◆[Alice] A/a
とりあえず見てみなさい、と言って祖母が差し出してきた通帳の名義は、どうみてもわたしのものになっていた。
なんだこれ、と思いながら開いてみると、だーっと並んだ残高欄の果ての果てには、
いまいち実感の湧きにくい額がそっけなくぽつんと記載されている。
非現実的な額ってほどではないけど、それでも何気なく見せられた自分名義の通帳に入っていたら、
大きな戸惑いを覚えても不自然ではない程度の額。
そういうわけで、わたしはとりあえず呆然とした。
「なにこれ」
「うん。わたしもびっくりした」
祖母はそう言って、食卓の上の湯のみに口をつけて緑茶をずずっと啜ったあと、ほうっと溜め息をついた。
彼女の顔つきも、ここ二、三週間でかなり変わった。というかやつれた。
溺愛していた息子が二十代前半にして死んでしまったんだから、無理もないだろう。
叔父が亡くなったのはつい先月のこと。
夜中に歩いてコンビニに煙草を買いに行ったら、
信号待ちのあいだに突っ込んできた(と思われる)車か何かに撥ねられたらしい。
らしいというのは、まだ事故の相手が特定できていないから。
どうも、ひき逃げという奴らしい。
ひょろながくて痩せっぽちだった叔父のことだから、車に軽く当たられただけで道路を何バウンドかしてあっさり死んでしまったんだろう。
「ああ、痛いな、うん。これはやばいな」なんて苦笑くらいしたかもしれない。
今頃は賽の河原で子供たちに混じって石積みでもしていることだろう。そういう姿を想像するとちょっとだけたのしい。
こんな想像をするからと言って、べつに叔父のことが嫌いだったり、叔父が死んだことを悲しく思っていなかったりするわけじゃない。
素直に悲しんで見せるよりも、皮肉っぽい想像のなかに彼の死を閉じ込めてしまう方が、
韜晦に満ちた叔父の生涯の締めくくりに捧げるものとしては、なかなかにふさわしい弔いのように、わたしには思えるのだ。
実際、たいした隠蔽力だ。誰にも気付かれずにこんなものまで遺すんだから。
「これって、まさかとは思うけど」
通帳の数字と日付、数年前からの定期的な入金の記録。
祖母は「びっくりした」と言っているから、たぶん知らなかったのだろう。
「そう。あの子、あんた名義の通帳に、だいぶ入れてたみたい」
「なんでまた」
「なんででしょうねえ」
呆れたみたいに、祖母は溜め息をついた。
叔父が死んで以来、溜め息の数と暗い顔をしている時間が増えた祖母だったけど、今はどことなくうれしそうに見える。
悲しいのを通り越したら呆れが、呆れを通り越したら笑いが湧き出てきたんだろう。
祖母のそういう表情を見るのはひさしぶりだから、わたしはなんだかうれしくて、
死んだあとでさえ人にそんな顔をさせられる叔父のことを考えて誇らしくなった。
それと同時に、彼女の心を少しでも安らがせるためにも、はやくひき逃げ犯が見つかってほしいとも思った。
きっと叔父自身は、気にしていないだろうけど。
まあ、死んじゃったんだから、気にすることもできないんだろうけど。
「本当は、あんたが高校を卒業してから見せようかとも考えたんだけど」
と、祖母は言う。
「……なんだか、秘密にしておくのも、ばからしくてね。わたしもおじいちゃんも、いつまで生きてるかわからないし」
そうして彼女は困ったように笑った。
わたしは通帳の数字から目を離して、自分の湯のみに口をつけて、ずずっと緑茶をすする。
「どうして、わたし名義でこんなお金が?」
「口座は、わたしが昔、あんたのお母さんに作らせてたんだけど……どういうつもりなんでしょうね」
「大いなる謎ですね。親なき子だからですかね」
「どうでしょうねえ」
肩をすくめた祖母の声をききながら、わたしは叔父がよく腰掛けていた定位置の方を見て、その空白をたしかめた。
叔父は、金銭的に余裕がある生活を送っているようには見えなかった。
口癖は「金がない」と「金がほしい」だった。
結婚もしていなければ彼女もいなかったし、特に金のかかる趣味があったわけでもなく、
酒も呑まず飲み会にもほとんど行っていなかった。
そんな生活でどうやったら金がない状態になるのか、と、
わたしはちょっと呆れていたんだけど、蓋を開けてみたらこういうことだ。
どういうことだ。
「預かっておこうかとも思ったけど」
と言って祖母はちらりと通帳を見たかと思うと、鼻で笑うように息をつき、
「好きにつかいなさい」
とまた困り顔をした。
はあ、とわたしはあっけにとられた。
◇
そういうわけで、自由にできる七桁の財を大いなる驚きとともに得て、
そのお金でわたしが最初にしたことはといえば、高校の屋上でサボり仲間に缶コーヒーをおごることだった。
九月になって最初の金曜日。
八月上旬頃は各地で猛暑日が連続したとかなんとかと、天気予報士が額に汗をにじませながら言っていたけど、
下旬頃から一気に気温がさがりはじめて、残暑なんて言葉は最初からなかったみたいに肌寒くなった。
季節は手品みたいにあっというまに景色と感覚を塗り替えて、
おかげでわたしも、半袖で平気で出歩いていた先月までの自分の気持ちがわからなくなってしまっていた。
急に冷えるようになって、鼻風邪をひいたらしいケイくんは、
わたしが手渡したあたたかい缶コーヒーを受け取ると、ありがとうも言わずにプルタブを捻って飲み始めた。
「感謝の気持ちがたりないよ」
とわたしが抗議すると、
「気持ちはあるよ」
と彼はどうでもよさそうに答えた。
「声に出さないとわかりません」
「感情表現が苦手なんだよね」
「居直らないでよ」
は、とバカにするみたいに鼻で笑って、ケイくんはまたコーヒーに口をつけた。
吐き出した息が白くなるほどの寒さではないけど、先月までの暑さを思うと、世の終わりかとでも言いたくなる。
「居直りっていうかね、これでも表に出してるつもりなんだ」
わたしは呆れて溜め息をつく。
「あのね、ケイくん。わたしたちのご先祖さまとか、いろんな人達が、
そういう表現が苦手な人のためにとっても大切な発明をしてくれてるんだよ。それはね、言葉っていうの」
「はあ」
「それを使うと不思議なことにね、ケイくんみたいな超がつくくらい不器用な人でも、
たった一秒、文字にしたら五字ほどで相手に感謝を伝えられるんだよ」
「うん」
「ご先祖さまは偉大だよね。はい、ケイくん?」
「ありがとう」
「よくできました」
ケイくんはまたバカにするみたいに笑った。
べつにわたしだって、どうしても彼にお礼を言ってほしいわけではなかった。
ただどうでもいい思いつきをぺらぺらと並べてみただけだ。
本当のところなんでもよかった。
彼が返事をよこすかどうかさえどうでもよかった。ただなんとなく口が止まらなかっただけだ。
わたしのそういう傾向については、たぶん彼も見透かしていると思う。
放っておかれると、中身のない言葉を延々と、だらだらと、並べ始める。
それはひょっとしたら、内面のからっぽを見透かされまいとする自己防衛なのかもしれない。
うちの学校の屋上は開放されていない。
生徒はもちろん教師でさえ必要に駆られたときにしか出入りできない。
というのも、開放してしまうと当然危ないし、くわえて人目につかないのをいいことに、
悪さをしたりいかがわしいことをしたりする生徒が出てくるから。
なのだが、ケイくんはどうしてか東校舎の屋上の合鍵をもっている。
そのおこぼれにあずかって、わたしもここでたまに授業をサボってお昼寝をしているのだ。
というより、ケイくんがここでサボっていたところをわたしが偶然発見して、
口止め料代わりに屋上への侵入手段を共有させてもらっている、というのが正しいのだけれど。
とはいえ、今は放課後で、べつに授業をサボっているわけじゃない。
缶コーヒーを一気に飲み干してしまうと、
彼は制服のズボンのポケットから煙草の箱とライターを取り出して、いつものように火をつけた。
「不良」とわたしが言うと、
「そのとおり」と楽しげに頷く。
咎めはするものの、彼に喫煙癖があろうと飲酒癖があろうと本心ではどうでもいいし、
彼の肺が何色をしていようとわたしの肺とは関係ない。
むしろ彼が煙草に火をつけて、その煙をたっぷりと吸い込んで、
やがて吐き出すときのその表情を見ると、安心にさえ似た気持ちを覚える。
どうしてなのだろう?
……分からない。
「それにしても、その金、さっそく手をつけたわけか」
サボり仲間同士の気安さからか、あるいは屋上という空間が妙にそういう気持ちにさせるのか、
わたしはケイくんに、わたしについてのいろいろなことを話していたし、ケイくんもけっこう、自分の話をしてくれていた。
少なくとも、クラスの友達よりも彼の方が、わたしの家庭事情について詳しいことを知っているだろう。
もちろん、それがすなわち絆の強さや信頼の重さをあらわすわけではない。
なにもかも包み隠さずに話し合うから良い友だちだなんて、幼稚園児の発想だ。
友だちだからこそ言いたくないことだってたくさんある。
ケイくんは煙草の灰を空き缶の縁で落とすと、足元にその灰皿を置いた。
「ゴミ収集の人が困るよ」
「俺は困らない」とケイくんは言う。
それはそうだ、とわたしは思った。
「でもバカな使い道だな、缶コーヒーってさ。普通こういうのって、進学とか、何かあったときのためとか言って、とっとくもんだろ」
「うん。そう思ったんだけどね……」
言葉を続けようとしたけど、どう説明していいかわからなくなって、やめた。
そういう使い方をするところを叔父がもし見ていたら、きっと呆れて笑うだろうから?
そんな想像に心地よく浸りたかったから?
あるいはわたしは、叔父が大切に使ってほしいと思って遺しただろうお金をこんなふうに消耗することで、
こんなお金なんかよりも、もっと生きていてほしかったのだと、けっして伝わらない主張をしているつもりなのかもしれない。
よくわからない。
「……だけど?」
言葉に詰まったわたしを見て、ケイくんは続きを促したけど、わたしは何も言わずに、かわりに景色を眺めた。
放課後の屋上から見える街並。
今日は朝からよく晴れていて、夕陽はずいぶんと綺麗に街を照らしていた。
こんなに良い天気なのに、肌を撫でる空気は秋のつめたさ。
それはある意味で幻想的と言えなくもない光景だった。
なんだか、現実味がない、嘘くさい、加工した風景写真みたいな、つくりものめいた美しさ。
そう感じてしまうのはきっと自分のせいなのだろう。
「……なんだか、億劫だな」
わたしのそんな言葉に、ケイくんは新しく煙草をくわえながら反応した。
「なにが?」
「……生きてるのが?」
は、とケイくんはまた笑った。
「ね、一本ちょうだい」
「いやだよ」
「なんで?」
「そんなこと言い出したことなかっただろ。どういう心境の変化?」
「べつに深い意味はないけど……」
「一本二十三円」
「ケチくさい」
「割り切れるものは割り切っておくことが大事なんだよ」
「ふうん」
煙草をわけてもらえなかったわたしは、フェンスの網目をぎゅっと手のひらで掴んでみる。
金網に指の肉が食い込んで痛い。
学校の敷地内を、ぼんやりと見下ろす。
下校しようとしている生徒たちの姿が見える。階下から吹奏楽部の音階練習、剣道部が外周を走っている。
武道場から畳を打つような音、体育館からバスケットボールの跳ねる音。
みんな頭をからっぽにして打ち込んでいるんだろう。それがどうしてわたしにはこんなに平坦なんだろう。
「セロトニンの不足だよ」とケイくんが言った。
「なにが?」
「そういうことを考えるのは、脳内物質の問題らしいよ」
「……」
「頭のなかが不調だと、気分が落ち込んで、感情がわかなくなって、幸福が感じ取りにくくなって、だからつまんないことを考えるんだってさ」
「へえ」
「解消する方法を知ってるよ」
「どんなの?」
「日光を浴びること、適度な運動、栄養バランスのとれた食事」
ケイくんは皮肉っぽく笑った。
わたしはその言葉を聞き流しながら、いくつかのことを思い出した。
母さんのこと、叔父のこと、妹のこと。そのどれもがなんだか遠い。
どうして叔父は――お兄ちゃんは、死んでしまったんだろう?
煙草を買いにいって、信号待ちで、事故で。
お兄ちゃんは、どうして、お金を遺したんだろう?
そのお金を、わたしにどうしてほしかったんだろう?
分からないことばかりで、嫌になる。
「なんだか、遠いな」
そう言って、わたしは空を眺める。
影が後ろに伸びていく、反対側の空が藍色に濃さを増していく、何もかもが融け合ってまざりあって、よく見えなくなっていく。
昔のことを思い出しそうになる。
わたしはそれを、可能なかぎり素早く頭の内側から追い出してしまう。
そうやって今日まで生き延びてきたのだ。
そうして最後に残るのは、お兄ちゃんが死んでしまった、という感慨ですらない感想だけ。
お兄ちゃんは死んでしまって、わたしはこれから彼のいない世界で生きていかなければならない。
「……どうしてなんだろう?」
思わず、そう声をあげたとき、ケイくんが不可解そうにこちらを見た気がした。
わたしは彼の方を見ていなかったから、彼の視線がどこに向かっていたかは、本当のところ分からなかったけど。
「なにが?」
少ししてから、ケイくんはそう訊ねてきた。
なにが? なにがだろう。なにが、"どうして"なんだろう。
自分でも、やっぱりよく分からない。
だから、言葉にできる部分だけを、問いにして答えてみた。
「どうしてお兄ちゃんは、わたしにお金を遺したりしたんだろう?」
彼はまだ二十代で、やろうとしていたことも、行きたい場所も、きっとあったはずなのだ。
わたしに遺しただけのお金があれば、きっと、いろいろなことができたはずなのだ。
それなのにどうして彼は、わたしにそれを渡してしまったんだろう。
どうして自分のために、そのお金を使わなかったんだろう。
それがひどく、申し訳ないことに思える。
「俺が知るわけない」とケイくんは言ったけど、もちろんわたしだって答えを期待していたわけじゃなかった。
「本人に聞けよ」
「だって、もう死んじゃったし」
「そりゃそうだ」、とケイくんは楽しげに笑った。
わたしは彼の、こういう取り繕わないところが好きだった。
「わたしは悲しい」。でも、「彼は悲しくない」。それは本当のことだ
だったら、わたしの感情を鏡写しに真似されるよりは、まったく気にならないと笑ってくれた方がだいぶやりやすい。
こっちだって神妙そうな顔をせずに済むし、文句だって言いやすい。
取り繕った言葉だって言わないで済む。
気遣われたら、平気な顔をしないといけない。大丈夫だって強がらなきゃいけない。
でも、彼にそんな態度をとられると、わたしは反対に、ちょっとくらい気を遣ってくれてもいいじゃないか、とか、
そんなめんどくさいことを考えそうになって、そのちょっとした不満が鼻の奥をつんと刺激して、
不覚にも、泣きそうになる。
そういうとき、彼は決まってこっちを見なかった。
おかげでわたしは涙をこらえる理由が見つけられなくなって、我慢できなくなる。
ケイくんは、何も言わない。からかいも、笑いもしない。
だから近頃のわたしは、彼といるといつも、最後には泣き出してしまう。
それでも五分もしてしまえば、泣き続けるのにも疲れてくる。
尽きない悲しみがあったとしても、それをずっと貫けるほど肉体は付き合いがよくない。
彼は気を遣わないわけじゃない。
必要以上に気を遣わないことが、気遣いすぎだと言えるくらいの、彼なりの気遣いなのだろう。
疲れるくらいに泣いてしまったあとは、赤い目を拭って、息をととのえて、滲む視界をもとに戻さなきゃいけない。
わたしがそうなるまで、ケイくんは黙って煙草を吸っている。
やがて落ち着いた頃に、タイミングを見計らったみたいに、なにかを話しかけてくる。
そのときだってきっと、深い意味なんてなかったんだと思う。
「……そういや、死んだ人に会える場所があるって噂、聞いたことがあるな」
頭の奥に宿った痛みに額をおさえたまま、わたしはケイくんの方を見る。
彼は、しくじった、という顔をした。
たぶん、思わず口をついて出てしまった話題が、悪趣味なものに思えたのだろう。
彼にはそういう、変な潔癖さがある。
「それ、どんな話?」
わたしは、ただのくだらない噂か何かなんだろうと、そう分かっていたのに、
どうしてか変に気になって、思わず聞き返してしまった。
ケイくんは少しためらうような間を置いてから(彼が“ためらい”なんてものを見せるのはかなり珍しい)、
不承不承という顔つきで、視線をこっちに向けないままで答えてくれた。
「ただの噂、都市伝説だよ」
「ここらへん、都市じゃないけど」
「フォークロアって言えば満足か?」
「どんな?」
もちろん、信じたわけでも期待したわけでもない。
……いや、ひょっとしたら、期待したのかもしれない。なにかに、縋り付きたかったのかもしれない。
ケイくんは困り顔のまま、足元の缶を拾い上げて煙草の灰を落としてから、話しはじめた。
「……隣の市に、遊園地の廃墟があるの、知ってる?」
「あの、心霊スポットとかっていう?」
「そう。ずっと放置されてとっくに荒れ果てるけど、観覧車とかメリーゴーラウンドなんかは残ってる。
草だらけで近付きにくいけど、簡単に入れるし、忍びこんでる奴はけっこういるらしい。肝試しにはいいところだろうしな」
「そこが?」
「残っている建物のなかにはミラーハウスがあって、その奥にひとりの女の子がいる、って話。
なんでもその子が、訪れた人間の望む景色を、なんでも見せてくれるって話だ」
「……景色?」
「俺も詳しい話は知らないけど、その人が見たいと望む光景、過去の思い出や、ありえたかもしれない可能性、もしくは――」
――死んでしまった人間と、再会できるって話もある。
ケイくんはそう言って、「つまらない噂だよ」と言わんばかりに肩をすくめた。
わたしはなんとなく溜め息をついてから、空を見上げる。
その瞬間、鼻先にぽつりと何かがあたる。
雲のない空から、雨粒が降り始めた。
ケイくんが舌打ちをする。わたしの頭のなかを、いくつかの景色が過ぎる。
無性に走り出したいような気持ちになる。何かを叫びたいような。でも、何を叫びたいのかなんて自分じゃ分からない。
「……雨だな。戻るか」
話を打ち切ろうとするみたいに、ケイくんは空を睨んだ。
わたしが別のことを考えている間に、雨は一気に強くなってきた。
ケイくんがフェンスから離れて校舎へ戻ろうとする。
わたしは晴れた空の下の雨に打たれながら、まだ街並を見下ろしている。
「おい、どうした?」
怪訝げな声。わたしは振り向かずに、言った。
「……ね、ケイくん。もしよかったら、そこに案内してくれない?」
「そこ?」
「その、遊園地」
「……タチの悪い噂だぜ。何にもないに決まってる。心霊スポットなんていっても、事故が起こった記録だってないんだ。
放置されて景観が不気味になったからあれこれ言われてるだけで、何のいわくもない」
「うん。それでもいいんだよ」
わたしはそこで、彼の表情が気になって、振り向いた。
不思議と、心配そうな顔をしていた。
“心配そうな”彼の表情なんて、わたしはそのとき初めて見た。今日はずいぶん、珍しいものを見ている気がする。
「ちょっとした、暇つぶしっていうか、儀式っていうか、ただの肝試しでもいいんだけど、何かしたい気分なんだ」
「……探検?」
「そう、それ」
本当は違うのかもしれない。本心からそんな軽々しい気持ちだったかと訊ねられれば、違うような気がする。
藁にもすがるような思い、というのとも違う。
そこまで切実ではないにせよ、面白半分というほど軽薄でもない。
かといって、廃墟に対する好奇心だとか、そういうものがまったく含まれていないとも言いがたい。
感情の割合なんて、自分でも分からない。
しいていうならきっと、何かをすることで、気を紛らわせたかったのだろう。
とにかく、その場所に行ってみたいと思った。
なにもないなら、なにもないことを確認したい。
なにかあるなら、それがなんなのか知りたい。
「だめかな」
わたしは、そう訊ねた。ケイくんは少しの間沈黙してから、仕方なさそうに苦笑した。
「……ダメだって言ったら、ひとりでも行きそうだもんな」
「うん」
「じゃあ仕方ない。言っておくけど、見に行くだけだぞ」
「……ケイくん、そんなに付き合いよかったっけ? 心配してくれてるの?」
純粋な問いかけを、ケイくんはバカにするみたいに笑った。
「何もないとは思うけど、仮に何かあったら、俺の寝覚めが悪いだろ」
それだけだ、とそっけなく呟いてから、ケイくんはこちらに近付いてきて、
わたしの背中をぽんと押して、「早く中に戻るぞ」と、いつもよりちょっとだけやさしい声で言った。
その瞬間も、廃墟のミラーハウスのなか、ひとりで立っているかもしれない女の子のことが、
どうしてだろう、わたしの頭からは、離れてくれなかった。
◇
台風だ、と何日か前からテレビで言っていた。
けれど後になってみれば、問題は台風そのものではなかった。
詳しいことはわたしには分からなかったけど、気象予報士が言っていたいくつかのキーワードを抜き出すことはできる。
台風は東海地方に上陸したのち、日本海上で温帯低気圧になった。
そこにいくつかの要素が絡まった。太平洋側からの暖かく湿った風、もうひとつの台風。
結果としての線状降水帯。夜中降り続く打ち付けるような雨粒。
関東から東北に及ぶ長い帯状の雨は数日間降り続いて、
いくつかの堤防が決壊し、いくつかの川が氾濫し、いくつかの街で特別警報が発令された。
一言で言えば、未曾有の大雨だった。
死者数名、負傷者多数、建物被害は甚大、農作物被害は深刻、避難指示、避難勧告を受けた人はかなりの数に及ぶ。
ニュースでは土砂崩れや建物の倒壊や沈没、道路を飲み込んだ圧倒的雨量の映像ばかりが流れ続け、
避難している人たちの不安そうな表情が痛々しいくらいに繰り返された。
(あとになって考えてみれば、わたしの家の近所の橋が崩れて通行不可になったことは、
全国ニュースでは一度流れたかどうかというところだった)
そうしてそれから十日もしないうちに、今度は海外で地震が起きた。
コンビニの募金箱は、それまでは関東から東北に及ぶ広範囲の豪雨災害への義援金を目的とするものとされていたが、
地震が起きた翌日には、百万人が避難したチリ沖地震の被害への義援金へと名目を変えていた。
いずれにしてもわたしの周りでみんながしていた話はといえば、
チリの地震や津波警報のことでもなければ、他県で起きた土砂崩れのことでもなく、
インパクトのある沈んだ道路の映像のことでもなければ、死者数や被害を被った建物の数のことでもなかった。
全国ニュースでは一度しか流れなかった橋を通れない不便さ。
それが一番の話題だった。
つまり、そういうものなのだ。
被害の大きさや関わった人間の数が物事の重大さを決めるわけではない。
近さが、それを決める。
わたしにとっては、中国で爆発事故が起きようとバンコクで爆破テロが起きようとそれはさして重大なことではなく、
信号待ちの間にひき逃げされた男の、どこにでもあるような他愛もない死の方が、よほど大きな問題だった。
世間から見れば大きなはずの問題が、わたしにはとても些細なことで、
世間から見れば些細なはずの問題が、わたしにはとても重要だった。
◇
だからわたしは、チリで地震が起きた週の土曜に、ケイくんとふたりで例の遊園地の廃墟を訪れた。
べつにコンビニで募金箱に小銭を入れたりもしなかったし、特にニュースを気にかけたりもしなかった。
「そういえばチリで地震だってね」
「最近おかしいよな。温暖化のせいだな」
というのがわたしとケイくんが交わしたその地震に関する唯一の会話だった。
それ以降はどちらも、遠い国のだめになった建物のことや死んでしまったひとびとのことについては何も触れなかった。
例の大雨から一転、その日は気持ちのいい秋晴れだった。
公共交通機関を乗り継いで隣の市までやってきたわたしたちは、
そこから更に電車やらバスやらを駆使して移動した。
なにせお金なら余るほどある。
ケイくんとふたりきりで出かけるのは、この日が初めてだった。
というよりは、屋上以外の空間で彼と会うのも、初めてだという気がする。
たまに廊下ですれ違うことがあったけど、わたしも彼も互いに話しかけなかった。
それは暗黙の了解のようなものだ。
自分には、誰にも知られていない"誰か"がいる、という事実が、わたしの心をいつも少しだけ強くしてくれる。
そのケイくんは、寂れた木造のバス停留所に降り立った途端、
似合うはずがないのに似合っている爽やかな青いシャツに身を包んだまま、いつものように溜め息をついた。
初めて男の子と出かけるんだからと、ちょっとだけその気になって、
あざといくらいにフェミニンなワンピースを着てみたりもしたんだけど(おろしたてである)、
案の定ケイくんは無反応だった。まあ、過剰反応されたらこっちがびっくりしていたところだけど。
毛先だってちょっと巻いてきたのに。
位置上目で留めるの、ちょっとむずかしかったのに。
言うことといったら、
「草がすごいって言ったのにワンピースにヒールのサンダルって、バカなのか?」
とかだ。
「パンプスだもん」
とわざわざ言わなきゃいけないのが悲しい。
ヒールは低めのにしたし、なんて言ったら視線の温度が五度は下がりそうだ。
ケイくんは馬鹿にするみたいに笑ったかと思うと、
「探検の基本はジーンズにスニーカーだろ。なにせスニーカーは、足音があまりしない」
と、オモチャの剣を自慢する小学生の子供みたいな調子で言った。
いわく、スニーカーの語源は「Sneak」なのだとか。それがどうした。
とはいえ、たしかにけっこう歩くかもしれないのにパンプスで来てしまったあたり、
やっぱりバカだというのには反論はできない。
「ちなみにジーンズはどうして?」
「目立たないから」
納得できるような、できないような。
とにかく、そんなどこかそぐわない調子で、わたしたちは歩き始めた。
つい先日のことだというのに、豪雨なんてなかったみたいに街並は平和だった。
ブロック塀に挟まれた狭い道は、きっと十年前もこんな景色だったのだろう。
塀の向こう側に見える民家の敷地のトタンの壁には、キリスト教の聖句風の怪しげなポスターが張られている。
田舎ではよくある光景だ。
しばらくわたしとケイくんは、のどかと言ってもいいような静かな景色に紛れて歩いていた。
車もほとんど通らなければ、人の姿だってろくに見なかった。
目を閉じると濡れた土の匂いがした。
なにもかもが嘘みたいに平和な景色。
それが、ある曲がり角を見つけたとき、変わった。
あきらかに、そちらに曲がる道だけ、何かが違った。
冷静に考えればすぐに分かる話だ。
横の民家の庭から伸びた木が枝を伸ばして、上から狭い道を覆っている。
そのせいで日があまり差し込まず、他の場所よりいくらか翳って見えてしまうのだ。
ただそれだけ。ただそれだけのはずなのに、なんだか踏み入るのがためらわれた。
わたしたちふたりは何も言わずに一度立ち止まってから、視線を合わせて、黙って頷き合って、そちらへと進む。
暗い道を歩きながら、わたしはケイくんの方を盗み見た。
彼はこちらに気付かずに道の先を見ている。
案内を勝手に押し付けたから、道が合っているかどうかを確認しながら歩いているのかもしれない。
「ねえ、ケイくん」
沈黙がなんとなく気まずくて、わたしは声をかけてみた。
「なんだよ」
「どうしてわたしたち、こんなところまで来ちゃったんだろうね?」
ケイくんは一度立ち止まって、あたりの様子を確認した。
道の脇から伸びた木々の梢が空を隠している、右手に見えるブロック塀の向こうは古い家々。
この一本道の先、翳る道を抜けたところに、光を浴びた小さな坂道がある。
ケイくんが一向に返事をよこさないので、わたしはなんだか不安になった。
たしかに、怒らせても仕方ない言葉だったかもしれない。
でも、なんだか……本当にそんな気分だったのだ。付きあわせているのがわたしだと、分かっているけれど。
「ケイくん……?」
もう一度声を掛けたとき、彼はふたたび歩きはじめた。
返事もしてくれない彼の背中を、わたしは何も言えずに追いかける。
そんなに怒らせちゃったのかな、と、また不安になる。
どうしてだろう。
他の人相手だと、あんまりこういうことにはならないんだけど。
ケイくんは、なんとなく、わたしが何をしても、いつもへらへらバカにして、それでも普段通りに振る舞ってくれるような気がして。
だから、やり過ぎてしまうのかもしれない。
坂道を昇るケイくんの歩調ははやい。わたしの方を振り返りすらしなかった。
ようやく立ち止まったのは坂を登り切ったときで、そのときも彼は前を向いていた。
わたしは彼の背中しか見ていなかった。だから、気付くのが遅れた。
「ケイく……」
言いかけたとき、わたしはケイくんの肩越しに、古い観覧車を見た。
「……あそこみたいだな」
まだ少し、距離があった。ここから見るかぎり、高台にあるらしい。
あたりには民家が少ないらしく、周囲は林のようになっていて、ここからでは、どこが入り口なのかも分からない。
わたしたちのすぐ目の前は下り坂になっていて、その先には細い川があった。
堤防になっているみたいだ。
少し先に、五メートルくらいの、石造りの橋があった。車が一台通れるかというくらいの、狭い橋だ。
坂を降りてしまうと、付近の民家や周辺の林が邪魔をして、観覧車はまた見えなくなってしまった。
ケイくんは黙ったまま橋の上へと進む。
「ケイくん、ごめんね」
「……なにが?」
わたしの言葉にようやく立ち止まって、彼は振り返った。本当にきょとんとした顔だった。
「……怒ってたんじゃないの? さっきから、返事してくれないから」
「……ああ、聞いてなかった」
平然と言う。わたしはどう反応するべきか、困ってしまった。
怒るべきなのか、ほっとするべきなのか。
心情としてはあきらかに後者だったが、表面的にはむっとして見せた方がよかったかもしれない。
「そんなことより」、と、ケイくんは橋の上で立ち止まったまま、わたしの方をじっと見つめてきた。
「……なに?」
思わずわたしはからだをこわばらせる。
彼にまっすぐ見つめられるなんてことは、ほとんどない。
いつもは隣に並んで、互いの顔を見ずにいるから、ときどき彼と目を合わせると、わたしは前を見ていられなくなる。
もともと、人に見られるのが苦手だった。
「一応、訊いておきたいんだけど、もし、噂が本当だったら、どうする?」
なんでもないことを訊ねるような自然さで、彼はそう問いかけてきた。
「えっと、ミラーハウスの噂が本当だったら、ってこと?」
「そう」
「どうかな。抽象的すぎてよくわからない噂だし、どうするもなにも……」
「本当に?」
ケイくんの真剣な表情に、わたしは思わず立ち止まって考えこんだ。
橋の上で彼と向かい合ったまま、ついこのあいだ聞いた話を頭のなかで反芻する。
望む景色を、見せてくれる。
望む景色。
「どうする気もないなら、どうして突然、来ようなんて思ったんだ?」
どうしてだろう。
「おまえは、どんな景色を望んで、あそこに行こうとしてるんだ?」
わたしは、しばらく考えてから、首を横に振った。
「……よく、分からない」
でも、きっと、彼の言う通り、わたしはどこかで、その噂話に期待していたのかもしれない。
見たい景色がないなら、行きたい場所がないなら、目指すものがないなら、
歩くことは無意味だ。
逆説的だけれど、だからわたしは、何かを望んでいるのだろう。
だって、歩いているんだから。
「……そっか」
ケイくんは、わたしの答えに満足したふうでもなく、けれど問いを重ねることもなく、再び歩き始めた。
わたしたちは、橋を渡った。
◇
関係者以外立ち入り禁止、の文字があった。
わたしたちはそれを無視して敷地内に忍び込んだ。
錆の目立つ大きなアーチをくぐった向こうには、閉ざされた大きな門が見えた。
幸いというべきか、もぐりこむのは難しくなかった。
少し草むらを経由すれば、すぐに園内に入ることができた。
その際ぬかるみで靴が汚れて声をあげたら、
「だからそんなので来るもんじゃないんだ」とケイくんは真面目な声で言った。
「どうしてそう、考え無しなんだ?」
わたしは大真面目に考えてから、
「天気予報で雨が降るって言われても、傘を持ち歩かないタイプなんだよね」
と答えた。ケイくんは、よくわからない、という顔をする。
「たぶん、どっか浮かび上がってるんだよ」
そんな話をしていたら、いつのまにか曇り模様になっていた空から、ぽつぽつと細かな雨が降り始めた。
「……最悪だな」、とケイくんは言った。
わたしは特に何も感じなかったけど、ひとまず頷いておいた。
敷地内は、思ったほど荒廃した様子ではなかった。
まずいちばん近くにあった建物は、シャッターが閉ざされていた。
建物の位置と大きさを見るに、土産物や食べ物を取り扱っていた売店か何かだったのだろう。
近くには「園内への飲食物の持ち込みはご遠慮ください」という立て札。
すぐに目についたのは飛行機の形をしたアトラクションと、
そこからフェンスを挟んだ向こうにあった小さな小屋。
歩き疲れたわたしたちは、ひとまずそこで雨宿りを兼ねて休憩することにした。
幸い、フェンスには人一人通れるくらいの小さな隙間があった。
鎖で遮られてはいるけれど、おそらく出入り口だったのだろう。
廃屋のなかは思ったほど荒れていなかった。
従業員用の休憩室か何かだったのか、埃を被ったテーブルと、使われていたらしい扇風機がそのままにされている。
畳の上には正体不明の何かのかけらが散乱していたし、障子は破れて木枠以外はほとんど残っていなかった。
黒ずんだ木枠の向こうは裏手にある山の斜面に面していて、すぐ傍から植物の匂いがした。
「蛇でも出そうだな」とケイくんが言う。あんまり脅さないで欲しい。
ぽつぽつという雨音は、強まりもしなければおさまりもしなかった。
わたしは鞄のなかに入れてきた水筒で水分補給をした。
「そういうところは、妙に準備がいいな?」
「うん。もっと褒めて」
ケイくんは鼻で笑った。
壁には埃の被ったカレンダーが貼られたままになっていた。
日付は十数年前のものになっていた。
こうして見てみると、わたしが生まれた頃も、まだ営業していたのか。
勝手に、もっとずっと過去のものだと思い込んでいたけれど。
「少し休んだら、歩きまわって探さないとな」
「何を?」
「ミラーハウス」
「……うん」
ひとけのないレジャーランドの中を歩いていると、自分が奇妙な夢に入り込んだみたいな気分になる。
こんなに現実感にあふれる建物すらあるのに、それすらもディティールの凝った悪夢みたいだ。
耳鳴りのしそうな静けさと、雨粒のささやかな音が、その感覚をいっそう強めた。
しばらくふたりで黙り込んだまま、雨の音だけを聞いていた。
今日はなぜか沈黙が落ち着かなくて、うろうろと歩きまわっていると、不意に建物の外から物音が聞こえた。
思わずケイくんの方を見たけれど、彼が何かに気付いたような様子はない。
「ね、いま……」
わたしが声をかけると、彼は怪訝げに眉を寄せた。
「なにか、聞こえなかった?」
「なにかって?」
「なんか、物音」
「……猫でもいるんじゃない?」
「……そうなのかな」
妙に気になって、障子を開けて外に顔を出し、あたりの様子を見渡してみた。
目の前は草木に阻まれて歩けそうになかったし、すぐそばの斜面のせいで視界は悪かったけど、
横を見れば広がる敷地の一部が覗けた。
どくん、と心臓が嫌な鳴り方をした。
人影が見えた。
「……ケイくん、あれ」
わたしの声に、ケイくんは少し早足で駆け寄ってきた。
「あそこのアトラクションのそば」
「どれ?」
「コーヒーカップみたいなの。あのそばに、ほら……」
「……なに?」
「いま、人影が……」
「どこ?」
「……えっと」
もういちど目を凝らしてみたけれど、人らしき姿はもう見えなかった。
どこかの陰に入ってしまったのか、それとも見間違いなのか。
「……少し、過敏になってるんじゃないか」
ケイくんは、溜め息をついてから、拳をつくってわたしの肩を軽くトントンと二度叩いた。
「……そうなのかな」
そうなのかもしれない。
なんだか、あの橋を渡ったときから、妙に気分が落ち着かない。
聞きとりにくい声で、誰かに話しかけられているような。
強い風の音に隠れて、誰かがわたしに何かを言おうとしているような。
そう分かっているのに、わたしがどれだけ耳をすませても、言おうとしていることがまるでわからないみたいな。
もちろん、風なんか吹いていないから、そんなのはただの錯覚でしかないのだけれど……。
少し、雰囲気に呑まれてしまっているのかもしれない。
でも……本当に見間違いだったのだろうか?
「もう少ししたら、また歩いてみよう。……雨、止んでくれるといいんだけどな」
ケイくんの言葉に反して、雨は止む気配を見せてはくれなかった。
◇
雨が少しだけ弱まったのを確認してから、わたしたちは園内を歩き回ってみることにした。
目的地はミラーハウス。
幸い少し進んだ先に園全体の全景が描かれたガイドマップがあって、わたしたちは目指す方向をすぐに把握できた。
ミラーハウスという建物を、わたしはそのとき初めて見た。
ぱっと見た雰囲気は、他の建物とそう大差ない。
しいていうなら看板などの色合いが他のものに比べて落ち着いた印象だが、
その色も錆びと剥げとくすみでよく分からなくなってしまっている。
てっきり小さな建物だと思っていたのだけれど、意外な大きさと広さがあった。
一度立ち止まって、建物を見上げたあと、ケイくんは平然と中へと踏み入っていった。
わたしは少し緊張を覚えながら(……どうしてだろう?)彼の背中を追いかけた。
入り口からは細い通路のようになっていて、脇にはチケット売り場のようなカウンターがあった。
わたしたちは当然のようにそこを素通りする。
「ケイくん、ねえ」
「なに?」
声を掛けても、彼はこちらを振り返らなかった。
なにかがおかしいとわたしは思った。でも、何がおかしいのかは分からない。
そうこうしているうちに、ケイくんはミラーハウスの中へと入っていく。
わたしは覚悟をきめて彼の背中を追いかける。
万華鏡のなかに入り込んだような気分だった。
迷路は薄暗く、青白い光に照らされている。
想像していたよりもずっと、意識が混乱した。足元がぐらぐらして、立ちくらみを起こしそうになった。
鏡にうつった自分自身の姿を視界の端に見つけるたびに、ばくばくと心臓が震えた。
「ね、ケイくん……」
ケイくんは返事をせずに、慎重な足取りで、迷路を進み始めた。
何かがおかしい、とわたしはもう一度思う。
「なにか、変な感じがしない?」
「変な感じ?」
「なんなのかは、よくわからないんだけど……」
ケイくんは一度立ち止まって、わたしの方を見てから――どのわたしがわたしなのか分からなくなったみたいだった。
「ここ」
と声をあげると、声の方向で本物のわたしの姿を見つけてくれた。
彼はわたしと目を合わせて、溜め息をついた。
「……思ったより、混乱するものだな」
「足元を見るとかすると、分かりやすいかも」
「それじゃミラーハウスの楽しみがないだろ」
……目的を見失ってはいないだろうか。
と、そこで、わたしは違和感の正体に気付いた。
「……ねえ、ケイくん」
「だから、なんだよ」
「照明が、ついてる」
わたしの言葉にケイくんは天井に視線をやった。
青白い照明が、ところどころから薄っすらと周囲を照らしてる。
ケイくんは何も言わなかった。
「……どういうことかな」
わたしの疑問はそのままに、今度はケイくんが口を開いた。
「俺も、気になったことがあるんだけど、いいか?」
「なに?」
「……綺麗すぎないか?」
言われて、わたしは辺りを見回す。
綺麗過ぎる? そうだろうか? 暗くて見えにくいけれど、床には埃が積もっているように見える。
でも、言われてみれば……。
鏡が、綺麗だ。埃も、曇りもない。
こういう場所は、鏡に汚れがついていると、鏡が鏡だと分かってしまうから、
入場前に客にビニール手袋をつけさせるところもあるという。
でも、仮にそういう扱いをされていたとしても……それはいつの話なんだろう?
簡単に忍び込めるようなこの場所が、いつまでもこんなに綺麗に保たれるものだろうか?
「……ねえ、ケイくん、ミラーハウスって、迷路だよね?」
「まあ、そういう場合が多いだろうな」
「どうしてこんなに、簡単に入れちゃったんだろう?」
「……ていうと?」
「建物をそのままにしておくにしても、こんなふうに鍵もかけずに開け放しておくことってある?
万が一子供が忍びこんだりしたら、出られなくなるかもしれないよね?」
「……なあ、俺たち、どのくらい歩いたっけ?」
「ほんのすこしだと思うけど?」
「……どこから来た?」
ケイくんの言葉に、わたしは、来た(と思われる)方を見て、通路を探してみる。
でも、見つからない。
まっすぐ歩いてきたんだから、背中には来た道があるはずなのに、振り向いた先には鏡がない。
そうこうしているうちにわたしはくるくると回ってしまって、どっちが前なのか、後ろなのか、分からなくなってきた。
そうしている間、ケイくんは黙って動かずにいた。だからわたしは、かろうじて方向感覚を失わずにいられた。
やはり、うしろには鏡しかなく、前にしか道がなかった。
わたしは急に不安になる。
「……なにか、変じゃない?」
わたしの声に、彼は静かに溜め息をついた。
「話しているうちに、わかんなくなっちゃったのかもな。行き止まりにでも入り込んだんだろう」
その言葉を、彼自身も信じきっていないのは明らかだ。
だってわたしたちは、まっすぐ歩いてきたんだから。
「……とにかく、出口をさがさないとな」
ケイくんの言葉に、頷く。
ふたたび彼が前に一歩踏み出したとき、わたしはまた声を掛けた。
「ねえ、ケイくん」
「なに?」
「……手を、繋いでくれる?」
彼は一瞬黙りこんだかと思うと、何も言わずにわたしの手をとった。
それから、仕方なさそうに溜息をつく。
「……ありがとう」とわたしは言った。本当は、それどころじゃなかった。
なんだか、ひどく――肌寒い。
既に目的は探検じゃなくて、出口を探すことになりつつあった。
行き止まりから歩いてきたわたしたちだけど、一本道ばかりで、分かれ道なんて見つからなかった。
いったい、どこから行き止まりに迷い込んだんだろう。また見逃してしまったんだろうか?
それとも本当に……行き止まりに入り込んだわけではなかったのか。
わたしたちは、出口に向かっているんだろうか? 入り口に戻っているんだろうか?
「……なあ」
と、ひそめた声で、ケイくんが言う。
「なに?」
「何か、聞こえないか?」
わたしたちは一度立ち止まって、黙り込んだ。……何かが、たしかに聴こえる。
なにか? 違う。
声だ。
「誰か、いるのかな」
そう言ってわたしは、自分の言葉に、ぞくりと背筋が粟立つのを感じた。
誰かって、誰?
「……ひとつだけ、納得できそうな説明ができるけど、聞くか?」
ケイくんは、小さな声でそう言った。わたしは彼の方を見て小さく頷く。
知らず知らず、彼の手を強く握っていた。
「ここ、廃墟になってるとはいえ、取り壊しになってないだろ。
なんでも元の持ち主が、いつか再建するつもりで所有したまま建物を残してるらしい。
それで、アトラクションや建物を、たまに元の従業員が清掃したりしてるらしいんだ」
「……つまり、清掃中ってこと?」
「だとしたら照明がついていてもおかしくないし、人がいてもおかしくないし、鏡が綺麗なのも変とまでは言えない」
たしかに筋は通っていたけど、納得できる気はしなかった。
「……人のいる方にいけば、出口にはたどり着けるかな?」
「たぶん。でも、見つかったら怒られるぞ」
「……謝るしか、ないよね」
ケイくんはわたしの方を見た。彼には悪いけど、わたしは一刻も早くこの場を離れたかった。
「……とりあえず、声の方に進むか」
わたしは頷いた。
それから、声の聴こえる方に近づこうとするあまり、二、三度鏡に肩をぶつけるはめになった。
そうしながらもどうにか方向感覚を見失わずに、徐々に誰かのいる方に近付いていった。
わたしは、声の方に向かってきたことを、徐々に後悔しつつあった。
その声は、どこか変だった。
だからと言って、戻ろうと振り返ったところで、鏡ばかりで道が分からない。
それに、実際に戻ろうとするのも不安だった。
もしまた通ってきた道が見つけられなかったら……? それを確認するのが、怖かった。
近付けば近付くほど、声のひびきがはっきりと聞こえてくる。
陶酔するような、うたうような、女性の声だった。
――"How would you like to live in Looking-glass House, Kitty?
I wonder if they'd give you milk in there?
Perhaps Looking-glass milk isn't good to drink――"
日本語ではない。演劇の台詞を読み上げるような調子。
わたしはなんとか、それを聞き取った。
――"Oh, Kitty!
how nice it would be if we could only get through into Looking-glass House!
I'm sure it's got, oh! such beautiful things in it!"
握った手のひらに、ぎゅっと力を込める。
不意に、声が止む。
小声で、ケイくんのことを呼んだ。
彼は何も言わずに、通路の先を見ていた。
彼の視線の先には、鏡の迷路の出口があった。
それなのにわたしは、迷路から出たのではなく、いま迷路に入ったかのような錯覚を覚えた。
鏡の通路の向こうは、そっけない壁。そちらもまた、青白い照明で薄暗く照らされている。
その果てには、大きな扉があった。
洋風の、大きな扉だ。両開きで、上部は丸みを帯びている。
物語にでも出てきそうな、上品な扉だった。
その前に、こちらに背を向けて、ひとりの女の子が立っていた。
薄暗くてよく見えないけれど、後ろ姿だけだと同い年くらいに見える。
声を掛けるのを、なぜかためらう。
そうしているうちに、彼女が扉に向けて腕を伸ばすのが見えた。
彼女はそのとき、小さな声で何かを言った。
「待っててね」、と、わたしには、そう言ったように聞こえた。
ドアノブを捻って、彼女は扉を開ける。
わたしは思わず息を呑んだ。
その扉の先は、鏡になっていた。
にもかかわらず、彼女は足を一歩踏み出して、
当たり前みたいに、その中へと吸い込まれていく。
その間際、わたしは鏡の中の彼女の片目が、わたしの姿をとらえたような気がした。
もう片方の目は、眼帯に覆われていた。
そして彼女の背中が消えてしまうと、わたしとケイくんの前には、大きな扉の奥の鏡と、そこに映る自分の姿だけが残されていた。
その場に残されたわたしたちふたりは、互いに顔を見合わせた。
後ろには鏡の迷路、正面には開いたままの扉と大きな鏡。
さっきまでそこにいた女の子の姿はもうない。
鏡の中に溶けるように消えてしまって、今は鏡にすら映っていない。
今みた光景を受け止められずに、言葉を失った。
「……なんだ、今の」
「……見たよね?」
ケイくんは返事もせず、訝しげな顔をして、目前の扉へと近付いていった。
「あぶないよ」
とわたしは思わず言った。
「……なにが?」
「……えっと、何がだろう?」
自分でも、よくわからなかった。なんとなく、口から出てしまったのだ。
「……おまえも見たんだよな?」
ケイくんは鏡に歩み寄りながら、そう訊ねてきた。
うん、とわたしは頷きながら、辺りの様子を見てみる。
鏡の迷路の出口は、ごく当たり前の通路になっている。それらしい装飾もない。ただの壁。
その先にはただ、開かれた扉と、大きな鏡だけ。
明らかに迷路の果て。
でも、出口がない。
ケイくんは、落ち着いた足取りで鏡に近付くと、それに指を伸ばした。
「……何かの仕掛けか?」
「仕掛け?」
「アトラクションの一部とか」
「さっきのが? まさか……」
「そうじゃないとしたらなんなんだよ?」
「……あのね、ケイくん。たしかに、現実的に考えたら、ありえないことかもしれないけど、
ひょっとして、わたしたち、なにか変な状況に巻き込まれてるんじゃない?」
「……変な状況?」
「うん。だって、見たでしょう? さっきの、女の子」
「やっぱり、見えたよな? 黒い服の……」
「うん。眼帯をして、何かをぶつぶつ言ってて、鏡に……」
「……たしかに、何かの仕掛けだったとして、俺たちを騙す理由もないし、大掛かりな仕掛けが必要になりそうだ」
「ここは何年も前に閉園した遊園地だし、あんなのを再現できるような精巧な仕掛けがあるとも思えないし……
それが動作している理由もない。ましてや、ここはそういうコンセプトの場所じゃないはずだし」
「となると、問題は振り出しだな」
ケイくんは溜め息をついてから、鏡に伸ばしかけた手を下ろした。
「さっきの女は何者で、この鏡は何なのか?」
「それは、わからないけど、なんとなく分かるよ」
「……なにが?」
ケイくんは、やっぱり気付いていないみたいだった。
「前、見て」
「前……?」
「あわせ鏡になってるよ」
正面にあるのは、扉の奥に埋め込まれた大きな扉。
そしてわたしたちの後ろには、ミラーハウスの迷路が、さっきまでたしかにあった。
それなのに、正面の鏡は、わたしたちの背後に、大きな鏡を映している。
ケイくんが後ろを振り返る。わたしもそれに従う。
やっぱり、後ろには鏡しかない。
「……これは、つまり」
「閉じ込められちゃった、みたいだね」
出口が見つからない、どころか、来た道さえ戻れなくなってしまった。
「というわけで、ひとつ提案してもいいかな、ケイくん」
「なに?」
「つまりね、この状況をどうにか現実的に解釈しようとするよりはむしろ、
素直に認めちゃった方が建設的だと思うんだよ」
「認める、というと?」
「超常現象」
ケイくんは深々と溜め息をついた。
「なんでそんな冷静なんだよ、おまえ」
「……そんなことはないんだけどね」
顔に出ないタチだというだけだ。
それにしても……さっきからなんだか、現実感がない。
夢の中みたいだ。視界にうつるものをなんだか遠くに感じる。
ケイくんは背後の鏡に近付き、手のひらで触れた。
「……鏡だな。どう考えても」
「うん」
と、わたしが頷くと同時に、ケイくんが思い切りその鏡を蹴りつけた。
大きな音がした瞬間に、壁がわずかに揺れた気がした。
それでも、鏡は不思議と割れなかった。
「……冗談だろ。どうするんだよ、これ」
わたしも、ケイくんが触れている鏡の方に近付いて、手のひらでその感触を確かめてみる。
ひんやりとしたつめたさ。なんでもない鏡。ただ、映っている自分たちの姿が、ひどく白々しい。
わけがわからなくて、頭痛すら覚える。
「悪い夢でも見てるみたいだ」
とケイくんは言う。本当にそのとおりだとわたしは思う。
窓も、ドアもない。出入り口はない。……そのうち、酸欠にでもなりそうだ。
わたしは、正面の鏡へと近付いていく。
「どうした?」
ケイくんの質問に、振り返る。
「扉のかたちを、してるよね」
ケイくんは、黙ったままだった。呆れているのかもしれない。
「さっき、女の子が、こっちに向かって消えていった。とにかく、調べてみない?」
ケイくんは少しの間黙っていたけれど、最後には仕方なさそうに頷いてくれた。
気持ちは分かる。
ただの鏡だと思いたい。でも、既に状況はおかしなことになっている。
その結果自分たちがどうなるのか、分からない。
でも、他にどうすることもできない。
わたしは黙って、ケイくんに右手を差し出した。
「……なに?」
「手」
彼はわたしの手をとった。
うん、とわたしは頷いてみせる。
彼は緊張した面持ちのまま、ちょっとだけ笑った。
同じように、わたしの表情もこわばっているんだろう。
手を繋いだまま、わたしたちは、虎の巣穴に忍びこむみたいに足音をひそめて、
慎重に、鏡か扉か分からない何かへと近付いていった。
慎重にすることに意味があったのかは分からないけれど、とにかくそうしないと進めなかった。
そうして、鏡に触れられそうなくらい近付いたとき、
鏡面がわずかに波打ったのを見た。
思わずケイくんの名前を呼ぼうとした、のに、
ひかりが、
視界を覆った。
白い光が埋め尽くした景色のなかで、聴力も不意に失われる。
鋭い音が波として耳の隙間を揺さぶり埋め尽くすのを感じる。目からも、耳からも、溺れるように感覚が失われていく。
かろうじて、繋いだままの手のひらを握る。
握り返すような感触を、感じる。
何かに飲み込まれるような、感覚。
意識が、不意に途切れる。
◆
そうしてふたたび意識が浮かび上がったとき、わたしとケイくんは手をつないだまま、
見覚えのない瀟洒な街並に立っていた。
起きたのでも、意識を取り戻したのでもない。
長いあいだぼーっとしていて、いまハッと意識がはっきりしたみたいな、そんな感覚。
そんな感覚で、わたしたちは、どこかのテーマパークを思わせる洋風な街並に立っていた。
急に、夜だった。暗い街並、空には星と月。
目の前の石造りの街路は坂になっていて、左右には壁のような建物が立っている。
ランプのようなデザインの街灯が等間隔に狭い道を照らしている。
音はない。何の音もしない。動物の気配はない。鳥の声も猫の足音も犬の遠吠えも聞こえない。
人の気配も、やはりない。
後ろを振り返ると、閉ざされた扉があった。
遮るような高い壁に、埋め込まれるようにして、厚い鉄扉が立ちふさがっている。
ケイくんが、その扉を軽く押した。思ったよりも簡単に扉は開いたけれど、
その先にはやはり見覚えのない街並が広がっているだけだった。
「……ここ、どこ?」
ケイくんが思わずこぼしたようにそう呟いたけれど、もちろんわたしにも答えは浮かばなかった。
「……日本なのか?」
「ヨーロッパっぽくも見えるね」
「どちらかというとイエメンとか、そっち系にも見える」
いずれにしてもエキゾチックというか、異国情緒ただようというか。
……さすがに現実逃避もしたくなる。現実かどうか、怪しいけど。
「なんでこんなことになったんだっけ?」
「……わたしのせいかなあ」
「……俺のせいでもあるなあ」
来ようと言ったのはわたしだし、この場所の存在を教えてくれたのはケイくんだ。
お互い素直に謝ったけど、どちらかというとわたしに責任がある気がする。
「ごめんね」
「いや、いいよ。そのうち覚める夢だと思うことにした」
……それがよさそうだ。
「……厄介なことになったな」
「意外と落ち着いてるね、お互い」
「叫び声でもあげて駈け出した方がいいなら、そうしてもいいけど」
「追いかけるのが疲れそうだから、やめて」
「……あまりにもおかしな状況で、呆気にとられるくらいしかできねえよ」
たしかに、そうかもしれない。
人というのは、予想がつくことにこそ恐怖を覚えたり、不安になったりできる。
暗がりから狼が、背後から幽霊が、海から鮫が出てくるかもしれないというなら、おそろしい。
でも、あまりに脈絡がないと、恐怖すら覚えない。そんな感覚は麻痺してしまう。
それとも、恐怖が閾値を超えているのか。
もう、よくわからない。
「……とにかく、どうしよう?」
「……どうしよう、なあ」
わたしたちはしばらくその場で立ち尽くしていたけれど、残念なことに展望は開けそうになかった。
いつまで立っても何も起こらない。
「とにかく、歩く?」
「……そうしよう」
ケイくんが仕方なさそうに頷いてくれたので、わたしたちは歩き始めた。
選択肢は前と後ろ両方にあったけど、わたしたちはとにかく前に向かって歩くことにした。
どちらにしても知らない道だから同じだし、扉をくぐってみても特に何も起こらなかったからだ。
だったら、最初来たときに向いていた方向に進む方が自然に思えた。
乾いた夜風が吹いている。少しの肌寒さと、足首の痛みを、わたしは感じ取る。
「どうして夜なんだろう?」
「それをいったら、どうしてこんな景色なんだろう、が先だな」
そんなことを話していると、不意に物音が聞こえた。
わたしたちは顔を見合わせてから、坂を上り切った。
そこは円形の広場のようになっていた。
中央には噴水があり、その中心には何かの石像が飾られていて、それを囲むようにベンチが置かれている。
そこに、奇妙なものが動いていた。
犬のぬいぐるみ……のように、見える。
安っぽい、クリーム色の毛並みはくるくるにねじれていて、目玉は縫い付けられたボタン。
奇妙な動きで立ち止まって、辺りの様子をうかがうように首を左右に振ったかと思うと、ふたたび歩き始める。
背中にはゼンマイがついていて、一定のリズムでぎいぎいと回っている。
「……こいつは悪夢的だな」
とケイくんは言った。たしかに、とわたしは思った。
わたしたちがその子犬の動きに視線を奪われていると、不意に誰かの声が聞こえた。
思わず、身をこわばらせる。その声の主は、わたしたちが来たのとは別の道から、すぐにあらわれた。
「やあやあ、今日は。今日は」
わたしたちは、また唖然とした。
その男は――たぶん男だと思うのだけれど――どこから声を出しているのかわからなかった。
わたしは最初に、どこかに本物の声の主が隠れていないかを確認したし、ケイくんもそうしたと思う。
服装に変わったところはない。といっても、それはそれだけで十分過ぎるくらいに不自然ではあったのだけれど、
それでも体のことに比べれば、全然奇妙だとは言えなかった。
シルクハットに燕尾服。何かの映画でしか見たことがないような洋装で、ステッキを機嫌よさそうにくるくると振り回している。
石造りの地面を叩くように歩く革靴の音は軽快だ。
“それ”の体は、大小、太さ細さ、さまざまなかたちの色付きゴム風船で出来ていた。
「――やあ、今日は、御機嫌いかが。久しぶりだね、その後どうです」
わたしたちが黙っていると、風船の紳士は当然のように言葉を続けた。
それも明らかに(風船だからどこが正面かはわからないけど、服装の向きを見るに)こちらを向いて。
顔は赤。シルクハットをかぶっている。首元に黄色の細い風船が伸びているが、その下は服で隠れていてよく見えない。
手指は更に細く小さい風船でできていて、その奇妙な指で彼(?)はステッキを掴んでいる。
「どれ、その子はどうした」
とそいつは言って、いつのまにかわたしたちの足元へやってきていたゼンマイ仕掛けの子犬をステッキでつついた。
「いかんな、きみ。順路を破ってはいかん。いや破るのは好きにするがいいが、私には責任が持てなくなる。
まあとはいえだ。きみの人生だ。きみの好きにするもよいだろう。しかしねきみ、勝手というのはどこにいっても許されぬものだよ。
団体行動を乱してはいかん。いまのうちに肝に銘じておきなさい。きみのためを思ってこそ言うのだよ。さあ、皆が行ってしまう。戻りなさい」
戻りなさい、と彼は言って、ステッキで何度も子犬を突つく。
(決して強く叩いているというわけでもないのに、わたしはなぜかその光景に烈しい反感を覚える――)
子犬はしばらくクンクンと録音音声らしき声を垂れ流していたけれど、やがて静かな声をあげて、
風船紳士がやってきた方の道へとゆっくりと進んでいった。
ケイくんは、静かにわたしの手のひらを握る力を強めてから、
「あんた、言葉は通じるのか?」
と、風船に向けて話しかけた。
風船は一瞬、動きを止めたかと思うと、さっきまでと同じようにステッキをくるくる回し始め、
「――やあ、今日は、ご機嫌いかが。久しぶりだね、その後どうです」
と言った。
わたしは静かに瞼を閉じて、落ち着け、と、意識を強くもとうとしたけれど、
立ちくらみのような気持ちの悪い感覚が、ぐらぐらと足元を揺さぶっている気がして仕方なかった。
わたしたちが唖然として立ち尽くしていると、風船紳士は不意に動きを止めた。
彼は燕尾服の内ポケットから銀色の懐中時計を取り出して時間を見た(と思う。目がないけど)。
「おや、失敬。もう時間です。私はこれにて。あんまりお酒は、飲まんがいいよ」
そう小さく呟いたかと思うと、彼は燕尾服のなかに慌ただしく時計をしまいこみ、
またステッキをくるくるとさせながら、さっきの子犬が歩いていった道を戻っていった。
あたりには噴水の音だけが響いている。
街灯の明かりがモノクロ映画みたいに重々しい。
何か不自然な感じがして、わたしは噴水に近付いた。
でも、おかしなところはない。水面は街灯の明かりを受けて、ただ当たり前にきらめいている。
そのとき、なぜかぞっとして、わたしは自分の足元を見た。
「どうした?」
「……なんかいま、影が、動いたような」
「……そりゃ、おまえが動けば動くだろ」
「そうじゃなくて……」
勝手に、動いたような。
わたしは頭を振って、落ち着こうとする。
もう何を考えようと無駄だという気がした。
「……ケイくん、どうする?」
彼もまた、困り果てたというふうに天を仰いだ。
本当に綺麗に、星が見えた。それは、でも、きっととても遠くにあるもの。
もしかしたらとっくになくなっているかもしれないもの。
「さっきのあれ、追いかけてみるか」
「やっぱり?」
「どうせアテがあるわけでもないしな」
「……うん」
出口。帰り道。そんなものがあるのだろうか?
わたしたちはどうしてこんなところにいるんだろう。
誰かにぜんぶ説明してもらいたい気分だ。
そうしてこんなところから早く離れて、すぐにでも帰りたい。
――でも、帰りたい場所なんて、どこにあるというんだろう。
わたしたちは噴水の広場を抜けて、風船紳士の消えていった坂を登っていった。
その先からはぎいぎいぎいぎいと耳を覆うような音のつらなりが聞こえた。
さっきと同じ、ゼンマイ仕掛けの子犬だった。
違うのは数だ。十数匹の従順そうな子犬が、わたしたちの前を横切るように歩いていく。
「どこへいくの?」とわたしは試しに訊ねてみた。
子犬たちは一斉にわたしの方に顔を向ける。ちょっと気味の悪い光景だ。
それから彼らは、困ったみたいに顔を見合わせて何かを相談するような身振りをする(器用なものだ)。
そうして頷きあったあと、何も言わずに歩くのを再開した。
道は、左右に分かれていた。右に向かう下り坂の方へと、犬たちは歩いていった。
「昇るか」とケイくんは言った。
「……うん」
どうして昇ろうと思ったのか、ケイくんは言わなかったし、わたしも訊かなかった。
(何かを判断する基準なんて、わたしたちふたりはどうせ持っていない)
とにかくわたしたちは左に向かった。
結果から言ってしまえば、その判断は正解だったのだと思う。
何かしらの、"それらしき"ところには辿りつけたからだ。
でも、本当のところはどうなのだろう?
ひょっとしたら、下り坂を選んでも、何かの変化には辿りつけたかもしれないし、
もしかしたらそちらを選んだ方が、わたしたちにとって、もっと都合の良いことが起きたのかもしれない。
わたしたちは、選ばなかった未来、"こうじゃなかったかもしれない現在"を知ることができない。
もしもあの日、出かけようとしたお兄ちゃんを止めていたら?
お兄ちゃんが、わたしがさんざん言っていた通りに、煙草をとっくにやめていたら?
たとえば、もしあの日の気温が一度でも低かったら、お兄ちゃんは出かけていなかったかもしれない。
そんな些細な違いだけで、すべては違ったかもしれない。
いずれにしてもそんな“もしも”を考えることに意味はない。
そうしなかったわたしたちがどこに辿り着くかなんて、分かりっこない。
坂を昇った先は、また広場のようになっていた。けれど、さっきよりもずっと広く、何もかもが大きい。
今度は、中央近くに花壇があった。
花壇は四つのスペースに分かれている。扇型に切り分けられた円の隙間が、裂くような石路になっていた。
花壇のひとつには、白いスミレ。ひとつには、紫のアネモネ。ひとつには、黄色いクロッカス。ひとつには、オレンジのヒナゲシ。
花壇の中心、石路の交点には、小さな木があった。
"ざくろ"だ。
「……なんでもありだな」とケイくんが呟いた。
枝には花が咲いている。けれど木の足元には、熟れて裂け、中身を晒すざくろの実がいくつも落ちていた。
もはや奇怪さを通り越して、神秘的ですらあった。
夜の景色は、さながら"星月夜"。
種々の花々の並ぶ花壇、整然とした十字の石路の中央は、花を咲かせたざくろの木。
なるほど、これもまた悪夢的だ。
そして、円形の花壇の向こう側に、高い壁が見えた。
わたしたちはそちらへと歩いていく。
(……濃厚な花の香りが鼻腔を侵す)
近付いて分かったのは、その壁に扉があること。
その扉が、木の枝に覆われていること。
その木の枝に隠されるように、ひとりの女の子が磔にでもされたみたいに吊るしあげられていたこと。
もはや、驚くことさえできなかった。
その子が誰だとか、ここがどこだとか、今がいつだとか、そんなことはもう、頭から抜け落ちてしまった。
からたちの木、その突き刺さりそうな枝、壁をうめつくさんばかりに伸ばされたその棘が、ひとりの少女をとらえている。
この景色がいったい何を意味しているのか、わたしにはまったく分からない。
にもかかわらず、景色は勝手に動く。
現実感なんて、もはやない。
驚きも恐怖も、既に感じない。
からたちに捕まった少女が、瞼を静かに開いた。
(彼女の細く頼りない腕を、からたちの棘が突き刺している――)
「――ああ、来てくれたの」
と、少女は笑う。
わたしたちは、その光景に呑まれる。
「でも、残念。やっぱり、間に合わなかった」
吊るしあげられたまま、少女は微笑みを保ち、どこも見ていないような目で、わたしたちの方を見ている。
「……だって、一度、逃げ出したものね」
彼女はわたしのことを知っているみたいな口振りで、
でもわたしは、彼女のことなんて知らない。
「ねえ、どうしてわたしを置いていったの? どうしていまさらここに来たの?」
抑揚のない声で、少女は続ける。
「あなたのせいで――わたし、死んじゃった」
彼女は最後にそう言うと、愉しそうに笑いはじめる。
声は徐々に膨らんでいく。
それと同時に、彼女の体が砂のように崩れはじめたかと思うと、夜風に舞って遠くへと流されていく。
不意に、からたちの枝が、意思を持っているかのように左右に開けた。
わたしはケイくんの手をぎゅっと掴む。
これは悪い夢なのだろうか?
それとも何か、妙なことに巻き込まれただけの現実なのだろうか?
目の前の大きな扉は、出口なんだろうか。
それとも、入り口なんだろうか。
ぜんぶ、わからなかったけど、わたしたちは声も交わさずに頷き合った。
他に、選べる扉がなかった。
だからわたしたちは、その扉の取っ手を掴んだ。
開くかどうか、確かめてもいなかったのに、勝手に開くと思い込んだ。
こちらへどうぞと言わんばかりに、からたちの枝が避けたから。
そうしてそれは、実際開いた。
不意に、まばゆい光。
また、視界を覆う。耳が、音に呑まれていく。
"待っててね"、と、光に灼かれた視界の中で、そんな声がかすかに聞こえたような気がした。
続き
開かない扉の前で【#02】

