ことんと電車の窓に額をくっつけた。
はあと息を吐くと、息のかかった部分だけ白くなって、もうすぐ冬なのだと
ぼんやり思う。
後ろに過ぎ去っていく夜の街を横目に、私は携帯を開けた。
時刻は午後十一時をまわっている。メールも、着信も、一度も来ていない。
待っているわけじゃないと自分に言い訳するものの、やっぱり私は、
結局来るはずもない連絡を待っているのかもしれない。
「もう一度バンドを組まないか」と澪先輩に言われたのは夏の終わりくらいだった。
ようやく大学生活も落ち着き始めた頃で、どこかのサークルに入ろうかと考えていた
矢先のことだったから少し驚いた。
どうして突然またバンドを組もうなんて言い出したんですか。
電話越しにそう訊ねると、澪先輩は困ったように黙り込んだ後、「本当は」と呟くように言った。
『本当は梓が大学に入ってからすぐ、誘おうと思ってたんだけど』
私は何も答えられなかった。
澪先輩をはじめ、他の軽音部の先輩たち四人ともが、私立の女子大に進学した。
だから私も当然その大学に進学するだろうと誰もが思っていたらしい。
(顧問の山中先生も、友達の憂や純も)
けれど私はそうしなかった。
学力が足りないだとか、そういう理由ではなく、私の気持ちが先輩たちと同じ
大学へ向かわなかった。先輩たちの卒業前、一緒の大学に来てねと唯先輩に約束させられた。
私はその約束を守れなかった。
澪先輩も、(聞いた話によるとムギ先輩も)きっと私があとからやってくるだろうと思っていたらしく、
私が先輩たちのいる大学を受けないと知らせるとひどく驚いていた。
今日、久し振りに会った澪先輩は相変わらず綺麗だった。
ムギ先輩と唯先輩はそれぞれ用事があるからと来れなくて、そのかわりムギ先輩からは
高そうなティーカップを、唯先輩からは手作りのギターキーホルダーを入学祝として贈ってくれた。
一人暮らしをはじめてもう数ヶ月で、この街に来たのもなんだかすごく久し振りな気がしてつい
はしゃいでしまった私を、澪先輩はやっぱり優しい目で見てくれていた。
澪先輩も、たぶんムギ先輩も唯先輩も、変わっていない。
変わったのは――
「ねえ、梓。律のことなんだけど」
澪先輩と、昔よく行ったバーガーショップで話していたときだった。
不意に澪先輩は真剣な表情になって、言った。
思わず目を逸らした私に、澪先輩は「大丈夫」と笑ってくれた。
「卒業前に、なにかあったんだよね」
「……」
何も答えずにいると、「無理に答えなくてもいいんだけど」と困ったように
言い、澪先輩は話し続けた。
「律はなんでもないって言うし。けど梓が私たちと同じ大学に来なかったのは、
律と何かあったからでしょ?その……卒業前は、随分とよく一緒にいたから」
私は黙ったまま首を振った。
律先輩とのことについて聞かれることにはもう馴れたけど、思い出すのはまだすこし、辛い。
「そっか……」
これ以上何を聞いても答えないということを悟ったのだろう、澪先輩は諦めたように
冷めたコーヒーを口に運んだ。
そして、最近の先輩たちについて話してくれた。
澪先輩は外国語を専攻して、大学を卒業したら留学しようと思っていること。
唯先輩は遅刻を繰り返してはいるものの、持ち前の集中力で留年は免れていること。
ムギ先輩は卒業してからは花嫁修業か何かをしなきゃいけないので今やれるだけのことを
やっておこうと沢山の科目をとっていること。
(目が回りそうな忙しさなのにもう一回バンドを組もうと言い出したのもムギ先輩らしい)
そして律先輩は。
勉強も態度も何もかも相変わらずで、ただドラムだけは熱心に打ち込んでいて。
気まずいはずなのだ、律先輩だって。
けれど、律先輩は私をバンドに誘うことを了承した。
それを聞いて、目指すは武道館なんて笑っていた律先輩のことを思い出して少し
胸が熱くなって、苦しくなった。
「もしかしてあいつ、反対するんじゃないかって思ってたんだけどさ」
律も大人になったんだな。
そうだ。律先輩は大人になって、大人になってしまって――
こんな気持ちを引きずっているのは、もしかして私だけなのかも知れない。
いつまでも忘れられず足掻いて足掻いて、大人にもなれなくて。
「ま、さすがに今日は来ないって断られちゃったけどな」
澪先輩は明るく言うと、立ち上り。
それじゃ、バンドのこと考えといて。
唯も放課後ティータイムの復活、楽しみにしてるからさ。
そう言って、帰って行った。なんだか久々に見る澪先輩は、輝いて見えた。
突然、電車のスピードが遅くなった。
ふと窓の外を見ると、煌々とした明かりの中に見慣れない駅名。
「あっ……!」
慌てて立ち上がる。
どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。
夢なのか現実なのか区別がつかないままに、私は開いたドアから電車を駆け下りた。
途端、身を切るような寒さが私の身体を襲った。
襟元を引き寄せ、私はしばらく呆然とその場に立ち尽くす。
中々冷めない私の頭が寒さでようやく溶けて来た頃、私はそっと辺りを見回した。
やはり見慣れない駅で、時計を確認するともう零時近い。
とりあえず戻るための次の電車を確認して、私は震えながら椅子に座った。
電車が来るまであと数分。
先輩たちのことを思い出していたせいか、頭の奥がひどくぼんやりしていて、
いつのまにかまたこくりこくりと眠りそうになったときだった。
たたたっと駅の階段を登る足音。
これはまた夢なのだろうか、と私は思った。
あまりにも、覚えのある音だったから。
目を開けた。
目が合った。
「……あずさ」
今度は、これはまた夢だったらいいのに、と思う。
どうして。
そう言うより先に、「律先輩」
ぽろり、と名前を呼んだ。
律先輩は一瞬だけひどく辛そうな顔をして、それからすぐに、笑ってくれた。
律先輩が何か言った。
それを駅のアナウンスが邪魔した。
薄暗いホームに電車が滑り込んでくる。律先輩は「乗る?」と目で訊ねてきた。
こくりと頷き立ち上がる。
こうして二人で並び、開いたドアから一緒に乗り込むなんて、高校時代に戻ったようだ。
律先輩もそう感じたのか、電車に乗る前の一瞬だけ私の手に触れかけて、やめた。
お互い少し離れた場所に立ち、なんともなしに閉まるドアを見詰める。
しばらく、私たち二人とも何も言わなかった。
ほぼ人のいない車両の中で、誰かの大きな鼾と、電車の走るがたごとという音と、
暖房が車内を温める音だけが聞こえてくる。
最初に口を開いたのは律先輩だった。
「久し振り」
「……はい」
「今日、澪と会う日なんだっけ」
あぁ、自分は行かなくてもちゃんと覚えてたんだ。
そう思うと、尚更律先輩と目を合わせられなくなった。
「大学に入ってさ、何倍も綺麗になったから幼馴染ながら驚いた」
律先輩だって、
そう言い掛けて止めた。
その代わり、私は「先輩は、今日は何してたんですか」と訊ね返した。
「バイト」
「バイト……ですか」
「そ。こっちのほうでバイトしてて」
なんのとは聞かなかったけど、律先輩の格好を見るからに重労働なのだろうと
予測できた。それにこんな時間までやっているのだ、律先輩はつかれきっているようだった。
「それで梓はさ」
なんですか、そう返しておいて、私は自分の諦めの悪さに泣きそうになった。
律先輩は、まるで昔も今も何もなかったように、平気な顔しているのに。
私はというと、どうしていまだにこんな気持ちになってしまうのだろう。
「どうすんの、放課後ティータイム」
澪先輩に考えておいて、と言われてはいたけれど、本当はあまり気乗りしなかった。
音楽はしたい。できれば、あの頃のメンバーで。
けれど、今でさえ、こうなのに。律先輩のいる放課後ティータイムで、以前の様に
笑えるとは思えなかった。
「……わかりません」
ゴーッ
トンネルだ。
律先輩は聞こえていたのか聞こえていなかったのか、トンネルから出ると言った。
「梓、今どこに住んでるんだっけ」
私はわけがわからずに住所を告げると、「じゃあ次の駅だな」と窓の外を振り返った。
真っ暗な外は随分と冷え込んでいるように見えた。
随分遠くに来ていたのかと思っていたが、意外と近い場所だったようだ。
電車のスピードが落ちて、私はなんだかほっとするような寂しいような、
微妙な気持ちを抱えたまま律先輩に形だけの礼をした。
ガタンッ
電車が完全に止まり、ドアが開く。
「それじゃあ私」
けれど律先輩は何も言わなかった。
何も言わずに、私の後を追うようにして電車を降りた。
「……」
だから私も何も言わずに先輩から離れるようにして歩いた。
足音がついてくる。
さらに早く。
向こうも同じ速度で。
「……なんですか?」
足を止めて振り返る。
「梓を送ろうかと思ってさ」
こういうところは、まったく変わってない。
いいですそんなの。
言おうとして、やっぱり私は言えなかった。
律先輩から逃げ出したいはずなのに、もう少し傍にいたくて。
矛盾した気持ちをもてあましたまま、私は「勝手にしてください」とまた足を動かす。
「ん、勝手にする」と声が聞こえた。
だいたい、律先輩はいつも勝手なんだから。
勝手に軽音部を復活させちゃって、勝手に軽音部を盛り上げて、勝手に私を夢中にさせといて
勝手に別れを切り出して――
律先輩は、もう、なんとも思っていないのだろうか。
ふとそんなことを考えた。
私のことはもうなんとも思っていなくて、だから私に変わらず話しかけて、
笑ってくれて、平気なんだろうか。
振り返りたくて、何度もそうしかけたけど、結局私は振り返ることはしなかった。
駅を出ても、寝静まった住宅街を歩いていても、私はずっと後ろに律先輩の存在だけを
感じていた。振り返ったら、そのまま律先輩に抱き着いて、すがり付いてしまいそうで。
やがて、私が借りている古いアパートが見えてきた。
突然、律先輩がいるはずの背後からうめき声が聞こえた。
つい振り返ると、律先輩が大袈裟に胸をおさえ私に左手を差し伸べてきていた。
慌てて「どうしたんですか!?」と駆け寄って、後悔した。
この感じは、いつか見たことがある。
律先輩が新入生を勧誘するためにやったなんとも嘘っぽい演技だ。
「……いい歳して何やってんですか」
「あぁ、あず、あずさ……私に水を、水をくれないか」
冷たい声にも負けず、律先輩が苦しそうに私の手を掴む。
私の声にも負けずに、律先輩の手は冷たかった。
「……家、来ますか」
だから私は、そう言ってしまっていた。
お互い、離れなきゃいけないと決めていたはずなのに、少なくともまだ冷め切らない私は
そうしなきゃいけないのに、触れた冷たい手を握り返して、そう言っていた。
「……行く」
律先輩はきっと、わかっていたのだ、私がこう言うことを。
ひどい。
そうは思っても、面と向かって言えるわけなんてない。
「出かける前、バタバタしてたからすごい汚い部屋ですけど」
「気にしない」
「律先輩の部屋よりはマシでしょうし」
たぶん、昔ならここで「なんだと梓ぁ!」という声とともに、律先輩お得意の
ぐりぐり攻撃がかまされていたはずだ。
けれど、「うっさい」と笑っただけの律先輩。
こういうところで、私は時の流れと関係の変化を、感じてしまった。
鉄の階段を登り、二階の廊下を端まで歩いて部屋の前に到着する。
近所に迷惑をかけないように出来るだけ音をたてずにドアを開けると、私はそっと
振り返った。暗闇に慣れた目が、やけに真剣な律先輩の表情を映し出した。
「……コーヒー、淹れますね」
「ん」
気付かないふりをして、律先輩を中にいれる。
先に居間へ行き、羽織っていた上着を椅子にかけて散らかっていたものを簡単に片付ける。
律先輩があとからのっそり入ってきて、「片付いてるじゃん」ときょろきょろ見回した。
「律先輩の部屋、どれだけ散らかってるんですか」
呆れてそう言いながら、私はふと以前遊びに行った事のある律先輩の部屋を
思い出した。
何をするわけでもなく、ただ二人で一緒の時間を過ごせるのが楽しくて仕方が無かっただけの頃。
私は頭を振ると、台所にまわってお湯を沸かす。
律先輩は近くにあったクッションの上に腰を下ろすと、「私以外に誰か来たことある?」と
訊ねてきた。
粉末のコーヒーをカップにいれながら、「大学の友達が数人」と答える私。
「そ」と律先輩はそれっきり何も言わなくなった。
お湯が沸き、カップに注いで律先輩に手渡す。
律先輩は「おー、あたたまる」と嬉しそうに受取ってくれた。
インスタントのあまり美味しくないコーヒーをちょびちょび飲みながら、私たちは
じっと、黙り込んだ。
律先輩の部屋で過ごしていたあの頃は、こんな沈黙なんて苦でもなんでもなく、
むしろ素敵なものだと思えていたのに今はまったく逆だった。
何か言いたいのに、言葉が出てこない。
そのまま時間だけが過ぎていき、コーヒーを飲み終わった頃、ようやく口を開いたのは
やっぱり律先輩。
「このまま終電逃しちゃったらさ、梓は私を泊めてくれる?」
え、と間抜けな声を出してしまった。
律先輩は私のほうを見ようともせずに、少し猫背気味にカップを持って前を見たまま。
本気なのか、冗談なのか、よくわからない。
「……いやですよ」
だから私は、そう答えた。
「なんで」
「いやなものはいやなんです」
もし、律先輩を泊めたとしたら、今度は私が我慢出来なくなって、律先輩に何かを
してしまうかもしれない。同じ性別で、そんなことをしちゃいけないことはわかっているのに。
私の答えを聞くと、律先輩は「わかった」と笑った。
何がわかったのかは、わからないけど。律先輩は「帰るわ」と立ち上がった。
「……久し振りに、話せてよかった」
律先輩には似つかわしくない、小さな声。
私はこくりと頷いただけだった。
玄関まで見送ろうとすると、「いいよ、べつに」と止められた。
「そんじゃ」
律先輩は手を振りかけて、それから突然。
「ごめん」という声と一緒に、律先輩の温もりに包まれた。
「……せんぱっ」
「……一つだけ、約束して欲しい。そしたらもう、こんなことしないから」
本当に、律先輩は勝手だ。
ぜんぶぜんぶ、勝手で、ずるい。
「……なんですか」
懐かしい律先輩の身体に触れながら、私は訊ねた。
まわされた腕の力が強くなる。
「もっかい、一緒にバンドやろ」
「……え」
「梓と一緒に、みんなで演奏したいから。もっかい、一緒にやってほしい」
そんなの、約束ごとじゃなくて律先輩の頼みごとじゃないですか。
そう言いたかったけど、声は出ない。
「梓、お願い」
私は「はい」と頷く代わりに、律先輩の身体を押し返した。
律先輩は驚いたように私を見た後、
「……ありがと」
笑って、背を向けた。
「そんじゃ」と、今度こそ律先輩が私に手を振った。
ぺたん、とその場に座り込んだ。
小さく音がして、律先輩が部屋を出て行った。
苦しい。
すごく、苦しかった。
ずっと傍にいられるはずなのに、きっともう、離れていたときよりも
律先輩の一番近くにはいられない。
―――――
―――――
澪先輩からの返信は早かった。
バンドをやるとメールを送ったそのすぐあと、『良かった、ありがとう!』と
ハートの絵文字いっぱいのメールが返って来て。
そして今日、久し振りに五人全員が顔を合わせることになった。
私は昨日念入りに整備したギターを肩に担ぎなおすと、
懐かしいくらい変わらない音楽室の前で深呼吸。
どうして高校の音楽室なのかと聞くと、「先生がどうせ今は誰も使ってないからって」
貸してくれることになったそうだ。部員を集めることのできなかった私はなんだかその話を
微妙に申し訳ない気持ちで聞いていたわけだけど。
実際に私たちが練習で使用していた準備室は、さすがに卒業生でもいれられないからと
音楽室になったものの、何度も足を踏み入れていた場所なのでなんだか入るのに緊張した。
もう一回深呼吸してから――
「あーずにゃんっ!」
「わあっ!?」
突然、後ろから抱きつかれた。
振り向くと、にこにこ笑った唯先輩が嬉しそうに「久し振りー!」
そしてその後ろに、ムギ先輩の姿も見えた。
「梓ちゃん、少し背伸びた?」
「もう止まっちゃってますよ」
苦笑して唯先輩の腕から離れる。
ムギ先輩が、「りっちゃんと澪ちゃんはもう少しで来るみたい」と音楽室の戸を
すんなり開けてしまった。
なんの感慨もないのかと思いきや、既に音楽室には唯先輩のギターやムギ先輩の
キーボードが置いてあって、私が一番だったわけじゃないらしかった。
唯先輩に背中を押されて、音楽室に足を踏み入れる。
なんとも言いがたい、不思議な匂い。
あぁ、音楽室だ、なんて思った。
「ふふっ、懐かしい」
ムギ先輩が鼻歌を歌いながらキーボードを触り始める。
聞き覚えのある曲だった。
ふわふわ時間。
「私も弾くよ、ムギちゃん!」
唯先輩までも、ギターを引っ張り出してムギ先輩の弾く音に合わせて演奏しはじめた。
「ほら、あずにゃんも」と言われ、私はしぶしぶ――というより、本当はかなりわくわくしながら
ギターを構えた。
あ、久し振りのこの感じ。
大学に入ってからはギターを触ってはいたもののろくに誰かと一緒に合わせたことは
なかったから、すごく気持ちが良かった。
一曲弾き終えると、こんこんとノックの音が聞こえ澪先輩と律先輩が二人並んで
ドアのところに立っていた。
「あ、りっちゃんも澪ちゃんも来ましたなー」
「おー、唯。昨日平沢からまだレポート届いてないって愚痴られたんだけど」
「えっ、どの科目!?」
「嘘だよ、唯……律も唯をからかうな」
「これでやっとみんな揃ったわねー。ね、梓ちゃん」
え、あ、はい。
へんな返事だ。四人の先輩がこうして話している姿がすごく懐かしくて、
おまけに場所が場所なだけあって一瞬今自分がいくつなのかわからなくなった。
ふと、律先輩と目が合った。
「練習、してみる?」
律先輩は私から目を離さないまま言った。
私が答えるまでもない、唯先輩が「そうしよそうしよ!」と騒ぎ始める。
澪先輩も「そうだな」と担いでいたベースを下ろした。
「でもその前に、お茶にしない?」
けれど、そんなムギ先輩の一言が。
私たちを一気に高校生に引き戻した。
―――――
―――――
「部室にあったものを持って来ることは出来なかったけど、お菓子やお茶は
沢山持ってきたから」
「さすがムギちゃんだよー!」
椅子や机は近くの教室から勝手に拝借してきて、私たちは昔のようにムギ先輩の
持ってきたお菓子たちを囲い込んだ。
「練習したかったんだけど……まあこっちのほうが私たちらしいか」
澪先輩も口ではそう言いながら早速ケーキに手を伸ばしている。
「梓ちゃんにははい、バナナケーキ」とムギ先輩が取り分けてくれたお皿を受け取る。
放課後のティータイム。
私たちのバンドそのものの光景。
変わってないとは言いがたいけどやっぱり変わっていなくて、
あれほど過ぎて欲しいと思っていた時間なのにその時間に戻ってきたような感覚を覚えた。
「あれ、そういえばりっちゃんは?」
唯先輩がフォークを口にくわえたまま、ふと気が付いたようにまわりを見た。
確かに、いつのまにかいなくなっていた。
澪先輩が「トイレでも行ったんじゃないのか」と特に興味なさげに答えた。
けど、そんな澪先輩の手が少し震えているように見えたのは私の気のせいなのだろうか。
澪先輩が私の視線に気付いたのか、視線を上げた。
それから、ケーキを食べようとしていた手を下ろして「梓、ちょっといい?」と
私を呼ぶ。
「澪ちゃん、どうしたの?」
「ごめん、ムギ。ちょっと梓と外出てくる」
私は澪先輩に半ば無理矢理引っ張られるように音楽室を連れ出された。
ドアから離れた廊下で、澪先輩はようやく私の手を離してくれた。
「先輩?」
「うん、ごめんね。確かめたいことがあって」
「律先輩のことですか」
私が訊ねると、澪先輩は困ったように頷いた。
「律から聞いたよ。私と会った日、律にも会ったんだよね」
「はい」
「それで、律が無理矢理梓を放課後ティータイムに引き戻したんだって言ってた」
「それって本当?」というように、
澪先輩がじっと私を覗きこむようにして見詰めた。
「……そんなことないです」
「そう、なら良かった」
澪先輩はそうは言いつつ、だけどあまりすっきりしたような顔はしていなかった。
まだ何か言い足りないというように。
「あの……」
「……律と同じ場所にいるの、辛くない?私にはどうしても、梓が辛そうに見えるよ。
律だってそう。もしお互い一緒にいて傷付くだけなら私はそんな二人を見たくないし
唯もムギも、それに私だって無理には梓を引き止めようとはしないよ」
私は言葉に詰まった。
放課後ティータイムに戻るのが嫌なわけじゃない。今さっきだって実際に、
すごく懐かしくて先輩たちと演奏するのがすごく楽しかった。
けれど、澪先輩の言う通り、私は律先輩と一緒にいることでうまく笑うことはできないだろうし、
辛いのだと思う。
「あのさ、梓。今度市民会館でアマチュアのバンドの発表会みたいなのがあって。
ちょうど今日から三ヵ月後くらいかな。そこにね、出ようと思うんだけど」
私が黙っていると、沈黙を埋めるかのように澪先輩が話し始めた。
「これは律抜きの三人で考えたことなんだけど。もし、それに出て
まだ律と梓の関係がぎくしゃくしてるようだったら」
「辞めろ、ですか?」
そうは言ってないよ、澪先輩が優しい声で否定する。
じゃあ、と言いかけた私を止め、澪先輩は続けた。
「そうは言ってないし、言いたくも無いよ。ただ、梓が本当に辛いならそうすることだって
構わない。ただ、この三ヶ月の間にきちんと考えて欲しいんだ。本当は梓はどうしたいのかって」
律先輩と一緒にいたいのか、一緒にいたくないのか。
そう、澪先輩は言った。
「はっきりしなきゃ、律も梓も、きっとずっとこのままだから」
―――――
―――――
その日、戻ってきた律先輩とは何も話さずに終わってしまった。
それでも久し振りに合わせた感覚はすごく懐かしくて、ますます私自身が
放課後ティータイムを続けたいのかどうかわからなくなってしまった。
「あずにゃん、じゃあまた次の日曜日にねー」
「いつでもメールしてね、梓ちゃん」
唯先輩とムギ先輩が帰って行き、澪先輩と律先輩はまだいると言って音楽室に
残してきたまま、私はがたごとと電車に揺られていた。
また、うとうととし始めたときだった。
携帯が震え、ばっと目を覚ます。澪先輩――ではない。律先輩からだった。
「……もしもし?」
『今日はお疲れ』
私が出てしばらく経った後、律先輩のくぐもった声が聞こえた。
つい最近までもう絶対に来ないと思っていたはずの人の連絡。
さっきまで会ってたのに、そう呟くように言うと、『面と向かっては話しにくいからさ』と
返って来た。
「昔、こうやってよく電話しましたよね」
唐突に、私は言った。
眠い頭のせいだ、言ってすぐに後悔して。けど発した言葉は消すことなんてできない。
律先輩は『そうだっけ』ととぼけるように言った。
「私たち、付き合ってたんですよね」
言ってしまえばもう、言葉は止まらなかった。
「私、すごく先輩のこと好きで、先輩もそうだったんですよね」
『梓……』
「けど私たちの関係って、絶対に変だって。おかしいって」
『……』
「ずっと一緒にいられると思ってたから。先輩と、離れたくなかった」
ごめん、と聞こえた気がした。
けどきっと誰が悪いとか悪くないとかじゃなくって、どうにもならないことだから。
だからこそ、私たちは――私は、同じ場所に踏みとどまったまま。
「……すいません、変なこと言っちゃって」
『ううん』
静かな律先輩の声。
これじゃあまるで未練たらたらの最低な女だ。
『……今日、澪から何か聞いた?』
「……」
『……私は辛くても苦しくてもさ、ずっと梓の傍にいたいって思ってる。ごめん』
だからどうして、謝るんだろう。
突然、電話が切れた。
トンネルに入り圏外になってしまったのだ。
トンネルを出ても、もう律先輩からはなにもかかってこなかった。
―――――
―――――
翌週から、忙しいムギ先輩でも日曜日なら来ることができると、
毎週日曜日に集まることになった。
最初の日電話があって以来、律先輩とは極力話さないようにしていた。
律先輩は何度も私の傍に寄ってこようとしたけど、その度に私は知らない振り。
今はまだ、律先輩と話したら一緒にいたくないという選択をしてしまいそうだったから。
それから本格的な冬が始まって、年も明けた。
澪先輩がタイムリミットに決めた三ヵ月後の――私たち放課後ティータイムの、
再結成後初めてのライブの日が近付いていた。
音楽室のカレンダーに大きく丸のしてある日にちが、音楽室に来るたびに近く大きく
見えるようになった。
「じゃあ今日の練習はこれで終わりな」
澪先輩が言って、私たちはほっと肩から力を抜いた。
皆久し振りのライブのせいか、あと数週間はあるというのに
初めてステージに立ったときのように緊張してしまっていた。
唯先輩が、「はあ、最近ギー太が重くなってきた気がする……」と溜息。
そういえば、高校生のときと違い身体がだいぶ鈍っているせいかどれだけ練習しても
きつくなかったのに今は少し、ギターというよりも身体が重い。
「……私たち、歳とっちゃったみたいだな」
「澪ちゃん、それ言っちゃだめ!」
「ご、ごめん!」
楽器を片付けながら、私たちはそれぞれ途切れ途切れに話した。
律先輩はこういうとき、会話に混ざらなくなっていた。
そのことが気になりつつも、私は結局何も声をかけられないし自分から無視しているような
ものなのだから、できるはずもない。
「それじゃあお疲れ様ー」
音楽室の整理が終わると、私たちは校門の前で別れる。
ギターを背負いなおし、私も駅のほうへ歩きかけたとき誰かが声をかけてきた。
「……先輩」
律先輩がいて、「奢るから」と一言だけ言うと、私の手を引いて駅とは反対方向に
引っ張っていく。
疲れていた私は、律先輩の手も振り払えずに後ろを着いて行くしか出来なくて、
連れてこられた先を見て少しだけぎょっとした。
「梓、前にここ来たいって言ってたことあったよな」
「ありましたけど……」
学生には痛いほど高い喫茶店。
こんなとこに連れてきてしかも奢りなんて。
確か高校生のとき律先輩とこの前を通って入りたいですねなんて話したことを
思い出す。けれど、先輩がそんなことを覚えていたなんて思わなかった。
「って、先輩」
「なに?梓は入らないの?」
「でも、こんな高いお店……」
「心配しないの」
律先輩はドアの前で固まっている私を見ておかしそうに笑うと、
先に入ってしまった。仕方なく後に続く。
「ケーキセット二つ」
中に入ると、律先輩はいとも簡単にカウンターの席につくと、慣れたように頼んでしまった。
私がぎこちなく律先輩の隣に座ると、「金ならある」とすまし顔でふざけたように言った。
それから胡散臭そうに見る私に気付いたのかちょっと苦笑して。
「バイト、結構もらえるからさ」
「……そうなんですか」
「あ、けど無駄遣いしてるわけとかじゃなくって」
ケーキが、運ばれてくる。
今日はムギ先輩の持って来るお菓子はなかったから、少し小腹の空いていた私には
かなり嬉しかった。
「なあ、梓」
前に置かれたケーキをフォークでつつきながら、律先輩は言った。
「武道館、連れてってほしいって言ったこと、覚えてる?」
私はケーキを口に運ぶ手を止めて、律先輩を見た。
律先輩の表情は硬かった。
「……そうでしたっけ」
「うん」
「……」
どうしてそんなことまで覚えているんだろう。
ただ冗談交じりで言ったことなのに。確かに約束した。けれど、そんなの
叶うはずもないことはわかっていた、あの頃だって。
「連れてくから、武道館。だからさ、一緒にバンド続けよう」
またそんなこと、言って。
「私たち、もう付き合えない。別れよう」
そう言い出したのも律先輩なのに。
腹が立つくらい、自分勝手だ。
そして、腹が立つくらい、やっぱり私はこの人のことを忘れられないのだと思い知らされた。
「バイトしてさ、お金貯めて、自主制作のCDとか作って」
「……バカじゃないですか」
律先輩が、黙り込んだ。
きっと先輩だってわかっているのだ。もう私たちが戻れないことなんて。
けど、今更律先輩の気持ちが変わっていないことを知らされたってどうにもできないし、
それを知っていて一緒にいるのは、酷だ。
「バカですよ。律先輩はもう、私に何もしてくれないし好きって言ってくれないじゃないですか」
「……ごめん」
すぐ謝るところが嫌い。
だけど律先輩のことは嫌いにはなれない。
これからも、ずっと律先輩のことが好きなままなのだろう。
律先輩も、大人になったようでなりきれていなくて、私も子供のままで。
それならばいっそ、完全に繋がりを断ち切っちゃえばいい。
私はケーキを全て口に放り込み、熱いコーヒーを流し込むと立ち上がった。
決めたことはもう、絶対に変えられない。
今律先輩の傍を離れなければ、またその決心が揺らいでしまいそうだったから。
「ライブ、頑張りましょう」
私は脱いでいたコートを手に取ると、律先輩に背を向け店を出た。
一度だけ振り向いて見た律先輩はぐったりしたようにカウンターに突っ伏していた。
―――――
―――――
それからの数週間は驚くくらいに早く進んで、
律先輩との関係も相変わらずのままいつのまにかライブの日になっていた。
澪先輩に伝えなきゃいけないことも伝えられる時間なんてなく、
ライブは先輩たちの高校時代の友達や大学の友達なんかも来ていてかなり盛況のうちに終わった。
演奏し終え、次の組の人たちの演奏をなんともなしに聞きながら水を一気に飲み干していると、
唯先輩が「お疲れ、あずにゃん」と近付いてきた。
「あ、唯先輩」
「大丈夫?」
そう言いながら、唯先輩は私の隣に腰を下ろした。
何がです、とは聞けなかった。
ライブでの律先輩は、すごく、かっこよくなんてなかった。
リズムは乱れるし走るし。
けれど、そんな律先輩が高校のときの先輩と重なって見えて、鎮火しはじめた気持ちが
また少し、熱くなってきたようだった。
手が、震えている。
「……あずにゃん、もう決めちゃったみたいだね」
こくん、と頷く。
声を出してしまえば、やっぱりよくわからなくなって、泣いてしまいそうだった。
律先輩と一緒にいたいのか一緒にいたくないのか。
私はもちろん、こんなに苦しい思いをするなら一緒にいたくないし、離れなきゃいけない。
けれど、唯先輩の頭を撫でてくれる温かい手を、ムギ先輩の優しい笑顔を、澪先輩の安心出来る
声を、私はどれも手離したくは無い。
律先輩に貰った沢山のものを、壊したくは無い。
「りっちゃんとあずにゃんの間で何があったかはわからないけど」
「……はい」
「私たちみんな、ちゃんと受け入れるよ。あずにゃんがどんな選択をしたって、大丈夫だから」
唯先輩の声に、私はまた、一つ頷いた。
「放課後ティータイムを、抜けます」
一つ深呼吸して、そう言った。
唯先輩は「うん、そっか」と言って寂しそうに微笑んだ後、「今までありがとね」と
私をぎゅっと抱き締めてくれた。
何も変わって無いと思っていたのに、唯先輩はきっと私よりも大人だ。
それから唯先輩は、何も言えなくなってしまった私を連れて、代わりに私の言葉を
三人の先輩たちの前で繰り返した。
澪先輩もムギ先輩も、唯先輩と同じように受け入れてくれた。
律先輩は。
律先輩も、「わかった」と笑ってくれた。
けれどその笑顔があまりにも痛々しくて、私は目を逸らした。
唯先輩に、最後にしておきたいことはないかと訊ねられ何もないと答え、
その場でお開きということになった。
唯先輩や澪先輩や、ムギ先輩にはまた会えるかもしれない。
けれどきっと律先輩にはもう。そう思うと、少しだけ泣けてきた。
今更続けると、そう言いたくなってしまった。
私はだから、最後まで着いてきた律先輩を振り向いた。
「今まで、ありがとうございました」
「……私こそ、ありがとな」
「楽しかった、先輩と一緒にいて」
「うん」
律先輩がぽんぽんと私の頭を叩く。
よく、先輩がしてくれたこと。
途端、私の涙腺は決壊して、信じられないくらい涙が溢れてとまらなくなった。
ずっと我慢していたものがぽろぽろ落ちていく。
律先輩も、私と同じだった。
駅前で二人向かい合ったまま、周囲に目も暮れず、私たちは泣いた。
泣きながら、心の中で叫び続けた。
律先輩のことが好きだと、言い続けた。
伝わって欲しいのに伝わって欲しくない気持ちは、涙となって消えていく。
やがて落ち着くと、私たちは今度こそちゃんと向き合って。
律先輩が照れたように笑い、「じゃあな、梓」と。
私の背中をそっと押した。
「さよなら」
私は一言、そう言うと後ろを振り向くことなく駆け出した。
最後にぽつりと、ずっと聞きたくて仕方が無かった言葉が聞こえた気がした。
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冬も終わり、春が来た。
温かい日差しに誘われ、私は久し振りに外でお昼を食べてみることにする。
大学で出来た新しい友達を誘い、食堂のテラスに出た。
桜がきれいに咲き誇っている。
そのすぐ傍に、何も実っていない木がぽつりと立っていた。
私はその木に吸い寄せられるようにして近寄った。
「ちょっと梓、そんなとこで食べないでもっと桜の見える席座ろうよー」
「あ、うん……けど」
この木、私みたいだなって。
いつまでも実らない気持ちを抱えたままの。
「なに?」
「……ううん、なんでもない。やっぱそっちで食べよっか」
私は笑うと、友達の下に駆け戻っていった。
さわさわと風が吹く。何も実っていない木が、手を振るようにさわさわ揺れた。
終わり