開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
開かない扉の前で【#02】◇[Diogenes] R/a
開かない扉の前で【#03】◆[Paris] A/b
開かない扉の前で【#04】◇[Stendhal] R/b
開かない扉の前で【#05】◆[Cassandra] A/b
開かない扉の前で【#06】◇[Munchausen]
開かない扉の前で【#07】∵[Pollyanna] S/a
開かない扉の前で【#08】◇[Stockholm] R/b
開かない扉の前で【#09】¬[Jerusalem] S
開かない扉の前で【#10】◆[Lima] A/b
開かない扉の前で【#11】∴[Dorian Gray] K/b
◆[Rapunzel]A/b
わたしが目を覚ましたのは、朝の四時半頃だった。
まだ、ケイくんもまひるも眠っていた。
わたしはまひるのベッドの半分を借りて、一緒になって眠っていた。
遠慮したのだけれど、まひるに強引にそうするように言われていて、ここに来てからはずっとそうしていた。
彼女を起こさないようにこっそりとベッドから抜け出す。
朝はまだ暗く、薄手のカーテンの隙間から覗く空はぼんやりと青褪めている。
そのまま、すり足で玄関へと向かった。
借りたパジャマのままで外に出ると、九月の朝は起き抜けの肌にはひんやりと冷たい。
覆うような霧雨が、音もなく降り注いでいた。
通路の手すりに体重をあずけて、街の姿を見下ろした。
くじらのおなかの中みたいに見えた。
七年前の景色。
別世界の景色。
それはたしかに、わたしの知っているものとどこか違う。
でも、どこがどう違うのか、と言われても、うまく説明できない。
街中が、どこか遠くの国の王様の死を悼んでいるように静かだった。
通りを走る車、ジョギングをする人、霧雨。
絵の中の景色のようだった。
夢を見ているような気さえした。
世界は少し肌寒くて、吐き出す息はほのかに白んで立ち上っていく。
急に心細くなって、わたしは身震いしてから両手を口にあてて息を吹き付けた。
この冷たさに、わたしは覚えがある。
ほんの少し、だけれど、思い出せる。
春にも、夏にも、秋にも、冬にも、思い出せる記憶がある。
手のひらの温度。
抱き上げられたあたたかさ。
不意に、背後から物音がした。
まひるがあくびをしながら、扉から出て来る。
「起こしちゃった?」
「ん。うん」
「ごめんなさい」
わたしの言葉に、まひるは笑った。
「気にするようなことじゃないよ」
「そうでもないと思うけど……」
「そう? そうかも」
まひるはわたしの隣に近づいてくると、触れ合うほどの距離に並んで、同じように手すりにもたれた。
「寒くないの?」
「……少し」
「あんまり冷えると、よくないよ」
「まひるは、中に戻って」
「ケイくんとふたりきりで? それは、うーん」
「……あ、そっか」
そういう配慮みたいなものは、わたしの頭の中にはあんまり用意されていなかったみたいだ。
たしかに、まひるからしたら嫌かもしれない。
「霧だね」とまひるは言った。
「うん」
「この時間は、まだ暗いね」
「そうだね……」
べつのことを考えていたせいで、どう返事をすればいいか分からなかった。
まひるは気を悪くしたふうでもなく笑う。
「ね、愛奈ちゃん。少し話してみたいことがあったんだけど、いいかな」
返事をせずに、ただ彼女の顔を見る。
これまでと変わらない、器用そうな笑みだ。
そんな笑みで、彼女はいつも、いつも、刃物みたいなことを言う。
「愛奈ちゃんは、ケイくんのこと、どう思ってるの?」
静かな風が吹いて、霧雨を舞い上がらせた。
一瞬だけのことだった。
「気付いてるよね、愛奈ちゃん」
何を、とは訊かなかった。
どうせ、最後にはわたしが答えに窮するに決まっていた。
「お兄ちゃんが、ね」
「ん……」
「お兄ちゃんが、むかし、教えてくれた話があるの。大きな魚に、食べられてしまう人の話」
「魚……?」
「神さまがね、ある人に話をするの。堕落した街の話。その街の悪辣の為に、神さまはその街を滅ぼさなきゃいけない。
だから、街に向かってそのことを伝えなさいって」
「……それは、聖書かな」
「なのかな。わからないんだけど。それでね、でも、その人はその街に向かうことを拒むの。
どうして悪辣を尽くす、しかも敵国の街のために、自分が出向かなければならないのか?
神が滅ぼすと決めたなら、どうしてそれを伝える必要があるのか? そして彼は、神さまの言葉に逆らって逃げようとする」
でも、神さまは彼が乗った船のまわりに嵐を降らせた。そして彼は船から放り出される。
海の中で、彼は大きな魚に飲み込まれ、腹の中で三日三晩を過ごして悔い改める。
そして彼は考えを変え、悪辣の街に向かい神の言葉を伝える。
街の人々はその言葉を聞き届け、驚くことに素直に改心する。
神さまは、街を滅ぼすという言葉を、それによって翻した。
預言者は、これに腹を立てた。
神さまが、やさしいと彼は知っていた。だから、悪辣の街が改心すれば、神はそれを許すだろうと彼は気付いていた。
それだからこそ彼は伝えることを拒んだのだ。悪にはふさわしい報いがあってほしかったから。
そのあと、どうなったんだっけ……?
「ヨナ書だね」とまひるは言った。
「"あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか"」
「……ヨナ書?」
「旧約聖書かな。たしか、選民思想の否定と……神が言葉を翻すこともある、という根拠って解釈があったような気がする」
「そうなんだ」
「それが、どうしたの?」
「うん。わたし、ときどき不思議になるの。お兄ちゃんは、どうしてわたしにあんな話をしたんだろうって」
大きな魚にのまれた男の話。
お兄ちゃんは、どうしてそんな話を知っていて、わたしに何が言いたくて、そんな話をしたんだろう。
お兄ちゃんは、その話のどこかに、自分を重ねていたのだろうか?
だとしたら、それは誰だろう。どこに、だろう。
――愛奈、お兄ちゃんは一緒にいるよ。
見晴らしのいい丘の上の公園で、わたしとお兄ちゃんはたしかに一緒にいた。
―― 一緒にいるから大丈夫だよ。
あのときの、お兄ちゃんの表情を、わたしは今でも覚えている。
一緒にいる、と、そう言った。
それはもう、嘘になってしまった。
でも、あのときわたしが感じた気持ちは、一緒に居てくれる、という、そんな言葉に対する安心じゃなかった。
あのときの、お兄ちゃんは、泣き出しそうな顔で笑っていた。
寂しくないと、強がるみたいに。
本当は、わたしは、お母さんのことなんて、もうとっくに諦めていて、
ただ、お祖母ちゃんと、お祖父ちゃんと、それからお兄ちゃんがいれば、
それで、それでもいいと思っていた、のかもしれない。
あのときからわたしは、思っていたのかもしれない。
わたしは、お兄ちゃんに居てほしくて、泣いていたわけじゃなかったのかもしれない。
わたしはただ、あの寂しそうな表情の理由を、お兄ちゃんが隠していた何かを、
結局最期まで分かってあげられなかったことが悲しかったのかもしれない。
わたしは彼のために何もできなかった。
それが悲しくて、だから、彼が何を考えていたか、どうしても知りたかったのかもしれない。
彼もまた、魚の中にいたのだろうか。
「くじらについてのお話なら、もうひとつあるね」
まひるは、不意にそんなふうに話し始めた。
それは、こんな内容だった。
エチオペアの王妃カシオペアは、その娘、アンドロメダの美しさを誇り、海の神の孫娘よりも美しいと褒め称えた。
それが海神の孫娘の怒りを買った。
孫娘に泣きつかれた海神は、エチオペアの海岸に化け鯨を差し向けた。
鯨は津波を引き起こし、作物を台無しにし、街を恐怖の底に叩き落とした。
そこで、その美しい姫君は生贄になった。
罪のない彼女が化け鯨の口に飲み込まれようとした瞬間に、馬のいななきとともにペルセウスが現れた。
メデューサ退治の帰り足に姫が岩にくくりつけられているのを見たペルセウスは、化け鯨にメデューサの首をつきつけた。
たちまち鯨は石になり、海底へと沈んでいく。
ペルセウスはその姫君を連れ帰り、やがて彼女と結ばれたという。
海に沈んだ憐れな鯨は、空に浮かんで星座になった。
遠い、古い、神話のお話。
「ピノッキオの冒険もそうだね。勤勉を目指しながら何度も怠惰の誘惑に負けるピノッキオは、大きな化け鯨に飲み込まれる。
……ああ、別の魚だったかな」
くじら。
くじらとは、なんだろう。いったい、何の比喩だろう。
迷い、嫉妬、憎悪、失望、落胆、混乱。
「でも、愛奈ちゃんは大丈夫だと思う」
わたしはまひるの方を見た。
「愛奈ちゃんにはペルセウスがいるから」
わたしは、アンドロメダではない。
そんなことを言ったって、意味のないことだ。
「わたしは……まひる、わたしはね、誰かとずっと一緒にいるっていうことがどういうことなのか、ぜんぜん想像できないの」
「……」
「ケイくん、と、一緒にいたいよ。でも、わたしは、ケイくんが……」
うまく言葉に、できない。
何を、どう、説明すればいいのか、どういう言い方なら、伝わるのか。
「失うことと手に入らないことなら、どっちが悲しいのかな」
彼女は、天気の話をするみたいに、そんなことを言った。
「怯えることが間違いだとは、わたしには言えない。だから、それもひとつの生き方だねって、そう思うけど」
遠くを見るような目で、彼女は霧に包まれた街を見下ろしている。
「ある意味だと、それは悟りの境地なのかもしれない。際限のない欲望と手を切って、何も求めなければ、
傷つくことも失うこともない。ただ物事があるがままにすぎるのに任せていれば、穏やかに生きられる。
でも――“愛奈ちゃん”はそれでいいの?」
わたしは、言葉の意味を咀嚼するのに手間取った。
霧の粒が肌にまとわりつく。
溶けてしまいそうだ。
蒸気のような雨。
居心地の悪くない朝。
晴れを望むわけではない。
雨は嫌いじゃない。
でも、少し、ほんの少し、肌寒い。
「わたしたち、動物だよ」
「……」
「平気な人はいるかもしれない。でも、愛奈ちゃんは、それで平気なの?
ケイくんが、たとえば、誰か別の人と……そうなったときに、愛奈ちゃんは、平気なの?」
「わたしは……」
「わたしたちは、欲望する。食べ物を食べる、水を飲む、眠る、寒ければ服を着て、暑ければ服を脱ぐ。
触れられたいと思うし、触れたいと思う。触れることで傷つきたくないとも思うし、気安く触れられたくないとも思う。
自分を変えたいとも思うし、自分を守りたいとも思う。自分を憎むことで、自分を守ろうとしたりする」
誰かが言ってたんだ、とまひるは言った。
「わたしたちは、自分が本当に求めているものを、まず誰かに与えることでしか、手に入れられないって。
でも、そんなの変だよね。だって、それじゃあ、お返しを催促してるみたい。
“わたしはあなたにこんなことをしてあげた。だからあなたもわたしに同じようにして”って言うみたい」
与えた人からしか受け取れないなら、最初に与えた人は、誰から受け取ったんだろう。
それってやっぱり、変な理屈だよね、と、彼女は言う。
「挨拶、みたいなものだと思うんだ。“おはよう”って言っても、返事が来るとは限らない。
相手が“おはよう”って言ってくれないなら、どうしてこっちから言わなきゃいけないの、とも思う。
でも、だからって、言われるのを待ってるだけじゃ、やっぱりなんにも進まないのかも」
言われても返事をしないんじゃ、なんにも変わらないのかも。
どうなのだろう。
わたしは――
渡すことの方が簡単で、求めることのほうがむずかしいような気がする。
好きです、と、そう言うよりも、好きになってください、好きでいてくださいと、そう伝えることのほうが、ずっと怖い。
ずっと一緒にいてください、って、
ずっと一緒にいたいです、って、
そう思うことは、好きでいてと求めることなんじゃないのかな。
わたしは、そんなふうに求めていいほど、求められるほど、良い人間なんだろうか。
「……欲望」
わたしは、そう口に出してみた。
欲望、欲望。
わたしの“欲望”は白い息になって、かすかに空に透けながら浮かび上がった。
そのまま、誰の耳にも届かないまま、高く高くに立ち上っていく。
一緒にいたい。
一緒にいて。
少しだけ、違和感がある。
わたしがケイくんに言いたいのは、本当にそんな言葉だろうか?
もっと、何か別の、言葉だという気がする。
わたしは、今日、帰ろうとしている。この、よくわからない場所から。
お兄ちゃんのこと、ケイくんのこと、お母さんのこと。
お兄ちゃんが刺された景色、わたしがいない景色、くじらのおなかの中みたいな景色。
「今日で本当にお別れなのかな」
まひるは、静かにそう呟いた。
「わたしたちは、きっとぜんぶすぐに忘れちゃうんだろうね」
どうしてだろう。
その言葉が、わたしには、まひるが初めて口にした本音のように思えてならなかった。
◇
あたりまえのように朝が来て、まひるは制服に袖を通した姿で、わたしたちの為に朝食を用意してくれた。
彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、わたしとケイくんは静かに朝のニュースを眺める。
わたしたちは、この世界に着たときに着ていた服を着て、昨日の出来事についての報道を見ていた。
たいしたことは言ってくれなかった。
ケイくんは何か言いたげな、けれど何か言いあぐねるような顔をしていた。
でもわたしは何も訊かなかった。
たいした会話もしないまま、まひるが出かける時間になった。
彼女が鍵を閉めるので、わたしたちも一緒に部屋を出ることにした。
それじゃあね、とまひるは言った。
それじゃあ、とわたしも言った。
元気でね、と彼女は言った。
まひるも、とわたしは言う。
それで本当にお別れだった。
外ではまだ霧雨が降り続いていて、まだ夢の中にいるような気がした。
青褪めた朝を、わたしたちは傘もささずに歩いた。
地下鉄駅の構内で、人々はせわしなく改札口に飲み込まれていく。
切符売り場に小銭を放り込むと、一瞬だけ、何かが変わったような気がした。
ぞろぞろと続く人並みの中で、わたしたちは付かず離れずの距離を保ったまま並んで歩いた。
車両の中は、そこそこ混み合っていたけれど、わたしたちは労せずに座席に腰掛けることができた。
隣り合って並びながら、扉が人々のからだを文句を言わずに飲み込むのを内側から眺めている。
変な気分だった。
この中の誰とも、わたしは同じ時間に生きていないのだ。
彼らにとってこの時間こそが故郷で、わたしはそこに迷い込んだ旅人に過ぎない。
どこまでも観客だ。
知っている街。
記憶のかなたに宿っている街。
それは、けれど、異郷のようだ。
ケイくんはずっと黙っていた。
列車が動き始める。
地上へと抜けると、車窓の外に、朝の日差しがまとわりつくように棚引くのが見えた。
霧は光の粒みたいだった。
座標を移動していく。
身じろぎもしないまま。
体に負荷がかかる。
わたしたちは移動している。
何かを言いかけている。
口ごもっている。
窓の外では霧雨が降り続いている。
頭のなかで繰り返される。
血溜まり。
駅につくたびに、車両の中は段々と混み合ってきた。
胃袋の中身が膨れ上がっているみたいだ。
膨れ上がった魚みたいだ。
時間と景色が流れていくのを眺めている。
目的地は決まっている。
あの高いビル。
その先に、わたしたちが帰るべき街がある。
でも、わたしは、そこに帰ってどうするつもりなんだろう。
いま、ここにいるあいだは、ケイくんは頼まなくても一緒にいてくれる。
でも、帰ってしまったら……?
――欲望。
◇
目的の駅につくと、車両の中の人々は蛇のように流れ始めた。
やがて通路が別れると、糸がほつれるようにそれぞれに分かたれていく。
まだ、互いに言葉もなかった。
頭の中をゆっくりとかき回されているみたいな気がした。
何に? 何かに。
改札を抜けて駅を出ると、街並みは真っ青に色あせていた。
何かが終わってしまったような感じがする。
「……不便だな」
とケイくんがひそかにぼやいた。
「なにが?」
「ナビが使えない。2008年っていうのはどうも」
「わたしたちは新しいものに慣れすぎたんだね」
「そんなもんなんだろうな」
「何かが加わったり、なくなったりしても、当たり前にその生活に馴染んでいくんだろうね」
「そうだな」としか、ケイくんには言いようがなかったみたいだ。
目的の場所に向かって、傘もなく歩いていくしかなかった。
この街で今、もっとも高い場所。三十階建てのビル、その頂の展望台。
そこにざくろはいるはずだ。
たいして入り組んだ地形だというわけでもないのに、目的の場所をなかなか見つけられずに、わたしたちは街をさまよう。
わたしはときどき立ち止まって、空を見上げてみた。
雨が真上から降り注ぐ光景を見るのが好きだった。
自分が空へと昇っているような気がして。
ケイくんはわたしのそんな気まぐれにも、文句のひとつも言ってこなかった。
ようやくたどり着いたときにはだいぶ雨に濡れてしまっていたが、建物に入るのを躊躇うほどではなかった。
入る前に、わたしは建物の高さをたしかめてみた。
わたしはここに来たことがある。……お兄ちゃんと一緒に。
中に入ると、綺麗な制服を着たふたりの女の人が受付の向こうからわたしたちのことをちらりと見た。
ケイくんは気にせずに先に進んで、展望台まで直通のエレベーターを探した。
一階はただのエントランスで、ほとんど何もなく、探すのに苦はなかった。
わざとらしい表示のされたエレベーターの前で、わたしとケイくんは目の前の扉が開くのを待った。
この塔のような建物の頂上に、彼女は本当にいるのだろうか。
からかわれただけなのかもしれない。
あるいは、最初からずっと。
扉は、静かに開いた。
わたしたちはふたり一緒にその箱へと足を踏み入れた。
ガラス張りの窓からは外の風景が見える。
ケイくんが目的の階のボタンを押した。扉は静かに閉じられていく。
たどり着くまではもう開かない。
何かが途切れてしまったような気がした。
さっきまでの当然のような沈黙も、何もかも。
エレベーターは静かに昇っていく。
街があっというまに小さくなっていく。
さっきまで見上げていた建物も人も車も、全部が全部遠ざかっていく。
すべてと距離が置かれ、何もかもがわたしから離れていく。
そうやって全部なくなっていく。
小さな、小さな粒のようになっていく。
ふと、ケイくんが、
「ごめん」
と、小さく呟いた。
わたしは目の前の景色から目を離すことができないまま、言葉の意味を考える。
「ごめんって、なにが?」
「言うべきだった。……会えたかもしれない。そうしたら、なにか変わったかもしれない」
「ケイくん?」
「おまえの叔父さんだったんだ」
「……なにが?」
「碓氷遼一を、刺したの。おまえの叔父さんだったんだよ」
「……どういう意味?」
「向こうの世界の、過去の、碓氷遼一が、こっちにいたんだ。俺は会った。言葉も交わした。
でもどうしてもおまえに言えなかった。どうしてだろうな。なんで言えなかったんだろう。
でも、言うべきだった。おまえは会えたんだ。七年前の姿だったけど、あの人はおまえを知ってたんだ」
「……そっか。ケイくん、会ったんだ」
彼はもう、それ以上言葉を続けようとしない。
「ずるいな。……そっか。お兄ちゃん、こっちに、まだいたんだね」
「……話したかったか?」
「それは……ううん。どうだろうね」
どうだろう。
どうなんだろう。
分からない。
もう、気付いてしまった。
わたしが望んでいたのは、知ったところでどうしようもないことなのだ。
わたしはただ、彼のことを、もっと分かってあげられるわたしでいたかった。
それはもう、手遅れのことなのだ。
わたしたちはエレベーターに乗り込んだ。
扉はもうしまって、箱は昇り続けている。
この扉は、もう閉ざされている。
次の場所にたどり着くまで、開かない。
そしてわたしたちは、次の場所へ向かうしかない。
戻れたとしても、全部はもう終わってしまったことだ。
――本当に?
そんな声が聞こえた気がしたけれど、それが誰の言葉なのか、よくわからない。
エレベーターは昇り続けて、街は遠ざかっていく。
◆
風船は がらんどうなので、
軽くて しかもみんなのっぺらぼうです
針でつつけば ごらんのとおり
からかうように ぱちんと弾け
川面に浮かんだ あぶくのようだ
風船は がらんどうなので
割れてもだれも気にしません
割れてもだれも気にしないのに
割れてもだれも気にしないことを
みんながみんな気にしていません
みんな気にせずぷかぷか浮かんで
よくも平気でいられるものだ
どんなにぷかぷか浮かんでも
どうせ割れるか萎むかするのに
◇
扉が静かに開いた。
灯りは付いているのに、最上階の通路は薄暗く寒々しい感じがする。
わたしたちは箱を抜け出して、通路の先へと進む。
展望台へはすぐにたどり着いた。
ガラス張りの壁の向こうに、街並みはある。
けれど、わたしの目に最初に飛び込んできたのは、そうではなかった。
青褪めた街を背負って立つ、黒い服の女の子。
ざくろは、たしかにそこに立っていた。
わたしたちの姿を認めると、彼女はかすかに微笑した。
「―― そっか。今日なんだね」
その言葉の意味を考える前に、彼女は話を続けた。
「安心して。ちゃんと送り返してあげる」
その表情の、素朴な柔らかさに、わたしは戸惑いを覚える。
今までの彼女はずっと、皮膜の向こうに隠れたような、そんな得体の知れない相手に見えてしかたなかったのに、
目の前にいるざくろは、なんだかひとりの女の子みたいだった。
「……ね、始まるのね。ここから」
誰かに話しかけるような、ざくろの言葉の意味はわからない。
わたしは、静かにケイくんの手をとった。
「お兄ちゃんが、この世界のお兄ちゃんを刺した理由、なんとなく分かる気がするの」
「……」
「わたしも穂海に、どうかしたら同じことをしたかもしれない、って」
「愛奈」
「お兄ちゃんが誰かを傷つけることをするなんて、思ってもみなかった。
たとえ、違う世界の自分自身でも。でも、それはたしかなことなんだよね」
「……」
「ねえ、やっぱりわたしたちは、ものすごく勝手な生き物なんだね。
わたし、お兄ちゃんを轢いた人が憎いよ。過失だったとしても。
でも、お兄ちゃんが誰かを刺したとしても、それを責める気にはどうしてもなれないの」
わたしは―― そうだ。
「どうしてそんなことをしたの、って、そこまで追い詰められてたのに、どうしてわたしは何もできなかったの、って……。
そんなふうにしか、どうしても思えない。正しさなんかより、わたしは、親しい誰かのことのほうが、きっと大事なんだ」
「……」
「わたし、間違ってるよね」
そんな言葉で保険をかけるのも、やっぱり間違っているかもしれない。
「――加害者側からの、理屈ね」
不意に、ざくろがそう言った。
わたしは、彼女を見上げる。
塔の上の少女、黒い服の少女、わたしたちをここに連れてきた人、お兄ちゃんを、ここに誘い込んだ人。
「刺した人にどんな理由があったとしても、刺された方は、関係ない。
刺された方は、ただ痛いだけなのよ。たとえどんな理由があっても、刺された方は、血を流すの」
血は流れたのよ、とざくろは言う。
「目の前で、刺された人の前で、あなたは言える? あなたの叔父さんが誰かを刺したとき、その刺された誰かに、そう言える?
"お兄ちゃんにも、理由があったんだ"って。ねえ、言えるの?」
わたしは、だから、やっぱり間違ってるんだ。それは、たしかだ。
「――ねえ、流れた血を贖うものってなんだと思う?」
彼女は、まっすぐにわたしを見下ろしている。
「それはね、やっぱり血なのよ。血は血でしか贖えない。だからね、"血は流されないといけない"」
「血……?」
「そうよ。そうじゃないと不合理でしょう?」
どうしてだろう?
ざくろは、泣き出しそうな顔をしているように見えた。
「痛みを与えられた人間が、ただ痛みを堪えていれば済むなんて、そんなの間違ってる。
理由があったから、事情があったから、人を傷つけていいなんて理屈にはならない」
だから、血は流されないといけない。
ざくろはそう繰り返してから、何かを覆い隠すみたいに笑った。
「……まあ、これはどうでもいい話だね」
こっちにきて、とざくろはわたしたちを手招きした。
手を繋いだまま、わたしたちは彼女の立つ場所へと向かっていく。
ガラスの向こうには、灰色の空と静かな街並みが、無音のままひらべったく広がっている。
「誰かが誰かを傷つけてる。あなたのお母さんが、あなたを捨てたように。
あなたの叔父さんが、誰かを刺したように。わたしのお父さんが、わたしを殴って、わたしを殺したみたいに」」
と、そう、ざくろは言う。
「でも、誰かを傷つけた誰かにも、理由はある。そんなふうになってしまったのは、その人だけのせいじゃない。
環境、遺伝子、何かの出来事、世間、社会の雰囲気、法律、もっと根深い、"大いなる不安"とでも呼ぶべき何か。
連綿と続く歴史がつくった、社会通念。流布される常識。そんなものが、わたしたちの行動を縛り付けてる。
わたしたちはそれを、自分の意思で決めたことだと信じているけれど、でも、その意思を決めているのは……誰なのかな」
ねえ、そんな"誰か"なんていると思う?
「ねえ、わたしたちが心の底から笑える場所ってどこだと思う? そんなものがあると思う?
居心地が悪いのよ。なんだか何をやっても無理やり笑わせられてるような気がする。
幸せってなんだろうってずっと子供みたいなことを考えてた。死んだいまになっても考えてるの。
ねえ、なんだかそぐわないのよ。わたし、きっと欠陥品なの。世間っていうのは、多数派が作るでしょう。
だったら、多数派にとっての幸福が少数派にとって幸福でないことは当たり前でしょう。
馴染めないの。淘汰されるの。居心地が悪い……だから、心の底から笑える場所なんてどこにもないのよ。
そんな場所に産み落とされて――傷つけて―― それが“誰のせいでもない”なんて、ねえ、理不尽じゃない――?」
わたしはただ、彼女の言葉を黙って聞いていた。
何の話なのかは、分からない。
彼女は、きっと、誰かに傷つけられていた。
分かるのは、それだけだ。
わたしは、何かを言いかける。
そのとき、背後から、声が聞こえた。
「――ずいぶんな理屈ね」
その声は、ざくろのものに似ていた。
わたしは、背後を振り返る。
足音は近付いてくる。
最初に目に入ってきたのは、やはり、また、黒い、黒い服。
そして、片目を覆う、眼帯。
その瞬間に確信した。
わたしはこの人を見た。ついこの間――この世界に、やってくる前に。
わたしは、この人を追いかけて、この場所にやってきた。
その人は、わたしとケイくんのことなんて見えていないみたいに、まっすぐにざくろに視線を向けていた。
「ねえ、ざくろ。あなたの言いたいことは分からなくもない。血は、流されないといけない。
でも、それは他の誰かの血ではないはずよね。遼一が、こっちの遼一を刺した。それは、事実かもしれない。
でも、ねえ―― そうさせたのは、ざくろ、あなたじゃない?」
ざくろは、からかうように笑った。
「そんなことを言うために、ここまで追いかけてきたの?」
「ようやくわかったのよ」とその人は言った。
「さっきの話を聞いて、ようやく分かった。あなたがどうして、こんなことをしたのか。
誰かを迷い込ませて、その人を混乱させているのか。ただ繋ぐだけの力しかないくせに、どうして"願った景色が見える"なんて言ってたのか。
ようやく分かった。……あなたはただ、"自分を苦しめた世界"を、"苦しめたい"だけなのね。
誰かを傷つけることで、自分が流した血を贖わせているのね」
ざくろは何も応えない。
「ずいぶん探した。見つけるまで、時間がかかった。あっちこっちを行き来して、あなたを追いかけた。
あなたの背中を探して、わたしはずいぶん時間を無駄にした。でも、考えてみれば、何も追いかける必要はなかったのね……。
あなたは、"どこにでもいる"んだものね」
黒衣の女の人は、ざくろを片目で見据えたまま、片方の手のひらで自分の眼帯をそっと撫でた。
「――あなたを止める。絶対に。それがわたしの責任だと思うから」
目の前で起きていることの意味が、わたしにはうまくつかめない。
戸惑ったまま、知らず手に力がこもる。
彼の手のひらは、静かに握り返してくれた。
にらみ合いのような沈黙が落ちたけれど、それはほんの数秒のことだった。
「なんだか気まずいところを見られたね」
ざくろはそう言って、わたしとケイくんの顔を交互に見た。
「帰してあげる。約束だから」
彼女の笑顔は、どこか優しく見えた。
血。
流される血。
まるで、夢を見ていたみたいな、そんな気分だった。
――"How would you like to live in Looking-glass House, Kitty?
I wonder if they'd give you milk in there?
Perhaps Looking-glass milk isn't good to drink――"
――"Oh, Kitty!
how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House!
I'm sure it's got, oh! such beautiful things in it!"
「ねえ、目を閉じて――」
最後にわたしは、ケイくんと、ほんのすこしだけ目を合わせた。
彼は、何かを言いかけて、結局言わなかった。
両の瞼を、わたしは閉じる。
もう、何も見ない。
「――お別れね」
そんな言葉だけで、わたしたちの奇妙な旅は終わる。
何もわからないままに。
◆
白い光が見えた気がした。
白い光が瞼の向こうに見えた気がした。
白い光が瞼の向こうの遠く先に見えた気がした。
あまりにまぶしくて、目をひらくことができなかった。
その光がおさまって、ようやくわたしがわたしの体を認識できるようになった頃、手のひらはからっぽになっていた。
ふと気付けば、わたしは真っ白な景色の中に立っていた。
わたしは、さっきまでケイくんがいたはずの場所をたしかめた。
そこにはもう、ただ真っ白な空白があるだけだ。
「ケイくん」、と、彼の名前を呼んでみたけれど、返事はない。姿すらないのだから、当たり前かもしれない。
手を繋いでいたのに。
あたりを見回してみたけれど、彼の姿はなかった。
「ケイくん」と、もう一度名前を呼んでみる。
あたりは物音ひとつない静寂に包まれていて、発したはずのわたしの声でさえどこかに掻き消えてしまったみたいに思えた。
景色は真っ白だ。
わたしは真っ白な通路に立っている。
床も、壁も、天井も、光でできたように真っ白だ。
境目と境目が曖昧に思えるほど、真っ白だ。
通路の壁には、さまざまな意匠の施された、さまざまな扉が、等間隔に並んでいる。
回廊の果ては、見えない。どこまで続いているのかも、さだかではない。
わたしは手近な扉のノブを掴んで見る。ノブはピクリとも動かない。
ひとつひとつ試してみる。どの扉も、開かない。
どこか、見覚えのある扉が多かった。学校の教室の引き戸のようなもの、わたしの家の玄関のものによく似た扉、
まひるの部屋の扉、さっき見た、エレベーターの扉、どこかの喫茶店のような、ガラスのはめ込まれた扉(磨りガラスのように向こう側の景色は覗けない)。
どれもこれもが開かない。
やがて、通路の果てまでたどり着く。いくつの扉を試したのかさえ分からない。
たしかなのは、開く扉はひとつもなかったということだけだ。
通路の突き当りは、左右に分かれていた。見れば、両方とも、さっきまで歩いてきたような通路がずっと続いている。
「ケイくん」
呼んでみても、返事はない。
似たような扉が続いているだけの通路の、どちらに進めばいいと言うのだろう。
どちらにいってもどこにつくか分からないなら、どちらにいっても同じことかもしれない。
どちらかに何もないとわかれば、もと来た方へと戻ればいいだけだ。
わたしは、なんとなく、そちらの方が近かったからというだけの理由で、左の通路へと曲がった。
また、扉が延々と続いているだけだ。
扉は等間隔で続いている。
わたしはひとつひとつそれを点検していく。
開かない扉だけが立ち並ぶ通路のどこかに、例外が、あるいは、誰かの姿がないものかと。
やがて、また突き当りに差し掛かって、通路は左右に分かれていた。わたしはため息をついて、後ろを振り返る。
そのときになってようやく気付いた。
歩いてきた廊下が、なくなっている。
わたしのすぐ後ろ、さっきまで扉が並んでいた廊下がなくなって、そこには一枚の扉が正面に立っているだけだ。
その両開きの大きな扉に歩み寄り、わたしは輪のような取手を掴んで引いてみる。
開かない。
押してみる。開かない。持ち上げてみても、横にずらしてみようとしても、開かない。
開かない。
「……ケイくん」と、もう一度わたしは彼の名前を呼んでみる。
彼はどこにいったんだろう。
わたしはどこにいるんだろう。
どうしてこんなことになる?
わたしはこんな扉をくぐった覚えなんてないのに。
戻れないなんて、思いもしなかった。
打ちのめされかけた心を、どうにか平常に保とうとする。
強がる必要は、本当なら、そんなにはないような気がする。
本当は、叫んでしまいたかった。
でも、そうしてしまったら、二度と立ち上がれないような気がした。
蹲って泣いて、助けを待つくらいしかできなくなりそうだ。
この状況はわけがわからないけれど、ここ数日でそんなことはいくつもあった。
心が保つかぎりは、ひとまず、たしかめてみないといけない。
わたしは、開かない扉に背を向けて、左右に別れる通路のどちらへ向かうかを考える。
どこに向かえばいいのかを。
でも、そもそもの話――わたしに、行きたい場所なんてあったんだろうか?
◇
どのくらい歩いたかは、もうわからなくなってしまった。
ひとつの扉の前で立ち止まる。
それは見覚えのある扉だった。
何度も何度も、目にした扉だった。
お兄ちゃんの部屋の、扉だ。
どこまでも伸びる白い廊下の、その途中に、見逃しそうなくらいさりげなく、その扉はあった。
他のどの扉とも、違ったところがあるわけでもない。ただ何気なくあるだけだ。
それなのに、わたしにはその扉がそうだとすぐに分かった。
そうなのだ。
結局、わたしはこの扉の前で立ち止まってしまうのだ。
そして、ノブを捻ってしまう。最初から分かっていた。見た瞬間に気付いていた。
ドアは、どうしてだろう、驚くほど簡単に開いた。
見覚えのある景色だった。
家具の配置もカーテンの色も、本棚に並ぶ背表紙の文字も、わたしが知っているものと同じだ。
お兄ちゃんの部屋だ。お兄ちゃんの部屋だと、すぐに分かった。
同時に、この部屋の主はもう、ここに現れることはないのだと、そう分かった。
たとえこの景色が夢のようなものだったとしても、それだけは揺るがない。
当たり前のように、部屋の中に足を踏み入れる。
本の匂い、少し埃っぽい空気。どうしてだろう。
たった数日、家から離れていただけ。それだけなのに、ずいぶん懐かしいような気がした
この数日間の出来事に、いったいどんな意味があったんだろう?
お兄ちゃんは、どうしてお金なんか残したんだろう。
お兄ちゃんは、どうして死んでしまったんだろう。
お母さんは、どうして――
この景色は、わたしにいったい何を伝えようとしているんだろう。
わたしは、なんとなく、並ぶ背表紙の中の一冊に目を止めた。
それはたまたま、ジャック・ラカンの「二人であることの病」だった。
べつにたいした意味なんてなかった。
ただ、パラパラとページをめくって、たまたま開いたページ。その記述が目に飛び込んできた。
◆
"まず明らかなように、個人の意味作用が、なにかしら耳にきこえた文句とか、ふとかいまみた光景とか、通行人の身ぶりとか、
新聞を読んでいて目についた《糸くず》とかの効力を変えるのは、ただの偶然によるのではない。
そこで、こまかく見ていくと症状はなんらかの知覚、たとえば、無生物や感情的意味あいのない対象に関してだけではなく、
もっぱら社会生活の諸関係、つまり家族や仲間や隣人との関係について現れることがわかる。
新聞を読むという点でも同様の意味が出てくる。
解釈妄想は、われわれが別のところでも述べたように、踊り場や街路や広場の妄想なのである。"
◆
"運命の晩、さしせまる処罰の不安のなかで、二人の姉妹は女主人たちの心像に自分たちの禍の幻影をまぜあわせる。
彼女たちが残虐なカドリールへと引きずり込むカップルのなかで彼女たちが嫌うのは、彼女たちの苦悩である。
彼女たちは、まるでバッカス神の祭尼が去勢でもするように、目をえぐりとる。
大昔から人間の不安を形づくっている冒涜的な興味こそが彼女たちを駆り立てるのだが、
それは彼女たちが犠牲者を欲する時であり、また彼女たちが、のちにクリスティーヌが裁判官の前で
無邪気に《人生の神秘》と名付けることになるものを犠牲者のぽっかり開いた傷口のなかへ追い詰める時である。"
◇
わたしはページから目を離すと、本を元の位置に戻した。
いま読んだ文章がわたしに何か重要な示唆を与えるものであるかのような錯覚を覚える。
それが"解釈妄想"でなくてなんだろう?
けれど、そう、"解釈妄想"と呼ぶならば、そうだ。
たとえば、遠くから聞こえるクラクションの劈きを、自分に向けられた警告であると感じるかのような、
ファッション雑誌のコラムの文章に、政治的な暗号があると思い込むかのような、
何もかもに、目に見える以上の意味があると勘違いしているかのような、
それを解釈妄想と呼ぶのなら、わたしは。
あるいは、この状況にも、
母さんがいなくなったことにも、
お兄ちゃんが死んでしまったことにも、
お兄ちゃんがお金を遺していったことにも、
そこに意味が隠されていると考えるのは、
それはもう、似たような妄想ではないだろうか。
ため息をついてから、違和感を覚える。
部屋の様子をもう一度眺めてみる。何かが変だという気がした。
どこか……何か……なんだろう。
そうだ。お兄ちゃんの部屋は、昔、お母さんが使っていた部屋と、扉で繋がっていた。
その扉はずっと使われていなかったけれど、それでも、たしかに繋がっていたはずだった。
でも、その扉があった場所に、今は本棚が立っている。
どうにか動かそうとしたけれど、簡単なことではなかった。
本の重みのせいで、そのまま動かすことはできない。かといって、中身を取り出すとなると骨が折れる。
かといって、それらの本を雑に扱う気になれなかったのも事実だ。
一冊一冊、わたしは本棚から本を取り出していく。
「嘔吐」「水いらず」「黒猫・アッシャー家の崩壊」「幸福な王子」「ドリアン・グレイの肖像」「モンテ・クリスト伯」
「嗜癖する社会」「孤独な群衆」「箱庭療法入門」「洗脳の世界」「論理哲学論考」「死に至る病」「生誕の災厄」「時間への失墜」
「夏の夜の夢・あらし」「テンペスト」「リア王」「ハムレット」「かもめ・ワーニャ伯父さん」「桜の園・三人姉妹」
一冊一冊、積み上げていく。
「桜の森の満開の下・白痴」「すみだ川・新橋夜話」「タイムマシン」「夜の来訪者」「オイディプス王」「アンティゴネー」
「Xへの手紙・私小説論」「モオツァルト・無常という事」「物語の構造分析」「映像の修辞学」
「全体性と無限」「ドン・キホーテ」「外套・鼻」「河童・或る阿呆の一生」「人間椅子」「芋虫」「パノラマ島奇譚」「玩具修理者」
「幽霊たち」「ガラスの街」「オラクル・ナイト」「予告された殺人の記録」「百年の孤独」「鏡の国のアリス」
文字。言葉。紙とインク。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモア序章」「ナイン・ストーリーズ」「元型論」「自我と無意識」
「精神分析入門」「夢分析」「車輪の下」「デミアン」「人間の土地」「アメリカの鱒釣り」
「文鳥・夢十夜」「嵐が丘」「若きウェルテルの悩み」「シーシュポスの神話」「ツァラトゥストラはこう言った」
こんなにたくさん言葉があるのに、誰も、お兄ちゃんのことなんて教えてくれない。
このすべてが、お兄ちゃんの韜晦なら、空の本棚は、ひょっとしたら――。
中身をすべて床の上に吐き出させると、本棚はようやくわたしの腕でも動かせるくらいになった。
ずらすように横に押すと、やはり、そこには扉が隠されていた。
今度は、見たことのない扉だった。
少なくとも、お母さんの部屋に通じていたものではない。
この空間では、お母さんとお兄ちゃんの部屋はつながっていない。
そこに意味を感じ取るのも、やはり解釈妄想と呼ばれるべきだろうか。
確かめるしかなかった。
本当は泣きたいくらいに怖かった。
ずっと心細かった。
何にも分からない、わたしはもうなにも知りたくない。
それでも、目の前の扉を開けるしかない。
他にどこにも行けない。
ふと、足元を見ると、一枚の写真が落ちていた。
古い、古い写真。
そこに映っていたのが誰なのか、わたしには最初、よくわからなかった。
少しして、気付いた。
お兄ちゃんと、お母さんだ。
幼い頃のお兄ちゃんと、その頃のお母さんだ。
たぶん、家の玄関の前で、ふたり並んで立っている。
お母さんが着ているのは、高校の制服だろうか。
写真の裏側を見ると、そこには次のような記述があった。
[Plaudite, acta est fabula.]
わたしは……目の前の扉を開ける。
それは、どこに繋がっているんだろう。
わたしは、どこに向かっているんだろう。
そんなことは分からないままだ。
今までだって、ずっと、そうだ。
ずっとずっと分からなかった。
何を求めて、どこに向かって、何が欲しくて歩いているかなんて、
ずっとずっとずっとずっと、いつだって、わからないままだった。
そうやってどうにか歩いてきた。
何が待ってるかも分からない扉を開けて、
戻れないかもしれないことなんて承知で歩いてきた。
知ってしまったら戻れないことだって、
進んでしまったら失ってしまうものだって、
覚悟を決めたら擲ってしまうものだって、
自分がいつか大事に思っていたものだって忽せにしながら、
それでもわたしは進んできた。
ずっとそうして来るしかなかった。
望んだわけじゃない。
そうするしかなかった。
"――It takes all the running you can do, to keep in the same place."
全力で走ってきたつもりだ。
お兄ちゃんに、お祖母ちゃんに、お母さんに、いつか、認めてもらえる。
わたしの全身を、全身で誇れるように。
でも、それでもとどまることなんてできなかった。
世界はわたしのことなんて平気で置いてきぼりにする。
そうしてわたしはいつかひとりぼっちになって、
どこにも辿り着けないまま、誰にも褒めてもらえずに、誰にも認めてもらえずに、
それでも息を続けていかなければいけないんだろうか。
扉の向こうは下り階段になっていた。
埃と黴の匂いの混じった湿った空気が、地下から吹き込んでくる。
風の音が怪物の吠える声のように聞こえる。
どうしてこんな場所に踏み込んでいかなきゃいけないんだろう?
わたしはここを通らなきゃいけないのだろうか?
でも、それは仕方のないことだ。
この扉しか開かなかった。
ここに至る扉以外のすべては閉ざされていた。
探せばもっとあったかもしれない。
でも、とにかく今はこの先に進むしかない。
このおぞましくすらある階段を降っていかなければいけない。
一歩踏み出すと、冷たい風がわたしの首筋をするりと撫ぜる。
身をすくませるような怖気。
この先へ降りていくことは、間違っているのかもしれない。
本当は正しいべつの扉があって、今からでも、探せばそこにたどり着けるのかもしれない。
でも、でも……そんなことを言っていたら、いつまで経ってもひとつの扉なんて選べない。
べつの扉の先に向かったところで、やっぱりここも間違いなのかもしれないと足踏みするだけだ。
そう分かっていても、踏み出すことがおそろしいと、そう思ってしまうのは、やっぱり間違っているんだろうか。
この扉はなにかもが間違いで、わたしの選択はなにもかもが間違いで、この先にはなにひとつ残っていないかもしれないと、
それをたしかめるのがおそろしいと思うのは……。
だからわたしは二歩目を踏み出せずに、ただ吹き付けるような冷気を浴びながら、どうしようもなく立ちすくんでしまう。
答えを見るのはいつだっておそろしい。
踏み出すことはいつも。
だから、
「――」
肩を掴まれて、おどろいて、怯える余裕もなくて、
そうして次の瞬間には、安心していた。
ケイくんが、そこにいた。
「……探した」
息を切らして、彼はそこに立っていた。
額に滲んだ汗を拭って、わたしの目をまっすぐに見た。
「なんて顔してるんだよ、おまえは」
分からない。
わたしは今、どんな顔をしているんだろう?
とっさに、俯いて、彼に見られないようにしてしまう。
どんな顔をしているんだろう。
「なあ、大丈夫か?」
大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫だろうか?
そんなことを考えて、笑ってしまった。
「……わかんない」
「……なんだそれ」
呆れたような声が嬉しかった。
探してくれた。見つけてくれた。それが嬉しかった。
それでなにもかもが十分だと思えてしまうくらいに。
だから、わたしは、わたし自身がいつか彼に言ったのと同じ言葉を、自分自身に、口にせずに呟いた。
言葉にしなきゃ、伝わらない。
「……ケイくん」
「ん」
「ありがとう」
目を丸くしたかと思うと、彼はすねたようにそっぽを向いた。
「どういたしまして」と、彼の口調はそっけなかった。
◇
「この先なのか?」
ケイくんは、わたしの顔を見て、そう訊ねてきた。
わたしたちは、扉の向こうの暗い階段を見下ろしている。
「行こうぜ」とケイくんは言う。
彼はわたしの方を見ずに、さっさと歩きはじめてしまう。まるで怖いものなんてなんにもないみたいだ。
「待って」
と言いながら、わたしは彼の後ろを追う。
一段一段とくだるたびに、暗闇がその濃さを増していくようだった。
呼吸さえもおぼつかなくなるような、濃厚な黒だ。
息が詰まるような。
「ケイくん、待って……」
「待たない」
ケイくんは、振り返ってもくれなかった。
「……なにか、怒ってる?」
ケイくんは、ほんの少し、ためらうみたいな間を置いた。
「べつに、そういうわけじゃないけど」
一歩進む度に、闇が深くなる。彼の姿も、表情も、わたしの目にはわからなくなる。
まだおぼろげに影が見えるうちに、彼の服の裾をわたしは掴んだ。
「ね、ケイくん……ここ、どこだと思う?」
ケイくんは、返事をしてくれない。
「ケイくん……?」
「分からない。たぶん、夢みたいなものなんだろうな」
「夢……?」
「そう、夢」
彼の口調が、どことなく、わたしを不安にさせた。
「たぶん、夢みたいなものなんだよ」
彼はもう一度繰り返した。
「たいした意味なんてない」
「……そうなのかな」
ケイくんは、どうしてだろう、真っ暗闇の中を、灯りさえもたずに、足早に歩いていく。
惑いも迷いもなく、どんどんと奥深くへと。
やがて、階段が途切れた。
酸素が薄いような気がする。どこかから、水滴の落ちる音が聞こえる。
ケイくん、と、また呼んでしまいそうになって、やめた。
わたしはいつも、ケイくんの名前を呼んでばかりいる。
返事をしてほしくて、かまってほしくて、不安で、それをごまかしたくて、無性に呼びかけてしまう。
それはきっと、あんまりよくないことなのだ。
わたしの不安定を、彼に押し付けてはいけないのだ。
そう思ったら、何も言えなくなって、苦しくなった。
階段の先は暗闇で、どこまでも吸い込まれそうな暗闇で、たとえその先に足場がなかったとしても不思議ではないような暗闇で、
わたしは進むことがおそろしくなった。
「なあ、愛奈。おまえに聞いておきたいことがあるんだ」
「……なに?」
彼が声をかけてくれたという、ただそれだけのことが、どうしてか、今は嬉しかった。
そんな内心の動きを気取られたら、鬱陶しがられそうな気がして、わたしは感情が声に乗らないように、声を落ち着かせた。
この暗闇の中で、それが無愛想に聞こえなかったか、それが少し心配だった。
「この先に進んで、帰れたとしてさ」
「……うん」
「おまえ、どうする気だ?」
「……」
どう、する。
その言葉の意味が、わたしにはよくわからなかった。
「どういう意味?」
彼は、わたしの問いかけを一度無視して、暗闇のなかを歩き始めた。
まるでその先に何があるのかを知っているかのような歩調で。
「だって、帰ったら、おまえ、ひとりぼっちじゃないか」
「――」
「結局、ひとりぼっちじゃないか。こんな奇妙な旅までして、なんにも得られずに、ただ帰って、誰もいない」
「……」
「なあ、愛奈。ひとつ言いたいことがあるんだ」
「……なに」
「ここから無事に帰れたらさ、俺と――」
心臓がどくりと跳ねた。
それと同時に、何かが警鐘を鳴らす。
どうしてだろう。
次に言われる言葉が、わたしにとってなにかよくないものなのだと、そのときに既に分かってしまった。
「――俺と、もう関わらないでくれないか?」
「……え?」
それでも、その言葉に、思わず頭がまわらなくなった。
わたしの様子なんておかまいなしに、ケイくんは歩幅を変えずに進んでいく。
予期していた言葉は――心のどこかで、そう言われるんじゃないかと思っていた言葉は―― それでもわたしに突き刺さった。
それでも、引き離されないように、手だけは彼の服から離せずに、
置いていかれないように、足だけは止められずに、
ただ、何事もなかったみたいに、彼についていく。
「……こんなことになるなんて思ってなかったんだ」
ケイくんは、そう言った。
「俺が、軽率だったよ。おまえに変な噂話を聞かせたせいだ。そのせいで、こんなことに付き合わされるハメになった。
そりゃ、義理がないわけじゃないし、おまえが憎いわけでもない。でも、正直……ここまでのことは、俺には重荷なんだ。抱え込めないよ」
「……」
「俺は、叔父さんの代わりにはなれないよ」
「そんなの……」
そんなの、ケイくんに求めてない、と、
わたしは本当にそう言えるだろうか?
煙草の匂いに、彼の博識に、背丈に、
お兄ちゃんの姿を、重ねていなかったと、わたしは言えるだろうか?
「死人に重ねられるのは、つらいよ」
「……」
「おまえは結局、俺のことなんて見てないし、だから本当は、おまえは俺のことなんて必要としてないんだ」
「……」
「そうだろ。たまたま、近くに俺がいただけだろ? おまえはべつに俺じゃなくてもよかったんだろう?
都合の良い相手がたまたま俺だっただけで、おまえは俺を必要としてるわけでも、俺を好きなわけでもない。
ただ近くにいただけだ。それなのに、どうして俺がこんなものまで引き受けなきゃいけないんだ?」
「違う」
「馬鹿らしいんだよ」
「……違うよ、ケイくん、わたしは」
「だったら、なんだっていうんだ。言ってみろよ。なあ、どうせ俺のことなんて、寂しいときに近くにいてくれるだけの相手だって思ってるんだろ」
「違う」
「だから、だったらなんなんだよ」
わたしは。
でも、ケイくん、わたしは。
想像できないんだ。
誰かとずっと一緒にいるってことが、どういうことなのか。
誰かがわたしと、ずっと一緒にいてくれるなんて、そんなことがありえるのかってことが。
そんなの、都合の良い妄想にしか思えない。
誰も、わたしのことなんて見てくれない。
好きになってくれない。見放されていく。いつか、去っていく。
そう思っていた方が――わたしが安心できる。
重荷。頭のなかで、その言葉を繰り返した。
わたしは、彼の服の裾から、そっと手を離した。
「……ごめんね」
「……ああ」
「わたし、大丈夫だよ」
「……」
「ひとりで、大丈夫」
「本当か?」
「うん。本当」
「……」
「先に行って」
暗闇の中に、足音が響き始める。
徐々に遠ざかっていく。
その音を聞きながら、わたしは静かにその場に腰を下ろした。
少し湿ってひんやりとした、石畳の感触。
そのまま、体を仰向けに横たえた。
やがて足音は聞こえなくなる。
どんな言葉を期待していたんだろう?
目を開けても閉じても、もう暗闇しか見えない。
誰かの呼吸さえ聞こえない。
怪魚のおなかのなか。でもわたしには、祈る神さえいない。
目を、閉じている。
呼吸だけを意識する。
それ以外のことが、今は難しい。
頭のなかでぐるぐると、同じような考えごとがめぐっている。
それをどうすればいいのか、今は分からない。
ずっと、分からないままかもしれない。
「……こういうのも、自業自得っていうのかな」
わたしの声は、たぶん、この暗闇に響きすらしなかった。
◇
暗闇に横たえている。
冷え冷えとした空気がある。
むせ返るような沈黙がある。
ここはとってもまっくらで、
だからとっても安心だ。
だあれもわたしを呼ばないし、
だあれもわたしを傷つけない。
ここは静かで何もない。
喉の奥に、かすれるような違和感を覚える。
胸の奥が熱を持つ。
この感覚はなんだろう。
――ごめんね。
そんな声が、どこからか、聞こえてくる。
――あなたは、間違って生まれてきたのよ。
お母さん。
お母さんの声。
――ごめん、愛奈。
咳が、出た。
また、似たような響きで、声が聞こえる。
――きみのために、何かできたらって思ったけど……。
お兄ちゃん。
お兄ちゃんの声。
――僕には重荷だったんだ。
咳が、止まらない。
咳が、咳、咳が、喉を、首元を、えぐるような咳が、止まらない。
――重荷なんだ。
咳にまぎれて、笑みがこぼれた。
今、この今、わたしは何かを掴もうとしている。
それはたぶん、狭隘で閉塞的な空間でしか手にできない何かだ。
深い穴の底で見るような、果てのないトンネルの中で見るような、狭い箱の中で見るような、この暗闇の底で見るような、
そこでしか得られないような、何か。それが今、わたしの手元まで来ている。
それがあると楽だ。
それさえあれば他に何もいらない。
暗闇は、ただ親密にわたしを受け入れてくれる。わたしを取り囲んでいる。
それは、『かもしれない』の集合体だ。
あの暗がりに、誰かの背後に、視界の隅に、握りしめた手の中に、何かが『あるかもしれない』。
シュレディンガー、二重スリット、量子力学の比喩。
光は波か粒子か、定まるのは観測者がいるからだ。
観測者がいなければ、それは不明確のまま。
"明"言されなければ、"明るみ"にさらされなければ、"暗がり"はすべてを内含する。
"無明"の中では何もかもが"不明"だ。
"不明"であることは、何ひとつはっきりしないということだ。
その暗渠のなかで、わたしを苛む声。
お兄ちゃんに会えるかもしれない、と聞いたとき、わたしが引き返さなかった理由が、今なら分かる。
はっきりさせるのが怖かった。お兄ちゃんの憎しみ、わたしを重荷に思う心、それは、"明るみ"にさらさなければ、ただの"可能性"にすぎない。
もし、会ってしまったら、話してしまったら、観測してしまったら、それは確定してしまうかもしれない。
知ってしまったら、戻れないかもしれない。
だから、わたしはここにたどり着いたのだ。
この暗闇の中で、わたしはわたしを維持できる。
何も知らなければ、何の事実もなければ、わたしは傷つかない。
わたしを苛む空想を、けれど、空想だと分かった上で、そこに溺れながら払いのけ続けることができる。
そうしているのが楽なのだ。
聞こえる声すらも、"そうだったかもしれない"という可能性にすぎず、
だからわたしは、ここでなら傷つかない。傷つききらない。
だったら、生きていける。
この暗闇がわたしの居るべき場所だ。
知ろうとしないこと、考えないこと、絶え間ない自傷的な空想に苛まれながら、事実を確認せずにいること。
どこにも向かわず、何も求めないこと。
それがわたしの居場所、それだけがわたしの安らぎ。
それでいい。
それでいいのに、咳が止まらない。
誰も来ないから、わたしは泣くことができる。
嘆くことができる。思いのままにわめくことができる。
誰かに聞こえるかもしれないと思ったら、泣くことさえ上手にできない。
目を閉ざしていれば、何も見ないで済む。
今までだってそうだった。
ずっとそうやって生き延びてきた。
こうなりたかったわけじゃない。
……咳が止まらない。
ここでわたしが、わたしを諦めてしまえば、きっとずいぶん楽になる。
そうすればなんにもいらなくなって、誰もいなくなって、そうすればわたしはなんにも気にしないで済む。
あとは、この声が、止むのを待つだけだ。
その頃にはきっと、わたしも抜け殻のようになっているかもしれない。
この暗闇の中で、わたしはただ、わたしを否定する言葉だけを聴き続ける。
そうしていつか消えてなくなって、
さよならだ。
苦しかったのだろうか?
つらかったのだろうか?
悲しかったのだろうか?
寂しかったのだろうか?
すべてが今は暗闇の中に溶けていく。
やがてわたしも小さな小さな粒になって、この体は消え失せて、
誰からも気にされずに、誰からも忘れられて、そうやって生きていけるようになる。
この声が止む頃には。
◇
咳がとまらない。
――重荷。
――重荷。
――重荷。
――重荷。
◇
「――あのな」
と、声がした。
「なに寝てるんだ、こんなところで」
それは、"明"らかに他の声とは違っていた。
「必死に探してたこっちがバカみたいだろうが」
わたしは、ほとんど考える暇もなく、瞼を開いていた。
ほのかにあたたかい光が見えた。
深い暗闇を、その小さなあかりはやわらかく削り取っている。
ライターの炎。
その火を握っているのは、ケイくんだ。
寝転んだわたしの傍に、彼は座り込んでいる。
「……なんで、戻ってきたの」
「……戻る?」
いかにも不審げな顔で、彼は首をかしげた。
「さっき……」
「さっき、なんだよ」
どっちだろう。
どっちが、幻だったんだろう。
炎が"明"かりになって、彼の表情を照らしている。
ライターの火が、蛍の光みたいだと思った。
蛍なんて、見たこともないけど。
「こんなところで休んでたら、何もかも嫌になっちまうぞ」
「……」
「……おまえがそれでいいなら、それでもいいのかもって、今までの俺なら、そう言ってたかもしれない。
でも、もうだめだな。そんなふうに気取ってもいられないな」
「……ケイくん?」
「いや、まあ、いいか。……ほら、立てよ」
そう言って彼は立ち上がり、それから、わたしに向けて手を差し伸べた。
わたしは―― その手を受け取った。
「ずいぶん探したよ。なんだか迷路みたいなつくりをしてたな」
「うん。まっくらで、分からない」
「……明かり一つ持たなかったら、そりゃそうだろうな。ほら、今なら見える。見てみろよ」
ケイくんに言われて、わたしはあたりの様子を見る。
「――」
暗闇は払いのけられて、
そこにあるのは、ただほんの少し広がっているだけの、石造りの地下室だった。
貯蔵庫……だろうか。周囲にある木製の柵に並べられているのは、ワインの瓶か。
……なんだか、ばからしくなってしまう。
「行こうぜ」と、ケイくんはわたしの手を握り直した。
わたしたちは、先へと進んでいく。
もう、さっきまでの暗闇はない。明るみにさらされて、けれど光は、陰ならぬ影を作り出す。
何もかもを照らすことはできないとでも言うみたいに。
「真っ暗闇の中にいたら、そりゃ、分からないか。でも、きっとおまえはずっとここにいたんだろうな」
「……どういう意味?」
「なんで、叔父さんのことをおまえが知りたがったのか、ずっと不思議だったんだ。
叔父さんはきっと、おまえのことを愛してたし、大事にしてたって、俺は思う。
でも、おまえは不安だった。疑ってた。単純に自信がないって話じゃなさそうだ。なんでかなって、ずっと思ってた。
叔父さんと話して、なんとなく、なんとなくだけど……分かった」
「……」
「あの人は、言葉や態度にできなくて、だから、ものやかたちでしか表せない人だったんだと思う」
「……ケイくん?」
「はっきり言うべきだったんだ。それが支えになるって、あの人だって知らないわけじゃなかっただろうから。
それとも、たしかに言っていて、でも、少なすぎただけなのかもしれないけど……」
まあ、人のことはいいか、と、ケイくんは頭を振った。
何かをごまかそうとするみたいに、彼は饒舌だ。
「おまえが、俺に言ったんだ。"声に出さないとわかりません"ってさ。
たぶん、それが全部なんだ。それで全部なんだよ」
「……何の話?」
「そうだな。どう言えばいいんだろうな」
「……うん」
「つまり……なんて言ったらいいかな。
俺は、そうだな……。おまえに居てほしくて、おまえから目を離したくなくて……違うな。
なんて言えばいいんだろうな」
「……ケイくん?」
「ちょっと待て、今考えてるから。おまえが落ち込んでると落ち着かなくて、泣いてるのを見るとどうにかしたくなって。
それで……違う。こんなんじゃダメだな」
「……あ、あの、ケイくん?」
「なんだよ。ちょっと待てって。なんだろうな、いったい」
「けっこう、すごいこと、言ってるけど……」
「つまりさ」と、わたしの声なんて無視するみたいな勢いで、彼はこちらを振り返って、まっすぐにこちらを見た。
「俺はおまえのことが好きで、おまえがいなきゃ困るんだ。なあ、言ってること分かるか?」
彼の表情は、ライターの灯りに照らされて、その光は、繋いだままの彼とわたしの手さえも明るみにさらした。
頬、に、ほんの少し、赤みがさしている、ように見えた。
わたしは、突然、顔が熱くなるのを感じた。
「……な、なんで急に」
「ん」
「なんで、急に、そんなこと言うの?」
彼は、開き直ったみたいな、すねたみたいな顔をした。
「言わなきゃ、分かんないだろ。ここまで言わないと、おまえはずっと俺のことなんて信じないだろ? ここまで言ったって、きっとまだ信じきれないだろ?
だったら、おまえが信じるまで言うしかないだろ。それとも、なあ……やっぱり俺なんかの言葉じゃダメかな」
わたしは、うまく返事さえできずに、うつむいた。
これは、幻じゃないのかな。
都合のいいだけの、幻じゃないのかな。
わたしはただ夢を見ているだけで、まだ暗闇に横たえていて、そこに妄想を浮かべているだけじゃないのかな。
「ケイ、くん……」
「なあ、叔父さんがおまえを恨んでたかもって、おまえがいなければ幸せだったかもって、そんなこと、本気で思うか?」
「……」
「俺は、おまえと叔父さんがどんなふうに過ごしたか、知らない。知らないから、無責任な言い草になると思う。
でも、思い出せる限り、思い出してみろよ。おまえと過ごした叔父さんは、どんな顔をしてた?
楽しそうじゃなかったか? おまえをどんな目で見てた? おまえを憎んでたと思うか?」
「……」
「前も似たようなことを言ったっけな。でもさ、結局、そういう問題なんだと思う。俺が今言った言葉だって、きっとそうだよ。
――おまえが、それを信じるか、信じないか、それだけのことなんだよ」
わたしは、静かに考え込んだ。
何を、どう、言えただろう。
ただ、いま言われた言葉のすべてが、頭の中を掻き乱して、ショートしそうだった。
ケイくんは、ふたたび前を向いた。目を合わせるのが恥ずかしくなったみたいに見えた。
わたしは、彼に手を引かれたまま、彼の背中とか、首筋とか、後ろ髪とかを、ぼんやりと見上げる。
そうしてふと、思い出した。
「……ね、ケイくん。昔見た夢のことを、今思い出した」
「……どんな?」
「真っ暗な海が、荒れ狂ってるの。わたしは、小舟にのって、波の間を必死に進んでいく」
「ああ」
「どこかに、たどり着こうとしてるの。でも、あたりは真っ暗で、波は荒々しく山みたいに盛り上がって、
わたしが乗っている船は何度もひっくり返りそうになる。オールを漕いでも、ほとんど意味なんてない。そういう夢」
「なるほどな」
「……なるほど、って?」
「いや、有名な話を思い出したよ」
「どんな?」
「どっかの太陽神話だったか……。
朝、神の英雄が東から生まれる。そして日の車に乗って、空の上を動いていく。西には偉大な母が待ち構えていて、その英雄を飲み込んでしまう。
そして暗い夜が訪れる。英雄は、真夜中の海の底を航海するはめになる。そこで、海の怪物と凄まじい戦いをする。
一歩間違えば、死んでしまうかもしれない、生き残れないかもしれない、そんな危険な戦いだ。怪魚に飲み込まれるって話もあるんだったか。
そして、その戦いを生き延びると、英雄はふたたび東の空に蘇る。死と再生の元型……"夜の航海"って言ったっけな」
太陽、夜、魚、航海。
暗い夜、波浪は激しく、生命すら脅かされる。
その暗闇を抜けた先で――日が昇る。何もかもが"白日にさらされる"。それは、必ずしも、祝福ではないかもしれない。
でも、その連想は、今はどうでもよかった。
「そうじゃないの」
とわたしは結局言うことにした。
「ケイくんは……灯台みたいだね」
「……灯台?」
「うん」
「そんな良いもんじゃないと思うけどな。それに、灯台だったら困る」
「どうして?」
「身動きがとれない。迎えにもいけない。ここにも来れない」
「……そっか」
だったら、彼を……何に例えるべきだろう?
そんな考えは、きっと、うまく回らない頭が、どうにか思考を維持するために空転していただけの動作でしかなく、
たぶん、わたしの頭はもう、彼の言葉でいっぱいだった。
ほんのすこし歩いただけで、わたしたちは簡単に向こう側の扉にたどり着く。
その扉の先にもまた、貯蔵庫が広がっている。
今度は少し、構造が入り組んでいた。
◇
ラプンツェルの童話を思い出した。
何年か前に、映画になった、有名なグリム童話。
あのお話を、今ではいろんな人達が知っているけれど、本当の姿は、ほんの少し違う。
お兄ちゃんの持っていた本を読んで、わたしはそれを知った。
ラプンツェルというのは、野菜のことだ。日本だと、ノヂシャと呼ばれる。
物語の冒頭に、まず夫婦がいる。
彼らはなかなか子宝に恵まれず、ようやく妊娠したと思ったら、妻が弱ってしまう。
それで、妻は近くの家の庭のラプンツェルを食べたがり、夫はそれを盗み取って妻に与える。
そこは、魔女の家だと知られていて、だから近付こうとするものは誰もいなかった。
その魔女は、夫がラプンツェルを盗んだことに気付いて怒り狂うが、話を聞いて顔色を変える。
そして、ある交換条件を出した。
庭のラプンツェルを好きなだけ食べてもいい。
その代わり、子供が生まれたときには、その子をわたしに差し出しなさい。
夫婦はその条件をのんだ。
無事に生まれた子供は、ラプンツェルと名付けられて、魔女に連れ去られていった。
娘はやがて美しい少女になり、魔女は彼女を高い塔の中に閉じ込める。
そこには扉もなければ梯子もない、ただ窓だけがある高い塔だ。
魔女は、ラプンツェルの長い髪を梯子の代わりにして、塔の中へと出入りする。
美しい娘は、世界から隔絶され、塔の中をすべてとして生きる。
けれど、何年か後、その塔の傍を、ひとりの王子が通りかかり、ラプンツェルの美しい歌声を耳にする。
王子は心惹かれ、塔を昇る入り口を探すけれど、どこにもそんなものは見つからない。
それで彼は、毎日塔の近くへと出かけていくようになった。
そしてある日、魔女がラプンツェルに髪を下ろしてもらうのを見たのだ。
王子は、賭けのような気持ちで、魔女のいない隙をつき、ラプンツェルに声をかけ、髪を下ろしてもらおうとする。
そして、彼女は髪を下ろした。
ラプンツェルは、男というものを初めて見た。王子は、自分が彼女の歌声に惹かれたことを話し、彼女を安心させる。
そうしてふたりは惹かれ合い、王子はラプンツェルを妻にしたいと言い始める。
彼女はそれを受け入れるが、塔の下へと降りられない。
そのため、彼女は王子に、会いにくるたびに絹紐をもってくるように頼む。それを撚って髪の代わりに塔を降りようとしたのだ。
魔女が塔を訪れるのは、大抵"昼間"で、だから二人は日が暮れた"夜"に会うと約束した。
ところが、約束は思わぬところで破られる。
ラプンツェルは、うっかり口を滑らせて、魔女に王子の存在をほのめかしてしまうのだ。
ラプンツェルを閉じ込めているつもりだった魔女は、この事実を知って怒り狂い、彼女の長い髪を切り落として、誰もいない砂漠に追放してしまう。
その日の夕、何も知らずに塔を訪れた王子は、いつものようにラプンツェルに髪を下ろすように頼む。
魔女は、ラプンツェルの長い髪を窓から垂らす。
そして、塔の中へとあらわれた王子に、こう言うのだ。
――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない。
王子は、ラプンツェルを失った悲しみから前後不覚になり、塔の上から身を投げ出した。
なんとか命はとりとめたものの、茨に刺されて目を潰し、"盲"いてしまった。
彼は体を引きずって、木の実や草を食べて、ラプンツェルを思いながらさまよった。
そして数年ののち、悲嘆の旅路の果てに、王子は彼女が棄てられた砂漠へとたどり着く。
彼女は、二人の子供を産んで、そこで暮らしていた。
ラプンツェルは、王子の姿を認めると、首へ抱きついて涙を流した。
その涙が王子の目に入ると、盲目だった彼の目は、ふたたび"光"を取り戻す。
王子はラプンツェルを国に連れ帰り、ふたりは国中に歓迎され、幸福に暮らす。
けれど、魔女がその後どうなったのか、知るものは誰一人いない。
◇
ラプンツェルは"妊娠"していた。
これは過保護を諌める寓話であるともとれるらしい。
"過剰な保護"、世間との隔絶により世間知らずだったラプンツェルは、初めて見た男というものに心を簡単に許し、
それ故に"妊娠"した。それによって魔女が王子の存在に気付いたという話もある。
"適切な行動を取るためには、それについての知識を身につけていなければならない"。
それは、たしかに面白い受け止め方だ。一面的だという気もするが、べつにそれがすべてと言うつもりもないのだろう。
魔女とは何か、両親の存在はどうなのか、王子は何なのか、なぜラプンツェルは王子に最初からロープのようなものを頼まなかったのか。
どうして魔女は、娘をラプンツェルと名付けたのか。
童話だからと言ってしまえばそれだけかもしれない。けれどここには、汲み尽くしがたい何かが含まれているようにも見える。
どうしてラプンツェルの涙が王子に"光"を取り戻させたのだろう?
それは比喩なのかもしれない。
王子の暗闇と彷徨。それもまた、"夜の航海"なのかもしれない。
旅の果ての砂漠で彼がラプンツェルと出会い、"光"を取り戻したのは……。
べつに、この物語に自分を重ねたわけじゃない。わたしはラプンツェルでもなく、王子でもなく、魔女でもなく、両親でもない。
でも、そのすべてに、わたしがいるような気がした。
わたしは塔の上に閉じ込められ、
あるいは、塔の上に閉じ込め、
"盲"目になってさまよい、
あるいは、"暗"い旅の果てに"光"を取り戻し、
そして、生き延びるために、愛しい人を失うことを受け入れる。
……けれど、魔女は、どこに行ったのだろう。
(――あの綺麗な鳥は、もう巣の中で、歌っては居ない)
◇
わたしとケイくんの前に、階段がある。
石造りの黒い階段は、わたしたちの上方へと伸びている。
二人で並んで、昇っていく。
その先には、白い扉が見えた。
白い扉。見覚えのない扉。まだ、開けたことのない扉。
その先に、わたしたちは向かっていく。何が待っているのかも知らないまま、それでも。
その先に。
わたしたちは、扉を前に、目を合わせ、頷き合う。
わたしは、手を伸ばし、ノブを掴む。
扉は、簡単に開いた。
そして、光が溢れ、わたしは一歩、先へと踏み出す。
光に、わたしは覆われていく、その瞬間、突然に、
(――笑い声が聞こえる)
手が、手の中の手が、なくなっていた。
わたしは振り返る。
彼のからだが、宙に放り出されている。
何かに引きずられたように、暗闇の中に落ちていく。
わたしはその先に、黒い服の女を見た。
(彼女が牙を剥いて笑っている――)
けれどわたしのからだは既にそこにはなく、
◆
まばたきのあと、わたしのからだは、遊園地の廃墟にあった。
背後には既に、固く閉ざされたミラーハウスの扉しかない。
彼の姿はどこにもない。
辺りは暗く、何かを悼むように、ただ雨だけが降り注いでいた。
――東の空が、ほのかに赤く、雲を照らしている。
脈絡のない朝が、唐突にわたしの前に現れていた。
続き
開かない扉の前で【#13】