5歳の子供の将来性を、誰が正確に査定できるだろう。
俳優プロダクションで長年プロデューサーとして子役に携わり、その方面ではちょっとした目利きだと自負している僕ではあるが、もちろん完璧にはほど遠い。
ルックス、物覚え、人見知りはしないか、集中力はどうか、カメラに怖じることはないか。
両親の方針はどうか、そもそも本人の意欲は?
事前にある程度の『選別』を行うことはできるが、それだって今この時のハズレを減らすことができるだけで将来を見越すには至らない。
子供は変わる。
そして子供を取り巻く環境もまた変わるものだ。
元スレ
【モバマス】あの日の月を仰ぎ見て
http://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1607957384/
輝くような容貌の少年が、ほんの数年で驚くほど凡庸な顔立ちになってしまうことがある。
天才と思えた子がほんの小さな課題を乗り越えられず、埋没してしまうこともある。
優秀で現場の受けも良かった子が、あるときぱたりと意欲を失ってしまうこともあった。
本人の才能や意欲だけの問題なら、まだ事は簡単だ。
当たり前だが5歳の子供がはっきりした志望を持っているなんていうことは本当に希で、たいていの彼らは親の意図によって芸能界に放り込まれる。
大人の役者志望ならほかの何を捨てても役者になりたいというはっきりした意志を持っているが、子役志望の子供たちの多くはそうした動機を持たずに芸能活動を始めさせられるのだ。
成長して自分を客観視できるようになってくるにつれそうした状況を嫌って芸能界と決別した子。
他にやりたいことを見つけて別の世界に飛び込んで行った子。
そして、本人に才能や意欲があったのに親の方針の変化によって引退を余儀なくされる子……。
伸びず、埋没して。
力及ばず、この世界に居場所を失って。
自分の、親の。あるいは環境の変化に翻弄されて。
結局、最初どれほど輝いて見えたとしても、どれほど僕たちが手助けをしたとしても、少なくない数の『子役』たちはままならぬ事情でスポットライトの下から去ってゆく。
変わることなく舞台で脚光を浴び続け、成功し、そこで大人になって行くことが出来る……そんな子供はほんの一握りだ。
そして、彼女。
岡崎泰葉はそんな幸福な、一握りの例外だった。
5歳。
『今日から君を担当する、プロデューサーの香川です。よろしく』
『おかざきやすはです。ごさいです。よろしくおねがいします』
最初に交わした挨拶、ちょっとした緊張とともに下げられる頭と揺れる髪。
長崎から両親に連れられてやって来た幼顔の少女は第一印象こそ凡庸だったが、僕たちはすぐにその存在を強く意識することになった。
岡崎泰葉には、才能があった。
ただしそれは天才的な演技の才能があるとか、輝くような個性があったとか、そういう類のものでは無い。
子役としての岡崎泰葉最大の才能は、その理解力だ。
誰かの指示を理解する。
台本の意図を理解する。
その上で自分が何をしなければならないかを考え、正確に把握する。
岡崎泰葉という子は、その点ではっきり他の子と差を付けていた。
むろん、彼女の美点はそれだけじゃなかった。
努力を苦にしないこと。
負けん気が強いこと。
集中力。
仕事というものにプライドと責任を持っていること。
子役として成長して行く中で彼女は様々な美点を発揮したが、そのすべての下敷きになっているものはやはりその理解力、本質的な賢さであったろう。
単に大人の言うことを聞く子は沢山居る。
楽しんで毎日熱心にレッスンする子も沢山いる。
岡崎泰葉には無い個性、尖った才覚を持っていた子も沢山居た。
だが、指示の意味、台本の意図、レッスンの意味、現在自分が抱えている課題……そうしたものを理解した上で『では、自分は何をしなくてはならないか』を的確に考えられる岡崎泰葉は、最終的にはそうした子達をはるかに凌駕して伸びていったのだ。
岡崎泰葉には、才能があった。
それはぱっと一時他を引き離して輝くそれではなく、時間をかけて高みへと駆けて行くための力だっのた。
そして、彼女には動機があった。
「自分を見て、誰かが喜んでくれることが、うれしいんです」
素朴な、しかしはっきりした喜びの言葉。
賢く、しかも演技の仕事に喜びを感じている。
僕をはじめ、この世界にいるのは演劇が大好きで仕方ないという者ばかり。
僕たちは、岡崎泰葉が可愛かった。
その才能を延ばしてやりたいと思った。
この世界で大きな成功をつかませてやりたいと思った。
幸運な事に、もともと演劇をやっていたという彼女の両親もまた岡崎泰葉が芸能界でキャリアを積んでいくことに理解があり、事務所としっかり信頼関係を築くことが出来ていた。
僕たちは、岡崎泰葉が可愛かった。
だから僕たちは、彼女に沢山の仕事を与えた。
岡崎泰葉は働いた。
だから僕たちは、彼女に高度なレッスンの機会を与えた。
岡崎泰葉はたゆまず自分を鍛えた。
だから僕たちは、様々な大御所と仕事ができるよう、将来この世界でやっていくためのコネを築いていけるよう、出来る限りの事をした。
岡崎泰葉は、誰とでもいい関係を築いた。
きつい仕事、意に添わぬ仕事もあったと思う。
だがそれはすべて、泰葉がこの世界で成長するために必用なものだ。
岡崎泰葉は、常に僕たちの期待に応えた。
いくつもの賞を取り、岡崎泰葉の名前は知らなくてもその顔を見たことがない者は居なくなった。
……僕たちは、岡崎泰葉が可愛かった。
自分たちの側で役者として、ひとりの少女として、彼女が育って行くのを見ることが、嬉しかった。
お互いを理解しあっていると、そう思っていた。
だけど。
30前で彼女の担当になり、二人三脚で進んでいたと思いこんでいたこの10年。
僕は最初に掛け違えたボタンに気が付かず、浮かれていただけなのかも知れなかった。
◇
「契約は、更新しません」
15歳の桜の頃。
プロダクションの応接室に僕やプロダクションの主要メンバーを召集し、岡崎泰葉はきっぱりとそう宣言した。
最初に出会った日から、もう10年。
10年分古びた事務所のソファに行儀良く腰掛けて、10年分老けた髭面の僕をまっすぐ見る岡崎泰葉も、もう5歳のあどけない少女ではない。
そしてもちろん岡崎泰葉はただの娘ではなく、10年からの芸歴を重ね、僕らが鍛え、様々に修羅場をくぐった大ベテランなのだ。
「両親にも伝えましたが、専属契約は今年限りで解消します。今年度いっぱいは継続してお仕事させていただきますので、段階的に私が離脱する用意を進めてくださればと思います。具体的には……」
もうすっかり準備は終わらせてありました、という顔でテキパキと今後の予定について話を進める岡崎泰葉に対して、すっかりうまく行ってるつもりでいた僕やプロダクションのメンツは完全に不意を突かれ、雁首そろえて目を白黒させるしかない。
岡崎泰葉はそうやってまず会話の主導権を確保してから、今年度いっぱいをかけ段階的に準備を進めて『有名子役岡崎泰葉』の役者業引退を軟着陸させるためのロードマップを粛々と我々に説明したのである。
親はとっくに説得済み、どこからアドバイスを受けたのかロードマップは文句の付けようがない。
このことからも岡崎泰葉が今回の契約終結について、慎重に時間をかけて準備していたことは明らかだった。
なんとしても引き留めたいのが実際だったが、準備の課程で泰葉の気持ちはすっかり固まっていて、覆すことが困難であろうことは間違いない。
その事は、泰葉が切り出した契約終了に伴う条件からも明らかだった。
泰葉はこれまで事務所が権利を管理していた自分のグッズや映像作品に関する権利のいっさいを放棄するかわりに、『岡崎泰葉』という名前を継続して使わせてほしい、と言ったのだ。
それはつまり、子役時代に得た一切のものは要らない、役者業に未練は無いという宣言だ。
そして、岡崎泰葉がこうと決めたら梃子でも動かない女の子だと、一番よく知っているのは僕達だった。
だから。
「なぜだい」
僕が泰葉に聞くことができたのは、そのたった一言だけだった。
プロダクションは、僕たちは、君に最高のものを与えてきたはずなのに。
「解らないですよね」
泰葉は、笑った。
冬の木漏れ日のような、かすかな笑顔だった。
「だからですよ。私が辞めたいと思った理由が、香川さんたちには解らない。だからですよ」
噛んで含めるような、そんな調子。
対面の、すぐ側にいるはずの泰葉の姿がすうっと遠くなった気がした。
僕は今更に、岡崎泰葉の説得が不可能なのだと悟らずにいられなかった。
◇
岡崎泰葉引退に向けた一通りの打ち合わせを終え、他のスタッフがとぼとぼと解散する頃には、窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
「社用車が空いてるから、送っていくよ」
「ありがとうございます」
僕の誘いに軽く応じてから、泰葉は笑う。
「……結局、ずっとお願いしちゃってますね。自分でハイヤー呼ぶからいい、って言うのに」
「この距離で呼ぶのは、やっぱり勿体ない気がするしね」
あんな話をしたばかりだから、恒例のやりとりに少しホッとする。
泰葉のマンションは彼女がひとり東京に定住すると決めたとき僕が探したもので、ここからさして遠くはない。
わざわざハイヤーを使うには大げさな距離。
だがこの移動に限らず、泰葉は現場でも他の移動でも『融通が効くし』と気軽に馴染みのハイヤーを呼んでしまう癖があった。
女の子、しかも有名人故の用心と言えなくもなかったが、幼くして売れてしまった泰葉は僕達庶民とは少々かけはなれた金銭感覚を持っている。
今でも収入の相当な部分を実家に仕送りしているし、普段の生活は質素と言ってもいいぐらい。
趣味のドールハウスへの出費だって、ささやかなものである。
そのくせハイヤーに限った話ではなく、時々驚くほど金遣いに躊躇がなくて、僕達は何度もギョッとさせられる。
いつだったか『自分の演技を確認したいから』とマンションにホームシアターを入れた時も、値段に目を白黒させる僕たちを見て、キョトンとした顔をしていたものだった。
金遣いが荒い、と言うのではない。
泰葉はお金というものに対して、無頓着なのだ。
もしかしたら軽々と自分の権利を投げ捨ててしまう身軽さも、その無頓着さにつながる判断なのかも知れない。
お金に対するおおらかさが大物芸能人『らしさ』として評されることもあるが、僕はまだ未成年の泰葉がそうした『らしさ』に染まるのが危うい気がして、できる限りその使い方を勿体ないと感じていると伝えるようにしていた。
とはいえ、文字通り収入のケタが違う相手にそれがどれほど意味があるかは解らないが……。
「そういえば、厚かましいとは思うんですが、もう一つお願いがあるんです」
春物のコートに袖を通しながら、泰葉はそうだ思い出したという顔で切り出した。
「大抵の事は聞くよ」
僕は、社用車の鍵を取りながら頷く。
さっきの今だ。
自分のふがいなさに落ち込んでもいたし、車中で何を話していいか解らない。
とにかく泰葉から話題を振ってくれるなら大歓迎、という気分だったし、今更ながら、ちょっとでも彼女のために出来ることがあれば……なんて未練がましいことを考えてもいた。
そんなことをしても割れた器が戻らないということは、僕だって承知してはいたのだけど。
泰葉はありがとうございますと前置きしてから、短く『お願い』を切り出した。
「ギリギリまで、私が契約を切ることは秘密にしておいていただきたいんです」
「ああ、そういうことか」
人気のない廊下を2人して歩きながら、頷く。
それは当然の事だろう。
岡崎泰葉は有名人だ。
様々な作品で人に顔を知られ、TVに顔の出ない日は無い。
その彼女が古巣のプロダクションと契約を切るという話になれば、マスコミが騒ぎ立て、SNSであらぬ噂が飛び交い、泰葉自身も我々もあらゆる形で人々の出歯亀根性の標的にされ、休まる暇もなくなってしまうだろう。
そうなれば、進む準備も進まなくなってしまう。
「今回のことを早く発表して僕らが得られるものは何もないからね。解った」
「お願いします。出来るだけ静かに今後の用意を進めたいので。だから、もし誰かに聞かれたら……」
「聞かれたら?」
泰葉は突然僕の顔真似をして、ありもしないあごひげを撫でて見せた。
「『いやいや、うちと泰葉は円満ですから。よほど破格の条件でもなければ、ねえ』と。こうです」
「なんだそれ」
素で聞き返してしまった。
いや、本当に、なんだそれ。
「秘密なのに、なんでそんな変な含みを持たせるんだ。誤魔化すにしてももっとスマートなやりかたがあるだろう」
「いいから演ってみてください、さんはい」
まあるい笑顔のえもいわれぬ威圧感。
僕は仕方なく、何度か咳払いをしてから繰り返す。
「……『いやうちの泰葉とうちは円満だから、その、よほど破格の条件でもないと』」
「……初めて知りました」
それを見て、泰葉は深刻な顔。
「香川さんて、あんがい大根だったんですね」
「そうかもしれないな」
一応学生時代は演劇部だったんたが、岡崎泰葉に大根と言われていいや違うと返せるほど、僕の神経は太くない。
「まあこの場合は大根の方が説得力が増すかもなので、それでいいと思います」
ころころと笑う泰葉。
「大根で悪かったな」
泰葉が何を言ってるのか半分ぐらい解らないまま悪態をつく、僕。
「いえ、悪くありません」
泰葉はまた、笑った。
「今まで知らなかった香川さんの顔を知れたんですから、むしろ嬉しいぐらいです……ずいぶん長く一緒に仕事してるのに、案外知らないものなんですね」
「そうかもしれないな」
ずしりと腹に重たいものが生まれたような気がして、僕は泰葉の笑顔を見つめた。
「僕も、今日まで今まで知らなかったよ」
そう、知らなかった。
「そんな茶目っ気のある顔で笑ったりもするんだな、泰葉は」
初めて見る表情。
だがもちろん僕の方は、『新しい顔を知れて良かった』なんて言えない。
僕は、僕たちは、何でも解っているつもりのくせに、彼女がそんな顔をして笑うこともあることさえ知らなかった。
自分の鈍さを、何度も何度も、突きつけられる。
なんだか無性に、酒が呑みたかった。
◇
……旨い酒は、バカ騒ぎして呑む酒だ。
いや、こういうと語弊があるな。
騒ぐことが目的じゃない。
小難しいことを考えずに、気心のおけない奴と、愚にもつかない、一文の得にもならない話をしながら。
そんなふうに呑む酒は、本当に旨い。
1人酒は量が進むばかりで、酔えない。
ちまちました考え事や出口のない悩み事は、酒をまずくする。
気の合わない人間と呑む酒もまた、ひどくまずい。
つまり要するに、僕が呑んだ今夜の酒は、大変に不味かったということだ。
泰葉をマンションに送り届け、他言無用の件を他のスタッフに通知した後、行きつけの居酒屋のカウンターに直行して強めの酒をばかすか腹に放り込む。
呑みたくて呑んでるはずなのに、酒は苦いばかりでひどくまずい。
考えまいとしても、頭に浮かぶのは岡崎泰葉の冬の日差しみたいな笑顔ばかり。
どうしてこうなってしまったのか。
何が良くなかったのか。
自分は泰葉をちゃんと見てやれていなかったのか。
泰葉の心境に、どういう変化があったのか。
この世界での成功を掴んでもらおうと必死にやって来たことは、伝わっていなかったのか……。
未練がましくつらつらそんなことを考えながら呑む酒が旨いはずもなければ酔えるはずもなし。
そのくせ杯を干す手は止まらずに、ただ酒の重さが腹の底に貯まってゆくばかりなのだ。
しかもである。
「やあ、香川さん。お疲れさまです」
なんのつもりかこの日に限って、ライバルプロダクションのプロデューサーが僕の気も知らずにやにや顔で寄ってくるのだからたまらない。
「ああ、ええと君は確か××プロの」
「貴方に覚えてもらえていたとは、光栄です」
ライバル社のプロデューサー……確か阿部と言う名前だった……は馴れ馴れしく僕の隣に陣取って心にもないおべっかを使う。
「すまないが、今日は誰かと呑める気分じゃないんだ」
「いやいや、今日を逃す気は無いですよ」
僕の気落ちしてるところを狙い打ちしたいとはいい趣味だな……と大人げもなく悪態を突こうとした口は、その後に続く彼のセリフに遮られた。
「聞きましたよ、香川さん、岡崎泰葉の移籍先を探してるんですって?」
「は?」
思わず素で言ってしまった。
なんだそれ。
どこから出て来たんだその話。
「その顔だと、僕が一番乗りみたいですね」
そりゃそうだ、そんな事実はないんだから。
いや、泰葉が契約を切るという話が、どこかから変形して漏れ出ているのだろうか。
いやいや、だって、さっきの今だ。
情報に尾ひれが付くには、あまりにも早すぎる。
そこまで考えてから、僕は泰葉がうちと契約を切った『その後』のことについて、少しも説明していなかったことに思い至った。
僕たちは泰葉の今後の計画について、本当になにひとつ知らなかったのだ。
「……一体その話、どこから」
「情報源は明かせませんね」
実際僕はそのことに少なからず動揺していたのだろう。
難しい顔で問い返した僕の表情を、彼は自分の情報を肯定するサインと受け止めたようだった。
「いや、しかし、解りますよ」
「解るって、何が」
にやにや笑いを大きくしながら差し出される酌を、思わず杯で受けてしまった。
「岡崎泰葉といえば誰もが知るお茶の間の顔ですが、このごろ出演作も減って来ていましたからね。一度トップを取った後で落ちた子は扱いが大変です。今のうちに移籍先を探すのは正しい判断ですよ」
いやふざけるな。
いや、ふざけるな。
確かにここ数ヶ月、泰葉は目に見えて出演作を減らし、マスコミへの露出を避けていた。
だがそれは『減った』んじゃんなく、『減らしていた』んだ。
女優としてステップアップを意識した新しい仕事に向けて、準備期間を取るための潜伏期間だったんだからな?
脚本、監督、スタッフともに実力はをそろえたあの映画は、新生岡崎泰葉を印象づける素晴らしいものになるはずだったんだぞ。
いや、今年度いっぱいは役者として仕事を続けるのだから、その映画が予定通りに完成すれば素晴らしい作品となるだろうことは変わりが無い。
ただしそれは、新生岡崎泰葉の代表作ではなく、長く人々に愛された子役・岡崎泰葉の引退作として人々に記憶されることになるだろうけど。
「いやあ、香川さんのところぐらい大手だからこそ出来る決断ですよね」
「……移籍先を探してるなんて事実は、ありませんよ」
「もちろんその通りです。こういう事はギリギリまで隠して水面下で進めるものですからね」
笑う阿部青年の口に、徳利をねじ込んでやろうかどうしようか。
僕はしばらく本気でそれを思案していたのだが、むろん阿部青年はそんな僕の内心を知る由もない。
むしろずずいと顔を寄せて、囁きかけてくる。
「うちのプロダクションに、決めませんか。香川さんとこほど大手ではありませんが、いい条件を提示できると思いますよ」
泰葉の移籍先を、という話である。
先ほどまでのにやにや笑いとは打って変わった、真剣な顔だった。
何故移籍先を探しているなんて話になったのか、彼がどこからその話を聞きつけたのか……そうした事情は解らない。
だが、彼が今日僕にコンタクトを取ってきた事情はよく解った。
岡崎泰葉は様々な賞を取り、様々な形で長く人々の目に触れ、愛されてきた。
下世話なことを言えば、はっきりとした数字を持っているのだ。
すでに育成が終わり、はっきりうまみが計算できる商品。
その泰葉を自分の手元に引き入れる機会があるというならば、ある程度無理をしてでも掴んでおきたい……と考えるものが居るのは、解る話だ。
とはいえむろん人気、実力、知名度の伴った岡崎泰葉をわざわざ放出するなんてバカなことをするプロダクションがある訳はないと、ふつうは考えるだろう。
人気タレントは金蔓だ。
どんな手を使ってでも手元に置こうとするのが、芸能プロダクションというものなのだ。
しかし、岡崎泰葉はここ数ヶ月、極端に露出を減らしていた。
テレビ業界というのは新陳代謝が激しい場所だ。
数ヶ月露出が減れば、その間に新しい顔が台頭する。
昔、こんな話があった。
人気絶頂の若手女優が、突然留学のため数年間芸能活動から離れたのだ。
彼女はたぶん、自分の人気に絶対の自信を持っていた。
数年スクリーンから離れても、戻ってくれば再び人気を取り戻すことができると考えていたのだろう。
だが、そうはならなかった。
数年の間、様々な新人がスクリーンを賑わし、彼女はすっかり過去の人になっていた。
そして彼女がかつての人気を取り戻すことは、決してなかったのだ。
それが解っているから、テレビを中心に活動する芸能人は定期的にマスコミに露出して、自分の存在を常に視聴者に印象づける。
そういう視点で見れば、人気絶頂と言っていい、まさに稼ぎ時の岡崎泰葉が突然テレビから消えるというのは理解できないことだろう。
スキャンダルか。
プロダクションとの不和か。
それとも岡崎泰葉という商品が価値を失い消えてゆく、その兆候か……。
実際は映画について公表できる準備が整った段階で大々的な宣伝を行うべく準備も進めていたのだが、そんな事情は知らない阿部青年は、決して見通せない裏側の事情に想像をたくましくしていたのではないだろうか。
そして、どこかから、僕が岡崎泰葉を移籍させることを考えている、と聞きつけた。
普段なら信じないようなその話が、ここ数ヶ月の岡崎泰葉の活動減少のせいで真実味を帯びて聞こえる。
それみたことか、やはり何か問題が起きていたのだ!
商品価値を減じていようと、何か問題が起きていようと、岡崎泰葉という商品にはまだまだ値打ちがある。
ならば少し強引にでも動いて、今アプローチをかけておくべきだ。
なに、まだまだいくらでも岡崎泰葉でもうける方法はあるさ……。
当たらずといえども遠からず。
おおよそ阿部青年の事情はそんなところではなかろうか。
……ひどい疲れを感じて、息をつく。
僕はこれまで何人か、彼と同じ『癖』を持った人間をみたことがある。
下手に頭の回転が早い彼ら共通の悪癖、それは『与えられた情報を自分に都合良くに解釈しようとする癖』だ。
彼からすれば、僕の動揺は自分の情報の正しさを裏打ちするものだし、『移籍先を探しているなんて事実は無い』という言葉は『表向きには』という言葉が頭について聞こえる。
こうした人間は成果を上げることもあるが、同じぐらい思いこみで他人に迷惑をばらまくことも多い。
そういえば泰葉からも、阿部青年が現場で起こしたトラブルについて、いくつか聞かされたことがあったと記憶している。
まあ、直接宣言されるまで泰葉の考えに気づきもしなかった僕も、自分に都合よく物事を解釈するということでは大差ないのかもしれないのだけど。
……だが、まあ、とにかく。
今の僕には、彼のたくましい想像力につきあっている暇も余力も無い。
「ともかく、そんな話はありませんよ」
改めて冷たい口調で否定して、どこからそんな話を聞いたか知らないがさっさと帰れと突っぱねようとした……ところで。
『いいからやってみてください。さんはい』
僕は、茶目っ気たっぷりに笑う泰葉の顔を、思い出した。
ああ、そうか。
「……うちと泰葉は、円満なんですから。よほど破格の条件でもなければ、ねえ」
「ええ、そうでしょうとも」
確かに僕は大根だった。
だが、そのわざとらしい大根ぶりが、阿部青年は実にお気に召した様子だった。
わざとらしい今のセリフが、彼の耳に『条件次第だよ』と聞こえたことは疑うべくもない。
これでもう、彼はすっかり『僕が条件次第で岡崎泰葉を移籍させるつもりでいる』というストーリーを信じ込んでしまったことだろう。
これは、厄介な事になる。
僕は天を仰いだ。
天井の丸い電灯が、泰葉の顔に見えた気がした。
◇
「漏らしてないですよ。というか、何故そんなことしなきゃいけないんですか」
翌日。
泰葉が現場に出かけたところを狙って阿部青年の件を説明し、漏洩の可能性について打診した僕に対するスタッフたちは異口同音にそう答えた。
「まさか香川さん、僕たちのことを疑っているわけじゃないでしょうね」
疑われたことがまず心外だ、という顔ばかりである。
「疑っているわけじゃないよ。というか、犯人はだいたい解っているから」
そう、犯人は解っている。
だからこれは一応の確認と情報共有だと思ってくれればいい、と説明する僕。
ここのスタッフは皆長年泰葉と一緒にやってきて気心が知れているし、実際そんなことをするとは思えない。
まあ本当に情報を漏らしたものが居ればわざわざ白状したりはしないだろうが、それにしたって情報に変なアレンジを加える必要は無いはすだ。
別のプロダクションに通じ彼らの利益を計る者が居たとしても、泰葉が今年度限りでウチのフロダクションと契約を終了する、と伝えればいい話ではないか。
そうすれば彼らは密かに、かつ直接岡崎泰葉にアプローチをかけ、僕たちの頭越しに事を進められたはずなのだ。
僕が岡崎泰葉を移籍させることを考えている……なんておかしな改竄を加えても相手方に損をさせるばかりで本末転倒。
長年の信頼という人情をさっ引いたとしても、ただ漏洩するならともかく、少なくともここに居る彼らにはそんなことをする動機は無い。
「とにかく状況を説明しておきたくてね。これは、その前段と思ってくれればいい」
「状況?」
「社長にも説明して来たんだが、実は昨日の内に同様の打診が4件あった」
「じゃあ、全部で5件?」
「そうなんだ」
なんですかそれって顔をする女性スタッフに頷いてみせる。
まったく本当に『なんですかそれ』だ。
一体犯人はなにを考えているのだ。
「話は全部同じだ。彼ら独自の情報源から僕が『条件次第で』岡崎泰葉を移籍させることを考えているという情報を仕入れて、争奪戦で優位に立とうとアプローチをかけて来たというわけだね。名刺もくれたよ、ほら」
「どこも結構な大手じゃないですか」
名乗りを上げた人物の名刺を見比べて、古参スタッフが呆れたような声を上げる。
彼の言う通り、名乗りを上げた5社はどこもうちほどではないが、けっこう大手の子役中心の俳優プロダクションであるという点で共通していた。
実はもうひとつ名乗りをあげたものには共通点があるのだが、今スタッフたちにそのあたりの話をしても仕方がない。
「まさか、泰葉ちゃんが移籍先を探していたりするんでしょうか。それでその五社に打診してて……」
「いや、それは無いと思う」
泰葉のメイクを担当していた女性スタッフが、寂しそうにつぶやくのを言下に否定する。
名乗りをあげた5社はどこも子役中心の俳優プロダクションで、泰葉もよく名前と実状を知っている。
だからもしもウチと契約を終了した泰葉がどこかで子役を続けようとするならその候補としてはおかしくない……ように思えるが、最初からそのつもりであったなら、泰葉が映像作品やグッズの権利を、自分の手に残せる範囲まで手放すはずはないではないか。
泰葉の方はともかく、受け入れ先として名乗りをあげた側はそうした既存の利益も込みで泰葉の価値を算用してるはずで、彼女が自分からその価値を放り出すような真似を容認するはずはない。
自身が頓着しないとしてもそんな理屈は泰葉自身承知しているはずだから、もし子役として活動を続けるつもりがあるならば、自分の手元に出来る限りのものを確保しようとしたはずなのだ。
岡崎泰葉は理解力がある。
自分の目的の為にはなにをどうすればいいのかを、きちんと考えられる。
そう、犯人は解っている。
……解らないのは、その動機なのだ。
「誰がこんな情報をばらまいたのかは知らないが、とにかく現在そういう偽情報が出回っていることを知っておいてほしい。そして、その上で、改めて頼みたい」
そろそろ泰葉が戻る時間だ。
犯人の顔を思い浮かべながら、僕はわずかな嘘を織り交ぜて、話をシメにかかった。
「昨日も伝達したが、泰葉はギリギリまで自分の契約終了を秘密にしたいと願っている。できるだけ静かに今後の用意を進めたい、とね。それを叶えるために協力してやってほしい。つまり、極秘を貫いてほしい」
スタッフたちが一斉に頷いた。
これはたぶん、泰葉が僕達にする最後の願い事になるだろう。
ならばそれは、なんとしても叶えてやりたいではないか。
「それでももし、しつこく追求してくる奴が居たら……」
「居たら?」
「こう言うんだ。『いやいや、うちと泰葉は円満ですから。よほど破格の条件でもなければ、ねえ』と」
スタッフたちが、目を丸くした。
僕は内心、ため息をついた。
◇
それから数ヶ月が経過した。
撮影所の側、社用車の中で出待ちをしながら、僕はぼんやりと考える。
入札、というものがある。
ひとつの事業をどの会社が射止めるか条件を伏せて競い合い、一番良い条件を出した会社が、その案件を射止める。
シンプルな話だ。
だがもし、不正な手段で事前にその事業の存在を……将来入札が行われるかも知れないと知ったものが居たら、どうするだろう。
彼らは十中八九、来るべき入札に向けてまっとうな準備を進めたりはしない。
その事業の権限を持つ人間に取り入り、籠絡しにかかろうとするのだ。
入札で戦うよりも個人を籠絡し、有利な条件を獲得するほうがずっと安上がりで効果的だからだ。
僕をとりまく状況は、まさにそれだ。
僕はあれ以来自分にアプローチをかけて来た五社のプロデューサーの名刺を空の助手席に並べて、ため息をついた。
実のところ、僕にアプローチをかけてきた5人には共通した特徴があった。
それは阿部青年と同じ、与えられた情報を自分の都合の良いように解釈する癖だ。
彼らはその性質故に『犯人』からもたらされた偽情報を信じた。
そして、僕達を籠絡しようとする。
それはようするに金であり、物であり、接待である。
僕をそうしたもので誘惑し、来るべき移籍先選定において優位に立とうというけわけだ。
そして、そのうちに彼らはお互いの存在を知り、競争から降りることができなくなった。
競争から降りればそれまでの『投資』が無駄になるばかりでなく、ライバル社に金の卵をみすみす渡してしまうことになる。
彼らは自分自身の性質故に偽の情報に踊らされ、『投資』を競い、互いの足を引っ張り合うの。
いや、おそらく『犯人』は彼らのそういう性質を見越した上で情報を与えて見せたのだ。
もう、彼らからの『貢ぎ物』は相当な額に上っていた。
止めたいと考えても、エスカレートした彼らの耳に真実が届くことはない。
そしていずれ岡崎泰葉が契約を終了し、俳優業から退くと発表したとき、彼らはようやくにして自分がありもしない情報に振り回されていたことを悟るのだろう。
……かくして、僕らの前に貢ぎ物は積み上がる。
どんなに積み上げても、決して目的の姫を射止めることはない貢ぎ物が。
「プロデューサーさん、お待たせしました」
助手席のドアが開いて、その姫君が滑り込んできた。
「撮影が長引いちゃって……あ」
流れるように助手席に腰掛けて、泰葉は尻の下にわずかな違和感を感じたようだった。
腰を浮かせ、そこに5人の名刺を発見して、僕を見た。
僕も、泰葉をじっと見た。
泰葉はしばらく僕の表情を眺めた後、あっと声をあげ、恐縮したように縮こまった。
「座って。走りながら話そう」
「はい」
助手席のドアが閉められたのを確認して、僕はゆっくりと車を出発させた。
◇
「……怒ってますか」
「いや」
「私がやったと気が付いたのは、いつですか」
「あの晩の内には気づいていたよ」
「……ならどうして、今になって」
淡々とやりとりしながら車を走らせる。
ちらちらとこちらをのぞき見る泰葉の顔は、まさに悪戯がばれた子供のそれだ。
「いちおう確認しておくけど」
車を高速に乗り入れるルートに向けながら、僕は話を切り出した。
「××社の阿部君とかに僕が移籍先を探してるなんて情報をばらまいたのは、君だね?」
「正確には、私ではありません」
「ほう」
「仲良くしてくださってる大御所さんの一人に、お願いしたんです。それとなく匂わせて欲しい、って」
泰葉が名前を上げた人物は、まさに業界の重鎮と呼ぶにふさわしい人物だった。
なるほどそれだけの名前から出た話なら、匂いだけでも説得力は十分だ。
おそらく泰葉は契約終了に向けて、その大御所さんに色々とアドバイスを仰いでいたのだろう。
ともあれだ。
「……繰り返すけど、僕は怒っているわけじゃないよ。実際、この世界は騙し合いみたいなところがあるしね」
汚いことをするものは居るし、とんでもない裏切りや策謀におそわれることもある。
生臭い損得で、人の人生を容易く曲げてしまうことだって、ある。
華やかな表面のぶんだけ、そうして隠された暗闘も深くなる。
それがこの芸能界という場所なのだから、ウラのとれない不確かな情報に踊らされた方が悪いというのも一面の真実だ。
「だから、怒ってるわけじゃない。実際最後までできるだけ泰葉の望み通りにしたかったから、これが泰葉の思惑通りなら、知らないふりで通すことも考えていたんだけどね」
「ならどうして、今になって」
泰葉が同じ問いを繰り返す。
「話が、洒落にならないところまで来たからかな」
まだすこしピンと来ていない様子の泰葉を、じっと見る。
「だから、確認しておきたかったんだ。なぜ泰葉がこんな事をしたのかを。なぜ彼らを陥れるようなことをしたのかをね」
「陥れる事自体が目的じゃありません。まあ現場で自分の担当を思いこみで振り回してる人たちに、少し痛い目を見せてあげたかったというのも本当ですけど」
「たしかに、ちょっと損をさせたね」
彼らがこの騒ぎにつぎ込んだ金額について手短に説明すると、泰葉の顔が青くなった。
勝負から降りられなくなった大人がつぎ込んだ金額は、泰葉の予想を大きく越えていたのだ。
「ここまでするなんて、思っていなかったんです」
泰葉の声が、震えていた。
「そうだろうね」
この事態が正確に予想できていたら、泰葉は決してこんなことをしでかすことはなかっただろう。
おそらくは、もっとゆっくりと、そしてささやかな額が動く競争を予想していたに違いない。
僕が知らぬふりをやめたのは金額の大きさが洒落ですむ範囲を越えたからであり、自分のせいで人生を誤った人間が出たと知ったら、泰葉が長く気に病んだだろうからだ。
……幼くして売れてしまった泰葉は、僕達庶民とは少々かけはなれた金銭感覚を持っている。
金遣いが荒い、ということではない。
膨大な収入を約束され続けてきた泰葉にとって、金銭やその使い道というのは、大きな注意を払う必要の無いものだったのだ。
だからお金に対して無頓着で居られる。
お金というものの価値を心底からは理解していない、ということなのだろう。
だから泰葉は、自分の、そして自分がこれから生み出すであろう価値に対する人々の執着を、正しく理解していなかったのだ。
大事になってしまったという実感が湧いてきたのだろうか、泰葉は身を堅くして俯いてしまった。
「……思いついたのはいつごろ?」
空気を変えようと、一度矛先をずらす。
意図を汲んでか、泰葉は小さく頷いて告白を始めた。
「……映画のためにテレビのお仕事を絞って、私の賞味期限も切れたかって噂が聞こえ始めたころです」
「失礼な噂だよな」
「全くです」
僕の憤慨に頷く泰葉。
むろん、そんな噂は彼女にとっても噴飯物だったに違いない。
「でも、私、思ったんです。そういう噂が立っているなら、それを利用できるんじゃないかって。それで、これからの事について相談に乗って貰っていた大御所さんと作戦をたてて……」
「一体、何のために?」
「……恩返しをしたかったんです」
落とし物をするみたいに、泰葉から言葉がこぼれた。
恩返し。
少し意外な物言いに、泰葉の表情を確認しようと横目に見るが、泰葉の視線は下がってたままで、僕達の視線がかみ合うことはない。
「……もうずっと、成功やお金の話ばかりで。言われることに従うばかりで。私、人形みたいになっていたと思います。役者としてのお仕事は、もう私のやりたい道から、すっかり離れてしまいました」
俯いたままの泰葉の言葉が僕を抉る。
僕達は成功を与えたかった。
この世界で大きく輝いて欲しかった。
そのために必要な事を与えているつもりだった。
だが、それは泰葉の望むものから、離れてしまっていた。
離脱を宣言された時点でそれを理解してはいたものの、あらためて泰葉の口からそれを聞くと、腸を鷲掴みにされたような心地がした。
自分が、いかに鈍感だったか。
自分がいかに、泰葉の望みを見ていなかったか。
伝わっているつもりと胡座をかいて、泰葉に必要なことを伝えられていなかったと、その短い告白からだけでも、改めて思い知らされるからだ。
「……それでも、恩は恩だから」
だけど、泰葉の告白はそう続いた。
「ここまで育ててもらった恩が、香川さんたちが私につぎ込んでくれた物がどれだけ大きいか。それは私にも解っているから……それで、やっぱり、お金かなって」
いや何故そうなると言おうとして、僕はそれを飲み込んだ。
『もうずっと、成功やお金の話ばかりで』。
泰葉は僕に、そう言った。
興業成績、グッズの売り上げ。
僕達はいつも確かに、様々な成功を視聴率や収入で表現していた。
そしてそれは、泰葉を取り巻く環境自体がそうだったかもしれない。
ここは確かに、作品自体の善し悪しさえもそうした『数字』を基準に語られることがある世界なのだ。
ならば僕達が喜ぶものもまた数字だという考えを、とても笑えないのではないか。
「でも、手持ちを全部使っても、ぜんぜん足りない気がしたんです。それで色々考えて……そうだ、なら助けてもらおう、って」
「それで彼らをひっかけたって訳か」
自分で出せる金額に求婚者たちの貢ぎ物を上乗せして、恩返しに。
そしてもしかしたら、罪滅ぼしのために充てる。
ついでに現場で子役を振り回してる奴にちょっとバチを当てることもできて一挙両得、というわけだ。
「……やりすぎました。ごめんなさい」
泰葉の小さな謝罪を聞いて、僕はしみじみと息をついた。
こぼれた水が器に返ることはなく、時間は結して戻ることはない。
だがもしも時間を戻せて。
自分たちが数字だけでなく、もっと様々なことを泰葉に語っていたら。
伝わっていると思って話さずにいた様々なことをきちんと伝えようとしていたなら、この結果は違っていたのだろうか。
いや、それでも埋め合わせが出来ないほどに僕達と泰葉の求めるものは食い違っていて、どんな努力をしても、この結果は覆せないものだったのだろうか。
ああ、そんなことは今更考えても仕方のないことだ。
「……聞かせてくれないか」
だから今は、今聞けることを聞き、今伝えられることを伝えることだけを考えよう。
「君は、子役を続ける気はないんだね」
「はい」
きっぱりと頷く泰葉。
「新しい進路は、決めているのかい」
「はい」
肯定はまたも短い。
泰葉の中に新しい進路はしっかりと固まっている。
そしてたぶん、それはもう覆しようのないものなのだ。
「……厳しい道なのかい」
老婆心がむくむく湧いてきて、つい聞いてしまう。
「はい」
最後の答えにも、ためらいは無い。
「同じ芸能界ではありますが、今までの岡崎泰葉を続けるつもりはありません。私のやりたいことは、その道の先にあるんです」
「なら」
ようやく、僕は笑うことが出来た。
「君のお金は、これからのために取っておきなさい。僕達に何か残そうなんて思わないで」
「でも」
再び『恩返しが』と繰り返そうとする彼女を手で制する。
「色々あったけど、結局僕らは君が可愛いんだ。君が元気で、好きなことやってれば、それが一番の恩返しなんだよ」
出てきた言葉は我ながら月並みで、ああ、やはり僕は大根だな、なんて思ってしまう。
だけど、泰葉は僕の言葉に息が詰まったような顔をする。
「意外だったかい?」
「いいえ」
泰葉が小さく首をふる。
ちょっと、泣きそうになっている。
月並みで、大根で、それでも、僕の言いたかったことが伝わったと、そう信じていいのだろうか。
そういうものなのかもしれない。
素直な気持ちというのは、いつだって月並みなものなのかもしれない。
だから。
「それだけは何度だって伝えておけば良かったなと、今は思っているよ」
たったそれだけが、僕の心残りだ。
……あの春の日、泰葉が契約を解消すると言い始めたとき、僕達はごねることもできた。
引き留めることが出来た。
本当に引き留めるつもりなら、なりふりをかまわなければ、契約で、様々な手段で、泰葉をうちに縛り付けてしまうこともできた。
そうするための道は、たくさんあった。
だけど僕はそうしなかった。
僕は結局、泰葉の好きなようにさせてやりたいと思ったのだ。
僕だけじゃない。
プロダクションのスタッフたちも、社長も、そうだったのだ。
だから未だ律儀に、みんな箝口令を守っているのだ。
泰葉の願いを、聞いてやりたいから。
ああ、そうだ。
僕は、泰葉の才能は、その理解力だと言った。
だが彼女には、もっと大きな才能があった。
それは、たくさんの人に好かれるという才能だ。
泰葉のために何かをしてあげたいと、たくさんの人が思うことだ。
僕達はもちろん、泰葉に手を貸した大御所さんも、きっとそうだ。
泰葉のために何かしたい。
泰葉をもり立ててやりたい。
そう思わせるものが、泰葉にはあるのだ。
「それで、いいんですか」
泰葉は少し、虚を突かれたようだった。
「いいんだよ」
請け合う僕。
「こんな不義理をするのに」
しょぼんと眉を寄せる泰葉。
「君が本当にやりたいことなら、いいんだ」
そう、いいんだ。
泰葉が本当に目指す道がそちらにしか無いなら、泰葉が決意を固めて歩きだそうとしているなら。
彼女を僕達のもとに縛り付けることはできないのだ。
それに、短いけど、もう手遅れではあるけれど、僕たちが本当に伝えたいことは、泰葉に伝わったと思う。
泰葉が僕達にただ幻滅して去るのではなく、恩に思ってくれてもいると伝わった。
その恩が、決して小さくないと思ってくれていることもだ。
最後の最後にほんのすこしだけど、それでもお互いの思っている大事なことが伝わったと思う。
もうそれ以上は望むべくもない。
ああ、でも、しかし。
「ただ、教えて欲しいな」
「何をですか?」
泰葉が、顔を上げた。
「君が成功を放り投げてまで追いかけたい物が、岡崎泰葉の本当に行きたい道が、どんな物なのかってこと」
泰葉は頷いて、答えようとして……やめた。
「仕事で、見てください」
岡崎泰葉は、胸を張った。
「いつか再び私が舞台に立って、仕事をする。それを見てください。見れば解る。そういう仕事を、してみせますから」
「……そうか」
ならばもう、聞くべき事は何もない。
「がんばれ」
「はい」
「応援してるから」
「……はい」
「じゃあ、行こうか」
「はい……えっ?」
会話の流れで相槌を打とうとして、泰葉が目を丸くする。
「行くって、どこへ」
「謝って、お金を返しに行かないとな。今回の件で迷惑をかけた人たちに」
僕達に、お金を残す必要なんか、無い。
ならばもう騙す必要はないし、立つ鳥後を濁さずだ。
泰葉には、何も遺恨を残さずに業界を後にして欲しい。
「が、がんばります」
「覚悟してくれよ」
謝るつもりを固めて眉を寄せる泰葉の肩を、笑って叩く。
事前に全員と話をして、泰葉の謝罪を受け入れてもらう算段をつけてあるのは、まだ秘密だ……。
◇
「香川さん、泰葉ちゃんの番組、始まりますよ」
「ああ、ありがとう。すぐ行くよ」
あれから季節は巡り、再び訪れた春も終わろうかという月の夜。
僕はスタッフに呼ばれて、テレビの前に集合した。
「こうやってみんなでテレビの前に集まるなんて、ずいぶん久しぶりな気がするねえ」
特等席に陣取って感慨深げにそんなことを言うのはうちの社長である。
……泰葉が正式にうちとの専属契約を終了し、役者業から身を引くことを宣言したのは、もう2ヶ月も前の事だ。
たくさんの人に惜しまれて子役としての活動を終了し、泰葉がテレビから姿を消して、もう2ヶ月。
それから今日まで……いや、それよりもっと以前から、泰葉はこれと見定めた新しい仕事に向けて、努力を積み重ねて来た。
アイドル。
泰葉がアイドルを目指すんだという事実を僕達は驚きをもって受け止めた。
もちろん泰葉は僕達が見込んだ少女なのだ。
アイドルの世界でだってきっとしっかりやる。
心配する必要なんか少しもない……そう理解はしていても、やっぱり僕達の手を離れた彼女の行く末が少し、心配で。
だから今日、僕達はテレビの前に集まったのだ。
アイドル岡崎泰葉の初舞台、その放映を見守るために。
「始まりますよ」
「ああ」
皆が、固唾を飲んだ。
……それは、小さな会場だった。
夜の音楽番組の小さなコーナー。
ソロではなく子供2人とのユニットで、ほんの短い出番で一曲歌う、たったそれだけ。
泰葉のネームバリューがあれば、もっと派手なデビューをさせることも出来たろう。
芸歴を全面に押し出して、売り出すことも出来ただろう。
だが、アイドル岡崎泰葉の初舞台は他の新人アイドルたちのそれと同じく、素っ気ないほど短いものだった。
たぶんそれは、彼女の新しいプロデューサーの方針なのだ。
……心ない人には、泰葉の新しい出発は凋落と見えたかもしれない。
いじましく芸能界にしがみついていると。
一度は栄光を掴んだのに役者の世界からドロップアウトして、こんな小さな舞台であしらわれていると。
だが僕には、違って見えた。
「自分を見て、誰かが喜んでくれることが、うれしいんです」
ユニットの仲間と頷きあい笑いあう姿を見て、僕はあの日、5歳の岡崎泰葉が口にした喜びを思い出していた。
そして。
「……ああ、そうだったのか」
彼女がかつて僕に予言したとおりその姿を、はじけるような笑顔を見て、僕はようやくにして泰葉が僕らの元を去った理由が解ったと思った。
泰葉は変わったんじゃない。
僕たちが彼女に与えたいと思っていたものが、気持ちが、伝わっていなかったわけではない。
それはきっと、逆だったのだ。
泰葉は、変わっていなかった。
そしてきっと、立ち返ろうとしたのだ。
自分の原点に。
あの日自分が口にした、喜びに。
「自分を見て、誰かが喜んでくれることが、うれしいんです」
ありふれた言葉だ。
この世界に来る子供たちは、みんな最初は親や周囲が喜ぶことを原動力にしている。
だが長ずれば、それは変わってしまう。
成長したい、成功したい、栄誉を掴みたい、有名になりたい。
そのために立場や責任や、いろいろなものを背負うようになり、今度はそれを追いかけるようになる。
別におかしなことではない。
きっとたくさんの人がたどる道だ。
だけど泰葉にとって自分を見て誰かが喜ぶということは原点であり、変わらず大事なものであり続けていた。
そして僕達はそれを十分理解せず、彼女を上へ上へ押し上げようとしたのだ。
大作の映画、テレビ番組。
大きな舞台は、時としてそれを観る人と演技者の間を隔ててしまう。
僕達は足早に階段を上らせて、大きな舞台に引き上げて、泰葉を直接見て喜んでくれる人たちから引き離した。
僕達はそれを、ステップアップだと思っていた。
そしてたくさんの成功を重ね、様々な立場と責任を背負って、『岡崎泰葉』は大きくなり過ぎていた。
成功者は、成功が求められる。
役割をこなし続けることが求められる。
『役者・岡崎泰葉』で居る限り、泰葉はもう自分の望む場所に立ち戻ることが叶わなくなってしまったのだ。
なんだかやるせなくて、僕は泰葉が退場したテレビから目をそらし、窓の外に目をやった。
そこには月が浮かんでいる。
明るくて白々と、丸い月。
「自分を見て、誰かが喜んでくれることが、うれしいんです」
かつて泰葉は、そう言った。
僕達は、それを嬉しいと思った。
僕たちと泰葉は確かに一度、同じ月を見上げていたのだ。
だけど僕達はすぐにその月から目をおろし、その先へ、その先へ泰葉を連れて進もうとした。
そして泰葉は……泰葉は僕らに手を引かれてぐんぐん道を進みながら、何度も何度もあの日の月を振り返っていたのだろう。
……新しくやりたい事をみつけて、飛び出して行く子はたくさん見てきた。
新しい成功を求めて、舞台を移す。
そんなことは、よくある事だ。
子役からアイドル。
端から見れば、泰葉もそうしたよくある転身に見えただろう。
だけどそれは、きっと違う。
泰葉はきっと、あの日に立ち返った。
そのために、アイドルという選択を求めただけなのだ。
一緒に喜びを分かちあえる仲間。
そして、自分たちの活動を喜んでくれる人々と間近で接すること。
泰葉にはきっと、そういうものが必要だったのだ。
それは僕達が決して与えられないでいたものだったのだ。
……テレビの向こうで、岡崎泰葉はきっとこれまでとは違った輝きを見せるだろう。
彼女の気持ちを理解する人々とともに、いつか必ず子役時代より大きく新しい花を咲かせてくれるだろう。
僕にできることは、それを祝福することだけなのだ。
時は戻らないのだから。
一度は繋いだ手を離してしまったのは、僕達のほうなのだから。
……僕は今更な気持ちを断ち切ってプロダクションを抜け出し、ひとり夜の月を見上げた。
かつて確かに一緒に見上げていたあの日の月と、今再びその月の下を歩き出した少女の面影を、噛みしめるために。
(おしまい)