開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
開かない扉の前で【#09】¬[Jerusalem] S
開かない扉の前で【#10】◆[Lima] A/b
開かない扉の前で【#11】∴[Dorian Gray] K/b
開かない扉の前で【#12】◆[Rapunzel] A/b
開かない扉の前で【#13】◇[Monte-Cristo] R/b

940 : 以下、名... - 2017/11/28 01:09:15.76 OSRTiBSYo 776/820


∴[Cheshire Cat]K/a


 おそらくは、夢のような光景だ。

 俺は、その光景の中で、愛奈を眺めている。

 愛奈の隣には、俺ではない誰かがいる。
 俺ではない誰かの隣で、愛奈は笑っている。

 そんな光景を見た。

 そこに俺はいない。

 愛奈の笑顔に、俺は必要とされていない。

 俺が居なくても、きっと、愛奈は生きるだろう。
 それは、愛奈がいなくても俺が生きるのとパラレルだ。

 それはきっと、愛奈が見た世界。
 あるいは、碓氷遼一が見た世界。

 自分なんかいなくても、世界は平気で回ると、そんな当たり前のことを、まざまざと見せつけるだけの景色。

 それは、当たり前で、どこにでもある景色で、でも、
 当たり前のことを、どこにでもあるものを、それでも悲しいと思うのは、いけないことだろうか。


941 : 以下、名... - 2017/11/28 01:10:11.13 OSRTiBSYo 777/820


◇ 


 広場の中央近くに花壇があった。

 花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
 
 花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
 
 花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。

"ざくろ"だ。

 枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。

 夜の景色は、さながら"星月夜"。
 種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。

 そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。

 その壁には扉があり、木の枝に覆われている。
 そのなかに秘められたように、ひとりの女の子が、磔のように吊るし上げられている。
 からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。

 それが誰だか、俺は知っている。

"ざくろ"だ。

 彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している。


942 : 以下、名... - 2017/11/28 01:11:35.16 OSRTiBSYo 778/820


 どうして俺は、こんなところにいるんだ?
 俺は、愛奈と一緒に、帰ろうとしていた。もうすぐ、階段を昇りきり、扉を過ぎ去るはずだった。

 それが、どうして今、こんな場所にいる?

 からたちの枝にとらわれたざくろは、何も言わない。

 彼女の声は、背後から聞こえた。

「おはよう」と彼女は言う。

 振り返ると、そこに黒衣のざくろがいる。

 広場の中央、ざくろの木の下に彼女はいる。

 ここは、と訊ねることは無駄だという気がした。

 どうして、と問いかけることも、同じように。

「あなたに、選ばせてあげようと思うの」

 ざくろは、俺の方をまっすぐに見ている。
 
「何を?」

「あなたを、これからある地点に連れて行こうと思う。そこであなたには、選択権が与えられる」

「ある地点……」


943 : 以下、名... - 2017/11/28 01:12:02.97 OSRTiBSYo 779/820


「それを話さないと、フェアじゃないね」

 ざくろはそう言って笑う。

「これからあなたが見る景色で、あなたは何かをすることもできるし、しないこともできる。
 何もしなければ、あなたは、今のまま、そのままでいられる。でも、何かしてしまえば、あなたは……
 今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない」

「……」

 言葉の意味を、測りかねる。頭はまだ、うまく働かない。

 彼女の言っている意味が、よくわからない。
 
 言葉通りの意味だとしたら、俺がそこで、何かをする理由がないような気がする。
 何かしたら消えて、何もしなければ消えずに済むのなら。

「すぐに連れていく」と彼女は言った。

「目を、少し、瞑ってくれる?」

「ひとつ、いいか」

「なに?」

「それが済んだら、俺はもとの場所に帰れるのか?」

「……あなたがそれを選びさえすればね」

 そして俺は目を瞑る。

(――鳥の声が聴こえる)


944 : 以下、名... - 2017/11/28 01:12:30.30 OSRTiBSYo 780/820





 そして、俺は、ここに立っている。

 交差点の前、横断歩道の傍、
 道路の向こう側に、誰かが立っている。

 それは、碓氷遼一の姿に見える。

 彼はただ、ぼんやりと、視線をこちらに向けている。

 俺は、不意に気付く。
 
 自分の斜め前に、ふたりの男がいる。

 片方は、煙草に火をつけて、立っている。二十代半ば頃の、男だろうか。
 その横顔、それは、碓氷遼一のそれに似ている。

 あるいは、そのもののように見える。

 その後ろに立っている誰かは、彼の様子をうかがっている。

 ヘッドライトの光がちらついている。向こうから車がやってきている。

 不意に、音が止まった。

「ここは、碓氷遼一が死ぬ地点」

 とざくろの声が聞こえた。

 一切は音を失っている。彼女の声だけが聴こえる。
 時間が止まっているみたいだった。いや、その通りなのだろう。

「背中を突き飛ばそうとしているの」とざくろが言う。

 俺は、斜め前に立つふたりの男を眺める。

「あなたは、これから起きることを、変えられるかもしれない」

 でも、よく考えてね、と彼女は言う。

「何が起きるかを、よく考えてね」


945 : 以下、名... - 2017/11/28 01:13:50.47 OSRTiBSYo 781/820


 一台目の車が通り過ぎる。
 世界が音を取り戻し、時間が当たり前に流れる。

"これから起きること"。

"突き飛ばそうとしている"。

"死ぬ地点"。

 突き飛ばされることで、碓氷遼一は死ぬ、ということか。

 それは、つまり、突き飛ばされなければ、碓氷遼一は死なないかもしれない、ということか。

 向こうにいる碓氷遼一は、それを眺めている。
 信号は赤だ。
 彼はそうすることしかできない位置に放り込まれた。

 俺は?

 俺は、俺は……こちらにいる。手の届く距離にいる。

 だとすれば。

 俺がここで、"何かを"すれば、碓氷遼一は死なない。

"あなたには選択権が与えられる"とざくろは言った。

 信号はまだ赤のままだ。


946 : 以下、名... - 2017/11/28 01:14:16.22 OSRTiBSYo 782/820


 碓氷遼一が死ななければ、どうなる?

 愛奈は、泣かずに済むだろうか。
 少なくとも、あんなに、自分を責めたりせずに済むんじゃないか。

 時間さえあれば、碓氷遼一と話し合い、わかり合うことができたんじゃないか。

 そう考えれば、俺が取るべき選択なんて、決まっているような気がする。

 ――けれど。

"でも、何かしてしまえば、あなたは……今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。

 消える?

 それって、どういう意味だろう。
 
 頭をよぎるのは、親殺しのパラドックス。

 ここで、碓氷遼一を助けてしまえば、
 愛奈は俺と向こうの世界に行くことなんてなくなり、
 そこであったなにもかもがなかったことになり、
 俺も、こんなところに迷い込まないことになる。
 そして、ここにいる俺がいなくなってしまえば、碓氷遼一を助けるものもいなくなる。

 そうなれば碓氷遼一は死んでしまい、
 そこから先の何もかもがなかったことになり、
 愛奈は俺と向こうの世界に行くことになる。

 そして俺はここでまた碓氷遼一を、助けるか助けないか、選ぶことになるかもしれない。

 それって、どういうことだろう?

"今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。

 ざくろを見れば、その結論は出るかもしれない。

 彼女が時間を無制限に行き交うこともできるように、俺もまたそういう存在になるのかもしれない。
 永遠に、時間の檻のなかに閉じ込められ、そこから脱することができなくなるのかも。

 あるいは、そんなことすらなく、ただ未来だけを変えて、今ここにいる俺だけが消え失せてしまうのかもしれない。


947 : 以下、名... - 2017/11/28 01:14:45.33 OSRTiBSYo 783/820


 もっとシンプルに考えよう。

 ここで俺が何かをすれば、その時点から過ごしたすべてがなくなってしまう。
 これから生まれる命、これから死んでいく命、これから付けられる傷、これから癒えていく傷。
 そのすべてが、なかったことになり、世界はバタフライエフェクト的に変化していく。

 初期値鋭敏性。

 それが愛奈を消したように、俺がここで何かをすることで、誰かが消えてしまうかもしれない。

 誰かの未来を書き換えてまで、俺は愛奈の悲しみをいくらか軽くすることを選べるのか。

 いや、もっとシンプルに、だ。

 ここで俺が何かをすれば、
 愛奈と俺がさまよった数日間のすべてが、なかったことになってしまう。
 
 木々の遊歩道も、夜のコンビニも、何もかも。

 俺は、それを失えるだろうか?
 なくしてしまってかまわないと、思えるだろうか?


948 : 以下、名... - 2017/11/28 01:15:15.68 OSRTiBSYo 784/820


 起きてしまったことを、本当に変えられるのか?
 そんなのありえない、とも思う。けれど、ざくろなら、ざくろだったなら。
 
 彼女なら、できてしまうかもしれない。この俺が消え失せて、愛奈が悲しまない未来を、作れるかもしれない。

 逆から、考えてみよう。

 ここで俺が何もしなければ、碓氷遼一は死ぬ。
 ざくろの言葉を信じるなら、それなら俺は、このまま存在し続けられる。
 そして、元いた場所、愛奈がいる場所に、帰ることができる。
 
 ……けれど、碓氷遼一を見殺しにしたその後に、俺は愛奈と一緒にいられるだろうか?
 それを、俺自身は許せるだろうか?

 いつのまにか、また、音が消えている。

 ざくろが、傍らに立っている。

「……おまえは、いったい何なんだ?」

 そう問いかけずにはいられなかった。

「こんなの、どこに選択権があるっていうんだ。どっちを選んだって、ろくな結果にならない」

 ざくろは、俺の姿を笑っている。楽しんでいる。

「おまえは、いったい、何がしたいんだ? どうして、俺をここに連れてきたんだ?」

「あなたが、いちばん、まともなままだったから」

 ざくろは、そう言った。

「まともな人は、苛立たしい」

 吐き捨てるような彼女の言葉を、俺は聞いた。
 悲しそうな目をしている。そんな場違いな印象を覚える。

「もっと傷ついて。わたしは、それを見たいの」

 何がどう狂ったら、ひとりの少女が、こんな姿になるっていうんだろう。
 こんな、神様みたいな姿に。



949 : 以下、名... - 2017/11/28 01:15:43.45 OSRTiBSYo 785/820


 うんざりだ。
 何が正しいとか、間違ってるとか、裁くとか裁かれるとか、痛みとか、何の話なのか、さっぱり分からない。

 俺はここに立っていて、生きていて、
 人が死ぬ姿は見たくない。
 誰かが悲しむ姿も見たくない。

 誰かを好きになったりする。
 誰かを憎んだりする。

 ただそれだけのことじゃないのか。

 それだけで十分じゃないのか。

 ……違うのか?

 不意に音が聴こえる。
 エンジン音が近付いてくる。
  
 歩行者信号が点滅する。

 車のヘッドライトが近付いてくる。
 
 斜め前の男が手を伸ばした。

 きっと一瞬の出来事。
 それがスローモーションに見える。

 誰かを突き飛ばそうとする手。

 選択権が与えられている。
 選択権?

 選択権――。

 ――生まれてこないほうが、よかったのかな。

 俺は、


950 : 以下、名... - 2017/11/28 01:16:28.12 OSRTiBSYo 786/820


◆(K/c)



 突き飛ばそうとする誰かを、気付けば組み敷いていた。

 車はブレーキすら踏まずに通り過ぎていく。

 横断歩道の信号が青になった。 

 誰もが呆然としている。

 俺に抑えつけられた誰かも、音に驚いて振り向いたこちらの碓氷遼一も、
 あちらで眺めているしかなかった碓氷遼一も、俺自身でさえも。

 頭で考えたことなんて、そんなに多くない。

 でも、嫌だった。

 目の前で、大事な人の大事な人が死ぬのも、誰かを見殺しにして生き延びるのも、
 そんなふうに生きていく自分も、嫌だった。

 子供のわがままのような感情だとわかっている。

 理屈なんてあったもんじゃない。

 それでも、どうして、どうして俺が“そんなこと”に巻き込まれなきゃいけないんだ。
 誰かが死ぬとか、殺されるとか、どうしてなのか知らない、わからない。そんなの、俺には関係ない。

 どうしてそんなものを強いられなければいけない?

 俺はただ、もっとシンプルに生きていたいだけだ。
 小難しい利害なんて、向いていない。
 正しいとか、間違っているとか、そんなものに振り回されたくない。
 
 この結果が、より悪い結果を引き連れてきたとしても、俺は、こうするしかにあ。

 たとえ、こうしたことで俺自身が消えてしまっても、愛奈と一緒にいられなくなっても、
 こうしなかった俺のまま愛奈と一緒にいるよりは、ずっと愛奈の方を向いていられる気がする。
 
 会えなくなったとしても。
 
 あの木々の遊歩道、夜のコンビニ。
 それはたしかにあったことだ。

 俺は、それを知っている。

 たとえ、消えてしまったとしても。
 
 ――存在するのとは違う形で、傍にいる。
 
 たくさんの言葉が、声が、音が、景色が、急に胸をいっぱいにして、
 気付けば俺は泣いていた。


951 : 以下、名... - 2017/11/28 01:18:40.43 OSRTiBSYo 787/820





「残念ね」と声がする。


「お別れね」と声が言う。


 お別れ。

 お別れだ、と俺は思う。


952 : 以下、名... - 2017/11/28 01:19:18.80 OSRTiBSYo 788/820





「ケイくんは……灯台みたいだね」

「……灯台?」

「うん」

「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」

「どうして?」

 身動きがとれない。
 迎えにも行けない。

 彼女のところに行くことができない。

 ――お別れだ。




続き
開かない扉の前で【#15】


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