「めんどうみたあいてには、いつまでも責任があるんだ。まもらなけりゃならないんだよ、バラの花との約束をね……」
(1943年出版、サン=テグジュペリ『星の王子さま』より)
元スレ
球磨「面倒みた相手には、いつまでも責任があるクマ」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1503227475/
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『海軍大佐――――。大日本帝国海軍・軍艦(艇)球磨、艦長ヲ命ス』
小寒の候、冬晴れの空。
本日天気晴朗、ナレドモ海風冷冷タリ。
――僕は夢を見た。
一人の黒衣の男が軍艦の前甲板に屹立している。
齢40近いこの男は、隊伍を組んだ黒軍服の手前、その一点に屹立している。
第一種軍装を身に纏い、短剣を剣帯し、士官軍帽の陰に潜む、その凛と輝く柔和な目で、艦首旗竿に掲げられた海風に揺蕩う日章旗を見据えていた。
小柄で無口なこの男は、襟章や袖章から察するに、海軍大佐であると窺える。
本日、この男が屹立している軍艦、その前甲板にて、艦長着任式が執り行われた。
この軍艦は、1919年7月14日に佐世保海軍工廠で産声を上げた、全長162.1メートル、全幅14.17メートル、排水量5500トン、最大速力36.0ノットと言う快速を誇る強豪艦である。
しかしそれは、あくまでも進水当時の話であり、今現在ではやや旧式となった二等巡洋艦であった。
兵装は40口径三年式8センチ高角砲2門、53センチ連装魚雷発射管8門、そして50口径三年式14センチ砲7門が備え付けられている。
特徴的な3本煙突の先は、ふっくらと丸みを帯び、通称「そろばん玉」と呼ばれる雨水除去装置が取り付けられていた。
帝国海軍における二等巡洋艦の命名慣例である河川の名称が襲用され、大正天皇に奏聞し治定された、この軍艦の名は「球磨」。
この海軍大佐は、大日本帝国海軍の軍人として、「軍艦・球磨」艦長の任に就く、誉高きこの日を迎えたのである。
『まさかの祝――人目の艦長だ。球磨も驚きだ。でもおめでたい』
………………………………
◆第1章:歴史という綴織
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――――11月、0630、横須賀鎮守府停泊、軍艦・球磨、艦長室。
「本日は航海長の知っての通り、各種整備の後、1200より馬公要港部へと向かう」
「了解です。艦長」
日の出遠き朝、電燈の明かりの下。
着任初日、大佐は艦長室の机の上に乱雑ながらも秩序的に並べた航泊日誌と方向航海計器(コンパス)、そして海図へと視線を落とし、航海長と本日の任務について話をしていた。
『台湾は久しぶりだ』
ふいと、大佐はあどけなさが残り、どこか間延びした少女の声を聞いた気がした。
唐突に顔を上げ、そして訝しげに首を傾げる大佐。
その大佐の様子に、航海長も不審げな表情を浮かべた。
寸秒の後、大佐は航海長に向かって口を開いた。
「……航海長。今誰か、喋らなかったか?」
「いえ、艦長。艦長室には私たち以外、誰もいませんが……」
『鳳梨酥(パイナップルケーキ)と烏龍茶で一服。うん、それも悪くない』
二言目。
大佐は、今度こそしっかりと少女の声色を聞いた。
――幽霊か、はたまた、妖か。
青褪めた大佐の様子に、航海長も殊更不安げな表情を浮かべた。
寸秒の後、大佐は意を決した様子で航海長に向かって口を開いた。
「航海長……変な事を聞くようだが……この艦に童が紛れ込んでいる……なんて事は無いな?」
「え、ええ……少なくとも水兵からその様な報告は上がっていませんが……」
「……」
『もっともこの球磨は、そんな美味しいモノを飲んだり食べたりする事が出来ないが』
三言目。
大佐は自分が疲れているのでもなく、少女の声色が自分の聞き違えでもない事を確かめると、深刻な表情で頭を抱えた。
「……艦長?」
「ああ……すまない、久方ぶりの国外任務で何分緊張しているのだ。1100の総員集合時には顔を出す。それまではよろしく頼む」
「……承知致しました。失礼致します」
航海長は敬礼の後、普段であれば決して見る事が無い、頭を抱えた大佐の姿に狼狽しつつ、艦長室を後にした。
「……まさかな」
暫くの後、大佐は確かめる様に口を開いた。
「……この部屋に誰か居るのか?」
「球磨も人間になれたら……っておい、そこな艦長……もしかして、この球磨の声が聞こえてるのか?」
「……」
まさか頭を抱える原因を作った張本人から言葉が返されるとは思わなかった大佐は、気を保ちながら恐怖を嚥下し、その震える唇を開き、語気を強めて問いかけた。
「……だったらどうした、貴様はなんだ? この大日本帝国海軍が誇る軍艦・球磨に住み着く幽霊か、はたまた、妖か?」
「失敬な。この球磨こそ紛うことなき、大日本帝国海軍が誇る球磨型二等巡洋艦の1番艦、球磨だ。知っての通り、佐世保生まれだ」
大佐の言葉にその存在は、「ぷんすか」と言わんばかりの声色で、堂々を己が名前を告げた。
「貴様、何を言って……」
「そうだな……舟魂って知っているか? 海の民が航海の安全を願う神さまの事だ。多くの場合は女性である事が多い。まぁ、そんな存在だと思ってくれ」
大佐は頭を上げ、艦内に鎮座する艦内神社を想起した。
「軍艦・球磨」の名の由来となった「球磨川」が流れる熊本県・球磨郡に位置し、縁結びの神社としても知られる「市房山神宮・里宮神社」。
その分社である艦内神社には、神木を刳り貫いて作った舟型の中に、舟魂を模った紙の人形と、撤下神饌が供えられていた。
こうした艦艇内に神社を設ける分祀行事は、帝国海軍では連綿と続く慣わしである。
軍艦、ひいては艦艇が女人禁制と度々言われるのは、この舟魂、つまり女性の神さまが嫉妬して、機嫌を損ねてしまう可能性を憂いての事らしい。
「つまり貴様は……神か?」
「そんな大層な者ではない。球磨は『軍艦・球磨』だ。それ以上でもそれ以下でもない。最も球磨以外に似た様な存在が居るのかは知らん」
――そんな妖怪変化を信じてたまるか。
仮にも文明人で帝国軍人でもある大佐は、この事実を否定しようとしたが、こうやって会話が成立している以上、信じない訳にはいかず、大佐は腹を括った。
大佐は伊達に40年生きていない、ましてや伊達に20年近く軍務に就いていた訳ではない。
大佐は自分自身の肝っ玉を信じ、艦長室の虚空を仰ぎ、諦めた様子で言葉を投げた。
「……で、貴様の目的は何だ?」
「……」
大佐のその言葉と同時に、この「軍艦・球磨」と名乗る存在は沈黙した。
そうして艦長室には荒涼たる空気が唐突に流れ、大佐は思わず身震いし、身構えた。
――この神とも霊とも妖とも分からぬ存在から、果たしてどの様な宣告がなされるのか。
大佐は唯々固唾を呑んで、この少女から告げられるであろう言葉を待った。
「……いんだ」
「……」
「……寂しいんだ」
「……は?」
そして告げられた少女の気恥ずかしそうな声色に大佐は、ふにゃりと自分自身の緊張の糸が緩んだのを感じた。
続けて軍艦・球磨たる存在は言葉を紡いだ。
「お前が初めてだったんだ。この球磨が生み出されてから早15年近く。こうやって言葉を返してくれる人は誰一人として居なかった」
そしてその声色は、どこか嬉しそうな色を孕んでいた。
恐らく今、この少女がこの場に人間として姿を現していたならば、大佐に向かって赤面して嬉しそうな笑顔を浮かべていたであろう。
大佐は少しでも身構えた自分が阿呆だったと溜息を吐き捨て、軍艦・球磨たる存在に続けて言葉を投げかけた。
「目的は分かったが……それにしても、何故私だけ貴様の声が聞こえるのだ? 先刻まで居た航海長には聞こえなかったようだが」
「球磨にもよく分からんが、どうやらお前とは波長が合うみたいだ。嬉しいぞ、こうしてお前と話せるのは」
「私はちっとも嬉しくない。それに今後、貴様と言葉を交わすつもりは更々無い」
「むぅ……女の子に対して何て口の利き方だ……」
「第一、貴様と話して私に何の利点がある?」
「そ……それは……」
大佐の言葉に辟易した少女は、寸秒考えた後、早口で大佐に捲し立てた。
「伊達に15年近く軍艦はやっていない、多少なりとも助言は出来る! 意外に優秀な球磨ちゃんって、よく言われる! 後は……そう! お前も人の上に立つ身だ、何かと孤独だろう。その孤独を枯らしてやる事も出来る!」
「私に助言なぞ必要ない。それに孤独こそ男の本懐。そんなもの犬か軟弱な余計者にでも食わせてしまえ」
「ぐぅ……」
「それに私は必要な時以外、無駄口を開きたくない。だから黙っていてくれ」
とりあえず害が無いと分かった大佐は、少女の言葉を無視し、だんまりを決め込む事にした。
軍艦・球磨は大佐に何度も話しかけるが、大佐はウンともスンとも言わず、机の上に広げた航泊日誌に記述している。
「なぁ……球磨が少しお喋りだったのは謝る……」
「……」
「だからお願いだ……返事をして欲しい……」
「……」
暫くの後、この軍艦・球磨たる存在は、悲しみを吐き出す様に嗚咽を漏らした。
「……お願いだ……時々で良いから返事をして欲しい……話しかけても誰も答えてくれないのは本当に辛いんだ……」
そして悲しみを押し殺した声で、少女は大佐に懇願した。
その軍艦・球磨の言葉と声色を聞いた大佐は、思わず想像してしまった。
西洋下穿(ズボン)の裾をぎゅうと握りしめながら冷たく震え、涙を浮かべて唇を噛み締め、「お願い行かないで」と、自分から離れ行く人々の姿を成す術もなく眺めている少女の姿を。
――思い浮かべてしまった。
大佐はその少女の声色と情景に折れ、苦笑して諦めた様に溜息を吐いた。
「そうさな、分かったよ……1年か2年程は、この艦に着任する事になるだろうしな。忙しくなければ何時でも話しかけていい」
そして大佐は、月明かりの様な柔和な目を中空へと投げかけ、口を開いた。
「それは本当か!?」
大佐の言葉を聞いた少女は、ぱあっと曇天から光芒が差し込んだ様な歓声を上げた。
「ただし、他の水兵が居ない所で話しかけてくれ。流石に精神病科の独房で生涯を送りたくはないからな」
「分かった! ありがとう、本当に嬉しい! 球磨は一寸古いところもあるけど、頑張る! ええと……」
――なんともまぁ、ぬらりひょんな道連れが出来たものだ。
――だが、これもまた面白かろう。
「――大佐だ。よろしく頼むよ、球磨」
大佐は昔好んで読んだ、とある帰化人作家が著した怪奇文学作品集の内容を思い出しながら、軍艦・球磨に己が名前を告げた。
大佐が浮かべたその表情は、月明かりの様に柔らかな笑顔であった。
「こちらこそよろしく! ――大佐」
そして軍艦・球磨は、日の光の様に温かくも力強い声色で、大佐に返事した。
………………………………
――――1200、予定通り、軍艦・球磨は抜錨した。
この時を以て、球磨と大佐は、軍艦と人間という奇妙な関係で結ばれた。
そして軍艦・球磨は、大佐と多数の水兵を従え、馬公要港部へと向かう為、帝国の栄光と誉、そして大佐と数々の水兵の想いをその胸に抱き、天高く日輪が栄える水平線を進んで行った。
――――その進む先が、二度目の「大戦」という、帝国の斜陽であるとも知らずに。
………………………………
………………………………
『……提督! ……起きるクマ!』
「ん……ぁ……?」
『……何時まで寝ているんだクマぁ!!』
「……ぅぐあっ!?」
その言葉を皮切りに、少女の手から放たれた鉄槌パンチが、寝ていた壮年の男の腹部へと叩き落された。
加減はあったとは言え、無抵抗の状態で攻撃を受けた男は、成す術も無く腹の中の空気を全て吐き切り、そして飛び起きた。
「コホッ……ガハッ……ぃ……痛ってぇ……球磨ぁ……もうちょっと優しく起こしてくれないかな……?」
「うるさいクマ! 今何時だと思っているクマっ!」
「ええと……1200かな……?」
「何寝ぼけているクマっ!? 0630だクマ! そんなに寝てたら、いくら提督でも普通に首が飛ぶクマ!」
鳶色の長い髪と瞳、バネの様なアホ毛をぴょこぴょこと揺らし、そして語尾に「クマ」を付け、その男へと噛みついている、端麗な顔立ちの艦娘。
白衣のセーラー服を纏った「艦娘・球磨」は、呆れた表情で、あどけなさが残り、どこか間延びした声色を、その男「提督」へと浴びせていた。
「妹たちはとっくに起きて食堂に居るクマー。球磨もお腹がすいたクマ。これだから秘書艦は大変だクマー。ちなみに今日の給養当番は大井だクマ。基地の皆も大喜びだクマ。球磨も大喜びだクマ。だからちゃっちゃと身支度を整えろクマー」
提督は先程、球磨の拳が叩き込まれた腹部をさすりながら、申し訳なさそうな表情で球磨に言葉を投げかけた。
「ごめんよ、すぐに行くからさ」
「クマ」
分かればいい、と言わんばかりに返答した球磨は、ふんすと鼻を鳴らし、独り言の様に提督へと言葉を紡いだ。
「……それにしても起床ラッパが鳴ってもなお、提督が起きて来なかった事なんて、今まであったクマかー?」
球磨は「珍しい事もあるな」という表情の儘、提督が普段寝泊まりしている部屋の扉、そのドアノブに手を掛け、提督の私室を後にした。
「……夢、か」
毛布に身を包んでいた提督は、柔和な目で部屋の真正面を見据え、幾分か朧げな意識の儘、先程の夢を思い出していた。
しかしチクタクと一秒毎に刻まれる時計の音により、その夢の記憶が刻々と削られていく。
やがて先程までありありと目に映っていたであろう叙景から鮮明さが失われ、「軍艦・球磨」と「大佐」という断片的な記憶のみが残滓として、提督の脳裏に留まっていた。
「球磨が秘書艦になってからもう2年が経つのかぁ……」
提督は誰に語るでもなく、自分自身へと語る言葉を虚空へと投げかけた。
恐らく、長らく秘書艦として提督に尽くしてくれた球磨、つまり純粋に単純接触回数が多かった球磨だからこそ、あんな形で夢に出てきたのであろうと、提督は先程見た夢の解釈を行っていた。
「僕が一等海佐(大佐)である事と、何か関係があるのかな……でも所詮、夢の話だしなぁ……」
提督は一つ大きな溜息を吐き捨て、「夢は夢である」と最終的な結論を出し、その夢の記憶断片をさっさと脳裏の片隅へと追いやった。
寝ぼけてふわふわと定まらない意識の儘、提督は寝床から起き上がると、さっと寝床を正し、ばしゃばしゃと洗面台で意識を覚醒させ、ぱっぱと身嗜みを整え、黒ネクタイをぎゅっと締め、着慣れた常装冬服にすっと袖を通し、制帽をひょいと被ると、ちゃっちゃと部屋を後にした。
………………………………
僕たちはもうずっと昔から戦争をしていた。
確か僕が大学を卒業後、国防海軍に入隊して間もなくの出来事だったかなと記憶している。
――――「深海棲艦」と呼ばれる存在が突如、日本国近海を中心とした世界各国の海域に出現し、航行する船舶を無差別に襲ったのである。
直ぐに深海棲艦掃討の為、各国の軍隊で連合軍が結成され、総力を挙げて深海棲艦と戦った。
だけど、最新兵器を駆使して戦った各国が得たものは、惨敗という成果のみ。
無駄に各国の人命や軍事力、ひいては国力を削ぐ結果となってしまった。
某国が躍起になって核兵器の使用を国連安保理決議案で提出したけど、それは結局、反対大多数で否決された。
その理由は2つあった。
1つ目は、仮に倒せたとしても、核兵器を使用した際に発生する環境破壊等のデメリットが大きすぎる為。
そして2つ目は、これは僕がずっと不思議に思っている事だけど、当初危惧されていた最悪のシナリオ。
「深海棲艦が陸に攻めてきて人間を駆逐する」と言った動きを、一切見せなかった為である。
結果はどうあれ、これにより海路による大規模輸送が不可能となり、資源輸入国だった日本の経済、そして世界経済は緩やかに変わっていった。
それが停滞なのか衰退なのか、はたまた発展なのかは、僕には分からなかった。
少なくとも言えるのは、その後、深海棲艦に対する積極的な軍事介入が次第に行われなくなり、各国も半ば諦めた状況で、自国の政治形態を内政重視にシフトせざるを得なくなった。
その為、他国間での貿易が活発に行われなくなり、少しずつ経済が停滞、そして技術水準が過去の時代へと遡行していったのである。
――――これが歴史書にも綴られている、現代史の一幕であった。
――――それから暫くの後、今から大体4年前に、「艦娘」という存在が現れた。
聞けば「妖精さん」なる存在が生み出した、「旧日本海軍の艦艇の魂」をその身に宿し、「艤装」と呼ばれる海上走行および戦闘が可能になる武装を操る事で、軍艦艇に近しい戦闘力を得る事が出来る、深海棲艦と戦う為の唯一の存在らしい。
何度聞いても奇々怪々なオカルト話だ。
艦娘が現れた当時、それは大騒ぎとなった。
非人道的な人体実験、デザイナーベビーなど、軍部の闇が取り上げられたりもした。
僕も気になって、自分の地位を利用して、独自に調べてみた事もあった。
でも、そうした形跡は何一つとして見つからなかった。
僕が最も信頼を置いている地方総監部(鎮守府)司令官に聞いてみても、首を横に振るばかり。
また彼女たちに出生を聞いてみても、生まれた時の記憶は殆ど無いと答えるばかりだ。
言ってしまえば、管理職である僕でさえ、彼女たちがどのように生まれたのか、一切分からないのである。
こればっかしは、神さまのみぞ知る。
でも正直な所、彼女たちの出生について、僕はそこまで熱心に調べなかった。
何故なら、そんな事を考えている暇があったら、唯目の前に居る彼女たちの為に心血を注ぐべきかなと、僕は考えていたからだ。
つまり彼女たちの存在そのものを懐疑したり否定したりしてみても、其処に存在しているであろう以上、僕にはどうしようも出来ないのである。
結局の所、どの様な生まれであれ、彼女たちが今この瞬間、生きているという現実。
彼女たちの実存について、おいそれと反証を挙げる事が、僕には到底出来なかったのである。
話は変わって、これは僕たちの仕事なんだけど。
――――何故、深海棲艦が出現したのか。
――――深海棲艦は何の為に攻撃を行うのか。
その原因の究明、ひいては海上防衛及び制海権奪回の為、現在の国防海軍の一部門に位置し、「艦娘」との親和性を高める為に、旧日本海軍の階級制度と用語を並行的に採用した艦娘管理部門、通称「大本営」が置かれたんだ。
それで僕の主な仕事はと言うと、昔よりも往来するようになった輸送船や艦艇、また近海任務にあたる別の部隊が攻撃がされた際に、直ぐに出撃して対応する後援救助部隊の役割を担う艦娘の司令官として。
そして万が一、深海棲艦が陸に上陸した際の足止めと陸空軍への早期警戒を促し、近隣住民を避難させる、警備基地の司令官として。
こうした後方任務を主とした、小規模な海軍警備施設の司令官、言うなれば後詰の司令官を、僕は任されていた。
………………………………
――――1200、日本国近海航路、海上警備ルート、地点C。
「もう提督と知り合ってから2年も経つクマかー」
三冬統べたる帝さえも、うつらうつらと舟を漕ぐ、穏やかな小春日和の真昼時。
其処には太陽光を乱反射させ、水銀の様にさらさらと光る海面を、幾分か防寒を施した格好で滑っていく、五つの影があった。
「にゃ? 球磨ちゃんって、此処に着任してから、もうそんなに経つのかにゃ?」
浅紫色のショートヘヤーを揺らせて、語尾に「にゃ」を付け、静かな口調で喋る艦娘。
球磨型2番艦「艦娘・多摩」。
「あー、球磨姉ちゃんの方が着任時期早かったもんねー」
黒檀色のおさげを揺らせて、ゆるゆるとした口調で喋る艦娘。
球磨型3番艦「艦娘・北上」。
「そう言えば、長く着任している割には、球磨姉さんと提督との間で不思議と浮いた話は聞かないわねぇ」
栗毛色のセミロングを揺らせて、礼儀正しい口調で喋る艦娘。
球磨型4番艦「艦娘・大井」。
「大井姉、流石に歳の差を考えた方がいいと思うぜ……で、そこんとこどうなんだよ、球磨姉?」
深碧色のショートヘヤーと黒外套をはためかせ、男勝りな口調で喋る艦娘。
球磨型5番艦「艦娘・木曾」。
「別に提督とはなんにもないクマ。上司と部下、提督と艦娘の関係、それ以上でもそれ以下でもないクマ」
そして妹たちの熱に浮いた眼差しを真っ向から受けているのは、この後援救助部隊の旗艦である艦娘。
球磨型1番艦「艦娘・球磨」であった。
彼女たちは、「艤装」と呼ばれる装備を用いて水上を走り、本日の軍務である近海航路の海上警備任務の為、予め定められた巡回ルートを航行しながら、色恋話に花を咲かせていた。
だが、話の中心に居る球磨は、そうした話題とはどこかずれた表情。
「それに球磨は、そんな事考える余裕がない程、それはもう提督の事が心配だクマ」
――――憂いの表情を浮かべて、妹たちに呟いた。
「心配にゃ?」
多摩は球磨の言葉に首を傾げると、球磨の言葉の真意を訪ねた。
寸秒の後、球磨は妹たちに母親が浮かべる様な柔らかな笑顔を向けて、口を開いた。
「提督はこう言っちゃ何だけど、軍人向けの人間じゃないクマ」
球磨が発したその言葉に、先程まで熱に浮いていた妹たちの視線が、一気に疑義の眼差しへと変わる。
「球磨姉さん、それはちょっと信じられないわ。あれだけ的確な指示を飛ばせる司令官なんて滅多に居ないわ。それこそ、何であれだけの実力がありながら後方部隊の司令官を務めているのか不思議なくらいに……」
「それにアイツ、確か司令官になる前は航空電子整備員(センサーマン)で降下救助員だったか? それで次は特警隊、その後は特警隊幹部教官ときた。バリバリの叩き上げじゃねぇか。そんな奴に球磨姉はよく軍人向けじゃないって言えるな」
その球磨の言葉が「信じられない」という表情で、大井と木曾は反論した。
「んー、球磨姉ちゃんは提督の何が心配なのさー?」
今度は北上が球磨に、その言葉の真意について訪ねた。
球磨は柔らかな笑みを浮かべながら、妹たちに向かって答えた。
「提督は優しすぎるクマ」
そう答えた球磨は、先程の笑みとは打って変わり、凛とした威厳のある表情を妹たちに投げかけた。
「優しすぎるのは軍人としても司令官としても致命的だクマ。いざという時に公の勝利よりも個の救済を優先して大局を見失う、そんな危険を孕んでいるクマ。まぁ、それは提督自身も十二分に理解しているみたいだクマ」
その真剣な球磨の表情に、妹たちは無意識に姿勢を正し、唯々球磨の言葉を傾聴していた。
「だから主力部隊で活躍できる才能があるのに、提督はあえて後詰の司令官に甘んじているクマ。正直な所、何で提督が未だに軍人をやっているのか、球磨にも分からないクマ」
球磨は一通り話終わると、空を一瞥し、ふう、と溜息を吐いて一呼吸しようとする。
しかしその寸前、無機質な電子音、作戦司令室からの無線連絡が部隊全員に鳴り響いた。
「噂をすれば何とやらクマ……こちら軽巡洋艦・球磨。どうぞ」
『軽巡洋艦・球磨、こちら作戦司令室。並びに部隊各員へ。友軍からの救援要請を捕捉。針路2-2-5、距離20海里(マイル)。救援に向かえ。どうぞ』
無線から聞こえてきたのは、作戦司令室で球磨たち後援救助部隊の作戦状況をモニタリングしている、提督の静かな声であった。
その静かな声は、これから始まるであろう戦いへの誘いの声でもあった。
「軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。了解した、直ぐに移動する。通信終わり」
球磨は無線を切ると、ふう、と溜息を吐いた。
そして一呼吸の後、凛とした表情で妹たちを見据え、司令を下した。
「これより本部隊は、友軍の救援に向かうクマ。戦う準備は出来ているクマか?」
………………………………
――――1240、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Cから南西20シーマイル。
『嫌っ……! こないで……!』
球磨たち後援救助部隊の向かった先に見えたのは、深海棲艦の攻撃に曝される、4名の駆逐艦娘で構成された小隊の姿だった。
複数の深海棲艦からの攻撃に対し、一人の駆逐艦娘が味方を護りながら、息も絶え絶えに戦っている様子が窺える。
他の3名の仲間は既に大破しており、碌に動けない状況であった。
「こちら軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。目標並びに敵影を捕捉、攻撃を開始する」
球磨はすぐさま無線で、提督に指示を仰いだ。
『軽巡洋艦・球磨、こちら作戦司令室。並びに部隊各員へ。攻撃を許可する』
戦闘許可の命令と同時、球磨は縦一列の単縦陣で背後から追従する妹たちに、精悍な声で言葉を投げかけた。
「北上、大井。挨拶代わりだクマ、派手にぶちかましてやれクマ」
その球磨の言葉を合図、艦娘・北上と艦娘・大井は、脚に装着した艤装の出力を「最大戦速」に切り替え、先陣を切って、戦闘海域へと突入する。
「おー、敵がわんさか居るねー。大体30ぐらいかなー? 大井っちはどう思う?」
「おしいわ、北上さん。正確には32だわ」
敵を見据えた北上と大井の二人は、同時に魚雷発射管の安全装置を外し、同時に角度を調整した。
「20射線の酸素魚雷、いきますよー」
「九三式酸素魚雷やっちゃってよ!」
そして開幕魚雷による、二人同時の速攻攻撃。
艤装改造を経て、軽巡洋艦から重雷装巡洋艦へと艦種を昇華させた二人が最も得意とする攻撃である。
圧搾空気と共に吐き出された40発の酸素魚雷の魚群が、寸分狂いなく複線軌道を描き、救援目標の駆逐艦娘小隊の脇をすり抜け、調定深度を維持し、潜行する。
敵艦隊の足元へと到達した魚雷は儘、起爆した。
敵も突然の援軍、しかも大量の酸素魚雷の波に飲み込まれた事により、32居た敵艦隊の数を、一気に半数近くまで減らした。
「砲雷撃戦! 各員散開クマっ!」
魚雷到達を確認した球磨は、凛と声を張り上げ、更なる司令を妹たちに下す。
「砲雷撃戦、用意にゃ!」
「本当の戦闘ってヤツを、教えてやるよ!」
その言葉を合図、艦娘・多摩と艦娘・木曾は、救援目標の駆逐艦娘小隊の脇をすり抜け、其々二手に分かれ、そして敵へと突貫していった。
この二人の戦い方は、対極に位置した。
「そこにゃ!」
艦娘・多摩は、煙幕弾を周囲にばら撒いて敵と自分の姿を隠し、己の聴覚と感覚を頼りにした間接砲撃戦法で次々と敵艦を沈めていく。
また掴み所がない自身の動きで、相手のリズムを乱しながら敵を倒す、搦め手攻撃を得意とした。
自由奔放な戦闘スタイル。
「弱すぎる!!」
艦娘・木曾は、軍刀による突撃、主砲による砲撃と雷撃をメインに、基本に忠実、かつ鋭敏な動きで次々と敵艦を沈めていく。
オールラウンダー、基本に忠実という事は、それだけ自身のリズムが崩れる事が無い。
それはどんな状況、どんな敵でも対応できるという、戦闘においてかなり大きな強みである。
英姿颯爽な戦闘スタイル。
「大井っちー、そっちに行ったよー!」
「了解よ、北上さん! 挟撃するわ!」
次いで前線に出た、艦娘・北上と艦娘・大井は、息の合ったコンビネーションで分散した敵を挟撃し、各個撃破していく。
以心伝心の戦闘スタイル。
四人は、其々の個性を最大限に生かし、其々が取りこぼした敵を他の姉妹たちがフォローしていく形で、次々と倒していく。
敵からすれば、次は誰から、どんな攻撃が飛んでくるのか、全く未知数な状況であった。
だからこそ、この球磨型四人の突貫部隊に敵う者は、此処には誰も居なかったのである。
球磨は、妹たちが戦っている隙に、目標の駆逐艦娘小隊まで近付くと、妹たちが戦っているのを呆然と眺めている駆逐艦娘に声を掛けた。
「大丈夫クマか?」
「私たち……助かったの……?」
その球磨の言葉に、先程まで一人で戦っていた駆逐艦娘は、安堵により体の芯から力が抜け、倒れそうになる。
その駆逐艦娘の身体を、球磨は優しく抱きとめると、柔らかな声を掛けた。
「よく頑張ったクマ」
他の駆逐艦娘たちも「自分達がもう少しで死ぬところだった」と言う恐怖、そして「助かったのだ」と言う安心から、ぽろぽろと涙を零し、球磨たちに対し、口々に感謝の言葉を並べていた。
………………………………
「球磨ちゃん、こっちは片付いたにゃ」
「球磨姉、こっちも終わったぜ。まぁ、当然の結果だ」
敵艦隊の掃討が終わった妹たちは、球磨と駆逐艦娘小隊に合流し、そして球磨に声を掛けた。
「お疲れクマー。多摩、北上、大井はそこの動けない3人を頼むクマ」
「了解だよー、球磨姉ちゃん」
「分かったわ、球磨姉さん」
大破して碌に動けず、意識が朦朧としていた駆逐艦娘3人を多摩、北上、大井が其々手を貸す事になる。
それを確認した球磨は、無線をオンラインにし、目標の確保を報告した。
「こちら軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。目標を確保、大破4名、内要救護者3名、轟沈なし。これより戦闘海域を離脱する」
『軽巡洋艦・球磨。こちら作戦司令室。了解した、離脱後、地点A(ポイントアルファ)へと向かえ。その娘たちが所属している鎮守府の別部隊が護衛として地点Aに向かっている。合流して、身柄を引き渡した後、そのまま帰投しろ』
「了解。通信終わり」
球磨は戦いの終りを告げる様に、一つ溜息を吐き、妹たちに撤退の号令を出そうとする。
そして口を開き、言葉を声に出そうとしたその瞬間。
「……! まずいわ、球磨姉さんっ! 敵の増援よっ!」
――――大井の言葉によって、球磨の言葉は遮られた。
大井の電探(レーダー)に感あり。
そう、戦いはまだ終わっていなかった。
大井は電探に煌々と光る無数の反応を、唯々忌まわしげに見据えていた。
その大井が告げた悪報に、北上、多摩、木曾が「好ましくない」と、一様に表情を浮かべ、口を開く。
「本当まずいねぇ、このまま戦おうにもチビ達庇いながら戦える自信はないよ」
「逃げようにも負傷者担ぎながらだと足も遅くなるにゃ。どう頑張っても逃げ切れないにゃ」
「……どうすんだよ、球磨姉?」
いくら練度が高い部隊でも、護衛対象ありでの戦闘。
しかも対象は全員大破している。
風前の灯火である護衛対象を護りながら戦う。
当然、困難を極めるであろう事は、全員が容易に想像出来た。
例え、交戦自体は可能でも、護衛目標の喪失はまず免れない。
駆逐艦娘たちの脳裏には死神が横切り、自分達の死の幻影が鮮明に映る。
そして駆逐艦娘たちは、真っ青な表情を浮かべ「死にたくない」と呟き、唯々身体を震わせていた。
しかしこの状況で、たった一人。
たった一人、艦娘・球磨だけが、涼しげな表情を浮かべていた。
「……これより本部隊は戦闘海域外まで離脱するクマ。多摩、北上、大井はそのまま要救護者3名の搬送を任せたクマ。木曾は部隊の後退の掩護を頼むクマ。離脱後、援軍到着まで地点Aにて待機だクマ」
球磨は、寸秒の熟考の後、楚々とした声で部隊に命令を下した。
「ちょっと待って下さい……それじゃあ、敵艦隊はどうするのですか?」
かろうじて動ける状態にある駆逐艦娘の1人が、その震える唇を無理やり開き、球磨に問いかけた。
駆逐艦娘のその問いに球磨は、子を諭す様な優しげな笑みを浮かべ、返答した。
「なぁに、簡単な話だクマ」
そして球磨は、信念を纏った様に熱く、凛と気高い、まるで琥珀石の如く輝く己が眼差しを、その駆逐艦娘へと投げかけて、言葉を繋いだ。
「敵艦隊は球磨が引き付けるクマ」
………………………………
――――1315、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Aから北東4シーマイル。
「ごめんなさい……」
後援救助部隊および目標・駆逐艦娘小隊、戦闘海域より離脱、合流地点へと移動中。
多摩、北上、大井、木曾の後ろを追随する駆逐艦娘は、俯き、すすり泣きながら、さっきからずっと謝罪の言葉を並べていた。
「本当にごめんなさい……」
その駆逐艦娘の様子に堪え兼ねた木曾は、その場に立ち止ってから振り返る。
「なぁ……さっきから何だってんだよ、辛気臭い。別にお前が謝る様な事は何もないぜ」
そして呆れた口調で、駆逐艦娘へと言葉を投げかけた。
「だって……私たちのせいで、貴女たちのお姉さんは……」
――そう、この駆逐艦娘は思った――。
恐らくこの人たちのお姉さんは、私たちを逃がす時間稼ぎの為に、あえてその場に残ったのだ。
自分の身を挺して、私たちを逃がそうとしてくれたのだ。
撤退するあの瞬間、遠くから迫り来る敵艦隊の影が見えた。
駆逐艦や巡洋艦、空母だけではない。
戦艦もたくさん居たのが見えた。
あれだけの数を相手だ。
艦種が「戦艦」とかなら、まだ一人で対処は出来ただろう。
でも言いたくはないが、この人たちのお姉さんの艦種は、「軽巡洋艦」であった。
――考えたくはないが、いくら頑張っても、なぶり殺しにされる――。
先程、球磨に投げかけられた母が浮かべる様な柔らかな笑顔を思い出した駆逐艦娘は、心が締め付けられる感覚を急に覚えた。
「ごめんなさい……貴女たちのお姉さんではなく……私があの場所に残っていれば……!!」
その感覚に耐えきれなかった駆逐艦娘は、ぽろぽろと涙を零し、そして大きな声を上げて泣き、目の前に居る木曾に向かって叫んだ。
だがその先の言葉は、泣きじゃくる駆逐艦娘の目の前へと近付いた木曾が。
「ありがとな。球磨姉の事を心配してくれて」
――――駆逐艦娘の頭に自身の手を乗せた事によって遮られた。
そして、ぐしゃぐしゃと駆逐艦娘の髪を撫でながら、先程、球磨が浮かべた様な柔らかな笑顔を向けて、木曾は更に言葉を紡いだ。
「一つ良い事を教えといてやる。球磨姉の事は、別に心配しなくてもいいぜ」
その言葉の意味があまり理解できなかった駆逐艦娘は、しゃくり上げながら、木曾に真意を訪ねた。
「でも……あんなに……いっぱい敵が……」
その駆逐艦娘の問いに、多摩、北上、大井が傍に近付き、木曾と同じ様な表情を浮かべ、其々が言葉を並べた。
「あの程度、球磨ちゃんなら、どうってことないにゃ」
「だって球磨姉ちゃんは、スーパー北上さまよりスーパーだからねー」
「そうね、球磨姉さんなら心配ないわ」
そうして木曾は、駆逐艦娘に向かって、己が姉を誇る様に、高らかに宣言した。
「そうさ。なにせ俺たちの球磨姉は最強だからな」
………………………………
駆逐艦、巡洋艦、空母、そして戦艦。
其々10数えた所で、球磨は数えるのを止めた。
敵艦隊からすれば、球磨の事はたかが軽巡洋艦の艦娘一人。
味方に置き去りにされた生贄の山羊としか見ておらず、進撃速度を緩めずに球磨へと近付いてくる。
「久々に腕が鳴るクマ」
海風が舞い、波がヒソヒソと囁いている。
球磨は、その透きとおる海風と波に、そっと抱き締められていた。
すう、と球磨は優しく息を吸い込む。
心身が海世界に溶け、同調し、満たされる感覚を感じながら、これから始まる戦いを前に、球磨は静かに心を燃やした。
しかし球磨の表情は、間もなく戦いの狼煙が上がるとは思えない程、とても穏やかなものであった。
球磨は静かに、海鏡に反射して琥珀色に輝く自身の長い髪を海風に梳かしながら、琥珀石を抱いた瞳で、その肉薄する敵艦隊を見据えていた。
その凛とした表情で、穏やかにその時を待った。
そして、雷鳴轟く敵艦隊一斉砲撃を旗揚げに。
「迎撃戦に移るクマ」
――――白波を蹴立て、球磨は加速した。
左脚、右脚、左脚を前に出し、其々の脚を軸にしながら、身体を斜めに倒す重心移動操舵(セルフステアリング)のみで、ジグザグと之字運動を行い、球磨は敵艦隊へと突貫していく。
その道中、球磨へと目掛け、敵の砲弾が雨の様に降り注いだ。
到来する敵の砲弾が眼前に迫り、そして球磨に直撃するであろう、その刹那。
「……当たるものかクマっ!」
球磨は、脚艤装の出力を上げ、その際に発生する反動(トルク)を利用し、傾いた身体を引き起こす事により、敵砲弾の雨を最低限の動きで掻い潜った。
「どこを狙っているクマっ!」
敵から見れば、己の放った砲弾が球磨に当たる瞬間、まるで球磨の身体が蜃気楼の如く揺らぎ、砲弾がすり抜け、後方に着弾するといった状況である。
――コイツは普通の艦娘じゃない。
これにより敵艦隊も、先程までの球磨に対しての認識を改める事になる。
時折、上空から降り注ぐ艦載機の機関砲や艦爆攻撃に対し、球磨は動きに必要最低限の緩急をつけながらそれを躱すと、高角砲で敵機を正確に撃ち落としていく。
上空に気を取られている隙がチャンスだと感じた敵駆逐艦は、球磨に対して突貫攻撃を試みる。
「無駄だクマ」
しかしあろうことか、球磨は上空の艦載機を落としながら、前方から迫りくる敵駆逐艦に主砲砲塔を向け、視認せず的確に射抜いた。
球磨は止まらない。
――あの小娘の息の根を止めてやるっ!
それを見た敵戦艦は、艦隊の先頭に立ち、接近し幾分か狙いやすくなった球磨に対して、精密砲撃を行う。
球磨は眼前まで迫った敵戦艦の砲弾を見据えた儘、脚艤装の艦底(ソール)で海面を蹴り、空中に自身の身体を投げ出すアクセルジャンプで、砲弾を回避した。
「魚雷発射クマー!」
そして着地と同時、球磨は脚艤装に装備した魚雷発射管から数発の魚雷を、敵艦隊に向かってばら撒いた。
「……!」
敵戦艦はすぐさま、雷撃防御の為、眼前の海面へと砲弾を叩き込む。
球磨が発射した魚雷は、敵戦艦が射出した砲弾で浪打った波浪に全て呑み込まれ、その鋭敏な信管が誤作動を起こし、敵艦隊の眼前で大きく水柱を上げた。
――何とか凌いだか……!
魚雷直撃を免れた敵戦艦は安堵の表情を浮かべた。
しかし、その刹那。
「やるなクマ。だが、そんな表情を浮かべている暇があるクマか?」
――――敵戦艦の耳に響いたのは、死霊の先触れであった。
水柱を隠れ蓑に、既に敵艦隊の眼前へと移動していた球磨は、霧散した水柱から大きく飛び出した。
突如、目の前に現れた球磨。
敵戦艦も突然の出来事に動揺し、接近を許した球磨に対し、一手、行動が出遅れる事になる。
球磨は琥珀色に輝く目で、眼前の敵戦艦を捉えた。
「餞別だクマ」
そして球磨は、背中に携えた艤装の格納管から魚雷を数本引き抜き、先駆けの敵戦艦の脇、すり抜け様、居合の一閃の如く、魚雷を敵戦艦の目の前へと落とし、敵艦隊列隊中枢を突っ切り、背面を取る。
敵戦艦魚雷命中轟沈の手ごたえと同時、通過した敵艦隊へと振り向いた球磨は、主砲と副砲の雨を敵艦隊に浴びせた。
………………………………
こうした球磨の動きには秘密があった。
球磨は言ってしまえば、見た目通り、身体も精神も、年端のいかない「少女」だ。
今は深海棲艦と言う異形の怪物と同等、或いはそれ以上に渡り合ってはいるが、それは「艤装」という対深海棲艦装備の恩恵が大きい。
「艤装」を取り払ってしまえば、それは只の「生身の女の子」。
普通の人間の少女と何ひとつとして変わらないのである。
しかし進水してからその身が沈むその瞬間までの約25年間、海を航海し続けた「軍艦・球磨」。
その海上での風と波の流れの読み方は、それだけの時間、記憶として、或いは感覚として、その「魂」に刻まれているであろう。
そして球磨は、その「軍艦の魂」を己が身に宿した、「艦娘」として生を受けた存在なのである。
波を押し分けて進む、艦隊の動き。
風を切り裂いて進む、砲弾の動き。
世界を支配する重力、海に浮かぶ自身の浮力、または艤装を使用した際に生まれる揚力や推進力、或いは風の抵抗。
それらの感覚を元に、敵の動きや砲弾の風を切る気配に対し、自身の身体の動かし方における最大効率を叩き出し、それを実行する。
そうした海世界全体の風や波の気配を繊細に感じ取りながら戦う、軍艦艇と人間の境界に生きる、「艦娘」本来の戦闘スタイル。
それが最高練度を極めた、艦娘・球磨の最大の強みであった。
………………………………
その後も球磨は、軽巡洋艦の機動力と海上戦術を駆使して、次々と敵艦を海に沈めていった。
海原の風と波を味方につけ、対空で蚊トンボを落とし、雷撃で進路を抉じ開け、火力で敵を黙らせる。
先程まで居た敵艦隊は、ものの数十分もしないうちに、撤退を余儀なくされる程、壊滅状態であった。
――霧が濃くなってきた。
気が付くと、辺り一面に海霧が広がっており、球磨の目には撤退する敵艦隊の姿が滲んで見えていた。
粗方の掃討を終えた球磨は、無線をオンラインにし、現状を報告すべく口を開いた。
だが、その瞬間。
「こちら軽巡洋艦・球磨。作戦司令室、応答を……!?」
――――風を切り裂き、殺意を纏って向かってくる砲弾の気配を、球磨は背面より感じた。
速やかに球磨は脚艤装の出力を上げ、左に身を翻した。
刹那、球磨の右腕を砲弾が掠め、小破とまではいかないが、掠り傷を受けた。
その直後、砲弾の発射音が海原から球磨の耳に響き渡った。
「くっ……!」
――球磨は、頭のギアの切り替え速度を上げながら思った――。
狙いが恐ろしい程、正確だ。
海霧の中、しかも射程外距離(アウトレンジ)からの砲撃で、この命中精度。
――これ程の手練れは初めてだ――。
直ぐに球磨は、臨戦態勢を取り、砲弾が飛んできた方向へと振り向り、先に視線を投げかける。
そして、砲弾の射手を見据えた球磨は、一見して戦慄した。
「……こちら軽巡洋艦・球磨より作戦司令室。提督、ちょっとマズい事になったクマ」
球磨は、冷や汗を一つ落とし、先程オンラインにした無線に対し、目の前の事実を語った。
『軽巡洋艦・球磨。こちらも衛星から状況を確認しているが、海霧が酷い。だが、敵影を一瞬だけ捉えた』
提督は無線越しから、何時に無く真剣な声色で、球磨に言葉を返した。
『軽巡洋艦・球磨……これは命令だ、即刻撤退しろ。既に部隊は、救援目標を引き連れ、戦闘海域を離脱し、目標の引き渡しを終えている』
提督と無線を交わしつつ、海霧に見え隠れするソイツの姿を、球磨は冷静に分析した。
ソイツは、長らく陽を浴びなかった様な乳白色の肌をしており、その肌上に黒衣の水兵服を着込み、更にその上から外套を無造作に纏わせている。
脚に覆っている艤装は、軽装甲ではあるものの、鉄屑を集めた様に歪な形をしており、他の深海棲艦が装備している艤装以上に、艤装の形を成しているのかも怪しいものであった。
深海棲艦特有の歯を剥き出しにした意匠の連装砲を背中から覗かせたソイツの身体は、副砲である速射砲、対空高角砲、そして魚雷発射管と思われる、まるでスクラップを集めて造ったかの様な兵装に飾られていた。
ソイツは、ボロボロになった士官軍帽を被り、白銀色に輝く長い髪を靡かせていた。
ソイツは、端麗な顔立ちで、唯静かに球磨を見据え、海原に屹立していた。
ソイツは、蒼玉石の如く輝く、怪しげに光らせた瞳を、球磨へと向けていた。
『ソイツは、姫級だ』
………………………………
この世界に居る深海棲艦の中で、最も最凶最悪な敵、「姫級」。
熟練部隊でも退けるのがやっとの敵であり、姫級との遭遇時における海軍全体での第一命令は、「即刻撤退」であった。
何故なら、艦娘も無限に存在している訳ではない為、その運用リソースも限られている。
いくら倒すべき敵とはいえ、大規模作戦を除き、本来目標として通常任務に組み込まれるべきではない敵である以上、悪戯に戦力を減らす必要は無いからだ。
「分かっているクマ。そうしたいのは山々だクマ。でも、完全に奴の射程内だクマ」
それは最高練度を極めた球磨に限らず、出来れば一人で相手したくない敵であった。
『……既に近場を航行している鎮守府主力部隊に応援要請を出している。こちらの部隊にも戻る様に命令してある。援軍到着まで約15分。それまで持ちこたえられるか?』
「まぁ、何とかしてみせるクマー」
『……了解した。海霧で上空から殆どモニタリング出来ない。よって無線はオンライン状態を維持。もし援軍到着までに撤退可能であれば、即刻撤退せよ』
「了解クマ」
球磨は無線に言葉を投げかけた後、全ての兵装が何時でも使用可能な事を確認した。
そうして球磨は、姫との距離を遠距離に保ちながら、姫の周りをゆっくりと航行し、「さて、どう倒そうか」と考えを巡らせ、姫の出方を待った。
「……」
姫はその場に突っ立っているだけに見えるが、球磨同様、何ひとつ身体に無駄な力が入っていないのが、球磨には分かった。
戦場でこれだけ脱力した敵と相見えるのは、球磨も初めてだった。
以上の事から姫は、兵装含め、球磨と同等、或いはそれ以上の手練れであると窺える。
「クマー!!」
そうして均衡を崩したのは、球磨の開幕魚雷攻撃からであった。
それと同時に球磨は、姫を中心点に、円を描く様に航行しながら、主砲を発射した。
次いで、姫の逃げ場を無くす為、更に雷撃を行い、次いで風を頼りに弾着修正射撃を行った。
「……」
しかし姫は、外套をはためかせながら、球磨の砲弾と魚雷を最低限の動きで回避する。
そして球磨と同様、逆に球磨の逃げ場を無くす様に魚雷をばら撒き、主砲を連射した。
球磨も、姫の主砲と雷撃を避けつつ、カウンター気味に遠距離から砲弾を叩き込むが、姫は球磨と同じく、始めからその場に居なかった様に、砲弾を躱していった。
つまるところの膠着状態である。
球磨と姫、一手間違えば決着が付くこの状況で、両者共に決定打が打てずにいた。
「くっ……!」
――遠距離では埒が明かない。
そう考えた球磨は、周回運動を止め、之字運動を行いながら、姫に対して「接近」を試みた。
しかし何故、「接近」という行動に出たのか、その時の球磨には分からなかった。
15分程度で援軍が到着するなら、このまま近からず遠からずの距離を保っておけばいいだけの話だ。
そして姫が、こちらへと過度な攻撃を仕掛ける気配がないと判明した以上、砲弾の雨を掻い潜りながら、提督の命令通り、上手く逃げればいいだけの話だ。
その事を理解しておきながら、あえて球磨は、姫へと「接近」した。
――――何故なら、この時の球磨は、「何が何でもこの姫を倒さなければならない」と言う、名状しがたい感情に駆られていたからだ。
遠距離から副砲で牽制しながら近付くが、所詮は豆鉄砲の為、大したダメージにはならない。
一撃で勝負を決めるに至る魚雷も、最低限の動きで簡単に避けられる。
だが、副砲や当たらない魚雷は、あくまで敵に対する牽制や自身の次の攻撃へと繋げる為の布石(ジャブ)に過ぎない。
言うまでもなく目的は、自身の攻撃を絶対に外さないであろう超近距離からの、主砲砲撃による一撃必殺攻撃(ストレート)である。
中距離まで近付いたところで、之字運動で接近する球磨の姿を精確に捉えた姫が、魚雷を発射する。
球磨は、魚雷と魚雷の合間を縫う様に避け、姫と同様に、最低限の動きでそれを回避する。
「……」
だがその刹那、脚艤装の反動回避の一瞬の隙を見抜いた姫から、回避不可の予測砲撃が行われた。
「ぐあっ……!」
姫の砲塔から発射された砲弾は、球磨の右脇腹を抉り、球磨は大破した。
「……まだだクマっ!!」
軋む痛みにより、一層、闘志が湧き上がった球磨。
その心を反映するかの如く、球磨は主砲から砲弾を続け様に姫へと放った。
まず一発目、姫に向けて直撃弾を放つ。
「……!」
予想通り、姫は砲弾を避けた。
「そこだクマぁあああ!!」
次いで球磨は、間髪入れずに二発目を射出する。
そして球磨が二発目に予測射撃で狙うのは、姫の背中に抱えた主砲塔であった。
先程から球磨は、姫に対してずっと直撃狙いの砲撃を続けていた。
その為、僅かに直撃から狙いがずれた、主砲塔狙いの砲撃は、姫の虚を突く攻撃。
姫に直撃させるよりかは、命中する確率が高かった。
当然、姫の主砲塔に砲弾を叩き込んだぐらいでは、致命傷はおろか姫級の頑丈な艤装が壊れる筈もない。
だが、いくら頑丈とは言え、背中に背負った主砲塔に砲弾が着弾した際の衝撃は計り知れない。
――果たしてお前は、平然としていられるのか。
「……ッ!?」
答えは否である。
球磨の予測通り、砲弾で主砲塔を弾かれた姫はバランスを崩しかけた。
――これで道が開けた。
球磨は之字運動を止め、脚艤装の出力を「最大戦速」に切り替え、姫へと至る道を直線距離で駆け抜ける。
姫は直ぐに態勢を立て直し、近距離まで直線的に押し迫った球磨に対し、主砲を放った。
「なめるなクマぁあああ!!」
それに対して球磨は、海面を勢いよく蹴りつけ、身体を中空へと投げ出し、重心を右脚から左脚へと移動させる様に身体を回転させ、左脚で着地するバタフライジャンプで、その砲弾を回避した。
――奴さんの主砲再装填前に、ケリをつけてやる。
そして球磨は、姫との距離、数メートル手前、波が悲鳴を上げるのを聞きながら、急停止した。
球磨の目が捉えたのは、敵である姫の表情がよく観察できる距離。
――この距離なら、まず外さない。
球磨は、姫の超近距離まで肉薄した。
「これで……終わりだクマっ!」
左肩から覗く主砲ターレットを姫へと向け、球磨はこの瞬間、勝利を確信した。
「……」
だが、その様な状況にも関わらず姫は、静かに微笑を浮かべると、蒼玉色に輝く目で球磨を捉えた。
その姫の会心の笑いに、球磨の身体に戦慄が走った。
――しまった、この距離は!
球磨は心の中で叫んだ。
球磨は感じていた。
自身の焦燥による、自分が犯した決定的な過ちを。
艦娘として長らく、海での戦闘経験を積んでいた事が仇となった事を。
この姫の艤装は、他の深海棲艦が装備している様な、ゴテゴテとした艤装ではない。
この姫の艤装は、球磨と同じく、己が動きを最大限に生かす事が出来る軽装甲艤装である。
動きを最大限に生かせるという事は、己の身が許す可動域内で、どんな動きにも移す事が出来るという事に他ならない。
既に球磨の砲弾は、砲塔薬室へと運ばれ、装填が完了し、装薬にはバチバチと火花が走っている。
今まさに、コンマ秒後に砲弾を敵前へと吐き出さんとしている砲塔の様子を、球磨は感じていた。
だがコンマ秒は、姫にとっては十二分過ぎる時間であった。
球磨は後悔した。
自身の攻撃中止が行えないこの状況を。
そして球磨は失念していた。
――――この姫との距離は、航空戦でも砲雷撃戦でも無い、「徒手格闘」の距離だという事を。
姫は脚艤装の出力を全開にし、破裂する様な勢いで球磨の懐へと詰め寄った。
球磨は防御の為、咄嗟に両手を眼前に構える。
しかしそれを見た姫は、球磨のガードを円を描く様に手で払い除けると、そのまま球磨の砲塔を右手刀でかち上げ、強引に球磨の砲口をずらす。
刹那、砲塔から発射された砲弾は、姫の頭の上を掠める事なく、弧を描いて海に落ちた。
そして姫は、詰め寄った自身の勢いを利用して、球磨の胸元に左拳を叩きこみ、球磨を突き飛ばすと、逆に己が主砲を球磨へと向けた。
「ナメルナ」
そして再装填が完了した姫の砲塔から放たれる、必殺の一撃。
バランスを崩していた球磨にその攻撃を避けられる筈もなく、球磨は直撃弾のカウンターをその身に叩きこまれた。
………………………………
――これが運命か。
どんよりと白濁した意識の中、球磨は自身の艤装や身体へと意識を向けた。
主砲、副砲、魚雷はおろか、脚艤装さえもまともに動かない状態である。
半身が水に浸かり、仰向けのまま海に浮かんでいるのがやっとの状態である。
そしてバシャバシャと水音を立て、その状態の球磨に近付いてくる者が居た。
それが誰なのかは、球磨には分かり切っていた。
「……終ワリダ」
白銀色の長髪を揺らし、蒼玉色に輝く目で、姫は球磨を見下ろした。
死の宣告を告げる為に、姫は球磨を見下ろしていた。
姫の背中に担がれた主砲塔から再装填を告げる金属音が、球磨の耳へと鮮明に響いた。
――この球磨をもってしても……ここまで、か。
自身の死を悟った球磨は、ゆっくりと目を閉じた。
そして姫は、再装填が完了した主砲砲口を球磨に対して向け、球磨にトドメを刺す為、トリガーを引き絞った。
だが、その一瞬。
『軽巡洋艦・球磨っ!! 繰り返す、応答せよ!! 軽巡洋艦・球磨っ!!』
――――無線から提督の声が漏れた。
『軽巡洋艦・球磨っ! 一体、何があったっ!? 返事をしろっ! おい、球磨!』
球磨は目を瞑りながら考えた。
――手向けが提督の声になるとはな。
だが、今この状況、自分が死ぬ運命が捻じ曲げられないこの状況で、提督の呼び掛けは何も意味を成さなかった。
――皆、すまない。
球磨は心の中で提督と基地の皆、そして妹たちに謝り、姫から下される審判の時を待った。
「……?」
しかし、いくら球磨が待っても、その時は訪れなかった。
球磨は不思議に思い、目を開き、眼前に映る姫を一瞥した。
「……!?」
そして球磨は、驚愕した。
何故ならその時、球磨の目に映ったのは。
「……ソンナ……事ッテ……」
―――――球磨の顔を見据え、そして唯々動揺している姫の姿だったからだ。
背中に抱えた砲口が、微かに震えているのが分かる。
もごもごと口を開こうとする姫の様は、球磨に対して何か言いたげであった。
しかし、それが上手く言葉に出来ないと言った様子である。
球磨からしてみれば、敵である姫の態度は、唯々不気味であった。
そして数十秒の後、意を決した様に姫は、そのまごついた口を開いた。
「……オ前ノ名前……球磨……ト言ウノカ?」
「……」
姫は海底から唸る様な掠れた声で、球磨にそう尋ねた。
――何故、コイツは球磨の名前を知っているんだ?
『球磨っ! 頼む、返事をしてくれっ!! 聞えないのかっ!?』
――ああ、そうか……提督の無線か。
その実、先程の姫の直撃弾、その衝撃によって球磨の無線機材が故障していた。
故に、普段だったら決して聞こえないであろう提督の声が、無線を通し、辺り一面に響き渡っていた。
そして現に提督は、無線越し、何度も何度も球磨へと呼び掛けている。
そう、提督の呼び掛けは、敵である姫にも聞こえていたのである。
球磨は心の中で苦笑した。
――今から殺す敵の名前を改めて聞くなんて、中々良い趣味をしている。
球磨は捨て台詞の一つでも殴りつけようとするが、ダメージが大きすぎて思う様に口が開けない。
――殺るならさっさと殺れ。
そう球磨は思えど、姫は一向に球磨に対してトドメを刺す様子を見せなかった。
姫は唯、自身の蒼玉色の瞳を、球磨の琥珀色の瞳に重ね合わせていた。
「……オ前ノ、ソノ目……」
そうして姫は、一言、球磨に対して言葉を投げかけた。
その刹那。
「球磨姉ぇえええ!!」
――――閃光一閃、姫の佇んでいた場所を刀光が鋭く切り裂いた。
「……!」
その閃光を姫は、大きく後退する事によって躱した。
そして其処には、軍刀を片手に構え、球磨の隣に屹立する影が一つ。
「……よう、三下奴。うちの球磨姉が世話になったな」
怒りに燃え、姉の盾となり、己が刃を持って姉を護らんとする妹。
艦娘・木曾の姿が其処にはあった。
「北上さんっ!」
「いくよ、大井っち!」
間髪いれず、後続の北上と大井から放たれた魚雷群の軌跡が、タペストリーの如く海原に編み込まれ、敷かれていった。
そのタペストリーは、大破した球磨、姫と対面する木曾の傍を掠め、姫へと撃来する。
姫は後退しつつ、そのタペストリーの編み糸を解く様に魚雷を躱していき、魚雷群を全て避けきった。
しかし、距離は取れた。
「煙幕展張にゃ!」
殿を務めていた多摩は、煙幕弾を射出し、直ぐに姫の視界を遮った。
海面を切り裂いて球磨に近付くと、容態を確認しながら、無線越しに言葉を投げかけた。
「こちら軽巡洋艦・多摩っ! 作戦司令室、聞こえるか!」
多摩は球磨の身体を抱きかかえ、己が間隔を頼りに、姫の居る方向へと指を示し続ける。
木曾、北上、大井は、多摩が指差した煙幕で視界が遮られた方向、姫が居るであろう方向に、ありったけの砲弾を叩き込んでいた。
『多摩っ! 一体そっちはどうなってるんだっ!? 球磨は無事なのかいっ!?』
「提督、説明は後にゃ! 球磨ちゃんは、見た感じ傷は酷いけど致命傷ではないにゃー! 直ぐに離脱するにゃー!」
『そうか……よかった……!! 直ぐに救護班を手配するよ! 至急、近くを航行する鎮守府主力部隊と合流、その護衛と共に帰投してくれ!』
「了解にゃ! 各員、砲撃しながら後退にゃ!」
その言葉を皮切りに、球磨を担いだ多摩が筆頭、次いで壁となる様に北上と大井、そして木曾を殿に、姫の方向に対して引き撃ちしながら後退を始める。
姫の姿は、煙幕が晴れる頃には霧中で視認出来ない程の距離にあり、十二分に逃げ切れる距離まで広がっていた。
『オ前ノ、ソノ目……』
そして撤退の際中、多摩に担がれた球磨であるが。
球磨は薄れ行く意識の中、木曾が援護に入る直前、姫が球磨に対して投げかけた言葉を、唯々心の中で反芻していた。
『……未だ、誰かの想いを胸に抱いて戦っているという訳か……その想いが、踏み躙られたとも知らずに』
………………………………
◆第2章:胸秘めた想い一つ
………………………………
――――1941年11月、1520、佐世保鎮守府近郊、寺島水道、艦隊泊地。
『……うぅ……別に、退屈してない。充実してるっ』
――また、僕は夢を見た。
相変わらず天気は良く、海風は冷たく、季節は冬の初めである様に思われる。
無造作に着込んだ士官外套をはためかせ、参謀飾緒をその内側から見え隠れさせる男が一人。
「軍艦・球磨」の上甲板、その艦首付近に佇む男が一人。
以前見た夢では「大佐」と呼ばれていた男だ。
「……そう言う割には、随分と不服そうだな」
だがその顔は、以前見た夢の時よりも、幾分か歳を重ねており、白髪が多く見受けられた。
大佐は艦首付近の手摺鎖に両手を置き、眼前に広がる大海原を見据え、重苦しく官製煙草の紫煙を燻らせていた。
「うるさいっ! お前以外に喋れる奴が居ないのが悪い!」
そうして艦首付近には、大佐以外誰も居ないのにも関わらず、我儘娘が父親に「寂しかった」と噛み付く様な声色が響いていた。
――その声色は、僕が知っている「艦娘・球磨」の声色と全く一緒だった。
「それよりも参謀長の仕事はどうした?」
「視察だと言って抜け出してきた。今の私は『少将』だ。誰にも文句は言わせんよ」
以前、「大佐」と呼ばれていた男は、その上の将官である「少将」に地位を上げている事を告げた。
この階級から「閣下」「司令官」、あるいは「提督」と呼ばれるようになり、戦隊司令官、艦隊参謀長、海軍省各局長、軍令部各部長等を務めるなど、その影響力は帝国海軍の中でも絶大であった。
少将は今、艦隊泊地に停泊する「軍艦・球磨」に「視察」と言う名目で乗艦していた。
時折、慌しく歳の若い水兵たちが上甲板を往復する様子が伺えたものの、流石に自分たちの雲の上の存在である海軍少将が居る艦首付近に近付こうとする物好きは誰も居なかった。
故に少将は、誰にも話を聞かれる事無く、軍艦・球磨との会話を続けていた。
「それに……せっかくの娘の晴れ舞台だしな。まぁ、馬子に衣装だな」
そう言った少将は、先程まで海に投げかけていた視線を、軍艦・球磨の艦橋や奥の中央甲板、そして備え付けられた主砲へと移した。
少将の場所からは艦橋や砲塔が邪魔して見え辛かったが、件の3本煙突の隣には内火艇が搭載されている。
中央甲板奥の魚雷積み込み用吊り柱(ダビット)付近には砲弾や魚雷が均等に並べられており、先程から水兵たちがせっせと最下甲板にある弾薬庫にそれらを運んでいた。
近代化改装によって後甲板に設置された航空機射出装置(カタパルト)の上に、九四式水上偵察機が一機、何時でも発艦出来る状態になっていた。
また主砲や甲板は、普段よりもずっと手入れが加えられ、見違えるほど綺麗に磨き上げられていた。
軍艦・球磨は呆れた様な声色で、少将に言葉を返した。
「相変わらず少将はひねくれている。それに球磨は、少将の娘になった覚えはない」
その言葉に少将は、咥えていた煙草を噛み締め、むっとした表情を浮かべ、口を開いた。
「どれだけ貴様と一緒に居ると思っているんだ。2年近くの馬公での任務だけでは飽き足らず、艦長の任を解かれた後もだ。陸地任務で横須賀から呉に訪れた時は大体、貴様が居る。一寸前まで貴様が悠々と予備艦暮らしを送っている時もな。運命の悪戯か、私は今や貴様の生まれ故郷である佐世保の参謀長だ。これだけ長く一緒に居れば、貴様は私にとって娘の様なもんだ」
少女に対して早々と言葉を並べ、辛辣に捲し立てる少将の顔。
その言葉と声色とは相反して、むっとした表情から段々と嬉しそうな笑みを浮かべた。
そう話す少将は、どこからどう見ても反抗期の娘と話す父親の姿にそっくりであった。
「……それとも、私に娘と呼ばれるのは嫌かね?」
そして自身が浮かべている表情に、はっとした少将は、表情を隠す様に笑みを無表情へと変え、咳払いの後、少し悲しげな口調で少女に尋ねた。
「……ふっふっふっ~、球磨を選ぶとは良い選択だ!」
だが少将の予想に反し、軍艦・球磨は歓楽の声を上げ、少将の言葉を受け入れた。
少女の満面の笑みの返答に、「気恥ずかしい」と言わんばかりの柔らかな笑みを浮かべた少将。
ふいと少将は、とある文豪の随筆にあった『檣(マスト)の上へ帽子をかぶつてゐる軍艦』という紀行文の一節を思い出し、少女が軍帽を被り、こちらに向かって手をぶんぶんと振いている軍艦・球磨の姿を連想した。
「ふと思ったのだが……球磨型、つまり同型艦は、球磨も含め五隻存在している筈だ」
「そうだ。多摩、北上、大井、木曾、そして球磨の五隻だ」
「球磨みたいに話せる軍艦は、この中には居ないのか?」
それもあってか少将は、軍艦・球磨に疑問を投げかけた。
「一緒になる事は多々あった。だが、いくら呼びかけても、うんともすんとも返事しない」
そう尋ねられた軍艦・球磨は、暫く考えた後に、しょんぼりと口を開いた。
「そうか、それは残念だな」
「……もし仮に、球磨と同じく軍艦に意志があったとしたら、どんな感じだと思う?」
「そうさなぁ……」
二本目の煙草に火を着け、煙を一口飲み込んだ少将は、腕組みをしながら、自身の考えを並べていった。
「多摩は猫の様な性格だろう。自由奔放、悠々自適」
「多摩だけにか? えらく安直な発想だ。にゃあにゃあ」
「吾輩は多摩である、か」
少将は青年の時に文芸誌で読んだ小説の題名を引き合いに出し、その安直な発想に自分自身で苦笑していた。
そして猫の声真似をする軍艦・球磨に対し、少将は話を続けた。
「北上、大井は今年、重雷装艦として改装を受けたな。ある意味、五姉妹の中でも取り分け仲が良さそうだ。仲良き事は美しき哉」
「君は君、我は我なり、されど仲良き。この先50年ぐらいはずっと一緒に居て欲しい」
「えらく遠い未来だな」
50年先の世界はどうなっているのか。
少将は想像を巡らすものの、全く想像が及ばなかった為、思考を停止させた。
それに艦艇の寿命は短い。
恐らく叶わぬ願いだろうと少将は思い、言葉を紡いだ。
「木曾は末っ子だな。私の経験上、末っ子は一番上の兄姉を他の兄姉以上に特別視する傾向がある。良かったな、球磨。姉の背中をとてとて追う、可愛い妹が出来たぞ」
「女々しい、それでは球磨型の名が泣く。木曾が球磨型で最年少なら、木曾には球磨以上に凛々しくなって欲しいとは思う」
「そう言う割には、声色に説得力が全くないぞ」
そうやって喋る軍艦・球磨の声色は、まだ見ぬ妹に想いを馳せ、胸躍らす姉娘の姿そのものであった。
「……もし叶うなら、何時かそんな日が来て欲しい」
軍艦・球磨は暫くの後、ふう、と溜息を吐き、現実に引き戻される事を憂いた声色で、少将に呼びかけた。
「……そうさな、何時かそんな日が来るといいな」
少将は足元に置いておいた灰皿を拾い上げ、先程までふかしていた煙草の火をもみ消した。
「それにしても『合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(ハル・ノート)』か……」
そして球磨と同じく、溜息を吐き捨て、本題に入った。
「確か先日、米国の国務長官から出された提案書だったか?」
「ああ、その通りだ」
この時既に、世界は戦火の炎に焼かれており、大日本帝国もまた、激動の時代、その更なるうねりに呑み込まれようとしていた。
「昨今の日・米英情勢はもう最悪だ。先の米国の『対日石油禁輸』なんて殊更酷い。知っての通り、我が国は資源輸入国だ。特に石油資源は国家の血とも言える。石油9割は輸入、内7割は米国からだ。それが絶たれたとなると、これはもう死ねと言っている様なものだろう。お陰で軍部のお偉いさん方はお冠だ」
悩ましい、と言わんばかりの表情で空を仰ぎ、少将は話を続けた。
「そして今回の提示だ、これが起爆剤となった。もし模那可(モナコ)や呂克松堡(ルクセンブルク)の様な小国でも、同じ様な案を突き付けられたならば、同じく米国と戦うだろう。それぐらいの条件だ」
少将は官製煙草の箱を懐から取り出し、軽く振ってみるが、一本しか残ってなかった。
「それにしたって米国は、いくら弱小国とは言え、日本に対する交渉を酷く曖昧なものに済ましている。『まさか日本が米英に対して宣戦布告何てしないだろう』という奴さん達の過小評価もあるかもしれんが……」
溜息を吐き捨てた少将は、残りの一本を口に加えると、ぐしゃりとその箱を握りつぶした。
「こうまでしてこちらを煽ってきたとなると、米国政府には厭戦感情が蔓延している世論を揺り動かす思惑があるのだろうな。特に同盟国の英国は、対独戦線もある。世界一の国力を持つ米国には、当然『連合国』陣営として、『大義名分』の元で参戦して欲しいだろう。それに今の日本は、開戦に燃える軍部が政治を担い、世論もまた『いよいよ始まる』と奮起している……丁度良い口実だ」
「つまり……球磨たちは、まんまと一杯食わされたって事か?」
その話を聞いていた軍艦・球磨は、「いけ好かない」と言わんばかりの声色で、口を開いた。
「……まぁ、表向きはそうなってはいるが、実際はどうだか知らんよ」
「ん? 一寸待て、それはどういう事だ? 何と言うか、参謀長らしからぬ発言だ」
先程の話とは裏腹な、少将の何とも曖昧な答えに疑問を抱いた軍艦・球磨は、少将の真意を確かめる様に言葉を返した。
少将は煙草に火を付けると、息を整える様に、煙で肺を満たした。
「確かに……私は少将で参謀長だ。ある程度の極秘情報も上から降りてくる。だが、一人の人間である以上、手に入る情報には限りがある。他にも他国の密偵による陰謀説、軍部の暴走、非白人に対する侵略戦争、地政学見解による太平洋における日米の覇権争い、歪んだ経済状況の末路……実に様々な思惑や理念が交錯している……どれが正解か……一概には言えんよ」
「他者の心の内幕までは語れないという事か。結局、真実は藪の中か」
「そういう事だ。全員が本当の事を言っているのかもしれないし、誰かが嘘をついているのかもしれない。或いは、全員間違った事を言っているのかもしれんな……少なくとも言えるのは、この国は二度目の大戦を経験するであろうという事だけだ」
そうして少将は、再び両手を手摺鎖に置くと、白波を穏やかに立てる寒海に視線を戻した。
その目はとても醒めているモノであった。
「歴史は繰り返す、か……結局、それが正しい選択なのか球磨には分からん」
軍艦・球磨は、歴史と言う濁流に対する無常さと憂いに沈んだ声色で、少将に言葉を投げかけた。
少将は一服、紫煙を燻らせた後、軍艦・球磨に言葉を返した。
「そうさな。一見、堅牢に思える道義心と言う城壁でさえ、時代の濁流によって、いとも簡単に押し流されてしまうものだ……関東大震災直後の未曾有の大混乱を知っている球磨なら周知の事実だろう」
「……いい加減な噂話で、他国民が虐殺された事件……無政府主義者が軍部の人間に殺された事件……人間という生き物は、大きな出来事に混乱している状態では、倫理観に反した事を容易に行う生き物だと常々思う」
「その通りだ。過去の歴史としてその事件を見据えている我々から言えば、愚かな行いとしか言いようがない……だが、果たして同じ状況になって、同じ様に正常な判断を下せるのか? 私には断言できないし、断言できるほど私は聖人君子でもない。我々が出来る事と言えば、その様な愚かな行為を戒めとして、その出来事を後世に伝えていく事だけだ」
「それ程、善悪の定義や真実とは脆いモノなんだな」
少将と軍艦・球磨は、人間という生き物の浅ましさや業を嘆く様に、話を続けた。
「……そしてこれからの話だ。戦争が始まったら、悲しきかな善と悪、敵味方と言う二項対立でしかお互いを区別せざるを得ない。そうでもしないと、自分や家族……ひいては国を護れないからな」
「世知辛いな」
「ああ、世知辛い」
お互いの溜息の呼吸が、虚空に響いた。
そうして少将は、醒めた目で、手摺鎖を強く握り締めながら、言葉を紡いだ。
「……とは言うが、実際はそんな簡単に割り切れる話じゃないんだ。歴史は常に次の時代の潮流に合わせて書き換えられる。帝国が悪い、米英が悪い。そんな短絡的な問題じゃない。元来、絶対的な真理なんて、誰もがおいそれと証明できる訳がない。何が正しいか、間違っているか何て、時代や地域よって変わる。だが……」
そう言いながら少将は、先程火を付けたばかりの煙草を、さっさと足元の灰皿に押し付けた。
「もし正しい事があるとすれば、それは極めて個人主義的な思考、個々の信念……即ち、清らかな想いだけだ」
「……清らかな想い?」
そうして少将は踵を返し、軍艦・球磨の羅針艦橋付近を見据え、口を開いた。
「そうだ。それは時に他者の想いとぶつかり合い、どちらかが負けるという、自然淘汰の一幕に過ぎん。自分が想いを抱き、正しいと信じた結果だ。結果がどんな形であれ、責任は自分自身で負わねばなるまいて」
軍艦・球磨の艦橋を見据えた少将の目は、真剣であった。
「だがな球磨、これだけは努々忘れるな。他者の清らかな想いという領分、その深淵を侵す者には、それ相応の報いが返るだろう」
「……分かった。努々忘れない」
その少将の言葉に軍艦・球磨は、大きく頷く様に力強く答えた。
「……何が本当の事で、何が正しくて、何が間違っていたか……何度も言う様に、そんな歴史の真実なんて、時代や時間と共に、後世の歴史家たちによって絶えず変化し、そして書き換えられる。何にせよ、何かしらの解釈は加えられる事だろう」
その声を聞いた少将は、更に言葉を続けた。
「そして、この戦争の先に、きっと華やかしい未来が待っている。群衆も軍人も一部を除いて、皆そう思っている。そう、私たちが最善手だと思って始めた事だ。もう誰にも止められん」
ふと、思い出したかの様に少将は、軍艦・球磨に対して、言葉を投げかけた。
「球磨は……確か、第三艦隊、第十六戦隊所属だったか?」
「そうだ」
「私も第五艦隊隷下の司令官として戦う事になった」
「なるほど……なら、『提督』と呼んだ方がいいか?」
軍艦・球磨の問いかけに、少将は暫くの後、答えた。
「私はどちらでもいい」
「なら、今後は『提督』と呼ぶ」
――私も……随分と遠くへ来てしまったな。
軍艦・球磨の「提督」という呼び掛けに少将は、何とも言えぬ寂寥感を胸に、心の中で呟いた。
「……てーとく」
「……何だ?」
軍艦・球磨は、早速「提督」へと呼びかける。
「提督は……この戦争に勝てると思うか?」
だが、その声色は不安を孕んでいた。
「……蜘蛛の糸を掴む様なものだな……私も昔、視察に行った事があるが、米英の国力は計り知れん。帝国軍人の言う台詞では無いが、この戦争、九分九厘負けるだろう」
「やはりそうか……」
軍艦・球磨は落胆の声を上げた。
その言葉を聞いた少将は、軍人らしく後ろで手を組むと、カンカンと軍靴を鳴らし、主錨鎖を跨ぎながら、言葉を吐いた。
「……だが可能性はゼロではない。開戦から1年……いや、半年が勝負の分かれ目だな」
その少女の落胆の声を紛らわせる様に、少将は言った。
「幸いにもこちらの兵の士気は高い。それまでにある程度、こちらが勝利を残し、かつこちらが妥協する形で米英と講和に持ち込むしかない。それ以上、戦争が長引くなら、物資不足は免れん。ジリ貧は必須。結果、我々は大敗する」
だがその言葉が、気休め以上の意味を成さないであろう事は、お互いが分かっていた。
「……開戦となった場合、大日本帝国が生き残るには、もはやそれしか道は残されていないだろう……まぁ、戦争なんて一つの時代のうねりに過ぎん。自然を人間が制御出来ないのと同様、軍人である私にも、軍艦である球磨にも、こればっかしはどうする事も出来ない」
「時代のうねりか。なんだかやるせない」
「……そうさな」
そう返した少将は、暫くの間、艦首付近の鉄板装甲の上をのそのそと歩いていた。
その少将の姿を見据えていた軍艦・球磨。
「……前からずっと気になっていた」
球磨には、その少将の姿が一軍人と言うよりかは、むしろ一学者の様に思えてならなかった。
「提督は何で、軍人になった?」
そうして軍艦・球磨は、長年気になっていた問いを、少将に対して投げかけた。
「……どういう事だ?」
その言葉に少将は、足を止め、怪訝そうに顔を上げた。
「球磨は提督ともう何年も一緒に居たから分かる。正直言って提督は……軍人にしては、些か繊細過ぎる」
そして軍艦・球磨は、少将の核心に迫る為に、言葉を続けた。
「本当は戦いたくない、誰も傷付けたくない、血だって見たくない。提督が何時もそんな顔を浮かべている事を、球磨は知っている」
「……」
「今だってそうだ。平然と隠しているつもりだろうけど、素面に見えるその瞳の奥、その誰かの事を憂いて潤んだ提督の目を、球磨は知っている」
その言葉に少将は、思わず艦橋から視線を逸らし、軍艦・球磨の慧眼に対して感服の微笑を浮かべた。
「そんな男が何故、戦いに身を投じる立場の人間になったのか……球磨はずっと気になっていた」
軍艦・球磨は、母親が子を諭す様な柔らかな声色で、少将に尋ねた。
「……私が選んだのではない。天に選ばれ、流れの儘なっただけに過ぎん」
軍艦・球磨の言葉に、暫く俯いていた少将。
少将は顔を上げると、諦観を含んだ笑みを浮かべ、軍艦・球磨に答えた。
「私はかつての憧れの様に、軍人でありながら小説家として大成する事を夢見ていた。だが所詮、私は有象無象の一人に過ぎなかった。志半ば、私は諦めた……だが、今にして思えばそれで良かったのだと思う」
「どうしてだ?」
「私は悟ったのだ、天命をな。天は二物を与えん。私に与えられたのは少将と言う地位と、それを可能にする能力だけだった。だから、それを生かす事に決めたのだ」
少将の「天命」という言葉を口にしたその表情は、「天命」に対する一種の畏怖と敬虔の念が含まれていた。
「そして私は自分勝手な男だ。私は他者の為に生きようとした事は一度もない。その分、他者にも干渉しない。他者の行くべき道を決めるのは、あくまで他者自身だからな」
「まるで個人主義者の様な言いぐさだ」
「そうさ。私は個人主義者だ」
軍艦・球磨の的を射た言葉に少将は、「その通りだ」と言わんばかりの笑みを投げかけ、己の考えを述べた。
「私は何処の党派や思想団体にも属さない。何故なら、人は群れれば群れるだけ、他者に考えを委ね、自身で考える事を放棄するからだ。中道で無ければ、全てを哲学的に批判しなければ、目に見えない大切なモノを何処かで見失ってしまう」
「目に見えない大切なモノ?」
「政治や損得さえも超越した、自身がかつて抱いていた信念、清らかな想いだ。それらが失われた時、人は自分の生きる意味さえも見失う」
そうして少将は、一点の微睡の無い目を掲げ。
「だからこそ私は、私が生きている意味を見出す為、軍人として国民を、ひいては国を護る任……誰かを護る為の任に、私は就いているのだ」
――――自分自身の清らかな想い、己が「生きる意味」を軍艦・球磨へと宣言した。
「それが提督が軍人になった理由でもあり、提督の清らかな想い、提督の生きる意味という事か」
その宣言を聞いた軍艦・球磨は、その想いを飲み込むように反芻した。
「そうだ。陳腐で使い古された言葉だが、その奥底に私は、眩い程の輝きを、私にとっての生きる意味を見出したのだ。その為なら、私の命など安いモノだ」
そして少将は、信念と熱量を纏った眼差しを掲げ、艦首旗竿に揺蕩う日章旗を見据えた。
「だからな、球磨。帝国海軍の代表として告げる」
少将のその目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていた。
「海の上では私たち人間は無力だ。どんな形であれ、私たちの代わりに戦って欲しい。私たちを、この国を護って欲しい。そして、その先にある、平和を勝ち取って欲しい」
その少将の瞳は、月明かりの様に静かに、強く輝いていた。
「これが私……いや君に乗艦して戦うであろう水兵たち……私たちの想いだ」
ここまでギラギラと血潮を滾らせた様な目を抱いた人物を、軍艦・球磨は今まで見た事が無かった。
暫くの間、沈黙と緊張の線が、辺りに走っていた。
「……言わずもがな」
そして軍艦・球磨は、口を開いた。
「球磨は誰かを護る為に軍艦として生み出された存在だ。お前たちの想いを乗せて戦う。それが球磨の生まれた意味であり、球磨の存在理由だ」
少将の想い。
その月明かりに負けないくらいの満面の笑みを浮かべた声色で、軍艦・球磨はその想いを胸に秘めた。
「ありがとう」
思わずその声色に負けそうになった少将は、それと同じぐらいの熱量、だが優しげな声色で、軍艦・球磨に言葉を返した。
「……一寸、長居し過ぎたな」
少将は、ふと思い出したかの様に懐中時計に視線を落とし、隅にあった灰皿を拾い上げると、中空へと言葉を投げかけた。
「球磨、私はそろそろ行く。次はお互い、戦場で会おう」
「また会おう、提督」
――――そして二人は、暫しの別れを告げると、其々の戦いの場、その世界の濁流へと身を投じて行った。
………………………………
――――1941年12月8日未明、アメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島、真珠湾。
様々な思惑、理念、そして清らかな想い。
それらはやがて全てが絡み合い、グチャグチャと粘着質な音を立てながら凝固し、楔となりて歴史に打ち込まれる事であろう。
『・・‐・・ ・・・(ワレ奇襲ニ成功セリ。突撃、雷撃隊)』
攻撃隊隊長・淵田美津雄中佐の搭乗する九七式艦上攻撃機から、第一航空艦隊司令部の旗艦である「空母・赤城」宛てに、モールス式信号の電文が発信される。
そうして「真珠湾奇襲攻撃作戦」の始まりを告げた。
人間が狂乱して「虎」に変わり果てると言う逸話は、東洋ではポピュラーな話である。
だが、一つの戦争の始まりを告げる言葉が奇しくも同じ単語であったと言う事は、単なる偶然なのだろうか。
或いは何かの本質の一端を言い当てた言葉なのだろうか。
今この時をもって、賽は投げられた。
大日本帝国はこの先、赤黒く染まった大戦という斜陽の道程を歩む事になるだろう。
果たしてその行いは、時代に、人々に、そして後世に対してどんな傷痕を残す結果となるのだろうか。
――――後の歴史書に『大東亜戦争』或いは『太平洋戦争』と綴られるであろう、凄惨な悲劇の幕が切って落とされたのであった。
………………………………
………………………………
「……本当……何なんだろう、この夢は……」
――僕はそこで、夢から覚めた。
………………………………
――――1520、国防海軍警備施設、執務室。
『もう少しで死ぬところだったクマー!』
そう叫んでいたのは、以前、命の危機を救った駆逐艦娘小隊が所属する鎮守府司令官から、その感謝の印として贈られた鳳梨酥(パイナップルケーキ)を栗鼠の様にぷっくらと頬を張らせながら食べている、艦娘・球磨であった。
先週、遭遇した姫にこっ酷くやられた球磨は、帰還後、有無を言わさず入渠ドッグで高速修復材を用いた集中治療を受けた。
その後、球磨の傷は綺麗さっぱり癒えたものの、酷使しまくった艤装のダメージが思った以上に大きかった為、艤装の修理が完了するまでの数日間、後援救助部隊の旗艦は多摩に任せ、執務室で秘書艦業務に精を出す結果となった。
「まったく……」
そして大きな安堵の溜息を吐き捨て、湯呑を片手で持ち、同じく感謝の印として贈られた烏龍茶を渋い顔で啜る提督は、執務室の一角に備え付けられた応接机に球磨と対面して座り、球磨曰く「ゆとりの行動」を取っていた。
つまるところ、3時のおやつの休憩時間であった。
球磨と提督は、球磨が着任した際に買い揃えた中々にして上物の茶器揃で、のんびりと一服していた。
「……確かに、姫級があの海域に展開しているとは思わなかったし……そこは僕のミスでもあるよ……でも正直なところ、球磨だったら、適切かつ妥当に攻撃をいなして、さっさと離脱するかなと思ってたから、そこまで心配はしてなかったんだけどさ……」
鳳梨酥をモグモグとにっこり嬉しそうに食べる球磨を見ながら、提督は烏龍茶を一口啜り、言葉を紡いだ。
「まさか姫級に対して単騎で突貫仕掛けるとは思わなかったよ……しかも僕の再三の呼び掛けを一切無視してさ……本当、勘弁してくれよ……」
「……ごめんなさい」
しゅんと上目遣いで申し訳なさそうに謝る球磨の姿を見て、提督もこれ以上怒るに怒れず、溜息をもう一つ吐いて、球磨に問いかけた。
「それにしても本当……何時もの球磨らしくないよ。どうしてそんな考えに至ったんだい?」
「……正直、球磨にもよく分からないクマ」
しょんぼりとした顔の儘、鳳梨酥を摘まんだ球磨は、腕を組み、頭の上に疑問符を浮かべながら答えた。
「だけど姫と対峙した時、球磨は名状しがたい感情に支配されたクマ」
「名状しがたい感情?」
そして球磨は、重苦しい顔を浮かべ、その時の出来事を回想した。
「……怒り、恐怖、嫌悪、悲しみ、そして憐れみ……それらがグチャグチャに入り混じった様な感情……球磨にもその感情が何処から来たのか分からなかったクマ……そうして、球磨はある考えに至ったクマ」
一つ一つの感情を紐解く様に語っていく球磨に対して、提督は訪ねた。
「ある……考え?」
その問いかけに、球磨は一呼吸の後、重い表情で答えた。
「あの姫を何が何でも倒さなければならない、と」
その球磨の言葉を聞いた提督は、烏龍茶をまた一口啜り、自分の首に手を添える。
「……」
そしてそれ以上、話を続けるべきか悩み、言葉を探していた。
その様子を察した球磨は、先程の表情とは打って変わり、悪戯な笑みを含んだ表情を、提督へと投げかけた。
「それにしても……普段、冷静沈着な提督があんなに叫んでる姿を見たのは球磨も初めてだクマー」
「……僕だってあんなに叫んだのは本当、久しぶりだよ……まぁ、何はともあれ、人死には無かったんだ。これで良しとしよう」
そう言ってほっと胸を撫で下ろした提督。
それに対して球磨は、まるで「この場に居るのは間違いなのではないか」とでも提督に言いたげな表情を浮かべた。
「……でも、艦娘以前に、球磨たちは軍人だから、死ぬ事は当たり前だクマ。まだ人死にが出てないとは言え、提督はもうちょっと慣れた方がいいクマー」
「……軍人だから死ぬ事は当たり前とは言ってもなぁ……それは十二分に理解してはいるが……自分が居なくなる事よりも、球磨に限らず、見知った顔がある日突然居なく事の方が、ずっと辛いんだよ……」
そう答えた提督は、机に肘を置きながら、こめかみを手で押さえた。
そして唇を悔しげに噛み締めた提督の表情は、重く、苦しそうであった。
恐らく昔の出来事を想起してるのか、目が潤んでいる。
提督の過去に何があったのか、球磨には分からなかったが、話の流れから察する限り、恐らくはそう言う事なのだろうと思った。
球磨は小さく吐息を洩らし、物優しげな表情を浮かべ、提督に対して穏やかに諭した。
「本当、提督は軍人に向いていないクマ。何で提督が未だに軍人をやっているのか、球磨にも分からないクマー」
「……以前、所属していた降下救助員や特警隊の奴らにもよく言われたよ。『お前は優秀だが、如何せん優しすぎる。お前の精神がぶっ壊れる前に辞めた方がいいぜ』ってね」
提督は大きく溜息を吐き、残りの烏龍茶を一気飲みしてから、頭を抱え、球磨に愚痴をぽいぽいと投げかけた。
「こんな事だったら司令官なんて引き受けなきゃよかったよ……誰だよ、地位が上がれば役得が増える何て言った奴は……地位が上がれば上がる程、役損ばかりが増えていくじゃないか……あの時点で退職しとけば良かったんだ……そもそもあの時、海軍に入隊しなきゃ……」
――そこまで言うなら辞めればいいのに。
球磨は純粋な親心からそう思ったが、それが口に出される事は無かった。
何故なら、そう毒づきながら話す提督の目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていたからだ。
――球磨は思った――。
提督が言っている事は、恐らく本心だろう。
しかし、それを差し置いた「何か」が提督の心にあるのも確かだ。
第一に、いくら後詰の司令官とは言え、司令官という地位を得るには、数々の難易度の高い課程や試験、それをパスするだけの資質や才能、そして相応の実績が無ければ、決して得られる地位では無い。
そして、これ程の信念と熱量を纏った眼差しを掲げた人物を、球磨は知らない。
これ程、ギラギラと血潮を滾らせた様な目を抱いた人物が、果たしてこの世にどれだけ存在するのだろうか。
――恐らく提督には提督なりの、己が精神、ましてや命さえも厭わない想いがあるからこそ、今この場所に立っているのだろう――。
………………………………
一通り仕事の愚痴を溢した提督は、ふう、と溜息を吐き、呆れ顔の球磨を見据えて、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね、色々愚痴っちゃって……司令官って立場上、こんな弱音を吐けるのは球磨ぐらいしか居ないからさ」
「なぁに、気にするなクマ。これも秘書艦業務の内だクマ」
だが球磨の呆れ顔には、不思議と優しさが混じっていた。
「なぁ、球磨。変な事を聞くようだけどさ」
その表情を見た提督は、ふと、思い出したかの様に尋ねた。
「球磨には、軍艦の時の記憶ってあったりするのかい?」
以前見た「軍艦・球磨」と「少将」の夢。
それが只の夢なのか、何かの意味を孕んだモノなのか。
提督は気になり、「艦娘・球磨」に尋ねた。
「正確には魂だけクマ。それでも、断片的になら思い出せるクマよ」
そして球磨は、その提督の質問に少々訝しげな表情を浮かべながら、提督に答えた。
「そっか……なら、聞いてもいいかい?」
「別にいいけど……」
球磨は、顔に恥じらいの朱を掠めながら、提督に告げた。
「……正直言って球磨の歴史(過去)なんて聞いてもちっとも面白くないクマよ? 他の艦艇みたいに『沈んだ敵艦の水兵を助けた』みたいな美談も無ければ、『艦体が真っ二つになっても最後まで勇猛果敢に戦った』なんて武勇伝もない。ましてや『相次ぐ激戦をほぼ無傷で生き延びて武勲を立てまくった』みたいな伝説めいた幸運譚もないクマー」
薄紅に頬を染めた球磨は、もじもじとしながら、提督に言葉を繋げた。
「それでも……聞きたいクマか?」
「うん、それでも僕は聞きたいんだ。そうした歴史舞台の裏側で、球磨が一体何をしていたのかをね」
その球磨の言葉に、提督は即答した。
その提督の言葉に、球磨は真ん丸と目を見開き、そして嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……分かった、それなら話すクマ」
「ありがとう」
「ちなみに球磨自身もうろ覚えの部分があるから、もし間違っていたりしたらごめんクマ。それと、最初っから話すとなると、ちょっと話が長くなるクマー」
「それでも構わないよ」
「まぁ、まだお茶も残ってるし、茶菓子の足しにでもすればいいクマ」
――――そして艦娘・球磨は、静かに語った。
――――己が生きた激動の時代、その歴史の一幕を。
「球磨が生まれたのは1919年頃、丁度、大正の真ん中ぐらいだったクマ。『八四艦隊案』で産み出された球磨は直ぐに『シベリア出兵』の為、シベリアへの軍の上陸を掩護したり、中国沿岸の哨戒をしていたクマー。『シベリア撤兵』の際にも旅順を拠点として中国沿岸の哨戒任務に従事していたクマ。この頃の球磨は、意外どころかメチャクチャ優秀だったクマ! 向かうところ、敵なしだったクマー。でも、撤兵の翌年……『関東大震災』によって世の中の常識が全てぶち壊され、国内は未曾有の大混乱に陥ったクマ。あの当時はもう本当、しっちゃかめっちゃかだったクマ。まぁ、そんな時代に球磨は生まれたクマ」
――――球磨の生まれた時の事。
「海軍の迷走はこの時から始まっていたのかもしれないクマ……陸軍との方向性の違いによる不仲、海上航路(シーレーン)保護の理解不足……極めつけは『八八艦隊計画』。知っての通り、戦艦8、巡洋艦8、第二線の主力艦8の計24隻を8年周期で補充する計画だクマー。正気の沙汰とは思えないクマ。そんな大艦隊を平時に持ってたら、日本経済が傾くどころか、国庫が吹き飛んで、然る後ペンペン草も生えないレベルだクマー。日露戦争でバルチック艦隊を撃破した事にどれだけ浮足立ってたクマかー? ……いや、よくよく思い返してみたら、あの当時は他国も頭のネジが全部吹き飛んだ様な計画を立ててたクマー。だから共倒れになる前に『ワシントン軍縮条約』で主力艦の保有制限が設けられたクマ」
――――海軍の迷走。
「そういえば俗に言う飴と鞭の法律『普通選挙法』と『治安維持法』の制定も、それから数年後の出来事だったクマ。世の中が段々とキナ臭くなり始めたのもこの頃だったクマ。そして……球磨の名付け親でもある『大正天皇』が崩御され、また時同じくして、当時の文豪が自ら命を絶ったクマ。『ぼんやりとした不安』とはよく言ったものだクマ。超個人的な理由で自ら命を絶ったとはいえ、これから先の出来事を考えると、そうした動乱の時代を予感した様に思えなくも無かったクマ。そうして『大正』の時代が終わったクマ」
――――激動と混沌の「大正」の終焉。
「『大正』が終わり、『昭和』に入って球磨を待っていたのは『世界恐慌』という混迷だったクマ。ニューヨーク株式が大暴落を起こし、世界経済は地に落ちたクマ。一度目の大戦で景気を良くした事を良い事に、加減も知らずバカスカ投資しまくるからこんな事になるクマー。あれ……? 昨今にも似た様な話があった気がするクマー?」
――――そして動乱と混迷の「昭和」の始まり。
「これにより日本経済も地に落ち、深刻な社会不安が、国内に鬱積していったクマ。そして『ワシントン体制』と『中国ナショナリズム』の挟撃に対する現場の憤懣が頂点に達し、関東軍が政府決定なしに中国の鉄道を爆破、自衛と言う名目で攻撃を行い、同地を占領。知っての通りこれが『満州事変』だクマー。日本の『国際連盟』脱退もこの頃だクマ。そして世論が軍部支持に傾向した事により、文民統制が完全に崩壊、軍国主義に走り出したクマ。ちなみにこの時の球磨は、高雄だったり馬公だったり旅順だったり、中国沿岸を行ったり来たりしていたクマー」
――――「満州事変」という種火、国際社会からの孤立。
「これもあり、日中関係は緊張を増し始め、そして偶発的とは言え『盧溝橋事件』が発生、『日中戦争』が始まったクマ。たった数発の銃声から始まった戦争が、次第に全面戦争へ、そして泥沼化していったクマ。そうした中、先の第一次世界大戦後に敷かれた『ベルサイユ体制』に対しての不満が爆発したドイツ世論、ひいてはちょび髭のアドルフおじさんがポーランドに侵攻、英仏による宣戦布告よって『第二次世界大戦』が始まったクマ。また日本、ドイツ、イタリアが『三国同盟』を締結した事によって、日本は完全に『枢軸国』陣営に就いたクマ。そして日中戦争の長期化の原因の一つである米英の中国に対する物資支援、後は『ABCD包囲網』などによって、ここからどんどん日・米英関係が悪化していったクマー。……はてさて、この頃の球磨はと言うと、日中戦争始めの頃は、第三艦隊所属として日中戦争に従軍したり、第四艦隊隷下の潜水戦隊の旗艦として活躍したりもしてたけど、既に艦齢は20年近く経っていたクマ。流石の球磨もここまでクマ、後は予備艦生活でのんびり余生を過ごそうかと思った矢先に……」
――――「日中戦争」の泥沼化、「第二次世界大戦」の始まり。
「『太平洋戦争』が始まったクマ」
――――そして「太平洋戦争」の始まり。
「第三艦隊の『第十六戦隊』に配属された球磨は、『真珠湾攻撃』直後、『比島(フィリピン)攻略作戦』に参加して部隊の上陸を掩護したクマー。その後、新編された『第三南遣艦隊』の旗艦として戦線に立ったクマ。フィリピンの海で球磨は、敵艦をちぎっては投げまくったクマ。やっぱり球磨は、意外に優秀クマー! ……そういえば上陸作戦の時、球磨に搭乗していた特別陸戦隊がザンゴアンガに上陸して、取り残されていた同胞を救出したクマー。流石、海兵団の古強者が多いだけあって、そのお手並みはとても鮮やかだったクマー! 球磨も見習いたいクマー!」
――――帝国の快進撃、栄光の半年。
「……だけど、それは泡沫の栄光だったクマ。開戦から六ヶ月後、突如告げられた『ミッドウェー海戦』の大敗によって、これ以降、日本は敗退の道を辿る事になるクマ。それでも、その裏で球磨は、来る日も来る日もせっせと働き続けたクマ」
――――歴史の分岐点、日出る帝国の斜陽の始まり。
「部隊の仲間には『足柄』や『長良』が居たクマ。それに馬公で丁度一緒になった『摩耶』とも出撃した事があるクマ。第三南遣艦隊の旗艦の後は、再び『第十六戦隊』へと戻り、『鬼怒』とも一緒に戦ったクマ。後は『北上』と『大井』とも一緒になった事があるクマ。そう言えば……北上と大井はこの基地に居るとして、確か皆は、提督の知り合いの鎮守府に所属していた筈だクマー! 久々に会いたくなったクマ―!」
――――共に戦地を駆け抜けた戦友たち。
「比島(フィリピン)攻略作戦が一段落した安堵からか、球磨は『水雷艇・雉』を連れて夜な夜なノロノロと航行していたクマ。だけど、それがいけなかったクマ。未明道中、米魚雷艇に遭遇、それにいち早く気付いた水兵はサーチライトを照射、同時に奴さんの雷撃が始まったクマ。そして……反航戦で衝突すれすれまで接近された球磨に対して、奴さんは魚雷二発を発射。そこで一発が艦首に当たったクマ! この球磨をもってしても、ここまでと覚悟したクマ……だけど何故か魚雷は爆発しなかったクマ。なんと命中した筈の魚雷は、ぽきりと真っ二つに折れて沈んで行ったクマー。恐らくあの場に居た全員が首を傾げていたクマ。まぁ、そんな訳で球磨は九死に一生を得たクマー。あの時は本当、もう少しで死ぬところだったクマー」
――――幸運を味方に付けた一戦。
「ある日シンガポールにイタリア巡洋艦が停泊していたクマ。だけどそのイタリア艦は、言ってしまえば裏切る可能性があったクマ。何故なら、イタリアの降伏は、既に時間の問題だったからだクマ。そしてイタリアが正式に降伏した直後、シンガポールに停泊していたイタリア巡洋艦が突如として行方を眩ませたクマ。直ぐに球磨はその巡洋艦を追いかけたクマー。だけど……奴さんがどんな手を使ったかは知らないけど、結局目標を発見できず、そのまま逃げられてしまったクマ……あの時の出来事は本当に屈辱だクマ……! その四日後には、サバンに停泊していたイタリア潜水艦の連中とも一悶着起こしたし……そもそも向こうの態度が、滅茶苦茶いけ好かなったのが悪いクマ……! ……あんのヘタリア人ども……今思い返してみても腹が立つクマー! クマー!」
――――イタリア人に2度も酸苦を舐めさせられた事。
「……その後は、うん……相変わらず増援輸送と哨戒が主な任務だったクマ」
まるで祖母が孫に昔の事を話す様な、優しく温かな口調で球磨は、時に笑い話を交えて、過去の出来事を語った。
それは提督が知っていた紛れの無い、光と闇が交差する「大正・昭和史」のほんの一握りの出来事であり、その激動の時代を見据え続けた「軍艦・球磨」の歴史の一幕でもあった。
………………………………
「まぁ、こんなところクマ」
一渉り話し終えた球磨は、一呼吸の息を置いた。
球磨は自身の湯呑の内側に視線を落とすが、いつの間にか底の文様が見え、お茶の雫がその表面を潤すばかりであった。
それに気付いた提督は、机の上に置いてあった急須の横手を持ち、球磨の湯呑へと残りの烏龍茶を注いでやった。
「ありがとクマ」
そして懐古主義的な頬笑みを浮かべてお礼を言った球磨は、桜文を散らせた高田焼の湯呑をお淑やかに両手で持ち上げると、水に落とした様に艶やかな青磁色の焼き物へと一つ、接吻けした。
――あれ?
その様子を見ていた提督は、提督が一番聞きたかった事が、まだ球磨の口から提示されていない事に気付いた。
――まだ、件の「提督」の事を聞いていない。
そして提督は尋ねた。
「ちなみにだけどさ……艦長の事は覚えていたりするのかい?」
「……正直、覚えていないクマ。入れ替わりが激しい軍艦で一々覚えてられないクマ。あくまで球磨が覚えているのは『軍艦・球磨』としての大まかな歴史(過去)が殆どクマ」
提督の言葉を聞いた球磨は、ちょっと困った様な表情を浮かべながら提督へと言葉を返した。
「そっか……」
――やっぱり気になるな。
そう思った提督は、更に球磨へと言葉を紡いだ。
「……でも流石に、一人ぐらいは覚えているんじゃない? 印象深い艦長は居なかったのかい?」
提督は、この時向けられていた球磨の表情。
「……」
艦娘・球磨の「これ以上は聞かないで欲しい」という信号を、提督は察するべきであった。
それが「艦娘・球磨」の奥深く、その心の深淵に触れてしまう話題であったという事を、この時の提督は理解してなかった。
「……」
暫く困り顔で考え込んだ球磨は、その後、椅子から立ち上がり、消え惑いながら部屋の中央まで歩く。
そして振り向き、提督に対して笑みを振り、意を決した様に言葉を投げかけた。
「……一人だけ、今でもしっかり覚えている艦長は居るクマ」
「へぇ、それは誰なんだい?」
その提督の問いに球磨は、一呼吸置いた後、答えた。
「杉野修一海軍大佐」
――――その言葉を皮切りに、先程まで球磨が浮かべていた笑みに影が差した。
球磨のその笑みを見て、そして球磨が口にした名前を聞いた提督は、自分自身の浅はかさを呪った。
提督は、自身が今まさに目の前に居る「艦娘・球磨」の深淵を覗こうとしているのだと、直感的に気付いた。
提督は直ぐに別の話題に切り替えなければと、直感的に理解した。
そう、提督は、球磨がこの先語るであろう、この娘の「最期」を聞きたくなかったからだ。
そしてその言葉の重さに耐えられる自信が、提督には無かったからだ。
今ならまだ、何とでも言い訳をつけて、話を逸らして、逃げる事だって出来る。
――今ならまだ、引き返せる。
「……」
しかしあろうことか、言葉には出さずとも。
その言葉を発した球磨本人のその目が、「最期」まで聞いて欲しいと、提督に懇願しているのが、提督には痛い程受け取れていた。
――ここで逃げたら、この先、僕は一生、この娘に顔向け出来ないだろう。
――ここで逃げたら、この先、一体誰か、この娘の深淵に光を当ててやれるのだろうか。
提督は球磨のその目を見て、球磨の懇願に応えるべく、話の続きを聞く事を躊躇うもう一人の自分を心の中でぶん殴り、球磨に悟られない様、自身の太腿を血が滲むほど強く抓り、そして現実を見据える決心をした。
話を聞いた以上、「最期」まで話を聴くのが自分の責任であると自身に対して命令を下す。
そうして提督は、椅子から立ち上がって球磨を見据えると、自身の勇気を絞る様に、球磨へと話の続きを促した。
「その人って……確か……」
夢で見た「少将」以上に、提督はこの人の名前を史料で知っていた。
何故ならこの艦長、「杉野修一海軍大佐」は、「杉野はいずこ」で有名な日露戦争の旅順港封鎖作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の息子、また「戦艦・長門」の最後の日本人艦長でもあり。
「……球磨が1944年1月11日」
そして、1944年1月11日。
「沈むその瞬間まで艦長を務めていた人だ」
――――艦長として、「軍艦・球磨」が沈むその瞬間まで、乗艦していた人の名前だったからである。
「艦長だけじゃない、その時一緒に居た水兵たち、あの人達の事は一人一人、今でもしっかりと覚えている。あの日の出来事は、今でも鮮明に覚えている」
球磨はズボン裾をぎゅうと握りしめながら提督に言葉を連ねた。
「その日のインド海上の空は、雲一つない快晴で、絶好の訓練日和だった……以前から『敵潜水艦がマラッカ海峡で目撃された』という情報が入っていた為、それに備えるべく、マレーシアのペナンから『駆逐艦・浦波』と出港、対潜戦演習を行っていた……その訓練中、見張員の一人が潜水艦の潜水鏡が一瞬、海に出ていたのを発見した……直ぐにその事を上官である曹長に報告したが、曹長はそれを『見間違え』で済ませてしまった……それが運命の分かれ道だった……その判断を下した曹長も、悔やんでも悔やみきれないだろう……それから40分後、潜水艦から魚雷が発射された……直ぐに戦闘を告げるブザーが艦内に鳴り響き、球磨は取舵一杯で回避を始めたが……間に合わなかった……」
重苦しく、唯静かに嗚咽を洩らす様に、球磨は言葉を紡いだ。
「右舷艦尾に魚雷が二発命中……今度は、爆発した……後部機械室と艦尾は一瞬にして火の海に包まれた……皆一様に『諦めるな』と叫んで、懸命に消化活動を行っていた……でも予想以上に火の回りは早く、甲板に搭載していた爆雷に誘爆、そして大爆発が起き、杉野艦長は直ぐに『総員退艦』命令を下した……しかし幾ら球磨が祈っても、時間は待ってはくれなかった……命令の直後、球磨は艦尾から沈んで行った……それが、たった12分の出来事だった……あっという間だった……脱出に間に合わず、球磨と運命を共にした水兵も居た……」
冷たく震え、唇を噛み締め、悲しみを押し殺しながら、球磨は言葉を連ねた。
「そして球磨は……沈む直前まで、あの人達が抱いていた想いを……今でもしっかりと覚えている」
球磨が自身の過去を語っている姿。
提督の目に映る球磨の姿は、提督が知っている元気で勝気で一途な球磨の姿では無い。
「あの人達は、戦いに負けると分かっていながら必死に訓練をしていた……後援部隊とは言え、あの人達は、必死だった……あの人達は、希望を抱いていた……戦いの先が大敗だとしても、愛すべき親兄弟、愛すべき郷、自分たちにも護るべき世界があると信じて、あの人達は必死に戦っていた」
艦娘でも無く、ましてや一人の女性でも無い。
「大げさかもしれないけど、自分たちが相手に大打撃を与えれば、きっと相手も嫌になって、戦争を止めてくれる……自分たちにも護れるモノがあるんだ、と……例え自分たちが死んでも、きっと残された者たちが、自分たちの意思を継いでくれる……戦争に負けて退廃した世界を、きっと戦前や戦時中よりも良い世界にしてくれる……そして、自分たちが必死になって祖国を護ろうとして戦った想いがきっと引き継がれると……そんな希望をあの人達は抱いていた」
どこか虚ろげで儚く、今にも砕けてしまいそうな、脆弱な心を抱いた一人の少女の姿であった。
「それでもし、生きて終戦を迎えたら、戦死した仲間に花束を手向けよう。遺品や遺骨があれば、包んで故郷の家族の元へ帰してやろう。そして、それが済んだら、祖国の復興に尽くそう、と……あの人達は毎晩、夜遅くまで、将来の期待や展望、希望の想いを抱いて話をしていた」
戦禍のうねり、歴史舞台の裏、唯独り消えていく少女の姿。
人々が沈み行くその光景を、成す術なく眺めていた少女の姿が其処にはあった。
「そんな想いを乗せた中、球磨は沈んでいった」
そして球磨は、提督へと笑顔を投げかけた。
「その時一緒に運命を共にした138人の魂……その想いは、今でも球磨の魂の中に生き続けている」
球磨のその笑顔。
どこか空っぽで、重く、悲しげなその笑顔は、とてもではないが年端の行かない少女が浮かべて良いモノではなかった。
「……」
提督はその球磨の笑顔を見て、無意識にふっと球磨の元へと歩み寄る。
――――そして、そっと球磨の身体を抱きとめた。
「……てーとく?」
「……」
繊細で純白な絹織物でその身を覆い隠す様に、提督は己が純黒の軍衣で唯、一人の少女を抱きとめた。
少女の悲しみを掬い取る様に両の手を添え、少女の心が壊れない様に両の手で包み込んだ。
提督は唯、目の前に在るモノ、少女の心を、両の手で受け止めていた。
そして提督は、神さまに祈った。
――――願わくは、この少女の歩んだ赤黒い道程、そしてこの先、この少女が歩むであろう青黒い道程に、光あれ、と。
………………………………
「……ごめん」
暫くの後、提督は球磨の身体を離した。
そして赤く腫れ上がった目で提督は、球磨を見据えた後、球磨に対して頭を下げた。
「何を謝っているクマか?」
「いやさ……嫁入り前の女性に気安く触るもんじゃないし……」
「いい歳した男が何を生息子みたいな事を。流石に抱き付かれた程度では、何とも思わないクマー」
球磨は呆れる様に提督へ言葉を返したが、提督はばつの悪そうな顔の儘、言葉を続けた。
「でもさ……僕みたいなおじさんに抱き締められたって嬉しくないだろう」
「確かに、歳もちょっと離れすぎているクマ。まぁ、球磨は提督なんかよりも魅力と才能に溢れる男性を見つけて、提督をアッと言わせてやるクマー」
球磨の言葉に提督は、自然と零れ落ちた懐かしくも温かい頬笑みで、球磨の言葉を受け入れた。
「楽しみにしているよ」
球磨は目を細めてうんうんと頷き、執務室を後にしようと提督に背を向け、扉へと向かう。
しかし数歩の後、球磨はその場に立ち止まった。
「球磨……?」
「でも……」
その言葉と共に球磨は振り返ると、提督に向けて一つ、笑顔を投げかけた。
提督に投げかけられた球磨の笑顔。
その時の笑顔は、提督の心に焼き付き、この先決して忘れる事はないだろう。
「さっきは本当にありがとうクマ。正直、凄く嬉しかったクマ」
そう言って提督に投げかけられた球磨の笑顔には、真綿の様な貞潔が含まれていた。
「提督は人一倍優しいクマ。それだけは本当に誇っていいクマ」
そう言って提督に投げかけられた球磨の笑顔には、聖母さまの様な慈愛が含まれていた。
「球磨はそんな提督の事が一人の人間として尊敬できるし、球磨はそんな提督の事が大好きだクマ」
そう言って提督に投げかけられた球磨の真雪の様な笑顔で、提督は何かとてつもない存在に許された様な気がした。
………………………………
――――1630、日本国近海航路、海上警備ルート、地点E。
「ん~?」
「どうかしたの、北上さん? そんな怪訝そうな声を上げて」
「いやさー、なんかラヴコメ……にしては、えらくシリアスなエネルギーを感じた気がしてさー」
乾風は靡くのを忘れ、朔風は何処かへと身を潜めた、穏やかな冬凪の水界。
太陽は西へと傾き、海原と御空の境界線が黄昏色に滲み始めた中。
水平線上を滑っていく四つの影があった。
「なんだそりゃ? 今頃、球磨姉とアイツが仲良しこよしやってる、ってか?」
「それは多分ないにゃ。前にも聞いたけど、球磨ちゃんは提督の事、尊敬してはいるみたいだけど、恋愛対象って立場からすれば、これっぽっちも興味ないみたいにゃ」
艦娘・多摩を先駆けに、北上、大井、木曾の四人は、本日の近海航路の海上警備任務を終え、基地へと帰投する為、決められた巡回ルートを滑走していた。
「それに、一番どう思っているのか分からないのは提督の方にゃ」
「確かになぁ……いまいちアイツが球磨姉の事をどう思っているのか分からないんだよな」
木曾は腕組みしながら、提督の顔を浮かべ、その心の内幕を捜査してみたが、どれも真に迫るものでは無かった。
「……それを言ったら、提督が私たちの事についてどう思っているのかも……正直、分からないわ」
姉妹たちが話している様子を眺めていた大井は、顎に手を当てながら、不信感にも懐疑心にも近い表情を顔に張り付かせ、そして口を開いた。
「どゆこと、大井っち?」
姉妹たちの視線は全て大井へと注がれ、大井の次の言葉を待つ。
大井は一呼吸した後に、姉妹たちに自分の考えを述べた。
「……提督のあの目よ」
「提督の目?」
大井は自分自身の身体を両手で抱き締めながら、提督の優しげな表情を頭に浮かべつつ、確かめる様に口を開いた。
「そう。提督の私たちを見る目は、異性を見る目にしては、綺麗過ぎるのよ……イヤらしさと言うか、ねちっこさが全くないのよね。男の人の目線って、もっとこう……べたべたで、ぐちょぐちょで……」
「まぁまぁ、大井っち。流石にそれは提督や基地に居る皆に失礼だよー」
世の一般女性が述べそうな意見だが、これ以上は歯止めが利かなそうだと判断した北上は、大井を宥め、諭す様に言葉を投げかけた。
「……ふふ。冗談よ、北上さん」
北上の言葉を聞いた大井は、言葉を返す。
「基地の皆は結構、提督に似ている人達や清々しい程ド直球に感情をぶつけてくる人達が多いから、正直言って、私はあの人達の事が好きよ」
そして先程までの懐疑心が嘘だったかの様に、柔らかな笑みを一つ浮かべ、今では信頼感を持った眼差しで、提督や基地の皆の姿を思い浮かべていた。
「でも……それにしたって提督の目は綺麗過ぎるのよ」
「てか、なんやかんや言って俺たちとアイツはかなり歳が離れてるぜ……あの堅物司令官の事だし、単に俺たちの事を恋愛対象だと思ってないんじゃないか?」
提督について話を戻した大井に対し、木曾は言葉を投げかけた。
「私も最初そうだと思ったら……時々言葉で言い現せない程、熱の籠った目を私たちに投げかけてくるのよね、提督は……」
だが大井は、提督に対しての疑問を拭えずにいた。
大井は、ふう、と吐息を洩らし、海風に揺らめく自身の栗色の前髪を指で流しながら、目を細め、静かな表情を浮かべた。
「本当、何なのかしらあの目は……よくよく思い返してみたら、別に嫌な視線じゃないのよ……だけど、好きな人に見つめられた時みたいに、ドキドキもしないのよね……でも、何て言うか胸がぽかぽかするって言うか……」
「あっ」
「北上さん?」
頭に点灯した電球を乗せた様に、北上は唐突に声を上げた。
「提督の目で思い出した。あれだ、ちょっと前に大井っちと一緒にショッピングに行った事があったじゃん?」
「ええ。一か月前くらいの非番の時の事よね。北上さんと一緒に冬物の服を買いに出掛けて、お店で私はオリーブ色のオーバーコートを、北上さんは確かホワイトカシミアのマフラーを買ってたわよね……それで、一緒にお茶を飲んで……天気が良かったから、その帰り道に広い公園でのんびりと散歩出来て、とても楽しかったわ」
大井はその時の事、北上と一緒に可愛い服をきゃあきゃあと選び、北上と一緒に美味しいお茶と美味しいスイーツを嬉しそうに頬張り、北上と一緒に公園内を歩きながら、たわいの無い話を連ねられる日常。
細やかながらも大きな喜びを噛み締めていた事を、にこにことした表情で思い返していた。
「そうそう。それで、その公園には私たちの他に親子連れが居たじゃん?」
その言葉に大井は、あっ、と思い出した様な表情を浮かべる。
「ええ、そうね。確か、お父さんとお母さん、それに娘さんの3人で遊んでいたわよね。とても仲睦まじそうで、見ているこっちも何だか嬉しい気持ちになったわ」
「そう、その親子連れなんだけどさ……」
北上は一呼吸置いた後、にっこりとした大らかな笑みを掲げ、口を開いた。
「提督の目、あの時居たお父さんの目にそっくりなんだよねー」
「……おしゃべりはここまでにゃ。水上偵察機に敵影を捕捉したにゃ」
だが、その多摩の言葉に、意識が現実に引き戻される。
そうして皆一様に諦観した様な顔を浮かべ、多摩を見据えた。
「大物が釣れたにゃ」
しかし多摩は、その場に居た誰よりも諦観と無常、そして憂いを含んだ顔を浮かべながら、現実を述べた。
「あの時の姫級にゃ」
………………………………
――――1700、日本国近海航路、海上警備ルート、地点Eから北東10シーマイル。
『……』
斜陽の水平線、次第に金色から深紅へと色彩をグラデーションさせた海原。
その世界にポツリと、ひとりぼっちで、ボロボロの士官軍帽を被り、外套を翻す弧影が佇んでいた。
「……」
その孤影の他に敵艦はおろか敵潜水艦の影さえも見当たらない。
完全単騎状態の姫の姿が、其処にはあった。
「……」
仲間も連れず、唯独り佇む姫。
その姿はまるで、誰かを待っている様でもあった。
「……!」
唐突に一発の砲弾が、明確な殺意を持って、その姫の背後へと飛来する。
姫は外套をその身に纏わせながら、身体を一回転させ、その砲弾を易々と回避した。
直後、一つの砲撃音が海原一面に鳴り響いた。
そして姫は振り向き様、その砲弾の射手へと視線を向けた。
「よう、久しぶりだな」
参謀飾緒を肩口に飾り、裾先に北方迷彩をあしらった外套を纏う艦娘。
艦娘・木曾の姿を捉えた。
「……」
そうして、お互いの視線が遠距離より交差した。
木曾はふつふつと湧き上がる怒りに満ちていく目で姫を見据え、姫はどこか歓喜と困惑を孕んだ目で木曾を見据えた。
「俺は5500トン型の軽巡洋艦、球磨型・5番艦の木曾だ」
「……!」
木曾はくく、と笑い声を立てながら、遠くに居る姫に言葉を投げかけた。
その木曾の名乗りに、姫は何て答える訳でも無く、そっぽを向き、自身が被っている軍帽のつばをすっと摘み、目元を隠す様に深く被り直した。
「……」
そっぽを向いたその時の姫の表情。
姫はその時、苦虫を噛み潰した様にも気恥ずかしげな様にも見える表情を浮かべていた。
しかし遠目からでは、その姫の表情を伺う事は出来なかった。
「ずっとお前に会いたかったぜ?」
その為、姫の行動は、木曾からしてみれば「お前など眼中にない」と言った挑発行為にも受け取れた。
故に姫のその行動は、怒りに心を燃やした木曾の神経を逆なでするのには十分過ぎた。
「この前の球磨姉に対する落とし前……ここでつけさせて貰おうかっ!!」
木曾は咆哮を上げ、全魚雷発射管門と主砲砲塔を姫へと向け、そしてトリガーを引き抜いた。
海原に響き渡る、木曾の咆哮を反映させた砲撃音と雷撃により、姫との戦いの合図を告げた。
………………………………
『よう、久しぶりだな。俺は5500トン型の軽巡洋艦、球磨型・5番艦の木曾だ』
――――戦いの火蓋が切って落とされる寸前。
「……ええとさ、作戦司令室に本当の事を報告しなくて良かったのかな? 多摩姉ちゃん」
「そんな事したら一発で提督に止められるのがオチにゃ。それに、あの状態の木曾を止めるのは一苦労にゃ。まぁ、本当に危なくなったら煙幕を焚いて、木曾を無理やり引っ張って、そのまま撤退するだけにゃ」
多摩、北上、大井の三人は、木曾から少し離れた場所で、姫と木曾の様子を伺っていた。
多摩は作戦司令室へ、通常の防衛戦闘という名目で、姫との接触を報告した。
衛星からのモニタリングによって直ぐバレる嘘だと分かっていながらも、多摩はその事を伏せて報告した。
「それに戦闘が始まってしまえば、いくらでも言い訳がつくにゃ。それより……」
「……多摩姉さん?」
そして多摩は、姫へと視線を投げかけた。
「あの姫について、ちょっと確かめたい事があるにゃ」
敵を見る目にしてはあまりにも優しく、そして憂いを含んだ目で、多摩は姫を見据えていた。
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「沈めぇえええ!」
海原に響き渡る砲撃音と、波を切り裂いて進み、所々で水柱を上げる雷撃の最中。
木曾は遠距離を保ちながら、姫へと続け様に砲撃を放った。
「北上、大井! 砲雷撃戦、用意にゃ! 木曾のサポートに回るにゃ!!」
木曾の背後に居る多摩は、静かながらも遠くまで鳴り響く、鈴が音の様な声色で、北上と大井に命令する。
飛来した姫の砲弾の着弾予測情報を、姉妹たちに共有しながら、姫の行動に合わせた偏差射撃を行った。
「了解だよ! 40門の酸素魚雷は伊達じゃないからっ!!」
「了解したわ! 海の藻屑となりなさいなっ!!」
加え、北上と大井は、多摩の指示を受けながら移動し、姫の砲弾を躱し、波立てる様に雷撃の波状攻撃を姫へと浴びせ続けた。
「クッ……!」
姫は以前遭遇した時と同じく、身体を揺らし、緻密な動きで、その魚雷群と砲弾を回避していく。
しかしその姫の動きには、幾分かぎこちなさがあった。
「ほら、どうしたっ! 動きが鈍いぞっ!!」
「コノ……!」
その声に反応する様に、姫は木曾に対して偏差込みの砲撃を何発も撃ち込んだ。
「当たるものかっ!」
木曾は海風に振う外套を、華奢なその身に絡ませながら、一回転、二回転と、海原を回転し、姫のその砲弾を避ける。
静止した物体や小さく動く物体よりも、より早く、大きく動く物体に注視しがちである生物の目の性質を利用し、木曾は己の外套を使い、風に舞わせ、自身の的を広狭される事により、姫の精密射撃を尽く躱していった。
「考エル事ハ一緒カ……」
だが、それは敵である姫も同様であった。
姫は木曾と同じく、左右に身体を揺らし、或いは纏っている外套を囮に、木曾、多摩、北上、大井が其々穿つ、鋼鉄の雨霰を軽々と回避した。
「チッ……やるじゃないか……!」
――だが、これなら勝てる。
深碧の髪を揺らし、精悍な顔立ちで姫を捉え続けた木曾は、勝機を掴んだ事に対する笑みを浮かべた。
苦戦を強いられてはいるが、依然として木曾が優勢であるこの状況。
相手の動きが、以前よりも鈍い事もあった。
更に数では、圧倒的に木曾が有利である。
だがそれ以上に、今の木曾には姫の動き、そしてその思考が、手に取る様に分かった。
面白い程、姫の行動が、木曾には読めていた。
しかし遠距離での撃ち合いにより、お互いがお互いの砲撃と雷撃を回避し合うというこの状況。
一種の膠着状態に陥っていた。
――このままでは埒があかない。
お互いの砲弾と魚雷を枯らすまで撃ち続ける気は、木曾には更々無かった。
「多摩姉っ! これじゃあ、埒があかねぇ! 接近するから援護を頼むっ!!」
――球磨姉を殺ろうとしたお前だけは、絶対に倒す。
頭に血が上っていた木曾は、苛立ちを含んだ声で、姉たちに援護を要請した。
「……了解にゃ。北上、大井」
「……うん、分かった」
「……ええ、了解したわ」
そして木曾は姫に対して、進撃を開始した。
「頼んだぜっ!!」
その為、普段の木曾だったら絶対に気付いたであろう姉たちの様子に気付かなかった。
――――姉たちの声色に、憂いと困惑が含まれていた事に。
多摩、北上、大井のサポートを盾に、木曾は海面を之字滑走しながら、姫の元へと突貫した。
「ソコダッ!」
その木曾に対し、姫は海底から響く様な声を上げ、砲弾の雨を降らせた。
「甘いっ!」
砲弾を着弾ギリギリまで引き付け、針路を左右に瞬刻切り返す事で木曾は回避した。
「捉エタッ!」
「くっ……!?」
そうして中距離まで接近した木曾に対して姫は、之字での切り返しが困難なタイミングを見計らい、精密砲撃を行う。
「これくらいっ!!」
眼前へと迫った砲弾に対して木曾は、軍刀を振り抜き、高速移動状態により抗力が増した海面に、スキーのピッケルの様に刀を突き立て、無理やり方向転換する事で、これを回避した。
「ぐっ……!」
直後、木曾の右腕を砲弾が掠め、鮮血が飛び散った。
だが、木曾に言わせてみれば「そんな事は知った事ではない」。
「これならどうだっ!」
木曾は、背中の格納管から魚雷を片手で数本引き抜き、海へと落とし、近距離に迫った姫へと雷撃を仕掛ける。
そして木曾は、姫へと先行する手投げた魚雷に、自らの砲弾を叩き込んだ。
「ッ!?」
直後、木曾の背面を通過した北上と大井が放った魚雷群が、先程、木曾自ら信管を叩いた魚雷に誘爆する。
白く凍て付く海原一面に、氷柱が落ちたかの如く、無数の水柱が広がった。
そして、木曾と姫の姿が銀竹林の中に掻き消えた、その刹那。
「戦いは敵の懐に飛び込んでやるもんよ……なぁ!!」
「……!」
――――水柱を掻き切り、木曾は軍刀を真っ向から姫へと振るい落とした。
「クッ……!」
姫は咄嗟に迎撃砲撃を放つが、それよりも疾く走った木曾の刃筋を避ける事に集中した為、砲塔の狙いが僅かに掠れ、木曾の横顔を掠めた。
「……外したか……!」
双方ともにガチャン、と次発装填の重金属音が海に響き渡った。
お互い一発が生きている状態。
どちらかの近接攻撃が通るか、或いは距離が少しでも開いた方が、一撃を叩き込まれる。
「……だが、まだだっ!」
木曾は瞬時に姫との間合いを詰め、上段構えから、切っ先三寸を滑らせ、姫の胴体へと刃線を走らせた。
姫は身体を後ろに引き、木曾の刀光を自身の白銀の前髪に掠せながら、木曾の斬り下げを皮一枚で避けた。
「……チッ!」
木曾は更に踏み込んで、刃を返し、下段から上段へ、姫に対して刃波を立てた。
姫は半身を切って木曾の斬り上げをあしらった。
「それで躱したつもりなのか!」
更に続く木曾の攻撃、その横一文字の薙ぎ払いを、姫は身を翻して、大きく後ろに飛び退く事によって回避した。
――――この瞬間、姫の脚が海面から浮いた事により、一瞬だけ姫に、隙が出来た。
「食らいやがれえぇえええ!!」
そして木曾は、脚艤装の出力を全開にして、顔の横に刀を添える霞の構えから腕先を伸ばし、姫の顔を狙った刺突攻撃を放った。
しかしその突き攻撃は、やや大振りであった。
「……ナメルナッ!」
死中に活を求めていた姫は、海原への着地と同時、脚艤装の出力を上げ、向かってくる木曾の凶刃へと飛び込んだ。
そして姫は木曾の突き攻撃に合わせて、側面へと半身を切り、斜めに踏み込んで、凶刃を回避し、刀を添えた木曾の手元へと腕を伸ばす。
姫はこの儘、木曾の刃を持った手を取り、同時に空いた手で木曾のこめかみに打撃を加え、掴んだ木曾の手元を捻り、海面に叩きつけようとした。
だが、姫の手が木曾の手に触れるその一瞬。
「悪いな」
――――木曾はニヤリと笑みを浮かべると、その手に持った刀を離した。
「ッ……!」
木曾の手元から重力の儘、海面へと吸い込まれていく刀を尻目に、木曾の行動を察した姫は、直ぐに伸ばした手で鉄拳を作り、木曾の顎目掛けて打撃を加えようとする。
「徒手格闘は、何もお前だけの特権じゃない」
木曾はそれよりも早く、やや木曾の手元へと伸ばし切った姫の腕に、薬指を引掛けた。
「シマッタ……!」
そのまま姫の腕を接点に、木曾は姫の二の腕へと右手を引掛け、姫の勢いと木曾の脚艤装の出力を利用して手繰り、姫の身体を木曾の側面へと引っ張る。
そして、姫の側面を取った所で木曾は、姫の腕を離し、外套を纏わせながら一回転して、姫の背面を取ると同時。
「グァッ……!」
姫の背中に携えた艤装に滑り込ませる様に、姫の後頭部へと肘打ちを叩き込んだ。
次いで木曾は、続け様に姫の背中に後蹴りを、更に姫へと振り向き様に前蹴りを喰らわせ、姫を突き飛ばした。
姫は後頭部の激痛に耐えながら、木曾へと振り返ったが、既に勝負は決していた。
木曾の砲塔から放たれた直撃弾の衝撃により、姫は錐揉み状に吹き飛ばされた。
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「格闘術は、球磨姉にみっちりと仕込まれたんだ。そう易々とやられるかよ」
木曾は、仰向けのまま海面に浮かんでいる姫に言葉を投げ付けながら、沈みかけた軍刀を掬い上げ、一振り、海水を払い除け、鞘へと納刀する。
「敵ながら中々の腕だ。だが、球磨姉を殺ろうとした事については悪手だったな」
「……」
木曾は姫の元へと近付き、己が砲塔へと砲弾を送る。
重金属音が響き、何時でも発射可能の合図を木曾の砲塔は告げる。
そして木曾は、姫にトドメを刺すべく砲塔を、姫へと向けた。
その木曾の目に、迷いは微塵も無かった。
「……」
そして、その瞬間、木曾の顔を見据えた姫は。
「……」
――――ただ一つ、柔らかな頬笑みを浮かべた。
「……はぁ?」
その唐突な姫の頬笑みに、木曾は一瞬、面食った。
「……ふん」
――潔く諦めたか、それとも気でも狂ったか。
「あの世で笑ってろ」
そう考えた木曾は、思考を切り替え、その姫の笑みの意味を別段気にする事無く、背中に携えた砲塔のトリガーを引いた。
「……あ?」
しかし木曾の砲塔から、砲弾が発射される事はなかった。
「……ふ、ふざけるなっ!」
何故なら、その時の木曾の身体は、まるで金縛りにあったかの様に、次の行動に移す事が出来なかったからだ。
木曾は自身の脳裏に浮かんだ次の行動を、自身の身体へと強く連続的に司令を出し、実行に移そうとする。
しかしその司令は、木曾の心がぎゅうと司令を抑え付けた事により、実行に移される事は無かった。
「……こんな時に!」
叫び声を上げ、上手く身体が動かない自分自身に対し、苛立ちの言葉を叩き付け、木曾は無理やり身体を動かそうとした。
そう、木曾の頭の中では、次の木曾自身の行動を肯定していたが、木曾の心によって、次の木曾自身の行動が否定された。
「くっ……!」
――木曾は唇を噛み締め、心の中で叫んだ――。
コイツは敵だ。
コイツは深海棲艦だ。
コイツは球磨姉を殺そうとした奴だぞ?
そんな奴に俺は情けを掛けるつもりなのか?
敵に対してそんな感情を抱いた事が一度でもあったか?
無いだろ?
じゃあ、なんで俺の身体は動かないんだよ!
なあ、そもそもコイツのその顔は何なんだよ……。
何でコイツはこんなに満足げな表情を浮かべているんだ?
俺に殺されるのがそんなに嬉しいのか?
やめろ。
やめてくれ。
そんな笑顔を俺に向けるな!
その笑顔は……まるで……まるで……。
――球磨姉と同じ笑顔じゃねえかよ――。
「……球磨……ね……え……?」
それは無意識だった。
気が付くと木曾は、姫に対して己が長姉の名前を、ぽつりと漏らしていた。
「……やっと……話が出来たな……木曾」
そして姫は、木曾の呼び掛けに答えた。
その声色は、先程の姫の海底から唸る様な掠れた声ではない。
そう、聞き間違えようがない。
――――その声色は、木曾が知っている、紛れも無い自身の姉。
――――「艦娘・球磨」と全く同じ声色だった。
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艦娘や司令官たちから恐れられている、彼女の存在。
ある海域下での深海棲艦における司令塔の役割を担う存在である性質上、彼女の名前は「姫」と言う通り名で呼ばれていた。
――――そして彼女の在りし日の名前は、「軍艦・球磨」。
1944年1月11日にマラッカ海峡沖で沈んだ「軍艦・球磨」。
その成れの果ての姿が、其処にはあった。
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「そんな……嘘……だろ……球磨姉……」
「……」
青褪めた木曾は、海面に仰向けになっている軍艦・球磨の顔を見据えた。
対する軍艦・球磨は、申し訳なさそうな表情を浮かべながら、木曾の顔を見つめていた。
「なあ……どうして……そんな姿になっちまったんだよ……」
「……すまなかった」
「やめてくれ、謝るなよ……俺は……球磨姉の事を……確か……俺は……」
そして木曾は、身震いした。
自分が何をしようとしたのかを。
――俺は……球磨姉を……殺そうとした?
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「艦娘」は「艤装」にその身を守られている時に限り、「深海棲艦」と言う異形の怪物と同等、或いはそれ以上に渡り合える力を得る事が出来る。
しかし強大な敵へ立ち向かう事が可能になる艤装にその身を包まれている時でさえ、一つだけ守る事が出来ないモノがある。
――――それは「心」という、急所を突けばいともたやすく壊れてしまう、脆く儚いモノであった。
艦娘は艤装を取り払ってしまえば、それは只の「生身の女の子」である。
元来の木曾は、冷静沈着で男勝り、姉譲りの勝気な性格である。
どんな敵でも、どんな困難に陥っても、決して臆せずに立ち向かう事が出来るだけの、勇猛さを持ち合わせている。
例え、自分が沈む結果となりえても、それを受け入れるだけの覚悟も持ち合わせている。
戦闘時、私情を捨て去り、敵に情け容赦を掛けずに戦う、非情さも持ち合わせている。
その為、木曾が戦場、ましてや日常生活の出来事で動揺を覚える事は皆無に等しい。
だが、それはあくまで敵と対面した時や私事による、木曾にとっては日常の状況という場合である。
では、今の状況はどうだろうか。
自分が良く知っている実姉、その生き写しが敵として登場したというこの状況。
一体誰が、この非日常を想像できようか。
そして姫が、いくら「分岐したもう一人の球磨の存在」とは言え、木曾は自分自身の姉妹艦、己の姉を殺そうとした。
例え敵で、深海棲艦で、木曾が知っている姉とは別の存在であったとしても、敬愛する姉の生き写しである存在に、果たして刃を向ける事が出来るのだろうか。
刃を振り下ろす事が出来る程、姉である球磨に対しての木曾の愛は浅薄なモノだったのか。
別人で切り捨てられる程、木曾の心は強靭か、或いは既に壊れてしまっているモノだったのか。
もし、実の姉である球磨を殺せという命令が下された時、果たして木曾は命令に従っただろうか。
もし、実の姉である球磨を自身の手で殺めてしまった時、果たして木曾は動揺せず、また涙を禁じ得る事が出来たのだろうか。
木曾は、実姉の死さえも悼まない実妹だったのか。
――――そんな筈が無かった。
木曾は、自分が知っている球磨とは別人であると理解していても、「軍艦・球磨」が今浮かべている笑顔と、「艦娘・球磨」が時々浮かべる母親の様な柔らかな笑顔を思い出し、重ねずにはいられなかった。
今の木曾の目には、今目の前に居る存在が、実姉である艦娘・球磨として写っていた。
木曾は、その考えを頭で何度も否定したが、心で理解してしまった。
――――心で理解してしまった以上、もう止まらない。
そして木曾は、濁流の様に押し寄せる「球磨姉を殺そうとした」という自責の言葉を、頭の中でぐちゃぐちゃとリフレインさせた。
木曾は、身体の震えを止める事が出来なかった。
木曾は、何とも言えない嫌な汗が滲み、顔から血の気が引き、眩暈と胃液が逆流しそうな感覚を、手で口を塞ぐ事によって、必死に抑え付けた。
抑え付けた反動からか、木曾の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
言葉にしがたい悲しみや憐み、そして己の姉を殺そうとした罪悪感から、ぽろぽろと涙を零した。
それと同時に、木曾の身体から力が抜け、ばしゃりと海原に膝を突き、己が身を抱き、唯静かに嗚咽を洩らした。
――――その刹那、木曾と姫の周りを取り囲む様に、煙幕の帳が降りた。
………………………………
「撤退にゃ。敵の増援が直ぐ傍まで来ているにゃ」
煙幕の帳から水飛沫を上げて木曾へと近付き、海原に涙を落とす木曾の肩を抱いたのは、2番目の姉である艦娘・多摩であった。
「……多摩……か?」
「そうにゃ。球磨型軽巡洋艦の2番艦、多摩だにゃ」
軍艦・球磨は、孤独を抱いた表情を浮かべ、多摩に対して問いかける。
多摩は浅紫色の髪を揺らしながら姫を一瞥し、静かな口調で軍艦・球磨の問いかけに答えた。
「……そうか」
軍艦・球磨は静かに頷き、目の前で弱々しく嗚咽を洩らす木曾の頬へと優しく触れる。
木曾はその手を払う事もせず、静かに自分の両手を軍艦・球磨の手と重ね合わせた。
「……すまなかった、木曾を頼む」
「……言われなくてもそうするにゃ」
刹那、遠距離から煙幕に直撃しない様な形で、砲弾の雨が降り注いだ。
「……それと、お前たちに一目会えて嬉しかった。北上と大井にもよろしく頼む」
「……分かったにゃ」
深海棲艦の増援が間近に迫っていたのである。
もはや三人には、一刻の猶予も残されていなかった。
軍艦・球磨は、先程まで触れていた木曾の頬から手を引いた。
「……煙幕が晴れる前に早く行った方がいい。私の仲間が直ぐ傍まで来ている」
「……木曾、行くにゃ」
「いやだ……まって……待ってくれよ……!」
木曾はしゃくり上げながら無理やり言葉を発し、自分の頬から離れた軍艦・球磨の手を握ろうと、手を伸ばす。
「木曾っ!」
「ぐっ……!」
しかし多摩は、木曾の行動を静止させる為、木曾の背中に携えた艤装の横から腕を差し込み、羽交い絞めで、木曾の華奢な身体を拘束した。
「……さよならにゃ」
多摩は、軍艦・球磨に別れを告げると、木曾を抱きかかえる様に拘束した儘、脚艤装の出力を上げた。
「離してくれっ! ……球磨姉ぇ! 球磨姉ぇえええ!!」
そうして引き離されていく木曾の目に映ったのは。
「……さよならだ」
――――満足げに木曾へと投げかけられた、軍艦・球磨の笑顔だった。
………………………………
「……お前の言った通りだった」
気が付けば日は没し、辺り一面が濃い青い光に包まれ、水平線が薄暗い虹色を描いていた。
海面に仰向けになった軍艦・球磨の周りを、部下である深海棲艦たちが、おろおろと心配そうな顔を浮かべ、軍艦・球磨の事を見つめていた。
「多摩は猫っぽくて、北上と大井はとても仲が良さげだった。そして木曾は、凛々しく、威勢が良くて、それでいて……くく……なるほど、確かにお前の言った通りだ」
軍艦・球磨はくつくつと笑いながら、在りし日の事を静かに回想していた。
「……本当、木曾には悪い事をしてしまった……」
軍艦・球磨は、つんつんと心配そうに自身の脇腹をつつく、まるで魚の様な形をした深海棲艦、「駆逐イ級」の頭をそっと撫でながら、日が没し、藍色に染まった大空を、唯茫然と眺めていた。
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――――1800、日本国近海航路、海上警備ルート、地点A。
「頼むよっ! 離してくれ、多摩姉ぇ!! アイツは……! アイツは……!」
木曾を拘束していた多摩は、安全圏まで離脱したのを確認すると、肩が外れそうな勢いで暴れる木曾を離す。
多摩は、それでもなお戻ろうとする木曾の腕を引っ張り、正対した木曾の肩を両手で強く掴んだ。
「……離せよ、多摩姉……!」
「……分かってるにゃ」
多摩は自身の目を、木曾の涙を浮かべた目と重ね合わせた。
「多摩……姉……?」
そして悔しそうな声を洩らし、歯を食い縛る、実姉である多摩の様子に、強張った木曾の身体から次第に力が抜けていく。
「……生き物には良くも悪くも其々動きの中に癖みたいなものがあるにゃ。だけど生き物は、その癖を最大限に生かす事によって、その生き物にとっての癖は、最大の強みとなっていくにゃ。そして人型は、野生動物以上に、動きの違い、その個体差が顕著に現れるにゃ」
「じゃあ……やっぱり……アイツは……」
恐る恐る口を開いた木曾に対して、諭す様な口調で持論を展開した多摩は、一呼吸の後、結論を述べた。
「あの姫の動き……砲弾や魚雷を躱すあの動きの癖は……紛れも無く『球磨ちゃん』の癖だったにゃ」
「……!」
その多摩の言葉に木曾は、悲しみと無力感に耐え切れず、力なく首を前に垂れた。
「木曾」
「……大井姉」
殿として木曾と多摩を追随していた大井が、項垂れた木曾へと近付くと、優しく木曾に呼びかけた。
木曾は、それに答えるかの様に、大井の胸元へと倒れ込み、身体を預けた。
「分かってんだよ……アイツは俺の知っている……球磨姉じゃないって事は……でもさ……でもさ……!」
「……ええ」
ぽつりぽつりと悲しみを零す木曾を、大井は木曾の頭を自身の胸元に優しく引き寄せて、そっとその頭を撫でた。
「俺には、撃てないよ……いくら別人だとしても……大好きな……球磨姉の事を……!」
「……よしよし、辛かったわね」
そうして大井の胸を借りてすすり泣く木曾を、大井は強く抱き締め、そして木曾の背中をぽんぽんと、子供をあやす様に優しく叩いていた。
「う~ん……本当……これからどうすんのさー……多摩姉ちゃん?」
その大井と木曾の様子を見ながら、同じく殿として追随していた北上は、思い悩んだ表情を浮かべ、隣に居る多摩に尋ねた。
「どうもこうもないにゃ」
多摩は大きな溜息を吐き捨てると、北上へ憂いを含んだ表情を投げかけ、そして粛たる声で答えた。
「もうこれは多摩たち、姉妹の問題じゃないにゃ。他の誰でもない、球磨ちゃん自身の問題にゃ」
続き
球磨「面倒みた相手には、いつまでも責任があるクマ」【後編】