傘も差さずに外に出ることにした。
雨の感触が心地いい。
「傘ぐらいは差しなさいよ」
そう言って彼女が後ろから走ってきた。
「雨なんだよ」
そう言うと
「雨だからよ」
と彼女が言い返した。
元スレ
男「雨が降っているな」女「そうね」
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1352545152/
要らないと言ったのに傘を押し付けてくる。
「雨を楽しまないつもりか?」
「雨を楽しむ?」
「ほら、足踏みしてみて」
「こう?」
ピチャピチャ、と音がする
「楽しくないか?」
「少し楽しいかも」
彼女も傘を畳んだ。
一旦家まで戻り、傘を置く。
「タオルは?」
「要らないよ」
「そうね。帰ってきてから考えましょう」
「考える必要さえないさ」
「雨だから?」
「そう、雨だからさ」
僕達は、手をつないで夜の水浸しの街へと走りだす。
足音は至って軽快で、夜の街は僕らを歓迎してくれているように感じた。
水を被った建物達は鏡で、
街を走る車たちは宝石だった。
「ねぇ見て」
と、彼女が足を止める。
「何?」
「水溜り」
「水溜りか」
「えい」
彼女が水溜りに足を下ろすと、
水溜りから水しぶきが上がる。
「ね?」
「なるほど、水溜りだな」
僕も水溜りに足を下ろす。
彼女よりも早く振り下ろすと、それはもっとすごかった。
ちょうどいい公園があったので、そこのベンチに腰を掛けた。
彼女はもうびしょ濡れで、僕ももうびしょ濡れだった。
「楽しい?」
「楽しいね」
「はは」
「ふふふ」
空から降ってくる楽しさの塊に打たれながら、
僕と彼女は軽やかに笑った。
真っ暗闇の空は、遥か彼方の宇宙につながっていることを実感させる。
雨は素晴らしい。
彼女も僕も、いくらかの時間をそのまま笑顔で過ごした。
いや、いくらかっていうのは語弊がある。
雨の間、ずっと僕らは笑顔だった。
彼女の笑顔は久しぶりで、
とても貴重なものに思われた。
「子供みたい」
僕が彼女の笑顔を見てそう言うと
「そっちこそ」
と、また笑顔が映える。
最近はずっとふたりともしかめっ面ばっかりだった気がする。
思えば、もうかれこれ1年以上笑ってなかったのかもしれない。
客観的に見れば笑っていたのかもしれないが、
それは本当の所の笑顔ではなかった。
少なくとも僕はそうで、彼女もきっとそうだろう。
僕はわかっている。
「もうちょっと歩かない?」
「いいね」
「寒くはない?」
「もちろん」
むしろ、夏よりも春よりも温かいかもしれない。
「じゃあ行きましょう」
彼女が手を差し伸べてくる。
その手は濡れて、あまり立ち上がるときの助力にはなりそうもない。
しかし、しっかりと手を握って、自分の足で僕は立つことにした。
「どこまで行く?」
「どこまで行きたい?」
「君が行きたいところまで」
「じゃあ貴方が行きたいところまで」
「そ。」
「そうよ。」
「じゃあとりあえず行けるところまで行ってみよっか」
「うん」
「雨が止むまでさ」
「うん」
僕はそう言って繋いだ手に、温もりを感じながら、
絶対に風邪なんか引きそうにもないな、と思った。
終わり。
雨が止んだから家に帰った。
彼女は少しご立腹だった。
「もう少し長く降ってくれてもいいのに」
「仕方ないだろ」
「仕方ないけどさ」
「すぐにまた降るよ」
「そうだね」
「そしたらまた行こうね?」
「当たり前だろ、だって」
「雨だから」
そう。雨が降るのは別に今日だけじゃない。
その日は結局雨は降らなかった。
彼女は入浴後に髪を梳かしながら
「雨、降らなかったなぁ」
と、寂しそうな声を出していた。
僕はすかさず、明日には降るよと言ったが、
テレビを付けると明日の天気は晴れと予報されていた。
「全く・・・」
しかし、どこまでも雨というものは素敵らしい。
明日雨が降らないというのに、
それでも、僕の心は浮かれている。
翌日はやっぱり雨が降らなかった。
「そんなもんだよ」
ひとりごとを呟きながら僕は出社した。
確信はなかったけど、僕は明日は雨が降ると信じて疑わなかった。
でも次の日も、また次の日も雨は降らなかった。
深く言うつもりは無いが、どうにも人生というのは難しいものらしい。
落胆と喜びを繰り返していく波の、その最下だと思うことにした。
明日は雨が降るかもしれない。
そう考えると、また雨が楽しみになった。
彼女もまた、そのように考えている。
僕にはわかるのだ。
彼女にも僕の考えてるのはお見通しのようにね。
前の雨から数えて7日が経った頃だっただろうか。
どうしても雨が降らない事に耐えかねた彼女は、
てるてる坊主を逆さに吊るした。
「明日天気にしておくれ」
その天気というのは雨ね、と彼女は付け加えた。
「そんなもの効くかなぁ?」
「やってみないとわからないじゃない?」
そりゃあそうだ。神は人間が信じるから存在する、
とか、そんな感じだろう。
僕もてるてる坊主ならぬ、ふれふれ坊主を作ることにした。
「これ、何で作ったんだい?」
「布とティッシュ」
「ちょっと触ってみてもいい?」
「いいよ」
「なにか入ってないか?」
「ああ、十字架のことね」
十字架?と聞くと彼女はアーメン、と答えた。
翌日。
雨は降らなかった。
何がいけなかったのかな、と言う彼女に、
「君の洒落が悪かったんだ」
と言うと、彼女は少し不機嫌になった。
真剣だったらしい。
僕がなだめても彼女は不機嫌なままだった。
早く雨が降ることを、逆さに吊るされた哀れな奴に、
僕はどうにも祈ることしか出来ない。
次の日。朝起きると、雨が降っていた。
「やった、やった」
と心を踊らせながらリビングへ向かうと、
どうやら彼女は僕よりも嬉しいらしく、
いつもよりも朝食のおかずが3品多かった。
「早く帰ってくるよ」
「当然」
「今日はどこまで行く?」
「どこまでも行くに決まってるでしょ」
「そうだね」
「じゃ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
外に出ると、雨が面白いほど降っていて、
傘で覆いきれなかった肩の端に、
すこしばかりの水滴が垂れていくのがこれまでにないぐらいに、
僕は楽しかった。
僕が帰宅する頃には、彼女はもう外で濡れていた。
待ちきれなかったのだ。
「ね、早く行こう」
「でもまだ背広のままだよ」
「替えはあるから」
「それもそうだ」
傘を折りたたむ。雨の音が心地よい。
この前買ったばかりの背広は、じわじわと水を吸い込んでゆく。
彼女が走り始める。
僕も追いつくために走る。
ピシャピシャと水しぶきが舞い上がり、
彼女と僕の服を濡らす。
濡れるたびに服が軽くなる。
「あ」
と、またこの前のように彼女が突然止まった。
よく前を見ていなかった僕は彼女に軽くぶつかる形で止まった。
「いきなりどうしたんだ?」
「舗装されてない道があるわ」
「本当だね」
示し合わせるまでもなく、
僕達は泥で濁る水溜りへと足を突っ込んだ。
言うまでもなく僕らは泥だらけだ。
「えい」
と言って彼女が蹴りあげた泥は僕の背広へと掛かる
僕は無言で足元の水溜りに、足を滑らせるようにして水を掬って、
彼女に掛けた。彼女はちょっと不満そうにして
「なんで泥まで掬って掛けないの?」
と聞く。
「何でって、泥は嫌だろう?」
「そんなことないわ。だって今日は雨よ?」
「そうだったね、今日は雨だ」
全く、雨は素晴らしい。
それからは二人共、泥に身を包んだ。
包まされた、というのが良いかもしれない。
足で蹴りあげた泥は、細かい粒になって、
彼女の綺麗に整った顔にも付いた。
当然、僕の顔にも沢山の泥がつく。
時には手で掬って掛けたりもした。
別に悪意があるわけじゃない。
ふたりとも、ただただ笑顔だった。
そこには笑顔しかなかったし、
笑顔以外の何かは介入する余地はなかったんじゃないか、
と、僕は思う。
彼女が突然動きを止める。
また何かを見つけたのかなと思ったが、
「今日は帰らない?」
と提案してきた。
「何でだ?こんなにも雨を待ち望んでいたじゃないか」
「待ち望んでいたのは確か」
「じゃあ」
「明日も雨が降るかもしれない」
「なるほど、取っておこうって訳?」
「こんなに楽しいこと、今日一日でやってしまうのは勿体無いわ」
「それもそうだね」
これから雨の日ごとに1つずつ、雨の楽しさを見つけて行きましょう。
彼女はそう言って、微笑んだ。
辺りは真っ暗だったけど、
帰る道は明るく、そして暖かく見えた。
今日はいつもよりも彼女が入浴する時間が長かった。
「泥が髪に付いてたから」
髪を梳かす時に言ったその言葉には、別に嫌味は無く、
それどころか少し楽しそうだった。
2本の缶ジュースを開けて、僕は彼女の座る鏡台横に座った。
「風邪は引いてない?」
「当然じゃない。暖かくしてるんだから」
「そうだね、当然だね」
「貴方こそ風邪なんか引くわけないわよね?」
「当たり前じゃないか」
「そ」
僕はまだ入浴していないので、暖かくしているわけでは無いけど、
僕の考えていることが彼女には分かったんだと思う。
いや、わかっているはずだ。
僕にはわかる。彼女が僕の考えていることがわかるようにね。
これから寒い冬になる。
雨は降らずに、雪がふるかもしれない。
彼女にそれを伝えると、
「雨も雪も大して変わらないわよ」
と、言われた。
確かに、同じ水だ。
「でも水溜りは出来ないかもしれない」
「雪溜まりは出来るんじゃない?」
「でも雪だよ?」
「暖かくしていれば溶けるわよ」
「溶けるかな」
「溶けるわよ」
そこまで言って、彼女は突然何も言わなくなった。
でも彼女が言いたいことが僕には分かった。
僕は彼女の手をとって、月並みな好意を伝えるセリフを言うことにした。
結婚式は梅雨の時期がいいな、と返された。
おわり。