1 : VIPに... - 2012/03/29 16:45:13.92 TOjhpbtQ0 1/97


(えらくストレートなタイトルだな)

(S・レベンクロン著……あぁ、洋書なのか)

(あらすじは……どれどれ)ペラッ


――ケイティ・ロスコヴァ15歳。
   優等生の彼女だが、最近よく頭が“真っ白”になってしまう。
   そんなとき、ハサミでこっそり自分の腕を切りつけると落ち着くことが出来た。
   けれども次第に、彼女の心と行為は暴走し始める……。


(ふーん、リスカの話か)

(いたなぁ、中学ん時の同級生に、リスカしてるヤツ)

(…………こんな本が部屋にあるのを見つかったら、ヤバいかなぁ)

(……ちょっとだけ)パラパラ



――「壁に頭をぶつけるようなバカな真似をして、誰か心配してくれるとでも思ったの?」



(!)バタン!

(……)ドキドキ

(ま、確かに、自傷っていっても、リスカだけとは限らないか……)

(……)ドキドキ


元スレ
男(『自傷する少女』?)
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1333007105/

2 : VIPに... - 2012/03/29 16:50:20.96 TOjhpbtQ0 2/97


――誰か心配してくれるとでも思ったの?

この言葉が頭の中でリフレインする。
鼓動が高まる。
生唾を飲み込む。


(リスカとか……自傷行為とか……全然、したことないけど)

(でも、なんだろう……この本、何か共感できそうな気がする……)

(どうせ、古本で105円だし……)

(部屋に持ち帰っても、隠す場所なんていくらでもあるし……)

(ちょっとだけ、興味もあるし……)

(……買ってみよう)


本を手に持ち、表紙と背表紙を隠しながら、レジへと進んだ。

4 : VIPに... - 2012/03/29 16:52:13.64 TOjhpbtQ0 3/97


家路に着きながら、思想に耽る。


(リストカットねぇ……)

(個人的に、絶対に悪いとは思わない。けど、)

(ブームというか、話題に晒されたのが、いけなかったよなぁ)

(あぁいう類のモンはどうしたって好奇の目で見られるし)

(それに、模倣犯?興味本位でやるヤツだって出てくる)

(“何も感じない”“痛くない”なんて情報ばっか先行して)

(挙げ句、切った成果を見せびらかそうっていうんだから、たまったもんじゃない)

(自分のブログでいちいち切ったとか報告する女とかね……キモチワルイって、そーゆーの)

(…………ま、別に関係ないけど。)

5 : VIPに... - 2012/03/29 16:55:11.89 TOjhpbtQ0 4/97


ガチャ


「ただい――」


ドン!

ガシャン!

バンバン!

ガシャン!

バタン!

ギャー!ギャー!……


(あー……また喧嘩してるよ……)

(ったく、ウルサいなぁ)

(せっかくあの本読もうと思ってたのに)

(このウルサさじゃ、今日は無理だな)


自室に向かうにはリビングを通らなければならない。
なるべく音を立てないように、リビングの扉を開ける。
すると、入れ違いで父が出てきた。

6 : VIPに... - 2012/03/29 16:57:32.61 TOjhpbtQ0 5/97


「……父さん、どっか行くの?」

「ん?お、おう、男か。どうした?」

(あんだけ怒鳴り散らしといて“どうした?”はねーだろ)

「別に、今帰ってきたんだけど」

「そうか……ちょっと、父さんは出かけてくるから」

「……あっそ」


逃げるように玄関へ急ぐ父。


(母さんは、っと……)

(寝室に篭ってるな……しばらく出てこないなありゃ)

(ったく、喧嘩すんのは勝手だけど、荒らすなら片付けくらいしてくれよ)

8 : VIPに... - 2012/03/29 16:58:54.17 TOjhpbtQ0 6/97


「…………うわぁ」


(今日はまた派手にやったなぁ)

(あーあ、このマグカップ気に入ってたのに)ガシャ ガシャ

(このグラスなんて来客用のだろ……どうすんだよ)ガシャ ガシャ

(あーもうガラスの灰皿まで……って、これ投げたらさすがに危ねーだろ)ガシャ ガシャ

(怪我とかしてないといいけど……面倒事になるのはゴメンだし)ガシャ ガシャ

(……ったく)ガシャ ガシャ

(…………)ガシャ ガシャ ガシャ

9 : VIPに... - 2012/03/29 17:01:42.41 TOjhpbtQ0 7/97


「…………ふぅ、こんなもんかな」


(…………こうやって片付けする度に思うけど)

(ガラスの破片って、案外キレイなんだよな)

(断面とか、光に照らすとキラキラしてるし)

(特に……この灰皿の破片なんて、)カチャン

(分厚くて、すんげーキレイ)

(…………)


ふと、あの小説を思い出す。


(主人公――ケイティは、ハサミで切ってんだっけ)

(リスカって、何も感じないらしいけど、血が出るくらい切るんだろ?)

(どう考えても、痛いよなぁ……)

(…………)

(まさか本当に……痛くない……のかな……)

(……まさかな)


手にはガラスの破片がある。
それを見下ろし、じっと睨む。
その断片は鋭く、皮膚を切るには十分と思われた。


(…………)ドキドキ

11 : VIPに... - 2012/03/29 17:04:52.54 TOjhpbtQ0 8/97



ぴた。


手の甲に破片をあてがう。
鋭利な部分をぐっと沈める。
そしてそのまま、断片を滑らせる……。




ツー・・・・・・・・・・・・


ツー・・・・・・


ツー・・・




(…………って、何やってんだ、俺は)



手の甲には、3本のざらざらした白い線が残っただけであった。
当然痛みは感じない。
爪を這わせるのと同じ感覚であった。


(アホらし)


ゴミ袋の中へガラスの破片を投げ捨てる。
ガシャン、と鈍い音がした。

13 : VIPに... - 2012/03/29 17:06:53.33 TOjhpbtQ0 9/97


(あー、なんか課題する気も起きねーなぁ)

(一応受験生だけど……別に一流大学とか行けなくていいし)

(……あの小説は、明日読むとして)

(どうせ家じゃ読めないし、どっか店に入って読むかぁ)

(なんか今日は疲れたなぁ)

(喧嘩も、毎日されちゃたまったもんじゃねぇよ……)

(……もう今日は寝よーっと)バサッ

14 : VIPに... - 2012/03/29 17:09:26.46 TOjhpbtQ0 10/97


――翌朝



「ふあぁ……よく寝……」

(……ん?)

(何だ?この傷)



「…………え」



男の手の甲には、不自然な3本の傷があった。
直線状のかさぶたが赤黒く変色し、周りは赤く腫れぷくぷくと浮き出ている。
ぽつぽつと続く血の塊は肌に映え、なんとも痛々しかった。


(まさか昨日のアレか?)

(あの程度の傷で?)

(嘘だろ?)

(…………)


「…………本当に……全然痛くないんだ……」


ほんの好奇心から、大変な傷を作ってしまった。
そういう羞恥心はあった。
しかし、それ以上に、何か得体の知れない高揚感が湧き上がるのを、男は密かに感じていた。


「なんだ……俺にも出来んのか……リストカット」

15 : VIPに... - 2012/03/29 17:11:47.22 TOjhpbtQ0 11/97


――学校


「おっす」

友1「おう男、おはよう」

友2「おいーす……うわ!なんだよその傷!」

「ん?あー、昨日猫にやられた」

友1「お前ん家猫飼ってたっけ?」

「いやウチのじゃなくてさー、野良猫手なずけようとしたら思いきりグサーッてやられた」

友2「うっわ、痛そー」

友1「野良って……感染症とか大丈夫なのかよ」

「ん……つか俺課題やってねんだよ。誰か見して」

友1「またかよお前」

友2「ちょっとは受験生らしくしろやー」

「おめーに言われたくねーよww」



「…………」

16 : VIPに... - 2012/03/29 17:13:42.88 TOjhpbtQ0 12/97


「ねぇ、男くん」

「ん、何?」

「今日課題集めの当番、私達よ」

「え?うわ本当だ、やっべ」

「もう集めておいたから、男くん、職員室まで持っていくの手伝ってくれる?」

「さすが女さん!いつもゴメンね、代わりに今日は俺が全部持っていくから」

「……いいわよ、私も一緒に持つから」

「あ、そう?」

「男くんの課題は?」

「あ、えーっと、んー、やっといたヤツもあるんだけど……」ガサゴソ

「……」

「あ、ゴメン、いいよ、行こうか」

(カバンごと持ってって、歩きながら探そ)

17 : VIPに... - 2012/03/29 17:15:08.30 TOjhpbtQ0 13/97


「……」スタスタ ガサゴソ

「……」スタスタ

「……」スタスタ ガサゴソ

「……」スタスタ

「……あのー、女さん?」

「何?」

「いや、なんつーか、コレ、いつも俺、サボッてたじゃん」

「……そうね、いつも私が集めて提出してるわ」

「うん、ゴメンね。んで、なんで今日に限って、一緒に行くのかなー、なんて」

「……」

「……俺に、何か用でもあった?」

「……職員室に行った後、ちょっと付き合ってくれる?」

「! お、おう。もちろん」

「……」スタスタ

(何か相談事でもあんのかな……?)スタスタ ガサゴソ

18 : VIPに... - 2012/03/29 17:16:47.84 TOjhpbtQ0 14/97


――空き教室


「……男くん、単刀直入に言うけど」

「う、うん?」

「左の手の甲を、見せてくれる?」

「えっ?」

「……」

「いや、あの……なんで?」

「見せられないの?」

「いや……別に、いいけど。ほれ」



ぶっきらぼうに手を差し出すと、女はそれを静かに両手で包み、しばらく観察した。
男は平然を装ったが、内心焦りでいっぱいだった。
女の目は、明らかに、あの傷を見ている。



「な、なんだよ、きもちわりーな」

「あら、見られて困ることでもあるの?」

「別にねーよ。うるせーな。猫に引っかかれたんだよ」

「私、傷のことなんて触れてないわよ」

「……」


19 : VIPに... - 2012/03/29 17:19:28.79 TOjhpbtQ0 15/97


「……自分で切ったんでしょう」

「は!?」



思わず女の顔を見る。
女は、目を細めていまだ男の手の甲を凝視していた。



「利き腕の右手で、何か鋭利な切っ先をゆっくりゆっくり這わせたのね。これはそういう傷よ。
  決して猫の引っかき傷なんかじゃない。」



そう言って男の顔を見上げる。
予想外に真っ直ぐな目を向けられて、思わず目をそらし俯く。



「離せよ。関係ねーだろ、女には」



ひったくるように手を離す。
女は一瞬驚いたようだったが、すぐに静かな表情に戻った。



「……そうね。関係無いわ」



そう言い、眼鏡を外してティッシュで拭き始める女。
気まずい沈黙が流れた。
手持ち無沙汰なので、女の手の動きを目で追う。
起用にレンズを拭きフレームを磨く一連の所作は、洗練されていて不覚にも見惚れてしまった。

20 : VIPに... - 2012/03/29 17:21:37.07 TOjhpbtQ0 16/97


「何か?」

「いや、別に」ドキ

「心配だから絆創膏でも貼ってうまく隠してあげようと思ったんだけど、杞憂だったようね」

「おう、見られて困るモンでもねーからな」

「……ふぅん」

「……なんだよ」

「男くんって、竹を割ったような人だと思ってたけれど、案外脆いところがあるのね」

「ど、どういう意味だよ」

「リストカットをするような人の性格なんて、たかが知れてるわ」


ふん、と鼻を鳴らして言う。


その言葉に憤りを覚え、激しく立ち上がり女を見下ろした。
倒れたイスが乾いた音を立てる。


21 : VIPに... - 2012/03/29 17:24:23.93 TOjhpbtQ0 17/97


「ずいぶん見下してくれるじゃねぇか」

「そんなつもりはないわ」

「何がたかが知れてるだよ。お前に俺の何が分かる」



むきになって、思わず語気を荒げる。



「……分からないわ」



メガネをかけ直し、真っ直ぐ男を見上げる女。



「あなたのことは、何も知らない」

「……は、」

「あなたの思考とか、心情とか、背負ってるものとか、そういうものは何一つ知らないって言ってるの」

「お前、なんなんだよ、たかが知れてるとか知らねーとか、テキトーなこと言うのもいい加減に……」


女に掴みかかろうとして、机が倒れる。
その拍子に男のカバンが床に落ち、中身が散らばった。
女はそれに目をやると、驚いた目をして言った。


「…………レベンクロン?」


22 : VIPに... - 2012/03/29 17:26:55.80 TOjhpbtQ0 18/97


「は?」

「『自傷する少女』じゃない」

「……知ってんの?」

「ええ。読んだのは随分昔だけど、内容はよく覚えてる……」



そう言うと女は男の手を払い、本を手に取った。
懐かしそうに、パラパラとページをめくる。
そして、目を細めながら、口を開いた。



「リストカットは、こうあるべきだったんだと思うわ」

「え?」



「こういう行為は……その人にとって、自己防衛の手段であり、恥ずべき秘密であり、最後の望みなのよ」

「それがいつの間にか、公に目に晒されるようになって、たちまち人が蟻のように群がってきて」

「興味半分で傷を見る人や、見せびらかす人、それを批判する人……どんどん拡散していって」

「“死ぬ勇気なんて無いくせに”、なんて、的外れな説教をする輩まで出てきて」

「自傷行為の中で、リストカットの好奇さだけが一人歩きし出して」

「その結果…………あなたのような人が現れる」


「俺?」ドキッ


23 : VIPに... - 2012/03/29 17:29:49.93 TOjhpbtQ0 19/97


「明朗快活、いつも笑っていて、ストレスのはけ口なんていくらでもあって」

「自傷行為の必要なんて皆無な人間が、ほんの些細なショックやアクシデントで、いとも簡単に手を切って」

「そして、それを見せびらかすでもなく、かといって必死になって隠すでもなく」

「尚も平然としてヘラヘラと笑いながら」

「リストカットを一つの手段として、嬉々としながら、自分の中に仕舞う」

「そんな人間よ」

「…………」

「嫌いなのよ、そういう人」



静かな口調が凄みを倍増させる。



「初めて切ってしまってうろたえているのかと思えばそうでもなく、挙げ句、こんな本まで持ち歩いて」

「信じられないわ」



男は二の句がつけず、ただうなだれていた。



「あなたみたいな人を見ていると…………自分が情けなくなる」

「え?」

「…………」

「どういう、意味――」

「そろそろ予鈴が鳴るわ、戻りましょう」


24 : VIPに... - 2012/03/29 17:34:07.49 TOjhpbtQ0 20/97


――放課後


(結局あの後、女と話すチャンスは無かった)

(まさか、あんなに風に怒られるなんてなぁ……)

(それに、“自分が情けなくなる”って、あの言葉……)

(…………)

(とりあえず……この本、読もう)


『自傷する少女』を手に、手頃そうな喫茶店を探す。


25 : VIPに... - 2012/03/29 17:35:33.73 TOjhpbtQ0 21/97
















「ふぅーっ」


(結局、家に持ち帰って、徹夜で読破してしまった)


(……なんというか、こんなに、読んでてドキドキした本は初めてだ……)

(読んでて、リストカットに、魅入っていく危うさとか)

(ケイティの、可哀想なまでの一途さとか)

(……うーん、なんて言ったらいいんだ)

(とにかく、凄まじかった……)



様々な単語がぐるぐると胸中を廻る。


26 : VIPに... - 2012/03/29 17:39:49.48 TOjhpbtQ0 22/97


――恥ずべき秘密

  秘密の狂気

  秘密を知られる危険

  誰かと親密になるわけにはいかない……

  「自分がボロボロのイカれたやつだって、みんなに知らせたかったわけ?」

  わかってくれる人は、誰一人としているはずもない

  (ママ、この血を見てよ。見なさいよ。何があったのか訊きなさいよ。)

  (放っておいてよ!)

  「もし、彼女から助けを求めてないのなら」

  「何でもないんだと思うわ」

  「気力の問題なのよ」

  「こんなクズみたいな人生を送りたいわけ?」

  (ここで転んだら、首の骨が折れるんだろうな)

  消えてしまいたい。死んでしまいたい。

  「精神科の病人になりたくなかったら」

  (自分に愛想をつかしてはいない、と言って)

  大丈夫だ、と言って

  自分以外は誰も傷つけていないのに!




(ケイティは……凄く、苦しかったんだろうな……)


――『自分が情けなくなる』


(あの言葉……もしかしたら……女も……)





気がつくと、男はそのまま眠りに落ちていた。

27 : VIPに... - 2012/03/29 17:44:06.20 TOjhpbtQ0 23/97


――翌朝、学校


登校するなり、玄関口で、女の姿を探す。
幸い、ちょうど女が上履きに履き替えるところだった。



(よし、いつもより早く登校して良かった)


「お、おーい!女ー!」

「……男くん?」

「あ、あのさ……!」ハッ

「ここじゃまずいな……ちょっと、来て」グイッ

「な、何、ちょっと!」

「いいから!話があるんだ!ここじゃマズイんだ、ちょっと来て!」ダッ



  「ちょっと、ねぇ何あれ」ザワ

  「キャー!告白!?」ザワザワ

  「大胆ー!素敵ー!」ザワザワ

  「頑張れ男ー!」アハハハ・・・



28 : VIPに... - 2012/03/29 17:46:23.93 TOjhpbtQ0 24/97


バタン!


「はー……はー……」

「はぁ……なんなのよ、あなた……」

「はー……ちょっと、聞きたい、ことが、あって……」ゼェゼェ

「はぁ……全く……明日から、学校が憂鬱だわ……。変な噂が立ってないといいけど」

「え、ご、ごめん」

「……まぁいいわ。それで、何の用?」



そう言うと、近くにあった椅子に座り、眼鏡を拭き始める。
男はそれを見て、もしかしたらこれは、動揺したときの女の癖なのかもしれない、と思った。
女の顔色を伺う。
しかし、女は至って平然としていた。



(勘違いかな?)


「? 男くん?」

「あ、ごめん」

「それで、廊下じゃマズイような話って、一体何かしら」

「うん、あのな…………。あ、その前に、女」

「はい?」

「言っとくけど、これは告白とかそーいうんじゃねーぞ」

「そう。安心したわ」

「あ、そーですか……」



女と対面になるように椅子に座り、男は一つ咳払いをして、前のめりになりながら、言った。



「単刀直入に言う」

「左の、手首を、見せてくれないか?」

「…………え?」

29 : VIPに... - 2012/03/29 17:49:11.59 TOjhpbtQ0 25/97


「……どういう意味かしら」

「そのままの意味だよ」

「…………」



眼鏡をかけ直し、腕を組んでしばし沈黙する女。
男は緊張しながら返事を待った。
女は考えを巡らせているようだった。
一点を見つめている。
そしてしばらくして、一つため息をついてから、口を開いた。



「まぁ、いいわ」

「ほ、本当か?」

「ええ。左腕だったわね」

「お、おう」



ゴクリと唾を飲みこむ。
斜に構えていた女が、男に真っ直ぐ向き直り、左腕を手首を上にして机に置いた。
そして、ゆっくりと袖をめくり上げる。






(!!)

30 : VIPに... - 2012/03/29 17:55:57.11 TOjhpbtQ0 26/97


男は、思わず息を呑み、固まった。



「…………どう?これで満足?」

「え、あ、いや」

「ふふ。切り傷でもあると思ったのかしら」

「いや……」

「見てのとおり、古傷はおろか痕さえ無いわ」



その通りだった。
女の腕はいたって綺麗で、素人目で見ても、とても切ったことがある腕とは思えなかった。



「なんならもっと調べてみる?」

「いや……え、じゃあ……あれは何で?」

「何のこと?」

「だって……だって、あの時! 俺の傷を見て、“自分が情けなくなる”って!」

「…………あぁ」

「あの言葉があったから、俺はてっきり、女も……」

「リストカットをしていると思ったわけね」

「……う、うん。だから、傷が、利き腕じゃない左手にあるだろうと」

「……ふん。なるほどね」



それっきり女は押し黙り、袖を元に戻した。
……また女を怒らせてしまったかもしれない。
男は罪悪感で俯いた。


31 : VIPに... - 2012/03/29 17:59:13.88 TOjhpbtQ0 27/97


女にどう謝ろう。
そう悩んでいると、不意に女が、ふふ、と微笑んだ。
男は驚いて顔を上げる。
女の表情は何故か、諦めや達観を思わせる、悲しげな笑みだった。



「つまり男くんは、私がケイティのように“秘密の儀式”を行っていると、そう思ったわけね」

「うん、まぁ。でも、違った……」

「いいえ。男くんは間違ってないわ」

「え?」



教室に朝日が差す。
女の艶やかな髪がさらさらと揺れた。



「“自傷行為”って言葉は、単にリストカットだけを意味するものじゃない」

「そう言えば、分かるかしら」

「……傷も、痕も、証拠も、何も残さない、自傷行為だってあるのよ」



そう言って、尚も女は微笑む。
ゆらゆらと風に乗るセミロングの髪が美しい。
その姿は、何か、女が背負っているであろうものなど、微塵も感じさせなかった。



「何も残さない、自傷行為……?」

「ええ」

「傷も、痕も、証拠も……」

「ええ」

「…………」

「そうか……」


32 : VIPに... - 2012/03/29 18:00:53.01 TOjhpbtQ0 28/97


(つまり、俺は、)

(女とは、正反対のことを……)

(……だからあの時、女はあんなに怒ったんだ……)



何のはけ口になるでもない、傷を作るだけのリストカット。
自分を何かから守るための、痕すら残さない自傷行為。



「ごめん……」

「……別に」


33 : VIPに... - 2012/03/29 18:05:27.72 TOjhpbtQ0 29/97


「……そろそろ、予鈴が鳴るわね」

「え……あ、そうだな……」

「……男くん、家は2丁目方向だったかしら」

「え?そうだけど……?」

「今日、一緒に帰らない?」

「えっ」

「……嫌かしら」

「まさか!嫌じゃない、けど、あの、いいの?」

「……放課後、正門で待ってるから」ガラッ

「あっ……」


(……俺のこと、怒ってないのかな)

34 : VIPに... - 2012/03/29 18:06:45.58 TOjhpbtQ0 30/97


――放課後



「……」スタスタ

「……」スタスタ



「あの……朝のこと、ゴメンな」

「そんなに謝らなくてもいいわよ」

「でも、俺、何も知らずに…………ごめん」

「……そんなに謝られたら、かえって悪いわ」



「それに結構、楽しかったのよ」

「え?」

「自分のこと――自傷行為のことね――人の話すの、初めてだったから」

「……そうなんだ」

「誰にも言わないでね?」

「も、もちろん!誰にも言わねーよ!当たり前だろ!」

「……ふふ」

35 : VIPに... - 2012/03/29 18:08:56.41 TOjhpbtQ0 31/97


「男くんは……大丈夫?」

「え?」

「切ってない?あの後」

「え、な、なんで、そんなこと、聞くの?」

「…………別に」

「……あの日、女に怒られてからは、もう切ってないよ」

「怒ったつもりは無かったんだけど。……それなら、良かった」

「……ありがとう」

「……いいえ」ニコッ

(ドキ)



「あ、私、こっちなんだけど」

「え?あ、俺はこっちだ……ここでお別れだな」

「じゃあね」

「お、おう」


36 : VIPに... - 2012/03/29 18:10:36.57 TOjhpbtQ0 32/97


――男の自室



(女……俺みたいなヤツ、嫌いとか言ってなかったっけ……)

(もしかすると、案外、心を開いてくれてるのかな……?)

(……女も、ケイティのように、苦しんでいるんだろうか……)



 ――「もし、彼女から助けを求めてないのなら」

 ――「多分、何でもないんだと思うわ」



(でも、ケイティはあの後、人前で手首と頭と切って、大騒ぎになった……)

(きっと、そうなる前に、ケイティを助けてあげるべきだった)

(女も……今、苦しんでるんだとしたら……)

(“痕も証拠も残らない自傷行為”)

(知ってるのは、きっと、俺とアイツの2人だけ……)




「俺が…………」


37 : VIPに... - 2012/03/29 18:12:58.00 TOjhpbtQ0 33/97





















――翌朝、学校



(今日は一段と冷えるわね)

(そろそろ雪が積もる時期かしら)

(……?)

(……なんだか校門が騒がしいわね)



「おはよう、友ちゃん」

「あ、女ちゃん!おはよう!」

「ねぇコレ、人が凄くて中に入れないんだけど……なんの騒ぎ?」

「いやね、ちょっと、女ちゃんも見てよ!ヤバいんだよ、男の奴が!」

「男くん?」



人ごみをかきわけ、中心に進む。



「ちょっと、ごめんなさ――――」


「!?」






そこには、季節外れの、半袖の夏服を着た、男の姿があった。

38 : VIPに... - 2012/03/29 18:14:43.97 TOjhpbtQ0 34/97



  「あいつ冬服持ってきてねーらしーぜ」 ザワザワ
  「マジかよwww」 ザワザワ
  「夏にはまだ早いぞー!」 アハハハ
  「先生にどう言う気だよ……」 ザワザワ
  「寒すぎておかしくなったかwwww」 ザワザワ


「ちょっと、男!」

「あ、女おはよう!いやー、今日は冷えるね!」


  
   「wwwwww」ドッ



「ちょ……あんたちょっと、来なさい!」グイッ

「うおっ!?」


  「あーあー奥さんに連れてかれちゃったよ」 ザワザワ
  「男ー!頑張って女落とせよー!」 アハハハ


39 : VIPに... - 2012/03/29 18:15:41.94 TOjhpbtQ0 35/97


「どういうつもり?傷だってまだ治ってないくせに目立つ真似して、馬鹿じゃないの?」

「いやー、そうなんだよねー、ホラ」バッ


「!」


「……何よコレ」

「傷が……ひどくなってるじゃない」

「そーなの。もう一目瞭然。遠くからでも分かっちゃうかも」

「…………」グイッ

「うおあっ!?今度はドコ行くんだよ!?」

「保健室に決まってんでしょ!その傷隠さなくてどうすんのよ!見てるこっちが痛いわ!」

「ま、まてまてまて!いいの。コレはこのままでいいの!」

「…………どういうことなの?」



呆れながら改めて傷を見ると、あることに気が付いた。



「あんた、これ……」

40 : VIPに... - 2012/03/29 18:16:45.65 TOjhpbtQ0 36/97


「前に切った傷の上から……重ねて切ったの?」

「そ。さすが女、目聡いね」

「……この分だと、血も相当出たでしょう」

「まぁね、それなりに痛かったし」

「放っておけば痕も残らずに済んだのに……これじゃあいつまで残るか分からないわよ」

「そうだね」

「もうわけがわからないわ。一体どういうつもりなのよ」

「聞きたい?」

「……一応ね」

「分かった。じゃあ言うから、ちゃんと聞いてくれ」



そう言うと男は急に真面目な顔つきになり、ビシ!と人差し指を立てた。

41 : VIPに... - 2012/03/29 18:22:16.31 TOjhpbtQ0 37/97



「いいか!俺はこれから毎日、半袖で登校する。何があっても絶対学校を休まない」

「遠くからでも分かるように、目立つ格好をする」

「そして、傷は絶対に隠さない」

「……それで?」

「俺は両腕半袖だから、みんなに傷が見える。だけど、これには意味がある」

「俺は、これ以上、絶対に傷を増やさない」

「…………これ以上切らない。その証拠を示すための、半袖ってわけ?」

「それもあるけど、もう一つ」

「この傷……昨日切ったこの傷が、治って、消えていくのを、女に見ていて欲しい」

「え?」


42 : VIPに... - 2012/03/29 18:24:19.24 TOjhpbtQ0 38/97



「……これ、切るのに凄く勇気が要ったんだ。
  すんげー痛かったし、かなり深く抉ったし。
  血も凄くて、正直怖かった」

「こんな傷だから……消えるのに、何年とかかるかも知れない」

「いや、もしかしたら、一生消えないかもしれない」

「これは俺に一生付きまとうのかもしれない」

「傷って言うのは、そういうもんだと、俺は思う」

「…………」

「でも、傷は、少しずつ、癒えていくんだよ」

「少しずつだけど、薄く、小さく、なっていくんだよ」

「きっと、どんな大きな傷も、生きてさえいれば」

「……俺たちは、心が傷つくかわりに体を痛めつけるけど、でも、死ぬ勇気なんかない。そうだろ?」

「……そうね、死ぬ勇気なんかないわ。死にたいわけじゃないもの」

「生きていく限り、きっと、傷は癒えていくよ。俺の傷も、女の傷も」

「……私は、痕の残るようなことはしてないわ」

「俺は、女に、自傷行為を、やめて欲しい」

「……は?」

43 : VIPに... - 2012/03/29 18:25:45.26 TOjhpbtQ0 39/97


「女がやってるような自傷行為は、痕が残らない代わりに、止められたかどうか、傍から見ても分からない」

「でも、俺は女に、そういう行為を止めて、生きていけるようになって欲しい」

「……関係ないじゃない、男には」

「関係無くない!俺は止めて欲しいんだ!」

「勝手なこと言わないでよ。そんな簡単に止められるわけないでしょう?」

「簡単だなんて思ってない。だけど、2人一緒なら――」

「あんたに私の何が分かるの!」

44 : VIPに... - 2012/03/29 18:27:12.26 TOjhpbtQ0 40/97


「……」

「……分からないよ。何も……分からない」

「女が背負ってるものも、その重さも、どんなことをしてるのかも、どんな気持ちでしてるのかも」

「何も知らない」

「話すのが嫌なら、俺は知らないままでいい」

「……でも、」

「女がいつか、そういう色んなものから開放される日まで」

「……いや、開放されたいと女が思って、助けを求めてくれるまで」

「俺は傍にいたい」

「傷は、消えなくても、癒えるものだって、伝えたい」

「……この傷は、俺のそういう覚悟の証として、切った」

「この傷が治っていくのが、女にも見えるように」

「…………」

「……一応、これが、俺の奇行の訳なんだけど……」

「どう……かな?」

45 : VIPに... - 2012/03/29 18:30:06.06 TOjhpbtQ0 41/97


「…………」



女は俯いていて、表情は窺い知れない。
返事を待つしかなかった。



「……引くよ」

「え?」

「私が何をしてるか、男くんが知ったら……きっと、引く。嫌いになると思う」

「……そんなことない。つーかそれくらいなんでもない」

「自傷行為を止めさせるのって、親でも難しいのよ?分かってるの?」



 ――医者にも面倒を見切れないのだ。
   病んでいると言った。この先もっとひどくなって、この病院に戻ってくると。
   彼女の人生は、そういうことになっていると。



「覚悟の上だよ。俺だって何も知らないままこんなこと言ってるんじゃない」

「……」

「これでも色々勉強した……これからも、もっと勉強する」

「…………」

「…………引くよ」

「だから引かないって言ってるだろ」

「そうじゃ、なくて……」



ファサ



「……へ?」









「…………マフラーくらいしなきゃ、風邪引くよ……」

46 : VIPに... - 2012/03/29 18:35:05.94 TOjhpbtQ0 42/97


「お、女……!」プルプル

「……そろそろ予鈴が鳴るわ。教室、行くわよ」スタスタ

「……お、お、女ぁ……!」



「……」スタスタスタスタ



「……」スタスタ



「……男くん?」クルッ

「お、お……俺っ」

「……何?」ニコ







「す……すっ……すっ……!」














「涼しいなぁぁ今日はぁぁぁぁーーーーっ!」ドタドタドタドタ

47 : VIPに... - 2012/03/29 18:44:01.82 TOjhpbtQ0 43/97


ガラガラガラガラ



「はは……遅れてスイマセーン」

担任「どうりで遅いと思ったら、お前ら、同伴出勤かー?」ニヤニヤ

担任「あとお前……なんだその格好は」

担任「夏服に女物のマフラーとは……よっぽどの理由があるんだろうなぁ」

「あはは……」

担任「まぁ、お前はいいとして。女、お前はどうして遅れた?」



「……男くんにプロポーズされてました」

「ぶほぼべらッ!?」



   「キャー!」
   「ウソー!?」
   「ヒューヒュー!」
   「男くんやるぅー!」
   「おめでとう男ぉぉぉ!」



「お、おっ、おま、俺は何もそこまで……!」

「……馬鹿。あ、マフラー返してね」ヒョイ

「あ!やめて!それとるとすんごい寒いの!」

「涼しいんじゃなかったの?」

担任「あーもう分かった。のろけてないでさっさと席に着け」

生徒「wwww」ドッ








担任「はい、それじゃ、忘れないように言っとくが、お前達は受験生だ。
   
   道は辛く厳しい。苦難の連続だと思うが、ここを正念場だと思い、乗り切って欲しい。

   自分次第で道は拓けることを忘れるな。頑張れよ!」








~完~

49 : VIPに... - 2012/03/29 18:47:08.94 TOjhpbtQ0 44/97

なんだか全体的に締まらなくてすいません。
読んでくださった方、ありがとうございました。

66 : VIPに... - 2012/04/02 11:59:40.29 KF43iW1p0 45/97


――放課後、喫茶店にて


2つのコーヒーカップからはゆらゆらと湯気が漂っている。
それには手をつけず、改まった様子で対面に座る男と女。
女は制服の冬服、男はジャージ姿である。



男がひとつ咳払いをして口を開いた。



「えーと、改めて言うけど」

「俺は、女に、自傷行為をやめられるようになって欲しい」

「ええ。確かにそう聞いたわ」

「で、それにあたって、女のことを色々と知りたい」

「色々って、例えば?」

「んーと……そういうのを、始めたきっかけとか、いつからしてるとか、何をしてるかとか……」

「…………」



女はそれを聞いて少し俯いた。
男は慌てて取り繕う。



「あ!いや、いい!別に、無理に話してってわけじゃないから」

「……ううん、ちょっと何から話そうか考えてただけ」

「そうね。じゃあ、きっかけから話そうかな」

「あ、うん。じゃ、お願いします」


67 : VIPに... - 2012/04/02 12:00:40.54 KF43iW1p0 46/97


「その前に一つ」

「私ね、両親がいないの」

「え、そうなの?」

「ええ。私が小学校低学年の頃よ。蒸発しちゃったわ」

「蒸発……」

「父親の方は私も詳しく知らないんだけど……新しい女見つけたり、借金を作ったり、色々あったみたい」

「……そうだったのか」

「その頃からかな。お母さんがね、ハードな仕事するようになっちゃって」

「無理が重なったのね。私を育てるのにも耐え切れずに、出て行っちゃったわ」

「……じゃあ、今は、親戚とかと暮らしてるのか?」

「いいえ。私は実家に1人暮らしよ」

「1人!?」

「幸い高校の授業料とか生活費はお母さんが振り込んでくれてるけど……帰ってくる気は無いみたい」

「……知らなかった」

「これも、話したのは男くんが初めてだもの」

「お弁当も毎日持って行ってるし、家に高校の友達を上げたこともないから、皆は私を普通に家族がいると思ってるんじゃないかな」

「……大変だな」

「もう慣れたわ」

68 : VIPに... - 2012/04/02 12:01:22.36 KF43iW1p0 47/97


男は、女が想像以上の境遇に居たものだから、驚きを隠せなかった。
なにより、事も無さげに話す女に、かける言葉が見つからなかった。
自分を不甲斐なく思い、俯く。

そんな男を察したのか、女は再び口を開いた。



「それで、きっかけの話だったわね」

「あ、あぁ」

「きっかけは……何だったんだろう。自分でも分からないけど、やっぱり父親がいなくなったことだったのかな」

「その頃は自傷行為の知識なんてなかったけど」

「髪の毛をね、抜く癖がついたの」

「髪の毛?」

「抜毛癖って知らない?」

「……少しだけ知ってる」

「そう、良かった。話しやすいわ」

69 : VIPに... - 2012/04/02 12:02:17.55 KF43iW1p0 48/97


「頭のてっぺんを触ってね、髪の毛を指先で吟味するの」

「そうして、一本に絞ったら、ぷちっと抜く」

「ただそれだけ」

「ただ……慢性化していたのがマズかったのね」

「ある日、お母さんに、頭にハゲがあるのを見つかっちゃって」

「……そんなに抜いたのか」

「私は皮膚科に連れて行かれた。でもそこで、肌の病気じゃなく、心の病気であると医者から言われちゃって」

「病院の帰り、お母さんに色々と詰問されたわ……」

「どうしてこんなことするの?って」

「普通じゃないわよ、って」

「自分で抜くなんてどうかしてる」

「皆に見つかったら何て説明すればいいの」

「女の子なのにこんなもの作って、恥ずかしい……」

「……もういい、女」

70 : VIPに... - 2012/04/02 12:03:09.69 KF43iW1p0 49/97


辛そうに目を細めながら話す女を見て、いてもたってもいられなくなり、思わず話を遮る。
女ははっとして男を見た。



「……ごめんなさい。嫌よね、こんな話聞かされたら」

「いや、違う、女が辛そうだったから……これ以上話させたら悪いかと」

「私?辛そうに見えた?」



少し驚いたように女が言う。



「うん。ちょっとだけ……話すのが嫌そうに見えた」

「そんなつもりは無かったんだけど……そう見えるのね」

「……続けても、いいかしら」

「あ、うん、邪魔してごめん。話したいとこまででいいから、続けて」

「ありがとう」



男に向かって微笑みながら、冷めてしまったコーヒーを一口飲み、続ける。

71 : VIPに... - 2012/04/02 12:04:24.88 KF43iW1p0 50/97


「頭のハゲは、次第に髪の毛が生え揃って、1ヶ月もしたら消えたわ」

「でも私は、抜毛の衝動を止められなかった」

「最初は前髪の生え際を抜いたり、髪の毛で隠れた場所から抜いたり、色々したんだけど、どうも足りなかったのね」

「毛根がね……太くしっかりしていて、抜いて痛みを感じるくらいじゃないと、満足しないのよ」

「そこで、ある日私は、絶対に抜いてもバレない場所に手を出した」

「十分に痛みを感じて、太い毛が密集していて、いくら一気に抜いても絶対に分からない場所」

「……今では、抜毛をしているのはその部分だけよ」



男はそれを聞いて考えていた。



(毛が太くて、抜いたら痛くて、ハゲになってもバレない場所……?)

(腋毛……眉毛……腕毛……うーん)

(女にヒゲはないし……)

(どこだ?)



男は控えめに尋ねた。



「ちなみにその部分ってのは……?」



そう聞かれると、女はばつが悪そうに目をそらした。
そして目を瞑って眼鏡を外し、磨き始める。



「口に出すのも憚られる場所よ」

「そっか……ごめん」



(やっぱ、動揺したらメガネ拭くのって、女の癖だな)



結局その日は、女の話を聞いただけでお開きとなった。
これ以上女に何か話させるのは辛いだろうという男の配慮である。
下校途中の分かれ道で、また明日と言って別れ、男はひとり家路に着いた。

72 : VIPに... - 2012/04/02 12:05:15.86 KF43iW1p0 51/97


(女……見る限り、終始整然としてはいたけど)

(でも……“抜毛癖”)

(ネットで知っただけの付け焼刃の知識だけど)

(頭に関する自傷はかなりの危機感とか焦燥感の表れ、らしい)

(あんなことをするくらいだ……きっと背負ってるものは相当デカい)

(俺に女を守りきれるんだろうか……)



手の甲に刻んだ傷を見る。



(いやいやいや!俺が弱気になってどうする!)

(女は、俺だけに話してくれたんじゃないか)

(俺が守らなくて、誰が守ってやるんだよ)



改めて気合を入れなおし、足取りを強くした。



(女だって強い奴だし、きっと大丈夫さ)

77 : VIPに... - 2012/04/02 16:10:17.20 KF43iW1p0 52/97


ガチャ


「ただいま」



   「そんなにここが嫌なら出て行けばいいでしょ!?」
   「ここは俺の家だぞ!勝手言うな!」
   「毎日毎日夜になったら出て行くくせに!どうせ外にオンナでもいるんでしょ!」
   「お前が毎日寝室に篭るから俺が外に出てやってるんじゃないか!」



(今日は口喧嘩すか)

(まぁ物が壊れないだけマシだけどさ)

(もうちょっと小声でやってくんねーかなぁ……)



――――「私ね、両親がいないの」



(…………)

(女の家は……喧嘩する相手もいないんだよな……)




    「そうやってオンナに会う口実作ってるだけじゃない!」
    「毎回女女って、証拠も無しによく言えるな!」
    「決まって夜に出て行く男が怪しくないわけないでしょ!?」
    「だからそうやってお前がいちいち騒ぐから――」
    「しらばっくれないで!」



(……どっちがマシなんだろう)

78 : VIPに... - 2012/04/02 16:13:14.63 KF43iW1p0 53/97


喧嘩に首を突っ込みたくはないが、リビングを通らなければ自室には行けない。
男は仕方なくリビングの扉を開けた。



「ちょっと失礼するよー」

ガチャ



「――あ!男!危ない!」

「へ?」







 ガ シ ャ ー ン !




「」

79 : VIPに... - 2012/04/02 16:14:18.28 KF43iW1p0 54/97


「はぁ……はぁ……」

(か、花瓶ってオイ……まともに当たったら死ぬだろ……)

「男!大丈夫か!?」

「ん、だいじょ――うわ!」

「? どうした?」

「親父……顔!切れてる!血が!」

「なっ……!?そういうお前こそ、手首から血がっ」


「え、手首…………?」


「おい!お前が花瓶なんか投げるからだぞ!」

「し、知らないわよ……!」バタン!

「とりあえず消毒……の前に、止血をしないと」

「確か救急箱は戸棚に……」

80 : VIPに... - 2012/04/02 16:14:56.48 KF43iW1p0 55/97
















「ふぅ。これで手当ては大丈夫だな」

「あぁ」

「すまんな」

「……別に」

「……じゃあ、父さんはちょっと、出かけるから……」

(またかよ)

「あっそ」

「じゃ、じゃあな」バタバタ バタン

「はぁ……ったく」

(あんな喧嘩しといて、よくまた出掛けてられんなぁ)

(マジでオンナでもいるんじゃねーの)

(つーか……それより)


「この傷……どうしよ」

81 : VIPに... - 2012/04/02 16:16:49.37 KF43iW1p0 56/97




――――「俺は、これ以上、絶対に傷を増やさない」



(あんなこと言っといて、その翌日に、手首に切り傷って)

(マズイだろ……)

(でも、事故だし……別に、自分で切ったわけじゃないし……)

(血も、明日になれば止まってるだろうし)

(……このままでいいか)

(女に誤解されなきゃ平気だろ、うん)


自分を納得させて、自室に向かう。
手首の傷がズキズキと痛んだ。

82 : VIPに... - 2012/04/02 16:18:20.85 KF43iW1p0 57/97


――翌朝、学校



(……うー)

(昨日の傷が思ったより痛い)ズキンズキン

(はぁ……女に傷見られたくないなぁ)

(なんか……罪悪感あるし……)

(見られても……ちゃんと弁解するんだぞ、俺)



(……あ、女だ)


「女、おっはよー!」



なるべく心中を悟られないよう、明るく言う。

が、女は男を見るなり愕然とした顔つきになった。



「男くん……?」

「え、なに?」ドキ

「……傷が、増えてるじゃない……」

83 : VIPに... - 2012/04/02 16:19:20.18 KF43iW1p0 58/97


しまった。


女の声は、怒りとも動揺とも取れる震えを帯びていた。
男はなるべく調子を崩さないよう、気を付けて明るく振舞った。



「いやいやいやいや、違うからね?これは昨日ガラスが飛んできたんだよ、腕に」

「……」

「いや、あのね、俺んちの親、いつも喧嘩激しくてさ」

「……そうなの」

「だからさ、ほら、たまには仲介に入ろうと思ったんだけどさ、お袋がまたね、よく物投げんだよ」

「……」

「いつもはコップとかなんだけど、昨日は花瓶で、こんなデカいのをもう、思いっきり、ガッシャーンて」

「慌てて避けたけど、何しろ破片が凄くてさ、俺は腕だからいいけど、親父なんて顔が切れてそっからもう大変で……」

「……つまり、自分で切ったわけじゃないのね」

「そ、そうだよ、だからさっきから言ってるじゃん。ホント昨日は大変だったんだから」

「……そう。それならいいのよ」


そう言うと、踵を返して玄関へ歩き出した。

84 : VIPに... - 2012/04/02 16:20:01.43 KF43iW1p0 59/97


「あの……怒ってる?」



恐る恐る聞く。
女は一拍おいて、男へ振り返った。



「怒ってないわ」



なるほど確かに、女は申し分ない笑顔でそう言った。
しかし何か、男は違和感を覚えていた。



(女の言うとおり、本当に怒ってはいなさそうだけど……なんか変だな)



「ごめんなさい、疑ったりして」

「あ、いや、別にいいよ」

「男くんの家も、大変なのよね。ごめん」

「そんな、謝るなって」

「……教室の前に保健室に行きましょう。傷、隠してあげる」

「おう、ありがとう……」


(やっぱりなんか変だ……なんだろ?)



なんとなく納得し切れないまま、女に手を引かれて男は保健室へ向かった。

85 : VIPに... - 2012/04/02 16:22:17.85 KF43iW1p0 60/97


「…………はい、これでよし」

「ありがと」

「さっきは取り乱してごめんなさい」

「いいよ別に……それより包帯巻くの上手いよな、女って」

「そんなことないわ」

「いやいや。なんつーか、手先が器用だよな」

「なんでそんなことが分かるの?」

「だってホラ、あの眼鏡拭く時の仕草とか、見てて気持ち良いもん」

「見ないでよ、そんなところ」

「照れるなよ」

「照れてないわよ」



先生「ひとしきりいちゃついたら、さっさと教室に戻るのよー」



「せ、先生いたのかよ!」

「す、すいません、今出ます」

「つーかいちゃついてねーよ!」

先生「あら?照れてる女さんなんて初めて見たわ」

「て、照れてません!」

「失礼しました!」


バタン!



先生「ふーん……若いっていいわね」クスクス

86 : VIPに... - 2012/04/02 16:23:47.35 KF43iW1p0 61/97




その後、何事もなかったように2人は授業を終えた。



(……授業中ずっと考えてたけど)

(結局、あの違和感の正体は、分からずじまいだった)

(なーんか女の態度が変だと思ったんだけどなぁ)

(……まぁいいや。一緒に帰る時にちょっと聞いてみよ)



「女、帰ろーぜ」

「……」スッ

「あれ?」

「……」スタスタ

「女?」

(聞こえなかったのかな?)

87 : VIPに... - 2012/04/02 16:25:12.07 KF43iW1p0 62/97


「まーてーよー」

「……」スタスタ

「おーい、お前だよー女ー」

「……」スタスタ

「ちょっと……女?」

「……」スタスタ



(女の奴……)

(露骨に無視してやがる)

(何でだ?)

88 : VIPに... - 2012/04/02 16:26:03.89 KF43iW1p0 63/97


「女!女!」

「……」スタスタ

「おい女!きこえねーのかよ!おい!」

「……」スタスタ

「待ってくれよ!どうしたんだよ!」グイッ

「……」フイッ

「女……?」



   「あれ?あの2人って付き合ってるんでしょ?」ヒソヒソ
   「さっそく喧嘩?」ヒソヒソ
   「恋の道は険しいね~」ヒソヒソ
   「でも女さんって気難しそうだもんね」ヒソヒソ
   「確かに。男も大変だな」ヒソヒソ



「……」

「~~~~!」ダッ

「あ、待て!どこ行くんだよ!?」タタッ

89 : VIPに... - 2012/04/02 16:26:58.51 KF43iW1p0 64/97


「はぁ……はぁ……」

「はぁ……はぁ……気が済むまで走ったか?」

「……」

「もう周りには誰もいないぞ。これで気兼ねなく話せるだろ?」

「何があったんだよ、女」

「……」

「黙ってばっかじゃ分かんねーだろ?」

「……」



(うーん……どうしたもんかな……)ボリボリ



「分かった。
  じゃあさ、とりあえず俺、なんか飲みもん買ってくるから。
  一旦落ち着こう。
  女、何がいい?」

「……」

「……うん。じゃテキトーに買ってくるわ」

「…………待って」


男は振り返る。
女は男の袖を掴み、上目遣いで男を見つめていた。


「行かないで。……ごめん。話すから」

「……うん」

90 : VIPに... - 2012/04/02 16:34:35.76 KF43iW1p0 65/97


「男くん……やっぱり、やめましょう」

「? 何を?」

「……コレよ」



そう言うと女はおずおずと男の左手を掴んだ。
傷を指しているんだとすぐに分かった。



「……こういう関係を、やめたいってこと?」



控えめにうなずく女。



「えーと……俺のこと、嫌になった?」

「違う!違う……男くんのことは、嫌いになってなんかいない」

「じゃあ、どうして?」

「…………」



(女が理由を隠すって時点で、何か重大な理由があるんだろう)

(こういう関係も、半ば俺が無理矢理……って感じだったし)

(今朝も様子が変だった)

(女がどうしても嫌だと言うなら)

(これ以上俺の我侭を押し付けるのは、ありがた迷惑ってやつなんだろうか)

(……でも)

91 : VIPに... - 2012/04/02 16:35:25.02 KF43iW1p0 66/97


「あの、今から言うこと……、あくまで、俺の気持ちなんだけどさ」

「……うん」



「俺は、出来ればね、ずっと、女の傍にいてあげたいんだ」

「そして、女が、何かから自分を守ろうと、自分を傷つける時に」

「俺が、女を守るなり、そういう――自傷行為を防ぐなり、してあげたいと思ってる」

「……うん」

「でも、そんなのは俺の勝手で、」

「自傷行為を防ぐなんて、その人にとっちゃとんだ迷惑で」

「正常であるために、ひいては生きるためにやってる行為を、俺の勝手で妨げるなんてことは、出来ないから」

「俺も一応、それくらいの分別はあるから……」

「……でも、でもね」



「俺は女が、本当に、好きなの」



「! ……うん」

「だからね……本当に、勝手なんだけど……好きだから、守りたいの、女を」

「でも、女がこういう関係をやめたいって言うんなら、仕方ないから……
  せめて、理由だけでも、教えてくれたら、な……と」

「……」

「……話す気には、なれない、かな」

92 : VIPに... - 2012/04/02 16:35:51.99 KF43iW1p0 67/97


「……じゃあ、ね」

「今から話すことは、あくまで、私の、気持ち」

「……いい?」

「……うん、いいよ。話して」

93 : VIPに... - 2012/04/02 16:36:38.22 KF43iW1p0 68/97


「私は……男くんが、私の行為をやめさせたいって言ってくれた時、嬉しかった」

「自傷行為のことを初めて話した人が、その話を受け入れるどころか、真剣に考えてくれているんだと」

「そんな人は、今まで誰1人としていなかったから」

「でもね……自傷行為は、心理的に、連鎖していくものなの」

「男くんの今朝の傷を見て、正直、思ったわ」

「……こんなに激しい自傷をしているなら、私だって……してもいいじゃない……って」

「ごめんなさい。私の誤解だったのよね、あれは」

「でもね、そういうものなの。人の傷を見て安心して自分も傷つける。自傷の心理は、そういうものなの」

「……それにね。自傷行為をやめるとなると、何か今までとは別のもの――他への依存が、強くなる傾向があるの」

「私は、焦った。怖かった」

「男くんに依存してしまうんじゃないかと」

「男くんに依存してはいけない。そう自分に言い聞かせた」

「だって、そうでもしなければ、私はきっと、男くんに強く頼ってしまう」

「私は、ただ……」

「ただ、男くんに、甚大な迷惑が掛かってしまうんじゃないかと」



「男くんに、嫌われてしまうんじゃないかとっ……」



女の声は震えていた。
男は黙って頷く。



こんなに弱々しい女の声を、男は聞いたことが無い。
あの、いつも毅然としている女が、だ。



女の顔を見るまでもなかった。
きっと、女は泣いている。

94 : VIPに... - 2012/04/02 16:37:27.52 KF43iW1p0 69/97


「……私は正直、男くんのことが本当に好きなのか分からない。でも、とても大切なのは確かよ」

「……うん」

「だから、嫌なのよ。男くんに嫌われるようなことをするかも知れない、自分が」

「きっと、自傷のすべが無くなった時の私は、突拍子もない事を、考えるわ。そして、それを行動に移すかもしれない」

「その行為は、時に男くんに酷い被害を加えるかもしれない」

「メンタルヘルスが世で嫌われているのは、大抵が、そういう行為がゆえよ」

「そういう人種になってしまうのが、怖いのよ」

「他への害悪にならないよう、自分を制御できればいいわ。でも、」

「感情の制御が出来るような人間は、はじめから自傷行為なんてしない」

「逆に言えば、自傷行為をする私は、自分をコントロールできないほど、精神的に弱い人間なのよ」

「私がそれをやめられず、見つからないように、ずっと隠してきたことが、何よりの証拠……」

95 : VIPに... - 2012/04/02 16:38:10.17 KF43iW1p0 70/97


「それなりの環境があって、男くんみたいに私を想って支えてくれる人がいて、」

「これで私が精神的に強ければ、きっと乗り越えていけるんだと思うわ。でも」

「私は、男くんと一緒に、成長して、輝いていけるほど、強くない」

「漫画の主人公のようにはいかない。私はそんな風にはなれない人間なの」

「男くんには私の自傷行為は止められないわ。でもそれは男くんのせいじゃない」

「私は昔からこうだから……。だからもう、私はこのままでいい」

「……これが、今の私の気持ちよ。男くん」

「……そっか」



女は話し終えると、すっきりしたように笑った。



(……この笑顔)

(あの時と同じだ)

(女が初めて自傷行為のことを話してくれた時の……)

(あの、諦めたような、悲しい笑顔)

96 : VIPに... - 2012/04/02 16:38:48.57 KF43iW1p0 71/97


「あーあ」

「こんな話をする前に、男くんに嫌われてしまうんだったわ」

「その方が、ずっと楽だった」

「こんな気持ちにならずにすんだのに」

「こんな……こんなに辛くて、悩んでいるのは、生まれて初めてよ……」

「女……」



「男くん、私は、どうしたらいいの……?」ポロ

「嫌よ……こんなの。本当に……情けないわ……」ポロポロ



そこまで言って、女はせきを切ったように泣いた。
歯を食いしばり、髪の毛をわし掴みにして、心底悔しそうに泣いたのだった。

97 : VIPに... - 2012/04/02 16:41:32.43 KF43iW1p0 72/97




――――(女だって強い奴だし、きっと大丈夫さ)



男は自分を恥じた。
自分が守ると言いながら、女の強さに期待し、半ば女に任せようとしていた。
それが、どうだ。
女は、自分は弱いと、心の底から悔しそうに吐露し、泣いているではないか。



(……俺には……無理なのか……?)



我侭で無知で。

俺は、俺の器に余ることを、しようとしていたのかもしれない。
俺はどうすればいい?
どうすれば女を悩みから救える?



男は自分の不甲斐なさを痛感し、その場に立ち尽くすばかりで、女に声をかけることも出来なかった。

103 : VIPに... - 2012/04/05 06:56:06.35 5pFlzgya0 73/97


――その後、夕方、男の自室



男は帰宅するやいなや、『自傷する少女』を手にとり、バサバサとページをめくった。



(サンディが登場するのは……中盤あたりだったかな)



サンディとは、年配の男性で、とても優秀なセラピストである。
そして、ケイティの治療に初めて心から尽力し、果たして初めてケイティの心を開くことに成功した人物である。



男はサンディが初登場するページを探した。
そこには確か、自傷をする子どもの心理描写や傾向が記してあったはずだ。



(…………あった)

104 : VIPに... - 2012/04/05 06:56:49.91 5pFlzgya0 74/97


その部分を要約するとこうだ。



何かに悩みながら自傷行為をする思春期の子どもは、だいたい目にとまるサインを示す。
その多くは、内向的で孤立しがちであったり、成績不振であったり、不衛生であったりする。
自傷の症例にも一般的な徴候があり、それが前述の“目にとまるサイン”と併合していれば、
それは周りに警戒信号を送っていることを示すのである。



(……女には、全く当てはまらないな)

(というか、むしろ……女はケイティのケースに近い)



ケイティの腕には、何年も繰り返し自分で切った傷があったのに、
そのことに親はおろか学校ですら、誰も気が付かなかった。
ケイティは自傷の痕を隠すことに関しては、聡明でよく知恵が回るのである。
まわりのケイティへの印象は、学校のスターであり、スケートの才能と勉学に長けている、前途有望で社交的な少女であった。



そして、サンディは、思春期の子どもに関するデータとケイティの資料を参照し終えた後、考え深げにこう締めくくる。



(“ケイティ・ロスコヴァは一筋縄ではいきそうにない”)

105 : VIPに... - 2012/04/05 06:57:17.01 5pFlzgya0 75/97


サンディの診療所に向かう道中、ケイティは考える。


 “怖がることは何もない。
  このサンディにしたところで、まわりの大人たちと何ら変わらないに決まっている。
  私がどんなに病んでいるか、そしてどんなに自分が助けたいと思っているかを訴える。
  でも、内心そんな気は無い。
  私が突っぱねると、協力してくれないのでは何も助けてあげられない、どうぞ、お帰りください、と言う。
  そして、私を体よく追い払うことができたとホッとするのだ。”



(ケイティは、自分の自傷に関わる大人全員に、壁を作る)

(そうすることによって自分を守っている……)

106 : VIPに... - 2012/04/05 06:57:58.97 5pFlzgya0 76/97


場面は変わって、 サンディの相談室。
心を閉ざそうと躍起になるケイティに気付いたサンディは、うちとけた口調で話しかける。



「自傷とは、困難な条件のもとで生き延びるための方策なんだ」

「きみがやったことは、心理的な苦痛を肉体的な苦痛に置き換えることだったんだ」

「きみの心は扱いきれない感情のかわりに、流れ出す血や身体的な痛みの感覚に集中する」

「解決不能に思える問題に対する、独創的な解決策だ」

「僕は、きみがその対処法を必要とする間は、決してやめるようにとは言わないつもりだ」



サンディの言葉には、誠実で真摯な響きがある。

そしてケイティは、ハサミで切ることをやめなくて良いと言われたことに混乱し、同時に涙を流す。



(そんなことを言う大人は誰もいなかったから……ケイティ、嬉しかったんだろうな)



サンディの治療は、あくまで“自分の問題に対処するための別の方法を見つけていくこと”に一貫していた。

107 : VIPに... - 2012/04/05 06:58:29.48 5pFlzgya0 77/97


ケイティは、早くに離婚で父親を失い、生き方の殆どを母親に監視されてきた。
サンディによる、ケイティの両親への考察は、“自傷に走るような子どもに典型的なもの”であった。



(早くに育児を放棄し、子どもへの関心を失った父親と、過剰に厳しく気難しい母親)

(ケイティは、自分が孤独無援であることを幼心に学んだ)

(その結果が、あの自傷行為と、学校での騒動……)

(ケイティの、おさえきれない感情とそれへの恐怖は、きっと凄まじいものだったに違いない)

(そういう感情を制御しコントロールするなんて、たかだか15歳の少女には――いや、俺たち高校生にだって、不可能に近い)



――――「自傷行為をする私は、自分をコントロールできないほど、精神的に弱い人間なのよ」



(俺たちはまだまだガキじゃないか。強大な感情に打ち勝つために、今すぐに強くならきゃいけないことなんかない)



そう思ってから、どうして咄嗟に女にそういう言葉をかけてやれなかったのだろう、と後悔した。

ぐしゃぐしゃと頭をかきながら、本を読み進める。

108 : VIPに... - 2012/04/05 06:58:56.21 5pFlzgya0 78/97


物語はある場面にさしかかった。
それは男が最も胸を打たれた場面のひとつである。


ケイティが、サンディに初めて腕の傷を見せるシーン。
正確には、サンディの相談室のそばで衝動的に切ってしまい、それを見つかって、傷の手当てをしてもらうシーンだ。


サンディは、この出来事をこう捉える。
自分に見つかると分かっていながら切ったこと。それはケイティが初めて自分を受け入れようとしたことを表す。
とてもいい進歩だ、と。


ケイティは、傷の手当てをされている間に、泣き出してしまう。
サンディに対して完璧に壁を作ることができなかったと、自分に腹をたてる。
しかし。
ケイティは思う。
サンディは、自分を引き受けてくれている、と。
ケイティの涙は、他でもない、その安堵からくる涙であった。



男は、はっとした。
息を呑み、その場面を注視する。



(これは……)

(まるで、今日の女の……)

109 : VIPに... - 2012/04/05 06:59:34.89 5pFlzgya0 79/97


この物語はノンフィクションではないし、ましてケイティがこの世に存在するでもない。
しかしこの、リアリティに溢れ、ドキドキするほどの臨場感を味あわせる物語の中で、
自傷を繰り返し、隠し通してきた少女が、自分を受け入れてくれる人を見つけた時、
自分に腹立たしさや悔しさを覚えながらも、内心安堵し、涙を流した。



(そんな涙が……そんな感情が、自傷をする人の中に、本当にあるのかは分からない)

(だけど……もし)

(もし、女も、同じ気持ちに陥っていたんだとしたら)



あの、女の涙は。
その本当の意味は。
女が心の底で感じていたことは。


“男が、自分を受け入れてくれたという安堵”だったのではないだろうか?



(……ああ)

「……女」



一度、口に出してしまったが、最後。
もう沸き上がる気持ちを止められなかった。



「女ぁっ……!」



自分の前で悔しそうに泣いた女。
その画が頭の中で何度も鮮明に蘇る。
胸が締め付けられる。
いたたまれなくて、ただ女の名前を叫び続けた。



女は、ケイティに似ている。

そして、自傷行為をやめさせたいという男の気持ちを、女に一方的に見せ付けること。
これは、ケイティが憎んだ、まわりの大人たちの立ち振る舞いに似ている。

そうするべきではなかった。
女にしてやるべきことは、そういうことではなかった。



気づくと、男は泣き崩れていた。

110 : VIPに... - 2012/04/05 07:00:21.44 5pFlzgya0 80/97


男が泣き疲れた頃には、目は真っ赤でまわりは腫れぼったくなっていた。

それを見て力なく笑う。



(みっともねえ顔だな)

(明日、この顔見て、女も笑ってくれねぇかな……)

(目ぇ見開いて、どうしたのよ、なんて言ってさ)



常に整然で毅然とし、それでいて温厚で柔和な女。
そんな女が血相を変えて取り乱す姿は、見ていて楽しかったりする。
それが自分のためとなれば、喜びもひとしおだ。



(……はは)

(……女に会いてぇな)

(女に会って、そして、ちゃんと、俺のすべきことを……)

111 : VIPに... - 2012/04/05 07:01:03.40 5pFlzgya0 81/97


男はぐっと背伸びをした。



(まさか俺が1冊の本にここまで真面目になるとは)

(普段はろくに本も読まないのに)

(ホント世の中どうなるかわかんねーな)

(ものっそ読書して疲れたし……明日にも備えて……もう寝るか)



そして本を閉じる直前、ある一文が目に入った。
男はその一文を見てふっと笑い、そのままベッドにダイブした。



(まったく、あやかりたいほど博識で男前だな)

(サンディ……俺も、頑張るからな)



――「きみがやっていることがノーマルなことだって言おうとは思わない。
   でも、いい点はね、僕たちはそれを治せるってことなんだ」

118 : VIPに... - 2012/04/07 01:42:45.46 9eEIp3hs0 82/97


――翌朝、学校



「おはよう、女」

「……おはよう。随分眠そうね」

「ん、昨日徹夜で映画見てたから……もう感動しちゃって、ボロボロ泣いちゃって」

「へぇ。ちなみに何の映画?」

「え?あ、……えーと…………恋空」

「……古い上に男くんが見そうな映画とは思えないわね」

「バレバレですな」

「……でも、泣いたのは本当みたいね」



チラリと男の目を見て言う。
その目は何かあったのかと無言で男に問いかけていた。



「大丈夫、気にすんなって」

「……私は別に何も」


「それより、男くん……」

119 : VIPに... - 2012/04/07 01:43:46.13 9eEIp3hs0 83/97


「半袖、やめたのね」



女の言うとおり、男の服装は、通常の冬服に戻っていた。



「あ、うん、まぁ。さすがに浮きまくるっていうか、先生の目がヤバいっていうか」

「……そう。そうよね」



うわ言のようにそう言うと、女は伏せ目がちに教室へと急いだ。



「あ、ちょっと待って」

「……何?」

「ちょっと話たいことがあるんだけど……放課後、付き合ってくれる?」

「……」



女は少し考えた後、分かった、とだけ言ってさっさと教室に行ってしまった。

120 : VIPに... - 2012/04/07 01:44:37.04 9eEIp3hs0 84/97



――授業中



(男くん……)

(話って、一体何かしら)

(まぁ、冬服で登校して来た時点で、大体想像はつくけどね)



そもそも、男が半袖で登校すると誓った理由は、女のためであった。
男は、女のために絶対に傷を隠さないと言った。



――――「この傷が治っていくのが、女にも見えるように」



(それをやめたって事は……)

(それに、昨日の言葉)



――――「……こういう関係を、やめたいってこと?」



目を閉じ、はぁ、と息を吐く。



(……まぁ、分かりきってたことだけどね)

121 : VIPに... - 2012/04/07 01:45:36.50 9eEIp3hs0 85/97




 おまえのことを知ったとたん、みんな逃げ出すのよ。これからは、ずっとそうなんだから

 「私は甘ったれは認めないの」

 「あなたのおもっていることを聞き出すために、よけいな時間もエネルギーも使うつもりはないから」

 口では助けたいと言いながら何もしない大人たち全員、大嫌いだ。

 「こういうことは全部、本当に狂気の沙汰だ」



『自傷する少女』の一文が、ぐるぐると頭を廻る。
女は、この本に出会った当初は、穴が開くほど読み耽った。
今でも内容は鮮明に覚えている。



(所詮、私のような人間を健常な一高校生が救おうだなんて、土台無理な話だったんだわ)



ふと男の席に目をやる。



「Zzz」

(……寝てるし)



 “ほんの一瞬でも、彼らを信じかけた自分が憎い。”



ケイティの言葉を思い出す。
ふ、と短く笑い、女は再び授業に集中した。

122 : VIPに... - 2012/04/07 01:47:36.65 9eEIp3hs0 86/97



――放課後、喫茶店



「すまなかった!」


コーヒーを注文し、それがテーブルに届くやいなや、男はそう言って頭を下げた。



(……やっぱりね)



女は男の平謝りを見ても、冷静にコーヒーを啜っていた。



(結局は諦めて前言撤回)

(でも、それが正しいのよ、男くん。あなたのような健常者には、理解し難い世界。異常なのは私)

(最初から、分かりきってたことよ)



「どうかしたの?男くん」

「俺は、お前に自傷をやめてほしい一心で、色んな我侭を言った」

「そうね」

「……でも、女が求めてるのは、そういうことじゃなかったんだよな」

「え?」

「自傷をやめさせようとするのは、間違いだった」

「うまく言えないけど……本当は、ただ傍にいて、無償で見守ってやるべきだったんだ」

「俺の意見とか気持ちとか、思いやりでさえ、押し付けるべきじゃなかった」

「これからは、ちゃんとそうするから……だから、女を、俺に任せてほしい」



そう言うと、男は再び頭を下げた。



「俺を信じて、俺にずっと、お前を見守らせてくれ」

123 : VIPに... - 2012/04/07 01:48:25.47 9eEIp3hs0 87/97


女は呆気にとられていた。
ポカンと男を見つめる。



(泣き寝入りするんじゃないの……?)



女は驚きを隠せず、言葉が見つからなかった。


しばらくして、押し黙る女を不安に思ったのか、男が少し顔を上げた。
女と目が合う。



「……あ」ドキッ

124 : VIPに... - 2012/04/07 01:49:23.70 9eEIp3hs0 88/97


「あの……男くん」

「なんだ?」

「自分が、何を言ってるのか……分かってるの?」

「ん?」

「ずっと見守るとか、傍にいるとか……それって、言い換えれば」

「私が大人になるまで――いや、なってからも、ずっとそうなのかも知れないのよ?」

「? それがどうかした?」

「どうかした、って……」

「投げ出すことは許されないって、自分に言ってるようなものよ」


「こんなの……こんなの、プロポーズと変わらないじゃない」



意を決したように言う女を見て、男は朗らかに笑った。



「プロポーズなんて、とっくの昔にしてるじゃないか」

「はぁ?」

「俺がこの手の甲の傷を作って、半袖で登校した、あの日」

「あの日から、とっくに覚悟はできてるよ」

「今更プロポーズだなんて」



そう言ってまた笑う男。



「お前を引き受けたいって気持ちは、きっとずっと変わらないよ」

「…………」

125 : VIPに... - 2012/04/07 01:50:24.92 9eEIp3hs0 89/97


突然、女が机に突っ伏した。
男は驚いて声をかける。



「え!?な、何、どうしたの」



尋ねても返事がないので狼狽していると、女の嗚咽が聞こえた。



「……女、泣いてんの?」



返答は無い。
それが答えのようなものだった。



(……参ったな)

(女を泣かせてしまったのは、これで2回目だ……)

126 : VIPに... - 2012/04/07 01:51:11.85 9eEIp3hs0 90/97


「な、なにが、引き受ける、よ」



搾り出すように言う女。



「それが、どんだけ、大変か、分かってんの」

「……分かってるつもり」

「私は、男くんに、頼りっきりに、なるかも知れない」

「依存、するかも、しれない、のよ」

「……それでもいいよ。俺は迷惑だなんて思わないし、女を嫌いにもならない」



「なぁ、女」

「『自傷する少女』で、ケイティが学校で流血沙汰の騒ぎを起こしたの、覚えてる?」

「……ええ」

「ケイティは、あまりの強大な感情に成す術が無くて、ロッカーの扉で手首を切って、頭を打ち付けた」

「どうしてそこまでケイティが追い詰められたのか……その理由はさ」

「ケイティが、精神的に、孤独だったからだと思うんだ」

「ケイティは頭が良いから。自傷のことも誰にも話さず、傷を隠す知識に長けていたから」

「俺は思ったよ。女の聡明さとか、立ち回りの器用さは、ケイティに似てるって」

「でも……駄目なんだよ。自傷行為を――それを引き起こす感情を、1人で抱え込むなんてことは」

「女には、なにか寄りかかれるものが必要なんだよ」

「そして、それは――女の心の拠り所は、俺でよければ良いな、と思う」

「依存しそうだと思うなら、いくらでもすればいいよ。誰かに依存することを恐れる必要は無いと思う」

「女のために、心を軽くするために、ひいては生きるために」

127 : VIPに... - 2012/04/07 01:53:28.19 9eEIp3hs0 91/97


「……馬鹿よ、あなた」

「え」

「こんな、こんな……人前で泣かせるなんて」

「ズルいわ」

「い、いや、別に泣かせるつもりじゃ」

「……ズルい」



女はいまだ涙を流している。
しかし今まで見たことの無いような笑顔を浮かべた。
それは決して、あの悲しげなものではなかった。

それを見た男は、成功だ、と確信した




(突破した)

(俺にも出来たよ、サインディ)

128 : VIPに... - 2012/04/07 01:54:50.60 9eEIp3hs0 92/97


「あ」



不意に、何かに気付いたように女が声を漏らす。
女は男の手首を見ていた。



「傷……消えてるね」

「え?」



手首を見ると、両親の喧嘩の時に花瓶で切れた傷が、薄く消えかけていた。
腫れも引き、あとはかさぶたが取れれば、跡形も無くなるだろう。



「目立たなくなってる。良かったわね」

「うん、そうだな」

「でも手の甲の傷は、やっぱりまだまだね……」

「まぁ、こっちの傷は深いからな。そう簡単には消えないさ」

「……そういえば、なんで半袖登校やめたのよ」

「え、あれ?あれは、えーっと」



「……普通に寒さに耐え切れなかったからです」

「……意気地無し」

「ごめんなさい」



男が謝ると、2人同じタイミングで噴き出し、笑った。

129 : VIPに... - 2012/04/07 01:56:41.17 9eEIp3hs0 93/97


「ところでさ……」

「何?」

「あの日――女が泣いた日、俺、言ったじゃん」

「女のことが、好きだって」

「……うん」

「まだ、その、返事を聞いてないなー、と」

「……やっぱり、俺のことは、まだそういう目では見れない、かな?」



控えめに尋ねると、女は一瞬男の顔を見て、それから笑った。



「男くん」

「な、何?」

「一応聞くけど、今日の授業、ちゃんと聞いてた?」

「へ?」

「先生の話。特に日本史」

「……全部寝てた」



正直に言うと、堪え切れないようにして、また笑った。



「な、な、なんだよ。人がせっかく真面目に聞いてんのに」

「あはは、なんでもない」



そう言うと女はわざとらしいほど行儀良くコホンと咳払いをした。



「笑ってごめんなさい。それで、返事だったわね」

「お、おう」

130 : VIPに... - 2012/04/07 01:57:48.64 9eEIp3hs0 94/97


「これは今日の日本史で先生が話していたことだけど」

「日本に外国語が渡ってきて、しばらく経った頃の話」

「……その話、俺の告白と関係あんの?」

「いいから。最後まで聞いて」



「日本に外国人が渡り、外国人が話す言葉を理解出来なかった日本人は」

「外国人が話す英語を、日本語に翻訳しようと模索した」

「英語の単語ひとつひとつを聞き取りながら、文字におこし、意味に沿うような日本語に当てはめていった」

「そうやって、日常でよく話される、大抵の言葉を見事翻訳していったけれど」

「ひとつ、日本人がどう訳せばいいものかと悩んだ、ある言葉があった」

「それは“I love you.”の“love”」

「今では“愛しています”と訳せるけど、“愛”という概念を噛み砕くのに、当時の日本人は相当苦労したのね」

「そして悩んだ末、果たして日本人は、“love”を、ある日本語に変換した」

「どう訳したんだ?」



男が尋ねると、女ははっきりした口調で言った。



「“大切”よ」

131 : VIPに... - 2012/04/07 01:58:37.75 9eEIp3hs0 95/97


「大切?」

「そう。“I love you.”で、“あなたは私のお大切です。”と訳したの」

「なんかちょっとロマンチックだな」

「夏目漱石には及ばないけどね」

「で、それと俺への返事と、どう関係あるんだよ?」

「……男くん」



「私があの日、男くんが好きと言ってくれた日、何て言ったか覚えてる?」



「え?」



男は急に聞かれ、焦りながら思考を巡らせた。
あの日――好きだといった日――女が泣いた日――
女はなんと言ったんだっけ?



(確か好きとは言わなかった……えーと)



「……あ」



気付いた瞬間、男は顔が熱くなるのを感じた。



「思い出した?」



女を見ると、女も同じように顔を赤らめている。





――――「男くんのことが本当に好きなのか分からない。でも、とても大切なのは確かよ」

132 : VIPに... - 2012/04/07 01:59:24.03 9eEIp3hs0 96/97


「言った。女、俺のことが大切だって言った」



自分でも顔がニヤついているのが分かる。



「で、何?俺のことが大切だって、それで終わりなの?」

「……その先を私に言わせるの?」

「出来れば聞きたいね」

「……意地悪」



女はふんと鼻を鳴らして、コーヒーを啜った。



「はぁ……まぁいいか」

133 : VIPに... - 2012/04/07 02:00:14.74 9eEIp3hs0 97/97


「ていうかお前、よくブラックで飲めるよなぁ」

「コーヒーにミルクや何やを入れるなんて邪道だわ」

「砂糖入れたほうが美味しいと思うけどな……苦いのが好きなの?」

「甘いのは性に合わないの」



そう言って、くすくす笑いながら、楽しそうにコーヒーを啜る女。



(……あぁ)

(この笑顔のためなら、俺、なんでも出来ちゃいそうだなぁ……)



ぐっとコーヒーを飲む。
甘味が口に広がる。
冬の寒さにコーヒーが溶け、胸が温まってゆくのを感じていた。







~完~

記事をツイートする 記事をはてブする