開かない扉の前で【#01】◆[Alice] A/a
◇[Diogenes] R/a
僕と彼女にとって、だいたいの会話がそうであったように、
その日、篠目あさひがその話を僕にしたのだって、
たいした理由があってのことではなかったのだと思う。
「消えちゃうらしいよ」
と彼女は言った。
僕たちは、昼休みの図書カウンターの内側で、ふたりそろってパイプ椅子に座って、
それぞれに別々の本を読んでいた。
八月の末だ。
どこか遠くの街で大雨が続いているらしく、
水浸しになった道路をかき分けるように進む車の映像が、
テレビでは朝から繰り返し何度も放送されていた。
そんな日だったけど、その雨は僕たちの暮らす街にはまだ辿り着いていなくて、
だから窓の外の景色は実に平穏な、夏の終わりにうってつけの、少しうつろな晴れ空だった。
「消えちゃうって、なにが?」
僕は本のページに視線を落としたまま、斜め隣に座る篠目に訊ね返す。
「人が」
篠目はいつものように、話している内容にも相手にも興味がないのだけれど、という感じの、
静まり返った水面のような無関心な表情で、どうでもよさそうにそう言った。
僕はそれまで本に集中していて、彼女の話を適当に聞き流していたから、
それが何の話なのか結局思い出すことができなかった。
「……何の話だっけ?」
そう訊ねても、彼女はやはり腹を立てることすらせず、
向けられた問いにただ当たり前のように答えてくれた。
「遊園地」
「遊園地?」
「の、廃墟」
こちらの質問に対する篠目の返答には、
おおかたの人間がするような修飾や補足というものがいつも欠如していた。
数学の問題で、結果として出てくる答えだけを書いて、
過程の計算や手順をいっさい省いてしまうような話し方。
当然それは難解で、僕だけじゃなく、大多数の人間にとって、
彼女はかなりやりづらい相手であるらしい。
「……遊園地の廃墟で、人が消える」
と、とりあえず僕は、意味もわからないまま、彼女の言葉をつなげてみた。
「そう」と言ったきり篠目は黙りこんでしまって、やはりその言葉に関する補足をしてくたりはしない。
そんなぶつ切りの情報だけを渡されて興味を持てという方が難しい。
だから僕は篠目の話にたいした関心を覚えなかったし、
話の全容をつかめないからといって、あえて質問を重ねるようなことはしなかった。
「そうなんだ」
と、ただ頷く。彼女といると、だいたいいつもそんな調子だ。
「ねえ、碓氷」と、彼女は僕のことを呼んだ。
「なに?」
「碓氷は、どうなの?」
「……なにが?」
「叶えたい願いって、あったりする?」
僕は面食らって、篠目の方を振り向いた。彼女はページに目を落としたままだった。
「何の話だっけ?」
と、僕はもういちど訊ねた。
「だから、遊園地の廃墟の話」
急に脈絡のない質問になったかと思ったら、篠目のなかでは、ちゃんと話がつながっているらしい。
遊園地の廃墟で人が消えることと、叶えたい願いがあることとのどこに関連があるか、
僕にはよくわからなかったけど、たいして気にせずに、彼女の質問について考えてみる。
そうして、すごく悩んでしまった。
なにかあるはずなのに、それをどう言葉にしていいか分からない。
漠然としたイメージは湧くのに、それをどう口に出せばいいのか、わからない。
しかたなく、僕は首を横に振る。
「急に言われても、ピンと来ないな。……篠目はどうなの?」
篠目は、僕の言葉に何秒か考えるような間を置いたあと、緩慢な動作で面を上げて、こちらを見た。
「わたし?」
「そう」
「わたしは……」
篠目は、黙りこんでしまった。
真剣に考え込んだ様子の彼女には悪いけど、僕は彼女の個人的な望みになんてほとんど興味がなかった。
昼休みの図書室の利用者は少ない。
日に焼けたカーテンに濾された日差しが、薄暗い室内にかすかに差し込んでいる。
僕と篠目のほかに、いま、この場には人間なんていなかった。
そんななか、僕は黙りこんだ篠目を思考の隅に追いやって、自分のことを考える。
放課後のバイトのこと、午前の授業で出された課題のこと、家のこと。
僕が考えごとをしているあいだも、篠目は結局黙りこんだままで、
僕たちは昼休みの時間を、退屈しのぎの本を読み進めることすらできないまま不毛に使いきってしまった。
◇
MDは、決して劣ったメディアというわけではなかった。
容量に優れていたし、CDよりも持ち運びが容易で、カセットテープより再生にまつわるストレスが少ない。
ディスクがカートリッジに入っているから、傷や汚れによる破損も少ない。
持ち運びに難のあるCD用のポータブルプレイヤーと違い、MDプレイヤーはポケットにだって入った。
それでも、問題点をあげようとすると多岐に及ぶ。
ダビング可能な機材の普及率の低さや、ダビング作業自体の手間とかかる時間の多さも一因だろうし、
デジタルコピーに関する権利関係のゴタゴタで普及が進まなかったのもそうかもしれない。
MDによる音源の販売は多くのデメリットのせいで広まらず、その結果、
MDは買ったCDから音楽を移し替える用途でしか機能しなかった。
そして、CDからわざわざ音楽を移し替える手間をかけるほどの意義を、
多くの人間はMDに見出だせなかった。
音質だって、他のものと比べてよかったわけでもない。
携帯電話の普及によるインターネット利用者の増加、
それによって流行しはじめた音楽のダウンロード配信。
くわえて、ハードディスクドライブを内蔵した携帯音楽プレイヤーの知名度の高まり。
より使い勝手の良い機器の登場により、MDの需要はみるみると減っていった。
マルチメディアと称した、CDドライバ内蔵のPCの普及によって、
CDの録音・コピーが容易になり、利便性が高まったのも原因のひとつだろう。
あらゆる要因が、MDにとっては逆風となった。
すべての風向きと巡り合わせが、MDを衰退へと向かわせてしまった。
決して、他のものに比べて圧倒的に劣っていたというわけではない。
ただ、大きな流れのなかにあって、MDはあまりに無力だった。
それは実に哀れな姿だった。
時代の徒花。
従来のメディアに取って代わる新たな媒体として登場し、
一時は流行としてもてはやされ、カーオーディオにだって取り付けられていた。
それが今となっては、誰からも忘れ去られようとしている。
用済みとなり、誰にも相手にされず、姿を消してしまいつつある。
誰も名前を呼ばないし、誰も姿を探さない。
いつなくなってしまったとしても、誰も気付かない。
忘れられた存在。
ある一時期のみ務めを果たし、それを終えたら見向きもされなくなる存在。
やがては完全に、姿を消すことになるだろう。
もはやMDは役目を終えてしまった。
たしかにそこにあったはずなのに、ただ一時期衆目を集めただけで、
定着する前に廃れてしまった。
何の為に生まれたのかさえ、今となっては分からない。
何か悪いことをしたわけではない。
ただ、時代にそぐわなかった。期待されただけの役目を果たせなかった。
状況と事情が大きく変化して、それについていくことができなかった。
それはつまり、ただ不運だったということだ。
◇
放課後になると同時に、鞄からMDプレイヤーを取り出して、イヤフォンをつける。
姉が以前使っていたものを、譲り受けたものだ。
かつて音楽好きだった姉は大量のMDとプレイヤー、コンポを所有していて、
最近になって、邪魔だからという理由でまるまる僕に渡してきた。
勝手に処分してくれ、ということだろう。
最初は厄介なものを押し付けられたと思った。
姉の音楽の趣味の大部分は、僕と重ならないからだ。
そう思いながら、一応MDの中身を確認してみると、
(おそらく当時付き合っていた男や、好きだった芸能人の影響のおかげで)
僕にとってもそんなに悪くない音楽がけっこうな確率で含まれていた。
姉にとってのゴミの山が、僕にとっては宝の山になったというわけだ。
そのおかげというべきか、せいというべきか、とにかく僕は時代に逆行して、MDを偏愛していた。
音楽をかけてから、立ち上がって鞄を持つ。
周囲のクラスメイトたちの話し声を掻き分けながら黙々と歩いていると、
自分が透明人間にでもなったような気分になる。
誰も僕に声をかけないし、誰も僕を気にかけない。
もちろん、僕だって話し相手すらいらないと思うほど達観してはいないし、
人付き合いに倦むほど他人と関わってきたわけでもない。
自分以外のクラスメイトたちの仲のよさそうな姿を見て、羨望を覚えることはある。
とはいえ、わざわざ自分から声をかけたり、今更どこかに混ぜてもらいたいと思ったりするわけでもない。
最初から友達がいなかったわけではない。
ただ、だいたいのクラスメイトとは話が合わなかったし、予定も合わなかった。
彼らが楽しんでいる遊びが僕には楽しめず、彼らの言うジョークの笑いどころが僕には分からなかった。
それは、彼らの、というより、僕の問題なのだろう。
多少、疎外感は覚えるけれど、話の合わない相手と無理に一緒にいるよりは、
ひとりで好きなことをしていた方が疲れないし、気持ちも軽い。
人にはその人なりのスタイルというものがある。僕にとってもこれがそうなのだと思うことにした。
周りからは、強がりにしか見えないかもしれないけれど。
聴く音楽は、できれば日本語でないものが望ましい。
歌詞が頭の中に入ってくると、余計なことを考えてしまうことが多いから避けてしまう。
そこに個人的な好みが加わると、自ずと聴く音楽の傾向は定まってくる。
最近はスティングばかりを聴いていた。
流れ始めたのは、十数年前に映画の主題歌として使われていた曲だ。
いちばん気に入っている曲だった。
イヤフォン越しに聞こえてくる周囲の騒がしさを無視して、
なるべく人の視界に入らないように、邪魔にならないように廊下を歩く。
一緒にいたいとは思わない。でも、誰かの邪魔をしたいとも思わない。
だから僕はなるべく不自然ではなく、なるべく不愉快でもない存在でいようと努めている。
それが達成できているかどうかは分からない。
そういう心がけでいる、というだけだ。
昇降口を出て、空を見る。やはり、雨は降りそうにもない。
なんとなく、そのまま立ち止まってしまう。
溜め息が出る。
やらなければいけないこと、考えなければいけないことはたくさんある。
それなのに近頃は、なんだか何をするにも億劫で、気分が乗らない。
このままじゃ駄目だと思う自分はいるのに、どうしてか、体が重い。
寝不足というわけでもないのに、頭がぼんやりと働かない。
いつからだろう?
ちょっと前までは、もっと、違ったような気がする。
それなのに最近は、麻酔にかけられたみたいに、いろんなことに鈍感になっている。
自分自身の緩やかな変化を、僕はたしかに感じている。
それなのに、それをどうすることもできない。
そのことに対する焦り(……なのだろうか?)に、じわじわと考える力を奪われている。
どうしてだろう? 体調がすぐれないのだろうか?
季節の変わり目だ。気温の変化も、少し激しいように感じる。
調子を崩してもおかしくはない。
でも、そういうことではないような気がした。
僕はあまり体調のことを考えないようにしながら、
しばらく昇降口の側の壁にもたれて目を閉じた。
やがて、頭痛は収まってくれた。
ポケットに手を突っ込んで、時間を確認しようとしたとき、携帯を教室に忘れてしまったことに気付いた。
思わず舌打ちをする。
戻るのは面倒だったが、さすがに教室に置いていく気にはなれない。
やむを得ず校舎へ戻っていく。教室は三階だ。面倒だったが、仕方ない。
少し休んでいるうちに、大抵の生徒はもう移動してしまったらしい。
廊下も教室も、人の姿が一気に少なくなっていた。
部活に行くなり、帰宅するなり、どこかに繰り出すなり、いろんな過ごし方がある。
僕にも、このあとの予定があった。
無駄に時間を過ごしてしまったから、少し急いだ方がいいかもしれない。
そう思いながら教室に入ると、残っていた生徒がふたり居て、両方が僕を見た。
女の方は知っている相手だった。男の方は、見覚えはあるけれど、名前は知らない。
教室に残って、何かを話していたみたいだ。
僕は彼らの邪魔をしてしまったことを後悔しながら、あまりわざとらしくならないように、
それでも少し急いで、何も言わずに自分の机へと向かう。
「どうしたの?」と、女の方が言った。
僕は机の中に手を突っ込んで、携帯を取り出す。
そしてそのまま教室を出ようとした。
「無視かよ」
と男の方が言った。
僕は思わず固まり、振り返った。両方、こちらを見ている。
失敗した、と思った。まさか、自分に向けられた声だとは思っていなかった。
何を言おうか迷い、戸惑っているうちに、沈黙が流れる。
ひどく嫌な感じがした。
男の方が、僕から視線を離した。
「何考えてるか分かんねえんだよな、こいつ」
「ちょっと……」
「どうせ聞こえてねえよ。音楽聴いてるんだろ。俺たちの声なんて聞くつもりありません、って態度だ」
「やめなよ」
僕にとっても彼にとっても残念なことに、周囲の様子を把握するために、音量はいつも低めにしていた。
「気に入らないんだよな。いつもつまんないって顔してさ、自分だけどっか周りから一歩引いてるみたいな顔して、
気取って距離置いて、馴れ合わないのがかっこいいとでも思ってるのかもしんないけど、
ただ誰にも相手にされてないだけだろ」
「やめなって。どうしてそんなこと言うの?」
「ムカツくんだよ。こいつ、俺たちみたいな奴のことバカだと思ってんだ。
何の悩みもない脳天気で気楽な奴らだと思ってる。そういう奴ってのは態度で分かるんだよ。
顔を見れば分かる。自分だけがつらいと思ってる顔だ。自分だけが不幸だって思ってる顔だ。自分だけが特別だと思ってるんだ」
耳元で音楽が流れている。
女の方が、気まずそうな顔で僕の方を見た。男は黙って外を見たままだった。
「……ごめん」
と、僕はとりあえず謝っておいた。
多少驚いたし、いくらか傷ついてもいた。
でも、それ以上に、誰かからそんなふうに思われているということに、
気付けなかった自分の迂闊さが恥ずかしかった。
とはいえ、それを気にしても仕方ない、と僕は頭を切り替えることにした。
そんな僕の態度に、彼はいっそう腹を立てたみたいに眉を逆立てた。
もしかしたら、聞こえないと思って言っていた言葉が聞こえていたと分かって、引っ込みがつかなくなったのかもしれない。
「おまえさ、人生楽しくねえだろ」
何も言わずに、黙ってその男子の顔を眺めた。
そして、なんだか不思議な気分になる。
それ以上その場にいても、かえって気まずい思いをするだけだと思い、僕は彼らから視線をはずした。
このあとはバイトが入っている。時間が余っているわけじゃない。
僕は忘れ物を取りに来ただけだ。
あんまり気にしないようにしたけれど、廊下に出たとき、思わず溜め息が漏れた。
少し歩いたとき、後ろから、「ねえ、待って」と声を掛けられた。
さっきの女子が、教室から飛び出してきた。
落ち着かないみたいに視線を揺らしながら、僕に何かを言おうとする。
「……その、ごめん、ね?」
どうして彼女が謝るのか分からなくて、僕は戸惑った。
「いいよ、べつに、気にしてないから」
もちろん嘘だったけど、嘘だからどうなるというものでもない。
「あのさ、碓氷くん」
「なに?」
「えっと、その、さ」
彼女は何かを言いかけたけど、結局何も言わなかった。
少し気になったけど、時間を置いたせいでさっきの彼の言葉が胸に重く引っかかり始めたし、
なにより僕は今は急いでいた。
「ごめん。今日用事あるから、もう行かなきゃ」
彼女ははっとしたようにこちらを見て、気まずそうに顔を逸らした。
「……そっか、ごめん」
彼女に背を向けてから、携帯の時間を確認する。幸い、まだ急がなきゃいけないほどの時間じゃない。
MDプレイヤーに指を伸ばして、音量を少しだけ上げる。
――おまえさ、人生楽しくねえだろ。
それにしても不思議だ。
――どうして、分かったんだろう?
――彼らは、人生が楽しいのだろうか?
その二点が、とても、不思議だ。
それもきっと、僕の側の問題なのだろうけど。
◇
バイトが始まる十五分前には、もう店についていた。
家から自転車で十分くらいの場所にあるガソリンスタンドで、一年の頃からバイトをしている。
この店を選んだことに特別な理由はない。
ほどほどに近かったから、ほどほどに時給がよかったから。
あとは、休みが少なかったから。
学校が終わったあと、四時から閉店の九時までの五時間、僕はその店で毎日のように働いている。
日曜日が定休日だから、だいたいの場合は週六日。土曜日と祝日は八時間の勤務。
人件費をギリギリまで削りたがる上の都合で、余計な人員を確保せず、
今いる人数だけで回すかたちが基本になっている。
(オーナーと店長、事務の女性がひとり、社員がひとり、バイトがふたり)
休みが思うように取れないからと続かない人間も多いけれど、
僕に限って言えば、毎日のように働けるのは嬉しいことだった。
退屈しのぎになるし、金も入る。
特に欲しいものがあるわけでもないし、目的があるわけでもないけど、
金というものはあって邪魔になるものではない。
一度、店長にきかれたものだった。
「碓氷はそんなに働いて、金の使い道とかどうしてるの?」
「特に……」
「遊んだりはしてるんでしょ?」
「あんまり。友だち少ないので」
「彼女とかは?」
「いないですから」
「じゃあなんか趣味とか?」
「特には……」
「……おまえ、何が楽しくて生きてるの?」
そうだ。そのときも僕は、肩をすくめたのだ。
「さあ?」
と笑って見せたのだ。
◇
うちは大手の看板を借りただけの個人経営のスタンドで、
だからマニュアルもなければ規則と呼べるものもほとんどない。
車に関する作業をインパクト片手に学生がやらされることもあるし、
それでだいたいの場合問題なく回っている。
学生が作業を任されるような店で客は不安がらないのかと最初の頃は訝ったものだが、
ここは二十年以上前からそのように回っていて、
今となっては固定層の客しか来ないのだと言う。
契約している企業なんかを除けば、近所の年寄りやその家族が来るばかりというわけだ。
うちが潰れないのは、先代社長の人脈で、
大手の企業や会社の給油やタイヤ交換なんかをうちでやってもらえるように話を通してあるかららしい。
オンボロでサービスもよくないスタンドの経営が、それで毎年黒字だというのだから驚きだ。
そういう店だから店内の雰囲気も大雑把で、
学生が煙草を吸っていようが、外の人間に見つかりさえしなければ何のお咎めもない。
学生だろうがなんだろうが煙草を吸い放題、らしい。
一度休憩室でシンナーを吸っている奴がいて、そのときは店長が半殺しにして二度と来るなと追い出したそうだ。
基準が分からない。
だいたい二時間に一回くらい小休憩を与えられて、その隙にみんな二階に繋がる階段の狭い踊り場で煙草を吸う。
そこまでいくと『見て見ぬふり』ですらない。
そんなことが当たり前の店の中で、僕は煙草を吸っていない。
興味がないわけではないけれど吸う機会がなかったし、金もなかった。
ここに来てから何度も「吸ったら?」と聞かれたけど、人に言われるといっそう吸う気がなくなるものだ。
そういうわけで僕はもらった小休憩の時間を、水筒の中にいれた水を飲みながら過ごしている。
水筒の中身はもともとお茶なのだけれど、学校で飲みきってしまって、それを一度洗ってそこに水道水を入れている。
あんまり気にしたことはないけど、他人から見ると苦学生みたいに見えるらしい。
甘ったるいジュースを飲むよりは、水道水を飲んでた方が気分が楽だというだけなんだけど。
あるいは、もしかしたら、こういう日々を削り取るような行動こそが、近頃の憂鬱の原因なのかもしれないけど。
水道水というのもぬるいとまずく感じるもので(もともとそう美味くはないけど、それ以上に)、
最低限喉を潤す以上は飲む気になれない。だからこそいいのだとも思う。
溜め息をついて、不意に今日の放課後のことを思い出した。
ふたりの男女。
男の方は知らない。
女の方は知っている。
生見 小夜。
クラスメイト。中学が一緒だった。小学校も。昔は仲がよかったような気がする。いつのまにか疎遠になった。
どうして? どうしてだっけ。忘れてしまった。考えなくなったからかもしれない。
彼女は何を言いかけたんだろう。たいしたことではないのかもしれない。
でも、妙に気になった。
いや、妙なことでもないのかもしれない。
どうなんだろう?
『かもしれない』、『かもしれない』。自分のことなのに、よくわからないことばかりだ。
自分の気持ちさえ、あんまりはっきりと考えたくなくなったのは、いつからだろう。
考えるのは、金のこと、家族のこと、学校のこと、バイトのこと。
自分のことは、いつ頃からか、考えなくなった。
篠目の言葉を思い出す。
――叶えたい願いって、あったりする?
……どうなのだろう。
願い。
少し考えてから、ふたつのことが思い浮かぶ。
金のこと、姉のこと。
でも、そのどちらもが、途方もないことのように思える。
遊園地廃墟のミラーハウス? 叶えたい願い?
頭にちらつくのは、生見小夜の声。
小夜啼鳥の童話。ナイチンゲール。 そんなささやかな連想。
彼女が俺に向けて声を発したのはいつぶりだろう?
とっくに存在を忘れられていたと思っていた。
でも、だからどうだというわけではない。
と、僕は思おうとする。そうしている自分を見つけて、自嘲する。
そして、すぐに忘れようとする。……近頃は、そんなふうに、自分の感情に打ち消し線を引くことが増えた。
叶えたい願い。
それにも打ち消し線だ。
◇
土曜の昼過ぎに、黒いドラッグスター250が店にやってきた。
フルフェイスのヘルメットを脱いで出てきたのが、自分と同年代くらいの女だった。
「満タン」
とだけ言って、彼女はバイクを降りると、ショートカットの髪が額に張り付いたのを疎むように顔を振った。
愛想もなければ他に言葉もなかった。
給油を終えて、代金のやり取りを済ませると、彼女はあっといまに去っていった。
昼休憩のときに、休憩室の暑さを嫌って店の裏手のコンビニに行くと、そのドラッグスターが止まっていた。
彼女は雑誌コーナーで立ち読みをしていた。店に入った僕の方をちらりと見ると、すぐに視線を逸らす。
かと思うと、もう一度こちらに視線をよこして、「ああ」という顔をした。
僕は店の制服のままだったから、すぐにさっき会った相手だと分かったのだろう。
こちらから声を掛けずにいると、彼女は黙ったまま再び雑誌に視線を落とした。
顔見知りの店員に声を掛けられながら、飲み物を買う。
節約はしているが、生活費を切り詰めてまでというほどではない。可能な限り削って、という感じだ。
極端なやりかたでは、身も心も持たない。ただでさえ、精神的に弱い人間だという自覚はある。
飲み物を買ったりするのは避けていたが、気温次第では持ってきた水筒だけではどうしても足りなくなる。
喉が渇くのだ。
店を出て軒先でスポーツドリンクに口をつけたとき、例の女の子が店から出てきた。
紙パックの野菜ジュースにストローをさして口をつけたところで、僕と目が合う。
僕はとっさに視線をそらした。
僕は彼女を意識の埒外に追いやろうとしたが、彼女は黙ったまま僕の近くまでやってきた。
なんだろうと思って見ていると、どうやら目的は僕の脇にあった灰皿らしかった。
煙草をポケットからひとつ取り出して、彼女は口にくわえて火をつけた。
どうみても未成年のように見えたが、不思議とその様子は似合っていた。
じっと見ていると、彼女は疎ましそうにこちらを睨んで、煙を吐き出した。
「……何か?」
「いえ」と僕は否定して視線を逸らした。
そこで話が終わるかと思ったら、彼女は苛立たしげに言葉を続ける。
「何か言いたいことがあるんでしょう?」
「特には」
「あんたみたいな人、大っ嫌い」
「本当に何もないんだ」と僕は言った。彼女は怪訝そうに眉を寄せた。
言うか言わないか迷って、結局言った。
「はっきり言うと、あなたにそんなに興味がないんだよ。どうでもいいんだ。
ちょっと目に入ったから見てただけで、べつに何にも思うところはない。さまになってるなって、せいぜいそれくらいだ」
どうでもよかったから、言葉を返してしまった。
どうでもよかったから、どう思われようがかまわなかった。
彼女は僕の言葉に、少し意外そうな顔をして、煙草にまた口をつける。
「あんた、変な奴ね」
「どうだろうね」
「変よ。普通、わたしみたいな奴に話しかけられたら、へらへら笑って逃げ出すでしょう?」
「べつに、僕がここを立ち去る理由がないと思うから」
「理由、ね」
女は何か考えるような素振りを見せた。
「ねえ、あなた名前は?」
僕は一瞬面食らったけど、名前を教えたところで生まれるような問題があるとは思えなかったから、結局答えた。
「碓氷遼一」
「遼一、ね。わたしはすみれ」
「すみれ?」
「そう、すみれ。ねえ、遼一」
突然の名乗りにも呼び捨てにも、僕は対して戸惑いを覚えなかった。
ただ、どうしてだろう。彼女の声をきいていると、頭がすっとするのを感じる。
僕が持っていないものを彼女がもっているような気がする。
「あんた、死にたがりでしょう?」
空気が、しんと止まるのを感じた。周囲から音が消えたような気さえする。
「どうして?」
「目が死んでるもの」
ひどい言われようだ。
「目で分かる」と彼女は言う。
「目で分かるのよ」
「そういうもの?」
「ねえ、今暇?」
「まあ、休憩中だから」
「わたしと一緒に行かない?」
「どこへ?」
「どこか」
「どうして急に?」
「道連れがいてもいいと思ったから」
「悪いけど、バイト中なんだよ」
「サボっちゃえばいいじゃない」
「そうもいかないよ」
「どうして?」
「どうしても」
彼女は心底不思議だというふうに首をかしげた。
「どうして? 働くのが好きなの?」
「そういうわけじゃない」
「好きでもないことをやってるの? どうして?」
「みんなそんなもんだろう」
「みんなそう言うわよね。やらなきゃいけないことをやらなきゃ生きていけないんだって。
でも、わたし、違うと思う。生きていくためにやらなきゃいけないことをやらなきゃいけないなら、
そのせいでしたいことができないなら、わたし――べつに、生きられなくてもかまわない」
僕はちょっと感心した。
「全部全部投げ出して、好きなことばっかりしてたいって、思うじゃない? その方がきっと、ずっと気持ちいいのに」
それはずいぶん、分かりやすい甘言だ。
「……たしかにバイトは嫌だけどね。かといって、きみと一緒にどこかに行きたいかと言われたら別にそうじゃない」
「どっちもやりたくないことってわけだ」
「そういうことになるね」
「だったら、あんたのやりたいことってなに?」
「……さあ、なんだろうね」
彼女は僕の方を見て笑う。僕も思わず笑った。
きっと彼女は、質問の答えに既に勘付いていたことだろう。
不思議と、そういうことが分かった。さっき会ったばかりの人なのに。おもしろいものだ。
彼女は手を振り上げながら、僕の方に何かを投げてよこした。
まだ半分以上中身の残った煙草と、安いライターだ。
「また会いに来るよ。気が変わったら、一緒にどっかへ行こう」
「……気が向いたらね」
また彼女は笑って、去っていった。
僕は手の中に残された煙草のパッケージを見ながら、少しだけ考えごとをした。
やりたいこと。
叶えたい願い。
少し滑稽だという気がした。
◇
「碓氷! おまえこっちやれ!」
夕方のピークタイムだった。
現場帰りのトラックと帰宅途中の現金客が押し寄せて、ただでさえ混みあう時間だ。
ひとりが煙草休憩に入っているときに混みあうタイミングが来てしまった。
店に居たのは僕と社長だけ。店長は月末だというので集金に行っていた。
べつに回そうと思えば回せない数じゃない。落ち着いていれば、問題なくこなせる仕事量だ。
問題は社長の仕事の振り方だ。
こっちが何かをやっているときも構わずに指示を出してくる。指示に従えば効率が落ちるし、従わなければ怒鳴られる。
普段は配達にばかりいってろくに店にいないから、社長と時間が被ることはまずないのだけれど、
この日は偶然、それが忙しい時間に重なってしまった。
まいったな、と僕は思った。こうなるとあとで絶対に小言が始まる。
自分のせいで怒られるのは仕方ない。
でも、どうしようもないことは……。
仕方ないことだけれど……。
たしかに、僕の動きは良いとは言えなかった。
それは僕自身の能力の問題だ。
僕はなるべく、できることはこなそうと思うし、可能なかぎり最善を目指そうと思っている。
もちろんその心がけだけでは意味がない。
僕は基本的に真面目に仕事をこなそうと思っている。
それでも失敗をするし、判断ミスをする。僕はとても愚鈍な人間だからだ。
ミスは指摘されるべきだし、非難は甘んじて受け入れるべきだ。
僕は能力があるとは言いがたい人間だ。
それでも僕は僕なりに一生懸命にやっていくしかない。
……やっていきたいわけじゃない。……やっていくしかない。
案の定、客の流れが途絶えたとき、社長は顔を真っ赤にして僕に説教をはじめた。
曰く、やる気がないなら帰れ。曰く、お前がやっているのは仕事をしている振りだ。曰く、やりたくないことをやらないで済ますってわけにはいかないんだ。
曰く、楽な仕事に逃げていても見ていれば分かる。曰く、そんなことでやっていけるほど世間は甘くない。
はい、はい、はい。と僕は返事をする。
本当に分かっているのか、と彼は言う。
はい。
何を言われてるか分かるか。
はい。すみません、自分の判断ミスでした。
お前もここに来て半年以上になるんだぞ。いい加減何を優先していいかくらい分かるだろ。
はい。すみませんでした。
掛けの客は適当にやったってどうせ店に来るんだ。現金の客を大事にしてくれ。うちの売上に関わるから。
はい。
何か言いたいことがあるのか?
ありません。
言いたいことがあるなら言っていいぞ。
ありません。
本当に頼むぞ。
はい。気をつけます。すみませんでした。
心は鈍くなっていく。
◇
結局のところ、咲川すみれとの出会いは、僕にとってのひとつの大きな分岐点だったのだと思う。
僕はひょっとしたら彼女に会うべきではなかったのかもしれない。
あるいは、彼女の言葉に耳を貸すべきでなかったかもしれない。
そんな『もしも』の話は、けれど無意味だ。
僕の頭も心も、ひたすらに鈍さを保とうとしていた。
何も感じないように、できるかぎり平坦でいられるように。
そんな僕の気持ちの蓋に、あのときのわずかな会話だけで、すみれは隙間を作ってしまった。
おそらく、すみれだけではない。
篠目あさひが世間話のつもりでしただろう奇妙な質問。
生見小夜と一緒にいた男子生徒の言葉。
いろんな出来事が、いっぺんに起きてしまった。
何も起きなければ、自分を保っていられた。けれど、起きてしまった。
だから僕は、揺らいだ。
――やりたくないことをやらないで済ますってわけにはいかないんだ。
――そんなことでやっていけるほど世間は甘くない。
叱られた日の帰り道の途中、不意に、小夜の顔が頭に浮かんだ。
突然、何もかも投げ出して、この街から逃げ出したい気持ちになる。
叫び出したいような、気持ち。
でも、そんなのはきっと子供っぽい感情だ。そう分かっているから、僕は自分の気持ちを殺す。
感情のままに動いたって、誰も認めてなんてくれない。僕にはやらなきゃいけないことがある。
でも、それでも、何かに置き去りにされているような焦燥感が離れない。
何かを間違えてしまったような感覚。
いつものように、その感覚を押し殺して、鈍くなろうとする。
――そのせいでしたいことができないなら、わたし、べつに、生きられなくてもかまわない。
――だったら、あんたのやりたいことってなに?
それなのに、頭の中で耳鳴りのように響くすみれの言葉が、僕の感覚を、視界を、妙にはっきりと、くっきりとさせていく。
感覚が、痺れを覚えるほど、鋭敏になっていく。
◇
翌週の月曜の朝のことだった。
「いま、平気?」
そう声を掛けてきたのは生見小夜だった。僕は怪訝に思いながら頷いた。
「ちょっときて」
彼女は少しためらいがちな素振りで、僕のことを廊下の方へと手招きした。
僕は頷いて、彼女の後を追う。
彼女は僕がついてきていることを確認すると、すたすたと廊下を進んでいく。
向かう先は廊下のはずれ、上階へと繋がる、あまり使われていない校舎端の階段だった。
踊り場までやってくると、彼女は「ふー」と溜め息をついて、僕の方を見た。
「えっと、遼……一、くん」
続きを待って黙っていると、彼女は不安がるみたいに言い直した。
「……碓氷くん」
「……なに?」
彼女は僕と目を合わせようとしなかった。
怯えられているのかもしれないし、気味悪がられているのかもしれない。
「あのさ、先週は、ごめん」
僕の方を見ないままで、彼女はそう言った。
「どうして生見が謝るの?」
「どうして、って?」
「生見が僕に何か言ったわけでもないのに」
「えっと、それは……」
どうも、彼女の話は要領を得ない。
それとも、違うのか? 僕が彼女の言葉を理解できないだけで、彼女の言葉にはちゃんとした脈絡があるのだろうか。
よくわからない。
「なんとなく、怒ってるのかな、って」
生見小夜の言うことは、やっぱり僕にはよく分からない。
「……ううん、ごめん、うそだ」
と、少しして、生見は自分の言葉を否定した。
「逆だった。ねえ、碓氷くん……あのとき、どうして怒らなかったの?」
僕は、その問いに面食らった。
「どうして、って?」
「けっこう、ひどいこと言われてたでしょ」
まあ、たしかに。いくらか傷ついた。
でも……。
「別に、その通りだと思ったから」
僕の答えに、生見小夜がぎゅっと手のひらを握りしめたのが分かった。
苛立っているのかもしれない。そういうことがたくさんある。
「なにそれ?」
「それに、あんなことで怒っても仕方ない」
「……なに、それ。達観してるのがかっこいいとでも思ってる?」
まっすぐにこちらを見つめる生見小夜の眉はつり上がっている。
さっきまで謝る気だったらしいのに、今はこれだ。気持ちは、わかるけれど。
「べつに、そういうつもりじゃないよ」
「だったら、なに?」
「……」
別に、答えてもよかった。どうでもよかったから。
でも、そんな態度で、何かを推し量ろうとするような態度できかれると、なんとなく……反発心を覚える。
答える義務はない、けれど。
まあ、いいか。
「怒るのって、エネルギーがいるだろう」
「エネルギーが、もったいないって意味?」
「まあ、そうなる」
生見は呆れたように溜め息をついた。質問に答えただけで、どうしてそんな顔をされなきゃいけないんだろう?
「……碓氷くん、変わったよね」
彼女はそんなことまで言った。
「なんか、遠くなった。壁があるみたい。誰も近付けなくしてるみたい」
生見小夜は、ときどき、抽象的なことを言う。昔からそうだった。
「距離をおいて、測って、近付けないようにしてる。
昔は違った。もっとまっすぐ、わたしと向い合ってくれた。今の碓氷くんは、何を考えてるのかわかんない。
昔は……遼ちゃん、そうじゃなかった」
そう言って、彼女は俯いた。
冗談だろう。そう思った。
遠くなったのも、近付けないのも、何を考えているのか分からないのも、僕に言わせれば彼女の方だ。
昔はそうじゃなかった?
彼女の知ってる僕にそぐわなければ、僕は生き方を正さなければならないのだろうか。
いちいち何かに腹を立てなければいけないのか?
「……ちがう、こんなこと、言いたいんじゃなかった。まちがえた」
生見小夜は、前髪をかきあげて、瞼を閉じた。
「ごめん。ちがう。そうじゃなくて、なにか、悩みがあるなら、いつでも……」
それから彼女は、僕の目を見て、どこか怯えるような顔をした。
「……いつでも、聞くから、って、そう言おうと思ったの」
最後まで言い切る頃には、彼女は僕の方を見ていなかった。
◇
放課後に、「碓氷くんいますか?」と教室にやってきた人がいた。
入り口に一番近い席に座っていた奴がちらりとこちらを見た。どうやら名前は覚えてもらっているらしい。
僕は立ち上がった。
「いたいた」
と彼女は平気そうに笑う。変わった人だ。
「碓氷くん、今日も部活出ないつもり?」
小さな体だ、とまず思う。中学一年生くらいにすら見える。顔つきもそれくらい幼い。
これで最上級生で、先輩だというのだから驚きだ。
「……出ませんけど。どうかしましたか?」
うちの学校は、特別な理由がないかぎりアルバイトは許可されていないし、特別な理由がないかぎりは部活動への参加を義務付けられている。
そして僕に特別な理由はない。
それでも僕は金がほしかったので、サボりやすそうな文芸部に入部して、許可をとらずにバイトをしていた。
ごくたまに、店が休みだったりしたときにだけ顔を出すようにしているけれど、
部員たちは僕の名前を覚えていないだろうし、僕も彼らの名前を覚えていない。
そうじゃない人がいるとしたら、目の前のこの人くらいだろう。
「文化祭。もうすぐでしょ。部誌、どうするの?」
「ああ。書きません」
「どうして?」
「忙しくて」
「ほんとにー?」
「ほんとに」
「怪しいなあ」
「怪しくないです」
「なんで碓氷くん、部活出ないの?」
「バイトあるんで」
「なんでそんなに働くの?」
「お金がほしいので」
「なーんでそんなに、お金ほしいの?」
「……あるに越したことはないですから」
「……ふーん?」
意味ありげに首をかしげて、子供みたいに彼女は拗ねてみせる。
この見た目で文芸部の部長だというのだから、なかなかおもしろい。
くわえていうなら、何かをさぐろうとするような、観察するような、うかがうような、目も。
「……部長は、暇なんですか?」
「んや。これから部誌まとめる作業しなきゃだよ」
「だったら、俺なんて相手にしてないで作業をしたほうが……」
うーん、と彼女はちょっと笑いながら腕を組む。
「そんなこと言わないでよ。きみだって部員でしょ、いちおう」
「いちおうって、言っちゃってるじゃないですか」
「あはは」と彼女はわざとらしく笑う。
「ま、きみはちょっと特別だから」
「そうですか」
「あれ、信じてない?」
「冗談ですよね?」
「うーん、どうかなあ」
部長はへらへら笑って、「ま、気が向いたら顔出してよ」、と、どうでもよさそうに笑って去っていった。
ごくまれに、彼女は似たような質問をしに僕のところにやってくる。
意味ありげなことを言っていたようだけど、おそらく、幽霊部員の様子を定期的に覗きに来ているだけだろう。
たぶん、他の人間にも似たようなことを言っているのだと思う。
さて、と僕は溜め息をついて、イヤフォンをつける。
今日もバイトだ。……バイト。こんな生活を、いつまで続けるんだろう? もうずっと変わらないのかもしれない。
今日は久しぶりに、小夜と話した。部長に会った。でも、どうしてだろう。
すみれのことばかりを、思い出してしまう。
◇
バイトが終わった九時過ぎに、僕は店の敷地の脇に立ち尽くしていた。
何か理由があってのことじゃない。早く家に帰りたい気持ちもあった。
でも、なぜだかそれが億劫だった。
僕は鞄からMDプレイヤーを取り出して音楽をかけた。
手持ちの音源を片っ端から突っ込んで作ったオリジナルプレイリストのMDは、
ランダムにすると基調も統一性も見えないわけのわからない流れを生み出す。
僕はしばらく音楽に身を委ねて休んでいた。
敷地に止めた自転車のそば、街灯には虫がたかっていた。
灯りの消えたガソリンスタンドのそばは薄暗い。車の通行量は少ない。
月は雲に隠れていた。
ふと思い出して、僕は鞄から例の煙草を取り出した。
すみれが、別れ際に僕に渡した煙草とライター。
暗い中でこうしていると、いろいろなことが分からなくなってくる。
いや、最初から、僕にはわからないことばかりなんだけれど……。
バイクが一台、道路を通り過ぎていく。
煙草を一本、箱から取り出して眺めてみる。しばらくそれを続けた。
MDプレイヤーからざらざらと歪んだノイジーなギターサウンドが聴こえる。浮遊感のある甘やかなボーカル。
"マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン"。
血なまぐさいバンド名は、何度聴いてもあまり似つかわしいとは思えない。
僕は煙草を口にくわえてみる。
なぜか、妙に頭が冴えはじめる。
急に意識がはっきりと現実感を持つ。
僕はライターを煙草の先に近づける。
そっと火を点ける。
「……ん」
後ろから物音が聞こえた。
「吸いながらじゃないと、点かないよ」
僕は、驚いて振り返った。
それが誰なのか、暗くてよく分からなかった。
でも、すぐ傍に止まっていたバイクには見覚えがある。
ドラッグスター250。
「いるとは思わなかったな。たまたま通りがかったから、来てみただけなんだけど」
「……」
「あれ、わたしのこと、覚えてない? ……なわけないか」
「ああ、うん」
立っていたのは、すみれだった。
「ちょうど、きみのことを考えてたんだ」
「わたしも。素敵な偶然だと思わない?」
本当にそうなのだろうと思った。
僕は彼女のことを思い出したから煙草を口にくわえたのだし、彼女も僕のことを思い出したからこの道を通ったのかもしれない。
「ひどい顔をしてる」と、彼女は言った。
「暗いせいだろうね」と、僕はすぐに嘘だと分かる嘘をついた。暗さなんかでごまかしがきくものか。
僕はイヤフォンを外した。
光を避けるように街灯に近付こうとしない彼女の表情は、僕からはよく見えない。
彼女はポケットから煙草を取り出して、くわえて火をつけた。
僕も彼女に言われたとおりにしてみた。今度は火がついた。
煙が口の中に流れ込む感触に戸惑いを覚える。
想像していたより嫌な感じはしなかった。
「ねえ、遼一」
「……よく覚えてるね、人の名前」
「あんたは忘れたの?」
「覚えてるよ」
「言ってみて」
「すみれ」
「自分でも不思議なの」
彼女は楽しそうに笑う。
「どうしてあんたの名前なんて覚えてるのかな」
僕にしたってそうだ。
印象深かったから? ……どうして、印象深かったんだ?
「あんた、わたしが知ってる奴に似てるのよね」
「……へえ。そうなんだ。彼氏か何か?」
「いないから、そんなの。……妹」
「ふうん」
どうでもいい、と、そう思った。どうしてそんなことを訊いてしまったんだろう。
彼女は煙草を足元に捨てると、靴の裏で踏みつけた。
「ねえ遼一、あんた、死にたがりなの?」
「どう思う?」
「わたしの見立てだと、そうなんだけど」
「残念ながら、死にたがりとは言えないと思う」
「そう」
どうでもよさそうに、彼女は呟くと、片手に何かを掴んで、こちらに差し出した。
「……なに?」
それは、ヘルメットだった。
「死にたがりじゃないなら、退屈してるんでしょ? 一緒に行かない?」
「どこに」
「ここじゃないどこか」
彼女は真顔でそう言った。
「ここじゃないどこか……?」
「そう」
月を翳らせていた雲が、ゆっくりと流れていく。
そのとき、彼女の姿が月光にかすかに照らされた。
彼女はひそやかに笑っていた。
なにか、とても楽しい内緒の話を、僕だけに打ち明けてくれるような表情で。
「あんた、生きてて楽しい?」
そんな、小馬鹿にするみたいな問いかけ。
僕は答えずに笑った。
連想したのは蛇だった。
楽園の中央には二本の樹が生えていた。
一方は生命の、一方は知恵の。一方の実は永遠の生命を与え、一方の実は善悪を教える。
知恵の実だけが、食べることを禁じられていた。それを食べたら、死んでしまうから。
知恵の実を食べなければ、楽園で幸福に過ごせたのかもしれない。
それでも彼らは知恵の実を食べずにはいられなかった。なぜか?
好奇心? 反抗心? 禁忌を破る愉悦?
それが禁断の実だと知らなかったから? 蛇のそそのかしかたがあまりに狡猾だったから?
いずれにしても、その実を口にした先に待っていたのは、楽園からの追放と果てのない苦役だった。
バカバカしい、と、その連想を鼻で笑う。
彼女が差し出したヘルメットが禁断の実だとしたら、ずいぶんと滑稽な話だ。
僕は差し出されたヘルメットを受け取った。
彼女はまた笑う。
「ねえ、そうだよね」と、彼女は楽しげに呟く。
その目は僕の方をまっすぐに見ている。
「――生きてるって、最高につまんないよねえ?」
だからさあ、と彼女は僕の肩をバシッと叩いた。
「ここじゃないどこかにいこうよ、わたしたちが心の底から笑えるようなところが、きっとあるはずだもんね!」
その言葉のばかばかしさに、僕も笑った。
「どこだよ、それ」
「知らないよ、そんなの」
と言って、彼女はバイクにまたがって、後部座席をパシパシ叩いた。
「ほら、行こう!」
「だから、どこに」
「知らないよ! どこかないの? 行きたいとこ」
行きたいところ。
そう言われたとき思い出したのは、篠目あさひの言葉だった。
「遊園地」
「遊園地?」
「……の、廃墟」
「いいセンスじゃん、遼一」
僕は彼女の真似をして、煙草を足元に捨てて靴の裏で踏みにじってみた。
どこかに行けそうな気がした。
「ねえ遼一、あんたのことなんて欠片も知らないけど、わたし、あんたのこと好きになってきた」
僕は笑った。
「それは、素敵な偶然だね」
彼女も笑った。
そのようにして、僕たちは自ら楽園を後にした。
◇
彼女の誘いに乗るべきではなかったのかもしれない、と、
そう思ったのはだいぶあとになってからのことで、
彼女の後ろで打ち当たるような風を受けている間は、
ただ流れていく景色のことだけを考えて頭をからっぽにしていた。
そんな時間は久しぶりだった。
目的地の正確な場所を僕らはふたりとも知らなくて、
ヒントは僕が朧気に記憶している地名くらいのもので、
あとはコンビニに置いてあった地図を頼るしかなかった。
僕らは何度かコンビニに寄って地図を眺めてみたりした。
そのたびにすみれが煙草を吸うので、彼女の持っていた煙草はあっというまに減っていって、
結局新しく買い直していた。
「マイセン」
店員はいくらか訝しげな目を向けてきたけど、結局売ってくれた。
「すみれさ」
店先の灰皿の前で煙草に火をつけた彼女に声を掛けた。
いくらか、疲れで頭がぼんやりしていた。
「ん?」
「いくつなの?」
「内緒」
すみれは笑った。どうでもいいか、と僕は思った。
「ねえ、どうかな? わたしたち、目的地に近付いてると思う?」
「標識が偽物じゃなければね」
「あんた、くだんないこと言うよね」
「嫌い?」
「どうかな」
「癖になってるんだよ」
「なにが?」
「なんだろう。はっきり言わないことかな」
「"どうして?"」
「さあ? そろそろ行こうか」
時刻は十一時を回っていた。
「急ぐ旅でもないけどね」
「どうかな」
「帰りたい?」
「まさか」と僕は言った。本心なのかどうかは自分でも分からなかった。
家のことが気になっているのはたしかだ。
学校や、バイトのことや、いろんなこと、それから……。
でも、帰りたいかと訊ねられると――。
「さ、行こう」とすみれが言ったので、僕は彼女に従った。
結局、遊園地に辿り着いたのは日付が変わる頃だった。
閑静な街並や狭い道路を走り抜けるとき、バイクの排気音が気になったけど、
今時間起きている人がいるとしても、きっと「うるさいなあ」と思って特に何もしないだろう(普段の僕だってそうだ)。
準備の悪い僕たちは懐中電灯すら持っていなかったから、携帯のライトを使ってかろうじて辺りを照らした。
「バイク、停めとくの嫌だなあ」
と、すみれは心配そうにしていたけど、ここまで来て引き返すなんて僕はごめんだった。
そう伝えたら、彼女も結局、遊園地の敷地内へとついてきた。
ひとりにされるのが嫌だったのかもしれないし、僕に対して責任感のようなものを覚えたのかもしれない。
真っ暗闇の遊園地はただでさえ不気味だったし、廃墟だというのだからなおさらだ。
僕たちは何を目指しているかも分からずに歩きまわった。
そうしてときどき、錆びた柵にもたれて煙草を吸ったりもした。
そもそも、ここが目的地なのだ。僕たちは到着している。
「ね、空見て」
煙草の煙を吐き出しながら、不意にすみれが言う。
「星、綺麗」
「たしかに」と僕は言った。
「星座とか、分かる?」
「いや」
「わたし、知ってるよ。秋の星座は、カシオペア、アンドロメダ、くじら……今も見えるのかな」
と、彼女はささやくように言ったけれど、僕にはどれのことだか分からなかったし、そもそもくじら座なんて言葉自体初めて聞いた。
真っ暗闇の遊園地から見える星空は煌々と輝いて綺麗だった。
周りには空を切り取る建物も光もない
ひょっとしたら、大昔の人間の見た星空も、こんなふうだったのかもしれないと、ぼんやり考えた。
それとも、その頃の空と今の空は、やはり違っているのだろうか?
過去と今では、今と未来では、いろんなものが変わってしまっているのだろうか?
「くじらは怪物なんだよ。お姫様を食べちゃうんだ」
「……?」
すみれの言葉に、僕は首を傾げた。
「そういうお話」
「誰かがくじらに飲み込まれる話なら、僕も知ってるよ」
「どんなの?」
答えようと思って、僕は口ごもる。
今の自分のその状況が、その話に似ているような気がしたのだ。
「ヨナ書だよ」
「なにそれ」
「聖書」
「詳しいの?」
「べつに。ちょっと興味があって」
「悩みでもあるの?」
「子羊だから」
「ジンギスカン、美味しいよね」
「ついでに毛が黒い」
「それも聖書か何か?」
「いや。慣用句」
「ふうん。バカみたい」
「たしかに」
どうでもいいようなやりとりが心地よかった。
それから僕たちはまた歩きまわり始める。
べつに新しいものを得られもしなかったし、天啓も降りてこなかったし、腹の底から笑えもしなかった。
ここじゃないどこか?
馬鹿らしい。そんなものどこにもない。
子供にだって分かる。
僕たちは「ここ」にしかいられない。言葉遊びでもなんでもなく、文字通りそうなのだ。
そんなことを、どこかうんざりした気持ちで考えていたとき、僕らは“それ”を見つけた。
最初に気付いたのは僕だった。
一瞬で背筋が粟立った。
思わず立ち止まった僕の方をすみれが見たけれど、彼女が“それ”に気付くまでは少し時間がかかった。
無理もない。
女の子がひとり、建物の前に立っていた。
真っ黒な服を着て、建物の真っ黒な影に溶け込むようにして。
そして、僕らの方を見つめながら、何も言わずににやにやと笑っていたのだ。
それに気付いたとき、すみれは怯えたような頼りない声をあげた。女の子の薄笑いは消えなかった。
やがて彼女は、口を開いた。
「ひさしぶり。元気だった?」
その存在の唐突さ、その理解できない発言、不気味な姿、不気味な衣装、不気味な笑み。
どこをとってもぞっとするような女。
でも、何よりも僕らを混乱させたのは、
彼女のその顔と声が、すみれにそっくりだったことだ。
すみれは、信じられないものを見たような顔で、彼女を見る。
「……あんた、誰」
すみれが問う。
「わかってるくせに」と彼女は笑う。
僕とすみれは後ずさり、互いに体を近付ける。
それを見て、女の子はまたにやにやと笑い始める。
「寄っていかないの?」と言いながら、彼女はうしろの建物を示した。
僕は暗闇に目を凝らし、近くにあった看板の文字をどうにか読み上げる。
「……ミラーハウス、か?」
「そう。今なら、鏡の国に連れていけるよ」
「……鏡の国?」
「そう。あなたが望む景色、なんでも見せてあげる」
僕たちは黙りこんだ。少女は、また笑う。
「心配しないでよ。夢みたいなものだと思ったら?」
……夢だと思いたい相手に言われるのも、妙な気分だった。
「……ね、どう?」
女は言う。僕の方を、じっと見ている、気がする。
「あなたは、叶えたい願いとか、ない?」
その問いかけを聞いたとき、篠目がしていた話の意味が、ようやく僕の中でつながった。
夢、幻覚、心霊現象、超常現象、都市伝説、フォークロア。
いずれにしても、目の前にいるこの少女には、現実を超越したような、高みから見下ろすような不思議な雰囲気がある。
空には月と星、地上には奇妙な生き物が三匹。ひょっとしたら、ひとりは生きてさえいないかもしれない。根拠もなく、そう思った。
雰囲気に呑まれたのだろうか?
それとも、彼女の言葉が、僕の心のどこかに響いたのだろうか?
そんな他人事めいた気持ちでしか、自分の感情の動きさえ掴めない。
でも、たぶん僕には、見てみたい景色があったんだと思う。
きっと僕は、どこかで篠目の話を覚えていて、
だからこそ、こんな場所に来ることを提案したんだと思う。
僕は、何も言わず、彼女に近付いていく。
引き止めるような、すみれの声。
僕は振り返らなかった。
女は満足そうに頷くと、僕の背後に視線をやり、
「"すみれ"は」と、知るはずのない名前を告げて、
「どうする?」と笑みを浮かべたまま訊ねた。
すみれは、答えずに、
「……あんた、誰」と、そう繰り返す。それは、僕にはなんでもいいことだった。
「誰でしょう?」と女は笑い、建物の中へと歩き始める。
僕は何も言わずに、彼女についていく。
すみれは何も言わなかった。
僕は一度だけ振り返って、「来ないの?」と肩越しに訊ねた。
彼女は、苦しげに俯いてから、僕の方へと駆け寄ってくる。
そうして僕らは、ミラーハウスに足を踏み入れた。
◇
「……ね、どういうことだと思う?」
肩で息をしたまま辺りの様子をうかがって、すみれはそう訊ねてきた。
「どれについて?」と僕は訊いた。
「どれって?」
「どうしてミラーハウスの奥の扉が知らない街に繋がっていたかってこと?」
「それもだけど」
「さっきの女の子はどこに行ったのかってこと?」
「それもだけど、そうじゃなくて」
「じゃあ、どれのこと?」
「本気で言ってる? それとも現実逃避してる?」
「……これが果たして現実なのかな」
「現実だと思いたくないのはやまやまなんだけどね」
ぐるるる、と音がした。
摺るような足音。
「……来た?」
ひそめた声で、すみれが言う。
「……来たみたいだね」
僕たちはそのまま息を止める。
「逃げた方がいいんじゃないのかな」と僕は言った。
「でも、音を立てたら……」
気付かれる、とすみれが言いかけたところで、角の方から彼は姿を現した。
すみれの体がびくっと揺れる。僕も多分揺れたと思う。
たっぷり三秒ほど、硬直した。
黄褐色の毛並みとたてがみ。
逞しい四本足でのそのそと歩き、無機物のような瞳をこちらに向けてくる。
目線こそ僕らより下にあったけれど、体躯の大きさは比べ物にならない。
牙を向けば、僕らの腕くらいならやすやすと噛みきれそうだ(というか、噛み切れるのだろう)。
"彼"というのはそういうことだ。鹿と同じくらい、彼らの性別を見分けるのは容易い。
声も出せずに硬直した場面が、彼が踏み出した前足で動く。
僕らは翻って全力で逃げ出した。
「……なんで、わたしたち、ライオンに追われてるの!」
裏返った声で、すみれが叫んだ。そんなの僕にだってわからない。
夜の遊園地(廃墟)に忍びこんだら、ミラーハウスの前でドッペルゲンガーみたいな女の子に出会いました。
彼女にしたがって建物の中に入ったら、いちばん奥に大きな扉がありました。
扉を開けたら鏡があって、女の子はその鏡をすり抜けて進んでいって(?)、
僕らも鏡に触れてみたらすりぬけてしまって、気付いたら西欧風の箱庭めいた街並に立っていて、
いつのまにか女の子はいなくなっていて、何がなんだか分からずに歩いていたら女の子の代わりにライオンと出会いました。
おしまい。
脈絡の無さが古い童話めいていた。
「遼一、どうしよう?」
走りながら、すみれは混乱した様子で言う。
笑い話だ。
「どうしようって、逃げるしかないよね?」
肩越しに振り向くと、ライオンはバネのように追いかけてきている。
「逃げきれないよ! ライオンだよ? ライオンより速く走れるわけない!」
「べつにライオンより速く走る必要はない」
「え?」
「きみより速く走ればいいだけだ」
すみれは一瞬考えるような間をおいてから、意味を察したのか、悲痛な声をあげた。
「……わたしが食べられてる間に自分は逃げられるからそれでいいってこと?」
「そういうことになるね。いいんじゃないか。生きてるの、つまらないって言ってただろ」
「あんただって死にたがりじゃない!」
「僕は死にたがりじゃないよ」
「死にたい死にたい言ってる奴に限って、危機に瀕したらこんなもんよね、結局生きてることに実感が沸かないだけなんじゃない!」
「それ、自虐? もっとシンプルな考え方があるよ」
「なに?」
「仮に死にたがりだとしても、痛いのは嫌だし、生きながらかじりつかれるのはごめんだ」
「……それは本当に、そう思うけどね」
なんて言っている間に、すみれが足をもつれさせた。
慌てて僕は彼女の腕を引っ張ってスピードを上げる。
彼女はかろうじて転ばずに済んだ。
「腕、痛い! 肩も!」
「ありがとうが先だろ」
すみれは鼻を鳴らした。
「……どうもありがとう。あんたってとっても偽悪的ね」
「皮肉を言う余裕があるのは結構なことだけどね」
「お互い様でしょ?」
そうこう話しながらも走る速度は緩められない。……とはいえ、後ろから迫る四足獣も、必要以上に距離を詰めてはこない。
いたぶられている気分だ。
追いかけっこの本質は速さ勝負じゃない。体力勝負だ。
もし圧倒的に体力に自信があるなら、ゴールが設定されておらず、期限が決まっていないのなら、
勝つのは速い方じゃない。より長く走っていられる方が勝つ。
いいかげん、すみれも体力の限界が近いらしい。
他人事みたいな街灯の灯りが憎々しい。
不意に、見上げた夜空に、僕は思わず笑ってしまった。
「……なあ、すみれ」
「なに?」
「月に目ってある?」
「何言って……」
と、すみれは僕の視線の先を追いかけて、言葉に詰まったみたいだった。
貝殻のような笑みを浮かべた三日月のすぐ上に、ふたつ、銀色の円がある。
星というには大きすぎ、月というには小さすぎる。
「笑われてるみたいね」
「……」
見下されて、笑われてる。
「悪夢的だな」
「言ってる場合?」
と、後ろからの気配が近付いてくる。
飛びかかってくるのが分かった。
まずい、と思った瞬間に、すみれの背中に手を置いて前方に押しやっていた。
すみれの体が前へと飛ばされていく。彼女の体が地面に向かって倒れていく。
僕もその勢いでひっくり返って尻餅をつく。
牙、が。
目の前にあった。
ああ、これは死んだな、と一瞬、考えて。
同時に、ちょっと待てよ、と思う自分を見つける。
僕はそれを望んでいたんじゃないのか?
自ら選びとることもなく、終わってしまうこと。
赤信号の交差点で、背中を押されてしまうこと。
眠っている間に、誰かが首をしめてくれること。
僕はそれを、期待していたんじゃないのか?
その瞬間、
パン、と大きな音がして、僕はとっさに目を瞑った。
奇妙な静寂の後、うしろから、「遼一!」と声が聞こえる。
瞼を開くと、ライオンの姿は消えていた。
「……なに、いまの」
「遼一、それ」
すみれが、傍らの地面に落ちている何かを指差す。
ゴムの切れ端のような……。
「……風船?」
僕らは、目の前で起きたことがよく理解できなかった。
それでもとにかく互いの無事を確認すると、立ち上がって周囲の様子をうかがう。
何の気配もしない。落ち着いてみたところで、よくわからない街並。月にはやはり、目があった。
「ここ、どこ?」
「どこだろうね」
僕たちは息を整えながら、それでも立ち止まることができずに歩き続けた。
立ち止まったところで何かが分かるとは思えなかったし、歩き続ければ、さっきの女の子に会えるかもしれない。
そうでないにせよ、何か、事情を知っている誰か(誰だろう?)に出会えるかもしれない。
「……誰か、いるのかな」
疲れた声で、すみれは言った。もちろんそんなのは僕にもわからない。
夜風がやけに冷たかった。
「さっき、転んだとき、怪我しなかった?」
そう訊ねると、すみれはちょっと気まずそうに頷いた。
「うん。平気」
しばらく何も考えずに歩き続けたけれど、誰とも出会わなかった。
やがて、その道の果てに行き着いた。
似たような街並は、正面にも続いている。けれど、大きな水路が邪魔していて、向こう側にはいけない。
橋は見当たらない。
道は左右に伸びていた。
僕らのいる地面は、円形の水路に囲まれているらしい。
「橋がないね」とすみれが言う。
「あったところで、渡るべきかどうか、わからないけどね」
彼女は不安そうに押し黙った。
「とにかく、橋を探してみようか」
うん、と彼女は頷く。
水路と道との間には白い鉄製の柵が張り巡らされていた。
僕は水路の向こうの街並の方に視線を向けてみる。
夜の暗さで、向こうの様子はわからない。
「……なにか、声みたいなのが聞こえない?」
不意に、すみれがそう言いながら、水路の向こうを睨んだ。
耳を澄ませると、たしかにどこかから誰かの声が聞こえる。
「灯りが見える」
灯りが、暗い水路の向こうに、見える。
人がいるのだろうか?
近付いていくたびに、声をはっきりと感じる。
誰かの話し声。何を話しているのかは、よくわからない。何を言っているのかも。
あちら側が、あたたかな光に照らされているのは分かる。
でも、景色はぼんやりとしていたし、人々の話し声もくぐもったように聞き取りづらかった。
すみれはあちら側の人々に声を掛けようと何度か試みた。
でも、何度試してみてもあちらからはどんな反応も帰ってこなかった。
やはり、そこまでの間にも橋は見当たらなかった。
でも、どこかにはあるはずだ。
歩いている途中で、柵の傍にいくつかの銅像が並んでいるのを見つけた。
なんでもない銅像のように見えた。特に偉人や功績者を称えるようなものにも見えなかった。
ただ銅で出来たマネキンのような。
すみれはひとつひとつ、こわごわとその像に触れていた。
そのうちのひとつに触れたとき、何かおかしなことに気付いたような顔をして、
こつこつ、と手の甲で叩き始める。
「これだけ中が空洞になってる」
「へえ、そう」
だからなんだ、とは言わないでおいた。
「ね、この像、少しだけあんたに似てない?」
僕は何も言わなかった。
それからは特別何も見つけられなかった。結局橋なんかないと分かったのは、ふたたび例の灯りが見えてきたときだった。
どうやら一周してしまったらしい。橋は結局、どこにも見つからなかった。
「閉じ込められてるみたい」と、気味悪そうにしながらすみれは言う。
「とにかく、内側を探索してみようか」
「……うん」
頷いてみせたものの、すみれが体力の限界を感じているのは疑いようもない。
僕だって、徒労感と倦怠感と混乱で、冷静さを失わないのが精一杯だ。
水路に沿って歩くのをやめ、内側へと引き返した僕たちは、いつのまにか広場のような場所に出ていた。
人の話し声。
僕とすみれは目を合わせて、そちらへと向かう。
最初はよくわからなかったけれど、そこにはちゃんと人がいた。
シルクハットに燕尾服。大柄の、洋装の男。彼を中心に集まっているのは、小さな子供たちのようだった。
座り込んで、彼の方をじっと見ている。
子供たちの表情は、こちらからでは見えないけれど、男の姿はしっかりと見ることができた。
広場の隅の街灯に照らされた彼の顔は、白い無表情の仮面に覆われている。
白い手袋をした両手からは糸が垂れている。足元で踊っているのは、人形……。
操り人形、マリオネット……。
やがて劇は終わり、男は「今日はこれでおしまい」と言う。子供たちは不平の声を漏らしながらひとりひとりと去っていく。
子供たちの顔もまた、同じような仮面で覆われていた。
ヴィネツィアのカーニバルを連想する。
違うのは、子供たちが着ているのは普通の服だということ。
そのことに子供たちは何の疑問も抱いていないということ。
真夜中に、こんな人形劇があって、それを見るためにたくさんの子供たちが集まっている。
「悪夢的」、と、今度はすみれが言った。
名残惜しそうに立ち去ろうとしない何人かの子供に、人形師は飴玉をひとつずつ渡した。
仮面の子供たちはその場を後にしていく。
最後に残ったのは僕たち二人と、人形師の男だけだった。
彼は言う。
「ごめんね。もう飴玉はない。きみの分はないんだよ。本当に残念だけれどね、きみの分はない」
遠くから笑い声が聞こえた気がした。
男は荷物を片付けると、落ち着いた足取りで広場を後にした。
残された僕らは、広げられた光景の異様さに立ち尽くした。
僕に至っては吐き気すら感じていた。
足元が覚束なくなるような、悪夢と現実の区別が奪われるような、存在と非存在の境が消え失せるような、不気味さ。
「大丈夫?」とすみれがこちらを見上げながら言う。
「大丈夫」と僕は言う。
「……なんなのかな、ここ。わたしたち、変な夢でも見てるのかな」
ライオン。月。水路。銅像。マリオネット。仮面。
悪夢以外だとしたら、いったいなんなんだ?
「象徴だよ」、と声がした。
すみれが僕の服の裾を掴んだ。
広場の入口、アーチの傍に、ミラーハウスの少女が立っていた。
「あるいは、比喩」
「……なんなのよ、ここ」
と、すみれが言う。
「だから、その話をしてるんでしょう?」
女の子は笑う。黒服が月明かりの下で、魔女みたいに見えた。
「鏡は、鏡の世界に繋がってる。そこは扉を開けた人が望む景色。でも、その人が何を望んでるかなんて、鏡は知らない。
だから鏡は問いかけるの。"あなたが望む景色はどこ?" ここは、その質問の答えの途中」
「……望む景色?」
「扉を開いたのは、あなたよね?」
そう言って、彼女は僕の方を見た。僕は頷いた。
「だったら、鏡はあなたに問いかけてるの。"あなたのことを教えて"って」
「……意味がわからない」とすみれは言った。
「そもそも、あなたは誰なの?」
すみれの問いに、彼女はまた笑った。
「"ざくろ"」と、彼女はそう言った。
すみれは、その答えに動揺したように見えた。
「そうじゃなくて、あんたは、何なのよ」
「さあ? わたしにもよくわからない。それより……」
彼女ははぐらかすふうでもなく、本当にわからない、というふうに首をかしげて、言葉を続ける。
「ついてきて。連れて行ってあげる。あなたたち、迷いそうだから」
「連れて行くって、どこに……」
「鏡の国。あるいは、あなたたちの言葉を借りるなら……」
少女は、皮肉っぽく笑った。
「あなたたちが、心の底から笑えるような場所」
◇
ざくろと名乗った少女の姿は、見れば見るほどすみれにそっくりだった。
彼女の名前を聞いてから、すみれは一言も喋らなくなった。
何か考えているふうでもあり、思い詰めているふうでもある。
少し気になったが、僕が気にしたところで分かることなんてひとつもなさそうだった。
ざくろの案内に従って、僕らは街路を歩き始めた。
既に見慣れつつある奇妙な街並は、けれど相変わらず僕の目には異郷として見えていた。
異郷。
象徴?
異郷……。
「ひとつ訊きたいんだけど」
ざくろは振り返らずに「なに?」と問い返してきた。
「さっききみは、ここが質問の答えの途中って言ってた。それってつまり、ここが心象風景ってこと? 夢のような……」
ざくろは、ふむ、と小さく声をあげてから答えてくれた。
「心象風景。そうかもね。どうかな?」
帰ってくる答えは要領を得なかったけれど、僕はかまわず質問を続けた。
「だとすると、この街並も象徴なのかな」
「……人によっては」とざくろは言う。
「街なんかじゃない人もいるかもね」
「たとえば?」
「工場とか、お城とか」
僕はそれ以上質問を重ねなかった。
ざくろは、街路の脇に立ち並ぶ家々のうち、ひとつの前で立ち止まった。
他のものと比べても、特別なにか変わったところがあるようには見えない。
彼女は躊躇わずに中に入っていった。僕達も後に続く。
最初に感じたのは黴の匂いだった。
入り口の脇は小さな部屋にそのまま繋がっていた。すぐ傍には通りに面した窓があり、小さな棚が置かれている。
古びた本が何冊か置かれている。背表紙のタイトルは読めない。
どこの言葉で書いてあるのかもわからない。頁をめくっても、きっと同じことだろう。
剥き出しの梁が天井から突き出している。床は石でできている。肌寒いのはそのせいだろうか。
部屋には暖炉もあり、そのそばにはテーブルと椅子。卓上には燭台もあり、蝋燭も刺さっていたが、火は消えていた。
その隣には、籠に入った四つの林檎。
ざくろは燭台を持ち上げると、そばにあったマッチで蝋燭に火をつけた。
埃っぽい家の奥へと、彼女は進んでいく。奥はどうやら台所になっているみたいだった。
そのまままっすぐに進むと、行き止まりのような場所へと突き当たる。
床には、古びた板が置かれていた。
ざくろはかがみ込み、その板を持ち上げる。
姿を現したのは、地下への階段だった。
その先は暗い。
ざくろは、一歩一歩、慎重そうにその階段を降りていった。
空気が厭な湿り気を帯びている。
階段の先は、広い空間だった。
石の壁、石の床、空気はひんやりと冷たい。天井には灯りが見えたが、すべて消えている。
蜘蛛の巣。
太い柱の向こうには木材でできた柵のような囲いがあり、その中には無数の瓶入りワインが貯蔵されていた。
ワインの地下貯蔵庫……? 民家の地下だけあって、樽などでの保管ではない。
瓶には埃が被っていた。貼られているラベルも同様だが、文字は手書きのように見える。
当然のように、読むことはできなかった。
周囲を照らすのはざくろの手にしている蝋燭の灯りのみ。
だから僕たちは、彼女とはぐれてしまうわけにはいかなかった。
この暗闇、この広々とした空間、似たような柱と壁。
そのなかで方向を見失ってしまえば、きっとここから出ることは難しいだろう。
知らず、呼吸を止めていた。
重々しい、いっそ刺々しいほどの、空気。
なんだろう? なにが問題なんだろう? ……よくわからない。
ざくろの足取りを追いかけて、僕とすみれは進んでいく。
彼女は柱と柱の間を、ワインとワインの間を、迷うこともなく進んでいく。振り返れば暗闇、彼女の進む先以外も暗闇。
どこに何があって、どこから来たのかなんて、僕たちにはもうわからない。どこを目指しているのかさえ。
途中で、僕は何かに躓いた。足元を見ると、それは一冊の本だった。赤い装丁。なんとなく、それを拾い上げてみる。
ページをぺらぺらとめくってみる。ほとんど期待はしていなかったが、文字として読むことはできた。
“In vino veritas.”“vulnerant omnes,ultima necat.”
“Non omne quod licet honestum est.”“Mundus vult decipi, ergo decipiatur.”
“Peior odio amoris simulatio”“Aliis si licet, tibi non licet.”
何語なのかもよく分からなかった。僕は本を閉じて、置く場所もなかったから、結局床に置き直した。
ざくろは先に進んでいく。
僕はそのあとを追いかけていく。
行き着いた先は、行き止まりになっていた。
ただの壁ではない。何か、奇妙なかたちをしていた。飾りがついているのか、なにかの彫刻でもされているのか。
ざくろの蝋燭の灯りが、正面の壁を照らす。
それを見たとき、背筋が粟立つのを感じた。
すみれが声をあげて、僕の背中に隠れる。
人骨が、壁に埋め込まれているのだと最初は思った。床近くに頭蓋骨が壁を作るように並び、その隙間を石か何かで埋めているのだと。
そこから骨は縦に伸び、横に並んだ頭蓋と合流し、七つの骨で十字を描いていた。
他の部分は石ではない。壁をつくっている無数の突起もまた、よくみると骨のように見えた。
壁に人骨が埋め込まれているのではない。積み上げられた無数の骨が、壁を作り上げているのだ。
似たようなものを、本で読んだことがあった。
カタコンベ。
知らず、後ずさる。
ざくろがくすくすと笑った。
目眩と動悸。
僕は間違ったのだと思った。僕は、ここに来るべきではなかった。どこかで引き返すべきだった。
いや、今だって、逃げ出すべきなのかもしれない。
けれど、どこに行ける?
照らされているのは髑髏の壁。
後方はただ暗闇。ここ以外にも、まだ闇に覆われているだけの骨の壁があるのだろう。
階段を昇って街中を歩きまわったところで、出口などあるかどうかも疑問だ。
水路に囲われたこの街。
最初からこの場所で、僕達が選び取れる道なんてなかった。
「怖いの?」
ざくろは笑う。
汗がにじむのを、僕は感じる。
不意に、
目前の壁がカタカタと音をあげはじめる。
あざ笑うように音を立てる。段々と大きく響いていく。
言葉を失い、呆然と立ち尽くす。
その音がひときわ大きく鳴り響いた直後、骨の壁は粉末のようにさらさらと砕け散り、塵になって床に散らばった。
それを、ざくろは踏みつけた。
「行きましょう」と彼女は言う。蝋燭の灯りが離れていく。
すみれが僕の服の裾をつかむ。
僕は何も言わずにざくろの後を追った。
他にどうしようもなかった。
そうして進んだ先に、小さな木製の、古い扉があった。
金具には錠前がついていた。
ざくろがそれに触れると、かたんと音を立てて、錠前は床に落ちた。
そして彼女は、僕らに道を譲る。
「どうぞ」とばかりに手のひらで扉を示す。
後ろを振り向いて、僕はすみれの表情をたしかめる。
彼女は怯えているように見えた。
でも、
もう、ほかにどうしようもない。
僕達がいまここにいるのは、僕のせいなのかもしれない。
でも、それを語るのはもう手遅れだ。
あるいは目の前にあるいびつな景色が、僕自身の心象なのだとして、
景色に溶け込むような家のなか、気付かれないような板の下の階段、覆い隠すような暗闇の奥、
人骨でできた壁の向こう、その先の、鍵のかかった扉。
これが象徴なのだとしたら、この先にある景色は、本当に僕が望んだものなのだろうか?
それとも僕自身の望みというのは、こんなふうにどこか奥底に隠されているのだろうか?
これが比喩なのだとしたら、この扉を僕は僕自身から隠してきたのではないのだろうか?
そうだとしたら、この先の景色を見ることは、僕にとって、望ましいことなのだろうか?
わからないけれど、うしろはやはり暗闇で、引き返すことはもはやできない。
手遅れをあざ笑うように、ざくろが蝋燭の火を吹き消した。
僕は扉に触れて、ゆっくりとそれを押し開けていく。
そうして、静かに、その先へと、一歩、踏み出した。
続き
開かない扉の前で【#03】

