※『とある神父と禁書目録』シリーズ
【関連】
最初から:
ステイル「最大主教ゥゥーーーッ!!!」【1】
1つ前:
とある神父と禁書目録
今にして思えば、ゼロからのスタート、どころの話ではなかった。
「そうかい、じゃあ…………一刻も早く、僕の目の前から消えてくれないか」
「……え?」
少女と少年のリスタートは、マイナスからの再出発だった。
「記憶力はいいのに、耳は遠くていらっしゃるのかな?」
「君の面を見てると苛立ってしょうがないと言っているんだよ、僕は」
「君とこうして同じ空気を吸う一分一秒が、僕にとっては耐えがたい苦痛だ」
「思い出してもみろ。今までは、仕事だったから仕方なく顔を合わせてただけさ」
「逆に言えば、だ。最大主教本人による詔勅レベルのオーダーでも下されない限り、
僕は君と関わり合いになどなりたくない、ってことだよ」
「理解できたかい? ならばさっさと飼い主の元に帰ることだね――――首輪付き」
その瞬間。
少女にとっての少年は、路傍の石ではなくなった。
「……たった今、理解できたことがあるんだよ」
世界の大多数は錯誤していることだが、好意の裏返しは無関心などではない。
「ステイル=マグヌス。私、あなたのことが、世界で、一番」
少し考えればわかることだ。
好きの反対は。
「大っ嫌い」
嫌い、に決まりきっているではないか。
「……奇遇だね、『禁書目録』」
だからこの感情はきっと、どうしようもなく“マイナス”なのだ。
「僕も、全く同じ気持ちだよ」
※この二人が十一年後にはこうなります↓
ベッドに腰掛けた男の膝の、さらにその上から女が腰を下ろしていた。
女は四肢をだらしなく伸ばしきって全身を、そして心までをも男に預ける。
男は苦笑しながら女の胴に腕を回した。
「今日も一日お疲れさま、最大主教」
「ステイルも、お疲れさま。……ねぇ、意地悪しないで、名前で呼んで?」
穏やかな時間に身を委ねる男女はこの瞬間、教会のトップとその番犬ではなくなった。
「……インデックス」
「もっと」
「インデックス」
「……もっとぉ」
「僕だけの、可愛いインデックス」
「!?」
そこらの家の窓を覗けば望むことのできる、平凡な、ごく普通の新婚夫婦になった。
――鳩時計の憂鬱――
「ステイルって、ほんとに背が高いよね」
「まあ、こうして君の側仕えをしていると殊更意識せざるを得ないね」
「五〇センチ差、って色々と困るんだよ……」
「困るって、なにがだい」
「ん、あ、もう! す、すている」
ヴェールを脱いであらわになった豊かな銀髪の、耳が隠れている辺りに男が鼻先を埋めた。
いたずらっぽい声と共に熱い息を吹きかける。
腰をホールドしていた右腕が後ろから女の右手を掴まえた。
親指の腹で手のひらを撫ぜられると、見る間に白い肌に紅が差す。
そこが女の“弱い”部分なのだと、男は当然のごとく承知していた。
「ああなるほど、確かに困るね。例えばそう、通りを連れ立って歩いている時なんかに
ふと思い立って」
「あ……」
言いながら耳朶を解放した男の、空の左手がほどよく丸みを帯びたおとがいを捕える。
軽く男が力をこめて後ろに引くだけで視線が交わった。
互いの瞳の中に己の姿を映し見た男女は、互いに同じ気持ちなのだと瞬時に悟った。
重なる影、絶える声音。
見せつけられた壁時計が秒針を酷使して、さっさと離れたらどうだと催促するかのように、
チクタクと規則的な雑音をかき鳴らす。
しかしその訴えも虚しく、一つになった輪郭が二つに再び別たれたのは、急ぎ足の秒針が
盤面を一周した後のことだった。
「こんなことをしたくなったら、とかね」
「ふ、あぁ」
勝ち誇ったにやけ笑いへの返答は、呂律の回らない蕩けた吐息のみだった。
間近で男に覗きこまれた女の表情は、熱にうかされ夢見心地にゆらゆら揺れている。
男が左手を顎から離しても二対の眼差しは交差を続けていた。
その事実に満足げに頷いた男は、女の潤んだ目元を人差し指で拭ってから問い掛ける。
「インデックス。僕のことが、どのくらい好きだい?」
「ん……もう。わかってるくせに」
「いいから言って、ほら」
虚空をさまよっていた目を数度瞬かせて、女が呆れたように嘆息した。
どうやら毎日のように繰り返されている恒例行事であるらしい。
まったくもって馬鹿らしい話である。
「……い、インデックス=マグヌスは、ステイル=マグヌスのことが、世界で、一番」
「うん、うん。その調子だ」
クルッポーと気の抜ける鳴き声が、付き合ってられるかとばかりに喧しく響く。
一日の始まりと終わりを告げ知らせる、十二時の鐘の音の代理人だった。
だが人工の鳩の涙ぐましい自己主張さえも、結局のところ男女の耳には届かない。
「…………………………だ、大好き、なんだよ」
渋々、といった態を装ったつもりであるらしい女の顔は、抑えきれない至福の味わいを
千の言葉より雄弁に物語っていた。
男はそれを受けて、心の底から楽しそうに笑った。
「ちなみに僕は、君のことを全宇宙で一番に愛しているがね」
「~~~~~っ!! ば、バカじゃないのっ!?」
――――まったくだ。
くたびれた木彫りの鳩が、女に同意するかのように首をこくんと縦に振った。
――――END
上条美琴がその部屋の扉をくぐることが叶ったのは、実に渡英から一週間後のことだった。
三日ほど前、目の前の豪奢な大扉の向こう側を母国の皇家筋が訪ったと聞いた時には、
さしもの彼女もこれから面会する友人をやけに遠くに感じたものだ。
「アンタらもクソ真面目ねぇ。なにもこんな日にまで机に向かわなくたっていいじゃない」
しかし美琴の第一声は、呆れ気味の苦笑を溶かして混ぜた、そんな口跡だった。
明日の主役である一組の男女が姿を現した、美琴がくぐったものとはまた別のドアは
なんと最大主教の執務室に直結しているのだという。
応接室と執務室を隣り合わせで配置するというのはビジネスマナー上いかがなものかと
思わないでもないが、信徒との身近な触れ合いをこよなく愛する彼女らしさの表れと
解釈すれば、美琴にも納得がいった。
「仕方がないことなんだよ。明日全世界に向けて発信される『ショー』は、僕らのイギリス
全体に対する贖罪と、公開処刑も兼ねてるんだからね」
オーバーに肩をすくめた長身の神父が、部屋を横切って廊下側の扉の脇に直立する。
途端にその口元が引き締まり、親しげな含み笑いがいずこかへと霧散した。
「……謁見時間は二十分となります、ミセス上条」
「どうもありがとう、神父(ファーザー)マグヌス」
美琴は一瞬で番犬の顔つきに変わった男へと慇懃に一礼してから、ステイルと共に応接室に
足を踏み入れて以来沈黙を保ったままのもう一人に歩み寄る。
白尽くめの聖衣が誰より似合う白銀の聖職者は、美琴にとってかけがえのない姉貴分は、
今まで彼女が見た中でもとびきり綺麗に、本当に綺麗に微笑んでいた。
「みこと、来てくれてありがとう」
五〇センチと離れずに二人の女が正対すると、背丈にして一〇センチ以上高い美琴が少し
見下ろすかたちになる。
去来した万感が胸に詰まったのだろうか。
頭を悩ませ用意してきた数多の祝福の言葉は、うまくかたちになってくれそうになかった。
だから、せめて一言だけ、絞り出す。
「結婚、おめでとう、インデックス」
こぼすように囁いてから美琴は、遅ればせながら悟った。
千言を尽くす必要などなかった。
自分たちの間にこれ以上の言葉など要るはずがなかった。
なぜなら美琴とインデックスは、かつて同じ男を愛したのだから。
その事実によって、心の底深く深くで繋がっているのだから。
気が付いた時には、いつかの勝者はいつかの敗者の細い身体を抱き締めて、泣いていた。
――勝者と敗者――
御坂美琴にとってのIndex-Librorum-Prohibitorumは、憧れの女性像そのものだった。
もちろんそんなこっぱずかしい事実、口が裂けても本人の前でなど告白できない。
どころか夫にすら打ち明けたことのない、数少ない美琴のトップシークレットであった。
はじまりは十一年前の九月一日、地下街での邂逅だった。
ちょっと気になるアイツの隣を、当たり前のように占拠していたちびっこシスター。
同じような地獄の底から同じように掬いあげられたのだと聞かされて、自分が彼にとって
特別でもなんでもない、その他大勢の一人なのだと改めて突きつけられた、そんな日だった。
『とうまは何があっても絶対帰ってきてくれるんだから』
そして同時に、決して立ち入れない聖域が自分の知らない二人の間に存在しているのだと、
おぼろげながらに感得した日でもあった。
その事実が後々になって、生来の負けず嫌いである御坂美琴の心に激しく火を付けたことは、
今となっては疑いようもない。
インデックスという憎らしくも愛しい、最強の恋敵と出会った。
だからこそ自分は上条当麻を射止めることができたのだ、という確信が美琴にはあった。
勝てないな、と思ったことは一度や二度ではなかった。
自分の初恋はきっと実りはしないのだろうと、二人との交流を深めれば深めるほど悲観は
日増しに強まっていった。
美琴の目から見た上条たちにはそれほどまでに、時に泣きたくなるほどに、二人寄り添って
生きているのが自然だと思わせる“なにか”があった。
なによりインデックスという少女は、上条当麻の中で特別な位置を占めていた。
インデックスにとっての上条当麻が特別であるように、上条当麻にとってのインデックスも、
この上ない特別だった。
鎌首をもたげる弱気を必死で飲み込みながら美琴は、上条とインデックスの男女としての
理想的な在り様を、羨望の眼差しで見つめ続けてきた。
だから美琴には、二人を結ぶ緩やかな『線』が醸し出す優しさを、当人たちよりもよほど
深く知悉しているという自負があった。
そう、自負していた、はずだったのに。
敗者になるのは自分なのだと、とうに覚悟も決めていたのに。
『おめでとう。とうま、みこと。……幸せになってね』
いつの間にか、美琴はインデックスに勝ってしまっていた。
美琴が正々堂々、恋の鞘当てを望んだにも関わらずインデックスはなにもしなかった。
労せずして漁夫の利をかっさらった、というわけでは無論ない。
多くのライバルを押し退け、上条当麻の一番の女の子になるための努力は怠らなかった。
その結果の勝利だったと言えばそれまでだ。
だからと言って、御坂美琴という女がそれで納得できるわけがなかった。
胃の奥のどこかにずしりと重たいしこりが残ったことが、我慢ならなかった。
考えた。
超能力者の優秀な頭脳をフルに回転させて考えた。
なぜ自分は勝ったのか。
なぜインデックスは負けたのか。
美琴が結論を出す前に、彼女は郷里への帰国の途に着いてしまった。
それでも考えて考えて考え抜いて、一つの仮説を導いた。
インデックスは、己が内の巨大すぎる愛に負けたのではないか、と。
過去を顧みている間に、立場はいつの間にやら逆転していた。
気が付けば美琴は七月二十日と同様、頭をインデックスに抱きかかえられている。
後ろ髪を梳くか細い五指の感触は、ハープ弾きのような繊細さと優美さに溢れていた。
「おめでとう、おめでとう、おめ、でと……」
「もう、本当にみことは泣き虫さんなんだから。こういう場合、泣くのは私の方なんだよ」
「アンタと、当麻の、前でだけよ」
「んーふふ、嬉しいこと言ってくれるねぇ。もっとおねーちゃんに甘えていいんだよ?」
本当にどこまでも大きくて、広くて、尊い愛だった。
愛する男を奪った憎い女を、慈愛に満ちた眼差しで見つめ返してくれる。
インデックスが有する常人離れした慈心に、美琴はどれほど救われただろう。
そんな彼女が美琴は大好きだったし、それ以上に一人の人間として尊敬もしていた。
だからこそ美琴は心底納得がいかなかった。
この心優しい聖女が、その優しさゆえに幸福を掴めないなどという不条理。
残酷極まりない神様とやらの采配に、ふざけるなと声を大にして叫びたかった。
しかし美琴には、そうするに足る資格がなかった。
美琴が勝者でインデックスが敗者である以上、どうしようもないことだった。
美琴の勝利は世界のどこかで泣き濡れる幾千人の敗者の誕生を意味していた。
泣いた少女の中には美琴の大事な大事な『妹達』もいたはずだ。
そしてインデックスも、その一人になった。
彼女たちに対して、謝辞や慰めの言葉をかけるつもりは美琴には毛頭ない。
誰かが笑えば誰かが泣く。
それが少なくとも恋愛という領域における、この世の絶対の理だ。
顔も知らないどこかの恋する乙女たちが、愛する妹たちが、大好きな姉貴分が流した涙に
恥じないだけの幸せを掴むことこそが、勝者にできるただ一つの敗者への手向けだと、
美琴はそう思っている。
ゆえに美琴には、インデックスの幸せを遠く東洋の地から願う他に成す術がなかった。
この六年間、歯痒くて歯痒くて仕方がなかった。
夫もきっと同じように苦しんでいた。
当麻の心が時折、遠くイギリスの地で暮らす大切な女性を求めて苦悶していることを、
この六年間で最も長く傍にいる女となった美琴は知っていた。
それを察知するたびに美琴はどうしようもない嫉妬心に胸を焦がされたが、同時にどこか
安堵してもいた。
自分が愛した上条当麻という男性は、まさしくそういう人だったのだから。
「アンタは、幸せに、なるのよね、インデックス」
「……うん、なるよ。私はステイルと一緒に生きて、ステイルの隣に寄り添って、
ステイルと一緒の幸せを掴むの」
だから、嬉しかった。
新たに芽生えた恋情を彼女が誰かに傾けていると知ったときは、本当に嬉しかった。
その『誰か』が、彼女の幸せを一途に願い続ける見上げた性根の持ち主だとこの目で
確かめて、内心飛び上がらんばかりだった。
そして明日。
三年前の美琴と同じくインデックスは、勝者としての地位を不動のものとするのだ。
「……辛いことがあったら、誰かに相談するのよ? もう、溜めこんじゃダメよ?」
七月二十八日、通信術式の向こうから聞こえてきた幾百幾千の祈りの声を、美琴は追想した。
インデックスの周りには頼もしい仲間たちがいて、なによりステイル=マグヌスが傍にいる。
自分の出る幕などない。
それでも美琴はインデックスの力になりたかった。
そしてもしも、上条美琴が彼女の力になれるだけのアドバンテージを余人よりわずかばかり
余計に備えているとしたら、可能性は一つだ。
「できれば、真っ先に私に電話してくれると嬉しいんだけどね」
「絶対するよ。みことに力になってほしいことが、私にはいくらでもあるもん」
御坂美琴が『勝者』として先達であること。
世界史上最大規模の、何の冗談か世界大戦にまで発展してしまった、とあるヒーローの
争奪戦における、唯一の勝者としての経験。
おそらくインデックスはその『愛』ゆえに、幸せになれなかった人たちへの罪悪感を
振り払えないのだろう。
もがいて、苦しむのだろう。
険しい茨道を裸足で歩む痛みを美琴はよく知っていた。
そしてその先に待つ、柔らかで蕩けるような幸福の味わいもまた、よく知っていた。
「佐天さんに式の招待を断られたこと、とか?」
「うっ」
図星を見事つついてやったようだった。
日本を発つ前夜深酒に付き合わされた、中学時代からの親友の顔を思い浮かべながら、
美琴はインデックスの胸に埋めた顔をようやく持ち上げ、いたずらっぽく笑う。
「そういう事もこの先往々にして起こり得るってことよ。でも、佐天さんならきっと
大丈夫。私なんかよりもよほど真っ直ぐで、芯の強い子だからね」
インデックスは人形のような可愛らしい顔つきを、下唇を軽く噛みながらも縦に振った。
ふと気になって背後のステイルを盗み見たが、わずかに伏せた両眼に睫毛がかかって
その瞳の色までは窺えなかった。
かすかに重みを増した空気を入れ替えるべく、美琴は一つ咳払いをした。
「しっかしアンタの“それ”、理不尽なまでに育ったわよねー。氷華さんやウチの母親に
勝るとも劣らないお化けサイズだわこりゃ」
「えっ」
換気された室内をどこか具合のおかしい寒気が渦巻き、あっという間に体感温度を降下させた。
インデックスが短く声を上げる。
美琴は不倶戴天の仇敵を追い詰めた四十七士のような、満面の笑みで両手をわきわきさせた。
攻撃目標は当然、生けとし生けるすべての持たざる女性に対して挑戦的な示威行為を続ける、
凶悪極まりない胸部の巨大兵器である。
「ひんっ!?」
「へっへっへ、いい声で鳴くじゃないのお嬢ちゃん~? 巨乳は感度が悪いって
よく言うけど、所詮は都市伝説なのねー」
清楚な修道服を娼婦のドレスよりなお淫靡なコスチュームへと昇華させる、
着衣の内側で窮屈そうに上下する双球。
美琴が芋虫さながらの粘っこさで長い指を這わせると、躍動する母性が瑞々しく弾けて
手のひらを押し返してくる。
あ、やばい、この感触癖になりそう。
「み、みこ、とぉ、んっ!?」
「……それにしてもほんとデカイ。デカすぎる。十年前は私と大差なかったってのに」
初めて会った日の事を思い返すと成長のない我が身が悲しくなる。
遺伝形質的には実ってくれたってよかったはずなのに。
美琴とインデックス、なぜ差がついたのか。
慢心・環境の違い、程度の要因に留まっていることを切に美琴は願った。
より先天的なファクターに起因する圧倒的戦力差だったとしたら立ち直れそうにない。
具体的には、人種とか。
「ちなみにアンタ、スリーサイズはいくつ? ブラはいくつ使ってんの?」
「えっと、92・59・93のF70……ってなに聞いてるのかな!?」
「わーお、ミニマムな身長と童顔に似合わぬむっちりダイナマイトばでー。
っていうかヒップの方が大きいの? どれどれ」
斥候部隊より伝令、敵増援を確認。
攻撃目標変更、とつげ――――
「謁見時間、残り一〇分です」
天を衝かんばかりに高く、夜より黒い影が立ち塞がった。
般若のごとく歪んだ表情をふるふるひくつかせながら、番犬は右手で背中側に聖女を庇った。
残る左腕で美琴の肩につっかえ棒をして、守護すべき光を汚らわしい色情魔から遠ざける。
「あら、ご丁寧にありがとうミスター。でもなにも、一〇分おきにコールしてくれなくても
よろしくてよ?」
「何を、なさって、おいで、なのですか」
「んー……平たく言うと、セクハラ?」
「平たく言わなくてもセクハラだこんなもん!!」
赤毛が外敵を威嚇するかのように逆立っている。
怒髪冠を衝く、という故事成語が実に似つかわしい情景だ、と美琴は思った。
「よろしいですか、ご客人。お忘れいただきたくないのはここがイギリス清教の主権の
及ぶ地であり、私が主教筆頭護衛官である、という二つの事実です」
「ふんふん、それでそれで?」
「最大主教に狼藉を働く不埒者を裁判を待たずに処刑する権限が僕にはあるってことだよ
このシスコンレベル5が!!」
「つくづく仕事熱心な男ねぇステイルくんは」
「誰のせいで仕事せざるを得ない状況にあると思ってるんだ……!」
「あーハイハイごめんなさい、まったくご立派なボディーガードさんですこと。
…………でも、私が聞きたい言葉は“そういう”んじゃないのよね」
言って美琴は、活発な美貌を斜めに傾けて挑発的に笑う。
「……ちっ。おい、上条美琴」
たったそれだけのサインで、ステイルは忌々しげな舌打ちを了承代わりに送り返してきた。
このあたりの察しの良さはさすがである。
夫にも爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだった。
長身の裏に隠れたインデックスだけが、事の成り行きを不思議そうな顔で見守っている。
「彼女の妹分だかなんだか知らないが、これだけはしかと胸に刻んでおけよ」
「なんでございましょう」
女性としては長身の部類に入る美琴から見ても桁外れの巨躯。
大木のような胴体の天辺に位置する相貌は固く引き結ばれ、双眸の奥には揺らがぬ灯がある。
男が愛する女と共に在る限り、もう二度と消えない炎。
美琴は無意識のうちに眉尻を下げていた。
「インデックスは、僕のものだ」
「んぇっ」
インデックスの隣にいるのがステイルならば、何の心配もいらない。
そう、確信できたからだった。
「ふっ、ふふ、あはははは!! アンタの独占欲ってもんを確認できただけでも、
十分に価値ある二〇分だったわね…………ねぇ、ステイル」
「なんだい」
「改めて言うことでもないけど、最後に一度だけ、言っておくわね」
不敵に口の端を吊り上げる。
はるか頭上の神父の鼻先に人差し指を突きつけ――――ようとして、途中で止めた。
かわりに、握った右の人差し指の内側へと、軽く曲げた親指を挟み込む。
ガンマンのごとく人差し指の第二関節を男の顎に向け、『超電磁砲』こと上条美琴は
とびきり凶悪なキメ顔で『空砲』を放った。
「私の大好きなお姉ちゃん、幸せにしなかったら承知しないわよ」
ステイルの背後の白い影がびくりと震えた。
よくよく見れば神父服の陰からわずかに覗く形の良い耳たぶが、今にも爆発しそうなほど
真っ赤に染まりきっている。
「肝に銘じておこう」
「もしも泣かせたらその時は、地球の裏側だろうが東経135度の彼方だろうが関係ないわ。
マントルブチ抜いてでもそのケツに『超電磁砲』かましてやるから、今のうちに肛門科の
診療予約でもしときなさい」
「こう見えても多忙の身でね。取るだけ無駄なリザーブをねじ込む暇はないよ」
軽口で応じるステイルの表情はしかし、真剣そのものだった。
鬼をも怯ませかねない鬼神の形相をふっと美琴は引っ込める。
やはり、この男に任せておけば安心だ。
「それから……ステイルも、幸せにね」
「ついでか、僕は。言われずともなってみせるさ、僕よりいくらか早生まれなだけで
散々偉ぶってくれた義妹さん?」
「む。そう言われれば、明日からはそういうことになっちゃうのか。なんか悔しいわね」
「『お義兄さん』と呼ぶ練習がしたかったら特別に時間を割いてやらないでもないよ」
「ウチの旦那をそう呼びたいんだったら本人を呼んできましょうか?」
「ごめん僕が悪かっただからそれだけはご勘弁を」
「当麻が聞いたら顔を引き攣らせながらも表面上は喜んでくれると思うわよー」
「誰得すぎるわ」
「……確かに、それもそうね」
上から下に流れる水勢よろしく、お馬鹿なやり取りは止まらない。
とその時、ぽすりと優しい音を立てて、白い影が美琴の胸の中に躍り込んできた。
「みことぉ……」
「インデックス?」
視線を下ろすと、湿気を帯びてかすかに潤んだ二つの翠玉が美琴を見上げてきた。
「わた、私も、みことが大好きだから。だから、もしもとうまに泣かされたらすぐ教えて
ちょうだい? ヨハネに協力してもらって、『竜王の殺息』を浴びせてやるんだから」
「……いや、さすがにそれはいかがなものかと。あいつは一応、そのせいで一度記憶を
失っているわけであってだね」
「ステイルは黙ってて」
「はい」
ステイルのツッコミは人間としての道義に適った行為だったが、泣く子と嫁の前では
一義的な正しさなど吹けば飛ぶ砂の城である。
心中で合掌しながら、美琴は泣く子の次なる発言を聞き漏らすまいと耳をそばだてた。
「私、わたし…………よかった」
「なにが?」
「みことに会えてよかった。負けた相手が、みことでよかった。あいさやいつわたちには
悪いけど、とうまの一番になってくれたのが、みことでよかった」
「――――っ」
鼻孔の奥がツンと痛んだ。
涙腺を刺激する言の葉の数々が、鼓膜を素通りして直接脳に、心臓に響く。
それは美琴が決して敗者に求めてはならない慰めの言葉だった。
そして、もっとも心の奥底で渇望していた救いの言葉でもあった。
どれほどに正当化したところで、御坂美琴が掠奪者である事実に変わりはない。
強固な理屈が足腰を支えてくれたところで、上条美琴の後ろめたさは消えてくれない。
上条当麻という男を愛してしまった時点からして、仕方のないことだった。
とうに割り切ったはずの、受け入れたはずの痛みだった。
それを目の前の人は、またしても、いとも容易く――――
目元を覗きこまれる前に威勢のいい声を張り上げる。
「…………ん、も、もう! まーたまたそんな無防備な姿晒しちゃってぇ! ほれほれ!
このメロンみたいな馬鹿げたサイズの水風船で、ステイルのことを夜な夜な悦ばして
やってるんでしょぉ?」
「んぃっ、んん、ふ、やぁ、みみみ、みことぉ!? まだ私たちは“そういうこと”は
してないんだよ!?」
「……ステイル。やっぱアンタみたいな甲斐性なしに私の姉貴は任せられないわ。
こんなカラダ前にしていまだに手ぇ出してないとか、それでも男なワケ?」
「いいからとっとと離れろ酔っ払い親父ぃぃっ!! 謁見時間は残り一分を切ったぞ!」
「あっそ、だったら後一分はインデックスを私に独占させなさいよ。どうせ明日になれば
未来永劫、アンタ一人のものになっちゃうんだから」
こみ上げる嗚咽をお世辞にも淑やかとは言えない振舞いで誤魔化しながら、美琴は自らの
首あたりの高さであたふたと揺れる姉貴分の耳朶へと唇を寄せた。
「……私も」
「え?」
「闘った相手が、勝った相手があなただったことが」
一つ、深呼吸。
インデックスが喉を鳴らす音がすぐ近くで響く。
ステイルの喧しいわめき声は収まっている。
空気の読める旦那で羨ましいなぁ、と一瞬脳裏をよぎったことは秘密だ。
「世界一尊敬してる女性(ひと)、Index-Librorum-Prohibitorumだったことが」
「……みこ、と」
最後の一分が通り過ぎる、その瞬間。
「何よりの、誇りだと思ってるから」
そう言って、いつかの勝者はいつかの敗者の細い身体を抱き締めながら、笑った。
――――END
――名前で呼んで――
「ねえ、ステイル」
「なんだい」
「私の名前、呼んで?」
「インデックス」
「うん」
「……インデックス」
「うん、うん」
「戸籍に登録された君の名は、インデックス=マグヌス」
「うんうんうん」
「僕の愛する妻の名前だ」
「えへ、えへへ、えへへへへ」
「インデックス」
「すている……」
「あと何回、呼んで欲しいんだい」
「何回でも、何度でも、呼んで。私がいいって言うまで、インデックスって、呼んで?」
「インデックス、インデックス、インデックス……まだ、足りないかな?」
「ん…………もういっちょう、何遍でもこいやー!」
「ムードが台無しだよ! なんだその『わんこそばおかわり』みたいな掛け声!?」
「おそば食べたくなってきたんだよ」
「ミセス土御門にでも頼めッ!!」
――――END
――望むがまま――
「ん……もう、すている、早くシテ?」
「急くんじゃあないよ。ここはじっくり、腰を据えて」
「え? わ、わたし、もう少しでイけるのにぃ!」
「まだだ、まだこちらの準備が万端とは言いがたい」
「むー、こうなったら一人ででも……」
「こら。何を、一人で勝手にイこうとしているのかな?」
「ステイルの意地悪!」
「なんとでも言え、僕にも計画というものがあるんだよ。しっかり装着しておかないと、
取り返しのつかない事態になってからじゃあ遅いんだからね」
「やだ、我慢できない」
「あ、おい。君、ソロプレイなんてしたことないだろ」
「あのね、私、今日は自信があるの。ステイルがしっかり教育してくれたおかげかも。
私一人でもイけるってこと、見せてあげるね……」
「やれやれ。どうぞ、君のお好きに」
二十分後
【力尽きました】
【報酬が10000Z減りました】
【報酬が0Zになりました】
【これ以上復活できません】
「で、結果がこれかいッ!」
「今日こそはジンオ○ガ亜種いけると思ったのにぃ」
「G級に挑むならどれだけ慎重になってもなりすぎることはない、とあれだけ言ったろう!!
僕らはまだ上がりたてなんだぞ!」
「……ステイルが装備選ぶのにもたもたしてるのが悪いんだよ」
「僕の目を見てもう一度今の台詞をいってごらん」
「ごめんなさい」
「やれやれ」
ゴオン。
「あ、もう六時……お夕飯の支度、始めなきゃ」
「たまの休みにこうして一日中、部屋でゴロゴロ過ごすというのはいかがなものなんだろう」
「私は、幸せだよ」
「え?」
「すているのお膝の上で、他愛もないことして遊んで、すっごく早く一日が過ぎて、
手料理を作って、美味しいって言ってもらって」
「……インデックス」
「……もっと、ぎゅーってして」
ぎゅっ。
「もっと、もっと」
「夕飯の支度はどうしたんだい」
「…………“適度な運動”が終わってからでも、いいよね?」
「…………やれやれだ。順序が逆だろう、普通」
「やだ?」
「………………いいや」
「君の、望みのままに」
――――END
――月が綺麗ですね――
「突然だけど、私たちがこうして普段交わしてる会話は基本英語なんだよ」
(突然すぎるだろう)
「例えばステイルが一日の仕事の終わりに私に掛けてくれる言葉を、
日本語に翻訳せずダイレクトにお送りすると……?」
「I love you」
「そう『I love you』ってあるぇー!? そそそそ、そんな熱烈な愛の言葉、
毎度毎度言われてたら私の身が持たないんだよ!?」
「おや、ご存じないのかな。日本明治期の文豪や詩家は、この愛の囁きを日本に
輸入する際まったく別の言葉で吹き替えているんだ」
「え、いや、今は輸入先じゃなくて原語のお話をしてるんだけど」
「細かいことを気にしてると頭がパンクするよ」
「ちなみに先ほどの僕の台詞、字幕版だとこうテロップがついている」
(字幕版ってなんぞ)
【君が欲しい】
「!?!? なな、なんか、よりいっそう煩悩塗れになってるかも!?」
「ちなみに君なら、『I love you』を日本語でなんて言う?」
「なんか無茶ぶりキター!」
「おや、僕ごとき二流魔術師に舌戦で敵わないと認めるのかい」
「これって舌戦なの!?」
「まあ、別に無理に論戦に仕立て上げなくても本当はいいんだけどね。
それでもできれば、僕が言わんとするところは察して欲しいな」
「…………」
「シンキングタイムは残り十びょ」
「……と、整いました」
「ほう。ではお聞かせ願おうかな」
I love you
【煙草の苦味が恋しいです】
「…………」
「…………」
「こっちにおいで、インデックス」
「…………うん」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ん、はぁ、ん、も、一回」
「禁煙して何か月目だか、もう僕も覚えちゃいないが」
「すている、お願い、焦らさないで……」
「仰せのままに、聖下」
「んん」
(君のお望みの『味』は、どうやらまだ『ここ』に残っていたらしいね)
――――END
頬を滑る人肌の感触が意識を覚醒させる。
心地よいまどろみに沈んでいたインデックスは瞼をゆっくりと持ち上げる。
すると、目の前に大きな掌があった。
「………………す、ステイル?」
寝所に忍びこんだ不逞の輩の魔手、では断じてない。
むしろ逆だった。
その全人生を恋した少女の守護に捧げてしまった、かつての一途な少年。
そして今では、インデックスが己が意志でただ一人にと選んだ愛する人。
「ああ、すまない。起こしてしまったかな」
「も、もう……“そういうこと”は、起きてる時にしてほしいかも。だいたい明日は
早起きなんだからさっさと寝ようって言ったの、ステイルでしょ?」
「はは、返す言葉もないね」
力ない、静かな笑みとともに遠ざかっていくのは、ステイル=マグヌスの掌だった。
その指先がかすかに震えていると気が付くことができたのは、インデックス=マグヌスに
とって幸運以外の何物でもなかった。
「ステイル、なにかあったの?」
ステイルは身体を寝台の上でくるりと反転させて、インデックスに背を向けた。
六年間己を守り続けてくれた広い背中に、女は今にも消えてしまいそうな弱さを見た気がした。
――とある聖女の存在証明(エンタイスメント)――
インデックスはダブルベッドの脇のチェストに手を伸ばして、スタンドライトから垂れさがる
紐を軽く引いた。
仄かな橙色の薄明かりが点る。
自分のものではない体温の発生源へと視線を流すと、普段は後ろでひとまとめにされている
赤々と盛る長髪が、枕の上で無造作に散らばる様が燈明に浮かび上がっていた。
その後ろ姿をぼんやりと眺めながらインデックスは、この公邸で彼と寝食を共にするように
なってどれほどになるだろうか、などと意味のない思索にしばしふけった。
世の聖職者という聖職者に喧嘩を売っているようなパンクな風貌とは裏腹に、ステイル=
マグヌスは極めて禁欲的で自律の行き届いた男だった。
一時期は仙人の類なのではないかと疑われた上条当麻と比較しても勝るとも劣らない、
鉄の自制心の持ち主と呼んでもいい。
なにしろ、複雑という言葉では片づけられないほどに複雑すぎる事情があったとはいえ、
好きな女の子と十年間、手のひとつも握ろうとしなかった男なのだから。
インデックスは、寝具にすっぽりと収まった長身の男へと意識を揺り返す。
ステイルは日頃寝巻に使用している黒無地のトレーナーとスラックスを、上下共に一切の
隙なくかっちりと着込んでいる。
ステイルが先ほど言及した通り、明日は朝一の仕事がある。
そうでなくとも聖職者たるもの日々の営みは折り目正しく、天上の主と信徒に恥じないもの
でなければならない。
――――だから今夜は、夫婦の営みは自重して然るべきだろう。
ステイルの態度は如実に、そして無言で、二人が堅持すべき貞淑を見事に体現していた。
「ねえステイル。ステイルは私のきたない心の内を全部知って、それでも私を助けてくれたよね」
だとしても、インデックスはその大きくて小さい背中に必死で腕を伸ばすことを止めはしなかった。
ステイルは正しい。
インデックスとステイルの双肩には、誰に強制されるでもなく自らの意思で背負うと決めた、
成すべき責務が重く圧し掛かっている。
それはわかっている。
「ステイル。ステイルはきっとまた、私を傷付けたくなくて、黙ってるんだよね」
だが、気が付いてしまったからには見過ごすことなどできるはずがない。
彼は少年時代から我慢することに、己を縛ることに、心を殺すことに、余りにも慣れ過ぎている。
それで良いはずがないのだ。
自身の決して遠くない過去の失敗を棚に上げて、インデックスはステイルの胸中に潜りこむべく
声をかけ続ける。
何度も、何度でも、その名前を呼ぶ。
「ねえ、ステイル。ステイルは一生、私の傍にいてくれるんだよね? だったら私はこれから、
ずっとあなたが夜毎に呻く声を、子守唄の代わりにしてベッドにもぐらなきゃいけないの?」
「……君は」
「そんなのは絶対にイヤだ。あなたの泣き声が確かに聞こえているのに、聞こえてないふりして
後悔するのは、もう“死んでも”イヤなの」
「インデックス、僕は」
「私でよかったら、全部受け止めてあげるから。……ううん、違う。他の誰に言えないことでも、
お願いだから私にだけは打ち明けて? だって私は、ステイルだけのもので――――」
同時にステイルは、インデックスだけの独占物なのだから。
ありったけの想いの丈は、余すことなくすべて言葉にし終えた。
インデックスはそれ以上余計な口を利かず、ランプの明かりは消さないままに寝台へと戻ると、
毛布の端を引っ張って頭から被り直した。
心地よい柔らかさが頬を擦る。
その感触を無表情で受け止めながら、インデックスは沈黙に耐える。
ステイルは身じろぎの一つさえ見せようとせず、無言の根較べはいつまでも続くかと思われた。
「…………夢を、見たんだ」
切欠と呼べるようなものは何もなかった。
ただインデックスは、ステイルの心の内側で氷が一欠け、融けた音を聞いた気がした。
「その夢の中で僕は、こじんまりとした、聖ジョージ大聖堂とすら較べものにならないような
小さな教会で、一人壇上に立っていた」
ステイルはインデックスに背を向けたままだった。
反対側の壁が吸収しきれなかった、抑揚を押し殺した声が、インデックスの耳へと長い回り道の
果てに到達する。
「大扉が、喧しい音を立てて両開きにされていく。扉が開いた先に、純白のウェディングドレスに
身を包んだ――――君がいた」
「…………私?」
「そう、君だ。とても綺麗だった。ヴァージンロードをゆっくりと踏み越えた君は、
生涯を誓う相手と手を取り合って、指輪の交換をして、誓いの口づけをする。
……それを、僕は」
瞬間その声は、どこにも届かないのではないかと錯誤してしまうほどに、唐突に弱くなった。
思わず耳をそばだてる。
一言一句とて聞き逃したくはない。
彼の声ならいつまでも聞いていたい。
虚空に融け去ろうとする音を掻き集めるべく、インデックスは必至で意識を尖らせる。
すると――――
「僕はそれを、壇上で、この上なく幸せな気持ちで、ぼんやりと眺めていた」
ステイルのかすかなつぶやきが、刺すほどに鋭く、鼓膜に突き刺さる。
「君の相手は、上条当麻だった」
この上なく痛切な響きが、インデックスの全身へと真水のように染み渡っていった。
「僕にとって君はずっと、ずっと遠くの、絶対に手の届かない光だった。だから今夜夢に
見てしまったあの『IF』は、僕にとっては何か一つ間違えれば起こり得ていたパラレル、
ですらない。なぜなら、あれは」
「ステイル……」
「ほんの数年前まで、僕が望み得る内で最上の、最高の『ハッピーエンド』だったんだから」
ああ、そうだ。
ステイル=マグヌスとは、間違いなく“そういう”男だった。
ヒロインはヒーローと結ばれてめでたしめでたし。
その様を舞台袖から眺めて満足げに微笑む道化の立ち位置を、どんな煙草よりも苦い
ビタースウィートの味わいを、一度は良しとしてしまった男だった。
「だから僕には今この状況こそが、『何かの間違い』なんじゃないのかと思えて仕方がない。
君がここに、僕の手の届く場所にいるという事実が、現実が。あまりにも朧なんだ」
だからステイルは、インデックスに向けて手を伸ばした。
その頬に触れてようやく、ステイルは夢と現の境に辿りついた。
しかしそれでもなお、瞼に焼きついたビジョンを振り払えはしなかった。
インデックスは思う。
彼の傷もやはり、存在を忘却の彼方へと追いやるには深すぎるものだった。
インデックスはいまなお、いつかは訪れるであろうステイルの死への恐怖を一再ならず
思い出しては、彼のぬくもりに時折すがって安息を得ている弱い女である。
そして、その弱さはステイルとて同じように抱えているものだった。
彼はあまりに多くの過去を引き摺りすぎている。
初恋の少女を失った過去。
誓いを立てた少女を殺した過去。
心折れ、愛する人から逃げ出した過去。
表面上は塞がったように見えた傷痕もその実、奥底では重荷に耐えかねて疼いている。
深いまどろみの中で疼きを感じ取った心の臓が見せた、あり得たかもしれない可能性の映し鏡。
それこそが、ステイルの夢の正体なのだろう。
インデックスは考える。
きっとステイルはこの先の生涯でも永劫、夢のような悪夢を見続けるはずだ。
なぜならステイル=マグヌスは、罪を引き摺ることを決意してしまった男なのだから。
「……すまない。君と『自動書記』に散々説教を垂れておきながら、このザマだ。
我ながら情けない話だね」
ならば自分は、彼のためにいったい何をしてあげられるのだろう。
どうすれば、彼の苦しみを和らげてあげられるのだろう。
「そんなことないよ、ステイル」
決まっている。
決まりきっている。
『証明』してやるのだ。
「確かに、過去の私は上条当麻を一番に愛してた。あの人の隣で一生を添い遂げられたら
どんなに幸せだろうって、そう夢見てた」
ステイルが過去にどんな未来を夢見ようが、現在(いま)この時にどんな夢を見ていようが、
今日という日にあってインデックスの居場所は、もはやステイルの隣にしかあり得ない。
夢見の悪さから一時的に気弱になって、みっともなく震えている愛しい人に、骨の髄まで
思い知らせてやる。
それだけが、いまインデックスに為せる精一杯だった。
「だけど今の私はここにいて、あなたっていうひとの一番なんだよ」
インデックスはステイルに、怖いなら叫んで欲しかった。
泣いて欲しかったし、逃げて欲しかった。
そうしてくれなければ、震える身体を相身互いに寄せ合って、一人ではないのだと確かめられない。
隣にいるのだと『証明』してあげられない。
なぜならばインデックスとステイルとは、疑いようもなく別の人間なのだから。
「だから、確かめて」
「! お、おい」
黒い上着の裾から腕を差し込む。
着衣の内側に潜りこんだ指先が背骨に沿ってつつ、と巨木の幹のようなゴツゴツした肌を撫ぜる。
ステイルの大きな背中が小さく揺れた。
自分がいったい何をしているのか、インデックスはよく理解できていなかった。
火照る脳髄が、含羞に満ちた現実の認識を拒んでいる。
しかし、“何をしたいのか”――――それだけはこの上なくはっきりとしているのだった。
「すている」
「っ、いんで、っくす!」
乳房を布越しに強く強く、逞しい背板に押し付ける。
反発によって形を歪めた双球が、薄手のネグリジェの内側で一個の生物のように、
盛った獣のごとく暴れ回る。
女の茹だりきった脳裏を支配する思考は、欲望は、ただ一つだけだった。
「わたし、すているのものだよ」
――――彼を悦ばせてあげたい。
そうやって、自分は確かに“ここ”にいるのだと彼に教えてあげたい。
「私の命は、とうまたち沢山の人が守ってくれたから、いまここにある」
無駄な成長――少なくともインデックス本人は無駄と信じている――を続ける肢体は、
五年以上前からインデックスの密かなコンプレックスだった。
背丈はちっとも伸びず稚いまま、アンバランスに形成される腰のくびれと豊かな曲線。
身長同様、時が止まったかのように変化のない童顔も相まって、インデックスは周囲の
視線を自然と集めてしまうこの身体が嫌いだった。
だが、今だけはこんな大層な“もの”を与えてくれた神に感謝を捧げたい。
「だけど、もしそこにステイルとかおりがいなかったら。私はとうまに出会うこともできずに、
『首輪』に殺されてた。あなたがいなかったら、私は今ここにいなかった」
このカラダを毛布の波に踊らせるだけで、彼を悦ばせてあげられるのだから。
「つまりね、私の心も体も、ぜんぶぜんぶ、すているのものだから」
肺が焼けるように熱い。
気管を通って口腔から飛び出した灼熱より熱い呼気を、彼の首筋にふぅと吹きかけた。
またもステイルの身体がピクリと跳ねる。
ああ、悦んでくれている。
すぐそこにある心臓の鼓動が、間違いなく早まっている、昂っている。
悟ったインデックスの胸中を、途方もない幸福の大波が襲って弾けた。
蕩けるような吐息がさらに、粘り気を帯びた唇から二度三度と漏れ出して、
その度に男の巨体を揺らす。
「すているの好きにしていいんだよ。だから、ねぇ、すている……」
触れ合った素肌を通して、女は男の中の獣性が一声、甲高く嘶いたのを感じた。
徐にその痩躯が反転して、女に覆いかぶさるべく胎動を始める。
聖女は脳漿が沸騰したような羞恥を必死でこらえながら、燃え上がる熱情に身を任せ、
とびきり淫らな表情で――――
「わたしのこと、メチャクチャにして?」
男の“中”に己が存在を刻み込むべく、遊女のごとく、誘うように笑んだ。
――――END
一日の任務を終えて男が自宅である最大主教公邸の門をくぐると、銀色の物体が猛スピードでつっこんでくる様が最初に視界に入った。
「お、っと」
「おとうさま、おかえりなさい! だいすき!」
「ああ、ただいま」
銀弾の正体は、五歳になるかならないかという程度の幼い少女だった。
少女は息を切らすほどの疾駆の勢いそのままに、男の胸に向かって飛び込む。
翼が生えているのかと思うほど軽く華奢な身体を、両手をいっぱいに伸ばして高く抱きあげた。
少女の明るく眩しい緋色の瞳を、男は優しく下から覗きこむ。
「いい子にしてたかい?」
「うん! おとうさまだいすき!」
「……メイドさんに迷惑をかけてないだろうね?」
「だいすきなおとうさまの言いつけどおり、いい子にしてたんだよ!」
「…………うん、そうかそうか、それはよかった」
一言一言に求めてもいない形容を混ぜてくる少女に、男は手の甲をビシリと叩きつけたくなる欲求を必死で押さえこんだ。
誰しも男というものは、娘の前では泰然自若たる父の威厳を保ちたいものなのである。
もっとも感情を抑制することに成功したと思っているのは本人のみで、その頬はぐずぐずに緩みきっているのが現実だった。
どう同情的に観察したとしても、馬鹿親丸出しの間抜け面、以上の評価は望めそうにない。
「お母様のことは、どうでもいいって思ってるのかな」
馬鹿親丸出しの間抜け面を目の当たりにしているのは、顔を間近で突き合わせている少女一人ではなかった。
男と一緒に門をくぐったにも関わらず、無視された格好となった銀髪碧眼の女性。
年甲斐もなくむくれながら抗議の声を上げる。
「だっておかあさま、まいにちまいにちずーっとおとうさまといっしょなんだもん! ずるいかも!」
「ふふーんだ。お父様のお仕事は、お母様の側にいることなんだよ。しょうがないことかも」
「ずーるーいー!」
「ずーるーくーなーいー!」
「いい歳こいてなに実の娘と張り合ってるんだ、君は」
姦しいと形容するのも世の女性に憚る子供の喧嘩。
そうとしか表現しようのない低次元のいがみ合いが、これでもかと夜の静寂に水を差していた。
男は呆れ顔で腕の中の娘を妻に預ける。
「ほら、君もちゃんとお母様に挨拶をするんだ」
「おかえりなさい、いいとしこいたおかあさま、ふふん」
「んきー! お、お父様は若さで女の子を判断したりしないもん!」
「どうかなー? おとうさまだってピッチピチのほうがいいにきまってるんだよ」
鏡を間に置いたように瓜二つの顔だちが、女が少女を抱き上げたことにより至近距離で睨みあう。
女が実年齢よりもはるかに若々しい――というより、いっそ幼い――容貌の持ち主だけに、いっそうそれは顕著なものとなる。
「……いつまでやってる気だい。いい加減、僕も怒るよ」
「だってこの子が!」
「だっておかあさまが!」
二人の顔を構成するパーツで、ただ一つ異なっている点。
すなわち紅と碧の二対の瞳が、一斉に男に向き直った。
「そこまで言うなら、お父様にどっちの方が好きか選んでもらうんだよ!」
「あなたがえらぶのは、DOCHI!?」
「…………やれやれだ」
男冥利、父親冥利に尽きる状況には間違いないのに、口をつくのは鬱屈とした吐息の塊。
期待をこめた眼差しを送ってくる二人のレディーに対し、男は妻の身体ごと娘を、二人同時に抱き締めることで返答とする。
「どちらも同じくらい愛しているよ、僕の愛しい――――」
体の良い逃げ口上を非難される前に、男はそれぞれの頬に口づける。
真っ赤になって固まった淑女方を尻目に、男は舌の上に愛しい家族への想いを乗せて、優しくその名を呼ん――――
そこで、ステイル=マグヌスはようやく目を覚ました。
「……夢、か」
自嘲気味に吐き出す。
数年前なら自己嫌悪に陥りたくなること請け合いの夢だった。
床の上をさんざのたうちまわった挙句、手ごろな紐と手ごろな台を探し求めて彷徨いたくなるような、こっぱずかしい夢に違いなかった。
しかし今日この日に限っては、吐息に混じる自嘲の色合いもごく薄いものだった。
ステイルはベッドに上半身を起こして、いつもより一層殺風景になったフラットの一室を見回す。
昨日までの間に私物はすべて、処分するか「新たな住居」に移すかを済ませていた。
基本的に寝泊り以外の用途に使用したことのない、自宅と呼ぶにもおこがましい物置まがいの空間。
とはいえ、十年以上借り入れたマイルームがこうまでがらんとした様を目の当たりにすると、物欲の薄いステイルにも軽くこみ上げてくるものがあった。
ステイルは手早く身支度を済ませ、長身をかがめて飾り気のないドアをくぐる。
この部屋とも、今日でお別れだ。
ステイルとインデックスの婚約が(必死の抵抗もむなしく)全世界に公表されて早一月。
ステイルは周囲からの『ランベスの宮』移住の勧めを、頑なに拒否して譲らなかった。
正直、自信がなかった。
一旦ステイルが折れて居を移してしまえば、土御門兄妹あたりが適当な理由をつけて、自分をインデックスの寝室に押しこむであろうことは目に見えている。
そうなった場合、その――――据え膳を前に踏みとどまる自信がまったくなかったのである。
それは同時に、ステイルのささやかな抵抗運動でもあった。
ただでさえ十字教の、というより修道会の鉄則を破る方向で話が進んでしまっているというのに、この上婚前交渉にまで踏み切ってしまうのはいくらなんでも憚られた。
周りの人間に「何をいまさら」と呆れられようが、これ以上の破戒を厚顔無恥にも果たせるほど、ステイルにとっての神とは軽い存在ではない。
彼女より重い存在でも、決してありはしないが。
思索にふけりながら、無意識でも抜けられるほどに慣れ親しんだ通りを闊歩する。
道端に面するパン屋の小麦粉臭さ、ジョギングに勤しむ老人、幼いころから変わらないテムズ川の流れ。
この一年ですっかり通い慣れた道のりを行けば、やがてこの一帯で一等豪勢な建築物が見えてくる。
「あ、ステイル!」
「お、っと」
目的地が視界に入ったその瞬間、ステイルは懐に衝撃を感じた。
飛び込んできた銀の柔らかな弾丸に向けて、窘めるようにまずは一声。
「護衛の到着する前に公邸の外に出るとは、感心しないね」
「……だって、一番にステイルに、おめでとう、って言いたかったんだもん」
「君だって、今日はおめでとうと言われる立場だろうに」
「そういうことじゃ……もう、わかってて言ってるでしょ、ステイル!」
願望丸出しの馬鹿な夢を見ても床をのたうちまわらずにすんだのは、今日という日の特異性に理由があった。
夢が夢でなくなる日。
ステイルが抱いた夢の欠片を、インデックスの持ち寄った夢の欠片と、合わせて一つにする日。
「本当に僕ら……結婚、するんだよな」
ステイルとインデックスは今日、主の掲げる十字架と、多くの朋友の前で永遠を誓う。
「夢みたいな話だけど、夢なんかじゃないよ、ステイル」
ここまでは望んでいなかった。
より正確に言うなら、望むべくもなかった。
学園都市で一方通行に、上条当麻に発破をかけられて以来、インデックスに愛を告げることはステイルの中で半ば既定事項にさえなっていた。
「君に生涯を捧げる」と改めて誓いを立て、「君の一生が欲しい」と初めて要求する。
たとえ拒絶されてもその四肢を抱き締めて、二度と離さない。
その決意の結実としての、七月二十八日だった。
それでもステイルとインデックスは、神父と主教だった。
神の御前での誓いなどとんでもない。
結婚など望むべくもないはずだった。
だから、望んではいないことだった。
望んではいけないことの、はずだったのだ。
「いくら世界中の十字教徒が祝福してくれても、君の心の中の信仰とはまた話が別のはずだ。それでもいいんだね、インデックス?」
「……その質問、聞き飽きちゃったんだよ。そんなにステイルは私のことが嫌い?」
「その返しこそ聞き飽きたよ。意地の悪い逆質問だ」
「嫌い?」
「好きだよ、インデックス」
「えへへ」
だからこそ、幸せだと思えた。
決して越えられないはずの壁を越えるために、下から押し上げてくれた無数の友が、今の二人にはいる。
それはきっと、間違いなく幸せなことなのだろう。
「それよりもう一つ、お祝いごとがあるでしょ」
「なんの話だかさっぱりだね」
お得意の肩をすくめつつ放つニヤケ笑いは、意識的に行ってもそれなりの効果を上げたようだった。
ぷくり、と年甲斐もなくむくれ顔になったインデックスが口を尖らせる。
「日本から帰る飛行機の中でちゃんと言ったんだよ! 『たくさん友達呼んで、パーっとやろ?』って」
「それに対して僕は『君一人いればいい』と返したはずなんだが」
「あーっ! やっぱり覚えてた!」
「おっと。これは口が滑った」
「もう! ステイルの馬鹿! 卑怯者!」
「……君、僕を罵るときは必ずそのフレーズを混ぜるね」
「わたし的に言わせてもらえば、記念すべき対ステイル初罵声だからね」
「何の記念だ」
苦笑すると、じとりと細められた翠色がステイルの顔面を真っ直ぐに射抜いてくる。
しばし正面から押し合った二つの視線は、やがて根元からしなやかに絡み合う。
ステイル同様インデックスも、呆れ気味に頬を緩めていた。
「命令です。しゃがみなさい、ステイル」
そして同時にその瞳が、焦げつくような熱を帯びていた。
「仰せのままに、我が聖下」
目線が水平になるまでかがむと、今度は目を瞑れとのお達し。
諾々と従うステイル、距離を縮めるインデックス。
「ん」
――――額に走った柔らかな、しかし妖艶なまでに刺激的な、そしてくらりとするほど甘美な感触。
「……これ、誕生日プレゼントだからね」
顎と首の皮が繋がったかと思うほど、インデックスのかんばせは極限までうつむけられていた。
しかしステイルは、艶やかに流れる銀糸の隙間から覗く、己の頭髪の色そっくりに染め上げられた耳朶を見逃さなかった。
思わずその細い身体を抱き締めて、額に残る感触に再度、貪りつきたくなった。
誰が呼んだか魔性の聖女。
実に的を射た表現だった。
「二十五歳の誕生日おめでとう、ステイル」
PassageEX ――HAPPY――
バッキンガム宮殿の一室で一張羅――常よりはるかに上等な一品とはいえ、神父服に違いはなかったが――に袖を通す。
本番を目前に控えながら、ステイルは早くも気疲れ気味だった。
(どこの王子様の挙式を参考資料にしたのか、知りたいとも思えないな……)
つい先刻までステイルは、パレードカーの上に乗せられて沿道を埋め尽くす観衆に手を振っていた。
ステイル個人の性格からいっても、その職務が帯びる性格を鑑みても、あり得ないことだと言わざるを得ない。
そのあり得ないことがまかり通っているあたり、イギリスという国家の、ひいては首脳たる王室派のネジの飛びっぷりが窺える。
「時間であるぞ、花婿殿」
ドアの外から武骨な、しかしからかうような声。
彼もまた、比較的良識派とはいえ『ネジの飛んだ王室』の一員である。
誰が花婿殿だ、と反射的に噛みつきそうになった。
だが今日この日においてステイル=マグヌスは、満天下の認める『花婿殿』に間違いないのであった。
「花嫁殿の方にはヴィリアンが付いている。向こうもじき、支度が済むそうだ」
「そもそもどうして、僕らが宮殿で式を挙げなければならないんだ……」
「そうは言っても、聖ジョージ大聖堂は巨大なクレーターだけを残して、綺麗サッパリ無くなってしまったことであるしな」
「ぐっ」
『大聖堂消失(より正確には焼失)事件』の犯人たるステイルに、返す言葉などあるはずもなかった。
「では行くぞ、ステイル=マグヌス」
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「挨拶の時間を設けなくてよかったんですか? 日本からの御友人も、多数お見えだったでしょうに」
「うん、いいの」
普段着ている修道服よりも一段と、晴々しい純白の際立つウエディングドレスを身にまとい、インデックスは畏れ多くも王妹殿下に銀髪を梳かれていた。
「今回私たちは、私人として祝福を受けるわけじゃないもん」
「……そうですね。私とウィリアムの時もそうでしたけど、他国からやんごとなき身分のお客様も、たくさんいらっしゃってますし」
「そう。だから、たとえそれがかおりやとうまやみことでも、特別扱いはできないんだよ」
わずかに唇を噛んで、インデックスは喉の奥からこみ上げる寂寥感を押し留める。
本当は今すぐにでも会いたかったし、叶うことなら上条家の人々を最前列に呼んであげたかった。
しかし、今日ここにいるインデックスはまごうことなき公人であり、イギリス清教最大主教であり――――そして罪人である。
無事にこの日に漕ぎつけることができた、という以上の幸福を望むべきではなかった。
「……前から思っていたのですが」
「なぁに、ヴィリアン?」
「あなたのその、公私を峻厳に隔てる姿勢。ステイルさんにそっくりです。影響されたのでしょうか」
「へ!?」
「よくある話ですよ。好きな人の仕草や癖、態度などを無意識に模倣してしまう、というのは」
「ちょちょ、急に何を……!」
インデックスは頬を赤らめて抗議しようとしたが、髪を梳かれているため振り返ることさえできない。
愛する人に似ている。
そう言われて悪い気などするはずもないが、なぜこのタイミングで。
「だってイギリスに帰ってきたばかりの頃のあなたは、神様への信仰こそ大事にしていましたけど、俗世間とのしがらみにはそれほど興味がなさそうでしたよ?」
それは、当然といえば当然のことだった。
学園都市で上条の庇護下にあった当時のインデックスは、陰謀や闘争に巻き込まれることこそあっても、権力との付き合い方や礼儀作法などとは無縁の世界にいたのだから。
しかしそれを口にすると言い訳がましく聞こえてしまう気がして、結局インデックスは力なく項垂れることしかできなかった。
「ふふ、耳まで真っ赤。ステイルさんの髪の毛の色そっくりですね。可愛いです、インデックス」
「ヴィ~リ~ア~ン!」
「はい、できました。それじゃあ時間も迫ってきたので、行きましょう」
「うう……」
憤慨を軽くいなされ、仕方なく鏡台から離れる。
婚姻という二文字が肩に圧し掛かってきたかのように、一歩が途轍もなく重いものに感じられた。
苦笑するヴィリアンに手を引かれ、先導されて部屋の外に出る。
「……え?」
そこに、意外な顔があった。
「ではここから先は、花嫁の父君にお手を預けましょうか」
「お初にお目にかかります、ミセス上条。インデックスの妹のローラ、と申しますわ」
「まあまあこれはご丁寧に。上条詩菜です、今後ともよろしくお願いいたしますね」
なんだその流暢な日本語は。
常日頃の馬鹿げた馬鹿の馬鹿口調はどこへいった。
手の甲をバシリと叩きこんでやりたい衝動を、ステイルは必死で堪えていた。
午後の二時に差しかかろうかというところだった。
聖ジョージ大聖堂のような美麗なステンドグラスこそ存在しないが、天窓から差す強い日差しが目に痛い。
バッキンガム宮殿に設けられた儀礼用の祭壇の前で、ステイルは苛立たしげに足を踏み鳴らしていた。
「……なあステイル。あの人、インデックスの前任者さんだよな? それがインデックスの妹って、どういうことだ?」
「今、僕に、そんなくだらないことで話しかけるな」
「くだらないってお前、その話が本当なら、あの人はインデックスの家族ってことじゃんか。俺にとっても義理の妹……っつーか、お前から見ても家族に」
「誰と誰が縁戚関係だアホの上条当麻ぁぁっ! 僕は今、君の与太話に付き合ってやる余裕なぞないんだよ!!」
ステイルの剣幕に、上条はすごすごと定められた自席へ帰っていく。
余裕がないのも当然だった。
なにせ現在、この即席の聖堂にはイギリス王室をはじめとした全世界の“お偉いさん”が大集合状態。
美観を損なうとして警備の者はことごとく外周に回され、今も会場の入り口で不審者や不審物の侵入に備えて厳重なチェックが行われている。
何かしらのトラブルが起きたらと思うと胃が痛んでたまらない。
加えて壇上で二人を祝福する司祭役は、よりにもよってロシア成教総大主教サマときている。
畏れ多いとかそういう問題ですらなかった。
ただひたすら、胃がジンジンと悲鳴をあげて止まないのである。
「だいいち、なぜ君が最前席に陣取っているんだ」
「なんで、って言われてもなぁ。この席に招待されたんだから仕方ないだろ」
「僕はそんなことをした覚えはない」
した覚えはないというより、できなかったというのが正しい。
世界の要人がひしめくこの場において、戸籍上何ら繋がりのない相手を『家族』として優遇することなど許されるはずもなかった。
どうにも、何者かの陰謀めいた意図が働いているように思えてならない。
ステイルが心中ひそかに首をひねっていると、案の定というべきか、したり顔の策謀家が種明かしを始めた。
「それはそうでしょうねぇ。だってそれは私の仕業なのだから」
「……貴女にいたっては呼んだ覚えすらないんですが。そのポケットから覗いている招待状、偽造ですよね」
ステイル=マグヌスの不倶戴天の仇敵、ローラ=スチュアートがすぐそこにいた。
いたというか、さっきからずっと長椅子に座って、上条詩菜となごやかに談笑していた。
その首根っこを掴んで上条と詩菜から引き離すと、周囲の目を窺いつつステイルは声をひそめる。
「ローラ=スチュアートが僕らの前に姿を現すことは、二度とないんじゃなかったんですか」
皮肉の色が混じることは止められなかったが、問いかけの半分ほどは、純粋な疑問から成り立っていた。
七月二十一日にバチカンは聖ピエトロ大聖堂で別れて以降、ステイルはローラがどこで何をしていのたか、まるで知らない。
「ええ、そうね。ローラ=スチュアートは七月二十八日に死んだわ。ここにいるのはただのローラ。インデックスの妹で、『彼』の娘のローラ=ザザよ」
「詭弁と御託を並べるのだけは、どのローラさまもお上手なようですね」
舌を打つ。
いつ何時でもそうだったが、やはりこの女と言葉を交わしていると心がささくれだつ。
「それで? 僕らを祝福するためだけに、はるばるロンドンに帰ってきてくださったんですか」
「……そうねぇ。結果的には、それしかできないことになってしまったわ」
「なに?」
「本当はね、ステイル。私は今日、『彼』をこの式場に引っ張ってくるつもりだったのよ」
「彼? …………まさか」
「ええ。私とインデックスの、『お父様』よ」
アレイスター=クロウリー。
ステイルはほとんど叫びそうになって、自分が置かれた状況を思い出した。
反射的に口許を手で覆ったのは冷静な判断である、我が事ながら褒めてやりたい。
それほどまでに、激しい驚愕に脳を揺さぶられていた。
「見つけたんですか、奴を……!」
「ええ」
「いったいどこに!」
抑えたくとも抑えきれない昂りが、語勢の端に現れる。
ローラはそれを手を上げて諌めると、小さく首を横に振った。
「私の掴んだ真実のすべてを語るには、場所も時もよろしくない。いま確かなことはただ一つ。私はあの男の姿を捉えたが、捕えることまではできなかった。それだけが、真実よ」
簡潔にすぎる説明に納得できず、ステイルはなおも事実を追究するべく眼光を鋭くする。
しかし、ローラの浮かべる表情に気勢を削がれて口を噤んだ。
彼女の面持ちが意味するところを言葉で説明するのは難しい。
それでもあえて何か、無理矢理形容する文句を探すなら――――今にも死にそうな顔、という他に思いつかなかった。
一月前、自らの死期が迫っていると告げた時と寸分たりとも違わぬ、穏やかな微笑をローラは浮かべていた。
それが素顔の上から張り付けられた能面ではないことを、悔しいことにステイルは理解できてしまっていた。
「まあまあ、そう怖い顔をしないのステイル。新郎がそうも眉間にシワなど刻みていたら、せっかくの佳き日が台無しになりてよ? 『親』を連れてこれなかったせめてもの罪滅ぼしとして、わざわざ上条家の方々を親族席にと手配してあげたのに」
「……そういう意味ですか」
ステイルとしてはあまり認めたくないことだが、上条当麻は間違いなくインデックスの家族だ。
恋人でも兄妹でも親子でもなく、曖昧な優しさを孕む『家族』という言葉でしか、いま現在のあの二人の関係は表現し得ない。
「しかしそれにしてはミスター上条……上条刀夜氏の姿が見当たりませんが」
最前列の長椅子に鎮座ましましているのは、上条詩菜と当麻の母子のみだった。
美琴は遠く後方の友人席に陣取っているのがステイルの位置から確認できる。
その隣に腰掛けている女性は、珍妙極まる尻尾の揺れから判断するにレッサーのようだ。
(何事か談笑している様子だが、旧知の仲なのか? だとしたら、数奇な縁だな……)
しかしインデックスのもう一人の『父親』である上条刀夜だけは、どこをどう見渡しても発見できなかった。
彼とは半年前の『ロンドン事変』に際して言葉を交わしたのが最後である。
だがあの人の好い顔だちは、たとえ群衆の中に紛れていようと、それと見分けられる自身がステイルにはあった。
どこか忘れがたく、姿がないと探したくなるようなところがある。
彼の息子ともまた違う独特の存在感を放つ、一種の人傑。
それがステイルの知る上条刀夜という男だった。
「なんだステイル、お前本当に何も知らされてねえのな」
「あ゛?」
目を丸くした上条が、呆れるようにつぶやいた。
目を三角にしたステイルは、威嚇するように唸る。
「それはどういう意味だい、上条当麻」
「イギリス清教の連中って、こういうサプライズが大好きだよなぁ。父さんなら、たったいまインデ」
ステイルにとって聞き捨てならない名を、聞き捨てならないタイミングで告げようとした上条の言葉は途中で切れた。
中断せざるを得ない状況が、始まったのである。
「ご来場のお歴々、静粛に願う」
壇上で正装に身を固めた、クランス=R=ツァールスキーロシア成教総大主教だった。
さすがというべきか、これはと思わせる風格を漂わせて礼拝堂を鎮める。
あのローラですら、居住まいを正して大人しく自席――もちろん最前列――に帰っていった。
インデックスの美貌に触れた第一声が「ハラショー」だった、あの馬鹿と同一人物だとはにわかに信じ難いものがある。
「お二方、前へ」
お二方とは、一方通行と打ち止めの式で上条夫妻が務めたような、ベストマンやメイドオブオナーのことだ。
通常は新郎新婦と親しい、未婚の男女がその任に就くのが習わしである。
しかし一月前のあの式では、新婦のたっての希望もあって既婚者である上条当麻・美琴夫妻を指名した、という経緯があった。
今回の場合も、儀礼的な慣習より大衆向けの話題作りを先行させた結果として、畏れ多くも英国女王陛下とその夫君がステイルとインデックスの真横に並ぶ。
「あー、どうもどうも、すんません。おい美琴、こっちこっち」
「ちょっと通りますよーん。ほら当麻、シャキンと背筋伸ばしなさい。テレビカメラ入ってんのよ?」
――――はず、だったのだが。
「……君たち、何をやってるのかな?」
「何って言われても」
「新郎新婦サマの、お手伝い?」
何食わぬ顔で所定の配置に着いたのは学園都市広しといえど二組しか例のない、そして学園都市屈指の知名度を誇る方の、レベル0&5夫妻だった。
「いやー、こんな短い期間に二度もこの場所に立つことになるなんてな。上条さんもびっくりですよ」
「思ったよりも早く漕ぎつけたわよねー、プロポーズにしろ結婚式にしろ。上条さんもびっくりだわ」
「……ちょっと待て」
「よろしい。それではやや強引に、新婦入場へと移ろう」
「全然よろしくありません! 当初の予定とまるで違うでは」
「静粛に」
「『静粛に』て! 黙らせるならまずは、さっきからペチャクチャ喧しいこっちの夫婦で」
「静粛に。お前の声が明らかに一番うるさいぞ、心労……もとい新郎殿」
「イントネーションに大差なくてもどう言い間違えたか表情でおおむね読めますからね!?」
ドッ、と会場が笑いに沸く。
一切の動揺を見せずに、滞りなく式次を進めようとするクランスの表情。
そして本来なら隣に来るはずだったリメエア女王陛下の、自席で愉しげに口許を押さえる姿。
会場中を生きた心地のしないままに見回し、それらを確認してようやく、本当にようやっと、ステイルは悟った。
(嵌められた…………ッッ!!)
ステイルの歯がギリ、と部屋中に響き渡るような派手な音を立てて軋んだ。
苦虫をグロス単位で噛み潰したような味が奥歯のさらに奥から染み出してくる。
歪みきった相貌が全世界のお茶の間に電波を通してお披露目されていることも、怒りのあまり頭から吹っ飛んだ。
「誰だッ!! 誰が糸を引いてい」
「新婦入場」
そして次の瞬間、その憤怒すらも掻き消える。
背後から蝶番が軋む物音。
反応して顧みたその先。
ほぼすべての参列者が漏らしたといって過言でない、おびただしい嘆声の洪水さえ耳に入らないほどに。
ステイルの頭は、真っ白になっていた。
「――――ぁ」
天使がいた。
いやあるいは、女神がそこにいた。
自分は神話の世界に迷い込んでしまったのだな、とステイルはしばらくの間そう信じて疑わなかった。
乳白色のしみ一つない肌が、血潮の放つ鼓動を透かして輝く。
太陽にも等しい煌めきは、人間離れした端正な美貌に生命の躍動感を与えていた。
豪奢なレースをふんだんにあしらったプリンセスラインのドレスが、一歩、また一歩とブルーカーペットを踏むたびに蠱惑的に揺れる。
王室の用立てた最高の逸品に違いないはずだが、“中身”の引き立て役としてさえ、果たして存分に役目をこなせているかどうか。
ヴェールは普段から着用している修道女のそれではなく、聖母マリアがその名の由来となったマリアヴェールだった。
薄布の下の豊かな銀髪は、ドレスにかからないよう後頭部でシニョンに結上げられている。
上から下へ、あるいは下から上へ。
ステイルの眼球運動はそういった規則性にまったく従ってはくれず、夢見心地に無造作に、花嫁の美しい五体の上を滑る。
ただ、表情に眼が行ったのが最後だったことだけは偶然ではない、とステイルは思った。
そこに視線をやれば、完膚なきまでに魅了される。
もはや刹那たりとも目を離せないのだと、きっと己の本能がそう察していたのだ。
その表情はことこと煮込んだシチューのように、芳醇な幸福の味わいに染まりきっていた。
とろけたミルクのごとく薄く色づいた頬が、崩れるか崩れないかの瀬戸際でかろうじて最大主教としての体裁を保っている。
それ以外の部位は蜂蜜を塗りたくったも同然の甘い香りを放って、参列者を老若男女問わず惹きつけていた。
唇にルージュは差されず、アイラインも自然のまま。
一切の化粧を施されていない生まれたままの目鼻立ちが、却って触れがたいような神秘性を演出していた。
だが、花嫁は間違いなく人間だった。
それをステイルのみならず、居合わせたすべての人間に教えたのは、隣で手を引く何の変哲もない一人の男だった。
花嫁の放つ正視しがたい神々しさに溶け込むように、しかし男は、確かにそこにいた。
柔和な笑みを浮かべる壮年の男性に、花嫁は全幅の信頼を置いている。
言葉はなくとも二人が醸し出す雰囲気が、見る者すべてにそう伝えていた。
どこにでもいそうな平凡な男の存在感が、花嫁の女神のごとき美しさを、確かに人間のものであるのだと教えていた。
「やあ、ステイルくん。私との約束、果たしてくれたらしいね」
『私の娘を、よろしく頼むよ』
『……はい。命に代えても』
いつの間にか目前まで来ていた男に言葉をかけられて、ステイルはようやく思い出した。
この世のものとも思えぬあの女神はこれから、他でもない自分の独占所有物になるのだ、と。
「お、お久しぶりです、ミスター上条」
我にかえったステイルは慌てて頭を下げた。
上条刀夜。
インデックスが父と慕う、この世でただ一人の男である。
「ははは、そう緊張せずとも。どうだいインデックスちゃん。ステイルくんは、ちゃんと君の幻想(くのう)を壊してくれたかな?」
「うーん……半分ぐらい、かも。乙女の懊悩は、一朝一夕には解決できないほど深いんだよ」
「これは手厳しいね。頑張りたまえよ、若人」
「はぁ」
間延びした、声にもならない声を返しながら、ステイルは衆目の視線に気づいて背筋を伸ばした。
もう色々と手遅れな気はするが、大一番を前にした男の意地、というものもある。
「ローマ教皇様からバトンタッチだと言われたときは、さすがに何の冗談かと思ったよ」
当初の予定ではインデックスの手を引く父親役は、現役のローマ教皇の役目だったはずである。
新婦親族席に軽く視線を流すと、見慣れた含み笑いがくつくつと大気を震わせている。
先代教皇と個人的つながりを持つ女狐が、またも暗躍したということらしかった。
「申し訳ありません、身内の恥を晒すような」
憤懣と、それ以上に沸々とこみ上がってくる羞恥から再び腰を折ろうとしたステイルを、刀夜が手で制する。
「積もる話は、いくらでもまた機会があるさ。ではいま一度、私の娘をよろしく頼むよ」
刀夜はじっとステイルの眼を見つめてきた。
黒曜石の器に清酒を注いだような、すべてを受け入れる度量の広さを感じさせる眼差し。
壮年も過ぎ、世の酸いも甘いも知り尽くしているだろうに、こんな眼ができるものなのか。
そう思いながら眦を引き締めて小さく、強く頷いた。
それ以上の言葉は不要だった。
踵を返して妻と息子(とついでにローラ)の待つ最前席へ戻る、父親の後ろ姿。
それを束の間目で追ってのち、ステイルは花嫁――――インデックスへと向き直った。
「覚悟は、できたかい?」
「うん、大丈夫」
「うむ、では式次を進めるぞ。開式を宣言する」
今この瞬間、二人の想いは確かに、一分のズレもなくピタリと重なっていた。
それすなわち。
「はずだったがその前に友人一同と職場の同僚、イギリス王室および学園都市統括理事会ならびにローマ正教、加えてロシア正教プラスその他諸々各位から、新郎へ誕生日プレゼントの贈呈が行われる」
「…………」
「…………」
はっはっは、今さら何が起ころうが驚きやしないぞ☆――――という固い決意だった。
「……申し訳ない、総大主教。その、ただ今列挙された方々すべてが、僕に?」
「うむ」
「そういうアレは、一介の神父が受けとるには少々重すぎるので、辞退させていただきたく」
「ダメ」
総大主教様は真顔だった。
取りつく島もないとはこのことか。
大方土御門やワシリーサあたりの口車に乗せられて、この進行の仕方がベストだと吹き込まれたのだろう。
「あの、ではせめて、贈呈の前にプレゼントとやらの内容を教えていただけませんか」
「それを言ってしまったらお前、喜びも半減というものではないか? それでも聞きたいのか」
「……それでもです」
「『ああやっぱり聞かなきゃよかった』……世の中、そんなことばかりだ」
「…………じゃ、じゃあやっぱ止めとき」
「それでは贈呈品の内容を発表する!」
「おい!」
「我々から贈る品は、カードだ」
「またそんなあっさり!」
ここまでくるとただのコントである。
テレビカメラもばっちり回っていることだし。
「丹念に作り上げた手作りの一品×千枚だ、ありがたく思っていいぞ」
「……メッセージカードのようなものですか? それにしても多すぎです。限度というものを知ってください」
「ステイルステイル、人の厚意をそんな無碍に扱っちゃダメなんだよ。観念して貰えるものはさっさと貰っとくべきかも」
「他人事だと思って『訪問販売員の押しの強さにうんざりした主婦』みたいな適当な助言をするんじゃない!」
袖を引くインデックスのおざなりなアドバイス。
自分が標的ではないと知ったからか、すっかり安心顔になっている。
ついさっき重なり合ったはずの心と心、ハートトゥハートの捜索願を切に出したい気分だった。
「第一、この会場の警備は完璧です! そんなに大量の品を持ち込む隙などない!」
拾い上げてくれる奇特な神の不在を悟ったステイルは、己が力で突破口を開くべく最後のあがきに出る。
「そう、その通りだ。そこで私はこう考えた。『下の入口が駄目なら、上の入口を使えばいいじゃない』……まあ本当のところこれは、イギリス清教参謀の発案なのだが」
煌々と陽明かりの差す天窓に、かすかな気配を感じて振り仰ぐ。
我らがファンタジスタ、金髪アロハのグラサン男がこちらを覗いている姿が、ほんの一瞬だが確認できた。
「ドアが駄目なら天窓から…………発想の転換の仕方が犯罪的すぎるでしょうがぁっ!!」
「サンタクロース的と呼んでほしいな」
「太陽もすっかり昇りきった昼日中から天窓をノックする聖ニコラウスがどこの世界にいる!?」
『ここにいるぞ!』
仰角九〇度、距離三メートルの地点から威勢のいい声。
いま一度天窓を仰ぎ見れば、開け放たれたガラス戸から舞い込む大量の紙束。
会場を襲った紙吹雪に一堂が騒然とする中、そのうちの一枚をインデックスが拾い上げた。
片面が見覚えのある赤。
宙を舞うカードの雨も、よく見ればすべて同じ色合いに同じ紋様――――?
「あ。これ、ステイルのルーンカードなんだよ」
「手造りのカードってこれかぁぁぁぁ!!」
『いやーステイルくんが任務の度に毎度毎度コピー機の前で長い時間を過ごす姿が哀れでならなかったんだにゃー』
奇妙な反響を繰り返しているのは、発信源を悟らせぬよう魔術で工作を施された声。
「よかったねステイル。これだけあればしばらくはお仕事に困らないかも」
「待てふざけるなこれは僕の商売道具なんだぞ! おいそれと他人の目に触れさせるわけにはいかないんだぞってカメラを止めろおおおお!!! そして笑うなあああああっっ!!!」
孤軍奮闘、洪水のような大爆笑に見舞われながら、紙吹雪を相手取った大捕物を繰り広げるステイル。
右へ左へすったもんだで二十枚ほどを回収し終えると、ぽんぽんと肩を叩かれる。
インデックスだった。
実にいい笑顔を浮かべているというのに、なぜだか塵ほどもくらりとこない。
ヴァージンロード上の女神はいずこへ御隠れになったのか、切に捜索願を出したい気分だった。
「それ、元はステイルのルーンなんだから魔術で手元に集められるんじゃないかな」
I T O G A
「そういうことは先に言ええええッ!! ――――三時だよ、全員集合!」
「なんか冗談みたいな詠唱出た!?」
会場中に散らばった紙切れが、統率の取れた渡り鳥の群れと化してステイルの掲げた右手に集る。
荒く息を弾ませながら都合千枚のカードの束を器用に懐に収めた。
この収納テクニック一つとっても、ステイルの死活に関わる重大な企業秘密であるというのに。
「ぜぇ、はぁ、あ、ありがたく受けとっておくぞ、クソ野郎どもッ! この借りはいつか必ず」
「ステイル」
「……今度はなんなんだよもう!」
半ば泣きの入った叫びの矛先は、八つ当たりのようにインデックスに向いた。
三度ステイルの注意を引くと、彼女が最初に掴んでいた、回収し損ねたカードが差し出される。
「裏、見てみて」
蕾の向日葵が夏の訪れを待ちきれずに弾けたような、目眩を覚えるほどまばゆい笑顔だった。
唾を飲み、言葉を失って、言われるがままに最後のカードを受け取る。
『お前とは初めて会ったときから燃やされたり殴ったり、そんな仲だったけどさ。俺は一応、お前のこと友だちだ、仲間だって思ってるからな。俺の大事な女の子を任せられる、世界でただ一人の神父さんだ。……長々と改まったことばっかり言うのも変な話だから、このへんにしとくか。とにかく結婚おめでとうな、ステイル! ――――上条当麻』
「なんだ、これは」
裏面にびっちりと汚い字で記されていたのは、祝福のメッセージ。
呻くような声で、ほとんど無意識のうちに内容を読み上げていた。
ステイルの呻きに呼応するように、ガシガシと髪を掻き毟る音が静寂を裂く。
静寂――――そういえば混乱と興奮の坩堝だったはずの会場は、いつの間にやらすっかり静まりかえっていた。
「あっちゃー! よりにもよって俺のがインデックスの手に残ってたのかよ! やべ、恥ずかしくなってきた」
「さすがは当代一の不幸者よねぇ。我が夫ながら感心するわ」
此度の声の発生源は、どこぞに姿をくらました土御門のそれとは違ってすぐに察知できた。
というより、すぐ隣だった。
「………………これは、まさか君が書いたのか、上条当麻?」
「だ、だからさぁ、恥ずかしいから何度も確かめてくれるなって。それよりほら、他の連中のも見てみろよ。時間あんましないけど、ちょっとでいいからさ」
成人男性の、それも上条当麻の赤面などご披露いただいても吐き気がこみ上げるばかりである。
自分の顔面にも血が上ってきていることを自覚しないまま、ステイルは顔を逸らすと懐にしまった紙束から数枚のカードを抜き取った。
『いよーうマグヌス、結婚おめっとさん! 嫁の尻にしかれそうになったらベテランの俺にいつでも相談しろよな! 怒り狂う嫁さんの懐柔策にかけては俺の右に出る者なんざ…………はは、書いててなんか悲しくなってきたわ。また日本にも遊びに来いよな――――浜面仕上』
『くうう、まさかシスターちゃんとステイルちゃんに置いていかれる日が来るとは思わなかったのです……先生も年を取ったということなのですかねー。晴れの日にこんなことを言うのもなんなのですが、お二人の道行きにはまだまだ困難もたくさん待ち受けているはずです。困ったときには、いつでも私に相談してくれて構わないのですよー? ……だって先生は、ステイルちゃんとインデックスちゃんの先生でもあるのですから! ――――月詠小萌』
『日頃から婚后航空をご愛顧いただきありがとうございます、ですわ。ハネムーンの際にはぜひ、我が社の便をご利用くださいませ。新型機のテストフライト要員も随時募集しておりますので、奮ってご応募くださいな――――婚后航空常務取締役 婚后光子』
『ご成婚、心からお慶び申し上げます。気が付けば早いもので、我々がイギリス清教にお世話になって半年になるのですね。ショチトルたちの件についても最大主教には懇意にしていただき、まこと、感謝の言葉もありません。近いうちに最大主教にはまたお世話になると思いますが、その時はどうぞよろしく。ああそれからついでに、誕生日おめでとうございますステイルさん――――エツァリ』
『はっはっは、まさか地球規模の大本営発表とはな、恐れ入った! どこもかしこも君らに好意的に接してくれているだろうが、浮かれて裏側の意図を読み取る努力を怠るなよ。まあ世界中の「ミサカ」が君たちの味方なんだから、心配することもないがな! いつでも俺たちを頼ってくれよ。その時はいつも通り、こう聞かせてもらうからな。「世界に足りないものは、なーんだ?」――――御坂旅掛』
『おォい、マァグヌゥスくゥゥゥン? こないだの大規模な超能力消失事件、元を糾せばオマエらの痴話喧嘩が原因らしいなァ!? おかげサマで俺がどンな目にあったと思ってやがンだゴラァッ! 首洗って待ってろよクソ野nqgxlaiwiwステイルさん、インデックスさん、ハッピーバースデーアンドハッピーウェディング! 二人のおかげで、ミサカたちは今とっても幸せです! 結婚っていいものだから、二人も仲良くやってね! ――――一方通行&打ち止め』
最後に裏返した一枚には、名が記されていなかった。
『森然、今さら多くを語る気はない。達者でやることだな、ヘタレ神父』
しかし、仮に記されていたとしても、満足に読みとれなかったに違いない。
「は、はは……ははははは」
どうやら読んだ者の視力を落とす呪いがかかっていたらしい。
その証拠に、さっきから視界がぼやけてしょうがない。
まったく、やってくれたものだ。
「……君たち、こういうのを日本語でなんて言うか知ってるかい? N番煎じって言うんだよ」
急いで解呪するべく目許を手で覆う。
術式を精査しようとするも、なかなかうまくいってくれない。
おのれ魔術師め、相当に高度な呪詛のようだ。
「まったく、結局のところは毎度毎度、ちょっと凝った方法でメッセージを受け渡してるだけじゃないか。もう少し創意工夫というものを学んだらどうなんだ、どいつもこいつも。本当に、まったく、くだらない――――」
静まりかえった堂のあちらこちらから、あたたかく微笑ましげな視線が注がれている。
涙腺を容赦なく刺激してくる術式を止めるまでの間、ステイルはそれらすべてを背中で受け止めることにした。
その後の式次第はうってかわって極めてスムーズに、遺漏なく進んだ。
プロの楽団の演奏に合わせて賛美歌が響く。
形式通りのお堅い誓いの言葉が交わされる。
ベストマンとメイドオブオナーの助けを得て、指輪を互いの指にはめる。
結婚証明書への連署が行われ、祭壇中央のユニティーキャンドルに二人して火を灯す。
司祭のありがたいお言葉を頂いて、いよいよ残すは誓いの口づけのみ、
「申し訳ありません、司祭様。少しだけ、お時間をいただいてよろしいでしょうか」
となったとき、花嫁が静かに口を開いた。
アクシデントに多々見舞われたようでいて、実のところここまでは仕掛人たる聴衆側の思惑に沿って進んでいたこの結婚式。
初めての新郎新婦側からの働きかけに、かすかに場内がざわめく。
「いくらでも、ご自由になさればよい。これは貴方たちの式なのだから」
「ありがとうございます――――ステイル」
静謐でありながら一人一人の心に染み渡る、天啓の声音がただ一人を指す。
ステイルは当たり前のように、踵を回して愛する人に向き直った。
「私ね。終わらせることが勇気なんだって、そう思ってた」
神に捧げる誓いの言葉は、すでに終えている。
だからこれはきっと、インデックスがステイルだけに送ってくれる、祈りの言葉なのだ。
「でもあの日、七月二十八日。あなたが、別の勇気を教えてくれたから。言葉で、力で、体で。たくさんのことを教えてくれたから」
すべてを見透かされていると知って、ステイルは苦笑した。
「今日は、私があなたに、勇気を返す番だよ」
そう。
ステイルはこの一ヶ月、今日という日をこそ恐れていた。
インデックスはいまや世界に名だたる高位聖職者である。
対してステイルは、表向きには一介の下っ端神父にすぎない。
その上一枚皮をめくれば、そこには薄汚い大量殺人者が姿を現す。
ステイルの罪は「インデックスを守るため」という免罪符を得て、とうの昔に己の内側で割り切ったものである。
しかし今となっては、路傍の石と蹴飛ばした命の存在がいかにも重い。
インデックスのためならば誰でも殺すし、その事実が彼女の重荷になると判断すれば躊躇いなく口を噤む。
現にステイルが犯した殺人の中には、インデックスが知らないものなどいくらでもある。
要するに、ステイル=マグヌスとは通り一遍の聖職者などでは決してない、エゴの塊のような男だ。
最大主教の夫――そもそもそんな身分の人間など原理的に存在してはならないのだが――が斯様な怪物だと公に知れれば、インデックスの名に消しがたい傷が付くことは避けられない。
本当にいいのか。
引き返すなら今のうちだ。
夫になるだの、子を成すだのは小さなことだろう。
自分は彼女の傍にさえいられればそれでいいのだ。
心を通わせ合ったことだけで、満足するべきではないのか。
ステイルが今この瞬間も抱き続けている煩悶を――――おそらくインデックスは、完璧に見抜いている。
「終わらせることが勇気なんだと思ってた」
「とうまのことも、自分のことも。この先の人生には、辛いことしかないんだろうな、って思ってた」
「でも結局、私は続きを選んだ。あなたが手をとってくれたから」
「バッドエンドでもハッピーエンドでトゥルーエンドでもなくて、続きを選んだ。あなたが、欲しいっていってくれたから」
「だから私は、続きを選ぶ恐怖にも、あなたとなら勝てるって思った」
「いつかは必ず終わるこの『続き』を、進む勇気を、あなたは私にくれた」
「私たちには、幸せになる資格なんてない。そう言う人は、きっと世界のどこかにはいると思う。それはしょうがないことかも」
「でも、それでも確かなのは」
「幸せになっていいんだ、って言ってくれる人たちが、今ここにいること、だよね」
「……ねえ、ステイル。あともう一つ、確かなことがあるんだよ」
「私は大切な大切な『すべて』を忘れてしまったけれど」
「これからはなに一つ忘れずに」
「あなたのために、生きて死ぬ」
「愛してます、あなた」
二つの輪郭が、一つになって融け合った
「……ああ。愛してるよ、僕も」
「寝言は寝ていいなさい、痴れ者が」
――――かに見えた。
何者かの掌が、無粋極まりないタイミングで男女の面の間に差し挟まれたのである。
いや、何物かなどとお茶を濁す必要もない。
下手人の正体は誰が見ても一目瞭然だった。
花嫁本人の掌である。
「貴方はご存じないのでしょうが、インデックスは私のことを、上条詩菜と並んで母親と慕ってくれているのです」
絶対零度すら生温い、吹雪をも凍てつかせる低く、重く、そして怨念はなただしく満ち満ちた声。
「ならばあなたがこの子を娶る前に、是が非でも為さなければいけない大事なステップがあるのはおわかりでしょう」
声は、ステイルのすぐ目の前からだった。
おそるおそる花婿は、口づけに備えて閉じていた瞼を開く。
愛しい女性のかんばせがそこにある。
眉、唇、鼻、耳、どれをとってもインデックスその人に間違いない。
「言いなさい、ステイル=マグヌス。『お義母さん、お嬢さんを僕にください』。無様に跪いて、その身で出せる限り甲高く、哀れな声色で懇願なさい、この甲斐性なし」
ただ一つ、その瞳の輝きだけを除けば。
「……………………僕は」
百万年ほどフライングした氷河期早期到来か、と満員の参列者の誰もがそう錯誤した。
冷えに冷えた礼拝堂に、感情という感情を一切合財絞って捨てたような、男の抑揚のない声が響く。
「これでも最近は、『その言葉』を口に出さないよう気をつけてきたつもりだったんだ。だって、彼女が悲しそうな顔をするから」
インデックスは、ステイルが『そう』なることを何より恐れていた。
だから『それ』をうかつに口走らないよう、細心の注意を払って日々を送ってきた。
だが。
「だが今日だけは。この時だけは。この一瞬だけは、言ってもいいと思うんだよ。叫んでもいいと思うわけだよ」
すう、と息を吸った。
察しのいい何人かが耳を塞ぐのが視界の端に映ったが関係ない。
会場中の、宮殿中の、いやロンドン中の空気を肺に取り入れても、この震えるような昂りを表現できる気はしない。
しかし、とにかく、とにもかくにも、ステイルは叫ぶことにした。
腹の底に溜まりに溜まった爆発物を、吼えたがる獣を、思いきり解き放ってやることにした。
「不幸だぁぁぁあぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁっぁあああ!!!!!!!」
「言いたいことはそれだけですか。気が済んだらさっさと膝をついて」
「言い残すことはそれだけなんだなこのクソアマァァァーーーーッッ!!!!」
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「新郎がご乱心だぞー!」
「ステイル抑えろ! 殿中でござるぞ! 気持ちはすんごぉくわかるけど!」
「新婦の口からビームっぽいの出たー!?」
「ちょっとインデックス止めなさいよ!? ……いや、インデックスじゃないんだっけこれ?」
「よーしカメラ回せ回せー! 今なら数字取りたい放題だぞ!」
「列席の皆様は落ち着いて、お子様とご年配の方々から順にご避難くださーい」
ダムの堤防を切って崩したような、上へ下への大騒動。
中心は言うまでもなく干戈を交える新郎新婦である。
聖堂内は荒事に慣れっこの仲裁組と、我関せずの避難組に綺麗に二分された。
「『お嬢さんを僕にください』、ねぇ」
てんやわんやの中、避難するでも仲裁に入るでもない希少な例外種は、一匹の黄金色をした女狐だった。
涼しい顔で最前列の長椅子に腰を下ろしたまま、ローラ=ザザはぽつりとつぶやく。
「それを告げるなら普通は父親が相手……そう言いたいのか、ローラ?」
そんなローラに、すぐ後ろの席からしわがれた声がかけられる。
夢見るように虚ろな声で、ローラは忌まわしきその名を呼ぶ。
「アレイスター=クロウリー」
「そんな男は、ここにはいない」
「アレイスターは、死んだのよ」
「君の目で確かめたわけではないだろう。ならばまだ、彼の生に一縷の望みは残っているのではないか」
「……まあ、そうね。貴様が余計なおせっかいを焼いてくれたおかげでね、ジジイ」
七月二十八日。
ローラはアレイスターと刺し違える覚悟で、かの怪物の根城を内側から封鎖した。
そのままいけば、ロンドン中を巻き込んだ自動書記の大魔術の余波により、二人は死んでいたはずだった。
外から封鎖を破って侵入してきた第三者――――マタイ=リースさえいなければ。
「あの男がロンドンの『滞空回線』から逃げ出す時間は、十分にあったわね、確かに」
「それなら、今もこの会場のどこかで娘の晴れ姿を眺めているかもしれないだろう? 例の機械は目に見えないほど小さい物らしいし」
「ナンセンス、ありえないわ。それとも健忘症が進行したのかしら? 英国の『滞空回線』は一つ残らず消滅したと、お前もあの日聞いていたでしょう」
そう、ありえない。
百歩譲って万が一、アレイスター=クロウリーがいまだ生きながらえていたとする。
その万が一の可能性を追うためだけに、ローラは命数遠からず尽きる残りの生涯を捧げると決めていた。
しかしこの会場に来ている、などということだけは物理的にありえない。
インデックスの父親役は上条刀夜一人いればそれで十分だ。
ローラは鼻を鳴らした。
反論があるなら言ってみろとばかりに、古木のごとく無数の皺をその身に刻んだ老爺を睨みつける。
腰の曲がった老翁――――マタイ=リースは年甲斐もなく、悪戯っぽく笑った。
「わかっていないなローラ。その方が、ロマンがあるじゃないか」
「御年八〇いくつを数える髪の毛の抜けきった爺様が、どの口でロマンなどとほざくのかしらね」
「それにだな。私も、叶うことならもう一度彼に会いたいのだよ。一月前は火急の事態だったから、ろくに時間もとれなかった」
「時間? 何のための時間かしら」
「決まってるだろう。『お嬢さんを私にください』、と頭を下げるための時間だ」
「なっ!?」
年甲斐もなく頬を真紅に染めたローラが、弾かれたように立ち上がった。
周囲の大混乱が幸いしたというべきか、その常にない痴態に注意を払う者は誰もいなかった。
「な、ななな、なにを馬鹿なことを言っているのかしらこのクソジジイは!?」
「はっはっは。こんな枯れ木のようなジジイでも、心はまだまだ彼らのように若いということだ。愛しているよ、ローラ。実を言えば私は、一目見たときから君の美しさに心奪われて」
「わーっ!! わーわーわーっ!!!! 黙れ黙りなさい黙らっしゃいこのお馬鹿マタイぃぃぃ!!!」
注意を払う“者”は誰もいない。
ただ不幸なことに、ローラは己の立ち位置を失念していた。
「んんっ!? ま、眩し……」
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尋常でなく巨大なシャッター音が、礼拝堂の後方マスコミスペースからすべての乱痴気騒ぎを掻き消すように鳴った。
大量のフラッシュの発生源とローラの現在地点を結んだ、その延長上。
「ああもう、なんで僕らは最後の最後までこうなんだ!」
「あ、あはは……あ、後でヨハネにはきつく言っておくから、許し」
「許せるわけあるかぁぁぁっ!! くそ、もうこうなったらヤケだ、愛してるぞインデックス!」
「ええ!? できれば私としてはもう少ししめやかなムードを要求したかったところかも!?」
「やかましい!」
数十人がかりで、よってたかって取り押さえられた形の新郎新婦。
主役のはずの二人がもみくちゃにされて、しかしそれでも固く抱き合って離れない、テレビマン垂涎のワンシーン。
「それでは誓いの口づけを」
「ひゅーひゅー!」
「よっ、やれやれ!」
「やかましいわぁぁっっ!!」
立ち尽くすローラ=ザザの目前で、無数の仲間に囲まれて、幸せを掴んだ男女は――――
我が愛する娘たちの先行きに、どうか幸あらんことを
――――今度こそ、一つになった。
ローラ=ザザはその翌日、ロンドンタイムズの一面を大々的に飾る写真の、隅の隅に小さく写り込むことになる。
粗い紙質と本来の被写体の華やかさゆえに、彼女がそこにいたことさえ大半の者の目には留まらなかった。
彼女がその瞬間、開け放たれた天窓に向けて、涙を湛えて腹を立てたように笑っていたこと。
それは写真の中央で笑う男女さえも知らない、ローラとすぐ側にいた老人の胸にだけ仕舞われた、ささやかな秘密だった。
――――END