2 : 1 - 2010/09/10(金) 01:44:18.04 0w0DA0rqP 1/224

ピアノのアドリブソロ。

私はする事が無いので、手持ち無沙汰でフルアコのコードに指を絡ませる。

ピアノが得意顔でアイコンタクトをベースに送る。

ベースも得意顔でそれを受けてベースのソロ。

そこにお約束のように拍手がパラパラと。

ここでも、する事が無いので周りを見回す。

ベースの彼はあまり高い技術を持っていないので少しハラハラさせられる。

ドラムは(本当にありがち!)煙草を燻らせているし、ピアノは自分の見せ場を終えた事からか、椅子から立って得意顔で客席にアピール。



元スレ
梓「あごらえせうてんぽ」
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1284049461/

3 : 1 - 2010/09/10(金) 01:47:12.14 0w0DA0rqP 2/224

ベンベンベン。

ベースのソロが終わりに近づいて私はギターを抱えなおす。

他のメンバーもまた演奏に戻る準備。

ベースが私達にアイコンタクト。

お約束の拍手。

はい、揃って演奏に戻る。

何小節か。

エンド。

観客席から抑制の効いた拍手。

他のメンバーは手を上げたりしてアピール。

私も何となく合わせてアピール。

少し自己嫌悪。



4 : 1 - 2010/09/10(金) 01:48:15.70 0w0DA0rqP 3/224

・・・


ピアノ「中野さん、この後の打ち上げ出るでしょ?」

「あ、すいません。今日この後ちょっと用事が入ってるんで…」

ベース「付き合い悪いぞー」

ドラム「馬鹿、彼氏だよ。ねー、中野さん?」

私は、苦笑しながら、断りを入れる。

「すいません…」



5 : 1 - 2010/09/10(金) 01:49:06.80 0w0DA0rqP 4/224

用事なんて本当は無いけどね。

だって、別に打ち上げやるほどのライブじゃないし。

アマチュアジャズバンド。

ルーティンの曲。

ルーティンの演奏。

ルーティンの客。

それで、ルーティンの打ち上げ。

それで…。

ルーティンの生中?

「つまんないよね」



7 : 1 - 2010/09/10(金) 02:26:49.74 0w0DA0rqP 5/224

ジャズには臭いがするらしい。

『ジャズってのは演劇みたいなものだ。型ばっかりで内容が無い。臭いですぐ嗅ぎ分けられる』

『ジャズかよ。銃殺刑ものだな』

顔の下半分を骸骨が描かれたバンダナで隠した男達が私を壁際の棒に縛り付ける。

…。

タタタッ。

マシンガンが火を噴いて私の身体を吹き飛ばす。

壁には私から噴出した血がベットリと…。



8 : 1 - 2010/09/10(金) 02:27:42.03 0w0DA0rqP 6/224

「うえ、変な想像しちゃったな…」

丁度、空っ風が吹いて来て、その事と合わせてちょっと身体が震える。

「寒っ…」

私はモッズパーカーのポケットに手を突っ込む。

「一応、ちゃんと調べておこうかな…」

インタビュー求められた時に使えるかも知れないし。

何の?

「そりゃあ、私が有名ミュージシャンになった時に…」

恥ずかしい想像。

「無いよねぇ…」



9 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします - 2010/09/10(金) 02:29:08.22 0w0DA0rqP 7/224

パーカーのポケットからスマフォを取り出して起動。

「えーと、Jazz~」

これか。

『Jazz is not dead, it just smells funny.』

そっか、ザッパの言葉だったのかぁ。

「そりゃあ、面白い臭いもするよね。何しろ客置いてけぼりで自分達だけが楽しんでるんだもんね」



10 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします - 2010/09/10(金) 02:30:41.19 0w0DA0rqP 8/224

何故、高校時代のバンドはあんなに凄かったんだろう。

練習はろくすっぽしなかったし、ちゃんと活動したかった私はその事で凄いストレスを溜めてたはずなのに。

ふと、四人の先輩の顔が思い浮かぶ。

私は、知り合いの誰もいない東京の空を見上げる。



11 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします - 2010/09/10(金) 02:32:23.77 0w0DA0rqP 9/224

着信。

表示はっと…。

鈴木純。

…。



12 : 1 - 2010/09/10(金) 02:34:03.41 0w0DA0rqP 10/224

いた。

いたね。

こいつも知り合いだった。

「何?」

「あ、梓?」



13 : 1 - 2010/09/10(金) 03:06:13.63 0w0DA0rqP 11/224

スピーカーからは純の言葉より大音量の音楽が聞こえてきていて、純の言葉が良く聞き取れない。

「今から来ない?」

「えー、今日ライブだったし。今終わったばっかりで疲れてるし」

「えー、良いじゃん。おいでよー。VIPルーム入れるようにしとくからさあ」

「でもさぁ、今日は服がなぁ」

「ナイトクラビングはナスティにドレスダウンって言うのが、逆ドレスコードと言うかさ…」

「逆逆、逆だってば、今日ライブだったからスーツ姿だもん」

「OKOK、逆にOK」

「だって、後でクリーニングに出すの面倒臭いよ」

「私は回すときはいつもスーツ姿だぞぉ!だから、今日もスーツ。
マイスタイルに対して面倒臭いとかなんだ。大体、煙草の煙で…」



15 : 1 - 2010/09/10(金) 03:09:23.64 0w0DA0rqP 12/224

…。

「梓もスーツなら、私達は今夜から東京スーツシスターズと名乗って…?ちょっと、語呂が良くないな」

ふう。

「分かった。行くよ。行きますよ」

「Good!」

私は、通話を切る。

テンション高い。

もう、テンション無駄に高いよね。

「まあ、良いや。打ち上げでしょっぱいお酒飲むより、こっちの方が楽しいよね」

ノーマティブな日常をやり過ごすために、疎外感から逃れるために、私は音楽をしているのに、そこでも疎外感に襲われる。

だから、もう一段逃れる必要がある。



16 : 1 - 2010/09/10(金) 03:12:18.40 0w0DA0rqP 13/224

終電に間に合って良かった。

途中までしか電車が無かったら、タクシーって事になっちゃうもんね。

社会人成り立ての貧乏一般職にはタクシーなんて厳しいし。



17 : 1 - 2010/09/10(金) 03:13:35.25 0w0DA0rqP 14/224

近づくに連れて低音で地面が揺れているような気がしてくる。

そんな訳無いのにね。

最初は面倒臭いと思ったけど、やっぱりテンション上がるんだよね。



18 : 1 - 2010/09/10(金) 03:15:07.88 0w0DA0rqP 15/224

私が地階に下りていくと、当然の事ながら、
エントランスで黒人のガチムチバウンサーに止められる。

ふう。

確かに年齢よりは若く見られる事が多いけど…。

いやいや、それは被害妄想だ。

20年前ならいざ知らず今時、誰だってIDの提示は要求されるもんだ。



19 : 1 - 2010/09/10(金) 03:16:46.67 0w0DA0rqP 16/224

運転免許証運転免許はっと…。

「OK」

どうだ。

もう立派な大人なんだ。

「\2000」

「あー、えっと…。I am friend with today’s resident DJ .」

伝わったかな?

バウンサーは肩をすくめるジェスチャーを取る。

なんだよ、純の奴。

入れるようにしとくんなら、ちゃんとしといて欲しいよね。



20 : 1 - 2010/09/10(金) 03:20:13.06 0w0DA0rqP 17/224

私はバウンサーに合わせるようにオーバーアクションを取る。

「だから、ワタシ、ジュン・スズキ、フレンドフレンド」

バウンサーは苦笑する。

何、その苦笑?

「ボクニホンゴワカルカラ」

「は?」

「タダ、アナタガジュンズフレンドトイツワッテルカノウセイアルヨネ?」

アルヨネ?じゃないよ。

私は、ため息をついて、しっかりと言ってやった。

「純を呼んで」



21 : 1 - 2010/09/10(金) 03:22:59.90 0w0DA0rqP 18/224

・・・


「梓ぁ、機嫌直してよぉ」

「何が入れるようにしておくからだよ」

「だって、来てくれたゲストの人らに挨拶もしなきゃいけないし」

「友達より名前売る方が大事?ヒドイね」

「だって、この業界それ凄い重要だし」

「分かるけどさ…」

「まあまあ、お酒奢りますから」

「私は元々ただ酒飲みに来たんだけど?」



22 : 1 - 2010/09/10(金) 03:25:46.58 0w0DA0rqP 19/224

「あはは、梓の方がひどいじゃん」

「ふふ」

純は、手元のコールボタンを押して店員を呼ぶ。

「あ、○○くん?ドリンク持って来てよ」

純、すっかり馴染んでる感じ。

今日のレジデントだから当然なんだけどさ。

「梓は何が良い?」

「まずはカルアミルクかな」

「カルア二つ持って来て」



24 : 1 - 2010/09/10(金) 03:33:06.05 0w0DA0rqP 20/224

「そろそろ出てかなくて良いの?」

「んー、だって、まだ2時回ったところじゃん。本番はこれからっしょ」

?!

「念のため聞くけど、今日って何時まで?」

純はいやらしい笑いを浮かべる。

嫌な予感。

「今日は月末だから、アフターアワーズ有りなのです。だから、9時過ぎかな?」

「ちょっと、聞いて無い」

「私はラストまで回すよ。梓も付き合うよねぇ?」

まあ、良いよ。

付き合うよ。

どうせ明け方帰って寝ても、夕方までは寝ちゃうだろうし。



25 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします - 2010/09/10(金) 03:36:41.45 0w0DA0rqP 21/224

「じゃあ、フロア行こっか。今、回してる奴、結構良い感じなんだよ」

「おー、上から目線」

「おほほ、レジデントDJですから」



26 : 1 - 2010/09/10(金) 03:39:28.15 0w0DA0rqP 22/224



ピークタイムを迎える。

素早いカット。

とてもスムーズに、繋ぎ目が分からないように。

十秒単位でレコードを変えて。

時には、ピッチをプラス6や7に上げる。

曲はスピードアップされてアップリフティングに。

激しいイコライジング。

幾つかの曲がミックスされて、まるで別の曲のように。



27 : 1 - 2010/09/10(金) 03:42:01.75 0w0DA0rqP 23/224

ポップスの雑食性とは言うが、個別アーティストが雑食な訳ではない。

でも、DJは本当に雑食でなくてはならない。

盛り上げる。

そして、思いを、感情を伝える。

それが何より優先される。



29 : 1 - 2010/09/10(金) 03:54:20.30 0w0DA0rqP 24/224

そして、ラストの曲はそれまでとはちょっと趣を変えて、びっくりするぐらいにセンチメンタルな曲をセンチメンタルに掛けてみたり。

今日のラストはMaryann Farra & Satin SoulのYou Got to Be the One。

君は特別な人になったなんてね…。

センチメンタル過ぎ無い?



31 : 1 - 2010/09/10(金) 03:55:25.17 0w0DA0rqP 25/224

朝日が眩しかった。

目がシバシバするし、スーツは皺だらけで、汗とタバコの煙が染み込んで公衆便所みたいな臭いを放ってしまっていた。

「その格好で家まで帰るのダルイよね?女捨ててるって見られちゃうよね?」

「うん」

「泊ってくでしょ?」

「好意に甘えさせて頂きます」

純の家はクラブから徒歩5分。

都心3LDK50㎡家賃20万円。

人気DJ凄い!



32 : 1 - 2010/09/10(金) 03:58:06.09 0w0DA0rqP 26/224

「おー、サードぉ(名前はあずにゃん三世らしい)、ただいまー、良い子にしてたかー?」

同居人が純が扉を開けた途端に飛び付いてくる。

正確には同居猫かな。

「今日はお祖母ちゃんも一緒だよぉ」

「先シャワー浴びさせて貰って良い?臭くって…」

「猫は綺麗好き…」

純が何か言ったみたいだけど、無視しておこうね。



33 : 1 - 2010/09/10(金) 03:59:12.85 0w0DA0rqP 27/224

微温湯のシャワーが気持ちよかった。

「あー、徹夜明けのシャワーって最高だよねー…」



34 : 1 - 2010/09/10(金) 04:04:35.58 0w0DA0rqP 28/224



純はジャズをやる才能は無かったと思う。

でも、ミーハーで、だけどジャズをやろうしてた感覚がこう言う道を選択させたのだと思う。

中学、高校ぐらいでジャズなんて事を言い出すのは、私もだけどやっぱり両親の影響と言うのが大きい。

その影響の物質的な表出と言う話になると、それはもう一言で言えばレコードコレクションと言う事になると。



35 : 1 - 2010/09/10(金) 04:05:50.49 0w0DA0rqP 29/224



純が高校を卒業して、「プレイヤーはもうやめた」と言う話を聞いた時はあまり驚かなかった。

元々、そんなに一生懸命であるように見えなかったし、ミーハー過ぎてジャズをやるのに向いているように思えなかったからだ。

それでも、「DJになりたい」って言い出した時はちょっと耳を疑った。

そんな素振り見せた事無いじゃん、と言う感じで。



36 : 1 - 2010/09/10(金) 04:08:02.16 0w0DA0rqP 30/224

「だからさ」

「ん、何?反対ならしないけど」

「梓んちのレコードコレクション貸して!」

「はぁ?!」

「だって、梓んちのレコード棚見てて思ったんだけど、ジャズだけじゃなくてソウルやファンクも結構な量があったし」

「『あったし』じゃないよ。大体、純の家にだって…」

「それだけじゃ足りないから。自分だけの武器が欲しいんだよね」

確かにレコードコレクションはDJに取って大きな武器だ。



37 : 1 - 2010/09/10(金) 04:09:18.77 0w0DA0rqP 31/224

最初はそのふざけた態度に、その癖の強い髪にさらにパーマをかけてチリチリにしてやろうかと思ったけど
(だってWHO IS THIS BITCH ANYWAY?のマリーナ・ショウみたいになった純なんて面白すぎるでしょ?)、
態々私の実家まで来て父親に頭を下げてるのを見ると、反対する気も失せてしまった。


38 : 1 - 2010/09/10(金) 04:12:01.53 0w0DA0rqP 32/224

純はそれからすぐにクラブでのバイトを始めた。

店員をしながら、DJのセットリストを盗み見て、ストーリーの構成を勉強する。

技術の事も色々あるだろう。

家に帰ると、忘れない内に練習し、店が開けば新たなレコードを仕入れに走る。

勿論、私(正確には父親のだけど)が貸したレアなレコードを聴き込み、使用する箇所のチェックもしなければならない。

そんな毎日が続けば、大学に行く暇なんてのは無い。

パーティサークルの大学生が手作りパーティでちょっと繋ぎ方を覚えて盛り上がるアンセムばかりを集めて回すって言うのとは訳が違って、目指す目標が高かったのだ。



41 : 1 - 2010/09/10(金) 04:15:16.00 0w0DA0rqP 33/224

「純、DJの修行は良いんだけどさ、大学はちゃんと行ってんの?」

「辞めて来た」

「辞めたって…、これからどうすんの?!」

「キャリアを積む」

高校の時、私は友達だけど、純を見下してた部分と言うのが有ったと思う。

つまり、純が音楽に対してあまり一生懸命じゃないところに関してだけど。

でも、いやだからこそ、純のこの選択って言うのは私に大きな事実を突き付けた。

私はいまや何も目指していないと言う事実を。

そして、大学サークルで自分のやっているバンド活動なんてのが、エクスキューズ付きのお遊びで有ると言う事も。



42 : 1 - 2010/09/10(金) 04:17:13.04 0w0DA0rqP 34/224

「で、でもバイト料だけじゃ家も維持出来ないんじゃ…」

「うん。だから、もう引き払ってきた。レコードはレンタルコンテナに移した」

「純はどこに住むの」

「クラブの倉庫にベッドルーム作らせて貰った。あはは、まさにレジデントだよねー?」

純は能天気に笑う。

「そ、そうなんだ…。頑張ってね」

「うん、ありがとう、梓!」

私はもう何も言えなかった。



44 : 1 - 2010/09/10(金) 04:20:14.96 0w0DA0rqP 35/224

・・・


純はサードにキャットフードを与えていたが、風呂上りの私を見てふざけた事を言い出す。

「パンティにキャミだけなんて、そんな刺激的な格好で…、誘ってる?」

寂しすぎるとパートナーは女でもOKだって?

ぷぷぷ、馬鹿な冗談。

「はいはい。先に寝てるね」

「はーい」

ベッドルームに入る。

女2人で眠るには十分過ぎるセミダブルベッド。

買った途端に彼氏に逃げられて本来の用途を果たせなかった可哀想なベッド。



45 : 1 - 2010/09/10(金) 04:22:21.01 0w0DA0rqP 36/224



週末の夜には必ず家にいない。

休日の前日にも家にいない。

午前7時の出勤前に煙草の臭いを纏いつつ、おかしなテンションで帰宅する同居人。

「おやすみなさい」と「行って来ます」が交差する出鱈目な生活のすれ違い。

(夜に働く人だって同じ問題を抱えているのかも知れないけど)そう言う同棲生活を続けていくのは、
その彼氏に取っては難しかったんだろうね。

うん、普通の感覚だと思うけど…、つまらない奴だよね。


46 : 1 - 2010/09/10(金) 04:24:42.26 0w0DA0rqP 37/224

壁一面のレコード棚を見る。

床に詰まれたダンボールに詰め込まれたレコードを見る。

一目見て、また増えてるのが分かる。

「ふぁ~あ…」

欠伸が出る。

レコード棚の感想よりも眠さが勝る。

私はベッドに身体を投げ出すと同時に、入眠。



47 : 1 - 2010/09/10(金) 04:27:25.46 0w0DA0rqP 38/224

・・・



私は顔を這う何かの感覚で目を覚ます。

これは…、猫の舌か…。

身体を起すと、私の身体の上にいたのであろう、サードが足場の急激な変化に驚いたのか素っ頓狂な声を上げて飛びのく。

窓の外を見ると、すっかり暗くなっている。

「もう夜なんだ…」

横を見ると既に純の姿は無い。

私は、ベッドから起き上がりサードを抱き上げる。

「お前のご主人様は早起きだねー?」



48 : 1 - 2010/09/10(金) 04:29:04.07 0w0DA0rqP 39/224

「あ、起きてきたぁ?」

純は顔をノートPCに向けたまま声を掛けてくる。

私はサードを抱えたまま背中越しに覗き込む。

「何してるの?」

「んー、自分のページに昨日のミックス音源を上げてる」

「へー、反応ある?」

「ボチボチかなぁ。まだ始めたばっかしだし、私自体がまだまだだからねー」

「そっか…」

「これが仕事に繋がれば良いとは思うけど、中々そこまではねー…」



50 : 1 - 2010/09/10(金) 04:31:11.32 0w0DA0rqP 40/224

私に疎外感を与える、ノーマティブな日常、そして惰性でやっているバンド。

それらからの逃亡先であるナイトクラビングや純の家でのこの私は本当の私かも知れない。

でも、その本当の私はただ何もしないでいるだけの人間だ。

私は、純の後姿に羨望の視線を送る。

そんな気持ちがサードを抱いていた手が緩ませたのか、サードが私の手からスルリと抜けてテーブルの上に降りる。

そして、PCに刺さっているUSBメモリを…。

画面にエラーの文字。

「先に食事にしよっか…?」

「わ、私作るっ!」

「そ、それじゃお願い、し、しよっかな…」



51 : 1 - 2010/09/10(金) 04:34:25.89 0w0DA0rqP 41/224

「ごめん!ほんっとーに、ごめん」

「良いって、別にぃ」

私はあまりショックな様子も見せずパスタを口に運ぶ純に改めて頭を下げる。

「でもさ…」

「また、後でやり直せば済む事だし…。そんな、謝られる方が心苦しいよ」

そう言って純はニカっと笑う。

「それはそうと…」

「ん、何?」

純はフォークで私を指す。

「ちょっと、純、それマナー違反…」

「梓は今の生活続けていくの?これからどうして行きたいの?」



52 : 1 - 2010/09/10(金) 04:35:33.39 0w0DA0rqP 42/224

え?

急に何言い出すの?

クールに、クールになれ私。

「そ、そう言うのって、普通はさ、私みたいな会社勤めをしてる方が純みたいな職業の人に言うセリフじゃないの?そう普通はねー…」

「普通とか良いから、梓はどうするの、これから」

「どうするもこうするも…。こ、このまま会社勤めしていくよ。それで、月一回ぐらいのペースで趣味のバンドをやって…。それで、その内結婚してって感じ?」

「…そっか…」

「え、私何か変な事言った?」

「ううん、別に…。いや、梓が良いと思うんなら良いと思うよ。普通万歳」

私は、純が何を言わんとしていたか、わざと分からない振りする。

自分が色々と間違いを犯していると言う事を認めたく無いから。



54 : 1 - 2010/09/10(金) 04:37:12.35 0w0DA0rqP 43/224

「何か、棘あるなぁ」

純は苦笑して、

「無いよ、そんなのどこにも無いから」

「そう?なら良いけど…。あ、じ、じゃあ、純はさ、どうしていくの、これから?」

「私?私はキャリアを積みたいな。明日の朝、突然40代になってて、まだ週一のDJしか仕事が無いなんてごめんだもん」

ああ、やっぱり私だけがただ何もせずに取り残される人間なんだ。

「ごちそうさま」

「あ、うん…」

「送ってくよ」



55 : 1 - 2010/09/10(金) 04:40:18.11 0w0DA0rqP 44/224

・・・


純が最近買ったと言うハイブリッドカーが静かに夜の街を疾走する。

私達はさっきの話のせいか無言で、
ゲッツのクールなサックスにアル・ヘイグのリリカルなピアノ、
そしてそこにコンガの音が絡んで盛り上げて行くSkull Busterだけが車内に鳴り響いていた。

私は純の言葉に改めて自分の現状を気付かされて傷ついていたし、少しだけ気分を害してもいた。

純は…、どうだろ?

ちょっと、分からないけど。



56 : 1 - 2010/09/10(金) 04:43:45.90 0w0DA0rqP 45/224

・・・


私の住処であるところの西武線沿いの安アパートに到着。

一時間程のメランコリックナイトドライブも終了。

「あ、ありがと」

純からは返事が無い。

私はため息をついて、車から降りようとする。

「ねぇ、梓?」

純はハンドルに手を置いて前を見たまま、私に声を掛けてくる。

「ん…?」

まだ、何か用?



57 : 1 - 2010/09/10(金) 04:46:02.38 0w0DA0rqP 46/224

「梓、最近のヒットチャートとかってチェックしてる?」

「いや、特に…。TVあまり見て無いし…」

「そっか…」

「なんかお薦めの曲とかそう言う話?」

「あー…、うん…、あのね…」

「何?」

「唯先輩…、って覚えてる?」

忘れる訳無い。

私の心の奥に今も大切に仕舞われている、そうとても大切な…。



58 : 1 - 2010/09/10(金) 04:49:06.28 0w0DA0rqP 47/224

「唯先輩、最近メジャーデビューしたんだよね…」

え?!何?

純、今何て言った?

「嘘?!」

「梓に嘘ついてどうすんの」

「だって…。えっと、律先輩とか澪先輩とかと一緒にって事?」

三人は去年の年末に会った時はまだ3ピースでバンドをやっていると言っていた。



59 : 1 - 2010/09/10(金) 04:52:23.09 0w0DA0rqP 48/224

「いや、一人。ソロアーティストとして。確か名前をローマ字にするかなんかしてて…」

「どう言う事?」

「それは、知らないけど。で、チャートも初登場一桁で…、あ、梓?!」

「純、送ってくれてありがと。また、連絡するね」

私は、車を降りると部屋まで駆け出す。



60 : 1 - 2010/09/10(金) 04:54:10.53 0w0DA0rqP 49/224



部屋の扉を閉めて、そのままベッドに飛び込む。

私は枕に顔を埋めた。

感情の昂りを押さえられない。

涙が出てくる。

駄目だ、堪えろ。

堪えろ、私…。

閾値を容易く越えた感情が、涙腺を決壊させる。

もう、止められなかった。

「うぁぁー」



62 : 1 - 2010/09/10(金) 04:56:16.33 0w0DA0rqP 50/224

「はぁ、酷い顔…」

私は洗面所の鏡に映った自分の顔にげっそりとする。

寝不足は目の下に大きな隈を作っていたし、涙で瞼は腫れぼったかった。



63 : 1 - 2010/09/10(金) 04:57:57.17 0w0DA0rqP 51/224

・・・


「さてと…」

少し落ち着きを取り戻した私は、動画共有サイトを検索。

身体を伸ばして大きく深呼吸して、それから再生。

YUIのPVが再生される。

「本当に唯先輩だ…」

私は、その姿に少し感動して…、だけど、その感動は長く続かなかった。

私が高校時代に衝撃を受けたそれはどこにも無かったのだ。

ライブのマジックとかそう言う事では無くて、あの煌めきはどこにも無かったのだ。

私は、最後まで聞く事が出来なくて再生を中止する。


64 : 1 - 2010/09/10(金) 04:59:02.44 0w0DA0rqP 52/224

投稿者からはもうすぐアルバムの発売が予定されていると言うコメントが付けられている。

「誰が買うか。こんなの買う奴馬鹿だ。何も知らない奴だけだ」

何でこうなってしまったんだろう。

私は一人取り残されて、そして唯先輩は墜落し、頚骨骨折で息絶えんとしている。

本当に、何でこうなってしまったんだろう?



65 : 1 - 2010/09/10(金) 04:59:55.98 0w0DA0rqP 53/224



純と憂にメールを打つ。

憂には…。

『唯先輩メジャーデビューしてたんだね。おめでとう』

純には…。

『明日からの会社に行きたく無くなった。どうしてくれる』



66 : 1 - 2010/09/10(金) 05:00:59.67 0w0DA0rqP 54/224



こんな結末最低だ。

先輩達に別れを告げた時、私は何かを失ったと思って涙が止まらなかったけど、その時より辛い。

本当に、どうしてくれるんだ。

何で、純はこんなこと私に教えたんだ。

しかも、教える前に私の現状をわざわざ再認識させた上で。

私をこんな気分にさせた純なんか強いパーマかけられてパム・グリア(コフィの時みたいな)みたいになってしまえば良いんだ。



67 : 1 - 2010/09/10(金) 05:02:44.71 0w0DA0rqP 55/224


私はバンドのメンバーに、仕事が忙しいので半年ほど休止させてくれと頼んだ。

二度と復帰する気なんて無かったけど、脱退なんて言ったらどうせ根掘り葉掘り聞かれるんだ。

また、半年後に同じ事言ってやればあいつらは気が済むんだから、本当の事なんか絶対言わない。



68 : 1 - 2010/09/10(金) 05:05:27.73 0w0DA0rqP 56/224



純からは『ごめんね』と言うメールが帰って来る。

でも、ピコピコ動くデコメールで。

「何これ!何だよこれ!!全然謝る気無いよね。もう良いよ!純とは絶交」

憂からは、ちょっと抑制の効いたメール。

『ありがとう。でも…、うん、良い事だもんね、きっと』

憂…。



69 : 1 - 2010/09/10(金) 05:08:42.78 0w0DA0rqP 57/224




それからの半年は本当に何も無かった。

だって、凪のように生きようと決めたから。

私の一番大事な何かは死んだ。

残念な事だけど、私はもう泣かない。



70 : 1 - 2010/09/10(金) 05:12:09.32 0w0DA0rqP 58/224



純からは時々『遊びに来ない?』と言うメールが入っていて、
憂からは『アルバムが出たよ』と言うメールが来た。

純からのメールは全部無視したけどね、憂には一応『うん、買うね』と返信した。

YUIのアルバムはオリコン初登場7位だったらしいよ。

私は迷った末(それでも迷ったのだ)に、結局買わなかったけれど。



71 : 1 - 2010/09/10(金) 05:14:50.67 0w0DA0rqP 59/224




半年間の私の生活としてはこう言う感じだ。

会社に行く×5、部屋の掃除をする、買い物に行くor一日中ネットor自己流ピラティスをする。

変化の無い、静かな生活。

感情を持たない生活。



73 : 1 - 2010/09/10(金) 05:18:43.09 0w0DA0rqP 60/224



「そう言えば、最近笑って無いな…。表情筋動かさないと…」

私はファッション誌に出ていた、笑顔のトレーニングと言うページに従って顔の筋肉を動かす。

最初は上手く出来なかったが、少しづつ感覚を掴めてくる。

よしよし、これで私も愛され笑顔を作って…。

…。

やめた、馬鹿馬鹿しい。

合コンで人気者になる趣味は無いし。

そんな時、着信。



75 : 1 - 2010/09/10(金) 05:21:06.78 0w0DA0rqP 61/224

表示は…。

鈴木純。

ふふふ…。

少し迷って、でもやっぱりと思い返して電話を取る。

私はちょっと緊張して、遠慮がちに言葉を発する。

「久しぶり…」

私の言葉を遮るように純ははっきりとした言葉を並べる。

「梓、今から来れる?」

「今日、日曜だよ?社会人には…」

「違う違う、クラブの方じゃなくて、家の方で…、ああ、もう!良いから私の家に来い!」

純はそれだけ捲し立てると、自分から通話を切る。



77 : 1 - 2010/09/10(金) 05:22:34.52 0w0DA0rqP 62/224

自分の言いたい事だけ言われてもさっぱり分からない。

「ま、まあ、良いや。あれだけ言うんだ、何かあるんでしょ」

何も無かったら…。

何か良いレコードでも貰って来よう。

最近は、唯先輩のジャケット見るのが怖くてCDショップにも行って無い。



78 : 1 - 2010/09/10(金) 05:25:01.08 0w0DA0rqP 63/224

・・・



「…久しぶり…」

「上がって上がって」

純は私みたいな緊張とか後ろめたさなんて何も無い様だった。

当たり前か。

私が、勝手に落ち込んで勝手に怒っていただけなんだから。

純はDJブースや機材の組まれた部屋に私を連れ込む。

「んで、何…」

「取り合えず、これ聞いて」

ヘッドフォンを渡される。

純はすでにターンテーブルにセットされていた12インチに針を落とす。

86 : 1 - 2010/09/10(金) 10:37:17.94 0w0DA0rqP 64/224




バーン。

最初のイントロで吹っ飛ばされる。

ベースラインが世界を揺らす。

キックは鼓動を刻む。

トランセンデンタルな体験。

アウトロ。

少しづつ音は小さく絞られていき…。



87 : 1 - 2010/09/10(金) 10:42:33.82 0w0DA0rqP 65/224

「梓…」

「え、何…」

私は泣いていた。



88 : 1 - 2010/09/10(金) 10:47:03.54 0w0DA0rqP 66/224

人間は誰しも皆感情を持つ。

外的な世界だけで無く、内的な世界に対しても。

それは深い深いものだ。

『その中身を私にも教えて頂けないだろうか?』

普通の人はその内3割を言葉に出来るか。

それを得意とする人は5割ぐらいは言語化出来るかも知れない。

その全てを言語化出来ないからか、その抱く感情の中身ゆえだろうか。

それとも自分を取り巻く世界のせいだろうか?

人はいつしか感情を忘れる。

でも、その曲は私に感情を想起させた。

その曲は冷え冷えとしていた私の心に温もりを届けたんだ。



89 : 1 - 2010/09/10(金) 10:51:38.10 0w0DA0rqP 67/224

「この曲は…?」

純がスリーブを放ってよこす。

その白いスリーブには大きくプロモオンリーの文字が印刷されており、
曲名とレーベル名とアーティスト名だけが印刷されたステッカーが遠慮がちに貼ってあった。

レーベル名はHTTレコーズ。

アーティスト名は平沢唯。



92 : 1 - 2010/09/10(金) 11:10:47.41 0w0DA0rqP 68/224


「え、あ…?」

純が座り込んだ私の肩に手を置く。

「これからどうして行きたい?」

答えるまでも無いよね。



93 : 1 - 2010/09/10(金) 11:13:32.24 0w0DA0rqP 69/224

「で、連絡取るの?」

「よしてよ。そんなの向こうだって求めて無いでしょ」

「じゃあ、どうすんの?」

「向こうから連絡が来る様にすれば良いんだ。私、曲作るから」

そうだ、当然の事だけど、自分でも何かしなければならないんだ。

純はやれやれと言う感じの反応。

ふん、その内驚きでグレイス・ジョーンズのSlave To The Rhythmみたいな表情になるようにしてやるから。



94 : 1 - 2010/09/10(金) 11:16:17.43 0w0DA0rqP 70/224

私はいつも使っているバーにバンドメンバーを呼び出した。

「お久し振りです」

ベース「うん、仕事はひと段落着いたんだ?」

「ええ」

ピアノ「そっか、良かったね」

ドラム「じゃあ、またライブもやって行けるね」

「あ、あの、これからの活動に関してなんですけど…」

ドラム「おー、熱心」

ベース「ライブ出来なくて欲求不満が溜まってたりして」

ピアノ「デリカシー無いぞ」

ベース「うは、ごめんね、中野さん」

私はこの人たちを頼りにしなければならないと言う事実に少し陰鬱になるとともに、
この人たちが提案を了解するだろうか、と不安にもなる。



95 : 1 - 2010/09/10(金) 11:17:36.30 0w0DA0rqP 71/224

「いえ…」

ドラム「で、どうする?今まで、大体一月に一回だけだったけど、回数増やしたいとかそう言う感じ?」

そう言う事じゃない。

そう言う事では無いんだ。

「あ、あの…」



96 : 1 - 2010/09/10(金) 11:23:02.12 0w0DA0rqP 72/224


---

深海に落ちて行くような感覚。

息が苦しい。

私は魚人間になる。

深呼吸しろ。

水を吸い込め。

えら呼吸で生きていけば良い。



100 : 1 - 2010/09/10(金) 12:40:04.46 0w0DA0rqP 73/224

「ライブじゃなくて、その、レコーディングして見ませんか。
それで、どっかのレーベルに送ったりって…、駄目…ですかね」

「ん?」

三人が一様に驚いたような顔をする。

ドラムはちょっと呆れたような表情で、それから可哀想なものを見るように。

ベースは少しの嘲りを含んだ表情に。

ピアノは困ったような表情で私に言い聞かせるように。

「いや、うん。一つの方針としては良いんじゃないか?
でもさ、今の日本で僕らがやってるような音楽がどれぐらい流通してるかって、中野さんは分かってる…、よね?」



101 : 1 - 2010/09/10(金) 12:44:50.70 0w0DA0rqP 74/224

昔のようにピュアにそのジャンルを追及出来る状況じゃないって事が言いたいの?

でも、世界にはあるジャンルでちゃんと過去に対するリスペクトを持ちながら、
現代に耐え得るものを作っている人たちもいる。

そう言うものはちゃんとあるのだ。



102 : 1 - 2010/09/10(金) 12:53:14.52 0w0DA0rqP 75/224

ベース「もしかして、『クラブ』ジャズみたいな感じで、って事かな」

ベースが少し嘲るようなニュアンスで語り出す。

お前は黙ってろ。

「DJ的だか何だか知らないけど、そう言う切り取り方って逆に先人に対するリスペクトが無いし、ちょっと、中野さんの考え方には賛成出来ないなあ」

偏見に満ちた通り一辺倒な解説ありがとう。

返しはこうだ。



103 : 1 - 2010/09/10(金) 12:54:23.76 0w0DA0rqP 76/224

ジャズとは何か?

知るか!

ハッ!

ジャズとはコーンフレークに入ってる塩漬け豚だ。

ジャズとは何か?

知るか!

ハッ!

ジャズとは風呂のベルだ。

ジャズとは何か?

知るか!

ハッ!

ジャズとはトイレットペーパーで巻かれたジョイントだ。



105 : 1 - 2010/09/10(金) 13:03:23.01 0w0DA0rqP 77/224

「中野さんには悪いけど、ウチはライブ感を追求したいし」

うるさい。

私は何でこんな奴らが頼りになるなんて思ってたんだ?

何でこんな奴らと何かをやろうとしてたんだ。

純への対抗心?

もう我慢出来ない。

ただ、私は…。



106 : 1 - 2010/09/10(金) 13:09:20.14 0w0DA0rqP 78/224

「ジャズだけって、それはそれで素晴らしいものかも知れないですけど…」

私は、息を大きく吸い込む。

深海へ潜るために。

「それ、ちっとも格好良く無いですよね?楽しく無いですよね?少なくとも私はごめんです」

私は呆気に取られているメンバーを尻目に駆け出す。



107 : 1 - 2010/09/10(金) 13:10:17.31 0w0DA0rqP 79/224

---


私は、この人たちとは違う世界に生きるんだ。

サラバイバイ。



112 : 1 - 2010/09/10(金) 16:28:18.34 0w0DA0rqP 80/224

結局、純に頼る事にした。

持つべきものは親友だ。

「で、どうするの?」

「機材を貸して頂けると…」

「どんな感じの曲作りたいとか、もうはビジョン出来てるの?」

「いや…、まだ…」

「機材の使い方は?」

「それも教えて頂けると…」

純は大きくため息をつく。






113 : 1 - 2010/09/10(金) 16:30:21.34 0w0DA0rqP 81/224

いや、そう言う態度は傷付くんだけどね、こっちが悪いのも分かるけど。

「じゃあ、合宿でも組みますか!」

「は?!」

「だって、私二週間後にって事で、友達にリミックス作業頼まれてるし」

な!?

「だから、作業追い込みで、梓に教えてる暇とか惜しいし」

にゃっ?!

「私がやる作業の一部始終を見てるのも勉強になるよ!」

「随分とスパルタ方式のような…」

「何か言った?」

「いえ、何も…」

「そうだ、ついでに会社も休んじゃえ!一週間ぐらい」

結局、私は三日だけ有給を取った。



116 : 1 - 2010/09/10(金) 16:53:56.92 0w0DA0rqP 82/224

高校時代私はとても熱心に音楽をやっていると自認していた。

実際、先輩達の音楽の取り組みには何時もイライラさせられていたものだ。

だけど、それはとても一面的な音楽への取り組みでしか無かったのだと、純の作業を手伝っていると感じさせられた。

でも、そんなのはささやかな挫折に過ぎない。



117 : 1 - 2010/09/10(金) 17:04:10.88 0w0DA0rqP 83/224

自分の頭の中で鳴り響く音を一人で形にする事。

音楽を構成する要素をどう組み合わせ、どうシンクロさせるか。

それはこれまで漠然としか捉えていなかった部分であり、
それこそが今私がしなければならない問題なのだ。



118 : 1 - 2010/09/10(金) 17:05:15.92 0w0DA0rqP 84/224



例えば、今私が唯先輩の前にノコノコと顔を出して、これは凄く図々しい言い方だと理解出来るのだけど、
「うん、一緒にやろう」なんて唯先輩が言ってくれたと仮定する。

これはそれ自体凄く幸福なことだ。

だって、またあの魔法のような時間を生きる事が出来るんだから。



119 : 1 - 2010/09/10(金) 17:49:43.20 0w0DA0rqP 85/224

でも、きっとそこで待っているのは、
『中野梓は何の実力も無いくせに、平沢唯に上手くくっついて音楽が出来る振りをしている』なんて言う、
現状ではそれを否定する事が出来ないような周囲の評価だろう。

だから私は、そんな声が出て来ないように、予め奴ら掃討しておくようなチャレンジをしなければいけないんだ。



120 : 1 - 2010/09/10(金) 17:51:17.51 0w0DA0rqP 86/224

繰り返されるちょっとした焦り(つまり思うように音を捉えられないこと)の中で私は音を形にしようと苦闘していた。

時には、自分の楽器の経験が邪魔をする事もあった。

これは唯先輩の二枚目以降のジャンルレスな別バージョンを聞くたびに、
一から構想を練り直さなければならなくなる事と大きく関係していて、本当にきついことだった。



121 : 1 - 2010/09/10(金) 17:58:00.19 0w0DA0rqP 87/224

私の生活サイクルは激変した。

仕事、純の家に直行、作業。

純の家から出勤。

「おやすみなさい」

「じゃあ、私は行って来るから」

まあ、こんな形で生活自体は重ならなかったんだけどね。



123 : 1 - 2010/09/10(金) 18:08:13.80 0w0DA0rqP 88/224

そんな生活を続けた結果、二ヵ月後に何となく形を掴めるようにはなっていた。
(純の助けが大きかったなんて絶対言わないけどね)


125 : 1 - 2010/09/10(金) 18:41:43.74 0w0DA0rqP 89/224

リズム、ベースライン、コード、ギミック、自分が出したい雰囲気。

私は仕上げとして、唯先輩の曲を聞いて受けた衝撃を、あの魔法の何分の一かでも再現出来たらと言う願いを、
再び自分はこの世界に戻るのだと言う決意を、そう言う色んなソウルを注ぎ込むようにギターを弾いた。



127 : 1 - 2010/09/10(金) 18:55:54.62 0w0DA0rqP 90/224

もう、今日の仕事のことは考えられなかった。

そのままミックス作業に突入。

既に、朝と言うよりは昼と言った方が良いような時間になる頃、最後の作業は完了した。

曲を聴き直すことも無く、私はベッドルームにフラフラと入っていくとそのままベッドに倒れこんだ。

私の身体の下で、毛玉が何か『フギャッ!』と言う音を立ててたけど、私は疲労の方が勝って、そのまま眠りに落ちた。



129 : 1 - 2010/09/10(金) 19:08:31.17 0w0DA0rqP 91/224

「ああ、もう夕方かぁ…!?」

私は目を覚まし、そして自分の目の前にある渋い顔をした純に驚く。

「何で、純?」

「そこから?!」

「え、だって…」

「私が寝てたら、梓が倒れこんで来て、そのまま爆睡した。
私はまったく眠れなかったけど、優しい私は『梓作業で肉体精神両面ともが疲れてるんだろうなー、
もちろん私も疲れてるんだけど』なんて思って、今、梓が起きるまでこの姿勢を保持してたから」

「何か恩着せがましい…」

「いや、これぐらい許されるでしょ。それより、も…」

ん?

「早くどけー!!」

うわわっ?!


130 : 1 - 2010/09/10(金) 19:18:00.57 0w0DA0rqP 92/224

---


「で、早く聞かせてよ」

…。

「早く」

「恥ずかしい…」

「は?」

「いや、だから…」

「はぁ…」

分かってるよ。

こんなとこで恥ずかしがってるようじゃ駄目って事は。

で、でも、助走期間だって必要でしょ?

何事もソフトランディングが重要と言うか。

「あ、あの…、取り合えず、隣の部屋にいるんで…」

純は少し呆れたような顔になる。

「ばーか」


131 : 1 - 2010/09/10(金) 19:29:30.86 0w0DA0rqP 93/224

私はソファでサードを抱いて、純が部屋から出て来るのを待っていた。

少し長めの曲だけど、幾らなんでも30分と言うのは長過ぎ無いか?

あまりにへぼいから、私にどう言う言葉を掛けたら良いか分からなくて…。

ああ!そんな事ある訳無い!

とは、言い切れないからね。



134 : 1 - 2010/09/10(金) 20:12:33.47 0w0DA0rqP 94/224

---


「あ…」

「感想は聞かないの?」

「どう…、でしたでしょうか…」

「うん、良かったと思うよ」

イエィ!

「色々拙い部分もあるけど、それも味でしょ」

「それ褒めてんの?」

「うん」

「あんま、そう聞こえないんだけど」

「私は作曲を専門に勉強した訳じゃないし、ミュージシャンと言う訳でも無いからね。それに、聞き方はどうしても一般的な人とは違っちゃうから」

…。



136 : 1 - 2010/09/10(金) 20:18:56.46 0w0DA0rqP 95/224

純は少し困ったような顔をして、それから私の肩に手を掛ける。

「純…?」

「でも、それでも、感情を喚起するものはあったから!」

痛い!

痛いよ、純。

「だから、だから…、これ送ってみなって!」

「う、うん…」



139 : 1 - 2010/09/10(金) 20:35:24.36 0w0DA0rqP 96/224



ひょっとしたら、これは自分の望んでいたレベルのものでは無いかも知れない。

完成した時の高揚感が私を満足させたのでは無いかと、少し怯えながら再生する。

そうでは無かった。

魔法はちゃんとそこにあった。

まだ、辿々しさの残る稚拙なものかも知れないけど、そこにはあったのだ。

私は言葉に出来ない愛しさを感じて何かを抱きしめたくなって、でもドアのところに立っている毛玉に抱きつくのはどうかと思って…。

でも、結局純に抱きついた。

「純ーっ!」

「よしよし、良く頑張ったねー…」



140 : 1 - 2010/09/10(金) 20:39:15.13 0w0DA0rqP 97/224



私はレズでもバイでも無いつもりだけど、こう言う感覚になる事って時々あるでしょ?

それに、純は親友だし…。

おかしくないよね?

ないよね?

145 : 1 - 2010/09/10(金) 22:57:53.41 0w0DA0rqP 98/224

送るまでにそれだけの事があったにも関わらず、私は返答が来る事に確信が持てなかった。

朝晩二回、ドキドキしながら受信トレイを見ては、レーベルから何の反応も無い事にがっかりする日々が続いた。



146 : 1 - 2010/09/10(金) 22:59:27.35 0w0DA0rqP 99/224



もう、連絡は無いのだと半分諦めた頃、突然それは来た。

『デモ良かったよ。一度、会おう』

私はギターをかき鳴らした。

「Dogs borocks!Yes!Yes!Ye~sssss!!」

隣人から文句が来て、すぐ止めなければならなかったんだけどね。



147 : 1 - 2010/09/10(金) 23:01:35.56 0w0DA0rqP 100/224

私の気持ちは高ぶっていたけど、でもそれと同時にとてもナーバスになっていて、エレベーターで事務所が入っているのフロアのボタンを押す時から指は震えたし、
勿論事務所の入り口で呼び出しボタンを押して、スタッフが現れる数分が無限の時間に感じた。

スタッフ「えーと、中野梓さん?」

「ひ、ひゃい!」

痛っ。

舌噛んだ。



149 : 1 - 2010/09/10(金) 23:12:32.20 0w0DA0rqP 101/224

私は会議室みたいなところに通され、コーヒーを出される。

何で、コーヒー?

HTTなら紅茶でしょ?

それに私ミルクと砂糖無しじゃ飲めないし…。

あ、持って来た。

だったら、最初から持って来るべきでしょ。

教育がなって無い。



151 : 1 - 2010/09/10(金) 23:28:59.53 0w0DA0rqP 102/224

私は砂糖とミルクを大量に入れる。

ふふふ、こうやってコーヒー牛乳みたいにすればね…。



152 : 1 - 2010/09/10(金) 23:33:45.07 0w0DA0rqP 103/224

扉が開く。

…。
何か派手な人が入って来た。

如何にもなロックスターと言う印象。



153 : 1 - 2010/09/10(金) 23:36:03.80 0w0DA0rqP 104/224

私はちょっと気分を害する。

だって、こんなワナビーロックスターな感じの人が唯先輩とやっていて、私はなんでこんな所にいるの?って話だもん。

どこで知り合ったか知らないけど、正直な話こんな業界人気取りの人には近づいて欲しくないよ。



154 : 1 - 2010/09/10(金) 23:45:06.95 0w0DA0rqP 105/224

「初めまして、私がレーベルオーナーの…」

「あ、はい、中野梓です。初めまして…」

「ああ、座ったままで良いよ。私は音楽を売る、君は音楽を作る。うちでは対等の関係だから」

「そうなんですか…」

「うん。だからもっとリラックスしてよ」

「は、はい」



157 : 1 - 2010/09/11(土) 00:03:12.72 ZgdhC+SyP 106/224

---


このレーベルオーナーとの対面の話は少しはしょろうと思う。

結局、この日私が得たのは懐かしい再会と言う奴だった。

まず、言わなければいけないのは、高校の頃の印象と変わらず、律先輩は大馬鹿野郎だと言う事だ。

私はこのレーベルオーナーこと、律先輩との会話の中で、後々無かった事にしたくなるようなセリフを幾つも使ってしまって、
と言うかそれを誘発させたのは律先輩の悪ふざけで、本当になんて言うか最低だと思ったし、
その見栄の張り方と言うかセレブ気取りの振る舞いには呆れてしまう。



158 : 1 - 2010/09/11(土) 00:03:56.71 ZgdhC+SyP 107/224

でも、やっぱりこの人は凄い人で、一人でけいおん部を復活させようとしたように、私がウジウジと下らない事で悩んでる間も動き続け、
もう一度皆でティーパーティを出来るようにしようと、ずっと奮闘し続けていたんだ。

そんな人は滅多にいない。

だから、私は律先輩と言う人が大好きなんだ。



159 : 1 - 2010/09/11(土) 00:07:36.70 ZgdhC+SyP 108/224

ただ、少し落ち込む事もあった。

それは自分の作った曲に関する事で、自分ではクールに出来たつもりだったけど、
唯先輩から幾つか指摘されて、それは確かに頷ける事だった。



160 : 1 - 2010/09/11(土) 00:09:48.91 ZgdhC+SyP 109/224

でも、律先輩は『少し手直ししてこれ出そうぜ。そのためにHTTレーベルはあるんだぜ?』と言ってくれて、
唯先輩も『そうだよ、あずにゃん。私達は大手のやり方とは違うんだから。あずにゃんが込めた感情が伝わる人にだけ売れば良いんだから。そう言う人にこそ届ける必要があるよ』
と言ってくれた。


162 : 1 - 2010/09/11(土) 00:19:44.29 ZgdhC+SyP 110/224

私は涙が出るほど嬉しくて、感動して…、だから会社を辞めた。

二人の言葉に単純に乗せられた訳では無いけれども、翌週には辞表を出してしまった。

自分は違う世界の人間なのだと態々アピールするために、最終日はモッズスーツで出勤するのだから我ながら頭がおかしいと言わざるを得ないよね。

でも、モッズの有り方が本質的に逃避主義と言う事であるなら、私はさらに性質が悪いよ。

もはや、ノーマティブな世界との二重生活を捨てて、もう一つの世界で生きる事を決意したのだから。

私はHTTと共に生きることに決めた。

それが、私の生きる世界だと決めた。



164 : 1 - 2010/09/11(土) 00:40:41.18 ZgdhC+SyP 111/224

唯先輩の作業を手伝いながら、地方のレコード屋、ライブハウス、クラブに売り込みを掛けたり。

自分の作曲にも時間を割く。

夜は、律先輩と飲み歩いたり、回す曜日の増えた純のパーティに皆で押しかけたり。



166 : 1 - 2010/09/11(土) 00:54:09.96 ZgdhC+SyP 112/224

---


開けてゆく空の中、家路の途中。

私は、選択したく無かった職業に就いて憂鬱な一日を過ごさなければいけない人たちとすれ違う。

ツィートツィート。

『皆さんおはようございます、私は今から就寝です』なんて呟く。



169 : 1 - 2010/09/11(土) 01:06:15.22 ZgdhC+SyP 113/224



最初の一ヶ月が過ぎた。

それでもう私はこの生活の虜となってしまっていた。

たしかに、純の言う『危機感』(キャリア云々て話ね)が常に私はロックオンしていた事は認めるけどね。

にも関わらず、私は幸せだったんだ。

自分の好きな事で、自分の人生が構成されていく。

私は物心ついてからずっと、音楽に携わる職業に就く事で生きて行きたいと思っていた。最近はちょっと(いや、ほんのちょっとだよ?)忘れていたけど。

ほら、夢が実現しているんだよって。

分かるでしょ?



170 : 1 - 2010/09/11(土) 01:07:25.03 ZgdhC+SyP 114/224



でも、問題が無い訳でも無い。

それは、ストレートな世界、つまりは一般社会と言う事だけど、そことの断絶をパーマネントなものとして考えなくてはならないって事。

律先輩は私に経済的な保障を与えてくれていたから、その点は取り合えず問題無かったのだけど、
家族にこう言う生活に関する不安を抱かせてしまうことは避けられなかった。

私の場合はもはや『若いうちに少し回り道をして見ました。でも、一般社会に着地します。それから結婚して、出産して…』
と言う類のものでも無いのだから、両親の心配ももっともで、特に私の家は両親がこう言う生活に足を突っ込んだ事があるから(けど?)なお更だ。



171 : 1 - 2010/09/11(土) 01:38:06.59 ZgdhC+SyP 115/224

「そこは大きな問題だよなー?」

「それでもやっぱり、雑誌とかそう言うメディアにサポートして貰えるならって、思うけど?」

「『NHKに出てみたら親類が一気に増えました!』とかそう言う感じか?」

「もー、こっちは真面目に話してるんだからぁ」

「つっても、それは唯の家族の問題だろ?雑誌に写真入りで出てれば憂ちゃんも何をしてるか安心出来るって話でさ」

「ぶー、違うよ。だって、メジャーでやってた時だって…」

「それは、唯が顔会わせるたびに暗い顔して『つまんないつまんないつまんないなー』っていってたからだろ?」

「ああ、そう言えば、憂とメールした時結構ロウな感じでしたね」

「私のせい?!」



173 : 1 - 2010/09/11(土) 02:33:09.05 ZgdhC+SyP 116/224

「ははは」

「でもメディアってのは自分達の都合の良いフレームで取り上げるからなー。そこら辺は大手レコード会社と一緒で」

「あー、ああ言う押し付けはもうごめんだよねー」

「律先輩は家族からの問題ってのは無いんですか?」

「まあ、私の家はほら弟がいるしさ」

「ああ、なるほど…」

「おい、なんだよ、その何となく分かりました的な顔は?」

「いえ、別に」

「中野ぉ!」

「あはは」



174 : 1 - 2010/09/11(土) 02:34:22.73 ZgdhC+SyP 117/224



こう言う多少の問題は抱えていたものの、私の新たな生活は総じて幸福なものだった。



177 : 1 - 2010/09/11(土) 03:31:33.18 ZgdhC+SyP 118/224

律先輩は「うちは一般的にレコード会社じゃないから」と言う事を強調していて、私はなるほどと思っていたけど、

―と言うのは、律先輩は人がちょっと真面目な会議をしているような時でもずっと吸い続けているような人なので、あの人の話の中には誇大妄想的な話が混じっている(と私は感じていた)のだ―

それでもたくさんの繋がり、広がりがあるのは悪い事じゃないし、それにそこに信頼性ってものがあるなら、それは律先輩の言う「共同体」って言葉と相反することは無い。
私には、その「広がり」を作り上げるために打ってつけの友人がいた。



178 : 1 - 2010/09/11(土) 03:34:59.66 ZgdhC+SyP 119/224

セカンドハウスであるところの純のマンションで(だって、純のパーティに言った夜はここに泊めてもらうのが一番楽チンだったし)、私達は秘密の会議を開く。

と言っても、私はベッドに寝そべってスマフォでネットに上げられた数多くのインディー音源を捜しながら。

純は純で私の横でノートPCで作業をしながら、と言う、一目見た感じでは、まるでパジャマパーティでガールズトークでスイーツでと言う感じではあったんだけど。



179 : 1 - 2010/09/11(土) 03:37:55.90 ZgdhC+SyP 120/224

---



「ねえ、純?」

「んー」

「まだ、表に出てないけど、凄い才能を感じさせて、出来たら一緒に仕事して行きたいとか考えてる人っている訳でしょ」

「いるよー?」

「その人たちをうちで引き受けても良いよ?」

「律先輩はどう言ってるの?」

「問題無し。と言うか、あの人が気にしてるのはハーブが良質なものかどうかって事だけだから」

純は大笑いする。



180 : 1 - 2010/09/11(土) 03:41:15.26 ZgdhC+SyP 121/224

「あはは、何それ。酷い言い方」

「内輪の冗談だよ。いや、あの人が気にするのは心を震わすアートであるかと言う一点だから」

「誰の心を震わせれば良いの?」

「私は純を信頼してるけど?」

「梓ぁ、嬉しいこと言ってくれるぅ」

「いるの?」

「取り合えず、その子連れて一回あった方が良いよね」

「うん、予定組んでおく」

これでまた広がって行くよ。



181 : 1 - 2010/09/11(土) 03:45:24.08 ZgdhC+SyP 122/224


私達のこうしたアンダーグラウンドなコネクションは少しづつ広がりを持つようになっていった。

でも、この時代そうした動きを誰にも知られず、そう深夜の町を蠢く悪党のように行う、と言う事は出来はしない。

私達のような小さい流れであっても、彼らはエシュロンのように常に監視し、そこに少しでもお金の匂いがしないかと嗅ぎ回っている。



182 : 1 - 2010/09/11(土) 03:47:49.43 ZgdhC+SyP 123/224

唯先輩と律先輩のここまでの道程を考えれば、彼らの第一種監視対象である事は当たり前なのだけど、逆にそんな私達に良く誘いを掛けてくるものだと感心する部分もある。

その都度、律先輩はわざと下種な言葉で担当者を追い返した。

曰く、こんな風に。

「あんたオ○ンコ(You are not a man)だな」

「お前ら、全員地球の穴(earth hole=ass hole)だ!」

格好良いと思うけど、ちょっと下品だよ…。


183 : 1 - 2010/09/11(土) 03:50:46.58 ZgdhC+SyP 124/224

「そりゃあ、私と唯はメジャーで悲しい思いをしたけど、だけど大手のやり方全てが悪いとは思わないよ」

「そうそう。ただ、CDの売り上げは近年落ちてるって言うよね」

「じゃあ、悪い事ばかりじゃないですか」

「あれ?そう言えば…、えへへ」

「でも、私達は自由にやりたかったし、アートを届けるって言う行為は『CDをたくさん売ります』って言うのとは、違うものだから」

「それに、スケジュールを決められてそれにそって作業を進めるってのは、私とりっちゃんには、ねえ?」

唯先輩は意味ありげな視線を送ってくる。

律先輩は、笑いを必死で堪えている。



185 : 1 - 2010/09/11(土) 03:56:05.80 ZgdhC+SyP 125/224

「何ですか?その目付きは…」

「いや、なあ、唯?」

「だって、ほら、まずはね『さぁ!ティータイムだよ!』ってのが私達のスタイルだから」

「それを『作業しましょう。作業して下さい!まずは作業してからです!!』ってんじゃ…、なぁ?」

ああ!なんて嫌な先輩達だ!

「ははは」



186 : 1 - 2010/09/11(土) 03:57:52.65 ZgdhC+SyP 126/224

「結局のところメジャーは最後には『私達のとこから出せばもっと売る事が出来ますよ』って話なんだよな」

「だけど、私達は売りたいんじゃなくてティータイムをするための場所が欲しいだけだからね。イェイ!エンドレスティータイムって奴だよ!」



188 : 1 - 2010/09/11(土) 03:59:20.98 ZgdhC+SyP 127/224

一応、二人には注意しておこう。

『唯先輩と律先輩、そのティータイムの意味は言わないでおいた方が言いと思います』って。

いや、別に私だけ良い子の振りをしようと言うんではないんだけど。

私だって、キマッた状態(perfectly cabbagedだって、プププ)にあるおかげで、太陽が随分前に昇ってしまっていると言うのに踊り続けたって経験が無い訳じゃないからね。

もちろん、その時のファンタスティックさだって否定する訳じゃないし。

でも、HTTギャングなんてのはちょっと本意じゃない。

ギャングがファミリーって言い換えをしてるとしても、それを逆からなぞって見せなくたって良いんじゃないかって事。



189 : 1 - 2010/09/11(土) 04:00:37.30 ZgdhC+SyP 128/224

事務所の一部屋は、鍵が付けられ親しい人間以外立ち入り禁止だった。

ねえ、つまり、そう言う事なんだ。



190 : 1 - 2010/09/11(土) 04:02:43.36 ZgdhC+SyP 129/224



私は、打ち合わせが長引いてしまい、深夜の事務所に帰って来たところだった。

事務所の鍵を開けようとすると…。

「ご、ごめんなさ~いぃっ!!」

「ちょ、おま、ふざけんな!これどうしてくれんの!」

え、何?!

事務所の扉を開けた瞬間、中から素っ裸の男の子が飛び出して来る。



191 : 1 - 2010/09/11(土) 04:04:55.81 ZgdhC+SyP 130/224

「うわっ!」

私は、男の子に突き飛ばされた事にも驚いたけど、その男の子を追い掛けて飛び出して来た律先輩にも驚いた、いや、びびらされた。

全裸で片手に鉈を持って飛び出して来る知り合いの姿なんて見たくないよ。

律先輩は私の姿を見て少しクールダウンしたようだった。

「梓、なにやってるんだよ?」

「そ、それはこっちのセリフです」

誰が見たって、そう言うでしょ?

「あの男の子はなんなんですか!それに、鉈なんて持って」

「街で引っ掛けた」

「あーあー、あーあー」

聞こえない聞こえない。

うん、聞き流そう。



192 : 1 - 2010/09/11(土) 04:08:42.94 ZgdhC+SyP 131/224

「なんで鉈持って追い回してるんですか」

「あの馬鹿、ジョイントにビビッたのか知らないけど、いきなり、秘蔵のブリティッシュコロンビア産のが入ってるケースに小便垂らしたんだよ!許せないだろ?」

馬鹿馬鹿しい。

「なぁ、これ乾かせば使えるよな…。あ、でも、臭いはどうしようか…?ファブリーズかなぁ…。あー、もー!!」

馬鹿だ。

「でもさぁ、今時ジョイント見たぐらいで、小便漏らすほど驚くもんかなぁ?」

「ベッドの下に置いてあった、その鉈でも発見しちゃって、都市怪談(恐怖Steppin’Razor女?)の被害者にでもなると思ったんじゃないですか?」

「中野ぉ!!」

怖っ。

この状況での「中野ぉ!」はシャレにならないよ。



193 : 1 - 2010/09/11(土) 04:15:27.55 ZgdhC+SyP 132/224



事務所のこの一室では本当に録でも無い出来事ばかりが起きるんだ。


「ちょっと、もうスタッフが出勤して来る時間ですよ!?」

律先輩も、唯先輩も寝ぼけてるのか、全裸のままソファーベッド転がったままだった。

「あー?もう朝か?」

「みたいねー」

唯先輩はのそのそ起き上がってくると私に抱きついて来る。

「あずにゃーん、おはよぉー…」

「ちょ、これアレじゃないですか?わわわ、もう、やだ!」

私は、ジーンズに何かヌルリとした感触を感じて唯先輩を突き飛ばす。


194 : 1 - 2010/09/11(土) 04:20:25.76 ZgdhC+SyP 133/224

「あ、腹に出されたやつそのまんまだったみたい…。えへへ…、困っちゃったねぇ、あずにゃん?」

「しゃーねーなー、腹に出した奴を梓にぶん殴らせてやるから、それで…、あれ?あれ?」

「りっちゃん?」

「あれ?あいつらは?」

「一人はりっちゃんに顔射したからって、殴って追い出しちゃったし、
もう一人はアナルにスティック入れたら抜けなくなっちゃって、泣きながら出てっちゃったじゃん?」

「あー、全然記憶無いや…」

「あはは」

もう、この人たちやだ…。



195 : 1 - 2010/09/11(土) 04:25:28.92 ZgdhC+SyP 134/224

「あ、そう言えば」

「ん?」

「あの人達、二人とも、ズボンも履かずに逃げちゃったから…」

「財布か!」

二人は男物のジーンズの尻ポケットから財布を漁る。

「なんだよ、ボッテガなんか使いやがって、生意気ぃ。ヴィトンでもドヤ顔で使ってろっての。
これは質屋に直行だな。そんで…、カード類は武士の情けだ。まとめて家に送り返してあげような」

もう、それ泥棒ですから!

「やり!ひー、ふー、みー…。現金で十万も入れてやがった!」

「今日は高級焼肉だね!りっちゃん隊長!」

「よーし、豪勢にいっちゃうぞー!」

「良かったね、あずにゃん!」

何が良いのやら…。


196 : 1 - 2010/09/11(土) 04:27:16.15 ZgdhC+SyP 135/224

私はこれらの出来事をそれほど大きく捉えていた訳では無いけど、
危機感を感じて一つだけ、こんな生活の中でも自分に制約を課そうと思ったことが、本当に一つだけあった。

それはコカインに関してだ。



198 : 1 - 2010/09/11(土) 04:31:17.10 ZgdhC+SyP 136/224

「私、マリファナの良さが分からないんですよねー」

「それはそれで良いんじゃね?」

「後になれば、その時楽しかったのはそのお蔭かな、って思ったりしますけど」

「あー、効く境界がはっきりしないからかな」

「そうですね」



199 : 1 - 2010/09/11(土) 04:33:38.21 ZgdhC+SyP 137/224

でも、コカインは違った。

ストローで鼻から吸い込んだ瞬間、私は飲み込まれてしまったんだ。

目の前がまるでマグネシウムが燃える時みたいに明るくなって…、何と言うか、私に合い過ぎたんだ。



200 : 1 - 2010/09/11(土) 05:00:58.84 ZgdhC+SyP 138/224

小さい欠片を剃刀でさらに小さく細かくし、粉のようにしていく。

自分の鼻息で吹き飛ばさないように、息を必死で止めて。

その作業を粉雪よりさらに細かい粉末になるまで続けていって…。

さあ、準備OK。



201 : 1 - 2010/09/11(土) 05:04:50.41 ZgdhC+SyP 139/224

これは、効き過ぎる。

私をあっという間にあの世に連れ去ってしまうことがすぐに理解出来た。

私は、必死の自制心を発揮してコカインを使わない事にした。

律先輩にも、唯先輩にも言い含めた。

律先輩はマリファナ主義なので、あまり心配は無かった。

唯先輩も「あずにゃんの頼みだもんね、気を付けるね?」と言ってくれた。

本当に危険過ぎた。



202 : 1 - 2010/09/11(土) 05:06:38.81 ZgdhC+SyP 140/224

私達の少々ワイルド過ぎる生活はこう言う感じだった。

そんな中で、私は自分のアルバムを唯先輩に手伝って貰ってリリースした。

手伝って貰ったと書いたけど、唯先輩がエンジニア(それと様々な手助け)を担当してくれる事が無ければ出来なかったものだし、
まさにこれは「ゆいあず2」なんだ。

また一つ私の夢は現実になった。

209 : 1 - 2010/09/11(土) 10:03:05.04 ZgdhC+SyP 141/224



この頃の唯先輩は神がかっている。

エンジニア、プロデュース、ライブetc、全てが凄かった。



210 : 1 - 2010/09/11(土) 10:26:01.26 ZgdhC+SyP 142/224



ミキシングに関しては、唯先輩本人に取って基礎理論から勉強してってのは不本意だったのかも知れないが、
曲のクオリティコントロールと言う側面では良かったと思う。


211 : 1 - 2010/09/11(土) 10:27:49.72 ZgdhC+SyP 143/224

この問題の発端は、エンジニアは職人だから、自分の経験則がアーティストの要望より優先されると思っている人がいたと言う割とつまらないことなんだと思う。

律先輩の話によると、「平沢唯」としての最初の曲の時、とにかくそのやり合いは凄まじかったらしい。



212 : 1 - 2010/09/11(土) 10:31:14.66 ZgdhC+SyP 144/224


「何?キックをもっと前に出してくれって?」

「うん。もっと来る様な感じに…」

「駄目駄目。それじゃ曲が駄目になるよ」

「ならないよ…」



213 : 1 - 2010/09/11(土) 10:34:08.15 ZgdhC+SyP 145/224


「違うの!それじゃベースラインが他のパートに埋もれちゃうよ!」


「でっかくミックスして欲しいんだってば!前のめりになって一生懸命に耳を傾けないとベースの音が聞こえて来ないような作りにしたくないの!」


「私がそれが良いって言ってるんだから、そうしてよ!」

そして、唯先輩はエンジニアを卓から突き飛ばし、勝手にフェーダーを上げ始める。

大喧嘩。

律先輩が間に入って何とか宥めすかしたのだが、そのスタジオには当然の事ながら出禁になった。

次のスタジオでも似たようなやり取りがあったらしい。



215 : 1 - 2010/09/11(土) 10:47:02.74 ZgdhC+SyP 146/224

「唯、少しは抑えて行かないとな?」

「だって、あの人の足元の床、擦り減って無かった」

「は?」

「立って、ノリながらやってる訳じゃないって事じゃん。身体で感じながらやらないから、ああ言う事言うんだ」

ヘッドミュージックとボディミュージックの違いって事を言いたいんだろうか?



216 : 1 - 2010/09/11(土) 10:57:58.24 ZgdhC+SyP 147/224



最初の頃のリリースにやたらリミックスが多いのは、単純に商売上のギミックと言う訳でも無くて、
元のバージョンにあまり満足がいってなかったと言うことも理由として大きかったのだそうだ。


220 : 1 - 2010/09/11(土) 11:54:15.90 ZgdhC+SyP 148/224

これらの話から分かるのは、その天才性と言う事もだけど、
ネガティブな一面として唯先輩があまり他人の助けを必要としないように見えると言う事で、
この事が私達の行き先に関して大きく舵を切ったと言うのは間違い無い。


221 : 1 - 2010/09/11(土) 11:55:43.49 ZgdhC+SyP 149/224



こう言う経験があるのだから、唯先輩が「スタジオ作りたい」と言い出す事には必然性があると思う。

224 : 1 - 2010/09/11(土) 13:07:35.84 ZgdhC+SyP 150/224

だけど、律先輩の「ビルを買おう」は理解出来なかった。

どうして必要か、と言う事に関してもポジティブな理解は出来なかった。

結局、律先輩のプランニング通りになったのだけど。

「お金儲けするつもりは無いから」と言う言葉に押し切られたようなもので、私は昔から律先輩のそう言うちょっと強引な態度に弱い。

実際はどうか分からないけど「こうしてれば上手くいくから」と思わせるものがあるのも確かなんだ。



225 : 1 - 2010/09/11(土) 13:11:24.95 ZgdhC+SyP 151/224



私はそう言う財務的な事柄に関しては、意図的に一切触れないようにした。

その分、純やその周辺の人間と一緒になっての新しいパーティの立ち上げや、サウンド面の作業にのめり込んだ。



226 : 1 - 2010/09/11(土) 13:13:35.83 ZgdhC+SyP 152/224

律先輩の周囲に急激に増えた人たちが、私達の音楽をアクセサリーのように語ったりするのが、ちょっと気に入らなかったりしていたと言う事もある。

Don’t believe the HYPE!で無ければいけない筈なのに、私達自身をハイプとして売るような真似をする人たちと上手くやれる筈が無い。



227 : 1 - 2010/09/11(土) 13:18:23.88 ZgdhC+SyP 153/224

「律先輩もまたドラム叩けば良いのに、そうすればさ…」

「でも、梓はいつも『あの人は走りすぎだし~』って不満ばっか言ってたじゃん」

「そう言ってはいたけど、良いドラムだとも思ってたんだよ?」

「そう言う問題じゃなくてさ」

「純の言いたい事は分かるよ。今は社長業務だってあるし、って事でしょ?」

「ならさ…」

「それは分かってるけど…」

「梓が戻ってきて以来上手く行ってるじゃん?全部が。それも全てさ…」

…。

分かってる、分かってはいるんだ。

純は大きくため息をつく。

「梓はさ、律先輩の事『ハッパの事しか~』って言うけどさ、海外のディストリビュート先の最近の増え方とか、やっぱりあの人でなければ出来なかったんじゃない?」



228 : 1 - 2010/09/11(土) 13:25:36.68 ZgdhC+SyP 154/224


違うんだ。

別に律先輩に不満を抱いてるとかでは無くて。

あの人の凄さは分かってる。

ハッパが云々なんてちょっと偽悪的な冗談じゃないか。

ただ、律先輩が私達に対して(勿論全てに対してもだけど)見栄を張る必要なんか無いんだ、って事を分かって貰いたいだけなんだ。



229 : 1 - 2010/09/11(土) 13:29:43.57 ZgdhC+SyP 155/224

私達は(律先輩が強調していたように)「共同体」はずだったんだけど、最近少しギクシャクしてる事も否定出来ない。

そんな時、海外のプロモーターからのオファーがあった。

良いチャンスだと思った。

前のツアーの時のように、私達は(悪い遊びも含めて)また一体感を取り戻す良いチャンスだと思ったんだ。



230 : 1 - 2010/09/11(土) 13:32:40.22 ZgdhC+SyP 156/224



前列に陣取る観客の着ているTシャツはBlack Flag、Bad Brains、7seconds、SOD、etc。
ブーイングで追い出されるんじゃないか、暴力行為がエスカレートして自分達の身も危なくなるんじゃないか。

そんな不安ばかりが私の頭をよぎった。

バックステージの隅でビビっている私を律先輩と唯先輩はからかう。

「なんでそんなに余裕なんですか!」

二人は笑うばっかり。



231 : 1 - 2010/09/11(土) 13:36:40.47 ZgdhC+SyP 157/224




唯先輩は、その存在を良く知られないまま、ただライブに暴れに来ているような観客の前に立つ。

会場はネガティブな雰囲気を漂わせたまま。

1曲目が始まる。

バーン!!

1、2、3曲とライブが進む内に、明らかに雰囲気が変わっているのがわかる。

何時の間にか、観客達は絶叫し、飛び跳ねていた。

律先輩は何時の間にか私の横に立っていて、私にアイコンタクトを送る。

その目は「な、盛り上がっただろ?」と言ってるように見えた。

凄いとしか言い様が無いよね。

後で聞いたら、律先輩は逃走経路を用意したりと結構動きまわってたらしい。



232 : 1 - 2010/09/11(土) 13:40:16.89 ZgdhC+SyP 158/224




私達がステージの成功ぶりに良い気分のまま会場を出ると、そこには何人かのハードコア・キッズ達が待ち伏せていた。

「ひっ!」

私の頭に「邦人ミュージシャン暴行される」と言うニュースが流れる。

だけど、そんな事は無かった。

明らかにフレンドリーな雰囲気で近寄ってくる。

荒れた英語だったので、良く分からなかったけど「最高だぜ」と言っているらしい。

私達は彼らに囲まれるようにして、バスに乗る。

バスがゆっくりと走り出しても彼らは興奮冷めやらぬ様子で手を突き上げている。

私達は顔を見合わせて、爆発する。

本当に最高だった。



233 : 1 - 2010/09/11(土) 13:47:41.16 ZgdhC+SyP 159/224



勿論、こんな風に幸福な場合ばかりでなく、あまり良くない終わり方をする時もあった。

興奮した観客が割れた酒瓶を持ったままステージによじ登る。

その客は、警備員に即座につまみ出されたが、ライブはお開き。

楽しみを中段された観客は暴動寸前。



234 : 1 - 2010/09/11(土) 14:01:16.77 ZgdhC+SyP 160/224



ライブ直前、セキュリティを担当していたギャングのメンバーが敵対するギャングに駐車場で殺されたと言う。

ライブは中止。

私達は控え室の壁を手を痛めない程度に叩くぐらいしか、むしゃくしゃを晴らす方法が無い。

ポジティブに考えれば、ライブ中に敵対ギャングが乱入して来るような状況に巻き込まれなくて良かったよね、って話かも知れない。



236 : 1 - 2010/09/11(土) 14:05:30.19 ZgdhC+SyP 161/224

空港で突然の予定変更を申し渡される。

「ハイ、君達を招聘したプロモーターはここに来る事は無い。僕らと一緒に来てショーをするか、ここで引き返すか、(あいつらは手を拳銃の形にして!)バン!さあ、どれにする?」

私達を呼んだプロモーターのライバルプロモーターの車に乗せられて(これはもう誘拐と言って良いような感じ)、
競争相手のライブハウスでライブをする。

出来はばっちり。

予定されていた金額の二倍のギャラと丁重な感謝を受け取って、上等なリムジンで送迎されて空港へ。



237 : 1 - 2010/09/11(土) 14:09:11.00 ZgdhC+SyP 162/224



多くの幸福な経験とタフなトラブル。

それらは私達を成熟させたし、それに再び初期衝動を取り戻す助けにもなった。

それだけで済めば、私達はもう一度HTTを始めた頃のようになって日本に帰れたんだろうと思う。

でも、そうはいかなかった。

ロックンロールにありがちなナイトライフの誘惑が全てをぶち壊した。



239 : 1 - 2010/09/11(土) 14:15:41.17 ZgdhC+SyP 163/224



律先輩がホテルに着いた途端に吐き出して、一晩中吐き続けた結果病院に運びこまれるなんて事があった。

その日は一滴もアルコールを入れていないのに、突然そうなるんだからその不摂生の程が分かるってものでしょ?

別に律先輩を責めてるんじゃない。

だって、私達全員はいつもへべれけになっていたし、いつも笑顔が貼り付いていたんだから。




241 : 1 - 2010/09/11(土) 14:22:12.85 ZgdhC+SyP 164/224

「うい~、あいす~」

唯先輩は特に山のようにスピードをやっていた。

量が少なすぎると病気になるとでも言わんばかりに。

まさか、アイスがスピードを意味するスラングだからって言う理由じゃないよね?

ははは。

いくら、唯先輩だからって、まさかね?


242 : 1 - 2010/09/11(土) 14:26:09.19 ZgdhC+SyP 165/224

久し振りに日本に帰ってきた時、唯先輩は酷い事になっていた。

何とかしなければいけなかった。

まず、律先輩に相談した。

表面的には共犯者のように。

では、心の中は?

信頼出来ない。

律先輩の「知り合い」が良くない。



243 : 1 - 2010/09/11(土) 14:34:30.06 ZgdhC+SyP 166/224

私達の周りにはそう言うものを容易く手に入れるルートがあった。

それは二人がメジャーでやっていた時に出来た繋がりで…。

ああ、もうはっきり言おう。

律先輩のセレブ気取りでフレンドリー(ここは通常なら美点なんだろうけど)な態度は、そう言う人間を呼び寄せ過ぎていた。

そんな人たちのいるところでは止めさせることなんて出来やしない。

248 : 1 - 2010/09/11(土) 16:46:27.01 ZgdhC+SyP 167/224

私はレコーディングを口実に唯先輩を引き離す事にした。

「ああ、良いんじゃないか?海外レコーディングなんて唯も楽しめるだろうし」

簡単に了承。

拍子抜け。

でも、これが律先輩の良いところだ。

「あ、そうだ」

「何です?」

「唯にハードドラッグは控えめにさせるようにしないとな」

…。

律先輩も少しは危機感を共有してくれているらしい。





249 : 1 - 2010/09/11(土) 16:58:47.55 ZgdhC+SyP 168/224

次は唯先輩に。

「向こうのエンジニアスタッフと作業してみたくありません?」

「楽しいかも」

「でしょう?それに、ほら前メールくれた人いたじゃないですか。インディーレーベルやってるって言う」

「あ、うん、あそこのレーベル良いよねー」

「あそこからミックスCD出してる人を純のパーティに呼んだ事があるんで…」

「一緒にやりたい!」

唯先輩はちょろい。



250 : 1 - 2010/09/11(土) 17:12:42.99 ZgdhC+SyP 169/224




私達は意気揚々と旅立った。

だが、そのテンションは長続きしなかった。



253 : 1 - 2010/09/11(土) 18:02:42.34 ZgdhC+SyP 170/224

唯先輩はスタジオに入ったが、何の作業もしなかった。

私や何人かの人間がアイデアを出したものの、頷かなかった。

「うーん…、そうだなあ…。あー、でも、ちょっと違うんだよねー…」




気晴らしにと連れだしたプールやビーチでも、唯先輩の気が晴れる事は無く、その眉間に皺を寄せ続けていた。



254 : 1 - 2010/09/11(土) 18:06:07.96 ZgdhC+SyP 171/224



唯先輩はついにはスタジオにも入らず、ホテルの部屋に閉じこもるようになる。

私はどうしたら良いか分からず、ただ隣の部屋で待つだけの時間を過ごした。

こんな時、律先輩ならどうしただろうか。

メジャーでやっていた時、唯先輩は塞ぎ込む事も多かったと言っていた。

今みたいな感じだったんだろうか。

不安ばかりが募り、今回の海外行は失敗だったんじゃないか、と言う思いが首を擡げて来る。

馬鹿な事!

…?!。

そんな時、隣の部屋から破砕音がした。



255 : 1 - 2010/09/11(土) 18:07:13.73 ZgdhC+SyP 172/224


「どうしたんですか!?」

私が部屋に飛び込むと、唯先輩は額から血を流して立っていた。

「あずにゃん…?えへへ、ガラス割っちった…」

「唯先輩?!」

唯先輩の部屋の姿身にひびが入っていた。

「ごめんね、びっくりさせちゃったよね…?」


256 : 1 - 2010/09/11(土) 18:08:18.54 ZgdhC+SyP 173/224

「そ、それより手当てしないと!ガラスは散らばって無いですよね?!」

「そんな慌てなくても、だいじょぶだよぉ…」

「大丈夫じゃないですよ。ほら私が片付けますから、まず傷口洗って来て下さい」

「でへへ、すいやせんねえ…」

唯先輩はバスルームにのそのそと入っていく。

私は三日振りに見る唯先輩の姿に愕然としていた。

その憔悴振りは一目で分かるものだった。



257 : 1 - 2010/09/11(土) 18:09:05.46 ZgdhC+SyP 174/224



私は、むずがる唯先輩を無理矢理ベッドに寝かしつけた。

「取り合えず、今日は休んで下さい」

「でも、曲書かないと…」

「今日一日ぐらい休んでも罰は当たりませんから。どうせ、律先輩はハッパパーティでもやってるんですから」

「ふふ、そうかもね…」

「そうですよ」



261 : 1 - 2010/09/11(土) 18:46:52.80 ZgdhC+SyP 175/224

「でも、りっちゃんはきっとHTTのために頑張ってるよ…」

「ええ、きっと頑張ってるでしょうね…」

「そうだよ、私達のリーダーだもん…」

…。

「じゃあ、電気消しますね?」

「あ、あずにゃん、ちょっと…」

「何です?」

「眠るまで手繋いで貰ってて良い?」

…。

「ええ、構いませんよ。手ぐらい幾らでも」

「ありがとうね…」


262 : 1 - 2010/09/11(土) 18:48:34.61 ZgdhC+SyP 176/224




私の誤算は二つあった。

一つ目は、唯先輩にスランプが来るなんて事は有り得ないと考えていた事。

何時だって、唯先輩は私を導いてくれていた。

そんな事考えもしなかった。


264 : 1 - 2010/09/11(土) 18:57:25.23 ZgdhC+SyP 177/224




この日の事があって、私は唯先輩にあまり根を詰め過ぎないようにと提案した。

唯先輩は午前中だけスタジオに顔を出し、少し機材をいじって、午後には街を散歩したり、
ホテルで出来る作業をしたりと言う生活をする事になった。

出来るだけ付き添っていた方が良いのでは無いかと思ったが、
「これも、構想のためだからさ?ね、一人にさせて?」と言う、唯先輩の希望を優先させる事にした。



265 : 1 - 2010/09/11(土) 19:29:46.25 ZgdhC+SyP 178/224




私の選択は正しかったのか間違っていたのか。

取り合えず、こう言う生活サイクルを作った結果、唯先輩は少しづつ作業を進めるようにはなった。



266 : 1 - 2010/09/11(土) 19:31:06.71 ZgdhC+SyP 179/224




こうした努力で断片的な素材は幾つか出来たが、曲を構成する状況までは程遠かった。

律先輩から言われた予算はもはや底を突きかけていた。

その事も問題だった。



267 : 1 - 2010/09/11(土) 19:32:52.53 ZgdhC+SyP 180/224



だが、もっと大きな問題はその断片的な素材を頭から搾り出すために唯先輩が払った代償だ。

財布の中身。

これは良い。

まだ小さい問題だと思う。

だが…。



268 : 1 - 2010/09/11(土) 19:48:46.82 ZgdhC+SyP 181/224




私の誤算の二つ目は、良いルートが無ければボッタくられると言う事だ。

受容と供給。

当たり前の事だった。



269 : 1 - 2010/09/11(土) 19:52:38.87 ZgdhC+SyP 182/224




唯先輩はドラッグ(より性質の悪い事にそれはクラックだった)を手に入れるために自分の財布を空にした。

それでも足りなかった。

どうしたか。

どうしたと思う?





271 : 1 - 2010/09/11(土) 20:05:18.33 ZgdhC+SyP 183/224



スタジオの警備員が深夜の見回りをしている時、それを明らかにした。

唯先輩がスタジオの機材を抱えて、私達が生まれる前から走り回っていたような、オンボロのプリマスワゴンに積もうとしているのを。

クラックを買うお金を手に入れるために、スタジオの機材を盗んで売り捌こうとしているのを。



272 : 1 - 2010/09/11(土) 20:07:37.17 ZgdhC+SyP 184/224

「あずにゃん…」

「どうしてですか!」

「どうして?」

「そんなに辛いなら、そんなもの使ってまで、搾り出さなきゃいけないなら、止めてくださいよ…」

「あずにゃん、泣かないで?」

「だって…、こんなの…」

「りっちゃんだって頑張ってる。あずにゃんだって一緒に来てくれてる。私だって何かしなきゃね?」

「でも…」

「苦労かけて…、ごめんね?」



273 : 1 - 2010/09/11(土) 20:11:56.95 ZgdhC+SyP 185/224




律先輩は唯先輩をメタドン治療施設に入れる事に決めた。

私は何の手も打てなかった。

律先輩に泣きついただけだった。

私は自分の思い上がりのツケを払わされた。

唯先輩と言う一番大事なもので。



274 : 1 - 2010/09/11(土) 20:13:30.74 ZgdhC+SyP 186/224




唯先輩は優良な患者だった。

社会に復帰しようと言う強い意思があったからだ。

実際、メタドンの使用量も他の患者に比べれば遥かに少量で済ませていた。

医者もカウンセラーも薬を服用しながら、と言うエクスキューズ付きでは有ったが、社会復帰の許可を出したのは自然な事だった。



275 : 1 - 2010/09/11(土) 20:17:17.73 ZgdhC+SyP 187/224




私は不認可薬(…)であるラームやブプレノルフィンを日本に持ち替える危険性を認識していたが、
「早く戻りたい」と言う唯先輩の熱意に負け帰国を決めた。


276 : 1 - 2010/09/11(土) 20:21:17.47 ZgdhC+SyP 188/224




飛行機の中、唯先輩はずっと私の手を握って、穏やかな寝顔を見せていた。

何が唯先輩をここまで駆り立てていたんだろうか。

まだ、私は答えを見つけ出せないでいた。



277 : 1 - 2010/09/11(土) 20:24:36.91 ZgdhC+SyP 189/224

「おー、りっちゃ~ん!綺麗な身体になって帰ってきたよー!!」

唯先輩は律先輩を見つけると、手を振って駆けだす。

律先輩は私の方を見ると、少し苦笑して手を振る。

私はどんな顔をしたら良いか分からず、でも取り合えず苦笑で返す。

「いぇーい、カムバックトゥジャパーン!」

唯先輩は片手に大きなショッパー、もう片方の手でトランクを押していて、肩にはギー太と言う感じだった。

ショッパーの中身は唯先輩の命綱だ。



278 : 1 - 2010/09/11(土) 20:25:49.64 ZgdhC+SyP 190/224

律先輩が二歩三歩と踏み出す。

「二人ともお疲れ…」

唯先輩は勢い良く飛び跳ねて、そして…。

唯先輩が躓く。

ショッパーから零れ落ちる壜。

律先輩は顔を背ける。

全てがスローモーションに感じられた。


279 : 1 - 2010/09/11(土) 20:28:20.14 ZgdhC+SyP 191/224



ショッパーの中に入っていた壜が砕け散る音がして、その瞬間、時間の流れは元に戻った。

そこには床に這って、割れた壜の中に入っていたであろう粘性の液体を一滴だろうと無駄にしたくないと言う様子で、床に口を近づけて吸おうとする唯先輩の姿があった。

「あ、あぁメタドンが、私のメタドンがぁ…、うわぁ!!」

私は唯先輩に駆け寄った。

「唯先輩、大丈夫ですから、まだたくさんありますから」

「あずにゃーん!!だってだってぇ!!」

空港職員が多数駆け寄って来た。

来るな!

来るなぁ!

「処方箋貰ってますから!処方箋はありますから!」

空港職員「ちょっと、良いですか?」

「近寄るな!私達に近寄るなぁ!!」


280 : 1 - 2010/09/11(土) 20:33:17.60 ZgdhC+SyP 192/224




様々な治療薬はまだ良かった。

海外のものとは言え、正式な処方箋があったから。

医者からアドバイスがあり、併用に医学的効果が認められていたとは言え、ヘロインはまずかった。



285 : 1 - 2010/09/11(土) 22:31:47.13 ZgdhC+SyP 193/224



それでも、執行猶予に持っていく事が出来た。

私はこの裁判を通して初めて会社の財務状況に直面した。

私は全てが終わりに近づいている事を理解する。

私達は三人乗りのボブスレーとかそう言う感じのものだった。

多人数で乗車するものの方が、一度動き出してしまうとスピードアップするのは早い。

そう、乗算的に。

そして、行き先が分かっていても止められない程の速度になる。

その行き先は?

ねえ、分かるよね?

だから、そう言う事なんだ。


287 : 1 - 2010/09/11(土) 22:36:51.27 ZgdhC+SyP 194/224




きっと、気の触れた老人が部屋に急に入って来てこう告げるのだ。

私達の世界はもうすぐ終わりです。

洪水が来て私達の世界を飲み込むのです。


288 : 1 - 2010/09/11(土) 22:44:48.36 ZgdhC+SyP 195/224

「アルバムを出すために資金調達する必要があるんだ」

律先輩の言葉は私の耳をすり抜けていた。

「どうすれば良い、どうすれば…」

律先輩は憔悴した様子でブツブツと呟いている。

私は、ボンヤリとそれを見ていた。

律先輩は何か呟いていたが、俯いたまま動かなくなった。



289 : 1 - 2010/09/11(土) 22:48:53.57 ZgdhC+SyP 196/224

私は律先輩の旋毛をしばらく見ていたが、あまりに動きが無いことに気付いて、また自分もずっとそれを見ている間動かなかった事に気付いて、声を掛ける。

「律先輩…?」

律先輩は顔を上げる。

何かを決心したような表情。

「もう、終わりなんだな…」

私も理解した。

終わりの時がやって来たのだと言う事を。


290 : 1 - 2010/09/11(土) 22:56:11.09 ZgdhC+SyP 197/224




「スタジオに色々機材あるじゃん?」

「ええ。あれも全部競売に掛けられちゃうんですか?」

「ああ。まあ、唯が買い集めた機材も結構あるんだけど、会社の換価財と見なされちまうだろうな」

「そうですか…」

「で、だ」

「はい?」


291 : 1 - 2010/09/11(土) 23:01:46.45 ZgdhC+SyP 198/224



私は純に電話をする。

「あ、純?人手集めて。え?いや、今すぐ。重いもの運びたいんだ。うん、すぐすぐ。あと、出来るだけ大きいトラックもあると良い。
あ、そうだ!楽器を扱った事がある人が良いな。うんうん、出来るだけ早くね」

機材は窃盗団に盗まれる。

最近は日本も物騒だ。



292 : 1 - 2010/09/11(土) 23:02:43.51 ZgdhC+SyP 199/224




闇夜に紛れて私達は去る。

トラックの窓を街の灯りが流れていく。

「ねえ、純?」

「んー?」

「私達って、結局唯先輩の力になれなかったのかなあ…」

「そんな事無いと思うけど…」

「けど…?」

「そうだなー、私の友達もHTTから結構出させて貰ったよね?」

別に改めて教えて貰う必要は無い。

私も音作りから手伝ったんだから、純と同じぐらい分かってる。



293 : 1 - 2010/09/11(土) 23:11:04.78 ZgdhC+SyP 200/224

「うん」

「でもさ、唯先輩は常に一人だったじゃん。一人で全てだったじゃん?」

ああ、そうか…。

ジャンルレスである事

ジャンルを横断する事。

そのミュージックジャーニーがスリリングなのは、その瞬間にある種の摩擦、緊張関係を各ジャンルとの間に引き起こすからだ。



294 : 1 - 2010/09/11(土) 23:15:08.95 ZgdhC+SyP 201/224

結果、孤独になる。

シーンとの共犯関係は無く、そこにムーブメントの勃興は無い。

そんな状況の中、アーティストはひたすら自分の中だけで、楽曲を完成させる事を試みる。

目の前の観客に期待しない内省的な音楽。

それ故に、そこから何かを感じ取る孤独な人々を勇気付ける。

だから、あの頃の私に届いた。

そして多くの人々に、周囲の世界に痛めつけられている人々に、コミュニティを持たない人々に届いたんだ。



295 : 1 - 2010/09/11(土) 23:21:05.35 ZgdhC+SyP 202/224



その響きの力強さは即ち、作り手の孤独さの度合いに比例している。

「梓、そんなに落ち込まないで」

「だ、大丈夫、大丈夫だから…」

私より、純の方が…。

「わ、私だって、だ、大丈夫だよ…?」

私達はトラックを路肩に止め、抱き合って泣いた。



296 : 1 - 2010/09/11(土) 23:21:51.91 ZgdhC+SyP 203/224

全ては運び出せなかったので、スタジオにはまだ幾つかの機材が残されていた。

その中途半端な残り方が、ホント、栄光の残滓みたいで、私は悲しくなる。

「何か全てが夢だったのかな…」

「あーずさっ、何黄昏てんだ?」

「黄昏たくもなるでしょう?」

「大丈夫だって、駄目になんのは私だけなんだからさ」

「でも…」

律先輩は私の頭をポンポンと叩く。

この人は強い人だと改めて感じる。

「あ、そうだ!」

「何です?」

「なあ、久々にジャムろうぜ!まだ、明日まで時間はあるし。そうだ、そうしよう、唯にも電話して呼び出してさ!」



298 : 1 - 2010/09/11(土) 23:26:25.17 ZgdhC+SyP 204/224




私と唯先輩、律先輩のジャムセッションなんて、本当に久し振りだ。

律先輩の久し振りのドラムはそれほど悪く無かった。

私が良く知っている高校時代のそれと比べても悪く無かった。

私は律先輩のように久し振りと言う訳では無かったけど、合わせるなんて事はさっぱり無かったので、上手く合わせられるか不安だった。

結果はそれなりに出来たのだけど。

何故だか分からないけれど、唯先輩はベースを弾いた。

一人だけ超絶テクなのが恨めしい。

うふふ。


299 : 1 - 2010/09/11(土) 23:28:42.02 ZgdhC+SyP 205/224

「こう言うのって、やっぱり楽しいですね」

「だよねー」

「まあな」

私は失礼な言い方だとは思ったけど、本当に悪く無いと思ってたので律先輩にその事を伝えた。

「律先輩、高校時代より上手いぐらいですよね?」

「中野ぉ!」



300 : 1 - 2010/09/11(土) 23:32:43.25 ZgdhC+SyP 206/224

「あはは」

「いや、だって本当に驚いたから」

「私は元プロ志望だぞ?高校出てからは結構真面目にやってたんだぞ?」

そうでしたね。

「そう言う生暖かい目で見られると首筋がゾワゾワすんだけど…」

「ご、ごめんなさい、そう言うつもりじゃ」

「まあ、良いけどなー。ところで、唯は何でベース弾いてるんだよ?」

「え?だって、3ピースだし」

「そりゃそうだけどさ」

「あ…」

「ん?」

「そろそろ日の出の時間ですね…」

私達は黙り込む。

本当に最後の日だ。


301 : 1 - 2010/09/11(土) 23:36:20.84 ZgdhC+SyP 207/224




私は律先輩からジョイントを受け取る。

深く吸い込む。

後頭部にガクンと言う衝撃が来る。

「あー、これ凄いですね…」

「良いやつだろ?」

「凄い上物だよねー」

「どっから手に入れたんですか?」

「内緒」

「その内、痛い目見ますよ?」

律先輩は、何時もの様に笑ったりもせず、ただ無表情なまま、ビルを照らす日の出を見ていた。



303 : 1 - 2010/09/12(日) 00:04:44.28 1I1DtR5OP 208/224

「いや、もうこれ以上の事は無いだろ」

唯先輩が少し申し訳無さそうな表情になる。

「こんなことになっちゃってごめんね?」

「良いよ、気にしてない。私は大丈夫だよ、全然」

あまり、しんみりするのも嫌で私は少し偽悪的に振舞う。

「そうですよ。こうなったのだって律先輩の無駄遣いが原因なんですから、唯先輩が謝る事無いですよ」

「おぅい!!」

律先輩が大げさに抗議して見せる。

唯先輩が笑う。

私も釣られて笑う。

この瞬間はあの部室みたいだな、と思って、でもそうじゃないと思い直して…。

ああ、この場所があの部室だったら良かったのに!



304 : 1 - 2010/09/12(日) 00:08:54.85 1I1DtR5OP 209/224




律先輩は階段を降りて言った。

「取って喰われる訳では無いから」なんて言っていクールに振舞ってたけど、でも、楽な仕事では無いと思う。

私は何もせずに律先輩に頼っているのが、心苦しくて、辛かった。

唯先輩はそんな私の気持ちを察してくれたのか、私を抱きしめてくれた。

「大丈夫、また帰ってこれるよ」

私は唯先輩の言葉に少しだけ勇気付けられて…。

?!



305 : 1 - 2010/09/12(日) 00:13:46.34 1I1DtR5OP 210/224

私達の余韻をぶち壊すように律先輩が駆け込んで来る。

「うわわっ!」

「あれ、りっちゃん、どしたの?」

「悪ぃ、今から書類関係掻き集めなきゃいけなくなった。手伝ってくれ」

律先輩にからかわれるかと思ったけど、どうもそれどころでは無い様子だ。

「どうしたんです?」

「いや、だから、あれだ!その、あいつがな、急に来て」

要を得ない説明。

「あれ、とかあいつじゃ分からないですよ」

「だからぁ…」

「ほら、律早くしろよ!」



306 : 1 - 2010/09/12(日) 00:16:46.51 1I1DtR5OP 211/224

律先輩の後ろから、懐かしい、本当に昔懐かしい人が現れて私は言葉を失う。

「澪…先輩…?」

私は言葉を失う。

「うわわっ!澪ちゃん?!」

唯先輩は驚く時でも、唯先輩らしくそうはならないらしい。




308 : 1 - 2010/09/12(日) 00:20:44.08 1I1DtR5OP 212/224




私達は澪先輩に促されるようにして、(よく聞く整理屋のパターン通りに)都内のホテルに連れて来られた。

よく聞く整理屋のパターンと一緒だった。

私は窓際のベッドに腰掛けて、澪先輩が律先輩と唯先輩に指示をしているのを、ボーっと見ていた。

澪先輩は、これからの流れを説明しているらしかった。

私は、突然現れた澪先輩を二人程信用出来なかった。

だって、うちの状況とそれと、今の澪先輩の事を考えたら、タイミングが良過ぎるように思えたし。

それで、スマートフォンを起動する。

検索ワードは…、えっと…。

『整理屋』『倒産』『乗じて』かな?


310 : 1 - 2010/09/12(日) 00:23:56.96 1I1DtR5OP 213/224

「梓?」

何時の間にか目の前に澪先輩が立っている。

全然、気付かなかった。

私は必死で後ろにスマフォを隠す。

「ははは、は、はいっ?!」

澪、先輩は私の横に腰かける。

唯先輩と律先輩が書類から顔を上げる。

「おーい、二人で内緒話かぁー」

「ずるーい」

「良いから、二人はそれを頭に入れるっ」

「ずるだな」

「ずるだね」


312 : 1 - 2010/09/12(日) 00:28:33.74 1I1DtR5OP 214/224

ふふふ、昔と変わらないなぁ、こう言うのって。

「あー、突然出て来ても、信用出来ないよな」

「そ、そんなこと…」

「いや、良いって」

「すいません」

「私も馬鹿だったからね。だから、あの時はああするしか無いと思って、でも、回り道してやっと分かったんだ。私の帰ってくる場所は『ここ』しか無いって事に」

「だから、危機を知って守るために?」

「ああ。私の選択は良くある下らないものだったけど、幸いにも『ここ』を守るための知識を得る事は出来たからね」

「でも、良かった。私の目にも届くような存在になってくれてたからね、HTTはさ。だから、こうして梓たちの危機に駆けつけて来れた…」


314 : 1 - 2010/09/12(日) 00:30:39.81 1I1DtR5OP 215/224



この時初めて分かった。

今までは分かっていなかった。

唯先輩が何故自分を痛めつけてまで、レーベルに貢献しようとしたのか。

律先輩が自分達の身の丈を超えるようなものを居城としようとしたのか。

世界に散らばってしまった、澪先輩やムギ先輩に「自分達はここにいるんだ」「ちゃんと戻って来る場所はあるんだぜ?」って知らせるためだったんだ。

私はただ、自分の事しか考えてなかった。

自分の事しか…。


316 : 1 - 2010/09/12(日) 00:33:01.13 1I1DtR5OP 216/224

「うわぁぁ!」

「あ、梓?!」

「あずにゃん?」

「あ、澪が梓を泣かした」

「ち、違う!私は何もして無いぞ?!」

「び、びおぜんばいはなびぼばるいごどじでないでず~」

律先輩と澪先輩は顔を見合わせて少し困ったような顔をしている。

唯先輩はおろおろして…。

そう、ここはずっと変わらず、私のいる場所だ。



318 : 1 - 2010/09/12(日) 00:38:39.16 1I1DtR5OP 217/224

「みんな、お久し振り」

「あー、ムギちゃーん!」

「ムギ、久し振り」

「唯ちゃん、りっちゃん、梓ちゃん…、みんな思ったより元気そうで良かったわぁ」

「ムギ先輩も、元気そうで」

「ええ、私はね」

ムギ先輩は少し、怒ったような、悲しいような表情で律先輩を見る。

「りっちゃん!」

「あ、えーと…」

ムギ先輩は律先輩をギュっと抱きしめる。

「困った時は頼って欲しかったな」


322 : 1 - 2010/09/12(日) 01:08:24.43 1I1DtR5OP 218/224

「ご、ごめん…」

「でも、これからは一緒にやって行こうね?」

「あ、ああ、そうだな…」

「そう、私とりっちゃんはそのためにこのレーベルを作ったんだから。最初からね?そのつもりだったんだよ?」

「ん、ムギどうした?」

「…、久し振りだし唯ちゃん、梓ちゃんにもギュってしたいなって…」

「ムギちゃん!」

「は、はい!」

「どんと来いだよ!ね、あずにゃん?」

「は、はい…、こちらこそ…、よ、よろしくお願いします…」

なんてね?


323 : 1 - 2010/09/12(日) 01:11:37.21 1I1DtR5OP 219/224



あ、澪先輩…。

何時の間にか部屋に入って来ていた澪先輩は、抱き合ってる律先輩とムギ先輩に顔を赤くして、そして会話に入って来れないでいた。

「澪しゃん、照れてるんですか?よーし、おいでー」

「馬鹿!」

「痛っ!」

「あはは」

私はムギ先輩の身体の温もりを感じながら、律先輩と澪先輩のやりとりをおかしく思う。

本当にあの部室みたいだった。

五人(純や憂やさわ子先生もいてくれればもっと良いな)がいれば、どこだってあの部室みたいなんだ。

ティータイムは何時だって始められる。


324 : 1 - 2010/09/12(日) 01:14:48.98 1I1DtR5OP 220/224

黄金時代は容易く過去になってしまう。

高校時代は過ぎ去り、HTTレーベルも壊れそうになっている。

実際、過去のものになってしまう。

でも、言い換えれば暗黒時代もまた容易く過去になると言う事であり…。

うん、大丈夫。

私達はもう大丈夫だ。


326 : 1 - 2010/09/12(日) 01:19:45.47 1I1DtR5OP 221/224

つまり…、こう言う事なんだと思う。

流転する運命は私達の悲劇であるけれど、同時に希望でもあると言う事なんだ。

もう、一回帰ってこよう。

この世界に。

大丈夫、帰ってこれるよね?


「Agora E Seu Tempo」
um bom final



335 : 1 - 2010/09/12(日) 02:17:40.95 1I1DtR5OP 222/224

支援、保守して頂きましてありがとうございました。

おまけ

純のDJプレイのイメージ
http://www.youtube.com/watch?v=sVDCtxTs2oQ

Marlena Shaw(WHO IS THIS BITCH ANYWAY?のジャケ)
http://www.youtube.com/watch?v=bzUrjmYM53g
http://www.youtube.com/watch?v=TCeemAHQDoQ

コフィの時のパム・グリア
http://www.youtube.com/watch?v=Qx06hZyq87c

グレイス・ジョーンズのSlave To The Rhythm
http://www.youtube.com/watch?v=72d5-xP5SnM&feature=related
http://www.kaimonokun.com/user/151/photo/syousai1/7017.jpg

ジャズとは何か?
http://www.youtube.com/watch?v=RgPIqOh9uTU




336 : 1 - 2010/09/12(日) 02:19:27.67 1I1DtR5OP 223/224


【関連】

律「バンドミーティング」
https://ayamevip.com/archives/55115856.html

記事をツイートする 記事をはてブする