ひらさわけ!
憂「えっと、三年ぐらい前の話だけど、していい?」
梓「三年前だと…唯先輩が中三の時?」
憂「そうだよ。たしか九月ぐらいだったかな」
梓「あ。そのころって……」
憂「うん。お姉ちゃんが引きこもってたころ」
元スレ
憂「手をつないで、外へ出よう」
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1286656201/
梓「でも想像できないなあ……だってあの唯先輩でしょ?」
憂「お姉ちゃんはずっとやさしかったよ」
梓「まぁ、ニートになってごろごろしてるだけなら目に浮かぶけど…」
憂「あはは、それ律さんにも言われちゃった」くすっ
梓「私も憂や純からちらっとは聞いてたけど、つまり……そういう事情だったんだよね?」
憂「……うん。学校、行けなくなっちゃって」
梓「ごめん、つらかったらいいよ」
憂「気にしないで、梓ちゃんには聞いてほしかったから」
梓「憂がそういってくれると、ちょっとうれしいかも」
憂「ありがと……えっと、そのころベタってお魚飼っててね」
◆ ◆ ◆
唯「ういー、アイスー…」
憂「おはようお姉ちゃん、お昼ごはん食べてからね」
九月のよく晴れた水曜日のことでした。
カーテンの閉められた薄暗い部屋ではたきを掛けていると、お姉ちゃんの眠そうな声が聞こえてきました。
唯「あれ…うい、起きてたの」
そっとベッドに腰かけた私を見上げる、まだ寝ぼけた目のお姉ちゃん。
熱っぽい湿気を帯びた布団から白い腕だけを出すと、私の手を探して握ってくれました。
布団の中で汗ばんだ手のひらはどうしても昨日の夜を思わせるので、あわてて話題をそらします。
憂「えっとね、九時ごろにおばあちゃんが来てたんだ。お野菜とか持ってきてくれたよ」
唯「そっかぁ……ありがと、うい」
お姉ちゃんはふわっとほほえみを浮かべてまた布団の中にもぐり込もうとします。
遮光カーテンに光を遮られたこの部屋はどこか湿っぽく、教室に忘れられた水槽のようによどんだ空気に満ちています。
でもその生ぬるい空気もなぜだか居心地がよくて、なんだかお姉ちゃんと一眠りしたくなってしまいました。
いけない、いけない。
私は無理やりお姉ちゃんのベッドから立ち上がり、カーテンを開けました。
差し込む強い光は、この部屋の水分すらも蒸発させていくようで、心地いいはずなのになぜか心もとなく感じてしまったりして。
唯「ん…まぶしい……」
お姉ちゃんのうるんだ二つの瞳はまだ夢と現実との間をさまよっているみたいで、陽の光にきゅっと目を細めています。
カーテンをもう一度閉めてあげようかちょっとだけ迷いましたが、やっぱり起こすことにしました。
憂「ほら、もう十一時過ぎなんだよ?」
もぐり込もうとするお姉ちゃんの布団を少しだけゆすって声を掛けると、お姉ちゃんは中から顔を出してごまかすように笑いました。
つられてこちらの口元にも笑みがうつってしまい、胸の奥にほっこりした熱が点るのを感じます。
日差しに乾いていくシーツをすがり付くように握り締めたお姉ちゃんがいとおしくて、カーテンを開けてしまったことをちょっと後悔します。
本棚のホコリすらしっとり湿らせるような心地よい蒸し暑さと、甘味料のように吹き込むかすかな風。
重なった二つの含み笑い。
……ごめんなさい。
こんな瞬間が一番幸せなんです。
唯「じゃあご飯たべなきゃだねぇ」
お姉ちゃんは布団の中をごそごそと探り、脱ぎ捨てた下着をつけなおして身体を起こします。
見慣れた着替えなのですが……やっぱりどうしても意識しちゃうので、パソコンのホコリをわざと念入りに落とします。
すると机の下で電源が入れっぱなしのモデムがかなり熱くなっていました。
お姉ちゃんは昨日、一緒に寝る前に誰かとチャットでもしていたのでしょう。
一晩ずっと点いたままだったモデムは人肌ほどに温まり、今も接続先を求めてちかちかと点滅しています。
このままだと壊れてしまうのですばやく電源を落として、早く冷めるように日差しの当たらぬところに移しました。
唯「ねぇ、憂」
ぼんやり考えていたら、すっかり目を覚ましたおねえちゃんに話しかけられました。
その声がやけに冷たく聞こえて、息苦しく感じて一瞬戸惑ってしまいます。
唯「……やっぱいいや」
憂「あっごめん、なぁに?」
唯「私。引きこもり、やめた方がいいよね」
お姉ちゃんは今年で中学三年なのですが、いまは学校に行っていません。
学校でうまくいかなかったせいで、玄関から外に出ようとすると体調を崩して立っていられなくなるみたいです。
心の病気で家から出られないお姉ちゃんが心配で私も付き添う生活が続き、かれこれ半年近く経ちました。
両親は今もどこか遠い国を飛び回っていますが、お隣のとみおばあちゃんと和ちゃんが週に二、三度食料などを持ってきてくれるので不自由はしていません。
思い返すと昔から私たちの両親は不在がちでした。
私も両親に抱きしめられるより、とみおばあちゃんに抱きしめられたことの方が多かった気がします。
お母さんの腕の感触や手の温もりはかろうじて覚えていますが、お父さんの手のひらは今ではよく思い出せません。
もちろんお姉ちゃんはあの頃からその百万倍抱きしめくれましたけどね。
言葉のあやでなく本当に、平沢憂はお姉ちゃんの腕の中で育ったようなものなんです。
とにかく、私たち二人は和ちゃんやおばあちゃんの助けを借りながらもなんとか暮らせています。
狭い家の中だけれど私たちは満ち足りた生活を送っている。そうに決まってるんです。
けれどときどき……これから先のことを考えると、不安でたまらなくてめまいを覚えてしまうのです。
そう。今みたいに。
憂「無理、しなくていいんだよ? お姉ちゃん」
お姉ちゃんが無理に外に出てしまったら、どうなってしまうんだろう――
自分の声が変に震えてしまって、唇がうまく動きません。
どうしよう。お姉ちゃんを元気付けなきゃいけないのに……。
唯「あっごめんね、なんでもないよ。 じゃあお昼にしよっか!」
お姉ちゃんはそう言ってベッドから飛び出して、Tシャツにホットパンツだけの格好で私の手を引きました。
やわらかい外の日差しを集めたようなお姉ちゃんの笑顔は、いつだって何もかもを忘れさせてくれます。
手を引かれてリビングに着く頃には、不安の種も消えてしまったみたいです。
でも、お姉ちゃん。
家の中だけど、一応ブラはつけてほしいかな……。
しばらくして、私たちはお昼ごはんをいただきました。
と言ってもちゃんとしたものでなく、冷蔵庫にあった鶏肉と卵を使って簡単な丼ものを作っただけなのですが。
ご飯を作っている間にソファーに仰向けで横たわったお姉ちゃんが向けた、さかさまの笑顔。
床に垂れ下がった伸びた髪は窓から吹き込む風にかすかに揺れる姿は、台所でガスを使う私の心も風鈴のように涼ませてくれました。
唯「ええー…だって、寝てる間とか背中きっついんだもん」
憂「お姉ちゃん、そんなこと言ってるといいお嫁さんになれないよ?」
テーブルに二人向かい合って箸を動かしながら、そんなたわいもない会話を交わします。
みりんの量を少し変えたのが功を奏したのでしょうか、お姉ちゃんのほっこりした顔も今日は多いようです。
机の下でちょっとこぶしをにぎって、ガッツポーズ。バレたらはずかしいな……。
唯「うい? 憂、きいてる?」
憂「あっごめんお姉ちゃん」
おいしそうに食べるお姉ちゃんを眺めていたら、いきなり話しかけられてびっくりしてしまいました。
唯「ははーん、さては私の顔に見とれてましたな」
憂「もう……そんなことないよ、お姉ちゃん」
あわててお漬け物に箸を伸ばして落としそうになってしまいます。
なんでわかっちゃうんだろう、私のこと。
唯「でもね、私お嫁さんにならなくてもいいかな」
ふいに箸を止めて、お姉ちゃんはそんなことを口にしました。
憂「どうして?」
唯「憂と結婚すればいいじゃん」
それはお姉ちゃんにとって、話の流れからふいに湧いた軽口に過ぎなかったのでしょう。
けれど胸の奥に無邪気に飛び込んできたその言葉は内側から必要以上に甘く蝕んでいく気がして、
唯「……あは、そんな顔しないでよ。そういうことじゃないって」
憂「もう。変なこと言わないでよ、お姉ちゃん」
場をつなぐようにお姉ちゃんと笑い合ってみます。
けど、ほほえみを浮かべようとするこの唇はどこかぎこちなくて。
なんとなくだけど、お姉ちゃんも無理して笑い合おうとしてるみたいで。
唯「じゃあ、きょうはお皿洗うよ」
憂「うん。……ありがとう」
気を使わせてしまったのが少しうしろめたいです。
私、お姉ちゃんに迷惑かけてばっかりだ……。
なにかしていないと落ち着かなくて、とりあえず電話の棚から熱帯魚用のえさを取り出しました。
私たちはリビングの窓際に置いた金魚鉢でベタというお魚を飼っています。
ゆれる水草と透明な水の中で、空をひとかけら持ってきたように青々とした尾ひれが揺れているのを見ると私もどこか涼しげな気分になります。
このベタは半年ぐらい前、病院帰りにお姉ちゃんとお散歩に行ったついでにホームセンターのペットショップで見つけました。
水槽の照明に照らし出されたベタはこのときものんびり泳いでいて、お姉ちゃんは一目惚れしてしまったみたいです。
唯『小さくてかわいくてやわらかそうで、なんだか守ってあげたくなっちゃうなあ…』
その時、お姉ちゃんは私の手をつないだまま水槽を見つめて言っていました。
あったかい手を握りしめながら耳元でつぶやかれたので、私に向けて言っているような気がしてちょっと顔が熱くなってしまいました。
そうしてその場のお姉ちゃんの勢いに流されて買ってしまったベタですが、今も小さな金魚鉢のなかで気持ちよさそうに泳いでいます。
名前はベタのたーくん。
もちろん、名付け親はお姉ちゃんです。
お姉ちゃんらしい、かわいい名前だと思いませんか?
憂「たーくん、お昼ごはんだよ」
金魚鉢にえさを一粒落とすと、たーくんは振り向いてえさ粒をぱくっと食べました。
振り向いたいきおいで水草の気泡がひとつふたつ浮かんで水面に消えました。
日差しの向きが変わったからか、金魚鉢を通した半透明の影がゆらゆら揺れています。
そういえば、朝起きたときにも私はえさをあげてしまいました。
むかしグッピーを飼っていた和ちゃんに「えさのあげすぎは水質を悪くして、寿命を縮める」って言われたのを思い出します。
憂「……ごめんね、おなかいっぱいだったかな」
なんとなく、不安を感じたりいたたまれなくなるたびにたーくんにえさをあげてる気がしました。
とりあえず手のひらに残ったえさ粒をえさの缶に払い落としました。
唯「きゃっ」
後ろでガラスの割れる音が聞こえました。
憂「お姉ちゃん大丈夫?!」
唯「ごめんね……コップ、割っちゃった」
あわてて駆け寄ると床にはちらばったコップの破片。
私はすぐお姉ちゃんの指先や手の甲や足首を見渡しました。
よかった、ケガしてなかった。
ほっと一息ついてから、お姉ちゃんに少し離れててもらって袋に大きめの破片を集めていきます。
唯「憂、ごめんね。私、なんにもできなくって」
その場に立ちすくむお姉ちゃんが沈んだ声でつぶやきました。
そんなことないよ。
だって、お姉ちゃんは私のために――。
唯「あっ拾うの手伝うよ!」
憂「ううん、大丈夫。それより掃除機持ってきてくれるかな?」
唯「あ……うん、わかった」
できることを見つけてうれしそうなお姉ちゃんは、ぱたぱたと足音を立てて飛び出していきました。
唯「ふぅ…これで大丈夫かな」
憂「ちゃんと掃除したし、大丈夫だよ」
お姉ちゃんが掃除機で小さな破片を吸い取ったあと、私たちは台所の床の拭き掃除をしました。
コップは割れてしまいましたが、おしまいには前よりも床がきれいになってうれしいです。
これもたぶん、お姉ちゃんのおかげです。
こんなこと言うと、また純ちゃんに叱られちゃいそうですけどね。
憂「床きれいになってよかったね」
唯「えへへ、まさしく七転び八起きだね!」
お姉ちゃん、それはちょっと違うと思う……。
唯「あっそうそう、今日は和ちゃんがね、」
そう言い掛けたとき、チャイムが鳴りました。
インターホンをのぞき込むと荷物を手に持った和ちゃんがいます。
和『お米入ってるから早く開けてくれない?』
憂「うわさをすれば、って感じだね」
唯「もしかしてタイミング見計らってたとか?」
和『…何のタイミングだっていうのよ』
二人でくすくす笑ってしまいます。
重い荷物を抱えてる和ちゃんがかわいそうなので、掃除機の片づけをお姉ちゃんに任せて私は玄関に向かいました。
憂「和ちゃん、今日早いね。まだ十二時だよ?」
和「ほら、校内模試で半日なのよ……って、知らないわよね」
制服姿の和ちゃんは牛乳やお米の入った大きなビニール袋を玄関横に置くと、そばに座り込みました。
ドアの外では強い日差しが縁石を白く焼き尽くすほどに照っています。
こんな日差しの中、お姉ちゃんが外に出たら大変なことになってしまいそうです。
私はドアを閉め、それでも窓から差し込む日光から一歩足を引いて、ビニール袋を抱え上げました。
和「はぁ…この量はなかなか腰にくるわね。せっかくだからってさすがに買い込んじゃったかしら」
憂「なんか今の和ちゃん、おばあちゃんみたい」
和「買い出し班にひどいこと言うわね、あんた。ところで唯の調子はどう?」
唯「あ。和ちゃん!」
廊下の向こうから冷たい水のように澄んだ声が聞こえて、思わずほころんでしまいます。
掃除機をしまったお姉ちゃんはそばに腰掛けている和ちゃんを後ろからスリーステップでいきおいよく抱きしめました。
和「ちょ――唯、危ないじゃない!」
唯「だって三日ぶりだよー?」
少しふりほどこうとした和ちゃんも、あきれたように笑って抱きしめられました。
ちょっとうらやましくなってしまいます。
和ちゃんを抱きしめている、お姉ちゃんが。
お姉ちゃんに抱きしめられる、和ちゃんも。
和「……憂も見てないでちょっとは止めなさいよ」
憂「えへへ、ごめんね」
私たち三人はリビングで和ちゃんの持ってきたケーキを食べることにしました。
お茶を入れている間、和ちゃんが担任の先生から預かってきた課題を取り出しました。
厚くて大きなその問題集はどうやら百ページ近くあるらしく、お姉ちゃんはそれを見るなり力を失って椅子に倒れこんでしまいます。
唯「の、のどかちゃん…量多くなってない?!」
和「私が出したんじゃないわよ」
唯「でもこのワークブック一冊は多いよ! それにこの範囲わかんないもん! ぶーぶー!」
お姉ちゃんはぱくぱく口を動かしたり数学の問題集を机にぱんと叩いたりして抗議します。
なんだか水揚げされた魚のように見えて、ちょっとおかしかったです。
めくれたページを見ると計算用の余白が多かったので、見た目ほど大変な量ではないみたいです。
とはいえ、大きくて重たいこの問題集自体に最初からおそれをなしてしまうお姉ちゃんの気持ちも分かります。
これじゃあ先が見えないもんね。
和「一ヶ月あるんだから余裕じゃない。たかが一日三ページちょっとでしょう。少しずつ進めていきなさいよ」
唯「あは、あはは…」
お姉ちゃん、昔から夏休みの課題を始業式前夜に始めるタイプだもんね……。
なんとなく一ヶ月後にあわてる姿が浮かんでしまって、思わず笑ってしまいます。
和「ほら、憂だって笑ってるわよ。ちょっとずつ解いてくしかないじゃない」
唯「ういーっ!」
憂「あはは、ごめんお姉ちゃん」
和「あっそうそう、いいもの持ってきたわよ。最近、唯が元気ないって聞いてたから」
唯「えー? そんなことないよ、うい」
お姉ちゃんはきょとんと小首をかしげます。
憂「うーん…ほら、朝だって」
唯「あれはなんでもないって。気にしすぎだよお」
私は腕をゆすって困ったように笑うお姉ちゃんの声は、なぜか必要以上に強く聞こえました。
お姉ちゃんは外が怖くて出られないけど、本当はいつもどおり元気一杯なんだ。
そう思わせたがっているかのように。
でも、朝に「引きこもりやめる」って――
憂「――あつっ」
唯「う、憂大丈夫?」
唇を刺すような痛みが走ります。
その場しのぎに口に含んだ紅茶が思ったより熱くて、思わずむせてしまいました。
和「まったくもう、唯だけじゃなくて憂までそんなんじゃどうするのよ」
憂「ご、ごめんなさい…」
唯「そうだよ、憂もしっかりしなくちゃねっ」
和「これ、突っ込むところ?」
わざと胸を張って答えるお姉ちゃんにまた笑ってしまいます。
考えすぎなのかな。やっぱ。
考えすぎる頭をお姉ちゃんの優しさにあずけると、なんだかこのままでいいような気もしてきました。
唯「ほら、もうさめたよ?」
お姉ちゃんは私のコップをひたひた触って温度を確かめてから渡してくれました。
落ち着いて、やけどしないようにそっと息を吹きかけて、紅茶を口に含みます。
少し冷めた、でもほんのり熱の灯った液体が身体の奥へと流れていきました。
和「もう一心同体ね」
和ちゃんの笑い顔が、少し呆れているように見えて思わず目を背けてしまいます。
唯「それで和ちゃん、いいものって?」
和「ああ、これこれ」
和ちゃんが取り出したのは貯金箱ほどの大きさのジャムびんでした。
和「ローヤルゼリー。滋養強壮にもいいらしいわよ、毎朝早起きして食べなさい」
唯「は、はあ……」
お姉ちゃんはびんを受け取ったものの、どうしていいかわからないのか私に目を向けました。
ときどき私も和ちゃんが分からなくなります……。
和「憂、あまりあげすぎないようにね。肝油ドロップのこと覚えてるでしょう?」
憂「う……うん、小三のときだよね」
小学三年のとき、学校で肝油ドロップの販売業者が来ました。
ビタミンCが含まれたサプリメントのようなもので、食べると夜盲症の予防や身体の成長に良いそうです。
そのときお姉ちゃんはもの珍しがってとみおばあちゃんに頼んで注文し、届くやいなやすっかり肝油ドロップにはまってしまいました。
たしか、おばあちゃんや私に隠れて一日十数個食べてお腹を痛くしちゃったんだっけ。
唯「あぁ…懐かしいね、あれ甘くてグミとハイチュウの間みたいでおいしいんだよね!」
和「買ってあげないわよ」
唯「まだなにも言ってないよ私?!」
唯の考えてることぐらい分かるわよ。
そう言う和ちゃんは呆れたように、でも優しくほほえんでいました。
憂「そうだよね。いくら身体のためだからって、甘くておいしいからって、たくさん食べ過ぎたら身体に毒だよ」
すると和ちゃんは不意に顔を曇らせ、なにか私たちの向こう側を見やるような遠い目をして黙り込んでしまいました。
唯「……? どうしたの?」
和「いや……憂の言うとおりだなって」
憂「エサのやりすぎはよくない、ってこと?」
和ちゃんはちょっと困ったような顔をして、金魚鉢の方をちらちらと見やりました。
まるで何か代わりの言葉を探しているかのようでちょっと不自然です。
私なんか変なこと言っちゃったのかな……。
和「私ほら、昔グッピー飼ってたじゃない」
唯「ああ、小二の時だよね!」
和「それであの時も私、エサあげすぎて逆にグッピーを病気にしちゃったことがあって……」
だからそうやって手を掛けすぎるとダメになることもあるのよ。
和ちゃんはその言葉を、なんだかお姉ちゃんの方に向けて言っているようでした。
お姉ちゃんも何か言いたげな顔をしていますが……よくわかりません。
唯「うーん…たーくんはいっぱいエサもらえてうれしいと思うけどなぁ…」
和「唯じゃないんだから」
唯「ねぇねぇ和ちゃん、参考書いっしょにやろ?」
ふいに顔を上げたお姉ちゃんが言いました。
お姉ちゃんから参考書をやろうなんて、珍しいな。
和「えっ…うん、いいけど。じゃあ憂、後片付け頼むわね」
憂「うん。しばらくしたらおやつも持ってくね」
あの時の感覚はよくわかりません。
言葉に出せない何かがよどんだ水のように部屋の中を満たしている気がして、少し息苦しく思えました。
それからお姉ちゃんたちは部屋で勉強することになり、私もお皿を洗い始めます。
和ちゃんの言葉を聞いたせいか、心なしかベタのゆるやかな動きも弱ってきているように見えたのは、気のせいでしょうか。
――――――
和『……なに?』
唯『なにって、平方根とかよくわかんないから教えて?』
和『そうじゃないでしょ。何の話なのよ』
唯『……憂に変なこというのやめて』
和『それは、だって…唯も、このままじゃダメなの分かってるでしょう?』
唯『分かってるよ』
和『じゃあ少しでも良い方向に向かった方が――』
唯『分かってないのは和ちゃんの方じゃん』
和『……私も、悪かったわよ』
唯『もういい。早く帰って。チャットしたいから』
和『それを言うなら唯、あんただって――』
唯『憂は悪くない!』
唯『悪いのは、ごろごろして学校に行かない私なの』
和『ちょ、ちょっと唯』
唯『もういいじゃんそれで。私は一生家でごろごろしてニート暮らししてやるから』
和『……分かったわ。話はまた今度にしましょう』
唯『うん』
和『でもね』
唯『……なに』
和『あんたの憂に対する付き合い方も、褒められたものじゃないと思うんだけど』
唯『……だって憂のこと、本当に大好きなんだもん』
和『じゃあ憂のために前向きなことしなさいよ』
唯『してるよ!』
和『一日じゅう引きこもってネットするか寝てるかが、憂のためなの?』
唯『……和ちゃんは分かってるでしょ』
和『唯だって、いつまでもこんなことしてられる訳じゃないことぐらい分かるでしょう』
唯『もういい。この話終わりにしよ』
和『…………』
唯『私もう寝るから。おやすみ』
和『……憂のこと、ちゃんと考えてあげるのよ』
唯『うん。……ごめんね、和ちゃん。言い過ぎたよね』
和『いいわよ。私のせいでもあるし』
――――――
憂「あれ、和ちゃんもう帰るの?」
和「うん。唯、ひさしぶりに頭使って疲れちゃったみたいね」
お皿を洗い終わってクッキーとレモンティーを持ってお姉ちゃんの部屋に向かうと、和ちゃんはもう帰り支度をはじめていました。
部屋の中にはふくらむ布団の中に、寝ぐせが付いたままのお姉ちゃんの髪が見えます。
和ちゃんは一度出した筆記用具をてきぱきとしまい、それから机の上の消しかすをさっとゴミ箱に落とします。
その間、お姉ちゃんはずっとお布団の中でぼーっとしていました。
憂「お姉ちゃんの様子はどう?」
和「心配ないわ。またしばらく寝たら起きてくるはずよ」
和ちゃんは優しそうに言うのですが、それに反して部屋の中はやけに空気が重く感じるのです。
私は部屋に入って遮光カーテンを開けて外の風を入れました。
まぶしがってお姉ちゃんは布団をかぶります。
和「じゃあ行くわね。唯、あんまり憂を心配させたらダメよ」
唯「……和ちゃんだって」
お姉ちゃんの声は変にとげがあって、また少し息苦しさを覚えました。
この部屋には酸素が足りない、なんとなくそう思えます。
……お姉ちゃんさえいれば、大丈夫なはずなのに。
和ちゃんを見送ってからお姉ちゃんの部屋に戻りました。
ですがお姉ちゃんはパソコンを始めたらしく、部屋に入ってきて欲しくないみたいです。
リビングに戻り、一人分あまったクッキーとレモンティーをテーブルに置いてソファーに腰を下ろします。
気づけばもう陽が傾き始め、オレンジの光が窓際の植物や金魚鉢の影を伸ばしています。
しばらく網戸のままにしていたせいか、乾いてしまった部屋の空気がやけに冷たく感じました。
私も昼過ぎのお姉ちゃんみたいにソファーに仰向けに寝転がって、床や天井をぼんやりと眺めてみました。
和ちゃんは、本当はたぶん私たちの関係を快く思っていないのでしょう。
それなのに私たちのお世話をしてもらって……迷惑をかけてばかりです。
床に広がった半透明の影の中でもたーくんが不安げに揺れ動いているのが見えました。
憂「たーくん」
なんとなく、影に向けて声を掛けてみます。
なにを言おうとしたのかは自分でも分かりません。
ですが、言葉は浮かび上がるのを待っていた気泡のようにするすると湧いてきました。
憂「……ごめんね、こんな狭いところに閉じ込めちゃって」
ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい……。
いつしか私は眠ってしまって、夢を見ていました。
水の中をどこまでもどこまでも泳いでいくような、そんな夢を。
青く深い海の中をどことも知れず泳いでいきます。
はじめ誰かと泳ぎ始めたころは楽しかったですが、気づけば泳ぎ続けているのは私一人だけでした。
身体が疲れて動かなくなっても、息が詰まっても、泳ぐのをやめられません。
だって、泳ぐのをやめたら死んでしまうから。
それに――ここを泳ぎきったら、とてもいいところにたどり着くのだと。
誰かがそう言っていた記憶があるのです。
早く無事にたどり着かなきゃ。そしたらみんな喜んでくれるはずなんだ。
それなのに、私の身体は少しずつうまく動かせなくなってしまいます。
うまく泳げなくなればなるほど身体に酸素が行きわたらなくて必死でもがきます。
けれどもう光すら届かないほどの深みに来ていた私を、水圧がゆっくりと押し潰していきます。
助けてよ。
息が出来ないよ。
もう、泳げないよ――。
そんな時、唇から温かい息が流れ込んできました。
唯「……えへへ。おはよう、うい」
水中から浮かび上がるようにして目を覚ますと、ぼやけた視界の向こう岸にいたのは私の大好きな人でした。
抱え上げるようにそっと腕を回したお姉ちゃんの背中に私もしがみ付くように抱きつきます。
気づけばさっきまでの息苦しさが嘘のように薄れていました。
あまりの安心感に、思わず目から涙があふれてしまいます。
唯「よしよし。いいこいいこ」
お姉ちゃんはそれから何も言わず、抱きしめた私の頭をずっと撫でていてくれます。
憂「……あのね、こわい夢、みたの」
唯「そっかぁ。それはつらかったね……」
憂「うん……くるしくて、息ができなくなったの」
唯「でも大丈夫だよ、憂にはお姉ちゃんがいるからね」
気休めだと誰かは言うでしょう。
ともすれば気持ち悪いとさえ思われているかもしれません。
だけど――何よりも、お姉ちゃんの言葉と温もりは私を守ってくれるんです。
憂「おねえちゃん……はなれないでね」
唯「うん。ずーっとそばにいるよ」
ごめんなさい。
でももう少しだけ、ここにいてもいいですよね?
憂「お姉ちゃん、今日はパソコンやらないの?」
唯「んー、チャットの人が来てなかったんだよねぇ」
もう陽もすっかり沈んだ頃、夕食を作り始めました。
いつもこの時間、お姉ちゃんは部屋でパソコンを使うか本を読むかして過ごしています。
ですから食事を作っている時にお姉ちゃんがそばにいると、なんだかちょっと落ち着きません。
唯「あぁっ! おはぎ落としちゃったよう……うい、ティッシュどこぉ?」
いろいろな意味で、落ち着けません……。
私はウェットティッシュを持ってソファーのところに行き、一緒に床を掃除します。
コップといい、おはぎといい、なんだか今日のお姉ちゃんは調子が悪いみたいです。
最近、長い時間パソコンを使うのが多くなったからでしょうか。
……お姉ちゃん、ネットでどんなことしてるんだろう?
憂「ねえねえ、いつもチャットでどんな人と話してるの?」
唯「あー……えっとね、クリスティーナさんっていうんだけどね」
憂「ええっ、外国人の方なの?」
唯「ちがうよ、ハンドルネームだよ。ネットの中の名前」
お姉ちゃんの話だと、ネットの中では身元がばれないように違う名前を使うのだそうです。
ちなみにお姉ちゃんは「あいす」って名前でした。お姉ちゃんらしいなあ……。
唯「それでね、クリスティーナさん大学生で、バンドやってるんだって!」
憂「へえ……どんな音楽やってるの?」
唯「ええっと、なんだかいかつくて怖そうなやつ……」
お姉ちゃんは頭の上に指で角を立てたり、手を怪獣のようにこわばらせたりしました。
いったいどんなバンドなんだろう……。
床をきれいにした後、お姉ちゃんとおしゃべりしながら夕食を作って一緒に食べました。
唯「あれ? なんかこの煮物あまい!」
憂「和ちゃんからもらったハチミツを入れてみたの。どうかなあ?」
唯「おいしいよ、憂はやっぱ天才だね!」
工夫した料理を作ったとき、お姉ちゃんがそう言ってくれるのはうれしいです。
ですがお姉ちゃんのおいしそうに食べる様子は言葉以上にうれしくて、なんだか心があたたまるようです。
憂「でもローヤルゼリーだと思って見てみたら普通のハチミツでびっくりしたなあ…」
唯「その二つって違うの?」
憂「ローヤルゼリーは錠剤か粉末だよ。でも……こんなに高いものもらっちゃっていいのかなあ?」
唯「あっそれは大丈夫だって和ちゃん言ってたよ!」
和ちゃん甘すぎるのは苦手なんだって。
栄養があって成長に必要なのはわかるけど、甘すぎて体悪くしそうで……みたいに言ってたよ。
そう、お姉ちゃんは無邪気な笑顔で教えてくれます。
憂「甘すぎると、からだが悪くなるのかなあ……」
唯「……うい?」
憂「あっごめん、なんでもないよ」
甘すぎると、身体に良くない。
食べ終わった食器を洗いながら、なぜかその言葉が頭をぐるぐると回っていました。
ハチミツだけでなく糖分は成長に必要ですし、なかったら頭が働かなくなります。
けれど……肝油ドロップのようにそればかり食べ過ぎてしまったら、いずれお腹を壊してしまうでしょう。
唯「ういどうしたの?」
憂「えっ…なんでもないよ。お姉ちゃん、お風呂沸かしてくれる?」
唯「……うん、わかった。一緒に入ろうね!」
何か言おうとして押し留めたのか、その声はわざと明るくしたように聞こえました。
嘘が下手なお姉ちゃんはいとおしいけれど、時々どうすることもできずに苦しくなるのです。
憂「そうだね……うん」
なんとなく答えてしまいますが、こうしていていいのかも分からなくなってきました。
和ちゃんはたぶん気づいてるんだと思います。
だから「そういうこと」を続けるのはお姉ちゃんのためにならない。
今日の和ちゃんは私たちにそれを伝えたかったのでしょうか。
お姉ちゃんが引きこもりになってからの半年。
それは私にとってもかつてないほど、どうしようもなく甘い一時でした。
……いや、ダメだ。
これはお姉ちゃんの回復のためなんだ。
私は理性を働かせようと、お風呂場の方に声を投げかけました。
憂「お姉ちゃんごめんね、今日は一人で入る」
しばらくして、お姉ちゃんがお風呂から上がった後に一人で湯船につかりました。
ここ最近、お姉ちゃんとお風呂に入ることが多かったので一人でこうするのは久しぶりです。
うなじに胸元、二の腕を通って指先を一本一本洗い流す――自然とお姉ちゃんが洗うようにしてしまいます。
けれど、いつもと違って背中から伝わる熱はありません。
意識するとよけいに一人に思えてきてしまうので、シャワーの蛇口を力をこめてひねりました。
目をつむった中で温水に打たれながら、難しい考えを一度洗い流してしまおうとします。
ですが水に当たっているとさっきの夢を思い出してしまって、思わずシャワーを止めました。
……誰もいません。
水音が消えたお風呂場は、やけに静かに思えました。
なにかで埋めなければ耐えられなくなるほどに。
頭と身体を自分の手で一通り洗い流してから、ゆっくりとお湯につかります。
温かい水が身体中に沁み込んで全身を暖めてくれます。
ですが浴槽の反対側に手を伸ばすとあるはずのやわらかい肌は、今日はありません。
なんとなく目をきゅっとつむって、広くはない湯船の中に頭を沈めてみます。
そうしたら自分が狭い金魚鉢の中のたーくんになったように思えて少し楽しくなりました。
一人では広く感じる浴槽の中で、さっき見た夢のように自由に泳ぐ姿を想像してみます。
どこまでもどこまでも深く。暗い海の向こう側へ。
『海の向こう側には、幸せが待っている。』
顔の分からない優しそうな人たちが口々にそんな言葉をかけるイメージが頭をよぎります。
とみおばあちゃんや和ちゃんも手を叩いて応援してくれている気がして、深く深く潜っていくのです。
けれどそのイメージの中ではいつまで経ってもお姉ちゃんの声が聞こえませんでした。
憂「――ふぅっ」
声が聞きたくなってしまって水の中から顔を上げます。
浴室の照明に目が慣れず、まばゆさにくらくらしてしまいました。
私はどのくらい浴槽に沈んでいたのでしょうか。
水から顔を上げると急に狭い世界に閉じ込められたように感じます。
けれども程よく狭い水の中はかえって居心地がよく、泳ぐ気も薄れてしまいます。
たーくんのような魚が捕まえられて飼育されるときも、こんな感覚なのかもしれません。
憂「……お姉ちゃん」
ダメだ。
やだよ、ひとりでなんていられないよ。
お姉ちゃん、なんでお風呂にいないの?
身体の奥に空けられた穴が心を乾かしていくようで、息が詰まります。
その穴はたぶんお姉ちゃんの腕の中でしか埋められないものなのです。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。
甘い日々に我をうしなって、すでに身体のどこかが壊れてしまったからなのかな。
……いや、私に限ってはもっと前から壊れていたのかもしれないけれど。
お風呂を出た私はその晩、結局お姉ちゃんの部屋に行ってしまいました。
みなさん、本当にごめんなさい。
夜遅くに目が覚めるとお姉ちゃんのやわらかい腕に抱かれていて、それだけでずいぶん満たされるものです。
重ねた肌と、溶け合わせた汗。眠りに落ちる前に繋いだ手は、今日はまだほどけずにいてくれました。
お姉ちゃんはすっかり眠ってしまって、はだけた布団を掛けなおそうともしません。
その呼吸に合わせて上下するやわらかい胸にゆっくりと頭を乗せて、心臓の音を聞いてみたりします。
胸の奥から響く一定のリズムは私の頭をなでる時のように優しくて、空いた方の腕でもう一度お姉ちゃんを抱きしめました。
憂「お姉ちゃん……あいしてる」
身体を少し起こして、目を覚まさないようにゆっくりとキスしました。
暗い部屋で目を閉じると唇の感触がいっそう強く響くようで、もっともっとお姉ちゃんを求めたくなってしまいます。
そしてその度に自分がとても気持ち悪いものに思えて耐えられなくなるのです。
身体を重ねるようになったのは、お姉ちゃんが不登校になった辺りからです。
あの頃はおたがいにどうしていいか分からず、ただ抱きしめなきゃいけない気がして、気づくとここまで来てしまいました。
求められたくて、お姉ちゃんそのものが欲しくて、すがるようにそうしてきました。
お姉ちゃんも私のバラバラになりそうな心や身体の輪郭をなぞるように、崩れそうな私を集めて守るようにして抱いてくれました。
それはセッ○スの時だけではなく、例えば一緒にお風呂に入る時だって同じです。
お姉ちゃんは丁寧に――変な言い方ですが、溶け崩れていく私を身体に集めてしまいこむようかのように――指先から爪先まで洗ってくれるんです。
昔から好きだった人にそんな風にされたらもっと好きになっちゃいますよ。
愛してはいけない人でも、愛してしまいますよ。
もう一秒たりともお姉ちゃんから離れたくない自分もここにはいます。
だから、ときどき思ってはいけないことまで考えてしまうんです。
たとえば、お姉ちゃんがずっとひきこもりでいてほしい、なんて。
憂「……最低だよ、私。しんじゃえばいいのにな」
自分を傷つけるナイフのような言葉を、わざと口に出してみました。
なにか罰を受けたくなったのです。
今もお姉ちゃんを抱きしめている自分が、どうしようもなく思えて。
セッ○スはすばらしいものだと言う人がいます。
だけど私はうまくそう思えません。
今さら「女の子同士だから」とか「姉妹だから」なんて考え直せるほど私は強い人間じゃないです。
でも、だからって全てを肯定する勇気もありません。
甘い蜜のような快楽は一瞬だけすべてを忘れさせてくれます。
けれども理性を溶かすような快楽が終わって、祭りの後のように一人目覚めたとき。
逃げていた現実に急に引き戻され、打ち揚げられた魚みたいに呼吸の仕方すら分からなくなるんです。
私は、せっくすがきらいです。
すきだけど、やっぱりきらいなんです。
矛盾してますよね。身体がバラバラになりそうなぐらいに。
布団の奥で足を絡ませながら、お姉ちゃんの心音をずっと聞いていました。
肌の感触と体温とが私を安心させてくれるけれど、同時にお姉ちゃんを閉じ込めているようにも感じます。
息苦しさを感じると空を見上げたくなるものですよね。
お姉ちゃんから見せてもらった不登校の方のブログに空の写真が多いのもそういう理由かもしれません。
たとえ狭いディスプレイの中の空の画像でさえも、水草から浮かぶ気泡のように意識をゆらゆらと浮かばせられる気はするのでしょう。
お姉ちゃんにしがみ付くように肌を重ねたまま、窓の外の空に目を向けました。
今夜は満月のようです。薄い雲ににじんだ月明かりが、雲の動きによって揺れ動いて見えます。
もし、あの窓ガラスが私たちを外とを隔てた壁だとすれば。
私たちもたーくんと一緒で、この家という小さな金魚鉢に閉じ込められているのかもしれません。
そうして私たちは外での泳ぎ方を忘れて、ここで息絶えてしまうのでしょうか。
閉塞感の心地よさが怖くて、私はその夜うまく寝付くことが出来ませんでした。
ぼんやりと眺めた窓ガラスの向こう側。
月明かりは雲の波間に浮かんで、いつまでも揺れていたのでした。
◆ ◆ ◆
憂「・・・・・ごめんね。変な話、聞かせちゃって」
梓「いいよ、私と憂の仲じゃん。それに唯先輩は私にとっても大事な人だし」
憂「ありがとう。じゃあ、続き話してもいい?」
梓「うん。……憂は大丈夫?」
憂「へいきだよ。ありがと、梓ちゃん。……それでね、」
◆ ◆ ◆
うなされる時はいつだって溺れる夢を見ます。
今朝もそうでした。
教室。解答用紙。席に着いた生徒の群れ。
今はもう懐かしくも思える休み時間の騒ぎ声が蝉のように遠く近く響いています。
次の瞬間――木製の机と椅子と床が砂のように崩れて足下の濁流に飲みこまれ、手も足も出せずに沈んでいきます。
ずぶずぶずぶと身体が水中に飲み込まれていき、気づくと私は海の中に漂っていました。
生徒たちはいつしか深海魚へと姿を変え、もう名前も思い出せないほどです。
尾びれが肥大化したり、何か触覚のようなものが生えたりして畸形化したクラスメイトたち。
どうやら私もその気になれば魚の姿に変われるみたいですが、周りの深海魚を見ているとどうにもそういう気になれません。
ですが……背中が急速に、あたかも氷で焼かれるように冷たくなっていきます。
息が出来ません。
吸い込めば吸い込むほど酸素が逃げていき、苦い味の海水が喉の奥へと押し込まれていきます。
助けて、苦しいよ。
水の中でもがく制服姿の私を、深海魚たちは遠めで不思議そうに眺め、時々笑っています。
なんだか私も人間のままでいるとこのまま溺れ死んでしまいそうです。
あきらめて指先に力を込めてヒレに変えようとしたとき、どこか遠くからやわらかいまなざしを感じました。
――無理しなくていいんだよ。
その声は水の中を伝って私に届いたかと思うとすぐ途切れてしまいました。
ですがその声は水中に伝わる深海魚たちの発する音とは違って、私を優しく包み込むように響いたのです。
もっと、あの声が聞きたい。
こっちに来てよ。
離れないで。
助けて。
水の中でぶざまに手足を動かしていると、やがて射した光が辺りを飲み込んでいきました。
憂「……はあっ、はぁ…………ん」
体温と感触と熱のこもったタオルケット。
落ちるように目を覚ますといつものお姉ちゃんの部屋でした。
なんだか背中が冷たいです。
寝ている間に掛け布団がはだけてしまったのでしょうか。
自分の息づかいがうるさいです。
また変な夢でも見てしまったのでしょうか。
憂「……お姉ちゃん、おはよう」
声をかけて、抱きしめます。
かけがえのない存在を確かめるように、身体をくっつけて抱きしめます。
お姉ちゃんはまだ夢の中で、ときどき寄せては返す静かな波のようにかすかな笑みを浮かべます。
私のようにうなされてなければいいけれど。
私は眠っているお姉ちゃんを起こさないように気をつけてベッドから降りると布団の中に押し込んだ下着をつけ、自分の部屋に戻りました。
二人きりの家とはいえ、無防備な姿で歩くのにはさすがに抵抗があります。
お姉ちゃんはときどき、バスタオル一枚でお風呂から部屋に戻ってそのまま寝てしまうこともありますけどね。
それにしても今日はずいぶん寒い日です。
灰色の雲が空を覆いつくしてるせいでもあるのでしょう。
九月に入っても続いていたはずの生ぬるい天気から急に冷え込んだらしく、ちょっと喉の調子もよくないです。
私は服を着替えるとお姉ちゃんの部屋に戻って、タオルケットの上に掛け布団を敷きなおしてリビングに向かいました。
……お姉ちゃん、身体冷やしてなければいいけど。
それから私はリビングに着いて顔を洗い、朝ごはんの前にたーくんにエサをあげようとしました。
ですが、なんだかたーくんの様子がおかしいです。
憂「あれ。なんか、ぜんぜん動かないよ…」
たーくんは私がエサをあげようとしても少しも動かず、じっとしています。
いつもは金魚鉢を指でかるくつついてみるとすぐにたーくんは反応するのに。
もしかして、病気になっちゃったのかな。
憂「エサ、あげすぎちゃったからかな…」
どうしよう。
私が世話しすぎたせいで、苦しめてしまったのかも。
エサの缶を握ったままどうしていいか分からず動けずにいる私の顔が、金魚鉢にゆがんで映ります。
憂「とりあえず、水の中の掃除しよう……うん、汚れとかあるかもしれないよね」
自分に「なにごともない」と言い聞かせようとひとりごとを口に出すのに、かえって不安が頭に響くばかりでした。
唯「ういー、おはよ」
急に声がしてびっくりして、思わずスポイトを取り落としそうになります。
振り返ると髪のハネたお姉ちゃんが眠そうな目をこすりながら立っていました。
さっき着替えたばかりなのか、パジャマのボタンが途中から一個ずつ掛け違えているのにも気づいていません。
唯「うい、どしたの?」
お姉ちゃんは何かに気づいたようにほんの少し目を見開いてこちらを見ます。
まだ何も言ってないのに。
やっぱり、かなわないです。
憂「たーくんが…朝起きたらね、たーくんの具合がわるくなってて」
唯「ええっ」
大げさに驚く声をあげたお姉ちゃんは金魚鉢に駆け寄ります。
そしてしばらくの間、弱っているたーくんをじっと見つめていました。
唯「……死んでないよね?」
憂「うん、大丈夫だと思うけど」
狭い水の中で弱ったたーくんの姿に、半透明に歪んで映る私たちの顔が重なります。
錯覚なのか、自分がたーくんを閉じこめいたぶっているような気がしました。
見ないようにしてその場を離れるため、引き出しにエサをしまいに行きます。
するとお姉ちゃんが私の方を向いて真剣な顔つきで訊ねました。
唯「ねぇ、たーくんって……もしかして食べすぎ?」
なんだかミスマッチな気がして、思わず吹き出してしまいました。
唯「ちょ――ういー、わたし本気で…」
憂「そういうお姉ちゃんだって、ちょっと笑ってるじゃん」
二人でつられあって笑ってしまいます。
なんだか、それほど心配するようなことじゃないようにも思えました。
お姉ちゃんはこうやって、いつも自然と私の心を軽くしてくれます。
それからお姉ちゃんはシャワーを浴びに行き、私は金魚鉢のなかのごみをスポイトで吸い取るのを再開しました。
ベタはカルキが抜かれて酸素がほどよく入った水でないと弱ってしまうので、あまり水を入れ替えるわけには行かないのです。
たーくんは弱っているようですが、ときどきひれを少し動かしては部屋の照明の方へ向き直ったりしています。
お姉ちゃんをあまり心配させたくなかったのですが……やっぱり、不安は消えません。
金魚鉢のゴミ掃除を終えてから、私は前に和ちゃんからもらった熱帯魚用の薬を数滴垂らしました。
薬浴といって、薬の入った水に浸かることでたーくんの具合がよくなると聞いています。
私はまたソファーに身体を預け、ぼんやりと金魚鉢や窓の外を見ていました。
窓の向こうの曇り空はにごった水槽のようで、リビングの生ぬるくていけない空気も実は心地よかったです。
ときどき家の外を通る車の音が小さな気泡がはじけるように遠く聞こえて、すぐ前の道路ですら遠い世界のように思えます。
窓を開けなきゃ。
換気をしなくちゃ。
そうは思うのですが……なんとなく、このままでもいい気もしてしまって、ソファーに寝そべってしまうのです。
そういえば。
ここ最近は金魚鉢の水を替えていませんでした。
あまりに何度もきれいな水に替えてしまうとかえって住み心地が悪くなって弱ってしまう。
和ちゃんはそう言うので抵抗はあるのですが、さすがにそろそろ替えなければいけない時期かもしれません。
唯「おばあちゃん来た?」
気づくと、髪を濡らしたお姉ちゃんがそこにいました。
茶色がかったきれいな髪の毛は色鮮やかな魚のひれのようで、もう少しだけ濡れた髪を見ていたい、そう思ってしまいます。
憂「あ……まだだよ。九時だし、そろそろだと思うけど」
唯「ふぅん。ういもシャワー浴びる?」
憂「んー…そうだね。寝汗かいちゃったし」
唯「さくばんはおたのしみでしたねぇ」
憂「……お姉ちゃんが言わないでよ、はずかしいよ」
にやにや笑うお姉ちゃんから逃げるように私はリビングを出て、自分の部屋に着替えを取りに行きました。
シャワーをあびて髪を乾かし終わった頃、電話が鳴りました。
お姉ちゃんは自分の部屋にいるみたいなので、ドライヤーを置いて一呼吸おいてから受話器を取ります。
憂「はい。平沢です」
とみ『ああ憂ちゃん、おはようさん』
憂「なんだぁ、おばあちゃんだったんだ…びっくりしちゃったよ」
とみ『そうかい? それはすまなかったねぇ』
憂「ううん、だいじょうぶ。でもおばあちゃん、いきなり電話かけてどうしたの?」
とみ『それがねぇ…リウマチの病院行かなきゃならないの、てっきり忘れちゃってね』
年取ると物忘れが激しくていやだねえ、そう言っておばあちゃんは笑います。
憂「そうなんだ…腰の具合はどう?」
とみ『だいぶよくなったと思ったんだけどね……やっぱり無理はよくないねぇ』
憂「ごめんねおばあちゃん、無理はしないでね?」
とみ『いいのよ。憂ちゃんも唯ちゃんも私の孫みたいなものだから』
憂「………うん」
孫、という言葉を聞いてお父さんたちのことを思い出してしまいました。
最近は電話もめっきり減って、ずいぶん忙しくしているみたいです。
とみ『お父さんお母さんがいなくて、さみしかったりしないかい?』
私の気持ちを分かってくれたのでしょうか、おばあちゃんは優しく聞いてくれます。
心からいたわるような声でそう尋ねてくれるので、かえって申し訳なく感じてしまいました。
わたしは、おねえちゃんさえいればいい。
……両親の不在がそれほど気にならなくなっている私は、たぶん悪い子です。
とみ『ほんと、年頃の娘をほっぽらかしてなにやってるのかねぇ、平沢さんとこのだんなは…』
受話器の向こうでなげく声にどうしようもなくとがめられてる気がして、ごめんなさい、と一言つぶやきました。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
……ときどき私はおまじないのように、無意識につぶやいてしまうのです。
とみ『憂ちゃんが謝ることないじゃないの』
憂「でも、お姉ちゃんがこうなったのだって……」
とみ『いいのよ。人生八十年、まだまだ長いんだから疲れた時はゆっくり休むのが一番じゃない』
憂ちゃんは小さい頃から頑張り屋さんだったものね。
とみおばあちゃんの気遣いは冷たい水のように心地よくて、それがかえって痛ましく感じるのです。
言葉が心のどこかに開いた傷口に、間に合わせで固めたかさぶたを溶かすように染み込むんです。
とみ『元気になったら、二人で手をつないで外にでも行きなさいね』
憂「うん。私もお姉ちゃんとお散歩できたら……いい、かな」
とみ『そうよ。お天道様も照っていて、気持ちいいわよ。今日は曇っちゃってるけれどね、ふふふ』
憂「……うん、ありがとう」
私は電話を切った後、開けていたカーテンを閉めました。
陽の光が、窓の外から注ぎ込まれる熱が、ちょっとだけ怖かったのです。
唯「おばあちゃん、なんだってー?」
憂「……あ、うん。なんでもないよ」
唯「え…?」
いつの間にかリビングに降りてきていたお姉ちゃんが、いぶかしむような表情で立っていました。
憂「あー…うん、ええっとね、おばあちゃんが来ないんだって」
唯「どして?」
憂「なんかね、リウマチの病院いかなきゃいけなくて……そうそう、お散歩がいい…って、ううん、なんでもない」
とっさにわけが分からなくなって、つながらない言葉をやみくもに並べてしまいました。
急に頭の中にいろいろなものがあふれてきて、息がうまくできません。
憂「――けほっ、こほっ」
唯「わわ、大丈夫?」
憂「……う、うん…水、あるかな」
お姉ちゃんはすぐキッチンへと走り、コップに水を入れて戻ってきました。
そして床に少しこぼれて広がった水滴に気づきもせずに、相変わらずせき込む私の背中をさすります。
唯「だいじょうぶ? 紙袋、いる?」
憂「ううん、落ち着いてきたから大丈夫……ごめんなさい」
唯「……憂は悪くないよ」
背中をあたためていた手が離れると、すぐにその腕は私の身体ごと抱きしめました。
肩にそっと頭を乗せて、頬を近づけるようにしてお姉ちゃんはささやきます。
唯「……あのね、私が全部悪いの。学校行けなくなっちゃったのも、私が引きこもりだから」
憂「……うん」
『そんなことないよ。だって――』
そんな言葉が頭に浮かんで、けれどお姉ちゃんの柔らかい腕がそれをかき消しました。
このまま抱きしめられていてはいけない。
けれど、そう思うこともお姉ちゃんを裏切る気がして、なにもかもが壊れてしまいそうで。
唯「……ごめんね、だめなお姉ちゃんで」
憂「……ううん、そんなことないよ。一緒にお姉ちゃんの引きこもりを治していこうね」
怖かったんです。
プールの中みたいに居心地のいいこの場所が、ガラスのように割れて壊れてしまうことが。
もっとも、ずいぶん前に壊れてしまっているのかもしれないのですけど。
落ち着くと私たちはいつもどおりの生活に戻しました。
お姉ちゃんは自分の部屋で数学の問題集を進めて、私は洗濯機を動かしてから部屋の掃除を始めます。
本当は掃除なんていらないほどきれいなリビングの床に掃除機をかけ、ほこりの溜まりそうな所を濡れ雑巾で拭きます。
あまり掃除をし過ぎてしまうと居心地が悪くなってしまいそうですが、日課なので欠かすことはできません。
昨日お姉ちゃんがコップを割ってしまった床を特に念入りに磨き上げ、ほかの床よりもきれいにできたところでようやく一休みです。
お姉ちゃんも和ちゃんに言われて勉強がんばってるみたいだし、クッキーでも作ってあげようかな。
小麦粉、まだ残ってたかな……。
と、そのとき電話がかかってきました。
憂「はい、平沢です――」
純『やっほー。憂、元気してた?』
声の主は同じ中学に通っていた純ちゃんでした。
最近は電話も少なくなっていたので、前に話したときから一ヶ月ぐらい経っているかもしれません。
憂「純ちゃん久しぶりだね。でもどうしたの? 今日って学校じゃ…」
純『まぁね。行く気しないからさぼっちゃった!』
えっ、それってどうなんだろう……。
私たちもぜんぜん人のこと言えないですけれど。
純『あ、いやじょーだんだって。ほら、創立記念日。国民の祝日だよ!』
憂「国民のではないよ、純ちゃん」
純『まあいいじゃん別に。ところで暇だから遊び行ってもいい?』
憂「えっ……うん、別にいいけど」
なんとなく喉が渇くような気がして、先ほどせき込んだ喉の皮膚がかすかに痛むのに気づきました。
純ちゃんとは小学校の時に通っていた塾で知り合いました。
はじめて会ったときは、私にとってちょっと苦手なタイプだと思っていました。
けれども話してみるととても人なつっこくて、すぐに私たちは打ち解けたんです。
そのころ通っていた塾で私は特別進学クラスに入っていたので、帰りがいつも夜の十時近くになっていました。
お姉ちゃんも同じ塾に通っていて、中学に入るまでは純ちゃんと三人で一緒に帰っていたのを思い出します。
純『……うい? 聞いてる?』
憂「あ、うん。ごめん」
純『はぁ……憂がしっかりしないと平沢家ヤバいんだからさ、がんばんなよ?』
憂「……うん、ありがと」
がんばれ、という言葉は重たくて昔は苦手でした。
けれども最近はそうでもないみたいです。
必要としてくれることが実感できて、ここにいてもいいんだって気がして。
純『あっそうそう! 憂、和さんから宿題もらってたっけ?』
憂「うん、昨日お姉ちゃんの分と一緒に」
純『……悪いんだけどぉ』
なんだかちょっと吹き出してしまいます。
宿題を見せてあげたり、教えてあげたりしていたのは塾のころからずっと変わってなくて。
純『笑わないでよー、私は憂と違って飲み込み遅いんだから』
憂「ごめんね、そういう意味じゃないよ。なんか……昔みたいだなって」
純『昔ねぇ……まぁいいや。じゃあ四時ごろ行くね』
そのとき、ふいに純ちゃんが何か言いよどんだように感じました。
私は一瞬問いかけようとしたんですが――結局、聞かずじまいでした。
憂「…うん、四時だよね。クッキーでも作って待ってるよ」
純『おおー神じゃん! じゃあ、おなかすかしとくからねー』
弾んだ声で約束を決めて、電話が切れました。
純ちゃんとは久しぶりに会うのでわくわくするはずですがが……なぜかそのとき、心にひっかかるものを覚えたのです。
どうも無理しておどけた声を出していたような気がして。
被害妄想だとは、思うのですが。
それから私はチョコクッキーを焼き、シナモンティーの準備をして待っていました。
お姉ちゃんもクッキーの焼ける香りにひかれてリビングに降りてきたので、ちょっとだけ味見をしてもらいました。
唯「うん、今日のとびっきりおいしいよ!」
お姉ちゃんはそう言って、おどろいたような笑顔を見せてくれました。
味見してもらったのは久しぶりに純ちゃんと会うのでおいしくできたか気になっていたのもあります。
けれどやっぱり、できたクッキーをお姉ちゃんに真っ先に食べてほしかったのです。
唯「昨日のシフォンケーキもおいしかったけど、やっぱり憂の作るのが一番好きだよ!」
あめ玉のように響くお姉ちゃんのうれしそうな声に、私は思わず抱きしめたくなってしまいました。
純ちゃんがうちに来たのは四時半すぎでした。
純「ごめんごめん! 道混んでてさぁ」
憂「えっ、行く途中に近くで事故でもあったの?」
純「う……いや、そういう訳じゃなくてさぁ…」
私が尋ねると、純ちゃんは困ったように目をそらします。
何か聞いちゃいけないことでも聞いちゃったのかな……。
純「いや、あのね? 道混んでたとかって、単に寝坊したとかの言い訳で使わない?」
憂「うーん…寝坊したことがそんなにないから分からないよ」
純ちゃんは大きくため息をつくと、やけになったみたいに少し大きめの声で言います。
純「ごめんなさい、お昼寝してたら寝坊しました!」
あ、寝坊だったんだ……。
憂「あはは、純ちゃんらしいね」
純「なんか平沢姉妹と話してると自分が申し訳なく思えてくるんだけど…」
憂「え、どうして?」
純「いや、そのー…いい子だなって」
私には純ちゃんがなにを言おうとしているのか、いまひとつ分かりませんでした。
けれどもリビングから広がるクッキーのにおいに気づくと、純ちゃんは子犬のように「早く食べよ!」と私をせかします。
憂「……なんだか、変わんないね」
純「それどういう意味さっ」
頬を膨らませてむくれる純ちゃんに謝ってから、わたしはシナモンティーをいれにキッチンに行きました。
純ちゃんと久しぶりに話して、会うときまで胸につかえていたものが少し溶けた気がしました。
純「ほら、早く食べよっ」
憂「もう……食べたらちゃんと数学もやるんだよ?」
純「はいはい」
小学校の塾の時も、私の作ったお弁当を食べながらこんな感じでおしゃべりしたんだっけ……。
ちょっと懐かしい気持ちになりました。
唯「あー純ちゃん、久しぶり!」
純「わわ……唯さん、ハグ激しいですよっ」
お姉ちゃんは純ちゃんに気づくと、昨日の和ちゃんの時みたいに強く抱きしめます。
ふいに抱きしめられてはじめびっくりしていた純ちゃんの顔もとまどいからあきらめへと変わります。
そうしていつしかやわらかな、ほっこりしたような顔を浮かべていました。
私の大好きな、お姉ちゃんの腕の魔法です。
純「唯さん、相変わらずっすねー…」
唯「えへへ、久しぶりだとこうしたくなっちゃうんだよねえ」
考えてみるとお姉ちゃんは外から誰かが来るたびに抱きしめていました。
お姉ちゃんだって病気が治ったら外に早く出たいんだと思います。
憂「……お姉ちゃん。クッキー、食べようよ?」
唯「あっごめん、じゃあおやつにしよっか!」
一瞬だけ胸の奥が曇ったような気がして、そんな自分がいやになりました。
なに考えてるんだろう、私。
純ちゃんはリビングに着くとすぐにソファーに寝ころがってお菓子をねだりました。
純「ういー、くっきー」
憂「ふふ、なんだかお姉ちゃんみたいだね」
唯「だって憂の料理おいしいんだもん、しょうがないよ」
純「んっとにラブラブだよね、平沢姉妹……」
クッションを抱きしめて足をぱたぱたさせている純ちゃんがちょっとあきれたように言いました。
さっき心の奥で溶かしたはずの良くないものがまた固まるような気がして、私はあわててクッキーを取りに行きます。
シナモンティーを入れてリビングに戻ると、純ちゃんが金魚鉢をのぞき込んでいました。
純「ねぇ……このベタ、なんか弱ってない?」
憂「あ、うん……。今朝からなんか様子がおかしいの」
唯「今日はくもりだし、たーくんも元気じゃないんだよ」
純ちゃんと入れ替わりにソファーに寝ころがったお姉ちゃんが、仰向けになって言います。
決して忘れていたわけではないけれど、たーくんのことを思い出して喉の痛みがぶり返すように胸の奥で何かが黒く広がるのを感じました。
純「あのさ、憂」
憂「な、なにかな…?」
純「これ、そろそろ水入れ替えた方がよくない?」
きっかけはささいなことだったんです。
憂「え……でも和ちゃんが『あんまり水換えるのよくない』って、そう聞いたから」
純「うーん、それにしたってもう替えなきゃだよ。スポイトで吸い出して捨てられるゴミだけじゃないんだし」
憂「そうかな……水替えたら、たーくん環境に慣れなくて」
さっきまでと違って、どう話していいか分からなくなって言葉を選ぶのに焦ってしまいます。
純ちゃんも言葉を選んでいるみたいですが、なぜかあわててしまう私を諭すように話しています。
純「ずっとおんなじ水の中にいる方が体に悪いよ」
憂「うん……その、水換えた方がいいのは分かってるんだけど、うん、分かってる」
純「っていうか、その、さ? 憂ってやっぱ過保護すぎて逆になんかベタとかも…」
唯「ちょ、ちょっと純ちゃん――」
やっぱ最近の憂、なんか憂らしくないよ。
……いつ聞いたともしれない言葉がもう一度聞こえたとき、急に喉が苦しくなりました。
純「ちょ――憂大丈夫?」
さっき治まったはずのせきがまたぶり返してしまって、立っていられなくなりました。
弾みでティーカップを落としてしまい、破片が床に散らばります。
どうしよう、またこぼしちゃった。
どうしよう、どうしよう……。
唯「う、うい大丈夫?! 待ってね、いま紙袋持ってくるから――」
純「あ、あの唯さん私も」
唯「純ちゃんはだまっててよ!」
突き刺すようなお姉ちゃんの声が部屋に響きました。
なにも言えず立ちすくむ純ちゃんの横をお姉ちゃんは駆け出し、すぐに紙袋を握りしめて戻ってきました。
唯「ほらうい、大丈夫だからね? ゆっくり息して、深呼吸だよっ」
私の身体を抱き留めて背中をさするお姉ちゃんの向こう側で、純ちゃんは食べかけのクッキーを握りしめたまま私たちを見ていました。
おびえているのか、あわれんでいるのか分からないけれど、純ちゃんの目が怖くてお姉ちゃんの手を握りしめます。
唯「ごめんね、お姉ちゃんがこんなことになったせいで、憂に迷惑かけちゃって」
違う。違うって分かってるのに……。
大丈夫大丈夫大丈夫って自分に言い聞かせて呼吸を無理矢理整えようとするのですが、酸素はうまく身体に入っていきません。
どうにか空気を吸い込もうとするのですが、するとよけいに咳がひどくなって涙までこぼれてきます。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
お姉ちゃんの声と背中をさするあったかい手に合わせて、少しずつ呼吸を楽にしていきます。
唯「だいじょうぶだよ、うい。私がそばにいるからね」
お姉ちゃんは床にうずくまった私の右手と指を絡ませて、息が苦しくならないように身体を支えてくれます。
体重を預けてリズムに合わせて深呼吸を繰り返していくうちに、がらがらと鳴っていた喉も次第に落ち着いていきました。
唯「……純ちゃん」
純「ごめんなさい、私が変なこと言ったせいで…」
唯「ううん、私だって分かってるもん」
来たばかりの純ちゃんはクッキーをちょっと迷ってお皿に戻し、ごちそうさまでした、と言って身支度をはじめました。
お姉ちゃんはその間もだいぶ楽になった私の身体をずっと抱きしめて、だいじょうぶだいじょうぶとささやいてくれていました。
純「あの……言いにくいんですけど」
帰りの支度を整えた純ちゃんが、目をそらしながらお姉ちゃんに声をかけます。
お姉ちゃんは私を守るようにぎゅっと抱きしめて、純ちゃんの方を向きます。
純「唯さんは憂のためにも、引きこもりやめた方がいいと思います」
唯「……分かってるよ、そんなこと」
――やっぱり、おかしいですよ。こんなの。ラブとかじゃないです、ぜったい。
とがめるでもなく、いたわるでもなく、ただ心配そうな声で最後に純ちゃんはそう言いました。
それからドアを閉める間際に振り返り、何かを言おうとして――代わりに目を伏せて、その場を後にしました。
お姉ちゃんの身体が震えたのに気づいて顔を上げます。
すると……その大きな瞳から涙がこぼれて、ぽたりと私の服に染み込みました。
唯「ごめんね、うい…なんにもできなくて、こんなことしかできなくて、つらいまんまで」
お姉ちゃんが顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、私に抱きついてずっと謝り続けていました。
違うのに。全部、わたしのせいなのに。
お姉ちゃんが学校行けなくなったのも、外に出られなくなったのも。
全部私が悪いのに……。
唯「私が、ニートだから。いけないんだよ……ごろごろしてる私が、全部わるいんだよぉ…」
フローリングの床がすっかり暖まるほど長い間、涙を流す私たちは抱きしめあっていました。
曇り空が晴れて差し込んでいたはずの光はまた厚い雲に遮られ、部屋の照明が作り物の光を私たちに浴びせています。
お姉ちゃんの腕の向こうには今も割れたティーカップが散らばっていました。
一瞬――たーくんの金魚鉢がそんな風に割れる光景が頭をよぎって、思わずお姉ちゃんの胸に顔を押し付けてしまいます。
唯「……だいじょうぶだよ、憂、だいじょうぶだからね、お姉ちゃんがダメなだけだから」
半年前から引きこもりになってしまったお姉ちゃんは、昔と変わらず私の頭をなでていてくれたのです。
そんな感触に身も心もゆだねながら……けれども、純ちゃんのさっきの言葉がずっと離れませんでした。
ガラスが割れる音のように、ずっと頭に鳴り続けていたのです。
――――――
(Christinaさんがオンラインになりました)
あいす: こんばんはっ
Christina: おう、元気だったか?
あいす: 家でずっとごろごろしてました・・・・。
Christina: あいすちゃんらしいなw
あいす: えへへ・・・・めんぼくないです(>_<)
Christina: まあ私も今日はgdgdだったけどさ・・・・。
あいす: バンドの練習、でしたよね?
Christina: あー・・・・それさあ、キャサリンのやつが男ともめたらしくて(笑)
あいす: キャサリン・・・・って、どんな人でしたっけ??
Christina: ほら、うちのバンドのボーカル
あいす: あっなんか変身しそうな格好した人ですよね!
Christina: 変身て・・・・笑
Christina: まっ私もバンドだけやってるわけにはいかないしね
あいす: お勉強ですか?
Christina: うん。臨床心理士やるには大学院行かなきゃなんないし
あいす: 大変ですね・・・・
Christina: バンドやってきたいけどさ、就職とかも考えないとだし
あいす: しゅうしょく・・・・なんかぜんぜん遠い先の話っぽくて、よく分かんないです
Christina: あいすちゃんはまだ中学生でしょ?
あいす: はい、学校いってないけど
Christina: 学校はいけよー
あいす: 行きたいんですけど、やっぱり外出るのこわくて
あいす: ドア開けて外出るだけだってわかってるけど
Christina: うん
あいす: なんていうか・・・・広い海にでるぐらい怖いんです
Christina: 井の中の蛙、大海を知らず
あいす: なんですかそれ
Christina: 水槽の中の熱帯魚は幸せだけど不幸だってこと
あいす: むずかしいですね・・・・
Christina: とにかくさ、現状どんな感じなの
あいす: たぶん、心の病気なんだと思います
Christina: パニック障害っぽいよね、聞く限りじゃ
あいす: 病院いってないからわかんないですけど
Christina: 病院はいけよー
あいす: はい・・・・。
Christina: 私だってシロウトなんだし、学校行けないなら病院にはせめて行くべきだよ
Christina: 妹さんのためにもさ
あいす: でも、病院いくには外出なきゃなんないです
Christina: 甘えすぎだろ
あいす: ごめんなさい・・・・
Christina: つか、あいすちゃんの話が本当なら児童相談所とか動いてもおかしくないレベルなんですけど
あいす: はい
Christina: 確かにキャサリンから聞いて法律上の話とかしたの私だけどさ
Christina: さすがにもう9月だよ
あいす: はい
Christina: 姉妹そろって留年とかヤバいって
あいす: そう思います
Christina: 親はまだ海外?
あいす: はい、年内に戻れるかどうかって
Christina: なんという機能不全家族
Christina: てか受験生抱えた家族がそれとか・・・・
あいす: 受験の前からずっとそんな感じです
Christina: マジないわ・・・・
Christina: で、あいすちゃん的にはどうしてこうと思ってるの
Christina: やっぱり、まだ出たくない?
あいす: 外にでたいです
Christina: えっと、なんかあったの?
あいす: どうしてですか?
Christina: いきなり変わったから
Christina: 言いすぎたかなって
あいす: 違うんです
あいす: 今日、妹の友達が家に来てて
Christina: うん
あいす: それで、ちょっとケンカみたくなっちゃって
あいす: 私たちはラブじゃないって言われました
Christina: どうみても共依存だもんね・・・・
あいす: でも、私はういのことが好きなんです
あいす: それだけは本当です
あいす: 妹としてっていうより、一人の人間として愛してます
Christina: うーん・・・・
Christina: 正直、今のあなたの気持ちは信用できないかも
あいす: なんでですか?引きこもりだからですか?
Christina: ってかまずあいすちゃんが引きこもってるのってあれじゃん
あいす: それは分かってますけど・・・・
Christina: 自立してないやつが言う愛は大体ただの依存だよ
あいす: 別れろっていうんですか
あいす: 女同士だからですか
あいす: 姉妹だからですか
Christina: そうじゃないって
Christina: 落ち着いて聞いて
あいす: はい
Christina: あいすちゃんが妹のことすごい思いやってるのはわかる
あいす: はい
Christina: だけどそれって妹さんのこと閉じ込めてるわけでしょ
あいす: 分かってます
Christina: いいの?
あいす: 私はういに元気になってほしいです
Christina: だったら、妹さんと向き合わなきゃ
あいす: はい
Christina: しかるべき医療機関にかからなきゃダメ
あいす: 前行った時は睡眠薬くれただけでした
Christina: じゃあ他探しなよ
Christina: なるべく話聞いてくれるとこ
あいす: はい
Christina: ところでベタ飼ってるんだっけ
あいす: はい、そうですけど
Christina: ベタって闘魚っていうの知ってる?
あいす: しらないです
Christina: 狭い水槽の中に二匹入れとくと共食いしちゃうんだって
Christina: だから二匹以上が育つためには広い飼育場所が必要みたい
あいす: なにがいいたいんですか?
Christina: あいすちゃんも自分たちの水槽壊さなきゃだめだよ
Christina: 共食いはしないにしても、共倒れにはなっちゃうから
あいす: でも、お魚って外出たら息できなくなりますよ
Christina: それは水槽の中の水に慣れすぎたからでしょ
Christina: ちょっとずつでも、外の世界に慣れてかなきゃダメ
Christina: そのまま水入れ替えないと酸素足りなくなって二人とも死んじゃうよ
あいす: はい
あいす: 分かりました
Christina: それに、助けてくれる人だっているでしょ
Christina: あいすちゃんの言ってた隣人さんとか、幼馴染の子とか
あいす: あとさっきのういの友達も、たぶんすごく心配してくれてます
Christina: だったら、あとは勇気出すかどうかじゃん
あいす: がんばってみます
Christina: がんばれ
Christina: 二人のこと応援してるから
あいす: はい!
あふれる涙がようやくおさまったのは、陽がすっかり沈んだころになってでした。
私の部屋の窓からは電灯や隣の家の灯りがもれ、夕暮れ時を過ぎたせいか自動車の走る音も多くなったようです。
どうもずっとお姉ちゃんの腕の中にいたので、しばらく夢を見ていたみたいに感じました。
リビングを出たお姉ちゃんは晩ごはんを作ろうとする私をおさえて、一眠りした方がいいと言います。
心配ないよ、大丈夫だよと言ったのですが、どうやらお姉ちゃんにもやることがあるみたいです。
根負けした私は久しぶりに自分の部屋のベッドに入り、泣き濡れたときから残る夢うつつのまま、ぼんやりと窓の外を眺めていました。
部屋の窓に反射する豆電球の灯りをぼんやり眺めながら、純ちゃんの言葉を思い返していました。
妙にさみしくなってその場の布団を抱きしめてみるのですが、いつもと違ってお姉ちゃんの匂いはしません。
憂「お姉ちゃん……好きだよ」
綿の入った布袋を抱きしめてわざと声に出してみる私は、傍から見たらこっけいなのかもしれません。
――――――
あふれる涙がようやくおさまったのは、陽がすっかり沈んだころになってでした。
私の部屋の窓からは電灯や隣の家の灯りがもれ、夕暮れ時を過ぎたせいか自動車の走る音も多くなったようです。
どうもずっとお姉ちゃんの腕の中にいたので、しばらく夢を見ていたみたいに感じました。
リビングを出たお姉ちゃんは晩ごはんを作ろうとする私をおさえて、一眠りした方がいいと言います。
心配ないよ、大丈夫だよと言ったのですが、どうやらお姉ちゃんにもやることがあるみたいです。
根負けした私は久しぶりに自分の部屋のベッドに入り、泣き濡れたときから残る夢うつつのまま、ぼんやりと窓の外を眺めていました。
部屋の窓に反射する豆電球の灯りをぼんやり眺めながら、純ちゃんの言葉を思い返していました。
妙にさみしくなってその場の布団を抱きしめてみるのですが、いつもと違ってお姉ちゃんの匂いはしません。
憂「お姉ちゃん……好きだよ」
綿の入った布袋を抱きしめてわざと声に出してみる私は、傍から見たらこっけいなのかもしれません。
お姉ちゃんのいない布団を抱きしめていたら、いつの間にか眠ってしまったみたいです。
その時見た夢はどこか遠い昔のような、けれどもすぐ先の未来のような、そんな不思議なものです。
私たちはお姉ちゃんの部屋の隅に高さ二十センチぐらいの小さなドアがあるのを見つけました。
お姉ちゃんは私の手を引っ張って、そのドアへといざないます。
すると私たちはそのドアへと吸い込まれて、一瞬息ができなくなります。
吸い込まれていった先は海底のようです。
いきなり水の中に来てしまって息が出来なくなりそうでしたが……しばらくするとだいぶ楽になりました。
変な話ですけど、これも慣れなのかもしれないですね。
私ははしゃぐお姉ちゃんに手を引かれながら、階段の形をしたさんご礁やブランコのように揺れる海草を見て回ります。
その世界は初めて見るようで、けれども大昔に見たことがあるような不思議なものでした。
小さな魚が三匹、私の後ろから泳ぎ抜けていきます。
そのあどけない姿がどこか懐かしく思えると、手を繋いだお姉ちゃんも私と同じように微笑んでいました。
唯「うい、覚えてる? ここ……ずっと前に一緒に遊んだとこだよ」
憂「そうだね……お姉ちゃん」
私たちは目の前のさんご礁を眺めながら、その場に隠れて遊ぶ小魚たちを見守っていました。
水の中だというのにお姉ちゃんの手はずっとあったかいままで、それがずいぶん私を安心させてくれました。
しばらく海底を散歩する夢を見て、私は目を覚ましました。
窓の外から静かに鳴る虫の音は寄せては返す波の音のようにも聞こえて、布団の中に帰ってきたのにまだ海底にいるような錯覚もあります。
うなされない夢を見られたのはずいぶん久しぶりのことでした。
たぶん、夢の中で手をつないでいてくれたお姉ちゃんのおかげです。
豆電球のやわらかい灯りの下で、私は夢でつないでいた方の手を出して眺めてみます。
夢のことを思い出すとお姉ちゃんがいとおしくなって、眠い目をこすってベッドから起き上がろうとしました。
会いたい。
夢みたいに、手をつないで……外に、出てみたい。
自然とそう思えた矢先、ノックの音がしました。
唯「ういー、起きてる? ご飯つくったよ」
憂「あ……お姉ちゃん!」
部屋のドアが開いた瞬間、思わず私は飛び出してお姉ちゃんに抱きついてしまいました。
唯「ひゃ……う、ういどうしたのさっ」
あっけに取られてるのも気にしないで、まるでお姉ちゃんみたいにいきおいよく抱きしめます。
あんな夢を見たせいなのか、本当のお姉ちゃんに触れたくてしょうがなかったんです。
唯「もう、ういはあまえんぼさんだなぁ…」
お姉ちゃんはくすっとほほえんで、飛びついた私をそっと受け止めてくれました。
あったかい腕が肩甲骨から腰の方へ回されると、身体の奥まで安らぎがしみわたっていくようです。
部屋を一歩出た薄暗い廊下で、私はしばらくお姉ちゃんのやわらかい身体に包まれていました。
離れたくない。ずっと一緒にいたい。
そしてそれは、いつまでも叶うような気もしていました。
たぶん全部、あんな夢を見てしまったからなんです。
冷たい廊下で身体が冷えそうになった頃、私たちはリビングに向かいました。
その前に、私は気の済むまで私に抱きしめられてくれたお姉ちゃんにもう一つおねだりをしてしまいます。
唯「え、手つなぎたいの? うん、いいよ。はい!」
お姉ちゃんは私の前に手を広げて差し出します。
その時お姉ちゃんが出した手は……偶然でしょうか、夢と同じ右手でした。
私は指を絡ませて恋人同士の握り方で手と手をつなぎ合わせて、階段を下ります。
電気のついてない廊下は薄暗く、ちょっとだけ本当に海底を散歩しているような気分になりました。
唯「うい、なんかうれしそうだね……いいことあった?」
憂「うん。お姉ちゃんのおかげだよ」
唯「私はなんにもできてないよぉ」
そんな風に私に向けてくれる笑顔と、こうして握っている手の感触だけでも十分なんだけどな。
……なんて、恥ずかしくて言えないので代わりにつないだ手を握り締めます。
するとすぐに握り返してくれた手の感触が、また私の心をおどらせるのです。
手をつなぐ幸せをもう一度教えてくれたのは、やっぱりお姉ちゃんでした。
それから私はお姉ちゃんの作った晩ごはんを一緒にいただきました。
唯「ハチミツあったけどリンゴなかったから代わりにジュース入れてみたんだけど……やっぱ失敗だよね、あはは」
憂「もう、ハチミツとリンゴなんてどこで聞いたの?」
唯「え、CMでやってるじゃん! リンゴとハチミツって」
お姉ちゃんが作ってくれたカレーライスは、おせじにも上手いとは言えないものでしょう。
けれども「お姉ちゃんが私のために作ってくれた」ことだけで、どんな調味料よりもおいしく感じました。
憂「ふふ、リンゴはすりおろしじゃなきゃダメなんだよ?」
唯「そんなの知らないよぉ…」
私は一生懸命作ったらしい水っぽいカレーをおいしくいただきました。
食べている間、お姉ちゃんは不思議なことをしていました。
唯「ねぇうーい、このカレーまずいよね? おいしくないよねぇ?」
憂「えっ……そんなことないよ。おいしいよ、お姉ちゃんが作ったんだもん」
うそではありません。
せっかくお姉ちゃんが作ってくれたカレーなので、私にとってはどんな味でもおいしいのです。
でも、お姉ちゃんは納得してくれず、何度も私に「まずい」と言わせようとします。
唯「だってカレーにジュース混ぜちゃったんだよ?! 和ちゃんだってまずいって言うはずだよぉ」
お姉ちゃんの考えてることが分からなくて、ちょっと悩んだけれどお姉ちゃんの言うとおりにしてみました。
憂「……うん、ジュースはまずかったと思うな」
唯「そっちのまずいじゃなくて! ほら、このカレーまずいよねぇ…?」
なんでお姉ちゃん、泣きついてまで「まずい」といわせたがるんだろう……。
お姉ちゃんがどうしても引き下がらないので、仕方なく私は言いました。
憂「……このカレー、まずい」
唯「心がこもってないよっ、もっとまずそうに言って!」
憂「えっ……ええっ?」
それから三回、カレーをまずいと言い直してようやくOKが出ました。
大好きなお姉ちゃんのカレーをけなしてしまって、私の方がちょっと泣きそうになりました……。
でも、お姉ちゃんはなぜかまずいと言われてうれしそうです。
唯「えへへ、憂にまずいって言ってもらえた!」
憂「……どうして?」
唯「だってさあ。ほんとの恋人って、相手のダメなとこはちゃんとダメって言うものなんだよ?」
ほんとの恋人。
突然お姉ちゃんの口からそんな言葉が出て、心臓がとくんと動いてしまいます。
唯「憂は私のダメなとこを見てくれないからねー、ちゃんと向き合わなきゃダメなんだよっ」
お姉ちゃんの言葉の意味が伝わると、揺れ動いた胸の奥にじんわりと温かいものがあふれるのを感じました。
たった一言二言で、さっきまでほんの少し浮かびかけていた涙の意味がすっかり変わりました。
憂「……お姉ちゃん、このカレーまずい!」
唯「そっ、そんなうれしそうに言われても……どうしていいか分かんなくなるよ」
なんだかあまりにもミスマッチだったので、二人して吹き出してしまいました。
私もお姉ちゃんみたいだな。
そう自然に思えたことが、すごくすごくうれしかったです。
食べ終わった食器を片付けていると、お皿を洗っていたお姉ちゃんが私をお風呂に誘いました。
唯「ねぇはいろうよー、今日は一緒に入りたい気分なんだよう」
憂「昨日は入りたくないって言ってたのに、急にどうしたの?」
唯「えっとね、ういのからだを洗ってあげたいの!」
あ、変なことはしないよ? ただ洗うだけだから安心してね。
私が何か思う間もなく、お姉ちゃんがすぐそう言ってしまいます。
ちょっとだけよこしまなことを考えちゃったのがはずかしくなりました……。
唯「……えへー、ういちょっとなんか期待したー?」
にやにやとほっぺをつついてくるお姉ちゃんから顔を隠すように、私は自分の部屋へ逃げ込みました。
着替え、やっぱりちゃんとした下着の方がいいのかな?
って、なに言ってるんだろう私……。
唯「ういー、はいるよぉ」
私がシャワーを浴びてお風呂につかっていると、下着一つつけていないお姉ちゃんが入ってきました。
本当はいつも見ている姿なのですが……こうした明るい場所だと、正面からみるのはちょっとはずかしいです。
唯「あれ、うい照れてるの?」
そんな私の気持ちを見透かしたように、お姉ちゃんはわざと私の顔を正面から見ようと肩をつかまえてくるのです。
目をそらそうとするほど面白がって追いかけてきて、いつの間にか水遊びのようになってしまいました。
ふと気づくと、私の両頬はお姉ちゃんの手のひらにつかまっていて。
目の前にお姉ちゃんの大きな瞳と、やわらかい唇がそこにはあって。
思わず私は目を閉じてしまいそうになったのですが――
唯「……ぷっ、ふふっ」
憂「……えっ…ぷくっ、ふふっ…お、おねえちゃん、何がおかしいの……ふふっ」
唯「ぷふっ…ういだって、わらってるじゃん……」
互いにつられて吹きだしてしまいました。
二人分の笑い声が狭いお風呂場に響きます。
いつしかお姉ちゃんの手のひらの温かみにのぼせそうになっていました。
唯「うぅ……からだひえちゃったよ」
憂「もう、そんな格好で外にいるからだよ。シャワー浴びたら?」
唯「だってういのほっぺ、ぷにぷにしててかわいいんだもん……」
お姉ちゃんは浴槽の中の私とじゃれあっていて背中を冷やしてしまったみたいです。
自分の腕を抱いて身体を振るわせるお姉ちゃんに向けて、私はシャワーの蛇口を一気にひねってみました。
唯「ひゃ……?! もうなにするのさ、うい!」
憂「えへへ、さっきのしかえしだよ。おねえちゃん」
唯「私の憂はそんなキャラじゃなかったはずなのに……もーおこった! えいっ」
今度はお姉ちゃんから顔にシャワーを掛けられてしまいました。
私もお風呂の水をかけて応戦します。お姉ちゃんだって負けてません。
なんだか四年ぐらい前、小学生だった頃に急に戻ったようで我を忘れてはしゃいでしまいました。
そんな子供みたいな遊びがふいに止まった時、静かになった二人きりのお風呂場でお姉ちゃんは言います。
唯「憂、身体あらったげる。こっちおいでよ」
憂「え……? そっか。ごめんね、さっき洗っちゃった…」
唯「だーめ。今日は私がてってーてきに洗うって決めたんだもんっ」
そう言うとお姉ちゃんは私の腕を引っ張ってむりやり湯船の外に連れ出します。
そして風呂椅子に私を座らせると、じゃあまずあっためてあげるね、と言ってシャワーを身体の隅々に当ててくれました。
唯「ちょっとぬるめだから……このぐらいでいいかな?」
憂「うん……大丈夫だよ、お姉ちゃん」
一昨日までずっと一緒に入っていたので、私の身体を冷やさないように洗うのも慣れています。
唯「じゃあまずは髪の毛から洗うね」
憂「うん、お願いします」
お姉ちゃんは私の身体を洗う時、冷えてないか心配してくれます。
それはお姉ちゃん自身が寒いのやクーラーなんかが苦手で、私にそうなってほしくないからだそうです。
でも、お風呂場の温かい空気とそんなお姉ちゃんのやさしさで、私の身体はいつもぽかぽかでした。
だけどお姉ちゃんがこうして髪の毛を洗ってくれる時は、わざとうそをついてしまいます。
憂「お姉ちゃん……せなか、あっためてくれる?」
唯「いいよ。ぎゅー」
するとお姉ちゃんは待ってましたとばかりに私の背中にもたれて、体温を伝わらせてくれます。
髪の毛を洗う時だって、ときどき右手で洗いながら左腕をおなかに回して抱きしめてくれたりもします。
そうなると私がお姉ちゃんのものになったみたいで、心の奥からあったかい気持ちになるのです。
……最近少しずつおっきくなってきたお姉ちゃんの胸があたってちょっと恥ずかしいですけど。
唯「かゆいところはありませんかー」
憂「だいじょうぶだよ、おねえちゃん」
唯「えー、なんか言ってよう。こことかさっ」
憂「ひぁ…?!」
お姉ちゃんが急に私のおっぱいをつかんできて、変な声をあげてしまいました。
お風呂場だと自分の声がやけに響くので、思わず顔が熱くなります。
憂「……おねえちゃん、せくはらだよっ」
唯「ういがかわいいのがいけないんだよぉ」
まるで悪いとも思ってないお姉ちゃんの言葉が、ちょっとだけくやしいです。
髪の毛を洗い終わると次にお姉ちゃんはボディソープを手に取りました。
そして手の中でかるくあわ立て、肩から背中にかけてお姉ちゃんの指先で泡を広げていきます。
唯「ういの肌、すべすべしてて気持ちいいなあ…」
憂「もう、あんまりそんなとこばっかり洗ってるとくすぐったいよ」
唯「えへへ、ごめんごめん」
泡の付いた指先は背中に泡を広げて両肩と首をやさしく洗い、鎖骨を通って胸元へとたどり着きます。
身体の前を洗う段になると私は一度立ち上がり、代わりにお姉ちゃんが椅子に座ってかるく足を広げます。
私はその足の間に腰を下ろして、お姉ちゃんに抱きしめられながら身体を洗い流してもらうのです。
唯「きもちいい?」
憂「うん。おねえちゃんだもん」
私はしあわせな気持ちでお姉ちゃんに自分の身体を預けました。
お姉ちゃんはやがて立ち上がり、私の爪先を指の一本一本まで丁寧に洗ってくれました。
それからふくらはぎ、ひざこぞう、ふとももと身体中に指先を強くなぞっていきます。
憂「……ねえ」
唯「なあに?」
憂「今日のお姉ちゃん、なんだかすごくやさしいね」
身体をやさしく洗ってもらいながら、なんとなく聞いてみました。
けれども自分が発した質問はお姉ちゃんの優しすぎる感触の中で不安に変わり、五秒後には発したことを後悔してしまいます。
憂「……ううん、なんでもない」
唯「今日はね、ういにとびっきりやさしくしたかったんだ」
自分で引き下げた問いかけに、お姉ちゃんは待ち構えていたように話してくれます。
ですが、お姉ちゃんはそれからだまって身体を洗うことに専念しはじめました。
腰骨のあたりからわき腹、二の腕から両手の指の間まで一本一本ゆっくりと洗っていきます。
それは、私が何かを問いかけるのを待っているみたいで。
期待する気持ちもどこかにありました。
けれども怖い気持ちの方がその時は強かったです。
憂「……どうして、今日はたくさんやさしくしてくれるの?」
唯「決まってるじゃん。憂の恋人になりたいからだよ」
私たちは半年間、こんな風にお風呂場で過ごした身体を重ね合わせたりしてきました。
けれども二人の関係を定義しなおす、そんな話になったのは初めてです。
当然でした。
私たちは悪いことをしていて、関係を問い直したらそれが明るみになってしまうのですから。
でも、その時のお姉ちゃんの声はいつもと違って、かたい芯のようなものがありました。
椅子に座る私にひざまずいて、私の瞳をまっすぐに見つめるお姉ちゃんが少し怖く思えました。
もしかしたら私たち二人で見ないふりをしてきたいろいろなことにメスをいれようとしているのかもしれない。
そう思うと途端に不安になって、腕が硬直して息苦しくなって――
唯「だいじょうぶ」
体調を崩してしまう二秒手前でお姉ちゃんは立ち上がって、そっと抱きしめなおしてくれました。
椅子の後ろに倒れこまないように、ぎゅっと私の身体を抱きしめて。
私が体調を崩した時、お姉ちゃんは安心するまでずっと抱きしめてくれます。
たとえばこんな時は、肌と肌が繋がりあってひとつになるような気がするまで。
憂「……だいじょうぶ」
唯「よかったぁ」
息が耳たぶを暖めるほどの近くで、背中をお姉ちゃんに支えられながらささやきあいます。
けれども――お姉ちゃんの声は、かたいものを残したままでした。
唯「あのね、憂」
憂「なぁに、お姉ちゃん」
二人きりのお風呂場で、抱きしめあいながら静かにささやきあいます。
少しのぼせて、眠ってしまいそうなほどの安らぎの中で、けれどもお姉ちゃんは何かを変えようとしているみたいでした。
今までは怖くてたまらなかった「変わる」ということが、お姉ちゃんの腕のおかげで少し平気になったようです。
唯「人を愛する条件って、わかる?」
憂「……相手を互いに思いやること、かな」
唯「それだけじゃないよ」
私もどんなことを言おうとしているのかがわかった気がして、抱きしめる腕を強めます。
お姉ちゃんは私をおどろかせないように数回息を整えて、耳元でささやきました。
――依存してちゃダメなんだよ。私たち。
お姉ちゃんから重いものをおろしたように力が抜け、少し倒れそうになるのを私が支えました。
身体にまとわり付いたままのボディソープが抱きしめあう私たちをくっつけ合わせているみたいで少しうれしいです。
もしかしたら、そのためにお姉ちゃんは私の身体を洗ってくれたのでしょうか?
でもそんないとしいお姉ちゃんが……なんだか今にも離れてしまいそうで、逃がさないようにと強く抱きしめてしまいました。
唯「わっ――」
そのせいでバランスを崩して、私はお姉ちゃんを抱きしめたままお風呂の床に倒れこんでしまいました。
ちょうどお姉ちゃんは私の身体に上乗りになって、そのまま抱きしめあっているような状態です。
お姉ちゃんの濡れた髪から水滴が私の鎖骨にしたたり落ちます。
目の前で少しゆがんで細められた瞳には、うっすらと涙の粒がにじんでいました。
転んでしまったから、じゃないことぐらいは分かります。
唯「……これだけだからね。うい、これだけだからね」
お姉ちゃんは私に、そして自分自身に言い聞かせるように口にしました。
なにがこれだけなのか、私にはよく分かりません。
けれどもそれが何を指していても私たちの何かが変わろうとしていることは、変わらないと気づいていたんです。
お姉ちゃんは目をつむり、ゆっくりと私に顔を近づけ、くちづけをしました。
どれほど長く唇の触れ合う感触に惚けていたのでしょうか。
どれほど深く舌と舌を絡め合わせていたのでしょうか。
それは定かじゃないですが、そのとき私はお姉ちゃんを受け入れ、お姉ちゃんを求めました。
身体をまさぐったり、身をよじっては声を上げたりといったことはしていません。
ただお姉ちゃんを抱きしめながら、いつのまにか繋がれた片方の手を握り締めて、口付けを交わした……それだけでした。
ひたすら、確かめ合いたかっただけなのです。
性的な繋がりではなく、依存でもないところにも私たちの「つながり」があることを。
だから、逃避のような快感に身を任せることなく私たちの唇はそっと離れました。
あの唇を濡らした液体が私の唇に垂れ落ちきったころ、お姉ちゃんはゆっくりと身体を起こしました。
抱きしめあった腕が離れる瞬間、ほんの少しだけ身体の表面が冷えた気がしました。
その時、浴室の床でオレンジ色の照明と換気扇を眺めながら気づきました。
――いまこの身体を抜けて換気扇の向こうへと消えた少しの熱こそが、これまで私たちを溶かし合わせていたことに。
喪失感と解放感に満たされて行き場を失った私の身体をお姉ちゃんはそっと抱き起こしました。
それからシャワーをひねり、お姉ちゃんは私たちを癒着していたボディソープを丁寧に流していったのです。
私たちはもう一度湯船につかり、抱きしめあいました。
私はお姉ちゃんの肩に頭をのせて、少しぬるくなった湯船の中で冷えた身体を芯まであたためていきました。
身体を拭いてパジャマに着替えると私はお姉ちゃんの手を握りました。
ここからお姉ちゃんの部屋まで連れて行ってもらうのです。
一緒にお風呂に入った日はいつもこうして手を繋いだり抱きしめてみたり、ちょっと甘えんぼになってしまいます。
ですが今日のお姉ちゃんは私を先にキッチンへと連れて行き、そこでコップ一杯の水を汲みました。
それからそのまま水を持って自分の部屋に行くと、引き出しの奥底から白い紙袋を取り出しました。
中は……半年前に病院でもらった、睡眠薬でした。
唯「あのさ。えっとね、憂がずっとごほごほしてたから、今日はちゃんと眠れるか心配なんだよね……」
憂「うん、だいじょうぶだよ。お姉ちゃん」
唯「これ、私がもらった薬だから身体に合うかわかんないけど……」
お姉ちゃんはオオカミ少年のように変にうまい口ぶりで私を説得しようとしました。
だけど私の心は最初から決まっています。
憂「お姉ちゃんが飲んだ方がいいっていうなら飲むよ。ずっと一緒にいたいもん」
唯「そっか……ありがとうね、うい」
だけど一つだけ、お願いごとがあるかな。
私は人差し指を立ててお姉ちゃんにおねだりしました。
憂「……きょうの夜、ちゃんと眠れるまでそばにいてくれる?」
一瞬、お姉ちゃんはどきっとした表情を浮かべたような気がしましたが……すぐになんでもないようなそぶりに戻りました。
それから「ずっと手を握っててあげる」と言って頭をなでてくれました。
お姉ちゃんさえいれば、もう怖いものはないはずです。
私はお姉ちゃんの睡眠薬を飲んで、一緒のベッドで眠りました。
その日、私は深く寝入ってしまって夢一つ見ませんでした。
薬によってもたらされた人工的な睡魔は私を十数時間の眠りの海へと落とし、なかなか上がらせてくれなかったのです。
けれど、私の寝ている間に何か大変なことが起きていたようです。
もうろうとした意識の向こう側で、何か大事なものが離れていくのを感じたのですから。
けれども薬の睡魔は私を目覚めさせまいと押さえつけ、結局その感覚も起きる頃には忘れてしまいました。
目覚めの間際、最初に違和感を覚えたのは空っぽの手でした。
私はいつしか窓から差し込んでいた日光に薄目を開け、まぶしすぎる光から逃げるために布団の中へと潜り込みます。
けれど、その布団の中にはあるべき存在が消えていたのです。
それに気がついて、ガラスが割れたかような驚きと恐怖に私はすぐ目を覚ましました。
憂「なんで……? お姉ちゃんが、いなくなってる……!」
飛び起きて部屋中を見渡しても、お姉ちゃんは影も形もなくなっていたのです。
そこで初めて部屋の時計を見ると、もうお昼の十二時を過ぎたところでした。
睡眠薬を飲んだせいで必要以上に眠りすぎてしまったことに、初めて気が付きました。
……そうだよ、勘違いだよ。お姉ちゃんがこの家からいなくなるはずない。
お姉ちゃんは起きてこの家のどこかにいるんだ。
私はそれを確かめるためにお姉ちゃんの部屋を飛び出しました。
リビング、私の部屋、ベランダ、トイレ、さまざまなところを探します。
けれども――お姉ちゃんは、この家のどこにも見つかりませんでした。
私がリビングの真ん中で倒れそうになったとき、遠くで玄関の開く音が聞こえました。
呼吸のリズムがおかしくなってひどいめまいにも襲われながら、私は手すりにもたれるように玄関へと向かいます。
昨日までずっとそばにいたはずのお姉ちゃんが消えてしまった。
不安を覚えた時、体調を崩した時、いつでも抱きしめてくれたあの優しい腕が……私を残して消えてしまった。
私の心がばらばらになるのには、それだけで十分すぎるほどだったのです。
憂「けほっ…おねぇ――ごほっ、はぁっ…おねえ、ぢゃん……」
支えてくれた腕を失って、一人では何度も倒れてしまいそうになりながら私は急いで玄関に向かいます。
手足が上手く動かせずに、何度も階段で転びそうになりながら。
私はたぶん、陸地に上げられた魚のように過呼吸に苦しみよろめいているんです。
どうにか最後の階段を下りたちょうどその時、私は廊下でいきおいよく抱きしめられました。
唯「……うい! ちょ――ごめんね、大丈夫?!」
……それは外から帰ってきたばかりの、制服姿のお姉ちゃんだったのです。
ローファーも脱がずに廊下に飛び出したお姉ちゃんに抱き抱えられ、私は玄関の向こう側に見知った人影を見つけました。
同じく中学校の制服を着た、和ちゃんと純ちゃんです。
和ちゃんはカバンの中から何かを取り出そうとしてあせって中身を床にばらまいてしまい、
純ちゃんも発作を起こして手足を震わせる私にどうすることもできずあたふたと立ちすくんでいます。
唯「和ちゃんはお薬持ってきて! 私の部屋の勉強机の下から三番目、花田メンタルクリニックって書いてあるやつ! いそいで!!」
和「――わ、わかったわ」
震える手足を押さえつけながら背中をさするお姉ちゃんが、強い声を上げました。
お姉ちゃんの声を聞いて和ちゃんはすぐに階段を駆け上がります。
唯「純ちゃん、コップに水、あと紙袋! ……いいから、靴とか脱がなくて!!」
純「は、はいすいません!」
和ちゃんに続いて純ちゃんもリビングの方へと飛び出して行きました。
それからお姉ちゃんはずっと耳元で「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とささやきながら背中をさすってくれました。
憂「はぁ…はあっ……おねえ、ちゃんっ……」
唯「だいじょうぶだよぉ、うい。心配ないからね、お姉ちゃん、ずっとういのそばにいるからね」
大丈夫。心配ない。ずっと、そばにいる。
不安でばらばらにされた私の心を拾い集めて戻すように、お姉ちゃんは耳元でずっとささやきます。
お姉ちゃんの声はこんな時でも子守唄のように優しく伝わって、耳にあたる息と共に少しずつ呼吸もおさまってきました。
私は腕の中で、お姉ちゃんの顔を見上げました。
髪の毛もはねたまま、制服のスカーフも半分ほどけたような状態のお姉ちゃんは……泣いていました。
憂「……おねえ、ちゃん…」
唯「ういぃ、ごめんね……憂のこと、勝手において、外へ出てっちゃったりして、私が引きこもりだから…」
涙と鼻水でひどい顔のお姉ちゃんが発作を起こした私を抑えるのを見て、
悪いのは全部私なのに自分のせいだと謝り続けるのを聞いて、
……もう私は、耐えられなくなってしまいました。
憂「――違うよっ、病気なのは私の方だよ! お姉ちゃんは私のために引きこもりのふりをしてただけだもん!」
九月のある晴れた金曜日。
半年ずっと私たちを守ってくれた、二人で守ってきた嘘を――私は一思いに壊しました。
――――――
三年ぐらい前の話になります。
そのとき私は小学五年生で、たしか四月ぐらいだったでしょうか。
その年、お姉ちゃんと和ちゃんが小六から塾に通い始めました。
その塾は関東一帯にチェーン展開する大規模なものだったのですが、私たちは中学受験をするつもりなんてありませんでした。
遊んでばかりだとよくないし、英語でも習ってみたらどうか。
お母さんがお姉ちゃんを塾に入れたのはそんな軽い気持ちからだったようです。
その頃からなんでもお姉ちゃんと一緒がよかった私は、後を追うように入塾しました。
今にして思えば、たまたま運が良くて、他の生徒よりも少しだけ勉強をがんばっただけなんだと思います。
けれども私は六月の五年生対象の塾内テストで、全塾生中で三位の成績を取ってしまったのです。
和ちゃんは目を見開いて驚き、お姉ちゃんはうれしそうに抱きしめてくれました。
お母さんやお父さんにも頭をなでられて、なんだかちょっとてれくさかったです。
――うい、よくがんばったね。
そう言ってお姉ちゃんは冗談で、ほっぺたにキスをしてくれたのを今でも覚えています。
もののはずみとは言ってもそんな成績を取ってしまった私は塾長から特別進学クラスへの転入を勧められました。
お母さんやお父さんは応援してくれましたし、和ちゃんもがんばってみたらと後押ししてくれました。
お姉ちゃんは転入した方がいいとは言いませんでしたが「憂がやりたいならおうえんするね」と励ましてくれました。
転入した先のクラスで私は純ちゃんと知り合いました。
はじめ新しいクラスにうまくなじめないでいる私を気にせず、純ちゃんは今と変わらない様子で話しかけてくれました。
純ちゃんはもともとご両親の意向で都内の私立中学を志望していたみたいです。
なので授業が終わった帰り道、純ちゃんはため息まじりに不満をもらしていました。
純「べーっつに、いい学校とか行く必要ないんだけどさー。そこの桜中でいいじゃんっていうね」
憂「うーん、でもいい学校に行けたら家族のみんながよろこぶんじゃないかな?」
純「自分が楽しくなきゃ意味ないよ、そんなの」
特進クラスの生徒は教室の中だと私語一つ口にしないまじめな生徒ばかりでした。
なので、純ちゃんみたいな子と一緒にいると……なんだかいつも気が楽になったのです。
てす
私が小学六年生になった年、お姉ちゃんと和ちゃんは市立の中学に進学しました。
和ちゃんも成績は優秀だったのですが、授業料のことを考えて最初から中学入試は考えなかったそうです。
受験生となった私は今まで以上に課題が増え、塾の授業後に家で勉強するだけでは時間が足りなくなってきました。
特進クラスは小学一年の頃からずっと勉強をしてきた人もたくさんいました。
ですので、そんな生徒たちに追いつくためには人一倍努力しなきゃいけなかったんです。
そののち私は学校でも休み時間も昼休みも塾の課題に費やして、学校の友達ともほとんど遊べなくなりました。
勉強しても勉強しても成績が伸びず、学校だとそれを相談する相手もいません。
はじめクラスメイトたちはものめずらしそうに私の勉強を見ていましたが、やがて距離は開いていきました。
そうして九月も半ばを過ぎた頃、学校で運動会が開かれました。
小学校生活最後の、クラス対抗大縄跳びにクラスのみんなが活気だっていたのは輪の外の私にも分かりました。
ですが、塾であまり練習に参加できず首都圏模試への対策のことばかり考えていた私は縄に引っかかってしまいます。
次の日、登校すると私は誰とも口を利いてもらえなくなり、遠巻きに陰口をささやかれるようになっていました。
あの日グラウンドで、一歩でも踏み出すタイミングが違っていたら。
もしかしたら私の人生は大きく変わっていたのかもしれないです。
誰とも話せないまま、ひとりぼっちの教室で黙々と鉛筆を動かしていると、自分がどこにいるのか分からなくなります。
あたかも私とほかのみんなの間は見えないガラスで隔てられている気がして、ひどい孤立感にさいなまれるのでした。
教室の中を泳ぐように行き来するクラスメイトたちも、屈折したガラスのこちら側からは別の生き物のようです。
ときどき窓の向こうから耳鳴りのように響いては私を傷つける言葉から身を守るように、ますます勉強へと逃避していきました。
中学の学年末テストの季節になると、和ちゃんがいつもうちに来てお姉ちゃんに勉強を教えていました。
和ちゃんは私に会う度に「勉強がんばったらいいことあるわよ」と励ましてくれました。
そんな和ちゃんの前で学校でうまくいかなくなった話をするのは、勉強のせいにしているみたいで申し訳なかったんです。
そういえば、塾の先生も同じようなことを言っていたのを思い出します。
先生たちは私たち生徒にはちまきを渡して、喉をからすまでかけ声を上げさせ、受験に合格すればすべて良い方向に向かうと説きました。
純「……なんかさ、もう宗教だよね。これ」
塾の夏合宿の休み時間、純ちゃんはうんざりしたような顔ではちまきを握って私に耳打ちしました。
もうなにが正しいのかよく分からなかったのですが、とにかく私は懸命に泳ぎ続けようとしたのです。
私が夜遅くまで勉強するようになると、お隣のとみおばあちゃんがうちに来て晩ごはんを作ってくれるようになりました。
小さい頃から会社の仕事で海外を飛び回る両親はよくとみおばあちゃんに私たち姉妹を預けていたので、家族以上に家族のような関係でした。
そういえば私が小学五年の冬、誕生日になってブリュッセルから高級なお菓子が送られてきたことがありました。
お菓子に付いていた封筒を開くと「今年は受験生です。頑張ってください 父より」という手紙と三万円が入っていました。
お父さんもお父さんなりの形で応援してくれている。
私はそう思いたかったのですが、お姉ちゃんは私以上にその手紙に怒っていました。
私たちが家に引きこもるようになったときも、お姉ちゃんはこう言っていました。
唯「あの人たちはお金だけ出す係なんだよ。家族は憂一人で十分だよ」
いけないことだとは知りつつも、そんなお姉ちゃんが一瞬お父さんのように頼もしく感じてしまったのは事実です。
もしかしたら、私たちは夫婦のような関係を演じてたのかもしれません。
過呼吸やけいれんといった症状が最初に起きたのはその年の冬辺りでした。
十一月末の理科の授業中、私は教室でふいに息が出来なくなりました。
息を吸い込もうとすればするほど苦しくなって、まるで水が喉に入ったかのようにむせてしまうんです。
暗い曇り空のために窓際の席にいた私の姿がガラス窓に映りこんだのが、今もはっきり目に焼きついて残っています。
私が発作を引き起こした時、クラスメイトたちはどうするでもなくただビデオを見続けていました。
ちょうどその時は地球の構造に関するビデオを見ていた時で、教科担任の先生も職員室で作業をしていたようです。
自分でも分からない急な呼吸困難に陥った私は誰にも助けを求められないまま、喉をおさえて呼吸を取り戻そうとします。
『深海は水圧がとても高く、普通の魚は生きていけない世界です。』
――ビデオの音声が頭に反響して吐き気をもよおします。
涙が勝手にあふれてここがどこにいるのかさえ分からなくなってきます。
めまいがあまりに酷くて、足元の床が崩れていくような錯覚さえ覚えました。
『また、水圧の高い深海から急浮上すると、急な圧力の変化で「潜水病」を引き起こしてしまいます。』
めまいのせいで、ビデオに映る奇怪な深海魚と私を不安げに見やるクラスメイトの顔とが交錯します。
身体が内側からおかしな圧力で壊れていきそうで、このまま死んでしまうとさえ思いました。
私はそこに居もしないお姉ちゃんに心の中で助けを求めました。
職員室から戻ってきた先生が私を保健室に連れて行く間も、ずっとずっとお姉ちゃんの名前だけを唱えていたのです。
こんな時、本当につらい時に助けを求められるのはお姉ちゃんしかいないと決め込んでいたんです。
そしてそれは、今だってあまり変わっていないと思います。
発作を起こした日、保健室の白いベッドの中で小さいころの夢を見ました。
夢の中で私はお姉ちゃんと二人で手をつないで家の近くの公園まで散歩しました。
錆び付いたジャングルジムや、揺れるたびにきいきいと音の鳴るブランコ。
数年前まで和ちゃんを入れた三人でよく遊びに行っていた、あの公園です。
唯「ねぇうい、あっちいこうよ」
お姉ちゃんが指差したのは足元に鮮やかな木陰が揺れる小さなベンチでした。
そういえば私とお姉ちゃんが二人で公園に来たときは、いつもこのベンチで遊んだものです。
おままごとをしたり、カスタネットを叩いたり、アルプス一万尺の速さを競ったり……どれも懐かしい思い出でした。
ベンチに腰掛けたお姉ちゃんは手をぎゅっとにぎって、もう片方の腕でそっと私を抱きしめました。
それから何かをささやいた気がしたのですが、うまく聞き取れなかったです。
つないだ手の感触はやがてリアルなものへと変わっていき――私は目を覚まします。
そこには手をにぎったままベッドで眠るお姉ちゃんがいました。
子どものような寝顔をよく見ると、まぶたが赤くはれているようです。
唯「あ…ういー。げんきになった……?」
ついさっきまで泣き顔だったような真っ赤な目を細めて、お姉ちゃんは安心したようにほほえみました。
こらえきれなくなって、その日は私からお姉ちゃんに抱きついてしまいました。
それからこのような発作は入試の当日までたびたび起きてしまいます。
授業中に起きたのは一番重かったあの一度きりでしたが、休み時間や登下校中や塾の授業前などで軽い過呼吸は何度もわずらいました。
発作が起こるたびに「このままだと私は死んじゃうのかもしれない」としか思えなくなります。
いつしか私は、一度発作が起きた場所を無意識に遠ざけるようになってしまいました。
登下校でもわざと最短の市道を避けたり、塾のエレベーターを使わずに階段で移動したり。
そうやって発作の起きた場所を避けていくたびに行動範囲が狭まると、見えない網に閉じ込められていく気がしてとても怖かったです。
お姉ちゃんは学校や保健室の先生、それに和ちゃんから教えてもらったパソコンを使って私の発作のことを真剣に考えてくれました。
過呼吸は紙袋を使って呼吸を整えるのがいいとか、この発作だけで死ぬことは絶対にないとか、私はお姉ちゃんからいろいろなことを聞きました。
唯「いつでもういのそばに居られるわけじゃないから、できることは一緒のときにしておきたいんだよね」
私が気づかうと、お姉ちゃんはいつもそんな言葉で安心させてくれます。
発作のこと以外でも、勉強している私の代わりに朝のごみ捨てに行ってくれて、トーストを焼いてくれてといろいろしてくれました。
お姉ちゃんのために、受験はがんばらなきゃいけない。
受験に合格したらお姉ちゃんが喜んでくれるんだ。
――けれども、そう思えば思うほど入試会場で発作を起こしそうな気がしてしまったのです。
予感はいつも、悪い方ばかり当たってきたような気がします。
当日、私は入試会場に一時間前に着いて自分の席で持ち物を確認していました。
鉛筆は六本削ってとがらせましたし、消しゴムも新品に両面テープをしっかり貼っておきました。
ティッシュペーパー、塾でもらったお守り、お弁当、紙袋……それから、大事なお財布。
私は財布のカード入れのところから、プリクラ写真を一枚取り出しました。
年明けに私とお姉ちゃんで撮ったものです。
あの日お姉ちゃんはふざけてキスしようとして、思わずよけようとしてしまいました。
けれどもお姉ちゃんは私をつかまえて、唇はあきらめてもほっぺにとキスをしてしまいました。
『ゆい&うい』 『としこし!』 『ずっといっしょだよ』
できあがったのは、ハートマークの背景にお姉ちゃんが書いたそんな言葉が並ぶプリクラです。
そんなプリクラなのでちょっと誰かに見られるのは恥ずかしいのですが、やっぱり一番のお守りでした。
私はそれをお財布にしまって、社会の年表を開きなおしました。
やがて試験時間になって、受験票の照合が始まり机の上を片付けることになりました。
寸前に私はカバンの中でお財布を探し、プリクラに触れてから試験を受けようとしたのです。
予感はいつも、悪いほうばかり当たってきました。
私たちがこの半年間、未来のことを考えるのから逃げ続けてきたのも、たぶんそのせいです。
憂「あれ、入ってない……?」
後になって家に着いてカバンの中を調べた時に、奥の方で折れ曲がったプリクラが見つかりました。
だからたまたま何かに引っかかって財布から落ちてしまっただけなのでしょう。
けれどもそれは、緊張していた私の心をバラバラにするのに十分すぎるほどでした。
憂「……はぁっ…かはっ……あがっ…ふぅっ……」
問題用紙が配られる頃には、私の喉はまた呼吸の仕方を忘れてしまいました。
試験開始前、静まり返った会場に自分の呼吸音がうるさく響きます。
ダメだ。
大丈夫にしなくちゃ。
これは病気なんかじゃない、ちょっと息がおかしいだけなんだ。
……そう言い聞かせても呼吸が戻るはずもなく、おさえようとするほどかえって悪化していきます。
開始二分前、私の席に試験監督の先生が駆け寄って来ました。
私はなんとか試験を受けたくて、だいじょうぶです、と言おうとします。
けれども言葉の代わりに出たのは気管支まで響くようなくぐもったせきだけでした。
それでも試験だけは受けようとしたので、解答用紙を腕で守ろうとします。
その時、試験監督の人に腕をつかまれて椅子から倒れてしまいました。
転げ落ちた足元から会場の教室を見上げたとき。
私の視界に、着席した深海魚の群れが飛び込んで来ました。
『アクシデントのため、この教室の国語試験は五分遅延します』
副監督の先生が響かせた声を遠く聞きながら、私の意識は薄れていきました。
それから次の年の四月、私が桜ヶ丘中学に進学するまでのことはよく思い出せません。
受験勉強からの反動で無気力状態に陥り、卒業式の練習で学校に行く以外はずっと自分の部屋にいました。
ベッドの上でいらない参考書を読み返したり、純ちゃんから借りたマンガ本をぱらぱらめくってみますが、何が書かれているのかもよくわかりません。
文字が文字としてしか映らず、主人公の表情もただの絵にしか思えなくなっていたんです。
そんな状態の私を気づかってか、お姉ちゃんは私の手を引いて買い物やアイスクリーム屋さんへと連れて行ってくれました。
唯「うい、おいしい?」
三段重ねのアイスクリームをおいしそうになめながら、お姉ちゃんが聞きます。
私はそのころ、本当は食べ物の味すらもよく分からなくなっていました。
けれどもなんだか楽しそうなお姉ちゃんを見ていると、私の緑色のアイスがとてもおいしいような気がしました。
憂「……うん、おいしいよ!」
お姉ちゃんはやわらかく笑って、私のアイスを一口かぷりと食べちゃいました。
唇に緑色のアイスをつけたお姉ちゃんがなんだか子どもっぽくて、吹きだしてしまいます。
たぶん私を笑わせる方法を、世界で一番知っているのはお姉ちゃんなんだと思います。
一年前の四月から、私は桜ヶ丘中学に進学しました。
お父さんが私立に行った方がいいのではと手紙で提案しましたが、お姉ちゃんと同じ中学校を選びました。
どこか知らない中学に通ってお姉ちゃんと離れ離れになる方が不安が大きかったからです。
唯「えへへ、ういとおそろいの制服だね!」
春休みじゅう、ずっとお姉ちゃんが一緒にいてくれたおかげで私もいくぶんか元気になりました。
そのころ、受験中にいろいろお世話をしてくれた恩返しとして私は毎日お姉ちゃんにごはんを作ってあげることに決めました。
それは春休みを過ぎてもずっとずっと続き、いつしか私の家のご飯はぜんぶ私が作ることになっていました。
ずっと前からとみおばあちゃんと一緒に料理を作るのが好きだったのもあります。
けれどもそれ以上に、恩返しはぬきにしたってお姉ちゃんを毎日喜ばせてあげたかったんです。
困ったときにはずっとそばにいてくれて、つらいときにすぐ駆けつけてくれる。
そんなお姉ちゃんを笑顔にすることだけが、私の生きがいになっていました。
唯「ういの作るごはんがおいしいから、生きるのが楽しいよ!」
食べ終わった食器を片付ける時、お姉ちゃんはおどけたそぶりでそんなことを言いました。
あの言葉が冗談だと分かっていたとしても、私の胸は音を立てそうなほど高鳴ったのです。
あの頃から、私はお姉ちゃんに恋していたんだと思います。
中学校での生活ははじめ、それほど楽しいとはいえなかったです。
クラスメイトは小学校の時とほとんど変わらなかったので、わだかまりを残したまま進学してしまったからです。
教室に入るとその頃のクラスメイトと顔をあわせるのが怖くて、なんとなく避けてしまいます。
そういう態度をとってしまうせいで、ますます私は他の子たちとも話が出来なくなってしまう一方でした。
それでも学区の区分けが変わって、純ちゃんと同じ学校になったのはうれしかったです。
一年次のクラス分けでは別になってしまいましたが、休み時間のたびにちょっとずつ純ちゃんやその友達と仲良くなることができました。
とはいえ……自分の教室に戻ると、誰とも話が出来ないまま本を読むような日々が続いていました。
やっぱりこのままではいけません。
こんな気持ちで通学していたらいずれはお姉ちゃんを悲しませてしまいます。
そう思って私は和ちゃんに頼んで、生徒会のお仕事を手伝わせてもらうことにしました。
純「ふーん……やっぱぞっこんなんだね、憂」
純ちゃんと一緒にいつものハンバーガーショップでお話していた時のことです。
私とお姉ちゃんの話をしていたら、いたずらするみたいににやにやと口を挟まれました。
憂「え……そうかな。私はお姉ちゃんっ子なだけだよ」
純「ええー? それぜったいラブの域いってるって!」
お姉ちゃんと、ラブの関係……。
恥ずかしくて顔が熱くなってしまう私は気にせず、純ちゃんのテンションは上がります。
こんな風に恋の話で盛り上がっていると、私も女子中学生なんだなって変に納得してしまいます。
純「じゃあもうコクっちゃいなよ! お姉ちゃん、すきです!って」
憂「あはは……うん、お姉ちゃんのことは、好きだけどね……うん」
純「憂、めっちゃ照れてるじゃん。いいなー私も恋したいなあっ」
あの時どのくらい本気で純ちゃんが私の恋を応援していたのかは分かりません。
普通に考えたら、自分の家族に恋愛感情を抱く時点でいろいろ間違っているはずです。
純ちゃんは私といる時も学校と同じようにおどけてくれます。
その言葉が冗談だとしても純ちゃんが私を元気付けようとしているのは伝わったので、なんだかほっこりした気分でした。
純「じゃあ、選挙終わったらデート行って告白しなよ」
とんでもない提案をされてしまいました。
憂「えっ……ええっ! そんな、そんなことしたら…うちで気まずくなっちゃうよぉ…」
純「なにさ、憂だってコクったあとのことリアルに想像してんじゃん」
こういう時だけ勘がするどい純ちゃんが怖いです……。
そのとき私は六月に和ちゃんが会長に立候補する次期生徒会役員選挙で選挙管理委員となっていました。
書類整理など生徒会の仕事をいろいろ任されるうちに他の生徒会員のみなさんからも信用がある、そう和ちゃんは言っていました。
生徒会役員選挙は和ちゃんだけでなく、私にとっても正念場となる催しでした。
だから……これは失敗するわけには行きません。
純「まったくもー。憂はがんばりすぎなんだよ、お姉ちゃんとデートの一つでも行ってくりゃいいじゃん」
憂「はい、はい……うん。じゃあ、選挙終わったらどこか出かけてみるね」
そう考えると、純ちゃんのおかげで選挙の日が楽しみになってきました。
デートプランは純ちゃんが考えてくれるらしいので、私は選管の仕事に専念しました。
投票方法を公示したり、立候補者のスピーチを録ってお昼の時間に流したりと実は選挙以外にも大忙しです。
けれども生徒会や同じ選管の先輩がたに助けられながらの仕事は、楽しくてやりがいがありました。
純ちゃんにはよく言われることですが、誰かが自分のおかげで笑顔になってくれることが一番うれしいんです。
中でも一番好きな笑顔は……お姉ちゃんの、花が開くようにふわっとした顔なのですが。
和「無理しないでよ、憂は自分ひとりで抱え込みすぎるんだから」
憂「ありがとう、和ちゃん。でもだいじょうぶだよ」
和ちゃんは心配そうに言いますが、生徒会や同じ選管の人に信用されたことが強い自信につながっていました。
それに小学校の頃から和ちゃんには迷惑をかけどおしだったので、恩返しもしたかったのです。
あとは……選挙が無事に終わったら、お姉ちゃんとデート。どきどきします。
いろんな人のために、私は中学校で初めての選挙管理委員をまっとうしました。
そうして、本番を迎えました。
綿密な準備の上での本番は、たぶん成功だったのでしょう。
体育館での選挙演説で和ちゃんは部活の活動時間を増やすマニフェストを掲げて、見事トップ当選しました。
集計作業のとき、他でもない「真鍋和」の名前が丸で囲まれているのを見るたびに温かいものを感じたのです。
けれども……次の週の月曜日、登校したときでした。
同じクラスの子たちが集まってなにかうわさ話をしていました。
そうして登校してきた私を見つけると、ちらちらと私の方に冷たい視線を向けるのです。
私の方を見てはひそひそとささやきあうクラスの子たち。
何を話しているのかはよく分からなかったですが、よくない話に繋がっていることは伝わりました。
そんな彼女たちを見て、小学校の教室が一瞬、頭に浮かんで息を詰まらせます。
――ダメだ、そんなことないよ。お姉ちゃんに心配掛けちゃダメ。
心の中でそう言い聞かせながら通学カバンを置くと、純ちゃんが教室に駆け込んできました。
純「ちょっと憂、時間ある?」
どこか様子のおかしい純ちゃんに引っ張られるようにして階段を少し早足で上り、私たちは四階の社会準備室に入りました。
授業用の世界地図や地球儀なんかが置かれたその部屋は普段入る人が居ないため、純ちゃんや私はそこでお弁当を食べることが多々あったのです。
そこにお姉ちゃんや和ちゃんを交えることもあって、社会準備室は私たちの秘密の隠れ家のような場所でした。
純「……あのさ、私は憂のこと信じてっからね? だから、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
その口ぶりがいつもと違って重くて、何が純ちゃんをそうさせているかと思うと怖くなります。
純ちゃんは私の左手にそっと手を乗せると、制服のポケットから携帯電話を取り出しました。
純「土日辺りから変なうわさ流れてるっぽいんだよ。和先輩の当選が、不正だったんじゃないかって」
――それから、その不正に関わっていたのが和ちゃんと仲のいい選挙管理委員の、平沢憂なんじゃないかって。
胸の奥が変な風に響きだして、自分の息遣いが良くない方向へ強まるのを感じました。
純「――憂、大丈夫?」
繋いだ手を思わず強く握ってしまうと、心配した純ちゃんが背中に手を置いて心配そうに声をかけました。
憂「ごめん、大丈夫……。でも、不正って、どういうことなの?」
純「うーん……いいや、私が話すよ」
一瞬、携帯電話に目をやって悩んだそぶりの純ちゃんは、やがてそれをカバンに投げ込んで話始めました。
昨日あたりに、純ちゃんの携帯にとあるサイトのアドレスがチェーンメールで送られてきたそうです。
それは桜ヶ丘中学の裏サイトというもので、生徒や先生のうわさについて書き込みする掲示板みたいなものだったみたいです。
純ちゃんが言うには、開票と和ちゃんの当選が決まった日の夜に掲示板へ「得票数がおかしい」という内容が書き込まれていたそうです。
憂「……その裏サイトっていうの、今も見られるの?」
純「ごめん、見せたくない。ひどいことしか書かれてないもん」
そう言ってカバンを遠ざけようとした純ちゃんの腕を握って、見せてくれるように頼みました。
いつしか、自分の声が涙交じりになっていたのに気づきました。
『名無しさん:×ナベの一年の票が多すぎるけどこれ絶対票数いじってるよね?ワラ』
『名無しさん:バスケ部のヨコタニ先パイが落ちるとかマジでない ×ナベってやつ裏でなんかしただろ』
『名無しさん:あのガリベン!って感じのメガネのやつ?(^ω^;)』
『名無しさん:前も生徒会にいたよなあの女 長い間生徒会に居座って内申書良くしてほしいってのが見え見え』
『名無しさん:ってか票数工作したんじゃね?ww グルなんだろ』
『りお☆:↑今年の選挙が自作自演だったってコトですか??』
『名無しさん:俺1年だけど、×鍋の友達のH沢ってやつがアヤしいと思います コネで選管入ってたって先輩言ってたし』
『真・バスケ狂:H沢って誰?』
『平行世界に住む男:ところで昨日UFO見ました スーパーのカップ麺売り場で』
『名無しさん:ユーウツの鬱って字書く子でしょ? 同じクラス』
『通りすがりの桜中生:実名出すなよ つか根拠ないのに変なこと言うな』
『名無しさん:↑↑鬱じゃないよwww』
『名無しさん:↑↑↑知ってる 小学校でいじめられてたって友達から聞いた』
画面を下に移動させながら、自分がえたいの知れないものに飲み込まれるような感覚に襲われていきました。
続きを見るのが怖くて、けれども見なくてはいけない気がして――そんなとき、純ちゃんは携帯電話を無理矢理閉じました。
憂「……どうしよう、わたしの、私のせいだ…」
純「えーっとうん、気にしない方がいいって。こんなの面と向かって言えない人が陰口書いてるだけだしさ」
指先が少しずつ震えてくるのを抑えられず、そんな私の手を純ちゃんはずっと握っていてくれます。
和ちゃんに恩返しをするどころか、信用を奪ってしまった。
私が選管じゃなかったらこんなことにならなかったのに。
不正のことはもうクラス中に伝わっているみたいで、うわさが見えない怪物のように私を囲み込んでいるのです。
とめどない罪悪感と錯覚とも妄想ともつかないような何かが頭の中でぐるぐると膨れ上がって、学校中の誰からも憎まれているようなそんな気がして、
憂「――もう、いやだよぉ!」
純「うあ、ちょっと憂、落ち着こうって、ほらっ」
唯「憂、入るよ?!」
飛び込んできたのはお姉ちゃんでした。
手足のふるえが止まらなかった私を両腕でなんとか押さえつけていた純ちゃんに代わって、お姉ちゃんは全身で抱きしめてくれます。
純「あ、あの……唯先輩、授業とかって」
唯「だいじょぶさぼるから。純ちゃん、メールくれてありがとう」
お姉ちゃんは即答すると震える私の身体を力強く抱きしめて、頭をなでながらだいじょうぶだいじょうぶとささやきます。
中学に入ってから、私はお姉ちゃんに自分がクラスでも元気でやっているように振る舞ってきました。
たぶん、その反動が来てしまったんです
憂「おねえちゃん…たすけて、つらい……」
唯「だいじょうぶ、ういのそばにいるよ」
憂「がっこう、いきたくないよ…もうやだよぉ……」
――じゃあ、家にずっといようよ。
その時のお姉ちゃんのささやき声は、いつかに食べたハチミツのように甘かったのです。
純「えっと、じゃあ…私戻りますね」
唯「うん。ありがとね、純ちゃん」
少し落ち着いてから準備室を出て、私はお姉ちゃんに抱きかかえられるようにして保健室へと向かいます。
そこまでの道のりで生徒とすれ違うたび、私はその人たちの視線が怖くてお姉ちゃんの胸元に顔をうずめてやり過ごしました。
あの掲示板に誰がどう書き込んでいたのかなんて分からないので、道行く人すべてに憎まれているような錯覚が消えなかったんです。
そしてそれは赤の他人だけじゃなくて――
憂「……おねえちゃん、ごめんなさい…」
唯「だいじょうぶ! 今日の晩ごはんは私にまかしといてよっ」
憂「そういう、はなしじゃなくて……あは」
思わず口にでてしまった私の言葉を、お姉ちゃんは見当違いな方へ解釈して元気づけてくれました。
今も涙が乾き切らないほど泣いていたのに、思わず笑ってしまったんです。
その日、私はお姉ちゃんと一緒に学校を早退して家でゆっくり過ごしました。
私はベッドでお姉ちゃんに抱きついて、眠るまでそのままでいてとおねだりして、起きてからもそばにいてとお願いしました。
選管の仕事でなかなか一緒にいられなかった分を、それに今までふれあえなかった分を取り戻すように。
そうしてお姉ちゃんの腕の中で、何度目かに目を覚ましたころには。
冗談半分で純ちゃんに見抜かれた気持ちを隠す気力なんてなくなっていました。
私、やっぱりお姉ちゃんのこと、好きなんだ……。
次の日、私たちは学校を休みました。
あんなことがあったから仕方ない――やさしいお姉ちゃんはそう言ってくれます。
けれども……お姉ちゃんに甘えようとする度、あの掲示板の書き込みが頭をよぎるのです。
心ない書き込みの中には私のクラスメイトだという人もいました。
同じ教室にいて、それでも陰であんな風に思われていた……そう考えると、お姉ちゃんの気持ちでさえも曇りがあるように思えてしまうのです。
憂「……ねぇお姉ちゃん」
お姉ちゃんの部屋で抱きしめられながら眠っていた私は、はずみで問いかけてしまいます。
唯「なあに、憂?」
憂「私のこと、いやだよね?」
唯「……そんなことないよ」
私はお姉ちゃんに、何を言わせようとしたのでしょうか。
大好きな人のことさえ信じきれない最低な私はお姉ちゃんの腕の中で、わざと困らせるようなことを言ってしまいます。
そんなことしたって、ますます嫌われるだけなのに。
唯「ねぇうい……こわいの?」
憂「うん……ごめんなさい」
じゃあさ、私の気持ち、おしえてあげるね。
お姉ちゃんはそう言うと、涙で赤くはれた私の目をそっと閉じて、くちびるを重ね合わせました。
唯「……これでも、こわい?」
薄暗い豆電球の灯りの下で、お姉ちゃんはちょっと涙ぐんで、けれどもいつものように笑ってくれました。
私は無我夢中でお姉ちゃんを抱きしめ、胸に自分の顔を押し付けるようにして泣いてしまいます。
そんな涙に濡れた私のファーストキスは、海のように塩からい味でした。
いつしか教室へ足を運べなくなりました。
学校の廊下を抜けて、三階の一年生の教室に向かって、引き戸を開けて席に着く。
あとは本でも読んでやりすごせばいい。
そう、頭の中で何度も繰り返すのですが、教室のドアの前まで来るとそれが開けられないのです。
純ちゃんの友達と一緒に入って朝のホームルームと一時間目の授業まで受けたこともありましたが、そこでリタイヤしてしまいました。
私はその教室が深海のようにえたいの知れない圧力に満ちた場所だと思うようになりました。
クラスの子ともうまく話せず、自分だけが同じ生き物でないような錯覚さえ覚えたのです。
結局、私はそれから二年生になるまでほとんど授業を受けられませんでした。
お姉ちゃんはなるべく私と一緒にいてくれるようになりました。
けれども……家にずっといると、私がお姉ちゃんをこの家に閉じこめているような気がして、とても罪深く感じました。
泡のように消えてしまえたらと、何度も考えるようになりました。
保健室の先生の薦めで、私はお姉ちゃんと何度か心療内科に通ったことがあります。
病院はささやきあう言葉すら吸い取られるような静けさの中で、クラシック音楽が湧き水のようにさらさらと流れていました。
場の雰囲気にけおされてしまって、診察の席でも私はなにがどうしてこうなったのかがうまく話せませんでした。
お医者さんは私にいくつかの薬をくれました。
不安感をなくす薬。
ふるえを止める薬。
よく眠れるようにする薬。
けれどもどの薬も、ドアを開ける瞬間のあの強すぎる圧力を弱めてくれることはありませんでした。
唯「なんか、お薬間違えてるのかもね……私がういの薬飲んだら、風邪とか治っちゃったりして」
何度目かの病院からの帰り道、お姉ちゃんはおどけてそんなことを言いました。
たぶん私に効く薬はお姉ちゃんの温もりと笑顔だけなのだと、ひそかに思っては勝手に顔を赤らめてしまいます。
たーくんと出会ったのもそのときです。
お姉ちゃんが、二人で何かペットを飼ってみようと言い出したのがきっかけでした。
唯「二人で一緒に育てたら、なんだか私たちの子どもみたいだよね!」
無邪気な笑顔でそう言われてしまうと、私もなんだかわくわくしてしまいました。
お姉ちゃんとの子ども……今考えると、やっぱり恥ずかしいです。
はじめ私は犬か猫を飼うのかなと考えていました。
ですがお姉ちゃんはテレビで熱帯魚を飼っている家を見つけて「あれに決めたよ!」と言い出しました。
気になって聞いてみるとお姉ちゃんは「わんこもかわいいけど、お散歩しなきゃいけないもん…」とぼやくのです。
どうやら、外を出歩くのが怖い私のために、家の中で簡単に飼えるペットを選んでくれたみたいでした。
そうしていつだかの心療内科の帰りに、ホームセンターの中のペットショップで小さなベタを一匹買いました。
名前は、たーくん。
私がベタをもじった名前にしようと言ったら、お姉ちゃんがつけてくれました。
唯「二人で考えた名前だと、本当に子育てみたいだね……えへへ」
ちょっと顔を赤らめてお姉ちゃんは言うのです。
そんなこと言われたら、私が照れちゃうよ……。
ベタの飼い方はお姉ちゃんが調べてくれましたし、前に熱帯魚を飼っていた和ちゃんもいろいろ手を貸してくれました。
二人や時々連絡をくれる純ちゃんのおかげで、家の中でなら少しは元気になれたようです。
お姉ちゃんが学校に行っている間、私はお菓子を作ったりお掃除をしたり、教科書の予習を進めてみたりして過ごしました。
放課後、五時半になるとお姉ちゃんは寄り道もしないで帰ってきてくれます。
ただいま。
おかえり。
……そんな言葉を交わしていると本当の夫婦になってしまえたような気になって、なんだかとてもうれしいのです。
ひとりぼっちの家でお姉ちゃんの帰宅を待つことは、少しさみしいけどうれしいことでした。
唯「ういは私のお嫁さんだね…!」
いつだかお姉ちゃんがくれたその言葉は、私たちの姉妹関係が壊れる予兆だったのかも知れません。
秋も深まって窓の向こうの木々が色づく頃には、私はお姉ちゃんと一緒でないとどこにも行けなくなっていました。
道行く人の視線が怖くて、いつ発作を起こしてしまうかも怖くて。
気が付くと教室のドアどころか玄関さえもお姉ちゃんの温もりなしで開けられなくなっていたのです。
私は家から一歩も出られず、ただただ家で登校するお姉ちゃんの帰りを待つ身となりました。
やがて私は誘惑に負けて、少しずつお姉ちゃんにいじわるをしてしまいます。
わざと身体を冷やしては風邪をひいてみたり。
眠ってる振りをしてお姉ちゃんに抱きついて離れなかったり。
じゃれ合って甘えているだけだったつもりが、いつの間にかお姉ちゃんが学校に行くのを邪魔するのがくせになってしまいました。
唯「もう……ういー、お姉ちゃんはちゃんと家に戻るから。ね?」
玄関で靴を履いたお姉ちゃんに「いってらっしゃい」を言おうとするたび言葉に詰まりました。
そして自然と手を握っては引き留めてしまうのです。
お姉ちゃんは笑顔で私の頭をなでて、キスをしてから学校に向かいます。
最初から、気づいていました。
私がお姉ちゃんを家に閉じこめようとしてしまっていることに。
けれどもいない間に心が変わってしまうことが怖くて、不安で、どうしようもなかったんです。
――お姉ちゃんを苦しめている私なんか、水に浮かぶ気泡のように弾けて消えてしまえばいいのに。
心の底に焼き付いた自分を傷つける言葉は、一人でいると頭の中で反響して……どうしようもなくなります。
こっそりと包丁の先で指をつついて怪我をしてみるようになったのは、年末ごろからでした。
ことの起こりから言えば、はじめ私はお姉ちゃんを心配させたかったのかも知れません。
けれども次第に、私の行為は自分への罰へと変わっていきました。
いくらお姉ちゃんを困らせたって、お姉ちゃんは私のことを受け止めてくれます。受け止めてしまいます。
やさしすぎて、よけいに失うのが怖くなりました。
いつか私がお姉ちゃんを求めすぎて、ついに見捨てられるんじゃないかと不安でたまらなかったです。
人の気持ちも考えず、わがままを言う悪い子は罰を受けなければいけません。
私は自分の身を傷つけたときのぴりりとした痛みと、皮膚に浮かぶ赤い血を感じることを勝手に自分への罰にしました。
でも、どんなに自分を罰してみたところで罪が消えるわけではない。
結局自分を傷つけることで自分の行いを勝手に正当化してるだけなんじゃないか。
……最初から、そんなことは気づいていました。
今年の三月のことです。
私はお姉ちゃんをこれ以上苦しめないために、最高で最悪なやり方を選んでしまいました。
学年末テスト最終日の夕方、私はリビングでテレビをつけたまま掃除をしていました。
番組を見るためというよりも人の声をそばで流しておくためでした。
静かな場所は落ち着くけれど、あまりにそれが続くと自分がひとりぼっちなことをよけい思い知ってしまうからです。
濡れた雑巾をバケツの上でしぼっていたら、夕方のニュース番組で引きこもりの特集が始まりました。
そこに映った引きこもりの男性は、中学受験に失敗して不登校となり、十年近く社会復帰できないでいるそうです。
彼は自分の家族に対して暴力をふるい、意のままにならないたびに部屋のものを壊したりと暴れます。
家族はそんな男性を疎んじ、腫れ物に触るような態度でしか関わることができなくなっていました。
彼のお姉さんは、音声を変えて目線を隠した状態で言いました。
『私の人生は、あいつの世話のせいでめちゃくちゃにされたんです』
機械でねじ曲げられた音声が、私の耳にはお姉ちゃんの心の叫びとして聞こえました。
もう、お姉ちゃんに家に閉じ込めて世話をさせている自分に耐えられなくなりました。
――しばらくして、私はお姉ちゃんの叫び声で我に返りました。
唯「……ばか! なにしてるのさぁ…なんで、なんでそんなこと、するのっ」
お姉ちゃんの腕の感触に気づくと、左の手首は真っ赤に染まっていました。
床の向こう側にお姉ちゃんが投げ飛ばしたらしい包丁が転がっています。
放心状態でまだ感情の追いつかない私は自分がなぜ泣き叫ぶお姉ちゃんに抱きしめられているのか、よく分からなかったです。
憂「……ごめんなさい。私が引きこもってるから、お姉ちゃんは迷惑なんだよね」
唯「私は憂が死ぬ方がいやだよ?! ばかじゃないの! なんで……なんでそんなことも分からないのさっ」
どこか冷めた状態の私とは対照的に、お姉ちゃんは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして叫んでいました。
お姉ちゃんの制服が汚れるからと身をよじっても、お姉ちゃんは私から離れようとしません。
なので私の手首から流れ出た血がお姉ちゃんの制服をすっかり汚してしまいました。
白い制服に広がった赤い染みが目に焼き付いて、ようやく自分がなにをしたのかを実感します。
あ……そっか。
私、死ぬこともできなかったんだ。
またお姉ちゃんを心配させただけだったんだ。
お姉ちゃんに抱きしめられたまま、どれぐらいの時間が経ったでしょうか。
テレビはいつの間にか消えていて、お姉ちゃんと私のすすり泣く音だけがリビングに反響していました。
唯「……ういはっ、ういはわるくないの…わるいのは、わたしなのっ」
お姉ちゃんは私を抱きしめながら、受験で私を追いつめてしまったことを謝るのです。
悪いのは全部私なのに。
今もこうしてお姉ちゃんの身体を汚しているのは私なのに。
憂「おねえちゃん…わたし、もう、おねえちゃんにね、ひどいことしたくないよ……」
答えを求めた言葉では、なかったです。
ただそのときは頭の中はどうしようどうしようごめんなさいごめんなさいとそんな言葉であふれていただけでした。
それなのに、私を抱きしめるお姉ちゃんはとっておきの嘘をついてくれたんです。
憂、引きこもりは私の方なんだよ。
憂が家にいるのは、家でごろごろしてる私のお世話をするためなんだからね――
唯「……だからねっ、ういはね、ぜんぜんわるくないんだよ……むしろいい子なんだよっ」
ありがとう、憂。
こんな、ダメなお姉ちゃんのお世話をしてくれて。
そう言うとお姉ちゃんは私になにも言わせないように、くちびるを自分のでふさぎました。
一瞬こばもうとしたお姉ちゃんの舌を……私は受け入れて、自分のそれを絡め合わせたのです。
こうしてその日から、私たちは共犯関係となりました。
それからお姉ちゃんは不登校になりました。
昼過ぎまで眠って、マンガを読んだりパソコンで遊んだりする毎日。
私はそんなダメなお姉ちゃんのために、朝昼晩と晩ごはんを作ったりお姉ちゃんのお話相手になったりとがんばります。
唯「ういー、アイスー…」
憂「おはようお姉ちゃん、お昼ごはん食べてからね」
私たちはみるみるうちにお互いの演技に騙されていきました。
気づけば本当に自分たちが「引きこもりの姉と、世話をする妹」のように錯覚するほどでした。
唯「……ごめんね、お姉ちゃんが引きこもりなせいで、憂に迷惑かけちゃって」
お姉ちゃんは自分の身を呈して、家から出られない私に「仕事」を作ってくれたのです。
私たちはたがいになくてはならない存在となりました。
……もちろん、悪い方の意味ですけど。
同じ日の晩のうちに、私たちは身体の関係を持ちはじめました。
お姉ちゃんが私を抱いてくれたのは、すぐ疑ってしまう私にはっきりと気持ちを伝えるためだった、いつだかそう言っていました。
私が少しでも不安を感じないようにと、お姉ちゃんは私の髪の毛からつま先まで深く深く愛してくれました。
身体の奥のやわらかいところに手を伸ばして、生乾きの私の手首ににじんだ血をなめながら言います。
唯「ずっと離れないからね。私は一生、憂のそばにいるからね」
お互いの皮膚を溶かし合って、ピークに達した多幸感に意識が焼き切れるあの瞬間。
ほんの数十秒、あの瞬間だけは私はお姉ちゃんと一つに繋がれた気がしたのです。
満たされきってしばらくして気づくと、濡れた自分の指からはお姉ちゃんの匂いがしていました。
お姉ちゃんはそんな私の指を、同じように水気の残る自分の指と絡め合わせます。
絡まった太ももと、唇のなかをやわらかくなぞる感触は心の奥底の不安まで塗りつぶしてくれました。
夜ごとに身体を求め合い、嘘の関係のなかで本当の気持ちを確かめ合う。
私が欲していたのは、快楽というよりも実感だったのだと思うのです。
生まれた時から仲良しだった私たちは夫婦となり、恋人となり、姉妹でもあり、そのどれでもなくなりました。
現状がそのどれよりもすばらしい関係だということにして、二人そろって自分たちの依存心から目を背けたのです。
――――――
ちょうど半年前と同じ、制服姿のお姉ちゃんの腕の中で私はこれまでのことを思い返していました。
呼吸もいつの間にか治まっていて、手足のふるえもなく思うようにお姉ちゃんを抱きしめていられます。
私の太ももから体温が冷たい廊下へと少しずつ流れていることに、今になって気づきました。
お姉ちゃんは……泣き疲れて、私を抱きしめながら眠ってしまったみたいです。
和「……大丈夫そうね」
純「みたいですね」
和ちゃんと純ちゃんが腕の向こう側でほほえんでいるのを見つけて、少しほほえみ返しました。
何かあったら連絡するのよ、和ちゃんはそう言うとカバンを持って純ちゃんと二人で家を出ました。
ドアが閉まる直前、純ちゃんが振り向いて言います。
純「……待ってるからね」
憂「……うん。ありがとう」
純ちゃんは少しだけ目を細めて、それからドアの向こうへと消えました。
すき間から見えた向こう側はお天道様も照っていて、散歩するにはとても気持ちよさそうな天気でした。
なんだか長い夢から目覚めたような気がします。
たぶん静かな海のように居心地のいい場所で、ハチミツみたいな甘い夢を見てきたのでしょう。
そういえばお姉ちゃんはおととい、糖分も成長に必要だと言っていました。
だったら……今まで見ていた夢も、私たちに必要なものだったように思えたのです。
ふと、お姉ちゃんの腕時計を見ると午後二時を過ぎたところでした。
私を抱きしめて、唇のはしっこから少しよだれをにじませて眠るお姉ちゃんは、いったいどんな夢を見ているのでしょうか。
憂「……お姉ちゃん起きて、もう昼過ぎだよ?」
唯「あれ…うい、起きてたの」
私がそうささやくと、お姉ちゃんは眠りの海から目を覚ましたみたいです。
ねぼけ眼のお姉ちゃんは、いつもと変わらないふわっとしたほほえみを浮かべていました。
玄関の横の窓からは陽の光が射し込み、ドアの前をからりと照らしています。
その温かみもいまは気持ちよくて、思わず一眠りしてしまいそうなところをこらえます。
唯「そと……はれてるねぇ」
憂「そうだね、あったかくて気持ちよさそうだね」
少しずつ目を覚ましつつあるお姉ちゃんに抱きしめられて、窓の向こうを見上げてみます。
いつか見た海のように澄んだ青空の中、誰かが飛ばした白い風船が空を泳ぐように漂っていました。
私は、お姉ちゃんに言います。
憂「晴れてるし……お散歩に、行ってみたいな」
ようやく眠りから覚めたお姉ちゃんは、やがてまぶしいほどの笑顔でうなづいてくれました。
唯「そうだね……じゃあ、一緒にいこっか」
憂「うん。手をつないで、外へ出よう」
お姉ちゃんの手は、やわらかくてあったかかったです。
私はシャワーを浴びて、服を着替えます。
外出するのは本当に久しぶりなので、どうしてもどきどきします。
それにやっぱり、まだちょっと怖いのです。
半年ぶりの足を踏み入れる外の世界がどんな風なのか、想像もできなくて。
だから髪を結った鏡の中の私もどこか不安げに見えました。
けれども、鏡の向こう側に映ったお姉ちゃんが手を振った時――心のつかえが取れた気がしました。
唯「準備できた?」
憂「…うん」
唯「それじゃあ、いこっか」
繋いだ手を離さずにお姉ちゃんがドアを開けて、私が歩き出すのを待っています。
深呼吸を一つして……向こう側の世界へと、ゆっくり踏み越えました。
おぼつかない足で少しずつ家を離れ、家の前の道路へと出ました。
憂「……あったかくて、きもちいいね」
唯「そうだね!」
隣のお姉ちゃんは笑いました。
そよ風の吹く暖かい道のりを、二人で歩く。
絡ませた指に力を込めると、同じように握り返してくれる。
たったそれだけのことが……とても尊いものに感じたんです。
陽の光に照らされて半年振りに歩くこの街は、全てがきらきらと光って見えました。
唯「どこ行こっか?」
憂「うーん…」
唯「じゃあさ、あっちいこうよ」
憂「うん!」
昼間のまばらな人通りの道を、手をつないで歩きます。
肌を暖める陽の光。
遠くで響く、鳥の鳴き声。
うなじをなでて吹き抜ける風。
一つにつながって伸びた二つの影。
そのどれもが、家の中から水槽のような窓を通して見た時には味わえなかった新鮮な感触でした。
私はただ、お姉ちゃんの進む方へ歩いてきます。
言葉を交わさなくたって、どこへ向かってるかは分かりました。
もしかしたら手の温もりが教えてくれたのかもしれません。
唯「ついたねえ」
そこは、むかし私たちが一緒に遊んだあの公園でした。
向こう側のベンチは、いつか見た夢のように砂金のような木漏れ日に照らされていました。
二人でそのベンチに腰掛けてみたら、ちょっと窮屈でした。
小学生やその前は広く感じたので少し不思議な気分です。
唯「ベンチが小さくなっちゃったのかな…」
お姉ちゃんはくすくす笑って言うので、私もつられてしまいます。
憂「私たちが、おっきくなったんだよ。お姉ちゃん」
言葉に出してみると、幼稚園の頃の私たちがふっと浮かんで……なんだかとても遠くまで歩いてきたような気がしました。
握ったままの手を私の太ももの上に乗せて、お姉ちゃんの肩に頭をあずけてみます。
こうして狭いのも、くっつけるからうれしいかな。
木漏れ日が足下できらきらと揺れるなかで、私たちは寄り添って過ごしました。
お姉ちゃんは今朝、私の復学に必要な手続きを調べに学校に行っていたそうです。
話によると、一年近く休んでいても心療内科の診断書があればなんとか取りはからってくれるみたいです。
唯「落ち着いたら、さ」
憂「うん」
唯「学校、いこっか」
憂「……そうだね」
学校に行って、中学生をやり直す。
それは私たちが、姉妹をやり直すという意味でもありました。
唯「ねぇ」
憂「なあに?」
唯「…すきだよ」
憂「うん…わたしも」
唯「…やっぱ、ういのこと、すきじゃない」
憂「………」
唯「……あいしてる」
憂「うん……わたしも、おねえちゃん」
隣にいるお姉ちゃんの顔を見上げると、うっすらと涙を浮かべていました。
かすかに震えるお姉ちゃんの手を、私も強く握ります。
私もまぶたが熱くなって、視界がうるんでいくのを感じました。
唯「……うい、わたし…離れたくないよ…」
憂「おねえちゃん…わたしも」
唯「でもね、私たち……おとなにならなきゃ。でなきゃ、愛せないよ」
依存じゃなくて、愛にするためには、お互いが自立しなくちゃいけない。
お姉ちゃんは、チャットでそういわれたと涙ながらに教えてくれました。
いつも私のことを真っ先に守ってくれたお姉ちゃんが、そのときはとても小さく見えたのです。
私は立ち上がって、そんなお姉ちゃんに覆いかぶさるように抱きしめました。
唯「うい、あったかいね…」
憂「おねえちゃんだって、あったかいよ」
涙声のお姉ちゃんが真っ赤になった目で私を見つめます。
大きな瞳の中には、同じような顔の私が小さく映っていました。
唯「ねぇ……うい、やくそく。してくれる…?」
憂「……いいよ、おねえちゃん」
――いつか、ほんとの恋人になろうね。
私は大きくうなづいて、愛する人に最後のキスをしました。
その味もまた……涙で、ちょっとしょっぱかったです。
◆ ◆ ◆
梓「……やっぱ、付き合ってたんだ」
憂「えへへ。ばれてた?」
梓「ばれてるっていうか、隠す気なかったじゃん」
憂「そ、そうかな…」
梓「それでさ。明日からなんだよね」
憂「……うん」
梓「唯先輩が、東京で一人暮らしはじめるのって」
憂「うん。荷物はおととい送っちゃったけどね」
梓ちゃんの顔がどこか不安げに見えたので、思わず話をそらします。
事実、お姉ちゃんの部屋はもうからっぽでした。
本や勉強机、教科書、布団……さまざまなものがまだ置かれているのに、お姉ちゃんの匂いを感じないのです。
あまりに掃除が行き届いた部屋は、ホテルのように生活感がなくなると聞いたことがあります。
それはたとえば、きれいすぎる水槽では魚は生きていけないことと似ているのでしょうか。
数日前まで部屋を埋め尽くしていたダンボール箱がいなくなった今では、部屋に入ってもお姉ちゃんの存在を感じないのです。
私は今朝、ただの部屋を掃除しているのがつらくなって昼過ぎに梓ちゃんを呼びました。
そして……お姉ちゃんとのことを、梓ちゃんに話したのです。
三年前のあの日。
お散歩から帰ってきた私たちは、半年ぶりに心療内科への予約を入れました。
自分の名前の入った診察券を使わなくなったお財布の奥から取り出して、初めてお姉ちゃんと病院に行った日を思い出したりします。
お姉ちゃんはしばらくチャットをしてからリビングに戻ってたので、一緒に晩ごはんを食べました。
相変わらずお姉ちゃんは好きなものを口にほおばりすぎてむせるので、なんにも変わってないんだって安心できました。
それからテーブルを挟んで私たちは少しお話をします。
距離間について、でした。
キスはダメ。
それ以上はもってのほか。
したら嫌いになる……そう誓いました。
本当は嫌いになれっこないのだって分かっています。
ただ、一度そういう振りをするのが大事なことも、互いに分かっていました。
それを全部分かった上で、私はお姉ちゃんに頼みます。
憂「でも……お姉ちゃんと、手はつなぎたいな。それだけで、それぐらいでいいから」
唯「……そうだね。じゃあどっか行きたいなら、連れてってあげるよ!」
テーブルから恐る恐る伸ばした手を、お姉ちゃんが両手で握ってくれた時。
私は、もう一度がんばってみようって思えたんです。
お母さんやお父さんと、少しずつ話ができるようになったのもそのころからです。
お父さんは相変わらず忙しく、お母さんも付き添っているので今でもあまり話す暇はありません。
でもお散歩した日の後で書いた手紙に、お母さんから返事が来ました。
小さい頃から仕事の都合でとみおばあちゃんにたびたび預けられていた私たちは、お母さんよりもおばあちゃんになついていたそうです。
それが腹立たしくて、自分から私たちを遠ざけるような育て方をしてしまった……手紙には、謝罪の言葉とともにそう書いてありました。
唯『……自分勝手だね』
憂『うん…』
唯『でも……お母さんには、感謝してるんだ』
憂『どうして?』
だって、憂を産んでくれたんだもん。
そう言ってお姉ちゃんは手をぎゅっとにぎってくれました。
私たちは話し合って、少しずつ両親のことを許していこうと決めました。
親の居ない子供は無理やり大人になろうとするから、かえって途中で子どもに戻ってしまう。
子どもでいなきゃいけないころに大人の役割を演じだしてしまうと、いずれ子供に逆戻りしてしまう。
お姉ちゃんのチャット相手の人はそんな話を聞かせてくれたみたいです。
唯『おおきくなったら、ういのおよめさんになるんだ…!』
憂『だめだよお姉ちゃん、そしたら、私がお姉ちゃんのお嫁さんになれないもん……』
唯『……なんか、幼稚園のころもそんな風にいってたよね』
憂『そ……そうかなあ?』
ういってこどもみたいだね。
そう言ったお姉ちゃんも、やっぱりこどもみたいにはにかみました。
クリスマス近くになって、お母さんだけが帰国しました。
お父さんは忙しいと聞きましたが……本当は、私たちに会うのが怖いのだと聞きました。
私たちは、自分たちの関係をそれとなく伝えました。
否定されるかと思ったら……二人そろって抱きしめられました。
――こんなになるまで、逃げてしまってごめんね。
お姉ちゃんとはどこか違った、私を包み込むように抱きしめる感触。
変わった感覚にとまどうけれど……いつかはお母さんにも慣れて甘えられるような、そんな気がしました。
お姉ちゃんの提案で、私たちは仕事でがんばるお父さんのために手紙を書きました。
それからお父さんとは、エアメールのやりとりをするようになりました。
私たちは少しずつだけど、家族へと戻っていったのです。
梓「……なんか、憂たちは大人だなー」
話を聞いていた梓ちゃんが、ぽつりとつぶやきました。
憂「えっ……そんなこと、ないと思うけど」
梓「共働きっていえばさ、うちもそんな感じだったじゃん」
梓ちゃんのご両親はプロのギター奏者で、公演でたびたび渡米しているそうです。
だから梓ちゃんの家も、家に子どもの梓ちゃん一人になることが多かったそうです。
私は軽音部を通して梓ちゃんと仲良くなって間もないころ、鍵っ子仲間だと分かって距離が近づいたのを思い出しました。
梓「授業参観に来てくれないとか、そんなぐらいだったけどさ。やっぱ、親を許そうって気にはなれなかったよ」
別に恨んでたりとかしてないけど……距離とかあるんだよね。
梓ちゃんはそうつぶやくと、うつむいてさみしそうに笑います。
梓「唯先輩がお姉ちゃんだったら、そういう意味で惚れてちゃってたかもしれないなぁ……」
憂「……私は、お姉ちゃんじゃなくても惚れてた気がするよ」
思わず口にしてしまったら、心の奥にしまっておいた不安のかけらがみるみる大きくなるのを感じました。
……お姉ちゃんの一人暮らし、応援するって、決めたのに。
梓「ところで、さ」
憂「なあに?」
梓「唯先輩って、なんで一人暮らしすることにしたの?」
そういえばこの質問は軽音部のみなさんにも聞かれました。
律さんはふざけて「あんなけなげなお姉ちゃんっ子を捨ててどこに行く気だ!」とお姉ちゃんをいじめてたぐらいです。
そんなことを聞いたらその場に居合わせた私の方が恥ずかしくて、顔から火が出そうでした。
お姉ちゃんはその時「自立します! 妹に頼ってごろごろする私はもうやめたのです!」と高らかに宣言します。
その場はどっと沸いて、みなさんもお姉ちゃんと一緒に笑っていたのですが……私は、それほど楽観的にはなれずにいました。
憂「……自立するためって、言ってたよ」
梓「それは聞いたよ。でも、それよりなんかあるんじゃないかなって」
梓ちゃんは、私の瞳の奥を射抜くような眼差しでじっと見つめます。
憂「……うん。私と、離れて暮らしたいって」
卒業式の二、三日前のことでした。
お風呂から上がって眠る間際、私はお姉ちゃんから一人暮らしすることを聞きました。
急な話なのでとにかくびっくりしてしまって、思わず問いただすような形になってしまったのを覚えています。
唯「う、ういぃ…あのね憂。そういうわけじゃ、なくてね」
お姉ちゃんは私を落ち着かせるように、なだめるように語りかけます。
憂「うん」
唯「ほら、憂と私ってさ、ずっと一緒に暮らしてきたじゃん」
憂「……うん。生まれたときから、ずっとだよね」
唯「だから、その……一度、離れて、私が憂と一緒にいていいってことを、ちゃんと確かめたいっていうか…」
お姉ちゃんはうまく言葉を選べずにいましたが、その意味ははっきりと私に届きました。
あの日、公園で交わした言葉が優しい波の音のように耳の奥で響いた気がしました。
憂「私のために……大人になってくれるんだよね」
唯「うん、憂のためだもん……憂も、大人になる前に、ちゃんと大人になるんだよ?」
お風呂上りのまま髪どめを外したお姉ちゃんが、少し震えた声で私に言いました。
なんだかお姉ちゃんが私を置いて一歩先に大人になってしまったように見えて――思わず手を伸ばそうとしてしまいます。
あれ以来、お姉ちゃんに触れることが少し怖くなってしまった私はすぐ手を引っ込めようとしました。
憂「……あ」
唯「えへへ。ぎゅ」
気づくと私はお姉ちゃんの腕の中で、いつかのように頭をなでられていました。
唯「……よしよし。いいこいいこ」
お姉ちゃんは私の身体を抱きしめると、私の頭をやさしくなでてくれました。
髪の毛をなでられていると、心の奥につかえたものが甘いドロップのように溶けていくようで気持ちよかったです。
三年以上前から、私は自分で作った壁に閉じ込められそうになるたびにお姉ちゃんはいつでも助けに来てくれました。
でも、そんなお姉ちゃんが……あと数週間もしないうちに、離れて行ってしまう。
憂「――おねえちゃん…やだよぉ、さみしいよおっ…」
心の壁がお姉ちゃんの体温で溶けるころ、私の涙もあふれ出してしまいました。
唯「うい…だいじょうぶ、だいじょうぶ」
するとお姉ちゃんは抱きしめた耳元で、またささやいてくれました。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。ういはいいこ、いいこいいこ。
そんなささやくリズムに合わせて私の心は温かいもので満たされて、落ち着いていきました。
飴玉のようにころころと甘く鳴る声は、お姉ちゃんだけが使える魔法です。
お姉ちゃんの歌声が人の心に届くのは当然なのです。
憂「ねぇ、お姉ちゃん、約束……おぼえてる?」
唯「うん! ……忘れたりなんか、しないよ」
公園のことを思い出して、ちょっと聞いてみました。
でもすぐに「約束」という言葉ひとつで伝わったことが、私を心から安心させてくれました。
憂「……がんばってね。がんばる、から」
唯「うん。……ずっと、いっしょだからね」
この手や身体は離れていても、心は繋がっていられる。
そんな、なんだか小説に出てきそうな言葉でさえも……お姉ちゃんは信じさせてくれたのです。
憂「――でもね、梓ちゃん」
二人きりでは広いリビングで、梓ちゃんは私の話をずっと聞いてくれました。
お昼過ぎにうちに来て、気づけばもう四時を過ぎていました。
お姉ちゃんとのことをずっと話し込んでしまって、もう四日ぐらい経ってしまったような気もします。
梓「うん」
憂「私、やっぱ……お姉ちゃんいなくなるの、こわい、かも」
梓「それは…しかたないよ」
お姉ちゃんと一緒にいるときは、上京のことなんて遠い先のように思えていました。
けれども荷物の整理が始まって、少しずつ家の中からお姉ちゃんのかけらが消えていくにつれて……たまらなくなりました。
明日が来るのが、怖いんです。
広すぎるリビングに、ひとり取り残されるのを想像するだけで。
梓「……でもさ。憂は、大丈夫だよ」
憂「そう、かな…?」
梓「てかさ、知ってる? 唯先輩って、一緒に練習してても憂の話ばっかしてるの」
憂「そ、そんなになの?」
梓「平沢姉妹は互いののろけ話しかしてこない、って純もあきれてたよ…」
私といるときは梓ちゃんの話が多かったので、ちょっと意外でした。
高校一年のころ、梓ちゃんと仲良くなる前に勝手にやきもち焼いてしまった私がばかみたいです……。
梓「お互いがいない時でも、ずっとお互いのこと考えてるんだよ。大丈夫じゃないわけないじゃん」
憂「そうだったら……うれしいな」
知らないところでお姉ちゃんが私の話をしているのは……見てみたいような、恥ずかしいような気もします。
――大学入っても、唯先輩はあんな感じなんだろうね。
ちょっとあきれた笑いとともに梓ちゃんがつぶやきました。
だけど実感の伴ったその言葉は、大学生になるお姉ちゃんとの未来から不安を取り除いてくれたみたいです。
梓「それに……」
憂「それに?」
梓「あっうんなんでもない。ってかもう夕方だし、唯先輩そろそろ帰ってくるんじゃない?」
梓ちゃんははっとしたように顔をあげたかと思うと、ごまかすように笑って話をそらします。
とっさに何かを隠したみたいですが、不思議とわるい予感はしませんでした。
しばらくして、梓ちゃんと入れ替わりにお姉ちゃんが帰ってきました。
唯「あずにゃん、うちの憂を頼んだよっ」
梓「嫁に出すみたいなこと言わないでください…」
憂「えへへ、じゃあ梓ちゃんこれからもよろしくね?」
唯「えっ…! あずにゃんあずにゃん、妹にうわきされたよぉ!」
憂「そんなことないよ、私はお姉ちゃんのものだもん!」
梓「ねぇ私帰っていいよね、憂…」
お姉ちゃんが帰ってきたとたん、窓の外からやわらかな光が射し込むように部屋があったかくなったようです。
帰りたいとぐちをこぼす梓ちゃんも、そんな私たちのことをほほえみ混じりに見守っていました。
梓「じゃあ……唯先輩、お元気で」
唯「って言っても、来週の日曜にはスタジオ入りだけどねぇ」
桜高軽音部を引退したお姉ちゃんたちですが、放課後ティータイムはそれとは別に継続していくみたいです。
私も梓ちゃんの軽音部に入るために紬さんにキーボードを習い始めたので、いつかお姉ちゃんと演奏するかもしれません。
唯「憂もがんばってね、今年の演芸大会はゆいういで出場するから!」
お姉ちゃんは私の両肩に手を置いて、なにやら気合いを入れてくれます。
そんな姿を見ていた梓ちゃんは少しほほえみながら、楽しみにしてるね、と言ってくれました。
梓ちゃんが帰った後、私はお姉ちゃんと一緒に晩ごはんを作りました。
お姉ちゃんはしばらく前から私に料理を習いはじめました。
こうして毎日一緒に作るのも、最後だと思うとちょっとこみ上げてくるものがあります。
唯「うい、どしたの?」
憂「……たまねぎ、切ってただけだよ」
唯「そっかぁ。じゃあ、代わりに切ったげるよ」
お姉ちゃんが手を差し伸べてくれましたが、遠慮しておきました。
なんとなく、私にできることは私がやらなきゃいけない気がしたんです。
二人で食べる、最後の晩ごはんを食べ終わった後、お姉ちゃんは言いました。
唯「今日はさ。久しぶりに、お風呂はいろっか」
一瞬悩んだ私の手を、お姉ちゃんが強く引っ張ります。
憂「うん……じゃあ、身体洗いっこしたいな」
唯「そうだね! ひさしぶりだからねぇ」
お互いに「最後」という言葉を避けながら話しているみたいです。
私は着替えを持って、お姉ちゃんの待つ浴室へと向かいます。
曇りガラスの向こう側にぼやけて揺れるお姉ちゃんの肌が見えました。
なにやら歌声が聞こえます。あのメロディーはたしか――
唯「あ。ういー! はやくはやく、私から洗うからねっ」
私たちは久しぶりに、互いの身体を洗い合いました。
あの日から成長して身体の形も変わったような気がしましたが、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんです。
唯「なんかういのおっぱい見てると負けた気がしてくる…」
本当に残念そうにぼやくのですが、私はお姉ちゃんの身体の方がきれいでうらやましいです。
お姉ちゃんのすべすべした肌を、かつてお姉ちゃんがやってくれたみたいに丁寧に洗いました。
明日は、きれいな格好で出発してほしかったのです。
唯「うい、ありがと。とってもきもちよかったよ!」
一緒に入ったお風呂の中で、久しぶりにちょっと抱きついてみたりして。
お風呂の蒸気の中で、こんな温かさが当たり前に続くような……そんな感覚にさえとらわれました。
窓の外からはどこか遠くで、虫の音が聞こえていました。
私はお風呂の中でお姉ちゃんに抱きしめられながら、ぼんやりとその歌声を聴いていました。
あと数時間で日付が変わるときのことでした。
お風呂から上がったあと、繋いだ手を離さないように気をつけて私の部屋に向かいました。
今夜ぐらいは一緒の布団で寝ることになったのです。
半日前までは、お姉ちゃんにふれることすら怖かったです。
やわらかい感触を思い出してしまったら、昔みたいに引き止めてしまいそうな気がして。
でも、きょう梓ちゃんといろいろ話せたからなのか、先の不安も前よりは薄れました。
だから今日は、お姉ちゃんにいっぱい甘えることができたのです。
暗い布団の中で手をにぎりあって、お姉ちゃんとお話します。
憂「ねぇ」
唯「……なあに? うい」
憂「……すき、だよ。」
唯「………うん」
憂「すき、じゃないけどね。……おねえちゃんのこと」
唯「……えへへ。おぼえてるんだね」
憂「忘れられるわけ、ないよ。おねえちゃん」
お姉ちゃんは私をぎゅっと抱きしめると、つづきをいって、とささやきました。
私は、散歩の日に交わした言葉を……声に出してお姉ちゃんに返しました。
唯「うん……わたしもだよ。うい」
お姉ちゃんはふわっとほほえんで、かわんないね、と言います。
その言葉でなんだかとても落ち着いた気がしたので、ありがとう、と伝えました。
あの日ベンチで交わしたその後のやりとりも、はっきりと覚えています。
けれども分かりきった台本をなぞるのはやめて、お姉ちゃんを抱きしめたまま眠ることにしました。
うすらぼやけた意識の狭間で、眠りの海のさざなみを感じるころ。
くちびるが熱いもので満たされた気がしました。
夢うつつの私は手をぎゅっとにぎりかえして、深い眠りについたのです。
朝、私はお姉ちゃんの腕の中で目を覚ましました。
手が繋いだままになっていたのがうれしかったです。
憂「お姉ちゃん……朝だよ、おきて」
唯「ん……うい、おはよう」
今朝も今までみたいにお姉ちゃんを起こして、一緒に朝ごはんを食べました。
私の作ったハムエッグに、お姉ちゃんはおいしいと言ってくれます。
いつも通りの朝、変わらない会話。
それは私に、お姉ちゃんと二人で一緒に暮らす日々が、ずっと続くんじゃないかって錯覚を起こしました。
もう、電車の時間は近づいているのに。
憂「じゃあ……そろそろ行こっか」
唯「あ、憂。その前に、ちょっと聴いてほしい曲があるのですが……」
ふいにお姉ちゃんがそんなことを言ってはにかんだのです。
私はわけも分からずお姉ちゃんの部屋に手を引かれます。
すると、昨日までなかったはずのアンプとお姉ちゃんのギターがそこにありました。
憂「どうしたの……?」
唯「えへへ、実はあずにゃんにこっそり持ってきてもらったんだぁ」
昨日の梓ちゃんの不自然な様子と、今のお姉ちゃんとがつながります。
そっか……こういうことだったんだ。
唯「あずにゃんと練習したからね! 憂だけのための、アコースティックバージョンなんだよっ」
鼻息荒く、お姉ちゃんは気合を入れます。
けどアンプにつないでる時点で、アコースティックじゃないんじゃないかな……。
お姉ちゃんは慣れた手つきでギターをチューニングしなおすと、アンプのスイッチを入れました。
そうしてベッドに腰掛けた私の前に立ち、ギターを構えます。
……お姉ちゃんの大きな瞳が、やさしく細められました。
唯「じゃあ最後に一曲だけ聴いてください。 ――U&I、ソロバージョン!」
そうして世界で一曲だけの、お姉ちゃんが私だけに向けた歌が始まりました。
U&Iは、私が世界で一番好きな曲です。
お姉ちゃんが部活で遅くなる間、カセットテープに録ったのを何度も何度も聞き返したり。
晩ごはんを作っている時に、思わず口ずさんでしまったり。
そういえば、鼻歌で歌っていたらお姉ちゃんがハミングしてくれたこともありました。
メロディ、息遣い、楽器の演奏、お姉ちゃんの歌声……そのどれもが、私の中でずっと鳴り止まずに残っているものです。
お姉ちゃんは、歌いながら少し涙ぐんでいました。
私もときどき目頭をこすりながら、お姉ちゃんの歌う姿を目に焼き付けようとしました。
――ありったけの 「ありがとう」
歌に乗せて 届けたい
この気持ちは ずっとずっと 忘れないよ
演奏が終わってギターが置かれ、アンプの音がぷつんと切れたとき。
私はお姉ちゃんを抱きしめました。
……届いたよ、お姉ちゃんの歌。
そろそろお姉ちゃんが出発する時間です。
私は駅まで、お姉ちゃんを見送ることにしました。
ここから東京まではおよそ一時間ぐらいで、それほど離れた距離ではありません。
手を伸ばせば、届く。会いたくなったら、会いにいける。
それはこれからのお姉ちゃんと私のためにちょうどいい距離なのだと思います。
玄関先で靴を履くと、お姉ちゃんはドアを開けました。
ドアのすき間からはやわらかな陽の光が差し込んで、向こう側の世界が色鮮やかに映ります。
唯「じゃあ、行こっか」
憂「うん」
私はお姉ちゃんと手をつないで、外へ出ました。
やわらかくてあったかい手を、ぎゅっと握り締めて。
お姉ちゃんと二人で、家の前の道を並んで歩きます。
駅への道のりも途中までは通学路と一緒なので、歩いているといろいろなことを思い出します。
家を出て少し歩くと、住宅街を抜けて広い道に出ます。
途中で和ちゃんやとみおばあちゃんと小さい頃から一緒に遊んだあの公園が見えました。
錆び付いたブランコが風に揺れて、細くきいきいと鳴いています。
唯「かわらないねぇ」
憂「そうだね」
しばらく駅に向かって歩くと、家の近くの川が見えてきました。
橋を渡っていると、欄干の下で川面に陽の光が天の川のように光っていました。
そういえば塾の帰り道に、いつもこの橋を純ちゃんとお姉ちゃんと三人で渡って帰っていました。
ここから見る夜空はとてもきれいで、二人の間で両手を握られて見たのを思い出します。
唯「ねぇ、うい」
憂「なあに?」
唯「……卒業したら、うちに来てほしい、かも」
お姉ちゃんは、手をきゅっと強く握りしめます。
車が一台、私たちの後ろ側から走り抜け、追い越していきます。
声に出そうとした言葉はその走行音にかき消され……そのままでした。
駅に着きました。
私はパスモで改札を抜けようとしたのですが、チャージ金額が足りなくて引っかかってしまいます。
しょうがないので券売機でチャージしなおして、無事に改札を通りました。
向こう側ではギターを背負ったお姉ちゃんがもう待っていて、私は慌てて追いつきます。
上り電車のホームに着くと、人はまばらでした。
平日の十時過ぎだと利用客も少ないみたいです。
唯「……ねえ、」
お姉ちゃんが何かを言おうとした時、構内放送が流れました。
『まもなく二番線に電車がまいります』
憂「お姉ちゃん……」
電車の近づく音が少しずつ大きくなってきました。
あの電車が来たら、お姉ちゃんともう離れ離れになる。
そう考えるだけで息が詰まって……伝えたかったことも、言葉にならなくなってしまいます。
唯「うい……しっかりだよ」
憂「………うん」
唯「お姉ちゃんも、がんばるから」
憂「……じゃあ、待ってて」
唯「んー?」
私は、振り向いたお姉ちゃんを抱きしめました。
ホームの白線から足を踏み出して、車内に足を一歩踏み入れたお姉ちゃんを抱きしめます。
発車のベルが鳴り響くまでの数分間、お姉ちゃんは私に身体を預けてくれました。
みるみるうちに涙があふれてきて、私はお姉ちゃんの服を汚してしまいました。
憂「あのねっ…おねえちゃん、わたし……」
唯「……だいじょうぶだよ、うい。だいじょうぶだからね」
いままでと同じように、お姉ちゃんは頭をなでて大丈夫と言ってくれます。
憂「わたし…ほんとの、ほんとの恋人になるっ、からぁ……」
唯「……そうだね、大人にならなくちゃ、だよね。やくそく、だもんっ」
いつしかお姉ちゃんも涙声になっていました。
時間が止まってほしい――そう思った瞬間、発射のベルが辺りに響きはじめました。
お姉ちゃんは私の腕をそっとはずして、ふるえる私の手を両手でにぎりしめました。
唯「……うい、まってるからね?」
憂「うん、おねえちゃん、ぜったい…おねえちゃんのとこ、いくから…!」
ベルが鳴り終わる寸前に、お姉ちゃんは私の顔を引き寄せて、口づけをしました。
唇から愛する人の熱が伝わった、ほんの数秒後。
私はホームの側にそっと押し戻され、ドアが閉まりました。
泣き顔のお姉ちゃんを乗せた電車は動きだし、次第に遠く小さくなって、やがて見えなくなったのでした。
取り残された私は、顔をぐしゃぐしゃにした涙を拭う気力も出ないままふらふらと階段を上ります。
いまもひくひくと少ししゃくりあげながら、改札へと戻りました。
改札を抜けようとしたとき、お財布を落としてしまいました。
中のものが散らばって、慌ててかき集めます。
そんな中……懐かしいものがそこにありました。
『ゆい&うい』
『ずっといっしょだよ!』
六年前にお姉ちゃんと一緒に映った、プリクラ写真です。
中学一年生のお姉ちゃんはその頃の私を抱きしめて、キスをせがんでいました。
憂「あは……お姉ちゃん、変わってないなあっ…」
なんとなく……自分の手のひらをひろげて、プリクラの中の自分と眺めてみました。
小学生の頃と違って大きくはなったけれど、右手首の骨がすこしずれているのは変わりません。
唇から心の奥へと流れ込んだ、熱のようなもの。
絡め合わせた指と、少しの汗に溶けあった手のひら。
耳元のささやき声はあのメロディーと溶け合って、はっきりとお姉ちゃんの歌声となって頭の中を満たします。
憂「……変わっても、変わらないよね?」
写真のお姉ちゃんに問いかけたら、そのままの笑顔でうなづいたように見えました。
――だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。
耳元でささやく声が、聞こえた気がしたのです。
私はそのお守りをお財布の中にしまうと、ハンカチで顔を拭いて立ち上がりました。
駅を出て見上げると、海のように澄んだ青空がロータリーの上空に広がっていました。
お天道様も照っていて、なんだか散歩するのにちょうどいい天気です。
憂「……うん。がんばろっと」
大きく伸びをした私は、頭の中のメロディーを口ずさみながら、また家に向かって歩きました。
それは三月のよく晴れた水曜日のことでした。
おわり。

