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唯「ゾンビの平沢」【前編】
★7
私は大きな浴場で、一人湯船に浸かりながら考えていた。
あの時和ちゃんが言った言葉を……。
和『私は強くなんかないわ……出来る事をしているだけなの』
人は何故失敗をするのか。
出来ない事をしようとするから失敗する。
以前、和ちゃんはそう言っていた。
今になって分かる。
私はいつも、自分に出来ない事をしようとしていた。
私は皆を守ろうとした。だから皆を失ったのだと。
和ちゃんは、私を守る為なら純ちゃんを殺すと言い切った。
あの時、私は和ちゃんを心の中で非難した。
何故、友人を殺すなどと簡単に言えるのかと。
でも、それは間違いだったのだ。
和ちゃんには覚悟があったのだ。
何があっても私を守るという覚悟が。
私以外の全てを犠牲にしてでも守り抜くという覚悟が。
誰かを守るという事は、つまりそういう事なのだ。
それ位の覚悟が無ければ、一人の人間を守る事など出来はしないのだ。
私が今生きているのは、皆がその命を賭して私を守ってくれたからだ。
私にも、皆の為に命を張る覚悟があった。
この身を犠牲にしてでも守りたいと思っていた。
しかし、大切な誰かを守る為に、仲間の命すら奪うという覚悟は私に無かった。
私にとって、一番大切な人は憂だった。
でも、憂とあずにゃんのどちらかしか助けられない状況になったら……。
咄嗟の判断であれば、私は反射的に憂に救いの手を差し伸べてしまうだろう。
でも、そこにもし考える時間があったとしたら……。
私にはあずにゃんを見殺しにする事が出来ないだろう。
誰か一人を絶対に守り抜くという「覚悟」が私には足りないからだ。
結果、どちらも助ける事が出来ず、二人を失うのだ。
優柔不断、中途半端……。
だから肝心な選択肢を見誤る。
でも、私はもう迷いはしない。
今、私は「覚悟」を決めた。
『私はムギちゃんを守る』
私はムギちゃんを守る為なら、他のあらゆるモノの犠牲を厭わない。
何を犠牲にしてでも、ムギちゃんを守り抜く。
私のみんなに対する贖罪は、今ここで終わりを告げた。
ごめんねみんな。みんなの事を考えていると、ムギちゃんを守れないんだ。
和ちゃん、色々大切な事を教えてくれてありがとう。
りっちゃん、いつも私に元気を分けてくれたね。
澪ちゃん、貴女のお陰で私は強くなれたんだよ。
あずにゃん、初めての私の後輩が貴女で良かった。
純ちゃん、陰でいつも皆に気を遣ってた事、私は知ってるよ。
いちごちゃん、しずかちゃん、短い間だったけど二人と仲良くなれて良かったよ。
そして憂、何もしてあげられなくてごめんね。今までありがとう。
浴場から出て脱衣所に行くと、私の為の服が用意されていた。
汚れた方の服は斉藤さんが持っていった様だ。
私は用意された服を来て、ムギちゃんのいる医務室へと急いだ。
医務室に行くと、斉藤さんと見た事の無い男性がいた。
この人がムギちゃんのお父さんの様だ。
医師「あ、平沢さん……」
唯「ムギちゃんの具合はどうですか?」
医師「大丈夫、眠っているだけだよ。
怪我よりも疲労の方が心配だね。
だけど、点滴も打ってるし、明日には元気になるよ。
だから、今日は静かにゆっくりと眠らせてあげてね」
私達は医務室を後にした。
斉藤「平沢様、少しお時間を頂いて宜しいでしょうか?」
私に対する口調が敬語になっていた。
私は二人の後を付いていった。
そこは特権階級の居住区、初めて来る場所だ。
私達の居住区とは全く異なり、照明も扉も全てが艶やかだった。
私はその一室に招かれた。
部屋は広く豪勢な家具で飾られ、大きなガラス戸から外を眺める事も出来た。
私は久しぶりに空を見た。
東京で見る空とは違い、星がとても綺麗に輝いていた。
私が用意された椅子に座ると、斉藤さんはお茶の準備を始めた。
私達に紅茶を差し出すと、自らも席に着いた。
暫く沈黙が続いたが、紬父が話を切り出した。
紬父「君にはこちらの居住区に住んで貰いたい」
紬父「紬があそこに居るのは、君と一緒に居たいからなのだろう?
君がここに来れば、あの子もこっちに戻ってくる。
あそこは汚いし危険だ。碌でもない人間も多い。
君もあんな所より、こちらの方がいいだろう?」
唯「……」
紬父「もう働く必要は無いし、君にも優雅な生活を約束しよう。
君は紬と仲良くしてくれれば、それで良い。
君の欲しいものは全てこちらで用意しよう」
唯「……」
紬父「君が喧嘩した相手、彼等は他にも色々トラブルを起こしてるみたいでね、
ここから出て行ってもらう事にしたよ。紬もこれで安心するだろう。
私の娘を脅すとは、本当に愚かな連中だ」
唯「……やっぱり」
紬父「ん?」
唯「貴方は自分の娘の事が全く分かっていないんですね」
紬父「……それはどういう意味だね?」
唯「……言葉通りの意味です。
お願いですから、これ以上紬さんを傷付けないで下さい」
紬父は不快感を顕にした。
紬父「君の言っている事がよく理解できないのだが……。
詳しく説明して貰えるかね?」
唯「……紬さんがどの様に脅されていたか知っていますか?」
紬父「いや、詳しくは聞いていない」
唯「誰かに言ったら、私に危害を加えると脅したんです」
紬父「ほう、それで?」
唯「何故その事を貴方や斉藤さんに言わなかったか分かりますか?」
紬父「それは君に危害が加えられる事を恐れたからだろう?」
唯「……。そんなワケないでしょ……」
紬父「……?」
唯「貴方や斉藤さんなら、私一人を守る事なんて簡単に出来た。
例えば、私をこちらの居住区に匿えば、彼女達は手を出せませんよね?」
紬父「確かに、一般人は許可なくこちらの居住区には入って来れないからな。
では、何故、紬は私達に何も言わなかったと?」
唯「私はその時、こちらの居住区に来れない理由があったんです」
紬父「その理由も気になる所だが……。
しかし、君がこちらの居住区に来れないとしても、
君を守る方法などいくらでもある。
そもそも、私の娘を脅した連中など、即外に放り出してやる。
この施設から追い出せば、君にも紬にも手は出せまい」
唯「……だから言わなかったんですよ」
紬父「? ……どういう事だ……?」
唯「……まだ分かりませんか?
紬さんは彼女達を施設の外に出したくなかったんです」
紬父「言っている意味が分からん。何故だ?
紬は何故あいつらを施設の外に出したくないのだ?」
唯「施設の外は危険だからです」
紬父「外が危険だから……?」
唯「紬さんはとても優しいんです。
例えどんなに傷付いても、どんなに傷付けられても……、
誰かを傷付ける事なんてしたくないんです。
貴方や斉藤さんに彼女達の事を言えば、
貴方達は彼女達を傷付けるでしょう?
さっき貴方が言った様に、あの地獄へ彼女達を放り出すと……。
だから彼女は誰にもこの事を言わなかった。
彼女達を守る為に。
紬さんは、自らを傷付けた相手を、必死に守っていたんです」
紬父「そ、そんな……馬鹿な……」
唯「でも、私は彼女の様に優しくはなれなかった。
私は怒りに身を任せ、彼女達を傷つけました。
彼女達が私をこれ以上苦しめないように。
私は自分が傷付きたくないから、彼女達を傷付けたんです」
唯「私は紬さんの思いを裏切りました。
でも、後悔なんてしてません。
私はもう決めたんです。
何があっても彼女を守るって。
だから、貴方もこれ以上彼女を傷付けないで下さい」
紬父「……」
唯「貴方はさっき、私がここに来れない理由が気になると言いましたよね。
その理由は、紬さんが私と一緒にいる理由と同じなんです」
紬父「……」
唯「……贖罪。」
紬父「……贖罪?」
唯「私達が、紬さんの姿をあんな風にしてしまった原因なんです」
紬父「……君は……軽音部の部員なんだね……」
唯「……私が軽音部で生き残った最後の一人です」
そうか、と小さく呟き、紬父は天井を見詰めた。
紬父「私は、紬が軽音部の仲間達をあんなに愛しているとは思わなかった……。
高校を卒業した後はドイツに留学する事になっていたし、
軽音部など、ただの暇潰しに過ぎないものだと思っていたのだ。
友人などまた新しく作ればいい、
暫くすれば、紬も高校の友人の事など忘れてしまうだろうと思っていた……。
だから私は、少しでも早く忘れられるよう友人と連絡を取る事さえ禁止した」
紬父「だが、私の考えは間違っていた。
いつまで経っても紬は君達の事を忘れられず、
拒食症を患い、今の様な姿になってしまったのだ。
紬をあんな姿にしてしまったのは私だ。
そして君達にも謝らなければ……すまなかった」
唯「私達は貴方を恨んだりしていません。
親友である彼女が安全な所にいられればそれで良かったんです」
紬父の目からは涙が流れていた。
唯「私はここで紬さんに会って、無事を確認出来て嬉しかった……。
でも、紬さんの今の姿を見て悲しかった……。
だから、これからは紬さんの傍にいてあげたい……。
悲しみも苦しみも、もう一人で背負って欲しくないんです。
私の事を命懸けで守ってくれた妹や友人達の様に、
今度は私が紬さんを守ってあげたいんです……」
紬父と斉藤さんは、私に全面的に協力してくれると言った。
私は部屋を後にし、再び医務室に戻った。
そこにはもうムギちゃんの姿は無かった。
彼女は特権階級の人達が利用する医療施設に移動させられていた。
そこは私がいた医務室とは全く様子が違っていた。
広く綺麗で、何やら凄そうな医療機器まで配備されていた。
そこの医師にお願いし、特別にムギちゃんの傍に居させて貰える事になった。
ムギちゃんは広くて綺麗な個室のベッドの上に横になっていた。
私は部屋にあった椅子をベッドの横に移動させそこに座った。
ムギちゃんは天使の様に優しい寝顔をしていた。
私はムギちゃんの髪を優しく撫でた。
唯(何があっても絶対にムギちゃんを守るからね……)
私はムギちゃんの手を握り締めた。
細く硬くなってしまった彼女の手……。
でも、とても暖かかった。
彼女の手を握ったまま、私は眠りに落ちていた。
翌日、私の方が先に目を覚ました。
小さな寝息が聞こえる。ムギちゃんはまだ寝ていた。
私達の手はまだしっかりと握り合っていた。
私が立ち上がろうとしたその時、ムギちゃんは目を覚ました。
紬「……唯……ちゃん……」
唯「私はここにいるよ、ムギちゃん」
紬「私……まだ生きているのね……」
唯「そうだよ。私達は生きているんだよ……」
ムギちゃんの目からは涙が溢れていた。
紬「どうして……私はまだ生きてるの……?
唯ちゃん……私はもう生きるのが辛いの……。
私も……早くみんなの所に……逝きたいわ……」
唯「ムギちゃん……?」
紬「もうみんな死んでしまったのでしょう……?」
唯「……いつから気付いてたの?」
紬「最初に唯ちゃんの姿を見た時から分かってたの……」
やっぱりムギちゃんを騙す事なんて出来なかったんだ。
ムギちゃんは私が気を遣って嘘を付いている事を見抜いてた。
私の為に、ムギちゃんは騙された振りをしていたんだね……。
唯「ごめんねムギちゃん……。私、嘘を付いてたの……」
紬「ううん、いいの唯ちゃん……。
私も唯ちゃんに嘘を付いてたの……。
唯ちゃんに謝らなくちゃいけないの……」
唯「もういいんだよ、全部終わったから……」
紬「あの人達は大丈夫かな……?」
ムギちゃんは自分を傷付けた人間達の心配をしていた。
どうして彼女はこんなにも優しくいられるのだろう。
私とムギちゃんは一体何が違うのだろう。
私は彼女に、全てを伝えた。
私があの女達を傷付けた事、紬父と話した事、
そして、ムギちゃんが桜ヶ丘高校からいなくなった後の事を。
紬「そんなに辛い事があったのね……」
唯「私はムギちゃんの姿を見て、どうしても本当の事が言えなかったの……。
これ以上ムギちゃんを傷付けたくなかったから……。
でも、私はもうムギちゃんに嘘や隠し事をしたくないの。
だから、ムギちゃんも私にそういう事はもうしないで。
私達は一人じゃない、二人なんだよ。
悲しい事も辛い事も、楽しい事も嬉しい事も、全部二人で分かち合いたいの」
紬「うん……。もう唯ちゃんに嘘も隠し事もしないと誓うわ」
唯「私は今まで過去ばかり見てたの……。
命懸けで守ってくれたみんなに、ずっと申し訳ないと思っていたの……。
でも、私はもう過去に縛られない。
それは過去を、みんなを忘れるって事じゃない。
過去と向き合って、未来の為に生きるの」
紬「唯ちゃんは強いのね……」
唯「私は全然強くなんか無いの……。
私は、今、私に出来る事をしているだけなんだよ、ムギちゃん……」
紬「私は……私には無理だわ……。私は唯ちゃんみたいに出来ない……」
唯「それでいいんだよ、ムギちゃん。
私とムギちゃんは違う人間なんだもの。
無理に同じ事をしようとする必要は全然無いんだよ。
ムギちゃんに出来て、私に出来ない事もいっぱいあるの。
ムギちゃんは、ムギちゃんに出来る事を精一杯すればいいんだよ。
足りない部分は二人で補えばいいんだよ」
唯「ムギちゃんには過去を割り切る事が難しいかもしれない。
それはムギちゃんが優しいからなんだよ。
だから、無理に変えようとする必要なんて無い。
少しずつでもいい。たまには立ち止まったっていい。
それでも私は、必ずムギちゃんの隣にいるから。絶対にいるから。
私と一緒に未来へ行こう、ムギちゃん」
紬「唯ちゃん……」
唯「まずはここでゆっくり休んで、元気になろう?
それが今、ムギちゃんに出来る事だよ……」
紬「分かったわ、唯ちゃん……」
唯「ムギちゃんが退院するまで、この部屋で一緒に寝ていいかな?」
紬「もちろん、是非そうして欲しいわ」
その時ドアが開き、紬父と斉藤さんが部屋に入って来た。
唯「あ、あとムギちゃんに見せたい物があるの。
それと、部屋も引っ越す事になったから、私ちょっと行って来るね」
紬「分かったわ」
私は二人に頭を下げ、部屋を出た。
私が彼女に見せたい物……。
それは、放課後ティータイムの演奏DVD。
これを見たら、彼女は懐かしさと共に苦しみをも得るかもしれない。
それは私も同じだ。
でも、私達は今、このDVDを見なければならないと思った
過去が消える事は無い。
楽しかった事、嬉しかった事、苦しかった事、悲しかった事……。
その全てが、今の自分を構成している要素なのだ。
だから目を背けてはならない。
私はもう目を背けない。
全てを受け入れ、私は前に進むんだ。
大好きなムギちゃんと一緒に。
部屋の前に着くと、数人の男達が部屋の家具を運び出していた。
ムギちゃんが来た時に持ち込まれた物達だ。
私は男達に軽く頭を下げ、部屋の中に入った。
私の私有物は、まだ部屋に置かれたままになっていた。
制服、ギター、ポーチ。私の全財産。
私はポーチの中を確認した。
そこには、スタンガンが2つと小さなナイフが1つ、
皆と一緒に写っている沢山の写真達、そして5枚のDVDが入っていた
私はそれらを持ってムギちゃんの待つ病室に向かった。
ムギちゃんの個室のドアを開けると、芳ばしい香りが漂ってきた。
部屋に置いてある台の上には、豪勢な食事が一人分だけ用意されていた。
紬「まだ食事を取ってないでしょう?
斉藤が唯ちゃんの朝食を用意してくれたの。
遠慮しないでいっぱい食べてね。
食後のデザートも用意してあるのよ」
笑顔でそういうと、ベッドの横に置いてあるバスケットを指差した。
唯「……ありがとうムギちゃん。
ムギちゃんは……食べないの?」
紬「私は食欲が無いから……。
でも大丈夫よ。サプリメントを飲んでるし、点滴もしているから」
やっぱり、ムギちゃんはまだ食べられないんだ……。
私は席に着き、用意された食事を食べ始めた。
あれだけ良い香りがしていたのに、口に入るとそれはまるで無機物の様だった。
美しい料理達も、今の私にとっては何の魅力も価値も無かった。
しかし、私はそれらを全て胃に収めた。
何度も逆流しそうになる無機物を、私は強引に押し戻した。
ムギちゃんを守る為に、私は身も心も強くならなければならない。
食事は私の肉体を強化する儀式なのだ。
砂であろうが泥水であろうが、必要であるならば全て飲み込んでやる。
台に置かれた料理達は、跡形も無くその姿を消した。
唯「ごちそうさまでした、もう食べられないよ~」
紬「あ、唯ちゃん、アイスもあるのよ?」
ムギちゃんは冷蔵庫を指差して言った。
唯「流石に今は無理だよ~。後で一緒に食べようよ」
紬「……そうね、そうしましょう」
唯「お腹一杯になったら、なんだか眠くなっちゃったよ……」
紬「唯ちゃん、こっちに来て」
そう言って、ムギちゃんは私に手招きをした。
私はその言葉の意味を理解し、ムギちゃんのベッドに潜り込んだ。
セミダブルサイズのベッドだけれど、二人でも全然窮屈ではなかった。
紬「おやすみ、唯ちゃん」
ムギちゃんは優しく私の頭を撫でてくれた。
それはとても心地よく、私の眠気は一気に増した。
少しだけでいいから、今は私を眠らせて……。
私はムギちゃんの細い体に寄り添い、目を閉じた。
ムギちゃんの優しい匂いに包まれ、私は眠りに就いた。
1時間程寝ていたらしい。
目を覚まし隣を見ると、ムギちゃんは布団から上半身を出し、
背もたれに寄り掛かり、静かに本を読んでいた。
部屋を見渡すと、台の上の食器は全て綺麗に片付けられていた。
その代わりに、色鮮やかな果物とお菓子が用意されている。
ムギちゃんは私が目覚めた事に気付くと、本を閉じてそれを脇に置いた。
紬「おはよう、唯ちゃん」
唯「寝ちゃってごめんね、ムギちゃん」
紬「ううん、全然構わないわ。唯ちゃんの可愛い寝顔も見れたもの」
そう言って、私に明るい笑顔を見せてくれた。
唯「そうだ、私、ムギちゃんに見せたい物があったんだ」
私はベッドから出て、ポーチからDVDを取り出し、ムギちゃんに見せた。
紬「それは何?」
唯「放課後ティータイムの演奏DVDだよ」
唯「ホントはね、すぐにでもムギちゃんにこれを見せてあげたかったの。
でもね、私はみんなの事を思い出すと悲しくて、辛くて、苦しくて……。
どうしてもこれを見る事が出来なかった……。
だから、このDVDの事をムギちゃんに言えなかったの……。
ごめんね、ムギちゃん……」
ムギちゃんは、優しい顔でゆっくり首を横に振った。
唯「でもね、今ならこのDVDを見れると思う。
ううん、観なきゃいけないと思うの。
そうしないと、私は前に進めない気がするから……。
だから、ムギちゃんと一緒にこのDVDを見たいの」
ムギちゃんは首を縦に振った。
紬「一緒に観ましょう、唯ちゃん」
唯「ありがとう、ムギちゃん」
部屋の隅には大きな薄型テレビが置かれ、DVDプレイヤーも備えてあった。
しかし、ベッドから観るには少し距離が離れている為、
私はテレビの横にあったノートパソコンで観る事にした。
ベッド用の食事台を設置し、その上にパソコンを置いた。
画面が見やすくなるように、ベッドの角度も調整した。
私はムギちゃんの隣に座り、パソコンの電源を入れた。
唯「これは1年の学際ライブ、これは2年の新歓ライブ、こっちが2年の学際ライブ、
これが3年の新歓迎ライブで、これが……あれ? これは何だろう……?」
一枚、表面に何も書かれていない、私の知らないDVDが入っていた。
とりあえず、私は3年の新歓ライブのDVDをパソコンにセットした。
唯「これは3年になった私達の、新歓ライブの映像だよ」
和『次は、軽音楽部の演奏です』
唯『皆さん、入学おめでとうございます。
私達軽音楽部は、5人と部としては少ない人数ですが、
お茶したり、お喋りしたり、毎日楽しく過ごしています。
あ、練習もたまにします!』
律『たまにかよっ!』
新入生『あははははっ!』
唯『私が軽音部に入った当時は、何の楽器も出来ませんでした。
そんな私でも、優しい仲間達のお陰で、今ではギターが弾けるようになりました。
ですから、初心者でも音楽を楽しみたいという方は、是非来てください。
勿論、経験者でも大歓迎です! 誰でも大歓迎します!』
唯『続いて、メンバー紹介!
私はギター&ボーカルの平沢唯です!』チャラリーラリチャラリラリラー
澪『何でチャルメラ!』
新入生『あははははっ!』
唯『ツッコミ担当ベースの澪ちゃん!』
澪『何だその紹介はっ!』ベベンベンベンベーン
唯『我等が部長、ドラムのりっちゃん!』
律『いえーい!』ドゴドゴドゴドゴジャーン
唯『愛しの後輩、可愛いあずにゃん!』
梓『唯先輩、恥ずかしいです!』ジャンジャンジャンジャラーン
唯『そして、皆を陰から支えてくれた、キーボードのムギちゃん!
家の都合で転校してしまいましたが、
ムギちゃんはいつまでも私達の大切なメンバーです。
今日は新入生の皆さんと、ムギちゃんの為に演奏したいと思います』
唯『それでは、聴いて下さい! ふわふわ時間!』
律『ワン、ツー!』カチカチ
ムギちゃんは食い入るように画面をじっと見詰めていた。
その目からは涙が零れ落ちていた。
ムギちゃんは手で涙を拭う事をしなかった。
真っ直ぐに画面を見詰め、一瞬でも視線を逸らす事は無かった。
映像が終わると、ムギちゃんは小さな声で呟いた。
紬「どうして……私はみんなを裏切ったのに……一人で逃げたのに……」
唯「私達は、本当にムギちゃんの事をそんな風に思ってないんだよ……。
みんなムギちゃんの事が大好きなんだよ。
その気持ちは絶対に本当だから。
ステージの上のキーボードがその証拠だよ。
ムギちゃんは、永遠に放課後ティータイムの仲間だから……」
紬「唯ちゃん……」
私はムギちゃんを抱き寄せ、頭を優しく撫でた。
ムギちゃんは大声で泣いた。
私は、ムギちゃんが泣き止むまで頭を撫で続けた。
思いっ切り泣いて、全てを吐き出して。
悲しみも苦しみも、一人で抱え込まないで。
ムギちゃんはもう一人じゃないのだから。
今までムギちゃんが皆を支えていたように、
今度は私がムギちゃんを支えるから。
その為に私はここにいるのだから。
紬「ごめんね、唯ちゃん。取り乱しちゃって……」
唯「いいんだよ、ムギちゃん。もう、泣きたい時には我慢しないでいいの。
好きなだけ泣いて。私がムギちゃんの涙を全部受け止めるから」
紬「ありがとう、唯ちゃん……」
唯「次はこのDVD……タイトルも書いてなくて、何だか分からないけど……」
私はDVDを入れ替えた。
この中には何が入っているのだろう?
もしかしたら、何も入っていないかもしれない。
だが、それもすぐに分かる事だ。
映像が流れ始めた。
映し出されたのは誰もいない部室。
いや、カメラに人が写っていないだけだ。
何を話しているかは聞き取れないけれど、微かに話し声がする。
2人?3人?いや、もっといる。
皆聞き覚えのある声だ。
一体これは何だ……。
日付は……2010年……今年の7月3日?
澪『それじゃあ、準備はいいか?』
純『バッチシです、澪先輩』
いちご『……問題ない。』
律『んじゃ、行くぞ!』
律澪梓和純いちごしずか『いえ~い!』
律澪和『唯、ムギ、見てるか~?』
梓純『唯先輩、ムギ先輩、ゾンビのアズジュンでーす!』
梓『って、何これ~! やっぱりもっと普通に行こうよ!』
純『いいじゃん、梓~。こっちの方が絶対面白いってば!』
しずか『ムギちゃん、私達、軽音部の新メンバーです』
いちご『ムギ、元気にしてる? あと唯も。』
律『いちごとしずかもムギと仲良かったのか? 渾名で呼んでるし』
しずか『私は一年生の時に同じクラスで、少し話した事があったから』
いちご『私は話した事が無いけれど、みんながそう呼んでたから。』
律『話した事も無いのに渾名で呼んだのかいっ!』
いちご『別にいいでしょ。軽音部のメンバーだし。』
律『だったら私の事をりっちゃんって呼んでみて!』
いちご『やだ。』
梓『もう、いい加減にして下さいよ、律先輩!』
澪『……』ゴツン
律『ってぇ……。なんであたしだけ……』
いちご『自業自得。』
和『とりあえず、話進めるわよ』
純『ですね』
しずか『これを企画したのはりっちゃんなの』
澪『新生放課後ティータイムを映像で残して置きたいっていうのと、
もしかしたら、今後唯がムギと会うかもしれないし、
そしたらムギに私達の事を見て欲しかったんだ』
梓『ムギ先輩に言いたい事もありますしね』
律『まぁ、唯がムギと会えたらの話なんだけどな』
梓『絶対会えます!』
和『まぁ、唯って物凄く運が良い子だからね』
律『確かに、憂ちゃんの姉って時点でかなりの強運の持ち主だよな』
純『あ、それ分かります』
しずか『憂ちゃんって、すっごくいい子だもんね』
律『あたしも憂ちゃんみたいな妹欲しかったな~』
澪『お前には聡がいるだろ』
律『いらねーよあんなの』バッサリ
いちご『ちなみに、唯は憂と一緒に帰宅。』
律『唯がいたら、サプライズ映像じゃなくなっちまうからな』
純『それは私のアイデアです』フンス
律『そうそう、鈴木さんのアイデアだぞ』
純『鈴木さんじゃありませんっ! ってアレ?』
律『ん?』
純『やっと覚えてくれたんですね、律先輩!』
律『そりゃあ同じ軽音部のメンバーだからな、佐藤さん!』
純『って、間違ってるし! てか、ずっとワザと間違えてましたよねっ!』
律『てへっ、バレちゃった?』
澪『……』ゴツン
律『だから何であたしだけ……』
和『それより律、澪、梓、あんた達はムギに言いたい事があるんでしょう?』
律『あ、そうだった。え~おほん! あー、ムギさん? えーっとですね……』
いちご『……。』ゴツン
律『いってぇーな澪! ……って思ったらいちごかよ!』
いちご『……一度殴ってみたかった。』
律『っておい! なんだそりゃ! 理不尽だ! なんて可哀相なりっちゃん!』
澪『……』ゴツン
律『……本当に理不尽だ。ぅぅ……』
純『本当に話進みませんねこれ……』
しずか『あ、あはっ……あはは……』
律『まぁ、こんな感じなんだよ、ムギ』
梓『私達はムギ先輩の事、怒ったりしてませんからね』
澪『ムギは優しいから、私達の事を気にしてるんじゃないかなって思ったんだ。
一人だけ遠くに行ってしまった事に、負い目を感じてるんじゃないかって……。
でも、そんな事気にする必要は全くないぞ?
何があっても、例えどんなに離れてても、私達は仲間だ。
ムギは永遠に放課後ティータイムのキーボードだからな』
★8
梓『私、ムギ先輩とは二人だけで話す機会が余り無くて……。
でも、ムギ先輩はいつも笑顔で優しくて、私はそんなムギ先輩の事が大好きです!』
律『ムギが軽音部に入ってくれなかったら、唯も軽音部に入らなかったかもしれない。
私達は本当にムギには感謝してるんだ。ありがとう、ムギ』
純『私もムギ先輩のお菓子食べたかったです!』
和『ちょっと純……いい話が台無しよ……』
梓『……』ゴツン
純『いったぁ~……』
いちご『……。』クスッ
純『あ、いちご先輩が笑った!』
澪『えっ、ウソ!?』
和『そう言えば、いちごの笑った所って見た事ないわね』
しずか『私も殆んど見た事ないかも……』
いちご『……笑ってない。』
純『え~、絶対笑ってましたっ!』
いちご『笑ってない。』
律『まぁ、全部録画してあるからな。後で確認しようぜ! ニシシ』
いちご『……律うざい。』
澪『それと、唯とムギに聴いて欲しい歌があるんだ。
私が来年の卒業の時の為に作っていた歌詞があって……。
時期的に早過ぎるんだけどさ、これにみんなで曲を付けたんだ。
本当は梓に捧げる予定の歌で、テーマは卒業だったんだけど、
【卒業】の部分を【さよなら】に変えて二人に送りたいと思う』
梓『さよならって言っても、別れるって意味のさよならじゃありません。
それはこの歌を聴いてくれれば分かると思います!』
和『私も、この歌はとても良いと思ったわ』
しずか『素敵な歌だと思います』
純『私も作曲に参加しましたっ!』
いちご『……嫌いじゃない。』
律『それじゃあ聴いて貰おうかな。
あ、そうだ、ムギは知らないと思うから言っとくと、
あたし達色々あって、演奏する楽器が変わってるんだ。
しかも、みんなで合わせたのが今日初めてだから、あまり期待するなよ?』
純『みんなで練習したら唯先輩にバレちゃいますからね』
律『あたしはベース。ドラムは和。澪はボーカル。
梓と純ちゃんはギター。純ちゃんのギターは、準備室漁ってたら出てきた奴。
いちごがリコーダーでしずかはピアニカだ。
新規メンバーの腕前を、篤とご覧あれ!』
しずか『りっちゃん、ハードル上げないでよ~』
いちご『律、うるさい。』
澪『本当は憂ちゃんのキーボードを入れたかったんだけど、
唯を一人にする訳にはいかないからな』
梓『唯先輩と憂も入れて演奏する案もあったのですが……』
和『律と純が、内緒の方が面白いって言い張ってね……』
律『細かい事はいいんだよっ!』
純『そうですよっ! とにかく、演奏しましょ!』
澪『唯、ムギ、聴いてくれ』
律『いっせーのっ!』
律澪梓和純いちごしずか『天使にふれたよ!』
卒業を意識したというお別れの歌詞。
本来ならば、これはあずにゃんに送られる筈の物。
その中には、澪ちゃんの優しさと、軽音部への想いが溢れていた。
皆、それぞれ大切な想いを込めて演奏しているのだろう。
それらの音は、乗算の様に互いの旋律を高め合う。
みんなの調べが一つになった時が、私達の本当の音楽になる。
それこそが、「放課後ティータイム」なのだ。
彼女達の演奏は、私とムギちゃんの心を震わせた。
律『ふぅ~』
しずか『どうだったかな……』
梓『良かったと思いますっ!』
和『こんなもんかしら?』
澪『そうだな』
純『私のギターは梓より上手かったね』
いちご『純、調子に乗り過ぎ。』
純『え~、酷いですよ、いちご先ぱ~い』
律『というワケで、そろそろお開きっ!』
律『唯、あんまりムギに迷惑かけるなよっ!』
澪『唯、ムギ、元気でな』
和『ムギ、大変だと思うけど、唯をよろしくね』
梓『唯先輩、ムギ先輩、私は二人に会えてとても良かったです』
純『梓と憂の面倒は私がちゃんと見ますから安心して下さい!』
梓『何よそれ! 逆でしょ! 逆!』
いちご『短い間だけど、軽音部は楽しかった……と思う。』
しずか『私も、軽音部に入って凄く楽しかったよ』
私もムギちゃんも涙が止まらなかった。
こうしてムギちゃんと再会する事も、ムギちゃんの気持ちも、
私達の事は全部お見通しだったんだね……。
やっぱり、みんな凄いよ……。
和ちゃん、最後はやっぱり私とお別れするつもりだったんだね。
自分がゾンビだから……私を傷付けない為に……。
映像が少し途切れたが、すぐにまた始まった。
場所は部室ではない。でも、私はここに見覚えがある。
そう、ここは生徒会室だ。
梓『準備はいい、純?』
純『オッケーオッケー!』
梓『じゃあ、始めるよ』
次の瞬間、私は心臓を押し潰される様な衝撃を受けた。
画面に現れた人物……。
「憂」
憂『何を言おうか考えてきたのに……分からなくなっちゃった……。
お姉ちゃんに言いたい事は山程あるのに、上手く言葉が出て来ないや。
……ごめん、梓ちゃん、純ちゃん、ちょっと待って。
考えが全然纏まらないの……どうしよう……』
純『憂、頑張って!』
梓『何でもいいから、今の自分の気持ちを全部出しちゃえばいいんだよ!』
憂『ありがとう、梓ちゃん、純ちゃん……』
純『時間はたっぷりあるからね。リラックス、リラックス!』
憂『お姉ちゃん、これを見ている時、私はもう近くにはいないと思う。
私はゾンビでお姉ちゃんは人間……。
だから、いつかはお別れをする時が絶対に来ると思うの。
でも、私はお姉ちゃんにずっと人間のままでいて欲しい』
憂『お姉ちゃんは、自分もゾンビだったらいいのに、なんて考えちゃってるよね。
自分一人だけが人間のままである事に罪悪感を感じて……。
でもね、それは間違っていると思う。
お姉ちゃんが人間だから救われている人だっているんだよ?
お姉ちゃんが人間だから、私は人間でいられるの』
憂『お姉ちゃんは私の、私達の希望なの。
私達が諦めないで頑張れるのは、お姉ちゃんのお陰なんだよ。
さわ子先生も言ってたよ。
唯ちゃんが人間だから、私も頑張らなきゃって。
教師である私が唯ちゃんを守らなきゃって』
憂『本当はね、私達も怖かった。凄く怖かったんだよ。
いつかあの人達みたいに、自分を失って人を傷付けるんじゃないかって。
でも、絶望しなかったのは、お姉ちゃんがいたからなの。
私達が自暴自棄になったら、お姉ちゃんが一人になっちゃうから。
私達自身が、お姉ちゃんを傷付ける事になっちゃうかもしれないから。
友達として、後輩として、家族として、私達はお姉ちゃんを守りたかったの。
みんなお姉ちゃんの事が好きだったから、守りたかったんだよ』
憂『私達は、そう思える自分達の事を誇りに思っているの。
大切な人を想う心、それを持つ人こそが『人間』なんだって。
だから、みんなでお姉ちゃんを守ろうって誓ったの。
私達が最後の最後まで『人間』で在り続ける為に』
憂『私はお姉ちゃんが好き。大好き。
ご飯を食べてるお姉ちゃんが好き。
アイスをねだるお姉ちゃんが好き。
ごろごろ寝転がってるお姉ちゃんが好き。
ギターの練習をしているお姉ちゃんが好き。
一緒に寝てくれるお姉ちゃんが好き。
どんな仕草でも、お姉ちゃんの全てが大好き』
憂『でも、一番好きなのは明るくて優しい笑顔のお姉ちゃん。
お姉ちゃんの笑顔が何よりも一番大好き。
でも、最近のお姉ちゃんの笑顔は全部嘘。
泣いているのに顔だけ笑って見せて……。
そんなお姉ちゃんは嫌い、大っ嫌いなの』
憂『泣きたい時には泣いていいんだよ。
それを無理して我慢して、偽りの笑顔なんて作らないで。
そんなの……お姉ちゃんらしくないよ。
そんなの、私の大好きなお姉ちゃんじゃない!』
憂は泣いていた。
憂の他にも鼻を啜る音が聞こえた。
私が憂の偽の笑顔に気付いていた様に、憂もまた私のそれに気付いていた。
結局また、私が一人で人を騙せている気になっていただけだったのだ。
憂『ごめんなさい……私……こんな事を言いたかったんじゃないのに……。
何で私、こんな嫌な事ばかり言っているんだろう……。
ごめんなさい、お姉ちゃん……私……私……』
あずにゃんが横から現れ、憂を抱き締めた。
二人は暫く抱き合っていた。
その間も、録画は続いていた。
画面から啜り泣く声だけが延々と流れてきた。
憂がこんな風に泣くのを、私は生まれて初めて見た。
私の胸は締め付けられ、呼吸すら困難な状態だった。
でも、私は目を離さない。
最後まで見続ける。絶対に。
憂『ごめんね、お姉ちゃん、私は駄目な妹だね……。
でも、私はお姉ちゃんに心から笑って欲しいの。
お姉ちゃんの本当の笑顔が私は大好きだから……。
ううん、私だけじゃない、みんなお姉ちゃんの笑顔が大好きなの』
憂『律さんが言ってた、お姉ちゃんの笑顔は天使みたいだって。
澪さんは、お姉ちゃんの笑顔を見ると歌詞が浮かんでくるって。
和ちゃんも、お姉ちゃんの笑顔は反則なくらい素敵だって』
憂『だからお願い、本当な笑顔のお姉ちゃんでいて。
そうすれば、世界の誰もがお姉ちゃんの味方になるから。
必ずお姉ちゃんを守ってくれるから。
それが私からの、お姉ちゃんにする最後のお願いだよ』
ごめんね、憂。それは無理だよ。そのお願いだけは聞けないよ。
だって、私の隣に憂がいないんだもん。
憂がいないと、心から笑う事なんて出来ないんだよ。
そうだ、憂が悪いんだ。
憂が私の傍にいないから悪いんだ。
私は絶対に本当の笑顔なんて見せない。
憂のお願いなんて聞いてやるものか。
それが嫌なら今すぐ私の前に来てよ、憂。
憂『そして、もし、これを紬さんが見ていたら、お願いがあります』
憂『紬さん、私は貴女の優しさをよく知っています。
紬さんの優しさは、お姉ちゃんの優しさと凄く似ているから……。
だから、貴女はお姉ちゃんと同じ苦しみを感じていると思います』
憂『だからお願いです、苦しみを一人で抱え込まないで下さい。
困った事や辛い事があったら、お姉ちゃんに相談して下さい。
お姉ちゃんは絶対に紬さんの力になってくれる筈です。
それが私のお姉ちゃん、平沢唯です』
憂『私は毎日家事をして、お姉ちゃんのお世話をしてると思われています。
私がいないと、お姉ちゃんは一人では何も出来ない、
なんて知り合いから言われる事もありました」
憂『でも、それは違います』
憂『本当に困った時、辛い時、私はいつもお姉ちゃんに助けられてきました。
いつもダラダラしていて、怠け者の様に思われる事もあるお姉ちゃんですが、
いざという時には物凄い力を発揮するんです。
お姉ちゃんを、平沢唯を信じて頼って下さい。私が保証します』
憂『お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事なら何でも分かるよ。
私がこんな事を言わなくても、お姉ちゃんは全力で紬さんを守ろうとするって』
憂『でもね、これだけは言わせてね。
お姉ちゃんが傷付いたら、紬さんも傷付くって事。
だから、自分の事も大切にして。紬さんの為に』
憂『紬さん、私は今まで辛い事があっても、二人だから乗り越えられました。
紬さんも、もう一人じゃありません。お姉ちゃんが付いてます。
私がそうだった様に、貴女もお姉ちゃんと一緒なら絶対に大丈夫です。
紬さんとお姉ちゃんの無事を、心から願っています』
憂『最後に、お姉ちゃん、私はお姉ちゃんの事が大好きです。
世界で一番、お姉ちゃんの事が大好きです。
私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう。
私は貴女の妹で本当に幸せでした』
憂は涙を流しながら、今までで一番素敵な笑顔を見せた。
それは作り物ではない、本物の笑顔だった。
そして映像は完全に途切れた。
唯「うい……」
唯「うい……うい……ぅぅぅ……う゛い゛ーーーー!」
唯「あ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーーーー!!」
唯「う゛う゛ぅ゛う゛ぅ゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ーーーーーー!!!」
唯「う゛い゛ーーう゛い゛ーーーう゛い゛ーーーー!!!!」
人間の体の中には、どれ位の涙が蓄えられているのだろう。
私の瞳からは大粒の涙が止まる所を知らずに流れ落ちた。
まるで、体中の全ての水分が飛び出していくかの様に。
ムギちゃんは激しく震える私の体を強く抱き締め、私を静めようとしてくれた。
そのムギちゃんの目からも激しく涙が溢れていた。
それでも、私は湧き上がる感情を抑える事が出来ず、
その衝動に従うまま号泣し続けた。
憂は駄目な妹なんかじゃない。世界で最高の妹だ。
私はありったけの言葉を並べて、それを憂に伝えたい。伝えたかった。
でも、それはもう無理なんだね……。
ごめんね憂。こんなお姉ちゃんで本当にごめんね。
私とムギちゃんはベッドに横になり、白い天井を眺めていた。
毛布の下で、私達は手を硬く結び合っていた。
唯「私ね、過去を全て切り捨てるつもりだった……」
唯「憂の事も、和ちゃんの事も、りっちゃんの事も、澪ちゃんの事も、
いちごちゃんの事も、しずかちゃんの事も、全部切り捨てようと思ってた……」
唯「だって、みんなの事を考えていると、どうしても立ち止まっちゃうんだ……。
過去に縛られて、未来を見る事が出来なくなっちゃうんだよ……。
私一人ならそれでもいいんだ。私はそれだけ罪深い人間なんだから。
でも、私はどうしてもムギちゃんを守りたい……。
過去に縛られてちゃ、ムギちゃんを守る事なんて出来ないんだ……。
だから過去を切り捨てたいの……切り捨てなきゃいけないのに……」
紬「唯ちゃんは私に、自分の出来る事をしているだけ、って言ったわよね?
それなら、自分に出来ない事を無理にする必要はないんじゃないかしら」
ムギちゃんは優しく微笑みながら私に言った。
紬「唯ちゃんに過去を切り捨てるなんて事は出来ないわ。
だって、唯ちゃんはとっても優しい女の子だもの。
今まで自分を愛してくれた人達の事を忘れるなんて出来る筈ない」
唯「でもそれじゃあ駄目なの……駄目なんだよ……。
そんな甘い考えじゃ誰も守れない、救えないんだよ!」
紬「でも、それが今の唯ちゃんなのでしょう?
その甘い考えを捨てる事が出来ない、それが唯ちゃんなの。
私はそれでいいと思ってる。だって、それが唯ちゃんなんだもの」
紬「無理に自分を変える事なんて絶対に出来ないわ。
そして、出来ない事をしようとすれば、必ず失敗してしまうのよ」
ムギちゃんは和ちゃんと同じ事を言った。
和ちゃんの言う事はいつでも正しかった。
私はそんな事すらも忘れてしまっていた。
紬「でもね、私は唯ちゃんの事を信じているの。
唯ちゃんは過去を切り捨てなくても、必ず私を守ってくれるって。
だって、憂ちゃんのお墨付きを貰っているんだもの」
唯(違う……私は……)
紬「それにね、私、憂ちゃんの言葉を聞いて思ったの。
私も誰かを守りたい、ううん、唯ちゃんを守りたいって。
私は今まで、誰かに守られてばかりだったわ。
その度に、自分の無力さを痛感していたの」
紬「私には財力……お金がある。
でも、そのお金は私自身の力じゃない。
全て私の親の力で、私はそれを借りているだけ。
バイトを始めて、私はその事に気が付いたの」
紬「今はまだ、お父様の力に縋って生きるしかない。
でも、私はいずれ自分だけでその力を手に入れたい。
その為に私は経済学、経営学、その他諸々の勉強をしてるわ。
それが今の私に出来る事、それしか私には出来ないから」
紬「そして私は今、もう一つの目標が出来たの。それは、早く元気になる事よ」
紬「今の状態では、私は唯ちゃんに何もしてあげられない、
唯ちゃんに守って貰うだけの存在だから。
私も元気になって、唯ちゃんを守れる人間になるわ」
ムギちゃんは目を輝かせながら言った。
この施設に来てから、初めて見せた眩しい笑顔だった。
その笑顔を齎したのは、憂の言葉だ。
私だけでは、ムギちゃんのこの笑顔を生む事は出来なかっただろう。
私一人では何も出来ない……。
でも、今はそれでも構わない。
ムギちゃんが笑ってくれるならそれでいいんだ。
私は、今の私の力を素直に認める事にした。
そして、私は私に出来る事をする。
それから私の新しい毎日が始まった。
一週間後、ムギちゃんは順調に回復し、病室から出る事が決まった。
これからは、特権階級居住区のスイートルームで暮らす事になる。
私もこの一週間で、以前とは比べ物にならない位体調が良くなった。
その主因は、食事をちゃんと取り、決して吐き出さないという私のルール。
味のしない食事が苦手なのは今も変わらない。
でも、食物が体の中に入れば、味など関係なく私のエネルギーになる。
ムギちゃんも、少しずつサプリメント以外の物を口にするようになった。
以前の私と同じで極少量ではあるけれど、0が1になる事は大きな変化だ。
また、ムギちゃんは医務室で一日に2時間ずつ3回、計6時間の点滴を行っている。
この間、ムギちゃんはずっと医務室に篭り本を読んでいる。
私はムギちゃんと別れるその時間を利用して、密かに様々な特訓をしていた。
その例の一つとして、私は斉藤さんにお願いをし、車の運転を教わっている。
もし、これから外に出るような事になった場合、車という移動手段は非常に魅力的だ。
長距離を楽に移動できるし、何より徒歩で移動するよりも安全性が格段に高い。
その他にも、護身術、応急手当の方法など、役に立ちそうな様々な事を教えて貰っている。
それらは全て、和ちゃん達がしていた事だ。
彼女達も、私に知られずに様々な訓練や準備をしていたのだ。
私が彼女達の様になる事は無理かもしれない。
それでも、私は彼女達の様になりたかった。
その為に努力をしたっていいだろう。
例えそれが無駄な足掻きであったとしても。
ギターも弾くようになった。
ギターは私が持っている最大の「力」だという事に気付いたからだ。
特権階級の中にはプロのミュージシャンや楽器の修理技術者もいるらしい。
さらにスタジオ、楽器、楽譜、修理道具なども揃っていて、音楽活動に不自由はしない。
私はスタジオが空いている時に限り、利用出来る許可を貰った。
しかし、私は主に自室でギターの練習をしていた。
ムギちゃんが、私のギターを聞きたいと言うからだ。
スタジオまではそれなりに距離があり、その移動はムギちゃんの負担になる。
今の状態のムギちゃんに、あまり体力的負担を掛けさせたくはない。
それに、私もムギちゃんも、あまり外出が好きではなかった。
私達は、外見をそれ程気にするタイプではないけれど、まだ十代の女子高生だ。
今の窶れた姿に、多少のコンプレックスを持っていた。
それは、私達が精神的ゆとりを持ち始めていた事をも意味していた。
自分の容姿に気を遣う余裕が出てきたのだ。
私は、今までに覚えた曲をムギちゃんに唄って聴かせた。
暫くギターには触れていなかったけれど、体が全てを覚えていた。
ムギちゃんは私のギターを聴くと、満面の笑みで私を褒め称えた。
私はムギちゃんの笑顔が見たくて、次々と新しい曲も覚えていった。
今、私は、私だけの「力」でムギちゃんに笑顔を咲かせているのだ。
特権階級居住区での生活は、一般人居住区での監獄の様な生活とは似ても似付かぬモノだった。
仕事は無いし、規則も無い。贅沢品も取り揃えられ、まるでリゾート地だ。
今更驚く事ではないが、この施設には豪勢なスポーツクラブなどの娯楽設備も完備されていた。
私はそこで水泳を始める事にした。
水泳は全身の筋肉を使うバランスの良い運動、和ちゃんがその様な事を言っていたからだ。
特権階級専用らしく、そこで汗を流している人間は品も身形も良い者達ばかりで、
私が一般人居住区で見た人達と、同じ人間であるとは思えなかった。
皆の表情は明るく、談笑し、面識の無い私にすら挨拶をしてくる。
それにしても、同じ施設の中に、こんなにも異なった空間が存在していたとは。
あらゆる娯楽を楽しむ事が可能な、優雅で贅沢な生活。
「お金持ち」達の暮らし振りは、私の想像を遥かに超えていた。
その事実を知った時、私はある種の「恐怖」とも言うべきモノを感じていた。
何故、この人達はそんなに「普通」でいられるのだ?
果たして外の惨状を知っているのだろうか、と。
一般人の居住区にいた人達は、皆常に何かに怯えていた。
外で地獄を体験した人間ならば、その理由などすぐに分かるだろう。
皆、危惧しているのだ。
この安全がいつか失われるのではないかと。
特権階級の人間達は、今の安泰が恒久であると信じている。
何があっても、自分達の安全は保障されているのだと。
噛み付き病が大騒ぎされる以前の人達と同じ心理状態。
『世界が崩壊する訳が無い』
根拠もなく、ただ盲心的にそう思い込んでいるのだ。
特権階級の人間はテレビを観る事が出来る。
通信衛星を利用して、今も普通に放送は継続されていた。
世界の状態は、その放送から全て知る事が出来る。
しかし、彼等には実感が無いのだ。
ニュースで戦争の光景を見るだけで、戦争の悲惨さを実感する事などできまい。
飢えに苦しむ人間達の存在を知った所で、我々は贅沢をやめる事などできまい。
所詮は他人事なのだ。
彼等にとって、噛み付き病など他人事に過ぎないのだ。
実際に自らが体験しなければ、それが事実であろうが虚構なのだ。
和ちゃんは言っていた。
「安心」は「慢心」を生み、そこから「綻び」が生じる。
小さな「綻び」はやがて大きくなり、全てを「瓦解」させる、と。
小学校の国語の授業で「油断大敵」という言葉を習った時の話だ。
私はこの「偽りの安全」に満ちた世界に染まらぬよう心掛けた。
ここでは、自ら何もしなくても、全て周りの人間が世話をしてくれる。
その為に、専用に雇われているスタッフ達が居るのだ。
一部の一般人は、そのスタッフの人達に雇われ仕事をしていた。
私は出来るだけ他人の手を借りないようにした。
掃除、洗濯、炊事……。私が憂に任せっきりにしていた事だ。
食材を貰い、一部厨房を借りて調理をさせて貰った。
私の調理する姿を見て、料理人達は私に包丁の使い方などを親切に指導してくれた。
聞くと、危なっかしくて見ていられなかったそうだ。
私は厨房の料理人達と親しくなり、様々なレシピも教えて貰った。
私の味覚消失は非常に特殊で、自分で料理した物の味は感じる事が出来た。
ムギちゃんは、私が料理を始めた日から、私の料理を食べてくれている。
最初は下手だからと断ったが、それでも私の料理が食べたいと言って聞かなかった。
ムギちゃんは、私の料理をいつも笑顔で受け入れてくれた。
僅かな量でも、ムギちゃんが食事をする姿を見られる事は私の幸せだった。
12月17日
ムギちゃんと一緒にこの部屋に引っ越して来てから一ヶ月が過ぎた。
伸び放題だった髪も切り、私は以前の健康的な姿に戻りつつあった。
ムギちゃんも、痩せたままではあるけれど、血色は以前より大分良くなっていた。
唯「きつい……。この服、ちょっと小さいかも……」
紬「新しい服を貰いに行きましょう。可愛い服もいっぱいあるわ」
一般人に配給される普段着や寝巻きは全て同じ物だった。
唯一違う所は、刺繍されている番号。
年頃の女の子が着る様な柄の物ではないが、私はこれが結構気に入っていた。
唯「そうだね、ムギちゃんも一緒に来てくれる?」
紬「もちろんよ」ニコ
私がムギちゃんに案内され着いた先は、まるで高級デパートの様だった。
見るからに高そうな服達が、所狭しと並べられている。
普段着から礼服、パーティードレスまで、あらゆる服が揃えてある。
ここに置いてある物は全て女性物で、男性物はまた別の所にあるらしい。
階を見回すと、小さな女の子を連れた貴婦人が子供用の服を選んでいた。
ムギちゃんは店員らしき人と何やら話をしている。
私は以前着ていた作業服が妙に懐かしくなっていた。
ムギちゃんは店員らしき人を引き連れ、私の元に来た。
紬「それじゃあ、唯ちゃんの服を選びましょう」
唯「あの、ムギちゃん、この服とかっていくら位するのかな……?」
紬「あ、ここの服は全て無料なの。だから好きなのを選んでいいのよ」
これは後に斉藤さんに聞いた話だけれど、
この施設の特権階級にいる人達は、多額の入居資金を支払っている。
それには、この施設のあらゆる設備・備品の使用権利も含まれているのだ。
特権階級の人間達は「被災者」ではなく「お客様」なのである。
そして、それを証明するのがこの黒いIDカード。
この黒いIDカードこそ、ここでの絶対的権力の証、「力」の象徴なのだ。
私は、陳列されている服の中から動きやすそうな物を数点選び、
それを店員らしき人に渡した。
後でこの人が私達の部屋まで荷物を持って来てくれるらしい。
それ位自分で出来るけれど、ムギちゃんの顔を立て、それに従う事にした。
紬「唯ちゃん、この服なんてどうかしら?」
ムギちゃんが可愛らしいひらひらした服を持って来た。
紬「唯ちゃんにはこういう服が似合うと思うの。ちょっと着てみてくれる?」
私がその言葉に逆らえる筈がない。
私はムギちゃんの着せ替え人形になった。
試着室で服を着替えムギちゃんに見せると、
ムギちゃんは絶賛し、とても喜んでくれた。
この笑顔の為なら、私はどんな事でもしよう。
紬「とっても可愛いわ、唯ちゃん」
結局、試着した服は全て貰う事になった。
次の日、私は今まで着ていた一般人用の普段着と寝巻きを返しに行く事にした。
私が一般人であったという証の物達。
何だか名残惜しい気もするけれど、サイズが合わないからどうしようもない。
私は久しぶりに一般人の居住区に来ていた。
以前には気付かなかった、その異様な雰囲気を私は感じ取っていた。
最初にここに来た時は、私自身絶望し、周りを気にする余裕など全く無かった。
だからこそ、今初めて私はこの場が異質である事に気付いたのだろう。
皆、私の方に視線を向ける。
私だけが皆と違う、綺麗な服装をしている。
この空間で、私は目立ち過ぎていた。
私は早足で受付に向かった。
受付嬢「あら……貴女は……平沢さん?」
唯「お久しぶりです」
受付嬢は私の事を覚えていたようだ。
受付嬢「以前と姿も服装も違うので驚きました。元気になったみたいですね」
この人は私の事を心配していてくれたらしい。
唯「あの、今日は服を返しに来たんです。サイズが合わなくなってしまって……」
受付嬢「分かりました。新しい服は……必要無いみたいですね」
唯「あ、宜しければ、新しい普段着を2着ほど頂きたいです。
動きやすいし、ちょっと汚れるような事もしているので……」
受付嬢「分かりました、平沢さんに合いそうな服を持ってきますね。少々お待ちを」
そう言うと、受付嬢はカウンター奥の扉の中へと消えていった。
5分位経っただろうか。
扉が開き、中から受付嬢が服を2着持って私の前に来た。
受付嬢「どうぞ」
唯「ありがとうございます」
私は服を受け取り、足早にその場を後にした。
一般人居住区……。
私は、私が傷付けたあの女達の事を思い出していた。
何故、彼女達は私達を傷付けたのか。
彼女達があんな風になってしまった原因は何だったのだろうか。
もしかしたら、ここでの厳しい生活が彼女達を変えてしまったのかもしれない。
あんな雰囲気の中で、まともな精神でいられる筈が無い。
私は今日、あの場に行ってそれを確信した。
もし、私が彼女達の苦悩に気付き、もっと優しく出来ていたら……。
もしかしたら、私達は友人になれたかもしれない。
もう一度彼女達と会おう。
彼女達には仕事がある。今行っても会えない可能性が高い。
私は彼女達が部屋に帰るであろう時間まで待った。
21時。今なら彼女達も部屋にいる事だろう。
ムギちゃんは22時まで夜の点滴をしている。
台の上のお菓子の詰まったバスケットを持ち、私は彼女達の元に向かった。
彼女達の部屋は変わっていた。
私が騒ぎを起こした日から、あの部屋は空き部屋となっている。
私は受付嬢に無理を言って、彼女達の新しい部屋を教えて貰った。
大丈夫なの?と、受付嬢は心配そうに私に尋ねた。
当然この人も、あの事件の事を知っている。
彼女達が仕事をサボっていた事も、事件後聞かされたという。
私とあの女を引き合わせた張本人。
私に良かれと引き合わせた人物が、私をひどい目に遭わせていたのだ。
受付嬢にも、罪悪感があったのだろう。
事件後、受付嬢は私に会いに来て謝罪をした。
私はこの人を恨む気持ちなど全く無かった。
この人は純粋に私の事を想ってくれていたのだから。
受付に行く度、私の体の事を心配してくれていた。
唯(この人にも何かしないといけないね……)
私はバスケットの中からお菓子を取り出し、お礼を言って彼女に渡した。
私は新しい彼女達の部屋の前に来た。
彼女達はまた全員で同じ部屋に住んでいる様だ。
私はドアをノックした。
一般人用の部屋にはインターホンなど無い。
暫くして、ドアが開けられた。
私を出迎えたのは、私と一緒に仕事をしていた筈の女だった。
女「……どちら様?」
唯「平沢唯です……。……入っていいですか?」
女「平沢……お前が……? まぁ、取り敢えず入んなよ。歓迎するから」
意外な返事に、私は一瞬戸惑った。
私は彼女に導かれ、部屋の中へと入っていった。
部屋の中には、いつもの女達がいた。
皆、最初は私の事が誰だか分からなかった様だ。
唯「あの……」
私が彼女達に話し掛けようとすると、それを遮るかの様に女達が口を開いた。
女「本当にごめん、平沢さん!」
女2「私達、本当に反省してます」
女3「ごめんね」
女4「許してください」
彼女達は口々に謝罪の言葉を述べた。
唯「あ、あの……私の方こそごめんなさい。その、これ……」
私はお菓子の入ったバスケットを差し出した。
唯「今更こんな事を言うのはアレなんだけど……、
私、みんなと仲直りしたくて、これ持って来たの……。
良かったら、これみんなで食べて下さい……」
女「えっ? いいの? マジ嬉しい! ありがとう、平沢さん!」
女2「平沢さんも一緒に食べようよ」
女3「うんうん、そうしなよ」
女4「迷惑じゃなかったら……」
私は彼女達と一緒にお菓子を食べる事にした。
唯「私ね、みんなの事、全然知らないから……。
良かったらみんなの事、色々教えて貰えないかな……?」
私は今まで、彼女達がどういう人間かという事に全く興味が無かった。
彼女達だけではない。私は他人に全く関心を持てずにいた。
しかし今、私はここに住んでいる人間全てに興味が湧いていた。
一般の人も、特権階級の人も、どういう経緯でこの場に居るのだろうか、と。
そして今、何を考えているのだろうか、と。
この施設にいる全ての人間に話を聞く事は不可能だろう。
しかし、自分に関わった人間達の事位は知っておきたかった。
どのような形であれ、この女達は私に関わりのある人間なのだ。
彼女達は自分達の事を語り出した。
★9
彼女達4人は、美容師を養成する専門学校の学生で、
皆地元を離れ、同じ寮で暮らしていたらしい。
その美容専門学校でも桜ヶ丘高校の様な事件が起きた。
4人で逃げる途中、私同様この施設の兵士達に助けられたという。
助かったのは4人だけで、他の仲間は皆死んでしまったらしい。
その時の事を思い出してか、女2と女4は俯き啜り泣いていた。
私はいつの間にか涙を流していた。
彼女達の話に、私は自分の姿を重ねていた。
女「ごめんね、湿っぽい話になっちゃって」
唯「ううん、私の方こそ、思い出させてごめんね」
気付くと、時計は既に21時55分を回っていた。
ムギちゃんの点滴が終わる頃だ。
唯「私そろそろ戻るね」
女「ああ、平沢さんと話せて良かったよ。明日も来ない?」
唯「うん。あと、私の事は唯でいいよ」
女「分かったよ唯。じゃあ、明日もこの時間で」
女達は満面の笑みで私を見送った。
私は女達の部屋を後にし、ムギちゃんの待つ医務室に向かった。
医務室に着くと、ムギちゃんは既に点滴を終わらせていた。
唯「ごめん、ちょっと遅れちゃった」
紬「ううん、丁度今終わった所だから」
紬「唯ちゃんは何をしていたの?」
唯「……ちょっと女ちゃん達に会いに行ってたの」
紬「……彼女達、元気にしてる?」
唯「うん、元気そうだったよ……」
紬「そっか、良かった……」
ムギちゃんはほっとしていた。
やっぱり彼女達の事を気に掛けていたんだ。
ホントにムギちゃんは優しい子だ。
ムギちゃんは一方的に彼女達に傷付けられたのに。
部屋に戻り、私はお風呂にお湯を張った。
特権階級の部屋には、お風呂もトイレも付いていた。
豪勢な大浴場もあるけれど、ムギちゃんは殆んど利用しない。
私は毎日運動後にそこを利用している。
唯「ムギちゃん、お風呂の準備できたよ~」
紬「先に入ってて、私もすぐ行くわ~」
私は服を洗濯篭に入れ、浴室に入った。
この部屋の浴室は、私の家のそれより2倍程の広さがあり、
浴槽も、私達二人が悠々入れる程の大きさがあった。
紬「お待たせ、唯ちゃん」
私達はいつも二人で一緒にお風呂に入っていた。
その度に、私は憂とお風呂に入っていた時の事を思い出し涙した。
ここなら、涙を流してもムギちゃんに気付かれる事はなかった。
お風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かす。
当然、私の方が早く髪が乾く。
髪の長いムギちゃんのドライヤーは時間が掛かるのだ。
その間に、私はベッドメイキングをする。
二人で寝ても広すぎるキングサイズのベッド。
寄り添う私達には、シングルでも充分だというのに。
私はポートワインを開け、2つのグラスにそれを注ぐ。
ムギちゃんは、寝る前にお酒で睡眠薬を飲む。
アルコールと睡眠薬の相乗効果で、よく眠れるらしいのだ。
一般人居住区での生活の時には、睡眠薬だけを多めに飲んでいた様だが、
特権階級の居住区に居た頃は、お酒でそれを飲む事が習慣だったらしい。
ムギちゃんがそれを打ち明けた日から、私はムギちゃんの寝酒に付き合っている。
それが体に悪い事を私達は知っていた。
それでも、彼女はそうしないと熟睡出来ないのだ。
彼女は酷い睡眠障害も患っていた。
私達は乾杯をし、一気にグラスを飲み干した。
これが一番効率的な飲み方なのだ。
私達は別にお酒が好きというワケではない。
そもそも、どんな高級なお酒であろうが、味覚障害の私はそれを味わう事など出来ない。
ただ酔う為に、それを摂取しているだけだ。
ムギちゃんによると、このワインは「フォーティファイドワイン」と呼ばれるもので、
通常のワインよりもアルコール度数が高いのだそうだ。
私と違い、ムギちゃんはお酒に弱かった。
一口アルコールを口にすれば、すぐにその白い顔は紅潮する。
そして私に甘えてくるのだ。
私に逢うまで、ムギちゃんはずっと一人だった。
アルコールはムギちゃんの孤独と寂しさを紛らわせていたに違いない。
唯「ムギちゃん、寝る前にうがいと歯磨きだよ?」
紬「うん」ニコ
私達は歯磨きを終え、同じベッドに潜り込んだ。
今日もまた、私達は寄り添い抱き合って眠りに就いた。
ムギちゃんの寝息が聞こえる。
アルコールと薬の効果で、すぐにムギちゃんは深い眠りに就く。
私はそっとベッドから抜け出し、ギー太を持ってスタジオに向かう。
時計は22:50分を回っている。
この時間にスタジオを使う者は私以外いない。
ここは完全防音になっていて、外に音が洩れる心配は無い。
私はギターをアンプに繫ぎ、大音量でただ只管に掻き乱す。
それはまるで、悲哀の咆哮。
そこで私は、全ての悲しみ、苦しみをギー太から吐き出した
嘆きの独奏は、私の気が済むまで続けられる。
夜中の2時、遅い時には3時頃まで、私はギー太を奏でていた。
気が治まったら、スタジオを片付け部屋に戻る。
ムギちゃんが目覚める気配は無い。
私はギー太を元の位置に戻し、ベッドに戻る。
ムギちゃんの寝顔を見ながら「おやすみ」と呟き、軽く頬にキスをした。
次の日も、私はいつも通りの日課を熟していた。
何も変わらぬ日常。
そう、今の私にとって、この生活が日常になりつつあった。
朝食を作り、ムギちゃんと二人でそれを食べる。
少しお喋りをして、ムギちゃんを医務室まで送る。
彼女が朝の点滴をしている間、私は掃除や洗濯を済ませる。
早めにそれらを片付けたら、余った時間でギターの練習だ。
11時、彼女の1回目の点滴が終わる時間だ。
私は医務室に彼女を迎えに行く。
彼女はベッドに腰を掛け、迎えに来た私に笑顔でこう言うのだ。
紬「今日も調子がとってもいいわ」
唯「それじゃあ、お散歩にでも行こうか」
まずは屋上。
もうすぐクリスマス。
外はとても寒く、吐いた息が白くなる。
呼吸をすると、冷たい空気が肺に入り、体の中から冷えるのを感じた。
それでも私達は、新鮮な空気を求め屋外に出る。
屋上に設置されているベンチに座り、二人で空を見上げる。
空は今も昔も変わらず、ただ鮮やかな青色に満ちていた。
こんなにも美しい空の下で、今もどこかで惨劇は続いているのだろう。
ウイルスの所為だけではない。
戦争、飢餓、凶悪事件……。
世界は常に悲劇で溢れていた。
私が知らなかっただけだ。
知らない振りをしていただけだ。
私にとって、そんな世界の惨禍など、他人事に過ぎなかったから。
屋上で一息ついた後、今度は施設から出て敷地内を歩く。
私たちの他にも、散歩をしている人の姿がちらほら見える。
施設の庭は、職人達によって綺麗に整備されていた。
「まるで恋人みたいね」
ムギちゃんが呟く。
散歩をする時、ムギちゃんは自分の腕を私に絡める。
「そうだね」
私は優しく彼女を引き寄せる。
私もムギちゃんも、ただ純粋に温もりを求めていた。
心と体を暖かくしてくれる存在を求めていたのだ。
私達はお互いに深く依存していた。
誰であろうと、私達を引き離す事など出来ないだろう。
12時が過ぎ、私達は昼食の準備の為に厨房に向かう。
今ではムギちゃんも一緒に料理を作っているのだ。
「おいしい?」
ムギちゃんは、いつも自分の料理の感想を私に求める。
「うん、美味しいよ」
私は笑顔で答える。
嘘ではなかった。
ムギちゃんの料理には、ちゃんと「味」があった。
私にとっては、一流シェフのフルコースよりも美味しい御馳走だ。
楽しい食事の時間が戻ってきたのだ。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去るもの。
14時、2度目の点滴の時間だ。
別れを惜しみ、私は着替えを持ってプールに向かう。
帽子を深く被り、ゴーグルをして顔を隠すようにした。
以前、しつこくナンパをしてきた男がいたのだ。
今の私は人付き合いが億劫ではない。
しかし、ああいうタイプの人間は正直苦手だ。
私は水泳専用レーンで、ただ泳ぐ事だけに没頭した。
気が済むまで泳いだ後は、大浴場で体を綺麗にする。
プールと浴場は中で繋がっていて、
私の他にも、遊泳後塩素に染まった体を洗う人達がいた。
16時、ムギちゃんと二人でティータイムの準備をする。
厨房を借り、私達は自分達でお菓子を作るようになっていた。
この施設には、当然一流のパティシエ達がいる。
斉藤さんの計らいで、私達は彼等から色々学ぶ事が出来た。
お菓子の準備も整い、私達のティータイムが始まる。
偽りではない、本物のティータイム。
水泳でお腹の減った私の、貴重なエネルギー源だ。
軽音部のみんなで行っていたティータイム。
それと遜色の無い程、この時間は心地よかった。
お茶の後はムギちゃんとギターの練習だ。
練習と言うより、発表会と言った方がしっくり来るかもしれない。
私は夜中に覚えた曲や、ムギちゃんがリクエストした曲を披露した。
ムギちゃんは子供の様な笑顔を私に向け、演奏を聴いてくれる。
紬「次はねぇ、次はねぇ……」
夕飯の準備を始める18時半まで、彼女のリクエストが止まる事は無い。
そろそろご飯の準備をしよう、そう言って私は彼女を宥めた。
彼女はしぶしぶながらも、それに従う。
「また明日弾いてあげるからね」
そう言って、私は彼女と指切りをする。
ムギちゃんの細い指が、私の指に絡まる。
「約束ね」
彼女はそう言うと、私に明るい笑顔を見せるのだった。
20時、ムギちゃんの今日最後の点滴が始まる。
いつもなら、斉藤さんに様々な事を教えて貰う時間だ。
斉藤さんは仕事が忙しく、夜でないと自由な時間が取れないらしい。
そんな貴重な時間を削ってまで、彼は私の我侭に付き合ってくれていた。
しかし、昨日に続き、今日も斉藤さんとの訓練は無い。
私が女達の部屋に行くからだ
21時まで時間がまだある。
私はギー太を取り出し、練習を始めた。
ギターを弾いていると、時の流れが急に早くなる。
気付けばもう40分も経っていた。
少し早くてもいいかな……。
私はお菓子の入ったバスケットを持ち、女達の部屋に向かった。
唯「ごめんね、ちょっと早く来ちゃったんだけどいいかな?」
女「……ああ。入りなよ唯」
私は女に招かれ部屋に入った。
ガチャリ。
オートロックの鍵が閉まる音がした。
部屋に入ると、いつもの女達の他に、3人の男達がいた。
以前に見た男達ではない。
柄も悪そうには見えないが、体躯が良く圧倒的な威圧感があった。
女達の方を見ると、何故かニヤニヤしている。
厭らしい笑い方だ。
唯「あの……これ、お菓子です……」
漢1「おー、旨そうじゃん」
漢2「ありがとう、唯ちゃん。俺、腹減ってたんだよね」
漢3「さっき飯食ったばっかじゃん」
私の名前を知っていた。
この男達は彼女達の友人だろうか?
私は女の顔を見た。
女は私を淫靡漂う表情で見詰めている。
どうしてそんな目で私を見るの……?
漢1「へぇ~、唯ちゃんって……聞いてたより全然可愛いじゃん」
漢2「だね。ゾンビとか言ってたから、どんな子が来るかと思ってたら」
漢3「こんな可愛い子とは思わなかったわ」
男達は、舐める様な視線で、私の下半身から上半身を隈無く品定めしていた。
戸惑う私を尻目に、女達はクスクスと小さく笑い出していた。
漢1「でも、マジでいいの? ヤバクない?」
女「大丈夫、この子そういうのが好きだから」
女2「そうそう、遠慮とかしなくていいから」
女3「その子、口めっちゃ堅いから大丈夫」
唯「あの……女ちゃん……?」
漢2「あ、唯ちゃんのその表情、凄くいいね!」
漢3「俺もちょっと興奮した!」
漢1「てか、もう始めちゃって良いワケ?」
女「……ああ、好きなだけ犯っちゃって」
唯「なに……それ……どういう事……?」
女4「お前をこれから輪姦すんだよ」
漢2「唯ちゃんにはたっぷり乱れて貰うからね」
唯「女ちゃん……どうして……?」
女2「どうしてだって!? 馬鹿かこいつ!」
女3「あれだけやっといて、今更仲良しとかありえないだろ」
女4「しかもそんな服着て、自分はうちらとは違うとでも言いたいのか?」
女「あたしら、ずっとお前に復讐しようと思ってたんだよね」
唯「復讐……?」
女「あんなナメた真似しといて、タダで済むと思ってんのか?」
唯「……。」
女「でも、お前の方からこっちに来てくれて良かったよ。
あたしらじゃ、あっちの居住区には入れないからな」
女2「誘い出す手間が省けたね」
唯「……。」
唯「……じゃあ、どうして昨日は謝ってくれたの……?」
女3「お前を油断させて、今日も来て貰う為だよ」
女4「お前が暴れると、うちらだけじゃ手に負えないからな」
漢2「それで俺達の出番ってワケだな」
女2「こいつら、この施設の兵士だからな。前のヘタレチンピラ共とは全然違うぜ」
漢3「うわ、ひど! その男達かわいそ~」
唯「……昨日言ってた話は全部嘘だったの?」
女2「ああ。あたし達は専門学校なんて行ってねーし」
女「あたしの彼氏が金持ちで、ここに連れて来て貰ったんだ」
女4「彼氏というか財布だろ」
女3「あたしと女2と女4は、女の彼氏の愛人だよん」
女4「最初うちらも金持ち共の居住区に住んでたんだけどさ、
女の手癖が悪すぎて追い出されたんだよ」
女「お前らだって同じだろ。それにあいつ等だって同類だぜ?
薬に買春、なんでもありだからな。屑だよ屑。
金だって有り余る程あんだし、ちょっと位こっちに寄こせっての」
漢3「ほんと、お前ら悪女だよな」
漢2「俺は唯ちゃんみたいに純粋な子が好みだよ」
漢1「あ、やべっ! ゴム持って来るの忘れちった」
女2「中に出しちゃっていいよ」
女3「後で腹パンすればオッケー」
漢1「うわ、鬼畜~」
漢3「あ、順番決めようぜ! 俺いっちば~ん」
漢1「あっ!? 勝手に決めんなよ、俺も一番がいい」
漢2「この子処女っぽいし、一番は譲れないな」
漢1「おい、誰がこの話持って来たか覚えてるか?」
漢3「う~ん、それを言われるとなぁ……」
漢2「……仕方無い。じゃあ俺は処女アナルで我慢するよ」
女4「処女にいきなりアナルかよ!」
女3「悶・絶・必・死!」
漢2「泣き叫ぶから興奮するんじゃん」
漢3「こいつドSだから」
漢1「というワケで、唯ちゃんの処女は俺が頂くね」
私は3人の漢達に囲まれていた。
唯「……。」
漢1「怖くて声出せないのかな~? でも、挿れた時はちゃんと鳴いてね?
そうじゃないと、こっちも興奮しないからさ」
唯「……。」
漢2「唯ちゃん、すっごく気持ち良くしてあげるからね」
唯「……。」
漢3「唯ちゃんを可愛がったら、今度は紬ちゃんの番だな」
女2「こいつを餌にすれば、あいつすぐ来るだろうな」
唯「……………………。」
私の心の中で何かが壊れる音がした。
漢1「それじゃあ、まずその可愛い服を脱がしちゃおうかな」
男の大きな手が、ゆっくりと私に近づいて来た。
次の瞬間、男は悲鳴と共に崩れ落ちた。
女達も男達も、最初は何が起こったのか分からなかった。
しかし、私の右手でバチバチと音を立て、
放電するスタンガンを見て、皆その状況を理解した。
私は服の裏に隠し持っていたスタンガンを、男の下腹部に思いっきり押し当てたのだ。
男は余りの痛みに悶絶している。
苦しみ悶えるその姿は、とても滑稽だった。
悶絶するのは私の方じゃなかったみたいだね。
男達は油断していた。以前の男達と同じだ。
屈強な男が3人もいれば、女一人に負ける筈など無いと。
女達も同じ考えだろう。
今、自分達が絶対的に有利な立場にいる。
それは何があっても揺るがないのだという、根拠の無い自信。
そんな「安心」が「慢心」を生み、隙が出来るのだ。
進歩無いね。
いい加減、気付こうよ。
絶対的な安心、安全なんてどこにも存在しないって事にさ。
私の予想外の反撃によって、他の男達は動揺していた。
私はそれを見逃さなかった。
素早く二人の男達の腹部にスタンガンを当てた。
男達は体勢を崩した。
しかし、腹部に当てた程度では、すぐに起き上がってくるだろう。
私は、踠き苦しむ男達の頸部にスタンガンを押し当て、止めを刺した。
男達は気絶し、完全に動かなくなった。
女達は恐怖の形相で目を見開き、言葉を失っている。
部屋に沈黙が続いた。
この光景、激しくデジャビュだ 。
唯「私さ、初めから分かってたんだよ。女ちゃん達の謝罪も笑顔も全部ウソだって」
唯「私はね、女ちゃん達にした事を、凄く後悔していたの。
もっと別のやり方があったんじゃないかって……。
もしかしたら、女ちゃん達も、私と同じ苦しみを感じていたんじゃないかって。
だから、私は女ちゃん達に謝りたかった。私のした酷い行為を謝りたかった。
例え女ちゃん達が、自分達の行為を反省していなかったとしてもね」
唯「昨日の別れ際の女ちゃん達の笑顔、とても素敵だったよ。
でもね、状況を考えたらとっても不自然なんだよ。
本当に謝罪の気持ちがあるのなら、あんな風に笑えるワケないんだよ」
唯「そうだ、状況が不自然だったんだ……。
だからあの時、斉藤さんは私の笑顔を見てあんな顔をしたんだ。
ムギちゃんは私の姿を見たから私の嘘が分かったんだ。
みんなが無事なら私があんな姿になる筈ないもんねぇ、そっかそっかぁ」
唯「あー、私は駄目だなぁ……。
そんな事、ちょっと考えれば分かるじゃないか。
どうして私はそんな事にも気付かなかったんだろう。
これじゃあ、また失敗しちゃうよ……困ったなぁ……」
唯「……。」
唯「考えても分からないや。とりあえず、私に今出来る事をしよう」
私は女達の方を見た。
唯「今日は静かだね。前は震えながら謝ってくれたのに」
私が女達の方に近付こうとすると、彼女達は後退りした。
彼女達はあの時と同じく、部屋の隅で固まった。
ヒューヒューと変な呼吸音が聞こえる。
唯「ねぇ、女ちゃん……」
女の体がビクっと動いた。
唯「どうすれば、女ちゃんは私達を傷付ける事、辞めてくれるの?」
女「ご、ごめん……なさい……」
消え入るような声で女は謝罪の言葉を口にした。
私はしゃがみ込み、蹲っている彼女の顔を、目を見開き正面から近くで見た。
唯「前もそうやって謝ってたけど、何も変わってないじゃない……」
私は女の顔を平手で力いっぱい打った。
女の体はその衝撃で横に倒れ込んだ。
その様子を見て、女達は皆震えだした。
唯「ねぇ、前にいた男達と、あの日以来会った事ある?」
私は隅に蹲る女達の方に目をやった。
彼女達は怯えた目で私を見ている。
唯「……質問に答えろ。」
女2「い、いえ、あれから会った事は無いです……」
唯「……そうなんだ。」
女3「ほ、本当です! あの人達の事は何も知りません!」
唯「……そう。じゃあ、私が首を噛み切った男の事……覚えてる?」
女2「お、覚えてます……」
唯「その人がどうなったか……知ってる?」
沈黙が流れた。
唯「あの人、死んだって。」
女達の体の震えが一段と大きくなった。
唯「私ね、人を殺しちゃったみたいなの……。
でもね、今はそれでよかったと思ってるの。
だって、そうすれば、二度と私達を傷付けられないでしょ?」
唯「私ね、どんな人でも話せばきっと分かり合えると思ってた。
でも、その考えって間違ってるよね。
絶対に分かり合えない人って、やっぱりいるもん。
貴女達みたいに、他人の痛みが分からない人とかさ」
私は女2の顔を思い切りグーで殴りつけた。
女2の鼻からは真っ赤な鼻血がボトボトと垂れ落ちた。
唯「でも、それってしょうがない事なのかもしれない。
だって、他人の痛みはやっぱり他人の痛みで、分かるワケないもん。
他人の痛みが分かる、何て軽々しくいう人は痴がましいよね」
私は女3のお腹を思い切り蹴り上げた。
女3は呻き声を上げ、先程食べた夕飯を嘔吐した。
唯「腹パンってこういうのだよね。あ、パンってパンチの事だっけ。
間違えて蹴っちゃったよ。ごめんね、女3ちゃん」
唯「私、女ちゃん達に謝らなきゃ……。
私ね、貴女達って最低の屑だと思ってたの。
でもね、私も貴女達と同じ卑しい最低の人間だったんだ……」
唯「だって、こんなにも簡単に人を傷付ける事が出来るんだもん」
私は女4の髪を掴み、俯いている顔を強引に上げさせた。
唯「ねぇ、女4ちゃん、私はどうすればいい?
どうすれば貴女は私を傷付けなくなるの? 教えて?」
女4「ごめん……な……さい……」
唯「だからさ……、それじゃあ答えになってないでしょ!」
私は女4の頭を思いっ切り地面に打ち付けた。
何度も何度も彼女の頭を地面に打ち付けた。
彼女の体の震えが止まった。彼女は動かなくなった。
その時、後ろで男の呻き声がした。
振り向くと、漢1がゆっくりと立ち上がろうとしていた。
私は漢1に飛び掛った。
馬乗りになり、近くにあった木製の置物で漢1の顔を殴り続けた。
そのうち、漢1は動かなくなった。
顔は原形を留めない程腫れ上がり、前歯は全て折れていた。
念の為、私はもう一度3人の男達にスタンガンを当てた。
唯「ねえ、女ちゃん……」
私は女の両肩を掴み、体をこっちに向けさせた。
唯「女ちゃんは、自分達が私よりも強いと思ったから、こんな事をしようとしたんでしょ?
私が女ちゃん達よりも強そうだったら、女ちゃん達は私を傷付けようとはしなかった。
昨日私に手を出さなかったのは、そういう理由だったよね?」
唯「はっきり言っておくよ。
私はね、いつでも女ちゃん達より強いんだよ?
女ちゃんがどんなに強そうな男の人を連れて来てもね、絶対に私には勝てないの」
唯「私がやろうと思えば、何でも出来るんだよ?
貴女達をここから追い出す事だって、殺す事だって簡単にね」
唯「じゃあ、何でそれをしないと思う?
それはね、それをすると悲しむ人がいるからなんだよ。
私はね、その人が悲しむ事をしたくはないんだよ!」
私は女ちゃんの体を激しく揺さ振った。
唯「でもね、私はその人程優しい人間じゃないの!
私は貴女達と同じだから!
だからね、いざとなれば、私は貴女達を殺す事なんて躊躇い無く出来るんだよ!」
私は震える彼女の首に手を掛け、ゆっくりと締め上げた。
唯「女2ちゃん、女3ちゃん、このままだと女ちゃん、死んじゃうよ?」
二人はガタガタと激しく震えていた。
恐怖で顔は引き攣り、私に抵抗する気力などありはしなかった。
唯「ねぇ、本当に死んじゃうよ? 友達なんでしょ? 助けなくていいの?」
女の顔から血の気が引いていく。
顔は白くなり、唇は紫に変色していった。
唯(そんなものだよね、貴女達の関係なんて……)
もし軽音部のみんななら……。
自分の命なんて顧みず、即座に相手に飛び掛っていくだろう。
大切な仲間を守る為に。
私は彼女の首から手を離した。
大きく咳き込む彼女の耳の傍で、私は囁いた
「今度私に歯向かったら殺すからね」
唯「こっちの二人にはもう少しお仕置きが必要だよね……」
私は倒れている漢2と漢3の方へ歩み寄った。
女達に唆されたとはいえ、面識の無い人間を手篭めにしようとしたのだ。
しかも、悪びれる様子もなく、意気揚々と。
他人を傷付けるって事は、自分も他人に傷付けられる覚悟があるって事だよね?
そうじゃなきゃ、フェアじゃないよ。
一方的に相手を傷付けるだけなんて、そんな都合の良い話があるワケないでしょ。
私は、失神してうつ伏せになっている漢2の腕を、力を込めて後方に捩じ上げた。
唯「んぐぐぐぐぐぐ……」
ミシミシと腕が軋む音がした。
私はそんな事を気にせず、全体重を掛けた。
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
鈍い音がした。男の腕が在り得ない方向に曲がっていた。
痛みで漢2は覚醒し、呻き声を上げた。
唯「うるさいよ。」
私は漢2が完全に意識を失うまでスタンガンを押し付けた。
同様に、漢3の腕も圧し折った。
唯「ふぅ~、腕を折るのって結構疲れるね。やり方が悪いのかなぁ?」
私は震い慄く女達の方に体を向けた。
唯「部屋、また汚しちゃったね……。今回は自分達で掃除するんだよ?」
唯「それと……」
唯「この事を誰かに言ったら、ただじゃおかないから」ニコ
唯「寝てる人達にも教えてあげて。誰かが喋ったら、連帯責任だからね?」
唯「……。」
唯「ちゃんと返事してよ!」
女達は震えながら頷いた。
ふと部屋にあった時計に目をやった。
もうすぐムギちゃんの点滴が終わる時間だ。
医務室に迎えに行かなきゃ……。
私は女達の部屋を後にした。
医務室で私の姿を見たムギちゃんは、一目散に私の近くに寄って来た。
紬「どうしたの唯ちゃん!?」
私の服や顔には、あの人達の返り血が付いていた。
ムギちゃんの事を考えていたら、血を拭くのを忘れちゃった。
ああ、私はまたムギちゃんに心配を掛けてしまっているのか。
唯「大丈夫、これ私の血じゃないから」ニコ
私は心配そうに尋ねるムギちゃんに元気一杯の笑顔で答えた。
怪我をしている人間が、こんな笑顔を作れる筈がない。
だって、痛いんだからこんな風に笑えるワケないじゃん。
平気だよ、私は無傷だから。どこも痛くないの。
だから安心してね、ムギちゃん。
紬「……何があったの? 唯ちゃん……」
唯「ん? 大した事ないよ?」
紬「大した事無いって……」
私はその場で服を脱ぎ、下着姿になった。
ムギちゃんと医師は驚きの表情で私を見ている。
唯「ほらね、よく見て? 私はどこも怪我してないでしょ?
私はもうムギちゃんには嘘を付かないよ。
だから大丈夫、心配しないでね」
紬「と、とにかく服を着て部屋に戻りましょ」
唯「うん」ニコ
部屋に入ると、私はムギちゃんに浴室に連れて行かれた。
まだお風呂にお湯を張ってないよ……。
ムギちゃんは私の顔にシャワーを掛け、あいつらの血を洗い流した。
紬「……あの女の人達ね?」
唯「うん。」
紬「あの人達が、また唯ちゃんを傷付けようとしたのね……?」
唯「うん。」
紬「ごめんなさい……ごめんなさい、唯ちゃん……」
ムギちゃんは泣いていた。
お湯ではない液体が、ムギちゃんの顔に流れている。
なんで……どうしてムギちゃんが泣くの?
私を傷付けようとした人達をやっつけただけなのに。
そんなにあの人達の事が心配?
違う、ムギちゃんは私を見て泣いている……。
ムギちゃんの表情……私の事を……心配している……?
私は無事だよ?どこも痛くないよ?
わからない……わからないよ、ムギちゃん。
唯「なんでムギちゃんが泣くの?
私を見て、なんでムギちゃんが泣くの?
どこも怪我なんてしてないのに、なんで泣くの?
分からない……分からないよムギちゃん。
教えて、なんで泣いているのか、教えてよムギちゃん!」
シャワーが私の涙を掻き消していた。
ムギちゃんは、無言で私を見詰めている。
高い場所に設置されたシャワーが私達に降り注ぐ。
私のどこに心配される要因があるの?
ムギちゃんは私の何を見て涙を流したの?
どこ?どこ?私の何所にそんなモノがあるの?
見えない。ムギちゃんに見えるモノが、私には見えないよ。
見えない……見えない……見えない……見えない?
見えない物……目では見えない物……心?
ムギちゃんは私の心を見たの?私の心を見て……。
私の心……?
ああ、そうか。
ムギちゃんも気付いちゃったんだ。
「平沢唯」が既に死んでいた事に。
そうだった……。すっかり忘れていた……。
私はもう人間じゃないんだ……。
人間だった「平沢唯」はもう死んだんだよ。
唯「う゛う゛う゛……」
急に眩暈がし、足元がふらついた。
倒れそうになる私を、ムギちゃんが受け止めてくれた。
紬「唯ちゃん、大丈夫!?」
唯「私は……もう……人間じゃ……ないんだ……」
紬「何を言っているの!? 唯ちゃんは人間よ!」
唯「違う……私は人間じゃない……。ゾンビの……平沢なんだ……」
唯「私の……中に……怪物がいるの……。
人を……平気で……傷付ける事の……出来る……怪物……ゾンビが……」
紬「違う、貴女はゾンビなんかじゃないわっ!
とっても可愛くて、とっても優しい女の子、平沢唯よ!」
唯「私は……ひらさわ……ゆい?」
紬「そうよ、貴女は平沢唯、平沢唯なの!」
唯「ぅぅ……ムギちゃん……」
唯「ぅぅ、怖いよムギちゃん……。私、怖いよ……。
私の中に、ゾンビがいるんだよ……。
時々ね、そのゾンビが出てくるの……。
ゾンビが出てくると、私、自分を抑えられないんだよ……!」
唯「ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっーーーー」
唯「私がみんなを傷付ける……ムギちゃんも傷付ける……」
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛……」
唯「怖い……助けて……誰か……お願い……」
紬「落ち着いて、大丈夫、大丈夫よ、唯ちゃん……」
浴室は、湯気が濃い霧の様に立ち込めていた。
白い霞の中で、ムギちゃんの姿だけがハッキリと見えていた。
紬「大丈夫、私が付いているから大丈夫よ……。
唯ちゃんを困らせるゾンビなんて、私がやっつけちゃうわ。
だから安心して。私はいつでも唯ちゃんの味方なのよ……」
唯「ムギちゃん……」
降り頻るシャワーの下で、ムギちゃんは私を強く抱き締めた。
私は大声で泣いた。
泣き続けている間、ムギちゃんはずっと頭を優しく撫でてくれていた。
大丈夫、安心して、と慰めの言葉を紡ぎながら。
浴室から出た私達は、髪も乾かさず、裸のままベッドに入った。
ムギちゃんの肌の温もりが、私の心を落ち着かせた。
その日、私達はワインを飲まなかった。
★10
翌日、私は寝坊をした。
ここに来てから、いつも目覚ましが鳴る前に自然と目が覚めていたのに。
私は昨日の出来事を思い出そうとした。
しかし、私の記憶は靄が掛かった様に曖昧になっていた。
隣にムギちゃんの姿は見えなかった。
ふと、全裸の自分に気が付く。
とりあえず、ベッドから出て服を着る事にした
時計を見ると、午前10時半を少し過ぎた所だ。
服を着て、リビングルームに移動する。
部屋を見渡すと、中央にある台の上に、メモとおにぎりが置かれていた。
「お腹が空いたらこれを食べて下さい。私は点滴に行ってきます。紬」
私はムギちゃんの作ってくれたおにぎりを口にした。
朝に作った物だろう。
すっかり冷めてはいたけれど、塩がしっかり効いていて美味しかった。
歯磨きをし、髪を整え、私は医務室に向かった。
紬「おはよう、唯ちゃん」
私が声を掛けるより早く、ムギちゃんが口を開いた。
唯「おはよう、ムギちゃん。昨日は色々ごめんなさい……」
紬「ううん、気にしないで。もうちょっとで終わるから待っててね」
唯「うん」
私は近くの椅子に腰を掛けた。
ムギちゃんは私に安らぎを与えてくれる。
ムギちゃんを見ているだけで、私の「心」は暖かくなる。
ムギちゃんさえ傍にいてくれれば、私はきっと大丈夫だ。
紬「お待たせ、唯ちゃん。今日はちょっと私に付き合ってくれる?」
唯「うん、いいよ」
私はムギちゃんに連れられ、施設の中の喫茶店に来ていた。
VIP専用の喫茶店とあって、私が今まで見てきたそれとは全く違う。
喫茶店とは、本来寛ぐ為の空間であるが、
あまりにも雅やかな趣に圧倒され、私は萎縮してしまっていた。
ムギちゃんは、慣れた様子でメニューを注文する。
唯ちゃんはどうする?
彼女の問い掛けに、私も同じ物を、と答えた。
暫くすると、私達のテーブルに、レモンティーとチョコレートケーキが運ばれてきた。
ムギちゃんはレモンティーをストローで一口啜り、私に話し掛けた。
紬「クリスマスパーティーに参加しない?」
クリスマス、私はその存在をすっかり忘れていた。
今日は12月22日、クリスマスは3日後だ。
紬「そこでね、私は唯ちゃんを親友として皆に紹介したいの」
何故、突然ムギちゃんがその様な事を言い出したのか、私にはすぐに理解出来た。
ムギちゃんは、私を「権力」によって守ろうとしているのだ。
琴吹家はその財力によって、経済界、政界に絶大な影響力を誇っている。
つまり、この施設に居る「有力者」達に顔が利くのだ。
さらに、琴吹家はこの施設の建設にも関わっている。
この場所で琴吹家を敵に回そうとする者などいる筈が無いのだ。
ムギちゃんはその権力によって守られている。
特権階級の者達においては、権力こそ全てだ。
私がムギちゃんの友人と知れれば、誰も私を傷付けようとはしまい。
自分より強い相手を傷付けようとする者などいないのだ。
しかし、権力に縁の無い人間は、時にその力の威力を知らずに牙を剥く。
だからと言って、ムギちゃんは私に対して何もせずには居られなかったのだろう。
唯「……分かった。私もクリスマスパーティーに参加するよ」
紬「ありがとう、唯ちゃん」
お礼を言うのは私の方なのに……。
私はムギちゃんの好意を受け取る事にした。
紬「じゃあ、早速パーティー用のドレスを見に行きましょう?」
私達は、以前に来た衣装場を再び訪れた。
クリスマスが近い所為か、私達同様、ドレスを探しに来た女性達で溢れていた。
健康的な顔色、膨よかな体型、そこからは苦労など微塵も感じさせない。
皆楽しそうにお喋りをしながら、煌びやかな衣装を手に取り品定めしている。
何でそんなに楽しそうにしているんだこいつらは。
私の心の底に、どす黒い怒りの感情が湧いて来た。
私の妹と親友達は痛みに耐え、苦しみを堪え、必死に生き、死んでいったというのに。
惰性を貪り、のうのうと生きるこいつらが許せない。
皆と同じ苦しみ、痛みを与えてやりたい。
私の中のゾンビがゆっくりと動き出す。
お 前 達 を 殺 し て や ろ う か
怒りに満ちた、殺戮の衝動が津波の様に押し寄せた。
私の牙で、ここにいる全員を噛み殺してやりたい。
……駄目だ、落ち着け。そんな事をしてどうなる。
ムギちゃんが苦しむだけじゃないか。
私は理性で激情を押さえ込んだ。
そう、私はムギちゃんと楽しいショッピングに来ているのだ。
私はムギちゃんだけを見ていればいい。
私は視界から他の女性達の映像を消し去った。
12月25日
クリスマスパーティー当日になった。
私は柄にも無く緊張していた。
粗相をして、ムギちゃんに迷惑を掛けるのではないかと不安になっていた。
17時、私達は斉藤さんの案内でメイク室に来ていた。
ここでプロが本格的なメイクをしてくれるらしい。
椅子に座って待っていると、4人の女性達が部屋に入ってきた。
女性達は笑顔で挨拶をし、慣れた手付きで事を開始した。
雑談を踏まえながら、和やかな雰囲気の中で作業が続く。
私は目を瞑り、彼女達に身を任せた。
そうだ、人形になろう。
今日一日、私は物言わぬ人形になろう。
ただムギちゃんの傍らで微笑む人形に。
メイク「終わりましたよ」
メイクさんの言葉を聞き、私はゆっくりと目を開いた。
目の前の鏡には、私でない私が映し出されていた。
「凄く綺麗よ」
「女優みたいね」
「実際いけるんじゃないかしら」
「私が担当しているモデルよりいいわ」
彼女達は皆、私の姿を見て絶賛した。
紬「本当に綺麗よ、唯ちゃん」
唯「ありがとう、ムギちゃん。ムギちゃんも綺麗だよ」
ムギちゃんには、窶れた顔をカバーする様なメイクが施されていた。
私はその姿から、健康的だった頃のムギちゃんの面影を見ていた。
私達はメイク室を後にし、衣装室へと急いだ。
そこには既に別のスタッフが待機していて、この前私達が選んだドレスも用意されていた。
メイクやエクステが崩れないよう、スタッフが丁寧かつ迅速に作業を進める。
ムギちゃんは純白のドレスに、私は漆黒のドレスに身を包んだ。
そこに服飾コーディネーターが、燦爛とした宝飾品を添える。
頭に、耳に、胸に、手に、色鮮やかな宝石達が輝く。
しかしそれらは派手過ぎず、私達の存在をより引き立たせていた。
ムギちゃんは太陽の様に、私は月の様に。
光と影。密接に関わり合うその二つは、まさに今の私達の様だった。
「今度、うちでモデルをしてみない?」
コーディネーターの一人に突然の誘いを受けた。
ムギちゃんは、やってみたらどうかしら、と私に勧めたが、私は笑顔でお茶を濁した。
19時半、パーティー開始時刻から1時間半が過ぎていた。
最初はつまらない話だからと、ワザと参加時刻を遅らせたのだ。
私はともかく、ムギちゃんに長時間の参席は酷だろうという斉藤さんの配慮だった。
衣装室を出ると、斉藤さんが私達をエスコートする為に待っていた。
私達は、斉藤さんと共にパーティー会場へと向かった。
パーティー会場入り口には、参加受付所があった。
私達は受付で参加の手続き済ませ、会場へと続く扉を開いた。
会場は既にかなりの盛り上がりを見せていた。
数百人は収容出来るであろう巨大なホールには、立食形式で様々な料理が並べられていた。
ステージでは、プロのオーケストラがクラシカルな楽曲を奏でている。
辺りを見渡すと、テレビで見た事のある人物達もいた。
人々はグラスを持ち、そこかしこでそれぞれ歓談していた。
私達が会場に入ると、周囲から多くの視線を感じた。
中には私達に近付こうとする男達もいたが、斉藤さんが厳格な表情でそれを牽制した。
斉藤さんは、私達を紬父の前まで案内すると、失礼しますと言い、一人その場を後にした。
「こちらが私の娘の紬、そして友人の平沢唯さんだ」
ムギちゃんは笑顔で上品にお辞儀をした。
こういう気品溢れる応対を見ると、改めて彼女がお嬢様であるという事実を再認識する。
私もムギちゃんの見様見真似でお辞儀をした。
その後、多くの人達が入れ替わり立ち代りで挨拶にやって来た。
そして、老若男女問わず、私の美しさを賛美した。
さらに、容姿から性格を勝手に妄想し、美化し、語る。
私の事など何も知らないくせに。
挨拶をしただけで、聡明怜悧、清楚可憐、温厚篤実……。
讃辞を呈して私の機嫌を取るつもりか。逆効果だよ。
ありがとうございます、私は微笑みながらそれに応えた。
私はここにいる俗物達の笑顔が何よりも不快だった。
その微笑みの仮面の下から覗く、醜悪な実像。
私は知っている。お前達の醜行を。
薬、買春……。
夜中、ギターの練習をする為にスタジオに行く途中、窓の外に二つの人影を見た。
私は興味本位で彼等に近付いた。
銃を持った警備の兵士が、男に何かが入った袋を渡していた。
それを受け取ると、男は兵士に札束を渡したのだ。
その時は、受け渡していた袋の中身が何なのか分からなかった。
しかし、人気の無いこんな時間に行う取引だ。
何か疚しい行為だったのではないか、という疑念はあった。
あの時の女の言葉を聞いて、疑念は確信へと変わった。
兵士達がどのようにして「薬」を入手しているかは分からない。
しかし、彼等はこの施設から様々な名目で外に出る機会がある。
彼等が外で何をしているのか、私達にそれを知る術はないのだ。
基本的に、特権階級の居住区に一般人は入れない。
仕事などで、許可を得た者だけが特別に立ち入りを許される。
ところが、明らかに不自然な者達がいたのだ。
これもギターの練習の為、夜中に出歩いていた時の話だ。
見掛けた女性達は、配給された普段着を着ていた。間違いなく一般人だ。
時計は23時を回っている。
就寝時間後に、特権階級の居住区にいる一般人の女性達。
私は彼女達を何度も見掛ける内、その目的に興味をそそられた。
私はある日、気付かれぬ様に女性達を尾行した。
とある広めの個室に入っていく一般人の若い女性達。
私は、恐る恐るゆっくりと扉の前まで近付いた。
耳を澄ますと、中から何か聞こえてくる。
女達の艶かしい喘ぎ声だった。
この部屋の中で、何が行われているのかは明白だった。
私は早足でその場から立ち去った。
一般人の居住区にあった監視カメラは、ここには設置されていない。
特権階級の人間は、完全に「自由」なのである。
ここは、お金さえ支払えば全てが許される法外地域なのだ。
だからこそ、殺人者である私が今のような生活を普通に送れているのだ。
私にはお金など無いが、琴吹家という後ろ盾がある。
殺人すら許される環境において、買春や麻薬がなんだというのだ。
しかし、お金や後ろ盾の無い者には一切の容赦が無い。
この前、それを裏付ける一部始終を見た。
泣き叫ぶ男を、無理矢理連れて行く兵士達。
金は後で払う、ちゃんと払うからと懇願するその男を、
兵士達は無表情で拘引していった。
ここは歪んでいる。
私達が今まで暮らしていた社会とは異質な場所。
狂気と欲望が渦巻く奈落なのだ。
最も、今の私にはこの地獄こそ相応しいのかもしれない。
私は最低限の会話しかせず、ムギちゃんの横でただ微笑み頷く事に終始した。
このパーティーを、何事も無く無難にやり過ごす為に。
しかし、周りがそうはさせなかった。
紬父との挨拶を済ませた面々は、その後私に質問の嵐を浴びせた。
私の存在は、彼等の好奇心を掻き立てた。
気付けば、私達は人ごみに囲まれていた。
私は無意識の内にムギちゃんの腕にしがみ付いていた。
ムギちゃんはそんな私に気付き、質問攻めの私に助け舟を出してくれた。
そのお陰で、私は何とかその場を乗り切る事が出来た。
そんな中、私がバンドのボーカルをしていた事が話題になった。
その事から連想される事態は、誰にでも簡単に分かるだろう。
私の歌を聴きたいと皆が言い出したのだ。
私の意思に関係なく、場の雰囲気は私が唄う方向に進んでいた。
皆、私に期待の眼差しを向けている。
もはや、私自身がこの空気を変える事など不可能だった。
私は皆の前で歌を披露する決意した。
琴吹家の面目にも関わる事だ。失敗は許されない。
私はステージに向かった。
伴奏は、その場に居た楽団員達によって行われる事になった。
舞台には、楽譜や歌詞を表示する為の小さなモニターが複数設置されている。
これがあれば、彼等はどんな曲でも即興で演奏する事が出来るらしい。
私も歌詞さえ見られれば、そのレパートリーは十二分だ。
ギターならば体が曲を覚えているけれど、歌詞はそうはいかなかったのだ。
今の私には不安材料など全くなかった。
ステージに立つと、私に会場の視線が集中した。
何か余興が始まるのかと、皆興味津々だ。
とりあえず、この場に相応しい選曲をしなければ。
ここにいる人達の多くに受け入れて貰えそうな楽曲は……。
私はジャズ系の曲を選択した。
私は渾身の力を込めて、その一曲を歌い上げた。
会場が静まり返った。
数百人の観客達は、皆時が止まったかの様に静止していた。
次の瞬間、会場には割れん許りの拍手と歓声が響いた。
楽団員達も皆それぞれの楽器を置き、私に激励の拍手を送っていた。
その後、私は70年代ロックの名盤から近年のヒットチャートまで、
様々なジャンルの名曲、ヒット曲を立て続けに熱唱した。
観衆達は足で、体で、全身を振るってリズムを取っている。
トランス状態に陥ったかの様に、会場は異様な熱気に包まれた。
私は今、私の持つ「歌」という「力」でこの場を完全に支配した。
歌い終え、喝采と拍手が鳴り止まぬ中、私はステージを降りた。
注がれる熱い視線を余所目に、私はムギちゃんの元へと戻った。
ムギちゃんは目を輝かせながら拍手をしていた。
紬父も感嘆の表情をしながら手を叩いている。
周りにいた人間達は、皆私に讃辞の言葉を投げ掛けた。
私はそれに応え、笑顔で愛想を振り撒いた。
パーティーも終盤となり、紬父と別れ、私達は会場を後にしようとした。
「すいません、ちょっといいですか?」
私は突然背後から肩をを叩かれ、振り返った。
そこには、サングラスを掛けた40代後半位の男が立っている。
渡された名刺には、番組プロデューサーという肩書きが載っていた。
男は、大晦日に行われる番組に出演してみないか、という話を持ち掛けてきた。
その番組の出演者には、大物歌手や俳優、アイドルなども名を連ねているらしい。
衛星放送で生中継され、この施設や同様の他の施設のテレビに流れるそうだ。
少し考えさせて下さい。
そう言うと、彼は明日返事を聞かせて欲しいと言い残し去っていった。
私達は部屋に戻り、お風呂を済ませ、ワインを片手に椅子に座った。
暫く沈黙が続いた後、ムギちゃんが最初に口を開いた。
紬「……番組出演の件、唯ちゃんはどうするの?」
唯「私は……あんまり気が進まないかな……」
紬「そうなんだ……」
唯「ムギちゃんはどう思ってるの?」
紬「私は……唯ちゃんにテレビに出て欲しいと思っているわ」
唯「どうして?」
紬「さっきの舞台での唯ちゃんは凄く輝いてた。
私は、その姿を見て思ったの。
唯ちゃんの本当の居場所はあそこなんだって」
紬「唯ちゃんには才能がある。音楽の才能、人々に感動を与える才能よ。
私はそんな唯ちゃんの姿を、音楽を、多くの人に見て聴いて欲しいの。
テレビで多くの人達が唯ちゃんの演奏を聴く。
それは武道館ライブと同じ位、価値のある事だと思うの」
武道館ライブ……。
ムギちゃんは、まだあの冗談の様な約束を覚えていた。
ムギちゃんは部屋に置いてあるノートパソコンを開き電源を入れた。
カチカチと操作し、私の方に画面を向ける。
そこには、私が密かに作詞した歌詞と、作りかけの楽譜が映っていた。
唯「それは……」
紬「勝手に見てしまってごめんなさい。
この前パソコンを使っている時に、偶然見てしまったの。
でも、この詞も曲も、私は凄く良いと思うわ。
唯ちゃんの強くて真っ直ぐな想いが伝わってくるの。
私はこの曲をみんなに聴いて欲しいわ」
唯「でも……その曲はまだ完成してないし……」
紬「まだ時間はあるし、私も協力するわ。だから……ね?」
唯「ムギちゃんも……」
唯「ムギちゃんも出るなら、出てもいいよ……」
紬「え……」
唯「私は一人でテレビに出る気はないよ……。
みんなと……放課後ティータイムとしてじゃなきゃ嫌なの」
ムギちゃんは俯き考えていた。
今の窶れている姿でテレビに出る事は、彼女にとって酷な事だろう。
しかし、私はどうしてもそこだけは譲れなかった。
紬「私はみんなと別れて以来、キーボードに触っていないわ。
きっと唯ちゃんに迷惑を掛けてしまうと思うの……」
唯「キーボードの部分は簡単なモノにするよ。
それに、ムギちゃんは放課後ティータイムの一員だよ?
私にとっては、ムギちゃんがいない事が一番迷惑なんだよ?」
紬「唯ちゃん……」
紬「……分かったわ。私、唯ちゃんと一緒に演奏する。演奏したい!」
唯「ありがとう、ムギちゃん。明日から一緒に曲を作って、一緒に演奏しよう」
紬「うん!」
私達はワインを飲み干し、そのままベッドに入った。
唯「明日から一緒に頑張ろうね、ムギちゃん」
紬「ええ、唯ちゃん」
私達は固く手を握り合い、そのまま眠りに就いた。
次の日、私達はプロデューサーに会い、出演する意を伝えた。
最初、彼はムギちゃんが出る事に否定的だった。
体調を考慮して、などと奇麗事を並べていたが、
ムギちゃんの容姿の事を気にしている事はバレバレだ。
私は、彼女が一緒に出なければ絶対に出ないと、断固として譲らなかった。
最終的に彼が折れ、私達は一緒に出演する事が決まった。
私は日々の運動や特訓を一旦打ち切り、この曲を完成させる事に全力を注いだ。
ムギちゃんのお陰で、曲の未完部分は円滑に仕上げる事が出来た。
ムギちゃんは今、必死にキーボードの練習をしている。
点滴を受けながら弾けるよう、片手で出来る様に編曲した。
ムギちゃん程の腕前なら、僅かな期間でも完璧に弾ける様になるだろう。
私はその横で、ベースやドラムなど、各パートの打ち込みの補完、修正をしていた。
演奏者不足は、パソコンを使って補うのだ。
パソコンの打ち込みについては、以前澪ちゃんに少しだけ教わった事があった。
曲は、私のイメージしていたモノよりも、ずっと良く仕上がっていた。
私一人では、ここまで素晴らしいモノは出来なかっただろう。
一人ではなく二人だから……ムギちゃんと二人だからこそ……。
12月31日
私達は施設の音楽ホールに来ていた。
ここで私達は演奏を披露する事になる。
周りには多くの著名人の姿が見られた。
他の各施設でも同様の事が行われる。
それらの映像を合わせて、一つの番組にするのだという。
ステージには、大きなスクリーンがある。
他の施設の人達が歌や演奏を披露する時には、そこに映像が映し出されるのだ。
司会が現れた。テレビで見た事がある。
バラエティー番組に引っ張り蛸の人気司会者だ。
スクリーンに別の施設の司会者が映し出された。
その人物も、誰もが知っているであろう有名人だった。
流石はプロ達、お互い流暢な語りで滞り無く番組を進行させていった。
私達の施設は、番組の最後の方で登場する予定になっている。
軽井沢という、日本有数の避暑地にあるこの施設。
その所為か、ここにはVIPの中のVIP達が多く集まっていた。
この番組に出演するアーティスト達もそうだ。
その中で、私達は一番最初に演奏する事になっていた。
スクリーンでは、他の施設の有名人達が各々のパフォーマンスを繰り広げていた。
芸能界での勝ち組。逸早く危険を知り、逃げる事の出来た者達。
会場の人間達は、彼等の演芸に歓喜していた。
この場所でただ一人、私は彼等に嫌忌の念を抱いていた。
もし、私の妹と親友達も彼等と共に「選ばれた人間」として救われていたなら、
私もこのショーを楽しく鑑賞していたのだろうか……。
この世に「もし」なんてモノは存在しない。そんな事は分かっている。
しかし、この答えの出ない仮定の話が、ずっと私の頭から離れなかった。
私には、自分が選ばれるべき人間ではないという自覚があった。
その事で煩悶し、それこそが私と彼等の違いだと考えていた。
私の方が「心」を持った「人間」として上位な存在であるのだと。
だが、果たして本当にそうであろうか?
一般居住区の人間や、未だに施設外にいる人間からしてみれば、私とて彼等と同類なのだ。
実際、私はムギちゃんによって「選ばれた人間」なのだから。
いくら悩み苦しもうが、今の待遇を享受している時点で、私に彼等を批判する権利など無い。
偽善者。
そう、私は偽善者なのだ。
彼等と同じ厚遇を受けながら、彼等を批難し、自らを崇高な「人間」であろうとしている。
私は彼等よりずっと低劣な人間じゃないか。
そもそも、私に人間の「心」などあるのだろうか。
私の「心」は、憂達が死んだ時に既に壊れてしまったのだ。
今の私か持っている心は、「平沢唯」を演じる為の贋作の心。
本物の「心」じゃないんだ。
例え人形が命を吹き込まれたとしても、人間になどなれぬのだ。
そう、私は偽善者以下。
もはや人ですらないのだから。
全てが偽り、嘘で塗り固められた仮面。
それが真実だ。
紬「そろそろ私達の出番が回ってくるわ。舞台袖に行きましょう」
ムギちゃんの言葉で私は我に返った。
そうだね、と応え、私達は舞台袖に移動した。
そこには既に、出番を待つ有名人達がいた。
私達は彼等に挨拶をし、隅の方で待機した。
暫くして、プロデューサーが声を掛けて来た
プ「平沢さん、琴吹さん、そろそろ準備をお願いします」
私達はスクリーン裏に移動した。
事前に打ち合わせをした通り、機材が指定の場所に配置されていた。
斉藤「平沢様、ギターをお持ちしました」
舞台袖から斉藤さんが、私のギターを持って現れた。
大きなギターを持って移動をすると人の邪魔になる為、
斉藤さんに後から持って来て貰う手筈になっていたのだ。
唯「ありがとうございます」
斉藤「いえ、お二人の演奏を楽しみにしております」
斉藤「紬お嬢様、今までの成果を存分に出されますよう、心から願っております」
紬「ありがとう、斉藤」
斉藤「それでは、失礼致します」
斉藤さんはそう言うと、舞台の陰に消えていった。
スクリーンと幕が上がる。
司会が私達を紹介する。
その主な内容は、この前のクリスマスパーティーでの事だ。
司会は私を持ち上げ、会場の空気を熱くする。
司会「それではお願いします」
司会はMCを私に受け渡す。
私は深呼吸をし、心を落ち着けた。
唯「皆さんこんばんわ、平沢唯です。隣にいるのは琴吹紬ちゃんです」
唯「私達は、東京の桜ヶ丘高校の軽音部で『放課後ティータイム』というバンドを組んでいました」
唯「私達のメンバーは他に8人いましたが、今はもういません。
みんなは傷付き、苦しみ、それでも私を必死に危険から守ってくれました。
今、私がここにいるのは、その素晴らしい仲間達のお陰です。
この場を借りて、彼女達にお礼と謝罪をしたいと思います」
唯「みんな、ありがとう。みんなのお陰で、私は今もこんなに元気です。
そしてごめんなさい。私はみんなの苦しみを全然知りませんでした。
親友として失格だよね。もし、もう一度みんなに会えるなら、私は……」
私の瞳から涙が溢れ出した。嗚咽で上手く言葉が出て来ない。
ムギちゃんがハンカチを取り出し、私の涙を拭いながら、背中を優しく撫でてくれた。
これは全部偽りの涙だ。
私が「平沢唯」を演じているから出てくる、ただの水だ。
絶対そうだ。そうでなくちゃいけないんだ。
なのに何故、私は今、言葉を発する事が出来ないのだろう。
苦しい。
何でこんなに胸が締め付けられるの?
やっぱり私には出来ない。
皆に対する想いだけは偽る事が出来ない。
それは私の弱さ。
でも、それが私の強さでもあるんだ。
唯「ごめんなさい……」
会場から、頑張ってという声援が聞こえた。
唯「私には、憂という妹がいました。私が世界で一番愛している人です。
可愛くて、しっかりしていて、優しくて、たまに甘えん坊で……。
駄目駄目な私を、いつもしっかり支えてくれていました。
憂、こんな駄目なお姉ちゃんでごめんね……」
唯「憂は、世界で一番素敵で最高な妹でした。
私は憂のお姉ちゃんでいられて、本当に幸せでした」
唯「この曲は、その妹の為に作りました」
唯「今日は、『放課後ティータイム』として皆さんの前で演奏したいと思います」
ステージの上の、誰もいないドラム、ベース、ギターに目をやる。
しかし、私にはしっかりとその姿が見えていた。
りっちゃん、澪ちゃん、あずにゃん……。
そして、会場に見える5つの空席。
斉藤さんに無理を言って取って貰った席。
憂、和ちゃん、純ちゃん、いちごちゃん、しずかちゃん……。
私はここにいるよ。みんなのお陰で今、ここにいるよ。
唯「聴いて下さい。『U&I』!」
憂、聞こえる?
お姉ちゃんはここにいるよ。
この曲はね、憂の為に作ったんだよ。
憂に伝えたい気持ちを、いっぱいいっぱい込めて作ったんだよ。
世界で一番大切な憂、世界で一番大好きな憂。
その想いが、いっぱいいっぱい詰まっているんだよ。
憂はいつも私にご飯を作ってくれていたよね。
私ね、憂のご飯がどうしてあんなに美味しいのか、漸く気付いたよ。
憂はご飯を作る時、こういう気持ちを込めて作っていたんだね。
だから、憂のご飯は最高に美味しかったんだね。
当たり前の事だと思っていて気付けなかった事、憂に謝りたいよ。
近過ぎて気付けなかった憂の想い、優しさ、今更気付いても遅過ぎるよね。
だけど、どうしても憂に伝えたい想いがあるんだ。
だから、この曲に乗せて君に届けたい。
私は、憂が何処に居ても、この想いが必ず届くって信じてる。
演奏が終わると、盛大な拍手と喝采が会場から溢れた。
ありがとうございます、私とムギちゃんは深々と頭を下げた。
舞台袖に戻ると、斉藤さんや他のアーティストが励ましの言葉と共に拍手で迎えてくれた。
斉藤「お二人とも、素晴らしい演奏でした」
唯「ありがとうございます」
紬「皆さん、ありがとう」
私達は会場の席に戻らず、そのまま部屋に帰る事にした。
プロデューサーには、最後のカーテンロールにも出て欲しいと懇願された。
しかし、私達は体調不良を理由にそれを辞退した。
実際、私は演奏で全ての力を使い尽くし、足元もフラフラになっていた。
私は、斉藤さんに抱き抱えられる様にして部屋まで送って貰った。
斉藤さんからは、ムギちゃんと同じ温もりを感じていた。
1月1日
新しい一年が始まると同時に、私達にも大きな変化が訪れていた。
クリスマスと大晦日のライブによって、私達の知名度は鰻登りに上昇していた。
部屋を出て食堂に行くと、待ち構えていたかの様に人が集まり、すぐに人垣が出来た。
調理をしている時も食事をしている時も、多くの視線が私達に付き纏った。
その者達は私達に近付こうと、どうでもよい話や質問などを次々と投げ掛けてくる。
私は、当たり障りの無い受け答えで、その場をなんとか切り抜けた。
午後、医務室でムギちゃんと別れプールに行くと、そこでもまた同じ様な事が起こった。
水着姿の私に、男達の舐める様な視線が集中する。少し気持ちが悪い。
私はいつもより早めに泳ぐ事を切り上げ、大浴場で体を流し、部屋に戻った。
私達の部屋は、特権階級の中でも一部の者しか入れない場所にある。
部屋の前まで彼等が来ない事がせめてもの救いだった。
私達の平穏な日常は失われてしまった。
私は待ち伏せていた男達を掻き分け、ムギちゃんのいる医務室に向かった。
男達は医務室の中にまで来て、ムギちゃんから私の情報を探っていたらしい。
それには流石に医師も怒り、彼等を追い出してくれたらしい。
ここから部屋に戻るまで、またあの男達の中を潜り抜けて行かねばならないのか。
私は、斉藤さんから貰った特殊な携帯で彼を呼んだ。
この携帯は、施設内及びその周辺なら今でも使う事が出来るのだ。
斉藤さんには、今まで散々お世話になっている。
出来るだけ迷惑は掛けたくないけれど、
ムギちゃんの事も考えると、彼を呼ばざるを得なかった。
この時間は忙しい斉藤さんだが、私達の為に彼はすぐに駆け付けてくれた。
彼は周囲の男達を追い払い、私達を部屋まで送ってくれた。
部屋で、私達は今日の状況を彼に話した。
困りましたね、彼は頷き、右手を顎に当て考えを巡らしていた。
斉藤「状況は分かりました。私がなんとか致しますので、
今日の所は出来るだけ部屋から出ないで下さい」
唯「斉藤さんには毎回迷惑ばかり掛けてしまってすみません……」
斉藤「いえ、お二人を助ける事も私の仕事ですから」
斉藤さんはそう言うと優しく微笑んだ。
斉藤「それでは紬お嬢様、平沢様、失礼致します」
唯「あ、斉藤さん……」
斉藤「なんでしょう?」
唯「私の事は唯って呼んでくれませんか……?」
斉藤「……畏まりました、唯様」
斉藤さんは私に笑顔を見せ、それでは、と部屋を出て行った。
翌日、私達に再び静穏な日々が帰って来た。
私達に男達が近付けない様、斉藤さんが裏で何かをしたのだろう。
今でも、遠くから私達を眺めている男達はいる。
しかし、昨日の状況に比べれば全然ましだった。
そんな中、昼食を取っていた私達に、20代半ば位の若い男が近付いてきた。
眉目秀麗なその男は、今までに私達に近付いてきた男達とはオーラが全く違う。
圧倒的存在感、カリスマ性とでもいうべき物を彼は持っていた。
?「君が琴吹紬さんだね?」
いつもの男達とは違い、私ではなくムギちゃんに用がある様だ。
紬「ええっと……どちら様でしょう?」
?「あはは、僕、こう見えても有名なアーティストなんだけどね」
男は爽やかな笑顔を見せた。
普通の女性がその笑顔を見たならば、即恋に落ちてしまうかもしれない。
紬「ごめんなさい……」
?「君も僕の事、知らない?」
男は私に話を振って来た。
唯「はい……。すみません……。」
?「あはは、ちょっと悲しいなぁ……」
男は自分の素性を語り出した。
彼は今、音楽業界で一番売れているロックバンドのボーカルだった。
バンド名を聞いて、私は思い出した。
確か、純ちゃんが嵌っていたバンドだ。
クラスメイトの何人かが、そのファンクラブに入っているという噂も聞いた事がある。
私も一度、純ちゃんからCDを借りて聴いた事がある。
正直に言うと、散々な演奏、歌……。
それでも彼等は人気ナンバーワンのバンドで在り続けていた。
その理由は簡単だった。
彼等のバンドは、全員が並外れて美しいルックスを持っていたのだ。
さらに、彼等は皆権力者、金持ちの子息達だった。
ボーカルのこの男は、国会の有力議員の息子だ。
私はこの男より、議員の父の方をテレビでよく見て知っていた。
ボ「僕の父が、紬さんのお父さんに凄くお世話になっているんですよ」
紬「はぁ……」
ボ「本当はクリスマスの時に紬さんに挨拶をしたかったのですが、
ちょっと用事がありまして、パーティーに参加出来なかったんです……」
そう言うと、ボーカルは突然涙を流し始めた。
私とムギちゃんは、突然の出来事に驚き狼狽した。
紬「えっ? えっ? どうかなさったんですか?」
ボ「すみません……。その……非常に言いにくいのですが……」
ボ「紬さんの姿を見て……凄く辛い目に遭われたのかと思って……。
僕の父と一緒に写っていた写真の姿からは変わり果てていたので……」
ボーカルは目に涙を溜め、悲しみの表情でムギちゃんを見詰めた。
紬「えっ……」
ムギちゃんの態度が少し女の子になっていた。
ボ「その……女性の容姿について失礼な事を言ってすみませんでした。
ただ、これだけは信じて下さい。僕は貴女の力になりたいんです。
貴女は、父が色々お世話になっている方の御令嬢ですから」
紬「あ、ありがとうございます……」
ムギちゃんは顔を真っ赤にして俯いた。
ムギちゃんはいつも、女の子達が仲良くしている所をうっとりと眺めていた。
だから私は、彼女が男性に余り興味を持っていないのだとばかり思っていた。
しかし、それは間違いの様だった。
彼女が今、この男を異性として意識している事は明らかだった。
ムギちゃんはボーカルに恋をしてしまった様だ。
★11
ボ「突然こんな事を言ってすみませんでした。
それでは、僕はこれで失礼します。
お二人には迷惑を掛けたくないですし……。
紬「いえ、そんな事は……」
ボ「昨日の様子は僕も見ていました。
お二人が迷惑そうにしていたので、助けてあげたいと思ったのですが、
周りの男達の勢いに圧倒されてしまって何も出来ず……。
力になりたいとかカッコいい事を言っておいて、お恥ずかしい限りです」
紬「そんな事ないです! ボーカルさんのお気持ち、とっても嬉しいです!」
ボ「ありがとうございます。もし宜しければ、これからもお友達として……」
紬「はい、是非……」
ボ「良かった……。突然こんな事言って、嫌われはしないかと心配だったんです」
紬「私、ボーカルさんの事、嫌いじゃないですから……」
ありがとう、彼はそう言うと、女神の心すら簡単に奪える程の微笑みを見せ去って行った。
その後のムギちゃんは、ずっと上の空だった。
憂いの表情で、たまに溜め息をつく。
今の私では、彼女を笑顔にさせる事は出来なかった。
彼女の心は、完全にあの男に奪われてしまっていた。
ムギちゃんにとっての私の存在が、あの男より小さい物だとは思わない。
しかし、私に対する「好き」と、彼に対する「好き」は明白に異なるものだ。
友情と恋愛。
私には持っていない物を、彼は持っている。
私は決して彼の代わりにはなれないのだ……。
そう思うと胸が苦しくなり、私の胸に小さな綻びが生まれた。
次の日から、彼は私達の食事の時間に必ず現れるようになった。
私達は、彼の分の食事も作るようになった。
二人分の食事が三人分になった所で、大して手間は変わらない。
彼は私達の食事を絶賛し、美味しそうに口に運んでいた。
その姿を見て、ムギちゃんは満面の笑みを浮かべた。
私に見せる笑顔とは、種類の違う笑顔だった。
ムギちゃんは、以前よりも外見を気にするようになっていた。
服選びの時間が増え、軽めの化粧もし始めた。
「乙女」のムギちゃんは、とても楽しそうだった。
私は彼の存在を受け入れる事にした。
ムギちゃんの幸せは、私にとっても幸せなのだから。
もちろん、私が彼女を幸せに出来るのならば、それが一番良い。
しかし、私は女であった。男ではないのだ。
私には絶対に出来ない事が、彼には出来るのだ。
出来ない事をしようとしてはいけない。失敗するだけだから。
私は、私に出来る事しか出来ないのだ。
ある日、彼が何の前触れも無く、私達の部屋を訪ねて来た。
何故、突然彼はここにやってきたのだろうか。
そんな私の疑問を、ムギちゃんの言葉が解消させた。
彼は、私の知らない間にムギちゃんと会っていたのだ。
いつでも一緒の私とムギちゃんだったが、確実に離れる時間があった。
ムギちゃんが点滴を受ける時間だ。
その時間帯に彼は医務室に通い、ムギちゃんと親睦を深めていた。
ムギちゃんの意向により、医師も彼を医務室に入れる事を了承していた。
ここ最近ムギちゃんの機嫌が良かったのは、それが原因だったんだね。
そして今日、彼がここに来る事を既に承諾していたのだ。
ムギちゃんは私に謝った。私にそれを伝えなかった事を。
私がムギちゃんを追及や叱責する事など出来る筈も無かった。
私は笑顔で彼を迎え入れた。
部屋にあったお菓子とお茶で、ムギちゃんは彼をもて成した。
ムギちゃんと彼は、テーブルを挟んで楽しそうに談笑していた。
とても楽しそうにお喋りをするムギちゃんを見て、
私はとても優しく穏やかな気持ちになっていた。
一時間程歓談し、彼は帰って行った。
次の日、私がプールで泳いでいる所に彼が現れ、話し掛けて来た。
ボ「昨日は突然お邪魔しちゃってごめんね」
唯「いえ、ムギちゃんも楽しそうにしていましたし、私は気にしてませんから」
ボ「そっか。でも、昨日冷静になって考えてみたら、
女の子の部屋に許可無く行くのはまずかったかなって……」
唯「ムギちゃんが良いって言ったのでしょう?」
ボ「そうなんだけど、あそこは紬さんだけの部屋じゃないからさ……。
だから、昨日の反省も込めて、これからはあの部屋には行かないようにするよ」
律儀な人だ。
唯「いえ、本当にそこまで気を遣って貰わなくても大丈夫ですよ。
ボーカルさんが来るとムギちゃんも喜びますし」
ボ「そっか……、分かったよ。ありがとう、唯ちゃん。
また機会があればお邪魔させて貰うよ」
私はちゃん付けなんだ。
ボ「それじゃあ唯ちゃん、また夕食の時に」
唯「はい、ではまた」
彼はそう言うと、颯爽とその場から去って行った。
1月20日
それから二週間が過ぎた。
彼は毎日、点滴をしているムギちゃんのお見舞いに行っている。
その所為もあって、彼女は点滴の時間を楽しみにする様になっていた。
一人で寂しい思いをしているのではないかと心配していた私にとって、
彼がその時間にムギちゃんに付き添ってくれている事は好ましい事だった。
私は彼に感謝をした。
その日の夜、ムギちゃんと3度目の点滴の為に医務室に行った時の事だ。
彼女を医師に任せ医務室を出た時、そこにはボーカルが立っていた。
唯「あ、ムギちゃんはこれから点滴する所ですよ」
ボ「うん、知ってるよ。今日は唯ちゃんに話があって来たんだ」
唯「私に……ですか?」
ボ「そう。紬さんの事でちょっとね……。
ここじゃ何だから、僕の部屋まで来て貰って良いかな?」
ムギちゃんの事?
唯「……分かりました」
私は彼に案内され、彼の部屋に向かった。
ボ「ここが僕の部屋だよ」
唯「お邪魔します……」
ボ「いらっしゃい」
彼は笑顔で私を迎え入れた。
初めて入る、男性の部屋。
部屋に入ると、今まで嗅いだ事の無い、男性の匂いがした。
見晴らしが良いスイートルーム。
私達と同じ程度の等級の部屋。
それだけで、彼がどの位ここで権力を持っているかが分かる。
彼は私達に匹敵する程の権力を持っている。
唯「ところで、ムギちゃんの事って……」
ボ「そんなに焦らないで。とりあえず、これでも飲んで落ち着こうよ」
彼は奥の部屋から、液体が入ったグラスを2つ持ってきた。
強烈なアルコール臭がする。これはお酒だ。しかもかなり度が強い。
彼はムギちゃんの年齢を知っているのだから、同級生である私の年齢も知っている筈だ。
にも拘らず、私の方へ臆面も無く普通にグラスを差し出した。
唯「私、未成年ですからお酒はちょっと……」
ボ「でも、君達の部屋にもお酒があったよ? 飲み掛けの。
しかもあれ、かなり度数の高い奴だよね。そういうのが好きなのかなって思って」
この男、私達の部屋に来た時に、お酒の事に気付いていたのか。
ボ「唯ちゃんと紬さんは、悪い子なのかな?」
彼は優しく微笑みながら言った。
その笑みは余りにも爽やかで、悪意の様なモノは感じられない。
彼の真意が分からず、私は動揺した。
ボ「ホントはね、君達の部屋に行ってそれに気付いた時、注意しようかって思ったんだ。
でもね、唯ちゃんも紬さんも悪い子って感じはしないし、とりあえず様子を見る事にしたんだ」
唯「……。」
ボ「飲みなよ。お酒、好きなんでしょ?」
唯「……お酒が好きなワケじゃありません」
ボ「じゃあどうして君達の部屋にお酒があったのかな?」
唯「ムギちゃんは、酷い不眠症なんです。睡眠薬をアルコールで飲まないと眠れないんです」
ボ「そっか……。彼女のあの姿を見れば、それも納得だ。
すまない、僕の勘違いだったようだ。
うーん、この注いだお酒、どうしようかな。
本当はこれで君と乾杯をしたかったのだけれど……」
唯「……乾杯?」
ボ「この世界で今、生き残っている事に、かな」
私の心臓が激しく波打った。
無意識の内に、私は胸を手で押さえた。
唯「私は、その事で乾杯する気にはなれません……」
ボ「自分の為に死んでいった子達がいるから?」
唯「……はい」
ボ「君も苦しんでいたんだね……。
でもね、君の考え方は間違っているよ」
唯「私の考えが……間違ってる?」
ボ「僕は大晦日の時の君を見ていたよ。
あの時君は、みんなが自分を守ってくれたと言っていたね」
唯「はい……。」
ボ「何でみんなが君を守ってくれたか分かるかい……?」
唯「はい……。」
ボ「みんな君の事が大好きだったからだよ」
唯「はい……。」
私の目から涙が溢れ始めた。
ボ「そんな君の友人達が、君が悲しむ事を望むと思うかな?」
唯「いいえ……。」
ボ「そう、誰も君が悲しむ事なんて望んでないんだよ……」
唯「でも……わたしは……」
ボ「唯ちゃんは優しいんだね。でもね、時にその優しさが人を傷付ける事もあるんだよ?」
私には彼の言っている意味が痛い程に理解出来た。
溢れるムギちゃんの優しさに、私は胸を痛めている。
ムギちゃんの優しさが、今の私には辛いのだ。
ボ「君の辛い気持ちは痛い程分かるよ。
でも、君はそれを乗り越えなくちゃいけない。
そして、今、生きている事に感謝しなきゃ駄目なんだ。
それが君の為に死んでいった子達の為でもあるんだよ」
唯「はい……。」
ボ「だから乾杯しよう? 今、ここに生きている事に」
唯「……はい。」
私は差し出された彼の手からグラスを受け取った。
ボ「今、僕と君が生きてここで出会えた事に……乾杯」
唯「乾杯……。」
私は彼とグラスを鳴らした。
透き通ったガラスの音色が部屋に響いた。
私と彼は、同時にグラスを飲み干した。
私は、飲み干した空のグラスを床に落とした。
私はお酒に弱いワケではない。
にも拘らず、グラスの酒を飲み干した刹那、私は平衡感覚を失った。
視界が回りだし、世界が激しく揺らぎ、捻じ曲がる。
それと同時に、体の奥底から突き上げる淫猥な衝動。
心臓の鼓動が急激に早くなり、呼吸が荒くなる。
脳が一気に高揚し、現実と夢の境界が崩れ去る。
地面が激しく揺れ、まともに立つ事すらままならない。
私はフラフラと覚束ない足で必死に立とうとした。
しかし、上手くいかない。
私は何度も倒れそうになりながら、部屋の中を右往左往した。
その際、手で部屋の置物を弾き飛ばし、それらが床に散乱した
朦朧とした意識の中、私は彼の顔を見た。
ぼやける視界の中で、それははっきりと見えた。
彼は笑っていた。
その時、私は全てに気が付いた。
しかし、その時は既に遅かった。
体の自由を奪われ、私は抵抗する力を殆んど失っていた。
やられた。
私は彼に「薬」を盛られた。
ボ「唯ちゃん、調子が悪いのかな?」
彼の言葉が、エコーとリバーブを最大にしたカラオケボックスの中の様に私の頭に響く。
ボ「こっちにおいで……」
彼が私に近付いてくる。
唯「こな……い……で……」
私は急速回転するメリーゴーランドの様な部屋の中で、彼から逃れようと必死に歩いた。
ドアを目指して歩いていた私は、玄関ではなく、奥の部屋に方に来てしまっていた。
コーヒーカップを限界まで回した様な感覚で、私は立っている事すら出来なくなった。
私はベッドに倒れこんだ。
彼がゆっくり近付いてくる。
そうだ、電話をしよう、私は服から携帯を取り出した。
手当たり次第、必死にボタンを押す。
しかし、いつの間にか私の手から携帯は落ちてしまっていた。
彼は落ちた携帯を拾い上げた。
そして電源を切り、近くの机の上に置いた
彼は上着を脱ぎ始めた。
彼の上半身はプールの時に既に見た。
しかし、部屋の黄色い明かりに照らされた男の肉体は、
プールで見たそれとは全く違う物だった。
私は必死に逃れようと踠いたが、柔らかいベッドに沈み、身動きが取れなくなった。
動けない私の上に、彼はゆっくりと覆い被さって来た。
唯「なん……で……こん……な……こ……と……」
ボ「なんでって……僕は最初から唯ちゃんの事を狙っていたんだよ?
一目見た時から、君を食べたいって思ってたんだ」
彼の手が私の内腿を愛撫した。
唯「……っ!?」
その瞬間、私の全身に電流が駆け巡る。
初めて感じる、性的快感。
私は体を弓形に仰け反らせた
ボ「気持ちいいだろ? これからもっと気持ち良くしてやるからな……」
彼の雰囲気が一変し、その目からは男の欲望が満ち溢れていた。
彼は私の上に跨がり、私の服のボタンを外し始めた。
唯「んっ……や……やめ……て……」
彼は私の言葉を無視し、慣れた手付きでブラのホックを外す。
露になった私の乳房を、彼はゆっくりと、そしてねっとりと揉み拉いた。
唯「ん、んんっ……あっ、や…ぅ………やめ……んっ!」
彼は、私の唇に自らの唇を押し付けた。
唯「んっ、んふっ……んんっ!?」
彼は私の乳房を刺激しながら、唇を甘噛みする。
私は口をしっかりと結び、彼の進入を必死に防ごうとした。
しかし、そんな私の抵抗は無意味だった。
彼は私の口の中に自分の舌を強引に捻じ込んで来た。
唯「むっ!?んんっ……むぅ……ん……んっん……んんん!」
私の口内を、彼の舌が縦横無尽に蹂躙した。
何とか彼から逃れようと、私は必死に体を捩ろうとした。
しかし、彼がそれを許さなかった。
彼は私の両腕の上腕部をしっかりと押さえ、私は身動き一つ取れなくなった。
私は彼の為すがままにならざるを得なかった。
彼は口を窄め、その先を私の口内に挿入させた。
そして、強力な吸引で私の舌に吸い付いてくる。
私の舌はその吸引力に抗う事も出来ず、彼の口に呑み込まれた。
唯「っん……んふぅ……っんぐっんぐ……っんむふぅ……!」
彼の口先は吸盤の様に吸着し、私の舌は逃れる事など出来なかった。
そのまま彼は私の舌をさらに引き摺り出し、貪るようにしゃぶり付いた。
私の舌は強く吸引され、そこに彼の舌が絡み付いてくる。
唯「っんむぐ……っんぁ……っっん……んぁんっ!!」
快楽が大きな津波となって私に襲い掛かり、呑み込もうとする。
性的快感が私の体を仰け反らせ、捩れさせる。
彼からの脱出を試みるも、全て無駄だった。
体は固定され、舌も彼のそれに絡め取られ、抜け出す事など出来ない。
私の舌に、更なる刺激が加えられる。
唯「っんぷ……ん゛! んむぅふ……!? っっん゛ん゛ん゛ーーーー!!!」
全身が蕩ける様な感覚に陥り、頭が真っ白になる。
それでも彼の前戯は止まらず、私に性的悦楽の刺激を与え続けた。
それでも動いて何とか逃れようとする私に、彼は新たな手段を用いた。
私を俯せにし、近くにあったネクタイで、私の両手を後ろ手に縛り上げた。
私の上半身は完全に固定され、私の抵抗は完全に封じられてしまった。
彼は俯せになっている私に覆い被さり、後ろから私の首に舌を這わせた。
快感が走り、私は体を反らせた。
男は私を仰向けにし、固くなった桜色の乳首にしゃぶり付いた。
唯「ぁっ……ん……ぅっ……っんん……んぁっ……」
その後ゆっくりと、時間を掛けて私の体を隅々まで舌を這わせた。
まるで蛞蝓が全身を這いずり回るかの様に。
白く肌理細やかな肌の上を、ゆっくり、ねっとりと、私の汗を絡め取る。
その軌跡には彼の唾液が残り、厭らしい臭いを放っていた。
心が否定しようと、体は本能的に反応する。
気が付くと、私の下着はぐしょぐしょに濡れていた。
それでもなお、私の秘部からは愛液が止め処無く溢れ出していた。
私の体は、既に男を受け入れる準備を整えていた。
彼は私のスカートを脱がし、さらには私の下着に手を掛け、スルスルとそれを剥ぎ取った。
私の下半身を纏う布はもう何も無い。
彼は私の陰部に顔を近付けた。
そして彼は、入念に私の内股を舐め始めた。
更なる快感が私を襲う。
彼が舌を這わせる度、私は声を上げ激しく仰け反った。
続いて彼は、私の一番神聖な部位に舌を這わせ、そこにそれを捻じ込んだ。
私は外部からの異物を初めて受け入れてしまった。
唯「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛っっっっっっっ!!!!!??????」
今までとは次元の違う、強烈な刺激が私の脳を揺さぶった。
唯「っんぁ……ぁふ……あっ……っんぐ……っんぐっんあああっっっっーーーー!!!!!」
余りの快感に体を捻らせくねらせ仰け反らせながら、私は大声で嬌声を上げてしまった。
さらに追い討ちを掛ける様に、男の指が私の中に進入する。
どこをどの様に刺激すれば乱れるのか、彼は私の体を、女の体を熟知していた。
厭らしい音を立て、私の中で緩急をつけ蠢く彼の指。
彼の指が動く度、私の脳に激しい電流が流れ、私は声を上げ体を捩じらせた。
声を上げる、体を弓形に仰け反らせる、それが彼を益々興奮させる事は分かっていた。
私は必死に口唇を噛み締め、体に力を入れてそれを防ごうとしていた。
それが私に出来る、最後の抵抗だったからだ。
しかし、その抵抗は彼の攻めによって、いとも簡単に崩されていた。
まるで、最初から私の抵抗など無かったかの様に。
彼は私の体を完全に支配していた。
彼は彼の意思によって、自由に私を鳴かせ、喘がせ、善がらせ、捩じらせ、仰け反らせる事が出来る。
そこに私の意思など一切無い。
私は完全に自分の体のコントロールを失ってしまったのだ。
私は今、生まれて初めて他者に自分の体の全てを征服されてしまった。
しかもそれが私の望んだ相手ではなく、憎むべき者にだ。
こんな男に全てを奪われるなんて……。
私の目から涙が溢れ出した。
しかし、それさえも男を興奮させる媚薬に過ぎなかった。
彼はゆっくりと自分のズボンを脱いだ。
彼の下着の中央部分が不自然に盛り上がっている。
続けて下着も脱ぐ。
不自然な隆起を作っていた原因が露になった。
初めて見る、自分には無い物。男性の性器。
保健体育の教科書に描かれていたそれとは違い、大きく、逆立ち、反り返る異物。
先からは透明な液体が洩れだしていた。
唯「ふごっ!? んんんっ………ん゛ん゛!!」
彼は自分のそれを、私の口に無理矢理押し入れた。
汗のしょっぱさに混じり、何とも形容しがたい味がする。
彼は腰をゆっくりと前後に動かした。
彼の肉棒が私の口の中を欲望のままに犯した。
私は朦朧とする意識の中で、彼の急所を噛み切ってやろうかと考えた。
しかし、私にはそれをする力さえ残っていなかった
彼の肉棒は私の喉をも突き、私は吐き気を催した。
彼の口内陵辱が終わった。
いよいよ私の秘部が彼の最大の進入を許す時が来てしまった様だ。
私の神聖な部分を守る障壁は何も無い。
唯「や……いや……やめ……て……おね……がい……しま……す……」
私は涙を流しながら彼に懇願した。
それが無駄な行為である事は分かっていた。
むしろ事態を悪化させるという事も。
しかし、そう言わずにはいれなかった。
案の定、彼の肉棒は血管が浮き上がり、はち切れん許りに膨張していた。
こんなにも大きなモノが、私の体の中に本当に入ってくるの?
いや……やめて……。
彼は私の両足を持ち上げ、その足が私の肩に付く位にまで押し上げた。
彼はただ、曝け出された私の秘部を凝視している。
恥ずかしさ、悔しさ、情けなさで、私の目からまた大量の涙が出てきた。
そして遂に、漲った彼の槍が私を貫こうとしていた。
次の瞬間、突然部屋の明かりが消え、辺りは闇に包まれた。
間近に迫っていた彼の顔すら全く見えない程の漆黒。
私の足を掴むその手から、私は彼の動揺を感じ取った。
どんどんどん、ドアを激しく叩く音がする。
「ボーカルさん、ボーカルさん!!!」
聞き覚えのある声だ。力強くも優しい声。
ボーカルが私から離れた。
しかしこの暗闇、自分の服すら何処にあるのか分からないだろう。
「開けますよ、ボーカルさん!!」
扉が開く音がした。
何人かが部屋に入ってくる足音がする。
懐中電灯の光が数本差し込んで来た。
ボ「何勝手に入って来てんだよ!!」
斉藤「申し訳ありません、施設に緊急事態が起きまして、安全を確認しに参りました」
斉藤さんの持っていたライトが、乱れた私を照らす。
事態を把握し、斉藤さんはすぐに光を私から外した。
斉藤「お楽しみの所を邪魔してしまい、申し訳ありません。
ただ、安全が確認されるまで、ソレはお控えする事をお願い致します」
斉藤「ボーカル様、申し訳ありませんがシーツを一枚お借りします」
斉藤さんは私をシーツで素早く包んだ。
シーツに包まれた私を、斉藤さんが抱き抱えた。
斉藤「この方は、私共が責任を持って部屋にお送りしますのでご安心下さい」
斉藤さんは近くにいた部下に、私の服と携帯を持ってくるよう指示した。
私はお姫様抱っこをされ、ボーカルの部屋から連れ出された。
非常灯のみの薄暗い廊下を、彼は迷う事なく進んで行く。
斉藤「彼に一服盛られましたな」
唯「……。」
斉藤「大丈夫ですか?」
唯「……遅い。」
斉藤「申し訳ございません」
唯「これが……ムギちゃん……だったら……取り返し……付かないよ?」
斉藤「肝に銘じておきます」
唯「でも……携帯で……助かったよ……。ありが……とう……」
斉藤「お役に立てて何よりです」
斉藤さんから渡された携帯には、通話とメール以外に二つの特殊機能が付いていた。
一つ目はGPS機能。
といっても、狭い範囲内、この施設及びその周辺でしかその機能は使えない。
しかしその分、より詳細にその位置を知る事が出来る様になっている。
これにより、私とムギちゃんの位置は常に把握されている。
例え電源が切れても、その時の最後の位置情報は斉藤さんの携帯に残っているのだ。
二つ目が、緊急コール機能。
携帯に緊急事態を知らせるボタンが付いていて、それを一回押すだけでいい。
そうすると、斉藤さんにすぐ緊急コールが送られるのだ。
後は、斉藤さんがGPS機能を頼りに、助けに来てくれるというワケだ。
私達の部屋に到着すると、斉藤さんは私を縛っていたネクタイを解いてくれた。
私をベッドに寝かせ、それから誰かに電話をしていた。
私の様態を見て薬物症状と判断し、それに効く薬を手配させたのだ。
その後、コップに水を汲み、私に差し出した。
ありがとう、私はお礼を言ってコップを受け取り、一気に飲み干した。
5分位して、斉藤さんの部下が薬を持ってやって来た。
直後電気も回復し、明かりも付いた。
この停電も、私を助ける為に斉藤さんが仕組んだ事だろう。
私は、斉藤さんの部下が持って来た薬を飲んだ。
今は21時20分を過ぎた所、ムギちゃんが帰ってくるまでにある程度回復出来るかな。
10分程して、薬が効いてきたのか、体が大分楽になった。
唯「気持ち悪い……。シャワーを浴びていいですか……?」
斉藤「はい、湯船に入らなければ問題ありません」
私はふらつきながらも浴室に辿り付いた。
一刻も早く、あいつの体液を全て洗い流してしまいたかった。
唯「斉藤さん、今日は斉藤さんがムギちゃんを迎えに行ってください」
斉藤「畏まりました」
唯「それと、先程は本当にありがとうございました」
斉藤「いえ」
斉藤「唯様……」
唯「何?」
斉藤「……彼をどうしますか?」
一瞬沈黙が流れた。
唯「斉藤さんは何もしなくていいよ。私は全然気にしていないし。
でも、ムギちゃんの事はしっかり見ててね。私も注意するから」
斉藤「……畏まりました」
斉藤さんも気付いている筈だ。
ムギちゃんが、彼に対して好意を持っている事を。
彼を排除するにしても、今回の事を打ち明けるにしても、
結局ムギちゃんを傷付けてしまう事になる。
私達には考える時間が必要だった。
ムギちゃんを傷付けず、彼を排除する方法を考える時間が。
彼は用心深く、用意周到。
私に接近する為、かなりの時間を掛けてムギちゃんに近付いた。
彼女の気を引いたのは保険。
私も斉藤さんも、ムギちゃんの事を何より大切に思っている。
彼女が傷付く事を、私達はしないと見透かされている。
恋は盲目。
けれど、私や斉藤さんとの絆は、そんな物で壊れる程脆くはない。
しかし、私達に躊躇させる。
頭で分かっていても、本能的な部分で恐れているのだ。
ムギちゃんとの関係が崩れてしまわないか。
私達には、それが0%と言い切る勇気が無かったのだ。
さらに、彼を排除するに当たってもう一つの問題があった。
彼の父親である。
彼の父親はかなりの力を持つ国会議員だった。
その権力は、琴吹家に勝るとも劣らない。
その息子に手を下せば、色々と都合が悪い。
彼の父親を説得し、味方に付ける?
いや、息子の愚行など、既に全部お見通しだろう。
それでもなお息子を放任しているのだから、説得など出来る筈もない。
私が琴吹家の権力に守られている様に、彼もまた権力に守られている存在なのだ。
権力とは味方に付けば心強いモノだが、敵に回すとこれ程厄介なモノなのか。
しかし、結局の所、彼の狙いはムギちゃんではなくこの私なのだ。
私が我慢し、彼を受け入れれば、全て丸く収まるではないか。
私が助けを求めれば、琴吹家は動く。
しかし、私の個人的感情で琴吹家の力を借りていいのだろうか?
私は今回緊急コールを押してしまったが、別に命の危機があった訳ではない。
あそこで助けを呼ばなくても、私の処女が失われただけで、それに実害などない。
もしかしたら、一番良い解決法は、私が彼を受け入れる事なのではないだろうか。
浴室から上がると、そこに斉藤さんの姿はもう無かった。
脱衣所に私の着替えが置いてある事には流石だなと感心した。
寝巻きに着替え、ベッドの上で私はムギちゃんの帰りを待っていた。
暫くして、ムギちゃんと斉藤さんが帰って来た。
斉藤さんはムギちゃんを部屋の中まで送り届けると、すぐに帰って行ってしまった。
紬「唯ちゃん、今日は斉藤が迎えに来てくれたのだけれど、何かあったの?」
唯「うん、ちょっと体が汚れちゃって、どうしても先にお風呂に入りたくて……」
嘘は言っていない。
紬「そうなんだ」
何事も無いと知ると、ムギちゃんの顔に笑顔が戻った。
ムギちゃんは本当に優しい。優し過ぎる。
紬「そういえば、さっきの点滴の時に、彼、来なかったの……」
ムギちゃんは寂しそうな顔をした。
唯「もしかしたら、用事があって忙しかったのかもしれないね」
実際私をレイプしようとして忙しかったのだから、これも嘘ではない。
紬「残念だわ……」
次の日、彼はいつもと変わらず、何食わぬ顔で私達の作った朝食を食べに来た。
用心深い割りに、時として大胆な行動に出る。
これ程やりにくい相手はいない。
朝食を済ませ、朝の点滴に行くムギちゃんに、
今日は忙しくて見舞いに行けないと彼は謝罪した。
分かっている。
私に用があるんでしょ?
思った通り、医務室でムギちゃんと別れた後、彼はすぐさま私に話がしたいと接触してきた。
彼は自室か私達の部屋で話し合いたいと提案してきたが、
そんな事、昨日の今日で受け入れられるワケがなかろう。
最終的に、食堂で話す事になった。
この時間帯なら人も少なくて好都合でしょ?
沈黙を最初に破ったのは彼だった。
ボ「昨日はごめん、ちょっと調子に乗り過ぎちゃって……」
未成年に「薬」まで盛っておいて何を今更……。
私は湧き上がる怒りの感情を、何とか宥めた。
今、ここで事を大きくしても何の得にもならない。
唯「……もう、そのキャラしなくてもいいですよ。」
私がそう言うと、少し間を置き、男の雰囲気が豹変した。
ボ「そうだね、唯には本性バレてるから、まぁいいか」
いきなり呼び捨てか。
ボ「単刀直入に言おう。僕の女になれよ」
キャラが変わり過ぎだよ……。
でも、その方が全然分かり易いよ。
唯「……。」
ボ「僕の女になる事に、不満なんてないだろう?
僕は日本のトップアイドルだよ?
顔良し、金持ち、地位も在る。生まれながらの勝ち組さ。
僕の愛人になりたいって女だって、ごまんといるんだ」
性格は最悪じゃないか……。
ボ「唯だって、昨日は凄く感じていたじゃないか。
君の鳴き声も善がった顔も最高だったよ。
本当は嫌いじゃないんだろう?
今度はもっとイカせてあげるからさ」
唯「……。」
ボ「本当に嫌だったのなら、あんなには感じないよ?
君は僕を本能的に求めているんだ」
私の心臓がビクッとなった。
彼は私に精神的な揺さ振りを仕掛けてきていた。
続き
唯「ゾンビの平沢」【後編】