関連
唯「ゾンビの平沢」【前編】
唯「ゾンビの平沢」【中編】
★12
唯「ムギちゃんは……?」
ボ「ん?」
唯「ムギちゃんの事はどうするのさ……」
ボ「あー、彼女の事は心配いらない」
唯「……どういう事?」
ボ「君と付き合っている間は、彼女も大事にしてあげるよ。
僕はいつも複数の女の子と付き合いがあったからね。
そういう扱いには慣れているんだ」
女の子を口説いている時に言う台詞には聞こえないよ。
唯「……なるほど。」
ボ「だけど、君が僕と付き合わないって言うなら、どうなるか分かるよね?」
やっぱり……。
こいつはムギちゃんを人質にする気なんだ。
唯「貴方と付き合えば、ムギちゃんを傷付けたりしない?」
ボ「ああ、それは約束するよ」
私さえ妥協すれば、ムギちゃんは救われるのかな……。
どうせこの男は、私の体が目的なのだろう。
セッ○スをするだけで、命まで取られるわけではない。
ただ、彼の性的欲求を満たしてやればいいだけの話だ。
それも悪くないかも。
この男は警戒心が強く、非常に狡猾だ。
私達の関係をムギちゃんに隠し通す事も出来るだろう。
今の私には、ムギちゃんを傷付けず、この男を消す策など無かった。
ならば、最善では無いにしろ、実現可能な彼の提案を受ける事が無難ではないか。
ただ一点だけ、気懸かりがある。
私がムギちゃんを騙すという事……。
唯「……。」
ボ「僕の事、信用出来ない?」
唯「……。」
お前の老獪さは認めるよ。
今までにも、多くの女性をそうやって手玉に取ってきたんだろうね。
ボ「そっか……。でも、君に選択の余地は無いと思うけど?」
ボ「君は琴吹紬の事が一番大切なのだろう?
でも、既に彼女は僕の虜だからね。
本当は僕も彼女に酷い事はしたくないんだ」
ムギちゃんに酷い事……?
私の心がざわめきだした。
唯「……貴方はムギちゃんの事、本当はどう思っているの?」
ボ「正直気持ち悪いね」
気 持 ち 悪 い ?
あの優しいムギちゃんの事を気持ち悪いだと?
私の中の怪物が瞼を開いた。
ボ「ちょっと優しくしてあげただけで勘違いしてさ。
男を知らないお嬢様は本当に面倒臭いね。
鏡を見ても、自分が僕に釣り合わないと自覚出来ないのかな。
あの姿で化粧なんかしても、滑稽なだけなのに」
以前の私ならば激昂し、体の内側から灼熱の炎で焼かれたかの様に熱くなっていただろう。
ところが、今の私にはそれとは逆の現象が起きていたのだ。
私は、体中の熱を奪われ、まるで凍結していくかの様な感覚に襲われていた。
ボ「……どうして笑っているんだい?」
理由は分からない。
口元が緩み、自然に笑みが零れていた。
唯「ボーカルさんて頭が良い人だと思っていたけれど……」
唯「あんまり頭、良くなかったんですね」
私は笑顔で彼に言い放った。
ボ「……どういう事?」
唯「私が琴吹の事を大切に思っているワケがないでしょ……」
唯「あいつはね、私達を置いて一人で逃げたんだよ。
病気の振りをして被害者ぶってるけどさ。
こんな豪勢な所でのうのうと生きて……。
私達がどんなに辛い目にあってきたかも知らないで……」
唯「でもね、もう許してあげてるんだ。
だって、あいつのお陰で美味しいおもいをさせて貰っているからね。
私ね、あいつのあの姿を見て、いつも必死に笑いを堪えているんだよ」
私は厭らしい笑みを浮かべながら、冷酷な言葉を並べた。
唯「うん、いいよ。貴方と付き合ってあげる。
性格は最低だけど、顔は悪くないし、お金持ちだし」
唯「ねえ、昨日私に飲ませた薬、麻薬だよね?
アレ、まだ残ってるんでしょ? 私にも頂戴。」
私は彼に右手を突き出した。
ボ「アレが欲しいんだ。じゃあ、今から僕の部屋においでよ」
唯「嫌だよ。どうせまた、私にエッチな事する気なんでしょ?」
ボ「気持ち良かっただろう?」
唯「気持ち良かったよ。でもね、私、男の人に上から目線されるのって大嫌いなの。
ああいう事は二度としないでね。したら絶交だからね」
ボ「ふふふ、分かったよ」
厭らしい笑みが零れてるよ。
どうせまた、私を無理矢理襲って調教する気なんでしょ?
やってみなよ。やれるものなら。
今のうちに、脳内で私を好きなだけ陵辱し、調教でも何でもするがいいさ。
妄想の中でなら、私を従順で都合の良いペットにする事も簡単だろうね。
でも、現実ではそう簡単にいくかな?
せいぜい頑張ってごらんよ。
もしかしたら、私を屈服させる事だって出来るかもしれないよ?
それに失敗したらお前は死ぬけどね。
もうゲームは始まっているんだ。
私ね、漸く気付いたんだよ。
私が我慢をすれば全部丸く収まる。
そんなおいしい話なんて、絶対に無いって事がね。
だってさ、考えてもみてごらんよ。
ムギちゃんはボーカルの事が好き。
そのムギちゃんは、莫大なお金と権力を持っている。
だったらボーカルは、絶対にムギちゃんを利用するに決まってるよね?
人の良いムギちゃんは騙し易いもんね。
そして、私を陵辱し、肉体的にも精神的にも痛めつけ、服従させたら、
今度は私をダシにして、ムギちゃんから搾り取るんだ。
だって、 私 な ら 絶 対 そ う す る も ん 。
今の会話で分かったよ。
ボーカルは私と同じ、最低の屑なんだって。
だから分かるんだ。お前が何を考えているのかがね。
それに、女達の時だって、私は全部受け入れたのに、全然良い結果になんなかったじゃん。
ボーカルは、いつか必ずムギちゃんを苦しめる存在になる。
私が何もせず堪え忍ぶ事によって、彼は増長する。手遅れになる。
だから、私がそうなる前にこいつを「処分」しなければ。
ふふふ、やったよ和ちゃん。
漸く私にも分かってきたよ。
人を守るって事がどういう事かがね。
大丈夫だよムギちゃん。
私 が 必 ず 守 っ て あ げ る か ら ね 。
結局、彼は私に薬をくれなかった。
でもね、そんな事は想定の範囲内だよ。
私は女達に会いに一般人居住区へと向かった。
彼女達は仕事をしている時間だ。
私は久しぶりに、以前仕事をしていた公衆トイレへ足を運んだ。
そこには、一人で清掃をしている女の姿があった。
唯「やっほー、平沢唯だよー」
女は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに俯き、視線を逸らした。
唯「今日は女ちゃんが、ちゃんと仕事をしているか確認しに来ました!」
女「……」
唯「うそだよ、う・そ! お話があるから来たんだよ~」
女は俯いたまま反応しない。
唯「……なんで無視するのさ。」
私は女の肩を掴み、壁に押し付けた
唯「お話があるから来・た・の!」
唯「 聞 い て く れ る よ ね ? 」
女は黙って頷いた。
唯「それじゃあ、他の子達も呼びにいくよ。仕事場所はいつものとこ? 知ってるでしょ?」
女「で、でもまだ仕事が……」
唯「……。」
唯「だから何なの? いつも仕事なんてしてなかったでしょ……。
そんな事を気にするなんて、女ちゃんのキャラじゃないよ?」
私は女に他の女達の場所へ案内させた。
全員揃った所で、私達は彼女達の部屋に向かった。
部屋に戻ると、女達は部屋の隅で俯き、皆押し黙っていた。
唯「今日はね、美味しいお菓子をいっぱい持って来たよ?
遠慮しないで、みんなで食べてね?」
私は大きめのバスケットに詰め込んできたお菓子を、台の上にぶち撒けた。
唯「すごいでしょ? みんなに食べて欲しくて、一生懸命持って来たんだ~」
女達は下を向いたまま、ただ只管沈黙していた。
唯「こっちにおいでよ? そんな端っこにいたんじゃ、
お菓子も食べられないし、お話も出来ないよ~」
女達は動かない
唯「ねえねえ、みんなどうして無視するのさ……」
唯「 さ っ さ と こ っ ち に 来 い よ 」
女達は恐る恐るテーブルの周りに集まってきた。
唯「よいよい。私ね、今日はみんなにチャンスを持って来たんだよ」
女「……チャンス?」
唯「そう。今のこの生活から抜け出せるかもしれないチャンスをね」
唯「○○○○○ってバンド、知ってるでしょ?
実はその人達、この施設のVIP区域にいるんだよ。
だから、私がみんなを友人として彼等に紹介してあげようと思ってさ。
もし彼等に気に入られれば、またあっちで生活出来るようになるかもよ?」
唯「もちろん、タダじゃないよ? 条件があるんだけどね。
私のお願いを聞いてくれるのなら、みんなを彼等に紹介してあげる」
女「……お願いって?」
唯「あのバンドのボーカルね、薬を持ってるの。いけない『薬』をね。
たぶん、他のメンバーも持っていると思う。
私はね、彼等の持っている薬が欲しいの」
唯「お願いして貰ってもいいし、盗んできても構わないよ。
どんな方法でもいいから、とにかく薬を手に入れてきて!」
唯「私はね、私に迷惑が掛からなければ、みんながその後に何をしようが、どうでもいいの。
一応、私の友達って事にするから、あまり羽目を外されると困るけどね」
唯「どうかな? 悪い話じゃないと思うけれど」
女達の返事は無い。
唯「どうしたの? みんな今の生活は嫌でしょ? 豪華な暮らしが出来るかもしれないんだよ?」
女「今のままでいいです……」
女2「ごめんなさい……」
女3「私も遠慮します……」
女4「私達、反省してます……」
唯「……。」
唯「なんで?」
唯「おかしいな……。こんな筈じゃないのに……。
ここはみんなで、頑張ろ~って流れになる所だよね……?
何でだろう……。何でこうなるの? 絶対おかしいよ……」
女「私達、これから真面目に働きます……。だから許してください……」
唯「……。」
唯「……駄目だよ。」
唯「絶対駄目。だって、そうじゃないと、私の計画が狂っちゃうもん。
私が怪しまれずに薬を手に入れるには、これが一番良い方法なんだもん」
唯「……。」
唯「もういいや。」
唯「お願いするのはもうやめるよ」
唯「みんなの気持ちは分かったよ。私はもうみんなにお願いしないよ」
唯「お願いじゃなくて、これは命令だ」
唯「 や れ 」
お前達に拒否権は無いんだ。
私に逆らう事なんて絶対に許さない。
私の意に沿わぬ事などさせるものか。
女達は怯えた表情で私を見ていた。
唯「彼等と会っている時に、そんな表情はしないでね。
みんなは、私の大切な『友達』なんだからさ」
唯「分かっていると思うけど、今日の話は彼等には秘密だよ?
私がみんなを傷付けたって事も内緒。私達はとっても仲良しなの。
あと、薬の入手は出来るだけ早くしてね」
唯「当然だけど、裏切りは絶対許さないから。
故意に私の足を引っ張ったり、寝返る様な行動をするなら覚悟してね」
『3度目は無いんだよ』
私は彼女達に念を押した。
黙って頷く彼女達を後に、私は部屋を出た。
次はボーカルに、メンバーと私達を合わせる様に交渉だ。
私の友達が会いたがっているから、メンバー達を紹介して欲しいと。
彼は私の提案をあっさりと受け入れた。
明日の夜、私達はパーティールームを借りて親睦会を開く事になった。
ムギちゃんに気付かれぬ様、それは夜の点滴の時間に行われる。
彼女から恩恵を受け続ける為、事を内緒にしたいと私は彼を説得した。
これで私達の事がムギちゃんにバレる事は無いだろう。
翌日の20時、私はムギちゃんを医務室に預けた後、女達を迎えに行った。
彼女達は、私が事前に用意した服を着て待っていた。
元々、女達は端整な目鼻立ちをしていた。
きちんと身形を整えると、見違える程に美しくなった
流石、お金持ちの愛人をしていただけの事はある。
彼女達の容姿ならば、男達を誘惑する事も容易いだろう。
女達は皆、硬い表情をしていた。
昨日の今日で態度を急変出来る程、彼女達は器用ではなかった。
唯「みんな表情が硬いなぁ。もっとリラックスして。
せっかくの可愛い顔が、台無しだよ?」
私は首を少し斜めに傾げ、女達に言った。
女達は引き攣った笑顔を見せた。
唯「まあ、いいや。それじゃあ~行こうか~♪」
私は女達を引き連れ、パーティールームへと向かった。
唯「やっほ~、お待たせ~」
部屋の扉を開くと、5人の美青年達が私達の到着を待っていた。
テーブルの上には様々な御馳走と、飲みかけのグラスが置いてある。
どうやら、私達が来る前から酒盛りをしていた様だ。
男達は私達の姿を見るや、待っていましたとばかりに歓声を上げた。
彼等の手招きに誘われ、私達はそれぞれの席に着いた。
お互いに軽く自己紹介をし、注がれたグラスを手に取り乾杯をする。
皆、一気にグラスの酒を飲み干した。
それを見て、男達が盛大な拍手をする。
私は女達のグラスが空くと、すぐにお酒をそれに注いでまわった。
そして彼女達の耳元でこう囁くのだ。
「さっさと飲め」と。
始めは緊張の面持ちだった女達も、お酒が入るに連れ、自然と場に馴染んでいった。
アルコールの力って、ホントに凄いよね。
「唯ちゃんは飲まないの?」
最初の一杯しかアルコールを口にしない私に、男達が飲酒を迫る。
ルームメイトに知られると大変だから、と私は何とか誤魔化した。
21時20分、初日のパーティーは早めに切り上げる。
最初から彼等を満足させてはいけない。
少し物足りない位が丁度良いのだ。
こうする事で、また次の機会を作りやすくなる。
案の定、男達は明日もまた会いたいと言い出した。
そのニヤケた顔からは下心が滲み出ている。
早く私達と「関係」を持ちたい様だ。
だが、まだ焦らす。
頭の悪い犬はお預けだよ。
名残惜しむ男達に別れを告げ、私達は部屋を後にした。
女達の部屋に戻り、今日の感想を聞く。
アルコールは、彼女達は饒舌にした。
どうやら、彼女達は彼等の事をすっかり気に入った様だ。
次のパーティーの参加も快諾した。
ルックスの良い男達に、上等な酒、豪華な料理。
良い子にしてれば、いっぱい蜜をあげるからね。
私は彼女達に、次回から自由に男達と「接触」する事を許した。
こうして、私達は男達と夜の密会で仲を深めていった。
7日後、パーティールームにて。
毎夜の密会によって、女達と男達の仲は既にかなり親密なモノになっていた。
美形、金持ち、権力者。そんな男達に、この女達が喰い付かない筈がない。
貴女達みたいな上辺だけの付き合いには最高の相手でしょ?
それぞれがカップルを作り、皆が居る前でも気にする事なく、淫らに戯れている。
その様子から、既に男女の関係になっている事は明らかだった。
ボ「今度二人っきりで会わない?」
私は食事の時と、パーティーの時でしか彼に会わない。
二人きりでは会わない私に、少しもどかしい様子だ。
彼の左手が私の太腿をなぞる。
パーティーの時、彼はいつも私の左横に座り、私の体にちょっかいを出す。
彼の左手は次第に私の体を上って行き、やがてスカートの中まで侵入する。
余った右手を私の後ろから右肩に回し、その後服の裂け目から私の胸元に手を伸ばす。
私はそれを我慢し、受け入れた。
必要以上に彼を拒めば、疑念が生まれ警戒されるかもしれない。
今はまだ耐えるしかない。
右手で私の胸を揉み拉き、左手は下着の上から私の秘部を刺激する。
彼の前戯に、悔しいけれど私は性的快楽を与えられ、愛液を洩らし下着を濡らした。
顔は紅く火照り、眉を歪ませる。
私のこの表情を見るのが彼は好きな様だ。
彼は執拗に私を攻め続けた。
唯「どうせ……っんぁ……エッチが……っく……目的なんでしょ……」
ボ「こんなに濡れておいて、『したくない』なんて言わないよね?」
彼は左手に力を込め、下着の上から自らの指を私の中に挿入させた。
唯「ぅっ……!!」
私はその性的刺激に耐えられず、前方に屈み込んだ。
彼も私の動きに合わせ、前のめりな体勢になる。
唯「私と……付き合ったのは……ぁっ……エッチが……目的なワケ……?」
ボ「まだ無理矢理しようとした事を怒っているの?
あれは君が可愛過ぎたからで、悪気は無かったんだよ。
二度と強引にはしないから、機嫌直してよ……」
今も許可無く私の体に触れているクセに……。
唯「今は……っん……あなたと……エッチ……する気は……んんっ……無いから……」
そう、彼は小さく呟き、両手で貪る様に私を強姦した。
私は抗う事も出来ず、ただただ彼の欲望のままに陵辱された。
その攻め苦が終わると、私はソファーにぐったりと横になった。
息を荒げ、顔を歪め寝そべる私を、彼は厭らしい顔で見ていた。
彼は間違いなく「S」だ。
それから数日間、夜の淫らなパーティーは続いた。
そんな毎日に、変化が訪れた。
女4が遂に薬を手に入れてきたのだ。
彼女は「おねだり」をし、薬を2袋貰い受けたのだという。
それを私に差し出した。
女4「これ、言われた通り持って来ました」
唯「おお、ありがとう、女4ちゃん!」
女「これであたし達は自由なんだな?」
唯「うんうん、後はみんな好き勝手にすればいいよ」
女2「もうあんたと会わなくていいんだよな?」
唯「勿論だよ。だって、私達……」
友 達 で も な ん で も な い で し ょ ?
女達は皆彼等に取り入る事に成功し、美味しい汁を吸わせて貰っている様だ。
だから言ったじゃない。悪くない話だってさ。
自室に戻り、私は一方の袋を開き、ちょこっとだけ舐めてみた。
僅かな量にも関わらず、まるで大量のアルコールを摂取したかの様な感覚。
この漲る高揚感と性的快感……。これは本物だ。
やっと準備が整ったよ。
次の日の朝食後、私は彼に二人きりで会っても良いと伝えた。
彼は夜のパーティーの後、自分の部屋に来て欲しいと言った。
どうやら、私と朝まで一緒にいたいようだ。
私はそれを承諾した。
夕食時、私達3人はいつも通り一緒に食事をする。
これでこの男と食事を共にする事も最後だ。
ムギちゃんは悲しむだろうけど、そんなに悠長にはしていられない。
長引かせれば、ムギちゃんが傷付けられるかもしれないのだ。
それに、これ以上彼との肉体関係を拒み続けるのもまずい。
だから今日、全てを終わりにするんだ。
紬「今日の唯ちゃん、いつもよりいっぱい食べるのね」
唯「うん、夜中お腹減ると困っちゃうからね~」
ボ「そうだね、今日は僕も多めに食べておこうかな」
私はお腹にありったけの食材を詰め込んだ。
腹が減っては戦はできぬ、だよ。
夜のパーティーでも、私は台の上にある料理に片っ端から手を伸ばした
ボ「ちょっと食べ過ぎじゃない?」
唯「今日はいいの! うっぷ……」
これ以上は無理か……。
まぁ、これくらい食べておけば十分かな。
パーティー会場を後にし、医務室でムギちゃんと合流、部屋に戻る。
就寝前、私はムギちゃんのお酒に睡眠薬を細かく砕いて混ぜた。
彼女はいつもの2倍の量の睡眠薬を飲む事になる。
大丈夫、安全性は医師に確認済みだよ。
彼女はそれに気付かず、グラスを飲み干した。
これで明日は、遅くまでゆっくりと眠っていてくれるだろう。
ごめんね、むぎちゃん。
私はムギちゃんが寝入ったのを確認した後、ベッドを抜け出し、着替え、彼の部屋に向かった。
私の胸は高鳴っていた。
やっと、やっとこの時が来たんだ。
あの男を殺す時が。
ボ「いらっしゃい、唯ちゃん」
彼は機嫌が良さそうに、笑いながら私を部屋に招き入れた。
これから自分が殺されるとも知らずに。
唯「お邪魔します」
部屋に入ると、台の上にはワインが入ったボトルと、空のグラスが2つ置いてある。
これから私と乾杯をする気なのだろう。計画通り。
後は、どうやって気付かれず、彼のグラスに薬を盛るかだ。
私のプランでは、ドジを装い彼にお酒を引っ掛け、シャワーを勧める。
彼が浴室にいる間に、グラスにお酒を注ぎ薬を仕込む算段だ。
しかし、彼の一言でその計画は不要な物となった。
ボ「シャワー浴びてきてもいいかな?」
彼はまだシャワーを浴びていなかった。
私にとっては千載一遇の好機だった。
態々怪しまれる様な事をせずとも、彼がこの場からいなくなる。
唯「うん」
私の顔から笑みが零れた。
初めて彼に向けた、偽りのない笑顔だった。
彼が浴室に移動した後、私はワインボトルのコルクを抜き、2つのグラスにそれを注いだ。
持って来た薬をワインに混入し、持参したマドラーで入念に掻き混ぜる。
少し泡立ってしまった為、近くにあったティッシュで上手くそれを吸い取った。
もともと1袋の薬で行う計画だったが、2袋なら効果は2倍。
確実に彼を行動不能状態に出来る筈だ。
汚れたティッシュ、薬の袋、マドラー、それらの要らなくなった物は、
部屋に設置されているゴミ箱に捨てた。
用心の為、中に入っている紙屑の下にそれらを沈めた。
白のバスローブを身に纏い、彼が脱衣所から出てきた。
私は必死に高ぶる感情を抑え、冷静を保とうとしていた。
ボ「唯ちゃんもシャワー浴びる?」
唯「私は自室で浴びてきたので」
私は薬の入っていない、手前のグラスを手に取った。
必然、彼には薬物の混入されたもう一方グラスが渡る。
ボ「それじゃあ、乾杯しようか」
唯「はい……」
私はグラスに口を付けた。同様に、男の口にもグラスが近付く。
飲め。
ボ「どうしたの?」
彼の手が突然止まる。
あと僅かという所で、彼は口からグラスを離した。
唯「えっ?」
ボ「そんなに顔をじっと見詰められたら、飲み辛いよ……」
私は無意識に彼の口を凝視していた。
しまった、功を焦り過ぎた。
私は急いで彼から視線を逸らした。
ボ「僕の顔に何か付いてる?」
唯「いえ……」
落ち着け、彼が手に持ったワインを飲む事は確定事項なんだ。
余計な事さえしなければ、確実に薬入りのワインを口にする。
私は何もしなくていい、何もしない事をすればいいんだ。
ボ「ははは、唯ちゃんは照れ屋だね」
彼がグラスを再び口に近付けた。
ボ「痛っ!」
次の瞬間、彼のグラスの中身が全て私に浴びせられた。
ボ「ご、ごめん、今なんか手が攣っちゃって……いたたた……」
唯「い、いえ、大丈夫です」
ボ「本当に申し訳ない、上着がワインで汚れてしまったね……。
体にも掛かっちゃったみたいだ。シャワーを浴びておいで?」
どうしよう……。
ここでシャワーを断る事は不自然……だよね……?
唯「それじゃあ、シャワーをお借りします……」
私は大人しく彼の言う通りにする事にした。
浴室でシャワーを浴びながら、私は考えていた。
彼は本当に手が攣ったのだろうか。
薬入りのワインをそんな事で零すなんて、偶然にしては出来過ぎている。
もしかして、何か他意があってワザとそうしたのではないか……?
その時、脱衣所に人の気配を感じた。
曇りガラス越しに見える人影……彼がそこにいる。
彼は浴室で事をするつもりなの……?
私は今、当然の如く丸腰だ。
腕力では彼に敵う筈もない。
彼がもし、この場で強引に迫ってくれば、それを防ぐ術など無い。
抵抗など無駄だろう。
蜘蛛の巣に絡め取られた蝶の様に。
しかし、彼は浴室には入って来ず、そのまま脱衣所から出て行った。
浴室での情事という最悪の事態は避けられた。
私はホッと胸を撫で下ろした。
唯(いや、私はどうしようもない馬鹿だ……)
何故、今、この状況で安心など出来る?
事態は明らかに悪化しているのだ。
何故、彼は脱衣所に来た?何の為に?
彼が私に対して、何らかの意図を持って行動している事は明白じゃないか。
にも拘らず、私は彼の意中を全く読めていない。
私は今、非常に危険な状態にある。
……。
……危険?
私は今、本当に危険な状況にいるのだろうか……?
いや、私は決して憂慮すべき状態になど陥ってはいない。
何故なら、今、私は生命の危機などとは無縁ではないか。
仮にここで彼を殺せなくても、それで私が死ぬワケではない。
せいぜい、あの男に私の「初めて」を奪われる程度の事だ。
それに比べて、彼はどうだ。
今まさに、私にその命を狙われている。
考えて見れば、私より彼の方が遥かに危機的状況に在るではないか。
私と彼のゲーム。
彼が勝てば、私の処女を奪い、この体を欲望のままに堪能する事が出来る。
しかし、負ければ自らの命を失う。それは彼の全てを失う事と同義。
私と彼ではベットしている物の重みが違い過ぎる。
ゲームオーバーがあるのは彼だけ。
不公平であり、一方的。
そう、これは私が圧倒的に有利なゲーム。
彼にとっては「理不尽なゲーム」なのだ。
だが、彼に文句を言う権利など無い。
これは彼の意思で始まったゲームであり、私が望んだ物ではないのだから。
彼の悪意と欲望が招いた破滅のゲームなのだ。
だとすれば、私はこのゲームを大いに楽しもうじゃないか。
彼は常に勝ち組だった。
顔が良く、金持ちで、地位も約束されている。
人生というゲームの中で、彼は一度も負けた事など無かったであろう。
しかし、それは人間との勝負での話だ。
彼は一度としてゾンビと戦った事は無い。
だから、彼は知らないのだ。
ゾンビというモノを。
ゾンビっていうのはね、完全に殺さない限り、ずっと追い掛けてくるんだよ?
お前が私を殺さない限り、私はお前の後をずっと追い掛ける。
どこまでもどこまでも、お前の肉を齧り取る為にね。
そして私は、お前が死ぬまでその体を貪り続けるんだ。
今からお前に、その事をたっぷりと教えてやる。
浴室から出ると、脱衣所の棚から私の衣服が全て無くなっていた。
バスタオルも無い。そこには、小さな手拭いが1つ置いてあるだけだった。
私のその小さな手拭いで体を拭いた。
しかし、その手拭いでは全身の水分を拭き取る事など出来なかった。
唯(体を隠す事も出来ないね)
だが、そんな事は最早どうでもよい。
恥じらいなど、今の私には不要だ。
私は濡れた手拭いを投げ捨て、そのまま脱衣所を出た。
ボーカルは一人、空になったグラスを手に持って眺めている。
テーブルの上にも、中身のないグラスが置かれている。
どうやら、新しい物を用意した様だ。
彼の近くの棚には私の衣服と、隠し持っていた物が置かれていた。
スタンガンとナイフ。私の護身用の武器。
こいつ、知ってたな……。
私の気配に気付き、こちらに視線を向けた。
まるで濡れた私の体の水滴を舐め取るかの様に、
じっくりと厭らしい笑みを浮かべながら私を視姦している。
髪から雫が滴り落ちる。
私は一糸纏わぬ姿のまま進み出た。
私と彼はテーブルを挟み対峙した。
ボ「女の子が、こんな物騒な物を持っていたら駄目だよ?」
彼は私の服の上に置かれたスタンガンを手に取り電源を入れた。
それは青い火花を飛ばしながら、バチバチと激しい音を立てた。
スタンガンは、相手に触れずともその音と火花で恐怖感を与える事が出来る。
やっぱりこいつ、生粋のサディストだ。
ボ「まあいいや。気を取り直して乾杯しようよ」
彼はテーブルの上に置いてあったグラスにワインを注ぎ、私の方へ差し出した。
ボ「どうしたの? 受け取って。大丈夫、今回は『薬』なんて入ってないから」
私は彼からグラスを受け取った。
彼は左手に持っていたグラスに、自らワインを注いだ。
ボ「それじゃあ、乾杯しようか」
唯「……何に乾杯するの?」
ボ「そうだね、唯ちゃんが大人になる記念に……かな」
唯「……。」
ボ「こうなる事が分かってて、僕と二人きりになったんでしょ?
初めての時はちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね」
なるほど、今回は薬無しで強姦し、痛がる私の姿を見たいのか。
心配しなくても大丈夫。
私はもう痛みには慣れているから。
ボ「そういえば、女4ちゃんがこの前薬が欲しいって言ってきてね。
なんか深刻そうな顔をしていたから、少し分けてあげたんだ。
彼女にも薬の味を教えたら、とても喜んでくれたよ」
女4はこの男から薬を貰ったのか。
その時に、私についての様々な情報を聞き出したんだ。
その情報から、彼はこう推察した。
薬を渡せば、私が二人きりで接触する事を求めてくる。
そして自分に薬を盛り、この前の復讐をする気だと。
彼はそれを逆手に取り、私を誘き出した。
私が仕掛けた罠を見破る事で、私に屈辱と絶望を与える。
その上で私を陵辱し、恥辱の限りを尽くす。
そして私に完全な敗北を突き付ける。
私より自分の方が「強い」のだと体に刻み付けるのだ。
それにより、私は反抗する気力を奪われ、従順になる。
それが彼の「調教」なのだ。
★13
ボ「今日は時間もタップリあるし、後で薬も使って楽しもうか」
唯「そう……ですね……」
ボ「でも、唯ちゃんが僕と二人きりで会ってくれて、本当に嬉しいよ」
唯「……はい。」
ボ「どうしたの? 元気無いみたいだけど、大丈夫?」
唯「……。」
どうせ気分が悪いと言ったって、ここから帰す気なんて無いんでしょ?
こいつは私に屈辱感を与えて遊んでいるのだ。
追い詰めて逃げ場の無い獲物を、甚振って楽しんでいるのだ。
ボ「それじゃあ、乾杯!」
私は俯きながら彼とグラスを合わせた。
私と彼は、グラスを一気に傾け、中の液体を体内へと送り込んだ。
刹那、私は口内に手を突っ込み咽頭を刺激した。
散々行ったこの行為が、こんな形で役に立つなんてね。
私は飲み込んだ許りの液体を全て、汚物と共に吐き出した。
その様子を、彼は唖然とした表情で見詰めている。
程無くして、彼の手からグラスが滑り落ちた。
ボ「っっっ!?」
彼は自分の身に何が起こったのか、まだ理解出来ていない様だ。
慌てふためきながら、焦燥した顔付きで私を見詰める。
唯「くくく……」
彼の無様な姿を見て、私の口からは自然と笑声が洩れていた。
唯「くっくっく……」
漸く彼も気付いた様だ。
唯「どうかな? 他人に薬を盛られた気分は……」
ボ「どう……して……」
唯「薬がグラスだけに入っていると思ったら大間違いだよ?」
ボ「っ!?」
唯「ボトルの中の泡、取るの大変だったんだよ? こうやってティッシュを細く丸めてね……」
ボ「ボト……ル……?」
彼は蹌踉けながら、部屋の出口まで行こうと必死になっていた。
唯「何処に行くの? これからがお楽しみなんだよ? 時間はタップリあるんだよ……」
私は部屋から逃げ出そうとする彼の手を掴み、思いっ切り後ろに引っ張った。
彼は体勢を崩し、後方に倒れ込んだ。
私は俯せに倒れている彼の肩掴み、仰向けにさせ、その上に馬乗りに跨った。
上から見る眺めっていいなぁ。
これが優越感ってやつなのかな。
前回とは立場が逆だね。
今度は私のターンだ。
バスローブの開いた胸部分から手を入れ、彼の腹を下から上へと触ってみる。
男の人の胸って、こんなにも硬いんだ。
私や憂のそれとは全く違う感覚、不思議。
私は指の爪先で、更に上へ上へとなぞって行く。
彼の呼吸が荒くなる。
気持ちが良いのだろう。
男性のこんなにも艶めかしい姿を見るのは初めてだ。
私はこの男の事など全く好きではなかった。
しかし、私の女の本能が、動物的な本能が、この男に執着する。
それは今までに感じた事の無い、性欲の衝動。
私の体を滾らせ、脳にその欲求を突き付ける。
この男を征服したいと。
私は本能のままに、彼の首筋をゆっくりと舐めた。
味覚を失った筈の私に伝わる、汗のしょっぱさ。
何故だろう、この男の「味」が私には分かる。
こ の 男 を 食 べ た い 。
でも駄目。舌で味わうだけで我慢しよう。
ゆっくりと這う様に、舌で体液を絡め取る。
私は、彼の首に滴る汗を全て舐め尽した。
私のお尻に硬い物体が当たる。
彼の上から降り、盛り上がった部分のバスローブを肌蹴させる。
そこには、はち切れん許りに膨張した男の象徴がそそり立っていた。
私はふと、その物体に触れてみた。
彼が小さな喘ぎ声を洩らす。
熱い。
それは人間の体温とは思えぬ程の熱を帯びていた。
指の先で軽くなぞってみる。
彼は大きく喘ぎ、体を捩らせる。
今、私は、彼の体を完全に制圧したのだ。
あの時、彼が私の体を征服した様に、私は彼の体を征服したのだ。
私は異様な高揚感に包まれていた。
僅かに触れるだけで、面白い程に大きな反応をする。
私は彼の敏感な部分をさらに刺激した。
次の瞬間、男の巨大な塔の先から白濁とした液体が、私の顔を目掛けて勢い良く飛び出してきた。
彼が私の体内に注入しようとした物質。
彼の性器は激しく脈打ち、大量の精液を撒き散らした。
私は顔に付いた白濁液を指で拭った。
それを鼻の先に持って行き、匂いを嗅いでみる。
塩素系漂白剤の様な臭いがした。
無意識の内に、私はそれを舐めていた。
自分でも何故そんな事をしたのか分からない。
苦味の中に感じる、ほんの僅かな甘味。
男のDNAが詰まった生命の源。
何千万、何億もの「命」がこれには含まれている。
そう、この液体は生きているのだ。
男の分身とも言えるこの生きた液体を、私は食しているのだ。
やがてこの生命の種達は、私の胃酸によって皆殺しにされるだろう。
私はその様を想像し、興奮した。
射精し終えた男は、悦楽の表情を浮かべていた。
私の肉体と心から急速に熱が失われ、怪物が動き出す。
私は台の上の薬の入ったワインボトルを掴み、再び男に馬乗りになる。
本当のお楽しみはこれからなんだよ。
唯「ねえ、まだワインが残ってるよ? 勿体無いでしょ。ちゃんと全部飲もうよ」
私は男の口にワインボトルを無理矢理突っ込んだ。
唯「ほらっ! ちゃんと飲みなよ!」
私は残りのワインを一気に彼の口に流し込み、零れぬよう口唇を手で塞いだ。
最初は抵抗していた彼も、その行為が無駄であると悟った様だ。
ボトルの液体は全て彼の体内に消えていった。
彼は小さな呻き声を上げていたが、次第にぐったりし、動かなくなった。
しかし、まだ彼の心臓は動いている。
私はね、最初から薬だけでお前を殺す気なんて無かったんだよ。
だって、それだけじゃ確実に死ぬかどうか分からないでしょ?
薬はお前を無抵抗にする為の物。
暴力を使わずに相手を束縛する手段。
お前を殺す事なんて、いつでも出来たんだよ。
でもね、外傷が在ったら殺人ってバレちゃうでしょ?
そうなったら、色々面倒な事が起こるでしょ?
だからね、無傷で死んで欲しいんだ。
ここに警察はいない。
死因の詳細なんて調べる人はいないんだよ。
私はゆっくりと自分の口に手を伸ばす。
先程の様に口内に手を突っ込み、咽頭を刺激した。
私はね、自分の意思で自由に嘔吐する事が出来る様になったんだよ。
この時の為に、今日はいっぱいご飯を食べてきたからね。
今まで「吐く」という行為は、私にとって辛いモノであった。
しかし、今回のその行為は、私に至福的な感情を誘発させた。
汚らわしい彼の種を吐き出す、という理由もあるのかもしれない。
私は、意識を完全に失った彼の口を抉じ開け、そこに自分の口を重ね合わせた。
彼の顎を少し上げ、吐瀉物が奥まで行くようにする。
最後に気持ちいい思いが出来て良かったね。
貴方に権力が無ければ、私に滅多刺しにされ、苦痛しか味わう事が出来なかったんだよ。
地獄でたっぷりお父さんに感謝してね。
私は大量の汚物を彼の口内に流し込んだ。
どれ程時間が経っただろうか。
彼は「完全に」動かなくなった。
口からは吐瀉物が溢れ出している。
尤も、それは彼の物ではないけれど。
私はバスタオルを持ち、再び彼の部屋でシャワーを浴びた。
私に「薬」を教えた男。
私の裸体を見た初めての男。
私に性的快楽を与えた初めての男。
私の秘部に侵入した初めての男。
そして、私が自らの意思で殺した初めての男。
この最低な男は、私に様々な「初めて」を与え、奪った。
こんな男の事でも、私は感傷に浸れるのか……。
壊れてしまった私の心の中にも、まだ「人間」な部分が残っているというの?
何故今、私の瞳から涙が溢れているのだろう。
浴室から出て体を拭き、ワインに濡れた服を着る。
私はその冷たさを全く感じなかった。
部屋にあった袋に、私が持って来た物や、私が出したゴミを詰め込む。
私はこの部屋から自分がいた痕跡を消した。
唯「さよなら……」
私は彼の部屋を後にした。
次の日、私はいつも通りの時間に目覚めた。
隣では、まだムギちゃんが気持ち良さそうに眠っている。
私はそっとベッドを抜け出し、シャワーを浴びる為、浴室に向かった。
彼の存在が消えた事は、私にとって喜ばしい事だ。
しかし、ムギちゃんにとってはそうではない。
ムギちゃんに、彼の事をどう伝えれば良いのだろうか。
私はどうすればいいの?教えて、和ちゃん……。
脱衣所から出て、ムギちゃんの寝顔を眺める。
小さな寝息を立てている、純真無垢な天使の寝顔。
私はそっと彼女の髪を撫でた。
今の私は、彼女に触れる資格があるのだろうか。
私は部屋に書き置きを残し、朝食を取る為、食堂に向かった。
もう、3人分の食事を用意する必要は無い。
しかし、私は無意識の内に彼の分まで作っていた。
唯(なんで私は……)
二人には多い朝食を茫然と眺めていると、向こうから斉藤さんがやってくるのが見えた。
斉藤さんは私の姿を見つけると、そのまま真っ直ぐこちらに向かって来た。
斉藤「お早うございます、唯様」
唯「おはようございます。朝食、食べました?」
斉藤「いえ」
唯「良かったら、ご一緒にどうですか? 今日は作り過ぎちゃって……」
斉藤「……頂きます」
私は食堂で斉藤さんと一緒に食事を取る事になった。
考えてみると、こうして斉藤さんと食事をするのは初めてだった。
斉藤「紬お嬢様は?」
唯「ムギちゃんはまだ寝ています。ゆっくり寝ていて欲しかったので、私一人で……」
斉藤「そうですか……」
唯「ところで、今日は私に何か?」
斉藤「……はい。」
斉藤「ボーカル様が亡くなりました」
唯「……そうですか」
思ったより早く死体に気付かれた。
斉藤「テーブルの上には酒と麻薬らしき物が入っていた袋が置かれていました。
状況を察するに、アルコールと薬物を併用し嘔吐。
その後、昏睡状態に陥ったものと思われます」
斉藤「外傷も無く、死因は吐瀉物による窒息。事故死かと……」
唯「そう……ですか……」
斉藤「唯様……」
斉藤さんは私を、憂愁な表情で私を見詰めた。
その瞳には、悲しみと優しさが溢れていた。
何故彼はそんな顔を私に見せるのだろう……?
斉藤「唯様、申し訳ございません……」
謝罪を口にする彼の言葉からは、後悔と悲痛の念が感じられた。
唯「えっ……? どうして斉藤さんが私に謝るんですか?」
斉藤「……」
斉藤さんは頭を下げたまま、何も言わなかった。
結局、その答えを彼の口からは聞けなかった。
ご馳走様でした、そう言って彼はこの場を去って行った。
私は、どうして彼が私に謝ったのか、理解する事が出来なかった。
私はムギちゃんの分の食事を部屋に持ち帰った。
彼女はまだ寝ている。
今日はまだ色々する事があるんだ。
ごめんね、ムギちゃん。また後でね……。
私は女と会う為、彼女の仕事場に向かった。
彼女は、男達と付き合い出してからも、ただ一人真面目に清掃を行っていた。
唯「まだ掃除してるんだ……」
女「……何か用かよ。もうあたし達に関わらない約束だろ……」
唯「もうこんな仕事しなくても平気な筈でしょ」
女「……別にいいだろ。」
彼女はそういうと、私の存在を無視し、自らの仕事を再開した。
唯「女ちゃんってさ、美容師になりたかったの?」
嘘の中にも真実が含まれる事がある。
私は彼女の嘘の話の中に、美容専門学校の話があったのを覚えていた。
女「……」
彼女は黙って小さく頷いた。
唯「私の知り合いに、プロの美容師さんがいるの。
彼女に貴女の事を話したら、アシスタントとして採用してもいいって」
女「なんで……」
唯「さあ……ね……。後は女ちゃん次第だから、その気があるなら受付嬢さんに言って」
唯「あ、あと女4ちゃんに伝言をお願い。今回は見逃してあげるってね。
でも、もう余計な事は言わないように伝えて。他の子達にもね」
女「……わかった」
唯「それじゃあね。さようなら」
私はその場を後にした。
本当は女4に直接会うつもりだったけれど、今更どうでも良い事だ。
もう彼女達に会う事も無いだろう。
また私とムギちゃんの、二人だけの静かな生活に戻れるのだから。
部屋に戻ると、丁度ムギちゃんがベッドから起き上がる所だった。
唯「おはよう、ムギちゃん」
私は彼女に優しい笑顔を向けた。
作り物の笑顔ではない……と思う。
私は今、笑いたかったのだ。
ムギちゃんの為に、心から。
紬「おはよう、唯ちゃん。ごめんなさい、私寝坊しちゃったわ……」
唯「そんな事、気にしなくていいよ。ご飯作ったから、食べて食べて」
紬「うん、ありがとう、唯ちゃん。ところで……」
彼は来た?ムギちゃんが私に問い掛ける。
私の胸の鼓動が早くなる。
ムギちゃん、彼はもう来ないんだよ。
私がこの手で殺したのだから。
唯「今日の朝、彼が来て……これからすぐに別の施設に行く事になったって。
ムギちゃんに会うと別れがもっと辛くなるから……。
だから、ムギちゃんに何も言わずに行く事を許して下さいって……」
そう、彼女は小さく呟き、少し上を向き遠くを見詰めている。
彼女の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
ごめんね、ムギちゃん……。
私は心の中で、何度も何度も呟いた。
紬「それじゃあ私、点滴に行くわね」
唯「あ、今日は私もムギちゃんと一緒にいるよ」
紬「えっ?」
唯「ムギちゃんと一緒にいたいから……」
紬「嬉しいわ、唯ちゃん……」
私は彼女を一人にしたくなかった。
もうムギちゃんに寂しい思いをさせたくない。
私はムギちゃんを守る為、様々な訓練をしてきた。
それが彼女を守る最善の方法だと信じて疑わなかった。
でも、それだけじゃ駄目なんだ。
私は寂しさからも彼女を守らなくてはならないのだから。
私はムギちゃんの傍にいる。
ムギちゃんが私を必要とする限り。
彼女が寂しさや不安を感じぬ様に。
しかし、その思いはいとも簡単に打ち砕かれた。
紬「斉藤から電話が来ないわ……」
斉藤さんは、ムギちゃんが点滴をする時間になると必ず電話を掛けてくる。
忙しくて中々ムギちゃんに会う機会の無い彼の、優しい心遣いだった。
それが無いなんて、在り得ない事だ。
ムギちゃんも心配そうに携帯を見詰めている。
紬「ちょっと彼に電話をしてみるわ」
ムギちゃんは斉藤さんに電話を掛けた。
出ない。コール音だけが静かな医務室に響いた。
斉藤さんにとって、最も大事なのはムギちゃんの事の筈。
紬父にとっても、そうである事に間違いはない。
彼女の事は最優先事項になっている筈なんだ。
だからこそ、彼女の電話に出ないという事は在り得ないのだ。
電話に出られない状況……。彼は由々しき事態に巻き込まれているのでは……?
私には思い当たる節がある。
ボーカルの事……。
ムギちゃんの表情が不安で陰る。
私の心がざわめき出す。
彼女の不安を取り除かなければ……。
唯「私、斉藤さんを探してくるよ」
紬「えっ、でも……」
唯「大丈夫、ムギちゃんはここで待ってて。
斉藤さんから連絡があったら、私に電話してちょうだい。
私も、何かあったらムギちゃんにすぐ連絡するからね」
紬「……分かったわ」
私は医務室から出て、VIP専用の応接間に向かった。
何か重大な用件がある時にはそこで話し合いをすると、以前斉藤さんが言っていた。
私は確信していた。彼はそこにいると。
斉藤さん、貴方は駄目だ。
貴方はいつでもムギちゃんの事を一番に考え、彼女の為に行動しなくちゃいけないんだ。
それが貴方に与えられた、最も重要な役目なのだから。
唯「私、斉藤さんを探してくるよ」
紬「えっ、でも……」
唯「大丈夫、ムギちゃんはここで待ってて。
斉藤さんから連絡があったら、私に電話してちょうだい。
私も、何かあったらムギちゃんにすぐ連絡するからね」
紬「……分かったわ」
私は医務室から出て、VIP専用の応接間に向かった。
何か重大な案件がある時にはそこで話し合いをすると、以前斉藤さんが言っていた。
私は確信していた。彼はそこにいると。
斉藤さん、貴方は駄目だ。
貴方はいつでもムギちゃんの事を一番に考え、彼女の為に行動しなくちゃいけないんだ。
それが貴方に与えられた、最も重要な役目なのだから。
応接間の扉の前まで来ると、中からヒステリックな女の声が聞こえてきた。
その激しい剣幕から、尋常ではない事態である事は明白だった。
私などが入っていく場面でない事は重々承知の上だ。
しかし、私はノックもせずに扉を開け、そこへ足を踏み入れた。
テーブルを挟み、50代後半位の熟年夫婦と、紬父が向かい合って座っている。
紬父の両脇には、二人の紳士が座っている。
その者達は、紬父に勝るとも劣らない雰囲気、オーラを醸し出していた。
3人が座るソファーの横には斉藤さんが立っていて、沈痛な面持ちで俯いていた。
紬父達と斉藤さんは、私の存在に気付いた様だ。
しかし、熟年夫婦は私の事など眼中に無く、ただただ激しく怒鳴り散らしていた。
熟婦「だから、私の息子が死んだのはおたくらの責任でしょうがっ!
ここは最新の医療設備が整っているのだから、手遅れなんかになる筈ないでしょ!」
紳士1「最善を尽くしたのですが……」
熟婦「死んだら最善も何も無いでしょ! 私の息子は実際に死んでいるんだから!
この責任、誰がどう取ってくれるのかしら!? 何とか言いなさいよっ!!」
紬父「○○さんの息子さんの事は大変な不幸でした。
ただ、彼は酒に麻薬という非常に危険な行為を自ら行っていたワケでして……」
熟婦「はあ!? それが何だって言うのよっ!だから死んでも当たり前って言うの!?」
紳士2「いえ、そうではなく……」
熟婦「大体、あんたらSPがだらしないからこんな事になったんでしょ?」
斉藤「申し訳ございません…」
熟婦「謝って済む問題じゃないでしょ!? 私達を守る事があんたらの仕事でしょうが!」
斉藤さんは謝罪の言葉を口にして、深々と頭を下げていた。
彼にはこれ以上の事など出来る筈もない。
しかし、熟婦の怒りは治まる事を知らなかった。
熟婦「あんたらの命と私達の命を一緒にするな! 重さが違うんだ、重さが!」
彼女は立ち上がり、鬼の形相で斉藤さんを睨んだ。
そして、テーブルの上に置いてあった分厚いガラスの灰皿を、斉藤さん目掛けて投げ付けた。
それは斉藤さんの額を直撃し、そこから真っ赤な鮮血が流れ出した。
ムギちゃんの斉藤さんが傷付けられた……。
私の中の怪物が、新鮮な血の臭いを嗅ぎ付けてやってきた。
唯「あの……すみません……」
皆の視線が集中する。
熟年夫婦も、ようやく私の存在に気が付いた様だ。
熟婦「誰よあんた」
唯「ボーカルさんとお付き合いさせて頂いた、平沢唯と申します……」
熟婦「ああ、息子の女の一人ね」
唯「お聞きしたい事があるのですが、宜しいでしょうか……?」
熟婦「はっ? 何よ?」
唯「ボーカルさんが麻薬をしていた事はご存じでしたか?」
熟婦「若いんだから、それくらい普通でしょ」
唯「薬を使って、女の子に乱暴していた事は?」
熟婦「女の方がうちの息子にちょっかい出してきたんでしょ。あんただってそうなんでしょうが」
この母親にしてあの息子あり……か。
良かった。分かり易い屑で。
熟婦「大体、あんたは何なの? 息子の遊び相手如きが出しゃばるんじゃないわよ!」
熟夫「ここは君の様な子が来る場所じゃないんだ。弁えたまえ」
斉藤さんが私に近付き、退室を促す。
私は肩に掛かった斉藤さんの手を振り払い、熟婦に近付いた。
唯「私が彼を殺しました」
室内の空気が凍り付いた。
場にいる人間は、私が何を言っているのか、まだ理解出来ていない様だ。
皆、口を開け茫然とした間抜けな表情で私を見ている。
唯「私が彼に麻薬入りのワインを飲ませて殺しました」
唯「彼の口に入っていた汚物、あれ、私が吐いた物なんです。気付かなかったでしょ?」
唯「汚物に塗れて死ぬなんて、凄く彼らしい死に方ですよねぇ?」クスクス
私は厭らしい笑みを浮かべて皆を見た。
漸く皆、今の状況と私の言動を理解した様だ。
彼等の顔は引き攣っている。
熟婦「あ、あんたが私の息子を殺したの……?」
唯「馬鹿な人だなぁ。さっきからそう言ってるじゃない……」
熟婦は人とは思えぬ奇声を上げ、私に飛び掛ってきた。
このキンキンした声、頭の中に響いて嫌いだ。
唯「……うるさい。」
私は近付いて来た彼女の脇腹にナイフを突き刺した。
唯「 だ ま れ よ 」
熟婦は悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
突然の出来事に困惑し、その場にいた人間達は誰も動けなかった。
彼等は、痛みで悶え苦しむ熟婦を唖然とした表情で見詰めていた。
唯「その痛みは罰だ。人の痛みを知らない貴女への罰なんだ」
唯「これで少しは分かったかな? 傷付けられると痛いって事がさ」
唯「でもね、貴女の罪はそれだけじゃないんだ。
息子をあんな風な腐った人間にしてしまった罪。
彼自身にも問題があるのだろうけどさ、貴女にも責任があるよね」
私はしゃがみ込んでいる女の首筋にナイフを突き立てた。
ナイフを引き抜くと、赤い液体が勢い良く噴き出してきた。
生暖かい熟婦の鮮血のシャワーが、私を真紅に染め上げる。
彼女は絶命し、その場に倒れ伏した。
その様子を見て、やっと紳士達が動き出した。
でもね、遅過ぎるんだよ。
私は彼等が立ち上がるより先に、素早く熟夫の背後に回り込み、その首筋にナイフを突き付けた。
唯「全員、動かないでくれるかな。動いたらこの人を殺すからね」
動かなくても殺すけどさ。
熟夫「お、お前の目的は一体なんだ?」
唯「目的……? そんなの決まってるよ。貴方達が私の邪魔をするから、排除しに来たんだよ」
熟夫「わ、私がいつお前の邪魔をしたっ!?」
唯「……。」
私は熟夫の右太腿にナイフを突き刺した。
熟夫は悲鳴を上げ、苦しんでいる。
それが、私をさらに苛立たせた。
唯「それ位の事で騒ぐなっ! 澪ちゃんは……澪ちゃんはもっと痛かった筈なんだ!」
熟夫「み、澪ちゃん……? わ、私はそんな奴の事は知らんっ!」
今度は左太腿にナイフを突き立てる。
熟夫はさらに大きな悲鳴を上げた。
唯「……だから騒ぐなと言っているだろう。今度騒いだらお前の首にナイフを刺してやる 」
熟夫は静かになった。
そうだ、最初からそうやって大人しくしていれば良かったのだ。
お前の生き死には私の意思次第……。
どうだ、自分の命の決定権を他者に握られた気分は。
お前の命なんて、特別でも何でもないんだよ。
お前が私の命を何とも思わない様に、私もお前の命など何とも思っていないのだ。
熟夫「た、たすけてくれ……」
熟夫は涙を浮かべ私に哀願した。
私はそれを、高圧的な態度で見下ろしていた。
唯「他人の命には興味なんて全然無いくせに、自分達の命はそんなに大事なの?」
唯「そんな人間の命乞いってさ……」
唯「 す っ ご く 見 苦 し い よ ね 」
私は顔をゆっくりと近付け、熟夫の瞳を覗き込んだ。
彼の瞳に映る私の姿、私の目……。
以前に見た事がある。
黒く澱み、人としての感情を一切読み取れないあの目。
そこには「ゾンビ」と化した平沢唯がいた。
紳士1「き、きみっ! もうやめたまえ!」
紳士2「落ち着いて話し合おうじゃないか!」
紬父「平沢君、そのナイフをこっちに渡しなさい」
斉藤「唯様、どうぞ落ち着いて下さい……」
皆口々に私を静めようとする。
だから私は彼等に問い掛けた。
唯「どうして皆さん私を止めようとするの……?」
紳士1「人を殺めるのは良くない事なんだ!」
紳士2「他者を傷付けるって事は、自分をも傷付ける事なんだよ!?」
紬父「君の罪は問わない、だからもう止めるんだ」
斉藤「これ以上、唯様の傷付く姿を見たくはないのです」
今の私にとって、それらの言葉は逆効果だった。
彼等の言葉の一つ一つが、私の苛立ちを増幅させる。
今更、そんな奇麗事を並べてさ……。
そんなの通用するワケないでしょ。
唯「偽善者共が……」
私の一言に、場が静まり返る。
暫くの間、部屋には重い沈黙が流れた。
唯「外ではね、多くの人達が死んでいるんだよ……」
唯「貴方達がここでのうのうと暮らしてる間にさ、多くの人達が死んでいるんだよ……」
唯「それなのに、今更一人や二人が死ぬくらい、なんだって言うのさ……」
唯「私は人殺しをした最低の人間だよ……。でもね、それは貴方達も同じでしょ?」
唯「外の地獄も知らないで、自分達だけさっさと安全な場所に引き篭もってさあ……」
唯「お金や権力が有るってだけで救われて……。それだけでこんな屑達が救われるなんて……」
唯「とっても優しくて温かい私の妹や親友達はみんな死んでいったっていうのに……」
唯「 そ ん な の 納 得 出 来 る 訳 無 い よ ! 」
それは私の悲痛に満ちた、渾身の叫びだった。
静かな室内に、私の悲鳴にも似た声が響いた。
私はナイフを振り上げ、熟夫の首元にそれを深々と突き刺した。
熟夫は悲鳴を上げる間もなく、物言わぬ肉の塊と化した。
座っていたソファーから彼が転げ落ちる。
私はその姿を、笑みを浮かべて眺めていた。
唯「私ね、気付いたんだ……」
唯「この人はボーカルの父であり、その後ろ盾だった。じゃあ、この人の後ろ盾は誰なの?」
唯「そう、後ろ盾に後ろ盾はいないんだよ。だったら、殺すのも簡単だよね」
皆、茫然とした表情で私を見ていた。
唯「何でそんな顔してるのさ……。人の死がそんなに珍しいの?」
唯「お外を見てごらんよ。いっぱいいっぱい人が死んでいるからさ」
私は斉藤さんに近付いた。
唯「斉藤さん、おでこの傷は大丈夫?」
斉藤「は、はい。大した事はありません」
唯「そう……。」
私は斉藤さんの顔側面を思いっ切り平手打ちした。
唯「なんで今日ムギちゃんに電話しなかったの?」
斉藤「それは……」
唯「言い訳はいらないよ。貴方にとって一番大切な事は何? ムギちゃんを守る事じゃないの?」
唯「ムギちゃんはね、貴方からの連絡が無くて凄く心配していたんだよ?
こんな下らない話し合いの所為で電話が出来なかったなんてさぁ!」
斉藤「申し訳……ございません……」
唯「ちゃんと順番を付けてよね。大切なモノに順番をさ。そして、それをきちんと守ってよ」
唯「それとね、私の傷付く姿が見たくないとかさ、そういうの、やめてよね」
唯「貴方にとって大事なのは『ムギちゃんの友達の平沢唯』でしょ。
ただの『平沢唯』には、何の興味も関心も無いクセにさぁ……」
唯「そういう偽善な態度をされるとさ、私、物凄く腹が立つんだよ」
斉藤さんは無言で、頭を深々と下げた。
私は手に持っていた血塗れのナイフを投げ捨て、ソファーの男達を見た。
唯「貴方達は私を非難するの? 文句があるならかかっておいでよ。私は今、丸腰だよ?」
その場から動こうとする者は誰もいなかった。
そうだ、動ける筈が無いのだ。
自分の罪をちゃんと自覚出来る人間ならね。
唯「それじゃあ、私、帰りますから。斉藤さん、電話、ちゃんとして下さいね」
斉藤「唯様、少々お待ちを。その格好では目立ち過ぎます。
私の部屋が近くにありますので、そこでシャワーを浴びていかれては……」
唯「……そうですね。そうします」
斉藤さんはソファーの3人に一礼をすると、私の方へ振り返った。
斉藤「こちらへ……」
私は斉藤さんの後に続き部屋を出た。
幸い、彼の部屋に着くまで誰とも会う事は無かった。
扉を開き中に入ると、ボーカルの部屋とは違う男性の匂いがした。
脱衣所で服を脱いでいると、斉藤さんの声がした。
斉藤「服をお持ちしますので、それまで少々お待ち下さい」
彼はそう言い残し、早々と部屋から出て行った。
浴室の鏡を見ると、そこには返り血に塗れた平沢唯がいた。
私は顔に付いた血を指で拭い、口に運ぶ。
口の中に鉄の味が広がる。
しかし、それは味の無かった料理よりも遥かに美味しかった。
もし、全ての料理の味を感じる事が出来なかったら、私はこの血の味に溺れていたかもしれない。
暫くして、ドアの開く音がした。
「失礼します」
その声は見知らぬ女性のモノだった。
「斉藤様の指示で、平沢様の服をお持ちしました」
唯「ありがとうございます」
「脱衣所に置いておきますね」
唯「はい。あの、斉藤さんは?」
「斉藤様は、紬お嬢様のお見舞いに医務室へ行かれました」
唯「そうですか……」
「私はこれで失礼致します」
そう言うと、女性は部屋から出て行った。
ムギちゃんを気遣って、電話でなく直接会いに行ったんだ。
そう、それでいいんだよ。
本当に彼女を守る事が出来るのは貴方なのだから。
私は女性が持って来た衣服に身を包んだ。
真紅に染まった私の衣服は、彼女が全部持っていった様だ。
私はムギちゃんに電話を掛けた。
紬「もしもし、唯ちゃん?」
唯「うん。斉藤さんと連絡は取れた?」
紬「……ええ、今彼はここにいるわ」
唯「そう。私、ちょっとドジして服を汚しちゃってさ。
着替えて行くから、そっちに着くのが少し遅くなるかも」
紬「……そう、分かったわ」
唯「うん、それじゃあね」
私は電話を切った。
電話越しのムギちゃんは、少し元気が無かった。
でも、斉藤さんと一緒だから心配は要らないだろう。
久々に会えたのだから、私は少し二人だけの時間をあげようと思った。
私は部屋にあった椅子に腰を掛けた。
柔らかく、とても座り心地がいい。
私には手が届かない位、高価な物なのだろう。
私は全身の力を抜き、椅子に沈みながら、目を瞑った。
★14
私は十分程度の間、転寝をしてしまった様だ。
あまり遅くなっては彼女が心配する。
私は斉藤さんの部屋を後にし、ムギちゃんの元へと向かった。
医務室に着くと、まだ斉藤さんがムギちゃんの傍にいた。
私に気付くと、斉藤さんは失礼しますと言い残し、医務室を去って行った。
ムギちゃんを見ると、その目は真っ赤に腫れていた。
唯「どうしたの?」
紬「ごめんなさい。斉藤の事が心配で……会ったら何か安心しちゃって……」
紬「気付いたら涙が出ていたの……」
唯「そっか……。大丈夫、斉藤さんはいつでもムギちゃんの事、見守っているからね」
紬「唯ちゃんは……?」
唯「私も斉藤さんと同じだよ。いつもムギちゃんの事、ちゃんと見守っているから安心して」
紬「……。ありがとう、唯ちゃん……」
ムギちゃんが私に抱き付いてきた。
私もムギちゃんを抱き締めた。
もう大丈夫、何にも心配はいらないからね……。
その日から、私はムギちゃんとずっと一緒の時を過ごす様になった。
点滴の時も、私はベッドの傍らで彼女を見守った。
寂しさを感じさせぬよう、私は常に彼女の傍に居る事を心掛けた。
ボーカルがいなくなってから、私達の会話の中に彼が出て来る事は無かった。
もしかしたら、ムギちゃんは意図的にその話題を避けていたのかもしれない。
彼の事を思い出すと悲しくなってしまうから。
ムギちゃんは時折、酷く悲しそうな表情を見せる様になった。
彼女自身は、それを私に隠そうとしていた。
私の視線に気付くや否や、その表情は瞬く間に消え失せ、いつもの笑顔になる。
しかし、私の意識は常にムギちゃんに向いている。
ふとした仕草や表情ですら、見逃す事はないのだ。
ムギちゃんは、彼が居なくなって寂しいんだ。悲しいんだ。
そしてそれを私には気付かれぬ様、明るく笑顔で振舞っている。
悲しみや苦しみを一人で抱え込まないでと憂が言ったのに。
作り物の笑顔。ムギちゃんの嘘吐き。
ムギちゃんが悲しそうな表情をする度、私は強く胸を痛めた。
でも、それ以上に彼女の笑顔を見るのが辛かった。
私は彼女の笑顔を見る度、胸に杭を打たれたかの様な激しい痛みを感じた。
私 は 彼 女 を 満 た せ な い 。
私は生まれて初めて、自分が女で在る事を呪った。
女同士で在るが故に、私達の間には絶対に超えられない壁が存在するのだ。
寂しさや悲しさを紛らわす為、肌を合わせる事が許されない。
異性であれば壁など存在せず、好意が無くとも快楽に身を任せられる。
本能的な欲望に任せて、ただ只管に互いの肉体を貪る様に。
全てを忘れ、肉欲に溺れられたらどんなに良いだろう。
例えそれが、一時的な逃避であったとしても。
こんなにも互いを想い合っているのに、どうして私達は一つになれないの?
私なら彼女の全てを受け入れ、「愛」する事が出来るのに。
その時、私はふと思った。
どうして私は彼女を「愛」する事が出来ないのかと。
私達の間に在る壁、それは「倫理」と呼ばれるモノ。
同性愛は、一般的な社会では受け入れられていない。
しかし、もうその社会はどこにも存在しないのだ。
常識も良識も壊れてしまったこの世界で、誰が私達を否定する?
私を阻む壁は、もはや存在しなかった。
好きであろうが嫌いであろうが、男であろうが女であろうが、
肉体に刺激を受ければ、反応するのは当たり前の事なんだ。
だったら、私がムギちゃんを満たせない筈が無い。
彼が私にした様に、私がムギちゃんにしてあげる。
あの最低な男の身代わりだとしても構わない。
それでムギちゃんが悲しみを忘れられるのなら。
私がこの苦しみから、一瞬の間でも逃れられるのなら。
私は冷静な判断が出来なくなっていたのかもしれない。
夜の点滴が終わり、私達は自室に戻った。
そして今日も一緒にお風呂に入る。
今まで意識していなかった、「女」としてムギちゃんの体。
以前の膨よかな体型は失われ、骨と皮だけになってしまった彼女の体。
悲しみと苦しみが、彼女の体をこんなにしてしまったのだ。
でも、もう大丈夫だよ。
ムギちゃんの悲痛な想いは、私が全部忘れさせてあげる。
私はムギちゃんの本当の笑顔を取り戻すんだ。
浴室を出たムギちゃんは、バスローブ姿のまま、食器棚からグラスを二つ取り出した。
それを居間のテーブルの上に置き、その横にあるワインボトルに手を掛けようとする。
私はワインボトルに手を伸ばした彼女の腕を強く掴んだ。
突然の出来事に、彼女は困惑した表情で私を見る。
私はそんな事も気にせず、寝室へと彼女を引っ張っていく。
彼女は抵抗もせず、ただ私に引き連られベッドの前まで来た。
これから起こる事など、彼女に想像出来る筈も無い。
どうしたの?と、心配そうな顔で私を見詰める。
やめて、そんな顔で私を見ないで。
私なんかを心配しないで。
私はそんな事をされる様な人間じゃないのだから。
私はムギちゃんはベッドに押し倒した。
ベッドに倒れ込んだ彼女に、私は上から覆い被さる。
ムギちゃんの両手の手首をしっかりと握り、彼女の体勢を固定した。
紬「ゆい……ちゃん……?」
不安そうな瞳で私を見る。
私は可愛いモノは好きだけれど、同性愛者ではない。
今まで、周りの女の子をそういう視線で見た事など無かった。
しかし、今、私は目の前のムギちゃんを「女」として見ていた。
私は彼女に対して、性的な興奮を喚起していた。
ムギちゃんは察しが良い。
私がこれから何をするのか理解した様だ。
ムギちゃんが、何かを言おうとその口を開く。
私は透かさず、彼女の桃色の口唇を自分のそれで塞いだ。
紬「っん、ん……っんむぐ……んんっ……っんふぅ……!」
私は舌を彼女の口内に滑り込ませ、その内部の蜜を啜る。
そして彼女の舌に、私のそれを絡ませた。
彼女の目が虚ろになる。どうやら感じているみたいだ。
私は口を窄め、彼女の舌を一気に吸引した。
紬「っんん!? んぐ!? っっん゛ん゛ん゛!!??」
こうされると凄く気持ち良いでしょ?
彼女は大きく体を弓形に仰け反らせた。
でも、キスって長くすると苦しいよね。
私はムギちゃんに苦しい思いなんかさせないからね。
私は一旦彼女の口から自らのそれを離した。
ムギちゃんがハァハァと呼吸を荒げている。
彼女の胸は大きく上下に動いていた。
薄っすらと涙目になっているのが分かる。
その姿が、私の淫らな感情をさらに昂らせた。
紬「ゆい……ちゃん……どう……して……」
唯「凄く気持ち良いでしょ……? これからもっと気持ち良くしてあげるからね……」
私はムギちゃんのバスローブを捲り上げ、彼女の秘部に手を伸ばした。
下着の上からそこを触ると、既に淫蜜でグショグショに濡れていた。
私は下着の上からその部分を優しく、力強く刺激した。
紬「っん! だめ……ゆいちゃん……おね……がい……」
唯「大丈夫、安心して。全部忘れさせてあげるからね……」
紬「わ……すれ……させ……る……? ん゛ん゛っ!」
唯「そうだよ、ムギちゃん。彼が居なくて寂しいんでしょ?
私があの人の代わりになるから……。ムギちゃんを満たすから……」
ムギちゃんの目から涙が溢れ出した。
やっぱり、ムギちゃんはまだ彼の事を想っていたんだね。
苦しいよ。
私はムギちゃんの瞳から流れ出る雫を、ゆっくりと舌で舐め取った。
もう君にこんな涙は流させないから……。
だから、私の全てを受け入れて……。
ムギちゃん……。
紬「ごめんなさい……」
紬「ごめんなさい……唯ちゃん……ごめんなさい……」
ムギちゃんは涙を流しながら、私に謝罪の言葉を繰り返した。
ごめんなさい?
何でムギちゃんが謝るの?
彼女から出た予想外の言葉に、私は当惑し動きを止めた。
唯「どうしてムギちゃんが謝るの? ムギちゃんは何にも悪く無いんだよ……?」
ムギちゃんは何も答えない。
ただ、悲しげな瞳で私をじっと見詰めていた。
どうして私をそんな目で見るの?
その目……やめてよ!
唯「なんで!? なんで謝るの!? なんでそんな目で見るの!? 分からないよ!
ムギちゃんが分からないよ! 教えて! ムギちゃんの事をちゃんと私に教えてよ!」
私は興奮し、強い口調でムギちゃんに迫った。
紬「…………私、知ってたの。」
知ってた?何を?ムギちゃんは何を知っていたというの?
訳が分からず茫然としている私に、ムギちゃんは続けて言った。
紬「唯ちゃんが彼を殺したって事……」
心臓の鼓動が急激に速くなり、呼吸がし辛くなる。
私は胸に手を当て、必死にそれを抑えようとした。
私が彼を殺した事を知っている……?どうして?誰から?
ムギちゃんの情報経路を考えれば、斉藤さんしか在り得ない
でも、斉藤さんがムギちゃんにそんな事を言う筈が無い。
私が殺人をしたと知れば、彼女が酷く悲しむ事は自明の理だ。
わざわざそんな事を彼女に知らせるメリットなど何も無い。
そして、仮にそれを知ったとして、どうして私に謝る?
責めるなら話は分かるが、謝るなど、辻褄が合わないじゃないか。
紬「彼が死んだ日にね、斉藤から全部聞かされたの……。彼がどんな人だったのかも全部……」
紬「ごめんなさい……私が弱いから……唯ちゃんばかりを傷付けてしまって……」
唯「何を言ってるの……? 言ってる意味が全然分からないよ……」
紬「あの女の人達も、彼も、私を傷付けようとしていたのでしょう……?」
紬「だから、唯ちゃんはあの人達を傷付けてしまったのね……」
紬「私を守る為に……。ごめんね、唯ちゃん……」
唯「違うよ! あいつらは私を傷付けようとしたの! だからそのお返しをしただけ! 」
紬「私は唯ちゃんがどういう子か良く知ってるもの。唯ちゃんはとっても優しい女の子。
例え自分が傷付けられても、それで相手を傷付ける様な事は絶対にしないって知ってるの」
紬「だからね、唯ちゃんがあの人達を傷付けたって聞いた時、私はすぐに気付いたの……」
紬「唯ちゃんがそういう事をしたのは、私を守る為なんだって……」
私の目からも涙が溢れ出していた。
紬「確かに、私は彼に好意を持っていた……。
そして、斉藤の話を聞いて、自分の浅はかさを悔いたわ。
その所為で、唯ちゃんが彼を殺めてしまう事になってしまって……」
紬「私は苦しくて、誰かに頼りたかったの……。
でも、斉藤は琴吹家に仕える人間だし、唯ちゃんには負い目があった……。
だから、斉藤にも唯ちゃんにも甘える事がどうしても出来なかったの……」
紬「そんな時にボーカルさんが現れて、私は盲目的に彼に依存してしまった……。
私が弱かったばっかりに、私は彼を受け入れてしまったの……」
紬「ごめんね、唯ちゃん……。私の所為で辛い目に合わせてしまって……。
私が強くてもっとしっかりしていれば、唯ちゃんがそんな事をする必要なんて無かったのに……」
紬「私ね、そんな辛い目に合いながら、笑顔で振舞う唯ちゃんを見て、
申し訳無くて、辛くて、切なくて、どうしようもなく悲しかったの……。
でも斉藤にね、彼の死の真相を聞かされた時に言われたの。
唯ちゃんの心が酷く傷付いているから、傍に居てあげて欲しいって。
唯ちゃんを癒せるのは私だけだから、私にしか出来ない事だからって。だから私……」
斉藤さんがムギちゃんに真相を教えたのは、私の為だったなんて……。
私の為に、ムギちゃんが苦しむ様な事を敢えて伝えたというの……?
本当に斉藤さんは駄目な人だ。
そんなんじゃ、ムギちゃんを守り切れないよ。
どうして私の事なんか気にしてるのさ……。
あの日の朝食の時、何故斉藤さんが私に謝ったのか、私は漸く理解した。
斉藤さんは、ムギちゃんと同じ事を考えていたんだ。
私が彼を殺したのは自分の所為だと、自責の念を持っていたんだ。
自分が彼を止めなかったから、私が手を汚す事になったのだと。
唯「う゛う゛う゛……うああああぁぁぁぁぁーーーー!!!」
ムギちゃんはゆっくりと上半身を起こし、大声で泣く私を抱き締めた。
紬「忘れよう……? 辛い事は何もかも忘れちゃおう?」
唯「ぅぅ……ムギちゃん……」
紬「私は、例え何があっても唯ちゃんの事を一番に考えて、唯ちゃんと一緒にいる。
唯ちゃんの痛み、悲しみ、苦しみ、その全てを、一番近くで共に分かち合うと誓うわ」
私達は、涙を流しながら口付けを交わした。
束の間でもいい。逃避でもいい。誰に否定されても構わない。
神様にだって、私達を止める事なんて出来はしない。
互いの名を呼びながら、果てるまでその体を求め合った。
ムギちゃんと一つになっている時、私は全ての苦しみから解放された。
それから私達は、二人だけの時間を生きた。
この荒廃した世界で、私達は漸く安らぎの場所を見付ける事が出来たのだ。
そこは蜃気楼の様に儚く、少しの衝撃でも崩れ去ってしまう程に脆い。
それでも、私達はその地に縋り生きて行くしかなかった。
もう世界から隔離されたこの箱の中でしか生きられない。
その箱の中の隅に、私達は自分達の「居場所」を作った。
籠の中の鳥は、もう外の世界を求めない。
その場所こそが、自分の安住の地で在る事を知ったから。
檻の内側から見ると外は広く、そこに全ての自由があるかの様に錯覚をする。
そして、その自由こそが至福であると妄信してしまう。
でも、もうそんな幻想に惑わされる事は無い。
自由なんていらない。
私とムギちゃんは、互いに束縛する事で満たされているのだから。
私はムギちゃんの為に、ムギちゃんは私の為に。
二人の間に繫がれた鋼鉄の鎖。
それは囚人の足枷?友情の絆?
そんな事はどうだっていい。
今のままでいい。今のままがいい。
永遠を共に、死が二人を別つまで。
そんなある日、遂に恐れていた事が起きた。
施設内に感染者が出てしまったのだ。
この箱には、ありとあらゆる娯楽施設が揃っている。
しかし、人の欲望は限り無く、際限なく膨張する。
そこに有る物だけでは満足が出来なくなる。
もしかしたら、狭い空間から抜け出そうとするのは、人の本能なのかもしれない。
金持ちの若者達は警備に賄賂を渡し、勝手に施設外を行き来していたのだ。
本当の地獄を知らない彼等にとって、「外」は冒険心を掻き立てるSF世界だった。
「探検」と称したそれは、瞬く間に若者達の間に広まっていった。
金持ち達だけではなく、彼等の「お気に入り」であった一般人もそれに加わっていた。
私も以前、「楽しい事」と唆され、誘われた事があった。
その時の私は、それを「厭らしい事」と思い、その誘いを断った。
後から「探検」の事を知ったけれど、自分には関係が無いと思っていた。
せいぜい、馬鹿が勝手に死ぬ程度の事だと。
しかし、私のその認識は間違っていた。
この施設に逃げて来た金持ち達には、危機感という物が欠如していた。
「危ないと聞き、ただ何となく逃げて来た」
本物の恐怖を知らない者達。
他人が感染したのなら即刻ここから追い出そうとするのだろうが、自分の身内となると話は変わる。
「金を払っているのだから、我々はここに居る権利がある」
彼等は開き直ったのだ。
私とムギちゃんは、紬父の部屋に来ていた。
そこには深刻そうに額に手を当てる紬父と、現状を報告しに来た斉藤さんがいた。
斉藤「紬様、唯様、こちらへどうぞ」
私達がソファーに腰を下ろすと、斉藤さんは紅茶を淹れに行った。
重い沈黙が流れる中、ウバの爽やかなハッカの香りが漂ってきた。
紅茶を淹れ戻って来た斉藤さんが、どうぞ、とティーカップとミルクを私達に差し出した。
私とムギちゃんがそれに口を付けると、紬父が小さく、弱々しく言葉を発した。
紬父「ここはもう終わりかもしれない……」
紬「お父様、それはどういう……」
紬父「ここがもう安全じゃないって事だ……紬」
紬「そんな……」
斉藤「現在、感染を確認出来た者は5名です」
紬父「その者達を隔離しているのか?」
斉藤「家族の猛反発により、その様な処置は行われておりません」
紬父「感染者はその5人だけなのか?」
斉藤「……いえ。調査を断るなど、家族が感染を隠蔽している可能性も否定出来ず……」
斉藤「実際の感染者の数は不明です……」
紬父「そうか……」
憂いの表情で紬父は天井を見上げた。
紬父「プライバシーを優先したこの施設の造りも裏目に出たな……」
紬父「平沢君、君はこの現状をどう思うかね……?」
私は自分がここに呼ばれた意味を理解した。
ウイルスの危険を十分認知している紬父も、実際にそれを体験した訳ではない。
私の様に、実際に地獄を体験した者の意見が聞きたいのだ。
皆の視線が私に集まる。
唯「すぐにこの施設から別の場所に避難した方が良いと思います」
紬父「しかし、感染しても暫くは自我を保っていられるのだろう?」
唯「それは精神的に安定していられればの話です。
ここにいる人間達が精神的に強いとは思えないし、
一般の居住区では、みんな強いストレスに晒されています。
心から信頼出来る友人も無くそんな状態にあれば、発症に時間は掛からないでしょう」
唯「誰か一人でも『崩壊者』になれば、血の臭いに触発されて、ここは一気にゾンビで溢れますよ」
唯「何人感染しているかも分からないし、感染者を隔離する事も追い出す事も出来ないんでしょ?」
唯「それなら、ここから逃げるしかないじゃないですか」
紬父「そうだな……。平沢君の言う通りかもしれない……」
紬父「斉藤、東京の施設に受け入れの要請を。私はここの施設運営者達や住人と話を付けて来る」
斉藤「承知致しました」
紬父「紬、平沢君、君達は部屋に戻り、移動の準備を。荷物は最低限だ。
屋上には琴吹家所有のヘリがある。それでここから脱出しよう」
唯「分かりました」
紬父「君達は準備が出来たら部屋で待っていなさい。
斉藤も準備を整えたら彼女達の部屋で待機だ」
斉藤「しかし、旦那様……」
紬父「私は一人で大丈夫だ。お前には、彼女達の護衛を頼みたい。任せたぞ?」
斉藤「……承知致しました」
紬父「何かあったら私に電話をしなさい。分かったね、紬」
紬「はい、お父様……」
紬父「平沢君、紬の事を宜しく頼む」
私は黙って頷いた。
そのまま紬父は部屋を出て行った。
斉藤さんも私達に一礼をし、部屋を後にした。
唯「私達も行こう!」
紬「うん、唯ちゃん」
唯「あ、部屋に行く前に寄りたい所があるんだけど、いいかな?」
私達は食堂に来た。
今は16時、厨房には誰も居ない。
私は厨房に入り、刃物置き場の扉を開けた。
数々ある包丁の中から、私は刺身包丁を選び取り出した。
人間相手ならばあの小さなナイフでも十分だけれど、ゾンビが相手ではそうもいかない。
ここの人間がゾンビ化する前に脱出するから、必要は無いと思うけれど……。
紬「唯ちゃん、それは……?」
唯「護身用だよ、ムギちゃん」
紬「そ、そうなんだ……。それじゃあ私も……」
唯「大丈夫、ムギちゃんの分は部屋にあるから」
自分達の部屋に戻った私は、ポーチからスタンガンを取り出し、それをムギちゃんに渡した。
あくまで気休めの為の物。
刃物を振り回すよりは安全だ。
そもそもゾンビを彼女に近付かせるつもりは無い。
ムギちゃんに近付く前に、私が全員殺してやる……。
私達は旅行用の大型バッグに着替えと生活用品を詰め込んだ。
準備を終えた刹那、インターホンが鳴る。斉藤さんだ。
扉を開け、バックを持った彼を部屋に招き入れた。
斉藤「お待たせ致しました。後は旦那様からの連絡が来るまで、ここで待ちましょう。
東京の施設は、我々を受け入れてくれる様です。何の心配にも及びません」
私と斉藤さんがテーブルの前に座ると、ムギちゃんが私達にお茶を淹れてくれた。
私は彼女が淹れてくれたお茶を飲み、高ぶる感情を静めていた。
何も起きない。何事も無く、私達は東京の施設にヘリで移動する。きっとそうなる。
それから1時間が経過した。
紬父からの連絡はまだ来ない。
ムギちゃんの表情が曇る。
斉藤さんも、さっきから時計をちらちらと気にしている。
待ち兼ねたムギちゃんが、紬父の携帯に電話を掛けた。
静まり返った部屋に、無機質なコール音が響く。
私と斉藤さんは、その音に耳を澄ます。
コール音が鳴り止む事は無かった。
唯「斉藤さん、紬父の様子を見に行って下さい。
ムギちゃんには私が付いてますし、この部屋にいれば安全だと思います」
例え崩壊者が来たとしても、入り口の頑丈な扉を壊す事は出来まい。
斉藤「しかし……」
紬「お願い、斉藤! お父様の無事を確認して来て頂戴……」
斉藤「……はい。唯様、紬お嬢様を宜しくお願い致します」
そう言うと、早足で彼は部屋を出て行った。
ムギちゃんが私の横に来て、その体を私に委ねる。
紬「怖いわ……。私、いま凄く怖いの……」
私は震える彼女の体を抱き寄せ、力強く彼女を抱き締めた。
唯「斉藤さんが行ったから、ムギちゃんのお父さんはきっと大丈夫だよ……」
紬「うん……」
私達は、紬父と斉藤さんからの連絡を、ただじっと待つしかなかった。
しかし、いくら待っても彼等から連絡が来る事は無かった。
時計を見ると20時、斉藤さんと別れてから既に3時間が経過していた。
こんな時間まで連絡が来ないとなると、緊急事態的な何かがあった事は間違いない。
ムギちゃんは俯き、今にも泣き出しそうな顔をして震えていた。
本当なら、私一人で何があったのかを調べに行きたい。
しかし、今のムギちゃんを一人この部屋に置いていく事など出来ない。
かといって、彼女を連れて行くのは危険過ぎる。
私はどうしたらいい……?
行動力の有るりっちゃんなら、こんな時は一体どうするの?
様々な思考が私の頭を交錯する。
そして私は結論を出した。
唯「ムギちゃん、一緒に部屋から出てみよう」
ここで待っていても埒が明かない。
私はムギちゃんとこの部屋から出る事を決意した。
私は刺身包丁を、ムギちゃんはスタンガンを服の内側に隠し、部屋を出た。
念の為、扉に書き置きを貼り付けておいた。
紬父や斉藤さんがここに戻って来たら、私の携帯に連絡が来る様に。
赤い絨毯の敷かれた廊下を、ゆっくりと私達は歩いてゆく。
紬「ゾンビが……出たのかしら……?」
唯「多分違うと思う。仮にゾンビが居たとしたら、悲鳴や奇声が聞こえる筈だよ……」
ここはVIP中のVIP達がいる居住区だ。
扉や壁も厚く、外部からの音も聞こえにくい。
それでも、大量の声が響けば、耳の良い私には届く筈だ。
私は耳に全神経を集中しながら、慎重に歩みを進めた。
まずは応接間に行こう。
唯(この扉を開けば、並みのお金持ち達の居住区か……)
並みのお金持ち、という表現はおかしいかもしれない。
そもそも、その区域に居る人間達も、財界や政界、芸能界で名の知れた大物達だ。
私は扉に耳を付け、向こう側の音を拾おうとした。
何も聞こえない……。
やはり、ゾンビは居ないのだろうか……?
私は緊張で高鳴る胸を押さえ、扉にカードを通す。
扉が開く。周囲が静かだと、その音は以外に大きい。
幸い、扉の向こう側には誰もいなかった。
五感を研ぎ澄ませ、周りの気配に注意しながら、私達は応接間に向かった。
応接間の扉の前に到着した。
大きな扉をゆっくりと開けてみる。
誰もいない……。
ここにいないとすると、一体何処に行ったのだろう?
いや、ちょっと待って……。
何かがおかしい。
唯(人気が無さ過ぎる……?)
確かに、この辺はあまり人が来ない場所ではある。
しかし、これ程人の気配が感じられない事は今まで無かった。
確実にここで異変が起きている。
唯「ムギちゃん、気を付けて。何かが起こっている事は間違いないみたいだよ」
私は小声でムギちゃんに話しかけた。
紬「うん……」
とりあえず、誰か人を探そう。
その人が何か情報を持っているかもしれない。
唯「1階のホールに行ってみよう」
あそこはいつも多くの人が談笑をしている場所だ。
もしかしたら、誰かいるかもしれない。
私達は階段を下り、1階を目指した。
1階のエントランスに出ると、そこには一人の男がいた。
良かった、人がいた。ゾンビじゃない。
私は彼に声を掛けようとした。
その時、男が私達に気付き、大声を上げた。
男「いた! 琴吹の娘がいたぞ!!」
男の声を聞き付け、数人の男達が駆け寄ってきた。
男達は鋭い目でムギちゃんを睨んでいる。
私達はいつの間にか男達に囲まれていた。
唯「あの……」
男「ん、君は確か平沢唯さん……?」
男2「彼女も琴吹の仲間なのか?」
男3「琴吹の娘と友人なのだから、当然そうだろう」
男4「しかし、彼女は琴吹の人間じゃないぞ?」
男達は、ムギちゃんに対して敵意を持っている様だ。
私の心に黒い影が現れた。
唯「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが、皆さん一体……」
男「ああ、私達は君の友達に用があってね」
唯「用って何でしょう……?」
男「……君は関わらない方がいいだろう。下がっていたまえ」
男はそういうとムギちゃんに近付き、彼女の手を掴んだ。
紬「いやっ! はなしてっ!!」
ムギちゃんが叫ぶと同時に、私は服から包丁を取り出し、男の上腕を下から突き刺した。
刃を抜くと血が飛び散り、私の黒い洋服にそれが染み込む。
男は悲鳴を上げ、ムギちゃんから手を離した。
私は透かさず彼の背後を取り、首の横に包丁を突き付けた。
男「君……何を……」
唯「ムギちゃんに触れるな……」
周りの男達が私達に近寄ろうとする。
唯「全員動かないでくれる? 動いたら私、この人を殺しちゃうから……」
男「待て、落ち着け、私達は君を傷付けるつもりは無い……」
唯「……それって、ムギちゃんは傷付けるつもりだったって事?」
私は彼の首筋に包丁の先を押し当てた。
そこからじんわりと紅い血が染み出してきた。
男「や、やめてくれ……」
唯「私の質問に正直に答えてね……。なんでムギちゃんを捕まえようとしたの?」
男「そ、それは、琴吹と施設管理者達が私達を見捨て、自分達だけで逃げようとするから……」
男2「そ、そうだ。悪いのはあいつらだ!」
男3「法外な金を搾り取った挙句、都合が悪くなったら逃げるなんて許されないぞ!」
男4「我々だって、安全な場所に避難する権利があるんだ!」
唯「……それってどういう事なの?」
男「この施設内には、感染者がいるんだ。それを『処理』出来ないから、ここを放棄するって……」
男「自分達は別の安全な施設に避難するから、君達も好きにしろって……」
男2「そんな無責任な事が許される訳ないだろう!?」
男3「俺達には、ヘリも次の避難場所も無いんだぞ!」
男達の言い分を聞き、私は心底呆れ返っていた。
唯「あのさぁ……」
唯「そんな事を言う権利がお前達にあると本気で思っているの?」
唯「琴吹の人間も、お前達も、私もさ、みんな同罪なんだよ?
こんな安全な所で自分達だけぬくぬくと生きてたんだからさ……」
唯「ヘリコプターが無いのも、次に行く場所が無いのも、それだけのお金と権力が無いからでしょ?」
唯「お前達がこの施設に来れたのだって、お金と権力のお陰じゃない。
だったら、次の場所もそれで勝手に探しなよ。他人なんかに頼らずにさぁ!」
男達「……」
唯「それで、紬父と斉藤さんはどこにいるの?」
男「……一般居住区の最下層、収容所に彼等はいる」
紬「お父様と斉藤がそんな所に……」
収容所……。一般居住区にいた時、受付嬢から聞いた事がある。
この施設の規則を著しく乱した者を一時的に収監する場所だ。
唯「……そう、分かった」
唯「ムギちゃん、そこに行こう」
紬「ええ!」
男「ま、待て! 私達の仲間は大勢いる! 二人でどうするつもりだ!?」
唯「……仲間が大勢いるんだ。それじゃあ、私達だけで助け出すのは無理そうだね……」
男「ああ、そうだ。彼等の中には銃を持っている者だっているんだぞ?」
唯「そっかぁ……。教えてくれてありがとう。お礼に、私も一つ、良い事を教えてあげるよ」
男「な、なんだ……?」
唯「早くこの施設から逃げた方が良いよ。これから大変な事になるから……」
私はムギちゃんの手を引っ張り、一般居住区へと向かった。
男達はその場で立ち尽くし、私達を追って来る気配は無かった。
一般人居住区と繋がる廊下の扉が閉まり、男達の姿は完全に見えなくなった。
唯「これが今の私……。本当の私なの。躊躇い無く人だって殺せるんだよ。怖いでしょ?」
紬「ううん、唯ちゃんなら、私、全然怖くないわ……」
唯「そっか……」
ムギちゃんの前では、優しい「平沢唯」のままでいたかった。
でもね、今はそれでは誰も救えないんだよ。
ごめんね、ムギちゃん……。
私達は一般人居住区へ足を踏み入れた。
華やかな廊下はそこには無く、白く無機質な空間が広がっている。
そこを歩きながら、私はムギちゃんに語り掛けた。
唯「ムギちゃん、よく聞いて……」
唯「私はね、これから大勢の人を殺す事になると思う。
ムギちゃんは優し過ぎるから、その事で辛い思いをすると思う。
もし、私のそんな姿を見て動揺するのなら、隠れて待っていて欲しいの。
私はこっちの居住区にも詳しいから、人に見つからなさそうな場所も知ってるんだ」
紬「唯ちゃん……」
唯「私は優しいムギちゃんが大好きだよ……。
でもね、優しさだけじゃ人を救えない時もあるんだ。それが今なの。
こうなっちゃったら、話し合いで解決する事は不可能なんだよ。
現に、ムギちゃんのお父さんも斉藤さんも捕まっちゃったでしょ……?」
唯「だから私は、実力で二人を収容所から救い出すよ。
邪魔する敵はみんな殺すつもり。その覚悟が無いと、失敗しちゃうから」
紬「私も……唯ちゃんに付いて行くわ……」
唯「……本当にそれでいいの?」
紬「正直、誰かを傷付ける事なんてしたくない……。
でも……そんな事を唯ちゃん一人にさせたくないっ!」
紬「例え地獄に落ちる事になっても、私は唯ちゃんの傍にいるわ」
唯「そっか……。それなら、私はもうムギちゃんを止めたりしないよ……」
唯「地獄の果てまで一緒に行こう、ムギちゃん」
紬「ええ、唯ちゃん……」
私はムギちゃんと抱き合い、口付けを交わした。
絶対にムギちゃんを、ムギちゃんの家族を守り抜くんだ。
一般人居住区の、受付のある広間近くまでやって来た。
物陰からそっとその先を覗いてみる。
受付嬢さんが、いつもとは違う緊張した面持ちをしている。
広間には、武器を持った兵士達が大勢いた。
兵士達に紛れて、見覚えのある金持ち達の姿も見える。
彼等は笑いを交えながら、なにやら話し合っていた。
やっぱり……。あいつらの中に混じってる。私には分かる。
唯「ここを抜けなきゃ、エレベーターにも階段にも行けないんだ。
私が合図したら、向こうのあの扉まで走って行って。あそこは非常階段なの。
それまでは、何があってもここでじっとしててね?」
紬「分かったわ」
彼等は油断している。
武器を持った男がこれだけいるのだから、当然の事だ。
でもね、数が多いと困る事だってあるんだよ?
私は黒のスカートを靡かせ、受付嬢に向かって歩き出した。
突然現れた私に、男達の視線が集中する。
「あれ、平沢唯じゃないか?」
「琴吹の娘と一緒にいた?」
「どうする? 声掛ける?」
突然の事に、彼等は戸惑っている様だ。
好都合。
私は受付嬢の目の前まで来た。
受付嬢「平沢さん! 何故こんな所に!? 今……」
唯「しーっ! 分かってます。これ受け取ってください」
私は彼女に、私の黒いIDカードを渡した。
唯「これからここは大変な事になりますから、これを使って上手く逃げて下さい。質問は無しです」
受付嬢「……分かりました。平沢さんもお気を付けて……」
唯「ありがとう」ニコ
私は彼女が上手く逃げ延びられるよう、心から祈った。
「おい、君……」
兵士の中の一人が、背後から私の肩に手を伸ばし、話し掛けて来た。
私はその手を振り払い、男達の中央へと移動した。
唯「皆さん、こんな所に集まって何をしてるんですか?」
「君、平沢唯さんだよね? お友達の琴吹紬さんはどこにいるのかな?」
こいつらもムギちゃんを捕まえる気か。
良かった。それならこっちも遠慮はいらないね。
唯「う~ん、今、彼女が何処にいるかは分かりません……」
「そっか、紬さんに連絡とかって取れないかな?」
唯「ちょっと待って下さいね……えっと……」
私は携帯を取り出す仕草をした。
取り出すのは包丁なんだけどさ。
次の瞬間、私は服の内側から素早く包丁を取り出し、男の首筋にそれを突き刺した。
悲鳴を上げて崩れ落ちる男。茫然とする周りの男達。
その隙に、私は次のターゲットに刃を突き立てる。
腹を刺し、蹲る男の首を横から貫く。
この状況で、銃など使えまい。
銃しか武器の無い彼等は、丸腰の人間と同じだ。
★421
男達は動揺し、全く動けないでいた。
武器が使えない状況で、刃物を振り回す人間を取り押さえる事は難しい。
その間に3人、4人と、私は次々に男達に致命傷を与えていく。
「と、取り押さえろっ!!」
背後から一人の男が私に飛び付いて来た。
私はその勢いに圧倒され前方に倒れ込んだ。
右手に握り締めていた包丁が手から離れる。
男は俯せになった私に馬乗りに跨り、私の手を後ろ手にして掴んだ。
「大人しくしろっ、こいつ!」
男が力を込め、私の体勢を固定する。
周囲の男達は、怪我をした者達の周りに集まっている。
ホールに慌てふためく男達の声が響く。
物陰から、ムギちゃんが心配そうな顔をしてこちらを見ている。
大丈夫だから、そんな顔をしないで。
この男達の本当の相手は私じゃないんだ。
そろそろ起きなよ。
お前達はそれ位じゃ死なないでしょ?
次の瞬間、人間のモノではない奇声が広間に轟く。
それと同時に、人間の男達の叫びがそれと合わさり交じり合う。
自我を失った「崩壊者」が近くの男達に襲い掛かった。
私は、ずっと近くでゾンビ化していく親友達を見てきたんだ。
何時も一緒にいる妹のそれもね。
だからさ、私には分かるんだ。
お前達の中から初期感染している人間を見分けるくらい、簡単なんだよ。
私が致命傷を与えたのは、皆感染者だ。
瀕死になると、感染者は即「崩壊者」へと移行する。
ホール全体が混乱し、そこには統制や秩序など存在しない。
私を抑え付けていた男の手が緩む。
唯「ムギちゃんっ!!!」
私の声を聞き、ムギちゃんは物陰から飛び出し、扉に向かって走り出した。
私は彼女の名を大声で叫びながら、私を掴む手を振り解いた。
自らの体勢を仰向けにし、逆に男の手を掴み、思いっ切り噛み付いた。
怯んだ男を力一杯横に押し出す。
男の体勢が崩れると同時に、私は男の下から抜け出した。
私は非常階段を目指し、駆け出した。
その階段への扉を開けた状態で、ムギちゃんが待っている。
私はパニックに陥ったホールから何とか脱出する事に成功した。
私が扉の内側に入ると、ムギちゃんはその扉を透かさず閉めた。
「ここから最下層まで行けるよ。急ごう!」
ムギちゃんは頷いた。
ホールからは銃声が聞こえる。
受付嬢さん、上手く逃げられていればいいけど……。
私達は、非常灯の明かりしかない薄暗い階段を、駆け下りて行った。
唯(地下8階……ここが最下層……)
話には聞いていたけれど、実際に来るのは初めてだ。
私は緊張しながら、そこの扉を開く。
殺風景な白く大きな空間に、銃を持った3人の兵士達がいる。
恐らく、彼等は見張り。他にもいるのだろうか?
いや、大丈夫だ。
私とムギちゃんは扉から出て、彼等の方へ歩いていく。
彼等は私達の存在に気付き、なにやらコソコソ話し合っている。
私の隣にいる女の子が、琴吹紬である事にも気付いた様だ。
しかし、それよりも顔や手が血塗れな私に注目が集まった。
「ちょっと君……血が……」
唯「貴方達が捕まえた人に会いに来ました。どこにいますか?」
「えっ? あ、拘束した者達はこの奥の収容部屋に閉じ込めている。それより……」
唯「そうですか。あ、1階の広間、大変な事になってますよ」
唯「崩壊者が暴れているので」
男達は訝しげに互いの顔を見合わせている。
唯「嘘だと思うのなら、1階にいる人達に連絡してみたらどうですか?」
男の一人が無線機を取り出し、連絡を試みる。
しかし、応答は無い。男の表情が青褪めて行くのが分かる。
私はさらに彼等に追い討ちを掛け、不安を煽る。
唯「広間は既に血の海です。私を見れば分かるでしょ?
皆さんも早く彼等を助けに行った方が良いと思いますよ」
男達は顔を見合わせ、エレベーターの方へと走っていった。
彼等が上階に行った事を確認し、私は胸を撫で下ろした。
私達は、兵士達が指差した方へ歩いていった。
そこは一般人の居住区と構造が似ていて、いくつもの部屋がある。
これらは全て拘束用の収容部屋になっているのだろう。
唯「ムギちゃん、黒のIDカードなら部屋を開けられると思う。それで全部の部屋を開けよう」
私達は、収容部屋の扉を開けていった。
各部屋には数名ずつ、男女の区別も無く閉じ込められていた。
施設の責任者など、この場所で最高の権力を持つ者達だ。
皆暴行を受けていたが、何とか動ける様だ。
私達は彼等に肩を貸し、部屋から連れ出した。
まだ紬父と斉藤さんの姿は無い。
一番奥の最後の部屋、この中に二人がいるに違いない。
ムギちゃんがカードを通し、扉を開ける。
いた。
紬父は仰向けに倒れてぐったりとしている。
その横には斉藤さんがいて、こちらを見ている。
紬「お父様っ!!」
ムギちゃんは紬父に駆け寄った。
二人は他の者達より酷い暴行を受けた様だ。
顔には無数の青痣が出来て腫れ上がっている。
口唇は切れ、血の痕が痛々しく残っていた。
斉藤「申し訳ありません……」
斉藤さんは私達に謝罪した。
紬父も私達に気付いた様だ。
ムギちゃんの手を握り、小さな呻き声を上げた。
その目は大きく腫れ上がり、目蓋を開いているかどうかもよく分からない。
紬「酷い……酷いわ……」
ムギちゃんは涙を流し、声を上げ泣き出した。
紬父は、ムギちゃんの手に自らの手を伸ばし、優しく握った。
紬父「つむぎ……私は平気だ……」
紬父はゆっくりと起き上がろうとした。
斉藤さんがその手助けをする。
紬父「私に……彼等を説得……する事は……無理だった……。まあ……当然だろう……」
斉藤「彼等は激怒し、制裁と称して我々を暴行しました。そのまま暴動に……。
私達はここに監禁され、IDも携帯も取り上げられ、連絡も出来ませんでした……」
唯「ごめんなさい、そういう話は後にしましょう。今は急がないと……」
斉藤「……上で何かあったのですか?」
唯「私が『崩壊者』を出してしまったので。その隙を突いてここまで来たんです」
斉藤「なんと……」
唯「兵士達の中にも、何人か感染者がいました。恐らく、もう止められません……」
紬父「となると……ここで悠長に……している暇など無い……な……」
唯「立てますか?」
紬父「なんとか……」
ふらつきながら立つ紬父をムギちゃんが支えた。
唯「行きましょう」
収容室を出て先程の殺風景な広間に行くと、他の人達もそこに集まっていた。
これから自分達がどうすれば良いのか分からない、そんな混迷に満ちた表情をしていた。
唯「皆さん、聞いて下さい!」
唯「上階には『崩壊者』がいます。そこにもう人間の居場所はありません」
場がざわめく。私はそれを制し、話を続けた。
唯「ここに隠れてやり過ごすか、彼等の襲撃を潜り抜け施設から脱出するか」
唯「それは皆さんの自由です。自分自身で判断して行動して下さい」
唯「もう分かっているでしょうが、貴方達を助ける者は誰もいません。
お金も権力も、その価値を失いました。私達にはもう何も無いんです」
「き、君はどうするつもりなんだ?」
唯「私は……私達はここから脱出します」
「ここで奴等がいなくなるまで待った方が安全じゃないのか?」
唯「この施設の扉の多くはカードで開けますよね?
崩壊者には知能がありません。彼等はこの施設内から出る事は出来ないでしょう」
唯「彼等と我慢比べをしても、私達の方が早く消耗してしまいます。
ここには食料がありませんが、彼等には幾分かの『食料』がありますから」
唯「それなら、元気に動ける内にこの施設からの脱出を試みた方が分がいいですから」
唯「それに、まだ噛み付かれ感染しても自我を保っている人はいるでしょう。
後になるより、今の方がまだ『崩壊者』の数は少ない筈です」
唯「時間が無いので、私達はこれで失礼します」
私達は非常階段に向かった。
私達に付いて来る者は誰もいなかった。
皆、この場に残り、様子を見る事にしたのだろう。
彼等にとって、それは妥当な判断なのかもしれない。
私達は彼等の視線に背を向け、非常階段の扉を閉めた。
一般人居住区と特権階級居住区が繋がっているのは1階だけだ。
しかし、1階の広間にはまだ崩壊者がいる可能性が高い。
紬父は歩くのがやっとだし、斉藤さんも戦える状態ではない。
武器はスタンガンしかないこの状況で、無事あそこを切り抜けられるだろうか……。
仮に武器があったとしても、3人を守りながら戦い抜くのは不可能だ。
私はここで残酷な選択をせざるを得ないのだろうか。
きちんと順番を付けておかないと、全てを失う事になる。
全てを失う事……。それこそが最悪の事態。
ムギちゃんを守る。
他の者を全て切り捨ててでも。
例えこの身を犠牲にする事になっても。
長い階段を少しずつゆっくりと上って行く。
斉藤「唯様、どの様にここから脱出するおつもりですか?」
唯「まず、警備室に行って、車両の鍵を手に入れます。そして車を……」
斉藤「ふむ、車ですか……」
唯「斉藤さんが持っていたヘリコプターの鍵は、あいつらに奪われちゃったでしょ?」
紬父「それなら問題は無い……。私の部屋の机の引き出しに……スペアの鍵がある……」
唯「そうですか、それならヘリコプターで逃げましょう」
紬父の部屋は私達の部屋と同じ区域、一部の限られた人間しか入れぬ場所にある。
警備室に向かうより安全な可能性が高い。
1階のホールを通り特権階級区域へ、紬父の部屋に行き鍵を入手、屋上に向かう。
大丈夫、私なら出来る。
私達は1階の扉の前まで来た。
口の前に指を立て、皆を静かにさせる。
私は扉に耳を付け、外の音に神経を集中させた。
クチュクチュ……ピチャピチャ……グルルルルル……
駄目だ、やっぱり崩壊者がいる。
奴等は耳が良い。
扉を少しでも開ければ、その音に反応して私達に気付くだろう
私は小声で皆に話し掛けた。
唯「扉の向こうに崩壊者がいます。私が奴等を何とかしますから、ここで静かに待っていて下さい」
紬「唯ちゃん、私も……」
唯「駄目だよ、ムギちゃん。ムギちゃんはここでお父さんと斉藤さんを守って……」
紬「……分かったわ」
唯「奴等を何とかしたら、この扉を開けますので」
私はそう言い残し、この非常階段を使い2階へ向かった。
扉に耳を当てる。音はしない。
この扉の外に奴等はいない。
私は慎重に扉を開けた。
白い壁に、大量の血液が付着している。
ここでも人間とゾンビが争った痕跡が残されていた。
床に滴った血が、奥まで続いている。
私は足音を潜め、その血の跡を追った。
ピチャピチャクチャクチャ……
廊下の丁字路に着き、壁からこっそりと顔を出し、先の様子を伺う。
血塗れな小柄の少女が、そこにある肉塊を貪っている。
小学生……?丸腰の私でも勝てるだろうか……?
いや、こんなチャンスは二度と無い。
私がこんなに小さい女の子を目にしたのは、数える程しかない。
そんな少女が今、目の前に1人でいるのだ。
この子は私の計画を成功させる為の女神に違いない。
私は物陰から出た。
少女が私の存在を認識する。
食事を中断し、奇声を上げ、私に突進してくる。
物凄いスピードで、少女は私に飛び掛ってきた。
私は凄まじい体当たりを受け、少女と共に後方へ倒れ込んだ。
私は少女の頭を両腕で押さえ、両手の親指を少女の瞳に目一杯押し込んだ。
少女は苦しみの奇声を上げ、私から離れた。
逃がさない。
逃げる少女を、私は後ろから押し倒した。
私は少女の腕を取り、曲がる筈の無い方向へとその腕を捻じ曲げた。
ゾンビとはいえ線の細い少女、男のそれを折るより簡単に事は運んだ。
悲鳴を上げる少女の両腕を、私は無慈悲に圧し折った
これでこの少女は、もう私に抵抗など出来まい。
私は少女を仰向けにし、その腹の上に跨った。
少女は奇声を上げながら暴れているが、私を退ける事など出来はしなかった。
唯「食べたいんでしょ……?それなら、私の血を少し分けてあげるよ……」
私は黒い服の袖を捲くり、肘の近くの肉を彼女の口に近付けた。
少女の歯が、私の皮膚を切り裂いた。
僅かに付けられた、ゾンビの噛み傷。
もっと噛ませないと駄目だろうか?
そんな事を考えた刹那、突然私の体に変化が起きた。
体中の血が沸騰する感覚。熱い。
次の瞬間、体の底から力が湧いてくる。漲ってくる。
今までの疲労がまるで嘘だったかの様に吹き飛んだ。
これがゾンビになるって事なのか……。
私は今、ムギちゃんを、大切な者を守る為の「力」を手に入れた。
一度は人間を辞める為にゾンビになろうとした。
でも、今の私は違う。
私は「人間」に成る為にゾンビになったのだ。
私は捲れた袖を元に戻した。
黒い上着に黒のスカート。
今日は黒い服を着ていて本当に良かった。
私の黒い服は多くの血を吸い込み、妖くも艶かしい光沢を放っていた。
私は1階のホールに下りる階段に向かった。
ホールは酷い惨状になっていた。
完全に動かなくなった死体と、それを貪る崩壊者。
肉を噛み千切る音と、血が滴る音が、静かなホールに木霊する。
5人……6人……7人……全部で8人か。
階段を、足音を立てぬようゆっくりと静かに下りる。
それでも崩壊者達は私に気付き、その澱んだ瞳を私に向ける。
しかし、もう彼等は私に何の興味も示さない。
どうやら私は「仲間」として彼等に受け入れられたようだ。
私は不思議な感覚に陥っていた。
死体塗れのこの空間において、私は恐怖心の欠片も感じなくなっていた。
その肉を貪る彼等に対しても。
私は床に落ちていた刺身包丁を拾い上げた。
そして、崩壊者の一人に近付く。
それでも、私に一切の興味を示さない。
私は彼の後頭部に思いっ切り包丁を突き刺した。
一瞬でその崩壊者は動かなくなり、その場に崩れ落ちた。
これであと7人か……。
周りを見ると、崩壊者達の視線が私に集まっている。
彼等に感情など無い筈なのに、「仲間」が殺された事が分かるのだろうか?
皆、食事を止め、ゆっくりと私に近付いてくる。
どうやら、私と殺り合う気らしい。
かかって来なよ。皆殺しにしてやる。
お前達に完全な死を与えてやろう。
憂が私を守る為にそうした様に。
憂に出来て、私に出来ない筈がないんだ。
だって、私は憂のお姉ちゃんなんだから。
奇声を上げ、一斉に私の方に迫って来る。
その時の私には、その動きがまるでスローモーションの様に見えていた。
最初に飛び掛ってきた崩壊者をいなし、横から首を目掛けて包丁を突き出す。
素早く包丁を引き抜き、そいつの腰の辺りを蹴り飛ばす。
その蹴り飛ばされた崩壊者に当たり、二人の別の崩壊者が蹌踉け転んだ。
私は背後に迫った崩壊者の方に向き直り、両手で包丁を持ち、そいつの心臓に深々とそれを突き刺す。
その後方から、次の崩壊者が私に迫る。
包丁を引き抜き、動かなくなった崩壊者を、後方の崩壊者に向かって押し蹴りした。
また別の方向から崩壊者が迫ってくる。
私は自分からそいつに近付く。
迫り来るそいつの腕をしゃがんで躱し、そのまま足払いをした。
倒れ込んだ崩壊者に素早く飛び掛り、その額に包丁を突き立てた。
ピクピクと痙攣し、その崩壊者は動かなくなった。
あと4人……。
意外に簡単じゃないか。
ゾンビ化すると、こんなにも体が軽くなるなんて。
今の私なら、空さえ飛べるのではないかと錯覚する位に。
崩壊者達の動きが止まる。
私と距離を取り、なかなか近付いて来ようとしない。
ゾンビでも怖気付くんだ……。
そっちが来ないなら、私から行くよ。
私は一気に距離を詰め、首筋に、心臓に、正確に彼等の急所を刃で貫いた。
それはもはや、一方的な殺戮になっていた。
そして、この広間に私以外動くモノは無くなった。
私は金持ちらしき死体の服を漁り、黒いIDカードを手に入れた。
その後、私は非常階段に近付き、その扉をゆっくりと開けた。
紬「唯ちゃんっ!」
中からムギちゃんが飛び出して来て、私に抱き付いた。
紬「外から怖い声が沢山聞こえてきて、唯ちゃんの事が心配だったの……」
唯「私は大丈夫だから……。それより、ムギちゃんの服が汚れちゃうよ……」
私の後ろに広がる血の海。殺戮の跡。
ムギちゃんはその光景を見て、言葉を失っていた。
次の瞬間、彼女は込み上げた吐き気を我慢する事が出来ず、近くの植木に嘔吐した。
唯「ムギちゃん、大丈夫? 怖かったら目を瞑っていて……。私が肩を貸すから」
紬「はぁはぁ……、大丈夫……。私は大丈夫よ、唯ちゃん……」
唯「それじゃあ、早くここから離れよう…………あっ!」
私は重大な事を見落としていた。
IDカード。
紬父のIDカードはこの者達に没収されたのだ。
とすれば、紬父の部屋にあるというヘリのキーはどうやって取りに行けばいい?
私は茫然とその場に立ち尽くした。
斉藤「唯様!?」
唯「ど、どうしよう……ムギちゃんのお父さんの部屋に入れないよ……」
紬「大丈夫、私のカードでお父様の部屋に入れるから!」
唯「そうなんだ、良かった……。ムギちゃん、そのカードと私のカードを交換して!」
紬「えっ!?」
唯「私がお父さんの部屋に鍵を取りに行くから、先に屋上に行ってて欲しいの。
あと、これ私のカードじゃないの。だから、私達の部屋には入れないから」
あの部屋には「思い出」が置いてある。
それだけは絶対にムギちゃんに持っていって貰わなきゃならないんだ。
私が人間で無くなってしまったから。
紬「分かった」
私達は互いのIDカードを交換した。
唯「行こう!」
私達は、特権階級の区域へと急いだ。
特権階級区域のエントランスにも、争った様な形跡が残っていた。
床は血に染まり、壷等の美術品は床に落ち、無残な姿になっていた。
にも拘らず、死体が一つも無い。最悪の事態だ。
その時、受付の台の辺りに気配を感じた。
唯「みんな、下がって!」
私は包丁を構え、その台に近付いた。
受付嬢「うっ……ぅぅ……」
そこには、泣き崩れている受付嬢がいた。
相当なショックを受けている様だ。
唯「受付嬢さん! 大丈夫? 怪我は無い!?」
受付嬢「ひ、平沢さん……すみません、カードを他の一般人に盗られてしまって……」
唯「そんな事はどうでもいいよ! それより、大丈夫? 噛まれてない?」
どうやら、彼女は無事の様だ。
私達は、彼女も一緒に連れて行く事にした。
次の瞬間、一般居人住区と繋がる通路の扉が開いた。
「た、たすけてくれ!」
その男は、先程兵士達の中にいた金持ちの男の一人だった。
「た、たすけてくれ……奴等が……」
血塗れのその男は、扉の方を指差した。、
そこには彼を追う無数の崩壊者達の姿があった。
扉が閉まるのが間に合わない。
こっちに入ってくる!!
唯「ムギちゃん、みんなを連れて屋上に行って! 早く!!」
ムギちゃんは頷き、皆を先導して階段へと向かった。
唯「あっ……!!」
血塗れの男も、ムギちゃんと共に階段を上がっていく。
あいつは……感染者だ!
早く追い掛けて始末しないと……!
しかし、あの大量の崩壊者達がこちらに来ては元も子も無い。
私は扉の前でこちら側に入り込もうとする崩壊者に刃を振るい、その息の根を止めた。
早く、この扉さえ閉まれば……。
私の願いは叶わなかった。
自動ドアは安全の為、異物を感知すると戸が開くようになっている。
崩壊者達が体ごと扉の隙間に突っ込んできた為、センサーが働き扉が全開してしまった。
私は後ろに退きながら、襲い来る崩壊者達を順に薙ぎ払っていった。
紬(唯ちゃん……)
「う、うう……」
斉藤「君、大丈夫かね?」
「ぐっ、ぐうぅぅ……」
次の瞬間、男は自我を失い、紬に襲い掛かった。
紬「きゃあああああっ!!!」
紬父「つむぎっ!!!」
紬父は紬の体を咄嗟に押した。
紬はその衝撃で後ろへ倒れ込む。
男は差し出された紬父の腕に噛み付き、その肉を食い千切った。
そのまま紬父を押し倒し、その首筋に齧り付いた。
紬父「ぐああぁあぁぁぁあぁぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!」
紬「お父様ぁぁぁぁぁっっっ!!」
唯(ムギちゃんの声っ!)
唯「どけっ……! そこをどけって言ってるんだよぉぉぉぉ!!!」
私は目の前の最後の崩壊者の目に包丁を突き刺し、そのままそいつを払い除け、声の元へと走った。
ムギちゃん達に追い付くと、そこには男と紬父が血塗れになって倒れていた。
男の首にはナイフが刺さっている。
恐らく、斉藤さんが殺したのだろう。
紬「お父様、お父様ぁぁぁぁぁぁっ!!!」
ムギちゃんは血に染まった父親に必死に呼び掛けている。
しかし、あの出血量を見ると長くは持つまい。
もうこの人は助けられない。
唯「ムギちゃん、行くよ……」
紬「嫌よ! 絶対嫌!! 私はここを離れないわっ!!!」
唯「駄目だよ、ムギちゃん……」
紬父「つむ……ぎ……。平沢さんと一緒に……行きなさい……」
紬父はムギちゃんの頭に手を当て、優しく撫でた。
紬「嫌ですっ! 嫌ですお父様!」
紬父「お前には……沢山の苦労を掛けた……。嫌な思いもさせてしまった……。
母さんが亡くなってから……私はお前に……何もしてやれなかった……」
紬父「駄目な父親で……本当にすまなかった……」
紬「そんな事……そんな事ない!」
紬父「そんな私の……最後の願いだ……紬……生きてくれ……」
紬「そんな……」
紬父「私の……最後の願いだ……聞いてくれるな……紬……」
紬父「斉藤……紬を……頼む……」
斉藤「旦那様……承知しました……」
紬「ぅぅぅ……お父様……」
紬父「さぁ……行ってくれ……」
斉藤さんはムギちゃんを抱き締め、ゆっくりと階段を上っていった
私もその後に続こうとした時、紬父が私を呼び止めた。
紬父「平沢君……君にも……話がある……少し……残って……くれないか……」
紬父「私は……君に……きちんとした形で……謝りたかった……」
唯「謝る事なんてありません……。貴方は『普通の人間』でした。
私も貴方の立場だったら、同じ決断をしたと思います。それが『普通』なんです」
紬父「そうか……ふふっ……私も……普通の……人間か……その通りだな……」
紬父は優しい笑みを浮かべた。
私もその笑顔に応えた。
紬父「私が……君に……こんな事を……頼める……立場では無いが……」
唯「ムギちゃんは私が守ります。何があっても、必ず守り抜きます……」
唯「いつまでの彼女の傍で、彼女の為に……」
私は嘘を付いた。
紬父「そうか……ありがとう……。君は……紬の……最高の友人だ……」
紬父「そこのナイフで……私を安らかに……眠らせてくれ……二度と目覚めぬよう……」
唯「……はい。」
私は男からナイフを抜き取り、親友の父親を殺した。
階下から、怪物達の雄叫びが聞こえてくる。
崩壊者達は上の階層より、下の階層に多くいる様だ。
私達の声や足音を聞き付けてやってきたのだろうか。
奴等の荒い吐息が段々と近付いて来る。
ムギちゃん達と一緒にいるより、ここで奴等を引き付けた方がいいかもしれない。
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛……」
私は廊下に置いてあった1mは超える観賞樹の植木鉢を持ち上げた。
そしてそれを、階段を上って来た崩壊者達に向かって投げ付けた。
それは先頭にいた崩壊者の顔面に直撃した。
そいつが階段から転げ落ちるのに巻き込まれ、数人の崩壊者達が踊り場に将棋倒しになった。
しかし、その後ろから次々と別の崩壊者達が迫って来る。
私は小さなナイフ一本でその前に立ちはだかった。
奴等の肉を切り裂き、突き刺し、必死に足止めしようとしたが、余りにも敵の数が多過ぎた。
武器が小さい所為か、一撃で止めを刺す事が出来ず、崩壊者の数は増える一方だった。
一人の崩壊者が、私のナイフを持つ右手を掴んだ。
それは体格の良い大柄の男で、そのまま私を持ち上げた。
私は宙に浮かび、腕はミシミシと軋む音を立てた。
その痛みで、私は遂に手からナイフを落としてしまった。
男の握力がさらに強まる。
唯「ぐううう……う゛う゛う゛あ゛あ゛あ゛……」
メキメキメキ……バキッ
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛っっっ!!!」
私は左手の指を男の右目に突っ込み、その眼球を抉り出した。
男は奇声を張り上げ私を放し、右手の拳で私の腹を思いっ切り殴った。
私はその衝撃で壁まで吹っ飛ばされ、頭と背中を強く壁に打ち付けた。
唯「がっ……はっ……」
私はその場に吐血した。
折られた右腕と殴られた腹に激痛が走り、私は倒れたまま身動きが取れなくなった。
崩壊者達は、ムギちゃん達を完全に見失った様だ。
上階へは行こうとせず、その場をウロウロとし始めた。
しかし、私にはまだ役目が残っている。
紬父の部屋からヘリの鍵を手に入れ、それを斉藤さんに渡さなければならない。
部屋の鍵を持っているのは私だけだ。
私がしなければ、ムギちゃん達はこの施設から逃げる事が出来ない。
この地獄から彼女を救えるのは私しかいない。
こんな痛みが何だというのだ。
みんなだって同じ痛みを感じてきたんだ。
今度は私が、私が大切な親友を救う番なんだ。
唯「ぅぅぅううううあああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
私は力を振り絞り立ち上がった。
崩壊者達が蠢く中、私は一人紬父の部屋へと向かった。
こちらから攻撃を加えなければ、奴等が私を襲う事は無い。
死体、いや、原型を留めぬ肉の塊の中を私は歩いた。
新鮮なる「食料」を求めて徘徊する崩壊者達。
彼等の中には、見覚えのある人物の姿も見えた。
痛みを堪え、漸く紬父の部屋の前まで辿り着いた。
ムギちゃんのIDカードを通し、扉を開ける。
中に入り、私はヘリの鍵を探した。
紬父の言っていた「机」を探す。
それは寝室のベッドの横にあった。
その引き出しを開けると、そこには沢山の鍵が入っている。
私にはどれがヘリの鍵だか分からない。
近くにあったバッグを手に取り、ひっくり返してその中身を全部出す。
空になったバッグに、鍵をとりあえず全部詰め込んだ。
念の為、別の引き出しの中もチェックする。
鍵らしき物は無い。
唯(んっ? これは……)
そこには、紬父と幼少の頃のムギちゃん、そして見知らぬ女性が写っている写真があった。
女性はとても美しく、天使のような笑顔で微笑んでいる。
その写真は、綺麗な写真立てに納められていた。
唯(これが……ムギちゃんのお母さんか……)
私はその写真立てをバッグに入れた。
必要な物は手に入れた。
今すぐに私も屋上に向かうべきだった。
しかし私は、「思い出」を取りに自分達の部屋に向かった。
みんなの映像と私のギー太。
私達が確かに存在したという証。
それをムギちゃんに持っていて欲しかった。
私はもう人間じゃない。
ムギちゃんの安全を脅かす危険因子。
彼女と一緒に東京の施設に行く事は許されない。
だから私は、彼女にギー太を託すのだ。
ムギちゃんがいなければ、ギー太は私の元には無かった。
一番最初に、私とムギちゃんを結び付けた宝物。
私がこの世で一番大切にしている、命無き物。
でも、魂は絶対に宿っている。
ギー太は私の分身だから。
自室に辿り着いた私は、ポーチの中身を全て持って来たバッグに移し変えた。
そしてギターを背負う。
ギー太、私の代わりにムギちゃんを宜しくね
後は屋上に向かい鍵を届けるだけだ。
私は長い廊下を駆け抜け、階段まで辿り着いた。
その時、同階の遠方からゾンビではない悲鳴が聞こえて来た。
姿は見えないけれど、聞き覚えのある声……女の声!
彼女は助けを求めていた。
その彼女の声に合わさる様に聞こえてくる、ゾンビの咆哮。
一人ではない、崩壊者は複数いる。
足音は徐々にこちらに迫ってくる。
私に彼女を助けるという選択肢は無い。
私の利き手は折られ、腹に受けたダメージもまだ残っている。
そもそも、武器の無い状態で複数の崩壊者を相手にする事など不可能だ。
私はムギちゃん達に渡さねばならない物がある。
私には果たすべき使命があるんだ。
ここで彼女を見捨てたとして、誰が私を責める事が出来よう。
彼女に恩があるわけでも無いし、助けるメリットなど皆無なのだ。
しかし、私はその場を動けずにいた。
私の中に僅かに残る「人間」が、私をその場に縛り付けた。
何故、この足は動かない?
私にこれ以上何を求めるというの?
今は逃げるという選択肢しかないんだ!
出来ない事をしようとすれば失敗する。
早く、早く屋上に行かなければ!
それが私の順番の一番上なんだ!
だから動いて!
私の足は動かなかった。
そうか、私はここから逃げる事が出来ないんだ。
ゾンビに追われ、助けを求める人を見捨てる事なんて出来ないんだ。
それが私の「出来ない事」なんだ。
廊下の奥の曲がり角から、女が飛び出して来た。やっぱり彼女だ。
彼女は血で汚れていなかった。感染していない。
私の姿を見て、助けて、と泣きながら彼女が叫ぶ。
私はバッグを置き、ギターケースからギー太を取り出した。
私は左手でギー太を握り締め、彼女の元へと駆け出した。
今まで血の流れを感じなかった足が嘘の様に動いた。
女も私の方に駆けて来る。
その後ろから、崩壊者と成り果てた彼女の友人の一人が現れた。
女と崩壊者の距離は瞬く間に縮まって行く。
唯「女ちゃん! しゃがんで!」
女はヘッドスライディングをする様に私の方へと滑り込む。
私は体を回転させ、遠心力を使いギー太で崩壊者の顔面を殴り付けた。
その衝撃で、ギー太は粉々に砕け散った。
私は折れて先の尖った部分を崩壊者の首に突き刺し、止めを刺した。
女「ゆ、唯っ! 私の仲間が! あ、あいつらになっちまった!」
足音と荒い呼吸音が迫って来る。
女を追って来ているゾンビは彼女だけではない。
唯「女ちゃん、よく聞いて! あそこに置いてあるバッグを持って屋上に行って!
あの中にヘリのキーが入ってるから! それでみんなと、この施設から逃げて!」
私はポケットから黒いIDカードを取り出し、彼女に渡した。
唯「このカードで屋上の扉は開くから!」
女「お、お前はどうするんだよ……」
唯「ここであいつらを食い止める!」
女「む、無理だ! まだ3匹いるんだぞ!?」
唯「いいから早く行って! 早く、早く行け!!」
★16
女は困惑した表情で私を見る。
そんな顔、女ちゃんのキャラじゃないよ。
私は戸惑う彼女を突き飛ばした。
女を追って来た崩壊者達がその姿を現す。
彼女の友人と、あのバンドのメンバーだった。
恐らく女は、騒動が起きた一般人居住区から、友人と共にこの男達の元へ逃げて来たのだろう。
しかし、何らかのキッカケで彼等の内の誰かが感染、発病し、今に至ったのだ。
彼等の姿を見て、女は階段の方へと走り出した。
その様子を見て、崩壊者達も走り出す。
私は奴等が横を通り過ぎる瞬間を見計らって足払いをし、先頭の女崩壊者を転倒させた。
後続の二匹の男崩壊者は転倒した女崩壊者に足を引っ掛け、体勢を崩しその場に倒れ込んだ。
私はギー太の破片を握り締め、俯せに倒れていた女崩壊者に襲い掛かった。
そいつの上に跨り、襟首に鋭く尖った破片を力一杯突き刺した。
破片は首筋に深々と突き刺さり、女崩壊者は動かなくなった。
残る二匹の崩壊者達が起き上がろうとしている。
私は動かなくなった女崩壊者から破片を抜こうとしたが、
奥まで突き刺さったそれを抜く事は出来なかった。
周りを見渡しても、他に武器になるような物は無い。
この二匹は武器無しで倒すしかない。
私は起き上がった一方の崩壊者の脇腹に横蹴りを入れ、もう一方の崩壊者の背中に飛び付いた。
そいつは背中に張り付いた私を振り落とそうと暴れ回った。
何度も廊下の壁に背中から叩き付けられたが、私は必死にしがみ付いた。
そして、私はその首に容赦なく噛み付いた。
私の牙は、崩壊者の頚動脈を噛み千切った。
首から血が噴水の様に勢い良く噴き出す。
この出血なら、こいつはやがて力尽きるだろう。
私はその崩壊者から離れようとした。
次の瞬間、私は背後から側頭部を強打され、その勢いで廊下の壁に頭から叩き付けられた。
意識が朦朧とする中、最後の崩壊者が私の目の前に迫る。
そいつは私の上に跨り、両手で私の首を思いっ切り掴んだ。
唯「んぐぐぐぐ……」
私は必死に、首を絞めるその手を取り除こうとした。
しかし、男崩壊者のその腕はびくともしない。
純粋な力比べで、女の私が勝てる筈など無かった。
私の視界は真っ白になり、力を入れる事すら出来なくなっていた。
私はここで死ぬ。
不思議な事に、死を目前にしても、私は恐怖や未練といったモノを一切感じてはいなかった。
私は自分のやるべき事を全て成し遂げたのだ。
ずっと守られ、何も出来なかった私。
そんな弱かった私は、もうどこにもいない。
やっと私はみんなに追い付いたんだ。
私は人間としての尊厳と誇りを持ったまま死ぬ事が出来る。
薄れ行く意識の中、私の心は幸福感の様な物で満たされていた。
ムギちゃん……。
私が初めて「好き」になった女の子。
とっても優しくて、一緒にいるだけで私の心は暖かくなったんだ。
ムギちゃんのお陰で、私はこんな所でも幸せを感じる事が出来たんだよ。
今まで本当にありがとう、ムギちゃん。
最後まで一緒に居られなくてゴメンね。
さよなら。
長い間待たせちゃったね。
もうすぐ、私もみんなの所に行くから。
ううん、私はそこには行けないかな。
私はみんなと違って、悪い事を一杯しちゃったから……。
凄く眠い。これが「死」なんだね。
あんまり苦しくなくて良かった。
苦しいのとか、痛いのとか、私は苦手だから……。
完全に意識を失ってしまう直前、私の耳に人間の声が聞こえた。
女「唯を放せこの野郎っ!!!」
女「唯、大丈夫か!? しっかりしろ!!」
あれ……?
私、まだ生きてる……?
目を開けると、そこには心配そうに私の顔を覗き込む女がいた。
唯「ゾンビは……?」
女「お前の首を絞めてた奴は私が殺ったよ」
女の横には、頭に棒状の何かが突き刺さって動かなくなった男崩壊者がいた。
女「立てるか? ほら、肩貸してやるよ。掴まれ」
私は女の助けを借りて起き上がった。
唯「なんで……戻ってきたの……?」
女「……分かんねぇ」
女「自分でも何でここにいるのか分からねえよ。そんなの、理屈じゃねえんだ」
唯「馬鹿だね……」
女「かもな。だけど、それはお前も同じだろ?」
唯「そう……だね……」
女は私を見てニコッと笑った。
初めて見た、女の優しい笑顔だった。
私は彼女に捕まりながらゆっくりと歩いた。
興奮状態の時には感じなかった痛みが、今になって私を襲う。
少し歩く度、全身に激痛が走った。
女「階段、大丈夫か?」
唯「なんとか……」
私達は一段ずつ、ゆっくりと階段を上がっていく。
階下から崩壊者達の足音がする。
そしてそれは、確実に私達へと近付いて来ていた。
唯「だめ、間に合わない……。女ちゃん、先に行ってよ……」
女「馬鹿、ここまで来てお前を置いて行けるかよ」
唯「でも、このままじゃ追い付かれる……」
女「だったら、お前がもっと気合を入れて早く歩け!」
彼女は、私を置いていく気はさらさら無い様だ。
また私にやるべき事が出来た……。
神様は私に休息を与えないつもりか。
私は痛みを堪え、必死に階段を上った。
女「もうすぐだ、頑張れ!!」
屋上への扉が見えて来た。
しかし、崩壊者達も私達のすぐ後ろまで迫って来ている。
女「あと少し……もう扉はすぐそこだ!」
唯「んんんん……う゛う゛う゛う゛う゛っっっ!!!!」
私は最後の力を振り絞り、女と共に階段を駆け上がった。
扉の前に着くと、女は黒いIDカードを取り出し、扉に差し込んだ。
屋上の扉を開けると、激しい突風が私達に襲い掛かった。
今夜はまるで嵐の様に風が激しい。
夜空には雲一つ無く、満月の光で照明はいらない程に明るかった。
紬「唯ちゃんっ!!!」
扉の近くにはムギちゃんと斉藤さん、少し離れた所に受付嬢が待機していた。
唯「奴等が来てる! 扉を早く!!」
私がそう言うと、斉藤さんが素早く移動し、開いてい扉を閉めた。
カチッとオートロックが掛かった次の瞬間、内側から扉を激しく叩く音が辺りに響いた。
斉藤さんは、女から渡されたバッグの中身を漁り、一つの鍵を取り出した。
斉藤「この扉はそれ程頑丈ではありません。皆さん、あちらへ急いでください!」
この屋上には、3機のヘリが置かれている。
斉藤さんはその内の一つを指差して言った。
私はムギちゃんの肩を借り、そのヘリコプターに向かった。
斉藤さんは素早くヘリの操縦席に乗り込み、離陸の準備に入った。
回転翼が回り始め、周囲に轟音が響く。
受付嬢がヘリに乗り込み、女がその後に続く。
紬「唯ちゃん、行きましょう!」
ムギちゃんは先にヘリコプターに乗り込み、私に手を差し出した。
しかし、私にはその手を握る事が出来なかった。
紬「唯ちゃん……?」
唯「ここでお別れだよ、ムギちゃん……」
紬「えっ……?」
唯「私はムギちゃんと一緒に行く事が出来ないんだ……」
紬「どうして!?」
唯「私はね、もう人間じゃないんだよ。ゾンビに噛まれちゃったから……。
私と一緒にいれば、ムギちゃんに危険が及ぶかもしれない……。だから一緒に行けないの」
紬「例え唯ちゃんがゾンビだとしても、そんなの関係ない! 一緒に来て!」
唯「そんなの駄目だよ。私は絶対にムギちゃんを傷付けたくないから。
だからここでお別れをするの。大切なムギちゃんを守る為に。
最後にムギちゃんの姿が見れて、声が聞けて、本当に良かったよ……」
唯「愛してるよ、ムギちゃん……」
紬「そんな……そんなの嫌よっ! 唯ちゃんがいないと私……私……」
女「唯、そんな話は後ですればいいじゃないか! 早くヘリに乗れよ!」
唯「女ちゃん、今更私が言えた義理じゃないけどさ、ムギちゃんをお願いね……」
女「ふざけんなっ! それはお前の役目だろ! 私の知った事じゃねえよ!」
私は女に優しく微笑みかけた。
女「お前はゾンビなんかじゃねえ! お前は……お前は人間だ! お前は人間の『平沢唯』だ!」
唯「ありがとう……。私、女ちゃんともっと仲良くなりたかったな……」
唯「ムギちゃん、もう行って。そして生きて……。私達の分まで。
ムギちゃんが生きて私達を覚えている限り、私達はムギちゃんの中で生き続けるから」
紬「唯ちゃん……」
唯「大丈夫、心配しないで。私だって、すぐ死ぬワケじゃないよ?
私はあいつらの『友達』だからね。襲われたりしないからさ。
もう一人で料理だって、掃除だって、洗濯だって出来るんだよ?
この軽井沢で、のんびり一人暮らし。悪くないよね、うん。」
紬「……」
唯「私からの最後のお願いだよ、ムギちゃん……」
紬「分かったわ……」
紬「斉藤、ヘリを出して!」
ムギちゃんがそう言うと、ヘリはゆっくりと上昇を始めた。
唯「さよなら、ムギちゃん。元気でね……」
紬「……。」
ムギちゃんは何も言わなかった。
私は込み上げる涙を必死に堪えた。
最後に涙なんて見せたくない。
私はムギちゃんを笑顔で見送りたいんだ。
ヘリが1m程上昇した時、ムギちゃんが何か叫んでいるのが聞こえた。
しかし、回転するプロペラの音が邪魔で、何を言っているのかは分からない。
次の瞬間、ムギちゃんは上昇するヘリから飛び降りた。
着地した後、蹌踉けて転びそうになるムギちゃんを、私は駆け寄り抱き支えた。
唯「ムギちゃんっ!?」
紬「えへへ……来ちゃった……」
斉藤さんも、ムギちゃんがヘリから降りた事に気付いた様だ。
着陸を試みようとするものの、強風に煽られ上手くいかない。
ムギちゃんは操縦席に向かって手を払う仕草をし、行け、と合図を送る。
暫くの間、ヘリは近くを旋回していたが、着陸は出来なかった。
斉藤さんはムギちゃんを拾う事を諦め、遥か遠くへ飛び立って行った。
紬「ありがとう、斉藤……。私の最後の願いを聞いてくれて……」
ムギちゃんはあの時、斉藤さんに向かって叫んでいたのだろう。
ムギちゃんが斉藤さんに何を言ったのか、私にはすぐに分かった。
女と受付嬢の事を斉藤さんにお願いしたのだろう。
だから斉藤さんは、危険を冒して強引に着陸しようとはしなかった。
ムギちゃんに託された願いによって、彼女達を危険に晒す事が出来なかったのだ。
やがてヘリの音は完全に聞こえなくなった。
その代わりに、亡者達が扉を叩く音だけが月明かりの下に響く。
そうだ、私達の危機はまだ続いているんだ。
あの亡者達は、いずれ扉を破壊し私達の前へやってくる。
私は全力で思考を駆け巡らせた。
どうやってムギちゃんを奴等から守る?
ボロボロになった私の体。
武器になるような物は何一つ無い。
この状況からムギちゃんの命を守る方法……。
私は1つしか思い浮かばなかった。
ムギちゃんのゾンビ化。
この方法以外ありえない。
でも、私にそれが出来るだろうか。
私が愛した親友、彼女に噛み付く事など出来るだろうか?
迷う私の心を見透かすかの様に、ムギちゃんは私に言った。
紬「唯ちゃん、私をゾンビにして……」
ムギちゃんは、正面から私の顔をしっかりと見据えていた。
唯「ムギちゃん……」
紬「私ね、ヘリを飛び降りた時から覚悟していたの。私もゾンビになるって。
言ったでしょ? 私はずっと唯ちゃんと一緒にいるって。全ての苦しみを貴女と分かち合うって。
私の苦しみは唯ちゃんの苦しみ。唯ちゃんの苦しみは私の苦しみ。
自分の苦しみを相手に与えたくない、という気持ちは私だって分かるわ。
でもね、逆の立場だったら唯ちゃんだって、私と同じ事をする筈よ?」
唯「違う……私は違う……。だって、私は逃げたもん……。
みんなを……憂や和ちゃんを見捨てて、私は一人で逃げたんだもん……」
紬「唯ちゃんは違うわ。みんなの事を想って逃げたのだから。
仲間を見捨て逃げたのは私……。だから、私はもう逃げたくない。
大切な親友を置いていく事なんて、もうしたくないの」
ムギちゃんの罪、それは皆を置いて一人逃げた罪。
桜ヶ丘高校を去ったその日から、ムギちゃんはその罪に苛まれ続けて来た。
だからこそ、またあの時の様に、一人安全な場所に逃げる事など、彼女に出来る筈が無かった。
紬「私達は、何時如何なる時も同じ十字架を背負う運命にあるの。
でもね、私はその事を辛いなんて思った事は一度も無いわ」
紬「だって、私達は二人なんですもの」
ムギちゃんは涙を流しながら、天使の様な笑顔を私に向けた。
私の傍には、いつもムギちゃんが居てくれた。
そうだ、私は一人なんかじゃない。二人なんだ。
ムギちゃんは袖を捲り、白く細い腕を私に差し出した。
月明かりに照らされた彼女のそれは、神秘的にさえ感じられた。
憂、和ちゃん、りっちゃん、澪ちゃん、あずにゃん……。
彼女達なら、例えこんな状況でも、ムギちゃんに噛み付いてゾンビにする事など無いだろう。
しかし、私は彼女達の様に強くはなれなかった。
私はムギちゃんに噛み付き、ゾンビにする。
仮にこの状況を、それ以外の方法で打破出来る可能性があったとしても。
ムギちゃんに私と同じ苦しみを与える事など、私には出来なかった。
それは彼女をゾンビ化する事ではなく、人間のままでいさせる事。
私の罪、それは一人人間で在り続けた事。
私が人間で在り続けたが故に、私より先に憂が死に、和ちゃんが死んだ。
家族や友人に人間がいる限り、周りのゾンビ達が死んで逝く。
そしてそれが、生き残った「人間」に重過ぎる十字架を背負わせるのだ。
私は、差し出された彼女の腕に歯を立てた。
雪の様に白い肌に、小さな紅い薔薇が咲いた。
それは免罪の証。
今、ムギちゃんは贖罪を終え、自らの罪から解放されたのだ。
その時、階段に続く扉が倒れ、大きな音が辺りに響いた。
崩壊者達が扉を破壊したのだ。
まるで雪崩れの様に、奴等が屋上へと押し寄せて来た。
月明かりの下で奇声を上げ、獲物を探す亡者達。
しかし、その眼に私達は映っていなかった。
私達は彼等に受け入れられたのだ。
人間を拒絶する世界。
そこには秩序も倫理も存在しない。
人類の築き上げてきた文化は零に帰した。
この崩壊してしまった世界に、私達は今、受け入れられたのだ。
ここにはもう「人間」の居場所など無い。
でも、私達は大丈夫。
例え何も無くたって、二人なら生きて行ける。
唯「部屋に戻ろう、ムギちゃん……」
紬「ええ、唯ちゃん……」
もう恐れるモノなど何も無い。
私達は互いに手を握り、亡者達が蠢く月明かりの下を歩いた。
いつの間にか風は止んでいた。
二人の影は、ゆっくりと施設の中に消えていった。
終。
私達は自室に戻り、血で汚れた洋服を脱ぎ捨て、浴室へ向かった。
この施設のライフラインは、人がいなくても故障でもしない限り自動で維持される。
私の体は傷と痣だらけになっていた。
大丈夫?痛くない?とムギちゃんが心配そうに私を見詰める。
大丈夫だよ、と私は彼女に優しく微笑んだ。
浴室から出て寝巻きに着替え、私達はベッドに潜り込んだ。
今日はもう疲れた。
腕の痛みなど気にならない程、私は強烈な睡魔に襲われていた。
今の私達に、アルコールなど必要無かった。
唯「明日になったらさ、ムギちゃんのお父さんを土に埋めよう」
紬「ええ……」
私達は抱き合いながら、間も無くして深い眠りに付いた。
私はその日、悪夢を見なかった。
次の日、目が覚めると、私の体は驚く程に回復していた。
流石に折れた腕はまだ痛むけれど、傷や痣は昨日負った物とは思えない位に小さくなっていた。
紬「おはよう、唯ちゃん……」
唯「おはよう、ムギちゃん」
時計を見るとお昼の12時、私達は二人で寝坊をしてしまった様だ。
私のお腹が大きな音を立てる。
こんな時でも、やっぱりお腹は空くんだなぁ。
その音を聞き、ムギちゃんはクスクスと笑った。
唯「ご飯にしよっか……」
食堂まで続く廊下の、至る所に死体や血の跡がある。
その中に私達以外の動く影、崩壊者達の姿も見えた。
昨日の出来事が、夢では無かったという証拠だ。
ムギちゃんが私の手をぎゅっと握る。
唯「怖い?」
紬「ううん、大丈夫よ……」
血生臭い通路を抜け、私達は食堂に着いた。
そこは廊下と違い血の跡や死体など無く、驚く程に綺麗なままだった。
良かった。
流石の私でも、死体の中で食事などしたくはなかった。
私もムギちゃんも、しっかりと食事を取った。
ムギちゃんがこんなに食べる所を見たのは初めてだった。
普通の人間なら、あんな光景を見た後で食事などする気にはなれないだろう。
しかし、私達はそんな事を言っていられる状況ではなかったのだ。
ここはもう「人間」の住むべき世界ではないのだから。
それに、十分に栄養を取らなければ、いざという時に迷惑を掛けてしまうかもしれない。
私はムギちゃんに、ムギちゃんは私に、お互いに心配など掛けたく無かった。
こんな所で弱音を吐くワケにはいかない。
その想いが、私達を精神的に強くしていたのだ。
この世界を二人で生き抜く為に。
食事を済ませた私達は、少し休憩した後、この施設の中を見回る事にした。
まだ他に「生存者」がいるかもしれない。
人間でもゾンビでも、とにかく意思疎通の出来る者に会いたかった。
私達はまず、斉藤さんや紬父が幽閉されていた地下収容所に向かった。
あそこにはまだ人間が残っているかもしれない。そんな期待をしていた。
私達の期待は最悪な方向で裏切られた。
そこに「あった」のは無残に引き裂かれた肉塊と、徘徊する崩壊者達だけだった。
その中には、昨日まで人間だった施設管理者の姿もあった。
私達は早々にその場を後にした。
その後、一般人居住区を隅々まで調べ回ったけれど、「人間」に出会う事は無かった。
兵士達が使う軽装甲車両などが置いてある地下駐車場に行くと、その殆んどが無くなっていた。
ヘリを持たない者達は、ここにあった車を使って脱出したのだろうか。
無くなった車の代わりに、一般人を含む夥しい数の死体が散乱している。
その中で、まだ多くの崩壊者達が黙々と食事をしていた。
どうやら、ここが一番の「地獄」だった様だ。
この施設から脱出しようと、多くの人がここに詰め掛けた。
しかし、その者達全員を収容出来る程、車両は存在しない。
となれば、何が起こるかは容易に想像出来る。
人間同士の殺し合い。
その血の臭いに惹かれて、集まって来る亡者達。
この惨状は、その結果なのだ。
昨日、何故崩壊者達が階下に集中していたのか、その謎が解けた。
奴等は皆、ここに集まって来ていたのだ。
もしあの時、車で逃げようとしていたら……。
間違いなく、私達もこの惨たらしい風景の一部となっていただろう。
唯「もう行こう……」
紬「うん……」
私とムギちゃんは、死んだ紬父の元へと向かった。
私は紬父を殺した後、そのまま放置するのは気が引けたので、
その遺体を近くの談話室に移動させたのだ。
部屋の中の紬父の遺体は、私が昨日動かしたままの状態で寝かされていた。
紬「お父様……」
ムギちゃんは、涙を流しながら紬父の頬を撫でていた。
紬「ありがとう、唯ちゃん……」
唯「ムギちゃん……」
紬「お父様がこんなにも安らかな顔で眠っているのは、唯ちゃんのお陰だから……」
そう言うと、ムギちゃんは紬父を抱き起こし背負った。
ゾンビ化した事で、痩せ細ったムギちゃんでも、大きな紬父を担ぐ事が出来た。
唯「……手伝おうか?」
紬「ありがとう、でも平気よ。お父様は私一人で運ばせて。これが最後だから……」
外は雲一つ無い快晴だった。太陽の光が目に染みる。
私は小さめのユンボに乗り込み、紬父を埋める為の穴を掘っていた。
この操縦方法も、斉藤さんに教わった事だ。
片手で操縦するの事は難しく、思ったより捗らない。
それでも私は、顎や肩を使い、何とか重機を動かした。
広く大きめに掘った穴の底に、ムギちゃんが紬父を優しく丁寧に寝かす。
そこでムギちゃんは、紬父に最後の別れを告げた。
ムギちゃんが穴から出た後、私はそこにゆっくりと土を被せた。
3月も終わりになると、かなり暖かい。
いつの間にか私は汗まみれになっていた。
土を全て被せ終え、近くにあった大きな石をショベルで持ち上げ、その上に置いた。
これで紬父のお墓は完成だ。
ユンボから降りると、ムギちゃんが冷えたジュースを持って来てくれた。
紬「ありがとう、唯ちゃんのお陰で立派なお墓が出来たわ」
ムギちゃんが優しく微笑む。私もそれに笑顔で応えた。
紬「ねえ、唯ちゃんの腕が治ったら……」
ムギちゃんが真剣な顔で私に言った。
紬「もう一度、東京に戻らない?」
紬「私ね、もう一度……もう一度だけ桜ヶ丘高校に行きたいの。
みんなが笑顔でお喋りしながらお茶をしたあの部室に……」
唯「ムギちゃんの気持ちは分かるけど……。
あそこはもうムギちゃんの知ってる場所じゃ無いの。
桜ヶ丘高校は、ここと同じ様に崩壊した場所なんだよ。
今、期待を持ってあの場所に行っても、失望するだけだと思う」
紬「それでも……私はどうしてもあの場所に戻りたいの……お願い……」
唯「……。何があっても、後悔しない?」
紬「ええ、どんな現実でも、私は受け入れるわ」
唯「……そっか。」
唯「いいよ、行こう。私達の学校に。私達が出会ったあの場所に」
紬「唯ちゃん……」
唯「そうと決まったら、早速出発の準備をしよっか」
紬「えっ!? 今すぐ?」
唯「思い立ったが吉日、だよ? ムギちゃん!」
ゾンビになった私達を縛り付ける物など何も無い。
私達は、完全に自由なんだ。
だから、何処にでも飛び立って行ける。
施設という鳥籠に留まる必要なんて何処にも無いんだ。
紬「でも、その腕じゃ……」
唯「大丈夫、片腕だって、運転くらい簡単に出来るって!」
唯「それに、外に出られるのなら、私はどうしても行きたい所があるんだ……」
紬「……憂ちゃん達の所ね」
唯「うん。あれから8ヶ月も経っちゃったから、あそこが今どうなっているか分からないけどね」
紬「場所は分かるの?」
唯「軽井沢駅から真っ直ぐ行った所だから、駅まで行ければ分かると思う」
紬「そうね。それじゃあ、出発の準備をしましょ?」
唯「うん」
私達は警備室へ行き、車のスペアキーを持って、再びあの忌まわしい駐車場に戻った。
そこにある軽装甲車に付いている番号と、キーの番号を照らし合わる。
私は残っていた車の中からガソリンの残量が一番多い物を選び、
ムギちゃんを助手席に乗せ、それを施設の表玄関に移動させ停車した。
唯「カーナビも付いてるし、ガソリンも満タンに入ってる。
後は、食料と生活用品を詰め込めばバッチリだね」
私達は自室に戻り、ヘリに持って行く筈だったバッグを車に積んだ。
その後、食堂で長持ちしそうな食料や水、缶詰などを、手当たり次第に車に詰め込んだ。
唯「ふぅ~、こんなもんかな」
紬「そうね」
唯「後はギー太を持ってくるだけか」
紬「そういえば、部屋には無かったわ……」
唯「うん……」
私は小さめのバッグを持ち、ギー太の元へと向かった。
紬「待って、唯ちゃん。私も行く」
私達はギー太が眠っている廊下までやって来た。
4人の崩壊者達の死体と、バラバラになったギー太が散乱している。
紬「唯ちゃん……」
唯「うん、ギー太は壊れちゃったんだ……」
私は血の付いていない綺麗な破片を拾い、それをバッグに詰め込んだ。
唯「女ちゃんを助ける時にね、武器が無くってさ。ギー太は私と女ちゃんを守ってくれたんだ……」
私は後悔なんてしていなかった。
いくら大切でも、ギー太は「物」なんだ。
人間の命と比べられる筈なんてない。
ごめんね、ギー太。ありがとう、ギー太。
出発の準備が整った頃、もう陽は沈み掛けていた。
唯「もうこんな時間か……。出発は明日にしよう」
紬「ええ、そうね……」
私達は早めの夕食を済ませ、入浴し、翌日の為に寝る事にした。
目覚ましをセットし、睡眠薬をアルコールで流し込んだ。
そのお陰で、私達は20時前には既に熟睡していた。
翌日朝6時55分。
私達は、目覚ましが鳴る5分前に起きる事が出来た。
シャワーを浴び、軽めの朝食を済ませる。
サンドイッチを作り、それを昼食にする為、バスケットに詰め込んだ。
唯「それじゃあ、行こうか」
今日も昨日と同様に、澄み渡った青空が広がっている。
私達は車に乗り込み、開かれた表門から施設を出た。
流石観光名所、綺麗な景色の山道が続く。
この施設に来た時、私は気を失っていた為、この辺りの風景を見るのは初めてだった。
穏やかな景色を眺めていると、施設内の悲惨な光景が夢の様に思えてくる。
いつかこの夢から醒める時は来るのだろうか。
助手席のムギちゃんは、カーナビを見ながら進行方向を私に的確に伝えてくれた。
そのお陰で、私は軽井沢駅に行かずにこの場所に来る事が出来た。
憂と和ちゃんが殺されたこの場所に。
私は車の速度を落とし、辺りを見渡しながらゆっくりと道を進んだ。
紬「ここが憂ちゃん達の……?」
唯「うん……。ムギちゃんも、周りをよく見ててね」
紬「分かったわ……」
私とムギちゃんは、注意深く周囲を見ていた。
しかし、私達は憂や和ちゃん、あの時死んだ崩壊者達の痕跡すら見付ける事は出来なかった。
やはり、時間が経ち過ぎてしまったのだろうか……。
暫く進むと、私達が一夜を過ごした公民館が見えてきた。
その道端に車が一台停めてある。
和ちゃんがどこからか拾って来た車だ。
さらにその先には、私達が東京から乗って来た車が放置されていた。
唯「ここで私達は一泊したの。その時に純ちゃんが自我を失いそうになって……。
純ちゃんとあずにゃんの二人とは、ここで別れたんだ……。
私は車を公民館の入り口の前に停めた。
唯「中を確認して行きたいの。いいかな?」
紬「もちろんよ。行きましょう……」
中はあの時とは違い、塵が積もり、まるで廃墟の様に汚くなっている。
そして、白骨化した巨漢崩壊者の残骸が残されていた。
私達は皆で泊まった3階の部屋に向かった。
そこには、和ちゃん達が敷いてくれた布団がそのまま残されていた。
唯「あの時のままだ……」
私は過去の記憶を探りながら、部屋を見回した。
あずにゃんと純ちゃんを抱き抱えながら眠った時の事を思い出しながら。
その時、私はこの部屋からある違和感を感じた。
その違和感の正体に、私は程無くして気が付いた。
唯「バットが無い……」
紬「バット?」
唯「うん。あの日私はこの部屋にバットを持って来た……。
でも、次の日ここを出た時、私はバットを持って行かなかったの。
憂も和ちゃんも、バットなんて持ってなかった……」
紬「梓ちゃんか純ちゃんが持って行ったんじゃ……?」
唯「その可能性もあるけど、二人はゾンビだったんだよ? 今更武器なんて必要無いはず……」
あずにゃんか純ちゃんが、何かの為に持っていったのだろうか?
それとも……?
そもそも、あずにゃんと純ちゃんは何処に行ったのか。
もし、この場所で朽ち果てたのなら、あの崩壊者の様に骸が残っている筈だ。
唯「あずにゃんと純ちゃんはどこに行ったのかな……?」
紬「もし行くとすれば、町の方じゃないかしら? 食料や日用品もあるだろうし……」
私達は駅を中心とした軽井沢の市街地を車で回りながら二人の姿を探した。
クラクションを派手に鳴らし、人間がいる事をアピールしながら。
しかし、二人の姿はおろか、他の人間やゾンビの姿すら見掛ける事は無かった。
この町は、既に幽霊街となっていた。
日は疾うに暮れ、辺りは闇に包まれていた。
私達は彼女達の捜索を諦め、駅前の駐車場に車を停め、車内で一泊する事にした。
車内の寝心地は、施設のベッドに比べると頗る悪かった。
荷物を詰め込み過ぎた所為もあって、座席を余り後ろに倒す事が出来ない。
念の為、睡眠薬を持って来ておいて正解だった。
私達は、薬の力を借りて、何とか眠りに就く事が出来た。
次の日、私達は一路東京を目指して進んでいた。
ムギちゃんがカーナビを桜ヶ丘高校にセットし、私はそのナビに淡々と従う。
車道は以前よりもかなり荒れていたけれど、この軽装甲車なら問題なく進む事が出来た。
途中、乗り捨ててある車などを発見した場合、残っているガソリンの量を確認する。
残量がある時は、手動ポンプで自分達の車に燃料を移し変えた。
そのお陰で、東京都に入っても車の燃料メーターの針はほぼ満タンを示していた。
もうガス欠は懲り懲りだった。
東京は以前に増して荒み切っていた。
歩道も車道も、大量のゴミで溢れ返っている。
人の乗っていない車が道路のあちこちに放置され、私達の行く手を阻む。
私はアクセルを踏み込み、邪魔な車を強引に押し退けた。
ここにも人気は全く無い。
もしかしたら、この世界で生きているのは私達だけじゃないのだろうか?
そんな錯覚に陥る程に、生命の気配を感じる事が出来なかった。
そんな中、多くの障害物を乗り越え、私達は漸くこの場所に着いた。
桜ヶ丘高校。
終わりが始まったこの場所に、私達は戻って来た。
私達は車を降りる。
春の爽やかな風が、私達の横を通り過ぎて行く。
辺りは満開の桜に包まれていた。
学校の中に入ると、そこには無数の骨が散乱していた。
私達が殺した女生徒達だろうか。
その風景を、ムギちゃんは悲しそうな顔で眺めていた。
私はムギちゃんの手を握り締め、音楽室へと向かった。
音楽室の扉を開ける。
懐かしい匂いが、私達を包む。
私は、自分が東京に帰って来た事を改めて実感した。
そして次の瞬間、私の目に信じられない物が飛び込んできた。
間違いない、あれは私が軽井沢に持って行ったバット……!
何故このバットがここに……部室にあるの?
紬「どうしたの? 唯ちゃん?」
唯「そんなハズない……なんで……なんでバットがここにあるの……?」
紬「唯ちゃんが持っていったのとは違うバットなんじゃ……?」
私はバットを手に取り、グリップエンドの裏を見た。
そこには、赤のマジックで確かに「姫」と書いてある。
間違い無い、このバットは私が軽井沢の公民館に置いてきたバットだ。
その時、ムギちゃんが大きな声を出し、私を呼んだ。
紬「唯ちゃん! テーブルの上に書き置きがあるわ!!」
平沢唯さん、琴吹紬さんへ。
もし、これを見たなら、赤の印が付いた場所まで来て下さい。
曽我部恵
2010年7月19日
書き置きの下には地図が置いてあり、そのある一点にペンで赤い印が付けてあった。
7月19日……。この日付は、憂と和ちゃんが死んだ日だ。
ここにバットを持って来たのも、この人の仕業なのだろうか。
曽我部恵……ここでこの人の名前を見る事になるなんて……。
紬「曽我部恵……確か生徒会長をしていた……」
そう、桜ヶ丘高校の元生徒会長、曽我部恵。
私達より一つ年上の先輩で、和ちゃんの前の生徒会長だった人。
容姿端麗、成績優秀、品行方正、運動神経抜群。
非の打ち所が無い完全無欠の生徒会長。
にも拘らず、「近いからこの高校を選んだ」といった、気さくな人柄の持ち主でもあった。
また、澪ファンクラブなる物を創り、その会長も務めていた。
その桜ヶ丘高校始まって以来の天才は、日本で一番良い国立大学に現役で合格し、進学した。
彼女は誰からも愛される生徒会長だった。
そんな曽我部先輩に、私は嫉妬していた。
705 : VIPに... - 2011/02/02 23:15:31.31 glwKiTrDO 516/557先輩はN女子大じゃなかった?
706 : VIPに... - 2011/02/02 23:21:04.73 D4ccMxpB0 517/557>>705
一部原作と設定が異なっております。
和『それじゃあ私、生徒会行くね』
澪ちゃんが風邪を引き、軽音部が休みになって、和ちゃんに一緒に帰ろうと誘った時の事だった。
和ちゃんは、私が知らない間に生徒会に入っていた。
そんな事を一々私に報告する必要など無いのは分かっている。
それでも、私は和ちゃんの幼馴染みとして彼女の全てを知っていたかった。
親友として、私は和ちゃんの事が大好きだったから。
私は軽音部があったし、和ちゃんは生徒会で忙しく、私達が会う機会はめっきりと減っていた。
それでも私は、和ちゃんとの関係が絶対のモノであると信じていた。
何があろうと、どんな時でも、必ず一番に私の事を想ってくれる存在であると。
私は欲張りだった。
憂という存在がありながら、私は和ちゃんも求めていた。
私はこの二人を独占していたかったのだ。
高校に入るまで、二人の中心にはいつも私がいた。
それが当たり前の事だと思っていた。
あの光景を見るまでは。
私は軽音部の事と託けて、生徒会室にいる和ちゃんに会いに行った事がある。
扉を開けた時に私が目にしたのは、生徒会長の曽我部恵と楽しく談笑している和ちゃんの姿だった。
あんなに楽しそうに笑う和ちゃんの姿を、私は今まで見た事が無かった。
その光景を見て、私は衝撃を受けた。
最高の笑顔をしている和ちゃんの横にいるのが私ではなかったから。
私は曽我部先輩に対して嫌悪感を抱いた。
それが自分勝手で最低な事であると私は分かっていた。
★17
私は曽我部先輩に和ちゃんを取られまいと必死だった。
下校時間を合わせてみたり、休日に一緒にお出掛けをしたり、夕食に招いたり、
私は和ちゃんとの時間を出来るだけ作ろうとした。
一緒にいる事、それこそが和ちゃんを繫ぎ止める最善の方法だと思っていたからだ。
そんな私の思惑は結局無駄に終わった。
和ちゃんは、曽我部先輩に心底夢中だった。
私と二人の時、和ちゃんが口にするのはいつでも曽我部先輩の事ばかりだった。
彼女の凄い所、面白い所、優しい所、可愛い所などを、目を輝かせながら嬉しそうに語るのだ。
私は、そうなんだ、と笑顔で返していたけれど、内心イライラしていた。
和ちゃんは曽我部先輩の事ばっかり見てるんだ……。
曽我部先輩を慕う和ちゃんに対して、私は心の中で悪態をついた。
独占欲の強い私は、和ちゃんが他の人に強い関心を持つ事が気に食わなかった。
そして私は、曽我部先輩を褒めちぎる和ちゃんの姿など見たくはなかった。
頭が良く、運動も得意な和ちゃんは、私の憧れでありヒーローだった。
そんな和ちゃんが、自らを卑下してまで曽我部先輩を称賛する。
私にはそれが堪らなく不愉快だった。
生徒会だけではなく、私生活でも二人は関係を深めていった。
曽我部先輩の勧めで、和ちゃんは彼女の知り合いが運営する塾で講師としてのアルバイトを始めた。
それ以来、和ちゃんはいつも曽我部先輩と行動を共にする様になった。
その姿は、まるで仲の良い姉妹の様だった。
その一方で、私は和ちゃんと過ごす時間を殆んど失った。
生徒会の仕事を理由に、一緒に登校する事も昼食を取る事も無くなっていた。
そんなある日、隣町の楽器店から一人で帰る途中、私は偶然曽我部先輩に出会った。
恵『こんにちは、平沢唯さん』
唯『曽我部先輩……どうして私の名前を……?』
恵『和から貴女の事を聞いていてね。貴女こそ、どうして私の名前を?』
唯『それは……生徒会長だし、みんな知ってます……』
私は嘘を付いた。
和ちゃんから聞かなければ、生徒会長の名前など私は知らなかった。
恵『そっか。平沢さん今時間ある? 一緒にお茶でもしましょう。私が奢るわよ』
唯『えっと……私は……』
断ろうと思った。
しかし、返事をする間も無く、私は近くの喫茶店に連れ込まれてしまった。
窓際の席に座ると同時に、彼女は腕を挙げ、近くの店員を呼んだ。
恵『コーヒーとチーズケーキを。平沢さんは?』
唯『えっと……じゃあ……オレンジジュースを……』
恵『あ、あと苺パフェ。平沢さん、苺もパフェも好きなんでしょ? これも和から聞いたのよ』
彼女は爽やかな笑顔を私に見せた。
曽我部先輩は、私の顔をじっと見詰めている。
唯『な、なんでしょう……?』
恵『唯ちゃんって呼んでいい?』
唯『べ、べつに構いませんけど……』
恵『ありがとう。……唯ちゃんって可愛いわね』
唯『ふぇっ? な、なんですか突然……』
恵『ふふ、軽音部って本当に可愛い子が多いのね。
そういえば私の友達がね、秋山澪って子の大ファンなの。
ファンクラブを作りたいらしいのだけれど、その子は恥ずかしがり屋でね。
自分には出来ないから、私に秋山さんのファンクラブを作って欲しいって言うのよ』
唯『そ、そうなんですか……』
恵『あなたどう思う?』
唯『澪ちゃんは恥ずかしがり屋だし、そういうの苦手かもしれません……』
恵『そうなんだ……。それなら、ファンクラブ作ったら面白そうね!』
彼女はコーヒーを片手に、悪戯っぽく笑いながら言った。
店員が持って来た苺パフェが、私の目の前に置かれた。
どうぞ、と曽我部先輩が笑みを浮かべながら言った。
私は、いただきます、と言い、苺パフェに手を付けた。
曽我部先輩は、そんな私の様子を微笑みながら見ている。
恵『唯ちゃんは私の事、嫌い?』
唐突な質問に、私は驚き咳き込んだ。
唯『い、いえ……。どうして、そんな事を聞くんですか……?』
恵『私が貴女の大好きな和ちゃんといつも一緒にいるから……かな?』
まるで、私の心を見透かしているかの様だった。
私は冷静を装い、彼女の発言を否定した。
唯『私は別に、そんな事で嫉妬したりしません。子供じゃありませんから』
恵『そっか……。私は子供だから、唯ちゃんに嫉妬していたわ』
唯『えっ……?』
恵『和はね、私といる時に、いつも貴女の事を楽しそうに話すのよ。
その笑顔を見ているとね、こんなに想われているなんて羨ましいなって……』
唯『そ、そうなんですか?』
恵『あら、嬉しそうね。顔がニヤけているわよ』
私は彼女に指摘され、緩んだ口元を急いで結んだ。
恵『それで私、貴女と是非お話したいと思っていたの。一体どんな子なのかなってね』
唯『わ、私は……別に……。ごく普通の女子高生です……』
恵『そうかしら。和は、貴女には人を惹き付ける何かがあるって言っていたわ』
唯『私にそんなモノは無いです……。それに、曽我部先輩の方が、みんなの人気者じゃないですか』
恵『人気者……か。でもね、私には心から友人って呼べる存在がいないの』
恵『勉強が出来たり、スポーツで活躍したりすると、皆私を褒めてくれるわ。
けれど、それは私自身の本質じゃない。
もし私の容姿が悪く、勉強も運動も出来なかったら、誰か私に振り向いてくれるかしら?』
恵『皆、私の上辺にしか興味が無いの。
本当の私は、ネガティブで嫉妬深い、嫌な女なのよ』
彼女は憂いた表情でそう呟いた。
西日が射したその顔は美しく、女の私でさえドキっとする程だった。
唯『そ、そんな事無いです! 少なくとも、和ちゃんは人を表面だけで判断する子じゃないです!』
唯『和ちゃんは、私にいつも曽我部先輩の事を楽しそうに話してくれました。
曽我部先輩の事を、和ちゃんは心から尊敬しています。
長い間、幼馴染として和ちゃんの傍にいた私が保障します』
唯『正直、私は曽我部先輩の事が嫌いでした。嫉妬してました。
和ちゃんは今まで、他人をそんなに褒めた事なんて無かったから……』
唯『私の方が嫉妬深くて嫌な女です! しかも、勉強も運動も家事も、何にも出来ません!』
曽我部先輩は呆気に取られた表情をしていた。
暫くして、彼女はクスクスと小さな声を出し笑い始めた。
恵『やっぱり、貴女は面白い子ね。和が惹かれるのも分かる気がするわ』
恵『和が言ってた。唯ちゃんは周りを明るくする、皆を笑顔にする子だって。
私も唯ちゃんと話していたら、グダグダ悩んでいる自分が馬鹿らしくなったわ』
恵『ねぇ、唯ちゃん。世界が詰まらなく感じたりする事は無い?』
唯『う~ん、無いです……。軽音部は楽しいし、友達や妹とお喋りするのも好きだし……』
恵『私はこの世界が退屈だった。こんな世界、全部壊れちゃえって思った事もあったわ。
でもね、今やっと気付いたの。詰まらないのは世界じゃなくて、私の方なんだって……』
恵『人間ってね、誰もが自分の世界、自分だけの世界を持っていると思うの。
でも、唯ちゃんはその自分の世界を、他人と共有する事が出来る、そんな気がするわ』
唯『えっ……? それってどういう……』
恵『簡単に言うと、唯ちゃんにはスターの素質があるって事よ』
唯『へっ?』
恵『あ、もうこんな時間。バイトがあるから、そろそろ失礼するわね』
そう言うと、彼女は伝票を持って席を立って行った。
その時の私には、彼女の言っている意味がよく分からなかった。
ただ、彼女に対する嫉妬や嫌悪感は、私の中からすっかり無くなっていた。
今の私は、少しだけあの時の曽我部先輩の事が分かる気がした。
天才曽我部恵は、その才能故に孤独だったのだろうと。
天才は凡人と異なる感覚や思考を持っている。
それ故に周囲から理解されず、孤立してしまうのだ。
曽我部先輩は、自分の持っている「世界」を誰かと共有したかったのだ。
「世界」を共有出来る人こそ、彼女の言う「心からの友人」たり得るのだ。
私とムギちゃんは、間違い無く同じ「世界」を共有した。
曽我部先輩は、私とムギちゃんの様な関係を誰かに求めていたのではないだろうか。
紬「この印の場所って、彼女の進学した大学の辺りね」
唯「行ってみよう、ムギちゃん!」
紬「ええ。でもその前に、唯ちゃんは自宅に戻らなくていいの?」
自宅……そこは私と憂の思い出が詰まった場所……。
唯「確かに、いつかはあの家に行かなくちゃいけない。
憂との思い出がいっぱいあるから、それを取りにね。
でも、それは今じゃ無い気がするの」
唯「書き置きの日付は、和ちゃんと憂があそこで死んだ日なんだ。
そして、軽井沢に置いてきたこのバットが今ここにある……」
唯「偶然なんかじゃ無い気がする! 私は曽我部先輩に会って話したい!」
唯「かなり時間が経ってるから、もしかしたら印の場所に行っても無駄かもしれない……」
唯「それでも、1秒でも早く私はこの場所に行きたいの!」
私達は地図を持って、すぐさま印の場所へ向かう事にした。
曽我部先輩に会えば、全ての謎が解ける。
そんな予感がしていた。
私達は、瓦礫に塗れた都内を、只管目的地に向かって進んだ。
途中迂回を余儀なくされ、曽我部先輩が通う某大学まで到着するのに4時間程掛かった。
現在16時、印象的な赤い門の前を通り過ぎ、印のある辺りまで私達は来ていた。
この辺りは、都心部とは思えぬ程緑が多く、自然が溢れていた。
私達は車で周辺を巡り、何か目印等がないか注意深く探して回った。
紬「この辺りのハズなんだけど……」
唯「もしかして、この黒い柵の中なんじゃ……」
先程からずっと気になっていた。
高くて太い頑丈そうな黒い鉄の柵が、広大な一角を丸ごと囲んでいる。
茂る木々に遮られ、柵の外からでは中の様子がよく分からない。
私達は、この柵の内側へ行く入り口を探す事にした。
柵に沿って移動し、私達は漸くその入り口に辿り着いた。
入り口の門は完全に閉ざされていた。
攀じ登る事も出来そうにない。
車から降り、ふと門の横を見上げると、監視カメラが私を捉えていた。
赤いランプが点いていて、カメラが作動している事は分かる。
私とムギちゃんは、監視カメラに向かって手を振ってみた。
その時、大きな音と共に、門が勝手に開き始めた。
どうやら、私達を受け入れてくれる様だ。
車に乗り込み、開いた門から中へと入る。
私達の車が門を過ぎると、黒い檻の入り口はまた堅く閉ざされた。
道なりに暫く進んで行くと、巨大な白い施設が見えてきた。
私達は施設の入り口に車を止め、中の様子を伺う。
人の気配は感じられない。
勝手に中に入ってもいいのだろうか。
そんな事を考えていると、奥から白衣を来た50代位の熟年男性が現れた。
彼は私達の姿を見るなり、笑顔で近付いてきた。
「来客とは珍しいね。まぁ、中にお入りなさい」
唯「でも……私達……」
「ウイルスに感染して、まだ間も無い様だね。大丈夫、心配はいらないよ。さあ。」
白衣の男は手招きをしている。
私達は、彼の言うままに建物の中へと入っていった。
白く綺麗な内装で覆われ、病院特有の消毒液の香りがする。
唯「ここは……?」
「元は生物研究所だったが、今は噛み付き病に特化したウイルス研究所さ。
今日は休日なので、殆んどの研究員達は隣の避難施設で過ごしているがね」
唯「ウイルス研究所……?」
「私達は、ある企業から莫大な援助を受けて、噛み付き病ウイルスの治療薬を開発していてね」
紬「お薬は……出来たのですか……?」
「ああ。臨床試験を経て効果は実証され、後は量産するだけさ。悪夢はもう終わったんだよ」
抗ウイルス薬は完成していた。
とある精神安定剤に、東南アジアの奥地で取れる野草の成分を組み込んで作られたそれは、
大きな副作用も無く、ウイルスを完全に浄化する事ができるらしい。
ただし、自我を失った崩壊者になってしまうと、もう完治する事は無い。
崩壊者は、脳の一部がウイルスによって破壊され、そこに病巣が出来ている。
抗ウイルス薬を注入すると、その部分に強く作用し、死んでしまうのだ。
白衣の男に案内され、私達は治療室の前まで来た。
そのドアを開くと、中には白衣に身を包んだ若い女性が立っていた。
「先生、どこに行ってたんです? まだ仕事は残ってるんですよ?」
その女性の顔を見て、私は驚き声を上げた。
唯「曽我部先輩!」
恵「唯ちゃん!? 一緒にいるのは琴吹さんね!
良かった、部室にあった書き置きを見てくれたのね?」
唯「はい、あの書き置きを見てここに来たんです」
恵「あの書き置きを残してから、ずっと貴女達がここに来るのを待っていたのよ」
先生「琴吹? もしや、あの琴吹グループの一人娘の?」
紬「はい、そうです」
先生「この施設の研究費は、全て琴吹グループが出していてね。
君のお父さんのお陰で、抗ウイルス薬が出来たんだ。
以前、試験薬が完成した時に、曽我部君と軽井沢まで挨拶をしに行ったのだよ」
先生「お父さんは元気にしているかい?」
紬「父は……死にました……」
先生「なんて事だ……。せっかく薬が完成したというのに……」
先生は天井を見上げ、憂いた表情をしていた。
先生「君もこれから大変かもしれないが、お父さんの為にも、一緒に頑張ろう……」
紬「はい……」
ふと気が付くと、曽我部先輩の姿が見えなくなっていた。
先生「しかし、君達が助手の曽我部君と知り合いだったとは驚きだ」
唯「そういえば、なぜ曽我部先輩が先生の助手に?」
先生「この辺りでも爆発感染、パンデミックが起こってね。
その時に、多くの研究員が犠牲になってしまったんだ。
それで人手不足になり、某大学から優秀な生徒達を連れて来て貰ってね」
先生「曽我部君は生物学や医学が専門ではないが、素晴らしい見識と素質を持っていてね。
無理を言って、私の助手としてここで働いて貰っているんだ。彼女には本当に感謝しているよ」
そう言うと、先生はビンに入った薬と注射器を持って来た。
そしてそれを、私達の腕に注射した。
先生「期間を空けてあと数回この注射をすれば、体内のウイルスは死滅するからね」
私はもう人間に戻れる事など無いと思っていた。
この滅び行く世界の中で、ゾンビとして私も共に死ぬのだと思っていた。
しかし、世界の崩壊は食い止められた。
多大な犠牲を出しながらも、人類は希望の光を見い出したのだ。
そんな中、曽我部先輩が治療室に戻って来た。
その後ろから、数人の話し声が聞こえる。
次の瞬間、私は自分の目を疑った。
信じられない光景が、私の目に飛び込んで来たのだ。
憂「お姉ちゃん……?」
唯「う……い……?」
憂「おねえちゃん……おねえちゃーん!!」
憂は涙を流しながら私の元に飛び込んで来た。
私の胸で、憂は大声を上げながら泣き噦った。
律「感動の再会ってヤツかな? 唯隊員、ムギ隊員」
唯紬「りっちゃん!!」
梓「唯先輩、無事で良かったです……」
唯「あずにゃん……」
梓「ムギ先輩も……絶対また逢えるって、私信じてました……」
紬「梓ちゃん……」
和「純は他の子達に、唯とムギが帰って来た事を伝えに行ったわ」
唯「和ちゃん……」
和「お帰り、唯……ムギ……」
唯紬「ただいま……」
私とムギちゃんは涙を流し、大声で泣いた。
それは悲しみの涙などではなく、喜びの涙だった。
恵「私と唯ちゃんは入れ違いだったみたいね。
私はあの日、軽井沢の施設に先生と一緒に琴吹さんのお父様に会いに行ったのよ。
試験薬が完成して、そのお披露目にね。琴吹グループが私達のスポンサーだったから」
恵「本当はヘリで行く予定だったのだけれど、色々事情があってね……。
結局、警備員を伴って車で行く事になったの。そのお陰で、和達と会えたのだけれど」
和「ヘリだったら、私達はとっくに死んでいたでしょうね……」
恵「本当にビックリしたわ。道端に和と憂ちゃんが倒れているんだもの……。
あの時は何で和がこんな所に? って思ったわ。しかも銃で撃たれているし……」
憂「その時、恵さんが助けてくれて、この施設に連れて来てくれたの」
恵「このウイルスに感染すると、生命力が格段に向上するでしょ?
そのお陰で、二人とも何とか一命を取り留める事が出来たのよ」
恵「幸運だったのは、抗ウイルス剤の試験薬が手元にあった事ね。
本当は軽井沢の施設に提供する物だったのだけれど、
琴吹さんのお父様が、ここは平気だからこれは必要ないって。
自分達より、今苦しんでいる人の為に使って欲しいって言ってくれたの」
紬「お父様……」
恵「二人を応急手当てした後、和が他にも助けて欲しい子がいるって言ってね……」
梓「私と純は、あの後ずっと公民館の部屋の中にいたんです」
和「そのお陰で私達と合流する事が出来たの」
恵「だけどその後、崩壊者達に気付かれちゃって、大変だったのよ?
私も部屋に置いてあったバットを借りて頑張ったんだから」
純「あの時の曽我部先輩はかなり怖かったですよ……」
唯「純ちゃん!」
恵「純ちゃんはかなり危なかったわね。あと少しでも遅れていたら、間違いなく手遅れだったわ」
梓「純は運だけは良いからね……」
純「日頃の行いが良いからかな」
梓「調子に乗るな!」ポカッ
純「いてっ!」
純「お久しぶりです、唯先輩、ムギ先輩……。
ムギ先輩、私や憂も軽音部に入って、ムギ先輩の後輩になったんですよ」
いちご「……私も軽音部員。」
しずか「わ、わたしも……」
紬「ええ、みんなの演奏、DVDで見せて貰ったわ……。凄く良かった!」
いちご「……。」
律「いちご……口閉じながら笑うの怖いって……」
いちご「……律、五月蝿い。」
ちか「久しぶり、唯。それに琴吹さん……」
三花「私とちかちゃんは、一年生の時に琴吹さんと一緒のクラスだったんだよね。
あんまりお話した事は無かったけど……」
紬「ごめんなさい……。私、人見知りして……」
三花「あ、ごめん、そういうつもりじゃなくて……」
ちか「綺麗な髪だって、結構噂になってたんだよ? 琴吹さんの事」
紬「そ、そうなの……? 全然知らなかったわ……」
アカネ「私は、琴吹さんとは初対面ね。初めまして、佐藤アカネよ」
紬「初めまして、琴吹紬です」
アカネ「私、琴吹さんに謝らなきゃいけない事があって……」
紬「ううん、謝らなきゃいけないのは私の方なの……。私はみんなに……」
律「あー、湿っぽい話は無し無し! もう全部過去の事だよ!」
紬「でも……」
梓「それより、私を褒めて下さい! 部室に書き置き残す様に言ったのは私なんですよ?」
唯「あずにゃんが……?」
梓「はい。唯先輩とムギ先輩が生きていれば、必ずあそこに戻って来ると思ったんです。
だから私は、曽我部先輩にお願いして、書き置きを残して貰ったんです」
恵「軽井沢から帰る途中にね、梓ちゃんがどうしても学校に寄って欲しいって。
幸い、崩壊者達は学校に残っていなかったわ。
そこで、りっちゃんやいちごちゃん達に会って、一緒にここに連れて来たの」
梓「私達、試験薬の被験者として、優先的に薬を貰う事が出来たんですよ」
和「軽井沢の施設に唯達がいるって知って、本当はすぐに逢いに行きたかったのだけれど、
私達は薬の臨床試験中で、この施設から離れる事が出来なかったの」
律「それにこっちも、色々トラブルがあってさ。車やヘリが使えなかったんだ」
唯「トラブル?」
恵「この薬はまだ量産されていないの。つまり、とっても貴重なワケ」
唯「なるほど……」
恵「察しが良いのね。貴女の想像している通りよ」
薬の奪い合いがあったんだ……。
恵「感染者の数が膨大過ぎて、とてもじゃないけど全員分なんて無理だった。
試験薬でもいいから寄こせって言い出す連中もいてね。
それこそ、大金を出して買いたいなんていう人達もごまんといたわ」
恵「それで薬を巡って対立が起きて、暴動みたいな事が起こったの。
その時に、車や施設の備品などがかなり壊されたりもしてね……」
律「私達が優先的に薬を貰っているのも不公平だって言われてさ……」
和「それで私達は、外部に知られない様に隠れて治療を受けていたの」
梓「自由に出歩く事も出来なかったんですから」
恵「桜ヶ丘の子はみんな可愛いから、すぐ顔を覚えられてね。
出歩くとすぐバレちゃうの。そうすると、また薬がどうのって話になるから、
彼女達には出来るだけ出歩かない様にお願いしていたの」
憂「軽井沢の施設で問題が起きたって聞いた時は、凄く心配したんだよ。
でもね、お姉ちゃん達は絶対に無事だって、私、信じてた」
唯「そういえば、どうして私達が軽井沢の施設にいるって分かったの……?」
憂「私、録画して何回も聞いたよ、お姉ちゃんが私の為に唄った歌……」
唯「えっ……?」
梓「大晦日の歌番組ですよ。まさか、唯先輩達が出ているとは思いませんでした」
律「放課後ティータイムも、遂にメジャーデビューしてしまったな!」アハハ
純「憂なんか、唯先輩の歌を聴いたら号泣しちゃって、大変だったんですよ?」
憂「う~、それは言わないでよ~」ポカッ
純「いてっ」
律「でも、ホントに唯は輝いてたよ……。正直、少し嫉妬したかな……」
いちご「……律のキャラじゃない。」
律「ですよねー」
唯「そういえば、他の施設にも放送されるって聞いた……。
でも、私、みんなが死んじゃったと思ってたから……」
和「私と憂なんて、銃で撃たれてたしね」
唯「ところで、澪ちゃんは……?」
今までの空気が一変し、皆の表情が暗くなった。
律「唯、ムギ……澪に会いたいか……?」
唯「うん……」
紬「ええ……」
律「分かった、私に付いて来てくれ……」
和「それじゃあ、私達は唯とムギの歓迎会の準備をしましょうか……」
憂「うん……」
梓「そうですね……」
私達は皆と別れ、りっちゃんの後に続いた。
皆の様子を見て、私達はすぐに察しが付いた。
しかし、私はそれを受け入れたくなかった。
きっと笑顔で再会できる、私はそう信じていた。
私達は、ある個室の前まで来ていた。
その病室のネームプレートには、「秋山 澪」と書いてある。
澪ちゃんは生きている。
私の勘違いだったんだ。
そうに違いない。
律「入るぞ、澪……」
りっちゃんはそう言うと、扉を開け中に入った。
私達もその後に続いた。
8畳程の個室、そこにあるベッドで、澪ちゃんは静かに寝ていた。
安らかな表情で眠っている澪ちゃんはとても綺麗で、まるで眠り姫の様だった。
腕には点滴のチューブが繫がれている。
ベッドの横には花瓶があり、色鮮やかな花達が活けてあった。
律「澪は薬を投与されてから、一度も目を覚ましてないんだ……」
りっちゃんは、今までに見せた事の無い、憂愁の表情をしていた
そして、優しく澪ちゃんの手を握った。
律「唯達と別れた後さ、澪が私に言ったんだ。自分を殺してくれって。
だけど、そんな事、私には出来なかった……。出来る筈ないじゃないか……」
律「それでも、澪が殺してくれってせがむから、私は言ったんだ。
それじゃあ、澪を殺して私も死ぬって。澪を一人にはしないって。
そしたらこいつさ、私が死ぬ事は許さないって言うんだよ……」
律「我侭な奴だろ?」
澪ちゃんの前髪を分け、りっちゃんは優しく彼女の頭を撫でた。
りっちゃんは泣いていた。大粒の涙が、シーツに吸い込まれていった。
律「私は澪がいなくちゃ生きて行けない。澪がいない世界なんて在り得ない。
だから生きてくれって言ったんだ。そしたら、澪は頷いてくれた。
私が生きている限り、澪も死なないって約束してくれたんだ」
律「抗ウイルス薬のお陰で、私はゾンビ化から順調に回復していった。
でも、澪は違った……。澪は間に合わなかった……。
ゾンビ化が進み過ぎて、脳の一部がやられたって……。
先生は、澪が目を覚ます事はもう無いだろうってさ……」
律「唯、ムギ。澪の手を触ってみてくれ」
私とムギちゃんは、雪の様に白い澪ちゃんの手に触れた。
その大きな手からは、澪ちゃんの温もりを感じる事が出来た。
律「あったかいだろ?」
唯「うん、あったかいね……」
紬「澪ちゃん……」
律「澪は今も生きている。私との約束をちゃんと守ってくれている。
だから、私も澪との約束を守る。例え何があっても澪の傍にいるって……」
唯「私も澪ちゃんと一緒にいる! だって、澪ちゃんは大切な親友だもん!」
私はムギちゃんを見た。
ムギちゃんも、目を潤ませながら頷いた。
律「人見知りで、口下手で、恥ずかしがり屋だけど……」
律「良かったな、澪……。お前には、お前の事をこんなにも想ってくれる仲間達がいるんだぞ……」
私達の声、私達の想い、澪ちゃんには届いているだろうか。
いや、きっと届いてる。
私は、心の底からそう信じて疑わなかった。
律「ムギ、ごめん。私があの時ゾンビなんかにならなければ……」
紬「それはお互いもう言わない約束でしょ?」
律「そうだな……。ムギは……その……色々辛かっただろ?」
紬「気にしなくても平気よ、りっちゃん。遠慮はいらないわ……」
律「テレビでムギの姿を見た時さ、ムギがどんな気持ちで過ごしてきたのかすぐに分かった。
私は辛かったんだ……。私達の所為でムギがこんなに苦しんでいるなんて……」
律「だから本当はすぐに伝えたかった。私達が元気だって事を。
私達がムギの無事を心から願っていた事を……」
紬「りっちゃん……」
律「でも、私は信じてたんだ。きっと唯がムギを守ってくれる。
そして、ムギも唯を守るって。お互いに支え合えば、絶対に大丈夫だって……」
紬「うん、唯ちゃんはいつも私を守ってくれた。私は唯ちゃんのお陰で生きていられたの」
唯「私もムギちゃんがいなければ強くなれなかった。
ムギちゃんは私の生きる目的、希望だった。私の全てだった」
紬「施設で初めて逢った時の唯ちゃんは、今の私よりも酷く憔悴していたわ」
律「だろうな。なんてったって、唯は憂ちゃんが死んだと思ってたんだろ?」
唯「うん……」
律「唯と憂ちゃんが互いをどれだけ想っているかは、誰もが知っているからな。
だからテレビで元気そうにしていた唯の姿を見て安心してたんだ。
唯はちゃんと、今、何を一番にすべきかを分かっているんだなってさ。
あの時、もし辛そうな顔でもしていたら、次会う時に殴ってやろうと思ってたんだぜ」
唯「りっちゃんは強いね……」
律「私には、怖がりで臆病な幼馴染がいるからな。
そいつの為に、私は強くなくちゃいけないからさ。
どんな時でも、何があっても、そいつの事を守ってあげられる様に……」
りっちゃんがそう言った時、澪ちゃんが微かに笑った様に見えた。
それが目の錯覚などと言うモノでは無いと、私は断言する事が出来る。
りっちゃんの強い想いが、澪ちゃんに届いたのだと。
医者は澪ちゃんは目覚めないと言った。
しかし、私はいつか澪ちゃんがもう一度「唯」という言葉を発すると信じている。
その時、きっと私は「ありがとう」と口にするだろう。
澪ちゃんの優しさと強さが、私に勇気と力を与えてくれたから。
その後、皆は私とムギちゃんの為に再会記念パーティーを開いてくれた。
私達はそこで、私とムギちゃんが付き合っている事を打ち明けた。
皆、私達を祝福してくれた。憂もおめでとうと言ってくれた。
夜、私は憂と一緒の部屋の同じベッドで寝る事になった。
ムギちゃんとあずにゃんがそうするよう、私に勧めたのだ。
懐かしい憂の匂いは、薬やアルコールよりも私の安眠を促した。
世界は緩やかに、しかし確実に、立ち直る兆しを見せていた。
薬が量産される様になると、何処に隠れていたのだろうか、多くの人々が再び地上へと現れた。
どんなに傷付き、疲れ果てても、そこに希望が在る限り、人類は何度でも立ち上がるだろう。
皆の心に刻まれた大きな傷は、長い時間を経たとしても完全に消える事は無い。
それでも、私達はきっと大丈夫。
明日に向かって生きて行ける。
私達は、決して一人ではない。
手を伸ばせば、自分の事を想ってくれる仲間に触れる事が出来るのだ。
痛み、悲しみ、苦しみ……。
それらも皆で分け合えば、もう恐れる事などない。
大切な人達が傍にいれば、どんな事だって耐えられる、乗り越えて行けるんだ。
それから一年、日本は驚きの速さで復興を実現した。
抗ウイルス薬の開発に逸早く取り組み、成功した事がその大きな要因だろう。
薬の特許権は琴吹グループが所有している。
それにより、ムギちゃん率いる琴吹グループは莫大な利益を生み出した。
その利益の多くが、日本復興の為に費やされた。
紬父亡き後、ムギちゃんは代表の座を引き継いだ。
とはいえ、未成年の女の子がいきなりその任を全うする事など、出来る筈は無い。
軽井沢の施設で勉強していたとはいえ、実際の経験が圧倒的に不足しているのだ。
ムギちゃんが一人前になるまで、その実務は全て斉藤さんが熟した。
斉藤さんの元で、ムギちゃんは実践的にそれらを学んでいった。
ムギちゃんは、暫く放課後ティータイムの活動を休止せざるを得なかった。
私達は、ムギちゃんのその意向を了承し受け入れた。
ムギちゃんには、ムギちゃんのやるべき事が在る。
例え今は一緒に演奏出来なくても、彼女は放課後ティータイムのメンバーだ。
その事実が変わる事など、永遠に無い。
ムギちゃんの提案で、和ちゃんと曽我部先輩も斉藤さんの実務を学ぶ事になった。
二人の資質にムギちゃんは目を付け、自らの側近になって欲しいと頼み込んだのだ。
和ちゃんと曽我部先輩はそれを承諾し、ムギちゃんの支えとなる事を約束した。
今では、二人はムギちゃんの右腕として、その実力を遺憾無く揮っている。
私は皆と再会してから、音楽活動を通して人々に元気を分け与えようと取り組んできた。
皆もそんな私の意見に賛同し、協力してくれた。
ムギちゃんは、琴吹グループの中に芸術部門を創設し、私達を全面的にバックアップしてくれた。
そのお陰もあり、テレビ、ラジオ、ネット、あらゆるメディアを通して、私達は人々に歌を届けた。
そして放課後ティータイムは、国民的人気バンドとしての地位を確立したのだ。
私はギターとボーカル。
あずにゃんはギター。
りっちゃんはドラム。
憂はキーボード。
純ちゃんはベース。
いちごちゃんとしずかちゃんは、私達のマネージャーを引き受けてくれた。
出演交渉等は全て彼女達に任せてあり、上手く日程を調整してくれている。
アカネちゃん、三花ちゃん、ちかちゃんは、
私達の活動をサポートしつつ、澪ちゃんをの面倒を看ていてくれた。
最初、りっちゃんは澪ちゃんの世話をすると言っていた。
しかし、澪ちゃんが本当に望んでいる事を、りっちゃんが分からない筈は無い。
だからこそ、私達と共にバンド活動を行う決意をしてくれたのだ。
今の私には、何の不安も無かった。
ただ全力でギターを掻き鳴らし、歌い続けた。
そして今、私達放課後ティータイムは武道館にいる。
湧き上がる声援、眩しいスポットライト。
高校生の時夢に見た武道館ライブを、私達は実現するに至ったのだ。
あの頃の私達には、ただ目立ちたいという薄っぺらな願望しかなかった。
けれど、今は違う。
大切な人に届けたい想いがある。
そしてそれを、この歌を聴いてくれる全ての人と分かち合いたい。
誰かの優しさに触れた時、その人もまた優しくなれるのだから。
私は日本中に、そんな優しさの輪を広げていきたい。
だから私は、歌い続ける。
それが今の私に出来る事。
私にしか出来ない事だから。
高校に入学してから今に至るまでの出来事が、私の頭の中を走馬灯の様に駆け巡った。
桜ヶ丘高校の軽音部に入った事が、「平沢唯」の始まりだったと私は思う。
何も出来なかった平沢唯。
他者に頼り続けた平沢唯。
そんなそれまでの平沢唯を音楽が打破し、新しい「平沢唯」に変えたのだ。
だから今、私は触れた音楽達に「ありがとう」と言おう。
そして、私を支え続けてくれた素晴らしき友人達と妹に、私の最高の音楽を捧げよう。
この歌に乗せた想いが、皆の心に届きます様に……。
武道館ライブを無事終えた私達に、ちかちゃんから緊急の電話がきた。
ちか「もしもし、ちかだけど! 澪ちゃんが……早く戻って来て!」
尋常ではないその声の様子から、何か重大な事態が起きた事は明白だった。
楽屋に来た和ちゃん、ムギちゃん、曽我部先輩に事情を説明して、
ライブの打ち上げをキャンセルし、私達は澪ちゃんの元へと急いだ。
澪ちゃんの病室の扉を開けると、アカネちゃん、三花ちゃん、ちかちゃんがベッドを囲んでいる。
私達は息を整え、ゆっくりとベッドに近付いた。
律「澪……」
りっちゃんの目から涙が溢れ出した。
私の目からも涙が流れ出した。
その場にいる全員が涙を流し、泣いていた。
澪「何泣いてるんだよ律……、唯……。それにみんなまで……」
律「お前が寝坊し過ぎるからだよ……馬鹿澪……」
澪「眠っている間、ずっと律の声が聞こえてたよ……。唯の歌も聞こえた……」
唯「私の歌、澪ちゃんにちゃんと届いたんだね……」
澪「唯、暫く見ない間に、凄く綺麗になったな……。
ムギも無事で良かった……本当に良かった……」
澪ちゃんの目からも涙が溢れ、頬を伝い枕に滲み込んだ。
唯「私、澪ちゃんに伝えたい言葉があるんだ……」
完終。
748 : VIPに... - 2011/02/03 02:20:42.43 4GbNjW1z0 549/557以上で、『唯「ゾンビの平沢」』は完結です。
お付き合いありがとうございました。
ホラー、特にゾンビが大好きな>>1でした。
大体ホラーってバッドエンドで終わるけれど、自分はそれが大嫌いなんですよ。
なので、ご都合主義であろうがなんだろうがハッピーエンドを目指しました。
>>639エンドは、自分の許容出来るギリギリラインの「ハッピーエンド」という認識です。
処女厨な>>1は挿入されたら負けかなと思っているので、
肉棒であんあん言わされている唯を妄想しつつも、何とかその処女膜を死守しました……。
太ましいおじ様達に陵辱されるパターンも考えていたんですけどね。
女1は当初瀧エリか曽我部先輩にしようと思っていましたが、
リスペクトする曽我部先輩を悪役にしたくなかったので、名前無きモブキャラとなりました。
好きなキャラは、いちご>純>曽我部先輩です。
純「ベースは一人で十分だよね」ニコ
770 : VIPに... - 2011/02/03 13:48:40.67 qt0eC5GK0 550/557乙、さわちゃん先生と聡どうなったんだろう
772 : VIPに... - 2011/02/03 14:22:59.09 4GbNjW1z0 551/557>>770を見た瞬間、私の脳裏に激しい電流が流れる。
体中から嫌な汗が流れ、心臓の鼓動が早くなる。
私は二人の事を完全に忘れていた。
必死に後から彼女達のその後を考えるも、何も浮かばない。
私にとって、彼女達は本当にどうでもよい存在だったのだ。
そしてあの時の事を思い出す。
>>262 【律『いらねーよあんなの』バッサリ】
このssは3日置き、酷い時には1週間間を空けて書いたりしていた。
記憶の悪い私は、以前に書いた設定など完全に忘れている時が多々あった。
私は主人公達の家族は皆死んでいる(もしくは行方不明)という設定を忘れていたのだ。
もし、聡が生きていてあの様な事を言ったのなら冗談で済まされよう。
しかし、もし彼が既に死んでいる、あるいは行方不明の状態であの様な事を言ったのなら……。
りっちゃんは最低の女だった。
私の瞳から、大粒の涙が滝の様に溢れ出す。
強くて優しいりっちゃんが、何故あの様な事を言う事態になってしまったのか。
もっと上手くすればデコがそうなるのを止められたのではないか。
私の罪、それは自分の作品を通して読み直さなかった罪。
あまりにも量が長く、完成後最初から読み直す事など、私には出来なかったのだ。
ごめんねりっちゃん……。
私は心の中で何度も何度も謝罪した。
780 : VIPに... - 2011/02/03 19:16:40.56 4GbNjW1z0 552/557>>38
【「軽音部」という絆を持たない和ちゃんは、やはり円の外側の人間なのだ。】
長い間軽音部に所属していたワケではないという意味で。
唯、律、澪、紬、梓以外の人間は「軽音部」という絆を持っていない。
★注1
人間やゾンビに付いている「」は、最初はただの強調でした。
後半では、人間→生物としての人間 「人間」→人の優しさを持った人間
みたいになってます。(たぶん)
話の流れで適当に解釈して下さい。
★注2
漢字とかめっちゃ適当です。あまり気にしないで下さい。
その時の感覚で適当に使ってて、漢字だったり平仮名だったり滅茶苦茶です。
間違った漢字を使っている所もあるかもです。
★注3
数字は漢字だったりアラビア数字だったり、これも適当です。
3以上の数字は大体アラビア文字で、1と2に関してはその時の気分でやってました。
スレ読み返して、補足を付け加える作業してます。
全部を読み返す気力があるか分かりませんが……。
細かいミスは許して下さい。
沢山あり過ぎて処理しきれない……orz
782 : VIPに... - 2011/02/03 19:25:27.76 4GbNjW1z0 553/557あと指摘されたのですが、
このssではウイルスのキャリア(保有者)を「保菌者」と呼んでいます。
本来ウイルス感染者の事を「保菌者」と言うのは間違いですが、
その間違った使い方もかなり広まってしまっているので、敢えて使いました。
その理由は「保菌者」と言った方がホラーっぽい「ねっとり感」があると思ったからです。
気になってる人も多いと思いますが、どうぞ見逃してやって下さいorz
790 : VIPに... - 2011/02/04 02:53:50.24 fmTmCfXH0 554/557たまに書き込みの中に『★1』とかあるけれど、あれは元々は何レス目かという事を表していた。
私はメモ帳に書き溜める時に、番号を振って何レス位になるかを確認していたのだ。
それを最初の1レス目の時に、間違って消さずにコピペしてしまった。
流石に1レス目から訂正とか恥ずかし過ぎたので、私は何とかその場を誤魔化す事にした。
しかし、毎回番号を書くのもあれなので、およそ30レス毎に『★番号』を振る事にしたのだ。
何故30レス毎かというと、私はメモ帳に30レス分ずつ書き溜めていたからだ。
1つ目のメモ帳に1-30のレス分、2つ目のメモ帳に31-60のレス分、という感じに。
『★番号』は、そのレスがいくつ目のメモ帳の内容かという事を表していた。
私は当初、2chの1レスが30行という事実を知らなかった。
故に、30行を超えるレスなども多々混じっていたのである。
その事実を知った時、私の額からは脂汗が噴き出した。
私はそれらのレスを何とか二つに分け事無きを得た。
また、途中で補足が必要になり、新たに付け加えたレス分もある。
だから、実際には1つのメモ帳に30以上のレス分が含まれているのだ。
>>582にある『★421』とは、421レス目で在る事を示している。(修正により実際はもっと多い)
つまり、421-450のレス、15個目のメモ帳の内容をコピペしているという意味だったのだ。
ただ純粋にレスの数を表しているのであって、内容の区切りがいいとか、そういう意味は含まれていない。
ぶっちゃけ意味無い。
807 : VIPに... - 2011/02/04 13:46:26.96 fmTmCfXH0 555/557一箇所、入れるかどうか迷って、最終的に蛇足と判断し切ったレスがあります。
別に推理スレではないので、いらないかなと思いまして……。
一応ここに投下しておきます。
>>500の行数が30行を超えていた為、それを分ける時に起きた事態でした。
分けたもう一方のレスの行数が少なくなり過ぎた為、
修正・行数稼ぎの為にその時に即席で作った文章が加えてあります。
500.5
グラスに注いだワインはフェイク。
本当の目的は、ボトルの容積を減らし薬の濃度を高める事。
私の仕掛けた罠、その本命はボトルであり、グラスは保険だったのだ。
今までの私の態度を見ていれば、私が彼に反感を抱いている事を、彼は分かっていた筈。
敵意を持っている相手が、自分のいない間に注いだワインなど、あからさまに怪しいではないか。
そんな物をすんなり飲める程、この男は馬鹿ではない。
私はワザと「不自然な状況」を作る事により、本命の罠から彼の注意を逸らしたのだ。
頭のいい彼は、ボトルに薬が仕込まれている可能性も考えたのだろう。
だからこそ、彼は私のグラスのワインも破棄し、新しいグラスを用意した。
そして、ボトルのワインを私の目の前でグラスに注ぎ、それを私に渡したのだ。
彼は私の出方を注意深く観察していた。
だから私は「失望」を演出した。
彼はその様子を見て慢心した。
さらに私は、彼と一緒にワインを飲む事で、彼に「偽りの安心」を与えた。
私は毒入りのワインを排泄する術を身に付けていた。
そしてそれを、彼が知る筈など無かったのだ。
816 : VIPに... - 2011/02/05 18:39:45.22 f3Y2QwV+0 557/557>>476の辺りは話が原文とかなり変わってて、唯はグラスに薬をどうやって盛るかを考えています。
元々は、「グラスに盛る」じゃなくて、「彼が飲むワインに盛る」と言うニュアンスでした。
偶然ボトルに薬を入れるのか、確信的に入れるのか、その辺りの事で迷走してました。
自分の中でグダグダになり、適当に話を進めてしまう結果になってしまいました。
その所為で、その辺りのレスの整合性が取れていません。
読み直してみると、>>808の内容を>>500の後に入れて、
もっとボトルに薬を入れる伏線を張っておけば良かったorz
>>493
【テーブルの上にも、中身のないグラスが置かれている。
どうやら、新しい物を用意した様だ。】
これは>>808の伏線でしたが、使われない結果となってしまいました。
その事で、「何故唯のグラスのワインも捨てたのか」と言う不自然な状況が出てしまいました。
やっぱり>>808を入れなきゃ駄目だったかもorz