開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
開かない扉の前で【#09】¬[Jerusalem] S
開かない扉の前で【#10】◆[Lima] A/b
開かない扉の前で【#11】∴[Dorian Gray] K/b
開かない扉の前で【#12】◆[Rapunzel] A/b
開かない扉の前で【#13】◇[Monte-Cristo] R/b
∴[Cheshire Cat]K/a
おそらくは、夢のような光景だ。
俺は、その光景の中で、愛奈を眺めている。
愛奈の隣には、俺ではない誰かがいる。
俺ではない誰かの隣で、愛奈は笑っている。
そんな光景を見た。
そこに俺はいない。
愛奈の笑顔に、俺は必要とされていない。
俺が居なくても、きっと、愛奈は生きるだろう。
それは、愛奈がいなくても俺が生きるのとパラレルだ。
それはきっと、愛奈が見た世界。
あるいは、碓氷遼一が見た世界。
自分なんかいなくても、世界は平気で回ると、そんな当たり前のことを、まざまざと見せつけるだけの景色。
それは、当たり前で、どこにでもある景色で、でも、
当たり前のことを、どこにでもあるものを、それでも悲しいと思うのは、いけないことだろうか。
◇
広場の中央近くに花壇があった。
花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。
"ざくろ"だ。
枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。
夜の景色は、さながら"星月夜"。
種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。
そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。
その壁には扉があり、木の枝に覆われている。
そのなかに秘められたように、ひとりの女の子が、磔のように吊るし上げられている。
からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。
それが誰だか、俺は知っている。
"ざくろ"だ。
彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している。
どうして俺は、こんなところにいるんだ?
俺は、愛奈と一緒に、帰ろうとしていた。もうすぐ、階段を昇りきり、扉を過ぎ去るはずだった。
それが、どうして今、こんな場所にいる?
からたちの枝にとらわれたざくろは、何も言わない。
彼女の声は、背後から聞こえた。
「おはよう」と彼女は言う。
振り返ると、そこに黒衣のざくろがいる。
広場の中央、ざくろの木の下に彼女はいる。
ここは、と訊ねることは無駄だという気がした。
どうして、と問いかけることも、同じように。
「あなたに、選ばせてあげようと思うの」
ざくろは、俺の方をまっすぐに見ている。
「何を?」
「あなたを、これからある地点に連れて行こうと思う。そこであなたには、選択権が与えられる」
「ある地点……」
「それを話さないと、フェアじゃないね」
ざくろはそう言って笑う。
「これからあなたが見る景色で、あなたは何かをすることもできるし、しないこともできる。
何もしなければ、あなたは、今のまま、そのままでいられる。でも、何かしてしまえば、あなたは……
今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない」
「……」
言葉の意味を、測りかねる。頭はまだ、うまく働かない。
彼女の言っている意味が、よくわからない。
言葉通りの意味だとしたら、俺がそこで、何かをする理由がないような気がする。
何かしたら消えて、何もしなければ消えずに済むのなら。
「すぐに連れていく」と彼女は言った。
「目を、少し、瞑ってくれる?」
「ひとつ、いいか」
「なに?」
「それが済んだら、俺はもとの場所に帰れるのか?」
「……あなたがそれを選びさえすればね」
そして俺は目を瞑る。
(――鳥の声が聴こえる)
◇
そして、俺は、ここに立っている。
交差点の前、横断歩道の傍、
道路の向こう側に、誰かが立っている。
それは、碓氷遼一の姿に見える。
彼はただ、ぼんやりと、視線をこちらに向けている。
俺は、不意に気付く。
自分の斜め前に、ふたりの男がいる。
片方は、煙草に火をつけて、立っている。二十代半ば頃の、男だろうか。
その横顔、それは、碓氷遼一のそれに似ている。
あるいは、そのもののように見える。
その後ろに立っている誰かは、彼の様子をうかがっている。
ヘッドライトの光がちらついている。向こうから車がやってきている。
不意に、音が止まった。
「ここは、碓氷遼一が死ぬ地点」
とざくろの声が聞こえた。
一切は音を失っている。彼女の声だけが聴こえる。
時間が止まっているみたいだった。いや、その通りなのだろう。
「背中を突き飛ばそうとしているの」とざくろが言う。
俺は、斜め前に立つふたりの男を眺める。
「あなたは、これから起きることを、変えられるかもしれない」
でも、よく考えてね、と彼女は言う。
「何が起きるかを、よく考えてね」
一台目の車が通り過ぎる。
世界が音を取り戻し、時間が当たり前に流れる。
"これから起きること"。
"突き飛ばそうとしている"。
"死ぬ地点"。
突き飛ばされることで、碓氷遼一は死ぬ、ということか。
それは、つまり、突き飛ばされなければ、碓氷遼一は死なないかもしれない、ということか。
向こうにいる碓氷遼一は、それを眺めている。
信号は赤だ。
彼はそうすることしかできない位置に放り込まれた。
俺は?
俺は、俺は……こちらにいる。手の届く距離にいる。
だとすれば。
俺がここで、"何かを"すれば、碓氷遼一は死なない。
"あなたには選択権が与えられる"とざくろは言った。
信号はまだ赤のままだ。
碓氷遼一が死ななければ、どうなる?
愛奈は、泣かずに済むだろうか。
少なくとも、あんなに、自分を責めたりせずに済むんじゃないか。
時間さえあれば、碓氷遼一と話し合い、わかり合うことができたんじゃないか。
そう考えれば、俺が取るべき選択なんて、決まっているような気がする。
――けれど。
"でも、何かしてしまえば、あなたは……今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。
消える?
それって、どういう意味だろう。
頭をよぎるのは、親殺しのパラドックス。
ここで、碓氷遼一を助けてしまえば、
愛奈は俺と向こうの世界に行くことなんてなくなり、
そこであったなにもかもがなかったことになり、
俺も、こんなところに迷い込まないことになる。
そして、ここにいる俺がいなくなってしまえば、碓氷遼一を助けるものもいなくなる。
そうなれば碓氷遼一は死んでしまい、
そこから先の何もかもがなかったことになり、
愛奈は俺と向こうの世界に行くことになる。
そして俺はここでまた碓氷遼一を、助けるか助けないか、選ぶことになるかもしれない。
それって、どういうことだろう?
"今のあなたは、どこかに消えてしまうかもしれない"。
ざくろを見れば、その結論は出るかもしれない。
彼女が時間を無制限に行き交うこともできるように、俺もまたそういう存在になるのかもしれない。
永遠に、時間の檻のなかに閉じ込められ、そこから脱することができなくなるのかも。
あるいは、そんなことすらなく、ただ未来だけを変えて、今ここにいる俺だけが消え失せてしまうのかもしれない。
もっとシンプルに考えよう。
ここで俺が何かをすれば、その時点から過ごしたすべてがなくなってしまう。
これから生まれる命、これから死んでいく命、これから付けられる傷、これから癒えていく傷。
そのすべてが、なかったことになり、世界はバタフライエフェクト的に変化していく。
初期値鋭敏性。
それが愛奈を消したように、俺がここで何かをすることで、誰かが消えてしまうかもしれない。
誰かの未来を書き換えてまで、俺は愛奈の悲しみをいくらか軽くすることを選べるのか。
いや、もっとシンプルに、だ。
ここで俺が何かをすれば、
愛奈と俺がさまよった数日間のすべてが、なかったことになってしまう。
木々の遊歩道も、夜のコンビニも、何もかも。
俺は、それを失えるだろうか?
なくしてしまってかまわないと、思えるだろうか?
起きてしまったことを、本当に変えられるのか?
そんなのありえない、とも思う。けれど、ざくろなら、ざくろだったなら。
彼女なら、できてしまうかもしれない。この俺が消え失せて、愛奈が悲しまない未来を、作れるかもしれない。
逆から、考えてみよう。
ここで俺が何もしなければ、碓氷遼一は死ぬ。
ざくろの言葉を信じるなら、それなら俺は、このまま存在し続けられる。
そして、元いた場所、愛奈がいる場所に、帰ることができる。
……けれど、碓氷遼一を見殺しにしたその後に、俺は愛奈と一緒にいられるだろうか?
それを、俺自身は許せるだろうか?
いつのまにか、また、音が消えている。
ざくろが、傍らに立っている。
「……おまえは、いったい何なんだ?」
そう問いかけずにはいられなかった。
「こんなの、どこに選択権があるっていうんだ。どっちを選んだって、ろくな結果にならない」
ざくろは、俺の姿を笑っている。楽しんでいる。
「おまえは、いったい、何がしたいんだ? どうして、俺をここに連れてきたんだ?」
「あなたが、いちばん、まともなままだったから」
ざくろは、そう言った。
「まともな人は、苛立たしい」
吐き捨てるような彼女の言葉を、俺は聞いた。
悲しそうな目をしている。そんな場違いな印象を覚える。
「もっと傷ついて。わたしは、それを見たいの」
何がどう狂ったら、ひとりの少女が、こんな姿になるっていうんだろう。
こんな、神様みたいな姿に。
うんざりだ。
何が正しいとか、間違ってるとか、裁くとか裁かれるとか、痛みとか、何の話なのか、さっぱり分からない。
俺はここに立っていて、生きていて、
人が死ぬ姿は見たくない。
誰かが悲しむ姿も見たくない。
誰かを好きになったりする。
誰かを憎んだりする。
ただそれだけのことじゃないのか。
それだけで十分じゃないのか。
……違うのか?
不意に音が聴こえる。
エンジン音が近付いてくる。
歩行者信号が点滅する。
車のヘッドライトが近付いてくる。
斜め前の男が手を伸ばした。
きっと一瞬の出来事。
それがスローモーションに見える。
誰かを突き飛ばそうとする手。
選択権が与えられている。
選択権?
選択権――。
――生まれてこないほうが、よかったのかな。
俺は、
◆(K/c)
突き飛ばそうとする誰かを、気付けば組み敷いていた。
車はブレーキすら踏まずに通り過ぎていく。
横断歩道の信号が青になった。
誰もが呆然としている。
俺に抑えつけられた誰かも、音に驚いて振り向いたこちらの碓氷遼一も、
あちらで眺めているしかなかった碓氷遼一も、俺自身でさえも。
頭で考えたことなんて、そんなに多くない。
でも、嫌だった。
目の前で、大事な人の大事な人が死ぬのも、誰かを見殺しにして生き延びるのも、
そんなふうに生きていく自分も、嫌だった。
子供のわがままのような感情だとわかっている。
理屈なんてあったもんじゃない。
それでも、どうして、どうして俺が“そんなこと”に巻き込まれなきゃいけないんだ。
誰かが死ぬとか、殺されるとか、どうしてなのか知らない、わからない。そんなの、俺には関係ない。
どうしてそんなものを強いられなければいけない?
俺はただ、もっとシンプルに生きていたいだけだ。
小難しい利害なんて、向いていない。
正しいとか、間違っているとか、そんなものに振り回されたくない。
この結果が、より悪い結果を引き連れてきたとしても、俺は、こうするしかにあ。
たとえ、こうしたことで俺自身が消えてしまっても、愛奈と一緒にいられなくなっても、
こうしなかった俺のまま愛奈と一緒にいるよりは、ずっと愛奈の方を向いていられる気がする。
会えなくなったとしても。
あの木々の遊歩道、夜のコンビニ。
それはたしかにあったことだ。
俺は、それを知っている。
たとえ、消えてしまったとしても。
――存在するのとは違う形で、傍にいる。
たくさんの言葉が、声が、音が、景色が、急に胸をいっぱいにして、
気付けば俺は泣いていた。
◆
「残念ね」と声がする。
「お別れね」と声が言う。
お別れ。
お別れだ、と俺は思う。
◆
「ケイくんは……灯台みたいだね」
「……灯台?」
「うん」
「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」
「どうして?」
身動きがとれない。
迎えにも行けない。
彼女のところに行くことができない。
――お別れだ。
続き
開かない扉の前で【#15】