私は、実はおちこぼれだった。
スカウトされたはいいものの、愛想なんて全くないし、
身体能力はただの人並み、歌も特段に巧いと云うわけじゃなかった。
カラオケは好きだからよく学校帰りに友達と行ってたけどね。
……いやホント、どうして私なんかがスカウトされたんだろう?
――渋谷凛「回想」 2019.09
元スレ
渋谷凛「私は――負けたくない」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1439132414/
2 : ◆SHIBURINzgLf - 2015/08/10 00:03:07.14 s8phhYh5O 2/834
・シンデレラガールズSSです
・地の文オンリー
・長いよ
以前の
凛「私は――負けない」
http://ayamevip.com/archives/54910941.html
と関連がありますが、これ単体でも大丈夫だと思います
・・・・・・・・・・・・
渋谷の街は、とても雑然としていた。
林立する商業ビルはおろか、無秩序に行き交う人の波は、それそのものがまるで壁の如く。
タクシーは無茶な車線変更をして走り抜け、路線バスは重いエンジン音を吐きつつ道玄坂を登らむと息を切らす。
加えて店頭の騒々しいBGMや、遠くからは電車の生み出すこだまも混ざり合い、一帯はノイズに覆われている。
人々は、都市計画などまるで無視した、毛細血管のように絡み合う雑踏を、早足で駆け抜けて行く。
さながら、何かから追われているように。
久しぶりに太陽が顔を覘かせた爽やかな空模様も、先を急ぐ者たちには何ら眼中にない。
まもなく春本番を迎えようと云う時節、南風に吹かれて心地よい陽気であるにも拘わらず。
閉塞した社会。
鬱屈した日々。
牙を剥く自然。
彼らは、目に見えぬ“どす黒い”ものから必死に逃げているのだ。焦っているのだ。
しかし、まるでそんなものとは無縁だと云うような雰囲気で――
車も人通りも多いスクランブル交差点の傍ら、何をするでもなくガードレールに気怠く腰掛ける少女がいた。
否――むしろそれは、閉塞や鬱屈への、一種の白旗だろうか。
かれこれ数十分も、冷めた視線を世界へ送っているのだから。
微動だにせぬまま、時折走る風に、髪や服の裾が揺られるだけ。
艶のある長い黒髪、やや吊り上がった切れ長の眼、神秘的な碧い瞳を持つその少女は、おそらく十代半ばだろう。
外見こそ端麗なれ、その表情は年齢と不釣り合いなほどにクール、歯に衣着せず云えば……無愛想。
近くのカフェでコーヒーを飲む或る男は、そんな彼女を気がかりに思っていた。
例えば、友人――または彼氏か――の到着を待っているような素振りには見えないし、
小綺麗な彼女にナンパを持ち掛ける若者にも、何の反応も示さない。
まかり間違えば、人形が捨てられているのではないかと通報沙汰にさえなりそうな。
そんな異様な雰囲気を、男はとうとう放っておけなくなった。
「……ん? なに?」
男が少女の方へ歩み寄ると、それまで何の反応もなかった彼女が、ごくわずかに目線を向けて問うた。
ナンパに挑戦する数々の若者とは、やや雰囲気が違うスーツ姿の者が近づいたからであろうか。
だがその口調は刺々しく冷め、目や口元が不躾な角度であることは変わりない。
「あー、ちょっといいかな?」
「……私は別に用とかないけど」
少女は、男の方を見ずに云い捨てた。外見から想像するよりも芯の強い声だった。
「まあ、用がなさそうなのは見ていれば判るんだけどな、どうにも君の様子が妙なんでね。声を掛けてみたのさ」
「ヘンなナンパの仕方だね」
「いや、ナンパじゃなくて。何か放っておけない、と云うべきか……あぁ、俺は別に怪しい者じゃない」
猜疑の目を少しでも和らげようと、「普通のサラリーマンだ」と云って証明書代わりの名刺を差し出す。
どう説明したものかと男が思案していると、少女はついにガードレールから腰を浮かした。
「私、急いでるから。もういい?」
どう見ても急いでいるようには思えないのだが、これは『私に構うな』と云う常套句。
「じゃ」
少女は短くそう嘆息して、男や、彼の名刺など一瞥もせず、駅の改札へ向かって歩いて行った。
去り際に、「……変なの」と云う呟きを残して。
・・・・・・・・・・・・
年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月ほどが過ぎようかと云う土曜の午後。
黒いアスファルトで舗装された歩道を、可憐な少女が一人、傘を差して歩いていた。
傍の道路には、モノレール――正確には新交通システムの橋脚が微かに影を作っている。
片側二車線の大きな道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。
その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に緑と桃色の線の入った列車が、頻繁に往き来している。
まもなく大型連休を迎えるものの、世間はそれを手放しで歓迎できていない。
つい先日発生した、未曾有の地震の所為だ。
揺れによる直接的な被害はそうでもなかったが、大津波はあらゆるものを呑み込んだ。
自然災害には滅法強いはずの日本が二万もの犠牲者を出した――その事実こそが、事態の規模を物語っていよう。
東京の街は、被災地と比して幾分か混乱は収束しつつある。
しかし、輪番停電等で暗く寒い夜を過ごした人々は、
自分らが『如何に文明に飼い馴らされているか』を痛感することとなった。
停電対象外の23区の中、ほぼ唯一の例外地として、そんな非日常を実際に経験したばかりとあっては、
到底目出度い気分になどなれなかった。
しとしとと降る雨も憂鬱だ。
――明日は誕生日だと云うのに。
今、世間には、過度な『自粛』を強要する空気が満ちていると云っても過言ではない。
そう、個人の誕生日を祝うことすらも憚られるほど。
本来なら、今夜は通っている養成所でささやかなお祝いが開かれる予定であったが、お流れとなってしまった。
ただの一市民がパーティを止めて祈りを捧げたところで、被災地の情勢など変わりもしないのに、
そうしなければならない雰囲気。
日本の民族性なのであろうが、一種異様な状況である。
「はぁ……」
少女は、軽く息を吐いて、すぐに、はっと顔を挙げた。
いけないいけない、元気が取り柄の自分なのだから、こんな顔をしていてはいけない。
笑顔で頑張らなくては。
そこへ、数十メートル先に昇降口を構える駅から歩いてきた、体格の良い男が道を尋ねる。
少女が軽いジェスチュアを交えて教えると、合点がいったようだ。
お礼にジュースでもどうかと問うので、
「あ、いえ。これから養成所へ行くところなので。では失礼しますね!」
そう笑って彼女が頷くと、緩いウェーブの掛かった、濃茶色の綺麗な長髪が揺れた。
公共交通を数本ほど乗継いだ場所にある養成所の、壁面が全て鏡張りされたスタジオ。
大勢の女の子たちに混じって、その少女の舞う姿が見える。
彼女は輝くステージにアイドルとして立つ自分を夢見て、この養成所――芸能界への入口にそびえる門を叩いた。
純粋な憧れ。
無垢な将来像。
しかし実際に門の少し内側へ入っただけで、それは、とてつもない倍率の世界なのだと思い知らされた。
勿論、養成所だって誰も彼も見境なしに入塾させてくれるほど甘くはない。
だから、一定のラインはクリアできているはずだと、或る程度の自信は持っても良いと思う。
それでも、栄光の舞台を目指さむと日々奮闘する数十人ものライバルを見ると――
本当に自分は芸能界への狭き階段を昇っていけるのだろうか……と云う類の思考を禁じ得ない。
無論、そんな自信の無さや幾許かの恐怖など、一種、負の情念は誰でも持つことだろう。
だが彼女自身は、その種の感情を“不安”だとは受け取っていないようだ。
“恐怖心”を“頑張る精神”へと無意識に置き換え、その心で自らを衝き動かす。
そして、日々の地道な成長を――なりたい自分に近づけていることを、嬉しく感じる。
それは彼女の一つの才能であった。
大勢で同じ動きを舞うことしばし。
頑張った成果か、前回踏めなかったステップをこなせるようになり、少女は足許を見ながら笑みを浮かべる。
顔を挙げると、ふと、少し先にある扉から、妙な出で立ちをした、初老の男性が入ってくるのを視認した。
インストラクターと握手をしている。
新しい講師だろうか?
少女は頭の中でそう呟いた。
どうやら、業界関係者のようではあるが……
養成所で修練していれば、そんな人物がやってくるのはままあること。
彼女は、その人物を意識しないように、ひとまず今は練習に集中するようにと、自ら云い聞かせた。
しかし逆に、インストラクターが彼女のその行動を差し止めるように呼ぶ。
驚いた少女が視線を向けると、手招きをしているではないか。
不思議な面持ちのまま、小走りで駆け寄って問う。
「えっと、私に何か……?」
・・・・・・
年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月が過ぎた日曜の午後。
赤茶色のブロックが敷かれた歩道を、快活な少女が一人、歩いていた。
傍の道路には、モノレールの橋脚が規則正しく影を作っている。
片側二車線の大きな道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。
その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に青い線の入った列車がぶら下がり、頻繁に往き来している。
大型連休中だと云うのに、世間はそれを手放しで歓迎できていない。
つい先日発生した、未曾有の地震の所為だ。
この時期は、本来なら家族で毎年どこかへ出掛けるのだが、今年は特にそう云った話は出なかった。
代わりに、新しい高校生活に馴染んできたので、今日はクラスメイトとショッピングをした。
母親がいつもより多めのお小遣いをくれたものだから、嬉しくて色々と買ってしまい……
今は荷物の多さに少しだけ後悔している。
でも、久しぶりのショッピングだもん、楽しかったから良し!
そう彼女が頷くと、外側に向かって撥ねた、やや短く綺麗な茶髪が揺れた。
帰宅後、母親が用意していたおやつへ目もくれず、玄関は姿見の前で、買ってきた春夏物の新作に身を包む。
ターミナル駅近くのブティックでこの服を試着したとき、友達が「とても似合ってるよ」と褒めてくれた。
鏡に正対してポーズを取ったり、くるりと翻って肩から背中そしてヒップへのラインを確認したり。
独り、セルフファッションショウをしばらくこなし、えへへ、と顔を綻ばせた。
笑いながらガラスの向こうにいる自分を覗き込んでいると、来客を告げる電子ベルが鳴り響く。
彼女は、「ほいほ~い」と云って、すぐさま玄関の扉を勢い良く開けた。
その方が、わざわざ居間へ戻ってインターホンを受話するよりも早いし効率的だから。
だが来訪者は、呼び鈴を鳴らしてすぐに戸が開くとは思っていなかったのであろう。
そこには、心底驚きたじろいだ様子で、郵便配達の人が立っていた。
曰く、簡易書留で郵便物が届いたらしい。
受領印を押してから封書を眺めると、それは、ちょうど自分へ宛てられたもので――
封筒の下部を見た瞬間、普段は至極快活な少女が、まるで人形のように固まった。
『オーディション合格通知在中』
何度も目を擦って読み返しても、そこには明らかに良い報せであることを示す朱印が輝いている。
彼女は普段から元気溌剌だった。
クラスでも随一のムードメーカーであり、笑わせ屋であり、輪の中心にいた。
友人たちに冷やかし半分で「アンタって明るいし、アイドルにピッタリなんじゃない?」とも云われるほど。
笑顔が、向日葵のような橙色に輝く女の子だった。
先日クラスメイトと読んでいた雑誌に、新規プロダクション設立に伴うオーディションの情報が載っていたので、
そそのかされた勢いのあまり応募したのだが……
まさか本当に合格するなんて。
正直、彼女自身は結果に全く期待していなかった。
何故なら、柄にもなくあまりに緊張し過ぎて、本番で色々とトチったからだ。
会場へ向かっている時は、まるで心臓が口から飛び出るのではないかと思うくらいどきどきしていたし、
あろうことか遅刻しそうになって急いだら、強面の男性とぶつかりそうになってしまった。
さらには選考時のことなど、もはや何を喋って何をやったのかさえ朧げにも覚えていない有様。
そんな散々なオーディションだったのに、何故合格通知なのか。
何かの間違いではないのか。
震える手で封を切り、おそるおそる中身を出す。
そこには『技量ではなく内面を見て判断し、ティンときたから合格』と良く判らない理由が綴られており――
その挨拶状の下に、しっかり整えられた様々な書類が束になっている。
不合格なら紙切れ一枚しか入っていないから、本当に合格通知なのだ。
人間、予期せぬ嬉しい事象が起こると、得てして爆発的に喜ぶことはできないもの。
彼女は、全身を震わせながら、しかし顔には満面の笑みを浮かべて、静かに、そして力強く呟いた。
「えへへ……やった……ッ!」
・・・・・・
年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月ほどが過ぎた平日の午後。
ベージュ色のブロックが敷かれた歩道を、美しい少女が一人、歩いていた。
傍の道路には、モノレールの橋脚が規則正しく影を作っている。
片側二車線の大きな道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。
その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に橙が四角く塗られた列車が、頻繁に往き来している。
大型連休が明け、世間には閉塞した空気が漂っている。
少女は気怠そうに、茶色いレザーのスクールバッグを肩へ廻した。
普段、一緒に下校している仲の良い友人は、今日は部活や掃除当番。
ゆえに、彼女は、JR駅までの道を独り、ややゆっくりとした足取りで歩んでいた。
ふわぁ、と軽く欠伸をし、それを左手で隠す。
実に、実につまらない日常だ。
地震で、人生の価値観に僅かな変動があったとはいえ、結局それも二箇月弱が経って薄れてきた。
……そもそも、災害に対する現実感がほとんど無い。
発生当時は中学卒業直前の自宅学習日だったが、家の周辺地域は地盤が極めて強固なので、さほど揺れなかった。
さらに軍事基地が近所に在る為なのか、輪番停電の対象からも外れた。
つまり彼女にとって震災とは、テレビの向こう側の出来事にしか感じられなかったのだ。
喉元過ぎれば何とやら。変化の無い日々が、再び少女を支配しつつある。
この春から高校へ進学した彼女は、幾分か、変化への期待があった。
新しい自分への、渇望があった。
しかし入学以来一箇月以上が経ち、それは幻想だったのだと思い始めている。
幼稚園から小学校、また小学校から中学校へ上がった際の、明らかな環境の変化と違い、
高校生になったからと云って、何かが劇的に変わるわけでは無かった。
強いて違いを挙げれば義務教育ではなくなったと云うことだが、そんなものは目に見えぬ立場の話でしかないし、
クラスを構成する人間が変わる――中学時代の友人の大半と離れることになったのは、まったく負の側面だ。
結局、学校生活だって、授業内容だって、日々通り過ぎていく日常は、何もかもが中学校の延長線上。
中間と期末の憂鬱な定期考査は容赦なくやってくる上、同年代の男子の幼稚さは相変わらず。
実際、男子の幼稚さは、彼女の澄ました美貌に気後れしてのことだったが、当の本人には判ろうはずがない。
そんな変わらない鬱屈したループから抜け出したくて、藻掻いて、ピアスを空けてみた。
中学生とは違うのだ、と自らの身体に刻み付けたかった。
それでも、生じた変化は、髪に隠れた部分の僅かな見た目だけ。
父親に渋い顔をされたくらいで、その他の環境は何ら変わることは無かった。
むしろ、ナンバースクール伝統の自由過ぎる校風から、ピアスや染髪なんて当たり前に行なわれている中で、
彼女はただ単に、そんな有象無象の一人にしかならなかった。
「はぁ~ぁ……」
まるで幸せが逃げて行きそうな溜息を吐いて、髪を掻き上げる。
西日に照らされた左耳、白銀色のピアスが鈍く光り、そして、さらりと流れる、黒く綺麗な長髪が揺れた。
そのまま、ターミナルの駅ビルでアパレルや靴、アロマなどを、大して注目もせず視てぶらぶらしていると、ふと
一階から四階までぶち抜くエスカレーターから、妙な出で立ちをした、初老の男性が歩いてくるのを視認した。
その態―なり―を半ば不躾な視線で凝視する少女に、男性が気付く。
そして彼もまた、視線を少女に向け、若干の驚きを得たように跳ねた。
大股の早歩きで少女の眼前まで寄ると、彼女は気怠く無愛想な表情で問うた。
「……オジサン、誰? 援交―サポ―ならヤんないよ」
――
駅ビル二階の、明るく賑やかなカフェ。
少女は、アールグレイを飲みながら、男から差し出された名刺を眺めていた。
しかしその目は、欺瞞を疑うように刺々しい。
「C、G、プロ……ねぇ。……正直、聞いたことも無いんだけど」
ひらひらと団扇を煽ぐように揺らして、率直な感想を述べると、
「いやはや、設立してまだ間もないからねぇ!」
男は目の尻を下げ、自らの後頭部をぽんぽんと叩いて困ったように笑った。
そして、テーブル上のガトーショコラを指して「ささ、遠慮せず」と促す。
彼女自身、同年代の他の娘よりはそれなりに可愛いと云う自覚を持っているので、警戒心は多少ある。
だが、このような場所で、店の売り物に変な薬を盛られることもないだろう。
そう判断し、ゆっくりと、しかし怠そうにフォークを構えて「頂きます」と一口食べた。
美味なケーキに、期せずして顔が少し綻んだのだろうか、そのタイミングで男が喋る。
壮年・中年の歳相応の、ほど低く渋い声だ。
「そう云えばまだ君の名前を尋ねていなかったね。差し支えなければ教えてくれないかい?」
少女は即答せず、視線を少し逸らした。
長い時間、咀嚼したまま考え、無言の間が続く。
卓上にある少女のiPhoneへメールが着信し、バイブレータが天板と共振して存外大きな音を立てた。
彼女は手に取って画面を一瞥したが、他愛の無い内容だったようで、返信せず再びテーブルへ置く。
そして目を軽く閉じ紅茶を飲んでから、おもむろに口を開いた。
「……渋谷だよ。渋谷――凛」
きちんと答えてくれるとは期待していなかったのだろうか、男は少しだけ目を丸くする。
「渋谷凛ちゃんか。素敵な名だ」
凛は、嬉しくも何とも無いと云う表情で紅茶をもう一口呷った。
「――で、そんな事務所の社長さんが、学校帰りに道草してる不良女子高生を掴まえてスカウトだって?」
先程、エスカレーター前で出会ってすぐ、アイドルにならないか、と単刀直入に云われたのだ。
頭上に疑問符を浮かべている凛を、あの手この手で云い包めて、ひとまずカフェの椅子へ坐らせた。
物腰は紳士的ながらも、その話術は、流石、芸能業界の関係者、と云うことか。
確かに、「スカウトしたい」と告げられて悪い気分にはならないが――
「そう。さっき君を見て、一目でティンときたんだ」
「……はぁ。そんなの手当たり次第に誰にでも云ってるんでしょ、色んな甘言を弄してさ」
この真っ黒いオジサンの言葉を鵜呑みにするのは早計だ。今一信用ならない上、判断する材料が乏し過ぎる。
――どうせ私なんか、何百人と声を掛けた雑輩の中の一人なのだろうし。
ものぐさな様子の凛と、正反対に、至極真面目な顔をする男。
「とんでもない。私は業界歴だけは長いが、『コレだ!』と云う子にしか声を掛けないんだよ。
ただの一人にもコンタクトせず撤収する日も少なくない」
凛が視線だけ挙げて相手の眼を見ると、その彼は柔らかな笑みを湛え、言葉を続ける。
「それに、自分で自分を不良と云う子ほど、根はそうじゃないものだよ」
「妙な断言をするね、オジサン」
凛は、目線だけでなく、顔も挙げて正対させたが、その言葉には、若干の刺が見え隠れしていた。
まるで、私の何が判るのだ、とでも云わむばかりに。
しかし男はそれを気にしない。
「君の全身から、お花の香りがする。芳香剤ではない、青く潤う生花の薫りだ。多分、お家は花屋さんのはず。
そして手先は若干水荒れを起こしているね。きっと、ご両親の手伝いを精力的にこなしているのだろう」
この男は、家業を難なく云い当てた。これがスカウトマンの眼と嗅覚か。
ブラフかどうかは判らないが――凛がよく手伝っていることも見抜いている。
花屋は即ち水仕事と云って過言ではない。四六時中水に触れていると、肌を保護する皮脂が流失し荒れてしまう。
凛は、慌てて手先を袖の中へ潜らせた。
男の云い分を認めるようで癪だが、何故だか、隠さずにはいられなかったのだ。
凛のその反応に、男は少しだけ口角を上げた。
「身なりも一見崩しているようで実は端正だ。ぴしっとした上着、緩められているが形は整っているネクタイ。
よく磨かれ、潰されていない革靴。僅かな染み汚れも、そして擦れもないスクールバッグ。
手入れされた長く美しい髪もそうだね」
澱みなく、流れるように指摘を重ねていく。
「君が持つiPhoneは一世代前のだが、保護ケースへ入れていないにも拘わらず綺麗な状態だった。
身近にある、頻繁に使う小物さえも丁寧に扱っている。そう云う細かい部分に、育ちの良さが出ているよ――」
まるでエスパーかと思えるほどの指摘ぶりに、凛はだんだんと目を逸らしていった。
ここまで云われては、少し……いや、大分気恥ずかしい。
頬が微かに紅潮していることが、自分でも判る。
「――そんな子の自称する『不良』って云うのは、一種のサインのようなものだ」
「……へぇ、サイン、ね……」
凛はそう返すのが精一杯だった。
逆に男は、上半身を凛の方へ若干寄せて、覗き込むような視線を送る。
「君はきっと、とても真面目な子だ。だからこそ、日常の繰り返しをつまらないと諦めているのではないかな?
耳に光っているピアスは、おそらく、それの裏返しだ。違うかね?」
凛は、ぴくりと、眼や眉を上げ、逸らしていた視線を再び目の前の男へ向けた。
「それにしたって、なんで私を? ……そりゃ人並みより多少容姿に恵まれてるとは思うけどさ。
それだって偏差値がちょっとマシかな、ってくらいでしょ」
「謙遜だねえ。もしくは、自分を過小評価しているのかな? 君は十二分に綺麗だよ。
それに、見掛けも大事だが、それだけじゃないんだ。君には、凛々しく纏うオーラがある。
私に云わせれば、それら相乗効果で、偏差値なら75を優に超えると確信している」
恥ずかし気もなく、堂々と云い切る目の前の男。
凛の方が照れくささで縮こまってしまう。
そんな様子を見て、男は「とまあ、ここまでは、ただの前口上だよ」と笑い、刹那、眼力鋭く凛を射抜いた。
「――君の、きりりと澄み、引き締まった碧い眼。最大の理由はそれだ」
「……眼?」
「ああ、君はとても真っ直ぐで綺麗な眼をしている。確かな意思を宿す瞳だ。私は、それに惚れた」
真っ直ぐな云い種に、凛は少し眉根を寄せる。
「……オジサン、もう『惚れた』ってストレートに云えるような歳じゃないと思うんだけど」
極めて失敬な突っ込みであるが、男は、少しだけ眼を丸くして、数秒ほど溜めてから、顎を外した。
「あっはっは! スカウトなんて、一目惚れの告白と同じようなものだよ。
清水の舞台から飛び降りて、想いの丈を精一杯ぶちまけるんだからね」
腹を抱える男と対照的に、凛は表情を変えなかった。
否、呆気にとられて、表情が追い付かなかったと云うのが正解。
はぁ、と軽く息を吐いてから、やや温くなった紅茶で喉を湿らせる。
「――そもそも私、見ての通り無愛想だけど、こんなのがアイドルなんてやっていけるの?
そう簡単に直せるもんじゃないよ、これ」
「その辺りは幾らでもやりようはあるさ。君の中の、アイドルとしての輝きは、そんなことでは曇らない」
妙に自信たっぷりと云い切るものだ。
凛は、目線をやや下げ、左手を顎に添えた。そのまま、じっと考え込んでいる。
――日常に飽き飽きした心への、カンフル剤となる。澱みの中へ一条の光が射し込むかも知れない。
――いや、幾ら無変化に飽きたからと云ったって、芸能界などとは。到底やっていけるわけがない。
相反する考えが、ぐるぐると脳内を渦巻く。
どちらも、間違ってはいないと思える。
それだけに――今、この場で結論を出すのは、到底無理だ。
「……返答は保留でいい? さすがにここで決めるのは、ちょっと」
「勿論だよ。君の人生にも大きく関わってくることだからね、無理強いはしないし、結論を急がせもしない」
男の言葉には余裕が見て取れる。
まるで、近い未来に凛が出すであろう答えを、既に確信しているかのような。
しかし何よりも、他人の人生を大きく左右させる以上、無理強いをしないと云うのは、彼の本心であった。
「是となっても非となっても、君の意見は尊重する。答えが固まったら、連絡をくれると助かるよ」
その後、事務所へ戻る男と駅コンコースで別れ、彼とは反対方面へ向かうプラットホームで、独り言つ。
「アイドル……か……」
流れた言霊が、滑り込んで来た電車に、掻き消されてゆく。
正直、これまでアイドルと云うものにあまり興味を抱いていなかった。
いや、正確に云えば、自分には無縁の存在、別の世界のことだ、と思っていた。
女の子なら、一度くらいは憧れを持つ世界のはずだけど。
しかしそれは、自らの手の届かない場所に在るからこそ、羨望の対象になるのであって……
いざ実際に誘いを受けてみると、実感の全く無い、ひどく冷めた視線で自分自身を見ていることに気付く。
『私なんかが――』と。
電車の扉が開く際に鳴る電子音が、凛の鼓膜を揺らす。
脳はそれを、ただ行動に移すための記号としか捉えず、深い自問自答を中断させることはなかった。
その日、凛は、寝るまでずっと、考え込んでいた。
最寄駅まで自らを運んでくれる電車の中でも。
家に帰ってからも。
看板娘として店番を手伝っているときも、愛犬ハナコの散歩中も、夕飯を食べている間さえ。
不思議に思った母親が話し掛けても、ずっと、上の空で生返事をするだけだった。
――
「はぁ~ぁ……」
翌日、二限目の授業を終え、凛は机に顎を乗せて嘆息した。
65分もの間、政経の小難しい話を受けるのは、実にしんどい。
しかも今日は若干寝不足だから尚更。
昨夜は床へ就いてからも、ずっと思考を回していて中々寝付けなかったのだ。然もありなむ。
そこへ、前の席にいる少女が、声を掛ける。
「なによ凛、そんな幸せが逃げ出しそうな溜息なんか吐いて」
「あー……あづさ、私そんな溜息ついてる?」
あづさと呼ばれた、高校一年生と云う割には些か大人びたショートヘアの彼女が、やれやれ、と片目を瞑った。
「口からエクトプラズムが出てくるんじゃないかってくらいだったわよ」
「まあしゃーねーよ。政経なんてかったるい授業トップ3だもん」
隣の席からも会話が混じってくる。
凛は、声のした方に顔を向けて笑った。
「ふふっ、まゆみは政経からっきし駄目だもんね」
少し癖毛なセミロングの髪を、金に近い茶で染めた彼女は、「うっせ」と舌を出す。
やや上品なあづさと、決して品行方正とは云えない風体のまゆみ。
見た目も性格もほぼ正反対なのだが、不思議と馬が合うこの二人は、数少ない同じ中学出身の友人だ。
気難し屋に映る凛を避けがちな高校からのクラスメイトと違い、忌憚なく喋れる間柄である。
「んで? 随分とダルそうな溜息じゃねーの、どうしたよ」
少々がさつな口調のまゆみが、頬杖を突いて問うた。
「んー、ちょっと将来について考えることがあってね」
「えぇ? なにそれ、高校入ったばっかでもう先のこと考えてんの? 進学先とか?」
あづさは目を丸くして云い、まゆみは、
「お前、相変わらず中身はインテリ思考だよな、こないだピアス空けたくせに」
と、凛とは質の違う短い嘆息をする。
凛は頭を上げて、「うーん」と身体を伸ばした。
「そこまで真面目なもんでもないよ。ただ、人生について考えるきっかけがあっただけ」
「人生、ねぇ。わたしは一回こっきりしか無いんだから楽しんだモン勝ちだと思うけど」
「楽しんだモン勝ち……か」
伸びをした腕を下げて、ぽつりと、鸚鵡返しに呟くと、
「ま、具体的に何すればいいのかなんてのは判らないけどね」
あづさはそう付け加えて笑った。
対照的に、まゆみは「あたしにゃ人生なんかより、再来週から始まる中間の方が問題だっつの」と天を仰ぐ。
そう。憂鬱な定期考査は容赦なく迫ってくるのだ。
上半身を反らしていたまゆみが勢い良く体勢を戻し、息を吐いた。
「あー中間のこと考えたら気が滅入っちまった。
あたし今日は部活ねーからさ、あづさも凛もどーせヒマっしょ? カラ館行ってスッキリ発散しようぜ」
――
放課後、ターミナル駅前のカラオケ店へ、三人は来ていた。
学校帰りにお遊びとは、校則違反ではなかろうか?
ご心配なく。凛の通っている高校には、校則と云えるような縛りがない。
なにゆえか『下駄での登校を禁ずる』と云う、世にも珍妙な一節があるだけだ。
“自主・自律”を校訓とし、基本的に皆を信用しての自由放任だから、
生徒たちもそれに応え、羽目を極端に外すことなく振舞う。
きちんと学業に勤しんでいれば、カラオケくらいで目くじらを立てられることはない。
水色を基調とした店の受付口は、今をときめくアイドルたちのポスターやパネルで賑やかだ。
トップアイドル天海春香や男性アイドルグループ・ジュピターなど、処狭しと並んでいる。
普段ならそんなもの意識せず、店内の個室へと入って行くのだが、
昨日スカウトの話を聞いた凛は、どうしても視線を向けてしまう。
ポスターの中では、可愛いアイドルたちが大きく笑っていて、それは実に眩しく、キラキラと輝いて見えた。
――私にこんな笑顔できるのかな?
あのオジサンは「幾らでもやりようはある」と云ったけれど……
「――ちょっとぉー、凛、何してるの、行くよー」
ふと、あづさに呼ばれる声で凛は我に返った。
「あ、ごめんごめん」
慌てて向き直り、奥に伸びる廊下へと走る。
「何を見てたのよ? ボーっとしてさ」
二人に合流すると、あづさが呆れたように訊いてきた。
「ううん、ちょっと考え事してただけ。さ、行こ」
――
嘘の言葉が溢れ
嘘の時間を刻む――
六畳ほどの個室に、まゆみの歌声が響く。
『Alice or Guilty』、先日発売された、ジュピターのニューシングルだ。
歪んだ重低音が腹に響く。
やや遅めのテンポだが、激情に溢れたとても熱い曲。
モニタの背景には、汎用ムービーではなく、彼らが昨年行なったライブの映像が使われている。
実に贅沢な仕様だ。
アイドル三人を照らす眩しいライト、客席で無数に揺れるサイリウムと、激しく飛び跳ねる観客たち。
その世界は、とても煌めきに満ちている。
もし――もし、このような舞台に立てるのなら……
これまで、テレビ画面の向こう、実感の湧かない処にあると思っていた場所。
一般人の自分なんかには、まるで無縁だと思っていた場所。
そこが、不意にも、居所となるかも知れない機会を得た。
飽き飽きする日常の繰り返しから、脱せられるかも――?
じっと画面を見詰め、昨夕からずっと廻している思考に耽っていると。
「凛、次はどの曲入れる?」
ふと、それはあづさの問い掛けによって断たれた。
二度ほど瞬きをしてから、声の主の方を向くと、彼女はもう次曲のリクエスト送信を終えたようだ。
選曲端末を「はいこれ」と寄越してくる。
「うーん、この流れだったら蒼穹かな」
「なにそれ?」
「詳しくは知らないんだけどさ、うちの店の有線で最近よく流れてるから憶えたんだ」
決定ボタンを押すと、ピピピッと鳴る軽い電子音と共に、リクエストが登録された。
Alice or Guiltyは終盤に差し掛かっている。
――罪と 罰を全て受け入れて
今 君の……裁きで!
歌いきるとほぼ同時に、短いアウトロ、ベースのスライドで曲が終わる。
シンクロして、画面の中のステージでは、エアキャノン砲の銀打ちがキラキラと舞った。
「あーやっぱジュピターかっけえぜ!」
コーラを一口飲んでから、まゆみがガッツポーズを取ると、あづさはマイクに手を伸ばしながら云う。
「確かにジュピターもいいけどさ、わたしはやっぱり桜庭サマが一番かな」
桜庭薫。外科医から転向した異色の経歴を持つ、孤高の男性アイドルだ。
「あいっかわらず、あづさって面食いだよなぁ」
「五月蝿いわね。わたしにとって桜庭サマこそが一億二千万人の中のトップなのよ」
「へいへい」
まゆみとあづさがいつもと変わらぬ応酬をする間に、モニタは次曲の映像へと切り替わり、イントロが流れる。
しかしその曲は、凛の頭には入っていかなかった。
あづさの云った、『一億二千万人』――
その中から選び抜かれる僅かばかりのアイドルに、凡人の自分が到達できる確率など途方も無く小さな数値だと。
改めて、それを認識させられたからだ。
――私なんかが、誰かにとっての『一億二千万人の中のトップ』になれるだろうか?
「……なれるわけないよね」
凛のつぶやく声は、スピーカーから流れる歌に掻き消され、誰の耳にも届かない。
芸能界が居所となるかも知れない機会を得た、だって?
思い上がりもいいところだ。
バレエや歌を習っているわけでもない、ティーン誌のモデルをしているわけでもない。
ただの一般人である自分に、果たして何ができると云うのか。
口車に乗せられて、分不相応なことを考えてしまっていた。
――何の取り柄も無い私には、こうやって友達とカラオケを楽しむくらいが関の山。
あづさの歌唱に合わせて備え付けのタンバリンを振るまゆみを見ながら、凛は自嘲気味に笑った。
自分など、物語の主人公はおろか、登場人物にさえなれない、観覧者の立場でしかないのだから。
そもそも、一回会っただけのあの変なオジサンの話を信じられる方がおかしいのだ。
ぼーっと二人を見ていると、いつの間にか曲が終わって、次は凛の番になっていた。
この話は、忘れた方がいい。
歌い出しをガイドするカウベルのリズムが響く中、凛はそう決心して、マイクに手を付けた。
砕け 飛び散った欠片バラバラバラに なる
魂は型を変えながら 君の中へ Let me go……
叶え――
まるで、奇妙な男からの奇妙な誘いを振り切るように、橙の照明が踊る空間で、凛の熱唱が響いた。
・・・・・・・・・・・・
渋谷の街は、とても雑然としていた。
人々は、さながら何かを諦めたように、ごった返す雑踏を縫って歩く。
長く続いた春雨が去り、久しぶりに太陽が顔を覘かせた爽やかな空模様も、疲れた者たちには何ら眼中にない。
そんな有象無象が行き交うフィールドで、凛は井の頭通りを渋谷駅へ向かって歩いていた。
今日は平日だが、サボタージュではない。
校舎の耐震チェックだとかなんだとかと云って、授業は午前でお仕舞いだったのだ。
午後が丸々空くなんてそうそうないから、新しいアクセを見繕いに、デパートをハシゴした帰り。
良さそうな品はあったものの、手持ちのお小遣いでは足が出てしまう。
高校生になったばかりの身分だ、見るだけで我慢した。
そんな少し不完全燃焼気味の物欲を慰めるべく、iPhoneで近隣の情報をチェックすると。
「あ、109―マルキュー―で夏物のイベントやってる……」
ファッション業界はせっかちなもの。
衣替えはまだまだ先と云うのに、早くも夏商戦が始まっている。
「せっかくだし……気が早いけど行ってみようかな」
スクランブル交差点を渡り切ったところで、画面から目を挙げて109の方角を見やる。
と、視界の端にQFRONTビルの壁面ビジョンが飛び込んできた。
瞬間、凛は足を止める。すぐ後ろを歩いていた中年サラリーマンがぶつかりそうになり、渋い顔をした。
しかし凛はビジョンに釘付けで、そのことに気付いていない。
彼女の無愛想な目に飛び込んでくるビジョン『Q'S EYE』には、765プロのアイドル達が映し出されていた。
先日開催されたアリーナライブの模様だ。
ワイドショウ等で聞くところによれば、幾つかのトラブルがあったものの最終的には大々的な成功を収めたとか。
例のオジサンと話してから、身の回りでアイドルを目にすることが急激に増えた。
テレビは云わずもがな、雑誌、電車の中吊り広告、デパートに掲示されたポスター、そしてこのQ'S EYE。
……いや、ここ数日でアイドル全体の露出が一気に増えるはずはない。
それだけ、無自覚のうちに意識してしまっているのだ。
現に、これまでなら壁面ビジョンなど『ただの景色の一部』として過ぎ去っていたであろう。
だが、今は平静を装おうとしても、目を逸らすことができない。
画面の中では、天海春香や如月千早と云ったトップアイドルの面々が、縦横無尽に舞っている。
彼女らの後ろには、凛が見たことのない、若い芽の姿もある。
そう、こうやってただでさえ狭い階段を、どんどんと新顔が昇って行かむとしているのだ。
自分がアイドルなんて、無理に決まっている。
――なのに。
忘れると決めたのに、どうして意識してしまうのだろうか。
彼女らの勇姿が消え、税務相談の広告に切り替わる。
凛は、内心ほっとして、交差点傍のガードレールに寄り掛かった。
何をするでもなく、ただ単に腰掛けるだけ。
世界は、そんな彼女とは関係無しに進んでゆく。
青と赤、はたまた黄色を交互に灯す光が作り出す制御で、定期的に人や車が動く。
地面には、雲の影が、人々の足よりも速く、そして自由気ままに流れている。
絶え間なく動き続ける渋谷の街から切り離されたように、ぽつんと動かない凛。
まるで彼女の身体だけ時間が止まったかの如く。
だが、その異質なコントラストは、この日は思いのほか早く終焉を迎えた。
「また君か」
テイクアウトのコーヒーカップを二つ持った先日のサラリーマンが、そこに立っていた。
「こないだもそうだったが、何をするでもなくずっとそこに腰掛けて、一体どうしたんだ?」
「……アンタには関係ないでしょ」
「そう云われちゃこっちはどうすることも出来ないな」
男は「よいしょ」とぼやいて、凛の隣、ガードレールに尻を据えた。
凛はいきなりずけずけと隣へやってくる男に眉をひそめたが、相手にしたら負けだ、と無視を決め込む。
「飲むかい? そこのカフェのキャラメルラテ、結構うまいよ」
男が、利き手にある自分のものとは別の、左手で持っている紙カップを、凛の前に差し出した。
さすがに行動が非常識すぎて、無視をしようと決めたばかりなのに反応してしまう。
「……箱入りで世間知らずのお嬢様でもない限り、この状況で受け取ると思うの?」
「まあそれもそうだな。いきなり知らん男に飲み物を薦められても、飲んじゃダメだわ」
君のために買ってきたけどまあいいや、と男はコーヒーもキャラメルラテもまとめて飲み始める。
そうは云いつつ残念そうな口調でないのは、おそらく反応を予期していたと云うことだろうか。
凛が、相手にしてられない、とばかりに視線を街中へ向けると、ちょうどQ'S EYEが切り替わった。
今度は魔王エンジェルの登場だ。
ランキング上位常連、高い人気を誇るアイドルトリオユニット。
三人それぞれが強いカリスマ性を持ち、ファンの精鋭さでは、765プロのそれを凌駕するとも云われる。
同性の凛から見ても格好良い存在だった。
画面の中の彼女たちから、ニューシングルリリース告知がなされているが――
「アイドル、好きなのか?」
凛の耳に、ばっさりと思考を裁ち切る言葉が入った。
「……なんで?」
「QFRONTのビジョン、アイドルが出てるときだけ真剣に見てるから」
「は? 私が?」
「気付いてなかったのか? さっきの765のニュースといい今といい、結構食い入るような感じで眺めてたぞ」
男は空になったカップを持ったまま、Q'S EYEの方へ向けて手を揺らした。
凛は、隣を向かず、
「……別に、興味なんてないよ。ただ、どんな世界になってるのかなと思う野次馬根性だけ」
風で揺れる髪の毛を乱雑に梳かして、ややぶっきらぼうに答えたが――
その様子を見た男は、不思議そうにつぶやく。
「うーん、本当にそうかねえ」
「なにが」
「なんて云えばいいだろうな……うーん、“物わかりの良いフリをした諦め”で凝り固まってるように見える」
今度こそ、凛は隣の男をきつい表情で振り返った。
「なにを訳の判らないことを――」
「おいおいそりゃこっちの台詞だよ。こないだも今日も、妙な雰囲気でぼーっとしててさ」
「アンタに関係ないでしょ、放っといてよ」
そう吐き捨て、睨む。
なんとも余計なお節介焼きめ。
「だいたいなんなの、物わかりの良いフリだとか何とか好き勝手云ってくれるじゃない。私の何が判るの」
「いや別に君のことは何も知らないけどさ」
凛の眼力に、男は肩を竦める。
「うーん、眼を見た直感……かな」
「はぁ?」
「全身から醸し出してるのは“諦め”……って云ったらいいのかなあ。達観とか諦観とか、ニヒリズム。
そんな鬱屈した雰囲気なんだけどさ、瞳は何かを希求しているように見えるんだよ」
男が、顔を凛に正対させて云った。
見ず知らずの他人のくせに、遠慮ない。
しかし、ずけずけした言葉とは裏腹に、表情は幾分か真剣に感じられた。
「また『眼』か……あのオジサンと同じことを……」
「あのオジサン?」
「……なんでもない。気にしないで」
そして、はぁ、と一つ息を吐き、
「それで? 私の眼が何を求めてるって?」
「いや、そんな細かいところまで判らないけどさ。少なくともアイドルには興味あるんじゃないかな、と」
「馬鹿々々しい。そんなわけ……ないでしょ」
凛が、付き合ってられない、話はもうお仕舞いだとばかりに立ち上がって裾を払う。
「じゃあね」
そのまま駅の方へ歩き去ろうとするが、
「あーちょっと待って」
男は前回と違い、凛を呼び止めた。
「これも何かの縁だ、貰っといてくれよ」
凛が几帳面にも振り向くと、彼は名刺を片手で差し出している。
「……こないだの名刺とは違うみたいだけど」
「おっと、見てないようで意外としっかり見てくれてるんだな」
凛は面倒くさいことを云ってしまったことに気付いて眉根を寄せた。
「ああすまん、茶化す気はないんだよ。つい先日転職してね」
「要らない。別にアンタの名刺なんか貰ったところで何の足しにもならないし」
凛はそうピシャリと断って、回れ右を――しようとした。
しかし、凛の動きに沿って流れる彼女自身の視界の端っこに、男の名刺が何故か止まったように主張していて。
そしてすぐに、ピクッと身体を強張らせた。
『CGプロダクション』
男の名刺には、過日の、奇妙な態をした“オジサン”のそれと同じ社名が書いてあった。
「アンタ……それ……CGプロって……」
「んん? 君、うちのこと知ってるのか? 設立したてだ、って社長は云ってたんだけどなぁ……」
凛の予想外の反応に、男は驚いた様子だ。
名刺を受け取ると、そこには間違いなく先日と同じCGプロダクションの社名。
そして、その下に『P』と云う名前が載っている。
凛は、名刺から目を離せないまま、訥々と口を開く。
「……こないだ、社長のオジサンから……スカウトされたの」
「あ、そうなの!? なんだ、じゃあ話は早いじゃないか。時間空いてる? 事務所行こう」
「ちょ、ちょっと待ってよ。私は断りの連絡を入れるつもりなんだから」
Pが早合点で話を進めようとするので、凛はあわてて遮った。
「えぇ? あんなにアイドルを食い入るように見てたし、なんやかんや云っても少なからず興味あるんだろう?
更には既にうちの社長からスカウト受けてて。こんなの断る理由なんか無いじゃないか」
「……だって、凡人の私が、あんな輝く世界でやっていけるとは思えないから」
「いや、それは、やってみなきゃ判らな――」
「これまでもずっとそうだったの!」
凛はPの言葉が終わらないうちに、目を固く閉じて、絞り出すように叫ぶ。
「新しいことを求めて、何かを変えようと必死で藻掻いても、何も変わらなかった! 何も変えられなかった!」
――結局、大人や社会が敷いたレールの上を走って、いくつかの選択肢をつまむだけ。
「自由に走り回れることなんてない! それが赦されるのは、運命に選ばれた一握りの人間だけだよ!」
凛は、これまでの満たされない渇望と、鬱屈した諦めを吐き出した。
肩を上下に揺らす凛を、Pはしばし見詰め、
「……難しく考えずに、変化を求め続ければいいんじゃないか?」
やや時間をおいて、ゆっくりした声で云った。
凛が目を開け、視線を上げると、彼は柔和な笑みを浮かべていた。
しかしその顔は同時に少しだけ哀しそうで――凛には、その表情の意味するところは判らなかった。
「確かに上手くいかないことも往々にしてあるさ。でも諦めずに希求することを忘れちゃいけないと思うね」
「希求、すること……」
「ああ。例えば、一個だけ当たりの入ったガチャ――いや、クジがあるとするだろ? 引き当てるのは難しい。
でもな、“挑戦しなければ、手に入る可能性は確実にゼロ”なんだぜ?」
「……ヘンな例えだね」
「俺の補佐をしてくれる人がたまに云うんだよ」
Pはバツが悪そうに、後頭部を掻いた。そして軽く咳払いをしてから、
「ま、自分の目の届く範囲だけが世界の全てってわけじゃないんだ。
これまでとは違う世界ってモンを、一目見てみるだけでもいいと思うけどな。
そこで成功しても、仮にできなくても、得た見識はきっと貴重な血肉になるはずさ」
更に笑って、付け加える。
――同じ後悔でも、やらずに悔やむより、やって後悔したほうがずっとマシなんじゃないの?
凛は、何も云えずに立ち尽くした。
挑戦しなければ、手に入る可能性は確実にゼロ――
自分の目の届く範囲だけが世界の全てってわけじゃない――
Pの放ったフレーズが、頭に何度もこだまする。
これまでずっと、つまらない日常や鬱屈したループから逃れることはできない、と諦めていて。
何をするにしても『身の丈』と云う言葉を使って、目を逸らしていて。
「ただ逃げていただけ……か」
凛は、ふっ、と自嘲の息を吐いた。
「確かに、アンタの云う通り……でも、アイドルなんてこれまでの生活とガラリと違う場所、本当に行けるの?」
そう、いま立っている分岐路は、全く未知の世界へ続いているのだ。
見たことのない土地を、地図も持たずに歩いているようなもの。
不安が無いと云えば嘘になる。いや、むしろ、不安しかない、と云ってよい。
Pは、凛の確実な変化を感じ取り、彼女の手許にある自分の名刺を指差した。
「そうだな……もしよければ、日曜日の十時、そこに書いてある住所まで来てくれ」
凛が小首を傾げたので、補足の言葉を続ける。
「その日、他のアイドル候補生の子たちが来るらしいから、会ってみてはどうだろうか。
やる・やらないの結論を出すのは、それからでも遅くはないと思う」
「……わかったよ。とりあえず日曜、話だけでも聞いてあげる」
聞かせて、ではなく、聞いて『あげる』。
それは彼女の、精一杯の、強がりだ。
・・・・・・・・・・・・
数日後、日曜。
凛は、名刺に記載のあった場所へと赴いていた。
飯田橋駅から歩いて五分ほど、煩くはないが静かでもないエリア。
幅の狭い道を入った処にある、茶色いタイル張りの古そうなビル。
そのくたびれた建物は、決して廃墟なわけではないが、芸能事務所と云うイメージにはほど遠い。
ビル入口に据えられた電灯のプラスチックカバーが、日に焼けて黄色く変色している。
「ここの三階みたいだけど……なんか胡散臭そうな場所だね……」
再度名刺の住所を確認するが、目の前の古ビルで間違っていない。
――これ、本当に大丈夫なのかな……
折角の決心が揺らぎそうになりながらも、
凛は、シャッターが閉められた一階店舗のすぐ横、コンクリートの階段に足を掛けた。
そこへ、比較的高めの声が、彼女を呼び止めるように響く。
「あのー、すみません、CGプロの方……ですか?」
「ん?」
凛が声のした方を向くと、そこには緩くウェーブの掛かった長い髪の女の子が、柔和な笑みを湛えて立っていた。
ベージュのブレザーに赤茶色のチェックスカートは、彼女の制服だろうか。
まさに、『可愛い―キュート―』を体現した子だね――凛は、そんな感想を得た。
自分には無いものを持っているその子に、何故か少し嫉妬する。
対して、その少女は、我方を振り返った凛を見て、口を半開きにさせ放心気味で呟いた。
「うわぁ……綺っ麗~……」
期せずして発したであろう、その言葉が凛の耳に入り、少し眉をひそめた。
それは、気恥ずかしさによるものだったのだが、少女にはそう映らなかったらしい。
はっ、と云う顔をして、慌てて謝ってきた。
「あ、ご、ごめんなさい! いきなり、し、失礼なことを……」
腰を直角に折り曲げるくらいまで、勢い良く何度も頭を下げる。
これには凛も面喰らった。
「あ、いや、ちょっと照れただけ。怒ってるわけじゃないから気にしないで。私、よく勘違いされるんだ」
バツの悪い顔で両手を振り、そう弁解すると、ようやく少女は頭の上下動を止めた。
「で、貴女もCGプロに用?」
恐縮そうにしたままの少女は、その言葉におそるおそる顔を挙げた。
「えっと……一応……そうです」
――あのPとかいう人の云っていた『私以外のアイドル候補生の子』なんだね、きっと。
これは、怖い女と云うファーストインプレッションを与えてしまったかも知れない。
凛は、心の中でだけ苦い顔をした。
はぁ、と小さい溜息を吐きそうになって、すんでのところで押し止める。
そんなことをしたら、『やっぱり怒ってる』と思われて、今度は土下座までされてしまいそうだ。
「あ、あのー……何か……?」
黙り込んだ凛へ、少女は不安そうに、窺うような面持ちで尋ねてきた。
「ううん、何でもない。私もCGプロに用事があるから、ひとまず行こ? ここで突っ立ってても仕方ないし」
凛は首を少しだけ傾けて、階段を指差した。
「あ、はい!」
大きく頷いて、少女は凛の後をついて来た。
三階まで無言のまま昇ると、“CGプロダクション”と掲げられたドアが目に入る。
長年の汚れだろうか、そのアルミ扉はみすぼらしく、
嵌め込まれた磨りガラスは端が少し割れ、クラフトテープで補修されていた。
廊下の電灯は、切れているのか、はたまた節電のためなのか点いておらず、陽も入らない所為でだいぶ薄暗い。
そこは、建物の外観以上に、怪しい雰囲気が漂う場所だった。
凛は、ノックしようと腕を掲げ――そのまま、ついて来た少女に問う。
「……ねえ、私、これ、かなり胡散臭そうに思えるんだけど、大丈夫かな……?」
少女は、困ったように苦笑いをした。
「だ、大丈夫と……思いますけど…………たぶん」
あまり自信なさそうに答えるので、凛は不安を増した。
「なんか……如何わしいビデオとか撮られたり、反社会的勢力に人身売買されたりするんじゃないの、これ」
凛は腕を下ろし、少女の方を向く。
少女は、頬に両手を当てて顔を青くさせた。
「えっ……ま、まさかそんなことは……」
なまじ、真っ黒いオジサンや、正体のよく判らないPを完全には信用していない凛にとって、
この見るからにまともではなさそうな空気は、尻込みをさせるに充分だった。
さて、どうしたものか。
これで社名が『CG総業』や『CG企画』などであったら即座に踵を返すところだが……
二人、目を合わせて思案している刻、扉がギィと不気味な音を立てて、勝手に開いた。
「ヒィッ!!」
驚きのあまり、二人、抱き合って飛び跳ねる。
やがて、ドアの陰から現れたのは、黄緑色のスーツに身を包み、太い三つ編みを右肩へ下げた愛嬌のある女性。
「そんな物騒な場所じゃありませんよ」
柔らかながらも困惑した笑みを浮かべて、そう告げた。
――
「おぉ、良く来てくれたね」
内装もあまり綺麗とは云えない事務所の中を、女性の誘導で応接エリアに通されると、
真っ黒な男、CGプロ社長が笑顔で出迎えた。
しかし、凛を視認した瞬間、きょとんと目を丸くし、
「ん? 君は確か……渋谷君じゃないか! なぜここに?」
と、すぐに顔を輝かせて立ち上がった。
「こないだ、Pって人から、今日ここへ来るように云われて……」
「……ああ! P君が云っていた、“日曜に来る子”とは君だったのか! なんと奇遇なことだろう!」
――まるで、オジサンは私が来ることを知らなかったみたい。
と、凛はここまで考えて、そういえばPへ自分の名前を云っていなかったことに思い当たる。
なるほど、これでは社長にとって、この日凛が姿を現したのは青天の霹靂に違いない。
「でも、そのPさん、いないみたいだけど?」
「ああ、今日は彼は外回りをしているよ。原宿辺りに行ってるんじゃないかな」
社長が破顔して、「ささ、こっちへ坐って」とジェスチュアで促す。
対照的に、不信感満載と云った表情で、立ち尽くす女の子二人。
「ん? どうしたね?」
「いや、だって……ここ明らかに怪しい建物だしマトモそうな場所じゃないし」
凛の放言に、隣の少女はぎょっとした目を向けた。
だが否定しない辺り、ほぼ同じ気分なのであろう。
「もしかしたら、怖い人たちの事務所なのかも、と……」
「うん。そう思われても仕方ないよね」
お互いの顔を視て、大きく頷く彼女らに対し、
「いやはや、こりゃまいったね」
到底そうは思っていないように、ははは、と社長は笑った。
茶を淹れて持って来た女性が、刺々しく諌める。
「だから最初は少し苦しくても、もっと綺麗な処にした方がいいって云ったじゃないですか!」
「いやーちひろ君、そうは云うが、やはり立ち上げたばかりは色々と入り用でねぇ~!」
そして、「ままま、坐りたまえ」と再度、凛たち二人にソファを促す。
「それに“そっち系”の人の事務所は、門構えだけは綺麗にしているものなのだよ」
社長は腿の上で手を軽く組んで、それまで以上に大きく笑った。
「そんなこと、中高生くらいの女の子に判るわけないでしょう……もう」
ちひろと呼ばれた、その綺麗な女性が若干の溜息を吐きながら、凛たちの前にお茶を置く。
「あ、ありがとう……ございます」
凛が軽く、上目遣いで礼を述べると、隣の少女はちひろを見て「貴女は、先輩アイドルの方ですか?」と問うた。
「あらあら、そう云って貰えるなんてね。でも私はただのアシスタントですよ」
若干嬉しそうに、しかし苦笑いで否定する。
「そう、この事務所は立ち上げたばかりで、アイドルがまだ居ないんだ――」
社長が、ちひろの言葉に首肯を添え、
「――出来ることなら、君たちにアイドル第一号となって貰いたい」
ぐいっと身を乗り出して、目を真っ直ぐ覗き込み、そう云った。
その眼はまるで少年のように活き活きとしており、悪い企みをしているようには感じられない。
「この業界で長年やってきた、とはこないだ話したね。こうやって自分の事務所を持つのは夢だったのだよ。
ゆくゆくは、765や961にも負けないレベルにまで育て上げたいと思っている」
765も961も、業界最大手クラスのアイドル事務所。
そんなプロダクションと張り合いたいとは、スケールの大きな話だ。
しかし、このようなみすぼらしいオフィスで語っても、夢想話にしか感じられないのは、致し方なかろう。
「勿論、ここには現在誰もアイドルが所属しておらず、事務所だってボロ屋だ。
まだスタートラインにも立っていない状態だが……それでも私は、君たちに大きな可能性を感じたんだ」
凛は、熱く語る社長を、賛否の入り交じった視線で見た。
――このオジサンは、本当に熱意と夢を持っているのかも知れないけど……
対して、社長は身振り手振りがどんどん大きくなる。
「君たちを、眩いアイドルの世界、その頂点に光り輝かせたい。そして、それを見たい。
どうかな、今のこの状態じゃ笑い話に聞こえてしまうかも知れないが、ついて来てくれないかい?」
凛がどう答えたものかと思案している隣で、少女は軽く拳を握って強く宣言した。
「判りました、頑張ります!」
「……えっ、さっきあんなに怯えてたのに、そんな即答しちゃっていいの!?」
驚いた顔で隣を向くと、少女も凛の方を見て、「はい、やっぱり悪い人そうには見えません」と微笑んだ。
お人好しと云うか、世間知らずと云うべきか――
凛が、やや困惑しつつ何度も目を瞬かせていると、
「紹介を受けた事務所ですし……それに、ずっと、アイドルになりたいと思ってましたから」
そう呟いて、少女はやや恥ずかしそうに顔を伏せ、自らの組んだ指を見るように視線を下げた。
言葉の裏に秘められた、アイドルへの強い憧れを感じ取った凛は、どう受け取ればよいか迷った。
「自分もアイドルとして輝きたい」と同意する理想主義的な見方、
「夢想家だね」と冷ややかで現実主義的な見方、その両方が頭中に渦巻いているからだ。
そして、何の取り柄もない自分が、果たして、
熱意を持ったこの子と同じ立場に乗ってしまって良いのだろうかと云う逡巡も。
色々考えても埒が明かないので、ひとまず喉を潤そうと、ゆらゆらと湯気の立つお茶に手を伸ばした、その刻。
事務所入口のドアが勢い良く開けられ、バン、と大きな音が響く。
「おっはようございま~す! すいませーん総武線がちょっと遅れてて時間ギリギリになっちゃいました~♪」
およそ申し訳ないとは思っていないであろう口調で、一人の女の子が入って来た。
外側に撥ねた短めの茶髪を揺らして、大股で向かってくるその子は、
まさに『情熱―パッション―』と形容するに相応しい少女だった。
「おっ? 社長、ここにいるのがこないだ云ってた、私と同じ卵の人たち? うわー美人揃いだね~」
凛は、少女の勢いにぽかんと口を開けて絶句し、その対面で社長は「ああ、そうだよ」と答え頷く。
桃色のジャケットと橙色のスカートに身を包み、けたけたと笑う少女は、
「今日から候補生になる“予定”の本田未央っていいまーす! 15歳高一! 宜しくね!」
と、右手を真っ直ぐ挙げて破顔した。
それにつられ、凛の隣に坐る少女も、
「あ、そう云えば私たち自己紹介がまだでしたね」と、思い出したように手を叩く。
「私、島村卯月です。17歳になったばかり。宜しくお願いします!」
立ち上がり、軽いお辞儀を交えてウインクした。
「おぉ~! 歳上なんだ~? 宜しくね、しまむー!」
未央は、笑顔で握手を求めながら呼び掛けた。
不意のあだ名に、卯月はやや驚く。
「えっ? し、しまむー?」
「そ! “しまむ”ら“う”づきだから、しまむー。どお~?」
「うわぁ~、私、そんな可愛い呼び方されたの初めて! えへへー、宜しくね、未央ちゃん」
二人、両手でがっちりと握手をする。
そして未央が、卯月の肩越しに、凛を見て問うた。
「んでんで、そっちのキレーな貴女は~?」
ぼーっと二人の様子を見ていた凛は、いきなり話を振られてまごついた。
切れ長でやや吊り目がちな双眸と、への字口のまま、思考をショートさせて数秒ほど固まる。
初対面の相手からすれば、凛は近寄り難い雰囲気であろうに、未央はそれを気にする様子が微塵もない。
にこにこと元気な笑みを真っ直ぐ向けてきて、まるで明るく輝く星のようだ。
卯月も未央から凛の方へ振り返り、「教えて、教えて」と眼で語っている。
ソファに腰掛けたまま、やや引き気味に口を開いた。
「え、あ……わ、私は……渋谷、凛。……15歳。でもまだアイドルになるって決めたわけじゃ――」
「ええ!? 15歳? 大人びてて綺麗だから歳上かと思ってました!」
凛の言葉を遮り、卯月が驚いた顔でずずっと身を乗り出す。
「え、あ、ご、ごめん……」
凛は訳も判らず、ひとまず謝罪の言葉を述べた。
「それじゃあしぶりんだね! 宜しく!」
未央が右手を差し出してきたので、反射的に立ち上がって、おずおずと握り返す。
そこへ卯月も加わって、三人で手を重ね合った。
その光景を微笑ましそうに眺めていた社長が、凛に声を掛ける。
「本田未央ちゃん、島村卯月ちゃんは兎も角、渋谷凛ちゃんはまだ決めかねているようだね」
「……ごめんなさい」
凛が声の主の方を向いて、やや目を伏せると、社長は笑って手を軽く振った。
「いやいや、何も謝ることは無い。こないだも云った通り、無理強いするつもりはないのだから」
「え、しぶりんアイドルにならないの? 美人でスタイル良いのに勿体無いよー」
「そうそう。こんなに綺麗ならきっと凄いアイドルになれますって!」
社長と凛の遣り取りを聞いて、未央と卯月は共に驚く表情をした。
勿体無いと云う評価は有難いが、それ以上に凛にはこそばゆいことがあった。
「ねえ、卯月。そろそろ気楽に話してくれないかな……学年ひとつ上なんだし、敬語じゃちょっとくすぐったい」
やや照れくさい表情で云うと、卯月は、眼を少しだけ大きくする。
「あ、ごめんね、ビル前で会った時からの流れでつい。じゃあ、凛ちゃんね!」
「うん、ありがと。助かる」
アイドル云々は抜きにしても、この二人とは良い友達になれるかもね――凛は、少しだけ顔を綻ばせた。
「しぶりんは、アイドルに興味ないの?」
「うーん、正直、未知過ぎてよく判らないって云うか、おいそれと決断できる話ではないって云うか……」
未央の問いに、凛は呟くように答えた。
そこへ、社長が横から声を掛ける。
「まあそれも仕方ない話かも知れないね。新たな世界へ足を踏み出すには色々と情報や勇気が必要だ。
そこで、アイドルが普段どんなことをするのか、これからお試しレッスンと云う形でやってみないかい?」
――
どうやら、社長が提案した“体験入社”は、予め考えていたものだったらしい。
Pから伝えられていた子のために準備しておいた、とは社長の弁だ。
「まさかその子が君だとは思わなかったがね、ちょうど良かったよ」
事務所を出て歩きながら、社長は笑った。
やや大きめの通りに面した場所にあるスタジオまで、およそ10分。
そこでは、既にトレーニングスタッフが準備して待っていた。
身体を動かすとは聞かされていなかった凛たち、どのように体験するのか不思議がっていたが、
きちんとレッスンウェアが用意されている。
随分と先回りが巧い社長だ。
ハンドルの少々固い防音扉を開けると、陽の光が差し込む明るいスタジオは、広く、開放感に溢れていた。
「今日はわざわざすまんねぇ!」
三人を率いた社長がスタジオへ入るなり大きく破顔すると、
スタッフは固く握手し、「貴方のご要請とあらば他の何よりも優先して都合つけますよ」と、白い歯を見せた。
そのまま、凛たちを手招きして呼び寄せる。
「キミたちがレッスン生だな。えー――こほん、社長殿から聞いているよ。私はマスタートレーナーの青木麗だ」
その女性トレーナーは、体幹に筋の通った、ぴしっとした姿勢で笑み、
「今回は二時間ほど、普段アイドルがどんなことをやっているのか実際に体験してみよう。軽くな」
と、左手の親指を立てた。
「私は、頃合いを見てまた迎えに来るとしよう。それでは、頼んだよ!」
社長はそう云い残し、左腕を大きく振って去って行く。
年甲斐の無い大はしゃぎっぷりを見て、防音扉がガチャンと重い音を立てると同時に、
麗は「まったく、あの人は変わらないな」と苦笑とも郷愁とも取れる、短い嘆息をした。
「社長とトレーナーさんは、お知り合いなんですか?」
二人のことを不思議そうに眺めていた卯月が尋ねた。
「まあ、そんなところだな。さ、更衣室はあっちだ。その服に着替えたら、ピアノの前へ集合するように」
麗が指した小さめの部屋へ、凛たち三人は消えて行く。
「こう云うレッスンスタジオに入るのって初めて~。なんだかワクワクするな~!」
桃色のジャージを勢い良く脱ぎ、パイプ椅子の背へ放り投げた未央が、黄色いリボンタイを緩めて息を弾ませた。
「私も初めてだから、勝手があまりよく判らないな」
凛は、未央の言葉に軽く頷きつつ、カーディガンのボタンを外し開―はだ―ける。
そしてロッカーの扉を引き、その濃紺の上着を衣紋掛けに据えると、卯月が後ろから声を掛けてきた。
「大丈夫、今は私たち三人しかいないみたいだから、何も気兼ねすることはないよ」
「おろ? しまむー手慣れてるね。こう云うスタジオの経験あるの?」
その気負わない様子を見て未央が問うと、「うん、養成所に通ってたから」と卯月は答えた。
凛は、自らの背中の向こうで交わされる会話に、心の中で、なるほどね、と呟いた。
先程の、『アイドルになりたい』と云う卯月の熱意ある言葉に、合点がいったのだ。
「へぇ、卯月は経験者なんだね」
凛が碧いネクタイを右手で緩めながら振り返ると、卯月は早くもレッスンウェアに腕を通していた。
「えへへ、そんな大層なことは云えないレベルだけどね」と凛の方に顔を向けた彼女は口を開け、
「うわぁー、凛ちゃん、片手でネクタイを解く仕種がすごく“様”になるね。カッコよくて綺麗~~……。
ホワイトブラウスとの組み合わせは反則だよ」
と羨望の嘆息を長く吐く。
面と向かってはっきりと云われるのは、凛にとって、とても気恥ずかしかった。
これまでずっと、似たようなことは云われてきたが、決まって邪な色が言葉に込められていたものだ。
しかし彼女から感じられるのは、美しいものをそのまま美しいと云う、素直な溜息だった。
「あ……ありがと」
凛は顔を紅くして、慌ててロッカーの方へと身体を向け、いそいそと着替えを続けた。
更衣室から出てピアノの前に集合した三人に、麗が尋ねる。
「えーと、島村君に、渋谷君に、本田君だな。君たちはソルフェージュを触ったことはあるか?
島村君は養成所の経験があるようだから兎も角、私の記憶が正しければ、皆小学生の頃にやっているはずだが」
三人は、「はい」と大きく頷いた。
基礎的な音楽能力を養うソルフェージュは、音楽教育の初歩中の初歩。
音符や休符の種類、音の高さや音階、五線譜の記法など、義務教育課程の音楽授業でお馴染みだ。
ただし卯月以外の二人は、
「正直に云えば、あまりよく憶えてませんけど……」
「あはは~……わ、私も~」
と、凛は首を竦め、未央は右手で後頭部をぽりぽりと掻いて、付け加えた。
「はは、大丈夫。今はドレミファソラシドさえ判っていれば充分だ」
そして、「私の鳴らす音をなぞって、全身から声を出してみてくれ」と長調のフレーズを弾き始めた。
まず麗がお手本のラインを鳴らし、二回目のループで三人が併せて歌う。
軽快なテンポで、ステップを踏むようにフレーズが流れていく。
右手は軽妙かつ爽快なメロディ、左手はノリよく小刻みに揺れる伴奏。場を包む音は、ラグタイムだ。
音楽に明るくない者でも知っているであろう、The Entertainerと云う名曲。
普段のJ-POPでは歌わないような音階の飛び跳ねに、最初はおそるおそるだったが、徐々に発声をし始めた。
中でも卯月は、さすが養成所に通っているだけあって、
安定してフレーズを追随出来ており、三人の中では特に良く通る声が出ていた。
しかし凛と未央の二人は、一般人と何ら変わらない普通の女子高生。
その発声量や安定感は……云わぬが花だ。
微妙にピッチの合わない三声が、スタジオに鳴り響いた。
ピアノを弾き終わった麗に、凛がおそるおそる手を挙げて問う。
「あの……、こんな、うまく音を出せない状態でもいいんでしょうか……」
麗は「ははは、全く構わんさ」と明るく破顔した。
「なに、今は上手くやろうと気張る必要はない。リズムに乗って、喉ではなく身体から声を出してみよう。
それがとても楽しいことなのだ、と感じてくれればそれでいい。誰しも最初は初心者だ、恥ずかしがらずにな」
再び麗がピアノを弾く。今度は更に軽快でうきうきするような雰囲気が感じられた。
未央は早くも、開き直ったと云うか、遠慮せずと云うか、全身で楽しんでいるようだ。
凛も下手な羞恥心と決別し、大きな声を出す。
30分ほど身体を暖めたところで、麗が壁面鏡の前へ移動した。
「先程と同じフレーズだが、今度はピアノではなくCDから普通の曲として流すぞ。
その音楽に併せて、身体を動かすんだ。私が最初に手本の動きを見せよう」
そう云って、麗はそのとても綺麗な姿勢のまま、CDから再生される音楽に沿って、流れるように舞う。
ラグタイムで弾いていたフレーズが、今度はカントリーミュージックの潮流となって麗を動かした。
その美麗な動きに、凛や未央は勿論のこと、卯月も口を開けて惚けている。
麗は若干苦笑しつつ、「さあ、みんな一緒にやってみよう」と促す。
「渋谷君と本田君は、ダンスのテクニックとか、そんなものは今は一切意識しなくていい。
最初から巧くやろうと気張らず、見様見真似でいいから、思うままに歌い、身体を動かしてみたまえ」
三人はそれぞれの顔を一度見やってから、軽く頷いて、麗の動きに追従した。
リズムに合わせて足踏みを入れたり、腕を振ってみたり。
身体をひねり回したり、飛び跳ねたり、片足を軸に回転したり。
そのまま、様々な曲に合わせて、麗は色々な情景を、声で、身体で、表現する。
いつしか凛も、夢中で声を出し、身体を動かしていた。
――あれ、楽しいかも……これ。
目の前の鏡に写る自分が、まるで自分ではないかのような、
第三者が自らを俯瞰するかの如き気分で眺めながら、凛は爽快な感覚に身を委ねた。
およそ一時間ほど身体を動かし、クールダウンを兼ねてストレッチをしている際のこと。
ぎこちない柔軟運動をこなす凛に、麗が訊く。
「そう云えば、君は歯列矯正をしたのか?」
いきなり妙な話を振られた凛は、少しだけ驚きつつ、
「えっと、歯にずらりと銀色の器具をつけるやつですよね? それはやっていません。
親には、小さい頃から虫歯でもないのに歯医者さんへ定期的に“連行”されてますけど……」
と身体の筋をぐっと伸ばしたままの姿勢で答えた。
歯科医院独特の、あの厭な空気を、あまり歓迎しない感情が、その言葉に込められている。
「ふむ、そうか」
麗は顎に手を添えて頷いた。
そして、その様子を不思議そうに眺め眉根を寄せる凛に気付き、
「あぁいや、歯並びが綺麗な割には、矯正した歯にありがちな、“作り物”っぽさを感じないのでな。
なるほど、君のは細やかなメンテナンスの賜物と云うわけだ」
「はぁ……」
凛はきょとんとしながら上体を起こし、今度は違う側の筋を伸ばそうと逆へ身体を倒した。
「芸能人は見られるのが仕事だからな。整った歯並びと云うのは重要なんだ。
かと云って、矯正されたそれは、まるで入れ歯のような人工的な印象を与えてしまう。
その点、君の“自然な歯並びの良さ”と云うのは大きな武器となろう」
麗は腕を組んで軽く頷き、「君は恵まれているな、親御さんに感謝するんだぞ」と笑った。
対して凛はあまり実感がないようで、いまいちピンとこない表情をしている。
「はぁ、そう云うもの……ですかね?」
「そう云うものさ。私は、昔それでちょっと苦労したからね」
親心子不知――凛がそれを理解するには、まだまだ時間を要すことだろう。
丁度のタイミングで、防音扉が音を立て、社長が顔を出す。
視認した麗は、凛、卯月、未央を立たせて、レッスンの締めくくりに移った。
「さて、体験はどうだったかな。勿論今日やったことが全てではないが、多少は空気を感じて貰えたと思う。
今度は、現役アイドルをしごく教官として、また皆に逢いたいものだ。それでは今日はここまで。ご苦労様」
麗が力強く云うと、三人は「ありがとうございました!」とお辞儀をし、更衣室へと入って行った。
見届けた社長は、スタジオにスリッパの音を響かせて、麗の許へと歩み寄る。
「君の目から見て、あの子たちはどうだったかね?」
背中で手を組んで、麗の隣に並び立ち、正面の更衣室の方を見遣りながら問うた。
「正直に云えば、現時点では三人とも平均的な一般人レベルに過ぎません。島村君は多少こなれてはいますがね」
彼女も同じように、更衣室へ向いたまま答える。
「はっはっは、相変わらず厳しいねえ、麗は。――他の二人はどうだい?」
「本田君は筋肉の瞬発力、持久力、両方がありますね。動くのも好きそう。ただしだいぶ大味です。
渋谷君は……只の案山子ですな。喉のピッチが安定しませんし、体幹の保持力も弱い」
麗の辛辣な指摘に、流石の社長も少し残念そうな表情になる。
「むぅ……私はティンときたのだがねぇ……」
「ふふっ、いま私が述べているのはあくまで身体能力の話ですよ?」
そう云って、麗は社長を見、にやりと口角を上げた。
「それ以外の部分なら、あの子自身にはあまり自覚がないようですが、色々と恵まれています。
造形の整った顔や細くしなやかな脚、すらりとした長身、芯の通る声質、纏ったオーラ、強いカリスマ性……」
麗は右手の指を折りながら、凛の印象を一つずつ列挙していく。
「とかく感情表現に乏しいなど、不利な点は確かにあります。ですが、生まれ持った要素だけで判断すれば、
ただの一般人よりもスタートラインはずっと有利な位置へ設けられるでしょう」
――そして、それこそが普通の人間との決定的な差です。
麗は、再度更衣室の方を向いて表情を引き締め、強くそう云い切った。
身体能力は、無論、センスや才能も物を言うのだが、トレーニングを積んで高みへ昇ることが可能。
しかし生まれながらに左右される要素は、後からどのような修練を重ねても、会得することはできない。
社長も、その言葉にゆっくりと頷く。
そして麗は、少しだけ、間をあけて。
「なによりも――」
一度そこで息を切ると、社長と麗は、お互いの顔を見合った。
「――真っ直ぐで綺麗な眼をしている。貴方は、きっとそこに惚れ込んだ。違いますか?」
社長は何も云わないが、目を細めることで回答した。
無言の返事に、麗は肩をやや竦めながら笑い、言葉を続ける。
「本田君だって、15歳であのグラマーな体つきは大きな武器になるでしょうし、島村君の愛嬌も元気になれる。
三人それぞれ、磨けば光るものがありそうですよ」
「その言葉を聞けて、良かった。あの子たちは、きっと、輝ける」
社長は満足そうに頷いた。
「ところで、ようやく自分の事務所を立てたし、どうかな、トレーナーとして専属契約を結んでくれんかな?」
後ろで組んでいた手を解いて、今度は胸の前で腕を組み、そう問う。
麗は残念そうに首を振った。
「自分の主宰する教室がありますから、今すぐには無理です。来年度まで待ってください」
「まあ駄目元で訊いてみただけだが、やっぱりそうなるか」
要請を断られたにも拘わらず、それを全く気にしない様子で相好を崩す社長。
しかし、その笑顔の裏に若干の落胆が隠されていることを、麗は知っている。
「ですが――妹たちなら大丈夫です」
笑みを浮かべ、そう補足した。
着替えを終えた卯月たちが「お待たせしました」と出て来た。
そのまま、五人全員でスタジオのエントランスまでゆっくり歩く。
麗は、「ありがとうございました!」と深く頭を下げる三羽の雛に右手を挙げて応え、
社長とともに去って行く後ろ姿を眺めながら、ぽつり、誰の耳にも入ることのない言葉を洩らした。
――全く、プロデューサーの審美眼は相変わらず、と云ったところかな……
ふっ、あの子たちの将来が楽しみだ――
――
凛は、事務所までの道のりを歩く間、心の中の火照りに戸惑っていた。
歌うことや踊ることが――いや、違う。
より正確に云えば……自らの身体の内側から何かを放出させることが、予想以上に楽しかったからだ。
15年と半年余と云う短い人生ではあるが、それは、これまでの無味乾燥な生活では得たことのない感覚だった。
まるで、初めて玩具を買い与えて貰った幼子のような。
勿論、アイドルになるのなら、それが“仕事”と化すのだから綺麗なことばかりではなくなるだろうが――
このまま日常のループに身を置いているだけでは、この興奮を得るなど、到底出来ないだろう。
それでもやはり、『非日常』の世界へ飛び込んで行くのに必要な“勇気”を確信するまでには至っていない。
凛は、真面目な子だ。
だからこそ、何事も考え過ぎてしまう。
当然、それは生きていくのにとても重要な要素ではあるのだが。
彼女にとって、事務所までの道は、あっという間だった。
先程と同じ応接エリアへ戻りソファへ着くと、ちひろが改めてお茶を淹れてくれた。
スタジオからの道中も、事務所に入っても、社長から凛に「どうだったかな」と催促してくることはなかった。
じっくりと、凛自身に納得のいくまで考える時間を与えるため。
その間、凛の隣に坐る卯月と未央と、所属にあたって必要な書類の遣り取りなどをしている。
凛は、その気遣いを何となく察してはいた。しかし、思考は延々と巡り、出口が見えない。
一種、社長の放任さが、却って仇となっているような気がする。
そこへ、ちひろが社長の隣、凛の正面に坐った。
「ふふ、どうだった?」
にこりと笑み、尋ねてきた。
「うん、楽しかった。……けど、やっぱり色々な考えが頭の中を巡っちゃって……」
「そうね、それは当然だと思うわ。自分の、これからの生き方が大きく左右されるんだものね」
そう相槌を打って、ちひろは自らの分の茶を啜った。
茶碗をことりと置き、「どの辺が楽しかった? 歌? ダンス?」と他愛のないおしゃべりを振ってくる。
「……なんて云うか、歌とか踊りとか固有のものじゃなく、漠然とした感覚だけど……“表現すること”、かな」
明るいメロディに合わせて楽しく、哀しいメロディに合わせて情緒豊かに――
そんな、場に応じた自らの表現の仕方に、様々な種類、表情があると云うこと。
そう、麗が魅せ示した、その“存在の表現”と云う行為が、凛は気に入った。
ちひろは、目尻を下げてにこにこと穏やかに微笑んだままだ。
そんな彼女に、凛は「確かにスカウトされて光栄だし、楽しそうとも感じるけど……」と思うところを告白した。
「さっきの先生のような、綺麗な歌や凄い動きが、果たして自分に出来るのかな、とか不安が先にきちゃって」
ちひろは、その言葉に大きく頷く。
「そうね、わかるわ。私だって、同じようにスカウトされたらそう云う思考が一番に浮かぶと思うもの」
ちひろに大きく同意され、凛は少しだけホッと安堵の息を吐いた。
しかしちひろは笑みを崩さず、言葉を続ける。
「でもね、社長ってこう見えて、いい加減なことは云わない人よ。貴女を誘ったなら、相応の想いがあると思う」
「いい加減なことは云わない……」
「ええ。理由も無く無闇矢鱈にスカウトをする人ではないわ」
凛自身、それには、すぐに見当がついた。
「理由……か。確かに、オジサンにも、そしてPって人にも、同じような理由を掲げられたよ」
「同じ理由?」
「……眼、だってさ」
「なるほど。Pさんも、新人の割には、ちゃんと見てるのね」
うふふ、と肩を揺らし、
「二人とも――特に社長はとても変な人だけど、直感は意外と凄いのよ」
ちひろの好き勝手な云い種に、隣で書類の説明をしていた社長は思わず苦笑いを浮かべ、
「はっはっは、随分云ってくれるねぇ、ちひろ君」
と後頭部を掻きながら、新たな書類を取り出すためだろうか、自らの執務机へと歩いて行く。
そんな社長へ凛が視線を向けていると、ふと、彼の机に飾られた何気ない写真立てが目に留まった。
そこには、少しだけ若く見える社長と、手に大きなトロフィーを持つ綺麗な女の子がツーショットで写っている。
どこかで見たような……
と、考える時間も必要ないくらい、答えはすぐに浮かんで来た。
何故なら、ついさっき手ほどきを受けた青木麗その人だったからだ。
先刻と同じように長い髪をアップに結い、きらびやかな衣装に包まれ、泪を流しながら笑っている。
その姿は、とても――とても美しかった。
「ねぇ、オジサン、それって……」
凛は、無意識のうちに社長へ声を掛けていた。
ん? と、その呼び掛けに凛の方を向いた社長は、彼女の視線を追って再度自らの手許へ目を落とし、
机上で控えめな輝きを見せるフォトフレームに、合点の行く顔をした。
「あぁ、これか。君は視力がいいな、よく気付いたね」
そう云い、写真を凛のところへ持ってくる。
「察しの通り、彼女は私がかつてプロデュースしていたアイドルだよ。これはIUで優勝したときの記念写真だ」
「えぇっ!? さっきのレッスンの先生、IUで優勝してたんですか!?」
凛との会話を耳にした卯月がそう叫んで、すっ飛びそうな勢いで立ち上がり、写真を覗き込んだ。
未央も、あまりの驚きに、呆けた顔をしている。
IU――アイドルアルティメイトは、年に一度、真のトップアイドルを決めるオーディション番組だ。
その存在は国民的関心事と云って過言ではない。
「IU優勝者に気付かないなんて……私どれだけ疎いんだろう……」
凛が頭を抱えてそう呟くと、対照的に社長はあっけらかんとして、手をひらひら振った。
「それは仕方ないよ。彼女が引退したのはもう八年も前になるからね、君は小学校に上がろうかって頃だろう?
当時人気だったアイドルのことなんか判らないだろうさ。後々、座学として資料に触れることはあってもね」
子供がアイドルや芸能に興味を持ち始めるのは、大抵は小学校高学年から中学生の頃だろう。
凛にとって、初めて意識したアイドルは天海春香だ。
彼女のデビューは六年前。
事前情報なしでは、かつてのトップアイドルとは云え、八年前に去った麗を知らないのも、致し方あるまい。
だが、アイドルとしてスカウトされたにも拘わらず、それに気付かなかったことに、ショックを隠せない。
それは同時に、「このオジサンって、アシスタントさんの云う通り本当に“出来る”人だったんだね……」と、
認識を改めるきっかけともなった。
――そんな人が、私のことをスカウトしてくれた――
――同時に二人の人が、私の同じ部分から何かを感じてくれた――
ならば。
無変化なつまらない日常を脱する、またとないチャンス。
たとえ、その先が茨の道であっても。
無味乾燥な日常を繰り返すより、ずっとマシだ。
「ねえ、オジサン。…………ううん、“社長”」
凛は、目の前の、微笑む黒い男を眼力鋭く見詰め、強く告げる。
「……私、やります」
その言葉を聞いた卯月と未央が、顔を大きく綻ばせ、凛に抱きついた。
・・・・・・・・・・・・
世の中は実につまらないもので、閉塞感と不安感に満ち満ちている。
リーマンショックから二年半が経ち、日本経済にようやく底を打った兆しが見えたところで今度は大震災。
まったく、天は我々に恨みでもあるのだろうか?
テレビを点ければ、目に入るのは公共広告機構のCMばかり。歌のフレーズを否が応でも憶えてしまうほどだ。
経済の疲弊、覇権主義を隠そうともしない隣国、自然災害、対応が極めてお粗末な内閣と後手々々に回る政府――
巷のあらゆる人間にとって、先行きの全く見えない時代に突入していた。
もうまもなく年度が変わり、新しい一年が始まろうかという平日の午後。
銀座の老舗カフェで独り、喫茶する男にとっても、それは同じことだった。
こんな時勢になるならば、社会の歯車でいるのではなく、夢を追っていても大差なかったのではないか?
震災からおよそ半月、年度末の今日まで、ずっと同じ問いが頭を巡っている。
カラン、と音がして店の扉が開いた。
ここは銀座の本通りから一本裏路地に入ったところ。
メニューにコーヒーしか載っていない、知る人ぞ知る名店だ。
しかしその秘密度が高過ぎて、大勢の客で埋まることは稀。
木の温もりに溢れた、昭和の薫りを色濃く残す店内に誰か来客が在ればすぐに判る、こぢんまりとした場所だ。
扉を開けて入って来たのは、初老の男だった。
常連と云えるほど通っているわけではないので、見知らぬ顔だったとしても驚かない。
しかしその態は真っ黒と云う些か奇妙なもので、それを半ば不躾な視線で凝視する若い男に、初老の男が気付く。
そして若干の驚きを得たように跳ねた。
そのまま、大股の早歩きで若い男の眼前まで寄ると、いきなり名刺を出して云う。
「――ティンときたよ」
――
「……アイドルプロダクション、ですか」
一瞬で店内は商談室の如き様相を呈した。
客はこの二人以外にいないのでさほど問題はなかろうが、少し落ち着かない。
もうまもなく御年百歳になろうかと云う元気な老店主が、カウンター内に腰掛けて穏やかな笑みを浮かべている。
名刺を眺めつつ問う若い男に、初老の男は大きく頷いた。
「そうだ、君……いや失礼。えー、あなたを見て――」
「Pです、私の名は」
初老の男が、どう呼ぶべきか一瞬迷ったようだったので、若い男――Pは懐に腕を入れながら名乗った。
そして、左の内胸から名刺を取り出し、渡す。
「Pさんか。ありがとう。……おお、伝通―デンツー―に勤務とは、いつもお世話になっていた処です」
そう云って初老の男が頭を軽く下げたので、Pもついつい返礼する。
「――でね、今さっきPさんを見て、ティンときたので、是非我が社にお誘いしたいのです」
机の上に指を組んで、初老の男が笑った。
Pは貰った名刺に再び視線を落とし、訝しむ様子で問う。
「これは、私をアイドルに、と云うことなのですか? 正直、自分はしがないサラリーマンでしかないのですが」
「ああいやいや、これはまたまた失礼。あなたをアイドルではなくプロデューサーとしてお迎えしたいのですよ。
我が社にはまだプロデューサーがおりませんでな」
その言葉にPは眉をひそめた。
アイドルプロダクションなのに担当者がいないとは。
そもそもプロデューサーと云うものは、制作の現場やマネージメント、ディレクション等を経て到達する地位だ。
制作だけでなく、“製作”、つまりライン全体を管理し、労使の橋渡しもする、実務側に於いては最高位。
齢二十三の人間にとって雲の上の存在と云える。
そのような役職に、こんな若造を、いきなり諸々すっ飛ばして据えてしまおうだなんて。
俄には信じがたいものであった。
Pの表情からその疑問を察するかのように、
「我が社は設立したてでしてな、まだスタッフが社長の私と事務兼アシスタントの二人しかおりません――」
と、自らを社長と称する初老の男は言葉を添えた。
「――つまり、『プロデューサー』とは呼ぶものの、実際のところはアイドルのプロデュースの他、
日程管理から引率含め、諸々の庶務を全て一手に引き受ける“アイドルの半身”として招きたいのです」
「……アイドルの半身、ですか」
「左様です。規模の大きなプロダクションならマネージャー、ディレクターなど階層構造を採るのですがね」
そこで一旦言葉を区切り、男は薫り高いコーヒーに口を付けた。
ゆっくりと呑んで、芳醇な味わいを楽しんでから、
「私が社長兼プロデューサーとして動くことも可能です。しかし、いつかは世代交代が到来するのは必定。
それに半身として二人三脚で動くなら、アイドルと歳が近い方が何かとやりやすいことも多い」
カチャリと微かにカップを置く音を纏わせ、スカウトの真意を説明した。
Pは顎に手を添え、少し視線を落とす。
「なるほど、仰りたいことは判りました。しかし私にも生活や社会人としての立場があります。
貴方のプロダクションは判らないことが実に多い」
CGプロと云う名は、広告代理店、つまり芸能と縁の深い業種にいる彼でさえ聞いたことがないのだ。
勿論、それは設立したてなら仕方ないことであろうが、そもそも目の前の男が何者なのか。
出会ったばかりの男の云う会社が本当にアイドルプロダクションとしてやっていけるのか。
話を受けるにせよ受けないにせよ、Pには不確定要素が多過ぎた。
「Pさんの仰ることは、尤もです――」
男は、眼を閉じて深く頷いた。
そしてもう一口、今度は先程よりも多めにコーヒーを呑んでから。
「――私が青木麗のプロデュースをしていた、と申せば幾分かは判って頂けますかな?」
「青木……麗……!?」
やんわりと放たれた言葉に、驚愕して目を見開く。
彼女は、Pの中高時代に活躍していたアイドルだ。
つまり、彼の青春期に於ける異性の象徴と云って良い。
学校のクラスで、アイドル青木麗が話題に上らぬ日などなかった。
Pが小学校三年生の頃、伝説のアイドル、日高舞が引退した。
彼自身にはその頃のテレビの記憶はほとんど無いが――だいぶ世間を騒がせたことは微かに覚えている。
その舞と入れ替わるようにして業界を牽引したのが、麗だ。
舞がセンスで一点突破する重戦車なら、麗はスキルに裏打ちされた巧みな技術力と機能美を魅せる戦闘機。
“本物を知る人”に受けの良い、技巧派アイドルだった。
確かに舞の引退後、アイドル界は暗黒期に入ったと云われている。
しかし。
麗がいなければ、現在のアイドルシーンは、粗製濫造が跋扈する、より悲惨な状況となっていたことだろう。
その意味で云えば、彼女は業界の救世主―メシア―であった。
固まったままのPの目の前に、そっと、写真が差し出される。
そこには――
少しだけ若く見える目の前の男と、手に大きなトロフィーを持つ綺麗な女の子がツーショットで写っていた。
長い髪をアップに結い、きらびやかな衣装に包まれ、泪を流しながら笑っている青木麗。
史上稀に見る混戦となったIUを制した時の様子だ。
『ポスト日高舞』を狙って激しく争われた年。
それは、麗がトップアイドルとして君臨する橋頭堡となった。
群雄割拠の中、麗が制覇できたのは、彼女自身の力の他にも、指導する者のアシストも大きかったと云われる。
その“青木麗を牽引していた者”が、いま目の前にいる、奇妙な態の男……
「……業務の引き継ぎ等があります。一箇月ほど待ってください」
眼力鋭い表情のPはようやく、その一言だけ絞り出す。
微笑む男と、身を固くするP。
二人を、老店主が淹れる、新しい一杯の豊かな薫りが包み込んだ。
・・・・・・・・・・・・
凛がアイドルになることを決心してからおよそ一週間。
ここのところ、五月晴れの心地よい天気、それでいてさほど気温は上がらず、過ごしやすい日が続いている。
彼女は、モノレールの橋脚が規則的な影を作っている道を独り、早足で下校していた。
茶色いレザーのスクールバッグを肩に廻しながら、上空に横たわる飛行機雲を視る。
歩いても歩いても、いつまでも縮まる気配のない距離が、不思議な感覚だ。
その青と白のコントラストは、作られてから時間が経ったようで、境目が曖昧になりつつあった。
凛は、ふと、自身の変化に気付く。
――そう云えば、空を見上げることなんて、最近あったかな。
印象的な空を最後に見たのはいつだっただろうか。
一箇月前か、はたまた一年前か。少なくとも、詳細な期間を云えないほどには昔のことらしい。
じきに、一筋の白線が描かれているカンバスは、高いビルによって遮られていく。
いつの間にやら、ターミナル駅近くまで来ていたのだ。周りを取り巻く人の密度は、加速度的に高まっている。
ついさっき学校を出たばかりではなかったか? まるで、数分のタイムリープをしたかのよう。
ぼんやり余所見をしていては、ぶつかってしまう。前を向こう。
すらりと長い脚を前へ出す度に髪がなびき、その陰でひっそりと咲くピアスが顔を覘かせる。
やや傾いた西日に照らされ、左の耳たぶがキラキラと光った。
あの日のレッスンのあとの行動は早かった。
社長はすぐさま書類を作成し、凛とともに両親の許へ。
驚きのあまりあんぐりと口を開ける父親、そして「あらあらまぁまぁ」と笑う母親を必死で説得した。
娘がどこかへ出掛けたと思ったら、帰ってくるなりアイドルになると云い出した――
これで仰天しない親などいるものか。
結局、青木麗と云う有名な実績のある社長の、小一時間に亘る熱い説得に、無事了承を得られた。
凛の両親はそこまで堅物ではないとは云え、一度の訪問で了解を取り付ける社長の話術は不思議なものだ。
もしかしたらそれは、仮にアイドルとして上手くいかなくても、花屋と云う家業の道もあることが、
挑戦的な行動を一般の家庭よりも聴―ゆる―す土台を醸成していたのかも知れない。
さておき。
アイドル“候補生”としての一歩を踏み出した凛は、あれから毎日、放課後は体力作りにジムへ通っている。
当然ながら、「やります」と云ってすぐにデビューできるほどアイドルの世界は甘くない。
まずは一にも二にも基礎固めだ。
スタジオでのレッスンではなく、事務所に近い単なるトレーニングジムなので全てセルフ。
なのに肝腎の指示の方は、簡潔な参考資料を社長に渡されただけだった。
スタミナ作りだから内容は普遍的なもので良いとは云え、その放任ぶりは凛の方が苦笑するほどだ。
例の日曜日、三人が本格的に所属するとなったとき、社長は
「私は関係各所を飛び回るのに忙しくてねぇ! すまんがしばらくは各自で体力作りをしてくれたまえ!」
と豪快に笑っていた。
その言葉通り、挨拶回りなどのために全国を行脚しているようで、この一週間はほとんど社長の姿を見ていない。
もう一人、凛をスカウトした片割れであるPも、社長と別行動で各地を巡っているそうだ。
こちらは社長よりご無沙汰で、渋谷での一件から一度も顔を合わせていない。
必要な事務処理や連絡事項等は、全てちひろから伝えられている。
今日は一体どこを飛び回ってるんだろうね――凛はつらつらと思いながら、中央線に揺られている。
席へ坐った膝上には、復習を兼ねた、中間考査対策の暗記カードと問題集。
この時間の上り列車、快速東京行は空いていて、30分余の“通勤”中、勉強をするには丁度良い。
トレーニング後はへとへとになり、家へ帰っても学習どころではなくなってしまうので、この時間は貴重だ。
試験範囲の重要なキーワードや式など書き込んだカードを、一枚そしてまた一枚と捲っていく。
高校に入って初めての定期考査だから、まずは腕試し。そこまで難しい内容ではない。
しかし集中していると、刻が経つのはあっという間。
気付けば、電車は新宿を既に発ち、千駄ヶ谷を通過しようかというところだった。
窓の外では、首都高速4号を並走する自動車が列車に追い抜かれ、ゆっくりと後方へ見えなくなっていく。
飯田橋には橙色の中央線は停まらない。手前の駅で黄色い総武線への乗り換えが必要だ。
凛は「ふぅ」と軽く息を吐き、カードと本をパタンと閉じた。
四ツ谷で降りる為に、スクールバッグを肩へ掛けて立ち上がる。
この面倒な乗り換えにも、一週間通い詰めてようやく慣れてきた。
――
「おはようございまーす」
みすぼらしい事務所のみすぼらしい扉を開けて挨拶すると、予期せぬ声が凛の鼓膜を揺らす。
「おお、ご苦労。ちょうどよかった、こっちまで来てくれんか」
社長が応接エリアから声を掛けた。
呼ばれた方をひょっこり覗き込むと、既に卯月と未央がソファに坐って談笑している。
凛に気付き、二人とも手を振ってきた。
「社長、今日は行脚してないんですか?」
凛が二人へ右手を挙げて挨拶しつつ、彼女らの対面に腰掛ける社長に訊くと、当の本人は大きく笑った。
「はっはっは、私だってたまには戻ってくるさ。今日はちょっと方針を固めようと思ってね」
「方針?」
鸚鵡返しに述べ、きょとんとする。
社長は大きく頷き、ソファから立ち上がった。
そして「皆揃ったから早速始めてしまおう、入ってくれ」と云って手を二回叩く。
すると、パーテーションの陰から、こないだ手ほどきを受けた青木麗によく似た女性が二人。
そしてPのほか、見たことのない男性が二人、ゆっくりと姿を現した。
「この人たちが、これから君たちの面倒を看てくれることになる」
社長がまず自らの隣に並んだ女性を掌で指すと、その二人はぺこりとお辞儀をした。
二人ともやや長い黒髪。さらに顔も似ているが、片方は一本結びを肩の前に垂らしているので見分けがつく。
「トレーナーの青木明―めい―君。そして、ルーキートレーナーの慶―けい―君だ」
社長の口から出た名前に、凛も卯月も未央もやや驚いた様子で、開いた口に手を当てた。
「そのお顔と、名前は……」
卯月がやや独言のように云うと、
「その通り。麗の妹さんだよ」
社長は笑って肯定した。
一歩前に出た明がハキハキとした口調で自己紹介する。
「はじめまして、私があなた方をレッスンさせて貰います、担当トレーナーの青木明です!」
そして面影にやや幼さのある女の子――写真として残る現役時代の麗によく似た慶もまた一歩前へ出て
「はじめまして! 姉たちに比べればまだまだ未熟なトレーナー見習いですが、精一杯頑張ります!」
とにこやかに、それでいて力強く云った。
社長は、うんうん、と頷きながら、
「麗は教室を主宰しているから、時期がくるまではこちらを付きっ切りで看て貰うことが出来ないんだ。
だから、現時点での専属トレーナーは、この二人にお願いすることとなる」
「あれっ、じゃあこないだのレッスンはー……」
未央が驚いた様子で問うと、社長は右手の人差し指を振った。
「こないだは特例中の特例だよ。私が麗にどうしても、とお願いしてね。勿論、明君、慶君とて腕は折紙付きだ」
「麗さんって、姉妹がいたんだね……そしてその人たちもトレーナーをやってる……」
ぽつり、凛が呟き、過日目に焼き付けた、麗による次元の違う動きを思い出して身を固くした。
その様子を見た明は
「そんなに身体も心もカタくならないで。大丈夫、姉ほどきつくしないですから!」
と笑う。
「……宜しくお願いします」
「宜しくお願いします! 頑張ります!」
「宜しくお願いしま~す♪」
凛たち三人がそれぞれ深く礼をすると、社長が明・慶姉妹の後ろに立つ者たちの紹介に移った。
「そしてこっちの男性諸君が、P君、銅―あかがね―君、鏷―あらがね―君だ」
名前を呼ばれた男三人は、それぞれ会釈をする。
その彼らに対して、凛は、どのように反応すれば良いか迷った。
Pのことは知っているからまだしも、その他の二人は矢鱈とガタイのよいムチムチだったり、
はたまたスキンヘッドにサングラスという出で立ちだったりしたからだ。
堅気な人間には、到底見えない。
幾分妙な空気の中、驚きを隠し切れない声が響いた。
「あ、あぁ~~っ!?」
未央が、鏷と呼ばれたスキンヘッドの男を指差して、口をあんぐり開けていた。
「よう。まさかここで会うとはな」
強面の口元を歪めて、その男は笑う。
「え、未央、この人いったい誰……?」
凛が声のトーンをやや落として耳打ちするように問うと、
「いや~、私がオーディションを受けた日に、走っててぶつかりそうになったんだよね」
「あれから『オーディション会場』って掲げられた建物にダッシュしていくのが見えたから、
あ、こりゃだめだな、と思ったもんだが、まさか受かってるとはな。
更には俺が誘いを受けて入った会社に所属してるときた」
くつくつと肩を揺らす鏷に、未央は口を膨らませることで抗議した。
その隣では、卯月が大きな体格の銅を見て、
「あれっ? あなたはこないだの……」
「あら、やっぱりあの日のコ? いやーあの刻は携帯の電池切れちゃってたから助かったわ~。アリガトね」
こちらもお互いを知っているような素振りだ。
凛は状況を余り掴めていないように、二人の様子を見ながら何度も瞬きをする。
社長も、まさか面識が――たとえ僅少とは云え――あるとは思いもしなかったのであろう、面喰らった様子だ。
コホン、と一度咳払いをし、凛、卯月、未央の顔を順に見て、
「この三人に、君らのプロデューサーを務めてもらうよ」
と、一番近くにいたPの肩を叩く。
「あ、私たちのこと、社長が直々にプロデュースするわけではないんですね」
「経営者ともなるとやらねばならないことが増えてしまってね。私としては前線に立っていたいとは思うのだが」
凛の、やや驚きを込めた呟きに、社長は複雑そうな表情をして目尻を下げた。
「それに業界には新陳代謝も必要だから、歳を取った私ではなく若い者同士で切磋琢磨して貰うのも良いだろう」
腕を組んで、一人、納得したようにうんうん、と頷く。
「その様子では、誰が誰を担当するか、今更相談する必要もなさそうだねぇ! はっはっは!」
じゃあ後は当人たちで宜しく、と笑って社長は執務机へと戻っていった。
Pはそれを横目で見送ってから、凛の前まで歩み寄る。
「どうやら俺が君のプロデュースを担当するようだ。初めての経験だが、二人力を合わせていこう。宜しくな」
先日渋谷で会った刻とは違う、爽やかに着飾ろうとする云い様に、凛はやや呆れた様子。
「ふーん、アンタが私のプロデューサー? ……まあ、悪くないかな」
大胆不敵な第一声に、Pは虚を突かれたように首を竦める。
「おいおいそりゃ随分な云い種だな、まったく、この――」
やれやれ、と云う顔をして小さな抗議をするが、ふと何かに気付いて言葉を止めた。
「……そういえば俺、君の名前をまだ聞いてなかったんだ」
街でスカウトをしてから既に二週間弱も経つのに。
Pは、ここで初めて、目の前の美しい少女の名を知ることとなった。
「私は渋谷凛。今日からよろしくね」
それは、変に愛嬌を振りまくこともなく、気取ることもない、端麗―クール―な名乗り。
「渋谷凛……いい響きだな。俺の名前は――って、これは今更云う必要ないか。宜しくな、渋谷さん」
「凛、でいいよ。苗字にさん付けは、なんか落ち着かない」
相変わらず、何を考えているのかよく判らない無愛想な表情で、右手を差し出してきた。
勿論、何かをねだる仕種ではない。
凛の方から握手を求めてくるなど、Pは意外に思ったのか、目を少しだけ大きくした。
そうだ、これから二人三脚をする相手ではないか。
凛の華奢な手と、掌が触れる。
ゆっくりと柔らかに、それでいて力強く握り合った。
――
「さて、ではそろそろスタジオへ向かいましょうか。プロデューサーの皆さんも、一緒についてきてください」
明が、頃合いを見計らって告げた。
今日はこのまま、過日、麗の手ほどきを受けたのと同じ貸しスタジオで初レッスンとなるらしい。
通常、スタジオへはレッスンを受ける者のみが向かう。
しかし今日は初回だ、各アイドルの身体能力など、プロデューサーが知っておかなくてはならないこともある。
アイドル・トレーナー陣だけでなく、社長も含め、ちひろ以外の全員ご一行様で出発だ。
大所帯でぞろぞろと移動するさまは一種異様で、対向の歩行者がそそくさと道を譲るほどだった。
社長はじめ奇妙な態をした男どもが先頭で風を切っているのだ、然もありなむ。
凛は少々の申し訳なさを感じつつ、身を縮こまらせながら歩く。
ほどなくしてスタジオへ到着すると、社長以下男性陣は、打ち合わせと称して別の部屋へ入って行った。
凛たちは先日と同様、更衣室で着替え、鏡張りの壁の前で、明・慶と正対する。
「この間は姉、麗による“体験”でしたが、今回からは正式なレッスンです。張り切っていきましょう」
一歩前に出た明が、先刻までとはまるで違う雰囲気を纏って、云った。
姉譲りの、ピンと張り詰めた声音と、力の宿った視線――
そこは、一瞬で“戦場”へと様変わりした。
レッスンを受ける三人は、身を強張らせる。
養成所で慣れているはずの卯月でさえ、そうなのだ。
経験の乏しい凛や未央は、まるで猛禽類に狙われた兎に等しかった。
本日のメニューは、ダンス。
柔軟運動ののち、基礎のステップ、また同じく基礎のスタイルポジションの講義を受け、いざ実践へと移ると――
それはまさしく、予想とは遥かに次元の違う厳しさだった。
凛は花屋と云う水仕事の関係上、重い物を持つことは日常茶飯事。
だから、腕力に関してだけ云えば、巷の女子よりはついているはずだと思う。
それに、わずか一週間とはいえ集中的に体力作りをこなしてきたこともあって、幾分か自信があった。
この年頃の者にとって、一週間の集中と云うものは意外と大きい。
実際、持久力や筋力が、わずかではあるが、実感できるくらいには伸びていた。
朝、通学電車へ乗り遅れそうになって駅の階段をダッシュしても息切れしにくくなったし、
家業の店頭では、商品の生花プラントを、持ち上げやすくなった。
……にも拘わらず、いざレッスンの蓋を開けてみれば、既定の通りに身体を動かすことさえままならない。
まるで錆び付いたブリキ人形であるかのような、ぎこちない動作だ。
どのように筋肉を使えば良いのか、皆目見当がつかなかった。
ダンスとは、見た目以上に過酷な運動である。
数十キロある人間の体躯を、或る刻は飛び跳ねさせ、また或る刻は不安定な姿勢のまま支える。
そしてあらゆる動作の開始と終了時には、慣性の法則に真正面から抗う必要があるのだ。
大腿やふくらはぎ、足首、そして腹筋と背筋。
普段あまり使わない場所が、一瞬にして乳酸を大量に放出した。
一週間の準備など、まさに焼け石に水の如く、全身が悲鳴を上げる。
「はいそこで脚を引きながら腕をピタっと止めます! 未央ちゃんは力を入れ過ぎて反動が大きいですよ!
凛ちゃんは逆に流れちゃってて足許も疎かです!」
明が全体を眺めて指示を出し、慶は凛の身体に手を添えて「右脚はここに持って来て」とガイドする。
レッスンを始めてから寸刻、凛の肌やレッスンウェアは、大量の汗で濡れてしまった。
明も慶も、運動量は凛たちとほぼ変わらないはずだが、何事もなかったかのようにケロリとしている。
さらに卯月と未央へ目を向けても同様であった。
卯月は養成所での経験によるものだろうし、
一方、凛と同じ素人であるはずの未央は、技術はともかくスタミナがかなり有るらしい。
凛は驚愕した。
自分はもう腕や脚に力を入れることすらままならないのに。
肺の求めに応じて息を大きく吸い込むことしか出来ないのに。
慶だって、はたまた卯月や未央だって華奢な体躯をしているのに。
彼女らの中には、一体どれほどの力が潜んでいるのだろうか。
凛は、自らの身体だけが粘度の高い泥沼にいるかのような錯覚に陥り、動揺を隠せない。
「はい! じゃあ少し休憩しましょう」
数十分ほどののち、明がパン、と手を叩いて云う。
その言葉に、たちまち凛は壁面鏡の手摺へともたれ掛かってしまった。
細く長い手足が、力なく投げ出され、垂れ下がる。
「凛ちゃん、大丈夫?」
凛の白旗ぶりに、卯月が覗き込んで問うた。
彼女の肩も相応の上下動をしているが、凛ほどではない。
「よ、予想、以上の……運動量、だね、これ……」
酸素を多く求める呼吸の合間に、短く切った言葉で卯月に答えた。
明も傍に寄り、
「凛ちゃん、辛かったらいつでも休んで構いませんからね」
と云いながらタオルを差し出してくる。
凛はもはや言葉では答えられずに、軽く二三度頷いて、荒い息に上体を揺らしながら、緩慢な動作で受け取った。
額から流れ落ちる汗が目に入ってしみるので、慌てて顔を拭う。
ぷはぁ、とタオルから顔を離すと、パタパタと云うスリッパの音を纏わせて、社長がゆっくり歩いてきた。
「大丈夫かね?」
「はい、……なんとか」
「大変そうだが、限界以上に無理はせんようにな」
その言葉に、凛は目を瞑って云う。
「はい……ちょっと甘く見てました。まさかこんなにハードなんて……でも大丈夫です」
「忍耐と無謀は別物だよ」
緩やかに社長は諭すが、凛は首を横に数度振り、
「いえ、まだいけます――」
そして瞼を勢い良く開け、社長を真っ向から見据えた。
「――卯月も未央もへっちゃらで動きをこなせているのに、私だけこのままでいるのは厭です。
私は、中途半端は嫌い。やるんだったら、全力を尽くさないと」
瞳に力を込めて、ぴしゃりと云い切る。
凛は、人一倍、負けん気が強かった。
――
数時間に亘る初レッスンをこなしたあと、凛はボロ雑巾のようになっていた。
結局、あれから凛は自分だけ上手くこなせていない基礎ステップを踏めるようになるまで、何度も指導を乞うた。
卯月や未央、果ては慶の制止を振り切ってまで懇願した。
困った明が社長に伺いを立てると、「やらせてみなさい」と云うので、それでようやく決着を見たほど。
「……いいんですか?」
Pが小声で社長に問うた時、
「勿論、これ以上やっては身体を壊すと云うところまでいきそうだったら、止めさせるよ」
腕を組んで返答する社長の目が慈愛に細くなったのを、彼女たちは知らない。
いづれにせよ、数時間かけて、凛はステップを“なんとか”踏めるようになった。
当人はまだ納得がいかないようではあったが、流石にこれ以上は悪影響があると云う社長の指示に、渋々従う。
「うひ~……ダンスがこんなきっついなんて思わなかったよ~」
三人が更衣室へ入ると、簡素な椅子に体重を預けながら未央が嘆息した。
「うん、私も養成所で受けてたレッスンとは次元が違ってびっくりしちゃった……」
卯月はレッスンウェアを脱いで、ひたすらタオルを身体に当てる。
そして、「凛ちゃん……大丈夫?」と、ベンチにへたり込んで何も云えない状態の凛を気遣った。
「な、何とか……ね……」
ミネラルウォーターを何度も呷ってから、凛は気丈に答えた。
しかしペットボトルを持つ腕は、その空になった軽い容器を持ち上げることすら叶わず――
無造作にベンチの背から垂れ下がっていた。
「卯月は兎も角……未央は初レッスンなのにバリバリ動けてて凄いね……」
やや息が整ってきた凛は、羨ましいとも悔しいとも受け取れる声音で、未央を讃えた。
当の未央は、首の辺りをタオルで拭いながら、やや目を丸くする。
「私はむしろ、しぶりんのガッツにびっくりしたよ? 普段の澄ましてる姿からは想像もつかない迫力だった」
「そりゃ……私だけ出来てなかったんだから当然でしょ」
「しぶりんはマジメだなぁ~」
未央の言葉に、凛は少しだけ目を伏せた。
そして、ふう、と一度大きく深呼吸してから、よろよろと自らのロッカーへ歩む。
「私……このままでやっていけるのかな……」
ようやくウェアの両袖から腕を抜いた凛が、独り、ロッカーの中へ小さく呟いた。
弱気の言葉がついつい口をついてしまう。
「ん? 凛ちゃんどうかした?」
「あ、ううん。何でもない」
やっとのことで着替えを終えた三人は、ゆっくりと更衣室を出た。
往きと同じ道を同じメンバーで同じように戻る。
凛たちが事務所のソファに身を沈めると、ちひろが甘くて薫りよいアイスココアを持ってきてくれた。
目の色を変えた三人はすぐさまそれに飛びつき――
一口飲むごとに、五臓六腑に染み渡るさまを実感している最中だ。
その顔はまるでヘロインを打ったかのように蕩けていた。
「あ゛~~……おいひい……」
ビールを飲んだ親父のような声で未央が唸り、凛と卯月は揃って大きく首肯を添える。
社長や男性陣はパーテーションの向こうで何かをしているようだが、今の三人にはどうでもいいことだ。
十分ほどして社長が顔を出すと、すぐにその表情を曇らせて、三人の横で茶をすする事務員に視線を向けた。
「……何か危ない薬でも混ぜたのかね?」
「とんでもない。女の子にとって、運動後の糖分は麻薬にも等しい。ただそれだけのことですよ」
ちひろは我関せずと云うかの如く、目を瞑り、しれっと淡白に返答した。
社長はこめかみをぽりぽりと掻いてから、アイドルに告げる。
「諸君、重要な話がある。そのままでいいから聞いてくれ」
オッホン、とわざとらしい咳払いを挟み、
「本日より本格的にアイドル活動を開始することとなる」
その言葉で、麻薬にノックアウトされ背もたれに沈んでいた三人は、ゆっくりと身体を起こした。
身を乗り出し、お互いを見て「いよいよだね」と頷き合う凛たち。
「ついては、それぞれのプロデュース方針を発表しよう」
――
少々時間を巻き戻し、ここはレッスンスタジオ。
男ばかり四人が詰めた部屋から、アイドルが受講しているフロアの様子を小窓で見られるようになっている。
卯月たち候補生は、疲れを隠せず、だいぶ動きが鈍い。
中でも凛は、見るからに疲労困憊であった。
「……いいんですか?」
そんな彼女らの様子を眺めている男性陣のうち、Pが顔を社長へ向けて、小声で問うた。
つい今しがた、社長が明にレッスンの継続を許可したことについてだ。
社長はPの問い掛けに、フロアをまっすぐ見据えながら腕を組んで小さく頷き、
「勿論、これ以上やっては身体を壊すと云うところまでいきそうだったら、止めさせるよ」
と、柔らかに目を細めた。
「しっかしまー、傍から見てる以上にアイドルってのは体力勝負なんだな」
パイプ椅子に浅く座り、脚を投げ出しつつ窓の向こうを見ているスキンヘッドの鏷が、感心したように呟いた。
部屋の中だと云うのにサングラスを外さない、不思議な男。
どことなく他人事な声音ではあったが、それでも彼女らの根性に舌を巻いていることだけは確かだ。
「まったくだね。百聞は何とやらと云うけど、『百見は一経験に如かず』ってことよ」
大きな体躯の銅も、右手を頬に添えて頷いた。ガタイはいいくせに、仕草は妙に女々臭い。
奇異な男二人をそっちのけに、Pは、凛へ目を奪われていた。
その『沈着―クール―』を体現した美しい少女。
今では、受講している三人の中で最も惨めに、酸素を求めている少女。
彼女の視線は少々刺々しく、かつ冷ややかなものであったが、何か、碧い瞳にまっすぐとしたものがあった。
『冷徹そうな外見とは裏腹に、内部には熱い激情を持っている』……改めてそう感じさせる何かがあった。
――あの日、渋谷で会った刻と同じだ――
しばらく無言でレッスンの様子を眺めていたが、やおら、社長が振り向いた。
「さて、プロデューサーの卵諸君。目の前に、これまたアイドルの卵の三人がいる。
今日、スタジオまで君たちを同行させたのは、担当する子の方向性を見出して欲しいからだ」
「え、今この場でですか? 唐突過ぎやしませんか」
Pが驚き、やや狼狽えた調子で問うと、「何事もティンと来るかが重要なのだよ!」と笑いが返ってくる。
「このあと事務所へ戻ったら、“プロデューサー―指導者―”として彼女たちを引っ張ってもらう。
今日は、CGプロ本格始動の記念すべき日になる」
社長は、腕を組んで、満足そうに顎を引いて云った。
プロデューサーの卵三人は、急な催促にきょとんとしながらお互いを見る。
「んまぁ、或る程度のプランは立てておかないと活動できないモンね。あの娘たちのことよく見ておかないと」
「ここで全部ガッチガチに決めるワケじゃねえもんな。確かに、どう売り出していくか、ってのは重要だ」
銅が斜に構えて窓の近くへ寄る。鏷も「よっこらせ」と腰を上げた。
Pは二人とは違い、動かず顎に手を当て、やや視線を下に向けた。
――直感を信じるなら、あの子は、磨けばきっと光るものがあるはずだが――
すぐに顔を挙げ、銅と鏷の肩越しに凛を視る。
汗だくの彼女は、自らを射抜く視線に気付いていない。
――
「プロデュースの方針、ですか」
卯月が、三人を代表する形で問うた。
「左様。無事にプロデューサーも揃ったことだしね、各々のこれからの展望を伝えておこう」
社長が頷いて、プロデューサー陣三人に続きを促した。
それじゃ、と銅が一歩前に出る。
「はいじゃあ卯月ちゃんね、アナタはもう即戦力になりそうだから、すぐに営業を始めるわ」
「そ、即戦力……」
銅の口から真っ先に出てきた言葉に、卯月は固唾を呑む。
激しいレッスンをこなして疲れている身体とは裏腹に、彼女の心は燃え上がっていた。
そうだ、このために、養成所で頑張ってきたのだ。
ずっと、ずっと憧れてきたアイドルの世界への一歩を、ついに踏み出す時がきた。
「ローカル局やケーブル局辺りから売り込んでみる。ドサ回りも多いと思うけど、地道にこなしていきましょ」
「はいっ! 島村卯月、がんばります!」
卯月は満面の笑みで、力強く宣言した。
居ても立っても居られない様子で、銅の傍に寄る。
もし彼女に尻尾が生えていたら、きっと物凄い勢いで振れているはずだ。
「ういー、んで未央、オメーは――」
銅に続いた鏷が、一旦言葉を切って、手許の用紙から視線を挙げた。
そのまま未央の全身を眺め、何度も首を縦に振る。
「――おう、やっぱいいカラダしてんな」
「うわっ、この人、エロオヤジだ!」
未央がやや引き気味に突っ込みを入れると、鏷はニヤリと口角を上げた。
「馬鹿云え。お前の身体付きはまさに“武器”なんだよ。まずそれを活かして、グラビアから突破口を開く。
ったく、中学出たばかりのクセにその凹凸は反則だろ。世間の中高生の男子猿はぜってぇ放っとかねえよ」
眼を瞑って肩を何度も揺らす。
云い方は多少――いや、かなり――卑俗だが、明確な展望や売り込み方の方針に、未央も鼻息荒い。
「やー、この未央ちゃんの可愛さが全国に知れ渡るのも、時間の問題と云うヤツですかな!?」
「それはお前次第だろうな。俺ぁ仕事は取ってくるが、その仕事で結果を出すのは俺の役目じゃねえ」
「えー、なんか凄く他人事っぽい」
頬を膨らませて抗議する未央、しかし鏷には柳に風だ。
「俺がやるべきは、お前のための仕事を、より良い条件・待遇で、より多く引っ張ってくることだからな」
腕を組んで飄々としつつも、担当アイドルのために全力を出す決意を言外に秘めている。
未央もそれを感じ取ったのか、「宜しくね、プロデューサー!」と、笑いながら鏷の上腕をこつんと叩いた。
「そして凛。君はアイドル活動はまだちょっと先だ。しばらくレッスン漬けになってもらおうと思う」
Pが、プランを記した用紙を凛に渡しながら告げた。
卯月や未央とは明らかに異なる、“育成に専念する方針”。
「息の長いアイドルになれるよう、まずは鍛え上げる方向でいこう」
「……わかった」
凛は、Pから受け取った紙に書いてある計画表を見て、ゆっくり、強く頷いた。
手許には、達成すべき目標がびっしりと書き込まれていて、自然と武者震いが起こる。
「凛はきっと輝ける。二人で、トップアイドルを目指そうな」
「ふふっ、頼んだよ、プロデューサー。ぼーっとしてたら置いてっちゃうからね?」
凛は気丈に振る舞った。
だが彼女の本音は、相応にショックだった。
そこには、卯月や未央と明確な隔たりがあったからだ。
『鍛える』――言葉としては格好良いが、その実、現時点では使い物にならない、と云うことを意味する。
無論、これまでただの一般人だった自分が、すぐにアイドルとして輝けるなどとは思っていない。
流石に自惚れてはいないつもりだ。
それでも、こうやって明確に烙印を押されるのは、辛い現実として凛を襲った。
ミーティングを終え、日がすっかり暮れた中を、凛たち三人は飯田橋駅まで歩く。
いよいよ本格活動を開始するだけあって、皆、幾分か気負っているようだ。
卯月はいつになく饒舌だったし、未央は一歩一歩に力が入っていて、まるでズンズンと音がするよう。
勿論、凛も意気込んでいる。
しかし。
――判っては、いたけれど。……結構、心に刺さるな。
駅で別れてから、凛は、悔しさに、唇を強く噛んだ。
卯月と未央は、凛とは反対方向の総武線。電車に乗ってしまえば、一人きりになれる。
本心を誰にも悟られないように、こうやって飯田橋を後にするまで耐えたのは、彼女なりのプライドだった。
・・・・・・
「凛ちゃん、かなり気合入ってたな」
鏷がソファの背もたれに体重を預けつつ、Pが凛に渡した計画表のコピーを眺めて云った。
アイドル三人が帰途に就いたのち、残ったプロデューサー陣は再び打ち合わせをしている。
「置いてっちゃうよ、か。随分と豪胆で余裕の姿勢だ」
サングラスの奥で眼を閉じて、小刻みに身体を揺らし笑っている。
――果たしてそうかな?
鏷の言葉に、社長は少し離れた執務机で、声には出さず、内心そう呟いた。
現時点で凛の本心――猛烈な悔しさに気付いているのは、この一人だけ。
しかし、社長はそれを口に出そうとはしなかった。
――もはや自分は経営者なのだ。
これまでのような――麗のほか様々なアイドルを指導していたような監督的立ち位置ではない。
新たな監督者たちを、極力干渉せずに見守るのが、社長の立場であり、役目だった。
「それにしても、随分レッスンばっかりねぇ」
口を閉じて笑う鏷の手許を、銅が覗き込む。
「見た目は既に小綺麗なんだし、グラビアとかモデルとか、そう云う方面からやってもいいんじゃないの?」
「まぁ、その考えは尤もだと思うよ」
「じゃあなんで?」
自らの指摘に頷いたPを見て、銅は不思議そうな表情をした。声音にはやや批難も込めて。
「でも、多分それだと『ちょっとカワイイ娘』の評価のままで、遠くないうちに消えるだけだと思うんだよ」
例えば、昨年一年間に発行された数多の少年誌・青年誌。
それらの巻頭などで取り上げられたアイドルやモデルのうち、記憶に残っている者はどれだけいるだろうか?
更には、数年前の誌面に載っていた女の子のうち、今でも活躍している人は一体どれだけいるか?
思いを馳せれば、現在なお表舞台に立つ子と比べて、忘れ去られ消えて行った子の方が圧倒的に多いと気付く。
「勿論、グラビアを突破口にすると云う鏷と未央ちゃんの方針に異は唱えないさ。彼女ならきっとうまくいく。
でも、その手法は、おそらく――凛では通用しないと思う」
禿―かむろ―が芸を磨いて、長く重用される太夫となるように。
ただの石ころにしか見えない原石を磨いて、光り輝くジュエリーとするように。
小手先ではなく、アイドルとしての本質を磨いてから世に放つ。
それこそが、凛が息の長いアイドルになる道だと、Pは判断していた。
つまり、凛と云う“商品”の『ブランディング』だ。
ただし、この育成方針は、彼にとって一種の賭けだった。
芸能界で通用するためには、今よりももっと鍛え上げなければいけない。
だが、あまり修練に費やしすぎると、精神力の枯渇を早期に招く。
人間、行動を続けるには、達成感を得ることが何よりも必要だ。
徹底的に鍛錬を重ねるべく、長く暗いトンネルの中を走り続けさせると、心を折ってしまいかねない。
先の展望が見えないことほど、精神を不安にさせるものはないから。
凛が花開く前に挫けてしまうか、耐え抜いて美麗な姿に羽化するか。
実に難しい舵取りとなろう。
事実、スパルタとして有名な961プロは、デビューまで漕ぎ着けられる候補生がごく僅かしかいないのだとか。
「……ま、きちんと考えてのことならいいわ。凛ちゃんのことは管轄外、部外者―アタシ―は何も云わないさ」
「すまんね。こう云っちゃ悪いが、しばらくは卯月ちゃん未央ちゃんに“養って”もらうことになりそうかもな」
レッスンや鍛錬とは、それ自体は金を生む行動ではない。
むしろ、金を消費する存在。
云うまでもなく、CGプロは設立したばかりで、資金力は貧相だ。
限られた枠組をやり繰りする必要がある中で、凛を修練に専念させるには、卯月と未央の奮闘が頼みの綱だった。
鏷が口を大きく開けて笑う。
「はっは。元々新興事務所で飛込営業バッチコイな状況だ。扶養家族が一人二人増えてもあんま変わらねえだろ」
「頼もしいな、ありがとう」
軽く頭を下げるPに、銅も肩を竦めて云う。
「設立したてで所属者は新人のみ。こんな状況じゃ、全員持ちつ持たれつでやっていかないと回っていかないわ」
「まったくだぜ。Pは元々広告代理店にいたんだよな。卯月ちゃんや未央のブランディングも助言してくれよ。
銅は卯月ちゃんの営業廻り先で、未央に合いそうなのがあったら教えてくれな」
「判ったわ。じゃあ鏷には良さげなフォトスタジオの開拓とか、やって貰うからね」
「任せとけって」
宛転と話し合いを進めるプロデューサー陣の背後を、ちひろが横切り、執務机へ歩いていく。
「まずは第一関門突破、ですね?」
社長に、湯気の立つ茶碗を差し出しながら、破顔した。
・・・・・・・・・・・・
CGプロに、記念となる初仕事が舞い込むまでは、さほど時間はかからなかった。
依頼の指名先は、卯月。
地元ケーブル局が主催する、デパートの屋上イベントへの出演だ。
何でも、ヒーローショーのヒロイン役に土壇場で欠員が発生したらしく、急遽代役を捜しているとのこと。
そこで、丁度売り込みに来ていた、日程の都合をつけやすい――つまり暇な――新人に白羽の矢が立ったのだ。
ほぼ時期を同じくして、未央も、地域の情報誌の片隅に掲載された。
イベントの観客動員数はせいぜい二桁だし、雑誌は全国流通などされず発行部数などお察しな零細。
どちらも小さな仕事ではあるが、アイドル活動の報酬として初めて金銭を得た――
この事実は、CGプロそしてアイドルたちにとって、非常に大きな意味を持った。
労働をして対価を獲得することの大変さを、身を以て知った卯月と未央。
特に卯月は、封筒に入れられた報酬を渡された瞬間、目尻に光るものを浮かべた。
その雫に込められた想いたるや、小さな頃からの憧れや積み上げた修練等、相当のものがあろう。
二人は、どんなに小さな仕事でも、どんなに世間の反応が薄くとも、全力で打ち込んだ。
一箇月弱ほども経つと、ぽつぽつと依頼が入ってくるようになった。
他方、凛は。
相変わらず、スタジオでレッスンを受ける毎日だ。
最初の頃は共に講義を受けていた卯月や未央が、最近は仕事の都合でスタジオに来られないことも何度か。
その度に、凛は独り、鏡の前で身体を動かすこととなった。
ダンス力、歌唱力、表現力。
そしてそれらを制御する背筋や腹筋と云った体幹の筋力を、ひたすらトレーニングする。
だが、それらはまだ成果には結びついていない。
例えばボーカルは、声量こそ以前より出るようにはなったが、こと安定性は一般人のカラオケと変わらないし、
ダンスは、身体の柔らかさが足りずに、まだまだぎこちない動きは解消されていない。
表現力に至っては、澄まし顔こそ美麗なれ、笑顔などは生来の無愛想ぶりが矯正される気配なし。
トレーニングを積む上で、避けて通れない“踊り場”に、凛は差し掛かっていた。
慶がPに出す報告書からも、その試練が窺えた。
成長の鈍化、翌月見通しの下方修正、今後の課題、エトセトラ。
あまり好ましくはない内容が、紙上に書き連ねられている。
そして、文末に控えめな表現で記された「アイドルとしての活動をさせてはどうか」と云う提案。
凛の集中力は素晴らしい。だからこそ折れる時は――直前まで気付かず、兆候なく折れてしまう。
仕事をすることが、一種の気分転換になるのではないか。
差し出がましい越権を謝罪する慶の言葉で、レポートは締められていた。
Pは書面を机にゆっくり置き、心の中で彼女に手を合わせた。
慶の言葉には、P自身深く頷ける。そしておそらく、明も同じことを思っているはずだ。
事務所は保育所ではない。
各アイドルに割ける予算も限られている。
CGプロが本格稼働を始めてからおおよそ一箇月。
まだ逼迫した状況ではないとはいえ、そろそろ一定の道筋を得ていなければならない頃合だ。
所属している以上は、仕事をして稼いでこなければ。――それがプロと云うもの。
さて、どうしたものか。
Pは、腕を組んで目を瞑った。
――
凛は、脳天に固い物が当たる感触で鈍く覚醒した。
まどろみが断たれたことに軽い不快感を憶えながら、ゆっくり頭を持ち上げる。
薄く目を開けると、普段、眠りから覚めた時に見えるはずの、自室の天井ではなく――
まもなく定年となる老教師が、畳んだ教科書を片手に立っていた。
そこでようやく、古文の授業中に寝てしまったのだと気付く。
きっと冊子の角――あの痛いところ――で小突かれたのだ。
はっ、と一気に意識が戻り、慌てて上体を起こす。
凛は、しまった、と顔をしかめた。
今は五限目、あと少し耐えれば放課だったのに。
その様子を見届けた先生は、特に何かを云うことはせず、咳払いをしながら教壇へと戻って行った。
教室内は、“気難し屋”が見せた珍しい光景にざわついている。
隣で涎を垂らしながら爆睡しているまゆみのことは、誰もがスルー。
教師もクラスメイトも、まゆみとはそう云うものだ、と認識していることがよくわかる。
だからこそ、真面目な凛が見せる意外な居眠りは、驚きを以て迎えられた。
「凛にしては珍しかったわね」
放課後、スクールバッグに教科書やらノートやら詰めているところへ、あづさが苦笑気味に声をかけた。
横からは、時限の終了を知らせるチャイムが響いた次の瞬間から元気になったまゆみが顔を突っ込んでくる。
「あン? 凛が何かしたのか?」
「この子、古文の授業中に寝ちゃってたのよ」
「へぇーマジか! 凛が居眠りなんて、そんな特別天然記念物並みの出来事にアタシも立ち会いたかったな!」
大きな声で、よく判らない比喩を云う。
「……まゆみの場合は人身事故で止まる中央線くらい日常茶飯事だもんね」
「あっはは、五限なんて起きてられるわけねーだろって!」
凛の拗ねたような皮肉に、ガサツな勢いで道破する本人。
「それはともかく、まさかあんたが居眠りするとか、どうしたのよ?」
あづさの問いに、鞄の中を弄―まさぐ―る手が一瞬止まる。
「うん、まぁちょっと疲れが出ただけだよ」
「運動部でもねーのにか?」
まゆみが笑いながら突っ込みを入れるので、凛は肩を少しだけ竦めた。
「まァいいや、アタシ今日は部活が早上がりだからさ、どっか寄らね? 最近遊んでねーし」
五限を丸々使ってたっぷり寝たせいか、彼女は元気が余っているようだ。
「あー……行きたいのは山々なんだけど」
凛は、竦めた肩を更に縮こまらせて、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
期待した答えが返ってこなかったまゆみは、呆れたような嘆息を漏らす。
「なーんだ今日もまた駄目なのか。こないだからずっとじゃねーの」
「そうねぇ、最近付き合い悪くなったわよね。ここ一箇月……もうそれくらいになるっけ?」
凛がCGプロへ行ったあの日から、ずっとレッスン漬けで、ほとんど遊べなくなっていた。
特に、休日ならともかく、放課後の予定を合わせることはまず無理だ。
「ごめんね、やることがたくさんあってさ」
「いや、忙しいなら別に無理強いはしねーけどよ、一体なにやってンの?」
「ん……ちょっと、色々こなさなきゃいけない用事が、ね」
凛は、少しの間を置いてから、言葉を濁した。
「ふーん、そっか」
あづさもまゆみも他人へ必要以上に干渉しないので、それ以上訊いてくることはなかったが――
凛は、彼女達に少々の申し訳なさと、自分に対するむず痒さを禁じ得なかった。
「アイドルをやっている」と答えられれば多少はマシなのだろうが、今の自分にはそんなことは云えない。
些少でも実績を作らなければ、ただの自称と変わらないのだから。
自称・アイドル。これほど滑稽な肩書もそうそう在るまい。
――
飯田橋は鉛色をした空で覆われている。
梅雨本番にしては珍しく、まだ雨模様にはなっていない。
ただしその低い天井は今にも泣きそうで、人々は降り出さないことを祈るように、早足で駆け抜けていた。
生温く湿った南風が、立て付けの悪いCGプロ事務所の窓を揺らし、決して心地よくはないBGMを奏でる。
Pは、梅雨が好きではない。
それは、所有している楽器が湿気を吸ってコンディションを保ち難いと云う個人的な理由が一番大きいが――
無論、世の中が陰気になる、この時期特有の性質も、苦手と形容するに充分な理由だ。
集中力を乱す騒音を意識からシャットアウトすべく、手許の仕事に目を凝らす。
そこへ事務所の扉がやや勢いよく開けられ、風圧で、ガラス窓が更に大きな音を立てた。
ドアの蝶番は軋んだ音を立てる猶予などなく、開け切って止まったところでようやく「キィ」と控えめに鳴く。
「おはようございます」
入ってきたのは、スクールバッグを肩へ掛けた凛。
既に夕刻であるが、芸能界の挨拶はいつでも『おはよう』だ。それはたとえ陽が落ちていようとも変わらない。
「あら、おはよう、凛ちゃん」
出入口近くで書類を捌いていたちひろが、顔を挙げて微笑む。
しかし凛が固い表情をしているので、不思議そうに首をやや傾げた。
凛は、ちひろに会釈を返しつつ、Pが書類と格闘している事務机まで、つかつかと直行する。
「ねぇ、プロデューサー。私が云うのは変かも知れないけどさ――」
矢庭に話しかけると、机の天板に右手を添えて、Pを覗き込んだ。
「私も、そろそろ何か営業をこなした方がいいんじゃない?」
Pは、視線を書類から外して凛へ向けた。
彼女の瞳はやや険しくなっている。
無作法で、無遠慮で、無愛想な、碧い宝石。
その奥に在るものを、吐き出したいのに吐き出し切れない、そんな眼。
――何かあったな。
Pは直感した。同時に、凛の方針に手を加えるべき刻が来たことも確信した。
軽く頷いて、棚から一つのファイルを取り出す。
「俺も、そろそろかなと思っていたんだ」
何枚か束ねられている紙には、中堅企業の広告モデル案件が書かれていた。
Pが、前職の先輩に相談し、伝手―つて―で回してもらったもの。
凛は、クライアントの、朧げながら記憶のある社名に身震いした。
卯月や未央がこなしている仕事は、まるで聞いたこともない企業からの依頼ばかりなのに。
新人もいいところの彼女にとっては、破格の、極めて不釣り合いな大仕事だ。
CGプロ創設以来、卯月たちが受けてきたあらゆる事例を、一気に凌駕する規模だった。
「さ、アイドル・渋谷凛の、デビューといこうか」
――
結論から云えば、仕事は失敗した。
「伝通の大嶋さんの紹介だから手間掛けて稟議―ひんぎ―を通したんだぞ!」
撮影が中断されたスタジオで、クライアントの怒号が響く中、Pはひたすらに頭を下げていた。
件のオファーは、盆の時期を見据えた甘く爽やかな飲料のイメージモデル。
しかし凛は、発注の意向に添えない、ぎくしゃくした表情や仕種しか出せなかった。
日頃のトレーニングでは、ビジュアルレッスンの項目で様々な感情の表現を練習してはいるのだが――
こと笑顔に関しては、そこですら満足にこなせないのだ、急に仕事でやろうとしたところで結果は云わずもがな。
この日の彼女は、『爽やかさ』『爽快感』とはおよそ懸け離れた体たらくだった。
長く見積もっても二時間あれば余裕と思われたスケジュールも、軽くその三倍は既に消費している。
五回の休憩を挟んで尚、満足な成果はおろか及第点の収穫すら得られないことに、担当者は堪忍袋の緒が切れた。
新人を採用するのは、上司の説得など様々なハードルがある。
ただでさえ起用に不安のある新興事務所なのだ、その稟議は提出と差戻しの相当なやり合いがあったに違いない。
だと云うのにこの惨憺たる有様では、クライアントの怒りは尤もなことだった。
結局、撮影スタジオを押さえられる時間の限界がきて、この話はご破算。
「だから私は愛想よく振る舞えないって云ったでしょ!」
「そんなこと云われたって、まさかここまでとは思わないだろ!」
夏至に近い日にあって、夜の帳が下りた道を、Pと凛は口論しながら歩く。
無論、凛は開き直っているわけではなく、自らの歯痒さ恥ずかしさゆえに声を荒げてしまっているのだが。
Pはそれに気付かず、言葉の応酬は激しさを増すばかりだ。
やれ先輩の顔に泥を塗った、やれ前途が気がかりだ、やれ事務所の悪評が広がってしまう、エトセトラ。
ここが往来の多い道ではないのは、不幸中の幸いだろう。
社会人として、他人の面目を潰すのは最も重い行為だ。Pが語気を強めるのも、これまた無理のないこと。
しかし。
「だいたい笑顔くらい作れるもんじゃないのか普通は!」
大仰な身振りで詰問するPの言葉に、凛は目を見開いて歩みを止めた。
「普通って何、普通って!? 私にとっては……この自分が普通なのに……!」
拳を握って、身体を震わせる。
確かに、Pが社長から渡された彼女に関する書類の注記欄には、無愛想を考慮すべきこととして挙げられていた。
「笑顔は大事って判ってるし、トレーナーさんにも色々と訊いてるんだよ……」
この課題は凛自身が最も痛感しているのだろう。だんだんと言葉尻が弱くなっていった。
慶からの報告書にも言及されていた部分だ。Pはその点を真剣に思案すべきだった。
これは、全く以てPの落ち度と云わざるを得ない。
凛の覇気が急速にしぼんだことで、Pはやや冷静さを取り戻した。
そしてようやく、目の前で弱々しい瞳が揺れている事実に気付いた。
アイドルは偶像で、商品であることに疑いの余地はあるまい。
しかし、だからといって工業製品ではない。きちんと感情のある人間なのだ。
「……汐留に行ってくる。先輩に頭を下げてこないと」
既に伝通の大嶋の許には、クライアントからのクレームが入っている筈だ。
過ぎたことは覆せない。一刻も早く詫びを入れること、それがPの今すべき行動だった。
Pのボルテージが下がり、凛も自分のしでかしたことを認識しつつある。
「……私も行く」
「いや、凛はもう帰ってゆっくりしとけ。明日もレッスンあるしな」
「そうはいかないでしょ。台無しにした張本人なんだよ、私」
「誰がやらかしたかに関係なく、腹を括るのが俺の役目だ。そのことを、まさに今、自覚した」
末端を伸び伸びと気持ちよく働かせ、万が一の際には先頭へ出て詫びる。
それこそが管理を負う者の務めと云うもの。
「だからって――」
Pは、凛の口の前に人差し指を置いて制した。
「来たいなら汐留まで来てもいい。だが、浜離宮で待っているようにな」
――
「申し訳ありません。先輩の顔に泥を塗るようなことをしてしまって」
「全くだよ、勘弁してくれよ。仕事を振った手前、フォローはしておくけどさぁ」
汐留にそびえる伝通本社ビル、その46階にある展望ロビーで、Pは前職の先輩だった大嶋に頭を下げていた。
ビルの最上部に位置するここは、23時まで一般に開放されており、眼下に広がる東京の夜景を味わえる。
そんな一見ロマンチックな場所で、くたびれた背広姿の男二人が、
スターベックスからテイクアウトしたコーヒーを片手に気の滅入る話をしているのは、些か妙な光景だった。
平日だから一般客の利用者はそこまで多くないとはいえ――
たまたまこのタイミングにかち合ったカップルたちには、奇異に映るに違いない。
「向こうさん、それなりに立腹っぽいし、代わりを斡旋するのだって結構手間がかかるんだぞ?」
大嶋は、お前もこないだまでここにいたんだしそんなことは百も承知だろうが、と付け加えて、コーヒーを啜る。
「――この分じゃ、次はちょっと難しいぞ」
「やっぱり、そうなりますかね……あのクールビューティさは、中々の逸材だと思うんですが……」
「いや、そりゃ確かに先方からはキレイな娘、って要望があったけどさ、笑顔を出せないんじゃ話にならんだろ」
二度ほどカップを傾けて嘆息してから、大嶋は本音を隠すことなく云った。
「そもそも芸能業なんて笑えてなんぼじゃないか。わざわざこんなの口に出すまでもないことだ」
会話をするうちに、明日以降の面倒事が頭をよぎったのだろう、声音が強くなって、乱暴にもう一口呷る。
「……はぁ。お前に云っても仕方ない。その基本すらなってない当人をここに連れてきて貰いたいもんだがな」
大嶋は、出来の悪い“後輩”に鋭い視線を刺す。
不満の捌け口として、一言でも『新人アイドル』に文句を投げたくなる気持ちはわかる。
ただひたすらにPは平身低頭した。
「担当アイドルの不始末は、即ち全て自分の不始末であり責任ですので……」
大嶋は、上の人間同士のいざこざから現場を護る防波堤たらむとするPを、しばらく何も云わずに見た。
Pは、陳謝の姿勢のまま。
やがて、大嶋はガラスの向こうに広がる夜景へ目を向ける。
その光の海は一見変化に乏しいようで、その実、灯りの下では幾千幾万の人間像がうごめいているのだろう。
二匹の蟻がどんなに嘆こうとも、意思とは関係なく社会と地球は動いているし、明日がやってくるのだ。
しばらくののち、大嶋は大きく溜息を吐いた。
「……はーぁ……ま、下がヘマしたら上が頭をさげる点は、広告―こっち―の業界も、芸能―そっち―も同じか」
中間管理職なんてなるもんじゃねえや、と小さく笑い、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
「クールビューティ、ね。確かに武器にはなるかも知れんが、まぁ……今回はお前の采配ミスだな」
「はい、その通りです。申し訳ありません」
Pは顔を挙げ、もう一度謝罪の言葉を述べてから、同じように外の景色を眺める。
眼下の道を走る車の光は、男二人の寂しい背中などに構うことなく流れ続けていた。
港区ベイエリア、汐留再開発地区の目の前に位置する浜離宮恩賜庭園は、この時間は門が閉められている。
わざわざそんなところに用事のある人間などいるわけがなく、都心のど真ん中にありながら喧噪とは無縁だ。
隣の首都高速を走る車の風切り音が聞こえるのみで、高層ビルが林立する景色との大きなギャップを感じさせる。
車道から橋を渡って入り込んだ場所にある、庭園門前の駐車場の隅で、凛は石塀に寄り掛かっていた。
何をするでもなく、じっと足許を見詰めて。
東京湾を駆け抜けてきた潮風が、梢のざわめきを生み出しつつ、凛の灰色のスカートを揺らす。
昼間は湿って心地よくないそれも、夜になれば適度な爽やかさを持つ。
身体をクールダウンさせる風に包まれた凛の頭の中では、今日の自らの体たらくが、ずっと回り巡り続けていた。
『自称・アイドル』を脱却したいが為にプロデューサーへ掛け合って、その結果がこのザマだ。
今日求められたのはプロの仕事であって、お遊戯会ではない。
だというのに、そのお遊戯すら満足にこなせないではないか。
無論、これまでただの一般人高校生だった凛に、初めての場でいきなり仕事意識を要求するのは酷な話なのだが。
それでも当人にとって、この日の醜態は人生最大の自己嫌悪をもたらすのに充分すぎた。
浜風になびく長い髪が頬をくすぐっても、気にかける余裕はない。
Pが彼女をここに置いていってから、どれくらいの時間が経っただろうか。
革靴がコンクリートを踏む音に気付いて、凛は顔を挙げた。
時計を見ていないのでわからないが、しかし思考渦巻く凛自身にとっては意外なほどの早さで、Pが戻ってきた。
「……もう終わったんだ?」
てっきり、詫びの行脚や埋め合わせの会議などで、もっと時間がかかるものだと思っていたからだ。
「勝手知ったるマイホーム……だったところだからな」
Pは肩をすくめて、軽く笑った。
その姿は、先刻言い合いになったとはいえ、凛にとっては予想外の態度だった。
「ねえ、プロデューサー。えっと……怒らないの?」
「馬鹿云え。これは俺の判断ミスが原因だ。適材を適所に配置できなかった俺の責任だ」
こめかみを掻いて、「先輩にこっぴどく絞られた」と、ばつの悪い顔をする。
そう。大嶋にも云われた通り、今回のことは、功や展開を焦ったPの完全なミスだ。
どれだけ素材が良かろうとも、使いどころを間違えれば、ただの木偶の坊に過ぎない。
無論、凛が無愛想キャラとしての市民権を得れば、企業プロモ等でも使える素材になるだろう。
だがそれは有名になり、彼女の存在が世間に知れ渡ってからの話だ。
無名の今、そんな売り方をしたところで、顰蹙を買うだけなのは明らかだった。
綿密な戦略が必要なのだと、Pは思い知らされた。
「それに、下手をすれば……急くあまり、お前の心を折ることになってしまうかも知れなかった」
すまないことをした、とPは目を伏せ、凛に詫びた。
「あ、わ、私も……応えられなくて、その、ごめん……」
さきほどの感情に任せた遣り取りは影を潜め、二人はお互いに謝る。
彼らを包む大きな後悔とわずかばかりの屈辱は、高い授業料だった。
続き
渋谷凛「私は――負けたくない」【中編】

