教師「私たちが彼女を助けなくてどうするんですかっ」
男教師「元気だね……」
ありあまる元気だった。
男「じゃあ、自分はこの辺で失礼します」
男教師「えっ……もう帰っちゃうの?」
女教師「今日ぐらい飲みに行きましょうよ」
男「いや、ちょっと疲れててね」
男教師「あー……確かにな」
女教師「えーっ! なんででですかぁー!」
男「うっぷ……」
女教師「ちょっと、男先生っ!」
女教師「いまこっち見て、吐きそうな顔しましたねっ!」
男「……声のボリュームが一々でかいんだよ……」
男教師「俺も……帰ろう……」
女教師「そんなーっ!」
委員長「もうっ! 腑抜けの男子達ねっ!」
何故か最後、女教師が中学生の頃の委員長に被って見えた。
予想以上に、疲れているみたいだ……。
……………。
……………。
職員室を出た後、
偶然、廊下で話題の渦中にいる少女と出会う。
女「あ、先生……」
男「うっす」
見るからに疲れ切った様子。
少し顔が青みを帯びているのが気になった。
男「大丈夫か……って聞くのも変だな」
女「うん……」
男「今日は大変だったろ」
女「こんなことになるなんて」
女「ちょっと想像してなかった……」
男「雑誌に掲載されることは知ってたのか?」
女「それはね……多少は聞いてたけど」
女「ここまで話題になるほど大きな雑誌だとは知らなかったよ……」
男「まあ、女性には馴染みがない名前かもしれんな」
女「ちょっとアルバイトの感覚だったんだけどね……」
女「思わぬ影響に、私もびっくり」
男「そうか……」
気の聞いたことを一言や二言思いつけばいいのだが、
こういう時に限って、俺の頭はうまく働かなくて。
男「ええと……」
何を言ったらいいのだろうか。
今の彼女に対して相応しい言葉は何なのか。
いくら考えても答えは見つからず。
すると、彼女は周りをぐるっと伺い、
誰もいないことを確認して。
……こう言った。
女「先生」
男「……ん?」
女「今日は帰るの早いの?」
男「……今日はもう帰る」
女「えっ……いつもに比べて、全然早いじゃん」
男「家でゆっくりしようと思ってな」
女「そうかぁ……なら……」
女「私も一緒に帰って良いかなっ?」
男「えっ?」
それは、笑顔だった。
疲れが見て取れるその顔が、綺麗に咲いたのだ。
写真の中のあの笑みではない。
この生活が始まって、次第に彼女と親しくなって……
そしてふと見せてくれた、あの年相応の笑顔。
純粋なそれは、俺の心をいつも掴んで放さなくて。
言いたかった。
言ってしまいたかった。
──そうだな、一緒に帰ろう
……と。
けれども、未だ脳裏に焼き付いているのは、
昨日の少年の表情。一途な想い。
それに触れてしまった、少しでも、知ってしまった。
だから、俺は……
女「……先生?」
男「なぁ」
女「あ、うん」
男「もう少し、お前は学校にいろ」
女「え……で、でもっ」
男「夕飯作って待ってるから、な?」
女「あーうん……やっぱ、そうだよね……」
女「一緒に帰ったら……誰かに見られるかもしれないもんね……」
男「…………」
項垂れる少女を見ると、胸の奥が痛んだ。
女「うん、了解」
女「おいしい料理作って待ってるんだぞ?」
男「ははっ、期待しとけよ」
女「ふふ、じゃあね」
男「ん、またな」
そう言って、俺は踵を返す。
彼女の視線を背に浴びながら、一人廊下を歩く。
男「女」
女「なにっ?」
男「人を好きになるって……」
男「とっても勇気がいることだよな」
女「……え?」
男「家で待ってるから」
女「ちょっと、先生、それって、どういう意味……」
彼女の言葉は続いていたが、俺はそれには答えないで。
背の方に片手を振りながら、階段へと消えた。
雨の音が……何故か深く耳に残った。
………………。
………………。
傘をさして、家までの道を一人歩く。
空は未だ曇っており、朝より強い雨が地面へと降り注ぐ。
ブーブー。
ズボンのポケットから、携帯の振動音が聞こえる。
俺は傘を左手に持ち替えて、右手で携帯を開いた。
男「……ッ」
携帯に表示された名前は、俺の心を抉った。
時から取り残された残滓が、今、表へ現れる。
迷う。
出るか、出ないか。
かつての俺なら、すぐさま後者を選択していただろう。
迷う必要すらない。無意識のうちに身体が動いた。
しかし、今は。
何故か、取ってもいい気がした。
男「…………」
携帯はまだ振動し続けている。
相手側の気持ちが、嫌でも伝わってくる。
用件は大体、予測できた。
何を聞かれるのか、何を尋ねられるのか。
どちらにせよ、俺の答えは既に決まっている。
何年も前から、変わることはない。
だから、電話に出る意味は見つからなかった。
過去への忘れ物を、未だ取りにいくつもりもない。
けれど。
気が付けば俺は……携帯を耳に当てていて。
ゆっくりと……通話のボタンを押す。
男「……もしもし」
懐かしいような。温まるような。
向こう側から、そんな声が聞こえた。
………………。
………………。
人を好きになるのは人一倍の勇気が必要で。
相手に想い人が現れるかもしれない。
相手の想いが決して自分に向かれることはないかもしれない。
そんな恐怖が、常に潜んでいて。
だけど、人は人を好きになる。
懲りずにまた、人を恋しいと願う。
少年は一人の少女に恋をした。
その恋は、誰がどう見ても純白だ。
汚れ一つないその想いは、応援したい気を起こさせる。
そんな一途な恋心。
それは、かつての俺が同じく胸に抱いたものに他ならず。
彼と自分を重ね合わせていることは確実だった。
少女の話をしよう。
彼女は確かに人知れず大きな闇を抱えている。
それが何のか、今の俺にはまだ掴み切れていない。
ただ一つ分かっていることもある。
演劇の練習の際、どうして彼女は震えていたのか。
あれほど無邪気で悪戯好きな少女が……
助けを求めるように、微かに震えていたのは何故か。
俺は少年に伝えた。
君の想いは……実らないと。
根拠はない。
直感がそうだと伝えるだけだ。
男「…………」
窓の外では、雨がさきほどより一層……
激しく降り続けていた。
窓際に寄りかかりながら、
俺は彼女の帰りを静かに待った。
どんな答えが訪れるのか。
予測はできても、確定された未来を見ることは不可能だ。
何かがきっかけで、状況が一変する可能性だってある。
少女と学校で別れてから……
──ちょうど2時間が経過していた。
………………。
………………。
いつの間にか時は流れ……時刻は、九時を回る。
男「……遅い」
明らかにおかしかった。
仮に少年の用事が時間がかかったとしても、
ここまで遅れるのは異常だ。
胸の中では、不安という不安が渦を巻き、
いてもたってもいられなくなった俺は……
傘を持って、家の外へ飛び出した。
………………。
既に外は暗闇に覆い隠され、街灯の明かりだけを頼りに、
俺は学校までの道のりを歩く。
男「……連絡先……聞いとけば良かったな」
彼女の携帯番号を俺は知らない。
基本的に彼女は家にいたし、連絡があれば学校で伝えれば良かった。
完全に想定外だ。
しかし、今、悔やんでも仕方がない。
男「……行き違いになってないといいが……」
口ではそう言ったものの、
本当はそんな心配をしているわけではなかった。
最悪のケース。
もしかしたら……と、そんな思いが頭から離れない。
早く、早く。
気持ちが焦る。
彼女の安否を早く確認したい。
一度、家へ電話をかけてみる。
十回ほどコールを鳴らしたが、反応はなし。
まだ彼女は……家に帰ってはいない。
男「……くそっ」
どこだ。
どこにいるんだ!
………………。
学校に着いた。
門は既に閉じている。
中を確認したが、誰も見当たらない。
ここに、彼女はいないようだ。
………………。
女教師に電話をかける。
挨拶を軽く済ませ、女の緊急連絡先を聞く。
不審がられたが、今は緊急時だ。
誤解などこれから幾らでも解くことが出来る。
まずは彼女と連絡を取りたい。
教えてもらった番号に電話をかけるが、
電源が入っていないとの通知。
そろそろ俺も本気で焦り始めた。
………………。
駆ける。
雨の中を必死に駆ける。
学校の周辺を当ても無く探す。
明らかに、効率が悪かった。
男「はっ……はっ……はっ」
雨がさらに強く降り注ぐ。
手元の傘は、既にその意味を無くしていた。
顔にかかる水滴で、前が思うように見えない。
街の光が視界でぼやける。
寒い。季節は冬だ。
身体が次第に震え始める。
それでも俺は駆けた。
そろそろ保護者や警察に電話をかけたほうがいいと、
心の誰かが訴えかける。
誰が訴える?
お前は誰だ?
答えはすぐに見つかった。
──過去の自分だ
………………。
意識が朦朧としてきた。
雨で視界も遮られる。頭がガンガンしている。
今、自分がどこにいるのかもわからなかった。
ただ闇雲に街中を走る。転ける。立つ。走る。
誰かが俺に声をかけた。
声からして酔っぱらいだろうか。
心配をしているというよりは、からかっているのだろう。
相手にする気力も無い。
次に向かおうとすると、肩を掴まれた。
振り払う。相手のわめき声が聞こえる。無視。
男「……はぁ……はぁ……はぁ……」
いない。
いない。
どこにもいない。
最悪のケースって何だ?
いやだ。考えたくない。
消えろ。頭の中から消え失せろ。
………………。
──『私の目□ 時■ なって』
………………。
忘れたはずだ。鍵をかけたはずだ。
それなのに、過去の断片が俺の思考を邪魔する。
俺は逃げる。
彼女を探す。
俺は逃げる。
彼女はどこだ。
俺は逃げる。
ここはどこだ。
俺は逃げる。
俺は逃げる。
………………。
時間の感覚は狂っていた。
家を飛び出して、もう何分経ったのか……
あるいは何時間経ったのか……。
気が付けば、雨は止んでいた。
未だ意識ははっきりとはしないが、
正常に判断が出来るほどには戻っていた。
辺りを見渡すと……
男「……家の近くか……」
知らない間に、馴染みのある道にいた。
携帯を見る。
時刻は、十一時。
限界だ。タイムリミットだ。
これはもう俺の力ではどうにもならない。
外部の助けがいる。
……いや、もっと前に連絡する必要があった。
街中を一人で探そうとしたって、それは無理がある。
男「……あぁ……」
どうしてこうなったのだ……。
何が間違いだったのか……。
同じことの繰り返し。
何度も悔やみ苦しんだのに、結果は同じ。
男「……ッ」
帰ろう。
一旦、家へ帰ろう。
俺はそう言い聞かせて、家へと向かった。
………………。
我が家の前まで着き、階段を上がる。
これからのことを考えると、頭が突き刺すように痛くなる。
身体が重かった。
もう動きたくないと訴える。
しかし目の前の現実からは逃げ出せない。
過去からは逃げられても、今はすべきことがある。
電話だ。
学校、保護者、警察への連絡だ。
背きたくなる事実がそこにはあるだろう。
けれども俺はそれに向き合わねばなるまい。
震える身体を押さえつけて、
俺は部屋のある階まで上がる。
何となしにそちらに目をやった。
何の期待も、希望もしていなかった。
それなのに──
男「……え」
初め、目を疑う。
自分の作り出した妄想かとも考えた。
けれど。
女「せ、先生……」
彼女のか細い声を聞いた時、
これは現実なのだとはっきりと理解できた。
びしょ濡れの彼女は、俺の家の前で……
膝を抱えて、座り込んでいた。
それは、あの日の光景と被るように。
………………。
………………。
バスタオルで身体を拭き、服を上から下まで取り替える。
そして、冷蔵庫から冷えた缶ビールを一本取り出し、
そのまま喉へ流し込んだ。
男「……ふぅー」
耳をすませば、風呂場から水しぶきの音が。
部屋の前で座り込んでいた少女は、
俺以上に身体を雨で濡らし……
なによりも、目の周りが赤く腫れているのが気になった。
すぐさま語り出そうとする彼女を遮り、
俺は無理矢理、風呂場へ向かわせた。
高まった感情を落ち着かせるため。
彼女の話をしっかりと受け止めるため。
みっともない姿を生徒に見せるわけにはいかない。
時間を置くということが、今の俺には必要だった。
……二十分ほどが経っただろうか。
彼女が風呂からやっと出て来た。
バスタオルを首にかけ、それで濡れた長い髪を乾かしている。
少女は目の前にやってくる。
未だ腫れぼったい眼で、俺をじっと見つめる。
……一度、唾を呑み込んだ。
心が落ち着いていることを確認して。
俺は彼女に向かって口を開く。
男「とりあえず……座ろう」
女「……うん」
……少女の話が、始まる。
………………。
女「どこから話したらいいのか、正直分かんない」
女「だから……」
女「とりあえず、はっきりと言うね」
女「私……」
女「……恋愛って大嫌い」
女「……いつのことだったかなあ」
女「気がついた時には、男の人が恐ろしくて」
女「昔は少し近づかれただけでも、身体の震えが止まらなくて」
女「でも、中学の終わりぐらいからは自然と馴れてきて」
女「今みたいに普通に会話は出来るようになったんだけどね」
女「……それでも、少しでも身体が触れそうになると……」
女「無意識のうちに震えが止まらない……」
女「相手が誰だとか、ほんと関係ないの」
女「もしかしたら……先生も気付いてたかな?」
女「傷つけちゃってたらごめんなさい」
女「はは……でも先生のことだから私なんて眼中にないね」
女「……それで、つまり」
女「演劇練習の時に、震えちゃったのはそういうこと……」
女「先生がわざとあんなことしてくれたおかげで」
女「正直、かなり助かった……」
女「ありがとう……本当にありがとうね……」
女「そして、からかっちゃってごめんなさい……」
女「……ええと、なんか照れくさいね」
女「どこまで話したっけ……ああ、身体の震えとこか」
女「だから私、男の人が怖くて恐ろしくて」
女「男女が想い合うなんて、ほんと気持ち悪かった」
女「前に先生には言ったと思うけど」
女「私って、父親のこと何も知らないんだ」
女「いつも思ってた」
女「なんで私にだけ二人の親がいないのかって」
女「周りのお父さんとか見るたびに、いつも羨ましいって思ってた」
女「それがどこでおかしくなっちゃったのか分からないけど」
女「気が付いたら、男性は恐怖の対象で」
女「色々、原因を考えたけど……」
女「これと言ったものも見つからなくて……」
女「けど、最近思うのは……」
女「父親がいないという現実から逃げるために、必要だったのかなって」
女「男性に恐怖する自分は、父親なんていらなかった……」
女「そうやって自分で、無意識のうちに正当化してるんじゃないかなって」
女「……本当はどうかは分からないけどね」
女「何となくそれが一番近い気がしたんだ」
女「あー……話が脱線しちゃった」
女「それで、今まで何度か私、告白されたことあるんだけど」
女「そう言った理由で、全部断ってきたんだ」
女「大体は他所のクラスとか、あまり話したことない人とか」
女「だから、断るのもそんなに大変じゃなくて」
女「私の上辺だけ判断してるんだなぁっていつも思ってた」
女「でもね……」
女「今日は違ったんだ……」
女「正直、驚いて言葉が出なかった……」
女「名前は出さないけど、その人は私のよく知ってる人で」
女「去年から同じクラスの人で……みんなからの信望も強くて」
女「思ってもみなかった……」
女「先生と別れた後、唐突に声をかけられて」
女「彼は……迷わずはっきりと、私に言った……」
女「その時、私、どんな顔してたんだろ……」
女「何を言ったらいいのかわからなくて、パニクって……」
女「それなのに彼の目はずっと私のことを逃がさないで……」
女「分かったの、伝わってきたの」
女「彼の本気の想いが、私を大事に思っている心が」
女「それが分かっちゃって……さらに分からなくなっちゃって……」
女「気が付けば、彼は笑って」
女「『困らせちゃって、ごめんね』って……」
女「私……何も言えなかった……」
女「断りの返事すら言えなかった……」
女「謝りたいのは私のほうなのに……私……いやだ……」
女「こんな自分……本当に、いやっ!」
女「……なんで?」
女「……ねぇ、なんでなの?」
女「私、もしかして病気なの……?」
女「どうして、恋愛が怖いんだろ……?」
女「わかんない……こんな風になりたいわけじゃなかったのに……」
女「もう、どうしていいのか分からなくて……」
女「気が付けば、雨の中を呆然と歩いてて……」
女「結局最後は先生の家に戻るなんて……滑稽だよね……」
女「……ねぇ、先生」
女「私……わたし……」
女「……もう、こんなのやだよ……」
女「……普通に、なりたい……」
女「……人を好きになったり……愛しいと思ったり……」
女「そんなあたりまえのことを……経験してみたい……」
女「……このまま一生……」
女「……こうやって人の想いに怯えるなんて……」
女「……わたし……いやだっ………」
女「………う……」
女「……ううっ……」
女「うぅぅああぁぁ……」
………………。
少女の目から大粒の涙が、溢れ出す。
俺はそれを、ただじっと見つめていた。
既に嗚咽で言葉を続けることが出来ない。
顔を伏せて、必死に声を抑えようとしているようだが、
彼女の思い通りにはいかないようだ。
男「…………」
特に言うことも無かった。
言う意味も、必要性も、感じなかった。
少女は語りたかったのだ。
胸の奥にくすぶっていたものを、吐露したのだ。
未だしゃくり上げている少女を寝床まで連れていき、
彼女が寝るまで、隣で座っていた。
誰かの温もりが恋しくなる時もある。
それが今、彼女には必要なもので。
しばし時間が経過した。
いつの間にか少女は眠ったようだ。
疲れ切った顔が……今はとても穏やかだった。
俺は考える。
彼女が震えてしまう理由。
彼女が恋愛を恐れる理由。
考えても考えても答えは見つからない。
少女の言う通り、
いなくなった父親が関係しているのだろうか。
男「……ただ」
それより、気になることがあった。
あれは確か昨日のこと。
些細な言い合いで、彼女が服を脱ごうとした時。
男「俺は確かに、彼女の手を掴んだはずだ……」
それなのに少女は震えていなかった。
動きを止めて、こちらをじっと見つめてきた。
もしかして。
俺はここで一つ仮説を立てる。
そして、それが正しければ……
彼女の震えに……解決策があるかもしれない。
一筋の希望の光が、確かに見えた気がした。
………………。
………………。
朝、目が覚める。
男「いてぇ……」
頭が痛い。昨日雨に打たれたせいだろうか。
横になっていたい気持ちを抑えつけて、俺は起き上がる。
身体を軽く動かして、何となしに窓の外を眺めた。
雨は降っていないものの、今もまだ曇り空。
今日も一段と冷え込む一日になりそうだ。
?「……んんぅ……」
男「?」
ふと、カーテンの向こう側から声が聞こえる。
それは明らかに少女のものに違いなくて……。
ザザッ。
男「おい、どうし──」
女「……はぁ……はぁ……はぁ……」
慌てて仕切りを引くと、そこには……
汗を大量にかいて、苦しそうに悶えている少女がいた。
見るからに、熱がある。
女「……はぁ……はぁ……」
女「……うぅ……ん?」
女「 あぁ、せんせー……」
彼女は目の前の俺の存在に気付く。
苦しそうに息を吐きながら……
女「……おは、よう……」
男「……ッ」
……彼女は静かに笑う。
その笑みは本当に痛々しくて……。
俺のための精一杯の笑みで……。
一瞬、自分が何をしたらいいのか、
……分からなくなった。
男「……しっかりしろ」
しっかりしなければならない。
今、彼女が頼れるのは俺だけだ。
俺を信用しているからこそ、彼女は笑顔を見せたのだ。
その期待に、その信頼に、
俺が応えなければ、それは……。
男「……ちょっと、待ってろ」
まず第一に。
足りない頭を必死に動かして、
俺は台所へと向かった。
……………。
学校への連絡は簡単に済ませた。
まずは自分が休む旨を伝え、その後、少女に担任へと連絡をさせた。
彼女のことに関しては、初め連絡無しでも良いかと思ったが、
もし担任の女教師が彼女の母親に電話をかけるとなると、
これはまた厄介な話になりそうで。
熱でうなされている少女に無理を言って、
電話をかけてもらった。
今は、身体を布団でしっかりと温めて、
おでこの上には冷えたタオルが置かれている。
女「……ふぅ……ふぅ……」
まだ息の音は荒い。
市販の風邪薬は飲ませたが、
最悪、病院に行く必要が出るかもしれない。
男「…………」
とりあえず、今は様子を見ることだ。
これ以上彼女の容態が悪化するようなら、次の策を考えるようにしよう。
俺は彼女のすぐ横で座っていた。
苦しそうな少女をじっと見つめる。
意味はない。
俺が側にいることで、彼女の容態が回復するわけでもない。
それでも、それでも……だ。
女「……はぁ……はぁ……」
男「……俺は、ここにいるからな」
聞こえているのだろうか。
少女に耳には届いているのだろうか。
彼女がふと目を覚ました時、
視界に俺がいることで、少しでも安心するのなら。
男「……頑張れ……」
人を看病するなど……何年ぶりだろう。
少女が俺と暮らすようになって。
確実に……何かが変わっていた。
………………。
男「お腹は空いてるか?」
女「……あー……」
女「……今は……いい……」
男「体力回復のためにも食べたほうがいいと思うが」
男「でも、無理することはない」
女「……ごめんね……」
男「別に気にするな」
時刻は三時を回ったところだった。
少女の熱は一時期より下がったものの、回復にはほど遠い。
おかゆを入れた茶碗を台所のカウンターに置き、
俺は彼女のタオルを取り替える。
女「うっ……つめたい……」
男「ひんやりして気持ちいいだろ」
女「うん……なんか一瞬、すかっとする……」
女「でもまたすぐ……ぼぉーっとなる……」
男「頻繁に取り替えてやるよ」
女「……ありがと、先生」
男「まあ、これぐらいお易い御用さ」
女「それだけじゃないよ……」
男「どういうことだ?」
女「私のために、学校……休んだんでしょ……?」
男「んー……まあな」
女「……ホント迷惑かけて、ごめんなさい……」
男「何だ、辛気くさい顔をして」
男「病人なんだから、されて当然みたいな態度でいいんだよ」
女「でも……」
男「お前をここに泊まらせるって決めたときから」
男「こういう状況だって考えたさ」
男「だから、俺には責任がある」
女「…………」
見間違いか。一瞬、少女の顔が歪んだ気がした。
そんな彼女を見て、何故か俺は……
男「……勿論、責任だけじゃないぞ」
女「……えっ?」
男「朝、うなされているお前を見て」
男「何も考えずに、ただ、今日は一緒にいようって思った」
男「正直、心配だったんだ」
男「義務とか責任とか……そんなこと抜きにな」
女「……ふ、ふーん……」
男「だから、今日ぐらいは目一杯甘えていいぞ」
女「……ふふ、なにそれ」
男「言葉通りだ。普段は聞かないことも今日は特別だ」
女「……なんでも、いいの?」
男「俺が出来る範囲内ならな」
男「あと、お前の病気が悪化しないのが条件だ」
女「……ぶぅー、意外に制約多いよー……」
男「文句言うと、聞いてやらんぞ」
女「……うぅ……ひどい……」
男「で、何かして欲しいことでもあるか?」
女「…………」
女「……うんとね……」
男「あぁ」
女「……そばに……」
女「……そばにいて……」
……一瞬、俺は言葉に詰まる。
それでも、何とか冷静さを取り繕うように……
男「……それだけでいいのか?」
女「……うん……」
女「……じっと私のこと見てて……」
女「それだけでいいから……」
男「…………」
男「……分かった」
男「しっかりとここで見守ってるよ」
女「……うん」
そう言って、少女は瞼を閉じた。
………………。
いつの間にか、日は暮れかけ。
辺りは、黄金色に耀く幻想的な世界が続く。
女「すぅ……すぅ……すぅ……」
穏やかな吐息。
もう馴れて手つきで、彼女のタオルを交換する。
男「…………」
何を血迷ったのだろうか。
俺は彼女の額に右手を置こうとする。
女「……ん」
瞬間、彼女が目を覚ました。
俺は今にも触れそうだった手をひっこめようと……
いや、思い直してそのまま動かした。
そして──
女「あ」
確かに……
少女の額に俺の手が載った。触れた。
男「……熱は下がっているようだな」
男「この調子なら、明日にはもう治るだろう」
女「……あれ……」
眠りから覚めたばかりで、少女は意識がはっきりとしない。
俺の顔を一度見て……次に、視線は腕へと注がれた。
女「……え……」
男「…………」
震えてしまうのだろうか。
心とは無関係に、身体が拒絶するのだろうか。
俺はその様子をじっと見つめていた。
少し経って、少女の口が開いた。
女「……震えない……」
女「……あれ……震えないよ……」
女「……どうしたんだろ……」
女「……もしかして、これ……夢……?」
女「……直ったの……直ったのかな‥…」
女「ああ……」
女「わかった……やっぱり……夢だよ……」
女「……はは……」
女「…………だって……」
そして、また穏やかな寝息が聞こえてくる。
どうやら、この状況を夢の中だと判断したようだった。
ほっと胸を撫で下ろし、俺は一瞬安堵を覚えた後で、
少女が次に言った言葉に……愕然とする。
女「──お父……さん……」
女「看病して……くれるなんて……」
女「……ふふ……」
女「…………」
女「すぅ……すぅ……すぅ……」
男「…………」
……仮説は、今、証明された。
……………。
男「……もしもし」
男「ああ……いえ」
男「こちらこそ……すみません……」
男「それで……」
男「……はい、はい」
男「分かります……分かってはいるんです……」
男「でも、やはり俺には無理みたいです……」
男「……本当にすみません……」
男「まだ……」
男「いえ、そういうことでは……」
男「……はい」
男「では……失礼します」
ピッ。
一つ深呼吸をして、俺は携帯をポケットにしまった。
未だ胸は激しく鼓動していた。
現実の時は立ち止まることを知らない。
誰にでも平等に、同じ時を歩む。
それが。そんな当たり前の事実が。
男「…………」
熱が完全に下がった少女の顔を見る。
穏やかに眠るその表情に、俺は心底安心した。
彼女は元気でいるときの方が似合う。
無邪気に笑い、時には悪戯を試みる。
そんな年相応な彼女に、俺はいつもペースを乱される。
俺が常に固執していた日常をもだ。
既に生活の一部になって。
心の奥底までにも入り込んでいて。
終わらせたくない。
この生活がずっと続けばいいなと思ってしまう。
でも。
それでも。
男「……終わらせよう」
そろそろ重い腰を上げなければならない。
少女の闇に、触れなければならない。
それが。
それがせめてもの、少女への恩返しだ。
きっかけをくれた。
俺に、かつてのような感情を思い起こさせてくれた。
忘れようと必死に努力した。
忘れまいと切り捨てることを躊躇った。
それなのに、未だ俺は永遠に続く螺旋の中にいる。
そして、一生、囚われ続けるのだろう。
けれど少女は違うのだ。
これからの未来が、幾らでも開けている。
まだ、何も始まってはいない。
彼女の人生は、時は、止まっている。
既に、疑心は確信へと変わった。
男性に恐怖しながらも、彼女は我が家に泊まり続ける。
それは明らかに奇妙であり、矛盾している。
けれど。
それの答えは……見つかった。
男「……父親……か」
窓の外を見つめれば。
幾千もの星が……綺麗に輝いていた。
………………。
………………。
いつもの朝がやってくる。
男「……おはよう」
女「……あ、うん」
女「……おはよ……」
少し照れくさそうに。
今日は珍しく、彼女も早起きだった。
男「どうだ、体調は」
女「おかげさまで」
女「見事、完治致しましたっ」
男「元気一杯だな」
女「そりゃあ、あれだけ寝れば誰でもこうなるよ」
男「ならんならん」
女「えーっ」
男「風邪は治りかけが一番危険だからな」
男「油断すると、あとで痛い目を見るぞ」
女「ちょ、ちょっとやめてよっ」
女「そんなこと言われたら、怖いじゃん……」
男「そのぐらいが丁度いいんだ」
女「むぅー……」
納得しきれないのか、頬を膨らませる。
そんな様子を見て、自然と笑みが零れた。
女「あっ、何笑ってんのっ」
男「いや、なんか、お前らしいなって」
女「何が?」
男「感情表現が豊かなことだよ」
女「……言い換えると」
男「──子供っぽい」
女「むきーっ!」
男「うわぁー怒るな怒るなー」
朝から賑やかだった。
………………。
二人で向き合いながら、朝食を食べる。
今日のメニューは、ハムエッグだった。
男「で、今日はどうするんだ」
女「どうするとは」
男「学校に行くのか?」
女「そりゃあ、勿論」
男「少しでも怠いなら、無理する必要はない」
男「またぶり返されても困るからな」
女「その心配はありがたいけど」
女「文化祭も近いし、練習しないといけないから」
女「今日は行くよ」
男「……まあ、それなら仕方ない」
本音を言えば、今日は大事をとって休ませたかった。
もう治ったとは言え、あれだけの高熱だったのだ。
少しぐらい様子を見たいところだった。
男「だが、何かあったらすぐに保健室に行けよ」
女「うん、分かってる」
女「みんなに迷惑もかけたくないしね」
女「もちろん……先生にも」
男「別に俺のことはいい」
女「でも……」
男「大事なのはお前の身体だ」
男「それさえ無事なら、まあ、後はなんとかなるさ」
女「……うん」
女「ねぇ……先生」
男「何だ?」
女「ありがとうね」
男「…………」
女「本当にありがとう」
男「……ああ」
女「そして、これからも……」
女「──よろしくね」
男「……おう」
男「任せとけっ」
女「ふふっ、なんだか照れるなぁ……」
そう言って、頬を赤く染める少女を見つめる。
あれは、俺を信じて疑わない目だ。
心底頼りきっている目だ。
けれど、君は覚えているのだろうか。
初めて母親のことで口論した時。
君は俺になんと言ったのか。
……少し胸の奥が痛んだ。
…………………。
…………………。
女教師「あーっ!」
女教師「男先生、おはようございますっ」
男「おはよう」
職員室に入ると、すぐに同僚が話しかけてきた。
彼女はジャージ姿。恐らく、朝練があったのだろう。
女教師「もう大丈夫なんですか?」
男「ん?」
女教師「ほら、昨日休んだじゃないですかっ」
男「ああ……」
風邪を引いたのは俺ではなく少女だったので、
一瞬、自分も休んだことを忘れていた。
彼女は続ける。
女教師「私がここに勤め始めた頃から」
女教師「男先生が休んでいるの見たこと無いし」
女教師「だから、昨日のことはかなり心配したんですよっ」
男「それは、すまん」
女教師「よっぽど見舞いに行こうかと思ったぐらいで……」
女教師「でも寸前で迷惑だと思ってやめたんです」
男「は……はは……」
乾いた笑いしか出てこない。
そんなことになったら、悲惨な結末が待っていた。
俺は女教師の寸前での判断に感謝する。
女教師「それで大丈夫なんですか? 無理してないですか?」
男「おう、しっかりと治して来た」
男「だから心配しなくてもいいぞ」
女教師「だったらいいですが……」
女教師「無茶だけはしないで下さいね」
男「無茶するような歳か、俺は」
女教師「ふふ、それもそうですね」
二人して苦笑する。
その後も少し雑談をして。
もう朝の職員会議が始まるという頃、
女教師が、ふと思い出したように口を開いた。
女教師「あっ、そうだ」
女教師「昨日のこと……男先生は聞いてます?」
男「昨日? 何かあったのか?」
女教師「その反応だと、まだ誰にも聞いてないみたいですね……」
女教師「実は昨日、うちのクラスの女さんも休みだったんです」
男「……そうだったのか」
女教師「で、思った以上に混乱はなくて」
女教師「教師一同はほっと安堵したんですが……」
男「……どうした?」
言い難そうにする彼女を、俺は急かす。
漠然と、嫌な予感があった。
女教師「問題はここからで……」
女教師「あれは確か昼頃だったと思います……」
女教師「急に……──」
男「…………」
一瞬、耳を疑った。
しかしその後、女教師が語る詳細を聞いて、
何となしに、曖昧な全てが繋がった気がした。
……………。
……………。
授業は終了。時刻は、五時を回る。
俺は溜った仕事を急いで片付け、
荷物をまとめて、帰りの準備に入った。
そんな俺を不思議に思ったのか、隣の席の男教師が話しかけてくる。
男教師「なぁ、もう帰るのか?」
男「あ、はい」
男教師「定時に帰るなんてお前にしては珍しいな」
男教師「やはり、まだ体調が優れないか」
俺の身体を本気で気遣う心が伝わってくる。
そんな彼に、俺は……
男「いえ、そういうわけではないんですが……」
男「万一に備えて、病院で薬を貰ってこようかなって」
男「身体の方は、もう大丈夫です」
男教師「そうか……でも、無理はするなよ」
男「はは、女教師と同じことを言いますね」
男教師「そうだったか……それは、ちょっと恥ずかしいな」
照れを誤魔化すように、右手で後頭部をかく。
そんな姿を見て、自然と口元が緩んだ。
だが。
男「……では、お先に失礼しますね」
男教師「おう、じゃあな」
男教師「また元気になったら、一杯行こう」
男教師「もちろん、俺のおごりでだ」
男「ははっ、その時は、絶対ご一緒させて頂きますよ」
男教師「楽しみにしてるぞ」
男「こちらこそ」
ガラガラ……。
職員室を出た後、廊下の壁に身体を預ける。
人知れず、胸の中で何かが蠢いている。
それを必死に抑えつけようと、鞄を胸の部分に押し当てた。
心を落ち着かせようと、大きく息を吐く。
けれども胸の中は未だ、何物かが暴れ狂う。
肺を犯さんばかりで、呼吸をするのも苦しかった。
分かっている。
それが何か、確実に理解していた。
男「…………」
……嫌悪だ。
それも自分に対する、人一倍の嫌悪感だ。
身を案じる同僚に、平気な顔で嘘をつき。
信頼を寄せる少女に対して、偽善を言う。
いつから、嘘が得意になったのだろう。
平然とした顔で、出任せが言えるようになったのは何時だ。
……約束の時間まで、あと三十分。
俺は学校を後にした。
………………。
………………。
男「もしもし」
女『え……どなたですか』
男「……俺だよ、俺」
女『…………誰?』
男「しがない数学教師だ」
女『…………』
女『もしかして……男先生?』
男「正解」
女『え、でも……』
女『私って、先生に番号教えたっけ?』
男「ああ、こないだ、お前の担任から聞いた」
女『なにそれ……』
男「なんか問題でもあったか」
女『大有りだよっ』
女『先生だけ、私の番号知ってるとか……』
女『……不公平』
男「……意味がわからん」
男「とにかく、今かけてる番号が俺の携帯のだから」
男「緊急用に、登録しとけ」
女『ん、まだ納得いかないけど、了解』
女『それで、用件は何?』
男「あ、そうだったな」
男「悪いが、今日は遅れる」
女『…………えっと』
女『……理由を聞いてもいい?』
男「別に構わんが……何だ気になるか」
女『……うん、すごく気になる』
男「…………」
女『うわ……今、ちょっと恥ずかしいこと言ったかも……』
男「……自覚があるなら良かった」
女『うわっ……何気にひどいよ……』
女『それで……何の用事があるの?』
男「……同僚との飲み会だ」
女『女教師先生とかと?』
男「残念なことに、男連中ばかりでな」
女『そうなんだ……』
女『ちなみに、何時ぐらいで帰ってくる?』
男「……遅くても九時には」
女『結構、早いね』
男「みんな家庭があるからな」
男「明日から土日だし、家族サービスもしないと駄目なんだろ」
女『ふーん……じゃあ、私にもそれは適用されるんだね』
男「……お前は家族じゃないだろ……」
女『ふふ、既に家族みたいなもんじゃん』
男「ばか、居候だよ」
女『そうとも言う』
男「ははっ、何言ってんだか」
女『ふふっ』
男「……じゃあ、もう切るからな」
女『うん、遅くても待ってるぞー』
男「…………」
男「おう」
ピッ。
………………。
外は既に暗闇に包まれていた。
一段と冷え込んだ風が、街中を流れている。
時たま、吐息を両手に吹きかけ、凍てついた肌を温める。
こんな寒い日にもかかわらず、街は人で溢れていた。
腕を組んで、互いに身を寄せ合う恋人たち。
小さな子供を連れた、笑みが絶えない若夫婦。
誰もが誰かを求めている。
誰もが誰かに恋している。
俺は、とある喫茶店の前で一人立っていた。
人を待っていた。ある女性が来るのを待っていた。
どれだけの人が目の前を通り過ぎたことだろうか。
基本的に待つことに馴れている俺も、
そろそろ三十分が経とうとした頃、正直疲れを意識した。
その時……
ふと、通りの向こうから、知っている顔を見つける。
向こうもこちらに気付いたようで、無邪気に手など振っていた。
正直、照れくさかった。
信号が、青に変わる。
人の波が、道路に溢れ。
俺の待ち人も、こちらへ向かってくる。
距離が縮む。あと少し。
彼女は笑顔だった。
遅れているにもかかわらず、笑っていた。
俺はそんな彼女に苦笑しながら、
何となしに空を見上げた。
息を吐く。視界を白が覆う。
季節は冬。十二月。
もうすぐだ。
あと少しで、やってくる。
──初雪が降る、その瞬間が。
?「先生、待ったー?」
喧騒の中から、俺を呼ぶ声がした。
空から視線を外し、目の前にいるだろう彼女に向ける。
男「約束より、三十分も遅れてるぞ……」
男「これなら急いで学校を出る必要もなかった」
俺は溜りに溜った愚痴は吐く。
彼女は苦笑して。
?「ごめんごめんっ」
?「ちょっと一旦家帰ったら、遅くなっちゃった」
男「まあ、言い訳は後で聞くとして……」
男「とりあえず、店に入ろう」
ドアを開いた瞬間、扉についた鈴が軽く鳴り、
店員の、気持ちのいい挨拶が聞こえた。
……………。
窓際の席を案内される。
席に座ると俺は一息ついて、
温かいおしぼりを袋から取り出そうとする。
すると、目の前の彼女が口を開いた。
?「さてさて……」
?「今日、男先生は、何を話そうと言うのかな?」
男「…………」
女生徒「こんなか弱い教え子を誘っといて、ね」
男「……まずは」
俺の推測が正しければ……
男「──何か、頼もうか」
欠けたピースはここにある。
……………。
……………。
一時間ほどが経ったのだろうか。
俺は彼女に対し、全てを話した。
女が家の前で酔っぱらっていたこと。
成り行きで自らの家に泊まらせていること。
今も尚、同居生活を続けていること。
始まりのあの日から、最近のことまで。
分かり易く、丁寧に、一つ一つ説明していった。
現状を言葉に出せば出すほど、
今が如何に倫理的に誤っているのかが分かる。
目の前の女子生徒の表情は、
初めの無垢な笑顔から、今は険しいものに変わっていて。
茶化すこともなく、俺が話し終わるまで、じっと……
ただ、じっと聞き入っていた。
男「……というわけだ」
女生徒「…………」
やっと全ての話が終わった。
それなのに、目の前の少女は黙っていた。
目を閉じて、一言も喋ろうとはしない。
暫く沈黙の時間が過ぎた。
先に口を開いたのは、少女の方だった。
女生徒「……で」
男「ん?」
女生徒「先生は、その話を私にして……」
女生徒「一体、どうしてほしいわけ?」
女生徒「私、馬鹿だからよく分かんないけど」
女生徒「今の話、私が学校に連絡したら、先生クビだよね?」
女生徒「マスコミだって別に構わないよ」
女生徒「今話題の女のことだから、どっかの雑誌は絶対に喰いついてくる」
女生徒「それってさ、先生的にはオッケーなの?」
男「…………」
女生徒「こんなこと言うのもなんだけどさ」
女生徒「男先生さ……」
女生徒「おかしいよ」
女生徒「間違ってるよ」
女生徒「先生は教師で、女は生徒なんだよ?」
女生徒「深い関係は一度もなかったって言ったって」
女生徒「そんなの、全く通用するわけないじゃん」
男「そうだな……」
女生徒「分かってるなら」
女生徒「そうやって分かってたんなら……」
女生徒「意地でも女を泊まらせちゃ駄目だったんだよ」
女生徒「仮にそれで、女にとって好ましくない結果になったとしても」
女生徒「そこは譲っちゃいけない、大事な部分でしょ」
男「…………」
女生徒「……ねぇ、先生」
女生徒「なんか私、おかしなこと言ってるかな?」
男「……いや」
……正論だった。
それも、反論の余地が何処にも見当たらないほどの。
男「全て、君の言った通りだ」
女生徒「…………」
男「全ての責任は俺にある」
男「初めのあの瞬間……」
男「アイツを家に泊まらせたその決断が……」
男「間違いだった」
男「完全な、誤りだった」
女生徒「…………」
男「でも」
女生徒「……え?」
男「もう、戻ることは出来ないんだよ」
時は進み続けている。
今も。過去も。そして、未来も。
止まることはない。勿論、戻ることも出来ない。
俺に残された唯一の道は……
男「アイツを家に泊まらせた時点で」
男「どんな結末だって受け入れる覚悟は出来ている」
女生徒「……クビになっても?」
男「……ああ」
女生徒「社会的非難を浴びても?」
男「ああ」
女生徒「…………」
女生徒「女が……それで……」
女生徒「……傷ついても?」
男「…………」
でも。それでも。
男「勿論だ」
……もう、前に進むことしか出来ないのだ。
女生徒「…………」
少女は再度、黙った。
俺から視線を外し、窓の外を眺める。
その横顔には、彼女の揺れる心の動きが映っていた。
どの選択が最適なのか。少女は迷っているのだろう。
俺と彼女の未来を、今まさに彼女が握っている。
これからどんな結末を迎えるのか。
今の俺には、全く分からなかった。
けれど、仮にそれが俺の求めるものでなくても。
受け入れる覚悟は、既にしている。
ただ、一つだけ悔いが残るとしたら。
それは居候の彼女のことに他ならず。
少女が傷つき、苦しむ姿を想像すると、胸が痛んだ。
女生徒「……はぁ」
俺が他のことに気を取られていると、
目の前の少女は、先ほどとはうってかわって。
胸の奥の蟠りが消えたような、清々しい表情を浮かべていた。
女生徒「……付き合うよ」
男「……え?」
女生徒「二人の秘密に私も付き合うよ」
男「それって……」
女生徒「先生がどうなったって、私は気にしないけど」
女生徒「女が悲しむのは、嫌だからね」
女生徒「先生も、それが分かってて私に話したんでしょ?」
男「…………」
女生徒「別に、無理して言わなくてもいいよ」
女生徒「あーでも、そうか」
女生徒「そう考えると、何だか合点がいくね」
女生徒「こないだコンビニのアルバイトの時に偶然会ったけど」
女生徒「もしかしてあれって……」
男「……そうだ」
女生徒「あーやっぱりそうなんだ」
女生徒「なーんか、変だと思ったんだよなー」
女生徒「彼氏がどうとか、最後に聞いてくるし」
女生徒「さっきの話を聞いて、やっと分かったよ」
男「……すまん」
女生徒「謝らなくていいって」
女生徒「それだけ、真剣に女のこと考えてるってことなんでしょ」
女生徒「正直、まだ先生のこと信用したわけじゃないけどさ」
女生徒「その想いだけは、確実に本当だって分かるから」
女生徒「……それで」
少女は、俺の言葉を待っている。
彼女を呼び出した理由。秘密を明らかにした理由。
その意味を。その訳を。
彼女はじっと待っている。
男「小学生の頃からずっと一緒で」
男「唯一彼女が気の許せる君に」
男「……聞きたいことがある」
女生徒「…………」
男「……彼女の父親は」
……彼女の記憶は。
男「……死んでないんだな?」
──どこで狂い始めたのだろう
…………。
………………。
女教師「あれは確か昼頃だったと思います……」
女教師「急に……」
女教師「一人の男性の方が、職員室の方へやって来られて」
女教師「ドアを開けたと同時に、大きな声で言ったんです」
女教師「『女はどこだっ?』」
女教師「『この学校にいるんだろっ?』」
女教師「初めは週刊誌を見た変質者だと思ってたんです」
女教師「それで男の先生方も何とか追い出そうとしてたんですけど」
女教師「その後に言った言葉に皆、愕然としちゃって……」
女教師「私、彼女の担任なんで、彼女の家庭の事情も知ってまして」
女教師「実は彼女の家って、母子家庭なんですよ」
女教師「お母さんはスナックのママさんやっていて」
女教師「でも、凄く感じの良い方で……あの女さんの母親ですもんね」
女教師「だから、その人の言うことは嘘だと思ったんです」
女教師「だって、その男性、異常なぐらい……血走った目をしてたんですよ……」
女教師「それで、とりあえず、お引き取り願ったんです」
女教師「彼女も休みだったし、また後日改めて……ということで」
女教師「でも、あの人……」
女教師「帰り際も、ずっと怒鳴り散らしてました……」
女教師「『俺は、女の父親なんだっ!』」
女教師「『その親が、子供に会っちゃいけない理由がどこにあるっ!!』」
女教師「……何だか凄く怖かったです……」
男「…………」
………………。
…………。
家に帰った。
いつものように女の出迎えがあって。
俺の帰りを素直に喜んでいた。
部屋の中は、食欲を誘ういい匂いが漂っていて。
匂いの元はすぐに分かった。
コンロの上にある鍋の中には、温かいカレーが。
我が家に来て、初めて彼女は手料理を作ったようだった。
照れくさそうに、それでも俺が食べるのをじっと見つめて。
「おいしい」と言ったときの、少女の笑顔は。
俺の心を強く揺さぶった。
その後は、二人で楽しい夕飯の時を過ごして。
くだらない番組を二人して笑って。
交代で風呂に入って。
明日は休日だということもあってか、
床に入った後も、どちらかが眠たくなるまで
カーテン越しで雑談をした。
楽しかった。
幸せだった。
少し経ち……。
少女の穏やかな寝息が聞こえてきて。
俺は、普段は吸わない煙草を一本持って。
音を立てないように静かにベランダへ出て、一服をする。
男「…………」
胸が温かくなる、そんな生活だった。
満たされていると実感できる、そんな日常だった。
けれども。
そこには、矛盾があり、異常がある。
綻びは、次第に、大きくなっている。
俺は彼女の看病をして確信していた。
彼女は、俺と父親を重ね見ていた。
だからこそ、時に俺が触れても少女は震えない。
俺と父親を重ねている時は、身体が拒絶しないのだ。
全ての始まりを思い返す。
彼女を家に止める決意をしたあの日。
確かに、少女は俺に嘘を言った。
家の前で酔った彼女と出会うまで……
友達の家に厄介になっていたと聞いた。
その友達が女生徒のことだとは、すぐに分かった。
少しの間、泊まっていたというのも事実だ。
今日、本人から聞いた。それは正しい。
けれど、彼女に付き合っている男性はいない。
女が言う、問題は起こらなかった。
それなのに、女は彼女の家を出てどこかで酔った。
酒を飲んだ場所が問題なのではない。
重要なのは、何故、彼女の家を出たのかだ。
それを今日、聞かなければならなかった。
女生徒はこう言った。
………。
……………。
女生徒「……あー……」
女生徒「確かに、喧嘩はしちゃったんだ……」
女生徒「女があまりにも自分の母親のこと悪く言うもんだから」
女生徒「私も、ちょっとイラッときちゃって……」
女生徒「『お父さん、お父さん、言うけどさ』」
女生徒「『女の父親が良いやつだなんて、私は全く思わないけど』」
女生徒「そしたら、女、怒っちゃって……」
女生徒「でも、おかしいなって前から思ってんだ……」
女生徒「女と仲良くなったのは、四年生の終わりなんだけど」
女生徒「その前はあんまり接点もなくて」
女生徒「夏休みが終わった頃だったかなあ……」
女生徒「少しの間だけど、女が休みがちだった時期があったんだ」
女生徒「理由は何なのか分からなかったんだけど」
女生徒「噂で、女の両親が離婚したとか……そんな話で……」
女生徒「いつの間にか、普通に学校にも来るようになって」
女生徒「その後、席が近くなったことで仲良くなって」
女生徒「でも……家庭の事情とかは詳しく聞けなかった」
女生徒「なんか遠慮しちゃってね……」
女生徒「それで、中学の時に思い切って聞いたら……」
女生徒「『私、父親のこと知らないんだ……』って言うんだ」
女生徒「でも、私知ってるんだよ」
女生徒「物心ついた時には、確実に女に父親はいたんだ」
女生徒「小四の時だっていたはず」
女生徒「それなのに、何故そんなこと言うのかなって思ったけど」
女生徒「あんまり触れられたくない話だから嘘を言っているんだと判断したんだ」
女生徒「けど……」
女生徒「後になって、どうも、おかしいって気付いた」
女生徒「明らかに嘘言ってるようじゃないんだよ」
女生徒「本気で……」
女生徒「父親のこと、忘れているみたいで……」
………………。
…………。
少女の記憶はどこかで狂い出した。
今の彼女は消えてしまった父親に、飢えている。
しかし、その父親は現に生きていて。
彼女に会いに、学校まで現れている。
女生徒の話もそれが事実だと裏付けていた。
何かがおかしい。
何かがずれている。
やれるべき手は尽くした。
……けれども、まだ足りない。
彼女の闇を解き明かすには、何かが抜け落ちている。
それはもう、俺の出来る範疇を越えていて。
限界だった。ここからは、自力で進むことは困難だ。
男「…………」
既に。
俺の頭の中には、
最後の選択肢しか残っていなかった。
………………。
………………。
女「先生、おはよっ」
男「あぁ……おはよう」
女「ふわぁー……休日なのに早起きなんだね」
女「何時から起きてるの?」
男「んー……いつもと同じだ」
男「昔から目覚めだけは良くてな」
男「自然と時間になると目が覚める」
女「……その能力、私も欲しい」
男「日々のサイクルを狂わせなければ」
男「次第に、意識しなくても出来るようになるさ」
女「つまりそれって、二度寝とか出来ないってこと?」
男「勿論だ」
女「……ないわ」
女「そんな地獄、想像しただけでもぞっとする……」
そう言って、少女はまた布団に潜り込む。
男「おいおい、もう九時だぞ」
女「………ん……あと少し……」
男「駄目だ、起きろ」
女「あと……三十分だけー……」
男「……子供かよ」
俺は彼女に聞こえるような、大きな溜め息をつく。
少し演技臭かったのは、センスの無さか。
男「はぁー……」
男「それなら、もう仕方ないな」
女「……やったぁ……」
男「しかし、残念だな」
女「……え?」
男「……せっかく今日」
男「遊びに出かけようと思ってたのにな」
女「…………」
男「まあ、仕方ない」
男「代わりに女教師でも誘ってみよう」
女「……あのー」
男「ん?」
少女は布団の影からこちらを覗き込んでいた。
その様子に俺は、思わず笑みを零しそうになり、
必死に、残念そうな表情を取り繕っていた。
女「……今からでも間に合うかな……?」
男「それは、急げば何とかなると思うが」
男「お前、まだ寝たいんだろ?」
女「え、ええと……なんか頭が冴えてきちゃったっ」
がばっと瞬時に身体を起こし、
ちょこんと正座してアピールしている姿は……
正直、可愛らしかった。
そんな彼女を見て。
俺の心の奥には、少し意地悪な気持ちが沸き起こり。
男「おいおい、無理に俺に合わせなくていいんだぞ」
男「確かにチケットはもう買ってしまったが」
男「こないだ、女教師が見たいって言ってた映画だし」
男「誘えば喜んでOKするはずだ」
男「女もまだ風邪から治ったばかりだったからな」
男「今日は遠慮しないで、ぐっすり寝とけ」
女「……いや」
女「ぜーったいにいやっ!」
男「しかし……」
女「私が行くからっ!」
女「そんな面倒な真似しなくていいよ!」
女「女教師先生だって、部活の練習あると思うし」
女「多分、迷惑だと思うっ」
男「……そうかな?」
女「うん、そう!」
女「だから、私と行こうっ!」
男「……ふむ」
少し考える動作をする。
そんな俺の様子に、少女は内心ドキドキしているようで。
笑いを堪えるのは、既に限界だった。
男「……ふ、ふ」
女「へ?」
男「ふはははははっ」
女「ちょ、ちょっとっ」
女「な、何がおかしいのよっ」
男「ははっ、いやな……こっちの話だ」
女「もう絶対馬鹿にしてるし……」
男「わりぃ、わりぃ」
男「よしっ、そうと決まったなら」
男「早く出かける準備をしないとな」
女「あ……」
女「うんっ」
女「急いでするねっ!」
男「おう、出来るだけ急いでくれ」
満面の笑みで、洗面所へ駆けて行く姿は微笑ましい。
早速俺は、キッチンで二人分の食事を作り始めた。
………………。
今は閉められているカーテン越しから、
ふと彼女の声が聞こえてくる。
女「ねー先生っ?」
男「んー、何だ?」
女「それで、買った映画のチケットって何時からなの?」
男「うんとな」
女「うん、昼ぐらいかな?」
男「単刀直入に言うぞ」
女「いいよ」
男「映画のチケットは……」
男「買ってない」
女「…………」
女「はっ?」
男「嘘も方便って言うじゃないか」
女「ええと……それって……」
男「あーでも言わないと、女は意地でも起きそうになかったからな」
男「意外に策士だろう」
女「……………」
女「……ひ」
男「ひ?」
女「ひっどーーーーーいっ!!」
女「この私を騙したわねぇーーっ!」
ガチャン……ガチャン……。
男「うわっ……今、火の元だからっ!」
女「関係ないわよっ、このぉーーっ!」
女「もう先生の……」
女「バカーーーーーっ!!」
……地獄絵図だったとさ。
………………。
………………。
映画の内容は割とありきたりな、悲恋の物語だった。
ある一人の青年がいて。
その彼が恋してしまったのは、十も歳が違う女性で。
初めは全く相手にされない。
手紙を送っても。本人に想いを伝えても。
彼女は本気にならず、いつもはぐらかすだけだった。
けれど、青年は諦めなかった。
彼女はある大学の研究室の講師だった。
青年は高校生だったが、それを利用して何度も足を運んだ。
雑用だろうが何だろうが、彼は必死に頑張った。
次第に研究室の教授に好かれるようになって。
他のメンバーからも彼の恋を応援する者も現れた。
確実に、想い人との距離も近づいていた。
そんな矢先。
その女性は、彼にある条件を出した。
いつまでも諦めない青年に、渋々折れて。
付き合うためのチャンスを与えたのだ。
条件の内容はこうだった。
四年前、突然いなくなってしまった彼女の愛犬を探し出すこと。
手がかりは一枚の写真だけ。
彼女と愛犬が仲良さそうに写っている写真だ。
見つけられるはずもない。
既に四年もの時間が経過している。
それは人にとっては人生の短い一時かもしれないが、
動物……特に犬にとっては、あまりにも長過ぎる時間だった。
要は……その女性は、
青年と付き合う気など更々なかったのだ。
いつまでも諦めない彼に対して、
それは事実上の拒絶を意味していた。
しかも、永遠の。
彼の恋を応援する者も、その話を聞いて皆落胆した。
時に青年を励まし、他の恋を薦めるものもいた。
けれど。
青年は、諦めなかった。
……いや、逆に喜んでいた。
彼は言う。
『もし、自分がその犬を見つけ出せれば』
『僕は彼女と付き合うことができるんです』
『僕だって分かってますよ』
『何事もなく、このまま続いたとしても』
『彼女の想いは僕に向かれることはない』
『それに……』
『いつまでも研究室に行くことは出来ません』
『どこかで必ず無理がやってくる』
『それは僕の方に問題が起こるかもしれないし』
『彼女が違う大学へ転勤してしまう可能性だってある……』
『だから、今回の彼女の発言は僕にとってチャンスなんです』
『変わるはずもなかった日常が』
『止まってしまったこの恋が』
『前に進むことのできる……』
『大きな一歩だと言えませんか?』
恥ずかしがることもなく。
青年は一人、前を見続けていた。
そこからは、彼の苦しい闘いが始まる。
たった一枚の写真だけを頼りに、
チラシを配って、保健所にも足を運んで。
しかし、予想通りと言ったところか。
彼の探す犬の手がかりは、全く得られない。
無駄な時間だけがただ過ぎていく。
初めはやる気に燃えていた青年も、
次第に少しずつ、現実という壁を実感し始め。
研究室に行くことも無くなった。
口を開けば彼女のことばかりだったのに、
その話すら全くしなくなった。
青年は……遂に、自らの恋の限界を自覚した。
何かが抜けてしまったように、
日々の生活をただ呆然と送る青年。
そんな彼を内心は心配していた彼女だったが、
自分が原因を作ってしまった以上、会うことも出来ない。
そして、物語は終盤へ差し掛かる。
ある日、青年が学校からの帰宅途中、
一人の老婆とすれ違う。
最初は気付かなかった彼も、
その光景を垣間見て、勢い良く振り返った。
何度も見た。何度も脳裏に焼き付けた。
片時も忘れることはなかった。写真。
彼女と愛犬が仲良さそうに映る、あの写真だ。
そして、そこに映る犬の首には。
真ん中に赤いラインが入った、
金色に輝く、楕円型のコインがついていた。
振り返った先にいたのは。
老婆と……一匹の、ゴールデンレトリバー。
後ろ姿からは伺えない。
彼らを呼び止めるため、彼は声を挙げる。
ゆっくりと。
彼らがこちらへ振り返る。
老婆の横にいる、犬の首元には。
あの……見覚えのある……金色が。
しかし。
青年はすぐに気が付いた。
その犬は……小柄だった。
写真で見たものに比べても、明らかに小さい。
久しぶりの研究室へ。
彼女も他の連中も、彼が既に諦めたと考えていた。
それ故、彼を視界に入れて皆驚く。
場面は変わって。
大学の中庭で半年ぶりに青年と女性は会話をする。
青年はただ詳細を伝えた。
消えてしまった犬の子供も見つけたと。
けれど目当ての犬は既に死んでしまったと。
彼は説明を終えると、彼女の元を去ろうとする。
呼び止める女性。まずは感謝の言葉を述べる。
無理難題を押し付けたことの後悔と。
今は、青年が気になっているとの旨を伝えた。
いつの間にか、日常に入り込んでしまったと。
この半年会えなかったことで、気付けなかった感情を自覚したと。
彼女は言った。
それは確かに、青年がずっと求めていたものだった。
だが。
青年は最後に言う。
『ありがとう』
『本当に嬉しいよ』
『ずっと好きだったから、ずっと付き合いたかったから』
『この日をどれだけ待ち望んだか』
『……だけど』
『もう駄目なんだ……』
『僕はこの想いを信じてた』
『条件は無理だと分かっていたけど』
『そんなことは関係ないと思えた』
『けど、現実は違った』
『僕は諦めた』
『僕は逃げたんだ』
『だから……』
『もう付き合えない』
『もうあの頃には戻れない……』
『あなたを必死に想っていた……あの頃には……』
………………。
女「……うぅ……くっ……うっく……」
男「……泣けたか」
女「だ、だって……か、可哀想じゃん……」
女「両想いなのに……こ、こんなの……うぅ」
女「うぅ……くっ……」
男「しかし……」
女「……ずずっ………なに……?」
男「一つ疑問なんだが」
男「どうして犬は、彼女の元から消えたんだ?」
女「……え?」
男「仲良かったんだろ?」
男「その犬が、主人をおいて勝手にどこかに行くなんて」
男「犬の習性上、考えられないんだけどな」
男「そういうところが、この映画のミスだな」
男「脚本家がいかに犬を知らないかが分かる」
女「…………」
男「しかも、物語なんだから最後ぐらいハッピーで終わらせろと」
女「……先生」
男「何でもいいから奇跡を起こせっ……って、ん?」
女「…………」
男「な、なんだ怖い顔して……」
女「……もう、何にも分かってないんだね」
女「はぁー……先生には、ラブストーリーは早すぎたか」
男「ちょ、ちょっと待て、それはどういう意味だ」
女「言葉通りの意味ですよーだっ」
女「人が感動してるところで、水差さないで欲しいよ」
女「ホント、女教師先生と行かなくて良かったね」
女「そんな反応されたら、完全に失望もんだよ」
男「……す、すまん」
女「…………」
女「まっ、でも私だからね」
女「他に先生の良いとこ知ってるし」
女「私で良かったね、先生っ」
………………。
その後は、彼女のショッピングに付き合って。
買う金も無いというのに、何店も見て回った。
最後は、予約していたホテルのレストランで夕飯を食べる。
目の前の少女は、料理が出てくる度に興奮していた。
コース料理を食べたことが一度も無かったようだ。
俺もこれほど豪勢な食事を食べるのは久方ぶりだった。
独り身に外食はつらい。教師仲間とは飲むのが基本だし、
こんなところに毎日行けるほど給料が良いわけでもない。
けれど、少しばかりは溜めていた貯金もあって。
今日はそれを切り崩して、お店を予約した。
少女の笑顔を見れただけでも、
その価値はあったと言って良い。
ただ。
彼女の笑みを見れる、それだけで。
満足してしまうという事実は、問題だった。
ここまでくると明らかに、教師の範疇を越えていた。
責任という言葉を使うだけでは、もう説明できない。
こうして、幸せの一日が過ぎる。
楽しかった一日が終わった。
………………。
………………。
日曜日がやってきた。
何変わらない日常がそこにはあった。
いつものように目覚める俺。
少し遅れて、少女は起きる。珍しく早起きだった。
どうやら朝食を作りたかったようだ。
先に起きている俺を視界に入れると、悔しそうな顔をした。
すぐさま台所に入って、料理の準備。
俺はその様子をじっと見守った。
千切りにすら悪戦苦闘する少女。
手助けしようとしたが、彼女に止められる。
時間は多少かかったものの、料理の出来は良かった。
基本、何でもこなせる子なのだろう。
練習さえすれば、すぐに俺を抜かせそうだ。
食後、食器を二人で洗った。
一人でやるより明らかに効率が良かった。
テレビの前で寛いでいる少女。
俺は彼女に向かって、掃除の手伝いを申し出る。
渋ると思っていたが、意外にすんなりと了承した。
あっという間に、正午になる。
朝食を作ってくれたお返しということで、
昼は俺の得意レパートリーを披露した。
メニューはシンプルなチャーハンだ。
けれど蟹缶をふんだんに使い、卵との相性が抜群で。
タマネギの柔らかい甘さが、その美味しさを引き立てる。
中華鍋を片手に具材が宙を舞う。
その様子を少女は感嘆の目で見つめていた。
正直な話、いつもより上手に出来た。
「おいしい」と言いながら笑顔で食べてくれる少女に、
口元が勝手に緩む。照れくさかった。
片付けを終えた後は、何となしに雑談する。
クラスの話とか、職場の笑える話とか。
話題は何でも良かったのだ。
ただ、二人で喋っているその空間が心地いい。
俺も、そして、彼女もそれを自覚していて。
楽しい時間が過ぎた。
独りでに時は進んだ。
時刻は──
……五時を回った
気が付けば、外はオレンジの光で包まれていた。
夕陽の日差しが窓から俺達を照らす。
俺はふと今の状況を再確認した。
目の前には輝く空を見つめる少女がいた。
光は彼女の瞳を綺麗に反射して、
俺はその美しさに目を奪われた。
きっと。間違いなのだろう。
きっと。錯覚なのだろう。
いつの間にか、俺の心に入り込んでいた。
けれど、その事実を信じたくはなかった。
少女は外から視線を外し、
真向かいに座る、一人の教師を……見つめた。
俺も……少女を見つめる。
静かな時間が過ぎだ。
何故か、言葉を交すことは無かった。
じっと。
ただじっと。
二人の視線が交差する。
沈黙を破るように、
少女が口を開こうとした瞬間──
女「……え?」
男「…………」
チャイムの音が聞こえる。
来訪者を知らせる音が鳴った。
男「……客みたいだな」
女「宅急便かな?」
男「……ああ」
男「そうかもしれない」
男「けれど」
男「多分、違うはずだ」
女「……どういうこと?」
男「…………」
俺は彼女の質問には答えず席を立つ。
ゆっくりとした足取りで、玄関へ向かった。
少女もそっと物陰からこちらを覗いていた。
俺はそれを確認して。
……扉を開けた。
?「…………」
女「……なっ」
男「お久しぶりです」
男「とりあえず中へ上がってもらえますか」
男「話さなければいけないこと」
男「謝らなければいけないこと」
男「話すことはたくさんありますから」
女「…………」
母親「……はい」
女「……母……さん……」
そして。
変わらない日常は。
幸せだった日々は。
──一瞬にして終わりを告げた
………………。
………………。
目の前に座っているのは、少女の母親。
小さな飲み屋で日々働いて、一人の娘を育て上げた。
そこには子に対する愛がある。
親の責任を全うした意志がある。
そんな女性に、母親に、俺は頭が上がらない。
自らを育ててくれた叔父と被って仕方が無かった。
だからかもしれない。
彼女に怒鳴られても、叱られても。
時には暴力を受けたとしても、全く構わなかった。
或いは、彼女に断罪して欲しかったのか。
教師の身でありながら女を泊まらせたという罪に、
少しでも償いをしたかったのかもしれない。
けれど。
目の前の女性は、全く動じることはなかった。
瞼を閉じ、真摯に俺の説明を聞き、
その表情は実に穏やかで……。
俺は……それが逆に不安だった。
その静かさが。とにかく、恐ろしかった。
冬にもかかわらず、俺の額からは一筋の汗が流れた。
幾ら弁明しても、全てを見通されているような。
そんな恐怖が……胸の中を渦巻いていた。
男「…………」
やっとのことで、全てを話し終える。
無限に感じられた時間が、終わりを迎えた。
隣にいる少女は、じっと下を向き。
その様子は、何かを必死に耐えているようで。
しばし、沈黙の時間が続いた。
二三分が経っただろうか。
彼女の母親が、ゆっくりと。
……まず初めにこう言った。
母親「……ありがとうございました」
男「……え……?」
その言葉に、俺は耳を疑う。
彼女は続けた。
母親「この娘が家を出てから……」
母親「正直、毎日が不安で仕方ありませんでした」
男「…………」
母親「一時期は全く連絡もなくて……」
母親「警察に捜索願を出そうとも考えてたんです」
母親「……けれど、そんな矢先」
母親「急に、定期的に連絡が来るようになって……」
母親「凄く安心したのを覚えています」
男「……はぁ」
それが、侮蔑でもなく、憤怒でもない……
感謝の言葉を俺に述べる理由になりうるのだろうか。
ただ、相づちを打つことしか出来なかった。
そんな俺の内心を察していたのだろうか。
何故か彼女は……笑顔だった。
母親「今の先生の話を聞いて……」
母親「やっとその理由が分かりました」
男「……?」
どういうことだ……?
事情が分からない俺は、ただ狼狽えるばかりで。
助けを求めるように隣の少女を見ると、
一瞬視線が合ったのだが、すぐに逸らされてしまう。
目の前の女性は、まだ笑っている。
俺の答えを待っているようだった。
男「……ええと」
母親「まだ分かりませんか?」
男「は、はい……」
男「正直……さっぱりです……」
母親「男先生」
男「あ……はい」
唐突に名前を呼ばれる。
母親「この娘がここに泊まり始めたのはいつですか?」
男「ええと……」
男「約二週間前です」
母親「実は……」
母親「連絡がとれるようになったのも」
母親「同じ、二週間前なんですよ」
男「…………」
男「……えっ」
俺は慌てて、隣の少女を見る。
女「……うっ」
また視線を外されてしまうが、
彼女の頬がほんのりと赤く染まっているのに気が付いた。
ああ。
そういうことか。
つまり──……
母親「この娘、先生に迷惑かけたくなかったんでしょうね」
母親「下手に学校や警察に連絡されると」
母親「確実に先生の家に泊まってることが分かってしまう」
母親「それだけは防ぎたくて、私に連絡をするようにしたんでしょう」
男「…………」
どんな反応をすればいいのか。
隣の少女はさきほどより深く俯いていて。
それが、母親の言うことが事実だと裏付けている。
まさか。
本当に考えもしなかった。
連絡をとっているのは知っていたが、
それが俺のためだったなんて……気付けるわけもない。
少女を保護した気持ちになっていたが、
皮肉にも彼女も俺を守ろうとしていたなんて。
男「……は、はは」
滑稽だ。
自分に対して嫌気がする。
常に上から彼女のことを見て。
教師面、大人面をして。余裕を持った振りをして。
何も考えていない危なっかしい生徒を、
少しの間だけ、泊まらせてやった。
そんな風に思っていた俺が、
実は、彼女に助けられていたなんて。
男「…………」
とても恥ずかしかった。
それも、人生で一二を争うぐらい。
すぐにでも、床でのたうち回りたい気持ちを抑えて。
けれど。
胸の中に宿ったのは……
男「…………」
男「……なあ、女」
女「……うっ」
男「今のことは本当なのか」
女「べ、別に先生のためだけって訳じゃないよっ」
女「母さんにも心配かけたくなかったし……」
女「面倒は御免ってだけで……」
母親「ふふっ」
女「ちょ、ちょっと、母さんっ!」
女「笑わないでよっ」
母親「ごめんなさい、女の必死の言い訳がおかしくて……」
女「言い訳って……」
女「まあ……確かに……そうかもしれないけど……」
男「…………」
少女はちらちらとこちらを伺っていた。
そんな彼女を俺は見つめる。
男「女」
女「……うぅ」
男「ありがとうな」
男「そんな気を遣ってくれてたなんて」
男「本当に思いもしなかった」
女「…………」
男「もし、仮にお前が連絡してくれなかったら」
男「俺は、教師の職を確実に追われていたな」
男「或いは、牢屋にぶち込まれてたかもしれない」
女「そ、そんなことは……」
男「いいや、あるさ」
男「それだけ俺の行為は、非難されるべきことだ」
男「仮にお前が困っていたとしても」
男「違う良い方法が、必ずあったはずなんだ」
女「……せ、先生」
男「まあ……」
それでも。
これからどうなるのかはまだ分からない。
全ては──
男「お母さん」
母親「……はい」
男「それで……」
男「この後、どうします?」
男「学校にも、警察にも……」
男「……望むままにして下さい」
母親「…………」
女「え、え?」
女「ちょ、ちょっと待ってよっ」
女「先生、その言い方だと……」
母親「良いんですか」
男「はい」
女「か、母さんっ!」
母親「女は少し黙ってて」
女「で、でもっ!」
女「私が勝手に泊まっただけだよっ!」
女「先生は、何も……何も悪くないってっ!」
母親「……女」
女「……うぅ……」
彼女が少女の名前を呼んだだけで、
俺を必死に庇う少女は静かに黙った。
それだけ、この母親は大きな存在なのだ。
男「…………」
俺から最早言うことはない。
母親「…………」
彼女は俺をじっと見つめる。
そして──
母親「……そうですね」
母親「いくらこの娘が無理を言ったとしても」
母親「あなたが教師である以上、それは止めるべきだった」
母親「選ぶべき選択ではなかった」
女「……か、母さん……」
少女の悲痛の声が聞こえる。
けれど、俺には分かっていた。
あれが間違いだったと。過ちだったと。
男「…………」
母親「……先生」
母親「今、あなたはどんなことを考えてますか」
母親「泊まらせたのは間違いだと」
母親「過ちだったと」
母親「……思ってはいませんか?」
男「…………」
母親「……多分ね」
母親「それが、普通の反応だとは思うんです」
母親「社会的に見てもそうでしょうね」
母親「…………」
母親「……でも」
男「……え?」
母親「私は、先生の判断は正しかったと」
母親「そう思ってしまうんですよ」
男「…………」
母親「あの日」
母親「先生がこの娘を家の前で見つけた時」
母親「かなり酔っていたと聞きました」
母親「もし……」
母親「行き着く先が、先生の家じゃなかったら」
母親「その前に、他の人たちに連れ去られていたら」
母親「先生が泊まるのを頑なに拒んで……」
母親「そのままこの娘が飛び出してしまったら」
母親「私は……それを考えるとぞっとします」
男「…………」
母親「だから」
母親「私は、本当に感謝してます」
母親「先生で良かったなって……」
母親「今日、この娘が必死に庇う姿を見て」
母親「それは確信に変わりました」
母親「ありがとう」
母親「本当に、ありがとうございました」
母親「……そして」
彼女は笑顔を止めた。
厳しい顔つきで、こう続けた。
母親「お話をしなければならないこと……」
母親「お願いしなければならないことがあります」
男「……?」
女「……え……?」
彼女は、静かに息を吐く。
少しの間があった後──
……彼女は言った。
母親「もう少しの間だけ」
母親「……この娘を預かってもらえませんか」
男「それは……」
この生活をまだ続けるということか。
娘をここに置いていくということか。
分からない。理解に苦しむ。
何の意味があって、そんなことを……。
頭の中で色々巡らせてみるが、理由は見つからない。
母親「実は……」
母親「事態は緊迫してまして……」
母親「話せば長くなるんですが……」
彼女はすまなさそうな表情で、俺に言った。
その時。
頭の中で。
何かが一つに繋がった。
男「…………」
男「それは」
男「数日前に学校に来た……」
男「女を探している男が関係してますか?」
母親「…………」
女「……え? なに、それ?」
母親「そうですか……」
母親「学校にも足を運んでるんですね……」
女「ちょっと待って」
女「ごめん、状況が全く掴めないんだけど」
女「誰か、私に会いにきたの?」
男「……お前が風邪で休んでる日にな」
女「それって……誰?」
男「…………」
男「その疑問に答えられるのは一人だけだ」
女「…………」
女「……母さん?」
母親「…………」
男「説明して頂けますか」
母親「……はい」
そう言って。
目の前の彼女は席を立った。
既に日が落ちて、外は真っ暗闇だ。
彼女は窓からその闇をただ眺めていた。
母親「女」
女「う、うん」
母親「あなたによく聞かれたわよね」
母親「いつも聞かれては、うやむやにしてきた」
母親「あなたが家出をした原因、覚えてる?」
女「…………」
女「……お父さんのこと……」
女「それで……また喧嘩して……」
母親「……そう」
母親「あなたの父親のこと」
母親「私は一切、教えてこなかった」
母親「ずっと、黙ってきた」
母親「それで言い合いになっても、喧嘩しても……」
母親「話す気はさらさらなかった」
女「…………」
女「で、でも……それが……」
女「今……話していることに関係あるの……?」
母親「…………」
母親「気を強く持ちなさい」
母親「そして」
母親「今のうちに謝っておくわ」
女「……え?」
母親「ごめん」
母親「ごめんなさい」
母親「私は母親として失格よ」
女「……か、母さん……?」
女「ど、どうしたの……?」
母親「私は……」
母親「……わたしは……」
母親「……いえ……」
母親「まずは説明しないとね……」
母親「先生が言った、学校に現れた男は……」
母親「おそらくだけど……」
女「……う、うん」
母親「あなたの」
母親「──……父親よ」
男「…………」
……予想通りか。
女「……ほ、ほんとに……?」
女「本当に、お父さんなの……?」
歓喜のあまり少女の瞳には涙が溜っていた。
嬉しいのだろう。
ずっと恋しく思っていた父親の情報が得られたのだ。
すぐ近くにいるということが分かったのだ。
男「…………」
だが。
まだ終わりではない。
どうして父親のことを隠す必要があるのだ。
ここまで隠し続けようとした理由は何だ。
加えて……
母親「……聞いて」
母親「まだ、話は終わりじゃない」
女「でも、お父さんがいるってっ……」
母親「違うの」
母親「それはあなたの“お父さん”じゃない」
女「えっ?」
女「……意味がよく分からない……」
女「だ、だって、今、その人はお父さんだって……」
母親「あなたの“父親”だった男よ」
女「…………」
女「……『だった』?」
記憶を失うとはどういうことだろう。
記憶が消えるとはどんな意味を持つのだろう。
母親「今は、あなたの父親でもなんでもない」
母親「既に離婚してるの」
女「……それでも」
女「離婚してても、私のお父さんじゃ……」
人間には防衛本能がある。
時にそれが生じた結果、
無意識的に記憶が改竄されることがある。
母親「違う」
母親「違うの」
母親「あの男は……アイツは……」
母親「あなたにとって……」
少女の、父親の記憶は狂っている。
明らかに書き換えられている。
それが。
彼女の父親とどう繋がるのか。
母親「──二番目の父親なの……」
……嫌な予感しか、しなかった。
………………。
………………。
あるところに一人の女性がいた。
彼女はとても美しく、何人もの男性から求婚を受けた。
けれど、どの男も彼女の心を奪うことは出来なかった。
小さい頃から多くの異性に声をかけられてきた、
そんな彼女にとって、生涯を共にしたいと思えるような男性は、
そう見つかることはなかった。
彼女の夢は、歌手になること。
それはテレビの中で歌っているアイドルたちではない。
洒落たお店で、劇場で、客の心を掴むそんな歌手になりたかった。
容姿端麗な彼女にとって、その夢は現実可能だ。
すぐさま、ある店から声がかかる。
彼女は歌った。
人生を歌に乗せた。
恋愛など彼女には最早不必要な存在だ。
オレンジ色の柔らかい光があたる……
そんな場所で歌えることだけが、彼女の幸せになった。
客の誰かが言った。
あの店には、最高のシンガーがいる、と。
それを聞いて訪れた誰かが言った。
あの歌を聞けるだけで、大金を積む価値がある、と。
……いつの間にか。
彼女は店の看板になった。
口コミは広がって、見る見る客の数も増えた。
けれど、彼女にとっては既に些細なことだった。
何かに邪魔されることなく、自らの意志だけで歌う。
それが、とても心地よかった。
ある時。
一人の客が、歌い終わった彼女の元にやってきた。
いつものことだ。
歌を絶賛するか。
それとも彼女の気を引きたいだけか。
数多くの台詞を彼女は聞いたが、
基本的にこの二つのどれかに分類できた。
相手は、男性。
彼女は後者だと思った。
今度はどんなユーモアに富んだ台詞を聞けるのか。
どちらにせよ、自分の答えは決まっている。
そうやって、内心で小馬鹿にしていた。
いつもの営業スマイルで迎える。
彼は言った。
『とても綺麗な歌声でした』
聞き飽きた台詞だった。
しかし。
その後の言葉を聞いた彼女は凍り付いた。
『けれど……』
『何故か、胸には届かなかった』
『あなたは何を思って歌ってますか』
『何を考えて歌っていますか』
『とても美しい歌でした』
『が、心には響かない』
『……期待していただけに』
『本当に残念です』
そう言い終えた彼に、反射的に彼女は、
飲んでいた酒の中身を浴びせた。
許せなかった。
あれほど皆が絶賛するしているのに、
この男は何を言っているのだと、腹が立った。
けれど。
その言葉は彼女をずっと蝕むことになる。
あれだけ楽しかった、歌う行為が。
次第に苦痛になっていく。
気が付けば。
彼女は、店を辞めていた。
そして、再開の日はすぐにやってきた。
駅のホームで偶然、あの男性を見かける。
時刻は深夜。
正直、女性から声をかけるような時間ではない。
躊躇った後、結局は彼の肩を叩くことになる。
初めは驚いていた彼だったが、金曜日ということもあってか、
少し話をしようということになる。
彼女は聞きたかったのだ。
どうしてあの時、彼はああ言ったのか。
ずっと疑問に思っていた。
胸の中で蟠りとなっていた。
公園のベンチに座り、彼女は切り出す。
まずはあの時、酒を浴びせたことに対する謝罪を。
そして、ずっと聞きたかったことを。
彼は言った。
それはあの日と同じ台詞だった。
『あなたは何を思って歌ってますか』
『何を考えて歌っていますか』
彼女は答える。
特に何かを考えて歌いはしない、と。
本能に任せ、気分良く歌うだけだ、と。
正直に、包み隠さず言った。
『多分、それが普通なんでしょう』
『でも僕は、何か違う気がしたんです』
『あなたは何故歌いたいと思ったのか』
『初めの頃、何をもって歌いたいと思い始めたのか』
『恐らく、多くの人を感動させたいと』
『多くの人の心を掴みたいと思ったと思うんです』
『けれど、あの時のあなたには……』
『それが全く感じられなかった』
『あれは、あなたの自己満足に過ぎない』
『あなたは客を全く見ていなかった』
『ただの見物人に過ぎないとしか思っていなかった』
『視界の隅にも入れなかったはず』
『それが……何となく感じられて……』
『生意気にも、あんなことを言っちゃったわけです』
彼女はそれ聞いて。
はっと気付くものがあった。
確かにそうだ。
自分は客のことを一切無視していた。
聞きたければ聞け。
時には、聞かせてやっているのだ、とも考えていた。
それもある意味、一つの形だ。
誰かに否定させる言われはない。
けれど、自分はどうだ。
どうして、歌手を夢にしたのだ。
人を感動させたいと。
強く願ったからではなかったのか。
忘れていた。一番大切なことを失念していた。
周りに評価されて、天狗になっていたのか。
彼女は納得して、落ち込んだ。
彼に言い返せる気力も、反論も、なかった。
そんな彼女を見て、彼は言った。
『そんな悲しませるつもりはなかったんです』
『それでも……』
『また無礼なことを……お願いしてもいいでしょうか』
『もし……』
『よろしければ……もう一度ここで』
『あなたの歌が聞きたい』
勿論、返事は決まっていた。
彼女は歌う。
彼に向かって。
彼女は歌う。
たった一人の客に向かって。
自分の歌声を聞いている彼が。
隣にいることを意識しながら。
彼が自分の歌に聞き入っていることが。
言葉を交わさずとも伝わってくる。
気持ち良かった。
あの不快感が嘘のように、楽しかった。
彼女の生涯にとって。
それは一生、忘れられない一瞬となる。
歌い終わった時。
彼は何も言わず、彼女に向かって、ただ笑った。
その笑みを。
彼女は、愛しいと。
……そう、感じたのだ。
時は経って。
二人は愛し合った。
結婚するのに、時間はかからなかった。
二人の愛の結晶が。子供が。
生まれる。
幸せが続いた。
彼女にとって、最高の時間が続いた。
けれど。
それは、唐突に終わりを迎える。
二人の子が、ちょうど一才になった頃。
彼は急性の心臓発作で亡くなった。
彼女は嘆いた。運命を呪った。
愛しい彼の待つあの世へ、行こうかとも考えた。
しかし、彼女には子がいる。
まだ、立つことも出来ない子供がいた。
そのことを考えると、止まるわけにはいかなかった。
歩み続けるしかなかった。
水商売で金を稼ぐ。そんな生活が続く。
必死に毎日を生き、子の笑顔を生き甲斐にした。
いつの間にか。
子供は、小学生になった。
必死に働いた結果、金もかなり溜っていた。
彼女はそれを元手に、店を開くことにする。
小さな店だ。客も二十人ほどしか入らない。
けれど、前以上に時間が出来、余裕がある。
彼女の苦労も、少し減った。
だが、そのせいで。
彼女は胸にぽっかりと空いた穴を意識し始めた。
それは、夫が死んでしまった代償だ。
がむしゃらに生きた間は忘れられたが、
また悲しみと、愛しさが募り始めた。
そんな時。あの男と出会ったのは、
ちょうど夏のことだった。
とにかく人が恋しく、限界だった。
かつての自分なら、相手もしないような男だった。
けれど、彼は何度も店に足を運んだ常連だった。
明らかに自分を好いているのが分かる。
それが、彼女の判断を鈍らした。
何度も男の誘いを、愛の囁きを拒んでいたが、
ついに彼女もそれに乗ってしまう。
恋は盲目と言う。
長年人恋しかった彼女は、周りが見えなくなった。
優しい言葉を常に囁く彼に、彼女は虜になった。
プロポーズを受ける。そして、二度目の結婚を迎えた。
また、幸せがやってきた。
いや、やってくるはずだった。
しかし、現実は違った。
問題は、彼女の連れ子だ。
男は始め、良い父親として彼女に振る舞った。
土日には子供を可愛がった。
けれど、それも長くは続かない。
子供が小学三年を迎えた頃から、
男は明らかにその存在を無視することになる。
一緒に暮らしているというのに、
男は子供を全く相手にしなかった。
食事のときも。家にいるときも。
完全に無視を続けた。
彼女はそれ見て、この生活が既に限界だと気付いてた。
けれど、一度恋してしまった感情を捨て去ることを恐れた。
彼女もまた、彼の前では子供を相手にしなかった。
男に嫌われるかもしれないという恐怖が、それを強制した。
確実に狂い始めたのは。
その年の冬。
その日、男は平日にも関わらず早く帰宅した。
理由を問うと、仕事を辞めた、と答える。
結婚して初めて、夫婦喧嘩になる。
そのこと自体も異常だった。
口論の末、男は彼女に暴力をふるった。
そう。
確実にこの時から狂った。
あとは、よくある話だ。
仕事がない男は、酒に溺れ。賭け事に手を出し。
仕舞いには、金を外で借りるようになる。
次第に家に帰ることも少なくなった。
既に彼女の愛も冷めていた。
いや、初めから偽りの愛だったのだ。
子供は大きくなった。小学四年生だ。
そろそろ終わりにすべきだ、と彼女は考えた。
もう少し経てば、子供も身体が大人びてくる。
女性として身体が大きく変化し始めた時、
男がどう出るのか、それが恐ろしかった。
彼女は決断する。
いつものように酔って帰って来た男に、
彼女は別れの話を切り出した。
そして──
そこからの記憶がない。
気が付けば、病院のベッドに横たわっていて。
隣には泣き腫らした子供が彼女の手を握っていた。
あとで事情を警察に聞かれる。
病院の話では、男が過度な暴力を彼女に振るったようだった。
ただ、彼女はその内容を具体的には覚えていなかった。
頭を強く打ったせいか、医者はそう言っていた。
ここで一つ問題があった。
恐らく、子供はその全てを見ていたということだ。
彼女は自分の怪我の様子を見て、
それが壮絶なものだったことを理解する。
そして、その様子を子供が目撃していた。
ショックがないと言ったら嘘だろう。
せめてもの救いは、子供は無傷だったことだ。
彼女は意図的に、子供に何があったのかは聞かなかった。
あまり刺激するのは良くないと判断した。
彼女は警察にもそれをお願いして、
行方をくらました男を捕まえて欲しいと、
被害届を提出した。
その後、裁判所に申し立てを行って、離婚は成立。
もう一度、人生をやり直すことを決意する。
子供が大人になるまでは、頑張ろうと。
彼女が異常に気付いたのは、数ヶ月後。
ふと子供が父親のことを聞いてきた。
だから、彼女は忘れなさいと言った。
が。
その後、子供が言ったことを思い出して。
彼女は鳥肌が立った。
『お父さん』
あの男のことを、
一度だってそんな風に呼んだことがあっただろうか。
いや、ない。
そんな呼び方はしなかった。
慌てて話を聞く。
不安は的中した。
子供は、父親のことを完全に忘れていた。
彼女は悔やんだ。
それが、あの日の出来事を見た衝撃の代償だったと分かった。
そこで、彼女は決断した。
忘れているなら、思い出す必要はない。
子供にとって、それがトラウマなら。
あえて掘り起こす必要ない。
父親のことは封印する。
記録に残るものは、実家へ送ろう。
本当の父親のことも。あの男のことも。
そして、年月は過ぎた。
こうして、彼女は父親のことを子供に隠した。
これが事実だ。
これが女の母親が語った全てだった。
………………。
………………。
女の母親が帰った後も、俺達は座ったままだった。
勿論、そこには会話はなかった。
互いに視線を合わせることもなく、ただ時間だけが過ぎていく。
俺は一つ溜め息をついた。
母親が語った真実はあまりにも重かったのだ。
それも、予想していたよりも……ずっと。
彼女自身にとって過去を語る事は非情に酷だったはず。
なおさら、女にとっては明らかに辛いのが目に見えていて。
女は、未だ俯いた状態で放心している。
目は虚ろ。そこに心があるのかと心配になるほどだ。
俺はそんな彼女を横目で捉えながら、
何となしにこれからのことを考える。
女の母親が言っていたことが事実なら、
元夫は何故、今さらになって彼女の娘に会おうとしたのか。
それも学校へと訪れるほどの異常ぶりだ。
少し調べれば、今では女と疎遠であることが知られるだろう。
そんなリスクを負うまでする理由が、俺には分からなかった。
一つだけ確かなことがあるとすれば。
ここ最近、学校内が騒がしいということ。
そんな矢先に、あの男が唐突に現れたということ。
女「……ねぇ、せんせい」
男「……ん、なんだ」
思考を一旦、中断する。
彼女はこちらを向きはしなかった。
焦点の合わない視線をただ机に浴びせて。
女「私さ……先生も知ってると思うけど」
女「自分のお父さんのこと、本当に気になってて」
女「正直……ファザコンなのかもしれないって思ってた」
男「…………」
女「ことあるごとに、母さんに問いつめて」
女「よくそれで喧嘩して」
男「ああ」
女「何で私だけこんな辛い思いするんだって」
女「こんな変な家に生まれたくなかったって」
女「両親がいる普通の家庭が良かったって」
女「そうやって……」
女「……心の中で、母さんを罵ってた」
男「……ああ」
女「……ッ」
女「………ははっ……」
女「ぜーんぶ」
女「勘違いだったんだね……」
男「…………」
女「私の……勝手な被害妄想……」
女「……結局は」
女「記憶を失ったイタい子が一人いて……」
女「意味不明なことを周りに喚いて」
女「時には母親のことを愚痴って」
女「……それで……」
女「父親のことで私と言い合ってた母さんは……」
女「今までどんな気持ちだったんだろう……」
女「……辛くて……苦しくて……悲しくて……」
女「でも、それでも」
女「娘のことをただ思って、一人で隠し続けた……」
女「私……」
男「……ん」
女「…………」
女「ねぇ……せんせい」
女「なんで……」
やっと彼女の瞳が俺に向けられた。
両目の周りは痛々しいほど真っ赤に腫れていて。
その中央には、今にも溢れそうな涙が溜っていた。
彼女は俺に問う。
女「真実をやっと知ることが出来たのに……」
女「……記憶……」
女「……どうして、戻らないんだろうね……」
……………。
それはある冷えた冬の日のこと。
時に無邪気に笑い、その笑顔で人を幸せにする少女は。
心の内に秘められた自らの闇に触れた。
消えてしまった父親を絶えず渇望していた少女は。
それが意味する本当の訳を知った。
そしてそれから。
笑顔が美しい、人一倍綺麗な少女は。
──笑うことを止めた
…………。
時間だけが過ぎた。
気が付けば。二週間が経っていた。
……………。
……………。
夕飯を食べた後、
いつの間にか日課になった、二人での食器洗い。
いつもはそこに会話があった。
くだらない冗談を言って、二人して笑い合って。
けれど……。
男「…………」
女「…………」
食器の洗剤を落とす水の音。
洗い終わった食器を一つずつ、少女に渡す。
男「……これ」
女「……ん」
そこにかつてのような会話はなかった。
勿論、笑いなどあるわけもなく。
彼女の母親が真実を告げた日から、
少女の元気は見るからに失われていて。
俺にはどうすることも出来なかった。
当初は励まそうと何とか努力していたが、
辛そうに表情を歪める少女を見て、それも止めた。
男「…………」
黙々と、作業を続けていく。
俺に出来ることは、彼女を黙って見守ることだけ。
一時の間、泊まる場所を提供し、日々の生活を手助けする。
ただ、それだけだった。
………………。
電気を消した暗闇の中。
男「……なぁ、女」
時刻も零時近くになり。
何もすることのない俺達は、そろそろ就寝の時間。
けれど俺は、
仕切りの向こうにいるだろう少女に語りかける。
その行為には、何の意味もない。
砂粒ほどの価値だってない。
でも。それでも。
少しだけでいいから。
彼女の心を安らげさせることは出来ないかと。
性懲りもなく……考えてしまう。
男「…………」
しかし、暫く経っても一向に返事の気配はなく。
結局は俺の空回りで終わりそうだった。
男「……寝ちゃったか……」
そうやって一人呟いて。
布団に身体を預け、そっと瞼を閉じた矢先──
女「……ん」
……微かだった。
けれど、確実にそれは彼女の声で。
男「…………」
諦めるのはまだ早そうだ。
男「……返事が遅いから、寝たと思ったぞ」
男「でも起きててくれて、ホント良かった」
女「…………」
しかし、返ってきたのはやはり沈黙だけで。
それでもめげず、俺は続ける。
男「……少し話がしたいんだ」
女「…………」
男「堅苦しい話じゃなくてな」
男「俺の……昔の話」
女「……え」
驚いた少女の声が聞こえる。
反応が返って来ただけでも、正直嬉しい。
男「つまらない人生だけど、お前よりは長く生きてるからな」
男「色々話せる話はたくさんある」
男「ただ、好みの問題もあると思うしな」
男「女、君はどんな話が聞きたい?」
女「…………」
女「……それなら」
女「先生の……恋の話が聞きたい……」
男「……好きだった人が男だった話か?」
女「……それは前聞いたよ」
男「でもなぁ、話せる恋の話はそれぐらいしか……」
女「ねぇ、せんせい」
男「……ん?」
女「わたし……先生の恋の話、聞きたい」
男「…………」
女「こないだ、母さんと話して……」
女「私が、無意識に男の人を怖いと感じる理由は分かった」
女「恋愛を極力避けてた理由も分かった」
男「……あ、ああ」
あの日以来、そのことには触れずにいた彼女が、
自らその話を切り出したことに、俺は驚きを隠せない。
仕切りの向こうからは、未だ彼女の声が聞こえる。
女「……結局のところさ」
女「二人目の父親のせいでこうなったのに……」
女「失ってしまった父親の記憶の穴を必死に求め続けて……」
女「……だけど」
女「記憶がなくなっても、その時の恐怖は未だ身体が覚えてる」
いつの間にか、少女が語る側になっていた。
俺は静かに彼女の言葉に耳を傾ける。
女「……なんかさ、理不尽だと思わない?」
女「どうせなら、全て綺麗さっぱり忘れられれば良かったのに……」
女「意味も分からず怯える毎日が、ホント馬鹿みたいで……」
女「……事実が分かったのに、記憶を取り戻せない自分に嫌気がさして」
女「………だから」
彼女は一呼吸おいて。
女「──……先生の恋の話が聞きたいんだ……」
男「…………」
女「私が知らない世界を」
女「私が避け続けていた恋愛を」
女「……先生に、聞きたい」
女「…………」
女「もう……意味も分からず」
女「怯え続ける日々は……嫌だから……」
彼女は分かっていた。
自分が、前に進むしか出来ないことを。
幾ら過去を振り返っても、そこには何の意味もない。
大切なのは、今で。
……そして、これからの将来で。
男「…………」
ならば……。
少しでも彼女の役に立つのなら……。
男「どこから話せばいいか……」
女「……うん」
男「……恥ずかしい話だが」
朧げな記憶を頼りに、自らの過去を掘り起こす。
男「高校時代までは恋愛というものには縁がなくてな」
男「お前は知らないと思うけど、告白ってすごく勇気がいるんだよ」
男「勿論、ナマ半端な覚悟じゃ駄目だ」
男「それが一度目で、まぁ……その相手が男だった話だけどさ」
男「あれで色々身にしみてね」
友達に馬鹿にされながら、励まされて。
今思えば、どれだけ友に助けられたことか。
男「その後も好きになった女子はいたが、告白するほどでもなかった」
男「そりゃあ、怖かったってのもある」
男「だけど、人を好きになるとさ」
男「そんな恐怖とかも忘れて、勝手に身体が動き出すんだ」
男「失敗したらどうしようとか、周りの連中にばれると恥ずかしいとか」
男「色々考えてしまうけど、結局は想いを止めることは出来ない」
仕切りの向こうからは声は聞こえてこない。
けれど、真剣に話を聞いてくれていることが自然と分かる。
男「……俺がそれに気付いたのは、大学二年の時だな」
男「一年目は忙しいだけで、あっと言う間に過ぎてしまって」
男「二年目、そろそろ大学にも馴れ始めて……」
男「そんなある日、ゼミのダチに隣の女子大との合コンに誘われてな」
男「それで……まあ、当然飢えてた俺はそこに参加して」
男「……うん」
男「あとはお察しの通り、恋に落ちた」
男「告白するまではそんなに時間はかからなかったよ」
男「何回か一緒に食事とかしたりして……気が付いた時には、気持ちを伝えてた」
男「……あの時は……俺も若かったなぁ……」
ムードもへったくれもない、屋台のラーメン屋で、
ぽろっと零してしまう辺り……飽きれてしまうほどだ。
女「……それで」
男「ん?」
今まで黙っていた少女の声が聞こえる。
女「それで、その後、どうなったの?」
男「…………」
男「……告白は成功だったよ」
女「……そう……」
女「……で、嬉しかった?」
男「ああ、嬉しかった」
家に帰った後、一人雄叫びを上げるほど。
隣の住人には怒られたけど。
女「相手も、先生のこと好きだったんだ」
男「何か知らんが、気に入ってくれたな」
男「……理由は未だ分からんがね」
女「…………」
女「付き合ってる間はどうだった?」
男「……幸せだったよ」
女「めんどくさいとか、思わなかったの?」
男「終末には必ず会うとか、電話を毎日するとか?」
女「……そんな具体的には聞いてない」
男「ああ、悪い……」
女「別にいいけどさ……そこまでしてたんだ」
女「大変だと思ったことはないの?」
男「んー……特にそういうことはなかった」
一緒にいるだけで。声が聞けるだけで。
とにかく幸せな毎日だった。
男「告白したのは俺だしな」
男「捨てられないよう、必死に頑張ったわけだ」
女「……ふーん」
男「でも、一度だって義務感に駆られたことはなかった」
男「そうすることが、自分にとっても幸せだった」
女「…………」
女「……私には」
女「そんな気持ち、きっと分からない……」
元気のない声が隣から聞こえてくる。
俺はそんな少女に向かって──
男「……焦らなくていい」
女「…………」
男「俺だって、そんな感情を知ったのは20過ぎてからだ」
男「高校時代なんて、男同士で馬鹿やった記憶しかないさ」
女「……うん」
男「……いつかきっと」
男「お前にも、そう想えるような相手が見つかるよ」
女「………ほんと?」
男「ああ、いいから俺を信じろ」
女のことだ。これからますます綺麗になっていって、
出会いの数も、俺とは比較にならないほどあるに違いない。
そしてその中には、彼女と釣り合う相手が必ず一人はいるはずだから。
女「……先生を信じてもいい?」
男「おう、大船に乗ったつもりでいればいい」
女「……砂で出来たりしないよね?」
男「任せろ、氷山にぶつかっても沈没しないぐらい頑丈な船だ」
女「……うん」
女「……分かったよ、先生を信じる」
男「ああ信じろ」
男「そして、これからを楽しみにしてればいいさ」
……彼女の先は長い。
時間はかかってしまうかもしれないが、
これから少しずつ、男性への恐怖をなくしていけばいい。
恋愛に対する拒否反応を薄めていけばいい。
そして。
それが感じられなくなった頃に。
彼女の隣にいるのは……きっと──
………………。
………………。
生徒F「先生、ここに看板って置いて良いですか」
男「廊下は人で混雑するから駄目だな」
生徒F「えぇー、じゃあ張り紙は?」
男「教室側はOK、窓際は禁止」
生徒F「ぶぅーぶぅー」
男「文句なら実行委員に言ってくれ」
男「俺が取り決めたわけじゃないからな」
生徒F「じゃあ、先生がなんとかしてくださいよー……」
男「無理」
生徒F「決断はやっ!」
生徒F「でも客寄せには必要なんだけどなぁ……」
男「……とりあえず」
男「プラカードについては何も言われてないから」
男「その辺で代用してくれ、頼む」
生徒F「はーい」
手作りの看板を生徒が教室の中へ運んでいく。
不満ありげな様子だが、納得してくれたようだ。
俺はそんな生徒の後ろ姿を見守った後、何となしに窓の外を眺める。
しかし白く曇ったガラスからは、外の景色をあまり伺うことは出来ない。
冬もそろそろ本格的に本領発揮といったところか。
今日もコートを手放せないほど、外は冷え込んでいた。
遠くの方から呼び声が聞こえる。
生徒G「男せんせーい!」
男「おうー何だ?」
校舎の中では、生徒達がひっきりなしに動き回っている。
現在の時刻が授業中にもかかわらずだ。
生徒G「足りない布地を買うために外出許可が欲しいんですけど」
男「担任の先生に言えば貰えるはずだぞ」
生徒G「いやぁ、その担任が全く見つからなくて……」
男「ああ……そういうことか」
生徒G「差し支えなければ、お願いできますか」
男「何の布がいるんだ?」
生徒G「外装に必要な黒い布地が予想以上に足りなくなってしまって」
生徒G「ほら……あの部分です」
男「あー……確かに」
男「ん、よし分かった」
生徒G「先生、ありがとうございます」
男「構わん、ほれ用紙見せろ」
生徒G「はい」
彼の手元にあった用紙の所定の欄に、印鑑を押す。
これで校外に出る時も大丈夫だろう。
男「なにかあったら、俺に直接電話してこいよ」
生徒G「分かりました」
男「よし、じゃあ急げ」
生徒G「はいっ!」
元気よく返事をして、生徒は階段に向かって駆けていく。
『廊下は走るな』なんて、いつもは注意するところだけれど、
今日という今日は特別だ。
なんせ……。
生徒たち「「男せんせいー」」
男「あーもう、休む暇もねぇなっ」
男「わかったっ! 今すぐ行くからっ!」
いつも以上に元気一杯の生徒たち。
一つのことに力を合わせて頑張って。
明日という日を迎えるために日々努力して。
今日は、学生の本分は勉強とか、そんな正論はまかり通らない。
どんなに厳しい教師だろうが、文句の一つもないはずだ。
だって。
明日は生徒にとって、一年で最大のイベント。
……そう、『文化祭』なのだ。
………………。
………………。
男教師「あー! 疲れたぁーっ!」
女教師「ふふっ、男教師先生ったら」
男「まぁ、気持ちは分からんでもないです」
時刻は八時をとっくに回り……。
女教師「今日は特に疲れましたからね……」
中々渋って帰ろうとしない生徒たちを無理矢理帰宅させ、
やっとのことで職員室に戻って来ると、今までの疲れがどっと押し寄せてくる。
男教師「電気を消しても、教室に隠れて作業を続ける馬鹿はいるし」
男教師「寝袋まで持ってきて、泊まる気満々のトンチンカンもおれば」
男「……ははは」
その光景を今まさに目撃してきた者としては、
乾いた笑いしか出てこない。
男教師「毎年ながら、なぜこうもガキどもの考えることは同じなんだ……」
女教師「別に先輩から教わってるわけでもないみたいですよ」
男「考えることはみな同じってことかな」
男教師「……はぁ……疲れる……」
そう言いながらも、男教師の表情はどこか優しさを持ち合わせていて。
馬鹿な生徒ほど可愛いというか、
それだけ頑張ろうとする姿は、完全に否定出来ない。
男教師「それに、あのクラス、七時には終わるとぬかしたのに……」
女教師「……あはは、九時近いですね……」
男「まぁ仕方ないですね」
本来ならば六時に全ての作業は終わらせる決まり。
強制的に教室の電気は消え、教師たちは各クラスを見回りする。
しかしやはり、その時間には間に合わないクラスもあって。
そうなると完成していないのに無理矢理帰すのも可哀想だから、
仕方なく教師たちの監視のもと、作業の続行を黙認。
結局、貧乏くじを引いたのは俺たち三人の教師で、
さきほどまで一緒になって生徒の出し物の準備を手伝っていた。
女教師「でも、明日は今日以上に大変になりそうですね……」
男教師「……いつものことだよ、いつもの」
男「ええと、外回りと校舎内の見回りですよね」
女教師「私は、午後に外回りです」
男教師「俺は午前に外回りだが……」
男教師「あーもうっ!」
男教師「また、どっかのアホが校舎から脱走しようとするに決まってるっ!」
男「……はは……しますね絶対」
男教師「絶対逃がさんぞっ」
男「……はりきって怪我しないように……」
俺の予定と言えば、午前と午後に校舎の見回りが少し入っているだけだ。
各クラスの催しものをそれとなく眺めることが出来るので、
外で突っ立っている外回りより、多少楽と言える。
だが。
女教師「明日、快晴ですって」
男「それは……素直に喜んでいいものなのか……」
男教師「……込むぞ……確実に込むぞ……」
勿論、生徒たちにとっては嬉しいことなのだろうが、
明日の客の入り用を考えると……少し、ぞっとしたりもする。
女教師「男先生は校舎内の見回りですよね?」
男「あ、うん。この調子だと、明日はかなり大変かも」
女教師「ですね……」
女教師「……で、それでお願いするのも気が引けるんですが」
男「ん?」
女教師「私が午後の外回りで、手が空いてない時」
女教師「それとなく、二年B組の方、少し見てやってくれませんか?」
男「ああ、そういうこと」
女教師「ちょうど、演劇の初公演が12時ぴったしで……」
女教師「見回りのほうと若干被っちゃうんですよね……」
男「ん、了解。俺で良かったら様子見とくよ」
女教師「ありがとうございますっ」
女教師「みんな……うまくやってくれるといいなぁ……」
男教師「いいね、女教師ちゃん。なんか初々しくって」
女教師「もうっ、からかうのは止めて下さいよっ」
男「はははっ」
女教師「男先生までーっ……」
教師の方も、生徒たちの出し物がうまくいって欲しいと願うばかり。
担任となれば、その企画や作業に携わることも多くて、
思い入れは……もしかしたら、生徒たち以上なのかもしれない。
というか、そういえば……。
男「そうだ、女教師は演劇の準主役じゃなかったのか?」
男教師「あっ……そういえばそんなことも聞いたような……」
女教師「あー……はい」
男「結局、止めちゃったわけ?」
女教師「いや、なんというか、その」
女教師「他にやりたい子がいたみたいだったので……譲りました」
男「あー……うん」
男教師「初めはやる気なかったのに、後でやりたくなったと」
女教師「そんなところです」
男「それなら仕方ないな」
男教師「何だ、女教師の演技が見れないなんて残念だな」
男「確かに、言えてますね」
女教師「もうっ、二人ともぉ」
そんな雑談をしながら、誰もいない学校の中で
三人の笑い声はしばらくの間、絶えなかったそうな……。
こうして。
文化祭を翌日に迎えた騒動の一日は、
ひとまず終わりを告げたのだった。
……………。
……………。
男「…………」
女「…………」
男「…………」
女「……うぅ……」
男「…………」
女「……ひっく……う、うっ……」
男「……ふぅ……」
女「…………う~っ……良かったぁ~……」
男「……あ、ああ……」
男「何度見ても、良い映画だ……」
女「……うん、うんっ」
テレビの前のソファーで二人してくつろいで、
画面のエンドロールを未だ余韻が残った状態で眺め続けていた。
女はテッシュ箱を片手に、目の周りは赤く腫れていて、
時折、鼻を啜る音が真横から聞こえてくる。
女「やっぱり親子っていいよ……」
男「これを見せられるとな」
女「初めはどうなるかと思って」
女「正直、見てるのが辛かったけど」
女「最後のほうのお父さん……凄くかっこ良かった」
家に着いた時には、既に十時を過ぎていた。
帰宅が遅くなるとのメールを事前に送っていたので、
女は先に夕飯を済ませていて、
俺がシャワーを浴びている間に、彼女が料理を温めてくれた。
男「名優って言われるのもよく分かる」
女「確かこれでアカデミー賞取ったんでしょ?」
男「ああ、ちなみに主演女優もこの作品で貰った」
女「あーそうだよね、演技ホントうまかったもん」
男「うまいなんてレベルじゃないよな……」
男「その世界に入ってるというか、演技してるって事実を忘れさせるほどだ」
一人で夕飯を食べている間も彼女は向かい側の席に座っていて、
学校での準備の様子などを語り、俺の話し相手になってくれた。
男「子役も可愛かったな」
女「うんっ! あれは可愛すぎだよねっ」
女「あぁ、あんな子供欲しいなぁ……」
男「『パパ、愛してるよ』か……」
男「死ぬまでに、一度くらいは言われてみたいな」
女「…………」
男「えっ? どうして無言?」
女「……なーんか先生が言うと、卑猥」
男「…………」
身体は疲れていて、すぐにでも横になりたかったが、
すぐに寝るにしては時間がまだ早かったり……。
何か時間潰しに最適なものは、と考えているうちに、
戸棚にあった……とある映画のDVDが目に入って、
少女に聞くと、まだ見たことがないと言うもんだから……。
女「あ~なんか、ほんと良かったよ」
男「いい映画を見た後って、最高の気分だよな」
女「うんっ、最高っ」
男「あー……でも、もうこんな時間か」
女「明日も早いし、そろそろ寝ないとマズいね」
男「そうだな……寝坊なんかしたら大恥だ」
女「私なんて、早朝に劇のリハがあるからヤバいかも」
男「……主役がいなかったらリハどころじゃないな」
女「大混乱だよっ」
男「そうとなったら、一刻も早く寝ないと」
女「急げっ、急げっ♪」
男「テンション間違ってるぞ……」
テレビの電源を消して、各自寝る準備へと入る。
幸いにも歯磨きなど済ませた後だったので、
数分で二人とも床につくことができた。
男「……んじゃ、電気消すぞ」
女「ん、おやすみ」
男「ああ、また明日」
女「…………」
男「…………」
女「ねぇ……先生」
男「ん? どうした?」
女「明日……先生は、見に来てくれる?」
男「二年B組の白雪姫」
女「うん、我ながら結構出来はいいと思うんだ」
女「時間……合う?」
男「初公演が12時だろ?」
女「うん、次は2時で……その次は……」
男「いや、多分、初回のやつを見れると思う」
女「ほんとっ?!」
男「ああ、女教師先生にも頼まれたしな」
男「女の勇姿をしっかりと見させてもらうよ」
女「うわぁ……なんか、緊張してきたかも……」
男「はは、大いに失敗してくれ」
女「ちょ、ちょっとぉ~!」
男「台詞が噛み噛みでも俺だけは笑わないでやるよ」
女「ぜっーたい噛まないっ!」
男「挙動不審でも通報は控えるさ」
女「ひ、ひどい……」
男「冗談だ、教室の奥のほうでそっと見てる」
女「あ……うん」
女「絶対、見に来てね」
男「おう、頑張れ」
女「…………」
女「……じ、じゃ、おやすみ」
男「おやすみ」
……………。
傍からは、少女が元気を取り戻したようにも見える。
あれだけ沈んでいた日々に比べれば、今は安心出来るのかもしれない。
けれど、実際は未だ心は折られた状態のままで。
死んでしまった本当の父親。
記憶を失った原因を作り出した二人目の父親。
彼女の頭の中では、今も尚、過去への懸念が渦を巻き、
母親の話を全て納得したとは到底言い難いだろう。
それでも。
少女は前に進むと決めた。
俺に……
『怯え続ける日々はもう嫌だ』
と、語った。
だからこそ、少女は人一倍、強がり続ける。
それを分かっていて。それに気付いていて。
俺は彼女のへたくそな強がりに合わせる。
彼女がそう決めた以上、その想いを無駄にしたくはない。
季節は冬。12月。
そろそろ雪が降ってもおかしくない……
……そんな寒い日が続いていた。
……………。
……………。
司会「続きまして、グループ『ファンキー』の登場です」
校舎の前に設置されたステージでは、
我が学園の生徒たちの出し物が次々と登場。
司会「途中、メンバーが一人ぬけてしまうという災難もありましたが」
司会「『この日のために』と、汗水流して練習を続けてきましたっ」
司会「そして今日、彼らがその集大成を見せてくれますっ」
司会「歌うのはこの曲っ! 皆さんもきっとお分かりでしょうっ」
今は複数ある演奏グループの一つが、
季節に合った歌を大勢の観客の前で披露していた。
公式の部でもない彼らにとって、今日というイベントは絶好の機会に違いない。
辺りを見渡せば、他校の女子生徒がうようよといる。
そんな彼女たちといい関係になれる……なんて、期待もありそうだ。
生徒H『こな~ゆきぃぃ~っ』
だから、この日のためだけにたくさんの努力を……
女子1「……ねぇ……」
女子2「う、うん」
女子1「あれ……」
女子2「…………」
女子1「音低……外しすぎじゃない?」
男「…………」
してきてる……はずなんだけどなぁ……。
……………。
司会「え、ええと、『ファンキー』さん、演奏ありがとうございました」
司会「とても素晴らしい歌声でしたね……まぁ少し斬新でしたけど」
観客の方から苦笑いが漏れる。
歌い終わった彼らは早々とステージから降りていった。
しかし、その表情には達成感の色しか伺えない。
司会「えー、続きましては、大道芸を滝君が披露してくれますっ」
司会「滝君っ、ステージの方へどうぞ──」
楽しい文化祭は、まだ始まったばかりだ。
……………。
……………。
生徒I「三年E組の作る『焼きそば』」
生徒I「出来立てほやほやで、250円ですよ~」
生徒I「お好みで、ソース味と塩味選べます~」
生徒I「あっ、男先生っ」
男「どうだ、繁盛してるか?」
生徒I「どう見えます?」
男「……行列に行列って感じだな」
男「宣伝班いらないんじゃないのか?」
生徒I「……やっぱそう思いますよね……私もです」
男「売り子の方は……んー……ここからだと見えん」
生徒I「戦線は休む暇もないですよ」
男「今日は例年以上に人が多いからなぁ」
さきほど出た来客人数の発表によれば……
かつてないほどの好ペースで込み……失礼、増え続けているようだ。
男「受験シーズンなのに、大変だな」
生徒I「みんな初めのほうはグダグダ言ってたのに」
生徒I「始まって見れば……そんなこと忘れて楽しんでますよ」
男「はは、いい気分転換になるといいな」
生徒I「はいっ」
我が学園では一二年はクラスで出し物をし、三年は外で出店を開く。
準備期間がかなりいるクラス発表を止めることが、
受験を迎えた三年生への、せめてもの配慮といったところなのだろう。
日頃、鬱憤が溜っているせいか、
皆、仕事中にもかかわらず、笑顔が絶えない。
男「しかし、何か腹に入れたいと思ったんだが」
男「……この調子だと無理そうだな」
生徒I「ああ……そうですね……」
生徒I「今並ぶと、最低でも数十分は……」
男「見回りの途中だからな。そんなことしてたら、教頭に怒られちまう」
生徒I「ははは、ですね」
生徒I「あ、でも……」
男「ん?」
目の前の生徒が閃いたとばかりに、俺に向かってニヤリと笑った。
生徒I「ちょっとここで待ってて下さい」
男「お、おい、でももう行かんと……」
生徒I「すぐ戻りますからー」
そうとだけ言い残して、生徒は人ごみへと消えて行った。
俺はどうしていいか困り、何となくぼうっと立ち尽す。
少し時間が経って、生徒が戻ってくる。
生徒I「先生っ」
男「おいおい、なんだって……」
文句の一つや二つほど、言ってやろうと思っていたが、
しかし彼女のその手元を見て……
男「……お、お前……」
生徒I「ハイっ、我が店自慢のソース焼きそばですよ」
とてもおいしそうな香りが、ここまで匂ってくる……。
空いた腹には……これはあまりにも……。
男「……で、でも、いいのか」
生徒I「ほんとは駄目なんですけどね」
生徒I「男先生は特別ですっ」
男「…………」
生徒I「……肉も奮発しときましたから」
ごくりと……唾を呑み込む。
生徒I「はい、先生」
生徒は手元にあった焼きそばの入ったパックを、
俺の方へ向かって、ぐいっと差し出してきた。
本当なら、一教師として断らなければいけない。
けれど……。
男「ありがとうな」
俺って自分に甘いなぁーと、つくづく反省。
しかし、うまいな焼きそば。
……………。
……………。
生徒J「一風変わったお化け屋敷!」
生徒J「でも、その違いは入ってからのお楽しみだっ」
生徒J「そこのお嬢さん、どうよ、寄ってかない?」
校舎の中に入れば、その熱気は外以上。
各クラスの生徒たちが廊下で熱い宣伝バトルを繰り広げ、
客の方も人という人で溢れんばかり。
男「あーすみません、ちょっと通して下さい」
前へ進むのだって一苦労だった。
俺は何度もぶつかる人に謝りながら、目当ての場所へと向かう。
女子3「あのー」
すると後ろの方から声がかけられる。
振り返るとそこにいるのは、見るからに他校生の女の子。
男「へ? 俺?」
女子3「あ、はいっ」
彼女の周りにいる取り巻きの女子たちが騒ぎ立てる。
正直、ちょっと苦手な空気だ。
その中心にいる彼女は、少し深呼吸をした後、
上目遣いで……俺に向かってこう言った。
女子3「メルアド……交換しませんか?」
男「…………」
男「……今、なんて?」
少々、動揺している俺だった。
女子3「ええと……駄目ですか?」
男「いや、駄目というか、何と言うか……」
女子3「……そ、そうですか」
男「いやさ……その、俺はその……」
女子3「……はい」
男「……この学校の教師なんだ……」
女子3「…………」
なんだか変な空気になってきたぞ……。
周りの女子たちも呆然と口を開けたままになっている。
男「まっ、そういうことだからさっ」
男「んじゃ……」
女子3「──それでも構いませんっ」
女子3「メルアド教えて下さい!」
男「…………」
女教師「あれ? 男先生っ?」
女教師「こんなところで一体どうしたんですか?」
男「あ、ああー……」
男「いやな……ちょっと」
女教師「…………」
女教師は挙動不審の俺に目を細めて……
その視線を、目の前でもじもじしている女子にずらした。
女教師「……男先生」
男「……俺は悪くない」
女教師「こんな歳の違う子を、一体どうするつもりですか」
男「どうするつもりもないさっ」
女教師「本当に?」
男「ああっ、神に誓って」
女子3「メルアド教えて貰えないんですか……?」
男「…………」
女教師「…………」
………………。
女教師「しかし、男先生がねー」
男「言いたいことは心の内にしまっときなさい」
女教師「ホントは、メルアド交換したかったんじゃないですか?」
男「し、失礼なっ」
女教師「本当ですかぁ?」
男「もう本当だってばっ」
何とか、さきほどの少女には丁重にお断りを言って、
人ごみの中、今は女教師と並んで目的地へと向かう。
女教師「ああいう場面は、ばしっと言わなきゃ駄目ですよ」
男「いや分かってるんだけどさ……まあ、察してくれ」
女教師「可愛い子でしたね彼女」
男「……意外としつこいね君も」
しかし隣の彼女は未だ俺の対応に不満げのようで。
女教師「まっ、別に良いですけどね」
女教師「約束したんですから、頼みますよ」
男「ああ、分かってる。あの時も向かってたところだ」
女教師「はい、お願いします」
男「おう、任せとけ」
女教師「じゃあ時間もそろそろなので……」
男「お勤め頑張ってな」
女教師「はい……あっ、そうだっ」
男「ん、何かまだ用があったか?」
女教師「男教師先生の話、聞きました?」
男「いや、聞いてないが……何かあったのか?」
もしかして、怪我でもしたか……?
女教師「大いにありましたよ」
男「お、おい」
女教師「脱走者を三人ほど捕獲したそうです」
男「…………」
やるなぁ……あの中年教師。
……………。
……………。
少し小走りに教室へ向かう。
時刻は12時5分。約束の時間より少し遅れている。
やっとのことで2年B組に着くと……馴染みの生徒を見つけた。
生徒A「あっ、先生じゃん」
男「まだ入れるか?」
生徒A「ええと、立ち見でもいい?」
男「もちろんだ」
生徒A「じゃあ、オッケー。楽しんでってね」
男「ああ、期待してるよ」
扉を静かに開け、暗くなった教室へ入る。
既に劇は始まっていた。そして、舞台の上には……。
男「……っ」
自然と息を呑む。
舞台の上には、一人光を浴びる少女の姿が。
女王に嫉妬されるほどの美しい黒髪を。
その素肌は誰もを魅了するほど透き通っていて。
目を離させまいとする存在感。
しかしそこには保護欲を掻き立てる脆さも見て取れる。
男「…………」
ああ、そうだ。
ありふれた陳腐な言葉だって分かっている。
誰かが聞いたら、鼻で笑われるに違いない。
けれど、観客の視線を集める彼女は……
本当に綺麗だったんだ──
…………。
………………。
『男~』
『あ? どうした?』
『こっちのやつなんてどうっ?』
『ん……どれどれ』
『ねっ? 綺麗でしょ?』
『ああ……まぁな』
『草花が絡まってる感じがいいよね』
『……ん』
『……なんか不満げ?』
『…………』
『口で言わないと伝わらないよ』
『なぁ……』
『うん、なに?』
『お前……俺に気遣ってるだろ』
『……遣ってないって。男の勘違いっ』
『……本当か?』
『もう疑り深いんだからっ』
『さっきからお前が選ぶの……比較的安いヤツだぞ』
『そ、そうなんだ~。そりゃ偶然だねっ』
『偶然にしては出来過ぎてるな』
『もう……いつからそんな捻くれたヤツになっちゃったの?』
『知らなかったのか、付き合い始めた頃からだ』
『うっそだ~、あの時はもっと単純脳だったよ』
『単純脳って……』
『好き好きアピールとにかく凄かったもんね』
『なっ……』
『その癖して、こっちの気持ちにはホント鈍感でさ』
『や、やめてくれ……』
『ふふっ……でも、その一途さが私は好きだった』
『…………』
『不器用さもね、ホント大好きだよ』
『……もういいから、早く決めるぞ……』
『あら~もしかして照れてる~?』
『う、うっさい』
『ははっ可愛い』
『……なぁ……』
『ん?』
『お前は……その気にしてくれてるんだと思うけどさ』
『…………』
『こんなの人生に一度しかないんだ』
『あんまり余計な気遣いは無用だぞ……遠慮すんな』
『……遠慮なんてしてないよ』
『でも……』
『いいの……こういうのは形じゃないって』
『ここで無理するより……私はもっと違うところで使いたいな』
『……例えば?』
『北海道に二人で旅行とか楽しそうじゃん』
『……まあな』
『ねっ、一緒においしいものとか食べてさっ』
『蟹とかな』
『うん、そうそう!』
『ああ……そうか』
『そうだよっ、私達にそういうのは必要ない』
『なんせ、告白の場所があそこだからな……』
『ふふっ、意外性があって良かったよ』
『そういってもらえると俺も助かるが……』
『ねぇ……白雪姫って知ってる?』
『唐突にどうした? 白雪姫……毒リンゴの話か?』
『そうそう、七人の小人が出てくるお話』
『確か、王女の企みで毒リンゴを食べさせられて……』
『死んでしまったところをお王子さまに助けられるんだよな』
『うん、その白雪姫』
『キスされて生き返るんだっけ?』
『そうだよ、でもね……』
『ン?』
『本当の白雪姫ではそんなシーンないんだ』
………………。
…………。
近頃、昔の記憶が唐突に思い出される。
それが女と出会ったからなのか。
或いは、自分で何か思うところがあったのか。
原作の白雪姫には王子がキスをして生き返るシーンは存在しない。
確か、ふとした弾みで白雪姫は毒リンゴの欠片を吐き出すのだ。
そして最後のシーンで、全てを企んだ女王は狂い死ぬ。
人々に、真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされて踊らされて。
目の前の舞台では着々と物語が進行していた。
今は、白雪姫が七人の小人と出会うシーンだ。
俺はその劇を眺めながら……。
ふと頭の中を過ることがあった。
男「…………」
あの記憶の後、彼女はなんと言ったのだろう。
唐突に始まった白雪姫の話……けれど、あれに何の意味があったのか。
考えてみても思い出すことは出来ず。
いや……無理して掘り返す必要もない。
だって、あれは既に終わったことだから。
もう一度、始めることは決して出来ないのだから。
壇上では、女が白雪姫を演じている。
恐らく、今日の物語も原作ではないだろう。
文化祭の劇でやるにしては……あれは適さない。
終演まで、あと四十分ほど。
教室の後ろの方で……俺は劇をただ見続けた。
……………。
……………。
陽が落ちた暗い夜道を、俺と女は並んで歩いていた。
女「ねぇ、先生」
男「……ん、何だ?」
奇妙な同居生活が始まってから、何度そうやって彼女に呼ばれたことか。
俺はいつものように、気怠そうな返事をした。
女「演劇……どうだった?」
男「良かったよ」
女「どんなふうに?」
男「魔女役の彼女……あれ、ホントに学生かよってぐらい」
女「……むぅ」
男「はは、分かってるさ」
君が聞きたいのはそんなことじゃなくて。
男「とてもいい演技だった」
女「……え」
男「ちょっとぐらい馬鹿にしようかと思ってたけれど」
男「気が付けば、姫の一挙一動に目が離せなくてな」
女「……うん」
男「練習大変だったろ」
男「誰だって分かるさ、あの演技を見れば、な」
躊躇うことなく流暢に発せられる台詞。
声に乗せられた感情の機微。
学園祭の舞台で見るには、少し……出来過ぎていた。
それが彼女の持って生まれた天性のものなのか。
一つだけはっきりしていることがあれば……
見る者を惹き付ける何かを、彼女は確実に持ち合わせている。
女「でもね……初めは凄く緊張したんだ……」
女「幕が上がるまでは、ずっと両足が震えちゃってね」
男「そうだったのか?」
そんな様子全く感じなかった。
女「わたし……ホントは少し怒ってるんだよ」
男「え」
女「舞台が始まる前に観客席を覗いたら、先生……いないんだもん」
男「あ、ああ……」
女「それで『約束したのに』って、一人で腹を立ててたら」
女「いつの間にか緊張とか無くなってて……」
男「は、はは……」
女「結果的には良かったけど……」
女「やっぱり初めから来て欲しかった」
男「……悪い」
不安だった時に彼女が観客席を覗いたのは……きっと偶然ではないだろう。
始まる前に一言ぐらい声をかけてやるべきだったと、
今になって反省する。
女「まあ、来てくれたことには変わりないからさ」
女「約束を守ってくれたことは、評価に値します」
男「はっ、姫さま。ありがたき幸せ」
女「ふふ、何それっ」
男「お詫びのしるしといっちゃなんだけど……」
男「今日は君を一国のお姫さまとして扱うことにした」
女「じゃあ、先生は何の役?」
男「どこにでもいそうな家臣の一人」
女「……で、本当は?」
男「隣国の姫を籠絡するために送られた、敵国のスパイ」
女「…………」
男「…………」
女「……ぷっ」
男「……くっ」
男・女「「はははははははっ」」
……………。
馬鹿なことをやりながら、また今日という一日が過ぎる。
何事もなく、何の進歩もないのだけれど……
多分、それが一番大切で、幸せなことなんだって。
昔から気付いてた。昔から分かっていた。
あの後、彼女が言った続きを。
今になって思い出す。
………。
……………。
『ねぇ……白雪姫って知ってる?』
『唐突にどうした? 白雪姫……毒リンゴの話か?』
『そうそう、七人の小人が出てくるお話』
『確か、王女の企みで毒リンゴを食べさせられて……』
『死んでしまったところをお王子さまに助けられるんだよな』
『うん、その白雪姫』
『キスされて生き返るんだっけ?』
『そうだよ、でもね……』
『ン?』
『本当の白雪姫ではそんなシーンないんだ』
『え? そうだっけ?』
『うん、家来が棺を揺らして、その際に食べたリンゴの欠片を吐き出すんだ』
『なんだそれ……』
『そう、ロマンチックじゃないよね』
『ああ……ちょっと拍子抜けだな』
『うん……でもさ』
『私はそれでいいんだと思う』
『…………』
『劇的な話じゃなくてさ、なにかの弾みで進んでいく』
『確かに白雪姫が生き返ったのは奇跡だけど』
『そこにムードの欠片もないよね』
『おう、でもそれが……』
『私達もさ、ムードとか形とか、そんなのいらないよ』
『…………』
『楽しくいこう? 格好に拘らないでさ』
『……ん、そうだな』
『お前に出会えただけで……確かに奇跡だもんな』
『これ以上、求めるものなんてないか……』
『そうそう、奇跡は言い過ぎだと思うけどね』
『何事もなく……このままただ進んで』
『二人が楽しく一緒に過ごせれば』
『うん』
『最高だなっ──』
……………。
………。
だから。
男「──────」
……………。
目の前にある光景が。
──信じられなかった
……………。
女「……あ、……あ」
何事もなく進む、それだけが。
どれほど幸福なことなんだって。
……………。
──『私の目□ 時■ なって』
……………。
何時の日か。気付いたはずだった。
……………。
そうだ──
女「……あ、あっ……」
俺は、目の前の光景が……ただ。
女「……あああ、あ……」
女「い、……」
女「いやああああああああッ!!」
──憎かったんだ
……………。
父親「……やっと」
父親「やっと見つけたぞ……」
……………。
初めて。
人を殺してやりたいと、思った。
……………。
……………。
異常な光景だった。
隣にいる少女は身体を激しく震わせて、
口元からは言葉にならない何かが絶えず発せられている。
そして、それ眺める彼女の父親は……何故か笑っていた。
何かに取り付かれたような、光を失った両眼。
そこには、子に対する親心や愛情など勿論なかった。
父親「……これで」
『これで』……なんだというのだ。
今まで姿を隠し続けていたこの男が、
今になって血の繋がらない一人の少女に固執する。
考えられる要因は……恐らく。
男「……何の用件ですか」
自分で驚くほど、冷めた声だった。
父親「……部外者はひっこんでろ」
男「そうは言っても、彼女は私の教え子ですから」
父親「…………」
男「……もう彼女とあなたには何の関係もないでしょう」
父親「……見つけたんだ」
男「……は?」
父親「やっと……やっと見つけたんだ……」
男「…………」
……駄目だ。これでは駄目だ。
目の前の男の視線は俺と一度も交わることはなかった。
彼は隣にいる少女をただじっと見つめ続けている。
そう、何かに囚われるように。
それは異質だった。狂気があった。
父親「これで……元に……」
男「…………」
マズいな……。
こんな人間を……俺は今まで見たことがない。
初めのうちは言葉の通じる相手だと思っていた。
事情を既に知っていた俺は、彼女の代わりに怒りをぶつけようと。
最悪、警察を盾に彼女を守ろうと安易に考えていた。
だが、これでは。
父親「……女……」
少しずつ冷静になる。
沸点まで高まった感情が冷えていくの感じる。
目の前の男は、季節が冬にもかかわらず……かなり薄手だった。
ところどころが破け……見るからに汚れていて。
何年、逃げ続けてきたのだろう。
父親「……ああ……やっと」
父親「……やっと……」
男「…………」
男「……ああ」
……そういうことか。
何となく分かってしまう。
この男が女のことを偶然、雑誌で見つけて。
自分が失った人生を……やり直せると願ってしまったことを。
父親「……これで」
だから俺は。
父親「元に……」
男「──戻せるわけないだろ」
父親「……ッ」
初めて……父親の意識がこちらに向かった。
痩せこけて皺だらけの顔。
今まで気付かなかったが、ここまで弱り切っていたのか。
だが、躊躇うことなく。
男「何を勘違いしているのか知れないが……」
男「あんたの人生はもうとっくに終わってるんだよ」
父親「……ち、違う」
男「お前が彼女の母親に手を上げたときから」
男「いや、ギャンブルに心底嵌り込んでしまった時かもしれない」
男「でも、確実に……あんたの人生は終わっちまったんだ」
父親「違うッ!!」
焦った人間の、悲痛の声が聞こえた。
父親「や、やり直せるはずだっ」
父親「もう一度、昔みたいにッ!」
父親「娘とさえ仲良くできれば、アイツだって、もう一度俺を……」
父親「……きっと……いや絶対に、やり直せるはずなんだっ」
男「…………」
人はいつも願う。
過去をやり直したいと。
あの瞬間に戻れればいいなと。
けれど。
男「……いつまで夢を見てるんだ」
それは……。
誰に向かっての言葉だったのか。
男「……叶うことのない夢をいつまで見続けるんだ……」
あの日。
どうして俺は……目覚めなかったのだろう。
男「時間は、絶えず進んでいるんだ」
男「あんたが望む世界は……もう……終わったんだよ」
父親「……ち、ちがう……」
男「……終わったんだ」
父親「……ち……」
父親「…………」
父親「……う……」
父親「……あぁ……うっ」
父親「……ああ、あああ、あああああっ」
……………。
路上で、一人の男が泣いていた。
彼には何もない。何一つ、残っていない。
そんな男でも……かつての一時、本当に幸福だった瞬間があった。
彼はそれを忘れられなかった。
もう一度と、願わずにはいられなかった。
分かってしまえば、とても単純な。
そんなありふれた話が、あっただけだった。
……………。
……………。
足下がおぼつかない少女の肩を抱いて、我が家に着く。
男「……女、大丈夫か」
女「……はぁ……はぁ……」
彼女の身体は未だ震え続けている。
眼は虚ろで、顔の色は真っ青。荒い呼吸音がただ聞こえた。
女「……はぁ……はぁ……」
女「……やだ……やだよ……」
男「…………」
焦点の合わない視線の先には、一体何が映っているのか。
忘れていた過去の光景を……今になって繰り返しているのだろうか。
……俺には想像することしか出来ない。
彼女の痛みを、苦しみを。
俺が肩代わりしてやれれば、どんなにいいことだろう。
天で高見の見物をしている神を、久しぶりに心底怨んだ。
男「……水でも汲んで……」
女「──やだ……いやだっ」
男「うおっ……」
ソファーから立ち上がった俺の服を、彼女がもの凄い力で引きつける。
その拍子にバランスを失った身体は……
彼女に覆い被さるようになってしまった。
男「わ、悪いっ」
焦って取り繕う俺のすぐ目の前に、彼女の顔がある。
すぐさま少女から離れようとした時……。
女「……側にいて……」
男「…………」
確かに聞こえた。
助けを求める少女の声が、微かに……でも確実に聞こえた。
男「……ああ」
女「……やめて……うっ……」
少女は震え続ける。
意味のない言葉を絶えず口ずさむ。
俺は彼女のすぐ横に、座り直して……。
男「……大丈夫だ……俺は、ここにいる」
女「……やだ……もう、止めてよ……」
男「ここにいるから……ここにいるからさ」
女「……ああ……もうやだよ……母さんをそれ以上……」
男「……ッ」
彼女の両手を握りしめる力が自然と強くなる。
震えが俺の腕まで伝わり……何も出来ない自分がひどく惨めになる。
男「……くっ……」
女「……ああ……やだ……お願い……」
男「……くそっ……」
なんて理不尽なんだ。無力なんだ。
女「……助けて……」
女「……先生……助けてよぉ……」
気が付けば。
俺は少女の身体を抱きしめていた。
……時間だけが過ぎていく。
誰にでも平等に。正確に。
いつもは憎むべきそんな当たり前のことが。
今日という日は、何故だか有り難かった。
……………。
……………。
続き
女「うぇっ……吐きそう……」【その3】