開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
開かない扉の前で【#09】¬[Jerusalem] S
開かない扉の前で【#10】◆[Lima] A/b
開かない扉の前で【#11】∴[Dorian Gray] K/b
開かない扉の前で【#12】◆[Rapunzel] A/b
開かない扉の前で【#13】◇[Monte-Cristo] R/b
開かない扉の前で【#14】∴[Cheshire Cat] K/a
◇[Nightingale]
僕はそれを眺めている。
誰かが、沢村の体を突き飛ばし、馬乗りになって彼を抑えつけている場面を見ている。
ただ見ている。
景色はざらつき、歪み、音は遠くなりはじめていた。
僕の意識はどこか遠いところへとさらわれつつある。
やがて、断線するように、ぷつんと視界が途切れた。
真っ暗な景色の中、最後に聴こえたのは甲高い鳥の声だった。
――わたしは、待ってる。
鳥の声。
神さまの言いつけを破った男は、怪魚に呑まれてしまう。
作り物の小夜啼鳥に心を委ね、本当の小夜啼鳥を軽んじた王様は病に伏す。
不意に、僕は光のない真っ暗な場所に立っている自分を発見した。
光源なんてひとつもないのに、自分の体だけが確かに見える。ほのかに光っているみたいに思えた。
僕の目の前を、二人の少女が通り過ぎていく。追いかけっこをしているみたいだった。
彼女たちの笑い声は僕の耳には届かない。片方はいつまでももう片方に手を伸ばして、もう片方はいつまでも片方から逃げ続けている。
ここまでおいで。
彼女たちの姿が暗闇に飲み込まれて見えなくなる。
僕の体に宿った光が、不意に足元から広がっていく。
やがて景色は、暗闇ではなくなった。
そこに広がっているのは、鏡の迷路だった。
鏡、鏡、鏡。奥行きも広さも、とても分からない。
足元には砕けた何かの破片がある。
僕はここに至るまでの道筋を思い出そうとする。
始まり。すみれに誘われて黒いドラッグスターに乗って街を駆け抜けたときのこと。
碓氷遼一と生見小夜の姿を見たあのときのこと。
篠目あさひの夢の話を聞かされて、あっさりと信じたときのこと。
碓氷遼一と顔を合わせたときのこと。
沢村翔太と話をしたときのこと。
碓氷遼一を刺したときのこと。
すみれ。
すみれは、どこに行ってしまったんだろう。
心の底から笑える場所が、きっとどこかにあるはずだと、僕を誘った女の子。
でも、僕にはもう分かっていた。
自分で自分を肯定できないなら、どこにいっても幸福になれはしないだろう。
どこにいっても、心の底から笑えやしないだろう。
そして今、僕は僕自身を肯定できない。
心の底から笑うことなんて、できやしない。
幸せになんて、なれやしない。
でも、もうそんな段階じゃない。
ミラーハウスの鏡が砕けていく、そんなイメージが流れ込んでくる。
鏡の破片のひとつひとつに、僕が出会った人々の顔があった。
愛奈、穂海、すみれ、あさひ、ざくろ、沢村、碓氷遼一、名前も知らない誰か。
そのどれもが音を立てて床に落ちて砕けていく。僕はただその様子を眺めている。
鳥の声はまだ聴こえている。
僕の体は何かどろりとした液体の中へと沈んでいく。
さっきまで見えていた景色は既になくなり、僕を今まで運んでいた奇妙な力ももう失われている。
そんな気がする。
僕は深いところへ落ちていく。
光のないところ、暗い海の場所のようなところ。
僕の意識は曖昧になり、思考は脈絡を失い始めた。
まず言葉が、
次に声が、
最後に音がなくなった。
ふとした瞬間まばたきをして、目を開けたら、僕の目に飛び込んできたのは、ひとつの扉だった。
どうして突然、目が覚めるように体の感覚を取り戻したのか、
思考が正常さを取り戻したのか、そんなことは僕には分からない。
問題は、目の前に扉があり、その背景は真っ黒だということだった。
ただ、空間に浮かび上がるように扉だけがそこにある。
交差点で見た光景。
僕を、彼が助けていた場面。
別に、僕を許したから助けたわけではないだろう。
彼はただ、僕が死んでしまったら悲しむ人がいるから、僕を助けたに過ぎない。
僕のためじゃない。
それでも僕は、その景色に従うことにした。
もう、この扉の先に何が待っていたとしても、その景色に従おう。
今の僕にできるのは、ただそれだけのことに思えた。
いったいどこに連れて行かれるかは分からない。
拍子抜けするような場所かもしれない。
また暗闇の中なのかも。
それでもかまわないと思った。
僕は、今までだってずっと流されていただけだし、これからだってそうしていくだけだ。
◇
ふと目を開くと、僕はあのミラーハウスの前に建っていた。
東の空に太陽が浮かんでいる。
朝が来たのだと僕は思った。
◇
僕は、もといた世界に戻っていた。
すみれと旅に出る前にいた、あの当たり前の日常の世界に。
僕があちらに行っている内に、こちらでは二週間が経っていた。
家に帰り着いた僕を迎えたのは両親と愛奈で、愛奈は泣きながら僕に抱きついてきた。
僕に何も言わなかったし、僕に何も求めなかった。ただ何も言わずに帰ってきた僕に抱きついてなかなか離してくれなかったのだ。
彼女が胸の内側に溜め込んでいるわがままのことを僕は思う。
こんな顔をさせたのが自分自身なのだと思う。
その上で僕は謝らなかった。
それはエゴだという気がしたのだ。
◇
まずは家族に、次に警察に、それから学校に、バイト先に、それぞれ事情を聞かれた。
二週間ものあいだ、いったいどこで何をしていたのかというのだ。
僕はそのすべての問いに、何も覚えていない、と答えた。
本当のことを話しても信じてもらえるとは思えなかったし、当人が覚えていないと言ってしまえばそれ以上追及もできないだろう。
実際、僕はあれから今までの間に過ごしたあの時間のことを、もはや現実のようには思えなくなっていた。
あれは悪夢のようなものだったのではないか。でも、それでも僕はたしかに僕自身を刺したのだ。
記憶にあるかぎり、それは事実なのだろう。
バイト先の上司は無断欠勤を咎めてしばらく腹を立てていた。どうやら家出でもして遊んでいたものと思われているようだ。
僕はべつに言い訳しなかったし、聞き流すことに決めていた。そんなことにかかずらって消耗している場合じゃなかった。
さいわい、学校では交友関係の狭さが幸いして、僕に何かを訊ねるような相手は二人しかいなかった。
ひとりは狭間まひる。
「怪しいなあ」と、いつものようにどうでもよさそうな顔で追求してきたが、僕は相手にしなかった。
彼女はいつものように、たまには部活に出てね、部誌の原稿を出してね、と、決まり文句のような言葉を吐いていなくなった。
もうひとりは篠目あさひだった。
「ひょっとして行ったの」と彼女は言った。その話し方が、向こうのあさひとどこか違うような気がして、僕は不思議に思う。
「どこに?」と僕は訊ねた。
「遊園地」
相変わらずの説明を省いた喋り方が、かえって僕を安堵させた。
「そうだね」とだけ、僕は答えた。他のことは一切喋らなかった。
そのようにして僕は以前のような僕の――意味もなく価値もなく欲望もない――日々を取り戻した。
思えば思うほど、夢のような体験だったと思う。
でも、夢ではない。
沢村翔太は、この世界にはいなくなっていた。
何よりも恐ろしいのは、誰も彼のことを気に留めていないということだった。
◇
隣町で殺人があったとの報道が、連日ワイドショーを賑わせていた。
死んでいたのは四十代の男性で、二人の娘と暮らしていたという。
誰かに刺されていたらしい、と言っていた。
職場の人間は、二日ほど前から連絡がつかず、不審に思って自宅を訊ねたときに死体を見つけたのだという。
不思議なことに、二人の娘についても行方が知れない。
姉の方は学校にもあまり顔を出さず、ときどきバイクに乗って帰ってこないこともあった、と近所の人間が訳知り顔で言っていた。
いまだ行方不明のままの二人の少女を、警察は目下捜索中だという。
おそらく、見つかることはないだろう、と僕は思う。
◇
周囲は、僕のことを腫れ物かなにかのように扱った。
家族は家出だったんじゃないかと疑っていたし、バイト先の人はあまり具体的な話を聞きたがらなかった。
学校ではもともと腫れ物扱いだ。
部活に顔を出すと、部長にしつこくあれこれ聞かれるんじゃないかと思ったが、そうはならず、むしろ他の生徒の視線の方が疎ましかった。
妙な噂が流れているらしいということだけは分かったが、その詳しい内容を教えてくれる宛もない。
僕はイヤフォンをつけてMDを流し、学校での時間を受け流し続けた。
以前と同じ生活だ。
僕は、僕自身を刺したとき、この日常へと帰ってくることを諦めた。
それなのに、今、ここで当たり前に生活している。
何もかもが嘘だったみたいに。
◇
久し振りに部室に顔を出すと、相変わらず物静かそうな部員たちがこそこそと何かを話していた。
僕は自分の定位置に腰掛け、本を広げた。
二週間。二週間学校に来なかったからといって、変わったことなんてほとんどなかった。
テレビや新聞はさまざまなことをやたらと喚いていたけれど、僕にはそれが実感を伴って迫っては来ない。
今目の前にあること、今僕が過ごしている場所。
そのすべてがなんだか嘘みたいに思える。
定位置に腰かけて本を開こうとしたところで、部長に話しかけられた。
「調子はどう?」
「……特に、変わりないです」
彼女は、相変わらずの妙な笑みをたたえたまま、僕の隣に椅子を持ってきて座った。
「なんだか、落ち込んでるみたいに見えるよ」
「そんなことは、ないです」
「そうかなあ」
「そのはずです」
「はず、か」
部長はくすくす笑った。
「おかしいですか?」
「碓氷くんは、相変わらずおもしろいね」
どこか、おかしかっただろうか。僕にはよく分からなかった。
「はず……うん。はず、ね」
部長はそう何度か繰り返すと、おかしそうに笑った。
「そんなにおかしいですか?」
「そういうわけじゃないんだけど、ちょっと弟に似てたから」
「……部長、弟さんいたんですか?」
「うん。死んじゃったけどね」
◇
部室のドアがノックされたのはその会話の少しあとのことだった。
扉を開けて入って来たのは小夜だった。
彼女は部室の中を見渡して、僕の姿を見つけるとすぐに近付いてくる。
「ちょっといいかな」
いくらかためらいがちな様子で、それでも彼女は僕の方をまっすぐに見ていた。
どこか懐かしい、澄んだ瞳。
いつも思っていた。
この子の目はどうしてこんなに穏やかに見えるんだろう、と。
彼女に言われるがままについていくと、向かった先は屋上に至る階段だった。
昇りきると、屋上に向かう扉がある。
けれど、その扉は開かない。鍵が閉まっているのだ。
彼女はその扉の手前、一番上の段に、敷いたように積もった埃を気にすることもなく座り込んだ。
「とりあえず、座ったら」
彼女がそう言うので、僕は仕方なく隣に腰を下ろした。
直接話すのは久し振りだというのに、以前よりもすんなりと彼女と一緒にいられるような気がする。
いろいろあったせいで、僕の中にあった妙なものがうまく機能していないのかもしれない。
それでも戸惑っていないわけではなかった。どうして、急に声をかけられたりするんだろう。
彼女の表情が少しこわばっているのが、頭の中で、向こうで見た彼女のそれと勝手に比較される。
僕は、あんなふうにこの子を笑わせることができない。
「聞きたかったの」と、振り絞るように小夜が言った。
「でも、何から聞けばいいのか分からない。難しくて。何を言えばいいのかも、ずっと考えてたんだけど」
でも、でもね。
「心配した。帰ってこないんじゃないかって、心配、したよ」
僕は言葉を失った。
そんな言葉を言われるなんて、想像もしていなかった。
そんな言葉を僕に言うのは間違ってるって、ふさわしくないって、そう言おうと思って――やめた。
それは、きっと僕が決められることではないんだろう。
「ごめん。今まで、ずっと、何も言ってこなかったのに、突然こんなの、変だよね」
何も言えない僕に、彼女は言葉を続ける。
堰き止めていたものが溢れ出るみたいに。
「ね、遼ちゃん。いったい何に巻き込まれてきたの? 神様と同じくらいの力って、いったいなに?」
「……どこで、それを言われたの」
「教えてくれた人がいたの。いつのまにか、いなくなっちゃったけど」
「……そっか」
「そういえば……」
何かを思い出したように彼女は顔をあげて、それから、言いづらそうに口を歪ませた。
「……ね、何か、声が聴こえたりした?」
「声?」
「聴こえなかったなら、べつに、いいんだけど……」
声。
小夜には、全部話すべきかもしれない。僕がしたこと、僕が見たこと、僕が行った場所。
信じてもらえないだろう。それでも、すべてを語るべきだという気がした。
僕が、逃げ出したことを。
「少し、長い話になると思う」
「……うん。大丈夫」
「声は……たぶん、聴こえたと思う」
小夜は、その言葉に、安心とも動揺ともつかない、不思議な表情を浮かべた。
「そっか。……聴こえたんだ」
それから僕は、長い、長い話をした。
僕が、人を刺すまでの話を。
話を終えた僕の膝に、彼女は静かに手を置いた。
どうしてそんなことになるのか分からなかった。
「ごめんね」と、それでも小夜はやっぱり謝るのだ。
「どうして、謝るの?」
「気付けなかった」
まるで、自分に責任の一端があるかのような顔をする。
彼女は――僕の一部を引き受けているみたいな顔を、する。
「どうして、怒らないの」
「……」
「どうして、責めないの」
「……」
「僕は、きっともう……」
「ね、遼ちゃん。昔、遼ちゃんが話してくれたお話、覚えてる?」
「……話?」
「うん。神さまの命令に逆らって、大きな魚に食べられた預言者のお話」
ヨナ書。怪魚に呑まれた男の話。それをいつか、小夜に話したことがあっただろうか。
「あのお話の終わりを覚えてる? どうして、悪いことばかりをする街を、神さまが裁かなかったのか、って」
「……」
「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」
「……」
「ねえ、遼ちゃん。遼ちゃんがしたことが、たとえ許されないことだったとしても、だから嫌いになったりなんて、できないよ。
遼ちゃんもきっとそうでしょう? 愛奈ちゃんが誰かを傷つけたって、きっとあの子と一緒にいるでしょう?
正しさなんて……きっと、無視できないにしても、いちばん大切なものじゃないんだよ」
小夜啼鳥の童話の終わり。
それを突然に思い出す。
あの話の最後、病に伏せた王のもとに、本物の小夜啼鳥が姿をあらわすのだ。
変わらぬ美しい声で歌うと、鳥は、ふたたび窓辺を去っていく。
細工鳥もよく働いたから壊してはいけないと王を諌め、自分のことを誰にも秘めるべきだと助言をして、
また歌いにやってくると約束を残して。
その歌声で、王の病は癒える。
そして、彼の亡骸を拝むつもりでやってきた家来たちに、顔を上げてこう言う。
――みなのもの、おはよう。
ああ、そうだ。
眠りから覚める。朝が来る。そこで物語が終わったんだ。
そこは美しい世界じゃない。何もかもが平等な世界でもない。
小夜啼鳥は歌う。幸福な人のこと、不幸な人のこと、貧しい漁師や百姓のこと、王の王冠ではなく心のことを歌う。
完璧な世界ではない。小夜啼鳥は、その世界のあるがままを歌う。
劇的な許しもなく、圧倒的な平和もなく、何もかもが満たされる結末ではなく、ただ王は、ありふれた日常へと帰っていく。
複雑で不平等な、この世界。心の底から笑える場所なんて、きっと、この世界のどこにもない。
きっと、僕が生きるべき場所も、そんなふうに、何もかもを簡単に割り切ってしまうことのできない、この日常なのだろう。
けれど今は、単純に、小夜の声が、言葉が、嬉しくて、それだけで何かを取り戻せたような気がした。
「ねえ、遼ちゃん――もう、ひとりで抱え込まないでよ」
僕は、思わず両手で顔を抑えてしまった。
返事さえ、うまくできない。
「わたし、ここにいたよ。遼ちゃんが、話してくれるの、相談してくれるの、ずっと待ってた。
待ってただけ、だったけど、でも、そばにいたんだよ」
膝の上にのせられた手のひらに、ほんの少し力がこもった気がした。
「わたし、遼ちゃんのこと、ずっと、待ってたんだよ」
僕は、うつむいたまま、小夜の言葉を噛み締めながら、同時に背後にある扉のことを考えた。
屋上へ出る扉。決して開かない扉。僕はその先の景色を知ることができない。
そこにあるもの、ないもの、決して知ることができない。
たとえばその先にはざくろやすみれがいて、あるいは愛奈やあの男の子がいるのかもしれない。
僕はおそらく、不釣り合いに恵まれている。
同じことをした誰かより、おそろしいくらいに恵まれている。
それを、受け取ってもいいのだろうか。
僕はそれにふさわしいだけのことをしてきたのだろうか。
“あなたの欲望のなかに、"あなた"はいない。"誰か"の欲望のなかにしか、"あなた"はいない。"あなた"の欲望の中にも、"誰か"はいない。それって、悲しいことだよね”
僕は――。
「小夜」と、その音が、自分の口から出るのを、久し振りに聴いた気がする。
「一緒に居て欲しい」
「……うん」
「もう、ひとりじゃ無理なんだ」
「……うん」
「わけが、わからなくなって、もう、どうしようもない。だから……」
「――愛奈ちゃんを、守ろうとしてたんだよね」
「……違う、僕は」
「違わないよ。……大丈夫だよ、遼ちゃん」
「……」
「遼ちゃんが愛奈ちゃんを守るなら、わたしが遼ちゃんを守るから」
彼女の指先が、僕の頬にかすかに触れた。自分の手のひらで抑えているせいで、その姿が全然見えなかった。
触れられるまで気付けなかった。
「やっと、話してくれたね」
僕の手を、彼女は僕の目から引き剥がす。
泣き顔を見られるのも、相手が小夜なら、仕方ないことだと自然に思えた。
◇
僕が戻ってきて数日が経った頃、母さんがひそかに教えてくれた。
僕がいない、その間に、姉さんがこの家を訪れたという。
ただでさえ僕がいなくなって気を揉んでいた――であろう――母さんに、姉さんが言ったことは、母さんの感情を烈しく揺さぶった。
戸籍を移したい、と姉は言ったのだ。
どういうこと、と母は訊ねた。
いいかげんはっきりさせたほうが、母さんも楽でしょう、と姉は言う。
わたしが楽かどうかの問題じゃないわよね、と母さんが言った。
そこでわたしの責任にしようとしないで。どうしてそんなことを言い出したの?
姉は答えなかった。
結局その日はそれ以上話をしなかったという。
突き詰めて言えば、それは金の話だった。
専業主婦として穂海を育てている姉は、夫の収入を頼りにして生活している。
夫の方が、一緒に暮らしているわけでもない他の男の子供に金を出すのを渋っているのだろうと母は推測していた。
それがアタリだろうと僕も思った。
学校からの集金が遅れるようになってからしばらく経つ。
ついには、口座に金が入っていないから給食費の引き落としができないと通知まで来ていた。
両親に、娘の食費や衣料品代を出したという話もまったく聞かない。
そして、弟である僕が行方不明になっていたときでさえ、両親にそんな話をしたわけだ。
ここまで来ると、なんだかよく分からない。
姉のことを悪い人間だと思ったことは一度だってない。
根っからの悪人だと思ったことなんて、一度だってない。
一度だって、ない。
それでも、もう、そういう問題ではないのだ。
正しいとか、悪いとか、そういうことではなく、僕たちは、それでもこの日々を生き延びていくしかない。
この日常を、やり過ごしていくしかない。
◇
その日から、僕と小夜はふたりで帰るようになった。
べつに、それで何が変わるというわけではない。
何かが解決するというのでもない。ただ、何気ない話をして、一緒に歩くだけのことだ。
久し振りに話してみると、どうやら互いが互いにそれぞれの様子を窺っていたのだと分かってバカバカしくなった。
もっと早く話していればよかった、と小夜は言った。僕は、あまりそうは思わない。
今ある結果に、そんなに不満は抱いていない。それに、贅沢は言えない。
この結果だけでも、僕には十二分だ。
ある日、校門の手前で、篠目あさひに呼び止められた。
「どうしたの」と訊ねると、彼女は少し不思議そうな顔をした。
「前と違う」
「何が」
「顔」
「……まあ、いろいろあったから」
「そう」
「……何か、あったんじゃないの?」
「うん。沢村翔太のこと」
「……沢村?」
「もう、心配しなくていい」
僕には、その言葉の意味がよくわからなかった。
行方知らずになった沢村が、帰ってきた、という意味だろうか。
でも、沢村が、こっちに戻ってくるなんて、僕には思えない。それに、それを篠目が僕に話す理由も分からない。
「……妙な夢でも見た?」
「ううん。しばらく見てない。だから大丈夫」
篠目の言うことは、やはり、よくわからない。
「わかった。ありがとう」
とにかくそう伝えると、彼女は何も言わずに僕に背中を向けた。僕もまた、もう彼女に用はないと思った。
「それじゃあね、遼一」
何気なく、その声を聞き流して、
驚いて振り返った瞬間には、篠目あさひの背中はどこにもなかった。
遼一、と、僕を呼ぶのは。
その彼女が、“沢村のことは心配しなくてもいい”ということは……。
「……遼ちゃん?」
隣にいた小夜が、心配そうに僕を見上げているのに気付く。
僕は、それ以上深くは考えないことにした。
すみれのこと、ざくろのこと、気にならないわけではない。
でも、きっと、いくら考えたって、もう分からない。
◇
終わりかけの夏はいつのまにか過ぎ去って、季節は秋に変わり、けれどまだ、紅葉の見える季節にはなっていない。
やがて、景色はまた移り変わっていくだろう。
僕は通い慣れた道を小夜と一緒に歩いている。
それだけのことで、以前より、心がいくらかマシになっている。
けれど、問題はここからだ。
僕が見過ごしてきた欲望。
僕が軽んじてきた僕の言葉。
それを拾い上げてもらった。
僕がしてしまったもの、僕が軽んじてきたもの、僕が大切にしたいもの。
それと、向き合っていかなければいけない。
守ったり、守られたりしながら。このからっぽの僕自身を、誰かにふさわしいように、少しでもマシにしていきながら。
小夜と別れ、僕は自分の家の扉の前に立つ。
そのあたりまえの日常の空間に、向かっていく。
扉を開ける。
「ただいま」と僕は言う。
少しして、とたとたと、軽い足音が聴こえてくる。
リビングの扉から、愛奈が半身を覗かせて笑った。
「――おかえりなさい!」
続き
開かない扉の前で【#16】

