1 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 14:30:34.98 OOMGAyot0 1/33

(俺にはある特技があった)

(それは、人の能力を盗む事だ)

(全神経を研ぎ澄ませて相手を注意深く観察する)

(そうする事で、相手の能力のポイントや流れを理解し、模倣する事が出来た)

(だが、俺にはコンプレックスがある)

(それは、何かで一番を取った事が無いと言う事)

2 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 14:48:18.76 OOMGAyot0 2/33

(よく人は俺を要領が良いと褒めてくる)

(だが、俺はただ人の猿真似をしているだけだ)

(どんなに努力した所で、本当の才能って奴には勝てた試しが無い)

(所詮俺は劣化の模倣品なんだ)

(『覚えが早いね』……その言葉を投げられる度に、どうしようもない苛立ちに苛まれる)

(一位になりたい。本物になりたい)

(そんな苦しみを育てながら、俺は今日もみっともなく生きている)

3 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 14:50:21.59 OOMGAyot0 3/33

(町を歩く奴らは、どいつもこいつも平然と歩いている)

(まるで自分には何の悩みも無いとでも言う風に)

(どうしてそんなに堂々としていられる、お前たちはそんなに有能なのか)

(骨の髄まで怒りが走る。世の中は不平等だ)

(俺に力を寄越せ。どうして俺だけが苦しまないといけない)

(道端に捨てられている空き缶を、俺は力任せに蹴り飛ばす)

(圧倒的な才が欲しい。悪魔ですら黙らせるほどの)

4 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 14:57:00.28 OOMGAyot0 4/33

(つまらない風景。どれもこれも平凡だ)

(町を歩いていると、公園のベンチに座って空を眺めている老人が目についた)

(随分と暇なんだろうな)

(俺はそいつを一瞥し、無関心に歩みを進める)

「!」

(うっかり目が合ってしまった)

(老人は何も言わず、ただ穏やかな表情で笑みを浮かべた)

「……ッ!」

(どうして人にそんな表情を向ける事が出来る)ギリ

(見下していた俺の器の狭さが、浮き彫りにされてしまったようで)

(俺は決まりが悪くなり、なんとも言えず足早に立ち去った)

5 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 14:59:22.13 OOMGAyot0 5/33

(俺は町を彷徨う)

(その姿は海月に似ている)

(だが、俺は奴らとは違う)

(海月は泳ぐ事が出来ない。自分を持たずにただ流れに任せて海を揺蕩う)

(俺は自分で進む事が出来る。俺の行き先は俺のものだ)

(俺は――)

「……馬鹿らしい」

(海月にすら必死に張り合う自分の滑稽さに気付き、俺は舌打ちをする)

(苦しい。苦しい)

(息が詰まる。どうすれば楽に生きられるんだろう)

6 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:03:52.07 OOMGAyot0 6/33

「……ん」クン

(何処からともなく流れてきた珈琲の香りが、ふと鼻をくすぐった)

(かなり遠くから来ているらしい、ほんの微かな香りだ)

(それは、俺が今まで感じた事の無い香りだった)

(たかが珈琲ごときに、心を奪われて立ち止まったのは初めての事だった)

「これは……一体何処から」

(俺の頭は、その出所を突き止める事のみに支配されていた)

(犬のように意識を鼻に集中させ、俺はゆっくりと歩きだした)

7 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:05:50.55 OOMGAyot0 7/33

「こんな所に店が……」

【珈琲 芍薬】

(町から少し外れた、長い坂道を上った所)

(目の前には木々が広がり、目ぼしい物は他に見当たらない)

(そんな辺鄙な場所に、その店は立っていた)

(よくもまあ先ほどの場所から気が付いたものだ)

(こんな立地じゃ、対して客も入らないだろうに)

(だが……)

(扉を開ける前から漂う、この素晴らしい香り)

(その香りの中には、確かな才を感じられる)

(俺はその香りに負けないように、心の重心をどしりと下げて扉を開けた)

8 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:10:28.94 OOMGAyot0 8/33

りん りん りん

(ガラス製のドアベルの音が、静やかに空間に染み渡る)

「いらっしゃいませ」ニコ

「一人です」

(店の中は、四人用、二人用、一人用の席がそれぞれ二つずつ配置されている)

(壁には年季の入った時計が掛けられており、珈琲ミルやランプが飾られている)

(俺は壁際の一人席に座った)

(木製の机は艶があり、何とも落ち着く)

(机には金魚鉢のような、ガラスの花器が飾られている)

(活けられているのは薄紫の紫陽花だ。水の中には赤や青のビー玉が入っている)

(BGMのようなものは無く、木々のさらさらとした音のみが広がっている)

(何だろう……安心感がある)

「お決まりでしたらお呼び下さいね」

「あ……では本日の珈琲で」

「かしこまりました」

(席からキッチンを盗み見る事が出来る)

(店員はあの女一人だけなのだろうか?)

(俺と同じくらいの年だ。まだ若いのに一人で店を回しているのか)

「本日の豆は、「向日葵」ブレンドです」

「!」

(見ているのがバレた⁉ こちらを向いていないのに?)

(偶然か? いや、明らかに俺の視線に呼応していた)

(俺は窃盗がバレたような気持ちになり、逃げるようにコップの水を飲む)

(あ……レモンの香りがする。旨い)

9 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:12:58.75 OOMGAyot0 9/33

ざっ

(店に漂う香りが強くなった。手動の珈琲ミルに豆が入れられたからだ)

しゃらららら……

「……⁉」

(な、な……何が起きている⁉)

(ま、まず音だ! 豆を挽く音が違う!)

(がりがりとした耳障りな音では無く、まるで砂時計の砂が流れていくような)

(あまりにも純粋で繊細で、清潔な音だった。こんな美しい音は聞いた事が無い)

ふわ……

「え……あ……!」

(どうなっている⁉ 理解が出来ない!)

(そのままを言葉にするならば)

(豆を挽く音が、香りが、色を纏っている!)

(鮮やかな赤が広がり、青や緑が混ざって渦を描いていく)

(実際に色は見えないが、確実にその色合いを感じる事が出来る)

(何が起こっているんだ⁉)

10 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:16:49.51 OOMGAyot0 10/33

(彼女はそうして出来た粉を、紙のフィルターを広げてドリッパーにセットする)

(専用の珈琲ケトルから、細い細い湯を満遍なく注いでいく)

(遠目からなのでよく見えないが、粉が膨れ上がっているようだ。一度蒸らしているのだろうか)

(少し待って蒸らし終わったそれに、再び湯を注ぎ始める)

(もしかして、俺はとんでもない才を目にしているのかもしれない)

(たかが珈琲ごときに、こんなにも緊張して待つ事は初めてだ……!)ゴク

11 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:20:10.03 OOMGAyot0 11/33

「お待たせしました。どうぞごゆっくり」

(飴色の茶托の上には、有田焼か何かの和風のコーヒーカップ)

(その落ち着いた色合いのカップからは、信じられないほど鮮やかな虹色が溢れていた)

(一体どうなっているんだ。これは珈琲なのか?)

(俺は恐る恐る、それを口に含む)

(あ……)

「……旨い!」

「良かった」

(穏やかな深みを湛えながら、舌を刺すように鋭い苦み)

(だが、それはしつこく残る事なく、さっと消える。素晴らしい味のキレだ)

(むせ返りそうな程に香ばしいのに、その香りの中にはかすかな甘みがある)

(衝撃のあまり、俺は我を忘れてその珈琲の味を感じ取っていた)

「いかがでしょうか。軽やかな味わいとしっかりした苦さの、夏向けのブレンドです」

「……こんなにも珈琲を旨いと思ったのは初めてです」

「ありがとうございます」ニコ

(何と言えば良いのか、身体が明るくなった気がする)

(信じられないほど旨かった……)

「ご馳走様でした……」

(俺は半分夢心地のまま、会計を済ませる)

「ありがとうございました。暑いのでお気をつけて」

「……」

「……また、来ます」

(それが「芍薬」との出会いだった)

13 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:23:09.87 OOMGAyot0 12/33

ミーンミンミンミンミン……

(暑い)

(茹だるような暑さとはこの事だろう。自分の息すらも熱風に感じる)

(狂ったように鳴く蝉が耳障りだ)

(こうもしつこく喚いて惨めにならないのだろうか)

(あまりに必死で、不毛な喚き声だ)

(……)

(分かっている。行動すらせずに見下している俺の方が惨めなんだ)

(俺は蝉以下の存在だ)

(そんな自己嫌悪を振り払うように、俺は足を進める)

(嫌な事も、考えなければ何も無い。俺は自由でいられるはず)

(「芍薬」はすぐそこだ)

14 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:29:04.20 OOMGAyot0 13/33

りん りん りん

「いらっしゃいませ。暑かったでしょう」

「どうも」

(差し出された手ぬぐいは、きりっと冷やされていた)

(熱を帯びた身体が一気に冷やされていく)

(店の中には、一人の老人が座っていた。俺はそれを見てどきりとする)

(以前、空を見ていた老人だ)

(俺は目を合わせず、メニューを開く)

(「芍薬」は、その日のブレンドとアイスの二つしか飲み物が無い)

(もっと増やせばいいのに、それはこだわりと言う奴なんだろうか)

「アイスで」

「はい。少々お待ち下さい」

(老人は珈琲を飲みながら、何かの本を読んでいる)

しゃららららら……

(この音だ。この音を聴きにやってきたんだ)

(色鮮やかな音が店内に広がる)

(美しい。心が浄化されるようだ)

(そうだ、あの老人には見えているのか?)チラ

老人「……」

(……穏やかな表情をしている。目線は本に向いたままだ)

(見えていないのか……? 分からない。どちらとも取れる)

(キッチンに目線を戻すと、コーヒーカップにたっぷりの氷が入れられていた)

(茶色い氷だ。まさか珈琲を凍らせているのだろうか)

「……」

(あの店主の淹れる様は、見ていて飽きない)

(それほどまでに美しく無駄が無い。まるで雲が流れていくようだ)

(俺は意識を集中する。どんな音も逃さないように)

ちりちりちり……

(熱い珈琲が、氷にぶつかって急速に冷えていく)

(ちりちりとした氷が溶けていく音の中に、時折ぱきっとそれが割れる音がする)

(うざったい外の暑さを砕くような清涼音だ)

(ああ)

(此処は落ち着く)

15 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:34:24.40 OOMGAyot0 14/33

「お待たせしました」

(運ばれたカップからは、やはり虹色が溢れていた。まるで冷気のようだ)

(! カップまで冷たい。わざわざ冷やしていたのか)

「……」ゴク

「……おお、旨い」

(以前の鋭い苦みとはまた違う。ほどよい苦みが口に広がる)

(柔らかな酸味を感じる。それらがきりっと冷やされていて喉が引き締まる)

(旨い……)

老人「いやあ、旨いねえ。若いのに大した腕前だ」

「いえ、そんな……ありがとうございます」

老人「この珈琲から虹色を感じるよ。私もボケてしまったのかな」

「お気付きになられましたか、人によって感じられる方とそうでない方がいらっしゃいます」

老人「不思議な珈琲だねえ」

(! やはり、他の人にも虹色が感じられるのか)

老人「あんたのおかげでリラックス出来ますよ。ありがとうなあ」

「そう言って頂けると報われます」

(優しい会話)

(いつもなら心の中で突っかかっていただろう)

(だが、今はそんな気になれなかった)

(……何故だろう?)

16 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:36:48.55 OOMGAyot0 15/33

老人「へえ、まるでペンが生きているみたいだ」

「いや、ただの下らないペン回しですよ」ヒュンヒュン

老人「そんな事は無いよ、指の間を駆け巡るなんて見た事無い。他にも出来るのかな?」

「ええ、では……」

(俺はいつしか、「芍薬」の常連となっていた)

(あの老人ともすっかり顔見知りになり、少しばかりの会話をする事もあった)

(俺の中で、何かが変わり始めている)

(人の声が、空の色が、歩く音が以前とは違うように感じられる)

(不思議と、あの店主の才を盗もうとは思わなかった)

(そんな事を考える自分を、何処か恥ずかしく感じていた)

(考えて見れば、俺はあの店主の事を何も知らない)

(どうやって虹色の珈琲を淹れられるようになったんだろう)

(いつしか、俺は珈琲よりも彼女に興味を持っていた)

17 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:42:40.85 OOMGAyot0 16/33

さらさらさら……

(やはり、この店は静かで良い)

(木々の葉の音が何とも心地良い。清涼な気分にさせてくれる)

「……旨い」

(今日の珈琲はナッツのような香りがする。素晴らしい香りに特化した一杯だ)

「あら、その本私も読んだ事があります」

老人「有名な作品だからねえ。何度も読み返してしまうよ」

老人「名作は良いものだ。誰もが一度は読むべき価値がある」

(その言葉に胸がちくりと痛む。俺もそんな事を言われてみたい)

「親友が最後に死んでしまうのが悲しいんですよね」

老人「ああ、「本当の幸せ」とは、何なんだろうなあ」

「自分が死ぬことすらいとわない他者への思いやり……でしょうか」

「……そんなの、綺麗事でしょう。自分が死んだらそれで全部おしまいだ」

「自分が救われなければ、全部が無駄じゃないですか」

老人「ううむ。分からん。分からんなあ」

老人「けれども、物語の彼にとってはそれが幸せなんだろう」

(理解に苦しむ。俺の人生は俺の物だ)

(自分が犠牲になって人を救ったとして、俺は満足出来ない)

(ただの綺麗事だけで、人は生きていられないんだよ)

老人「私は身体に不自由無く生きていられる、それだけで幸せだなあ」

「ええ、とても幸せな事ですね」

(……)

老人「君達にとっての幸せとは、何だい?」

「……!」

(答える事が出来なかった)

「私は……私の作った珈琲で笑顔になって貰えれば、それで」

老人「ほほう」

(違和感があった。以前からも時々気になっていた事だ)

(女さんの笑顔は、何処か壁がある)

(その場しのぎと言うか、嘘はついていないのだろうが……)

(後ろめたさ、のような何かを感じる)

18 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:44:57.20 OOMGAyot0 17/33

むわっ……

(暑苦しい)

(何とも不愉快な熱帯夜だ。一向に眠気がやってこない)

(老人さんの話が頭から離れない)

(俺にとっての幸せとは、何なのだろう)

(それが見つかれば、俺は楽になれるのだろうか)

(俺は何を求めているんだ?)

(重々しい汗が首筋を流れる。こんな事を考えているのも夜のせいだ)

(さっさと眠ってしまおう。眠っている間は楽でいられる)

19 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:46:22.98 OOMGAyot0 18/33

「な……!」

(いつもの「芍薬」の扉には、しばらく休業するとの知らせがあった)

(何故だ、どうして突然……)

「……落ち着け、たかが珈琲だ」

(そうだ、別に何処でだって飲める)

(何を残念がっている。期待するだけ無駄だと分かっていただろう)

20 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:47:47.99 OOMGAyot0 19/33

「……」

(ふと目についた適当な喫茶店で飲んだ珈琲は、大した事の無い味だった)

(どうにも居心地が悪い。一人で居るのが場違いのようだ)

(店員の態度? 店の配置?)

(どれもこれも違う、いや――)

「……ああ」

(認めよう。俺はあの店が好きだったんだ)

(そう思った瞬間、とんでもない虚無感に襲われる)

(もう「芍薬」の扉を開ける事は無いのか)

(俺はしょうもない珈琲を飲み干した。味なんて分からなかった)

21 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:49:40.96 OOMGAyot0 20/33

(それ以来、俺は以前のような生活を送っていた)

(下らない事ばかりが溢れている。何をしても満たされない)

(そう思いながらも、縋るように「芍薬」の前まで歩いている)

(今日こそは、営業しているのでは無いかと期待して)

「……ちっ」

(都合良く開いている訳も無い)

(俺はぶらぶらと時間つぶしに歩き回る)

(店から少し離れた場所に、小さな公園があった)

(申し訳程度のブランコとタイヤの遊具、他には何もない)

(誰からも忘れられているような、そんな公園だ)

(だが)

「……あ」

「女さん……?」

(彼女はそこに居た)

22 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:57:17.20 OOMGAyot0 21/33

(気が付けば、空は茜色に染まっていた。何処かでツクツクボウシが鳴いている)

「どうして……店、閉めたんですか」

「怒ってますよね……ごめんなさい」

「もう、辛くなったんです。珈琲を淹れるのが」

「それは……働く事とは別の問題ですか」

「……考えてみたんです。私にとっての幸せ」

(彼女はそう言うと、ぽつりぽつりと話し始めた)

「私は自分の淹れる珈琲で人を笑顔にしたかった」

「けれど、もう昔のような珈琲を淹れる事が出来ないんです」

「……昔、付き合っていた彼が居たんです」

「一緒に小さな店を開いて、ただ二人で静かに生きていたかった」

「けれどある日、貯めていた資金を持って、彼は姿を消しました」

「……それからは死に物狂いで頑張って、ようやく店を開く事が出来ました」

「誓ったんです。二人でやるはずだった店を、私一人でやりきってみせるって」

「私は復讐のために生きているんです。私の珈琲にはどす黒い怒りが入っているんです」

「そんな珈琲を人様に出す事に、私はもう耐えられません」

「もう、疲れてしまいました」

(初めて彼女の本心を聞いた気がする)

(少し妙だと思っていた。あの空間はあまりにも居心地が良すぎるし、彼女の気配りは細やかすぎる)

(普通の感覚ではあそこまでたどり着けない。その力の源は……怒りだったのか)

「どうしても、辞めてしまうんですか」

「もう良いんです……男さんも言ってたでしょう」

「自分が救われなければ無駄だって」

「……!」

(何も言えない。全ては愚かな俺のせいだ)

「……俺は、あの店が好きです」

「だから、賭けをしましょう」

「……?」

「一ヵ月後、俺があの虹色の珈琲を作る事が出来たら」

「辞めないで貰えませんか?」

「……良いですよ。出来るものならば」

「私の珈琲は、そうそう真似出来る物ではありませんが」

(彼女の目が鋭さを帯びる。珈琲への侮辱と思われて当然だな)

(大見得を切ってしまった。後先なんて考えていなかった)

(けれど、何もせずに黙っている事なんて出来なかっただろう)

「……やるぞ」グッ

(こんな気持ちは初めてかもしれない)

23 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 15:59:40.82 OOMGAyot0 22/33

(俺は昔から、何でも人の能力を盗む事から始めていた)

(出来る奴がやっている事を真似るのが、一番早かったからだ)

(だから、自分の力のみで何かを身に着けるのは、初めての事だった)

(珈琲の知識、器具に豆。必要な物はすぐに揃える事が出来た)

(初めて珈琲豆を挽く。良い香りだ)

「どれ」ゴク

(……悪くは無いが、やはり遠く及ばない)

(何度だって試してやる。俺だってやれば出来るんだ)

24 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:04:13.28 OOMGAyot0 23/33

(一週間が経った。虹色どころか、色の一つも現れない)

(それが当たり前だとは分かっているが、こうも手応えが無いのは心に来る)

(疲れてしまった俺は、気分転換に町を歩いている)

老人「おや」

「お久しぶりです」

(やはり此処に居た。老人さんとも久しぶりに会う)

老人「……なるほどねえ、それで来月に珈琲を」

「ええ、ですが全く上手くいかなくて」

老人「そうだろうなあ、あれには彼女の執念が込められていた。人生とも言っていい」

(この人は時々核心を突くような事を言う。物事の内側を覗いているかのように)

(一体この人には、何が見えているんだろう)

老人「でもねえ、男さん。一朝一夕にはいかないだろうが、覚えておきなさい」

老人「人生はホットケーキなんだよ。ちょっとしたきっかけで、ある日ぺろんと世界の全てがひっくり返る」

老人「頑張ってなあ。私もその日に向かわせて貰うよ」

「はい、では……」

(人生はホットケーキ、か……)

(諦めるのはまだ早い。もう少し頑張ってみよう)

25 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:06:08.77 OOMGAyot0 24/33

(三週間が経った)

26 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:11:04.37 OOMGAyot0 25/33

「くそ、くそ! 何でだよ! 何が違うって言うんだ!」ドン

(一向に進歩が無い。豆を変えても、様々な淹れ方を試しても、虹色は現れない)

(最近はほとんど寝ずに頑張っている。それなのにどうして)

(彼女の淹れるコツが怒りだと言うのなら、いくらでも注ぎ込んでいる)

(呪いのように、深く煮えたぎる怒りだ。なのに旨くなる所かまずくなっている)

(どうしてだ、どうして俺はいつもこうなんだ)

(努力は報われない。どれだけ頑張っても時間の無駄だ)

(出来上がった珈琲を飲む。まずい、まるで泥水だ)

「クッソ……!」

(ぶん投げたコーヒーカップが、がちゃんと音を立てて砕ける)

(もう時間が無いのに、老人さんも期待してくれているのに)

(本気で取り組んでいる。真剣に何百回も練習を重ねたんだ)

(どうしてだ、どうして俺には何も出来ないんだ)

(こんなに頑張っているのに……!)ギリ

「ああ――!! あ――!」

(怒鳴り声を上げながら珈琲ミルを壁に叩きつける)

(買ってきた豆の袋を破く。黒い豆が床一面に散らばる)

(苦しい。苦しい)

(もうやめてくれよ。もういやなんだ)

「あああああああああ――」

(暴れに暴れた俺は、全ての力を失って床に倒れこんだ)

(睡眠不足のせいで、一気に意識が遠のいていく)

「……ごめんなさい……」

(俺は眠ってしまうまで、両目から流れる熱さだけを感じていた)

27 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:20:31.07 OOMGAyot0 26/33

(夢を見ていた)

(子供の頃の夢だ)

(むっとするような草の匂い、じりじりと照り付ける炎天下)

(プールの中から見える世界が、やけに美しかった事を覚えている)

(あの頃は良かった。不安なんて何一つ無かった)

(一体いつからこうなってしまったんだろう)

(両親が事故で無くなってからだったかな)

(弱い可哀そうな人間だと思われたくなかった)

(人を見下して、自分より下を探して)

(そんな事をしても、自分が強くなる訳でも無いのに)

(俺には自信が無かったんだ。だからいつも人の目に怯えていた)

(俺が何を求めていたか、ようやく理解出来た)

(自尊心も何もかもを捨てて)

(ただ、等身大の自分で生きたかったんだ……!)

28 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:23:35.80 OOMGAyot0 27/33

「あ……」パチ

(目が覚めると、朝の五時前だった)

(随分と眠っていたらしい。身体のあちこちが痛む)

(俺はベランダに出て、ゆっくりと深呼吸をする)

(ひんやりした早朝の空気が、喉を通っていく)

(何だか、心が軽い)

「……おお」

(日の出を見るのはいつぶりだろう)

(そこから見る景色は、ただただ美しかった)

(世界がこんなにも美しいと思えたのは、初めてかもしれない)

「もう一度……やり直そう。何度だって」

(もう自分の弱さも、失敗すらも肯定してやれる)

(つまらなかった俺の世界が、ぺろんとひっくり返っていた)

29 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:28:35.87 OOMGAyot0 28/33

(壊してしまった物全てを買い直し、俺は再び珈琲と向き合う)

(一つ気になる事があった。彼女の珈琲に込められていたのは、怒りだけだったのだろうか)

(彼女はいつだって客の事を思っていた)

(むしろ、慈しみの方が感じられたように思う)

(怒りと慈しみ、矛盾する二つの感情がポイントだとしたら)

(俺は豆を挽く。彼女のような音は当然出ない)

(それでも良い。淹れる為の全ての動作を、時間をかけて丁寧に行っていく)

(丁寧に、丁寧に。自分の全てを注ぎ込んで)

(そうして、俺の珈琲が出来上がる)

ユラ……

「……はは、何泣いてるんだ俺」

(それには、僅かながらも虹色が立ち上っていた)

30 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:43:08.57 Vh/l3eBb0 29/33

ごりごりごりごり……

かちゃ

さっ 

とんとん

こぽぽ

つうっ……

「……よし」

31 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:47:44.07 Vh/l3eBb0 30/33

「……では、見せて貰いましょうか。キッチンはご自由にどうぞ」

老人「落ち着いてな」

「はい」

(全てが調和している。そんな感覚がある)

(大丈夫。きっと上手く行く)

「昔、俺は彗星について調べた事があります」

「……彗星?」

「一度だけ見た事があるんです。あの輝きは今でも忘れられない」

「彗星って何で出来ているか知っていますか?」

「ええと……隕石……岩や鉄、でしょうか」

「ほとんどが氷や塵で出来ているんです。見た目からは想像もつきませんよね」

老人「ほう」

「人はいつだって、光に惹きつけられるんだと思います」

「彗星からしてみれば、自分は汚いゴミかもしれない」

「けれど、自分では気付かないような光を持っているんです」

「……」

「出来ました。どうぞ」

32 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 16:57:14.53 Vh/l3eBb0 31/33

ユラ……

老人(! カップから、僅かな虹色が……!!)

「いただきます」

「……」

(彼女はそれを一口飲んでから、沈黙する)

(長い長い沈黙だ。心臓が大きな音を立てて評価を待つ)

「……美味しい、です」

「……!」

(本当に美味しい)

(私の作る物ほどでは無い。けれど、彼の淹れる一連の動作は、硝子細工のような繊細さが込められていた)

(人の為を思って淹れた、その気持ちがひしひしと伝わってくる)

(どれほどの努力をしたのだろう)

(私以外の人間が、この虹色の珈琲を淹れられるなんて)

「……俺は自尊心だけが膨れ上がったクズでした」

「けれど、貴女の珈琲を淹れようと努力して、少しだけ変わる事が出来ました」

「貴女の珈琲の秘訣は、怒りとそれ以上の慈しみだと分かりました」

「貴女は復讐の珈琲だと言っていましたが、俺は優しさの珈琲だと思います」

「許せなくても良いんです。それも人間の心の一部です」

「お願いします、もう一度やり直して貰えませんか」

(私は自分の淹れる珈琲が嫌いだった)

(それは、自分の憂さ晴らしの為に作っていたから)

(けれど、この人は私の知らない自分を気付かせてくれた)

(私の珈琲は、無駄じゃなかったんだ)ポロ

「私、また作っても……良いんでしょうか」

「はい。みんなが貴女の珈琲を楽しみにしてますから」

「ありがとう、ございます……!」

老人「うむうむ。良かったなあ、これにて一件落着だ」ニコ

老人「どれ、私にもその珈琲を淹れて貰えないかね?」

「ええ、喜んで!」ニコ

33 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 17:10:29.89 Vh/l3eBb0 32/33

りん りん りん

「あら、男さん」ニコ

「どうも。本日の珈琲で」

老人「やあやあ、元気かい」

「ええ。まだまだ暑いですね」

(あれ以来、再び「芍薬」は営業を再開した)

(やはり、この店は居心地が良い。暇さえあれば来ている気がする)

(老人さんはいつも居るな。未だにあの年で坂を上って来ているのが信じられない)

「あの……」

「?」

「この前のお詫び……お礼と言うか……」

「ああ、別に良いんですよそんなの」

「いえ、受け取って下さい」

「サービスの新メニュー、カフェ・コン・レチェです!」

「おお、これは……!」

(透明なグラスの底にはハチミツ、泡立てたミルク、珈琲、さらにまたミルクの順で層が出来ている)

(ハチミツの黄金色と、白と黒のコントラストが実に綺麗だ)

「……うおぉ、旨い!」

「下の方のミルクはアーモンドミルクを使っているんです。さらにレモンの花のハチミツを使いました」

「珈琲はチェリーのような甘い香りと酸味がある豆を濃い目に抽出しています」

「今までとは一味違いますね! 味に変化があるのに一体感がある」

(これは彼女なりの、新しい自分への決意表示なのだろう)

(それにしても旨い。珈琲の奥深さには今でも驚かされるな)

ふわ……

「……⁉」

(飲み終えた瞬間、花が……咲いた?)

(今までよりも、さらに美しい感覚だ)

(花が咲く珈琲、か)

(彼女の珈琲は、また一段と洗練されたようだ)

老人「うむうむ。新しい事に挑戦するのは良い事だ」

「私、これからも頑張りますから」

「見てて下さいね!」ニコ

(そう言って笑う彼女には、もう以前のような壁を感じられない)

(俺もよく笑うようになった。以前は愛想笑いしかしなかったのにな)

(居心地の良い空間と珈琲の香り。この店は俺にとって大切な場所だ)

(きっとこれからも、この店の珈琲は人々を幸せにしていくんだろう)

(此処は珈琲「芍薬」。町から少し離れた場所にある小さな店)

りん りん りん

「あの、すごく良い香りがして……ひとりなんですけれど」

「……いらっしゃいませ!」ニコ

(今日もそのドアを開けて、新しい客がやってくる)

34 : ◆XkFHc6ejAk - 2020/08/23 17:11:22.06 Vh/l3eBb0 33/33

終わりです。ありがとうございました。

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