【艦これ】深海の呼び声【前編】
【艦これ】深海の呼び声【中編】
100.
【日誌・北上】抜粋
**/**/**
(…)また右腕が攣ったみたいになった。一週間経っても治らない。入渠しても治らないなんて、おかしい。(…)
**/**/**
(…)どんどん右手が言うことをきかなくなってきてる。みんなにはごまかせてるけど、演習や出撃では右手を使わないようにするので精一杯だ。(…)
**/**/**
(…)たった今ペンを折ってしまった。なにかを壊したくて仕方ない。戦闘では右手に任せることでちょっとすっきりする。(…)
**/**/**
(…)大井っちがしんぱい してくれ るけど、いまちかづかれ る と キズつけ るからだめだ(…)
**/**/**
(…)へやがめ ちゃくちゃ かくすのにひっし もうこわすも のがない こわしたい
**/**/**
こわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたいこわしたい
**/**/**
しんかいせいかんをころすのがきもちい い もっところ し たい
--/--/--
もう できな を たい
がま ん い なかま ■■■
だ そのときは し を も■ な きゃ
めだ あた こ■ して わ
--/--/--
おおいっち ごめん
101.崩壊
「あー着いた着いた」
駅舎から出てきて敷波がうんと伸びをした。
「うん。疲れたな」
綾波の隣で提督がぐるりと肩を回す。
「それで、ここからどうするんですか?」
「うん。同僚が迎えに来てくれてるはずなんだが……」
「綾波と敷波キタコレ!」
甲高い声が耳に飛び込んできた。
思わずそちらを見る。
「あっ漣」「おー」
「長旅お疲れ様でした! 綾波型駆逐艦、漣でっす」
漣は提督に向けて可愛らしく敬礼した。
彼も答礼する。
「出迎え感謝する。あいつは?」
「ご主人様なら、あれ? さっきまでそこに――」
「ねえ、ちょっとでいいからさ、あっちのほうにお洒落なカフェがあって、ね、ご馳走するよ」
「ご主人様?」
女性に声をかけていた男に漣は声をかけた。
男は、げっ、といいながら振り返る。
「調子に乗ってると、ぶっとばしますよ♪」
満面の笑みの漣に、げんなりした様子の男。この男こそが提督の同僚である。
声をかけられていた女性はそそくさと逃げていった。
「やあやあ、やっと来たねニコちゃん」
へらへらと制帽を挙げて挨拶されて、提督はぶっきらぼうに睨んだ。
「相変わらずの伊達男っぷりだなクジラ」
「その呼び名も久方ぶりだァ」
「まったくだ」
そう言って拳をぶつけ合うと、男たちはげらげらと笑い出した。
綾波と敷波が困惑し、漣が肩をすくめる。
一行は公用車に乗りこんだ。
「そんじゃ出発しんこーう!」
「安全運転してくださいね、ご主人様」
「アイサー」
同僚の運転で車は動き出す。
後部座席の敷波が口を開いた。
「司令官、さっきの何?」
「え?」
「ニコちゃんって」
「なんだかかわいいですね」
綾波が呟いて、同僚は爆笑した。
「こいつチョー煙草吸うでしょ。だからニコチンちゃん略してニコちゃんなの。ウケルー!」
「じゃ、ご主人様はどうしてクジラ?」
「この野郎はとんでもなく大酒飲みだからな。鯨飲ってことで」
「なんだそりゃ」
「仲いいんですねぇ」
「とんでもない」「ありえない」
男ふたりは真顔で同時に吐き捨てたのだった。
102.
「はー。これが中央かぁ」
「すごいね。人も車も電車もいっぱいだ」
車窓から外の様子を眺めながら敷波と綾波が感想を洩らす。
漣は口笛を吹いていた。
「妖精との面談予定は明日だから、今日はとッてもステキなところ連れてっちゃうぞ☆」
「ご主人様キモい」
「どこへ行くんだ」
「着いてからのお楽しみ~だよん」
そうして到着し、一行は下車した。
「陸……陸上護衛部隊だと」
錆びたプレートを読んで提督は瞠目した。
同僚はヒヒヒと笑う。
「聞いたことあるだろ? 首都機能を防衛する熟練の艦娘部隊だ」
「ああ。だが、まさか中には入れないだろ」
「普通は無理だ。だっけっどー、今回は特別にねじこんじゃいました!」
「ホント無理を通せば道理が引っ込む、交渉ともいえないような交渉でしたけどね」
「イエスと言わせちまえばこっちのもんだぜぇ。といっても庁舎内は入れないけど。外側をぐるっと回るだけ」
「なーんだ」
敷波がそう言ったとき、横から声がした。
さっきまで誰もいなかった場所からだった。
「施設見学を申し込まれていた方ですね」
「わあ!」「ひゃあっ」
敷波と綾波が喫驚する。
少女がひとり立っていた。艤装を見るにどうやら駆逐艦らしい。
だが、その姿は異様だった。
頭巾のような仮面のようなもので頭部を覆い隠しているのだ。
「そうでーす。キミが案内してくれる子?」
「はい。私が案内いたします」
「なんで隠してんの? カワイイお顔が見たいなー」
「規則ですので」
にべもない対応にも同僚はへらへらと笑うのみである。
「ではこちらへ。私のそばから離れること、録画録音等の記録、通話・艦間通信は禁じられています。質問があれば随時どうぞ」
そう言ってそっけなく少女は歩き出した。
制服も、見たことのない無個性なものだった。
「君は駆逐艦? 何型なんだ」
「明かせません。これも規則です」
提督の問いに少女は振り返ることすらしない。
同僚がにやにやし、漣に小突かれる。
「こちらが本部庁です。作戦指揮室や会議室、資料室、それから事務室などがあります」
少女が手早く敷地内を巡り、説明する。
「こちらは食堂です。手前が艦娘用。あちらは訓練や実験のための施設」
「この奥には工廠がありますが、見学はできません」
そしてまた正門に戻ってきた。
時間にして30分ほどである。実に簡素な見学だった。
「以上になります」
「基本的に鎮守府と同じような作りなんだな。君たちは海上に出ることもあるんだよな」
「はい」
「そうか」
提督がそれ以上なにも言えなくなると、少女は、
「それではお引き取りください」
とだけ言った。
そのとき、エンジン音とともに大量の二輪車と四輪車が構内に進入してきた。
どれも運転している者は、案内してくれた少女と同じような頭巾を被っている。
「なん、だ、これっ」
動揺している一行を気にも留めず、少女は淡々と答えた。
「機械化歩兵部隊です。陸上でも海上と同等の機動力を有します。迅速に移動・展開・制圧を行なえます」
「ほお。陸軍のやり方を取り入れてるのか」
「キミも運転できるの? 僕とドライブにいこっか~?」
「我々は全員、二輪と四輪の運転が可能です。提案された件は辞退させていただきます」
「君たちが個人の判別をできないようにしているのも、戦略的な措置なんだな」
「その通りです。戦闘能力や戦術を容易に悟らせないための迷彩です。たとえ知っていても無関係に効力を発揮します」
「確かに効果はあるな。採用してもいいな」
「えー、なんかヤだ」
敷波がぶうたれた。
なぜ? と提督が尋ねる。
「だってさー、なんか、機械みたいになっちゃうじゃん、あたしたち」
そう言った敷波に、少女が向き直った。
「それでは敵に情報を与え、対策され、撃破されてしまいます。任務遂行できなくともよいと?」
「え……や、そーじゃないけどさぁ」
「ま、まぁまぁ敷波」
不満そうな敷波を綾波が執り成す。
提督が敬礼する。
「案内、感謝する。時間をとらせた」
「いいえ。不備等あればご容赦の程を。では」
「ああ」
少女の完璧な答礼。
同僚も帽子をひらひらさせた。
「じゃあね~カワイ子ちゃん」
一行は再び車に乗りこんだ。
103.
その夜。
「まさか陸上護衛部隊を見学できるとは思わなかった」
「ヘッヘッヘ。サプライズ! せっかく中央まで来たんだから、ちっとは楽しいコトねェとな!」
提督と同僚は居酒屋のカウンターに並んで杯を傾けていた。
綾波と敷波は外来者用の宿舎である。
「ああ、なかなか楽しかった」
思い返しながら提督は紙煙草を取り出す。
同僚がマッチ箱を置いた。
「助かる」
「いいってことよ」
火をつけて煙を吸い込み、提督はマッチ箱を懐に仕舞う。
それを横目で確認しながら杯を空にする同僚。
「そ・れ・と・も~? オンナノコがたくさんいるトコのほうがもっと楽しかったかなァニコちゃんは!」
「女なら艦娘だけで十分だ」
「手ェ出せないだろ? ちったぁ女遊びしろよ~」
「そんなだからお前は鎮守府勤務にならないんだよエロクジラ」
「ちがいますー第一だけじゃなくて第二艦隊まで持ってますーニコちゃんみたいに艦娘に手出してないですー」
「出しとらんわ阿呆」
「艦娘と夜戦ってか! ギャハハハ!」
「うるせえぞ」
「もっと飲めよ~ニコちゃん!」
「もう飲めねえよクジラ」
二人が勘定を済ませたのは日付が変わってからだった。
あてがわれた個室に帰ってから、提督はマッチ箱を取り出した。
スライドさせて逆さに向け、ぽんと叩く。
外れた厚紙の次に、折り畳まれた紙片が落ちた。
紙片を広げる提督。
「……やっぱりか……」
提督はひとり、そう呟いたのだった。
104.
「あれ。司令官、おはよ」「おはようございます」
「ん。ああ、おはよう」
早朝。
ロビーの隅の喫煙所で煙草を服んでいた提督は、顔をしかめた。
「司令官、体調よくないんですか?」
「なんか顔色わるいよ」
「いや。昨夜、呑みすぎただけだ。あとあまり眠れなかった。二人は大丈夫だったか?」
「うーん、やっぱり疲れてたからかなぁ、すぐ寝たと思う」
「綾波も特に困りませんでした」
「そうか。それで、こんな早くからどこに行くんだ」
「ええ、せっかくだからちょっと散歩しようって」
「そういうことか。迷子にならないように、それから立入禁止区域に気を付けてな」
「はい」「はーい」
綾波と敷波が並んで出ていく。
提督はもう一本、紙煙草に火を点けた。
「さて、どうするか……」
灰に変わっていく葉を見ながら提督は思案を巡らすのだった。
105.
「今度の休みに、街の喫茶店にでもいきません?」
「いいねー」
「新作のメロンのシャーベットが美味しいらしいんですよ」
「へえー。冷たくて、美味しそうだね」
大井はくすくすと笑った。
「きっと美味しいですよ。ああ楽しみ!」
「そだねー。早く休みにならないかなー」
頬杖をつく北上は窓の外を見やる。
「暑くなってきたねぇ」
「もうすぐ夏ですよ」
「暑いのはやだなぁ。シャーベット食べたい」
「うふふ。食べに行きましょう、北上さん」
「うん、行こうねー大井っち」
砲撃音。
北上が肉片を撒き散らして海面に倒れた。
「北、上さん、……っ?」
「ねえ、大井っち。どうしてあたしを助けてくれなかったの」
へたりこむ大井の後ろで北上が囁く。
「海の中は冷たくて、暗くて、恐かったよ」
「ご……ごめんなさ……」
「さびしいなぁ大井っち。あたしを見殺しにするなんて」
「ち、ちが……わた、わたしは」
「大井っちがあたしを殺したんだ。大井っちがあたしを殺したんだよ」
大井が銃口から煙を上げる手元の単装砲を絶望的な表情で見下ろした。
口元から血をこぼしながら北上が沈んでいく。
「きっ北上さんっ北上さん北上さぁん!」
駆け寄って北上に手を伸ばす。
その手が、
「ね。大井っち」
がしりと北上に掴まれた。
「シャーベット食べに行こうよ」
ずぶずぶと。
血の海へと沈んでいく。引きずり込まれていく。
「あ、あああ、あああああああああっ!」
ぞぶりと。
海中に没する。
海の中は我々の世界ではない。
「ぃや、いやぁっ! いやァーッ!」
にやにやと。
たくさん、嗤っている。
大井の体に取り付き、ばらばらにしてしまう。
なんだこれは。
大井は営倉で髪を掻き毟った。
声が聞こえる。
ずっと、声が聞こえている。
グズ。
ゴミ。
お前なんて生きていても仕方ない。
死んだほうがましだ。
カス。
くたばれ。
馬鹿じゃねえの。
気持ち悪いんだよ。
「…るさい」
何もできないくせに。
無意味。
ボケ。
消えちまえ。
糞。
苛苛するんだよ。
「……うるさい。うるさい。うるさい! ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
大井は絶叫しながら檻を殴り、噛みつき、激しく揺さぶった。
そんな大井を、北上が黙って見ていた。
106.
提督と綾波、敷波が、同僚との待ち合わせ場所に向かって敷地を歩いていると、
「っ」
敷波がなにかに反応した。
綾波も気づく。提督は一瞬だけ眉をひそめた。
「む。お前か。視察以来だな、元気でやっているか」
庁舎の玄関先で部下といたのはいつぞやの中将である。
提督は背筋を伸ばして敬礼する。
「は。ご無沙汰しております。おかげさまで」
「そうか。その調子で励め」
部下に指示して去らせて、中将は提督に向き直った。
敷波がじり、と後じさりする。
「お前が中央に来ることは聞いていた。妖精と会うのだろう?」
「はい。艦隊運用を改善するためです」
「ふん。好きにしろ。だが忘れるな。あそこはお前の場所ではない」
「………」
提督が黙っていると、
「おやおや。これはこれは中将殿ではありませぬか。ご機嫌いかがかな?」
剣呑な目つきをした軍人が話しかけてきた。
その制服を見て、憲兵か、と提督は目をわずかに見開いた。
「今、最悪の気分になったところだ。狗風情がなぜここをうろつく」
嫌悪感を剥き出しにして対応する中将。
憲兵は獰猛に笑った。
「言葉には気を付けるべきですな。出る埃は少ないほうがよいでしょう」
「狗ごときがつけあがるなよ。野良犬根性が透けて見えるぞ」
「残念ながら今回の相手はこちらでしてな。中将殿の相手はまたいずれ」
「近寄らないよう気を配れ。どぶ臭い」
中将はそう吐き捨てて屋内へと消えていった。
「さて。改めて、お初にお目にかかりますな。今日は小官が面談の護衛を務める」
こちらを睨みながら敬礼する憲兵。どうやら鋭い目つきは平常らしい。
提督も少し驚きながらも答礼する。
「ああ。よろしくお願いする」
「おっ揃ってるな! おっはー!」「おはらっきー☆」
そこに、同僚と漣が現れた。
「そんじゃ早速、妖精さんとの面談にれっつらごー!」「イェーイ!」
「ではこちらへ」
憲兵が手回しよく回してきていた軍用車を指示する。
同僚と漣のコンビは遠慮なく騒ぎながら乗り込んだ。
「のりこめー」「わぁい^^」
「朝からうるせえな……」
「ふふ、にぎやかでいいじゃないですか、司令官」
「そうか?」
「そうですよ」
提督は助手席の扉を開け、嬉しそうな綾波と、敷波が同僚コンビに続く。
憲兵が運転席に座ってエンジンをかけた。
107.
憲兵が車を止めたのは郊外の小さな喫茶店だった。
「小官はここで待機している」
と彼が言ったので、憲兵を車に残し、
「さて、俺とニコちゃんはこの喫茶店に入るが、子供は外で遊んでなさい」
下車した同僚がにやにやと告げた。
「え?」「なんでさ」
戸惑う綾波と敷波に提督が詫びる。
「じゃっ、あっちのショッピングモールでもいっちゃいますか~!」
「うん。漣に案内してもらってくれ」
渋渋、といった感じの二人を漣に託し、提督は同僚と入店した。
同僚が何事かを店員に告げると、奥のせまい席へと案内された。
「パンケーキセットうまそお」
「ここに妖精が来るのか?」
「あー? うんそうそう。ニコちゃんなんか喰う?」
「いらねえよ。朝飯食ったばっかだろうが」
「スイーツは別腹だよぅ! ぷんぷん」
「気持ち悪いからやめろ。なんでこんな場所で面談するんだ」
「妖精サンの指定だよ。この席なら誰にも見られないしそうそう声も聞こえない」
「そうなのか」
確かにこの席は奥まっており、壁と観葉植物やインテリアで他の席からは見えないようになっている。
用意周到なことだ、と提督は思った。
注文を済ませて、提督が、本当に同僚がパンケーキを頼んだことをつっこもうとした時だった。
「――お待たせしたかな」
「え――」
長い髪の美人が、着席していた。
向かい合う提督と同僚とは直角に対する場所に、いつの間にか背の高い椅子に座っていた。
「いやァー時間ぴったりだぜェ、妖精サン」
「あんたが……妖、精?」
美人は提督をじっと見つめた。
神秘的な雰囲気。
提督は何も言えなくなってしまう。
「そうだよん。びっくりするだろ?」
「あ、ああ。工廠の小人は妖精の本体じゃないとは聞いていたが……」
「まさかこんな美人さんとは、ってかァ!?」
同僚がげらげら笑うと、妖精はふふふと笑みを漏らした。
「あの可愛らしいのは、いうなればプログラムを走らせるアプリケーションに過ぎないからね。
といっても、この姿も仮初めのものなのだがな」
そこで店員が提督に紅茶を、同僚にパンケーキとコーヒーを運んできた。
「では改めて挨拶を。我我は君たちが呼ぶところの妖精。以後よろしく」
「こいつが面談希望の提督だ」
「おいっ」
あまりにぞんざいな同僚の紹介に抗議しようとする提督を、妖精が笑って制す。
「かまわないんだ。我我は君のことをよく知っている。我我と君は、本当は知己なのだよ」
「どういうことだ?」
「君の鎮守府にもあの小人らがいるだろう。あれらもまた、我我の一部だからね」
同僚がパンケーキにとろりとシロップを垂らす。
「さっき、あれらをアプリケーションといったろう。そこからフィードバックを受けていると思ってくれればいいよ」
「じゃあ、」
「そう! こいつはどこの鎮守府のこともよおく知ってるってこったァ」
提督は納得したような感嘆したような声を出した。
どこから出したのか、妖精は美麗なカップを傾ける。
「ということは、俺が相談したいこともわかっている、と?」
「そうじゃないさ。我我は確かに君たちより多くのことを知っているが、全知ではない。
君の疑問は口に出してもらわなければわからない」
「だがその背景は説明する必要がない」
ということか、と言う提督に妖精は頷く。
「便利だな」
「我我は君たち人間にとっていつも便利であったろう」
妖精はくふふふと含み笑いした。
「ニコちゃんそろそろ本題に入ろうぜ」
ぱくぱくとパンケーキを平らげる同僚が提督を促した。
「わかってる。質問は簡単に言うとふたつだ。
ひとつは、大井を元に戻すことはできるか。もうひとつは、北上は改造前に戻っている可能性はあるか」
妖精は何も反応せずに、いつの間にか持っていたティーポットからカップへ注ぐ。
中空から角砂糖を取り出し、ティースプーンでかき混ぜる。
「いいのだな?」
「あァ」
妖精と同僚が短くやり取りし、妖精は提督へ顔を向けた。
そして訊くのだ。
「――"深海の呼び声"を、知っているかね」
108.
「ああもう鬱陶しいわね!」
曙は自室で罵った。
小さな羽虫がどこからともなく湧いているのだ。
「もお、うっざい!」
丸めた新聞紙で叩いて、叩いて、叩いても、きりがない。
床や壁には汚いしみがいくつもいくつもできる。
「っ」
右二の腕にこそばゆいような感触。
蜘蛛だ。
曙は声も上げられずにそれを払い落とした。
「気ッ持ち悪いのよッ!」
下を見る。
曙は絶句した。
多数の脚を持つ長い虫が、うぞうぞうぞと群がってきていた。
「なんっ――なのよッキモい!」
慌ててその場から離れようとするが、口の中で舌が異物を感知した。
ざわりと。
「ぇげえっ!」
頭で理解するより早く体が反応した。
朝食だったものが口からびちゃびちゃと床へ落ちる。
吐瀉物のなかに、
うねうねと、
蠢く、
何匹もの虫を見て、
「っ! うぷっ! おえぇぇっ」
床に膝と手をつき、曙は胃の中身をぶち撒けた。
109.
「君のことを少し調べた。艦娘を大事にしているようだね」
「ああ」
提督は怪訝そうにしながらも首肯する。
「なぜ?」
「なぜ、って……。彼女たちは深海棲艦に対抗し得る唯一の存在、艦娘を失うことは人類の矢が折れることを意味する」
「だから、人類のために艦娘を大事にする」
「そうだ。それに、彼女たちも兵士とはいえ実際には小さな女の子たちだ。少しでも負荷を減らしてあげるべきだろう?」
それには答えずに妖精はカップを置いた。
「ところで、上層部の艦娘に対する扱いを君はどう思う?」
「上層部からすれば兵卒が駒に見えるのは仕方のないことだ。だが、俺たちはその命を預かってる。
それを蔑ろにすることには断固反対だ。それは提督として当然のことだ」
「艦娘を消耗品だと思うか?」
「そんなわけがない。彼女たちは生きてるんだ。ひとりの人間なんだ。銃弾とは違う」
同僚がパンケーキを完食してため息をついた。
「くふふ。君はほんとうに善い人だな」
「ニコちゃん優しすぎィーッ!」
「うるせえぞクジラ。で、深海の呼び声とは何だ」
「そうだね。まずはひとつめの問いからだ。あるとき、君たち人間は艦娘が平常ではない状態になることに気付いた。
頭痛や手足の痺れといった軽度のものから、幻覚や妄想などの症状まで見られた」
「それが?」
「そう。こういった状態のことを、軍上層部は"深海の呼び声"と呼んでいる」
「それは艦娘に特有の病気ということか?」
「正常な状態から遷移した問題を孕む異常状態という意味ならば、その通りだね」
「それで、それは治るのか?」
「ああ、安心してくれ」
「方法は?」
問いつめるような提督を虹色の瞳で見つめて、妖精はくふりと笑った。
「退役だよ」
110.
『敵艦隊の接近を感知!』
警報が鎮守府に響き渡る。
潮と挟み将棋をしていた霞が椅子を蹴立てて立ち上がる。
「ちッ! このタイミングで!」
潮もわたわたとしながら席を立つ。
「か、霞ちゃん、どっどうしよぉ」
提督のいない状況での深海棲艦の襲来に慌てる潮。
「潮は自室で待機してなさいな! 指揮権は羽黒にあるから確認してくるわ!」
霞は毅然とした様子で指示を残して駆け出した。
廊下を走り抜けながら艦間通信の回線を開く。
「こちら霞! 第一艦隊は出撃準備! 追って羽黒より指示を待つこと! ほかは待機!」
艤装を装着してすぐさま階段を駆け上がる霞。
勢いよく秘書艦室の扉を開ける。
「羽黒! 第一艦隊で出撃、いいわね?」
「あ、かっ霞ちゃ、んぅ」
「は?」
デスクの向こうで羽黒が力なく床に伏せていた。
霞が片眉を吊り上げる。
「あんたこんな時になにやってんの? 早く指示を出しなさいったら!」
「えぇっと、あっあのっ、放送でびっくりしちゃって、そしたら体に力が入らなくなって……」
「はァ?」
ったくもう、とこぼしながら霞が羽黒の肩に手をかける。
そのとき、すぅっと羽黒が目を閉じた。
「うッ!?」
霞の右手が、ぎりぎりと羽黒の肩を握る。
またもや制御が効かなくなっていた。そして羽黒は以前にもあったように唐突に眠ってしまったようだった。
「羽黒! 起きなさいこのバカ!」
どくん。
霞の中の深いところで、どす黒い感情が首をもたげる。
目の前に、無防備な仲間がいる。自分は武装している。
どくん。
仲間を、
殺せる。
どくん。どくん。どくん。
沸騰しそうな破壊衝動を歯を食いしばり脂汗を流しながら抑えつける霞。
その脳裏を、北上の日誌がよぎる。
――どくんっ
「ッ!」
右手が蛇のように跳ねて単装砲を羽黒へと向けた。
引き金を引けば、羽黒は死ぬ。
永遠のような一瞬。
「あああああああああああああああああッッッ!」
絶叫。
そして、轟音。
111.
「退役……だと……?」
「そうさ」
「ふざけているのか? 俺は病気の治療法を聞いているんだ」
提督が苛立ちを声ににじませるが、妖精はきょとんとしている。
人類と友好関係にあっても、やはり根本的に異なる存在であって、両者の間には大きな溝があるのだ。
「ニコちゃん」
同僚が灰皿を提督のほうへ押しやった。
提督は出かかった言葉を飲み込んで、今にも舌打ちしそうな様子で煙草を取り出して火を点けた。
煙を吸って、吐く。
「我我はふざけてなんていないよ。
"深海の呼び声"は艦娘の原理的に不可避なもので、その原因は深海棲艦、否、より精確に言うならば深海に淀む狂気だ」
「深海に淀む狂気。………。説明してくれ」
目を瞑り額を押さえて、提督が促す。
同僚はコーヒーを飲み干した。
「海の底の、さらにその底。狂気はその冥き深淵に沈んでいる。
我我の仮説では、この狂気こそが、深海棲艦を産み出す元凶だよ」
「待ってくれ。元凶と言ったか? 深海棲艦の正体がわかっていると?」
つい口を挟んだ提督を非難がましく妖精が細めた目で見つめる。
「話の腰を折らないでくれないかな。それともそれが君たち人間のマナーなのかい」
「ぐ……。悪かった、続けてくれ」
「深海棲艦のことは今は措いておく。
深海の狂気はその尖兵である深海棲艦を通じて、そして海そのものを通じて艦娘に原理的な影響を与えていると考えられる。
この影響とその結果を併せて"深海の呼び声"ということはもういいね。
だから、艦娘を"呼び声"から救うには海から引き離すしかない。すなわち、退役だ」
提督が長くなった灰に気付いてそれを灰皿へ落とした。
「さて、ではなぜ艦娘は狂気の影響を受けるのか。そのためにはまず、艦娘の歴史を語らねばなるまい。
人類が深海棲艦の脅威にさらされて、我我はそれに対抗する力の開発協力を依頼された。
そうして我我は神籬としての艤装を開発し、軍は艤装に艦艇の御魂を憑依させることのできる巫女としての能力を持った少女を捜し出した」
同僚がうんうんと頷いている。
これは軍の教練学校でも習うことだ。
「少女らは四苦八苦しながら深海棲艦と戦い始めた。人類は希望を持った。これで奴らの侵略を止められると。
しかし、事はそう簡単に運ばなかった」
そうだろう。
そうでなければ、この長い戦争状態になど陥っていないだろうから。
提督はそう思った。
「戦いの中で命を落とす艦娘も当然いた。ところが艦娘適合者はそうそう見つかるものではない。
人類側の希望は見る見るうちに光を失い始めた。補給の間に合わない前線ほど悲惨なものはない。
そこで、軍と我我は次善の策に着手した」
だが、妖精の語る歴史は彼の予想を超えていたのだ。
「我我は艦娘の損耗を補うため、艦娘の模造品を作り上げたのさ」
提督が瞠目する。
「必要なのは発想の転換だった。少女に艤装を取り付けて艦娘にするのではなく、素体と艤装でひとつの艦娘になるようにするんだ。
これは深海棲艦からヒントを得たんだよ。彼女らは艦娘の艤装にあたる部分が不可分だからね。
というのも、深海棲艦は狂気を媒介とする肉と鉄から構成されると考えられていて、」
「ち、ちょっと待ってくれ。すまない」
狼狽した提督が妖精のよどみない話を遮った。
「どうしたのかな」
「そのだな。今の話は、いや、ばかな、しかし……艦娘は、人間じゃない――と、いうのか」
「その通りさ」
絞り出すような提督の問いに妖精はあっさりと肯いた。
提督の手から煙草が灰皿へと零れ落ちる。
「そんなばかな……」
「今の艦娘――我我は第二世代と呼んでいるけどね――彼女らはみな、人類ではない。
作った我我が保証するよ」
妖精がくふりと笑った。
112.
みちり、
と曙の細い腕の皮膚が盛り上がる。
親指大のその凸部はもぞもぞと蠢いた。
ふふ、と曙が笑いを漏らす。
そして手に持ったカッターナイフを躊躇なく自らの腕に突き立てた。
「あはあは」
白い肌を切り裂いていく。
真っ赤な血とともに、でっぷりと肥えた芋虫がびちゃりと床に落ちる。
曙はうねうねと身をよじるそれをぶちゅりと踏み潰した。
「あはぁ」
恍惚とした曙の肢体は傷だらけである。
そして床と靴下は曙の血と芋虫の体液でべっとりと汚れていた。
みちり、とまた皮膚の下で虫が動いた。
曙が愉しそうにカッターを滑らせる。
「曙ちゃん、さっきの大きな音なんだろ……」
潮が扉を開けて、そして絶句した。
「ああ、潮じゃない」
ゆらりと、曙が振り返る。
振り向きざまにカッターを振るって肉片を削ぎ落とした。
「曙ちゃんッ!? 何やってるの!?」
「見て、これ。こんなに虫が取れたわよ」
あはあは、と曙が笑った。
潮には虫などどこにも見えない。血と吐瀉物で汚れた曙のみである。
"深海の呼び声"が、曙に幻覚を見せていたのだ。
「曙ちゃん! とにかくカッターを置いてください!」
意を決した潮が室内に踏み込み、曙からカッターを取り上げようと試みる。
しかし曙はそれに抵抗した。
「何するの! やめなさい潮!」
「どうしてこんなことするんですか!」
「虫がいるからよ!」
「虫なんていません!」
「――っ!」
もみ合いになった二人。
潮の強い言葉に曙が激昂する。
「きゃあっ!」
振り回された潮が足元をずるりと滑らせて床に倒れた。
「はぁっ……はぁ、なんなのよ、あんた、頭おかしいんじゃないの」
起き上がろうとする潮の腹を足で踏んづける曙。
呻いて身を丸める潮が、曙には巨大な芋虫に見えてきた。
「あ。は。は」
曙の手からぽろりとカッターナイフが零れ落ちる。
「あけ、ぼのちゃ……やめ……」
悦楽が抑えきれないという表情で、曙が大きく足を振りかぶった。
113.
「もー羽黒さんまだっぽい!?」
出撃準備を整えた夕立が不満たっぷりに叫んだ。
待機しているのは彼女のほかに天龍、龍田、比叡である。
「艦間通信にも出ませんね。ちょっと見てきます!」
そう言って比叡が駆けていった。
龍田が水平線を振り返る。
「そろそろ、まずいわね~」
「うううー、いつまで待つっぽい?」
舌を垂らす夕立。
「敵は前衛艦隊だったな。重巡、軽巡に駆逐が何匹か、か。チッ」
「さっきの爆発音もなんだったのかしら~?」
「爆撃かと思ったが、敵機は見えねえしな」
むうー、と頬を膨らませていた夕立が、
「もうガマンできないっぽい! 駆逐艦夕立、出撃よ!」
海上へと躍り出て、主機を唸らせ滑り出した。
「あっオイ! 待て夕立、ひとりでいくんじゃねェ!」
「天龍ちゃん、どうする~?」
にこりとした龍田に、天龍もにやりと笑い返す。
「決まってんだろ! 出撃だ!」
114.
秘書艦室に近づいて、比叡は異臭に気付いた。
それは戦場の臭いのはずだった。
「なんですか、これは……」
秘書艦室にたどり着いた比叡は愕然とした。
扉と窓は吹き飛んでおり、室内はめちゃくちゃになっている。
「ひ、えい、さん」
小さな声が比叡を呼んだ。
それは窓際に倒れている羽黒のものだった。
「無事でしたか! 大丈夫ですか」
比叡が駆け寄る。
羽黒は煤まみれで髪も制服もボロボロであったが、重体ではないようだった。
「どうしたんですか。なにがあったんです?」
「わか、りません……。霞ちゃんが来たところまでは覚えているんですが……かっ霞ちゃんはっ!? あっ痛つ……」
起き上がろうとした羽黒が肩を押さえて再び床に臥せる。
比叡は「霞ですか?」と言いながら荒れ果てた室内を見回した。
霞は廊下側の壁際にぐったりと転がっていた。
「霞! だいじょ、おぁっ……!」
助け起こそうとした比叡が絶句する。
霞は両腕の肘から先を喪失していた。
「ぐ……がぁ……あうっ!」
びくんと痙攣して、霞が目を覚ました。
「うぐっ……はぁっ、比叡?」
混乱したような様子だった霞だったが、突然起き上がろうとして支えになる腕がないために叶わなかった。
「霞!? しっかりしてください!」
「羽黒は!? 比叡、早く私を拘束しなさい!」
じたばたしながら霞は比叡に指示を出す。
「な、なにを言ってるんです!? そんなことできるわけが――っ」
「私がやったのよ! 痛っ、いいからさっさと拘束して営倉にぶち込みなさいったら!」
「霞ちゃん! どうしてそんなことを……」
「無事だったのね……よかった。私は北上と同じよ! わかったら早く拘束しなさいな!」
「北上!? どういうことです!」
比叡が振り返って羽黒と顔を合わせる。
羽黒は決意をした表情で頷いた。
「比叡さん、霞ちゃんを拘束してください」
「いいんですね? では!」
比叡は羽黒の言うとおりにした。
115.
「艦娘は消耗品かと聞いたろう? 我我の答えはもちろんこうだ。艦娘はまさしく消耗品である」
「そんな……。で、では、彼女らの記憶はどうなる? 彼女たちには家族もその思い出もあるんだ」
「まがいものさ。第一世代の艦娘の記憶を植え付けているだけだよ。第二世代の艦娘はすべて工廠で製造された。
家族はいないし思い出なんてあるわけない。君も違和感を覚えたことがあるんじゃないか?」
提督は思い出そうとする。
しかし、中央にいたころは艦娘と雑談するような雰囲気ではなかったし、
唯一親しくなった球磨はドロップ艦で以前の記憶を持たなかった。
一方、今の鎮守府では特に綾波から多くそういった話を聞いていた。
先ほどの提督の発言もそれを念頭に置いている。
「気が付かなかったかな。君のとこの工廠で綾波は敷波にこう言っている。
『小さい頃、家族一緒に海水浴に行った』と。昨日の列車では、その頃には深海棲艦もいなかったと述懐している。
だが、実際には10年前には既に深海棲艦と人類の戦争は苛烈さを増していた。
20年前でも海水浴など不可能だった。これはどういうことだろうか?」
「彼女が持っているのは第一世代の"綾波"の記憶、だと?」
「正解! 第一世代を原型にして第二世代の艦娘を製造し、兵站を維持する。これこそが本当の艦娘システムなのだよ」
「………。くそったれ」
提督はなにかに向かって罵って、次の煙草に火を点けた。
同僚を睨む。
「お前は知っていたのか」
「将官以上にはこの情報が開示される。ニコちゃんは本来ならアクセスできないが、中将が特別に許可を出したんだ」
「中将が? あのひとは何を考えているんだ……?」
「ほんとーにニコちゃんのことを買ってるんだろうな」
提督は視察のときの中将の言葉を思い出していた。
――艦娘に情をかけるのを辞めろ。あれは兵器だ。合理的になれ
――一人前になって上に来い。お前なら出来る。そうすれば、言っている意味が分かるようになるだろう
あれは、こういう意味だったのか……。
そう思って、もう一度提督は罵言を漏らした。
「さて。もうひとつの問いにも答えよう。北上が改造前に戻っているという可能性は、ないよ」
「何? では、やはり今の北上はドロップ艦ということか。待て、艦娘が製造されたものであれば、ドロップ艦はどうなる」
「ああ、そうだね。確かにドロップ艦は工廠で直接的に製造されたものではない。
ドロップ艦というのは、その出来上がり方は深海棲艦と同じものだ」
「ドロップ艦と深海棲艦が、同じ?」
「深海棲艦の成立過程に話を戻そうか。深海には人間を含む生物の遺骸と、艦艇を含む金属類が沈殿している。
深海に淀む狂気が媒介となって、この両者が結合したものが深海棲艦だ。
それ故に彼女らは生物と無生物の融合体であり、狂気がその構造を繋ぎ止めているために、あらゆる物理的攻撃はその威力を発揮できない。
艦娘の攻撃が深海棲艦に有効なのは、その兵装たる艤装に艦艇の御魂が憑依しているからなんだよ」
「狂気という非-物理的な力に対抗するには、同様に非-物理的な力を用いなければならない、ということか」
「その通りだね。だが、御魂による攻撃で深海棲艦の肉と鉄をばらばらにしても、海には狂気が蔓延していて両者を何度でも結合させる。
これが、深海棲艦を倒しても倒しても次々と湧いて出てくる理由だ。海の中に狂気と材料がある限り、深海棲艦を根絶やしにすることはできない」
「あいつらウザすぎー!」
「それは、なんて……絶望的な」
「話を進めよう。第二世代の艦娘は構造的には深海棲艦と類似していることはもう述べたね。
そして狂気が深海棲艦を形作る。もし、艦娘が沈めばどうなるか、わかるね?」
「まさか……狂気が、艦娘を復活させるというのか」
「決して黄泉返りではないけれどね。
狂気が艦娘をも材料にして深海棲艦を作り上げることは容易に想像がつく。
彼女らは艦娘が戦いを始めると――それはすなわち沈み始めるということでもある――進化を加速させた」
深海棲艦が姿を現した初期の頃は人型はほとんど見当たらず、魚類と類似したものばかりであったという。
海に棲む肉から深海棲艦が作られていたとすれば、それも当然だなと提督は思った。
「当然、深海の狂気は艦娘をも深海棲艦の素材にする。
よって戦いが長引き、轟沈した艦娘が増えるにつれて深海棲艦には人型――正確に言うならば艦娘型――のものが増加した。
ところが、狂気による結合の際に、艦娘の形を再現することがしばしば起こると思われる。
これがドロップ艦と呼ばれる艦娘の、真相だ」
提督は脱力して後ろにもたれかかった。
立て続けに自らの常識を打ち砕かれて、頭が悲鳴を上げそうだった。
「もしかしたら今の北上は、以前の北上が沈んで、狂気によって再構成されたドロップ艦である可能性はある。
しかしたとえそうであったとしても、果たしてそれらを同一とみなすかどうかは、君たち人類次第だね」
妖精は何が可笑しいのかくつくつと笑っている。
「ニコちゃん」
「わかってる。今は俺が混乱してる場合じゃない。それは、わかってるんだ……! だが、……くそっ」
短くなった煙草を一息吸って、提督はそれを灰皿で押し潰した。
妖精が飲み干したカップをソーサーに置いて、立ち上がる。
「それじゃあ予定されていた質問は以上だね」
「ああ。助かった」
「ち、ちょっと待ってくれ。もうひとつだけ、聞かせてくれ」
提督は慌てて妖精を呼び止めた。
妖精が振り返る。
「くふふ。いいよ。特別に答えてあげよう」
「"深海の呼び声"が進行すると、最終的に艦娘はどうなってしまうんだ」
同僚が、わずかに顔をしかめる。
「おそらく、君の想像通りだよ。
第二世代の艦娘は、"呼び声"に導かれた末に狂気に呑みこまれ、深海棲艦そのものになってしまうんだ」
青ざめた顔をした提督を、虹色の双眸で射竦めて、妖精はくふふふと妖しく笑うのだった。
116.
「あけ、ぼのちゃ……やめ……」
「なにやってんのさ! やめなって」
「!?」
今にも潮を蹴り飛ばそうとした曙の動きを止めたのは、北上であった。
曙を羽交い締めにして潮から離れる。
「へいき? 立てる? んっ? うえっなんだこいつ、傷だらけじゃんか!」
なにがなんだかわからない北上。
「このっやめろ! 放せぇっ! あれを潰して殺す!」
「はぁ!? あんた何言ってんの? けんかするのはいいけどやりすぎだって!」
「き、北上さん、ありがとうございます。曙ちゃんは、なにか、私たちには見えないものが見えてるみたいなんです」
「その結果、自分や友達を傷つけてるっての? おかしいでしょ!」
苦しそうに起き上がった潮。
曙は潮を睨みながら喚き、暴れた。
「あんた、とりあえず誰か呼んで。こいつなんとかしなきゃ」
「わっわかりました。あ……でも、今、戦闘に出てるはず……龍田さんなら」
だが龍田以下、誰も艦間通信に応答しない。
潮はわたわたした。
「なに? 繋がんないの?」
「す、すいません」
「えー? なんでさ。あたしこのまま抑えてる自信ないよ」
「えぇっと……」
「あーじゃあとりあえずこいつを縛っちゃおう。それから誰か呼びにいけばいい」
そう言われて、かなり躊躇していた潮だが、北上に急かされて曙を曳航索で身動きが取れないようにした。
その頃には曙はなぜかおとなしくなっていた。
「ごめんね。曙ちゃん」
曙は床を見つめたままぶつぶつと何事かを呟いているのだった。
117.
提督が妖精に対して怒りをぶち撒けそうになる少し前。
「あっそうだ。司令官にアイスクリームおごってもらうとか言ってたよね」
「え? ああ、列車のなかで」
敷波がふとそう言った。綾波が首肯する。
「アイスぅ~? 食べたいの?」
漣が小首を傾げる。
「えへへ……」
「別に、そうじゃないけどさ。あたし、司令官にちょっとお願いしてくる」
「あっもう、ちょっと待って敷波!」
「なんだよう。ちゃんと綾波のぶんも頼むって。漣のぶんはクジラさんにお願いすればいいでしょ」
「そうだけど、綾波に任せて。ふたりはここで待ってて!」
そして綾波は喫茶店へと駆け戻っていった。
「ったく……」
頬を膨らます敷波に、漣は愉快そうにすり寄る。
「ぷくくく! 綾波ってばお姉ちゃんぶっちゃって!」
「それは前からだけどさ……」
「まー綾波型の長女だもんね~」
「や、もっと前からだよ」
「?」
喫茶店に戻った綾波は提督の姿を探しながら店内をゆっくり歩いた。
しかし見あたらないために奥へと進んでいき、
「ち、ちょっと待ってくれ。すまない」
提督の声が聞こえてそちらへ向いた。
どうにも観葉植物が邪魔になって見通しが悪い。綾波は近付いていった。
そして、
「艦娘は、人間じゃない――と、いうのか」
「え」
提督の台詞に、綾波は足を止める。
「彼女らはみな、人類ではない。作った我我が保証するよ」
「!?」
綾波は耳を疑った。
会話は続いていく。
「彼女が持っているのは第一世代の"綾波"の記憶、だと?」
混乱しながら、しかし綾波は列車内の別の話を思い出していた。
提督が老夫婦に嘘をついた理由のなかで、彼はこう言っていたではないか。
あのくらいのひとたちが若かった頃、艦娘の反対運動はもっとも盛んだった、と。
すなわち、何十年も前から艦娘は戦っており、海水浴など不可能だったのだ。
この記憶は、いったいいつの出来事なのか。
そして――誰の記憶なのか。
「うそ……」
幼い頃からの記憶が脳裏を駆け巡る。
これのどれもが、偽物の記憶だというのか。
"綾波"ではない、本当の名前は、実際には自分ではなく、別の少女のもので、そして自分は人間ですらない。
そんなことが、信じられるか。
綾波は踵を返して喫茶店を出る。
気がついたら敷波と漣のところまで戻っていた。
「何、だめだった? 綾波?」
「………」
「綾波?」「どした~?」
「あ……ごめん。その、司令官には会えなかった」
「えぇ? なんだよーじゃあアイスクリームもなしかぁ」
「まーまーあとで間宮さんとこ行こう!」
「あ、そっかぁ中央だから間宮さんいるんだ。いいなぁ。やったね綾波」
「え……あぁ、うん、そうだね……」
「なんか上の空だなぁ」
「………」
綾波は喫茶店のほうを振り返った。
迷子になった子供のような、表情で。
118.
妖精が立ち去った後、提督は煙草を一本じっくりと吸ってから席を立った。
ウェイトレスを口説こうとしている同僚の頭をはたいて外に連れ出すと、
「そちらの鎮守府から中央へ連絡があったようだ。なにやら緊急事態だという」
と憲兵が知らせてくれた。
提督は驚いたがすぐに頭を切り替え、同僚に後のことを頼んで憲兵の運転で庁舎へと戻った。
鎮守府へと電話を掛ける。
羽黒へと回してもらう。
「もしもし。俺だ」
『司令官さん!』
「緊急事態だと聞いた。落ち着いて、簡潔に報告してくれ」
『はい。その、まずみんなの現状ですが、霞ちゃんが大破、夕立ちゃん・曙ちゃん・天龍さん・私が中破、龍田さんが小破です』
「深海棲艦の来襲か。だが、どういうメンバーだこれは」
『ええと、それから霞ちゃんを拘束して営倉へ入れ、曙ちゃんを同じく拘束して入渠させています』
「なに? どういうことだ。霞と曙を拘束だと?」
『申し訳ありません。まだこちらでも事情を把握できてないんです。
深海棲艦の来襲があったこと、先ほどのメンバーが損傷していることは確実です。深海棲艦は撃退に成功し、当面の危険はありません』
「……わかった。俺はいますぐこちらを発つ。今晩中には着くだろう」
『……すいません、司令官さん……。私、留守を任されたのに……』
涙声の羽黒。
「落ち着け。君のせいじゃない。全ての責は俺にある」
『わたしっひっ秘書艦なのにっなっなにもできなくてっ……』
「羽黒、君は悪くない。今日は一旦休むといい。また後で会おう」
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
電話が切れた。
提督はしばし黙り込んでいたが、すぐに列車の切符を手配してもらうために受話器を置いた。
荷物をまとめて来客用宿舎のロビーにおりるとちょうど綾波と敷波が帰ってきていた。
「あーっ司令官いたー」「………」
「ああ、ちょうどよかった。俺はこれから鎮守府に帰る。ふたりは予定通り明朝の列車で帰還してくれ」
「ちょっ、どういうことさ!?」
「緊急事態だ。羽黒から連絡があった。当面の危険はないようだが、どうも状況がよくわからない」
提督が早口で説明していると、外でクラクションが鳴った。
同僚が公用車の運転席で帽子をひらひらさせている。
「そういうわけだから、すまんが頼む!」
そして提督は急いで乗車し、車はエンジンを唸らせて走り去ってしまった。
「な、なんだよー……」
「………」
「鎮守府のみんな、だいじょうぶなのかな……。ね、綾波」
敷波が振り返る。
「………」
だが、綾波は黙って、しきりに自らの腕を撫でていた。
「……綾波?」
「………。うん。そうだね、心配だね」
「どうしたのさ。寒い?」
「え? ううん……寒くはない、と思う」
歯切れが悪い。
顔を上げた綾波は、敷波の顔をじいっと見つめた。
「……なにさ」
「……敷波、だよね……?」
「なにいってんの。漣に見える?」
「ううん、見えない……。でも、……」
綾波が口ごもったので、敷波は自分の顔をぺたぺたと触った。
特におかしなところはないように思える。
漣からの着信があって、ふたりは食堂へと移動したのだった。
「ヘーキかよ、ニコちゃん」
ハンドルを握る同僚が口を開いた。
「たぶんな。それにしても、上層部はなぜ第二世代に関する情報を秘匿するんだ」
提督は窓を開けて煙草にシガーライターで火を点ける。
「最初は戦況が危ういなんて公表できなかったんじゃねー? 人体の製造も一般的な倫理観に抵触するとか。
でもそのうち軍全体に、それから世間に知らせていくんだろな。少年兵批判に対する回避策とかでさ」
「戦ってるのが人間の女の子だというよりは、人型の兵器だというほうが人道的、というわけか」
「そっすー。"深海の呼び声"についても、頼みの綱に深刻な危険性があるなんて軽々と明かせるわけがねぇっすよォー」
「だが隠してもその危険性がなくなるわけじゃない」
「もっちろんそんなこと上層部だって百も承知さァー。対症療法としては、教練学校で教わる艦娘の<疲労度>ってやつだ。
戦闘を続けて行なうと艦娘が疲労するその程度を表していて、<疲労困憊>――俗にいう赤疲労は休養させるべきだというアレだな」
「実際にはそれは"呼び声"の進行度合いを表しているということか。深海棲艦と接触しないようにして"呼び声"の進行を阻害するわけだ」
「そーそー。その前提となる艦娘保護約定も、妖精の意向というよりこっちの都合っぽいし」
「では根本的な解決策は」
「原因療法かー。キナ臭いのはそこらへんよ。憲兵も嗅ぎまわってるらしい。
当然、上層部だって一枚岩じゃねーから、いくつかの派閥が"呼び声"対策でやりあってるっぽいんだよなー」
提督は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「現場の苦労も知らずに……」
「――あんまし艦娘に感情移入すンなよ」
「………」
同僚に目を移すと、彼は真剣な表情をしていた。
「あいつらは艦娘、それ以上でも以下でもない」
「お前……お前だって、漣と仲良くしてるじゃないか。大切じゃないのか」
「大切だ。ただし、艦娘として。仲良くしてもいい、大事にしてもいい、愛着が湧いてもいい。
でも、艦娘は人間じゃない。俺はわきまえてるが、ニコちゃんはそうじゃない」
「人間にしか見えねえよ……。笑ったり、泣いたり、喜んだり、苦しんだり……どう違うっていうんだ」
「どう違うんだろーな」
同僚が肩をすくめ、停車させる。
駅に着いたのだ。
「ニコちゃん。気をつけろよ」
「ああ。そっちもな」
提督は降車し、改札へと向かった。
助手席に置かれたマッチ箱をポケットにつっこんで、同僚はアクセルを踏み込むのだった。
119.
夕。鎮守府。
「当面の出撃を凍結する」
そういって提督は煙を吐いた。
会議室には羽黒と比叡がいる。
「……理由を、訊いても?」
羽黒は焦げた髪を切って少し印象が変わっている。
短くなった前髪が気になるようで、しきりに手で触っていた。
その頬には火傷治療のためのフィルムが貼られている。
「うん。妖精との面談の結果、深海棲艦との戦闘が根本的な問題だということがわかった。だからだ」
「しかしそれでは鎮守府として機能できませんが!」
いつも通りの比叡が勢いよく挙手して発言した。
「ある程度期間を空けたのち、少数での哨戒をローテーションする」
「私の狙撃はどうしましょう?」
「ああ、そうだな。訓練は続けてくれ」
「はい!」
「報告を整理しよう。
まず最初に、深海棲艦来襲の報告があった。羽黒はそれに驚いて、体に力が入らなくなった」
「そうです」
羽黒は気恥ずかしそうに首肯した。
「そこに霞がやってきて、寝てしまった羽黒を霞の右手が単装砲で撃とうとしたので咄嗟に魚雷で腕を爆破した、と」
報告書を眺める提督の表情は険しい。
「霞ちゃんは、その、少し前から右手の不調に気が付いていたそうです。それから、……北上さんの日誌を、読んで、」
「これか。うん。霞と同じ症状のようだな」
潮から提出された日誌も提督の手元にある。
"呼び声"の主要なパターンのひとつなのであろうと提督は考えている。
「霞は、自分が右手を止められないと考えたのでしょうね。北上の日誌を読んでいたから」
比叡がむむむと腕を組んで唸った。
「おそらく。それで、魚雷で」
「霞はいま冷静なのか?」
「落ち着いています。隣の大井さんを、その、注意したりしていますが、おおむね正常に見えます。
入渠させて両腕を修復すべきだと思いますが……」
「曙、か」
曙が幻覚を見て自傷および潮を傷害したことは潮と北上への聞き取りで判明している。
そして当の曙を拘束の上で入渠させているため、入渠ドックは彼女と山城で一杯なのだ。
「ドックを早急に空けねばなるまい。羽黒を含めて、損傷を負った者たちを修復する必要がある。
残りの、夕立・天龍・龍田は深海棲艦を迎撃した際にダメージを負ったのだったな」
重巡を含む敵艦隊を3隻で撃退したのである。勇躍といってよい。
この程度の損害で済んだのは僥倖だった。
「夕立ちゃんは、曙ちゃんと面会したようですが、とてもショックを受けたようでした」
「想像に難くないな。ううん、無事なのは比叡と、北上、潮、それから明日帰ってくる綾波と敷波だけか。
未だ資材の関係で比叡は動かせないし、北上は練度不足。どのみち積極的な出撃はできそうもないな」
「曙ちゃんの傷はすぐ治ると思いますが、出撃できるかは……」
「恢復予定を参考に、入渠の順番を決めておこう」
会議室の窓から、沈みきる直前の夕陽が射し込んでいた。
120.
予定通り、翌日には綾波と敷波が帰還した。
だが、その日から鎮守府は対深海棲艦の拠点というよりは、療養のための病棟のような様相を呈し始める。
「ねえ、これ、いるわよね、ここに虫が」
「い、いないっぽい……」
「はぁー。これも幻覚だっていうの? 嘘つかなくていいのよ」
「えぇ……」
食堂で曙と夕立が会話している。
だがそれはきわめて食い違っていた。
「……入渠なんていらないから、さっさと解体しなさいったら」
「霞ちゃんを解体するなんて、そんなこと誰も考えてないよ!」
「私はみんなどこにいるんですか? どこから来たのでしょう? ねえ北上さん。北上さん。北上さん。北上さん」
「ああもう、うるっさいわね!」
「落ち着いて! 霞ちゃん!」
「北上さん。北上さん。北上さん。北上さん。北上さん。何嗤ってんのよ」
営倉に入れられているのは大井と霞。潮は頭を抱えていた。
「だいじょうぶ~?」
「あはは~やられちった……潜水艦って、ウザーい」
「だらしねぇなァったく!」
天龍と龍田、北上は訓練を兼ねて哨戒を繰り返す。
「う……痛……」
「また頭痛かしら。だいじょうぶ?」
「ありがとうございます……薬、もらってありますので……」
「夜は寝られず、昼は悪夢を見て、起きていたら頭痛なんて……不幸すぎてもう笑うしかないわね……」
「あはは……」
入渠している羽黒が山城の言葉に苦笑した。
羽黒は頭痛と睡眠障害が治らないままじょじょに憔悴しつつあった。
「あれ。司令官いないの」
「やあ敷波。司令なら、今日はもう上がられましたよ!」
「比叡さんに仕事を残して?」
「あはは、これは私が言い出したんです! 司令、すこぶる疲れておられるようでしたからね」
「……そうなんだ。比叡さんも、ムリしないでね」
「はい! 私は平気ですよ!」
提督室でそう言って比叡は笑った。
だがそれは敷波を安心させるというよりむしろ不安を強めるのだった。
夜空に星が瞬きだすのを眺めながら、提督は天空に向かって煙を吐いた。
屋上である。
逃避しているな、と提督は自嘲する。
ギィ、と音がして、誰かが屋上への扉を開けた。
誰だろう、と目を凝らすが、光が足りない。
「司令官、ですか?」
声で分かった。
「綾波か」
「はい」
小さな影が近づいてくる。
月は細く、その幽かな光はわずかに陰影の輪郭をかたどるのみだ。
「あの、相談というか、訊きたいことがあって」
「うん。下に降りるか?」
「いえ、このままで。ここが、いいんです」
「そうか」
綾波は手が届くか届かないかといった距離で立ち止まった。
顔は見えない。
「司令官。その、なんといっていいのかわからないんですけど、綾波なんだか急に目が悪くなったみたいなんです」
「目が? 戦闘に支障が出るレベルか」
「いえ、……その、戦闘には問題ないというか、むしろ生活に支障があるというか」
「どういうことだ」
「なんだか、顔がよく見えないんです。顔だけが」
「顔が」
「そうなんです。顔は見えるんですけど、よく見えないんです」
「……?」
「綾波にもよくわからないんです。目とか口とか鼻はよくわかります。でも顔が見えなくて」
提督はしばし煙草をふかし、咳払いした。
綾波の表情をうかがうことはできない。
「現在出撃を凍結してるだろう。それは戦闘でのみんなへの悪影響を予防するためなんだ。
悪影響っていうのが、綾波のそれみたいな症状が出ることで、そういったことを中央で聞いたんだよ」
「……司令官。それは本当ですか?」
「もちろんだ。嘘などついてどうする」
内心の焦りを糊塗しようとつい余計に言葉を重ねてしまう提督。
嘘はついていない、と自分に言い訳をする。
「………」
「綾波……?」
「司令官。綾波、聴いてしまったんです。喫茶店で」
「何」
「艦娘は、――作り物、なんですか」
少女の声は震えている。
泣いているのか。
「そ、れは」
「綾波は、わたしは、誰なんですか。なんなんですか。教えてください。司令官。司令官」
提督がもたれるフェンスがぎしりと音を立てた。
121.
「綾波は、わたしは、誰なんですか。なんなんですか。教えてください。司令官。司令官」
提督は一瞬ごまかそうかと逡巡したが、諦めて嘆息した。
もう十分に動揺したし、どちらにせよ綾波は追及をやめないだろう。
「わかった。話すよ――」
「……やっぱり、本当、なんですか」
妖精の話を聞かせると、綾波はぽつりとそう呟いた。
「おそらく事実だろう。整合性があるし、妖精が嘘をつく理由もない」
「……そうでしょうか」
「もちろんそれだけじゃない。アイツも知っていた。これが最大の要因だ」
「クジラさんですか。信用してるんですね」
「ああ。教練学校からの腐れ縁だ。軍の中で最も信頼できる。中将の視察のときもそうだったろ?」
「………」
「艦娘が、ひとじゃないなんて、俺も信じたくなかった。
とても大事な艦娘がいたんだ。苦楽を共にした。気持ちを分かり合っていた。指輪を渡すつもりでいた。
けれど、そいつは沈んでしまった。俺はその欠如を抱えたまま生きてきた。そいつとの約束を支えにして」
話の見えない綾波は黙って聞いている。
「確かに艦娘は人間じゃないかもしれない。俺は間違っていたのかもしれない。
それでも、俺の気持ちは嘘じゃない。約束は、なくなるわけじゃない」
提督は懐に入れた球磨のお守りを握りしめていた。
「綾波は、」
提督はそこで言葉を止めて、一息ついた。
「君が、ひとではなくて、綾波ですらなくても、君は君だ。君の気持ちも、君の思い出も、君のぜんぶが君のものだ。
それでは、だめかな」
「………」
だめか……? 提督は心中で唸った。
くす、と人影が笑いを漏らした。
「ふ、ふふ……司令官、ずるいです、どうして、そんなふうに……なんだか、すこし楽になりました」
「え。うん。それはよかった」
「ごめんなさい、また司令官を困らせました」
「いや……すまなかった、気付けなくて。まさか、聴かれていたとは思わなかった。俺も、かなり動揺していたんだな」
「なぜかはっきりと覚えています、司令官の様子」
「頼むから忘れてくれ。そういえば、なぜ喫茶店に戻ってきたんだ?」
「あ……、いえ、その、たいしたことじゃないんです」
「隠すことはないだろ。こっちだって秘密を喋ったんだ」
「それを言いますか……。えっと……、アイス、です」
「アイス?」
「敷波が、アイスをおごってもらう約束だって言って……」
「列車のなかのあれか? それを、頼みに来たと?」
「う……そうです」
「わかった。今度、約束を果たすよ」
「ありがとう、ございます」
もじもじと感謝を述べる少女。
提督は相好を崩してあごを掻くのだった。
「……相貌失認……これか」
誰もいない室内で、提督は書物に目を落としていた。
「それから…、離人症……。羽黒は頭痛と……ナルコレプシー? これか」
本を閉じて、眉間を指でつまむ。
「……"深海の呼び声"は、どうやら多様な症状を持つようだな……」
どさりと椅子に腰を下ろす。深いため息。
綾波にああ言ったが、彼自身もまだ真実を消化しきれていなかった。
目の前の問題に対処することで、考えることを避けているのだ。
「この状態でいることを中央は許さないだろう。クジラの情報から考えれば、時間は少ない……いや、準備は整っているのか。
あとは、きっかけだけ……。それまでにできることをやっておかなければ……」
難しい顔で人事ファイルを執務机の引き出しに入れて、提督は懐からお守りを取り出す。
「君が見たら、笑うかな。それとも、怒るだろうか」
もはや喪われた声を思い出して懐かしむ。
この胸の痛みすら、彼には愛おしい。
「何が正しいのか、俺にはわからない。……それでも、俺は、……」
122.
「……誰」
営倉のなかで霞は足音を聞きつけて誰何する。
「……霞ちゃん。こんばんは」
「羽黒。どうしたの」
「ごめんね。起こしちゃいましたか?」
「寝てないわ。今は夜なのね」
「はい。もう消灯時間も過ぎてます。でも、眠れなくて……」
「そう」
「あ、義手の調子はどう……?」
「悪くないわ」
両腕を欠損していた霞は、入渠もできないために妖精工学による義手を左腕につけている。
「……いつまで、ここにいるつもりなんですか?」
「出るつもりなんてないわ。このままか、解体されるかよ」
「霞ちゃんは、もう危険じゃないです……!」
霞はため息をついた。
「アンタ、寝てたから知らないだけよ。あたしは確かにアンタを殺そうとした。間違いないわ」
「でも霞ちゃんはそうしませんでした! 自分の腕を……犠牲にして……!」
痛ましそうに霞の右腕を見つめる羽黒。
「静かにしなさいな。……これは、あたしの判断の結果よ。こうするしか、なかったもの。
今ここにいるのも、そうするしかないから。あたしは自分を制御できない。武器を持てばまた錯乱する危険性が高いわ」
「霞ちゃんは、それでいいんですか……!?」
「……しかたないじゃない」
「でも……っ」
「しかたないでしょ!? あたしだって、戦いたい! こんなとこで、こんな姿で、無様なまま……悔しいに決まってるじゃない……!」
「!」
「もう、ほうっておいて、あたしのことは……」
「……どうして、諦めちゃうんですか……。そんなの、霞ちゃんらしくないです……」
「北上みたいに、誰にも悟られないように、生活も戦闘もこなせっての? アンタになにがわかんの?
あたしだって沈めてもらいたいくらいよッ!」
「っ……! そんなこと、言わないでください!」
そのとき、
「北上さんは、」
言葉を漏らしたのは、隣の営倉にいる大井だった。
ふたりは驚いて動きを止めた。
「北上さんはあの霧のなか、敷波と向かい合っていました」
「え……大井さん、そのときを見ていたんですか!?」
「まさか! どうせまたいつもの妄想でしょ」
「二人は砲を向け合っていました。私が声をかけようとしたとき、敷波が北上さんを撃ちました。
私は訳が分からなくて、ただ見ているだけしかできませんでした」
大井の証言がほかと整合性があることに気付いて、羽黒ははっとした。
綾波による開示を大井は聞いていないのだ。
「敷波は膝をついて嘔吐していて、北上さんはゆっくりと沈んでいきました。敷波は叫んでいました。
そして、北上さんは沈んでしまったんです」
大井は壁の向こうに広がっている海を見つめている。
その目から涙があふれ、頬を伝った。
「ああ、かわいそうな北上さん。北上さんが沈んだあとに、敷波は静かに嗤っていました。
アイツが、アイツこそが狂ってるんです」
「……敷波ちゃん、は……北上さんを沈めたことがショックだったんじゃ……」
「そんなやつの言うことを真に受けないったら」
「司令官さんが、敷波ちゃんに霧の戦闘のことを尋ねたとき、」
「なによ」
「敷波ちゃんは、嗤っていた――らしいんです」
「そ……それは、」
「思い出しました。綾波ちゃんがみんなを集めたときの違和感、そう、そうです、敷波ちゃんは嬉しそうに笑っていました。
そのときは合流できたことが嬉しいんだと思っていました。でも違う、違ったんですよね。
ショックだったら、あんなふうに笑えないじゃないですか」
羽黒がまくしたてる。
それは霞を説得しようというより、口から考えがあふれるようだ。
「どうして敷波ちゃんは嗤っていたんでしょう。もしかして、北上さんを沈めたのが愉しかった……なんて、まさか」
「そんなことあるわけないでしょうが! それだったら、もっとほかにも沈められててもおかしくない」
「でも……北上さんは、我慢していたんですよね。あの日誌によると」
霞ははっとした。
大井がうっすらと笑っている。
「北上さん……今度は必ず守ります……そして、ずっといっしょに……」
「もし……敷波ちゃんも同様だとしたら……」
「そんな、でも、………」
「いつ何が起こっても……おかしくない、ということですよね」
「あいつを海に出すのはマズイわね」
「……司令官さんに報告しないと……」
ふたりが深刻な顔を見合わせた、その時。
警報がけたたましく鳴り響いた。
深海棲艦の襲撃であった。
123.最も長い夜
『敵は戦艦5、重巡および軽巡20、駆逐艦多数! 潜水艦2の感あり!』
桟橋は夜闇のまま慌ただしい雰囲気だった。
すぐそこまで深海棲艦の大群に侵入されているのだ。
「迎撃を許可しない」
だが提督は桟橋にいる全員に通達した。
艦娘らがどよめく。
「どういうことだオイ!」
「非戦闘員はすぐに退避させる。艦娘はそれが完了するまで鎮守府を防衛する」
「司令官。危険すぎます。全力で撃滅すべきです」
「だめだ。部隊を二つに分けて、正面と左翼からの援護をおこなう。
天龍、龍田、北上は正面で防衛。比叡、夕立、潮、敷波は海岸沿いに移動。羽黒と綾波は大井と霞、山城と曙の退避を介助してくれ」
「ですが……」
「命令だ! 聞き分けろッ」
食い下がった羽黒に提督が怒鳴った。
羽黒がびくりと黙る。
「……すまん。君たちをこれ以上、危険な状態にしたくない。言うことを聞いてくれ。頼む」
常にない提督の様子に艦娘らが口をつぐむ。
サイレンだけが鳴り響いている。
「綾波ちゃん、行こう」
「えっあっはい!」
羽黒が口を開き、綾波の手を引っ張る。
それに天龍が「うっしゃあ!」と続き、龍田、北上とともに海面に降りた。
「各員、自己の安全を最優先すること」
そう指示して、提督は司令室へと移動した。
比叡らも着水して単縦陣で水面を走り出す。
「あの、援護ってどういうふうに行うんでしょうか」
しんがりの潮が先頭の比叡に尋ねた。
「詳細はポイントに到着してから指示があるでしょうけど、まずは十字砲火でしょうね!」
「えーっ突撃したいっぽーい!」
「心強いですね! 砲撃で攪乱してから乱戦に持ち込む流れじゃないでしょうか」
「じゃあじゃあ、素敵なパーティできるっぽい!?」
「派手なパーティになると思いますよ! 潮も、だいじょうぶですか?」
「は、はい。ありがとうございます」
「通信。『深海棲艦は依然として侵攻中。退避までまだ時間がかかる』とのこと」
敷波が司令室からの通信を隊に伝達した。
比叡が振り返って言う。
「了解。ポイントに到着次第、報告する、と応えておいてください」
敷波は了承し、その通りにした。
一方、鎮守府正面。
天龍、龍田、北上は戦闘態勢のまま待機していた。
「いつでもかかってきやがれ!」
「うあーやばいよー。訓練じゃないんだよねこれ」
威勢のいい天龍と対照的に、北上は初めての実戦でがちがちに緊張していた。
これは別働隊のほうが本命ね、と龍田は見当を付ける。
「びびってんなよォ! 世界水準のオレがいるんだ、安心しろって!」
「うー暗いなぁー。こんなんじゃ魚雷も狙えないしさー」
この三人が戦闘するような状況になるまでに退避を完了させられる目算なのだろう。
特に北上は、訓練したとはいえまだまだひよっこ、新兵である。
彼女はフォローする必要があるだろう。
「落ち着いてね~? 私が探照灯を点灯するから~」
「あー頼むねー。やーやばいなーうんやばい」
しかし。
龍田はそれをわかっていながら、次のように心を決めていた。
その時が来たら、必ず天龍を助けると。
それが自分の責務だと、そう思っていた。
124.
「こちら旗艦。各員用意はいいか」
『こちら戦艦073。射撃準備完了。いつでも撃てます』
『ターゲット・アルファ、動きなし。ターゲット・ブラボー、進行を停止』
『内部部隊からの連絡なし』
『待機ポイントに到着との無線を傍受』
「それではこれより制圧シークエンスを開始する。各員作戦通りに行動せよ。戦艦073、撃て」
『了解』
次の瞬間、深夜の空を轟音が揺るがした。
そして、明かりひとつ点いておらず夜闇に溶ける鎮守府が爆発した。
司令室に着弾した。
125.
「はァ? それで退避?」
営倉を開錠する羽黒に向かって、霞はふんと鼻を鳴らした。
綾波が隣で同じようにしている。
「ええ、そうなんです。司令官さんは、中央から帰ってきてから、なにか隠し事をされているように思います」
綾波は黙って鍵と扉を開けた。
「それで、敷波のことは伝えたの?」
「あっ……わ、忘れてました」
「敷波?」
綾波が顔を上げ、二人のほうを向く。
「敷波が、どうかしたんですか」
「な、なんでもないですよ綾波ちゃん」
「アンタの妹ね、仲間を沈めて喜ぶクズだってことがわかったのよ」
「な……!」
「霞ちゃんッ」
「なによ。アンタが言い出したんでしょうが」
「だからってそんな言い方……!」
そのとき、轟音がして、営倉が揺れた。
「なっなによ!?」「ひゃああっ」「っ」「………」
営倉は地下にあり、何が起こったのかまったくわからない。
だが、深刻な事態であることは嫌でもわかった。
「爆撃でしょうか、敵に空母はいなかったはずですが……」
「様子を見に行くわよ!」
「霞ちゃんは退避してください!」
「ひとまず状況把握が先でしょうが!」
羽黒と霞が言い争っているうちに綾波は階段を駆け上っていってしまった。
「ち、ちょっと待ってください綾波ちゃん!」
「あたしも行くったら!」
結局、ふたりして綾波を追ったのだった。
追いついた先で綾波は立ち尽くしていた。
霞がぶつかりそうになって怒鳴りかけたが、その光景に息を呑んだ。
「なに……これは」
「っ!」
鎮守府が、燃えていた。
地下から上がってきた目の前の壁は崩落していて、もはや建物は形をとどめていない。
「きっ危険です! 早く外へ!」
最初に我に返った羽黒が脱出を促す。
否も応もなくそうした。
東門のほうへとまろびでる。
「あ……ああ……!」
振り返った羽黒が口を手で押さえた。
皆とともに過ごした鎮守府が、夜空の下で崩れ、燃え上がっている。
羽黒はぺたりとへたり込んだ。
「嘘……どうして……」
綾波も呆然としている。
顔色を変えた霞が視線を巡らせた。
「あいつは!? あのクズ、まさか逃げ遅れたなんて、そんなこと……!」
応える者はいない。
そのとき、東の森の方向から多数のエンジン音が聞こえてきた。
三人がそちらを向く。
森を抜けて飛び出してきたのは何台もの二輪車。乗っているのは艦娘だ。
その顔は覆面で隠されている。
「陸上護衛部隊!?」
見たことのある綾波が吃驚する。
「どうしてここに」
「なによあれ。艦娘なの」
「援護、ですか?」
炎に照らされる三人の耳を全体向けの艦間通信がつんざいた。
『敷波っどうしたんですか!? やめてください!』
ノイズまみれで叫んでいるのは比叡だ。
綾波がぱっと身をひるがえした。
「敷波っ!」
「あのバカ……!」
霞がそれに続こうとするが、砲撃音が轟き、霞と羽黒は反射的に地面に伏せた。
着弾は二人を越えて鎮守府へ。
「えっ撃ってきましたよ!?」
「なんだってのよ! 援軍じゃないの!?」
砲撃が続く。陸上護衛部隊は二輪車に乗ったままこちらを攻撃しているのだ。
「まさか……彼らが、鎮守府を?」
羽黒の呟きが霞の脳天に着火する。
仲間を守るために額を地面にこすり付ける姿。頬に湿布を貼った笑顔。煙草をくゆらす、真剣なまなざし。
「……あいつら殺してやる」
「霞ちゃん!?」
怒りに支配された霞が素早く身を起こして走り出す。
目指すのは海。艦娘の戦闘能力を最大限に発揮する場所。
――殺す。
殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す!
霞の心身に兇暴性が充溢する。
左腕の義手がぎちぎちと軋んでいる。
地面を蹴って海面へ跳び込みざまに霞は吼えた。
「朝潮型10番艦、霞、抜錨! 陸上護衛部隊を殲滅するッ!」
126.
「よしっ。全艦停止。敷波、待機ポイントに到着と司令に伝えてください」
「了解」
比叡以下、夕立、敷波、潮が海上で立ち止まる。
灯火管制を敷いているので、お互いの姿はほとんど見えない。
不気味なほど静かだ。波と風の音しかしない。
「司令官より返信。『敵艦隊の位置を送る。砲撃を開始せよ』とのこと」
「全艦砲撃準備!」
一斉に各自砲を構えた。
暗闇のなかへ手を差し伸べる感覚。うねる波。揺れる体。ひと呼吸。
「撃て――なんですっ!?」
号令を出そうとした比叡が振り返る。
後ろから砲撃音がしたからである。しかも、戦艦のものと思しき。
夕立らも驚いている。
そして鎮守府が爆発して、彼女らはさらに度肝を抜かれた。
「なッ、なんで!?」
「ッ! 提督さんっ!」
「夕立ちゃん!」
反転して鎮守府へと駆け戻る夕立。
それに比叡が気を取られているうちに、
「敷波ちゃ――がッ!?」
するりと潮に近づいた敷波が膝をみぞおちにめりこませた。
体をくの字に折る潮。
「か、はっ」
「………」
まったく予期していなかった痛みに混乱する潮の胸ぐらを掴んで、敷波がその顔面に拳を叩き込む。
苦鳴を洩らしながら潮がばしゃあっと勢いよく海面に倒れた。
「敷波っどうしたんですか!? やめてください!」
あまり夜目のきかない比叡には事態が把握できない。
海水を飲んで潮はむせた。
「ふ……ふふ……」
潮の肩を踏んで、敷波が単装砲を構える。
潮に向けて。
「あは」
敷波は嗤っていた。
127.
「なんだってんだァ、さっきから! 鎮守府が砲撃食らってんのか!?」
狼狽する天龍。
龍田が緊張を込めて言う。
「敵艦隊接近。総員戦闘準備」
過剰に反応した北上が焦って単装砲を取り落しそうになる。
不味い、
と龍田は思った。
鎮守府が砲撃されて提督は死亡あるいは少なくとも指揮不能な状態にあると考えられる。
本命であるはずの側面奇襲は実行されておらず、敵は無傷のまま侵攻中。
新兵の北上を連れてたった二人で防衛戦を強いられるのにも関わらず、撤退の判断をする者もいない。
「はぁ……やるしかないわね~」
矛を下段に構えて、龍田はぞっとするような笑顔を浮かべた。
天龍も振り切れたように呵呵と笑う。
「笑っ、てる……」
二人の表情を見て、北上はぐっと砲を握る手に力を込めるのだった。
ゆら、と闇の中に光が灯る。
ルシフェリンの光が、ぽつぽつ、と見えてきた。
「砲撃準備。微速前進。戦艦の砲撃に注意!」
こちらは灯火管制を敷いているが、背後の鎮守府が炎上しているせいで捕捉されやすくなっているだろう。
しかも敵戦艦が電探を装備している可能性も高い。
動かなければ的だ。
光が爆発的に膨張。
「回避運動っ!」
速力を上げた三人の後ろに砲弾が落ちる。
腹の底に響く轟音。
噴き上がった海水が三人に降りかかる。
「ハッハッハーッ! 糞袋が4,50ってところか! いいじゃねーかァ、ぶっ殺してやる!」
髪をかきあげながら天龍が砲塔を敵へ指向。
「第五戦速! 至近距離まで接近するよ~」
三人の主機が唸りを上げる。
敵駆逐艦の砲弾が降り注ぐなかを駆け抜けて、敵艦隊へ突撃。
【グルルルァァァ―――ッ!】
「ハァ……ハァ……ッ」
恐怖と緊張ですぐにでも引き鉄を引きたくなる衝動を抑えるのに必死な北上。
深海棲艦の敵意に心臓を掴まれているような。
「探照灯照射」
夜闇を切り裂いて、一条の光が敵を照らす。
巨大な砲塔の戦艦、こちらを睨む重巡、異形の軽巡、そして涎を垂らして咆哮を上げる駆逐艦。
北上はぞっとした。
「撃て!」
龍田の号令のもと、三人は敵重巡へ砲撃を集中させる。
「敵艦隊を通過後、反転して一斉に雷撃!」
行きがけの駄賃とばかりに駆逐艦を斬り捨てながら龍田がくるりと向き直る。
天龍と北上も同様にして、魚雷発射の体勢を取った。
探照灯の強い光は、相手を照らす一方で闇をより濃くする。
だから、龍田といえどそれに気付くのが遅れた。
三人とも雷撃の準備をしていた。
敵はまだこちらに振り返りつつあった。
「――雷跡ッ!」
とぷりと、水から顔だけを出しているのは敵潜水艦。潜んで雷撃のチャンスをうかがっていたのだ。
声を上げる間もなく、北上を衝撃が襲った。
爆発。
「北上ィッ!」
「……くっ」
魚雷を放ってから龍田がそちらに目を遣る。
探照灯は消したが、まだ目が慣れない。
「っはぁ、げほっ!」
北上は海面を転がった後、膝をついて体を起こした。
魚雷が命中する直前、突き飛ばされて助かったのだ。
「だ、誰が……」
天龍や龍田ではない。
北上の身代わりとなって魚雷を喰らったのは、
「お、おい、っち……?」
大破した大井が、沈みかかった状態で海面に倒れている。
慌てて北上は助け起こした。
「北上! 無事か!」
「うん! でも大井っちが……!」
「大井!?」
「ふたりとも聞いて。退避するわ。天龍ちゃん、アレお願いね~」
「おお! 北上、大井を連れて下がれ!」
「ど、どこにさ!」
「どこでもいい! 敵から隠れろ! 龍田、行くぞ!」
「は~い」
北上から離れながら天龍が探照灯を点灯。そしてすぐに消す。
次に龍田が反対方向へ移動しつつ探照灯を照射する。こちらも一拍おいて消した。
ふたりが交互に敵の目を引きつけながら移動していく。
北上は歯を食いしばって、大井を曳航し始めた。
「き……きた、かみ……さん……」
朦朧としたまま、大井がうわごとを呟く。
「大井っち! しっかりして! すぐに逃げて、すぐ、すぐ……っ!」
大井に声をかけていた北上が、殺意に鷲掴みにされたかのように顔を上げた。
敵潜水艦がこちらを見ている。
どんなに夜が暗くても、どんなに天龍と龍田が敵の目を引き付けても、潜水艦のソナーには意味がない。
「あ……あぁ……!」
北上の脳裏をよぎるのは、辛い思い出ばかりだ。
覚えのない自分を語る羽黒の涙――。
自分ではない"北上"を慕う大井に胸倉を掴まれ、罵られた――。
営倉で絶叫し、暴れる大井の姿――……
それでも。
「ああああこっちくんなああああああっ!」
それでもやはり北上にとって大井は大切なのだ。
大井は、"私"を助けてくれたのだから。
守らなければならない。
北上は涙目になりながら単装砲を構え、敵に向かって撃った。
128.
――血の味。
「……ぁっ」
意識を取り戻した提督は全身の痛みに襲われた。
裂傷、擦過傷、打撲、それからもしかすると骨折。
体が動かない。
「おい。提督殿が目を覚まされたようだぞ」
「ああ。中隊長に伝えろ」
「すぐ来られます」
聞き覚えのある声。
重たい瞼をこじ開けた。
闇に包まれたなかで数人が蠢いている。
「おい。明かり」
「は」
携帯電燈が点灯し、ほのかに辺りを照らした。
闇に潜んでいた人間は、暗視ゴーグルを着けた特殊部隊のようないでたちだった。
そのうちの一人が近づいてきてゴーグルを押し上げる。
「提督も運が悪いですね」
「君は……」
それは、この鎮守府で観測班を務めていた男だった。
「うちの戦艦の砲撃が運悪く司令室に命中したのですよ」
「そんな装備が鎮守府にあったとは知らなかった」
暗視ゴーグルを見ながらの提督の言葉に観測班は頬を歪めた。
「備品の管理も我々の業務範囲内ですから」
提督の手足は容易には千切れないような紐で縛られている。
少し離れたところから砲撃音が聞こえてくる。
「驚かれないのですね」
提督は肩をすくめた。
「サプライズだったのか? なら期待が外れてすまなかったな。だいたい予想通りだよ」
「何?」
観測班の眉がピクリと動いた。
声のトーンが落ちる。
「気付かれていないとでも思っていたのか? おめでたいやつだな」
今度は提督が頬を歪める番だった。
129.
「敷波っどうしたんですか!? やめてください!」
「あは」
敷波は嗤った。
霧の中で北上を沈めた後も。
提督に北上のことを問い詰められた時も。
部屋に閉じこもって、思い出している時も。
敷波は嗤っていたのだ。
「ごほっ、ぐぅ……っ」
潮が呻く。
声を頼りに比叡が接近すると、敷波はあっけなく離れた。
潮を助け起こす。
「す、すいま、せん、ひえいさん、げほっ、へ、へいきです……」
「無理しないでください。潮」
ざっ、と背後で水音。
比叡は反射的に前転した。
一瞬前まで比叡がいた空間を敷波の単装砲が薙ぎ払った。
「しき、なみちゃん……っ」
「潮は逃げてください! 敷波は私が止めます!」
敷波はすぐさま夜闇へと溶けた。
潮は言われたとおりにしようと思った。自分が足手まといになるのではないかと危惧して。
しかし、思い出した。
中将視察の直後、風呂で曙と決意したではないか。
守るのだ。
自分が、仲間を守るのだ!
そう思い直すと、状況がよく見えてきた。
とにかく敷波を止めなければならない。
比叡は戦艦で夜戦向きではない。敷波は夜闇を巧く利用できる。
自分にできることは何か。
腹を押さえながら、潮が比叡に手を差し伸べる。
「だめです! 私のほうが夜目が効きます」
比叡は一瞬あっけにとられたが、すぐににやりと笑った。
「わかりました。では敷波が見えたら言ってください!」
「はい!」
突如、比叡の艤装が爆発した。
敷波が声に向けて砲撃したのだ。
「がぁァッ!」
「比叡さんっ!?」
「あはは」
砲煙をたなびかせて敷波が現れる。
「くっ!」
潮が唇を噛みながら向けた単装砲を掻い潜って敷波の右足刀が振り抜かれる。
敷波のつま先が潮の脇腹にめり込んだ。
「あぐぅッ!」
「敷波ィッ!」
比叡が中破しながらも敷波に掴みかかる。
敷波の左手首を握ることに成功するが、敷波は単装砲を比叡の右腕に向けて躊躇なく引き鉄を引いた。
「うッぐあああああっっっ!?」
比叡と敷波が反対方向に吹き飛ぶ。
比叡の右腕は根元から引きちぎられて無い。ばしゃばしゃと血が海面に落ちる。
「ああああああうでがああああああっ! しょうきですかッ! しきなみいいいぃぃぃぃ!」
潮の目が起き上がる敷波を捉える。
敷波は唇を半月状にして嗤っていた。その手には比叡の右手首。撃つ直前に掴み返していたのだ。
「……あは」
愉しそうに、敷波がそれをぽとりと捨てた。
とぷんと水面に吸い込まれ、沈んでいく。
その様子を見ながら、敷波はぞくぞくと背筋を震わせた。
「沈んでく……ふふ」
「敷波ちゃん……?」
深海棲艦よりも得体のしれないモノ。彼女は本当に敷波なのか。
ソレは明らかに潮の知っている彼女ではない。
「ぐぅ……うしお……っ、あなた、だけでも……っ!」
左手で右肩を押さえながら比叡が切れ切れにそう言う。
指の間から血が溢れ出している。
「潮」
「ひっ……!」
ぐりんと敷波が潮を見た。
体が動かなくなる。
息ができなくなる。
目が離せなくなる。
「うしおっ……にげてください!」
「ぁ……ぅ……」
敷波が単装砲を潮に向ける。
撃たれる。
死ぬ。
――死ぬ!
死を目前にした潮の内腿を温かい液体が伝った。
「敷波っ!」
鋭い声とともに一閃。探照灯。綾波である。
先ほどの砲撃音を頼りに探し当てたのだ。
一瞬で状況を把握する。
「綾波」
「敷波! やめて! 砲を下ろして!」
説得しようとする綾波に対して、敷波は無表情である。
まったく予備動作なしに敷波は砲撃した。
130.
「沈めぇっ!」
暴れまわる隻腕の霞に対して、陸上護衛部隊は距離を取り続けていた。
「照合完了。ターゲット1を試料番号FK021001と認定。殺さずに確保せよ。行動開始」
一人の合図に「了解」の応答が唱和する。
三人が霞に向かって完璧に同じタイミングで海面を滑り出す。
「このォッ!」
霞の砲撃を冷静に回避した一人が艤装から曳航索を引き出して手元に手繰り寄せる。
捕縛するつもりである。
速力を上げて背後に回り込もうとする一人に対して霞が振り返りざまに突撃。
一挙に距離を詰める。
「スペック以上の速力。兇暴化の影響と思われる」
冷静に分析する陸上護衛部隊。
霞は勢いを乗せた蹴りを繰り出す。
だが、陸上護衛部隊はそれを片手で見事にいなした。
「ちっ!」
着水した霞に曳航索を持った一人が接近する。
咄嗟に主機を後進一杯、なんとかそれをかわした霞。
だが最後の一人が霞の背後で待ち構えていた。
「かァーすみィーッ!!」
「っ!」
声に反応して霞は尻もちをつくように後転した。
その上を飛び越えていくのは夕立である。
「なっ!? ぐあっ」
夕立の急襲に虚をつかれた陸上護衛部隊の顔面に見事に跳び蹴りが決まった。
「なにこいつ!」
「敵よ!」
霞の返答に夕立は犬歯を見せて笑いながら着水。
「こいつらがクズ司令官を!」
「へーえ?」
目を赤く光らせて、夕立が喉を鳴らす。
それは、怒りの唸り。
「殺すっぽい」
「分隊長! 艦娘が一隻増加! 白露型、夕立です!」
「退がるぞ。あれもサンプルだろう。照合を要請しろ」
「はい!」
「"深海の狂気"でいかに兇暴化していようとも遅滞に徹すれば――」
喋っていた陸上護衛部隊の頭上から夕立が降ってきた。
鈍い音がして首の骨が折れる。
「ば、かなッ! 救援要請! 助け――っ」
残る一人がばらばらに砕け散る。
霞が義手で砲撃したのだ。
ぞくぞくと甘い痺れが霞の全身を駆け巡る。
嗚呼、なんて気持ちイイのか。
「――夕立、次いくわよ」
「っぽい」
殺す。次も殺す。ぜんぶ殺す。
殺したい。壊したい。沈めたい。
そうすればきっと、
もっと気持ちイイ――
131.
「はぁ……はぁ……司令官さん……」
羽黒は鎮守府の瓦礫のなかを背を低くして歩いていた。
陸上護衛部隊が砲撃をやめて分散したのを見て提督を捜索し始めたのだ。
「こんな……ひどい……」
事務資料や書籍が燃えている。
それぞれの私物である衣服なども燃えてしまっているだろう。
涙を眼に浮かべながらも羽黒は歩みを止めない。
と、いきなり誰かが羽黒の口と体を抑えつけた。
「っ!?」
慌て、抵抗しようとする羽黒。
その眼前に小柄な人影が飛び出る。
「安心して。あたしよ」
曙であった。
羽黒を解放したのは山城である。
「な、ど、どうして、退避したはずじゃないですか……!」
「あたしがやられっぱなしで逃げるわけないじゃない」
胸を張る曙。
山城はいつもどおりの表情で、
「曙に引っ張られただけよ」
と言った。
「で、でも……」
「とにかく、ここは熱いし煙たいし、もう少し安全なところにいくわよ」
「し、司令官さんが、」
「クソ提督が? ……とにかく、二次災害を避けるためにも、ここにいるべきじゃないでしょうが」
「そうね……気持ちはわかるけれど、曙の言うとおりだと思うわ」
「は、はい……わかりました」
そうして三人は乾いた側溝に避難した。
少し離れた海のほうから、散発的に砲撃音が聞こえてくる。
そこで羽黒は状況を二人に話した。
「なん……ですって……?」
曙が絞り出すようにそれだけ呟いた。
山城は腕を組んでいる。
「その陸上護衛部隊とやらが鎮守府を攻撃して、艦娘を捕まえようとしてるのね……不幸だわ」
「はい。そう言っているのを聞きました」
「霞は陸上護衛部隊と戦闘。天龍・龍田・北上が深海棲艦と戦闘。比叡・敷波・潮・夕立がなにかトラブルで、綾波はそこに向かった。
……大井は?」
指を折っていた山城が眉をひそめる。
え、と声を漏らす羽黒。
「地上に上がったのは綾波ちゃんと私と霞ちゃん……まさかまだ営倉に……!?」
「待って。営倉の鍵は開けたんでしょう? だったら脱出しているわよ」
「綾波ちゃんが開けたはずですが……」
じわりと、曙が立ち上がる。
「クソ提督が……殺された……?」
呆然自失とした声に羽黒は曙が霞と同じように激昂するのではないかと危惧した。
だが、曙はその予想に反してぽろりと涙を零した。
「ク……ぅっふうぅ……っ」
顔を赤くして泣いている。
膝立ちの山城が曙を抱き寄せた。
「羽黒。提督の安否は誰か確認したの」
「えっ? あっ、いえ! 先ほどまで捜索していたんですが……」
「ほら。まだ彼が殉職したとは限らないわ」
曙は嗚咽を漏らしながら頷いた。
彼女が落ち着くまでの間に羽黒は状況を整理して考えをまとめた。
「疑問がいくつかあります。まず、なぜ陸上護衛部隊が攻撃してくるのか。これは考えてもわからないので保留にします。
次に、灯火管制下にあった鎮守府をどのように砲撃したのか」
羽黒は海上での戦闘時と同じような様子である。
「これには二つの可能性があります。ひとつは深海棲艦が砲撃した可能性。
しかし深海棲艦といえども夜間、観測もできない対象に直撃は難しいはず。偶然ということも考えられますが次に行きます。
もうひとつは陸上護衛部隊が砲撃した可能性。
彼女らならば深海棲艦と違って昼間から潜んでおいて照準を合わせておくということが可能です」
目元を赤くした曙が鼻をかんだ。
「ところで、陸上護衛部隊と深海棲艦の襲撃が同時であるのが偶然とは考えにくいです。
深海棲艦の撃退のために艦娘が出払ったときを狙ったと考えるべきでしょうが、深海棲艦の襲撃を事前に察知することはできません」
「それができたら苦労しないものね……」
「ここからは想像でしかありませんが、深海棲艦の接近を最も早く察知できるのはこの鎮守府です。
陸上護衛部隊は鎮守府の索敵網から情報を得ていたと考えられます。傍受か盗聴か、あるいは……」
「――リークか、ね」
曙が言う。
羽黒は頷いた。
132.
「――リークしていたんだな、君たちが」
提督が縛られたままそう言った。
観測班の男は仮面をかぶったような無表情である。
「鎮守府の情報を使えば深海棲艦の襲撃を知ることは容易い。
陸上護衛部隊へリークし、我々には情報がいかないよう握りつぶした。山城の戦闘報告書と同様にな」
それによって陸上護衛部隊は周到に準備ができ、鎮守府側は奇襲にさらされることになったのだ。
「君たち事務職員の一部がまっとうな経歴でないことはわかっていた。
事務のキャリアを諜報部に洗ってもらったんだよ。そうしたら、半分以上が特殊な訓練を受けた工作員だということが判明した」
提督が着任した日、彼は艦娘の配属事由だけではなく、事務の経歴も確認していた。
そこで違和感を覚えたのだ。
違和感がないのが違和感――とでも言おうか、あまりに「らしすぎる」のだった。
だから提督は同僚に頼んで諜報部に動いてもらった。
そしてその結果を中央で受け取ったのである。
――大井に現れている症状。北上の記憶喪失。それから、もうひとつ気になるのが……
それが、事務についてであったのだ。
マッチ箱で伝達された情報は諜報部の調査結果だった。
「………」
観測班は眉一つ動かさない。
それは暗に提督の言葉を証明していた。
「中隊長」
「どうした」
観測班に別の男が近づき、なにやら耳打ちした。指示を返す。
提督は砲撃音の聞こえる方角を特定しようとした。5時方向。時間はどれくらい経ったのか。
「君たちの狙いを当ててやろうか? 艦娘らの確保だろ」
衝撃。観測班の素早い蹴りで提督は地面に倒れた。手足が縛られているため顔面がこすれた。
痛みに呻いてから、それでも笑う。
「やっぱりな。"深海の狂気"に侵された艦娘のサンプルを回収する必要があるんだろ?
この鎮守府は艦娘の実験場だったわけだ。艦娘がどのようにして深海棲艦へと堕ちるのか、という」
観測班の隣にすっと立った小柄な工作員が拳銃を提督に向けた。
「待て」
「危険です。彼は知りすぎている」
声を聴くに女のようだった。観測班がその手の銃を押さえる。
「まだ利用価値がある。殺せという命令もない。だが、」
観測班は女の銃をゆっくりと動かした。
手を離す。銃口は提督の足を向いている。
「少しばかり静かにしてもらおうか」
照明のスイッチを押すような気軽さでトリガーがひかれた。
提督の太腿を撃った。
サプレッサーで大した音もしなかった。
「がっ! ぐあああっ!」
提督が痛みに身体を引きつらせる。その頭を観測班が踏んだ。
「静かにしてほしいと言っているじゃないですか」
涙を流しながら提督は歯を噛みしめて激痛をこらえる。
砂が顔をこする。
提督のズボンが血で赤く染まりだした。
「ぐ……っ。勝負は、君たちの負けだ……! 予想通りだと、言ったろう」
切れ切れにそう言う提督を、観測班は冷徹な目で見下ろしている。
「あなたはここで捕えられている。あなたの艦娘たちは陸上護衛部隊が確保する。これ以上どのような手を打つというのですか?」
「海のなかで、もっとも大きい動物を、知っているか?」
「なにを――」
訝しげな観測班の反応に提督はにやりとする。
「クジラだよ」
133.
順調に敵を攪乱させていた龍田と天龍だったが、しばらくしてから天龍はガクンという衝撃とともに動けなくなった。
「なん、だっ!?」
「天龍ちゃん、どうしたの」
龍田の緊迫した艦間通信に怒鳴り返す。
「暗礁だクソッタレ! 座礁しちまった!」
衝撃で主機が破損し、天龍の足もざっくりと切れている。
すぐに応急処置にかかるが、この暗闇では主機に手を入れることは難しい。
小さく舌打ち。
「天龍ちゃんすぐに救助に向かうわ、なるべく深海棲艦に気付かれないように――くっ!」
「どうした龍田!」
「敵艦隊に遭遇、軽巡2に駆逐3。殲滅する」
氷点下の声で龍田が告げて、通信が途切れた。
口の中で罵って、ふと天龍は見えない水平線へと顔を向けた。
何か音がしないか。
波と風の音。だけではない。波をかき分ける、航行音。
【ガアァッ!】
「クッソがっ!」
天龍が気付いた瞬間に敵駆逐艦が跳びかかってきた。なんとか身を反らして回避。
続く二隻目の駆逐艦には刀を立てて防御する。
火花が闇に散る。
「最強のオレに挑もうってのか? いい度胸じゃねェか!」
吼える天龍に向けて敵軽巡および重巡が発砲。
天龍は動けないため狙い撃ちである。
「だったら、こうだッ!」
探照灯を照射。敵軽巡を照らしだし、12.7連装砲で射撃する。
だが敵駆逐が天龍の足に食らいついた。
「があああっ! この野郎!」
何度も柄を叩き付け、駆逐艦の頭蓋を割って引き剥がす。
天龍はそのまま刀を突き出してもう一隻を貫いた。
引き抜く。血塗れで天龍は哄笑した。
「おらおらァ! ビビってんのか!?」
砲撃が命中するが、天龍は倒れない。
海から狂気が這い上がり、傷を鉄鋼で補っていくのだ。
"深海の狂気"による天龍の症状は誇大妄想。
自らを最強だと思い込み、それに反する現実を無視してきたのである。
いまや狂気の深度は深海棲艦に匹敵するほどになっていた。
「くはははははっ! オレが最強だ!」
砲撃。
敵軽巡が粉々になる。
しかし深海棲艦は駆逐艦を筆頭に続々と集結しているようだった。
「いいぜェ、ゼンブ沈めてやるッ!」
連装砲が火を噴く。
刀が縦横無尽に振るわれ、跳びかかる駆逐艦を切り捨てる。
深海棲艦の隊列が乱れる。
龍田が背後から強襲したのである。
「天龍ちゃん! 無事!?」
ノイズまみれの艦間通信。
天龍は血と鉄と狂気で覆われながら笑った。
「なんてこたァねェ! オレの弾に当たるなよ龍田ァ!」
「………。気を付けるわね~」
龍田は航行灯もつけずに闇に忍び、敵巡洋艦を屠っていくのだった。
134.
風と波の音しか聞こえない。
月も星も見えない。
体も艤装も動かない。
「ちぇっ……」
北上は大井を抱きしめたまま漂流していた。
お互い胸まで海水に浸かっている。
すこし前まで、暗闇の中を北上は逃げ惑っていた。
敵潜水艦は彼女が動けなくなるのを執念深く待っていた。狩りに確実を期していたのだ。
北上は対潜兵器を装備していない。
深海棲艦は水中でほくそ笑んでいるに違いないと北上は歯噛みした。
「きた……かみ、さん……」
大井の意識は未だ混濁している。
北上は目元をぬぐって、逃避行をやめることにした。
逃げられないのならば迎え撃つしかない。
敵は魚雷を確実に命中させるために浮上するのではないか。そこを狙うのだ。
果たして、敵潜水艦が姿を見せた。
潜水中からこちらのおおよその位置を特定していたのだろう、ほとんど指向を修正しなかった。
こちらが力尽きたと判断したのか、急いでいるようには見えない。
「くたばれクソ野郎!」
敵より先に、ありったけの魚雷を発射する。
潜水艦は瀕死だと思っていた相手が急に攻撃してきたことで、潜行するか攻撃するかでまごついた。
それが致命的だった。
「やった……!」
水柱が高々と上がり、敵潜水艦は断末魔の叫びをあげた。
「やった、やったよ大井っち!」
それは新兵である北上の初陣における初戦果であった。
浮かれるのもやむを得ないであろう。
だから、北上は気付かなかった。
「ら――雷跡っ!?」
もはや回避不可能なまでに接近した魚雷。
敵潜水艦は一隻ではなかったのだ。
そのとき、大井ががばっと北上の腕に取り付いた。
「大井っち!?」
「おあああああああッッッ!」
北上の14cm単装砲を魚雷に向けて発砲させる。
熟達した兵士である大井による照準は狙い違わず敵の魚雷に命中、誘爆させる。
しかしそれはあまりに至近距離すぎた。
「うわあぁっ!」「っ……!」
二人は爆発に巻き込まれ、もはや航行どころか水上に立つことさえできなくなってしまったのだった。
「ちぇっ」
北上はもう一度舌を鳴らした。
あのあと敵潜水艦はどこかへ行ってしまったようだった。二人が沈むのも時間の問題だと見抜いたのかもしれない。
「ごめんね、大井っち。守れなかったや」
もはやどちらが陸地かも、どれほど流されたかもわからない。
「……いいんです、北上さん……」
大井の口から言葉が零れる。北上ははっとしてその顔を見るが、大井は意識を取り戻してはいなかった。
だが台詞は続く。
「これからは……二人で……ずっといっしょに……」
ぽろぽろと、北上の頬を涙が伝った。
震える腕で大井を強く抱きしめる。
「うん、うん……! ずっと、いっしょだよ、大井っち……!」
大井と北上はひとつの影になって夜を漂う。
広い海に二人きりで。
135.
砲撃音とともに潮は波に翻弄され、もみくちゃになった。
しこたま海水を飲んで咳き込む。
ぐいっと腕を取られる。比叡である。
「大丈夫ですか潮。動けますか」
「ごほっ、げほっ、は、はい」
敷波が撃つ直前に比叡が海面を砲撃したのである。
弾着が巻き起こした波によって敷波の照準は大きく外れて、潮は助かった。
「綾波が敷波を抑えています。いまのうちに撤退しましょう」
比叡が手を離すと、潮の腕にべったりと血が残った。比叡は右腕を失い艤装も破損して大破状態にあった。
潮は血の気の引いた顔でこくこくと頷くしかなかった。
ゆっくりと、その場を離れる。
「どうして! 敷波! どうしてこんなひどいことを……!」
第三戦速で水面を蹴立てる綾波。
「わかんない。でもみんなが沈むところを見たくてたまんないんだよね」
敷波も同様に駆け、姉から逃げ回る。
すっと単装砲を向けた。撃つ。
「!」
体勢を崩しながらも咄嗟に回避する綾波。自分も砲撃の対象になることに動揺を隠せない。
敷波が急激に転舵して綾波に突撃。
「あたしさ、ずっと思ってたんだよね」
低い軌道で敷波が蹴りを放つ。
ぎゅるりと身を翻してそれを避けた綾波がその勢いのまま回し蹴りを打ち込んだ。
「綾波は、優しくて、強くて、気立てがよくて、誰からも好かれる艦娘だよ」
身を屈めた敷波の左手が綾波の右足首を捉え、受け流す。単装砲を突きつけた。
「だから、」
優秀な姉と比較され続けてきた敷波は、綾波に対して誇らしさとともに妬ましさをずっと持っていた。
――綾波はすごい。
――自分は綾波とは違う。
敷波のこういった言葉は、親愛と劣等感の混淆した複雑な心情から発せられていたのである。
「――だから、ずっとキライだった」
体が開いてしまった綾波の単装砲が敷波のそれに絡みついてなんとか逸らせる。
砲弾が海水を吹き飛ばす。
「あっ綾波は、……っ」
言葉に詰まる綾波。
どうしてこんなことになったのかわからなかった。
なんと言ったらいいのかわからなかった。
喧嘩をすることがあっても、意見が合わないことがあっても、それでも決定的な断絶はないと思っていた。
信じていた。
だが目の前の敷波は嗤っているのだ。
「あたし、綾波を沈めたい。あは」
自分の台詞に何かを刺激されて敷波は声を弾ませた。
綾波は絶句している。
それでも体は訓練通りに砲雷武術を使いこなす。
単装砲同士が射線を求めて競り合う。
「あたしさ、北上さんを沈めたとき、すっごくショックだったんだ。気持ち悪くて気持ち悪くて、吐いて、涙がでて」
ぐっと敷波が踏み込む。
綾波の単装砲をすり上げ、一瞬無防備になった腹に拳を叩き込んだ。
「くぅっ!」
歯を噛み締めて綾波が加速し距離を取ろうとする。
「でも、ありがとね、って言って沈んでく北上さんを見てさ、――また見たくてたまらないんだよ。
味方が、仲間が、友達が、沈んでいく光景をもう一度見たい。見たいんだ」
追いかける敷波が単装砲で綾波を狙う。
綾波もじぐざぐに之字運動して容易に狙いをつけさせない。
「綾波は受け入れてくれるって、言ったでしょ? だからさ、」
至近弾。
綾波の主機が異音を発した。
急激に減速。衝撃で機関が故障したのだ。
「――沈んでよっ!」
勢いを乗せた敷波の膝蹴り。
両腕を交差させてなんとかガードするも、綾波は海面に叩き付けられる。
「がはっ!」
綾波が単装砲を取り落とす。
すぐさま拾おうとした綾波の手を敷波がかっさらい、右腕をへし折ろうとする。
「くっ!」
敷波の膝を蹴って逃れた綾波がそのまま敷波の腕を掴み返して引きずり倒した。
掴みかかる。
敷波の単装砲もいつのまにかどこかにいっていた。
掴み合ったまま海面を転がる。
「綾波ィッ!」
馬乗りになって荒れ狂う感情のままに細い首に手をかける。
綾波が敷波の手をほどこうとするが叶わない。
「ぐッ……か……っ、ぁ……!」
「あはは。いいよ綾波! その表情が見たかったんだよ!」
窒息する綾波。
姉の首を絞めながら敷波は嗤っていた。
そのとき、
「!」
ばッと敷波が離脱。
寸前まで彼女がいた場所を曳航索が通り過ぎる。
「綾波型2番艦の捕縛に失敗。1番艦の捕縛に切り替える」
闇の向こうで覆面をかぶった艦娘が報告していた。
陸上護衛部隊である。
「な……なんでアンタらがこんなとこにっ」
一瞬困惑した敷波だったが、即座に判断をくだして逃げ出した。
ハンドサインを受けて数人がそれを追う。
複数の陸上護衛部隊が綾波を取り囲む。
「げほっ! ごほっ、ごほっ……。綾波を、助けにきてくれたわけ、じゃないですよね……」
「綾波型1番艦・綾波だな。お前を拘束する」
「目的は司令官ですか?」
素早く起き上がり、視線を周囲に走らせる綾波。
「お前が知る必要はない。兵装もない状態で抵抗しようと思うな」
「……綾波が、ときどき呼ばれる呼称をご存知ですか?」
暗視装置をつけていても、その速度に追いつけなければ無意味。
そして、たとえ見えなくとも、声が聞こえていれば居場所を知るには十分。
「――っ!?」
獣のように体勢を低くして綾波は飛びかかった。
左手で相手の砲を抑え、右肘を側頭部に叩き込む。
「――"鬼神"です」
連装砲を奪い取り、綾波は高らかに告げたのだった。
136.
「う……?」
異変は、海に近づいたときに起こった。
羽黒らは、鎮守府内部に陸上護衛部隊を手引きした者がいる場合、提督の処分が目的であれば既にそれを終えている可能性が高く、
まだであれば処分が目的ではないだろうからすぐには殺されることはないだろうと考え、艦娘らを助けにいくことに決めたのだった。
しかし。
海に近づくことは、"深海の狂気"による影響を増すことにつながる。
山城は自らに語りかけてくる声を聴き、羽黒を脳を掻き回されるような頭痛が襲い、
そして、
「なに……これ……」
曙の単装砲がぐぱりと口を開けていた。
まるで、深海棲艦のように。
"深海の狂気"が曙を呑みこみつつあった。
「い、いやだ……っ。なんで!? このっ! 壊れろ!」
曙が単装砲を何度も地面に叩き付ける。
ひしゃげ、軋む単装砲が"狂気"によって修復され、"狂気"はさらに曙の腕へと侵蝕する。
「なんなの……っ!? た、たすけてっ! いやッいやああああああああっ!」
ガチンガチンと単装砲が歯を鳴らした。
蛇が這うように、曙の体も"深海の狂気"に作り変えられていってしまう。
「うああああああああああっ!」【ギィィィアアアアアアアアア!】
曙が絶叫し、単装砲が咆哮する。
その瞳にルシフェリンの輝きが灯る。
曙は深海棲艦に堕ちようとしていた。
「ぐううう……っ!」
倒れこんで呻く羽黒の爪が額を破り、血が流れた。
一方、山城はふらりと夜空を見上げている。
「姉さま……? どこから……? 姉さま……」
ふと、己の腹に手をやる山城。さする。
「ああ……ここにいたんですね姉さま。最初からずっと、私と一緒に……」
慈しむような表情で、山城は幸せそうに笑うのだった。
137.
「分隊長! こいつらは危険ですッ! 殺処分の許可を!」
「ダメだ! 任務はサンプルの確保だ!」
「しかし――ごぁッ!」
夕立の踵が陸上護衛部隊の頭頂部に直撃し、頭蓋骨を粉砕して脳漿を噴出させる。
「あははっ!」
空中に舞った夕立が次の獲物に照準。
「ッ――! 白露型の殺処分を許可ッ!」
指示を遺して分隊長の頭が消し飛んだ。
残りの陸上護衛部隊から向けられた殺意に夕立はぞくぞくと震えた。それは歓喜。
赤い目を爛々と光らせて、夕立は歯を剥き出した。
「とっても素敵なパーティ、しましょ?」
一方、霞は義手を背中側に捻り上げられていた。
「早く拘束しろ!」「了解!」
もう一人が曳航索を掴んで近づいてくる。
霞は頬を歪めた。
「不用意に近づいてんじゃないわよクズ!」
陸上護衛部隊の顔面を鷲掴みにする。
それは右手。
「なぁっ!?」
吃驚する陸上護衛部隊。
それもそのはず。先ほどまで霞には右腕がなかったのだ。
その右腕は、まるで水死体のように生白く、生気がない。
だが万力のような力で顔面を締め付けていた。
「"深海の狂気"の影響か!? このっ、やめろ! 手を離せ!」
背後の陸上護衛部隊がさらに力を加えるが義手なので無意味である。
「おあぁ……っ、がああ!」
みしみしと陸上護衛部隊の顔に覆面越しに圧力がかかる。
顔面を掴む霞の右手を両腕で外そうと抵抗するが、右手はびくともしない。
「くは!」
霞は嗤う。
ばきゃり、と音がして陸上護衛部隊の体が弛緩する。
「クソっ! 誰か!」
背後の陸上護衛部隊が応援を呼ぼうとする。
死体を捨てて霞は勢いよく振り返る。義手がぶちぶちと千切れた。構わない。
「きさ――おごッ」
陸上護衛部隊の口腔を霞の右手刀が貫通。あまりの勢いに頸椎が折れる。
霞が手を抜くと、陸上護衛部隊は崩れ落ちた。
「次!」
人影を見つけて急襲。
気付いて咄嗟に向けてくる砲の下へ潜り込み、勢いを乗せて手刀を腹に叩き込む。
「ぎッあああああああああああああああああああああっ!」
皮膚を破って肉へと潜った右手が内臓を掴み、掻き回す。
想像を絶する痛みに陸上護衛部隊が喉も裂けよと叫んだ。
「やめろぉっ!」「待て! あいつはもうだめだ!」
周囲の陸上護衛部隊を無視して、霞は腸を引きずり出した。湯気があがる。
「ごぼォッ! があああっ!」
血を吐きながらも霞を捕えようとする陸上護衛部隊。
霞は後進した。
「ぐぁあああぁぁぁああっ! ひィやめろおおおぉぉおおっぉ!」
「あははははっ」
腸で陸上護衛部隊を引っ張りながら、霞は弾けるように嗤った。
陸上護衛部隊の悲鳴は濁っている。
銃声とともに悲鳴が途切れた。
陸上護衛部隊が哀れな仲間の頭を機銃で撃ち抜いたのだ。
霞が速度を落として腸を手放す。
「曹長! こいつを殺します!」
「……仕方ない。総員、朝潮型10番艦を対象として殲滅行動――開始」
「了解。お前を殺す!」
憎しみのこもった声で告げられて、霞は身震いした。殺意が心地よすぎて。
「ひはっ! もう、バカばっかり……っ!」
恍惚とする霞なのであった。
138.
ぞぶり。
【ゴアアアアアアアアアアアッ!】
敵軽巡の背後から心臓があるであろう位置を貫く。
矛を引き抜くと、深海棲艦の体液が吹き出て龍田を濡らした。
「はぁ――はぁ――っ!」
龍田はかなり消耗していた。
細かい傷だらけで、髪も服もぼろぼろである。
【グオオオオッ】
「!」
倒したと思った敵軽巡が最後の力を振り絞って腕を振るう。
斬り落とそうとした矛を、血で滑って取り落としてしまう。
「――ァっ!」
顔を張り飛ばされて、吹き飛ぶ龍田。
吼え猛る敵軽巡の顔面に、天龍が投擲した刀が突き立った。
辺りはようやく静かになった。
「無事かァ! 龍田!」
「ん――ごほっ。……ええ、なんとか」
矛を拾って、天龍に近づく。
龍田は、その姿に絶句した。
天龍はもはや、艦娘というよりも深海棲艦というべきであった。
「天龍、ちゃん」
「これが最強のオレの真の姿だ! フフフ、怖いか?」
表情を取り繕う余裕もない龍田が闇の向こうを振り返った。
矛を握りなおす。
「敵か! まだいやがったのか」
「気持ち悪い殺気ね~……コレ、深海のじゃないわよ~」
「面倒くせェな! 照らしゃあわかンだろ!」
龍田が止めようとするも天龍が探照灯をぎらぎら光らせて、間をおかずに射撃。
「敵、発砲!」「照合完了。天龍型軽巡確認。捕縛せよ」「もう一体は」「深海棲艦だろう。沈めろ」「了解」
「なんだァ!? こいつら!」
「わからないわ~。でも、敵なのは確かね~」
「それだけわかりゃあ十分だ!」
正体不明の敵が数十。
全員が暗視装備で、こちらは動けない天龍に自身は満身創痍。
「慎重に包囲を狭めろ」「分隊長。あれは深海棲艦ではありません。天龍です」
「何。そこまで症状が進行しているのか。貴重なサンプルだ、必ず捕獲しろ」
弾も魚雷もなく、敵の目的はこちらの捕縛。捕まれば何をされるかわかったものではない。
龍田は唇を噛んだ。
――ここまでか。
「天龍ちゃん。私たちはここで死ぬわ」
「ひゃはははっ! 悪くねェ! あいつら全員まとめて地獄へ道連れだッ!」
「ええ。三途の川の運賃が団体割引よ~」
覚悟を決めた龍田が砲塔や魚雷発射装置をパージ。
同時に天龍が砲撃を再開する。
陸上護衛部隊は散開して捕縛態勢へ移った。
「おらおらァッ! 死にてェやつからかかってこい!」
腕と肩に生えた砲塔を撃ちまくって、天龍が吼える。
高く上がる水柱と揺れる海面を龍田が疾駆し、矛を一閃。
「ぐあっ!」
曳航索と右腕が切り落とされ、飛んで海へ落ちた。
それより速く、石突が陸上護衛部隊の咽喉を潰し、振るわれた刃が二人目の頸動脈を掻き切る。
右、左と接近する陸上護衛部隊を突き刺し、斬りつけた龍田の艤装が爆発した。
「命中」「速度低下!」
距離をとっていた陸上護衛部隊のひとりが狙撃したのだ。
機関が吹き飛び、浮力を保つことが難しくなる。
龍田の右足が膝まで沈んだ。
「まだ――っ」
背後から近づいた陸上護衛部隊を斬り伏せる。
天龍の砲撃にまぎれてもう一人の体を貫く。死体を盾にさらにもう一人。
「はっ――はっ――、天龍ちゃん……?」
肩で息をする龍田は砲撃音が止んでいることに気付いた。
「近づくな! 距離を取れ。動けなくなるのを待て」「分隊長。天龍型1番艦、沈黙」「どうした?」「不明です」
龍田は膨張した不安に急いで、だが艤装が爆発したせいで実際にはゆっくりと、天龍のもとへ戻った。
「天龍ちゃん。天龍ちゃん!」
じわじわと、陸上護衛部隊も包囲の輪を狭める。
天龍は喉を掻き毟って苦しんでいた。
「天龍ちゃん! どうしたの!?」
「うぐぁ……、……ぇ……」
「何? なんて言ったの」
「……ねェ」
「えっ?」
龍田が天龍の口元に耳を寄せる。
「――ノドが渇いてしかたねェェーッ!」
大音声に反射的に身を反らせようとした龍田が停止した。
ごちゅり。
「え――? ごふっ」
口の中を満たす血の味。
龍田は自身の体を見下ろした。
大きな顎が龍田の細い体躯に噛みついていた。
「血だァッ! 血が飲みてェーッ! がぁぁぁアアアアアアアッ!】
天龍の肩から生えた深海棲艦のごとき化け物がさらに深く龍田に牙を食い込ませる。
「あ――いいいいあああああああああっ!?」
内臓と骨を砕き潰されて、龍田は血の絡んだ悲鳴をあげた。
流れ出した大量の血と体液が海にばしゃばしゃと落ちる。
【グオオオオオオオオオオッ! ギアアアアアアアアアアアアアッ!】
咆哮する天龍。
意識が朦朧とするなか、龍田は急速に失われつつある力をかき集めて、矛を握り、
「……ぇ……ん……ね……」
天龍の胸に突き立てた。
【グッアァッ!? ガアアアアアアアッ!】
暴れる天龍。
狂気が傷を修復しようとするが、龍田の武装も神籬の一種であり、それを阻害していた。
陸上護衛部隊は遠巻きに様子を見ている。
「……――――」
龍田の手が力を失い、矛から離れる。
同時に上体がぐらりと倒れるところを、天龍の――まだ天龍のだと判別できるほうの――腕が抱きとめた。
【ゥゥゥ……げほっ――悪ィ、龍田……」
血を吐きながら天龍がわずかに正気を取り戻していた。
龍田の攻撃が狂気の侵蝕を押しとどめたのだ。
しかしそれは天龍の死をも意味していた。天龍の命は狂気によって繋ぎ止められていたからだ。
「天龍型1番艦、行動再開」「油断するな。慎重にいくんだ」
龍田を腕に抱いて、天龍ががくりと膝をつく。
天龍から生えていた砲塔が根元から折れて海へと還っていく。
かすかに、龍田が口を動かした。
たのしかったわ――
「ああ――オレもだ」
最期に笑って、ふたりは海に沈んだ。
139.
「海のなかで、もっとも大きい動物を、知っているか? ――クジラだよ」
「クジラ? 何の話です」
観測班が聞き返したその時。
「こーゆ~ことさぁ~ッ」
無造作に、同僚が歩いてきた。
片手でひとりの工作員を拘束し、もう片方の手で握った拳銃をこめかみに突き付けている。
「武器を捨てろ」
別の方向から武装した一群が現れた。
「憲兵、か」
包囲されていること、打つ手がないことを把握した観測班が一瞬だけ不愉快そうに顔を歪めた。
「両手を頭の後ろで組んでその場にひざまずけ」
観測班は言われたとおりにした。憲兵たちが手早く彼を拘束する。
工作員を憲兵に受け渡した同僚。
「よォ~ニコちゃん!」
「おせえぞクジラ」
「これでも急いだんだぜェ? 大勢で移動するのは骨だし~」
「遅くなって小官は個人的には大変申し訳ないと思っている。すぐに処置させよう」
中央で会った目つきの悪い憲兵が割り込んできて、提督の傷をちらと見て指示を出した。
「艦娘たちは」
拘束を解かれ、応急手当を受けた提督が木に背を預け座ったまま同僚に尋ねる。
「うちの第1と第2艦隊が救助に向かってるよん!」
「そうか……。無事でいてほしいが……」
「陸上護衛部隊が出動しているらしい情報を掴んでる。目的は艦娘らの確保だろーな」
「本当か? 深海棲艦に"深海の呼び声"だけでなく陸上護衛部隊まで……? 糞っ」
「艦娘を捕えるには艦娘が最適だからなァー。でも"呼び声"対策は安心しろって」
「なぜだ?」
同僚はにやりと笑った。
「長らく研究されていた"深海の呼び声"から恢復させる薬を持ってきた。まだ試作段階だけどネ!」
「薬、だと?」
「いえーす! その名も『間宮羊羹』!」
「なんだその名前は……」
「僕が命名したんじゃないデスしー。僕なら『オカシクナクナール』とかにするしー」
「どっちもどっちだ阿呆」
「ま、楽観視はできないのは確かだよね。でも今は報告を待つしかない」
同僚が珍しく悔しそうな顔をした。
それを見て提督も口をつぐんだ。予測はできていたのに守れなかった口惜しさは共通なのだ。
140.
「潮! 深海棲艦はどっちですかっ!」
「ダメです比叡さん! 傷に障ります!」
比叡と潮はいつのまにか深海棲艦に囲まれていた。
応戦しようとする比叡だが、砲撃のたびに右肩に激痛が走るのだ。
しかも艤装が大きく損壊しており、速度も出ない。
「やはり潮だけでも離脱してください! 潮の速度ならできます、私が囮になりますのでっ」
「それもダメですぅっ!」
潮の冷静な部分は告げている。
比叡は逃げられないし、攻撃もできない。自分がたとえ曳航できたとしても逃げ切れない。
自分ひとりで逃げたほうが損害は減らせる。比叡の言うことは正しい。
しかし。
それでも。
「私はあきらめませんっ! 比叡さんを置いていくなんて、絶対にイヤです!」
涙目になりながら潮は叫んだ。
直後、至近弾が彼女を吹き飛ばした。
「きゃああああああっ!」
「潮っ!」
海面に打ち付けられ、波に翻弄される。頭から海水をかぶるのは今夜で何度目だろう。
起き上がろうとする。
体中が痛い。四肢が動かない。単装砲もどこかへ飛んで行ってしまった。
【ゴアアアアアアアアアアアッ!】
耳障りな吼え声をあげながら敵駆逐艦が泳いでくる。
開いた口のなかに並んだ歯列。その奥の砲口。
――もうだめだ。
「い――や、だッ!」
太腿の魚雷発射管から魚雷を抜き取る。抱える。
これで巻き添えにしてやる。潮は決然と深海棲艦を睨んだ。
「キタコレ!」
突如、敵駆逐艦が爆散。
潮があっけにとられる。黄色い笑い声が響いた。
「今北産業! かわいい潮をいじめた悪い子はどこのどいつじゃー! 人生から垢BANしちゃうゾ☆」
漣が艦隊を率いて到着した。
すぐさま深海棲艦に砲撃を開始する。まず比叡に群がっていた数匹、続いて奥に控えていた重巡に向かって吶喊していく。
助けられた比叡がよろよろと潮に近づいた。
「援軍、でしょうか? 司令が呼んでくださったのでしょうか」
「わ、わかりません……。でも、と、とにかく、助かったぁ……っ」
深海棲艦を追い散らした艦隊が戻ってくる。
一番に漣が二人のもとに駆け寄った。
「潮、大丈夫!?」
「あ……漣ちゃん、ありがとう、へいき」
「比叡さんも――うぉわっ!?」
「情けないことに……。しかし、助かりました、ありがとうございます」
漣以外の僚艦は周辺を警戒している。
「どーいたしましてでっす! 帰投のために二隻つけます。他の艦娘の位置に覚えがありますか?」
「あっ! 綾波ちゃんと敷波ちゃんが……っ」
「おそらくあちらの方角だと思います。しかし、重々気をつけてください。敷波は危険です」
比叡の忠告に、漣は一瞬真剣な表情をした。それから、にへら、と笑う。
「おっまかせあれー☆ じゃあ向かいますねーほいさっさー!」
比叡と潮のもとに二隻を置いて、四隻でさらに進む漣ら。
空気がぴりぴりしてくる。戦闘の雰囲気である。
「あれは……綾波、と? 夕立?」
掴みかかる陸上護衛部隊の手をするするとすり抜けて綾波がその腰の短剣を巧みに強奪する。
そのまま左腋の腱を切る。
「こいつッ!」
右手を捌いて綾波は背後へと回る。
両足の腱を切って、背中をどんと押した。
「おわぁっ」「ぐっ!」
助力しようとしていたもうひとりの陸上護衛部隊とぶつけて機動力を奪う。
その隙に手際よく指を切り落としておく綾波。
「たった一隻に、陸上護衛部隊がなんてザマだ!」
「分隊長! 白露型が手に負えません!」
「撤退だ! 一旦態勢を立て直すぞ!」
了解、と応えようとした陸上護衛部隊が夕立の跳び蹴りを食らって首の骨を折って死亡。
「途中でパーティを抜けるなんてマナー違反っぽい!」
着水の際に起こした波に最大戦速で乗って夕立が再び中空に舞う。
艦娘の砲雷武術において波の変化を読むのは基本ではあるが、空中へと飛び上がる挙動は想定されていない。
しかも夕立はその状態の姿勢制御に本能的に長けており、
「メイドのミヤゲっぽい!」
砲撃の精度も非常に高いのである。
分隊長が咄嗟に回避したため、その片足が引きちぎれるだけで済んだ。
「なんか、漣たちいらなくね? 強すぎて草も生えない」
陸上護衛部隊の死体を半眼で眺めながら漣がため息をついた。
「漣? どうしてここに?」
姉妹でもある綾波が気付いて、兵装を奪った陸上護衛部隊を拘束してから近づいてくる。
「ご主人様と一緒に助けに来たよん! 憲兵もいるし~」
「憲兵?」
「事務に手引きしたやつがいるんだって。綾波も夕立も無事そうだね?」
漣が夕立のほうに目を遣る。そして瞠目した。
「霞!?」
「ひはっ!」
隻腕の霞が嗤いながら夕立へと襲いかかっていた。
その眼はすでに敵味方の区別を失っている。
「霞! なにするのっ?」
「あはははっ! みんな殺す! みんな沈める!」
「やだッ……!」
砲撃音。
霞の右腕の肘から先が吹き飛ぶ。綾波が見事に狙い撃ったのだ。
「さすが綾波! ――え」
「――ひは」
ぐちゅり、と。
湿った音がして、
水死体のような右腕が再生した。
「嘘でしょ! あんなのアリなんて聞いてないしーっ!」
ざわりと、霞の右腕表面が揺らめく。
深海の狂気が造り出したその腕は、金属の骨格を、同じく金属の繊維で覆って肉をかぶせている。
それによって異常な強度と膂力を実現しているのだ。
そして深海棲艦が復活するのと同様に、海と触れている限り破壊し尽くすことはできない。
「あ、綾波! 退こう! あれマジヤバだよっ」
焦る漣。
一方、綾波の集中力はますます研ぎ澄まされていく。
「あはっはははっはァーアアアアアアアアアッ!】
海水が爆ぜる。
瞬間、綾波が漣の隣から後方へすっ飛んだ。
あっという間もなく霞が綾波に肉薄、貫き手を繰り出し、綾波はそれに極限的な反応をして霞の右腕を掴んだのだ。
「だッ!」
波を掻き立てて綾波が着水し、霞を投げ飛ばす。
「ってーッ!」
すぐさま綾波が姿勢を整えて空中の霞に向けて砲撃。直撃。
減速する綾波の横を誰かが疾駆していく。
夕立である。
「っぽい!」
波を利用して跳躍し、落下する霞を掴む。
【ガアアアアッ!】
ルシフェリンの光を灯した双眸で霞が夕立を睨んだ。
「霞! しっかりするっぽい!」
海面に投げ落とし叩き付ける。宙で霞へ砲弾を撃ち込む夕立。
【ウオオアアアアアアアアッ!】
爆煙から霞が稲妻のように飛び出してくる。
再び一直線に綾波に向かうかと思わせて急激に面舵。
「!」
反射的にその動きに追随した綾波だったが、次の瞬間に霞は夕立と同じように宙を舞い、綾波の頭上を乗り越えていた。
身をひるがえし砲を突き付けようとする綾波の左手へと霞の掌底が打つ。
「ぐぅっ」
なんとか腕を引いて衝撃を逃がしたにもかかわらず、骨が肘から飛び出した。歯噛みする綾波。
牽制で連装砲を撃ちながら綾波が後退。
その影から夕立が飛び出し、霞に踵落としを喰らわせようとするが右腕に防がれる。
「硬……ッ」
体勢を崩して落ちる夕立の足首を霞が掴む。
マズい、と夕立が思う前に、猛烈な力がかかった。
霞が夕立を振り回したのだ。
【ルルルルオオオオオオオオオオオ!】
雄叫びとともに霞が夕立を投げ飛ばした。
「きゃあっ!」「ぐあっ」
狙いたがわず、夕立は綾波に激突。
【オアアアアアアアァァァァッ!】
瞳を青白く輝かせて霞が突っ込んでくる。
綾波は鋭く動きを見切り、霞の右腕を掴んで十字に固めた。綾波は左腕の激痛のためセーラーの襟を噛んでいる。
【!】
立ち上がった夕立が即座に二人に単装砲を向ける。
もはや手加減して霞を倒すことは不可能であると、夕立と綾波はわかっていた。
だから、こうするしかなかった。
141.
敷波は岩陰に隠れていた。
緊張で乱れる息をなんとか殺す。
「………」
追っ手の陸上護衛部隊から逃げているうちに彼女は冷静さを取り戻していた。
自分は何をしようとしたか。
――あたし、綾波を沈めたい。あは。
――あはは。いいよ綾波! その表情が見たかったんだよ!
「……っ…」
しゃがみこむ。
涙がじわりと目尻ににじむ。
終わりだ。
ずうっとガマンしてきたのに。仲間に砲を向けてしまった。綾波を殺そうとした。
もうムリだ。
もうあの鎮守府には帰れない。もうあの生活には戻れない。
そう思うと、次々と涙が溢れてきて、海面にぽたぽたと落ちた。
「………」
しばらくして、陸上護衛部隊がいなくなったことを確認して、敷波は静かに去っていった。
鎮守府とは違う方角へと。
142.
目つきの悪い憲兵に案内されて、同僚の肩を借りながら提督は桟橋のほうへと歩いてきた。
火が焚かれている。
その側に三人の少女が横たわっている。
「羽黒。曙。山城」
「三人とも命に別状はない。寝ているだけだ」
憲兵はそれだけを言い残して、工作員らのもとへ戻っていった。
彼らから陸上護衛部隊へ投降を命じさせるのだ。
「安心しなって、『間宮羊羹』の副作用みたいなもんだYO!」
「そうなのか」
「"深海の呼び声"を心身から剥離させるのに意識は邪魔なんだよねー。だからまず昏倒させて、それから狂気を除去する」
「できるのか」
「そればっかりは神のみぞ知る~、いや、妖精のみぞ、かしらん?」
提督はため息をついた。
そうこうしているうちに、介添えに連れられて比叡と潮が、そして漣らが帰還した。
「オーナミサザ! オカエリナサーイ!」
すっとんきょうな声をあげる同僚の胸を漣が叩いた。
「ぐっほ!」
「ザギンでシースーみたいに言ってんじゃねー! いや、ていうか、めっちゃ怖かったんですけどご主人さまー!」
「おおよしよしよくやったぞーなでなで」
提督が足を引きずりながら近づく。
「比叡……君、腕が」
「ああ、いえ――司令、ご無事でなによりです」
「潮、君もずいぶん負傷したようだな」
「わっ私は、その、たっ大したことは……」
提督は即座に、特に比叡を入渠させたかったが、施設はすべて破壊されており、現状でできることはなかった。
しかたないので憲兵に応急処置を頼んだ。
それからもう一度艦娘らに向き直る。
「ああ……なんということだ」
「もーっタイヘンだったんですよーう!」
漣が割り込んでくる。
そしてはちゃめちゃな擬音まじりの報告をした。
―――
――
―
霞の右腕を極めた綾波ごと、夕立が撃ち抜こうとしたその瞬間。
「ちょい待ちーっ!」
必死に叫んだのは漣。
振り回している右手には黒い塊が掴まれている。
【オアアアアアアッ!】
「何、漣」
戦闘の興奮で瞳孔の開いた夕立が吼える霞から目を離さないまま訊いた。
綾波も力を緩めないが、限界が近そうである。
「殺さないでもいいってば! こいつを使えば! お前にふさわしいヤクは決まったァ!」
そう言いながら漣が手に持っていたものを霞の口に叩き込んだ。
霞が漣の手に噛みつきながらそれを咀嚼した。
「いたっいたたっ痛いっ!」
「漣、それは?」
「なんだかんだと聞かれたら以下略! 霞を元に戻せる。そう、『間宮羊羹』ならね」
噛んでいたセーラーの襟を口から離した綾波の問いに漣が答えた。歯型だらけの手を抜いてぴらぴらと振る。
唸っていた霞が弛緩し、瞼を閉じた。
「勝ったッ! 第3部完!」
がくりと綾波が力尽きる。失神していた。
夕立も息を吐きながら後ろに倒れた。手が固まってしまって銃把を握りしめたままである。
「……――ってカンジでもー危険が危ないっていうか頭痛が痛いっていうかー!」
「世話になった。ありがとう」
「へっ? あははいえいえいいーんですよこれくらい!」
「ていとくさーん……っ」
疲弊した夕立がふらりと倒れこんでくるのを抱き留める。
「夕立」
「ていとくさん……ゆうだち、がんばったっぽい……」
「うん。生還してくれて、ありがとう。ご苦労だった」
「えへへ……」
微笑みながら夕立も気を失った。
彼女を寝かせて、提督は海岸に座り込み、真っ暗な海を見つめた。
「あとは天龍、龍田、北上。敷波はどうした。それから、大井は……」
「おーい、ニコちゃん」
「なんだ」
「悪い知らせだ。うちの第二艦隊が投降してきた陸上護衛部隊を捕縛した。連中の話じゃ、天龍と龍田は沈没したらしい」
「……そうか」
「それから、敷波の行方は不明だ。途中まで追撃したが、見失ったらしい」
「……わかった」
「………」
同僚がぽいとなにかを投げた。マッチ箱だった。
彼が立ち去ったあと、提督は煙草に火を点けて、煙を吐いた。
「……嗚呼。日の出だ」
月も星もない夜の闇に、真っ赤な光が現れる。
長い長い夜が、明けようとしていた。
143.着任
一か月後。
「……ああ。問題はない」
『重畳ちょーじょー、検査報告も見てるけど"深海の呼び声"はだいぶ弱まってるみたいネー』
「そのようだ。曙の幻覚や、山城の幻聴も治まっているらしい。
霞は左腕はないし右腕は不自由でかなり不便しているようだが、兇暴化の兆候はないとのことだ」
『うんうん、ひとまず寛解だな』
「羽黒の頭痛と綾波の相貌失認はまだ残っているようだが……」
『それだけ進行が進んでいたんだろーな。療養を続ければ治る、はず。ほかに何か問題は?』
「潮がかなりショックを受けているようだ。それから比叡もずっと塞ぎ込んでいる」
『比叡は双極性障害に類似した"深海の呼び声"だったってー検査結果が出てるんだよな。今は鬱状態なんだろーな』
彼は深いため息をついた。
窓の外から、駆逐艦らが遊んでいる声が聞こえてくる。
『そーいや、憲兵が話してくれたんだけど、天龍はかなり進行が進んでいたそうだ。大井と北上は、妖精によれば漂流ののち沈没、らしい』
「妖精が? 敷波については何か言っていなかったのか」
『沈んでいないことは確かだ。妖精はそれ以上の情報提供を拒否しやがる』
「――我我は君たち人間にとっていつも便利であったろう、か。なんて嫌味だ」
『妖精との協定は人類全体との友好であって、ひとつひとつの問題に協力するかどうかは別だ、とか抜かしやがって。いつもどーりだけどさ』
「クジラ、お前また妖精と会ったのか」
『いんやぁ? 声だけだ。それにしてもニコちゃんはアイツに気に入られてるねェ』
「どういうことだ」
『敷波のことさ。どこへ行ったかはしらない、沈んではいないようだけどね、なんて嘯きやがったけど、通常の事例なら生存っつー情報すら出さねーもん』
「そうなのか」
妖精の妖しく輝く虹色の瞳を思い出して、特に嬉しくはないが、と苦笑した。
『なんにせよ、諜報部や憲兵も敷波を捜索してくれてる。ただ……』
同僚が珍しく言いよどんだ。
「わかってる。そろそろ諦めなければならない時期だ。もう一ヶ月も経って、無事でいると考えるほど、楽観的でもないよ」
『……ごめんな、ニコちゃん』
「クジラのせいじゃないさ」
捜索には多大な費用が掛かる。
公的な捜索活動は一週間で打ち切られ、そのあとは細々としたものになってしまっている。
顔を合わせるたびに、綾波の目が期待と、期待しないほうがいい、という葛藤でいっぱいになるのを見るのが彼も辛かった。
綾波はあれから、弱々しい微笑みだけで、すっかり笑うことがなくなってしまった。
「……とにかく。こっちは問題ない。みんなも少しずつ良くなっていくだろう」
『ああ。ザッツライト! なんかあったら――なんだ、どうした』
電話の向こうが騒がしくなる。
同僚がすっとんきょうな声を上げている。
「何かあったか」
『は、は、は、だ! ニコちゃん!』
「なんだ」
『敷波だ! 見つかったってよ!』
「!」
受話器を掴んだまま、彼は椅子を蹴立てて立ち上がった。
144.
その日の夕刻、彼はある港町にいた。
車を降りる。
「それでは小官はここで待機している」
運転席から剣呑な目つきの憲兵が言う。
彼は頷いて、波止場へと歩き出した。
事前の取り決め通り、敷波には監視のみで接触は彼が最初である。
係留柱に座って海を見ている後姿。
敷波だ。
「……司令官か」
敷波が振り返る。
変わっていない。
彼は心中で安堵した。
「残念だが、もう提督でも司令官でもない。俺は罷免された」
先日の騒動が誰の図ったものであろうと、誰かが鎮守府崩壊の責任は取らねばならない。
わかっていたことだった。
それを聞いて敷波は再び視線をもどした。
「あたしのせいだね」
「それは違う。俺は提督だった。だから、責任を取るのは当然だ」
「……司令官って、いっつもそんな言い方してない?」
「そうか? 今は艦娘専用療養所の所長が内示されている」
「じゃ、所長?」
「それが適切だが……、なんと呼んでくれても構わない」
「そうなんだ」
彼も、係留柱に腰を下ろす。
海鳥が鳴いている。
「あれから、どうしてたんだ?」
「ええと……、二日間くらい隠れながら逃げて、あとは海伝いにじょじょに……。
でも列車でお菓子をもらったあのおばあちゃんに会って、お世話になってる。艤装は海岸の倉庫に隠して艦娘だってことは黙ってるけど」
「そうだったのか。不思議な縁だな。ともかく、無事でよかった」
敷波は黙って海を見つめている。
その心中は、凪か時化か。
「………。綾波は無事だ。帰ってこなかった者もいるが……」
「そう、なんだ」
「そうだ。……すまなかった。敷波。君には辛い思いをさせた」
首を垂れる。
敷波もうつむいた。
「そんな……あたしが……ごめんなさい」
「いや、敷波は悪くないんだ」
彼は"深海の呼び声"とあの夜の経緯について簡単に説明した。
もちろん艦娘が第二世代であるということは伏せて。
敷波は微妙な反応である。
「でも、あたし、綾波にひどいことしちゃったし……」
「報告は受けている。しかし綾波は君のことを恨んではいないよ。……帰ろう、敷波」
「……ムリだよ。帰れるわけない。あたしは潮を殴ったし、比叡さんを撃ったし、綾波を殺そうとしたんだよ!?」
「知っている。だが、それも"呼び声"のせいだ」
「――違う!」
「!」
悲痛な否定。敷波は両の掌を見つめている。
「そんなの関係ない。あたしは、あたしは愉しいんだ! 仲間を傷つけて沈めるのが……たまらなく愉しいッ!」
「敷波……」
少女は嗤っている。しかしそれは、なんと哀しい嗤いか。
自分が望まないことを、欲望せざるを得ない。
彼女は仲間を傷つけたくない。しかしその衝動が止まらないのだ。
「敷波の言っていることは事実だよ」
突然聞こえてきた玲瓏な声。
それは妖精の声である。
彼は驚いた。
敷波の肩にちょこんと小人が乗っている。
「うわあっ?」
敷波もぎょっとした。揺られて、小人が目を回す。
「おっと。落ち着いてくれないかな。我我は無害な存在だよ」
「妖精」
怒りを押し殺した声で呼ぶ。
こんな感情も妖精には通じないのだろう。
「やあ。久しぶりだね。元気かい?」
「お前は何もかも知っているのだろうが」
「そうだね、知っている。この敷波が"深海の呼び声"にたいして侵されていないこともね」
「どういうことなんだ」
「その言葉のままだよ。この敷波が仲間を害することに対して悦楽を感じることは、"深海の呼び声"とは無関係だ」
小人は瞳を虹色にきらめかせた。
敷波は困惑している。
「嘘だろ……」
「我我は嘘は言わない。話さないという選択を取ることはあるけどね」
「そんな、そんなことがあるか!」
彼は思わず立ち上がって声を荒げた。
「人間だって、法で許されない嗜好を持つ者はいるだろう。彼らだって、その衝動を理性で抑圧しながら生きている。
否、そもそも君たち人類はその魂を抑圧しているのじゃないか。抑圧しなければ社会を構成できず、社会を構成できなければ生きてはいけない。
君たちは狂気を孕んでいる。君たちの狂気こそが、深海に淀む狂気の源泉なのだ」
「ばかな……、それでは、人間がいる限り深海棲艦は生まれ続けるということではないか!」
「人類が海で戦い、大量に海で死ななければこんなことにはならなかったと我我は考えているけどね」
「……信じられない……」
力なく再び腰を下ろす。
「あ、あのさ……えっと」
「ああ敷波……すまない。君に聞かせるべき話ではないのに」
「いいや君に聞かせるべき話さ、敷波」
「おい妖精」
怒気をにじませる声にも、妖精はやはり頓着しない。
彼らには関係ないのだ。
妖精は呼びかけた。
「敷波。君の悩みは解決されることはない。君はその葛藤を抱えて生きていくしかない」
妖精の宣告。そこには善意も悪意もない。
「だが、それでも――生きていくはできる。君たちが心を持っている限りね」
小人がそこで彼のほうに笑いかけた。
彼は妖精の意図をぼんやりと察して苦る。
「だから、彼とともに生きていくがいい。敷波」
「え……あっ」
すう、と小人の姿が薄れて消えていく。くふふふ、と笑いながら。
彼は立ち上がった。
海を眺める。
青く、美しく、穏やかで、時におそろしい。
「敷波。帰ろう。君と紅茶を飲む予定が残ってるんだ」
手を差し出す。
ためらいがちに、敷波がその手を取る。立つ。
「なにさ、それ。別に、楽しみになんてしてないし」
照れてはにかみながら、敷波は悪態をついてみせた。
「ありがとう、敷波」
「ううん、こっちこそありがとう、司令官」
海は、静かに何度も波を寄せるのだった。
145.
中央に戻った憲兵はデスクで報告書を書いていた。
ぎろりと宙を睨んで思い返す。
あの後、二人は世話になったという老夫婦宅へ挨拶へ向かった。
老婦人は少女に迎えが来たことに泣いて喜んだという。
保護していた少女が艦娘であることには薄々気づいていたらしい。
それから艤装を回収し、二人を療養所に送り届けて、帰還した。
憲兵は「敷波を療養所へ移送。問題ナシ」と記した。
立ち上がり、報告書を提出して、ぶらりと外へ出た。
「………」
中央はいつも慌ただしい。
人と物資と情報が大量に行きかい、時間は飛び去るように過ぎていく。
一地方の小さい鎮守府が崩壊した今回の事件も、瞬く間に他の出来事に上塗りされていってしまうだろう。
だが、その前に彼にはやっておかねばならないことがあった。
目的の後姿を見つけ、憲兵は足早に歩み寄る。
「これはこれは中将殿。ご機嫌麗しゅう」
髭の中将が、今にも舌打ちしそうな表情で憲兵をねめつけた。
「狗が。近づくなと言ったのを忘れたのか?」
憲兵は中将の隣を悠々と歩く。
「これは小話ですが、中将殿もご存じでしょう、鎮守府が崩壊したという例の件です」
「知っている」
「いくつか気になる点がございましてですなぁ。なぜあそこにあんなにも"深海の呼び声"が集まっていたのか。
事務に入りこんでいた特殊工作員は誰の指示で動いていたのか。陸上護衛部隊の手引きをしたのは誰なのか」
「それがどうした」
「中央の艦娘配属、事務と提督の人事、そして件の鎮守府の工作員。これらが共同して"深海の呼び声"が潜在的な艦娘を集め、研究していたのではないか。
そして、"深海の呼び声"が進行し、それを抑えきれぬ事故が起こったことで観察は終了。鎮守府ごと証拠隠滅を図ったのではないか。
こういう推測が成り立つわけです」
「ふん。くだらぬ陰謀論だ。そんなことを考えるために貴様ら狗はいるのか」
「確かにどこにも証拠はございませぬ。見事だと言えましょう。長く、地道で、周到な計画です」
「それが事実であるのならばな」
「そういえば、中将殿はあの鎮守府に視察に赴いていましたな。如何でしたか?」
「……何ということもない。ほかの鎮守府と変わらんわ」
「そうでしたか。ああ、中将殿はそこで演習をご覧になられたらしいですな。一目で陸の戦術と見抜いたとか。
陸上護衛部隊の設立にも関わっておられた中将殿のこと、それくらい容易いことですかな」
「何が言いたい」
忌々しそうな中将の物言いに、憲兵は立ち止まって獰猛な笑顔を作った。
「我々憲兵は必ず真実にたどり着きます。規律を乱し秩序を脅かす者がその報いを受けることは必定。
その日が来ることを、楽しみにしましょう。中将殿」
「………。勝手にしろ」
中将が角を曲がっていく。憲兵は踵を返した。
元の無表情に戻った憲兵は、牽制くらいにはなるだろう、と考えている。
そして戻るために中央の敷地を歩いて行った。
中央はいつも慌ただしい。
146.
この世界には3種類の人外がいる。
ひとつは、工学技能に特化し高度な知性を持つ、古来より人類と共存を果たしてきた「妖精」。
もうひとつは、近年になって人類を脅かしている侵略者たる「深海棲艦」だ。
そして最後が、深海棲艦に対抗するために妖精が生み出した「艦娘」である。
我々日本国海軍は太平洋に面した国土を守るため、この艦娘とともに深海棲艦との激しい戦争状態にある。
…はずなのだが。
―――――
―――
――
「本日付でこの艦娘専用療養所の所長に着任した。よろしく頼む」
ラウンジに集まった艦娘らは皆、見慣れた顔ぶれである。
羽黒、比叡、山城、曙、潮、霞、夕立、そして綾波と敷波。
彼は苦笑した。
「自己紹介は必要ないな」
小さく笑いが起こる。
彼はポケットの中で球磨の遺品であるお守りを握りしめた。そして離す。
「じゃあ今日は解散としよう。綾波と敷波は残ってくれ」
どたばたと艦娘らが部屋を出て行く。
彼にとって、すこぶる心地よいにぎやかさだ。
そして彼は二人の艦娘に歩み寄った。
「なんでしょう、司令官」「司令官、なにさー」
彼はとっておきの秘密を打ち明けるように笑った。
「今日は二人にアイスをご馳走しようと思ってな」
綾波と敷波が顔を見合わせる。二人ともすぐに顔がほころび、彼に向き直った。
「やぁ~りましたぁ~っ」「やったね! ちょっとだけ、まじ嬉しいね」
「約束したからな」
笑顔の三人。
窓の向こうには見えるのは海だ。
海が、きらきらと輝いていた。
おわり
816 : 以下、名... - 2016/12/30 20:41:24.89 kVnfaCGvo 468/468ありがとござましたー