後輩「また死にたくなりましたか?」【前編】
◇
家に帰って、ゲームに参加して、お菓子を食べて、千咲の課題を少し見た。
時計の針がてっぺんを指すころ、千咲と杏、なぎさと姉の順番で女たちが風呂に入ったようだった。
俺はその後、お湯を入れ直すのも時間がかかるのでシャワーで済ませることにした。
女の子の入った後の風呂、字面だけ見ればそそるようなシチュエーションだったが、なんか……あれだし。
急いでシャワーを済ませて、風呂場から戻ると、リビングには誰の姿もなかった。
もうみんな寝入ったのだろうと、ベランダに出て、音楽を聴きながら、風呂上がりで火照った身体を冷ますことにした。
『透明少女』だったり、『スターフィッシュ』だったり、『白い夏と緑の自転車赤い髪と黒いギター』だったり……。
なんだか夏っぽい曲が連続で流れた。
感傷に浸りつつ、手元にある緑茶を飲んで、空を見上げる。
月は半月で、星が綺麗に目に映る。
周囲に家はあるが、マンションやビルがないからか、ここら一帯は星が見えやすい。
耳に聞こえてくる歌詞を思わず口ずさんでいた。
べつに誰にも怒られはしないだろうけど、一応小さな声で。
そういえば、この前電車を待ってるときになぎさに見られたな、と思い出して周囲を見渡した。
横を見る、誰もいない。
振り向けば、奴がいる。
いや、誰だろう。
リビングの照明は消してしまったのでこちらからは誰であるかは見えない。
「誰かいる?」
とりあえずそう訊くと、その人物は網戸を開けた。
「誰って、私っすよー先輩」
普通になぎさだった。
「……おい、さっきの聴いてた?」
「はい、ばっちり。話かけようとしたんすけど、楽しそうだったのでつい」
また恥ずかしい経験をしてしまったのか俺は。
「……お前忍者かなにか?」
「このやり取り前もやったっすねー」
ふふふ、と笑いかけられた。
お約束、ということだろうか。
「もう寝たとばかり思ってたんだけど」
「そのつもり……だったんですけど」
「けど?」
「先輩が部屋に来ないので迎えに来たんすよ」
「……あぁ、そう」
口先では納得したような言葉を放ったが、なぎさの発言には違和感を感じた。
"俺''が部屋に来ない?
なんなんだろうか。
寝るとしたら姉の部屋にだろうし、俺を呼びにくる必要なんてないはずだ。
「どうしてなぎさが?」
「最初は女子みんなで寝ようってなって」
「うん」
「お風呂から上がって楓さんと部屋に行ったらもう杏と千咲先輩が楓さんのベッドで先に寝ちゃってて」
「それで?」
「楓さんは床で寝るからいいけど、お客さんにそれは申し訳ないって。
先輩の部屋を使うようにって言われたんです」
「……」
「で、入ったはいいんすけど、なんだか落ち着かなくて。
先輩に許可も取らなきゃな、って思って呼びに来ました」
姉は馬鹿なのか? 敷布団なり、探せば和室とかにあるだろうに。
というか俺の部屋、ベッド一つしかないんだけど。
なぎさはどう考えていたんだろうか。
「それって、一緒に寝るってことか?」
「ええっ……と……。
い、いやそれは……それは、まあそういうことに、なるかもしれないっすけど」
手をわちゃわちゃと動かしながらそう言った。
おそらく何も考えてなかったんだろう。
いや……普通に考えて一緒に寝るわけないんだが。
「姉さんは何て言ってたの?そのことについて」
「…………どうせヘタレだから何もして来ないだろうし大丈夫だと思うって」
なんだそりゃ。
いや、間違ってないけれども。
「あのな、さすがにこの歳の男女が一緒に寝るってダメだろ」
「……ま、まあそうっすよね」
あっさり納得してくれた。
まぁしてくれないとそれはそれで困るのだが。
「俺はソファで寝るから、ベッド使って早く寝なさい」
「あっ、はい」
しっしっ、とあっちに行くように手を振って、正面を向き直した。
が、なぎさが帰るような気配はしない。
まぁ放置してればじきに帰るだろうと、また音楽を聴こうとイヤホンを耳にかけた。
少しの間があって、突然後ろから肩を掴まれた。
慌ててなぎさの方を見る。
なぎさは何かを誤魔化すように、斜め下を向いて俯いている。
「わ、私は先輩と一緒でも別に構わないというか……」
暗いせいか表情はよく見えない。
でも声音だけでそれが緊張しているものということが分かる。
「……」
「先輩なら、私も、その……」
途切れ途切れながらも、その言葉は俺の耳に響いてくる。
どうしてそう言うのか、俺にはわからなかった。
だが、良いって言ってるなら俺も良いじゃないか、なんて思考には到底至らない。
「……お前がよくても、俺がだめだ、ごめん」
多分、一緒に寝たいと言っても、下心とか、そんな考えで言ったのではないと思う。
けれど、何があったとしても、なかったとしても、それを我慢できる気がしなかった。
「そう、ですよね。……ごめんなさい、先輩」
「いや、謝まるなよ。……俺はもう少ししたら寝るから。じゃあ、おやすみ」
「は、はい。わかりました、おやすみなさい先輩」
なぎさはそう言うと早足でその場から立ち去った。
二階にあがったのを確認してから、薄地の毛布を持ってきて、ソファで寝ることにした。
当然すぐには寝付けない。
さっきまでのことが夢であったかのように、頭の中でぐるぐると回っていた。
寝ぼけてたのかもしれないし、そうでもないかもしれない。
都合の良いように捉えれば、そういうことかもしれない。
……でもまぁ、明日になったら今まで通り接してくれるだろう。
あとでなぎさに今夜のことを言及しても困らせるだけなのは目に見えてることだし。
俺はそのままでいよう。
なぎさもきっとその方が喜ぶだろう。
そう考えて、目を閉じることにした。
◇
翌朝、誰も起きてきていない時間に目を覚ました。
……身体が痛い、全身が痺れている。
ソファで寝るとここまで疲れが取れないのか。
足元に落ちていたスマートフォンを拾い上げて、少しの間画面を見ていた。
コウタからのLINEの通知があった。
画像が添付されていたのでそれを見ると、ハウステンボスと、その前に立っているコウタの写真だった。
たしか長崎県だった気がする、あれ大分県だっけ……?
まぁ、どっちでもいいか。
長らく未読にしてしまっていたので早朝ではあるが軽く返信した。
昨日うちに来れば吉野さんと遊べたのに……ちょっと残念だな。
もう少しだけそっちにいると言っていたから、来週花火するとしたら誘うとしよう。
ソファから起き上がって、水をコップに注いでから椅子に座った。
あまり寝ていないせいか、頭がぼーっとする。
寝起きにはあまり強くない。
コップの水を飲み干したときに、リビングの扉が開いた。
千咲が起きてきたようだった。
「おはようございます、今日はやいんですね」
俺を見るなり挨拶をされた。
どうやら千咲の目は完全に覚めているらしい。
あたりまえか、いつも早いし。
「おはよう」
「……はーくん、寝癖ひどいですよ?直してあげましょうか?」
千咲はそう言って俺の髪を撫でてきた。
手櫛、ちょっとこそばゆい。
正常な思考をしていたなら自分で直してくると言ってこの場を立ち去るはずなのに、寝ぼけていたからかそういう気にはならない。
俺の髪を撫でながら、千咲は話を始める。
「この前あげたコップ使ってくれてるんですね、ありがとうございます」
「あー……この前のね、ありがとう、うん」
「……そういえば、なぎちゃんどこに行ったか知ってますか?朝起きたときにはもう居なくて」
少し考える。
でも頭がはたらかない。
たしか、きのう俺は……。
「なぎさは、俺の部屋にいるよ」
「……え?」
なぜだか千咲は驚いたような顔をしていた。
俺なんかまずいことでも言ったか?
考えてみても、理由は浮かばない。
千咲は俺の顔色を伺うようにこちらを見つめながら黙ってしまった。
なんでだろう?と困っていたときに姉が起きてきた。
「おはよ、二人共。あんた結局なぎちゃんと一緒に寝たの?」
姉がニヤニヤしながらそう訊いてきた。
一緒に、いっしょに。
…………一緒に?
落ち着いてみると、普通にまずい事態だった。
なぎさが俺の部屋にいるなんて言ったらそう思われても仕方がないじゃないか。
千咲のあの妙な反応にも頷ける。
「はーくん、どういうことですか」
千咲が詰め寄ってくる。
近い。
「いや俺は、ここで寝たから」
「ほんとですか?楓ちゃん」
俺の信用はないらしい。
「まぁ、ハルならそうするって思ったけど、ここまでとは……」
「なんだ、ここまでって」
「一緒に寝るくらい、いいじゃないのよヘタレ」
「そんなのよくないです!」
よくないだろ、と俺が反応する前に千咲がそう姉に言った。
姉は突然千咲が反応したので驚いたようだった。
千咲が声を荒げるのをあまり見たことがなかったので、俺も少し驚いた。
「あ…………ごめんなさい」
千咲はすぐに謝った。
それを聞いた姉は、千咲の手をとった。
「……ちーちゃん、朝ごはん作るから手伝って」
姉は露骨に話題をそらした。
あとで困るのは俺の方なのに。
千咲は俺をちらっと見て、姉についていった。
「あ、あとなぎちゃんを起こしてきて?」
姉がキッチンからそう言うと、千咲がまた俺のほうを見てきた。
が、気にしてはいられない。よくわからないことであるし。
「……杏は起こさなくていいの?」
「杏ちゃんは飼い犬の散歩で早く帰っていったからもううちにいないよ」
あぁ……そういえば。みたらしの散歩か。
あとラジオ体操も平日だからあるよな、ご苦労様です。
ずっと見つめてくる千咲の方をできるだけ見ないようにして、自分の部屋に向かった。
というか、また気まずい感じになってしまった。
何度経験しても慣れない。
俺からまた弁解をしなければならないだろう。
まぁとりあえず、なぎさを起こしに行くとするか。
◇
部屋の扉を開けると、俺のベッドになぎさが横になっていた。
どうやらまだ寝ているらしい。
なぎさはぬいぐるみを抱えて気持ちよさそうに寝ている。
起こすのも悪いから少し見ていることにした。
何か抱かないと寝れないのだろうか。
じゃあ昨日寝てたら……いや、やめておこう。
ベッドの横に座って、なぎさの髪を撫でた。
自分でも何をしてるのだかわからなかったけれど、なんとなくそうしていた。
二、三回撫でた所でなぎさが「んっ……」という声を漏らした。
慌てて距離を取る。
どうやら寝言だったらしい。
まだ何か言っている気がして、耳を近付ける。
「は…………………だ………………」
よく聞こえなかった。
でも、少しうなされているような感じだ。
改めて近くに寄って見つめてみる。
整った顔立ち。
少し長めの艶やかな髪。
ちょっと触れただけで折れてしまいそうな細い身体。
普段は快活な彼女が、まるで綺麗な人形であるかのように、俺の目に映る。
いつも気にして見ていなかったけれど、俺はそのとき、確かになぎさに見惚れていた。
しばらく見つめていたら、なぎさが目をごしごしと擦って、身体を起こした。
少しきょろきょろと辺りを見渡す。
ーーー目が合う。
なぎさはえへへ、と笑いながら俺に抱きついてきた。
ベッドの上から座っている俺に抱きついてきたので、必然的にベッドの下に落ちる。
俺が押し倒されるような体勢になってしまった。
「な、なぎさ?どうした?」
頭の中が混乱していて、引き剥がすことができない。
というか、いろいろ当たってて身動きが取れない。
「ふふ、えへへ」
「おい、ちょっと」
「ぎゅーー、あはは」
なぎさは緩い表情で笑ったあと、満足したのかまた寝てしまった。
初めて見るような表情だった。
普段はずっとキリッとしているからだろうか、かなり幼く見えた。
なぎさは俺に抱きついたまま寝ている。
この状況、どうしたものか。
姉でも千咲でも、これを見られるとかなりまずい。
できるだけ早くこの状況を変えなければならない。
朝食の準備を済ませたらこっちでなにをしているのか見にくるかもしれないから。
…………仕方がないので、無理やり起こすことにする。
なぎさの肩を掴んで左右に揺すると、目を覚ましたようで、俺の顔をじっと見てきた。
「せ、先輩? どうしたんですか、って……えっ、あのこれは……」
見るからに混乱している様子だった。
でも抱きつかれたまま、そのままの状態でいた。
「うんと、起こしに来たらおまえに……抱きつかれてこうなった」
簡潔に、そう言った。
嘘はついていない。
なぎさを見ると、耳の付け根まで真っ赤になっていた。
「わ、私……寝惚けてて。ご、ごめんなさい」
「いや、大丈夫」
「え、えっと……」
「あのさ」
「は、はい! なんでしょう!」
「ちょっとどいて、この体勢きつい」
「あ、わかりました」
抱きしめられていた手を外してくれた。
混乱しながらも、外さなかったし、なんだったんだろう。
立ち上がって、呼吸を整える。
息もつけないような時間だった。
「朝食、もうできてるだろうから下行くぞ」
なぎさはふぅ、と胸に手を当てて深呼吸をした。
そして、自分の顔を二、三回パンパンと叩いたあと、いつもの表情に戻った。
「はい、行きましょう、先輩」
なぎさの態度は戻ったが、俺はさっきの感触が忘れられない、あんなの狡いだろ、反則技だ。
やわらかい……というか薄着だから視線のやり場にも困ったし。
やばかった、というひと言に尽きるような、そんな朝のひと時だった。
◇
リビングに行くと、姉と千咲がもう食べ物を並べて座っていた。
着くなり、遅い、遅いです、と口々に言われた。まぁしょうがない。
顔を洗いに行ったなぎさが戻ってきて、四人揃って食事をとることにした。
並びは、俺と千咲が隣。向かいに姉となぎさだった。
俺が席に座ると、千咲が椅子を近くまで寄せてきた。
「……近くない?」
「いいんです」
「いや、千咲」
「いいの」
「……わかったよ」
気圧された。というか目が怖かった。
姉となぎさは、俺らを気にする様子もなく、二人で話をしていた。
「千咲、朝のこと、姉さんから聞いた?」
「聞きました。勘違いしちゃってごめんなさい」
「いやいや、俺の方も寝ぼけててちょっとな」
テーブルから食べ物を取ろうとして右手を伸ばすと、千咲の身体に当たってしまった。
びくっ、と千咲の身体が勢いよく跳ねる。
俺も慌てて手を引っ込めた。
そんな様子を見かねてか、姉がこちらに話を振ってきた。
「ねぇ、あんたたちは食べた後どうする?」
千咲の方を見る。そっちから答えてくれと目線で言った。
「私はー、このあとも一日中暇ですね。とりあえず一回家に帰りますけど、また遊ぶなら戻ってきますよ?」
千咲が、どうぞ、と俺の前に手を出した。
「俺はまた寝たい、正直疲れ取れてないし腰痛い」
今の千咲といても、なぎさといても、考えすぎてしまうような気がするし、一度気持ちをリフレッシュしたかった。
「……なぎちゃんは帰るみたいだから、ハル送って行ってあげて」
「わかった」
「よろしくお願いします」
なぎさが俺の方を見てそう言った。
すると、隣にいた千咲がテーブルの下で俺の腕を握ってきた。
なんのつもりだ、と千咲を見ると、俺のことは見ずに、姉のほうを見ていた。
すぐに腕を振りほどきたかったが、そうはできなかった。
動いたら姉に「なにしてるの?」と言われることは目に見えてるし。
「そんでちーちゃんは、私と買い物行こっか、買いたいものとかあるでしょ?」
「そうですね…………そうします」
千咲が頷く。
なぎさはなにか言いたげな表情を浮かべていた。
目が合うと、すぐに下を向いて目線を外された。
なんだか、もどかしい気持ちになった。
◇
朝食を済ませたあと、千咲と姉は早々と出て行ってしまった。
千咲は何か喋りたそうにしてたが、姉が「はい行くよー」と引っ張って出て行った。
当然なぎさと家に二人きりになった。
洗い物を少し手伝ってもらって、部屋の掃除などをしてる間は漫画を読んだりとかゲームをして待ってもらった。
「どうする?杏呼んでまたゲームする?」
「どうしましょうかねー、先輩はどっちがいいっすか?」
質問を質問で返すな。誰かに怒られるぞ。
俺は寝たい、いろいろ忘れたい。
……いや、忘れたくはないか。
「まあ今日バイトあるし、お開きにするか」
「はい、了解っす。送るの途中まででいいっすよ」
「わかった、じゃあ出るか」
その言葉の通り、なぎさの家と俺の家の中間地点くらいまで送って行った。
不思議となんでもないような会話が続く。
けれどお互い今日の朝の出来事については触れなかった。
お互いを探るように、というか。
途中、自動販売機の前を通りかかって、シュークリームジュースは邪道かどうか訊いた。
「普通に飲めますね、王道です。夏の邪道はスイカソーダです!」
と返された。
まぁ、確かに。わからなくもない。普通にまずいと思うし、あれ。
中間地点まで到着して、杏によろしく、と言って別れた。
朝まで一緒にいて、また夕方からバイトで顔を合わせるというのは少し慣れないように感じた。
家に帰って自分のベッドに寝転がる。
一応掃除はしたけれど、数時間前までここでなぎさが寝ていたのだと思うとなんだか寝られなくなってしまった。
仕方なく和室から敷布団を持ってきて、それに寝ることにした。
テレビを消して、読みかけの本を閉じる。
目を瞑って思考を整理する。
驚くこととか、不安になるようなこともあったけれど、不思議と気分は落ち着いていた。
疲れもあったのかもしれない。
そのまま俺は、普段より安心して意識を手放した。
◇
その日の午後、バイトまでの時間で姉から召喚された俺は、近くのショッピングモールに来ていた。
五時間程ぐっすり眠れたからか、かなり疲れは取れている。
千咲はなぜか朝のように俺の方をじっくりとは見てはこなかった。
こちらとしてはありがたい、のだがどういう心境の変化なんだろうか。
浴衣を選んでくれ、と姉と千咲に言われる。
夏祭り用に買いたいという名目で。
レンタルとかでいいんじゃないかとも思ったが、そこまで口に出すことはしなかった。
千咲に手を引かれて、浴衣が売っている店の中に入る。
あまり混んでいないけど、カップルばかり。
ちょっと前もこんなことあったな。
そういえば、姉は勉強しなくていいのだろうか?
「姉さん、塾とか行かなくていいの?」
「……あぁ、ちょっとね」
話の続きを待つ。
が、続きは一向に言われなかった。
「ま、まぁ少し気になっただけだから」
「うん、ありがと」
フォローを入れて、感謝される。
普段から真面目な姉さんがサボりとも言える行動をしているのは正直かなり気になった。
……けれど話したくないのなら仕方がない。
カマをかけるようなやり取りになってしまったが、何かあったというのは確からしい。
この前父親と何か話したのか?
それとも、俺とのあの会話で?
「ちょっと……」
「どうした?」
少し考えていたら、後ろから千咲に話しかけられた。
「選んでくださいよ、そのために呼んだんですから」
「おう、えっと……」
二着の浴衣を見せられた。
どっちかから選べ、ということだろう。
水色にツバメの柄のデザインと、ピンクに撫子のデザインのものだった。
「着付けとかできるのか?」
「お母さんにやってもらいます」
うん、派手さはあまりない。
千咲のイメージから言うと、後者の方が似合っている気がする。
どっちにしろ似合うとは思う。
「……どっちでも似合うと思うんだけど」
「あのですね、それは一番駄目な解答ですよ?ちゃんと選んでください」
千咲はわざとらしく怒ったように見せてくる。
もう一度見比べてみる。
ポップさのあるピンクの方がいつも着ているような感じだ。
ツバメ柄はどちらかといえば……。
「そっち、ピンクの方が俺はいいと思うな」
「……」
黙られるという反応は予想しなかった。
自分から選べと言ったはずなのに。
返答を待っていると千咲は再度、自分の持っている二つの浴衣を見比べ、うーん、と唸っていた。
「……自分の好みの方でいいんだぞ?」
「……いや、私もこっちがいいって思ってて。これにしますね!」
そう言って走って会計をしに行ってしまった。
姉はというと、白地に紫の浴衣を買っていた。
浴衣に合わせる小物だとか髪飾りも買っていた。
いちいち値が張るようで、少しお金を貸した。
それからフードコートで少し遅めの昼食をとった。
いろいろ買った後に、帰り道で二人と別れる。
今日も泊まります、と千咲は俺に言ってきた。
俺と姉的には歓迎なのだが、大丈夫なのだろうか。
まぁ昨日はすぐ寝てたみたいだし、俺が悩むようなことではないか。
◇
「あのさ……好きってなんだと思う?」
バイト終わりに、お姉様系先輩がそう問いかけてきた。
なぎさと二人で帰ろうとしていた所を呼び止められ、コンビニの前で話を始めた。
「……なんかあったんですか?」
まだ内容は語られていないが、きっとこの前の続きで間違いないだろう。
俺は視線でその答えを促す。
彼女は何かに躊躇したのか、口を開きかけて、閉じた。
彼女は「まぁ、話してもいっか」と呟いて、頬を軽く掻いた。
「このまえ、大学の仲良いメンバーで海に行くって話したじゃない」
「はい」
「それで……。余り物の私ともう一人をくっつけようとしてるって」
「聞きました。で、どうしたんですか?」
「そのもう一人にさ、『君のことが好きだ』って告白されたの。
もちろん私は好きじゃないから断ろうと思ったんだけど、仮に断るとグループ内の空気が微妙になるし……。
他のカップルたちはこの際だから付き合っちゃえ、なんて言って私に断るなんて選択肢が無いみたいな扱いをしてきて…………」
「……」
「……問い詰めたらさ、最初から、そういうつもりだったんだって。
そいつが私に告白する場を作るために、海に行くことを提案したって」
話しながら、語調が少しずつ強くなっていく。
なんとなく、そういう事が起こるかもしれないとは聞いたときに感じていた。
……ひとつの可能性として、ぐらいの考えだったけれども。
でも、先輩は気にも留めていない様子だったから言及するのは避けておいた。
「それで、先輩は断ったんですか?」
彼女は身体の前で手を強く握りしめる。
「考えさせてって言った。断ろうと思ったけど、その……」
続きを言わなくても、言いたいことはわかる。
彼女の言うとおり、断ったら空気が悪くなるし、旅行中なら尚更それが顕著に感じられるだろう。
「でも無理に引き伸ばすと……」
「それはわかってる! でも……その時はもうそのことを考えたくなくて」
「それは、そうですね……」
困った。
こういうときにどう言葉をかければいいのだろうか。
無責任なことは言えないし、かといって下手に慰めるような事を言うのもなんだか白々しいような気もする。
けれど、俺にアドバイスを求めているわけではなさそうだし……。
困っていると、突然隣にいたなぎさが口を開いた。
「あの……言いにくいことかもしれないですけど、その人は、前々から好きみたいなアクションというか……振舞いをしてたんですか?」
先輩は、ちょっと考えるようにして、夜空を見上げた。
「いやぁー、どうだろうね……。
私あんまそういうの気にしてなかったから。
けど、今まで言ってこなかったってことはそういうことじゃないのかな。
ちょっと前には彼女いたしね、そいつ」
「私は……」
なぎさは俺より一歩前に出て、先輩の近くに寄った。
ちゃんと聞いて欲しい、とでも言うように。
「……私は、そんなの偽物だし、狡いと思います。
その、成功率を上げるためにムードをつくることはあるかもしれないですけど、周りの人たちを使って断りにくくして、なんて……」
卑怯だと思います、となぎさは言った。
俺ら二人にはわからないことだとは思う。
そのグループ内での関係性もあるだろうし、俺らの予想以上に深刻なことだったりするかもしれない。
それを卑怯と確定してしまうのも早計かもしれない。
好意は前から多少なりともあったのかもしれないし、他のメンバーに流されて、ということだってあるかもしれない。
けれど先輩は、そんななぎさの顔を納得したように見て深く頷いた。
「……そうだね。本当に好きだったら、もっと真正面からぶつかってきてほしいし、そんな流れで付き合ったとしてもお互いにとって良くないと思う」
先輩は、わざとらしく真面目な顔を作って、なぎさと俺の顔を交互に見たあとに、話を続ける。
「……はっきりと断ることにするよ。それで空気が悪くなったとしても、それはそれだよね。
私は、そうだね……はっきり言える自分が、好きだから」
その通りです、と言ってなぎさは先輩に笑いかけた。
先輩もいつもの様子に戻ったようで、なぎさに笑顔を向けている。
「ありがとね、なぎさちゃん。あと、相澤くんも」
なぎさはともかく、俺には感謝されるようないわれはないと思う。
「いや、俺は何の役にも立ってないですよ」
先輩は、完全にこちらに向き直ると「それでも……」と言って俺に話を聞くように優しい声音で話し始めた。
表情からは真摯さが受け取れる。学校の先生が説教をするときみたいな、そんな感じで。
「それでも、ね。話を聞いてくれただけで嬉しかったから、ありがと」
……納得はしていないが、そこまで言われてしまっては素直に受け取っておく方が良いだろう。
「……はい、どういたしまして」
◇
帰り道を歩いている途中、俺はついさっきのことを考えていた。
意外だな、と。
先輩の話はわかる、なんら意外なことでもない。
どこかに男女のグループがあれば、恋愛事のトラブルが起きたっておかしくもない、むしろあって普通だとも感じる。
俺が意外だったのは、その話を聞いたなぎさの行動だった。
彼女は、その先輩の周りで起きた出来事に対して、『卑怯』『偽物』『狡い』と強い言葉で否定した。
自分の身近で起きたことのように。
自分が経験したことのように。
そんな彼女の様子を見たことが一度もなかった。
初めて見るような顔をしていた。
「なぁ、なんでさっき……」
気になって、さっきのことを訊こうとした。
でもなんだか、訊いてはいけないような気がして、その先に踏み込んではいけないような気がして、続きを話すのを躊躇した。
そんな俺の様子を見て、逆になぎさが俺に話し始めた。
「……先輩は、好きってなんだと思いますか?」
お姉様系先輩に言われた質問と同じ問いだ。
"好き"か。
単純な好意なら、姉さん、千咲、コウタ、なぎさ、他の友だち、クラスメイト、みんな程度の違いはあれど持っている。
だが、なぎさが訊きたいのはそういう意味の"好き"ではないのだろう。
なんというか……恋人にしたいとか、お付き合いをしたいとか、そういう意味に感じる。
「俺は……」
口を開いたものの、その続きが一向に出てこない。
好きだ、なんて言っても相手に責任を負えるわけでもない。
簡単な質問だ。
問いかけだって至ってシンプルだ。
でも、今の今まで考えてこなかったことだった。
"考えないようにしていたこと"だったのかもしれない。
あのときのことで、愛とか好きとか、そういうのを感じるのが怖くなっていた。
言葉に出せば必ず信用に足るというわけではない。
好きだ、と言ったその口でまた違う人に好きだ、と言うのも簡単だ。
けれども、言われた側の記憶には残る。
そして裏切られた、嘘だった、と感じる。
なら言葉に出さずに……いや、言葉にしない方がかえって良いのではないか。
そんなことを、しらずしらずのうちに考えていたのかもしれない。
「……ごめん、わからない」
諦めてそう言った。
「……そうっすか」
「うん、ごめん」
「……まぁ、私もよくわからないっすけどねー」
そう言って、あはは、となぎさは笑った。
「そういえば、週末のことなんだけど」
「ええっと……はい、なんでしょう」
「朝八時くらいに、家の前まで迎えに行くから。それから四時間くらいかな……お昼どきには向こうに着くと思う」
「わかりました、りょうかいっす」
「……なんか悪いな、俺の我儘に付き合わせて」
そう言うと、なぎさは訝しげな視線を俺に向けてきた。
「先輩はお馬鹿さんっすねー、まったく」
「……どうして?」
「私が先輩と行きたいから、行くんですよ。
先輩も、そう言ってくれたじゃないっすか」
それを言われると、そうでしかないので反論はできない。するつもりもないけれども。
「……わかった、できるだけ楽しめるように、考えておく」
それでいいんですよ、と言って、少しの沈黙のあと、なぎさは後ろから俺の背中にパンチをしてきた。
「どうした?」
と問うと、「いえいえー」と言って笑っていた。
それから、帰り道の間ずっと彼女は上機嫌のままだった。
今日は、彼女のいろいろな表情を見た気がする。
困ったような表情とか、怒ったような表情とか、喜んだような表情とか。
夏休みになって、彼女のことをもっと知れたように感じる。
いつもより気分が良かったからか、歩くのが早かったからか、普段よりも早く分岐点に達した。
「じゃあ、ここで」
「はい、また明日」
当然のように言い出された、また明日、という言葉が少し嬉しく感じた。
「おう、また明日な」
なぎさはそれに頷いて、ぺこりと頭を下げた後、いそいそと帰って行った。
◇
家に帰ると、宣言通り千咲が来ていた。
二人は当たり前だがもう夕飯を済ませたようで、ソファに腰掛けてだらだらとしていた。
俺も、準備されていた夕食を食べてから、二人に混じってお菓子を食べながらだらだらとすることにした。
テーブルの椅子に座りながら、ソファに座っている姉と千咲の様子を見る。
かなりだらけている。
夏の暑さにやられているような。
足元に目線を移すと、扇風機がぶるぶると音を立てて振動している。
扇風機をつけていて、しかも夜であるにもかかわらず、部屋の中は熱気に包まれている。
クーラーをつけようと思ったが、つけているのに慣れると外に出るのが面倒になるのでやめておいた。
じゃあなにか冷たいものを食べよう、と冷蔵庫にアイスを取りに行く。
一応千咲と姉に確認して、二人のぶんのアイスも取った。
「あづいーーー」
「ですねー……たしかにあついです」
持ってきたアイスを手渡すと、二人は口々にそう言った。
二人ともソファにがっつりともたれかかりながら、手にした棒アイスを食べている。
もたれかかっている、というよりは寝転がっている感じではあったが。
夏で、しかも暑いからか、かなり薄着だ。
夏休みの始めに千咲がうちに来たときのようにいろいろと見えてしまうことだってあるかもしれない。
「……なんですか」
ちらり、と千咲の方を見ると、振り向いた拍子に目があって、怪訝そうな顔でこちらを見てきた。
「あー、えっと……女の子がそんな格好しててどうなのか、と」
千咲は、下を向いて自分の姿勢を確認する。
そしてそれを変えずに、俺を再度見た。
「べっつにぃー、いいじゃないですかー。とっても居心地がいいってことですよぉー」
間延びしたような、そんな言い方で言われてもな……。
居心地良くされても困るんだけど。
ここ俺の家だし。
「そうだそうだー! ていうか、お姉ちゃんの私には言わないのかなー?」
姉が話に入ってきた。
私がぐうたらしててもなにも言わないのか、ということだろう。
「いや、姉さんはいつもそうだから今更なんも思わないよ」
「うわぁー……差別だ。お姉ちゃん悲しいよ……こんな弟に育ってしまって……」
姉は、うえーん、と見るからに泣いたフリをし始めた。
千咲もそんな姉の様子を見て、勝ち誇ったような笑みをこちらに向けてくる。
「私も楓ちゃんもこのままでいいですよねー」
「そうだー! だらけるの最高!」
いや最高って……。
俺もだらけるのは好きだけどさ。むしろ今夏が例外であとはだらけてるけどさ。
でも、これは少し良くないような気がする。
動かさないとずっとだらけたままでいそうだし。
姉はまあいいとしても、千咲は活発に動いているほうが似合ってると思う。
なんとかしてここから動かすとするか。
「千咲、コンビニ行くぞ。夜食かなんか買いに行こうぜ」
「えー……。面倒ですよ、それにはーくんは今さっき食べたばっかじゃないですかー」
駄目か……じゃあどうやって動かそう、と考えていたときに、千咲は何かに気付いたのか、「あっ」と小さい声で呟いた。
「それって、二人きり? ですか?」
「いや、姉さんも」
ちらっと姉のほうを見る。
「パスで」
即答された。
「じゃあ行きましょうか、はーくん。楓ちゃん、なにか買ってきて欲しいものありますか?」
「じゃあからあげ棒でー! ちーちゃんありがと!」
先程の様子から一転、けろっとした様子で姉は答えた。
この時間に食べると普通に太りそうだ。
言ったら面倒だから言わないけれども。
急に外に出る気になった千咲にびっくりしたが、この状態から動いてくれるならいいことだ。
財布を取って、千咲と一緒に外に出た。
◇
「良かったのか? 夏らしいことしたいって言ってたのに、こんなんで」
夜道、月明かりが照らす中、俺の一歩先を歩く彼女に、そう声をかけた。
「……こんなんで、といいますと?」
「いや、もっとこう、どっか行ったりだとか……」
「いいんですよ。えっと、部活部活だと疲れちゃうじゃないですか。
だから、リラックスできる感じで居れるのはとてもいいことなんです」
「そっか、それならいいけど」
会話が切れると同時に千咲は歩調を緩めて、俺の隣にやってきた。
「私は、はーくんと居ると安心できますよ」
「そうか」
「本当ですよー。あ、楓ちゃんと居ても安心ですね」
そう言って、彼女は距離を半歩分くらい詰めてくる。
今朝のように、少し動くと肩がぶつかりそうなくらいの近さになる。
「……いや、近いだろ」
素直に言うと、ぷくーっとわざとらしくふくれっ面を作って俺に見せてきた。
ちょっとかわいい。
……いや、ちょっとどころではなくかわいい、というかあざとい。
「離れて、いいから……」
そう言っても離れないので、自分から離れることにした。
千咲は俺の顔をまじまじと見て、「いやですよ、っと」と言って、また距離を詰めてきた。
「…………」
多分、嫌な顔をしてしまった。
そして、それを千咲に見られた。
「……だめですか?」
俯きながら言う千咲の声音は、先程よりもずっと暗い。
「……昔はこうやって並んで歩いてたじゃないですか。
なにがいけないんですか?」
俺が答える前に、千咲は話を続け出した。
立ち止まって、少しの沈黙が生まれた。
話すまで動かない、ということだろうか。
「良いも悪いも……昔とは違うだろ、いろいろと。
ぜんぶがぜんぶ昔のようになんて、俺には無理だと思う」
言いながら、俺は千咲にこんなことが言いたかったのではない、と頭の中で否定する。
けれど、出かかった言葉はそんな考えなど無視するかのように、するすると出ていってしまった。
千咲はなにも言わずに俯いたまま、反対の方を向いてしまった。
またやってしまった、と自責の念に駆られる。
小さいころから一緒で、いつも隣にいてくれて、避けていたのは俺の方なのに、また接してくれるようになって……。
昔も今も、悪いのは全面的に俺の方だ。
「ごめん……」
そう言うと、千咲は反対方向を向いたまま、小さく頷いた。
「千咲、俺は……」
「……ごめんなさい。私、先帰ってますね」
よくわからないんだ、と言い終わる前にその場から走って立ち去られてしまった。
言わんとしたことも、全くもって正しいことではない。
千咲が聞きたかったのはそんな言葉ではないのはわかりきっている。
でも、どうしたらいいのか本当によくわからなかった。
どう接するべきか、どんな態度でいるべきか。
千咲とは離れたくない。
あの時のように、会っても避けてしまうような関係に戻りたくはない。
あんな思いは、もう二度としたくない。
……言葉にするのは簡単だ。
繋ぎ止めるために、思っていないようなことでも、それを言えばいいだろう。
けれど、そんなのは時間稼ぎでしかない。
結局何処かで綻びが生じて、現状よりも悪くなってしまうかもしれない。
彼女が最近まで、はっきりとした言葉にしてくることがなかったから、
行動に起こしてくることがなかったから、俺はそれに甘えていた。
このままの関係でいれば、ずっと一緒にいれるのではないか、とそう思っていた。
だが、あんな風にわかりやすくされたら、流石にわかる。わかってしまう。
このままずっと、なんていう俺の願望はただの幻想でしかない。
今まで通りとはいかない。変わらなきゃならない。
千咲は変えること、変わることを望んでいる。
どの方向にでもいいから変わってくれ、と望んでいる。
目を逸らすのはもうやめて、俺も、いろいろなことを決断する時が近付いてきている。
でも、その前に、俺自身のことを片付けなければならない。
中途半端な気持ちで困らせてしまうのは、きっと一番不誠実なことだから。
◇
「ただいま。はいこれ、からあげ棒」
「おかえりー、ありがとありがと」
姉は俺が外出した時の姿勢のまま、うちわで身体をぱたぱたと仰ぎながら横になっていた。
「千咲は?」
「お風呂入ってるよ」
「そっか」
スマートフォンを取り出して、ぽちぽちといじる。
特にしたいと思うこともない。電源を落として机の上に置いた。
冷蔵庫から麦茶を取り出して、グラスに注ぐ。
買ってきたヨーグルトとゼリーを食べる。
寝るのに飽きたように、姉は起き上がって、小さく伸びをした後、俺の様子をじぃっと見つめてきた。
「なに」
「なんかあった?」
「いや、なんもないよ」
「いや、そんなことないでしょ」
「…………どうして」
「なんかあった、って顔してるから」
「べつに、千咲とは……」
「私ちーちゃんのことなんてひと言も言ってないけど? ……やっぱりなんかあったんだね」
単純な手に引っかかった。
まぁとりあえずのところ、姉にも言うわけにはいかないよな。
「……なんでもないよ、ほんとに。
ちょっと、雰囲気悪くなっただけ、それだけ」
「それだけって……私からちーちゃんに訊くのも駄目な話?」
「うん、話したがらないだろうし」
そう言うと、姉はうーん、と悩ましげに唸った後に、咳払いをして俺のことを真剣な表情で見据えた。
「まぁ、本当になにか困るようなことがあったら、お姉ちゃんに相談すること!
私はハルのお姉ちゃんだけじゃなくて、ちーちゃんのお姉ちゃんでもあるんだからね」
「えっと、うん。わかった、もしかしたら頼るかもしれないからそんときは、よろしく」
「任せなさい!」と言って、姉は満足気な笑みを俺に向けてきた。
かっこつけたかったのもあるのか、と可笑しくなって、少し笑ってしまった。
多分、いや確実に相談することにはなると思う。
俺が話せるような人だって限られてくるだろうし、事情をある程度知っている人でないとわからないこともあるだろう。
とはいえ、姉にはまだあのときのことを話していない。
先延ばしにしてしまった、あのことだ。
姉は待ってくれると俺に告げた。
……俺も、その待っていてくれていた姉に嘘偽りなく、本当のことを言いたい。
なにか言われるかもしれないし、なにも言われないかもしれない。
それは今の俺には知り得ないことだ。
けれども、考えて考えて、考え尽くした結果なら、姉の心に響くかもしれない。
だから、話してみないことには何も変わらない。
俺の考えを何度も何度も批判的に問い直せば、見えてくるものもあるだろう。
◇
次の日の早朝に千咲は家に帰って行った。
姉と千咲と三人で朝食まで食べてから帰したのだが、その間もずっと俺と会話はしなかった。
姉もいろいろ考えてくれたのか、千咲と二人で話せるような話題を出して、俺と会話をしなくてもいいようにしてくれた。
カレンダーを見ると、今日はもう金曜日で、明日からなぎさと里帰り、という日まできていた。
お昼前くらいになって、姉が塾へ行った。
久しぶりに、長時間家で一人になる。
ここ数日ほぼずっと誰かと一緒にいたからか、少し落ち着かない気分になる。
一人で家にいるときにクーラーや扇風機を付けるのもなんだか勿体無いので窓を全開にして暑さをしのぐ。
窓から室内に入ってくる風は中々強い。
が、夏らしく温い風が吹いていて、逆に暑く感じてしまう。
テレビの音と掛け時計の秒針の音のみが部屋に響く。
そういえば、姉は卒業した後にどこに進学するのだろうか、と、そんな考えが、急に頭に浮かんだ。
姉は頭が良い。それもかなり。
テストで学年でも一桁から落ちたことはないと聞くし、教師からの評判だってすこぶる良い。
普段の校内での立ち振る舞いから言ったとしても、内申も高評価ばかりだろう。
俺は姉にどこ大志望なの?と、訊いたことはなかった。
考えたこともなかったのかもしれないが。
母さんの稼ぎがなくなったとはいえ、この家に住んでいて、そのままの暮らしを続けている。
姉弟二人とも普通科高校に通っているが、奨学金だとか、そんなのも申請すらしなかった。あれは世帯収入で取れるかが決まると誰かに聞いた。
それどころか姉は高三から塾に通っている。
大手の塾、というか予備校であるから、講習代だってそれなりにかかるはずだ。
でも、大して何事もなくそのまま過ごせているのは、父親の稼ぎが相当だということに他ならない。
地元国立はもとより、難関私大だったり、首都圏の有名大だって狙える学力を持っていると思う。
だから、姉はうちにいて、ずっと自分の近くにいる、とも言い切れないのではないか。
正直なことを言ってしまうと、姉の学力なら地元の国立大に行くためにわざわざ塾に通う必要はないはずだ。
つまりは、そういうことではないだろうか。
訊いてもいないのに決めつけは良くないが、その可能性が高いと感じる。
となると俺は来春から実質一人暮らしということになる。
最低限の家事能力くらいは有るのだが、それでも今姉がいるこの状況より悪くなるのは目に見えている。
もう少し弟離れして欲しいと思うことも少なくはない。でも、俺だって大概ではないのだ。
姉に任せてしまっている部分が多すぎる。
一人になってどう感じるかは、そのときになってみないとわからない。
……とりあえず、返していけるものは時間あるうちにやっておくべきだな。
今日の夕食は、俺が作るとしよう、明日から家を空けるわけであるし。
そういうところから、ちょっとずつでも、返していけたらなぁ……と思う。
ただの自己満足であるかもしれないけども。
◆
意識がはっきりとしたとき、俺はベッドの上に横たわっていた。
ここはどこだろう? と考えて周りをきょろきょろと見渡した。
白いベッド、ピンクのカーテン、俺が着ているのは制服。
学校? 保健室?
カーテンを開けると、眼鏡をかけた若い女の養護教諭の先生が駆け寄ってきた。
「あ、起きたのね。
急に倒れたって言われたけど、睡眠不足とか? まだ体調悪い?」
「……倒れたって、えっと」
「黒板に答案を書いて、って言われて席を立ったらそのままふらふらーっと倒れたって」
とりあえず、記憶がある範囲で思い出してみる。
今日は家を出るときからずっと体調が悪くて、頭がガンガン鳴っていて。
休み時間も机にずっと突っ伏していて、体調が悪いのに数学の授業で当てられて。
そこから…………見えてる景色が真っ逆さまになったような感じがして、どんどん力が抜けていって……。
「あ、はい……。そういうことですね」
「記憶はしっかりある、と。
えっと、今から少し質問するね?
頭とか痛かったらやめるから言ってね」
「はい」
「まず、朝ごはんはちゃんと食べた?」
「食べました。昨日の夜も、はい」
保健室の先生はすらすらと紙にボールペンで記入していく。
「昨日寝た時間と、今日朝起きた時間は?」
「たしか、十一時過ぎには寝て、六時には起きてたと思います」
「睡眠不足、でもないのね」
「……そうっぽいです」
「では、最近なにか悩みとか困ってることとかある? 友達関係とか、家でのこととか」
「…………いえ。特には」
「そっか。君は部活……には入ってないんだよね、たしか」
「そうですけど、なんで知ってるんですか」
部活はついこの前に辞めたのだけれど、顧問以外の教師、しかも保健室の先生に知られているというのは、どうしてなのか気になる。
「あ……えっと。んー、これ言っていいことなのかな」
そう言って、彼女はちらちらと様子を伺いながら、赤みがかった長い髪の毛先をくるくると遊ばせた。
『言って良いですよ』と言え、ということだろうか。
こんなんでいいのか、仮にも養護教諭なのに。
「……どうぞ」
「えとね、最近の君の様子がおかしいって、聞いていたから」
「え?」
「みぃちゃんが…………んんっ、橘先生が、君の様子がおかしいけど、どうしたらいいかわからないって私に相談してきたの」
「……」
橘先生、担任の先生だ。
新任の女教師で、お世辞にも授業が上手いとは言えないが、生徒からは人気がある。
「何度か話してみようとはしたって言ってたよ、えっと、そうだよね?」
たしかに何度か、放課後の教室で話しかけられた。
放課後の教室に残っている奴なんて俺だけで、新任なので部活の顧問を持っていない橘先生は、見回りと戸締りの為に、夕方の教室にたまに現れて、俺と話をしたがった。
部活を辞めます、と言ったときに止めてくれたのは彼女だけだった。
顧問は、どうぞご勝手に、みたいな態度を取ってきたことを覚えている。
こればっかりは仕方がないことかもしれない。部活をサボってばかりいたことだし。……まぁ、ほんの少しもやっとすることはあったけれども。
あとで、途中で逃げる奴は駄目だ、士気が下がっていたから辞めてくれて清々した、と矛盾点たっぷりな皮肉を言っていたと風の噂で聞いた。
あんなのが学年主任だって言うのだから、この学校はおかしいと思う。
「それは……はい。でも、話すこともそんなにないので」
「そっかぁ。橘先生頼りないもんねぇ」
「い、いえ、そんなことは」
「いや、新任で頼り甲斐がある方がおかしいって」
「……」
「でさ、本当はなにがあったの? 橘先生じゃ心許ないなら、私がある程度聞くからさ」
先程までの俺の様子を探るような言い方と違って、その声音は真剣みを帯びている。
「たまたま体調が悪くて、とは考えないんですね」
「だって違うでしょ?」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「勘」
「いやいや、勘って…………」
「断片的にでもいいよ、話せることだけでいいから」
「いえ、なんもないんです。ただの、体調不良です」
そう言うと、彼女は怪訝そうに俺を見ながら「ほんとうに?」と言った。
「……あの、いい加減しつこいですよ。
なにもないって何度も言ってるじゃないですか」
訊かれたくないことであるし、語気を強めた。
でも、彼女はそれを御構い無しとでも言うかのように、俺の目から視線を離さなかった。
「こういうことは言いたくないんだけどさ、君のおうちに連絡してもいいんだよ?」
「……」
カマをかけたのか?それとも……。
「するよ?」
「いや……それは、やめてください」
…………迂闊だった。
言われた瞬間に否定しなかった時点で、もう肯定しているのと同じだ。
それに、本当にうちに連絡をするような言い方をされては、俺も強気には出れない。
「それなら、話しなさい」
「……脅しですか?」
「まぁ、そう取ってくれてもいいよ。
……橘先生、すごく心配してたからどうなんだろと思ったけれど、私も、あなたの様子を見てすごく心配してる。
とりあえず、なんでもいいから話してみてくれないかな?」
全く気が付かなかったけれど、さっきからの態度はハッタリだったのか。
俺がぼろを出すように誘導されたんだろうな、きっと。
とはいえ、核心に触れなければそこまで問い詰めてくることもないだろう。
「……わかりました。じゃあ、少しだけですよ」
「うん、聞かせて」
◆
「えっと……コーヒーでも淹れよっか、飲む?」
「あ、はい」
「ミルクは?」
「ブラックでいいですよ」
話を始める前に、先生は立ち上がってコーヒーを淹れに行った。
一度落ち着いて話を聞こうということだろう。
少し待っていると、頭がくらくらとしてきた。
……貧血っぽいな、これ。
ストレス、はストレスなんだろうけど、ここまで力が抜けるとは思いもしなかった。
「っと、はいこれ」
そう言って差し出されたマグカップの中を覗く。
コーヒーの独特な匂いを嗅ぐと少しだけ気分が落ちついた。
先生の持っているマグカップを見ると、中身は茶色……ほぼ真っ白になっている。
「あぁこれね、練乳だよ。君も入れる?」
「美味しいですか?」
「私は好きだよ」
「はぁ……そうですか、お願いします」
先生がまた立ち上がって冷蔵庫の方に歩いて行くと、なにやら隣からガサガサと音がした。
「ごめん、起こしちゃった?」
と、先生の声がする。
隣でぼそぼそと先生と誰かが話をしている。
一、二分くらいして、俺のベッドへと戻ってきた。
「待たせてごめんなさい、隣の子起こしちゃったみたいで」
「大丈夫ですよ。……場所変えますか?」
「いや、小さい声で話せば大丈夫だと思うよ」
「……そうですね」
◇
六時過ぎになって、姉が家に帰ってきた。
なにか作ろうと思ったけれど、姉の食べたいものがいいかな、と思って買い物には行かないでいた。
幸い姉もスーパーには寄って来なかったようで、また出掛けようとしていた。
「今日は俺が作るよ」
そう言うと、姉は面食らったような顔をして俺を見て、「どうして?」と問うてきた。
「なんとなく。……買い物一緒に行こ」
「それはいいけど。うーん…………この前ので料理に目覚めたとか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「ま、まぁ……うん。じゃあちょっと着替えてくるから外出てて?」
姉はそう言ってリビングから自分の部屋へと階段を上って行った。
俺も財布とかを持って、外に出て待っている間、姉の好きな食べ物について考えた。
少しして、家の外に出てきた姉に問いかけてみる。
「姉さん好きな食べ物ってなんだっけ?」
「うーん、いろいろ? なんでも好きだよ」
「そっか。姉さんの好きな食べ物作ろうって思ってて」
「うんうん……えっ? まじ?」
普通に言った言葉に、なぜか凄くオーバーなリアクションをされた。
「マジマジ、だから一緒に買い物行こうとしてる」
姉は数秒の間顎に手を当てて考えるような仕草をしたあと「ありえないありえない」と大げさに首を振った。
「ありえないって」
「そう、ありえないよ」
「なにが」
「ハルが」
「はぁ?どこが」
「ハルはいつも『はぁ……しょうがねぇな優しくしてやるよ』みたいな態度するのに! こんなに優しいのはおかしい!」
あまりにも酷い言われようだ……。
もっとわかりやすいと思うんですが、自分が思っているのとは違うんでしょうね。
「優しくされたくないってこと?」
「いやそれはされたいに決まってんじゃん。
でも、お姉ちゃんはハルの回りくどい優しさに愛着持ってたのに……」
姉は頭をぐしゃぐしゃと弄りながら、やたら饒舌にそう言った。
「いやいや、どんなだよ、それ」
「いっぱいありすぎて覚えてないけど、その度にかわいいなーこいつって思ってたの!」
そう言われたものの、あまりピンと来ない。
優しくするときには優しくしてたし……頭撫でたりとか。それは違うか。
「どういう意味?」
「ヒミツ! 教えたら調子乗りそうだから」
「そう……ていうか、かわいいってなんだ」
「姉にとっての弟はかわいい生き物でしょ」
「……そうなの?」と姉に向かって言うと、
「そうなの」と間髪入れずに姉が返答してきた。
なんだか妹みたいにかわいく思えて、いつだかそうしたように、姉の頭を撫でた。
「な、なでるのか」
見るからに動揺している。
ちょっとおもしろくて笑ってしまった。
「ちょうどいい位置に頭があったから、姉さんがわるい」
乗せている手をべしっと払われる。
「また妹とか子どもみたいな扱いした! 普通はお姉ちゃんの頭なんて撫でないんだよ?」
いつもならバカとか死ねとか辛辣なことを言われるのに、今日はえらくご機嫌なようである。
「えっと、じゃあ姉さん、身長何センチだっけ?」
「……」
「言わないの?」
「……ひゃく、ごじゅう…………ご!」
姉はふっふっふー、とドヤ顔をしながらそう宣言した。
そんなあるわけないだろ、騙す気あるのか、と心の中でツッコミを入れる。
「……それ千咲の身長でしょ。実際は?」
「……ノーコメントで」
「二十五センチ差はお姫様抱っこがよく似合うと聞いた」
「ほんとに? あっ……」
「引っかかりやすいね、ははは」
されたいんだな。
「うるさいうるさい! お姉ちゃんだぞ! 敬え!」
「……」
「綾ちゃんもでかいし、なぎちゃんもでかいし、杏ちゃんも私よりすこーし大きいし……身長よこせって感じだよね」
うしろに怒りマークが見える。
「姉さんはそれでいいと思うけど」
「そう言われるのは嬉しい、けど妹扱いされるのはイヤなの」
「してないしてない」
してます。でも言いません。
「したら殴るよ?」
「わかった。で、なに食べたい?」
「……バカにしない?」
「うん」
「オムライス! ハンバーグ!」
子どもか。
「ぷっ……」
「今わらったな、殴らせろ!」
殴られた。が、全く痛くなかった。
「オムライスとハンバーグね、わかった。
やっぱ一緒に作ろっか、その方が楽しいだろうし」
「そうね、楽しいね、うん」
姉はなぜか機嫌は良いままだった。
……まぁ、なんだ。
姉にとっての弟がそうであるように、弟にとっての姉もかわいいものなのだと改めて知ることができたということか。
今度は強めに、わしゃわしゃと髪を撫でると、姉は少し嬉しそうな顔になっていた。
◇
オムライスを食べたのはいつぶりだろうか。
小学五年生? かそこらのときに食べたのが最後だった気がする。
季節とかははっきりしないけど、両親共に仕事で家を空けていたときに、姉が作ってくれたという記憶がある。
姉も俺もちゃんとした料理なんてしたことがなくて、結構失敗をした。
ケチャップライスは全体的にお焦げみたいになっているし、卵はあまり混ざっていなかったのか白身の部分が浮いて見えるようになっているし、卵は卵でやっぱり焦げているし。
初の料理なんて誰しもひどいものであるとは思うが、比較的簡単めに見えるオムライスなら綺麗に作れると思っていたんだろう。
失敗しちゃった、ごめん、と言って姉は申し訳なさそうな様子でテーブルにオムライスの盛られた皿を並べた。
それから俺が食べるまで、姉は自分の皿に手をつけずに、ずっと俺の方を見ていた。
そんな姉の様子を見て、失敗したと言ってもこのレベルなら余裕だろうと思いスプーンで手前の一部分を切って口に運んだ。
普通においしかった、ような感じがする。
そのとき姉になんと言ったかとか姉がそれになんと返してきたかはよく覚えていないけれど、確かそうだったと思う。
そのときぶり…………か。
今はいろいろと状況が変わって、姉も料理をするし、俺も料理をする。
料理の腕に関しても、姉はかなり上手いと思うし、俺も姉レベルではないにしろそれなりに作れる。
いつだったか、俺の見えないところで、姉が料理の練習をしていたというのを千咲のお母さんから聞いた。
高校に入ってある程度時間が取れるときに、私のところに、料理を習いにきたと。
たしかに、家に三人……いや実質二人になってから、姉はかなり料理が上手くなったと思う。
俺も姉が料理している様子を見て、学べるものは学んだものであるし。
姉が千咲のお母さんに習ったものが栄養価の高い和食中心であったからか、最初のうちは、ゴハン、味噌汁、おかず数品だった。
なのでオムライスを作るようなことはなく、今もたまに洋食は作ることはあるが、オムライスが出てきた記憶はない。
さっき姉のリクエストを聞いて、好きな食べ物がオムライスなら作ればいいんじゃないか、と思ったけれど、本当にどうして今まで作らなかったんだろう。
「おいしかったね、久しぶりに食べた」
二人で作ったオムライス(とハンバーグ)を食べたあとに姉が呟く。
「俺もかなり久しぶり」
「うんうん。今日見てて思ったけど、ハルかなり料理上手くなったと思うよ」
「ありがとう、まぁそう言う姉さんも上達凄いと思うけど」
「そんなそんな……あんま考えたことなかったけどそう思う?」
「うん」
「料理できる男はモテるよ、ポイント高い!」
いきなりそう言われても、モテるためにやっているのではないし。
料理できる男が需要あるのって、妻の方が忙しかったり、まず男が彼女のヒモだったりする場合じゃないか?
──いや、一人暮らしとか家に一人でいるときにも役に立つか。
「……まぁ、どちらかといえば料理は食べる側が良いかな。
俺からしたら料理できる女の子の方がポイント高いと思うし」
「そ、そう?」
そう言いながら、姉は口元を手で覆った。
俺から目線を外して、周りをきょろきょろと見ている。
「どうしたの?」
「……それってお姉ちゃんも含まれたりする?」
ポイント高い云々の話だろうか。
「え、そりゃあもちろんだけど」
「へぇ、そっかぁ……ちょっと嬉しいな」
「……嬉しいのか」
「うん、嬉しい」
なにが嬉しいんだろう? と頭を悩ませていると、姉はまた話し出した。
「あのさ、たとえば、たとえばの話だけど……」
「うん」
「私がハルの妹だったら、どんな扱いするの?」
「……え」
「私はお姉ちゃんだからこんな感じで接してるけど、妹だったらどうなってたのか、ってこと」
姉が妹。
想像すると、これまた結構しっくりくる。
……しっくりとはくるのだが、現実味はない。
俺は弟であるけれども、歳は一つしか変わらないし(大半は二つだが)、ほんとに小さいときには友達みたいな感覚で接していた記憶がある。
でも姉は姉で、それ以外はありえないというか、嫌な感じがする。
「きっと……」
「きっと?」
「妹だったらもっと愛でてる」
「なにそれ」
姉はふふっ、と小さな声で笑った。
「でも、姉さんは姉さんだから。
もし姉さんが妹だったら大変そうだし」
「大変って。たしかに小学生のときのハルのお世話は大変だったけど」
「そうだった?」
「いつも泣いてたじゃん。
私と喧嘩しても、先に泣いて謝ってくるし、映画とかドラマとか見てすぐ泣いてたよ」
それは姉さんが頑固だから。
まぁ言わないけど。
「マジか」
「泣いたときは歌とか歌ってあげたの、覚えてない?」
「あんまり……」
覚えてはいる、けど、なんとなく恥ずかしい。
けどさ、と姉は俯きながら呟く。
さっきまでとは違う雰囲気で。
「ハルはさ、強くなったよね。
……なんていうか、その、えっと。
身長とか身体の大きさとかもそうなんだけど、泣いたりしなくなったし、泣き言も全然言わなくなった」
「……」
「私はお姉ちゃんなのに、どうして強くなれないんだろう……ってずっと思ってた。
家に居ても、学校に居ても、どこに居ても不安ばかりだった。
わからないことばかりだ、なんの意味があるんだろうなんて」
「そんなこと……」
突然姉の口から吐き出された言葉にひどく戸惑う。
"強い"
そんな言葉は、俺にはまったく似合わないと思う。
その実、強がっているだけだ。
……強くなったのではなく、弱いところを見られるのが嫌だから、それをひた隠しにしているだけなのだ。
「……ほんとはさ、お母さんのこと、そんなに好きじゃなかったんだ」
「……」
「お母さんにね、なにかがある度にお姉ちゃんなんだからってずっと言われてた。私が泣いていたら、あの人はイヤな顔をしてたんだ。
ハルは優しいから、私と公平になるように自分のことを我慢したりしてくれてたけど、私はなんでだろう……って思ってた」
いつでもプレッシャーがあった。
だから部屋に一人で。
「……ごめん」
「いや……どうして謝るのよ」
「どうしてって言われても」
反射的に、というか。
姉がそんなことを母さんから言われていたのを俺は知らなかった。
いや、耳で聴いてはいたとは思うけれども、聴き逃していたというか、気に留めることがなかったのだと思う。
「私はね、馬鹿正直に信じてたんだよ。……お姉ちゃんなら我慢して当たり前だって。
あの人への機嫌取りだったのかもしれないけど、私はそれをしてて正しいって思ってたの。
それよりも……ハルがどうしてそんなに優しいのかがわからなかった」
──私だってお姉ちゃんなのに、と姉はどこか自嘲気味に呟いた。
頭の中で、もう一度姉の言葉を繰り返す。
……わからなかった。考えようともしていなかった。
姉が泣いていたのも、たまに思い悩んだような表情をしていたのも、過剰なくらい家族の関係に執着してきていたのも、明確な原因があったのだ。
記憶も思い出も、結局は個人の主観でしかない。
自分にとって都合の良くない出来事は、必然的に都合の良い出来事の下に埋もれていく。
俺は、姉にとって家族みんなで居ることが、なによりも良いことだと盲目的に考えていた。
「優しい?」
「うん」
「……どこが」
「駄々とかこねることも無かったし、いろいろ半分こしてくれたりとか、その……」
「そんなの……」
なんで、わからないのだろう。
わざわざ言わなくてもわかりきってることじゃないのか。
「……そんなの、きょうだいだから、それこそ当たり前のことじゃないの?」
「……ほんとうに? そう思う?」
「うん」
そう言うと、姉は眉をひそめて、そうだよね、と小さい声で答えた。
「……弟に甘えることは、悪いことじゃないんだよね。
ずっと守ってもらってたのは私の方なのに、甘えたいだなんて烏滸がましいこと考えちゃいけない、なんてこともないんだよね」
「……うん」
「じゃあさ、妹みたいにハルに甘えてもいい?」
甘えるって。
「甘えたいなら、嫌がりはしないと思うけど」
「……ぎゅーっとしてほしい、とか、一緒に寝たいって言ってもいい?」
「マジで?」
「……七割くらい?」
なぜ顔を赤らめる。
こっちまで緊張するのはどうしてだ。
相手は姉だぞ、姉。
いや、こういう仕草とかそういうの、普通にかわいくて困るんだよな。
「えっと……あまり自信はないけど、望むのであれば少しくらいは」
なんだかおかしい言い回しかもしれない。
「……ふふっ」
その言葉を聞いて安堵したのかどうなのか、姉はわざとらしくこちらに向けて笑った。
「……いや、冗談だから」
「そうなの」
「あ、でもたまになら」
「え、おぉ……うん」
こんな風なへんなやり取りのあと、姉はこほん、と咳払いをした。
「言いたかったことはそれだけ。
まぁ、知ってて欲しかったこと、なのかな?」
「……そっか」
「うーん。明日からハルが家に居なくてお姉ちゃん寂しいなー」
わかりやすいような棒読みでそう言ったあと、こんな感じ? と首をかしげた。
「……甘え下手か」
「そうかもね」
とりあえず……姉はかわいいな、うん。
◇
カーテンの隙間からやけに明るい陽が差し込む。
ゆっくりと身体を起こすと、毛布はベッドの下に落ちていて、いつの間にか着ている服もはだけていた。
なんだか暑すぎる朝だ。今年一番暑いような気さえする。
ベランダに出て、んーっと、大きく伸びをした。
涼しい風が吹いている。中にいるよりも、外の方が涼しい。
そう考えて、しばらく風にあたることにした。
デッキチェアに座りながら、枕元に置いていたミネラルウォーターに口をつける。
……ぬるい。
冷たい時よりも数倍不味く感じる。
なんだろうか、かなり落ち着かない。
地に足がついていないというか、腰が据わっていないというか。
とにかく落ち着かなかった。
原因は昨夜寝付けなかったことなのかもしれない。
無論、今日のこと、昨日のこと、言っちゃえば近いことを考えていたのには違いはないのだが、それよりも、もっと遠くのことを透かして考えていたような気がする。
ごくたまにあることだった。
人なら誰しも一回とは言わず経験したことがあることだとも思う。
──目を閉じると、誰かの声が頭に響く。
それは、知っている人であったり、家族であったり、知らない……思い出せない人であったり。
誰かと話したこと、誰かに聞いたこと、誰かに言われたことが暗闇の中でこだまする。
そうしているうちに、夢と現実の境がなくなったかのように、浅い眠りに落ちたのだろう。
夜通し起きていたような感覚だった。
そのせいか、あまり寝ていたという実感がない。
身体の疲れだったりは綺麗さっぱりなくなっているのだが、どうも心象的には疲れが取れていない様だった。
部屋を後にして、リビングに降りると、いつもの日常となんら変わりない朝の時間が流れる。
少しぼーっとしていて、テレビのリモコンに手をかけようとしたときに姉が起きてきた。
「おはよ」と彼女は眠たげに目をこすりながら話しかけてきた。
それに続いて、「今日は朝ごはん食べてくの?」と質問されて、それに肯定の意味をこめて頷くと、彼女はキッチンの方へと歩いていった。
手に持ったままになっていたテレビのリモコンの電源ボタンを押し、そちらに耳を傾ける。
──本日は今年一番の猛暑になるでしょう。
と、テレビに映っているアナウンサーが言った。
その言葉の後に、各地の気温が書いてあるものが映った。
自分が住んでいる地域は30℃、そう暑くない。
……暑いには暑いけれど、まぁ我慢できなくもない気温だ。
ただ、今日向かう場所(隣の県)の予想気温を見ると、さすがに目眩がした。
35℃オーバー、酷すぎる。
加えて、隣県のあそこらへんの地域は、浜風のせいで、涼しいときは涼しいのだが、そうでないときはずうっと温い風が吹いていて、体感温度が酷いことになる。
「よりによって今日こんなに暑いのね。熱中症気をつけてね、タオルとか準備した?」
キッチンからそう声をかけられた。
「うん、持ってく。姉さんも気をつけてね」と、そう俺は返答した。
数分後、テーブルの上に朝食が並べられて、二人で各々の席に腰掛けた。
ベーコンエッグトーストとコーヒー。
……理想的な朝食だ。
卵は半熟で焼き加減もかなりのものだ。姉の得意料理、というか楽にうまく作れると言っていた料理だ。
コーヒーには練乳が入っている。
からからとスプーンでマグカップの中をかきまぜる。
その様子を姉がまじまじと見つめてきた。
「どうしたの?」
「いつも思うんだけどさ、それって美味しいの?
私にはコーヒーの苦味のある美味しさを消してる様にしか見えないんだけど」
姉はブラック派だった。
いや、姉だけではなくて家族全員が昔からそうだった。俺がブラックじゃなくしたのも、飲むようになってから結構経ってからのことだった。
「……うーん。甘いほうが好きになってしまったというか、一度やってみたら?」
そう言うと、姉はこくりと頷いて、冷蔵庫からコンデンスミルクを持ってきて、ぶちゅーっとカップの中にそれを噴射した。
「スプーン貸して」
「どうぞ」
俺から受け取ったスプーンでそれをかき混ぜて、怪訝そうな目で俺を一瞥した後、姉はおそるおそるコーヒーの入ったカップに口をつけた。
なんだか俺のほうまでハラハラとしてしまう。
「どう?」
姉は考え込むような表情になった。
「意外といける……かも。てか美味しいねこれ、食わず嫌いしてたのが馬鹿みたい」
「だろ?」と言って姉に笑いかけると「なんか負けた気分……」と姉はむっとした顔をした。
「ちょっと緊張してたりする?」
「……なにが」
「お泊まりデート」
彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いや、言いかただろ。泊まりはそう、正しいけど、デートでは……」
言葉に詰まった。
失敗した。
「あ、赤くなってる。やっぱ意識してるんじゃん」
めんどくせぇ絡みだ。
「じゃ、そういうことでいいよ」
そう言ったら言ったで、彼女は頬杖をつきながら、無駄に間延びしたような言いかたで「つまんないのー」とのたまう。
「ちーちゃんには秘密なんでしょ?」
「秘密って言うか……言う必要もないかなって。
いや、というより言い忘れてた感じかな、多分」
「あ、そう。もう出る?」
さして訊きたいことでもなかったらしい。
「うん」
「そ、じゃあ私、部屋の掃除とかするから。行ってらっしゃい」
「お土産なんか欲しいのある?」
お土産と言っても、道の駅に置いてあるようなメジャーなものしか恐らく買ってこれないだろうけれど、一応訊いておいた方が良いだろう。
「じゃ、写真撮って送ってね」
「おっけ」
そう返したところで、彼女はなにかを思いついたように「あ……」と口にした。
「ハルの楽しい思い出、かな?
宿題ね、それをお土産にして持って帰ってくること!」
「なんだそりゃ」
「まぁ、楽しんできなさいってこと。たまには連絡してね」
「……わかった。それじゃ、行ってきます」
「あーい」
それから少しして、朝食を流しに片付けて、あらかじめ準備しておいた着替えなどの入った宿泊用のリュックを背負って、家の外に出た。
街並みは特に変わらない。
歩いている道も、いつも通りだ。
ただ、なんとなく、空がいつもより高い気がした。
◇
なぎさの家に着くと、彼女はもう門の前にいて、俺を待っていた。
「おはようございます」と彼女が言うので、俺も「おはようございます」と返した。
「なぎさ、親御さん家にいる?」
「あ、はい。今はいますけど、どうしたんですか?」
「えっと、一応挨拶しておかなきゃいけないと思って。
ほら、二日間お前のこと連れまわすわけだしさ」
「あー……そっすか。呼んできますね、ちょっと待ってて下さい」
そう言って、彼女はてくてくと家の門の中へと入っていった。
待っていようとスマートフォンを取り出した瞬間に、横から声をかけられた。
「あ! お兄さん、おはようございます」
「おはよ、今日も散歩? みたいだな」
杏は今日も愛犬の『みたらし』の散歩に行っていたようだった。
「はい、そうなんですー。お姉ちゃんまだ出てきてないんですか?」
「あー、えっとな。お母さん?かな。一応呼びに行って貰った」
俺の言葉を聞くなり、杏は面食らったような表情になった。
「あ、あのー……。めんどくさいことになるかもしれないですよ」
「どうして?」
「うちのお母さん、すごくめんどくさい性格してるんで……」
「それって」
めんどくさい性格ってどんなのだ、と少し考えていたら、杏が「あ、来た」と門の方を指差した。
つられてそちらを見やると、背が高く若そうに見える女の人がなぎさの隣に立っていた。
「どうも、なぎさと杏の母です」
と、その女性は口にして深々と頭を下げた。
俺も少し遅れて頭を下げた。
「あ、はい。……おはようございます。
えっと、なぎささんと土日の間出かけて来ます」
「……」
無言。
かなり空気が重く感じた。
無言の圧力、というか。
……最初に名前とか言うべきだったのに、失敗した。
黙っているのは自分から言えということだろうか。
「あ、あの。なぎささんと同じ高校の、一つ上の学年で、相澤って言います。
なぎささんと杏ちゃんには、大変良くして貰ってます」
これ俺が言うセリフなのか? というくらいかしこまったものを口から出した。
良くして貰ってますというのも、少しおかしい気がする。間違ってはないのだが。
「はぁ、相澤くんね。下の名前は?」
「……ハルです」
名乗るのって恥ずかしいのな。
「ハルくんは、なぎさと付き合ってるの?」
「いえ」
想定内。
なにをもってして想定内なのかは自分でも不明瞭。
「じゃあなぎさと結婚したい?」
「は?」
素で反応しちまった。
まずい、「は?」だなんて年上にはしてはいけない解答……いやいや、質問がおかしいわ。
付き合ってる付き合ってないを吹っ飛ばして結婚したい?だなんて訊く人なんてこの世にいるのだろうか。
や、目の前にいるんだけどどういうことだ、マジで。
「好きな食べ物は?」
意に介してないようだ、少し安心する。
というかなぎさのお母さん、無表情すぎる。
「えっと……。特にないですけど、和食全般好きですね」
「無難だね」
「……はぁ」
「好きな女の子のタイプは?」
この質問を訊く意味はあるのだろうか。
よくつかめない。が、答えるしかない。
「……元気な子ですかね」
「そっか、あ! なぎさとか? じゃあ子どもは何人欲しいのかな?」
「……あの」
さすがに答えあぐねていると、なぎさが前に出てきて、彼女の肩をぺしっと叩いた。
「そろそろ困ってるからやめなよ」となぎさは呆れたような口調で言った。
そうだそうだー、と杏がそれに同調する。
──どういうことだ?
「ちぇー、ダメかぁ。……ごめんねー、ちょっといじってみたかったのよ」
さっきの堅そうな表情から一転、明るい笑顔になったお母さんがそう言ってきた。
「えっと、どういうことですか?」
「先輩、冗談ですよ」
「ごめんねぇー、娘の結婚を許さない父親みたいなことして」
「あぁ……いや、大丈夫です」
「怖かった?」
「……はい、少し」
素直にそう言うと、「そっかぁ、やったね」とわかりやすく喜んでいた。
なぎさと杏と動きがちょっとばかり似ている。やっぱ親子だから似るもんなのか。
「なんてお呼びすればいいですか?」
なぎさのお母さん、というのもなんだかアレだし。
「私のことはミヤコさんって呼んでくれればいいよ!」
「はい。じゃあミヤコさん、ですね」
「お母さんでもいいよ? あ、お義母さんのほうが合ってるかな?」
言い回しで脳内変換を強いてくる。
いや、わかっちゃったけど。
「……ミヤコさんでお願いします」
ミヤコさんがハイテンションすぎて少しついていけない。
なぎさはこめかみに手をあてて呆れた顔をしているし、杏はどうしてかニコニコとしているし。
「えーと……とりあえず連絡先交換しよっか」
「あ、はい。いいですよ」
どうやらLINEの交換らしかったので、QRコードの画面を出してスマートフォンを手渡した。
「どうして簡単に交換しちゃうんですか?」となぎさに睨まれながら言われたので、「まずかった?」と返したら、「いえ、別に……」と煮え切らないような顔をされた。
どうもよくわからない。
はいできた、と返ってきたスマートフォンの画面を見ると『miyako?』──ミヤコさんが追加されている。
「これでなにかあっても連絡とれるね、娘をよろしく!」
言いながら肩をバンバンと叩かれる。
「はい、わかりました」
「じゃあ私、家に戻るから。杏も中入るよー」
「行ってらっしゃい、お姉ちゃん!お兄さん!」
てくてくと二人は門の中に消えていった。
杏に小さくファイティングポーズを向けられたので、じゃあね、と手を振り返しておいた。
──じゃあ行くとするか、と声をかけると、なぎさはいつもの髪型のポニーテールを解いて、今まで見たことないメガネをかけた。
いつも通りかわいく感じるが、雰囲気が変わったような。
少し大人っぽくなった気がする。
ギャップ萌え、メガネ萌え、フェチなのか?
「……どうしたの?」
「なにがですか?」
「髪とメガネ、珍しい」
「変装っす」
「変装?」
「はい」
「なにそれ」
「変装は変装です!」
変装らしい。
◇
「電車の中はさすがに涼しいっすねー」
ぱたぱたと手で身体を扇ぎながら、なぎさが呟く。
なぎさの家から駅まで歩いて、そこから乗り換えの駅まで乗って、やっと座ることができた。
車窓から外の景色を伺うと、空一面雲ひとつないような晴天で、先程よりもはるかに暑くなっているような気がする。
「そうだな……。あのさ、ミヤコさんっていっつもあんな感じなの?」
「……ですねぇ」
他人がいなくてもあんなテンションなのか。
「杏がすごくめんどくさい性格って言ってたけど、テンション高すぎてってことなのかな」
「そうっすね、家にいないことが多いんですけど、いたらいたでうるさくて困りますよ」
たしかにずっと一緒の空間にいたら疲れてしまうようなテンションの高さだった。
でも少し楽しそう、とも思える。
「そういえば、さっきなに買ってたの?」
「あぁ……ええっと、これとこれです」
差し出されたのは、コンビニで売っているような使い捨てカメラと、ちょっとのお菓子。
「カメラ?」
「はい! いい景色とかあったら写真に残しておきたいなーって思いまして」
小学生のときの遠足やら修学旅行やらで使った記憶がある。
電気屋さんとかに持っていって現像してもらうんだっけな。
「スマホとかデジカメとかで良くない?」
「これ結構じわじわと人気が出てきてるんすよー」
「そうなんだ」
「はい、レトロな感じが出て、かっこよくとれますし……」
知らなかった。
でも、ちょっとわかる気がする。
「それにですね、海の中でも取れるんすよ!」
彼女は嬉しそうに言う。
ほんとか、と一瞬疑ったが、パッケージに防水って書いてあるのでそうであるようだ。
「あれ、海のほうって言ったっけ?」
「え……あ、はい。ききましたききました」
言ったっけ? いや、ちょっと知識があれば切符でわかるか。
なぎさが首を縦に振ったからか、おろしている長めの髪がぶんぶんと揺れるのが目に入る。
たまに払っているのをみると少し邪魔そうだ。
服装は、セーラー服みたいなワンピースを着ていてよく似合っている。
「あの、先輩、なにじろじろ私のこと見てるんすか」
バレた、あたりまえか。
「……いや、みとれてた」
「そっすか」
スルー、圧倒的スルー。お兄さん悲しいよ。
なぎさはそのまま窓の外を見ながらスマートフォンをぴこぴこ(どちらかといえばタプタプと)いじりだした。
つられて俺もスマートフォンを取り出した。現代人らしい暇つぶし方法だ。
画面を見ると、吉野さんからLINEがきていた。
『こうた君ってどんな服好きか知ってる?』と。
なんというか、デジャブな出来事だった。
コウタが遊びを取り付けたと喜んでいたが、これは結構いい線いってるのかもしれない。
そう考えると、僅かにだがその場で微笑んでしまった。
『吉野さんならなんでも喜ぶんじゃない?』と送ると、『いや、参考にならないんだけど』と。
適切な解答を得るために何度か突っ返されたが、俺も負けじと同じような文面で送ると、しぶしぶながらも納得してくれたようだった。
それから、コウタに『やったな』と送ると『意味わかんない』と返ってきた。
考えてみれば当然のことだ。
少しした後、なぎさは「あ」と口にした。
「杏から、ツーショット送って欲しいってきました!」
「なぎさと俺の?」
「はい」
「今撮るの?」
「です。撮りましょうよ、ね?」
「……」
スマートフォンを手に、きらきらとした目で見つめられる。
ていうかあのカメラじゃなくていいんですね……。
「そっちいきますね」
沈黙は肯定と受け取ったのか、なぎさは俺の隣に位置を移してきた。
「先輩、もっと近く寄ってください、うつりません」
そう言われたので、しぶしぶ頷いて、身体を近くに寄せた。
ふわり、と甘い香りが鼻を刺激した。
女の子特有の良い香り、ヘンな気分になりそう。これまた性癖か。
なぎさといい千咲といいなんなんだろう、と考えていると、なぎさは画面に内カメを表示させて、それに向かってピースサインをつくる。
俺もそれにならって同じようなピースサインを作った。
ぱしゃりぱしゃり、と数回シャッター音がなって、そのあとなぎさは満足そうに笑った。
「よく撮れた?」
「はい! ありがとうございます。
この写真の先輩、顔赤いですよ?」
「……ほっとけ」
俺がそう言ったのを聞いて、なぎさは、えへへ、とくすぐったそうにはにかんだ。
◇
突然なんとなく思い付きで、というか、前から気にはしていたことではあったのだが、なぎさの誕生日がいつであるのか気になった。
杏曰く夏が誕生日。でも、もう過ぎたというようなアクションは起こしてきていない。
なったらすぐに俺に言ってきそうだし(偏見)。
そんななぎさは、今俺の肩にもたれかかって睡眠をとっている。
さっきのやり取りのあと、話をしたり途切れたりが繰り返されて、県境を越えたあたりになぎさが眠たそうな顔になっていたので、寝ることを勧めた。
──ごめんなさい、えっと……昨日の夜楽しみであまり眠れなかったんです。
と彼女は申し訳なさげに俺に謝った。
原因はちがうけれども、二人して同じように寝不足気味だったのが少し面白く思えた。
眠いなら寝ていいよ、と言ったときは逆側の壁に身体をくっつけていたのだが、時が経つにつれて、俺の方にぐらぐらと揺れてきて、今の状況に至る。
寝ているなぎさの近くにいると、この前のことを思い出してならない。……はっきりとではなくおぼろげにではあるが、あのときの感覚は身体に残っている。
またなんとなく隣にいる彼女の髪を撫でる。無意識。
つい良からぬことを考えてしまいそうになるのも、そうなんだろう。
四人席の片側に二人で座って逆側に荷物を置いているからか、周りに座っている家族連れだとか、通路を通りすぎるお年寄りだとかにちらちらと見られる。
どうにも落ち着かない。
少しの間、自宅から持ってきた文庫本を取り出して読んだ。
章末まで読み進めるのがやけに早かった。
また手持ち無沙汰になる。
お返しだ、と思って幸せそうに寝ている彼女の寝顔のまえにスマートフォンを持っていく。
この光景を8メガピクセルカメラで撮りたい。撮った写真をiCloudで共有──それができる。そう、iPhoneならね。
ちなみに俺のスマートフォンはアンドロイド製だった。
瞬間、車内にシャッター音が響き渡る。
……あ、無音モードにするの忘れてた。
なぎさが目をぱちぱちとさせる。
起こしてしまった。
「……えっ?」
驚いている。実際起きたときにカメラが自分の顔の前に有ったらどう思うのだろう。
普通にこわいな……犯罪者みたいだ、うん。
「いや、なんでもない」
「……私の顔なんて撮って何に使うんですか?」
たしかに、そう言われるとどうにも返しようがない。
「保存用?」
「あの、もっと良く撮れてるのにして下さい」
べしべしと脇腹を叩かれる。
怒るのはそこなんですね。
「……消してください、恥ずかしいです」
「……」
ノーという意味を込めて首を横に振った。
なぎさはそれを見てむっとした表情で俺を睨む。
「先輩……起きてるときなら、全然かまわないんすけど、寝てるときは、その……駄目です!」
じゃあ消すか、と思ったときに降車駅を告げるアナウンスが鳴った。
終点だ、降りてからはバスで祖父母宅に向かう。
「なぎさ、次で降りるから準備して」
「えっと、消していただけないんでしょうか」
「……いいから、荷物持って」
逃げた。なんか消したくなかった。
「あとで後悔しますよ?」
「いいんじゃない?」
よくわからないけれど、そう返した。
◇
電車から地面に降り立つと、あまりの暑さに身が悶えた。
そばに置いてある電波時計が指し示す時刻は正午ぴったり。
一日のなかでもとくに暑い時間帯だった。
階段を降りて駅なかのお土産ショップのまえを通ると、なぎさが声をあげた。
「先輩! くまねこちゃんが居ますよ!」
なんだそれ、と思ってなぎさが持っているキーホルダーを見ると、以前送ってきていたLINEのスタンプのきもかわ系ゆるキャラだった。
「これってここのゆるキャラだったの?」
「そうっす、はい。かわいいっすよね、愛くるしいフォルムで」
改めて見るとパンダとだけあってまんまるとした体型だ。
中国ではパンダのことを大熊猫と表記すると聞いたことがある。
でもこの地域にパンダってなんの関係があるんだろう、見当がつかない。
それに、かわいくデフォルメされているはずなのに、耳は謎の方向を向いているし、口だって変な開き方をしている。
……なんだろう、これ。
「……そうだな、かわいいな」
「ほんとに思ってるっすか?」
「うん、かわいいかわいい」
なぎさに言っているみたいだ。一人で恥ずかしくなる。
「あの、先輩。これ買っていいですか?」
なぜ俺に訊く。
どうぞ、と告げると、なぎさは小さい子どものような喜びかたをして、レジに会計をしに行った。
待っている間に、自動販売機で飲み物を買う。
すっぱい飲み物を身体が欲していて『すっぱさ100倍!夏の暑さにはこの一本!』とラベルに書いてあるレモンジュースを購入して飲むも、一口で飽きた。
そのあと、駅の外に出てバスターミナルに向かう。
さすがにこの時期ともあってか、バスターミナルは混み合っていた。
ここにいる人の大抵は人気のある観光スポットに向かうバスに乗る観光客だったり、まず都市付近からバスツアーで乗ってきた人だ。
いま住んでいるところからしたらだいぶ田舎ではあるのだが、田舎なりの産業だったり、海が近くだから遊泳場所として人気があったりしてそれなりに栄えている。
だが、俺らが今から行くのは、もっと閑散としている場所で、さして人の往来が多くない。
まぁ、今日はそれなりに混んでいるけれど。
二人で長蛇の列を通りすぎて、目当てのバス停に並ぶ。
向こうのバス停には、二階建てのバス(どう言ったらいいものかよくわからない)が数台停まっている。
「あと何分くらいで来るっすか?」
なぎさはそう言いながら、カバンの中から帽子を取り出し、それをかぶった。
「えっと……あと十分くらいかな。
暑いならなかで待っててもいいけど、どうする?」
「……大丈夫っす、暑いのには結構慣れてるんで」
「そっか、じゃあここで待ってるか」
「そうしましょう」
会話が切れて、さっき考えていたのに忘れていたことを思い出す。
「なぎさ、ひとつ質問していいか?」
「い、いきなりですね。はい、なんでしょう」
彼女はこちらを振り向く。
「前から気になってたんだけど、おまえの誕生日っていつなの?」
「……きょうですよ」
「え?」
きょうって、なんだろう。
凶? 狂? それとも強?
バカな変換を頭の中でしてみたが、普通に考えて、"今日"である他ないのは承知の上です。
「きょうって今日? トゥデイ?」
「はい、今日のトゥデイっす」
「マジで?」
「マジです」
いや、マジか。
……知らなかった。
「どうして言わなかったの、おめでたい日なのに」
「……なんとなく、です」
ちょっと間があった。なんとなく、というわけでもないらしい。
「そっか、まぁなんというか……。誕生日おめでとう」
「あ、あの。ありがとうございます。今年の誕生日で家族以外の人に祝ってくれたの、先輩が初めてっす」
にこぱー、と晴れやかな表情を見せてくる。
本当に嬉しそうだ、見てるこっちまで顔が緩む。
そうしているうちに、目当てのバスが来て、それに乗り込む。
狭いバスで二人席しか空いていなかったので、隣同士で座席に腰掛けた。
「私ももう来年には十七歳ですよ、セブンティーンです」
女子向け雑誌の名前みたいな言い方をされた。
ああいう系の雑誌って見出しだったりで過激なこと、いや……言っちゃえばエロいことが書いてあるから、本屋で女子向けコーナーを過ぎ行くときに少し驚く。
ああいうのから女の子はそういう知識を得ているのだろうか、ちょっと気になる。
「それで、四年後にはもう成人ですよ、なんだか時間の流れがはやく感じます」
「でも四年は長いんじゃない?」
「えー、そうでもないと思いますよ?
日々をぼんやり過ごしていたら、すぐ過ぎてしまいそうな気がします」
そう言って、なぎさはメガネをくいっと上げる。
言われてみると少しわかるような気もする。
「早く大人になりたいけど、歳はあんま取りたくないな」
「ジレンマっすね」
「はぁ……歳とりたくねぇな」
それはどーなんでしょうね、と彼女は俺に同情するように笑った。
「先輩は、明後日が誕生日ですよね?」
「……そうだけど、知ってたの?」
そういえば俺のほうも自分の誕生日を言っていなかった。
でもなぎさが知っているってことは、言ったことがあるんだろうか。
「このまえ、楓さんに聞きました。『祝ってあげてね、喜ぶだろうから』って」
「あ、そう」
「先輩の名前の字面からなんとなくそうだと思っていたんですよ」
「……そうなんだ。でも、あれでわかるの?」
「はい。なんとなく、ですけど」
誕生日を祝ってくれる人が多いのは嬉しいことだ。
今年は毎年よりも多くの人が祝ってくれるような気がする。
少し話が逸れた。
「……あのさ、誕生日プレゼント。なんか欲しいものとかあるか?」
本題はこっちだった。
「あー……。えと、気持ちだけで嬉しいっすよ。
さっきいきなり言ったのにプレゼントを準備してっていうのも悪いですし」
「いや、遠慮しなくてもいいんだぞ?」
いろいろと世話になってるし。
「そうですね、じゃあお言葉に甘えます。
ちょっと考えても良いですか?」
彼女はそう言って、わかりやすくうんうんと唸っていた。
俺も俺で、自分だったら何が欲しいかな、と考える。
昔だったら、誕生日にはおもちゃとかを買ってもらっていた。
小学校のときは、夏休み中だから友達に誕生日を祝ってもらえなくて、ちょっと寂しく思ったことも少し覚えている。
去年は姉がケーキを作ってくれて、プレゼントに腕時計をもらった。
秋生まれの姉の誕生日には、近くのケーキ屋で買ったチョコレートケーキと、バラのアレンジメントをプレゼントした。
人それぞれ大なり小なり違いはあるにしろ、貰ったら嬉しいと思うだろう。
そんなことを考えていたときに、なぎさが「あ!」となにかをひらめいたように呟いた。
「わたし、いま十六歳ですよね」
「そうだな」
「先輩も、いまこのときは十六歳で、あと二日間だけ一年の間で同い年じゃないっすか」
「うん」
「……だから、先輩のこと…………今日と明日だけ、名前で呼ばせてもらってもいいですか?」
上目遣いやめろ。
……萌えた、嘘。いや、嘘じゃないわ。
「……べつにいいけど、そんなんでいいの?」
「はい! 嬉しいです!」
もっと物とかをねだってくれてもいいのに、とも思う。
でも、これで嬉しいと感じてくれるのならお安い御用だ。
「わかった。じゃあ、なんて呼びたい?」
「……えっと、『はる』はちょっと馴れ馴れしすぎですよね」
それならあまり驚かないレベルだ。
「いや、それでもいいけど」
「千咲先輩の呼び方も、なんとなく抵抗ありますね」
抵抗ってどんな抵抗だ。
というか、俺はいつからはーくんと呼ばれているのだろうか。あまりよく覚えていない。
「そうっすねー……先輩にあだ名を新しくつけるのも恐縮ですし、間をとって『はるくん』というのはどうでしょう?」
あんまりいつもと変わっていないように感じるのは俺だけか?
「……どうぞ、なんなら敬語外してもいいと思うけど」
「えぇー、それは違うっすよ。
はるくんは、あくまで先輩ですから」
自然に使われた。自分で変わっていないと言ったけれどちょっと照れてしまう。
それと同時に、なにか引っかかりのようなものを覚える。
普段から適当な敬語なのに(たまに敬語外してきたりして戸惑うこともある)なにかこだわりでもあるんだろうか。
たとえば、礼儀を払いたいとか。
……ないわ、ないな。
頭の中での思考を瞬時に否定した。
「わかった。じゃあ俺も『なぎちゃん』って呼ぼうか?」
「え」
姉とか千咲とか、みんなそう呼んでるから。
そんな結構軽い理由で口にした言葉だったのに、そう言った瞬間になぎさは口を開けたままフリーズした。
「……だめだった?」
「あ、はい」
「なんで?」
訊くと、一度目を瞑ってから、彼女は話し始めた。
「……ええっと、私のメンタルが持ちません。はるくんだって、くんを取って呼ばれたらそう思いますよ?」
「そう?」
「……そうっす、これは禁止技とか反則技というやつです」
「そっか、それじゃ呼ばないね……なぎちゃん」
好奇心。許せ。
「……」
なぎさの顔がみるみる赤く染まっていく。
異性にそう呼ばれ慣れてないってことなのだろうか。学校での様子を見る限り男との関わりは皆無っぽいし。
そんななぎさの顔を見て、自分でも結構イヤミな顔をしてなぎさを笑ってしまった。申し訳ないとは思っている、多分。
「……あのですね、はるくん。禁止って言葉、わかりますか?
き・ん・し! ですよ? やっちゃいけないことなんです!」
怒られた。というよりは諭された。
「わかったわかった、呼ばないから」
「それでいいんですよ」
呼ばないようにしよう、好奇心は猫をも殺す、なんて言うし。
仮に本気で怒られでもしたら、たまったもんじゃない。
あとひとつ、思い出した。
「そういえば、俺の家来たときに、言ってたことあったじゃん」
「……なんでしたっけ?」
「えっと、杏がモテるって話」
なぎさは、そんなこともありましたね! みたいな様子で手をポンと叩く。
「なぎさは杏とちがって、モテるモテない以前に友達の数が少ないからありえないって言いたかったんでしょ?」
「は?」
「え、ちがうのか」
「……普通にちがいますけど、否定しきれないのが嫌ですね」
そうか、ちがうのか。
「私だって、男友達はほぼゼロですけど、女の子ならそれなりにいますよ?」
「……」
「ほんとですよ?」
念を押されると逆に怪しい。
「うん、信じてる信じてる」
「……なんですか、その棒読み」
なぎさは不満げに、ぷいっと首を横に振った。
「いや、かわいいんだから……友達くらいちょちょいのちょいで出来そうだな、って思って」
フォローのつもりでそう口にした。
すると、まだ言い終わらないうちになぎさはこちらに向き直り、不意を突かれたとでも言うような顔で俺と目を合わせてきた。
戸惑ったような眼差しは何か言いたげに見える。
「なに」
「……い、いやー。その、嬉しいなぁって」
「……」
褒めてないんだけどね。でも気付いてないならいいか。
「そうですね、私も社交性を磨かなきゃいけませんね」
「……なぎさは結構社交性あると思うんだけどな。
姉さんとか千咲とかともすぐ仲良くなってたじゃん」
バイト時の接客だったりも問題ないし、俺と話しているときも気さくな感じであるし。
「まぁ……実際のこと言いますと、あんまり必要としていないんですよね。
話が合う人そんなにいませんし、一人でいるほうが落ち着きます」
まえに昔は大人しかったと杏が言っていたし、本当のことなのだろう。
一人が好きじゃなかったら、こうやって会うことも出かけることもなかったのかもしれないのか。
……なぎさには悪いけど、ちょっと嬉しいな。
◇
しばらくバスに揺られたあと、祖父母宅から一番近いバス停で降車した。
先ほどの駅からすると、周りはだいぶ田舎めいている。
付近を見渡すと、そこらにローカルなコンビニだとか、寂れたようなガソリンスタンド(当然無人である)が主張するくらいの有様だ。
ただ、ほんとうに小さい頃とちがっているのは、結構足元がコンクリートになっていることだ。こういったところで、少しずつ田舎感が薄れていくのだろうと思う。
とはいえ、なぎさと俺が住んでいる地域に比べれば、高層ビルのような視界を遮るようなものもなく、街並みだったり青空だったりが、よりクリアに映る。
バス停から家に向かおうと、その方向に歩き出そうとしたとき、横からクラクションを鳴らされた。
なんだよ、と思いながら音の方向を向くと、緑色の軽自動車の窓が開いた。
「いらっしゃい、外暑いから迎えに来たのよ」
……ばあちゃんだった。
「あ、ありがとう。ばあちゃんって車運転してたっけ?」
「うんと、買い物とかで結構乗るのよ。
今日はおじいちゃん昼過ぎまで忙しそうだったからねぇ」
「そうなんだ」
「じゃ、後ろ乗りなさい。お友だちも……て、あら。女の子なのかい?」
ばあちゃんは視線を横にずらしてなぎさと目を合わせる。
なぎさはそれにぺこりと頭を下げた。
「こんにちは、えっと……なぎさと言います。
せんぱ……はるくんと、同じ学校の後輩です」
「そうかいそうかい、後輩の子ね」
「はい、 二日間お世話になります!」
なぎさはもう一度深々と頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくね。
ハルがお友だちって言うから、てっきり男の子だと思ってたのよ……ごめんなさいねぇ」
──じゃあはい、後ろ乗って乗って、と乗車を促されたので、なぎさに先に乗ってもらって、俺もそれに続いて車に乗り込んだ。
すぅー、はぁー
と、大きく深呼吸をする。
外がかなりじめじめとして暑かったのでクーラーの効いた車内は天国だ。
隣に座るなぎさも、ばあちゃんに許可を取って飲み物を少し飲んだあとに、俺と同じように、ふぅっと息を吐いた。
「電車と市バスでここまで来たんだよねぇ……だいぶ疲れたでしょう?」
赤信号で止まって、こちらを振り向いたばあちゃんがそう口にする。
「いや、あんまり。そこまで疲れてはないよ」
「なぎさちゃんは?」
「えっと、私もそこまでは疲れてないです」
「よかったわ。おうちの人とか、ちゃんと許可もらってきたのよね?」
「……あ、はい。それはばっちりです」
「そう、それなら安心ね」
青信号になって、話題が変わる。
「……ハル、お父さんはまた帰ってないのかい?」
「まぁ、そうだね。帰って来てないよ」
聞くや否や、ばあちゃんはわかりやすくため息をついて、「全くあの子は……」と呟いた。
こちらからは表情は伺えないが、たぶん呆れたような表情をしているのだろう。
「そういえば、お昼まだよね?」
「うん、まだ」
「じゃあ、どこか食べに行きましょうか」
どこか外食に連れて行ってくれるらしい。
がらがらの道路を左折して、少し混み合っている国道沿いの道路に入った。
父親の車でこっちに来るときに、いつも通っている道だ。
海のほうへと進んでいき、橋を通過する。
しばらく進むと、車の量がさらに増えてきた。
「ばあちゃん、こっちにお店ってあったっけ?」
「そうねー……。こっちの方向に何があるかわからない?」
こっちの方向か。
一応、なぎさを連れて行くので、ここらへんの地理についてはもう一度確認しておいた。
でもそうか、食べるところ……いや、あるにはあるのか。
「……水族館?」
「そう! そう、水族館よ。ハルはまだ行ったことなかったはずよね」
たしかに、水族館は数年前にできたばかりで行ったことはない。だから、一緒に行こうと考えて、少し調べていた。
ちらりと真横を向くと、水族館というワードを聞いたなぎさが「おぉー」と声を上げた。
「フードコートがあるからそこでお昼にしましょう。
なぎさちゃんもハルも観光したいわよね?」
ふふっ、と機嫌の良さそうな微笑が漏らされた。
「はい! 水族館楽しみです!」
なぎさは嬉々とした声音でそう口にした。
まぁ、俺も水族館に行きたいかどうか訊く手間が省けてよかった。
◇
「はるくん! こっちです、こっち!」
はしゃぐ彼女に手を引かれて、大水槽の前へと足を進める。
入口付近には地域の海が映し出されたスクリーンがあり、多くの人がその場で立ち止まっていた。
館内には家族連れが多く、かなり賑わっていて、夏休みとはいえ、その人気の高さが伺える。
内装は水族館ならではのゆったりとした幻想的な空間を作り出している。
外装においても、白を基調としたお城のようになっていて、他にはない真新しさを感じられた。
「おばあちゃんも来ればよかったのに、って思いますよね」
「だな……。でも、夕飯の買い出しって言ってたから、仕方ないな」
「……そうですね。ま、私たちだけでも楽しみましょう!」
ばあちゃんはここに着いて俺らを降ろすなり、車でそのまま帰ってしまった。
夕方、閉館時間くらいに迎えに来ると言っていたから、それまでは二人っきりということになる。
先導する彼女の少し後ろについて進んで行くと、ひときわ大きな水槽が立ち並ぶコーナーに到着した。
「きれいですね……。今まで来た水族館のなかで一番かもしれないです」
ガラスに手をつけたなぎさが感嘆の声を上げる。
つられてその方向を見る。
彩り豊かな海藻とともに小型の魚がすいすいと泳いでいる。
俺も、この場所が好きかもしれないな。
落ち着くし、なにより退屈しない。
「他にはどこに行ったことあるの?」
「うん……と、美ら海水族館に行ったことありますね」
「沖縄ね」
「そうですそうです、行ったのは小学生のときだったのであんまり覚えていないですけど。
……はるくんは、どうですか?」
「ここの前にあったとこは何回か」
「おお」
「あとは、シーパラだかシーワールドだかそんな名前のやつ」
「わかります。どっちにしてもなかなか遠いですね」
「でも沖縄のほうが」
「あっ……たしかに」
彼女はなるほど、と言わんばかりに手をポンと鳴らす。
「なぎさは、特に見たい生き物とかいる?」
「……迷いますね。ちょっと考えます」
うむむとわかりやすく唸っている。
少しの間考え込む彼女を見ていると、やがて前髪を払って眼鏡をきゅっとあげ位置を直して、こちらに向き直った。
「一番は、エイですかね。でも、みんなかわいかったりかっこよかったりして大体好きですよ」
「じゃあ、エイのコーナー行ってみるか」
付近を見渡すと、今見ていた水槽の反対側、人だかりができている水槽の解説ボードにエイがいると記されていた。
「おおー。これがホシエイで、あっちがアカエイです」
どっちもかわいいです、と彼女は付け足す。
「……全部同じに見えるんだけど」
「違いますよー! ちゃんと見てくださいよ」
見る。が、そこまで特徴が掴めない。
「エイのどこが好きなの?」
「難しい質問ですね……。
フォルムもかわいらしいですし、ゆるい動きもなかなか」
「うん」
「でも、やっぱり、裏側の顔ですかね」
「……あれ顔じゃなくないっけ?」
「知ってますよー。目はちゃんと前にありますし」
知ってたか。
まあ、そりゃそうか。
「たとえばですね、お腹の顔が鬼みたいに怖い子もいれば、それこそゆるキャラみたいにかわいい子もいて、みんな違うんです。
そういうところが、すごく好きですね」
みんなちがってみんないい、的な。
「そっか」
「そうです!」
「写真、撮ってやろうか? ちょうど、後ろに二匹いるし」
「おおー。ぜひぜひ、お願いします」
手渡されたカメラで、片手でエイを指差し、もう片手でピースをつくる彼女を写真に収める。
どう写っているかはわからないけれど、(たとえば反射とか周りの暗さとか)
まあ、自分の視界にかわいい女の子がいるので良しとしよう。
その後なんとなく水槽を眺めていると、大量のイワシが目の前をぐるぐるとまわりながら通過した。
流れる音楽に合わせて、銀色のきらきらとした群れが縦横無尽に移動する。
「あれ、エサに操られてるらしいですよ」
「そうなの? てっきり音楽とか感じ取ってるのかと思ってたわ」
「えー……けっこう有名ですよー」
言われてみれば、感じ取ってたら取ってたで少し怖いような。
「……なんか、夢がない話だな」
「ふふっ、ごめんなさい」
ちょっと考えてみた。
イワシ。漢字で書くと鰯。
魚へんに弱い(弱し)が変化した説と卑しいが変化した説があると聞いたことがある。
いずれにせよ、群れていないと水槽内の他の魚に食べられてしまいそうだ。
なんだろう、人間とそこまで変わらない……?
むしろ、仲間が近くにいるだけ幾分マシにすら思えてしまうくらいのものだ。
「……とりあえず、イワシ最高だな」
「そうですね、おいしいですし」
彼女の返答を聞いて、普通水族館にいるときに美味しいという感情を抱くのだろうか、と思った。
水族館に来ると、綺麗だ、かっこいい、凄い、とかそんなレベルの感想しか出てこない。
「はるくんの好きなお魚さんは何ですか?」
「そうだな……サメかな、シャーク」
「あー、ちょうど目の前にいますね。
サメについてはあんまり良くわからないですけど、これはハンマーヘッドシャークですよね?」
「うん、そう。別名シュモクザメ」
「はるくんもなかなか物知りですね」
「まあ、かっこいいからな。男は誰でも一度はサメかっこいい! ってなるんだよ」
「へー、なんだか意外ですね」
「そう?」
「そうですよ。なんですかね、クラゲとか好きそうだなって思ってました」
「んー。まあクラゲも好きだけど」
「ですよね! この前はるくんのお部屋にクラゲのストラップがあったので、好きなんだろうなあって」
よく覚えてるな。
あさっては無いだろうけど(クラゲのストラップも机の横に掛けている状態だったと思う)自分の部屋の中身について言われるのはなんだか少し気恥ずかしい。
「それに、おっきいぬいぐるみもありましたし」
「あー、うん。あるな」
「私も、ああいうかわいい系のぬいぐるみが欲しいですね」
がっちりホールドされてたやつな。
そういえばあれっていつ買ってもらったんだっけか、あまり覚えていない。
「いつもはなにか抱いて寝てるの?」
「ええっ……? ど、どういうことですかそれは」
言うなり、なぎさはびっくりしたような表情になって、両手で肩を抱いて後ずさりした。
そんなにまずいことは言っていないはずだから、俺の言葉が足りなかったのか。
「や、朝見たときにぬいぐるみ抱いて寝てたから」
「あ、あー……。なるほど、そういうことですか」
「他にどういうことがあるんだよ……」
「まあいいじゃないですか、こっちの話です」
「そっか。で、どうなの?」
「えー……。そんなに気になりますか?」
なぎさは俺に向けて困ったように笑う。
「それなりには」
「そうですね……。
杏が中学校に入学するまでは、ずっと一緒の部屋で寝てました」
「おお」
「身長的にも柔らかさ的にも、ちょうどいい感じでしたよ」
たしかに、身長差は十センチ差くらいだった。
その身長差なら抱きしめられたらすっぽりとおさまるだろう。
その姿を想像している俺に、「でもですね……」と彼女は呟く。
「でも、春からは流石に毎日抱きしめられるのは嫌だって言われて。
別の部屋になってからはなんだか頼もうにも頼めなくて……」
「で、ぬいぐるみで我慢していると」
「そうなんですよ……。つらいです、おかげで寝起きが悪くなってます」
一緒に寝て、多分一緒に目覚めもする(しかも抱きしめられて)。
めっちゃ百合百合してんな、この姉妹。
姉と千咲もたまに抱き合ったりしているのは見るが、改めて考えてみるとすごいな。
男同士抱き合ってたら気持ち悪い(一般的)けれど、女の子同士なら見てていい気分になる。
「姉妹って、素晴らしいな」
「……はるくん。なにか失礼なこと考えてませんか?」
「んなことないぞ。もっと他のエピソードはないのか?
なぎさと杏がいちゃいちゃしてるやつとか」
「いちゃいちゃ、って……」
と彼女は怪訝そうな表情をした。
「うん」
「えぇっ……。大したことないですよ、私たち普通の姉妹ですし」
「んー、なんかあるだろ」
「はあ……。いや、恥ずかしいので話しませんよ。
これはプライバシーです、たぶん」
「そう言われると余計に気になるな」
「ダメです! この話はもういいですから、先に進みましょう。
……置いて行っちゃいますよ?」
そう言ってぷいっと顔を背けたものの、本当に先に行ってしまうというわけではなかった。
一方通行になっている一階のフロアももうすぐ突き当たりだ。
さっきのことについては、今度杏に訊いてみることにするか。
◇
周りと比べて比較的明るくなっている養殖場を再現したコーナーを抜けた後、外へと続く扉の前まで到着した。
外から差し込む日差しはまだまだ暑さを感じさせる。
壁にくくりつけてある解説ボードには『お魚さんたちと触って遊ぼう! ふれあいコーナー』と銘打ってある。
なぎさに軽く許可を取って外に出ると、ふれあいコーナーという名称通り、子どもからの人気が高いようで、親子連れが多かった。
すぐ近くの人が多い場所はビーチのようになっていて、子ども達がバシャバシャと水を掛け合っている。
「あついですね、やっぱり」
どこかで貰ったのか、水槽がプリントされたうちわを扇ぎながら、なぎさは言う。
「だな、さっきまでが天国だったみたいだ」
「あそこにいる子ども達、なんであんなに元気なんですかね?」
「若さじゃないかな」
「なるほど……。精神的な若さ、ですか」
「うん、そう。そんな感じ」
「じゃあ、若返りも兼ねて、私たちも入っちゃいますか?」
まあ、俺らくらいの年代で足だけ水に入れてる人は居ないことはないが。
なぎさはワンピースだからいいけど、俺は普通にズボン履いてるし。
どうぞ、と手で促すと彼女はふっと笑った。
「……やっぱりいいですかね」
「いいのか?」
「はい。考えてみたら、靴下脱ぐの面倒ですし」
「そっか」
「あっちのほうに行ってみましょう」
彼女が指をさした方向には小さめの水槽が並んでおり、年齢問わず様々な人がその前に並んでいる。
どうやら、『ふれあいコーナー』とはあそこのことを言っているらしい。
近付いていき、解説ボードを見ると、ドチザメ、ネコザメ、イヌザメ、イトマキヒトデ……などの海洋生物に触って遊べるということだった。
「サメですね」
「うん、サメだ」
「家で飼えそうなサイズ感ですね」
「そうだな……飼ってみたい気もする」
「どんだけサメのこと好きなんですか」
また彼女はふふっと苦笑に似た笑みをこぼす。
前に並ぶ人々はわーきゃー言いながら水槽の中の生物に触れている。
外気にあたって、しかもこんな暑い中で、大丈夫なのだろうかと少し心配になる。
自分たちが触れる番になり、二人揃って近くにいるサメに手を伸ばすと、
「わわっ……肌がザラザラしてますこの子!」
と彼女は声をあげた。
そりゃサメなんだからサメ肌で当然だろうと思ったが、初めて触る身からすれば、驚くのも無理はないのかもしれない。
「なぎさはどれがかわいいと思う?」
「えーと……。この子です、しましま模様でかわいいです」
「ネコザメか、かわいいよな」
「そうですねー。はるくんが触ってるサメさんはなんていう名前なんですか?」
「これはドチザメ、んであっちにいるのがイヌザメ」
「……ほー。やっぱり物知りですね」
「まあな」
「じゃあですね、そんな物知りのはるくんに質問です!」
びしっと俺の前に人差し指が突き立てられる。
「イヌザメってどうして犬ってついてるんですか?
犬を飼っている私からしたら、この子とみたらしは似てないですし、気になりますね」
「なんだっけな……」
サメ好き(自称)の俺からしたら知っていて普通のことであるかもしれないが、普通に考えてそこまで詳しく知っているわけがない。
ネコザメは頭部の突起がネコのようだ、だとか、目がよく見ると猫目である、といった理由から来ているというのは昔何かの本で読んだ記憶はあるが……。
「どうですか?」
「そうだな、まったくわからん」
「えー。じゃあ、私の勝ちですね」
「これ勝ち負けあるの」
「そうです、私の勝ちです」
「……どうしてか知ってるってこと?」
「いえ、知りませんよ?」
「じゃあどうして」
なんのことだ、と一瞬考えて彼女を見ると、彼女はえへんと胸を張って嬉しそうにしている。
……もしかして、こいつは学習しないのではないか。
とはいえ、胸を張った彼女に対して何度も照れてしまうような失態を犯すことはなく、調子に乗るなという意味を込めて脇腹を小突いた。
「お? やりますか?」
攻撃をされたのにも関わらず、彼女は嬉しそうに頬を緩めて、俺に反撃を返してきた。
水に入れていない側の手で頬をつねられる。
なぜか、抵抗するのも嫌だなという気持ちになって、されるがまま数秒間つねられた。
その反応が意外だったのか、彼女は首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや……。なんでもない」
「そうですか……」
「……」
「もしかして、不用意に触られるのが嫌でしたか?」
「ん? いや……」
「えっと……嫌じゃないならはっきり言ってください」
心配性か。
「嫌じゃないよ。お前の手ひんやりしてて気持ちよかったし」
「……おお、セクハラ発言ですか」
にひひ、とわざとらしく笑われた。
「いやいや、ちがうから」
「どうなんでしょうかね、あはは」
勝手に触られて喜ぶ変な人扱いされてしまったらしい。
……間違ってないし、もともとそう思われていた可能性もあるが。
前々からボディタッチは少なくなかったしな、仕方ない。なぎさだって悪い。
「はあ……。次の人待ってるみたいだし、そろそろ離して」
「……そうですね、そろそろお昼食べに行きますか」
「うん、そだな。さすがにさっきよりは混んでないよな」
「もうピークは過ぎたとは思いますけど、二時ですし」
「じゃあ、行くか」
ささっと最後にドチザメをひと撫でして、列から抜けた。
それにしても、もう二時過ぎか……。
自分が思っていたよりも時間が早く過ぎているらしい。
朝以降特に何も口にしてはいないが、大してお腹が空いたということも感じない(時間を気にしなければそうなることはたまにあるが)。
それもこれも、彼女と二人でいるからなのだろうか。よくわからない。
隣を歩きながら、他愛のないことを話しかけてくる彼女の横顔が、俺には眩しい……のは気のせいか?
仮に気のせいではなくて、そうなのだとすれば、俺ってだいぶちょろいんだなあと思う反面、なんだかどうしようもなく怖いとも思ってしまう。
今日は、いつもとちょっぴりちがった感覚で、いつもとちょっぴりちがった彼女で。
……でも、それももしかしたら、すべて俺の捉え方の問題で、何一つ変わっていないのかもしれない。
「ね、はるくん」
「……どうした?」
「さっきの、名残り惜しかったら、いつでも触ってあげますからね?」
「さっきの……って?」
「もう! はるくん私に触られて喜んでたじゃないですか」
「ああ、うん」
「えへへ、ついに認めちゃいましたね」
「……認めるも何も、俺は最初から嫌じゃないって言ってたし」
「え、ええと……。そうですか。じゃあ、触って欲しいときは遠慮なく言って下さいね、触ってあげますから」
そう言って彼女は得意げに眼鏡の位置を直した。
ドラマかアニメにありがちな直し方だな、と笑いそうになった。
「それさ、なんか……」
「……へ? なんですか?」
「なんていうか……字面だけ見ればいかがわしいニュアンスだよな」
「……は」
固まった。
と、同時に肩を強く叩かれる。
「ばかですか! 全然ちがいます!」
「ふっ、どうなんでしょうか」
さっきの彼女の真似をしてみた。
すぐにうわー、と冷めたような顔で見られた。
「あ、わかりましたわかりました。
頼まれても絶対に触ってあげませんからね」
「うん、まあ別にいいけど」
「……え?」
「どうした?」
「……もう一回言ってもらってもいいですか?」
「いや、別にいいけどって」
「……あ。へえ……そうですか。
そう言われたらそう言われたで、ちょっと不名誉な感じです」
「……それってつまりさ」
「い、いや、ちがいますよ?」
俺が言い終わる前に言葉を遮って、ぶんぶんと手を振り回して否定する。
続きを言おうとすると、また「わー」とか「あー」とかなんとか言って遮られてしまった。
「と、とにかく! ちがいますからね?」
それ半分……いや全面的に認めてるのと変わらないじゃねえかよ。
どうやら彼女の中に譲れない何かがあるらしい。
すぐにでも反応が欲しかったらしく、ずずいと身体を寄せてきた。
触れないと言った彼女から触れてきた、これはセーフなのか。
「わかった、わかったから」
「……そ、ですか。いまの話はナシで、お願いしますね」
なんだか墓穴を掘るとかそんなことの多い一日なのかもしれない。
発言には気をつけよう、コンマ数秒くらい考えてから発言しよう。
……いや、それはなんだか変か。もはや考えてないのと同じだし。
「うん」
「ほんとにですよ?」
「わかってるよ」
「……そうですか」
彼女はほっと胸をなでおろした。
◇
館内に戻り、お昼時を過ぎだいぶ人の少なくなったフードコートで昼食を済ませることにした。
水族館ということもあって、やはり海産物が多く、人気のメニューは海鮮丼やら刺身を使った定食らしい。
別にこれといって食べたかったものも無かったし、道中でなぎさからお菓子をいろいろ貰ったからお腹がすいているというわけでもない。
思いつかないし適当に合わせるか、と先に買うことを勧めると、彼女は焼きそば、ハンバーグ、サラダやらが乗ったプレート料理にしたようだった。
二日連続はどうなのかと一瞬考えたが、夜と被る可能性もあるし、彼女に続いてそれを注文した。
テラスに出て、運ばれてきた料理を食べる。
近くでは木々の葉鳴りが、少し上からはアシカショーの歓声が聴こえる。
「時間合うかわからないけど、これ食べたら行ってみるか?」
「ええ……と。どうしましょうか」
一応この水族館の目玉であるし、行きたいというなら、と思っていたが、彼女の反応的にどっちでもいいらしい。
まだ一階部分しか周っていないし、お昼過ぎからは上演回数がそう多くもないだろう。
「それ見せて、いつやるか書いてあると思うし」
「あ、はい。どうぞ」
なぎさからパンフレットを受け取って上演時間を確認すると、次の上演は九十分後だった。
なんていうか、思ってた通り微妙な時間だ。
「そうだな……。他のところ周って、時間がちょうど良かったら行くか」
「そうですね、それでいいですよ」
うん、と軽く頷きを返すと、彼女はそのままパンフレットを広げて、どこに行くか決めましょう、と声高に言った。
さっきまで見て周っていたところは、名前の通り、ここらの地域や日本近海の魚を集めていた。
それに対して二階の展示は『世界のうみ』と銘打っており、オセアニア、アフリカ、ヨーロッパなど、世界の地域ごとに観ることができるらしい。
その他にも、一階部分よろしく屋外展示もあり、多くの人はそこに行くようだった。
二人でいるといつも予定を決めることもなくふらーっと行動していたからか、何かを決めてから行動するのは少し新鮮に思える。
料理を食べ終えた後、フードコートに隣接されているお土産ショップに行くことにした。
そういえば姉にお土産を頼まれていたと思い、スマートフォンを取り出すと、さっき送った写真に返信が来ていた。
『かわいいね』
『デート楽しんでる?』
『スタンプ(ニヤニヤした顔の)』
デート云々はスルーすることして、姉が好きそうな食べ物やぬいぐるみなんかの写真を撮って、この中で欲しいものある? と送ることにした。
「何してるんですか?」
突然何も言わず写真をぱしゃぱしゃ撮り出した俺になぎさは訝しげな視線を向ける。
「あれだ、あっちで待ってくれている愛する姉に買って行ってあげようって思って」
「おお、そうなんですか。じゃあ私も杏に買いましょうかね?」
「いいな、喜ぶと思うぞ」
「さっき私と杏のこと言ってましたけど、はるくんと楓さんも一歳差とは思えないほど仲良いですよね」
「……んー、普通じゃねぇの?」
「えー……普通じゃないですよー。
なんですかね、お互いがお互いを信頼してるって感じが出てるって思いますよ」
「そうか……」
信頼。
……信頼、か。
なぎさの目にはそう映ったらしいが、実際のところどうなのだろうか。
千咲にも似たようなことを言われたけれど、本当に最近まで──この夏まで、大して喋るわけでも無かったと思う。
だからなのかは定かではないが、最近の姉と過ごす時間はそれまでよりも濃いように感じる。
どれが普通かなんてわからないと思ったが、裏を返せば、どれが普通でないのかも全くわからない。
手元を見ると、既に姉からの返信が来ていて、左端にあるカメのぬいぐるみを買ってこい、と。
御達しの通りぬいぐるみコーナーに戻ると、なぎさも俺について来て、近くのぬいぐるみを物色しだした。
手にはどこででも買えそうな箱入りの饅頭が握られている。
どうやら、俺が考えているうちに買うものは決めていたらしい。
「カメ、ですか」
「これがいいんだと」
「これまた随分とリアルなやつですね」
「まあな。でもなんかよく見るとかわいいところあるじゃん」
ほい、と目の前にカメを差し出すと、なぎさは顔を近付けてまじまじとそれを見た。
「……なんていうか、メロンパンみたいですね」
そう言ってくすりと笑う。
「お腹もう空いたの? それとも足りなかった?」
「いいえ、お腹いっぱいですよ」
「……」
……普通に返してくるか。
戸惑っていると、もう一度くすりと笑いかけられた。
そのまま、そうですね……、と彼女は話し始めた。
「……私たちって、いつも電車に乗るじゃないですか」
「えっと……通学の時とかか?」
「そうですそうです。
……で、学校のほうの駅前にメロンパンの移動販売が来てたりするじゃないですか」
「うん……そんで?」
「いつも食べたいなあって思ってて……」
「あー、遠目でしか見たことないけどたしかに美味しそうだな」
「ですよね! 店名がちょっと謎ですけど、クラスの子とか並んでるのよく見ますし」
にこにこしている。
同時に、何か期待するような、そんな目で見つめられた。多分。
思わず首をかしげる。
これは、そういうことなのか……?
いや……でも、俺の思い過ごしってことだってある。
その場でどうにか取り繕おうとも考えた。
でも、ちょっと考えてすぐにやめることにした。
再び目を合わせると、緊張したような空気が流れる。
……しばしの沈黙。
その後、彼女の視線がすーっと棚の方へとスライドした。
「さっきの話ですけど、これ欲しいです」
さっきの話、さっきの話……。
行きたいから誘ってくれ、という意思表示をしていたわけでは無かったのか。
胸の前にエイのぬいぐるみを押し付けられる。
随分とデフォルメされたやつだこと、若干かわいい。
「あ、うん。それ買って欲しいと」
「え、えっと……。あの、お昼前のバスで何かプレゼントくれるって」
そうだ、言ったわ。
名前呼びとは別にってことね。
「言ったな」
「おお、良かったです。この歳でボケちゃったのかと思いました」
「ボケてるって……」
「それで、はるくんにはこのサメをプレゼントいたします!」
反対側の棚からビーズの入ったシュモクザメのぬいぐるみを取り出す。
「プレゼント交換ってことか?」
「それです。誕生日近いですし、お互い記憶に残るものがいいな、と」
「いや、貰えるなら嬉しいけど、別に俺は……」
「いいんですよ、貰っといてください。
それにあれですね、次に泊まりに行ったときに私が使いますから」
「え、なに。またうちに来るの?」
「楓さんと千咲先輩に誘われましたよ?」
「……俺、何も聞いてねぇよ……」
「……まあ、杏が行きたいって楓さんに言ってたんですけどね」
「それなら良いな。杏が来たいなら仕方ない」
「どんだけ杏のこと好きなんですか。
いくら私でもちょっと引きますよ……」
半分くらいネタのつもりだったが。
それに、そんな呆れたような目で見られても。
いろいろと困るんだよ、俺だって普通に男だし。
俺以外は全員女子、その日確実にコウタのことを誘わなくては。吉野さんも来るだろうし誘えば乗ってくるだろ。
「じゃあ、レジ行くか」
「は、はい。あの、これでいいんですよね?」
「うん、ありがとな」
落ち着いて考えてみると、うちに泊まるからと言っても、また俺の部屋に寝るわけじゃないだろ。
寝たいって言うならそれはそれで……ないか。ないわな、流石に。
◇
「じゃあ、右回りで行きますか」
「そうだな、行くか」
二階へと続くエスカレーターは進むにつれてどんどん明るさを増して行った。
一階、フードコートよりも人の数が格段に多く、ショー帰りの客とすれ違う。
地域の海よりも断然人気があるというのは大丈夫なのか、
なんて思ったけれど、近くを見るより遠くを見るほうがいいのかなと適当に納得することにした。
最初の地域は『オセアニア』で、グレートバリアリーフの魚たちを集めているらしい。
少し進んで横にはペンギンコーナー。
つくりは岩場とプールで、小さめのペンギンが、よちよちと歩くか、すいすいと泳ぐかしている。
ペンギンともなると当然目立つし人気もあり、右回りの人も左回りの人も、ほぼ全員がそこで足を止めている。
「かわいいですね、フェアリーペンギン? ですよね」
「そうみたいだな。……人多すぎないか、ここ」
「……そう、ですね。あっち空いてますから行きましょうか」
円を囲む展示台の裏側。
プールから陸地、岩場になっているところは人気が少なくなっていた。
だいたいの写真を撮っている人たちは、ペンギンの泳いでいる姿を収めているらしい。
いくつかある二人がけの椅子は若いカップルで埋まっていて、手すりにもたれかかった。
なぎさはなぎさで岩場を歩くペンギンをぱしゃりと撮り出したので、俺もそれに続いてスマートフォンで撮った。
何枚か撮って、すぐ横を見ると、いい構図のものが撮れたのか隣にいる彼女はつやつやした嬉しそうな顔になっていた。
そんな様子を見るとなんだか気恥ずかしくなってきて、展示をぼんやりと見つめることにした。
……ぼんやりと、と言っても全体を見るというよりは、一点を視線をずらしながら見ていくような、そんなふうに。
周りを見ると、それは俺だけではないのだろう。
そこにいた人たちの多くは、寄り添う二羽のペンギンに目を止めていた。
ああいうのは一目で分かる。昔、結構有名な『皇帝ペンギン』という映画で見た記憶がある。
イメージがひとり歩きしているだけなのかもしれないが、しばしばペンギンの夫婦は一夫一妻制のロールモデルかのように扱われている。
ペンギンの夫婦を見て考えることは皆同じようで、少し後ろにいる俺らと同世代くらいのカップルの女の方が、
「ペンギンは一度夫婦になると一生添い遂げるんだよね」「それってすっごく理想的じゃない?」
と小声で呟いた。
隣に座る男もそれに同調し、より一層やさしげな目で彼女に向かって笑みを浮かべた。
他の人も同じく、型にはまったような話をして、ゆったりとした甘い空気を漂わす。
俺も俺で、隣にはかわいい女の子がいて。
……でも、そういう雰囲気にあてられることなんてなかった。
べつに、重ねようとしたわけじゃない。
うちとは大違いだな、なんて思っていたわけじゃない。
ただ、一瞬だけ。ほんの僅かだけ。
また、それを怖いと思ってしまった。
異様だ。けれど、行き着く先は同じだと言い切れない。
愛や恋なんてものは多種多様であって。
今の時代片親も何も珍しくないし、不倫浮気もこぞってメディアに取り上げられるくらいだ。
そういうのを見るたびに、聞くたびに、まあ実際はそんなもんだろ、と達観した風にして逃げてきた。
自分は、自分たちは特殊じゃないと思いたかった。
俺が何かを考えていたって意味は全くない。誰の慰めにもならない。
ひと息つこうとした。それで気が晴れるとは微塵にも思っていなかったが、何かをせずにはいられなかった。
でも、そうはしなかった。
なんとなく、今はまだそれを飲み下すときではないと感じたから。
そして次に、やめようか、と考えた。
思考はループする。だんだんと悪い方に傾いていく。
読んで字の如く、悪循環だ。
どうすりゃいいんだよ、と思う気持ちすら失せ始めてきた。
ぐるぐると渦巻く感情に対処できずにいると、ふいに横から「ごめんなさい」と小さい声がした。
肩のあたりを強めに叩かれて、我に返る。
「あの……どうしましたか?」
目を開けると、心配そうになぎさが俺を見ていた。
すぐに慌ててしまう。
……またやってしまった。
「なんでもない。ちょっと……考えごとしてた」
「……そうですか」
それに頷くと、
彼女は、んー、と顎に手を当てて考え込むように首をかしげた。
「ほんとうに大丈夫ですか?」
「……うん。なんでもないよ」
もっと答えようはあったかもしれない。
例えば、寝不足でちょっと、とか(それはそれで失礼極まりないのだが)。
言葉を続けるべきなんじゃないかと思って口に出そうとしたとき、彼女の表情が僅かながらも曇った。
何か言いたげな顔。
もしかしてですけど、とおどおどしたような様子で俺に言いかけて、彼女の口は止まった。
その、もしかしての続きは……。
……さすがにないだろう、と思いつつも、それ以外に彼女が口籠ることなんてあるのか? とも思う。
直接自分からそれに言及したという心当たりは……ない。
が、付き合いは思ったよりも長くて、関わっているうちに知られていてもおかしいとは思わない。
肌寒い館内なのに、背中には冷や汗を感じる。
どうにもいかなくなって、やっぱり何も言えなくて、
けれど、彼女に急に頬に触れられて、身体が後ろに仰け反った。
「な、なに?」
言うと、すぐに手を離された。
かと思ったら、今度は左手を握られた。
「さっきからずっとぼーっとしてたので、どこか具合が悪いのかな、と思いまして」
ちがいましたか? という付け加えと共に、手を離された。
あ、と一瞬気分が沈んだ。
表情に出して悟られるのは子供みたいだから、それは我慢した。
今更ながら、今日はつくづくダメな日みたいだ。
すべてが空回りしているような。
「うん、うん……ごめん」
「……いえ、謝らなくていいんですよ。
ここ寒いですし、はるくん薄着ですし」
「なぎさは……」
「なんですか?」
俺のことを気遣っての知らないふりか、それとも本当にそう思っているのか。
普段ならわかりやすいはずの彼女の意図が、なぜか読めない。
それが判決の先延ばしのように思えて、どういうわけかもどかしい。
「なんでもない」
「そうですか」
「続き行こっか。体調はもう大丈夫」
ぽん、と彼女の頭に手を置いてみる。
不自然なほどのスムーズさに、俺自身も驚いた。
「……珍しいですね」
「そう?」
えぇ……、と少し拗ねたような口調で返される。
「……逆に珍しくないとすれば、日常的に人の頭を撫でていることになると思いますけど」
「……」
……そうなるか。
「ま、それについてはお互い様ですかね、許します」
「……どういうこと?」
「さあ、どういうことでしょうかね?」
そう言って、くすくす笑う。
そして、でも、お互い様ということは認められたみたいで嬉しいですね、と彼女は続けた。
会話の流れからズレたような物言いに、なんの話をしてたんだっけ、と思った。
◇
各地域のコーナーを比較的ゆっくりと進み、ゴール地点まで辿り着いた。
感想はそこそこ、それなりに疲れた。
ショーには行かなかった。
時間も気にして、というよりは、最終公演で混雑すると予想してやめることにした(実際的中した)。
途中、電話がきた。
当初の予定よりも帰りの時間が早くなったことと、迎えには誰か他の人に頼むことを手短に言われた。
「もう一周しますか?」「いや、遠慮しとこうかな」というある種形式ばったようなやりとりを交わして、水族館の外に出た。
気温は昼間と比べるとだいぶ落ち着いていて、あまり苦ではない。
付設の臨海公園のベンチに座って、迎えが来るのを待つことにした。
「これ、どうぞ」
「おう、さんきゅー」
カフェスペースで買ってきてもらった飲み物を受け取った。
商業施設にあるカフェはコーヒー一杯でも値が張るのが嫌なところだ。
スタバとかタリーズとか、あるのは助かるけれど、注文するとき妙に緊張するし……。
家の近くのカフェは一杯150円でおかわり何回でも無料。すごく良心的。
店主に名前を覚えられてるくらい常連。でも最近は全く通っていない。
渡された飲み物に口をつける。
「これ何円だった?」
「えっと、350円です」
「うい」
予想していたよりも高いわけではなかった。
お金だけ先に渡しとけば良かったな。
「……そういえばさ」
「……なんですか?」
訊きたかったのは少し前の続き。
その場では流したが、気になるものは気になる。
不必要な、というと言い方が悪いか。
それが彼女に迷惑をかけるレベルのことなら、今のうちに正しておくのが筋のように思える。
「さっきのことでさ」
「はい。さっきの? ……と言いますと?」
訊きたいという気持ちが先立って俺から言い出したものの、
こうしてまっすぐ見つめられると、やはり続きを口にするべきかどうか躊躇した。
考えてみると、彼女の提案、要求は楽しむことだったはずだ。
"俺が"もやもやしていることに変わりはない。
でも、この件についてはあの場で終わったことだ。
何かしら遺恨が残ってしまったとしても、今それを蒸し返すのでは彼女の気遣いを反故にするのではないか。
彼女が察しているという仮定で進めてもこの状態であるから、
察していない(ただ俺の様子を変に思っただけであるとか)なら、勝手に俺が要領を得ないような話を始めるということになる。
もっと考えてから行動しろよ。
最近になって何度もそう思った気がする。
だとしたら、それは今まで押し込めていたものなのかもしれない。
ちょっと人と近付くと、一旦立ち止まって、ということが疎かになる。
……駄目だな。
「……どのコーナーが一番楽しかった?」
「えっ……と、二階のですか?」
彼女は一瞬戸惑ったように見えた。
それも俺の勘違いかもしれないけれど。
「うん、そう」
「どうですかね……。どれも楽しかったですけど、強いて言うならアフリカコーナーです」
「あー……。水族館なのに魚いなかったな」
「そうですね。爬虫類とか両生類とかばかりでしたね」
「カメレオンが特にかわいかったな、のろのろしてて」
「はるくんもアフリカコーナーが一番好きですよね?」
「なぜわかった」
「顔に出てましたよ。あと足取りも軽快といいますか、そんな感じでした」
「そんなに俺ってわかりやすいかな?」
「うーん……なんといいますか、慣れですかね」
でもだいたいは予想の範疇で、それが当たってたら嬉しいくらいの感覚です、と付け加えて彼女は俺に向けてはにかんだ。
「そっか」
「そうですよー」
ある程度年を重ねてからは『何を考えているかわからない』と評されることが多かったように思える。
おまえってわかりやすいな、と言ってきた人だっていたかもしれない。
けれど、記憶にはあまり残っていない。
──何を考えているのか、全然わからないんです。
──私のことが嫌なら嫌って言って下さい。直せるなら直しますから。
──嘘ですよね? 私は、そんなこと、ひとことも言ってないです。
そんな風に言われたのはいつのことだったっけ。
向かいのベンチで二人組の女の子が揃ってシャボン玉を飛ばしている。
その隣のベンチでは男の子がラムネを飲んでいる。
「……あついな」
「まあ、ここ日陰ですけど、そうですね」
「待ち合わせの時間過ぎてるし……」
「飲み終わっちゃいましたね」
ベンチに座ったまま足をバタバタしている。
お互い暇、というか時間を持て余している。
「……そういえばさ、シャボン玉って春の季語らしいよ」
「夏じゃないんですか?」
「うん、理由は知らないけど」
答えるとすぐに、
ちょっと、と正面を向いたまま言われた。
「あの……さっきからずっと後ろから視線を感じるんですけど」
「視線って……」
そう言われるとビビるわ。てか怖いわ。
「迎えの人じゃないかなと思いますけど」
「あ、そう」
先にそれを言えよ、俺がビビリだと露見しちまうだろうが。
振り返る。女の人と目が合う。
その女の人は俺たちに向けてにっこり笑うと、ずんずんと近付いてきた。
「はるー! ひさしぶりー、元気だった?」
独特なゆるい声音。聞き覚えがあってどこか懐かしいような感覚。
ひらひらと手を振って、これまたゆるい顔で微笑みかけられた。
「おひさしぶりです。ゆかり……さん」
「もー……。敬語なんて使わなくてもいいのに!
昔はゆかりお姉ちゃんゆかりお姉ちゃんってかわいかったのになー」
……いつの話だそれ、マジで覚えてねぇぞ。
ゆかりさんって呼んでた、そしてその前はゆかりちゃん。
「じゃあ……ゆかりさん、でいいよね?」
「うんうん。……で、そちらの子は?」
なぎさは、はっと顔を上げて、深々とお辞儀をした後に、軽く自己紹介をした。
「学校の後輩でバイトが同じ、ね……。
んー……ここにはデートしに来たの? 二人は付き合ってるの?」
うりうりと肘で脇腹を小突かれる。
「……付き合ってないよ。
そんで、ここにはバイト休みだから出掛けるかってことで来た」
「へー。まあ、外だとなんだし、車あっちに停めてあるから行こっか」
キーチェーンを指先で遊ばせて、くるりとターンをした。
なんでこの人はこんなにテンション高いんだろう。
「あの……ゆかりさん? とはどういったご関係で」
言われてみると、たしかにゆかりさん名乗ってないわ。
「父親の妹、叔母さんにあたる人だよ」
「え、っと……。はるくんのお父さんの妹さんにしては随分と若く見えますが」
「あー、それな」
「……」
「よく知らないけど歳めっちゃ離れてるんだよ。
お若いですね、とか喜びそうだから絶対言うなよ」
「なるほど……。いや、全然なるほどじゃないですけど、わかりました」
適当な説明なのに一応納得はしてくれるのな……。話が早くて助かる。
◇
「さあ乗った乗った。なぎさちゃんはわたしの隣ね!」
二人は早々に前席に乗り込んで、俺もそれに続いて乗車した。
シートベルトをするように言われて慌てて取り付けた後に、中を見渡すと、
ダッシュボードは本革風で装飾は金属調で、車の趣向は特にないのだが。
なんだこれ、すっげぇ高そうだ。
そんなことを考えているうちに、低い駆動音を立てて、車が走り出した。
なぎさは先ほど買ったであろうコーヒーをゆかりさんに渡していた。
そのぶんまでよろしく、とは俺も気付いていなくて言わなかったのに。
こういう細かな気遣いにおいては頭が上がらない。
遅れてゆかりさんから軽い自己紹介があり、その後二人でしばらく会話をしていた。
「ねえ、ゆかりさん」
「ん、どしたの?」
「この車ってゆかりさんの車?」
「うん、そうだよ。わたしの愛車」
そう言って少し自慢げにぽんぽんとハンドルを叩く。
……あ、思い出した。
これSUVってやつだよな、たしか。
「そうなんだ。てっきり彼氏の趣味とかだと思った」
「ふーん……彼氏、ね……」
「えっと……ちがったならごめん」
「はは……。残念ながらわたしの趣味なのよね」
「……」
やらかした。
これはあれだ。ただの失言だ。
「やっぱりおかしいかな……? なぎさちゃんはどう思う?」
優しい声音でなかなかのムチャ振り。
人となりを知らないわけだからイメージで語るしかできないと思うのだが……。
「かっこいいですし、私もこういう車乗りたいですよ」
「えー、この良さがわかっちゃう?」
「はい、ゆかりさんにも似合ってると思いますよ」
「……だそうだよ、はる?」
「や、俺も似合ってないなんて言ってないし」
「ふーん。いいよねー、ひさしぶりに会ったと思ったらこんなにかわいい子連れてきて」
「かわ……えへへ、ありがとうございます」
にこりと笑う横顔に、ゆかりさんも笑顔で応えていた。
見るからに嬉しそうな反応だ。俺にはわざわざアピールしてくるのに、えらい違い。
「まえは……って言っても小学生ぐらいのときだっけか。
女の子連れてきたことあったよね」
「……千咲のこと?」
「あ、そーそー。ちーちゃんだ、今も元気にしてる?」
「うん。まあ、元気かな。千咲も俺らと同じ高校だよ」
「おおー! いいねいいね。あのころはわたしもピチピチの女子大生だったなあ……」
たしかに、家でずっと暇そうにしていたっけか。
「ゆかりさんは、何のお仕事されてるんですか?」
「ん……わたしは高校の先生やってるよー」
「そうなんですか」
「……科目なんだっけ?」
「国語だよ。ほんとは社会科目が良かったんだけどね、倍率が高くて」
初めて聞いたな。
歴女か。最近めっきり聞かないけど。
「つまり、消去法ってことですか?」
「まあ、言っちゃえばそうなんだけど。
でも、なったらなったで、国語教師もなかなか良いものだよー。図書館の担当やりますって言えば部活の顧問持たなくていいし、職員室にずっといなくてもいいし」
「あ、それわかります。私の担任も国語科ですけど、いつも暇そうにしてます」
「テストの採点は地獄そのものだけどね……」
「じゃあ、部活もなくてテストもない今は暇ってことか」
「うんうん。課外講習も三年生担当って訳じゃないから、一週目で終わり」
左折して、国道から一本横に逸れた道を進む。
高い建物はほとんどなくなり、すれ違う車は軽トラと軽自動車が多くなってきた。
「そいえば、ハルは文系?」
「そうだよ」
「なぎさちゃんは?」
「高一なのでまだ決定ではないですけど、進路希望調査は一応文系で出しました」
「ほーほー……てことはわたしたち文系仲間だね」
「そうなるね」
なぎさの進路については初めて聞いた。
うちの学校は男女比が大体6:4くらいで、女子でも理系が一定数はいるから、理系のほうがひと学年のクラス数は多い。
もっとも、高一段階で成績がある程度良い位置にいれば文系よりも理系を勧められるからってのもあるかもしれないが。
俺に関して言えば、数IIIが面倒そうだったのと、地歴が少し得意だったから。
そんな単純な理由で、あまり将来の職業については考えずに決めた。
「楓はたしか理系だったよね」
「うん。知ってたんだ」
「まあ、楓とはたまに電話するからね。去年も会ったし」
「そっか」
「あ、今日楓は来ないよね?」
「……受験生だし、まだ予備校行ってると思うよ」
「そっか……そうだよね。どこ大受けるとかは?」
「いや、なんも」
「んー、わたしにも教えてくれなかったしー。
じゃあお兄ちゃんは? また仕事で来れない?」
「たぶん」
「ま、まあ……連絡しても出ないしね、そうだよね」
「……そうなの?」
「……うん、そうみたい」
そんなところだろうとは思っていたけれど。
「だから! なぎさちゃん来てくれてうれしいなー」
「あ、えっと……。ありがとうございます……?」
「……女の子がいると嬉しいなあ。わたし、連れてくる人なんていないし……」
男で悪かったな。
つーか、やっぱり彼氏いないのか。
「てことは、俺たち以外の他の人も来るってこと?」
「うんそうだよー。お母さんから聞いてない?」
「……マジか。近所の人とか?」
「そーそー。あとは薫乃さんとか……親戚の人たちかな。
わたしも女のなかで一番年下だと、肩身狭いし」
「そうなんですか……。そこで私の出番というわけですね」
「うんうん! というわけで、ハルはめんどくさい大人に絡まれても頑張ってね」
「あ、うん……頑張る」
後ろには(希望的観測)とつけてしまいたいくらいだ。
なんとなく(悪い意味で)いろいろ想像できた。
数年ぶりだけど、あの人たちが集まったときのテンションはちょっと。
日が被ってるなら事前に教えてくれれば良かったのに。
大方そうならこっちに来なくなると思って言わなかったのだろうけど。
でもまあ、そんな悪いことは起こらないだろ。
たいていの人は顔見知りだろうし、絡まれたら面倒かもしれないが俺もそこまで子どもってわけでもないし。
知りたかったことについても、何か手がかりが掴めるかもしれないし。
◇
家に到着してすぐ、こんなところだったっけ? なんていう感想が口をついて出てきた。
なんとなく、鞄のなかに放り込んでそのままにしていたスマートフォンを取り出した。
通知がいろいろ来ていて、でも早急なものは見たところ無かったから、するすると流し読みだけして電源を落とした。
ゆかりさんは手伝いがあるやらなんやらと言って先に行ってしまって、二人で部屋に荷物を運んだ。
隣の彼女はどこか落ち着かない様子だった。
わけを尋ねると、
「千咲先輩とも来たことあったんですね」
と、なんだか要領の得ないようなことを言われて、
それに続いて、
「初対面の人が多いと、やっぱり緊張しますね」
と呟いて、ふうと息を吐いた。
ああ……そうか。失念していた。
「ごめん……悪かったな。俺も他に人来るとは知らなくて」
「大丈夫です、仕方のないことですから」
返答のあっさりさに、なんとなく、話を逸らされた気もしてくる。
「……他に何か気になることでもあった?」
「いえ。……下、行きましょうか」
「そうか。うん、行こうか」
気にしすぎか。俺も少し緊張しているのかもしれない。
「そういえば、連絡入れとけよな」
「……誰に?」
「ミヤコさんに、到着したよって。
あれだ、俺からするのも気が引けるし」
「大丈夫だと思いますけど……うち基本放任主義ですし。
それに今は仕事で携帯見れないでしょうし……」
「まあ、そこらへんはよく知らんけど、おまえも一応女の子なんだし、しとくのが良いと思う」
「"一応"女の子ですか」
不満か。
「……じゃあ、訂正。なぎさはかよわい女の子だからってことで、良いよな?」
「はい、かよわい私ですね、わかりました」
◇
半ば宴会場と化した大広間は多くの人々で賑わっていた。
玄関に置いてあった靴の数と、ここにいる人の数はどう考えてもかけ離れていて、長机が三台でギリギリ収まるというくらいだった。
ゆかりさんに呼ばれて、入ってすぐ左の空いているスペースに腰掛けた。
なぎさはゆかりさんの隣で壁際に、俺は通路側に。
昔に見たことがあるような女の人によって食事が運ばれてきた。
日本昔ばなしに出てきそうな山盛りの御飯。
海鮮料理。
マグロ、イカ、タコ、エビ、サーモン……。
天ぷらに握り寿司。
焼き魚にお新香までついている。
好物ばかりだ。
量もさることながら、すごく美味しそうに見える。
他の人たちはもう手をつけていて、ゆかりさんとなぎさも、いただきますと言って食べ始めた。
俺もいただきますか、と内心心躍りながら箸を握ると、同時に後ろから肩をとんとんと叩かれた。
振り返ると数人が目の前に立っていて、その中の一人が話しかけてきた。
「ひさしぶり、ハルだよな?」
「……どうも。おひさしぶりです」
「ばあさんが言ってたから知ってたが、こっち帰ってきてたのか」
「うん……まあ、俺一人ですけど」
「おー、そっかそっか。とりあえず、こっちきて一緒に食べようや」
ちらっと奥のほうを確認すると、今の位置から二つ向こうで食べているようだった。
さっきから話しかけてくる人、昔会ったような記憶と共に見覚えはあるが、というか親戚の人だと思うが、その人名前を覚えていない。
周りにいる人についても同様だ。
「あ、でも……」
「どうぞどうぞ、わたしはなぎさちゃんと食べてるからさ」
一瞬にして退路を断たれた。
じゃあ決まりだな、と言って、元の席に戻っていってしまったので、諦めて渋々ついていくことにした。
「はる」
「……どしたの?」
「ちょっと、耳かして」
テーブルから身を乗り出して、ゆかりさんは俺に頼んできた。
「え? ああ、うん」
言われた通りに耳を近づけると、彼女は少し間を置いて、小さく頷いたあとに、顔を近づけてきた。
「はる……、その……頑張ってね」
「……」
「……さすがに大丈夫だと思うけど、もし嫌だったら、わたしのほう見て」
なんとかするから、と。
そう言われてみたものの、俺はその言葉の意味がよくつかめなくて、首をかしげることでしか反応ができなかった。
きっとさっきから続くからかいかちょっかいの類だと思って、そのときはあんまり深く考えなかった。
でも、実際その通りになったのだから、きっとゆかりさんは全部わかっていたのだと思う。
◆
なんてことのない、ただの休日だった。
その日は、雨が降っていた。
朝の予報なんて見ずに家を出たから、当然傘なんて持っていなくて、手提げ鞄を傘にして走るでもなく濡れながら帰っていた。
ずぶ濡れで帰宅すると、大きめのタオルを持った父親が玄関に立っていた。
こんな日に限って、というより、父親は出張だったはずだ。
姉も母親もうちにはいなくて、置いてある靴は父親の一足だけだった。
差し出されたタオルを受け取って、軽くありがとうと言ったあとも、父親はその場から動かなかった。
シャワー浴びるから、と言って横をすり抜けようとしたとき、ぐいと腕を引っ張られた。
「ハル……おまえ。なにかあったのか?」
「……なにかって?」
「いや、俺の気のせいならいいんだが……」
「そっか……べつになんもないよ」
「……じゃあ、どうしてこんなに遅くまで帰ってこないんだ?」
「友だちと遊んでたんだよ」
「友だち、か……。最近はいつもそうなのか?」
「……なにが言いたいの?」
「おまえだって、今年は受験生だろ?
勉強とか、そんな遊んでばかりじゃ駄目じゃないか」
忠告というか、諭すような物言いで、父親は俺に向けて言葉を放った。
「……わかってるよ。でも、成績も自分で言うのもなんだけど悪くないし、特に困ってることなんてないよ」
「本当か?」
「……」
はなから信じていないとでも言うように、父親は俺に問い返す。
そのとき、すぐにでも頷けば良かったのかもしれない。
タイミングを逃してしまって、俺の心情を見透かしたのか、父親は小さくため息をついた。
そして、やっぱりそうか、とくぐもった声で言って、俺の手を離した。
「帰ってくる途中、千咲ちゃんに会ったよ」
「……」
「おまえ、ずっと一人で行動してるらしいじゃないか。
俺が朝起きるときにはもう家に居ないし、夜だってこの時間なんだろ?」
「……だから?」
それのなにが悪いんだ? と口に出しそうになって、すんでのところでそれを抑えた。
良いとか悪いとか、俺が中学生だから夜が遅いと心配させるとか、そういうんじゃないのはわかってるけれど、それ以上言い返すことはしなかった。
「……部活を辞めたのだって、本当はべつの理由があるんじゃないのか?」
「……」
「一応、副キャプテンだったんだろ?
俺が知っているおまえは、そんな簡単に責任を放棄する奴じゃなかったはずだ」
「……続ける意味が感じられなくなっただけだよ。腰とか脚とかもずっと痛かったし」
「……そうか。でも、小学生のころから続けてたのにか? そんなにすんなりと切り捨てられるものだったのか?
何回かしか見れなかったけど、頑張ってたじゃないか」
……だから、それがなんなんだよ。
迷惑になるなら辞めたほうがマシだ。自分のついている役職なんて関係ない。
もともとキャプテン副キャプテンなんてのは形骸化されたものだった。
勝って俺のおかげ、負けて俺のせい。
考えてみれば、そんなことばかりだった。
俺の驕りかもしれない。でも、本当にそんなことばかりだった。
顧問は部活経験がない人で、真面目な部員もなかにはいるけれど、不真面目でサボる奴もいて。
俺だっていろいろ考えるようになって。
『母さん』のこととか、うちのこととか、これからのこととか……。
そこであれこれと考えずに、割り切ることが出来たなら、こんな苦労は無かったのかもしれない。
最初のうちは、だましだまし出来ていても、どこかで必ず綻びは生ずる。
──最近不真面目じゃないか? おまえがそんなんでどうするんだ。
──なにか悩みがあるのかどうか知らんが、おまえが頑張らなくて誰が頑張るんだよ。
顧問にそう言われたことは、今でも鮮明に覚えている。
そのときは苛立った。と思う。
顧問に関しては、もとからあまり好意的な感情は持っていなかった。
生徒主体なんて常套句を使って部活を放置して、そのくせ一丁前に精神論を語って走らせることだけして。
サボりも容認、問題が起こっても我関せずを貫く。
でも、そのとき顧問に言われたことは正論だった。
真面目派の中心にいた俺が不注意な行動をすると、他のメンバーにも伝染して、全体の雰囲気が悪くなる。
考えなくともあたりまえのことで、でも、それを肯定してしまうのはたまらなく嫌で。
きっと他の教師にでも言われたのだと思う。じゃなけりゃ気がつくはずがない。
顧問という体裁を気にして、全てを押し付けてしまいたかったのだと思う。
それまでやってきたことだし、これからもそれは変えるつもりは無い様だった。
人の都合で縛られて、無駄な気を回す。
……それに、意味なんてあるのだろうか?
「……わかったよ」
「なにが」
「言いたくないんだろうけど、いろいろあったんだろ?」
「だから、なにも……」
「顔見りゃわかるよ」と、父親ははっきりと言った。
「それに、あの子言ってたぞ。同じクラスだけど、おまえとしばらく話してないって」
「……千咲とは、喧嘩して」
「それは……おまえが悪いのか?」
「……」
なにも答えない俺に、父親は困ったような顔になって、ごめんな、と呟いた。
驚いて目だけ向けると、もう一度、すまん、と父親は言った。
「こういうことを話したかったわけじゃないんだ。
おまえに悩みがあって、それが他の誰にも言えないようなものなら、せめて俺には話して欲しいって、そう思っただけなんだ」
そんなの……言えるわけないだろ。
我慢することを放棄して、これさえあればと考えていたものを、自分から手放すなんて、出来るわけがない。
俺さえ我慢すればいいのだから。
「でも、これ以上は訊かないよ。いくら親でも、知られたくないことに踏み込む権利はないからな」
「……うん」
無理してでも、訊いてくれたらいいのに、問い詰めてくれたらいいのに。
後になってみると、ここが分岐点だったのかもしれない。
「……そうだな。風邪ひかないうちにシャワー浴びてこい」
じゃあシャワー浴びるから、と鸚鵡返しで言ってその場から逃げるように浴室に向かった。
父親にこういう話をするのは、それが初めてのことだった。
◇
それで──。
自分の前に配膳されていた食べ物はそのまま、大人たちの集まる所に行って、そこで食事をとることにした。
いろいろと話を振られて、まあ適当に答えて。
多くの人は酒を飲んでいて、テーブルの上には空き缶とジョッキが並んでいる。
そのうち、俺があまりよく覚えていないのに気がついたらしい周りの人は自己紹介をし始めて、あー、こんな人もいたなあ、みたいな感想を抱いた。
……それもそのはず。
うちの人(と言っても父親だが)は、親戚付き合いがあまり良くなくて、こういう集まりに顔を出したりはしない。
昔はもう少しここに来ていたような記憶もあるが、お盆前とか、年越しから一週間が過ぎたあとだとか。
いや、俺もはっきりとは覚えてはないから、決めつけは良くないのではあるが。
あれも食べてこれも食べて、と取り皿に食べ物を沢山盛られて、奥からはエンドレスで米が出てきて。
昨年は楓ちゃんが来たなー、と誰かが言ったのを皮切りに、その話で盛り上がりだした。
いちご狩りに行ったらしい。聞いていない。
今年は受験生なんで来れなかったみたいです、と俺が口を挟むと、あー受験生ね……なんていう地味な反応が返ってきた。
多分何度か小さい頃に行ったことのある駄菓子屋の店主や、三軒先の気のいいおばちゃんの息子だったりは姉のことがえらくお気に入りのようで、
姉の人当たりの良さというか、そこらへんは詳しく知らない一面なのかもしれない。
ゆかりさんの危惧していた(?)ことにはならなそうで、
なんだ、やっぱりからかわれただけなのか、と少し安心しかけたときに、がらっと奥の扉が開いた。
その音の主は、どうもどうも、と言って部屋に入ってきて、俺の顔を見るなり、わかりやすく驚いた顔をした。
「おお、こっち来てたのか……。ひさしぶりだな」
「おひさしぶりです」
急に話しかけられたもんだから、俺もその場に立ち上がって、軽く会釈をした。
「……おっきくなったなー、いまは高二だっけか」
「そうですよ」
「身長なんぼあんの? 俺よか全然でかいじゃんか」
「……えっと、でも180ないくらいですよ。そんなに大きいわけでもないというか」
「まあまあ、素直に喜んどけ。で、席は席は……っと」
あらかた埋まっているなかから空席を探している彼に、たくさんの人が声をかけていた。
彼──ハジメさんは、父親とゆかりさんの兄で、この家の長男だ。
気を利かせた人が親戚らの集まるここにハジメさんの場所をつくったようで、結局彼は俺の向かいに座ることになった。
そして暫くは、ここらの地域のことだとか、親戚付き合いのこととか、俺にあまり関係のない会話で盛り上がっていて、その間に机に残ったものを食べた。
ちらっと、向こうに気付かれないようにゆかりさんとなぎさのいる方向を見た。
声は聞こえないが、二人は楽しく談笑しているようだった。
◇
「で、こっちには一人で来たのか?」
不意に、俺に話題が振られた。
慌てて箸を止める。
「いや、えっと……。あっちにいる子と二人で」
「あっち……って、ゆかりの隣の子か?」
「うん」
「……彼女か?」
「……付き合ってはなくて、学校の後輩の子……なんだけど」
「うーん、別に誤魔化さなくてもいいんだぞ」
「……」
「彼女のこと放ったらかしにするなんてダメじゃないか、ここに呼んできなさい」
「いや、まず彼女じゃないんで」
「いいから、呼んできなさい」
話を聞かないのか、この人は。
俺がここに連れてこられたのが問題であって、あっちに戻れば済む話なのではあるが、そういうことではないらしい。
……面倒、というか厄介だ。
仕方がないから呼びに行くと、ゆかりさんが立ち上がって、ハジメさんの所へ行った。
「はるくん、どうかしたんですか?」
「あー……。なんか、女の子連れてきたんなら紹介しろ的な」
「え、っと……。そうですよね、私まだ誰にも挨拶してませんし」
「付き合ってるって勘違いされてるっぽくてさ」
言うと、なぎさはふむと首をかしげた。
「それは、私とはるくんがですか?」
「そう」
「……じゃあ、彼女で通しましょうか?」
「……ばかか、おまえは」
「えー。まあ、いちいち訂正するのも面倒だなって思っただけなんですけどね」
危うく本気にしそうになっちゃうだろうが。
自分の素直さに呆れるばかり。
「あっち行かなくて大丈夫だよー。なぎさちゃんはわたしと楽しくおしゃべりするからって言ってきたから」
ゆかりさんナイス助け船。
さっきのってこういうことだったのだろうか。
「そうですか」
「じゃ、俺もここにステイしようかな」
「それはダメ。はるはあっちに戻りなさい」
「どうして」
「いいから」
そう言われたらそう言われたで、また聞き返すのも忍びないので、特に考えず戻ることにした。
そして、戻ってすぐ、お茶を飲み干して空いているグラスにお酒が注がれた。
「……」
二度見する。
普通にお酒だ。泡立ってるし、俺のグラスだし。
「飲んだらどうだ?」
「えっと、俺まだ未成年なんだけど」
「いいから」
おお、初遭遇。
保健体育の教科書にイラスト付きで書いてある親戚に酒を無理やり飲まされるやつ!
心の中でテンションをあげてみたものの、余計飲む気にはならなかった。
「ひょっとして、まだ酒飲んだことないのか?」
頷く。
というのも、中学の時は知り合いで酒を飲んでいる人もいたが、高校は比較的真面目な人の集まる進学校であるから。
コンビニで明らかに年齢が微妙な人もいるし(スルーして良いものなのか判断に困る)そりゃ探せば一定数はいるだろうけど、自分と関わりのある人は酒を飲んだりはしていないはずだ。
まあ、まず法律的にアウトなことには変わりはない。
「高二にもなって? 友達と飲んだりしないのか?」
「しない、けど」
「はあ……。おまえもマジメちゃんかよ」
「……」
そっちのほうがおかしいってのに、その言い方はどうなんだ。
黙っていると、ハジメさんは呆れたようにため息をついて、俺を睨みつけた。
「ひさしぶりに会ったってのに。……ほんとそっくりだよな」
「……」
「そうやって困ると黙るところ、あいつにそっくりだよ」
あいつ、か。
「あいつはどうしたんだ? こっちには来てないみたいだけど、どうしてだ?」
「……父さんのこと、ですか?」
「そうだ」
「父さんは、仕事忙しいから行けないって」
言ってないけど。そうだろう。
「……まあ、そうだろうな。あいつのことだ」
「……」
……俺は、あまり真面目ではないと思っているし、今だって考えずに酒を飲んでしまえばいいのかもしれない。
コミュニケーションと言われればそれまでで、半ば強要ではあるけれど悪気はないのかもしれない。
でも、それを避けようとする、嫌に思うのはやっぱり内面ではどこか真面目であるからで、
父親や姉だったら、こういうのは駄目だと言いそうだ、
なぎさがいるから、変に酔って迷惑をかけることなんてできない、
ゆかりさんはいるけれど一人きりにするのは申し訳ない
と、いくつか要素があっても、つまるところ俺の精神性で、やめろと言っているのだと思う。
どこかで誰かが必ず見ている、だから、悪いことはするな。
「また黙るのか。飲むのか、飲まないのか、どっちなんだ?」
言いながら、ハジメさんは自分の酒を呷る。
周りの人もみんな酒を飲んでいる。
でも……。
「……お酒、ほんとダメだろうから。
多分苦手だし、ごめんなさい、飲めません」
「はあ、おまえもつまらないやつだな」
「……」
「そんなふうにしてると、あそこにいる彼女にも、いつか愛想尽かされちゃうかもしれないぞ?」
いいのか? と彼は嫌味ったらしく言う。
今までのやりとりとそれとの間に何か関係があるのかは、まったく掴めない。
……わけでもない。彼の言いたいことはなんとなくわかる。
「頭だけはいいんだよな、あいつと同じで。それで、腹のなかでは他人を見下してる」
「……」
「その目だよ、その目。俺のことが嫌いか? こうなったのはおまえが原因だろうが」
いつの間にか、睨みつけてしまっていたらしい。
けれど、どうしてこんなことを言われなければならないのか、理解できなかった。
俺に会ったら文句を言おうと決めていたとか、気に触ることばかりしてしまっただとか、考えればキリがない。
父親とハジメさんの仲があまり良くないのは知っていた。
でも、兄弟喧嘩の延長なら俺を巻き込まないでほしい。
困った。
モヤモヤする。
考えると黙ってしまうのは本当だ。
面と向かって誰かに悪口を言われるのはひさしぶりで、かなり気分が悪くなる。
答えずにいると、彼は軽く舌打ちをした。
こういうこと、だったのだろうか。
父親と実家の人たちの不和。
けれど、証拠が足りない。
耐えきれずに目を奥に向けた。
さっきと打って変わって、ゆかりさんと案外すんなり目が合った。
◇
「ごめんなさい、付いて来てもらっちゃって」
「いや……ここ広いし、廊下暗いだろうから、しょうがない」
「……ありがとうございます」
「いいって」
「……あの」
「なに?」
「……ゆかりさんってエスパーなんですか?」
「ん?」
「いや、あの……。私がトイレに行きたいってよくわかったなって」
「ああ……。なんでだろうね、なぎさがめっちゃモジモジしてたんじゃないの」
「それはないです」
おうよ。
知ってるわ。
「ちょっと、疲れちゃいましたか?」
「……え?」
「いえ、疲れたような顔をしていたので」
「そんなこと……ない、と思うけど」
あるから困る。
疲労というよりは心労。嫌になる。
「……何かあったんですか?」
「ないよ」
「すぐ否定すると、逆に怪しいですよ」
「確かにそうだな」
察しがいいのも困りどころだ。
「なぎさは……疲れた?」
「いえ、そこまででもないですよ。
食べ物も美味しかったですし、ゆかりさんと話すのも楽しかったです」
「どんな話したの?」
「ヒミツです」
じゃあ無理には訊かないか。
と思ったところで、目的地に到着した。
「ここ、電気つけとくから、戻るときに消してきて」
「わかりました」
じゃ、とその場から離れようとすると、彼女は俺の手をぐいと引っ張った。
「……」
振り返ると目が合った。
彼女は顔を赤くして俯く。
「あ、えと……。いや、なんていいますか」
「暗いの怖い?」
「え」
「いや、付いててほしいならここにいるけど」
……半分くらいは俺の願望なんだけど。まあ、これもしょうがない。
「……そういうわけじゃなくて」
「……」
「あっ、そういうわけじゃなくもないんですけど……」
「どっちだよ……」
なぎさはうむむと唸って、もう片方の手をぶんぶんと上下させた。
再び目が合う。今度は逸らされなかった。
お互い深呼吸をした。なぜか同時に。
「──今日水族館で」となぎさが切り出した。
「ラッコが、いたじゃないですか」
「……うん? いたけど。それが?」
「二匹で、手を繋いで寝てました」
「……」
「ぷかぷかっと、幸せそうに見えました」
「うん」
「あれは流されないように、とか、コンブが水族館にないから、だとかが理由らしいです」
「そうなんだ」
初耳。
「です……けど。でも、それよりも……。どう言うのが正解なのかわからないですけど。
手を繋いでると、安心しませんか?」
「……」
どうだろう。
答えあぐねていると、ふうっと息をつく音がした。
「……おまじない、みたいなものです。
あとは一人で大丈夫ですから、戻ってていいですよ。
付いてきてくれてありがとうございました」
そう言って手を離されて、バタンとドアが閉まった。
個人的に何か理由を付けて待っていても良かったのだが、女の子が入っているトイレの前にいることが少し気恥ずかしくなって、戻ることにした。
「おまじない、か」
歩きながら、そう呟いてみた。
でも、あまり釈然としない。
なんだかひどく、頭がいたかった。
あっちに戻って、また同じようなことを言われたらどうしようか。
彼が言いたかったのは、うちの両親のことだ。
逃げられた。
……違う。
きっと、みんな知らない。
父さんからすれば、仕方がなかったのかもしれない。
詳しくは訊けなかった。
申し訳ないから、思い出したくないけれど、いろいろなことがあったから。
部屋に戻ると、食事は既に片付けられていて、人の数がかなり減っていた。
三つ並んでいた長机は、一つの大きな円卓に変わっていて、それを残った人が取り囲んでいる。
「おかえり」
ゆかりさんに手招かれて、端に腰掛けた。
「なぎさちゃんは?」
「まだトイレ、行くまでにちょっと話してたから」
「そっかそっか」
「人減ってない?」
「なんかね、温泉行くって言ってみんなで出てっちゃった」
「そう」
「……わたしたちも行く? ちょっと遠いけど」
「いや、いいよ」
疲れているから。
「ゆかりさんは、お酒飲まないんだ」
「うん。すぐ酔うから弱いし、お酒は苦手なんだよー」
「でも、常に酔ってるみたいじゃん」
「うぐっ、それ同僚の子にも言われたことある……。
うちの人で、お兄ちゃんとわたしだけ全然飲めないんだ」
「……父さんは、うちに帰ってきたときは飲んでるけど」
「ほんと?」
「うん」
「そっか……。うーん、苦手じゃなくなったのかな?」
「……わかんないけど、少なくとも前よりは」
「まあ、はるは絶対飲んじゃダメだよ」
「……なんで?」
「両親ともに苦手なら、絶対子どもも苦手でしょ」
「遺伝?」
「下戸かどうかは、遺伝あるらしいって聞いたことあるよ」
「そうなんだ」
時計は二十二時過ぎを指していた。
知らないうちにかなり時間が経っていた。
集まりのほうに目を向けると、一人一人立ち上がって、選手宣誓のようなことをしていた。
よく見ると、残っていたのはさっきまで俺の周りにいた人たち。
つまり、町内会や近くに住んでいる人たちが多く残っていた。
「あれ、何やってるの?」
「……いつもやってるけど、なんだろうね?」
「……ゆかりさんは混ざらないの?」
「えー、やだよー。ムリムリ。
今日も『うちのとお見合いしないか?』って何回もいろんな人に言われて……」
「それ自慢?」
「……いや、かなりヘコんだって話」
「そうすか」
「うん、この話はいいとして……。なぎさちゃん遅くない?」
「見てこようか?」
「……わたしが行くよ」
「そう? じゃあ、よろしく」
びしっと敬礼みたいなポーズをして立ち上がって、ゆかりさんはそろそろと部屋の外に出て行った。
あ、と。
一人になったことに気付く。
ぼーっとあっちの様子を眺める。
中年くらいの人が大きな声で自己紹介をしたあと、コップの飲み物を一気飲みして、そのあとにみんなで拍手。
地獄か、あれは。部活の朝練じゃないんだからさ。
ここで出て行く素振りを見せようものなら、当然のように引きとめられて酒を飲まされる未来が見えてきた。
何というか、想像力だけは豊かになっているらしい。
この時間になって頭が冴えてきたような気もする。
とりあえず、壁にもたれかかって地蔵になることにした。
こんな時にすることといえば瞑想。
でもすぐ飽きる。経験談。
姉は家に一人で寂しがってないだろうか、なんて。
比較的ポジティブな想像。よりも妄想。
あー、とりあえず姉に連絡入れとくか。
にしても遅えな……。
どっかに散歩にでも行ってるのか。
荷物の中から本か何かでも持って来れば良かった。ズボンのポケットに入れっぱなしにしたスマートフォンを取り出すのも何だか気が引けた。
「どうしたの?」
声をかけられる。
昔聴いたことのある声。
「……どうもしないですけど、することもないので」
「あ、そう……。ゆかりとなぎさちゃん? は、後片付け手伝って貰ってるけど」
「薫乃さんは? サボり?」
「いやいや。私は休憩、仕込みとか大変だったんだよ」
「そうなんですか」
この人も、久しぶりといえば久しぶりなのか。
「もー、無愛想だなあ。久しぶりに会うのに」
「はあ……」
「にしても、彼女連れてくるなんて!」
まあ、そうなるよな。話題らしい話題もないし。
「いや、彼女じゃないです。なんでかいろんな人に勘違いされてるみたいですけど」
「そうなんだー。ま、若いときはそういうことあるよね」
「……」
「一緒に登校してるのを見られるとか、学校で話してるのを見られるとか」
「リアルですね」
「何度も言われてると、そのうち満更でもなくなるやつ、経験ない?」
「ないです」
あります。
「……ていうか、おばさんとする会話じゃないよね」
はあ。反応に困る。
「……薫乃さんの経験談?」
何てことのない軽口。
なのに、目が合うと彼女は目を泳がせた。
「……いや、そうじゃないけど」
「……」
墓穴。なのか? よくわからない。
「あのさ……」
「おい、そこにいる二人。こっちに来なさい」
薫乃さんが口を開くと同時に、向こうにいるハジメさんから呼び出される。
見つかった、というか、見てはいたんだろうけど、薫乃さんといるのを見て話しかけてきたらしい。
薫乃さんの肩がびくっと跳ねる。
そして、俺の様子を気にするように、そーっとこちらを見つめてきた。
「別に、大丈夫だと思うよ」
ぼそっと、薫乃さんにしか聴こえないような声で返答した。
今回はゆかりさんの助けはない。
逃げるようにしたのも、バレバレだったとも思う。
「……で、だ」
パンパン、とハジメさんが手を叩く。
つまみとともに酒を飲む人たちの手が止まる。
「あいつはどうした?」
彼は俺に、まっすぐと問いかける。すぐに俺に注目が集まる。
のっけからさっきの続きを話そうか、ということか。
「さっきも言いましたけど、仕事とかで忙しいんだと思います」
「この季節に? 親戚が集まっているのに?」
「……」
「楓ちゃんは?」
「家にいると思います」
「一人で?」
「はい」
「じゃあ、普段は家にずっと二人なのか?」
「……そうです」
「ほら、話した通りじゃないか」
そう言うと、周りにいた人たちが苦い顔をする。
憐れむような目で見つめられて、気分が萎える。
いや、まだ大丈夫なはずだ。
後手を踏まなければ、或いは。
「姉弟どっちもまだ高校生だろ? それに、楓ちゃんは受験生らしいじゃないか」
「……」
「子どもを放置するなんて、悪い親だな」
どっちみち、答えようがない。
「……おまえはどう思ってるんだ?」
「どうって……」
「嫌いなんだろ? おまえも、あいつのことが」
おまえ"も"。
「こっちに帰ってこない。帰ってきても顔を合わせようとすらしない。
そっちに出て行ったっきり、そのままだ」
「……」
ため息が出そうになる。
答えようがない質問で、でも答えないと嫌な顔をされて。
形だけ見れば正論をぶつけられていて、余計タチが悪い。
「……薫乃だって、そう思うだろ?」
「え?」
「薫乃、どうなんだ?」
急に矛先が薫乃さんに向かった。
薫乃さんと父親は、何か特別な接点でもあったのだろうか。
「私は……別に」
「別にって、別になんだ?」
「……」
薫乃さんは押し黙る。
わけがわからない。
目の前で自分の親のことを悪く言われている。
深い苛立ちのようなものを感じる。今まで言われたことが無かったからだろうか。
「……私、ちょっと戻ってます」
沈黙を破るように、薫乃さんはそう言ってから立ち上がり、そそくさと扉の方へ向かっていった。
「どう思うよ、ハル」
「……何がですか」
「あいつは、ここにいる人全員を見下してるんだ。
自分の世界に入り浸って、不都合になるとすぐに切り捨てる。田舎を捨てたのだってそうだ」
……。
「おまえの母さんだって、愛想を尽かして出ていっちゃったじゃないか」
「……」
「可愛らしい奥さんだったのに、あいつのせいで。
奥さんを連れてこようともしない、結婚式だってしなかったじゃないか」
……そんなの知らねえよ。
母さんのことを言われると、迂闊に反論はできないし、彼の言い振りから、やはり此処にいる人は誰もわかっていないのだ。
「子どもは親を選べないからなあ」
俺のことは御構い無しに、矢継ぎ早に言葉を投げかけられる。
周囲の人もうんうんと頷く。
「おまえも、あいつに似てきたな。
やっぱり親子だ、そっくりだ」
似ている。そっくりだ。さっき言われた通りのことだ。
確かに、あんな親にはなりたくない、と思ったことはある。
というよりも、思っていた。
でも、何故か今の俺は苛立ちを募らせていた。
二人では広すぎる家、不安定になった姉、半ば自暴自棄になった俺。
おかしいのは自覚していた。言われなくともわかる。姉だってわかっている。
誰か助けてくれればいいのに、母さんがいてくれればいいのに。
家にいるのが気持ち悪いと思うようになって、平穏が訪れたかと思えば、その代償は大きくて。
どうして、またこんなことを考えなければならないのだろう。
「どうしておまえは、母親のほうに付いていかなかったんだ?」
耐えろ、やめろ。
「……まただんまりか。あの親にしてこの子有りだな」
頭が痛い。
「そういえば、あの子再婚したんだってな。
結果的には良かったじゃないか、あいつから離れられて。今は凄く幸せなんじゃないか」
「……」
「楓ちゃんが可哀想だ、あんなにいい子なのに、こんな家族の中にいて」
ぐらり。
何かが歪むような音が聴こえた。
偏頭痛のような痛みと、胃の中の物を吐き出してしまいそうな不快感。
いつの間にか、拳を強く握ってしまっていた。
俺は、それだけは言われたく無かったのかもしれない。
俺のせい、俺が悪い、俺が我慢できなかったから。
そう言われているようだった。
父さんは、母さんに捨てられて。
……違う。違うんだ。
『わかった、なんとかする』、と酷く気落ちしたような表情と声音で言われて、一人で解放されたような気分になってしまって。
父さんに内緒で母さんと会っているのだって、罪滅ぼしのつもりだった。
今は少し、変わってきているのかもしれないけれど、ちょっと前まではそれ以上でもそれ以下でも無かった。
「伯父さん」
無意識に、そう口に出していた。
「なんだ?」
挑発的な態度をひけらかすように、彼はにんまりと嫌な笑みを浮かべる。
……ああ、わかってしまった。
伯父さんは、ここにいる人は、俺のことをよく思っていない。
さっきから感じていた違和感は、そういうことだったのか。
俺は、彼らから見て、"そういう存在"なんだ。
糾弾すべきもの。悪い親に似てしまった子。
そう見られているんだ。
それは忠告か。それとも、単に俺にストレスをぶつけているだけなのか。
間違いなく、後者だろうな。
考えてみても、心配なんて、された試しが無かった。
本当に俺らのことを案じて、悪い環境にいると知っていたなら、何かしてくれたはずだ。
住んでる場所が違う、父親と疎遠になっていた。
何か関係があるのだろうか。
父親への負の感情を置換して、俺にぶつけようとしている、ただそれだけではないか。
人を殴るような経験は無い、が……。
でも、握られた拳は、正座の後ろで床を鳴らしてしまいそうなくらい震えている。
落ち着け。
……冷静になれ。
真意が汲み取れて、なおも相手にする必要があるか。
俺以外に迷惑がかかる。ただでさえ悪い付き合いがさらに悪化してしまう。
──なら、取るべき行動は一つだけじゃないか。
「……お酒、貰っていいかな」
「うん? なんて?」
「だから、俺も、もう子どもじゃ居られないから。お酒、飲んでみたいなあって思ったんです」
「……ほ、ほう。じゃあ、これ飲んでみなさい」
コップを渡されるなり、躊躇せずに飲み出した。
社会の基本、一気飲み。あー、意外といけなくもない。無理してテンションを上げようとする。
「もう一杯、お願いします」
ハジメさんと周りの人は唖然として口をぽっかりと開けていた。
差し出したコップに、次は日本酒が注がれた。
それも間髪入れずまた飲み干す。
「美味しいですね……みなさんは飲まないんですか?」
「あ……じゃあ、飲みましょうか……みなさん」
「おかわり、もう少し下さい」
話を聞かない人に対しては、俺も取り合わないのが得策だろう。
お酒の味なんて全く感じなくて、美味しいも不味いも好きも嫌いもよくわからない。
ただ、このひと時でのその場しのぎは、どうにかなった……はずだ。
周りの人は少しずつばらけていって、時を同じくして何人かがこの家に戻ってきて。
話が弾んでいる。らしい。
どうでもいいことは聞き流す、注がれたものはとりあえず口に流し込む。
……あったまいてぇーな。
つーか、やっぱ無理だろこれ。
五杯目? いや、もっと飲まされたかも。
頬が熱い、頭痛が酷い。
部屋の明かりがやけに眩しい。
ぐるぐると目が回る。
まだハジメさんは俺に何か話しかけてきているのに、頭が働かなくて。
扉のほうから声がして。ドタドタと近付いてくる足音がして。
肩を掴まれる。
頑張って顔を上げようとしたけれど、うまく身体が動かなくて、支えられた側に倒れてしまった。
……慣れないことなんて、するもんじゃないな。
◇
涼しい。
季節は夏。そんでもって今は夜か。
虫の鳴き声と、心地いいような風。
嫌な夢を見たような気がする。
覚えていないけれど。
どうでもいいことばかり頭に浮かぶ。
目を開けて、まばたき。
身体(特に節々)は痛いけれど、起き上がるくらいなら。
「起きた?」
顔を覗き込まれて、手には団扇。
ゆかりさんだ。
「う……」
喉痛い。
「どうしてここにいるか覚えてる? 気持ち悪い?」
「びみょう」
「……お酒飲んだんだよー。わたしが行ったら、はる倒れちゃって」
「あー……」
「どれくらい飲んだの?」
「えっと……六? 七くらい」
「……吐きそうとか、暑いとかないよね」
「うん。多分だけど、大丈夫」
胃の不快感はあるが、昇ってきそうなほどではない。
寝げろ、もしてないっぽいし。
「……何が、あったの?」
「まあ、いろいろ」
「……」
あまり思い出したくない。
顔にそう出ていたのか、ゆかりさんは視線を下に落として、軽くため息をついた。
「わたし、お酒とか夜食とかの買い出し頼まれてて、もう行かなくちゃならないんだけどさ」
「うん」
「ここに一人で大丈夫?」
「……なぎさは」
「あー、えっと。お手伝いしたいって言うから、いろいろやってもらってる」
「……客なのに」
「い、いや……。あの子わたしよりも料理上手だったし、家事とか好きなんじゃないかなと」
「……」
「……お母さんも、張り切っちゃってね」
実際、俺もこの状態では会いたくない気持ちはあるから、助かっているのかもしれないけれど。
あの場になぎさは来ていなかったようだし、そこはゆかりさん達に感謝しなくてはならないのではあるが。
「俺も買い出しについて行っていいかな」
「うーん……動けるなら、いいけど。酒屋までは距離あるからだいぶ歩くよ」
「……ゆかりさん飲んでないなら、車でいいんじゃないの」
「や、わたしも……チューハイ一本か二本くらい飲んじゃったから」
「……まあ、とにかく歩くのは大丈夫っぽいから、付いてくよ」
立ち上がってみせる。
立眩み。ふらつく。
「だめじゃん」
苦笑される。
自分でも乾いた笑いが出た。
「しゃあない。歩いて回復、これ基本」
よくわからないことを言っていた。
「……倒れたりしないでよね、運べないから」
そう言って、ゆかりさんも立ち上がった。
許可は出たらしい。
「ゆかりさんもフラついたりしないの? お酒弱いんでしょ」
「なっ……。いや、さすがに、ほろよい二缶ではならないし!」
「まあ、そこらへんはよくわからないけど、行こっか」
歩き出すことにした。
時刻は二十四時近く。
さっき時計を確認した時から、そう時間は経っていないのに、
寝てたからか、なんなのか、日付が変わっていないことに驚いた。
◇
動き出しても、まだ頭の中はぐるぐると回ったままだった。
月はかげっていて、辺りはほぼ真っ暗闇。
かろうじて数メートルおきにある電灯で視界を確保して、ふらつく身体を押して歩いていた。
危なっかしいから手を繋ごうか、と言われて、なぎさとのやり取りを思い出して、
手が熱いとかなんとか理由をつけて断ってしまった。
酒屋に寄って、頼まれた物を購入する。
この時間までやってるだけあって、店主も酒を呷っていた。
行きの道中はほぼ会話はなく、隣より一歩後ろを歩いていて、なんだか申し訳ないような気分になった。
俺が二袋、ゆかりさんが一袋持って外に出ると、柔らかい風が頬を撫でた。
体温調節がうまくいかない。
砂利道を歩いて、少し舗装された所に行って、家に戻って。
泣きそうだ。そう考えつつ泣いたりはしないんだけれど、こう、気分が沈む。
どうにかして、時間を使いたい。
思えば、ああなると分かっていて、なぎさを遠ざけてくれたのかもしれない、
それなら、俺が戻ってくる前に対処したのではないか?
でも、仮にゆかりさんがいなかったら、何をされたか、何を思われたか、見当がつかないほど酷くなっていた可能性は高い。
糸口が見つからない。
──あなたの目は透きとおる 暗い海の底で……
知ってる歌をゆかりさんが口ずさんだ。
すぐに一歩前に出た。
「……俺は、あんまり帰りたくないんだけど」
「……なんて?」
「あ、えと……歌詞の話」
ゆかりさんの足が止まった。
勢いで追い越してしまって慌てて振り返ると、彼女の袋を持っていないほうの手は、力無さげに服を掴んでいた。
「……ごめん」
いつもより若干トーンが低い。
「いや」
「わたし、分かってたのに……。
こうなっちゃうなら、最初から全部説明しておけば良かったよね」
「……」
「ほんとに……ごめん」
謝らせたいなんて思っていないし、謝られる謂れもない。
「さっき、本当は何をされたの?」
「……」
「言いたくないこと、なのは……分かってるけど」
「……うん」
「お兄ちゃんのこと、だよね?」
あの人たちの様子からして、日常的にあの話、もしくはそれに付随するような話をしているのは間違いない。
それなら知っていておかしくはないし、兄弟仲の問題ならなおのことだ。
或いは、あの場から退散した薫乃さんがゆかりさんにそれらしいことを言ったのかもしれない。
「……ゆかりさんは、父さんのこと嫌い?」
「……どうして」
「いいから。どう思ってるの?」
「どうって……もちろん好きだよ」
「じゃあ、俺と……姉さんのこと、可哀想って思う?」
「……そう言われたの?」
「……」
「……最低」
「……でも、だからなんだって話だよね……ごめん」
「……ちょっと待って。どうして謝るの」
「……」
自分でも、どうして謝ったのか。
その場でゆっくりと首を振ると、ゆかりさんは地面に袋を置いて、空を見上げた。
「いつも、なの」
「いつも?」
「うん、いつも。……集まってお兄ちゃんの悪口を言ってるの」
「……そっか」
「でも、今日はさすがにそんな話なんてしないって思ってて、ハルがいるし。
それに、楓が来たときは何ともなくて、それで……」
まあ、そうだよな。
同じ立場なら、俺だってそう思うだろう。
「ゆかりさんは、なぎさを遠ざけてくれたんでしょ?」
「……」
答えはない。けれど、俺の予想はきっと間違っていないはずだ。
「……俺もあの場からいなくする、ってのは難しいと思うし、仕方ないというか」
ちゃんと確認せずに来た俺が悪い。
「……うん」
「どうしてそうなったのか」
息を飲む音が聞こえた。
当初の目的はこれだった、躊躇いはあるが、ここまできたら訊いてしまうべきなのかもしれない。
「どうして父さんがそうなってるのか、訊いてもいい?」
「……」
「駄目なら、強要するつもりは全くないけど……」
正直に言うと、怖いのかもしれない。
そうでないならもっと単純に、俺が知りたいから話してほしい、と言えたかもしれない。
えっとね、話してもいいんだけど、と言われてすぐに身構えた俺に、ゆかりさんは戸惑っているように見えた。
「うん……大丈夫、だから」
「……実際に喧嘩しているのは見たことないし、わたしの想像の域を出ないけど、それでもいい?」
「大丈夫」
言い切った俺に安心したのか、ゆかりさんは一息ついて、歩きながら話そうと促してきた。
断る理由もなく、歩き出したゆかりさんの隣に並んだ。
「……多分、原因は嫉妬だと思うの」
「嫉妬?」
「うん……」
「それは、ハジメさんが、父さんに、ってこと?」
「そう」
「……どうして」
「お兄ちゃんは、頭がよかったの」
「……」
「それで、運動もできるし、人付き合いもいいし、学生の時は、男女問わず人気があった」
「……それで?」
「それに比べて、あの人は地元の高校出たっきり、仕事もまともにしないでふらふらしてて」
そうなのか。
「……お母さんとお父さんは体裁を気にして、自分たちの会社にあの人をねじ込んだんだけど、あんまり仕事もできなくて」
「……」
「長男よりも次男がほぼ全てにおいて優れてて、周囲の人からの期待も、親からの期待も、全部お兄ちゃんに向かってた」
お兄ちゃん。あの人。
十五も離れていると、そういう感覚なのだろうか。
いや、それを言えば父さんとだって離れている。
「わたしが小さい時はいつもお兄ちゃんが遊んでくれて、他にも勉強見てくれたりしてくれて……」
「じゃあ……どうして今は」
「……」
ゆかりさんは黙ってしまった。
なんとなく、いろいろなことが整理できていないとでも言いたげな顔をしていたように思える。
「……わたしがもしこれを話したら、ハルは、きっとものすごく困ると思う」
「それは……」
「この話は、本来わたしが話すべきことではないけど、でも、わたしが話さなきゃずっと知らないままで、
わたしは自分の発言に責任なんてとてもじゃないけど取れないし、聞いたら多分後悔すると思うの」
「……」
「それでも、続きが欲しい?」
俺が後悔する。
つまり、俺が訊いているのは既に兄弟の枠組みを超越したものであるということだ。
頭を巡らせてみても、それほどまでに惨いものは想像がつかない。
でも、知りたかったのは、こういうことで、そのためにここに来たんだ。
なら、ゆかりさんは知っているのだろうか。
少なくともあそこの集まりの人は誰一人として知らないはずだ。
父さんの母親、ばあちゃんですら、言葉の端々から察するに、何も知らない様子だった。
「……ちょっと、別の質問していい?」
「うん、いいよ」
「うちの両親は、どうして離婚したの?」
「……家庭を顧みないお兄ちゃんに、お義姉さんが嫌気をさした」
「……」
「──ってのが表向きの理由でしょう?」
まあ、そうだ。
他人から見れば合致しているし、整合性も取れている。
結果は円満離婚。財産分与も無かったらしい。
「でも、実際は他の理由がある」
「じゃあ、それは何?」
訊ねると時を同じくして、家の前に着いてしまった。
まだ収まることを知らない騒がしい声に、身体が縮こまるような思いが湧き出てくる。
「浮気、でしょ。……知ってるよ」
「……」
「どうして訊きたかったの?」
なんでもないように、彼女は言い切る。
「さっきの人たちは、一方的に父さんが悪いって詰ってたから」
「……そっか。じゃあ、知ってるのは、当事者二人と、わたしとハル、あとは」
「姉さんは知らない」
「……まあ、そうだよね」
ゆかりさんは父さんから訊いたの? と口に出す前に、彼女はため息をついた。
そして、困ったように口元を歪めた。
「それも含めて本当に知りたくて、ハルが後悔しても構わないなら、全部包み隠さず話すよ」
「……うん」
「みんなが寝静まる……二時半ごろかな。
ここから抜け出して、外に出てきて」
昔よく遊んだ広い公園で待ってるから。
それに頷くと、ゆかりさんは俺の袋を奪い取って、家の中に入って行った。
ゆかりさんは知っていた。
そして、やはり他の人は知らなかった。
約二時間後くらいだろうか、それまでに決めなければならない。
覚悟が必要だ。楽になるか苦しむか、言われてみないことには分からない。
──どうしようか。
◇
家の中に入ろうにも入れなくなって、少しの間だけ外に出たままでいることにした。
どうしてこうなってしまったのだろう。
ゆかりさんの態度と言葉からして、俺に詳らかに話すことは躊躇しているはずだ。
でも、彼女は言いたがっていたようにも見えた。
父さんが、そこまで周囲から期待を持たれるような人物だったというのは、あまりしっくりとは来なかった。
……いや、言われてみればそうかもしれない、と気付く程度ではあるとは思う。
まあ世間一般的な所のエリートで、学歴もそれなり、勤めている会社も広く知られている。
母さんは大学時代の知り合いで、息子の俺が言うのもどうなのかと思うけれど、容姿は整っている部類だと思う。
人付き合いは、あまり家族以外の人と関わっている姿をみたことがないからわからないけれど、そこまで悪いということはないだろう。
この場所にいる人たちを除いて。
ふと思い立って、ポケットから携帯を取り出して、電源を入れた。
着信が一件、姉からだった。
それは今から二十分前のもので、こんな時間に起きてるなんて珍しいな(家に一人でいる時なら)と考えて、かけ直すことにした。
数コール待つと、すぐに姉は電話に出た。
「……姉さん?」
『あ、もしもし』
「こんな時間にどうしたの?」
『……特に意味はないけど』
「はあ」
『ていうか、まだ起きてたんだ』
「それを言うならそっちこそ」
『私はもうすぐ寝るけど、ちょっと眠れなくて……』
「そう。多分もーちょい起きてるけど」
『……大丈夫?』
「え? どうして」
『いつもよりテンションが低いような気がしなくも……』
「……電話だからじゃない?」
『うん。えー、でも』
「姉さんは? 一人で寂しくて眠れないとか?」
『……はあ? いきなり何の話ですか』
急に敬語。
「眠れないって言ってたから、そうじゃないかなと」
『……いや、まあ、何となくハルの声が聴きたくなって。
それが寂しいって言うんなら、そうなのかもしれないけど』
「素直にそう言えばいいのに」
『……うん』
「……」
自分で言っといてなんだが。
急にしおらしくなるな、マジで。
『ひとつ、お願いがあるの』
「なに?」
『私のこと、名前で呼んでみてくれない?』
「どうして」
『いいから』
「はいはい、じゃあ……楓?」
『……ふっ。じゃあ、次は楓、頑張って、と言ってみようか』
「意味あるの、これ」
『あるよ、ものすごく大きな意味が』
なぜか自信ありげな口調だった。
「……か、楓、頑張って」
いったい何のプレイだ。
中途半端な恥ずかしさがこみ上げてくる。
『う、あー……。……いいねいいね、頑張れそう』
「……で、これをする意味は?」
『……何といいますか、私の身体が応援されることを欲していたの』
「なんだそれ」
俺は笑った。電話の向こうで姉も少し笑っているようだった。
『ゆかりちゃんは? 近くにいる?』
「ううん、今はちょっと外に出てるから」
『……うんうん。ま、ハルの声も聴けたことだし、私はもう寝ようかな』
「うん」
『ハルも、あんまり夜更かししちゃダメだよ?』
それじゃ、と言って電話を切られそうになる。
その時になって、俺も寂しいと感じたのかもしれない。
まって、と呼び止めると、姉は驚きもせずに『どうしたの?』と問いかけてきた。
「……姉さんは」
姉さんは……。
姉さんは、俺とずっと一緒にいてくれる?
なんて、言ってしまいそうになった。
もしかしたらこの先、家に一人なのが普通になるかもしれない。
姉さんではなくて、俺が。
さっき言われたことで、ずっと感じていた恐怖は少し大きくなって。
遠くに離れられることが怖くて。
自分のことは自分で整理しなければならない。
そう思ったばかりなはずなのに。
『……ねえ、どうしたの?』
不安感。でも、
「……はあ。やっぱり、俺も寂しいみたい」
『ふふ、……私の思ったとおり』
「適当言わないでもらえますか」
『えー、でも寂しいんでしょ』
「まあ、それは」
『明日には、うーん。今日か、帰ってきたら私に会えるじゃない』
だから、そんなに不安にならなくてもいいんじゃないの、と平然としている様子で言われた。
不安。なんて言葉は口に出してはいないが。
どこか他人事とも取れるような物言いだったが、俺にとっては、それだけで十分だったのかもしれない。
「……姉さんってさ」
『うん』
「俺のことめっちゃ好きだよね」
数秒間の沈黙。
あー、なんか、俺も眠いのかもしれないなー。
『うん……好き、だよ』
「……まって、冗談」
『いや、えっと……はあ……冗談かあ』
どんどんと音がする。
何やら慌てている様子だ。
「何をしているのかね」
『ちょっと、クッション殴ってる』
「……ごめん」
『……そんで、元気は出たかね』
ころころ態度が変わるらしい。
まあ、引きずられても困るからそれはそれでありがたいが。
「はあ、おかげさまで。ありがとう」
『うんうん、それは良いことだ』
じゃあ、と言って話を切りあげようとする。
そうしたら、今度は姉が『……あ』と小さく声をあげた。
『……なぎちゃんに夜這いしたりしたらダメだよ?』
「いや、そもそも寝る場所が」
違、わない?
『へー、やっぱり同じなんだ。
まあ、何というか、良い夜を?』
「ちょっと待て」
ぷくくっ、と笑い声が聞こえた。
茶化されていたみたいだ。さっきのお返しか?
『……まあ、ヘタレのあんたにそんなことはできないだろうけど』
だってほら、良い夜を、とか言われると、そういうことを想起するというか。
性欲。無いわけではない。
それに、相手はあのなぎさだし。
するか? しないわ!
ノリツッコミ。まったく、余計なことを言われたものだ。
「前も言ってたなそれ」
『そうだっけ?』
「うん、しかも一週前とか、それくらい」
『……だって事実でしょ』
「……まあ」
『ていうか、もう眠くなってきちゃった……じゃあね、おやすみ』
「えっ、おやす」
ぷつりと音が途絶えた。
おやすみくらい言わせてくれればいいのに。
ラインでおやすみとスタンプで送ると、すぐに同じようなスタンプが返ってきた。
そういえば、一緒に寝たいとか、こっちに来る前に言われたな、と思い出して、姉だって変わらないじゃないか、と思った。
帰ったら、ひとまずそれでいじり倒そう。
そんなことを考えるだけで、少しだけ気分が落ち着いた。
……落ち着いて、決めなくてはならなくて。
けれど、とっくに答えは決まっていた。
言われた時から、というよりは言われる前から。
少しでも何かを得られるなら、得ておくのがベターな選択で、納得できるなら、それが現状でのベストな選択だと思う。
家に入って二階に上がろうとすると、ゆかりさんに呼び止められた。
こっちに来て、と。
なんとなく気分が高揚していて、酒酔いではないような、ぽわぽわしたような浮遊感を得る。
途中で広間を覗くと、そのまま雑魚寝のようになっていて、飲んでいる人、タバコを吸っている人、寝ている人が入り乱れていた。
ここに戻るわけではないらしく、ちょっと安心して、ゆかりさんの後を付いて行った。
時刻は一時を回っていた。
◇
いいかげん起きているのにも慣れてきて、眠さは消え失せかけていた。
今まで何してたの? と問われて、姉さんと電話してたと答えると、
面白いものを見たかのように笑われた。釈然としない。
少し歩いた後に、襖の前で立ち止まる。
彼女は取っ手に手をかけて、何やら少しだけ逡巡したような顔をして固まった。
かと思ったら数センチ程襖を開けて、中を覗き出した。
「なにやってるんですか」
「……いや、いやあ……うん」
歯切りの悪い返事なこと。
「ハルが開けて」
「いいけど、誰がいるの?」
「うんと……料理作ったりしてた女の人たち? 薫乃さんとか」
「……で、なぜ俺が」
「いいから。どうぞ?」
しっしっ、早く開けちゃいなさいとでも言いたげなジェスチャーをされた。
変に探るのもアレなので、一思いにがらっと開けてみる。
がばっと、効果音をつけるならそんな勢いで抱きつかれた。
そんなことをまったく予期していなかったからか、体勢が崩れる。
「うおっ……と」
後ろに押し倒されるようなかたちになって、尻もちをついた。
にぱーとした笑顔。楽しそうに上気した頬。
……酔ってるな、こいつ。
「せんぱい、おかえりなさい」
呼び方がいつものに戻っている。
馬乗りになって抱きしめられる。
いろいろなものが当たるけれど、平常心、平常心だ。
「ゆかりさん、ちょっと助けて」
「あ、席はっけーん。すーわろっと」
スルー。閉められた。
目線を下げてなぎさを見ると、ぶすっとした拗ねたような顔をしていた。
「……どうしたの?」
「おかえりって言われたら、ただいまって言うべきだと思うのです。
ほら、言ってください」
「……ただいま?」
「よろしい」
抱きしめる力が一層強くなる。
小悪魔的な微笑み。この女、底が知れない。
そして、匂いを嗅ぐかのように顔を押し付けられた。
「あのさ……」
「なに?」
「ちょっと、退いてくれないかな」
「それって」
彼女はぷくーっと頬を膨らませる。
なんていうかこう、今は幼児退行しているのか?
「わたしが重いってことですか!」
「ちがうちがう……。床で背中がいたいといいますか」
「ふふっ……じゃあ、頭を撫でてくれるなら、いいですよ?」
「……中入ったらするから、ひとまず立ち上がろ?」
「えへへ……はーい」
なんだ、思ったよりもあっさり立ち上がった。
俺も立ち上がって、ふらふらして足元のおぼつかない彼女を支えながら部屋に入った。
空いている席はゆかりさんの隣で、なぎさと並んで座った。
「……あの、お酒飲ませたんですか」
俺は飲んでしまったけれど、彼女が飲むのはまた違うと思う。
別に彼女がいいと言うなら俺が干渉する必要もないが、今は預かっている身だ。
彼女の親御さんに任された以上、何か間違いがあってはならない。
「ごめんね、でも、飲ませたわけじゃなくてね……」
薫乃さんが申し訳なさそうに呟く。
「……未成年ですよ? こいつ。それに、もうベロンベロンに酔ってるみたいだし」
「こいつってなんですか」
「……ちょっと静かにしてて」
「なぎさ、とお呼びなさい。べ、べつに呼びたいならなぎちゃんでもいい、けど……」
キャラが定まってない、というかブレブレだ。
「なぎさ、静かにしてて」
「じゃあ、代わりに撫でなさい。言ってましたよね」
さっきから、命令口調が多くなっている。
隠れ女王様気質か?
仕方がないので頭を撫でると、彼女は、ぁー、とか、ゃー、とか鳴き声のようなものを発して、逆に落ち着かなくなった。
その姿はまるで犬のようだ。みたらし撫でたい。
「……そう言われてもさあ、飲んじゃったのは仕方がないんじゃない?」
「その発言、教育者としてどうなんですか」
「まあまあ、だって、なぎさちゃんが飲んだの、これだよ?」
コップを指さされる。
「このコップの……」
「……」
「半分くらい?」
なぎさが頷く。
えっと、マジか……。
「ここまで弱いのは初めて見たよ。
ほろよい三口かあ……」
「ゆかりさん、感心しないでください」
「……さすがに飲ませるのは悪いと思ったから、カルピスを出したのよ。
そしたら、間違えて別のコップのお酒を飲んじゃったみたいで」
薫乃さんは依然として申し訳なさそうだ。
そういう顔をされると、責めているみたいに感じられて萎縮してしまう。
「色は同じだしね」
それなら、まあ。
いや、でも……。
「……とりあえず、事故なら仕方ないですけど、俺も責任取れないですし」
「……うん、わかったわかった。ごめんね?」
「俺に謝られても……まあ、はい」
俺もさっきはかなり飲んだと思うけれど、気合と勢いでどうにかなっただけで、最後にはぶっ倒れてしまったし。
隣の彼女を見ると、いたずらっぽく笑って、テーブルの上のコップに手を伸ばした。
「もういっぱいのみます」
「やめとけ」
「どうして? こんなにぽわぽわして気持ちいいのに」
「だめなものはだめだ」
「せんぱいだって、たくさんのんだって聞きました」
「……あれは、止むに止まれぬ事情があってだな」
「じゃあ、わたしも今はそのやむにやまれぬじじょうってやつです」
呂律が回ってない。聞き取れるほどではあるけど、危ない気もする。
俺が返答に困っていると、なぎさはそのままグラスを掴んで口元に持っていく。
黙って見ていても埒があかないので、ばしっとコップを奪い取った。
「いたっ……」
「もう飲むな」
「うー……。せんぱい手きびしいです……」
拗ねたように言って、何を思ったか、俺の腕に手を回してきた。
「じゃあ、くちうつしでいいから、はい」
口をんー、と近付けてくる。
近い。
「ぶはっ……」
ゆかりさんが吹き出した。
「……ストップ、ちょい、待って」
「くちうつしー」
すんでのところで避けて、手のひらでガードすると、そのまま手に唇を当ててきた。
コップを彼女から見て遠くに置いて、反対の手で頭を撫でると、また少し落ち着かないながらも静かになった。
「あんたたち、いつもそんなやりとりばっかしてるの?」
と、薫乃さんがのたまえば、
「気になるー」
と、ゆかりさんが同調してくる。
仲良いな、この人たち。
悪ノリだからか? すごく困る。
「なわけないでしょ」
「それにしては、随分と好かれてるんじゃない」
「うんうん、かわいい酔い方だし」
「それはゆかりがちょっと飲むだけで気持ち悪くなっちゃうだけでしょ」
「いいなー薫乃ちゃんは、お酒強いし」
そのまま二人で話しててくれ、と思ったが、そうはいかないのはあたりまえで。
「キスはもうしたの?」
「してない」
「な?」と、同意を求めて彼女を見ると、赤い顔で首をかしげた。
「キス、キス……。ありますよ?」
「は」
「なんだー、あるんじゃん。嘘つかなくてもいいのに」
このこのー、と隣から脇腹をつつかれる。
本気で記憶にない。
「まじで覚えてないんだが」
「うーわー、さいてー」
「……ちょっとまって、混乱してる」
もう一度なぎさを見ると、ぺろっと舌を出してにやりと笑った。
「しちゃえば? くちうつしくらいならいいんじゃない?」
「いや、こういうのって意外と記憶に残ってて朝後悔するやつじゃないの」
「ワンナイトラブ?」
「いや言い方でしょ」
勝手な人たちだ。
「いや、本当に、キス自体まだというか。
誰ともしたような記憶がないんだよ」
俺の必死の訴えに、ゆかりさんは口元に手を置いて考えるような仕草を見せた。
「えー、でも昔はよくしてたじゃん」
「昔?」
「うん、ちゅっちゅって。見てて微笑ましかったしー」
何も覚えていない。
するって言ったって相手は限られてくるけれど。
「誰と?」
「楓」
「は? え?」
「薫乃ちゃんも見たことあるよね?」
「あるある」
待て。ちょっと待て。
昔、覚えてないくらい前には違いないが、実の姉にだぞ。
仲は悪くはなかったけど、そこまで良くもなかったし。
姉の顔が浮かぶ。薄めの唇。
いや、なんて想像してるんだ俺は。
「まあ、楓にはほっぺだったけどね」
なんだ、ほっぺか。
……て。
「ほっぺでも十分問題だと思うんだけど」
「昔は肉食系だったんじゃない?」
呆れる俺をよそに、二人は笑う。
「なぎさちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どうって……」
そういう問いかけは、後で気まずくなるからやめてくれよ、
と思って隣を見ると、彼女は俺の腕にしがみついたまま目を閉じていた。
耳をすますと、すーすーと寝息が聞こえる。
……寝ちゃったか。
いや、寝てくれて助かったかもしれない。
「どうも、思ってはないけど、よくわかんない……」
「何がわからないの?」
薫乃さんが食いついてきた。
ゆかりさんは半分冗談、下手すりゃ九割くらい冗談で言ってきたんだろうけど、薫乃さんの瞳は真剣みを帯びていた。
その形相に、ゆかりさんも少し戸惑ったような雰囲気で俺をちらりと見た。
「……それも、あんまりよくわからない。
わからないのがわからないというか、無理にわかろうとすると、逆にいろいろ見えなくなってしまう気がして……」
「そっか……」
「はい」
納得しない様子で、薫乃さんは何度も頷いていた。
どうして、こんなことを訊いてきたのだろうか。
「それにしてもさ……」とゆかりさんが口を開く。
「なぎさちゃん、かわいいよねー」
「……」
「寝顔かわいい、写真撮りたいくらい」
「撮ればいいんじゃない?」
「えー……じゃあ、失礼して」
パシャリと一枚だけ写真を撮った。
ほんとに撮るんだ。
「ていうかさあ、ちーちゃんの写真ないの?」
「ちーちゃんって?」
「……千咲ちゃん? ほら、ハルの家の近くの」
「ああー! 昔こっちに遊びに来たわよね」
「で、ハル。持ってるの?」
どんな魂胆が、とは思ったけれど、
成長した姿を見たいとか、そんなもんだろ。
「あるけど……ちょっと待ってて」
スマートフォンを操作して、最近撮った写真を見せた。
千咲が勝手に撮ったものだが、多分よく撮れてると思う。
「えー、ちっちゃくてかわいいー。
……今も、同じ高校なんでしょ?」
「うん」
「なぎさちゃんと、ちーちゃん、そんで楓も。
かわいい子しか周りにいないじゃん」
「……そう言われてみれば、そうかも?」
「……ハーレム?」
「いや、姉さんが入るのはおかしい」
「じゃあ他の二人は……ってこと?
ハルくんもやりますなあ……」
「……あの、違う。そんなの考えたこと、ないし……」
「あー! 動揺してる動揺してる!」
「……」
ゆかりさんもなかなかの悪酔いだ。
正面でにこにこしている薫乃さんもお酒強いなら止めて欲しいくらいだ。
それから、主に千咲となぎさのことでいじられたり、朝に(盗)撮った写真を見られたりしていると、薫乃さんが立ち上がった。
どうやら、向こう側の席で飲んでいた人たちを寝所へ連れて行くらしい。
通り過ぎる女の人たちに、おやすみなさい、という言葉とともに、温かな目で見られた。
俺もおやすみなさい、と返すものの、ちょっとだけ猜疑的に見てしまった。
そういうわけで、部屋に三人になる。
「寝てるんだし、ちゅっとしちゃえば?」
「またそう言って……」
「ごめんごめん。冗談だからさ、そんな怖い目で見ないでって」
けたけた笑われる。
怖い顔になっていたのか、全く気がつかなかった。
「……ねえ、さっきの話、聞くよ」
「さっきの……うん。なら、先にシャワー浴びてきなさい。
わたしはなぎさちゃんをお風呂に入れてくるから」
なぎさは寝ているし、他に誰もいないし、ここでもいいのでは。
そう思ったけれど、なぎさをこのまま寝かせるのは申し訳ないってことか。
「……わかった、ありがとう」
「うん、じゃあ背負いますかー」
彼女は立ち上がって、なぎさを引っ張り上げる。
するりと簡単に腕が抜けて、少し名残惜しさのようなものを感じた。
「……またあとでね」
ひらひらと手を振って、ゆかりさんは部屋をあとにした。
しばし一人で部屋にいて、空き缶やコップを中央に集めていると、薫乃さんが戻ってきた。
「あ、後片付け、しててくれたんだ」
「うん、軽くだけど」
「ありがとう」
「いえいえ……」
缶に少し残ったお酒を「飲む?」と言われた。
間髪入れずに断ると、薫乃さんがそれを飲んでいた。
「……さっき、ごめんなさいね」
「……さっき?」
「あの人が、……その、あなたのお父さんを、悪く言ったとき」
「……んと、まあ、大丈夫ですよ」
大丈夫ではないけど、気にされるのは気分が良くない。
「そ、っか。それなら、いいんだけど……」
むしろ、薫乃さんの様子がおかしかったようにも思える。
「あのさ……」
「はい」
「……お父さん……元気してる?」
「父さん、ですか……。多分、元気だとは思いますよ」
「そ、そっか……」
少なくとも身体面の異常はないだろう。
予想で言ったことだったけれど、彼女はほっとしたようだった。
それからは、会話らしい会話もなく、二人で黙々と片付けを進めた。
◇
アルコール。風呂。
余計にのぼせてしまっているような気分だ。
ふと思い返すのは、あの夜のこと。
千咲に対して、何も言えなかった夜のことだ。
離れて行って欲しくはない。
でも、近すぎても、距離感を間違えてしまう。
練習をちらっと見ただけであんなに動揺するのだから、遠征中の試合に影響が出ていないだろうか?
もし出ているとしたら、どうにも申し訳が立たない。
けれど、千咲はまた、なにもなかったかのように接してくるだろう。
その優しさが、どんどん蓄積されていって。反対に、千咲はストレスを溜めているかもしれない。
考えれば考えるほど、自分が最低に思えてくる。
寝る場所はやはり同じだった。
隣で寝るとこの前みたいなことが起きかねないから、懸命に壁の方へ布団をずらした。
玄関に向かう際に、広間の前を通ると、まだ少し話し声がした。
電気は薄暗くついていて、おそらく大半の人は寝てしまっているのだと思う。
外に出て、待ち合わせの場所に行くと、ゆかりさんはもうすでにそこにいた。
「やあやあ」
隣に座るように促される。
どこの公園にでもありそうな、木製の長いベンチ。
「ごめん、遅かった?」
「ううん、わたしも今来たとこ」
「……初デートみたいな会話だね」
「まあ、そうかも」
ミネラルウォーターを手渡された。
外気は蒸し暑さを感じる。
「……続き、聞くよ」
「うん……。どこまで話したっけ?」
「うちの両親の、離婚の原因について」
「うんうん。わかった、じゃあ、話すね」
ちょっと怖かったけれど、気にせずに頷いた。
「まず、お兄ちゃんと薫乃ちゃんがどういう関係か知ってる?」
「……お兄ちゃんが、父さんのことなら、何も知らない。
薫乃さんもこっちの人ってことぐらいかな……?」
「二人はね、同い年で、幼稚園から高校までずっと一緒だったんだよ」
「そうなんだ」
「それで、二人はすごく仲が良くて、わたしもよく三人で遊んでもらってた」
「この話、関係あるの?」
「うん、ちゃんと関係あるよ。でね、わたしにとっては二人は、優しいお兄ちゃんとお姉ちゃんだった」
「……そっか」
「話は戻るけど、お兄ちゃんが結構もてたって話したじゃない?」
「うん」
「でも、特定の相手は作らなかったし、全部断ってた。
理由は簡単で、薫乃ちゃんのことが好きだったから」
「……」
父さんが? 薫乃さんを?
いや、それは……ありえないとは言えないけれど、考えてみたこともなかった。
「薫乃ちゃんも薫乃ちゃんで、お兄ちゃんのことを好きだったんだと思う。
今更確認なんてできないし、あの頃はわたしも小学生くらいだったから、想像にすぎないんだけどね」
「薫乃さんも……」
「けれど、両想いなのに、お兄ちゃんも薫乃さんも告白したりはしなかった。
何も言わなくても近くにいるような関係で、わたしも二人はずっと離れないって思ってた」
「……どうして?」
「お兄ちゃんは、多分怖かったんだと思うの。
一旦付き合っちゃって、ちょっとした喧嘩とかで亀裂が入ったら、今まで通りなんて言えなくなるじゃない?」
幼馴染。距離を詰めるのが怖い。
「薫乃さんのうちと、かなり前から親交があったのも、原因の一つだと思う」
「……」
「お兄ちゃんは、そっちの大学に進んだじゃない?」
「うん」
「ここらへんの高校は、お世辞にも大学進学するような高校じゃなくて。
お兄ちゃんは勉強ができたから、そっちの大学に行ったけど、他の人とは離れ離れになっちゃって」
「……そうなんだ」
「お兄ちゃんは、やりたいことがあるから、って言ってた。
そこでしかできないことだから、離れても仕方がないって」
「……」
「でも、うちの両親は、大学を出たらこっちに戻ってくるって思ってて、
そのまま会社を継いでくれるって信じてたみたいなの」
「それが、期待されてたってこと?」
「うん、けどね、お兄ちゃんはそんな気はなかった」
「……まあ、そうだろうけど」
「お母さんとお父さんは、どうにかしてお兄ちゃんをこっちに連れ戻そうとしたの」
「仕送りを止めるとか?」
「ううん。お兄ちゃんは、バイト掛け持ちして、自分でお金を稼いでたから」
「……それって、つらくない?」
そんなの、聞いたことがない。
「つらいに決まってるでしょ。でも、お兄ちゃんはそうしてた」
「じゃあ、その手段って?」
「……こればっかりは、一番最低な方法だと思うの」
手段を選ばないとして。
どうにかして連れ戻す。ここにしか無いもの。ここにしかいない人。
「……薫乃ちゃんをね、その手段に使ったの」
「それって……」
「そう、こっちに帰って来たら嫁に出すとかなんとか言って。
お兄ちゃんの気持ちは、みんな薄々気付いてたから」
悪趣味すぎないか、それは。
人の気持ちを知ってて、それを大人の事情で使うなんて。
「予想だけど、お兄ちゃんは、ちゃんと仕事について稼げるようになったら、薫乃ちゃんに気持ちを伝えようと思ってたんだと思うの」
「……」
家にとらわれずに、か。
そういうところが父さんらしい、と思ってしまうのは何故だろうか。
生まれ持ったものではなくて、体得したものに意義がある。
それを示したかったのかもしれない。
「お兄ちゃんは揺れてた。ずっと好きだった子を人質に取られて、それで、その頃は特に用も無いのにうちに頻繁に帰ってくるようになってた」
「でも、薫乃さんを呼ぶっていう選択肢はなかったの?
その……駆け落ち、って言うと聞こえはヘンかもしれないけど」
ありそうな考えを口にしたが、ゆかりさんは首を横に振った。
「……ないよ。お兄ちゃんの性格なら、そんなリスクのある行動に出るはずない」
「まあ、そうかもしれないけど……」
言った自分が何だが、俺だってそうすると思う。
リスクヘッジは常に頭に置いておかなければならないもので、
薫乃さんのことも考えれば、ここを捨てるのはあまりにも悪手すぎる。
「でも、薫乃さんは何も言わなかったの?」
「……うん。言いなり、これは仕方のないことなんだけどね」
「そうなんだ」
「……でね、そうこうしているうちにあの人が余計に話をこじらせたの。
わたわたしてるお兄ちゃんを見て嬉しそうにしてて、わたしは本当に嫌だった」
話をこじらせる。
父さんへの劣等感。
薫乃さんが好きな父さん。
……傷付けたいなら、そこを引き裂こうとするのかもしれない。
「……今は、ハジメさんが会社を継いでるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、ハジメさんが継ぐって言って、薫乃さんもろとも持ってったってこと?」
「……まあ、結果的に言えば、そうなったね」
「……」
「ほんとはもっといろいろあったのかもしれないけど、わたしは全然わからなくて。
当時の断片的な記憶と、他の人から聞いたことでしか話せないけど……」
「……辻褄は合ってるってことね」
「うん」
どうにも、他人事には思えない。
身内のことだというのもその理由としてあるかもしれない。
ゆかりさんが、夜空を見上げた。
暗い雲が流れて、月が顔を見せていた。
こんな夜にね、とゆかりさんが口を開く。
「……ある時ね、お兄ちゃんが、夜に泣いていたことがあったの」
「……」
「その日は、わたしだけが家に留守番で、他の四人はどこかに行ってて。
夜にお兄ちゃんだけが家に帰ってきて、たまには一緒に寝ないか? って言われて」
「……うん」
「お兄ちゃん、ずっと泣いてた。
声はあんまり出てなかったけど、鼻をすする音とか、背中が小さく戦慄いてる様子とか、鮮明に覚えてる」
「……」
「わたしはそんなお兄ちゃんを見て居ても立っても居られなくなって、気付いたらお兄ちゃんを慰めようとしてた。
でも、全然効果なくて、わたしもしばらくするうちに寝ちゃってた」
ゆかりさんは、中学生かそこらの歳か。
「……あとで知ったんだけど、その日に、あの人と薫乃さんの結婚話がまとまったらしいの」
「じゃあ、それで……。
いやでも、それじゃあ父さんは」
言いかけた俺を、ゆかりさんは首を振って制した。
「けどね、次の日にはお兄ちゃんはけろっとしてて、向こうに帰って行っちゃった」
それで、その半月後に、本当に二人は結婚したんだよ。
それが、ここの人たちとの不和の原因なのか?
つらい話だ。俺なら折れてしまうかもしれない。でも、それだけだとは思えない。
顔を合わせたくないとは考えるかもしれないけれど、割り切ろうとすれば、なるべく薫乃さんと鉢合わせないように努めれば。
「それから……他に何かあったんじゃないの」
「うん……。やっぱり、そう思うよね」
小さく息を呑む音が聞こえた。
「最初のうちは、わたしが会いたいから帰ってきてってよく言ってたの。
それで、本当に三ヶ月に一度くらいは帰ってきて、遊んだり宿題を見てくれたりした。……二人になっちゃったけど」
「……」
薫乃さんは、当然といえば当然か。
「……お兄ちゃんと薫乃さんは顔を合わせても険悪になったりしないで、事情を考えればあたりまえだけど、普通に接してた」
「うん」
「でも、でもね……。あるときを境に、お兄ちゃんは一切帰ってこなくなっちゃったの。
わたしがお兄ちゃんの携帯に電話したら出てくれるけど、
他の人とは音信不通で、『俺と電話したことはお母さんにも言っちゃダメだぞ?』って言われてた」
「……」
「それで、次に帰ってきたときに女の人を連れてきたの」
「それは……」
「うん。ハルのお母さんだよ」
「この人と結婚するので、って。
それだけうちの両親に言って帰っていって」
……そうだったんだ。
だから、式も挙げず向こうの両親と小さなパーティをするに留まったのか。
「それから、お兄ちゃんは少しずつ集まりに顔を出すようになったの。
楓が産まれて、一年後にハルも産まれて、よくこっちに連れて来てた」
また悪いことばかり考えてしまう。
もしかしたら、父さんは薫乃さんを諦められていなくて。
それで。それで……。
「……それってさ、つまり」
「違うよ。それだけは、絶対に違う」
嫌な勘ぐりですらも、全て察してくれた。
口に出すのも嫌なことだったから、少し助かった。
「どうして、そう断言できるの?」
「……お兄ちゃんは、そんな感情のまま人と付き合ったりはできない人だから」
「それは、ゆかりさんの思い込みじゃないの?」
「……っ。そんなわけ……お兄ちゃんが、そんな」
「ごめん、責めるとかそういうつもりはなくて」
「うん……予想、だよね。予想にすぎないんだよね」
「……でも、わたしはそう信じたいの」と、ゆかりさんは消え入るような声で呟いた。
「俺だって、できることなら信じたいけど、確証がないぶんにはどうしても疑ってしまうと思う」
「……そう、だよね」
彼女の声はどんどん小さくなっていく。
俺に聞いたら後悔すると言ったのも、自分もダメージを受けると思ってたからの発言だったのかもしれない。
やっぱり、責めているみたいだ。
ゆかりさんだって、十何個も上の人たちには訊こうにも訊けないだろうし。
薫乃さんはもちろん、掘り返されたくない傷を負った父さんになんてもってのほかだ。
なら、ここでは。
「……けど、予想でもいいから、知ってることは全部話してほしい」
俺の今までの発言と整合性のない物言いに、ゆかりさんは目を丸くした。
そしてすぐに小さく咳払いをして、俺の方へ向き直った。
「えっと……そのね、お兄ちゃんが来なくなった原因についてなんだけど」
「うん」
「……みんなの前で、今日ハルにしたみたいに酷い言葉をぶつけたんじゃないかな」
「それは……あるかも、だけど。
俺が思ったのは、ハジメさんが、薫乃さんに父さんを悪く言うようにしむけた、ってのもありえるかなって」
「まあ……なくはないね。あんまり考えたくないことだけれど、可能性としては十分ありえる」
ずっと劣等感を感じていた弟の好きな人を奪った。
でも、当の弟は全然気にしていない様子で、落ち込む姿すら周囲の人に見せなかった。
そうしたら……。
おもしろくない、と思うかもしれない。
何かをして、もう一度ダメージを与えよう、と思うかもしれない。
ただの想像にすぎないけれど、辻褄は合っているし、あの薫乃さんの妙な言動にも納得がいく。
「……ハルにね、お願いがあるの」
腕を、掴まれた。
軽々しく訊いてはいけないような雰囲気に、身体が強張る。
「……こんなことを言うのは間違ってるかもしれないけど、でも、お願いしたいの」
「……うん」
「お兄ちゃんを、助けてあげて欲しいの。
わたしじゃ、きっと駄目だから……」
「ゆかりさんが駄目なら、俺だって……」
「……ううん。今お兄ちゃんに一番近いのは、楓とハルだから。
ハルからの言葉なら、もしかしたら、響くかもしれないって、そう思うんだ」
ゆかりさんは今にも泣き出してしまいそうだ。
なんで、どうして、兄に対してそこまでできるのだろうか。
「実は……俺も、ずっと考えてた」
「……うん」
「父さんとは、いつか話さなきゃいけないときが来るって。
母さんのこと、姉さんのこと、俺のこと、それから、今後のことを」
いつか。不確定の未来。
今まで逃げていて、遠ざけてきて、その清算が今来ているのだと思う。
「そっか……」
「でも、ゆかりさんが求めるような成果を得るかどうかは、全く保証はできないし、悪化することだってあるかもしれないし」
彼女は、浅く唇を噛んだ。息が漏れて、目を伏せて俯いた。
哀しげな表情に変化する前に、俺はもう一度「でも」と言葉を続けることにした。
「俺は、父さんと二人で話をしてみるよ。
そんで、どんな結果になったとしても、ゆかりさんには必ず報告するから」
約束、と言って小指を出すと、照れたように笑って、彼女も小指を出してきた。
「こういうところ、お兄ちゃんそっくり」
「そうなの?」
「うん……昔はよく、こんなことしてもらってたから……」
長い時間、話していたのだろうか。
東の空が少し明るみ始めていた。
ゆかりさんが、元気よく立ち上がった。
そして、んーっと軽く伸びをした後に、ぱんぱんと顔を叩いた。
「明日……。今日、起きたらさ、海の方に行ってみようよ」
「……海?」
「うん。あの人たちに会うの、気がすすまないでしょ?」
「まあ、それは……確かに」
「それに! なぎさちゃんとデートっぽいことだってしたいでしょ?」
「はあ……。いや、どこか連れてってくれるなら嬉しいですよ」
頑なな俺の態度に少しばかりの面白さを感じたのか、ゆかりさんはにこりと笑って、人差し指を俺の前に突き立てた。
「あんたも、決めなきゃね」
「……? 何を?」
「……それはずうっと、考えときなさい」
「意味わからないんですけど」
もっとわかりやすいように説明を求めても、ゆかりさんはゆっくりと頷くのみだった。
「じゃあ、戻ろっか。ちゃんと疲れとれるように寝なさいよー?」
「わかってるよ」
少しだけ、肩に乗っていた荷物が軽くなったような感覚になった。
それは不透明で、不明瞭で、まだ実体すら掴めていないほどのものではあったけれど、
確かに、はっきりとした感覚で、自分のなかの何かが動き出すのを感じた。
続き
後輩「また死にたくなりましたか?」【後編】

