『夏の記憶』
平沢唯はわたしのお姉ちゃんだ。
わたしの良き理解者であり、わたしが最も理解しているであろう人。
わたしと最も近しい人であり、それでいて最も遠い人。
この話は大学生になったわたしが、お姉ちゃんと二人で過ごした夏休みの話。
たったそれだけの話。
けれど、わたしにとっては決して忘れることはないであろう話。
とてもとても大切な一週間。
時は一ヶ月前まで遡る。
夏休みに入って二日が経った、八月の第一週。
大学生になって最初の夏休みを迎えていた。
どうせなら、外に出て何かをした方がいいだろう。
梓ちゃんを誘ってプールにでも行こうか。
その前に新しく水着を買ってもいい。
旅行をするのもいいかもしれない。
わたしはそんな風に、残り余った夏休みの使い方を考えながら、流し台で洗い物をしていた。
更に言えば、鼻歌を歌いながら。
この鼻歌をどれだけ歌ってきただろう。
ふと、そんなことを考える。
わたしにとって、とても大切な歌。
お姉ちゃんとわたしを繋ぐ歌。
わたしはこの歌が大好きだ。
歌っていると幸せな気持ちになれる。
そうだ、洗い物が終わったらギターを弾きながら歌おう。
窓を開けて、夏の温い風を浴びながら、音を奏でるのだ。
わたしは洗い物を早く済ませるべく、少し素早い手つきになる。
スピードアップ。
けど、すぐにストップ。
背後に気配を感じて手を止めたのだ。
いや、正確には真横にある台所への入り口に気配があった。
「憂、ただいまー」
わたしは水を出しっぱなしのまま、コップを持ちながら振り返る。
目の前にはお姉ちゃんがいた。
お姉ちゃんと目が合う。
間を置かず、なにかが割れた音がした。
足元を見ると、コップが幾数の破片に別れて散乱していた。
「あ、ごめん。急に声かけたから」と、お姉ちゃんが申し訳なさそうに謝る。
「う、ううん。お姉ちゃん、いつ帰ってきたの?」
「さっき」
「そ、そうなんだ」
自分自身、受け答えがぎこちなく思う。
でも、驚いてしまったのだから仕方がない。
わたしは出来る限り平静を装って、玄関にちりとりと箒を取りに行く。
ちりとりを手に取る。
――あ、痛っ!
そんな声が台所から聞こえた。
慌てて台所に戻る。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「あ、憂。血が……」
「あー、もう! 素手で触るからだよ」
「あはは、ごめん」
「待ってて、いま救急箱を持ってくるから。じっとしててね」
お姉ちゃんは何にも変わっていない。
嬉しいような嬉しくないような、曖昧な感じだ。
救急箱を持って台所に戻ると、お姉ちゃんは何かを飲んでいた。
脇に置いてある紙パックからみて、リンゴジュースを飲んでいるみたい。
「お姉ちゃん、人の家のものを勝手に飲んでる」
「いいじゃん。けち臭いことを言わない言わない」
「もう。ほら、傷口見せて」
お姉ちゃんは素直に従い、中指を見せる。
赤い血が僅かに出ていた。
どうやら、大した傷ではないみたい。
水で洗い、消毒液を少量塗布し、絆創膏を貼る。
「ありがとう、憂」
「どういたしまして、お姉ちゃん」
わたし達は久しぶりに笑顔をぶつけた。
「お姉ちゃんは、リビングで待ってて。洗い物を終わらせるから」
「はーい」
本当に変わらないな、お姉ちゃんは。
わたしはちりとりで割れ物を捨ててから、洗い物の続きに取り掛かった。
洗い物は残り少なかったので、直ぐに終わらせることができた。
お姉ちゃんはなにをしているだろう。
リビングまで歩く。
「うぁーづーいー」
お姉ちゃんは寝転がって、だらしなくお腹を見せていた。
そうだった、お姉ちゃんは暑さに弱いんだっけ。
そんな基本的なことも忘れていた。
「お姉ちゃん」横に座って声をかける。
「ううーん、憂」
「お姉ちゃん、なんで帰ってきたの?」
「憂に会いたかったからだよぉ」
「本当に?」
「ほんとだよぉ」
寝転がりながら言われると真実味が薄れる気がするが、嘘ではないのだろう。
「でも、お姉ちゃんどうやって帰ってきたの?」
「うーん、わかんない」
「わかんないって?」
「気がついたら家の前に居たから」
「そうなんだ」
わたしはお姉ちゃんから目を離す。
わかっている。
言わなければいけない。
けれど、言ってしまうとお姉ちゃんが目の前から消えてしまいそうで怖い。
「憂、どうかした?」
お姉ちゃんがむくりと起き上がって、こちらを見ていた。
「お、お姉ちゃん」
「なーにー」
「え、えっと、その……」
言っていいのだろうか。
それとも、黙っているべきか。
いや、言っても黙っていても事実は変わらない。
否定できない事実。
認めなければいけない事実。
この世に生きる限り、事実は消えない。
言わないで、このまま時間が過ぎていく方が恐ろしい。
事実を告げる。
「お姉ちゃん!」目を瞑ったまま言う。
「は、はい!」お姉ちゃんの声が少し上ずる。
「お姉ちゃんって――死んでるんだよね――」
そう、お姉ちゃんは死んだ。
二年半前に交通事故に遭って。
だから、生きている筈がない。
なら、目の前にいるお姉ちゃんは何なのだろう。
お姉ちゃんは伏し目になり、わたしの目を見ようとしない。
それでも、口が僅かに動くのが見えた。
「うん、死んでる……」
「そう……だよね」
わたし達の居る空間に重たい空気が漂ってきて、まるで水中にいるかのように息苦しくさせる。
光浮かぶ水面は遠い。
それでも、わたしは水面に顔を出すべく言った。
「でも、お姉ちゃんはここにいるんだね」
「うん――ここにいるよ」と、お姉ちゃんは目を細めながら言う。
「お姉ちゃんは幽霊なの?」
「……さあ?」
呆けた顔をするお姉ちゃん。
懐かしい顔だ。
「わからないの?」
「うん。よくわからないんだぁ」
「そっか。不思議だね」
「不思議さんに感謝だね」と、Vサインをするお姉ちゃん。
「お姉ちゃんにまた会えるなんて思ってなかった」
「寂しかったよぉ、憂」
「それはわたしのセリフだよ、お姉ちゃん」
お姉ちゃんは「ふへへ」と頬を緩めて笑う。
その笑いに釣られて、わたしも笑ってしまう。
なんだか、驚きを通り越して、素直に嬉しくなってきた。
普通に会話しているのが夢みたいだ。
事故以来、わたしは一人だったのだから。
わたしは。
「お姉ちゃん」
「ん?」
最大限に愛情を込めて言う。
「おかえりなさい」
お姉ちゃんの表情は、不意を突かれたように一瞬だけ固まる。
けど、すぐに満開の笑顔を見せながら言ってくれた。
「ただいま、憂」
夏休み、お姉ちゃんが我が家に帰ってきた。
こうして、わたしとお姉ちゃんの夏休みは始まった。
およそ、二年半前のことだ。
帰宅中のお姉ちゃんは、トラックに轢かれて亡くなった。
あの時見た光景を今も忘れることはできない。
忘れてはいけないのだろうけど、忘れたいと思うときもある。
覚えていなきゃいけない記憶だけど、見たくない記憶。
思い出す度に、やりきれない気持ちになる。
過去の出来事が現在に干渉する。
過去が、わたしの心を侵す。
「ねえ、憂」
寝転がったお姉ちゃんがわたしを呼んだ。
「なに、お姉ちゃん」
「さっきの鼻歌ってさ、あの時のだよね」
あの時とは、あの時。
学園祭。
お姉ちゃんの歌詞が声に乗って響いた日。
わたしの声に乗った。
「うん。――あれ、でも、なんでお姉ちゃんが知ってるの?」
お姉ちゃんが知っているのはおかしい。
何故なら、あの時には既にお姉ちゃんは亡くなっていたから。
「聴いてたから知ってるよぉ」
「聴いてくれてたの?」
「うん。憂はわたしと似て歌が上手いね!」
「そ、そんなことないよ」
お姉ちゃんに褒められてしまった。
なんだか、照れくさい。
「そっかぁ、お姉ちゃんに届いたんだ…」
「しっかり、くっきり、聴いてたよ。みんな、頑張ってたよね」
「うん。お姉ちゃんの為に一生懸命にやったんだよ」
「あーあー、なんで死んじゃったんだろ。死ななければよかった」
「お姉ちゃん!」
そんな、はっきり言わないで欲しい。
死んでるなんて。
「へ? な、なに」
わたしの声にお姉ちゃんは驚いている。
「そういうこと、言わないで……」
何を言おうと、事実は変わらない。
けれど、ここにいる間だけは言って欲しくない。
身勝手だけど、今だけは忘れたい。
「え、そういうことって?」
「その、死んだとか言わないで」
「でも、憂もさっき言ったじゃん」
「それはそうだけど……」
それを言われると困ってしまう。
わたし自身、お姉ちゃんに事実を突きつけた。
けど、けど。
「憂。ごめん」
「え?」
「もう言わないから」
「うん。ごめんね、お姉ちゃん」
「どうして憂が謝るの?」
「だって、わたしも言ったから」
「憂はいいの。お姉ちゃんが憂のことを考えずに言ったのがいけないんだよ」
「そんな……。優しいね、お姉ちゃんは」
「ええ、いまさらぁー」と、くだけた言い方で言う。
わたしはそれを聞いて微笑する。
お姉ちゃんは優しい。
そのことを改めて実感する。
なにか生物の声が聞こえた。
いや、違う。
声ではない、音だ。
「あっ」と声を出して、お腹に手を添えるお姉ちゃん。
「えっと、お姉ちゃん?」
「お、お腹空いちゃったみたい」
「お腹空くんだ」
純にそう思った。
「ねえ、憂のご飯が食べたい」
「わたしの?」
「うん。久しぶりだもん。折角だしね」
「でも、食べられるの?」
「さっきジュース飲んでたでしょ」
「あ、そっか」
そうだ。
ということはだ。
また、あの美味しそうにご飯を食べるお姉ちゃんを見ることができる。
「うん、わかった。それで、何か食べたい物ってある?」
「うーん、そうだなぁ。ハンバーグ……かな」
「ハンバーグ? ふふ」思わず笑ってしまう。
「え、どうかした? ハンバーグは駄目ぇ?」
「だって、変わらないから」
そう、お姉ちゃんはどこか子供っぽい。
そこが良い所でもあるのだけど。
「変わらない?」
「ううん。さ、じゃあ、お姉ちゃんの為に頑張るね」
「わたしも手伝おうか?」
「え、あ、ううん、大丈夫。お姉ちゃんは休んでていいよ」
変わってないのなら、お姉ちゃんに料理をさせるのはやめておいた方が懸命だろう。
帰ってきて早々、流血は避けたい……って、さっき流してたっけ。
「うー、そうかそうか。じゃあ、お言葉に甘えちゃうよー」
声の調子は明るかったけど、顔は少し残念そうにみえた。
手伝いたかったのかな。
「お待たせぇ、お姉ちゃん」
ハンバーグを盛ったお皿とお茶碗を持って声をかけた。
「お、おお、懐かしい匂いがするよぉー」目を輝かせるお姉ちゃん。
作っている最中にお姉ちゃんが消えてしまわないかと心配だったけど、どこにも行かずに待っていてくれたことに安心した。
わたしはテーブルの上に揃えてあるフォークとお箸の奥に、料理のハンバーグと白米の盛られたお茶碗を置く。
「あれ、憂は食べないのー?」
「わたしはさっき食べたから」
洗い物には昼食の食器も含まれていた。
今の時刻は大体二時、昼食には遅い時間。
「そっかー。じゃあ、食べちゃうよー!」
「どうぞ、召し上がれ」
「いっただきまーす!」
フォークを使って、デミグラスソースを割り、お肉を割る。
中からは肉汁がじゅわりと音をたてるように溢れ出る。
フォークに捕まえられたお肉はお姉ちゃんの口へ。
「うおほほっほー! 美味しいーーーーーーーーーーーー!!!」
本当に美味しそうな顔をするお姉ちゃん。
久しぶりに見れた。
幸せそうな、美味しそうな、そんな顔を見ると、こっちまで嬉しくなる。
「憂、美味しいよぉー!」
「ありがとう、お姉ちゃん」
お姉ちゃんがお肉を刺したフォークをこちらに向ける。
「あーん」
「え?」
「ほらほらー、あーん」
お姉ちゃんに言われるがままに口を開ける。
「あーん」と言いながら、自分も口を開けるお姉ちゃん。
お肉が口内に納まる。
「どおどお?」と、感想を求めてくる。
「えっと、美味しい?」疑問系になってしまった。
自分で料理の感想を言うのには抵抗がある。
「美味しいよねぇ、憂。さすが憂だよ! 流石わたしの妹!」
「あはは」
お姉ちゃんはあっという間に、ご飯を平らげてしまった。
「ごちそうさま」
そう言って、ポンッとお腹を叩く。
ふふ、本当にお姉ちゃんは可愛い。
再び洗い物をした後、わたしとお姉ちゃんはDVDを観ることにした。
学園祭のDVDだ。
このDVDを観るのは、今回が二回目。
澪さんに渡されて観たのが最後。
「よく撮ってたね」とお姉ちゃん。
「梓ちゃんが純ちゃんにお願いして撮って貰ったんだよ」
「あずにゃんは気が利くなー」
「ええと、これで」
ゲーム機にDVDをセットして、コントローラーを操作する。
「お、始まった!」
「まずは軽音部の皆さんの演奏だね」
「懐かしい曲だー」
お姉ちゃんが歌っていた曲。
お姉ちゃんの生きた証。
テレビの画面を通して、証を持った曲が、世界が、お姉ちゃんの存在を訴え掛けてくるみたいだ。
澪さん、律さん、紬さん、梓ちゃんの四人によって曲は奏でられる。
ライブはどんどん進み、遂に最後の曲だ。
わたしの出番。
画面に、わたしが舞台袖から出てくるのが映る。
お姉ちゃんに観られると思うと、なんだか恥ずかしい。
「あ、憂が若い」
「え?」
今のはちょっとショックだ。
「まだ若いよー、お姉ちゃん」
「冗談だよー」
ふざけあっているうちに、画面の中のわたしがマイクの前に立っていた。
律さんが曲の始動を指揮する。
曲が始まる。
お姉ちゃんは画面に集中していた。
わたしはお姉ちゃんの顔を眺めていた。
時折、眉や目、頬や口が動く。
お姉ちゃんはこれを観て、何を思うのだろうか。
自分のいない軽音部を見て、何を思うのだろうか。
わたしの歌声を聴いて、何を思うのだろうか。
そんなことを考えながら、お姉ちゃんの顔を眺めていたら、目が合った。
「終わっちゃったね」
わたしはそれを聞いて、画面に目を遣る。
画面は真っ黒だった。
お姉ちゃんの顔を見ているうちに終わってしまったみたいだ。
軽い溜息を吐いて、
「よかったー」と、お姉ちゃんが言う。
「なにが?」
「また、憂が歌う姿を見れて」
わたしもよかったよ。
お姉ちゃんが見てくれて。
でも、それ以上に。
お姉ちゃんに会えてよかった。
「憂?」
首を傾げて、わたしを見る。
「よかった」と、わたしは小さく言う。
「うんうん、よかったよー」
そう言って、笑い合う。
昔に戻ったみたいに。
夜。
わたしとお姉ちゃんは一緒にお風呂に入った。
わたしの胸を見て、拗ねた演技をしたお姉ちゃんは可愛かった。
二人でベッドに入る。
「あー、憂と寝るのも久しぶりだねー」
「うん。でも、布団をもっていかないでね」
「しないよー、そんなこと」
この日、この時、わたしは幸せだった。
幸せがわたしを包み込み、ふわふわして落ち着かない気持ちだ。
寝息が聞こえた。
お姉ちゃんの身体が呼吸をする度に上下する。
安らかで無垢な寝顔。
些細なことだけど、全てが懐かしく、愛おしい。
さあ、わたしも寝よう。
お姉ちゃんの隣で、お姉ちゃんと手を繋ぎながら。
この夜、布団の行方がどうなったかは言うまでも無い。
翌朝、わたしが起きた時、お姉ちゃんはまだ寝ていた。
さわやかな気分だった。
これもお姉ちゃんがいるからか。
寝顔をしばらく見たあと、起こさないようにベッドから降りて、部屋を出る。
顔を洗い、水を飲む。
パジャマのままだけど、朝食の準備をしよう。
今日はサンドウィッチだ。
具はツナと卵にトマト等の野菜の三種類。
いつもより一人分多いから、変な感じがする。
サンドウィッチを作り終え、テーブルにセッティングをしていたところ、お姉ちゃんが起きてきた。
「憂、おはよー」と、目を擦りながら言う。
「おはよう、お姉ちゃん。朝ご飯出来てるよ」
お姉ちゃんは「うーん」と返事をして、欠伸をしながら洗面所に行く。
さて、予定では今日アルバイト先に出かけなければいけない。
お姉ちゃんを家に残して行くことになる。
一人にして大丈夫だろうか。
毛先を少し濡らしたお姉ちゃんが食卓につく。
「あのね、お姉ちゃん。わたし、アルバイトに行かなくちゃいけないの」
「あー、うん。ファミレスのバイトだよね」
「え、なんで知ってるの?」
「憂のことなら、なんでも知ってるよ、わたしは」
そっか、ライブも観てたみたいだし、そのぐらい知っていてもおかしくはない。
「憂のウェイトレス姿、似合ってて可愛いよ」
「え、そうかな。そんなことないと思うけど」
駄目だ。
お姉ちゃんに褒められると、嬉しさより、照れくささが勝ってしまう。
顔が火照ってるのがわかる。
「あー、憂。顔赤いよー」
「お、お姉ちゃん。早く食べようよ」
「そうだねぇ」
ふう、話を変えないと畳みかけてきそうな雰囲気だった。
危ない危ない。
それにしても、再びこうやってお姉ちゃんと朝を迎えられるなんて、思ってみなかった。
それだけに、この幸福感がいつまで続くのか疑問であり不安だ。
諸行無常。万物流転。会者定離。
出会いもあれば、別れもある。
お姉ちゃんはいつ消えてもおかしくはない。
わたしがアルバイトから帰ってきたら、もう居ないということもありうるのだ。
そうなったら、わたしはまたもや言い知れぬ喪失感を味わうことになる。
別れが恐い。
「憂、どうかしたの? 顔色悪いよ」
わたしの顔を下から窺いながら、心配そうな声を出す。
「な、なんでもないよ」
「ほんとに?」
「うん」
無事をアピールする為に、サンドウィッチに手を伸ばして口に運ぶ。
その間もわたしを見ていたので、口に入れた分を飲み込んでから感想を尋ねる。
「味付けはどうかな、お姉ちゃん」
「なかなかのお手前だね」
「美味しい?」
「憂みたいにおいひいね」
「食べながら話しちゃ駄目だよ」
「えへへ」
わたしの心を納得させ落ち着きを与えるには、目の前であどけなく笑う、お姉ちゃんを信じるしかないのだろう。
信じても、実体のない不安はもやもやと身に宿ったままであることは明白だ。
けれど、選択肢はそれ以外にないのだから仕方がない。
わたしがアルバイトを終え帰宅し、玄関を上がった時だった。
二階からギターの音が聞こえてきた。
二階に上がり、音が聞こえてくるお姉ちゃんの部屋に足を踏み入れる。
「お姉ちゃん?」
「あ、憂。おかえりー」
お姉ちゃんは床に座りながらギターを抱えていた。
「ギー太を見つけたら遂弾きたくなっちゃってさ」
「弾けなくなったりしてないんだね」
「そういえば、そうだね。わたしが天才だからっ!?」
「自転車と一緒なのかも」
「えー、天才がいいよー」
「あはは。お姉ちゃん、お昼は食べたよね」
「いただきました」
わたしがそれを聞いて、一階へ戻ろうと部屋から出ようとした時、鞄の中で携帯電話が着信を告げるメロディを発していた。
鞄の中から携帯電話を取り出した時にはメロディは終わり、画面には新着メールのお知らせ文が表示されている。
メールの送り主は梓ちゃんだった。
返信の為の文章を考え、キーを押していく。
文章の作成途中で指が止まる。
忘れていた。
当たり前のことを忘れていた。
どうして今になって気付いたのだろう。
突然訪れた幸福に溺れていて、外に目がいかなかった。
どうかしている。
「お姉ちゃん!?」
後ろを振り返り、部屋でギターを弾くお姉ちゃんに呼びかける。
お姉ちゃんは手を止め、こちらを見る。
「軽音部の皆さんに会ってみない?」
そう、この世に姿を現したのなら、わたし以外の人、それもとりわけ大事な人達に会わない理由はない。
どうせなら、お姉ちゃんの為にも、皆さんの為にも会うべきだと思う。
お姉ちゃんの死に悲しみ悩んだ人は、わたしだけではないのだから。
ぽかんと口を開けて、固まるお姉ちゃん。
わたしと同じく忘れていたのか、もしくは考えがなかったのか、または触れられたくない話題だったのか。
表情を見た限りでは、最後のはなさそうだ。
お姉ちゃんは開口したまま、こくこくと二度三度頷いて答えた。
「そうだね。そうだそうだ。憂にも会えるんだから、みんなにも会えるよね。思いつかなかったよ」
「わたしもいま考えが浮かんだんだけどね」
「そっかぁ、みんなに会えるんだぁ」
そう言って、明後日の方向を見るお姉ちゃんは顎に手を当てながら、なにやらを思い出しているようだ。
きっと、昔のことでも思い出しているのだろう。
停止していた指を動かし、作成途中のメールを少し改変して送信する。
会うなら早い方が良いだろうと思って、梓ちゃんの予定を尋ねてみた。
返信は直ぐに届いた。
『いいよ。時間と場所はどこにする?』と書かれた文面。
よし、これで第一段階はクリアだ。
時間と場所を指定して送り返す。
『わかった。
今日ってバイトだったよね。もう終わったの?』
『うん、午前と午後の早い時間帯だったから。
明日は楽しみにしててね、プレゼントがあるから』
『なになに、なんかあったけ? なんのプレゼント???』
『まだ秘密だよ』
絵文字を省くと、大方こんな感じのやり取りだ。
ここまでメールをしたところで、名前を呼ばれた。
「憂、なんか嬉しそうだね。なんかあった」
「明日、梓ちゃんと会うんだけど、お姉ちゃんも一緒に来ない?」
「明日!? 行く行く! あずにゃんに会いたいもん」
「お姉ちゃんは梓ちゃんのこと好き?」
「うん、当たり前じゃん」
「そうだよね。当たり前……だよね」
こうもはっきりと言える辺り、本当に梓ちゃんのことが好きなのだろう。
僅かながら嫉妬をしてしまう自分がいる。
姉妹という家族の繋がりではなく、お姉ちゃんと友達関係になるという、不可能な繋がりに憧れを抱いているのかもしれない。
そんな醜い欲求を認めたくはない。
妹として生を享けただけでも感謝すべきなのだ。
血という実体で繋がっている、この身体に宿った意識で満足すべきなのだ。
頭の中で、独占欲の出現に抵抗する自分。
それでいい、そのまま頭の外へ追い出してしまおう。
「憂、なに着ていけばいいかなぁ?」この声に我に返る。
お姉ちゃんがこちらを見ていた。
「お姉ちゃんの服、残ってるから安心して。状態は見ないと分からないけど」
依然として、頭ではなく胸の奥にもやもやとしたものが残留していたが、努めて平静に返事をした。
「着れなかったら、憂の借りるから大丈夫だよ」
「貸してあげるなんて言ってないよー」ちょっと意地悪に言う。
「駄目ですか?」
「いいですよ」
わたしとお姉ちゃんは、くすくすと笑い合う。
失われた時間を取り戻し、意思の疎通を確認するように笑い合っている。
今はただ、笑うことの心地好さに酔いしれようと思う。
翌日、梓ちゃんとの待ち合わせ場所に向かう為に、正午前に家を出た。
昼食も一緒にすることになっている。
お姉ちゃんは結局、自分の服を着た。
サイズもピッタリというか変化無しなので、すんなり着られたみたい。
夏だったことでTシャツと下だけ考えれば良かったのも幸いして、服選びに時間はかからなかった。
今日の気温は三十度を越していることもあってか、横を歩くお姉ちゃんの足取りは重たい。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「あー、あうい」と、意味の分からない返事。
「もうすぐだからね」とだけ言って、前を向くわたし。
お店の看板が見えてくる。
お財布事情も考えて、ファミレスでお昼だ。
お姉ちゃんの為にもう少し高いお店にしようかと思ったけど、梓ちゃんの反応を考えてファミレスにした。
驚いて大声を出す可能性もあるから。
「ねえ、お姉ちゃん。緊張してる?」
「ぎんちょう? してる……かな?」
質問に疑問符を付けて返された。
まあ、なんとなく微妙なんだろうということは察せる。
間もなくして、ファミレスの前に到着した。
わたしが先頭に立って店内に入る。
すぐに店員がやってきた。
「いっらしゃいませ、お一人様ですか?」と、スマイルを添えて、お出迎え。
「二人です」
どうしたら一人に見えるのか不思議だ。
「え? 一人……。ああ、はいはい。禁煙席でよろしいですか?」
「はい」
店員が一瞬だけ真顔になったのが気にはなったけど、案内に従って窓際の席を選んだ。
わたしとお姉ちゃんは並んで座る。
「ふいー、生き返るねー」と、お姉ちゃん。
たしかに店内のエアコンの冷風が気持いい。
お姉ちゃんはメニューを取って、わたしとの間に開いた。
「なんにする、憂」
「先に決めていいよ、お姉ちゃん」
「まずはアイスだよね」
「それは食後にしようよ」
直ぐにでもアイスを食べたい気分だったけど、メインの前に食べては駄目だろう。
「あずにゃん、もう来るかなー」
「ちょっと待って」と言って、携帯電話を開く。
新着の電話もメールもなかったが、家を出たというメールはあったので、向かっている最中だろう。
「もうすぐ来ると思うよ」
「あずにゃん、どんくらい変わってるんだろう」
「わたしの知る限りは、そんなに変わってないと思うけど」
「もっと可愛くなってたりしないの」
「元々、可愛いよ。梓ちゃんは」
「うんうん、あずにゃん可愛いよね。憂は分かってるなー」
お姉ちゃんは本当に梓ちゃんが好きなんだなと思う。
先程の店員がお冷を一つテーブルに置いた。
数が足りないので「あの、もう一つ」と、控えめに要求する。
店員は怪訝そうな顔をしたあと、微かに頷いてテーブルから離れていく。
本当に理解したのだろうか、同じアルバイトをしている身としては、接客態度の悪さが気になってしまう。
三十秒程してから、店員が戻ってきた。
「失礼します」と言って、わたしの向かい側にグラスを置いて去っていく。
なんなのだろう、これは。
お客を馬鹿にしているのだろうか。
何かわたしに恨みでもあるのだろうか。
怒りを抑えてグラスを目の前に持ってくる。
大きく嘆息して、気分を和らげようとする。
「疲れたの?」と、お姉ちゃんがメニューを畳んで聞いてきた。
「ううん、なんでもないよ。お姉ちゃん、なに頼むか決まった?」
「決めたよ。はい、憂の番」と、メニューを渡してきた。
「ありがとう」
メニューを受け取って、料理の写真を眺める。
もう、とびっきり甘いものをデザートにしよう。
笑い声がして、何気なく通路を挟んだ先の隣席を見た。
目が合う。
その人は、まるで嘲るような笑みを浮かべていた。
わたしは瞬時に視線をメニューに移す。
今日の運勢は悪いのかな。
朝の運勢ランキングを思い出してみると、たしかに下から数えた方が早かった。
内容は、思い通りにいかなくてイライラしそう、と書いてあった気がする。
悪い時に当たらなくてもいいのにと、また溜息。
嫌な予感がしたのは、そのときだった。
推理小説でトリックを理解したときのように、〝悪運〟の謎が気持ちいいぐらいにすっきりと解けてしまった。
いや、いまのわたしにとっては解けてしまうのは気持悪いことだ。
謎の正体がわたしの胸に深く突き刺さる。
そんなはずがない。
認めたくない。
認めてしまったら、お姉ちゃんはどうなるのだ。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。
事実が恐い。
頭痛と共に眩暈がやってきた。
視界がはっきりしない。
上下左右、方向感覚が無くなり、未知の浮遊感に襲われる。
気持が悪い。
わたしは今、どうなっているのだろう。
「憂?」
声がして、ぼんやりとした意識のまま顔を上げた。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
次第に聴覚と視覚が戻ってきて、声の主が判明した。
梓ちゃんだ。
「あ、あ、あ」
自分でもなにを言っていいのか分からず、意味の無い声を出してしまった。
口の中が乾いているのが分かる。
「憂、ほんとに平気?」と、梓ちゃんは通路に立ちながら、こちらを見ていた。
わたしは梓ちゃんを見つめたまま、なにも言わなかった。
違う、言えなかった。
「おーい、憂。起きてるー」
梓ちゃんは目の前で手を振って意識を確認しているみたいだ。
そうだ。
お姉ちゃんはなにをしているのだろう。
なにを見ているのだろう。
梓ちゃんを見ているのなら、なんで声を出さないのだろう。
後ろを振り返るのが恐い。
それでも、見なくてはいけない。
恐怖と義務感がせめぎ合う中、わたしは出来る限り、ゆっくりと振り返る。
ゆるりと少しずつ、視界に映る光景が変化する。
そして、わたしは見た。
お姉ちゃんは、両腕で顔を隠すようにテーブルに伏せていた。
すすり泣く声が聴こえる。
ああ、お姉ちゃんは解ってしまったのか。
誰一人、お姉ちゃんが〝見えていない〟ことを。
わたしを除いては、誰も見ていないことを。
目頭が熱くなったのを、唇をきゅっと結んで我慢を試みる。
それでも、涙は無理矢理に頬を伝う。
「ちょっ、憂! なんで泣いてんの? あ、え、わたし、悪いこと言った?」
「ごめんね……ごめんね……」
梓ちゃんにも謝りたかったが、いまは誰よりもお姉ちゃんに謝りたかった。
わたしが悪いのだから、全てはわたしの責任だ。
悲しむお姉ちゃんを見たくなかった。
目を逸らし、同じようにテーブルに顔を伏せた。
梓ちゃんが背中を擦ってくれてるのが分かる。
今日は運が悪い。
結局、梓ちゃんにはお姉ちゃんのことを言わなかった。
言ったところで、どうなるのだろう。
言葉の交換はわたしを通してでしか出来ない。
それで梓ちゃんは、お姉ちゃんの存在をしっかり実感することが出来るだろうか。
わたしの気が狂ったと思われてもおかしくはない。
交通事故の後、わたしは梓ちゃんに対し酷いことをし、過ちを犯してしまった。
その二の舞はだけは避けたかった。
言わなかった所為で「プレゼントはー?」と、唇を尖らせて文句を言われてしまったが仕方がないだろう。
帰宅すると、お姉ちゃんは真っ先に部屋に閉じこもってしまった。
最悪な一日の続きは苦いものでしかない。
翌朝、お姉ちゃんは一階に下りてきたものの、口数は少なく、明らかに元気がなかった。
朝食時には会話が無く、わたし達の間には気まずい空気が漂っていたので、食事が不味く感じられた。
この日もアルバイトが入っていたわたしは、お姉ちゃんに一声だけ掛けて家を出た。
アルバイトを終えて家に帰ったときには、少しは元気になっているだろうという淡い期待を持って、アルバイト先へ向かったのだ。
だけど、淡い期待は明確な失望へと変わってしまう。
帰宅したわたしを待っていたのは、生のない空虚な空間だった。
お姉ちゃんの姿がどこにも見当たらなかったのだ。
――消えた。
――お姉ちゃんが消えた。
――どこへ。
――どこへ、行ってしまったの。
いつの間にか、失望から絶望が生まれてきてしまっていた。
お姉ちゃんが二度と目の前に姿を現すことがないと思うと、恐怖さえ感じた。
絶望と恐怖は嵐のように猛烈な勢いで、わたしの思考を蝕んでいく。
抗うことすら許さない、その圧倒的なまでの絶望は絶対的な無力感をわたしに刻
み込む。
あの時の事故と同一の無力感だった。
幾ら手を伸ばそうと、漆黒の闇が光を殺し、実体を掴もうとするのを阻む。
全ては終わってしまった。
わたしは居間の床に寝転がり、白の天井を見つめている。
その白が、わたしの目の色に染まることはない。
お姉ちゃんの目の色も、今のわたしと同じなのだろうか。
そう思ったら、目の赤が更に滲んだ。
目が覚めると、なんら変わりのない天井が見えた。
どうやら眠ってしまったらしい。
時計の針は午後九時を少し過ぎたところを指していた。
目の回りがいささか腫れぼったくて気になった。
座ったまま、自分が居る部屋を見渡す。
動く物体は無く、音を発する物すら見当たらない。
「泣いても世界は変わらない……か」
褪めた心境にも関わらず、お腹が空いていた。
こんな時くらい空気を読んで欲しい気もするが、わたしの意思でどうこう出来ることじゃないので仕方がない。
強張った身体を伸ばすように立ち上がる。
洗面台で顔を洗い、鏡で自分の顔を見てげんなりする。
次に台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
そこで初めて、夕飯の食材がないことに気付く。
朝はあの空気だったので、確認するのを忘れてしまっていた。
これから買いに行くとなると、スーパーは開いてないのでコンビニで買わざるをえない。
無駄な出費になってしまうと考えると、余計に気分が滅入った。
手早く支度をして、家を出た。
外は月明かりと街路灯、住宅の窓から漏れる光で、そこまで暗くは感じない。
蒸した温い風が、髪に絡みつくようにわたしを包む。
背中にかいた汗がべっとりしていて、不快さが余計に増す。
夏ということもあり、窓を開けた家が多く、一家団欒をしている楽しげな声が聞こえた。
それを聞いて少し早足になる。
他人の幸福が面白くなかったからだ。
コンビニに到着。
調理が簡単なカップ麺を一つ買うことにした。
普段はあまり食べないけど、今日は食べてもいい気分だったのだ。
そして、お店を出ようとしたときだった。
わたしは立ち止まる。
正面の自動ドアを開けて入ってきたのが和さんだったのだ。
「あ、憂ちゃん。久しぶりね」と、簡単に挨拶をされた。
「こんばんは。お買い物ですか?」表情を無理に作って言う。
「ええ、喉が渇いたから寄ったの。憂ちゃんはこんな時間にどうしたの? アルバイトの帰り?」
「いえ、夕飯を買いに」
「それでコンビニ?」
「この時間だと他は開いてませんから」
「ああ、それもそうね。ちょっと待っててくれる、買い物を済ましてくるから」
そう言うと、和さんは飲み物が並んだ冷蔵庫に歩いていく。
正直、和さんを含めて、いまは話をする気分ではなかったし、早く家に戻りたかったけど、待っててと言われたのを無視して帰る度胸は、わたしにはなかった。
わたしはお店の外に出て、入り口の脇で待つ。
和さんはビニールの袋を右手にすぐに出てきた。
「それじゃ、途中まで一緒に行きましょ」と、和さんが頬を緩ませて言う。
対するわたしは、頷くのが精一杯だった。
歩きながら、和さんはわたしの近況を訊いてきた。
大学生活のことや夏休みのこと、自炊のこと等、取り立てて特別なことは訊かれていない。
それから、和さんが自分の近況を話して教えてくれたが、わたしの耳には中途半端にしか届かなかった。
適度な話が終わって、お互いが口を閉ざして歩くことになる。
和さんはお姉ちゃんの友人であって、わたしの友人ではない。
となると、話すことが限られてくるのも当たり前といえば当たり前だ。
会話の代わりにわたし達の足音だけが、沈黙の中にあった。
疲れを感じていたせいか、大きな溜息を吐いてしまう。
「どうかした?」と、和さん。
「い、いえ」
あわてて、顔の前で両手を振って否定する。
「そう。……ねえ、幽霊を見たことある?」
その言葉に何故かドキッとした。
「え、あ、いえ」
「今日ね、変なことがあったのよ」
「変なことですか?」
「ええ。家で出掛ける為の支度をしている時だったわ。
たまたま携帯電話がどこに置いておいたか分からなくて、家の中を探し回っていたの。
そしたら、さっき確認した場所に携帯電話が置いてあってビックリしたわ。
見つかったのだから何も問題はないんだけど、それでもおかしいじゃない。
家にはわたしの他に誰もいないのに」
「見間違えとかじゃ、ないんですか?」
「だってテーブルの真ん中よ。見間違えはないわ。それと、それだけじゃなかったの」
「他にもあったんですか?」
「それまで音を出していなかった風鈴が突然に鳴ったのよ。
それから、靴を履くときに気付いたんだけど、揃えて置いておいた靴が微妙に動かされてるの。
流石に恐くなったわ。背筋がゾクッとして、何かいるのかもって」
わたしは何も言わずに話を聴き続ける。
「でもね、直ぐに妙な温かさを感じたの。
不愉快さはなかったわ。
夏の暑さとか関係なくて、ふわふわした感じの温もりとでも言えばいいのかしら。
言葉に出来ない感覚ね。そのときに何故か、唯の顔が頭にパッと浮かんだわ。
そして、唯がわたしの名前を呼ぶのよ、和ちゃんって。
だから、もしかしたら唯が遊びに来てるのかもって思ったの。
もちろん、そんなことはないんだけれど」
「お姉ちゃんです」
わたしは立ち止まり、何も考えずに言った。
和さんがどう思おうと、わたしには確信めいたものがあったから。
「唯?」
和さんも足を止めた。
「お姉ちゃんが和さんに会いに行ったんですよ。お姉ちゃんは和さんのことが好きですから」
「そう……なのかしら」
「わたしはそう思います」
和さんは思案顔で、月が浮かぶ夜空を見る。
月はもうすぐ満月なのか、満月を過ぎてあの形なのかは分からないけど、ほとんど円形だった。
「そうね。だったら、言ってあげればよかったわ」
和さんは月を見ながら言った。
「何をですか?」
「なんでもいいわ。おかえりでも久しぶりでも、なんでもいいのよ。
でも、一番言いたいのは――会いたかった……かしらね」
会いたかった。
それはわたしが言った言葉となんら変わらない。
死者であろうと、大切な人に会いたいと思う気持ちは、心を通わせた人であれば誰でも思うことなのかもしれない。
「でも、わたしには見えなかったのが残念だわ。少しでいいから、唯の顔を見られればよかったのに」
わたしは答えない。
どうして、わたしにだけお姉ちゃんが見えるのか。
今となっては、見えたのか。
わたしには分からない。
「憂ちゃんになら見えるかもしれないわね」
和さんがそんなことを言った。
「どうしてですか?」
「だって、誰よりも唯のことが好きだったでしょ」
そう、わたしは誰よりもお姉ちゃんが好きだ。
「今も好きです」
「そうね、ごめんなさい。そんな憂ちゃんになら唯が見えると思うわ」
お姉ちゃんは見えた。
けれど、何処かへ行ってしまった。
「あの、幽霊ってどこに行くんでしょう」
わたしはそんなことを訊いていた。
なんの為なのかは自分でも不明だ。
「わたしは幽霊じゃないから分からないけど、唯なら遊びに行くんじゃないかしら。今日もわたしの家に来たみたいだし」
「遊びに……」
「幽霊だって遊びたいわよ」
そうか、お姉ちゃんは何処かに遊びに行っているのかもしれない。
そう考えると、希望が沸いてきた。
お姉ちゃんはまだ帰ってこないと決まったわけじゃないのだ。
今まで落ち込んでいた気分が、いささか上向きになり、モヤモヤとしたものも少しだけ晴れてきた。
そのあと、途中まで和さんと帰り、家に戻った。
玄関の靴の数は先程と変わっていない。
家の静けさも変わらない。
変わったのはわたしの決意だけ。
決めたのだ。
明日でも明後日でも辛抱強く待つことを決意したのだ。
帰りを待つ。
ひたすら待つ。
お姉ちゃんの帰りを、わたしは待つ。
そんな決意とは裏腹に、お姉ちゃんはあっさりと帰ってきた。
朝食のトーストをかじっているときだった。
お姉ちゃんは玄関扉を開けた音もたてずに、居間に姿を現したのだ。
「お姉ちゃん!?」
咄嗟に声を出した為に、トーストが口からお皿の上に落ちた。
「あ、憂。ただいまぁー」
お姉ちゃんは近場に買い物に行ってきた帰りのように、あっけからんとした声だった。
わたしは歩み寄って、無理に睨む目つきをして言う。
「お姉ちゃん! 何処に行ってたの!? 心配したんだよ!」
お姉ちゃんは口を開けて驚いた顔をした。
更には視線が右に左にと落ち着かなくて、挙動不審だ。
「あ、え、う、あ、うー」
何かの暗号みたいな答え。
「お姉ちゃん!」
「ご、ごめんなさい!」と、四十五度以上の角度で頭を下げる。
だけど、五秒程すると徐々に頭が上がってきた。
眉尻を下げた困り顔が上目遣いでわたしを見る。
わたしは一回だけ嘆息して、表情を柔らかく変える。
「でも、よかった。お姉ちゃんが帰ってきて」
お互いの息が触れるぐらい近くまで寄り、背中に両手を回して抱きしめる。
引き寄せた身体は確かな熱を持っていた。
お姉ちゃんは生きている。
「憂?」
「何にも言わずに消えちゃ嫌だよ、お姉ちゃん」
お姉ちゃんの右肩の上に顔を乗せて、頬に頬を合わせる。
目を閉じると、自分の鼓動とお姉ちゃんの鼓動を感じることができた。
「憂、ごめんね。心配かけちゃって」
そう言って、わたしの頭を優しい手付きで撫でてくれる。
「よしよし」と、背中も擦ってくれる。
わたしは急に胸に痞えてたものを吐き出したくなって、それが涙となって溢れ出した。
我慢が出来なかった。
お姉ちゃんの匂いが。
お姉ちゃんの手の感触が。
お姉ちゃんの温かさが。
これまでにないくらい、優しく包み込んでくれた。
抱擁を通して、お互いの存在を深く感じた。
どれだけの時間、そのままの状態でいただろうか。
わたしは長い時間泣いていたし、涙が止まっても抱き合っていた。
幸せな時間を終わらせたくなかったのだ。
けれど、エアコンを使っていない夏の居間は蒸し暑くて、抱き合ってるのにも限界があった。
「あ、暑い」と、お姉ちゃんが先にギブアップ宣言。
「う、うん、暑いね」
暑さには敵わず、わたし達は離れた。
「こんな暑いとアイスがないと生きていけないよ。あ、エアコンもつけないと」
そう言って、真っ先にエアコンのリモコンの元へと駆け寄っていく。
わたしはお姉ちゃんの背中に向かって声を掛けた。
「お姉ちゃん」
「スイッチオン! え、なにィ?」
「遊びに行こっか?」
「遊びに?」
「うん。遊びに」
アルバイト先にお休みの連絡を入れた。
「いいの? 休んじゃって」
「うん。お姉ちゃんと一緒にいたいから」
お姉ちゃんは何も言わない。
ただ、わたしを見て笑ってくれた。
行き先は映画館だった。
チケットはわたし一人分で、お姉ちゃんは無料。
このぐらいのサービスはあっていいだろう。
観る映画はお姉ちゃんに選んでもらった、派手なハリウッド映画だ。
わたしの席の横がたまたま空いていて、お姉ちゃんはそこに座った。
ポップコーンを渡すと、嬉しそうに受け取った。
お客さんの入りがよくないので、お姉ちゃんは堂々としていられる。
人が多かったら、座ることもポップコーンを食べることも出来なかった。
お姉ちゃんと一緒に映画を観に来たのはいつ以来だろう。
遡ると、お互いが中学生のときが最後かもしれない。
結構、長い間行ってなかったんだな。
上映が始まる前だったので、お姉ちゃんに声をかけてみる。
「お姉ちゃん、寝ちゃ駄目だよ」
「寝ないよぉ。憂には難しい映画かもしれないけど」
「これ、アクション映画だけど」
「アクションは深いんだよ、憂」
そんなことを話しながら、場内が暗転するのを待った。
ポップコーンはどんどんと減っていく。
食べているのは、ほとんどお姉ちゃんだ。
わたしは脇に置いておいた、ジュースを一口飲む。
それをお姉ちゃんが横から物欲しそうな目で見ていた。
「どうしたの?」
「飲み終わっちゃった」
そう言って、空の紙コップを持って見せた。
「しょうがないなー、少しだけだよ」
中が入った紙コップをお姉ちゃんに渡す。
「ありがたやー」と、大袈裟な態度をとって紙コップを受け取る。
お姉ちゃんが紙コップの縁に口をつけると、炭酸の弾ける音が聞こえた。
ごくごくごくごくごくごく……。
「お姉ちゃん。もしかして、全部飲む気じゃないよね」
「そ、そんなわけないじゃん」
「コップ貸して」
お姉ちゃんは素直にコップを差し出す。
わたしはそれを受け取る。
妙に軽いのは気のせいか。
上からジュースの残りを確認すると、案の定、あとちょこっとしか残っていなかった。
「お姉ちゃん」
「ご、ごめん。喉渇いてたから」
「わざとだよね」
本気で怒ってはいない。
お姉ちゃんを少しからかってみただけだ。
わたしは残りを一気に飲み干して、コップの中身を空にした。
そのコップを脇のホルダーに置くと、場内の照明がゆるやかに落ちた。
お姉ちゃんはこちらを見たままだったから、笑って応えてあげる。
それを見てホッとしたのか、お姉ちゃんは座りなおしてスクリーンに目を移した。
名前は忘れたけど、画面に有名なキャラクターが出てきてコントみたいなことをしている。
映画を観るときは、こうやって焦らしを入れてくるから面白い。
本編が始まる頃に左手が温かいものに包まれたのに気付き、わたしはそれを握り返した。
「ふあー」
長い時間座っていて疲れたせいか、お姉ちゃんがそんな声を出して伸びをした。
映画が終わったことで、既に場内の照明が点灯している。
「どうだった?」
映画の感想を聞いてみる。
「ハッピーエンドでよかったよー。最後に助からなかったら可哀想だもんね」
「そうだね。でも、相手のやられ方はちょっと可哀想だよね。どっちが悪役か分からないぐらい」
「悪い人にはお仕置きが必要なんだよ、憂」
そう言って、お姉ちゃんは軽い足取りで出口に向けて歩き出す。
わたしは後を追う。
映画館を出た後は、お昼抜きでウィンドウショッピングに興じた。
だけど、さすがに何も食べないというのは苦しかったので、スーパーで適当な食材を買って早目に帰ってきてしまった。
外で食事をしようにも、お店の人にお姉ちゃんの姿が見えない状態では一人分のサービスしか受けられない。
お姉ちゃんにリラックスして食事をして貰う為には、やはり家が良いという結論になったのだ。
二人とも家に着いたときには汗をびっしょりかいていて、お姉ちゃんは真っ先にエアコンの電源をいれた。
お昼ご飯は冷やし素麺にすることにした。
氷を敷いて、麺を冷やすのだ。
ようやく準備を終えて、お皿を運ぶ頃にはお姉ちゃんはぐでんとダウンしていた。
翌日はビニールプールを庭の限りあるスペースに設置して入った。
もちろん、お姉ちゃんもわたしも水着を着用して、暑い暑い言いながらも水遊びをして楽しんだ。
夜になると、家の前で花火をした。
場所が場所だけにロケット花火は出来ないから、小さな花火で我慢した。
我慢したのはわたしではなく、お姉ちゃんだ。
「憂、ロケット花火ないんじゃつまんないじゃん」と言って、やる前はいささか拗ねていたけど、いざ花火をやりだすと一番はしゃいでいたのは、お姉ちゃんだった。
その日の夜は夜更かしを少しだけして、二人で身を寄せ合いながら、ホラー映画を観て盛り上がった。
そんな昔に戻ったみたいに、平凡ながら幸せな日が続いた七日目のことだった。
朝食のコーンフレークを食べていると、お姉ちゃんがいつになく元気のない声で言った。
「あのね、憂」
「ん?」
お姉ちゃんは手を止め、顔を伏せて、わたしの顔色をチラチラと窺っている。
「どうかしたの? あ、お腹の調子が悪いなら残してもいいよ」
お姉ちゃんは頭を振って否定する。
「あのさ、驚かないで聞いてね」
「う、うん」
驚かないでとは、どういう意味なのか。
それはつまり驚きを与える可能性がある話なのか。
わたしはこれから展開されようとされている話を予想しようとした。
けど、それより先にお姉ちゃんが言葉を続けた。
「わたし、もう駄目みたいなんだ」
「だ……め……?」
「なんでか解らないけどさ。もうすぐ消えちゃいそうな気がする」
「消えるって……」
「解るんだよ。もう時間がないって。今日の夜にはもういないかもしれない」
「そんな……」
そんな、そんなことってない。
お姉ちゃんが、いつかいなくなってしまうのはわかっていた。
わかっているつもりだった。
でも、実際にこんなにも明確に言われてしまうと、その理解が如何に不十分であったかを実感する。
この一週間、時間があったにも拘らず、覚悟を決めることが出来ていなかった。
日常に潜む非日常に備えていなかったのだ。
非日常は常にわたしの眼前に迫っていたのに、わたしは目を向けようとはしていなかった。
「憂……」
お姉ちゃんの顔に笑顔はない。
「いつまで……いられるの?」
「分からない。けど、今すぐじゃないよ」
「そう……」
わたしはどうしたらいい。
残りある時間、どのように過ごせばいい。
お姉ちゃんの為に何が出来る。
突きつけられた現実に、まともに思考することが出来なかった。
いつの間にか、お姉ちゃんが目の前にいた。
そして、両手をわたしの両肩に置くと口を開いた。
「憂、そんな顔しないで」
「お姉ちゃん……」
「人って、死んだら戻ってこないんだよ。本来なら、わたしがこうやって憂の前にいるのだっておかしいぐらい」
「そんなことないよ。お姉ちゃんは……お姉ちゃんは……」
「憂っ!」
いままで聞いたことがないぐらいに鋭い声。
わたしの肩に載る手に力が入る。
「わたしの目を見て」
その声に従って、正面から真っ直ぐに視線を向けた。
宝石のように光を反射する瞳には、今にでも泣き出しそうな、わたしの顔が映っていた。
「憂、お姉ちゃんのお願い聞いてくれる?」
「お願い?」
お姉ちゃんは小さく一回頷く。
「憂と泣きながら、お別れなんてしたくない。どうせなら、笑ってお別れしようよ。ねっ?」
そうは言っていたが、顔は決して笑ってはいない。
それが逆にわたしの心を強く打った。
ひょっとしたら、別れが辛いのはわたしだけではないのかもしれない。
お姉ちゃんもまた、わたしと別れるのが辛いのかもしれない。
考えもしなかった。
お姉ちゃんにとって、自分がどのような存在なのか。
唯一の妹であり、自分の姿形を見ることが出来る存在。
声を聴き、応えられる存在。
手を握り、温もりを感じ取れる存在。
お姉ちゃんからしたら、わたしはたった一人の生きた人なのかもしれない。
けど、その考えは主観を用いて作られた根拠のない認識という域を出ない。
その所為か、心の隙間を埋めんとする衝動に駆られる。
不安でしょうがない。
わたしはどんな存在なのか。
瞳を通して、わたしの何を見ているのか。
わたしには分からない。
都合よく、人間には言葉という意思疎通する為の表現法がある。
そして、幸運にもお姉ちゃんと話しをすることが出来る。
短い言葉だけでも、人はお互いを知ることが出来る。
そう、だから訊けばいい。
訊いて、自分の存在を確かめればいいのだ。
「お姉ちゃん」
依然として、目の前の双眸はしっかりとわたしを見ている。
「わたしのこと好き?」
わたしは訊かないでいられなかった。
言葉で、声で、受け取りたかった。
けど、お姉ちゃんはわたしの意には関せず、
「当たり前じゃん」と言い放った。
当たり前。
お姉ちゃんにとって、それは当たり前だった。
いや、わたしにとってもそれは当たり前だったはずだ。
長い間離れていた所為か、いつしか当たり前が曖昧模糊としたものになっていたのかもしれない。
「言ったでしょ、わたしは憂に会いに来たって」
帰ってきて間もなく、お姉ちゃんはたしかにそう言った。
「憂はわたしのこと好き?」
「好き……大好き……当たり前だよ」
そう、当たり前なのだ。
わたし達はお互いを好いている。
「ねえ、お姉ちゃん。わたしのこと愛してる?」
「え、うん」
「愛してるって言って」
「ええ~、恥ずかしいよぉ」
少し仰け反って、そんなことを言った。
「わたしはお姉ちゃんのこと愛してるよ」
ずっと言えなかった言葉。
言おうと思ったときには、お姉ちゃんはいなかったから。
お姉ちゃんは崩した顔を僅かに戻して、微笑む。
そして、
「愛してるよ、憂」と言ってくれた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
わたしはたしかに愛されていた。
そのことがたまらなく嬉しかった。
わたしは立ち上がる。
覚悟は決まった。
悲しむのはもう止めよう。
泣くのも、もう止めよう。
わたしはお姉ちゃんの為に笑顔で見送るのだ。
「憂?」
「顔、洗ってくるね」
さて、今日はなにをしようか。
朝食後、話し合いの末に海へ行くことになった。
お姉ちゃんのリクエストだったので、即決だった。
海へは片道二時間と、近くもなく遠くもなくといったところか。
泳ぐわけじゃないので、夕方前には帰ってこられるはずだ。
駅に着くまでに真夏特有の炎天下の中を歩くことになり、気力、体力がそれなりに消耗してしまった。
「あづい……あづい……」
お姉ちゃんのそんな呟きを聞いてると、余計に暑く感じる気がする。
本当に暑い。
けど、この暑さがなければ夏じゃないのだろう。
海は海水浴に来た人で溢れ返っていて、静かに海を見られる場所を探す為に歩き回った。
相変わらず、太陽の照りが強烈だったけれど、潮風や海の匂い、澄み切った青空を見ると、そんな不快な思いも気にならなくなる。
それはお姉ちゃんも同じらしく、暑さをものともせず子供のようにどんどん先に行ってしまうから、追うのが大変だった。
人気の少ない場所に腰掛けると、横一線に伸びる水平線を境に濃い青と薄い青に別れた風景が視界一杯に映った。
それはまるで、この世と天国の境界のようだ。
ざざあ、ざざあと波が寄せては引いていく。
波音がくすぐるように耳に飛び込んでくる。
「お姉ちゃん。明日ね、お母さんとお父さんが帰ってくるんだよ」
「明日ぁ。タイミング悪いなぁ、もう」
「本当だよね。折角会えたのに」
お姉ちゃんは膝に肘をたて、両手に顎を載せる。
「でも、最初から決まってたのかもね」
「最初から?」
「そう。つまり、運命っていうのかな。
わたしが戻ってきたのは、憂に会いに来たからで、それ以外はしちゃ駄目っていうかさ」
お姉ちゃんはそう言って、蹲るように顔を隠した。
「お姉ちゃん?」
「あづい……」
「うん。暑いね」
わたし達はその後も海を見ながら様々なことを話した。
その間にも刻々と時は過ぎていく。
お姉ちゃんと過ごせる時間が減っていく。
それでも覚悟が変わることはない。
けど、何かをしたいと思った。
やれることをやって、後悔しないように。
やれることがあるはずだから。
じっくりと海を堪能して帰宅した後、最後になるであろう昼食を作りながら鼻歌を歌っていると、わたしのものではない響きを持った音が聴こえてきた。
それはお姉ちゃんの鼻歌だった。
わたしの鼻歌に自然と重なり、終いにはユニゾンとなっていた。
そこでわたしは思った。
お姉ちゃんの声を残すことは出来ないかと。
わたしは早速お姉ちゃんに提案をしてみることにした。
「お姉ちゃん。お昼を食べたら歌わない」
お昼を食べ終えると、わたしは直ぐにマイク付きのラジカセを探しに行った。
ビデオカメラは試してみたけど、お姉ちゃんの姿は捉えられなかったから、ラジカセは唯一の録音機材と言っていい。
ラジカセは最近はめっきり使っていなかった所為で埃を被っていた。
埃を簡単に払い、カセットテープの差込口を開けてみる。
中にはテープが入っていなかったので、テープを用意をしなければならない。
だけど、今からカセットテープを買いに行くのは躊躇われた。
外に出ている間にお姉ちゃんが消えてしまえば、そこまでだからだ。
家に保管されているテープを探して、それを使うしかないだろう。
テープを使ったことは一度や二度だったし、自分で積極的に使ったわけでもないので、テープの保管場所については知らないと言っていい。
とりあえず、有りそうな場所として両親の寝室の押し入れを探ってみた。
しかし、押し入れには大量の荷物が鎮座しており、隅々まで探していては時間が足りないだろう。
やはり、外に買いに行った方が早いか。
押し入れの前で跪きながら考えを巡らせていると、
「憂、なにをしてるの~」
お姉ちゃんが寝室の入り口から顔を覗かせていた。
わたしはまだ録音の企みを教えていない。
「お姉ちゃん、カセットテープの場所知らない?」
「カセットテープぅ? ……ん、ああ、カセットテープね。探してるの?」
「うん、どこかにあったと思って」
「ちょっと待ってて」
お姉ちゃんは床をどたどたと音を鳴らしながら駆けていった。
場所を知っているのだろうか。
わたしも寝室を離れ、足音が向かった先の部屋を覗いた。
そこはお姉ちゃんの部屋だった。
机の抽斗の奥をなにやら漁っている。
「あったあったぁ!」
抽斗から引き抜かれた手には、テープの収納ケースが握られていた。
「よっ。セット完了~、再生っと」
お姉ちゃんがラジカセの再生スイッチをカシッと押し込む。
ラジカセがそれに続いてアナログな音を響かせると、テープがたしかに回り始めた。
スピーカーから流れてきたのは、お姉ちゃんの歌声だった。
「これ、お姉ちゃんの声だよね」
「そうそう。練習のときに録ってみようってことになってさぁ。いつのだっけなぁ」
歌声と共に聞こえる雑音が、妙に声の存在感を際立たせていた。
「それで、なんで急にカセットテープなの?」
軽音部の演奏が流れるなか、訊いてきた。
「お姉ちゃんの声を残そうと思って」
「声? 残してどうすんの」
「どうって……なにも残らないのって悲しいから」
「でも、わたしの声ならDVDに残ってるじゃん」
たしかに過去の学園祭のDVDを観れば、声を聴くことはできる。
過去と現在では違うものがある。
「今にいるから歌えるものがあるよ。お姉ちゃんが歌っていない歌が」
カーテンを開けると、陽光が部屋内を舞う埃の姿を浮かび上がらせた。
日色はもうじきオレンジになるであろう時間。
時計の針が一秒毎にカチッカチッと音を鳴らして、時を刻んでいた。
床の片隅にはテープがセットされたラジカセが置かれ、コンセントにはそのプラグが接続されている。
部屋の中央には歌詞が書かれた紙を持ってお姉ちゃんが座っており、わたしはギターを抱えながら、いささか離れて座っていた。
今から歌おうとしている曲を、お姉ちゃんは弾いたことも歌ったこともない。
わたしはこの曲だけは必死に練習をして弾けるようになっていた。
お姉ちゃんが生前に書き残した歌詞を元に作られた曲だ。
だから、お姉ちゃんは歌詞を知っている。
歌は先日のDVDで予習済みである。
「憂、準備オッケー?」
問いかけに、わたしは深く頷いて応える。
それを見て、静かに録音のスイッチが押された。
人差し指と親指に挟まれたピックが、ギターの弦と触れ合って音色が弾き出される。
刻まれるリズムにお姉ちゃんの歌声が乗る。
まるで空を自由に羽ばたく鳥のようにそれは優雅だった。
その声にわたしは自分の声をそっと重ねる。
たった二人だけのアンサンブルが部屋にこだました。
不思議な光景、不思議な感覚だった。
今、この瞬間、この部屋はどこか違う世界に位置している、そんな感覚。
橙色に近い鮮やかな日の光が部屋に差しこみ、お姉ちゃんがそれを纏いながら歌っている。
お姉ちゃんが肩を左右に揺らす度に髪はふわりと揺れ動き、瞬きをする度に橙色の光を宿した瞳がチカチカと明滅し、口は歌詞を表現する為にその形を変えていた。
その一挙一動から目が離せず、自分がちゃんとしたコードを弾いているかさえはっきりとしない。
それでも楽しくて、嬉しくて、幸せで、自然と笑みが零れてしまう。
歌うお姉ちゃんも柔和な笑みを浮かべていた。
ガシッという音に続いて、テープは回るのを止めた。
それと同時に静寂が部屋に訪れる。
その中でわたしはほっと吐息をもらす。
はちみつみたいに甘ったるい余韻が部屋には漂っていて、体中に浸透するように満足感を与えてくれる。
ギターを下ろし、お姉ちゃんの表情を読み取ろうと試みる。
けど、お姉ちゃんはわたしに背を向けている為に、表情を窺うことが出来なかった。
「――――ありがとう」
そんな声が聞こえた。
「お姉ちゃん?」
それはたしかにお姉ちゃんの声だった。
「ありがとう、憂」
「なにが?」
感謝の言葉が何に対してのものなのか、わたしには解らない。
「……暑いね。窓開けよ」
お姉ちゃんがそう言ったので、わたしは素直に従い、窓に手をかけた。
窓をスライドさせると、生温い風が部屋に入り込んでくる。
「憂、会えてよかったよ」
背後の声に咄嗟に振り返った。
歌詞が書かれた紙が、床にひらりと落ちていく。
「おねえ……ちゃん……」
呟いた声は行き場がなく孤独だった。
お姉ちゃんが消えた。
いなくなってしまった。
とうとう時間が来てしまった。
でも不思議と、感傷の気持ちはなかった。
涙も出ない。
喜びでも悲しみでもない、それ以外のなにか温かい感情が胸に湧き上がっていた。
その感情は血肉に溶けるように体中に沁みていき、未知の力を漲らせた。
わたしは床に落ちていた紙を拾い上げる。
紙には黒い染みが模様のように点在していた。
「お姉ちゃん、泣いたんだ」
わたしには笑顔でって言った癖に、自分はしっかりと泣いていたみたいだ。
わたしはそれがなんだか可笑しくて、頬を緩めてしまう。
紙を折りたたんで机の上に置き、窓の外を眺める。
夕焼けと影を持った雲とが、絵画のように調和している風景を見せていた。
わたしはしばらく風を浴びながら風景をぼんやりと眺め、幾何か時間を潰すとラジカセの前に座って、カセットテープを巻き戻した。
次いで、再生スイッチを押す。
そして、わたしは録音の結果に耳をすました。
――――これから夏が訪れる度に、わたしはこの年の夏を思い出すだろう。
お姉ちゃんと二人で過ごした、あの一週間を。
わたしはもうお姉ちゃんのことで泣くことはないと思う。
それは後ろ向きなものではなく、前向きであり成長だ。
お姉ちゃんのお陰で過去に手を振ることが出来た。
忘れるのではなく、自分の中で消化することで未来への道はより確かなものになったと思う。
けど、そのようなことよりも、わたし達二人にとって最も大事なことは――会えてよかった――その言葉に集約されるのだろう。
愛する人に会えてよかった。
夏休みも終わりが近い今日、家に元軽音部の皆さんを集めた。
居間ではあの日のラジカセに視線が集中している。
わたしは静かに再生スイッチを鳴らす。
スピーカーからギターの音が流れ出し、続いてメロディーに乗った声が聞こえてきた。
その声が誰のものなのか、それを聴いて皆さんがどのような顔をしたかは、ご想像にお任せしたいと思う。
お わ り
245 : ◆hVull8uUnA - 2010/02/28(日) 05:26:13.03 CnejB+PP0 122/122
グーテンモーゲン
支援してくれた方、読んでくれた方ありがとうございます。
この作品は、けいおん「非日常的ラブソング」というSSの続編となっております。ですので、こちらも読んでもらうと理解が早いかと思います。
けいおん「非日常的ラブソング」
http://ayamevip.com/archives/54107649.html
誤字が多いのと、上にあった唯が冷房が苦手という有り難いレスを貰いましたが、次回以降は気をつけます。
では、また会おう