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【まどか☆マギカSS】 神の国と女神の祈り ─1─
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第31話「賭け勝負」
242
「はぁぁ……」
大きくため息、ふうと吐く円奈。
その手元にはビールの入ったジョッキ。もちろん、ほとんど減っていない。
その対面では、ルッチーアが、くびくびビールを飲んで、顔を赤くさせていた。
「なあよ、いつまで落ち込んでるんだい?」
ルッチーアは円奈にきいてくる。
「一緒にいる私の気持ちにもなってよ。せっかくの酒場なのにこれじゃまるで墓場じゃないか?」
「はああああ…」
すると円奈は、さらに大きなため息を吐いた。
「わたし…」
その顔はしょぼくれていて、落ち込んでいて、暗い。
「なんでここでこんなことしてるんだろう……」
「なんだよそれ私と一緒にいるのがそんなにイヤか!」
ルッチーアは少しむっとして口を尖らせた。「目の前で、そんな放心状態されちゃ、こっちまで落ち込んでくるよ。あまり魔法少女をさ、落ち込ませないでよ。気持ちっての、大事なんだから」
「思えば聖地を目指すためなのに…」
円奈は、ルッチーアのことをあまり見ていないし、気にしてもいない。
ただ独り言を呟くように、ため息をついて、つづいて独り言をぶつぶつ語るだけ。
「なんで紋章官になって、あまつさえ、みんなの前で読み間違えて、こんな惨めな想いしてるんだろう…」
「あのさあ、もうそれ、忘れちゃいなって」
ルッチーアは円奈にいう。
「わたしが手本みせてやったろ?なあ、わたしはあんたと久々に会って、ひさびさに話したくて、酒場に誘ったんだ。なのに、なんで自分とばっか話してるんだよ?わたしがそんなに嫌か?」
ルッチーアの目にわずかに切なさが一瞬だけ、映る。
「どうせわたしはろくに人の役になんて立てなくて…」
円奈の独り言はまだつづく。
ジョッキのビールはほとんどへってなくて、注文されたときの量そのままで、そのジョッキの水面をみつめながら、はあとため息つくだけ。
「なにか頑張ろうとしたって……失敗しちゃうだめな子なんだ……」
「もう、うっとうしい!」
ルッチーアは怒鳴った。
ドンとテーブルを叩く。
「たかだか一回失敗したくらいで、なんだよ。あんたぐらいのこと、魔法少女になったらたくさんあるんだぞ。恥もかくし、おちょくられるし、バカにもされる。あたしなんかそんな毎日さ。なのに、あんたときたら……」
「ルッチーアちゃんは魔法少女だからいいじゃん…」
すると円奈は、そんなことを言い出した。まだ顔は俯いて落ち込んだ口調だ。
「魔獣倒してみんなの役にたてるじゃん…」
「はあ、まったくもう!」
するとルッチーアは悶絶して、両手で顔を覆った。
「あんた、なにもわかってない。都市で魔法少女として暮らすことのひどい日々ってのが、わかってない! しかも私は修道院を出禁だぞ。あっ!思えばそれはだいたいお前たちが───」
「ルッチーアちゃんが暴れるからでしょ!」
円奈がはじめて顔をあげた。
その顔はどこか怒っていた。
「なのに、私まで裁判に巻き込まれて…」
「勝ったからいいじゃんか」
ルッチーアも言い返す。
すると、黙り込む円奈。
黙り込んで無口になったあと、円奈はまたため息つくと、呟くのだった。
「はあ……ルッチーアちゃんはさ、かっこいいから、いいよね」
「はあ?」
ルッチーアは顔をしかめて、突然の相手の台詞に驚いてしまった。
と同時に、ちょっとだけ顔を赤らめた。
「すごくかっこいいもん。あの槍試合のときの話。みんなルッチーアちゃんの話に夢中で、すごく盛り上がって、試合も開始されて……なのに、わたしはすごく恥かいて、みじめて、誰も私の話なんてきいてくれなくて……」
「なにさ、そんなしょぼくれることないって、いってるじゃんか」
ルッチーアは言い返す。
「一回失敗しただけで落ち込みすぎだってば。あんた、名物紋章官として有名だったでしょ。みんなあんたの話を楽しみにしてた。都市のみんながだだよ」
「あれ、わたしが考えた話じゃないもん……ジョスリーンさんの文だもん…しかもそれ、わたしをばかにしてるだけでしょ」
「あー…そうだったんだ」
ルッチーアは、円奈が紋章官として前にでたとき、文を読み上げていたことを思い出す。
しかも名物紋章官として有名だったのは、円奈が、とにかくおばかな話を披露する道化みたいなやつだと都市に評判だったことにも思い至る。
「まあでもさ…自信なくすことないって。」
だんだん苦しくなってきたが、ルッチーアはそれでも円奈をなだめる。
「明日も馬上試合の劇場にでなくちゃいけない……ああ…やだよう…」
顔を手で覆ってしまう。
「いやだよう…こんなの…あああ」
泣き出してしまう。
「もーわかった、わかった、明日は私が一緒にいてやるから!」
まるで子供をなだめる母か、いじける妹をなだめる姉だ。
「そんな気分が落ち込んでいるなら、飲みなよ。そう、飲むことだ。だからわたしはあんたを酒場に誘ったんだ」
「これ、苦くてきらいだもん!」
円奈は頬をテーブルにすりつけて泣く。「もう、やなことばっかり……」
ガタって両腕をテーブルについて、全体重をテーブルにあずけて、泣くピンク髪の少女。
「なんでそう自分を卑下するのさ?」
ルッチーアは円奈の頭をぽんと叩く。
「ねえさ、ジョスリーンから話はきいたよ。あんた、ガイヤール国王ギヨーレンに勝ったんだってね? それでアリエノール・デキテーヌ姫を守り通した騎士なんだろ?」
酒場のまわりのテーブルで、がやがやっと動揺が起こる。
何人かの常連客たちが、どよめいてルッチーアたちをみる。
どうやら話がきかれてちまったらしい。
ルッチーアはテーブルを乗り出し、小声で円奈に耳打ちした。
「だとしたら、それで人の役に十分たってるじゃないか。英雄じゃんか、そう自分を卑下することないだろ」
「その話、脚色されてるもん…」
円奈はふてくされた顔のまま、呟く。
「ギヨーレンは私を前にして勝手に逃げ去っただけだもん…」
「じゃあそれは、ガイヤール王が、あんたをみてびびって逃げたわけだな」
ルッチーアは耳打ちをつづけた。
「じゃああんた、やっぱ大した騎士だよ。それに、アリエノール姫を守り通したことは本当なんだね」
「そのことで浮かれないって私はもう決めたんだもん…」
円奈は自分を卑下するの一点張りだ。
「それに、多くの人も傷つけたもん……私のしてきたことって、結局…」
「ああもう、複雑な女だなあ!」
ルッチーアは喘いだ。「私まで頭が痛くなってくる……」
「もう都市をでたい…」
円奈は急に、そんなことをぼやいた。「ここにいても恥さらしなだけだし……もう明日には都市をでて、エドワード城にいって、許可状みせて、聖地にいこう……」
その発言に、いよいよルッチーアはむっとするを越えて、むかっとなった。
頭に血が昇る。
「こいつめ!」
ルッチーアは円奈のジョッキを手に取る。
「人がせっかく酒場に誘ったのにさ!あんたには言葉でいっても無駄だ酒で元気づけてやる!」
といって、円奈の頭を掴みあげると、ジョッキを傾けて無理やり円奈に飲ませる。
「ううっ…うべ」
円奈が嫌がる。「それ苦いんだってば!」
大麦が原料にして醸造されたビール。円奈の口に注がれる。
「ほら!自分でつかんで、ぜんぶ飲んじまえ!」
ルッチーアは空いた手で円奈にジョッキを持たせた。
すると円奈は、ジョッキを両手にもたされて、そのまま喉に苦い酒を通し続けた。
ほんにんももうやけくそな気持ちだった。
この苦々しい酒を身体こわすつもりで全部飲む。それだけが、紋章官として大失態した自分に対する罰か何かのように、受け止めて、ジョッキのビールを初めて空になるまで大量に飲み込んだ。
ところで円奈の母、鹿目神無は、とてつもない酒豪として聖地で知られていた。
10代までは神の国の戦士だった。20代になると、聖地の魔法少女・暁美ほむらとの喧嘩が多くなって、酒を飲んだ暮れて、酒がいちど入ると、手に負えられない女となった。
「はあああ…」
全部ビールを飲んだ円奈がジョッキをビールにダンと叩きつける。
その息がすでにビールの臭いをふくんでいる。
「やればできるじゃないか」
ルッチーアは嬉しそうだ。
「元気とりもどしていこうよ。互いに」
円奈は舌を口のなかで回していた。苦味を噛み締めるか、追い払うかかのように。
ピンク色の目をした視線はさだまってなくて、顔はもうとても赤い。
「うう…」
めまいがしたかのように額を手でおさえる。
「ちょっとまってよ、冗談だろ?」
ルッチーアは少しばかり、慌てた。「たった一杯で、どうしてそんなになるのさ?いくら苦手だからって……」
と、そのとき。
酒場の扉がダーンと勢いよく開かれた。
大きな音たてて開く店の扉。風が捲き起こる。
酒場の何人かの常連客が、扉のほうに顔をむけた。
あらたな来客が数人、そこにいた。
大柄な男たち3人ほどだった。
みるからに屈強で、背が高くて、いかにも騎士という感じの三人組だった。
「邪魔するぜ」
男たちは店内に入り、酒場の店主に告げた。
「ここに、くそ女騎士ジョスリーン卿のイカレ紋章官と、くそったれ魔法少女がいるときいてな。ここでいいのか?」
「はあん?」
ルッチーアが男たちのほうを向いた。
円奈は、まだテーブルの席でふらふら頭を回している。
「あー、ここだ」
店主が答える。「だが、いっとくが、喧嘩沙汰はゆるさねえぞ。というより、てめえらに勝ち目はねえ」
「だいじょーぶだ」
騎士の男たちはぐははと笑う。伸びたあごひげを撫でる。「喧嘩するつもりはねえ。”挨拶”しにきただけだ」
「銀貨二枚だ」
店主は手を伸ばし、銀貨を要求する。「あんたらが探している人物は、あっちだ」
店主がひょいと視線を壁際にむける。
「ふうん?」
顎鬚の生やした男の騎士たちが壁際をみる。そこに、黒髪の小さな少女と、一目であいつとわかる、ピンク色の髪の少女がいた。
「へ、ふざけた髪しやがって」
男たちは店主に銀貨二枚を乱暴にわたし、その隣のテーブルにがたがた、三人とも座った。
「なんの用だあ?」
ルッチーアは呟いた。
目の前で円奈はふらっふらな状態になっているが、自分ならいつでも喧嘩になれば勝てる。人間との喧嘩では一度も負けたことがない。
騎士たちは円奈たちのテーブルの隣に腰かけるや、にやにやとこちらに見て笑いかけてきた。
「はっはっは。これがあの大恥かいたバカ紋章官と、くそったれ魔法少女か」
「なんだとお?」
ルッチーアが騎士たちを睨み返す。
「おお、おお、まて、まて」
騎士たちはわざと慌てた様子を演じてみせ、両手をあげて制止する。
「喧嘩はやめようぜ、なあ?喧嘩は?魔法少女さんよ、ここはお客さんのいる酒場だぜ……ところお構いなく暴れるのは、野蛮人のすることだ……俺たちには騎士道があるから、そんなことはのぞまんのだよ。魔法少女はしらんが」
「ぶっははは」
他の二人組みの騎士が笑い出す。すでにジョッキを一杯、全部飲み干してる。
「そこのバカ紋章官にここのビールは強すぎるかな?」
ふらふらしてる円奈を指差して、騎士は笑う。
するとルッチーアは、むかっとして、慌てて円奈の頬を叩いた。
「おい、しっかりしろ、鹿目円奈、騎士!騎士だろ!おなじ騎士にバカにされてていいのか!」
「はえええ?」
円奈は奇妙な声で返事した。目が泳いでいる。
あっははははは。
男の騎士三人組、爆笑。すでに、二杯目のビールを頼んでいる。
「おめーらなにしにきたんだ!あんたらいったいなんなんだ!」
ルッチーアが怒鳴ると。
「おれたちか?くくく、面白い質問だ」
最初に絡んできた男の騎士が答える。
「おれたちは、あんたらの主人、アデル・ジョスリーン卿の明日の対戦相手、アダマー・フーレンツォレルン卿に仕えるジョアール騎兵団だ」
「フーレンツォレルン卿だとお?」
ルッチーアが目を丸くする。
とすると、円奈が間違えて読み上げてしまった国に仕える騎兵のやつらということになるが…。
なるほど、自分たちの誇りある国の紋章を、読み間違えられて、他国のと混同されて、恥さらしにされて、むかついたわけだ。
それでつっかかってきているわけか。
「てめーらのジョスリーン卿は、おれたちの主人、アダマーさまが、叩きのめすってわけよ。」
騎兵団の一人がいう。
「そのてめーらの、無恥で、厚顔なバカ面を、一晩さきに拝みにきたってわけだ。」
「あーあー、読み間違えてわるかったね!」
ルッチーアが大声でしゃべる。
「そのへんはまあ、本当に悪かったよ。だがさ、そうつっかかってこなくてもいいだろ?明日、白黒はっきりするんだから。」
「俺たちはそんなこたぁーきにしちゃいない!」
騎兵団の一人が席をがたっと立つ。
他の二人組みは、もう、ビール三杯目だ。
「さっきもいったが、てめーらの惨めな顔を拝みにきただけだ。はっ、女のくせに騎士になってジョストにでやがって、生意気な。てめーらは明日の五回戦で敗退するんだよ。それで決まりだ。調子にのってんじゃねえ女ども!」
「なにおお!」
ルッチーアも席を立った。「女だって騎士になったっていいじゃねえか!」
「そんな時間あったら金糸縫いと紡錘の使い方でも学んでろ、くそ女どもめが!」
男は叫ぶ。
「これは本当のことをいってるだけだ。女は若ければ調子のるが、すぐ老いる。そのときに、服のひとつもつくれなかったら、なんの価値もねえくそったれだ」
「このやろう!」
ルッチーアは怒り心頭、かんかんになって、男につっかかる。
「おうおうおう!」
男はまた、余裕そうに両手をあげる。
「魔法少女さん、ここで暴れるのは、騎士道に反するんでね。おれは手出ししやしない。だがいまここであんたが暴れたら、魔法少女はくそったれだ」
「そーかいじゃあさっさと消えろ!」
ルッチーアは怒鳴る。
「あたしらの顔を拝めただろ?じゃあもういいじゃんか、もうかえんな。そして明日のジョストで、泣けばいいさ。」
「泣く?誰が?ぶっ」
騎兵団の三人組は噴出す。ビールごと。
「おれたちジョアール騎兵団を率いる最強の騎士・アダマーさまが、てめーら女軍団に、負けるとでも?」
「ああそうさ、明日になればわかる」
「槍に魔法でもかける気か?」
「このやろう!」
ルッチーアは再び怒鳴った。男たちはルッチーアの逆鱗に触れた。
というのも、魔法少女である自分が、そういうふうにいわれることが何よりも嫌いだったからだ。
「わたしが明日勝負にイカサマするでもいいたいのか!」
「魔法少女ってのは、インチキなやつらだ。だって魔法少女だろ。へんてこりんな魔術使いめ」
「もうゆるさない!」
ルッチーアは男の身体を腰からつかみあげた。
いとも簡単にもちあがる男の屈強な身体。床から浮く足。男は苦痛に顔をゆがめる。
「まて、まて!」
男は顔を歪めながらルッチーアを見下ろし、自分を降ろすように繰り返し頼んだ。
「おろせ、おろせ、おろせ!暴力沙汰はやめにしないか……騎士道に反するんだ…」
ルッチーアは男をはなした。
とたんに大柄な男の身体がすとーんと地面におちて、うぐおっと男は呻いて地面に転んだ。
つらそうに腹を抱える。
「じゃあこうしようじゃないか」
するとテーブルに腰掛けた騎兵団の二人組みの男のほうが、ルッチーアを見ながら、テーブルで手の動き交えつつ提案をしてきた。
「明日、俺たちの主人と、あんたらの主人がジョストで対決する。だが俺たちとてめーらの戦いでもある。ちがうか?」
「ちがわないな」
ルッチーアは答え、ギロリと男どもを睨んだ。「てめーら、ゆるさない」
「よし、じゃあ、勝負だ」
テーブルに腰掛けた男は持ちかけてくる。
そう、賭け事を。
「”金貨50枚”だ。俺たちの主人、アダマーさまが勝つか、ジョスリーン卿が勝つか賭け勝負だ。どうだね?」
「き、金貨50枚だああ??」
ルッチーアはびっくり仰天、提示された破格の価格に、怒りさえふき飛んで、ただただ目を丸くしてしまった。
そんな金、いままでの16年間の人生を振り返った全ての稼いだ金額の合計よりも高い。
「おやおや、どうしたのかな?びびっちゃってるのかな?」
男たち、おちょくるような声をだし、にやにやと笑う。
地面に倒れた男も起き上がって、ダブレットの服についた埃をぱんぱんと払うと、にやにや笑った。
「へっ、女の度胸なんか、そんなものだ。」
にやにや笑いながら顎鬚をつかみつつ、テーブルの席にこしかけ、ビールのジョッキをぐびと飲み干す。
飲み干したあと、ダンとジッョキをテーブルにダンと置き、余裕そうな顔で微笑んで、両手の平をひろげてみせる。
「勝てる自信がないんだろ。つまり、自分たちの主人の勝ちを信じてない、負けるかもしれない、って思っているって、ことだ」
「あっはははは」
男たち、げらげら爆笑。
「だが俺たちは自分の主人の勝利を信じているから、全財産だって賭けられる。どうした?おまえたちは、自分たちの主人が勝てると思わないのか?さっきの言葉はうそだったのか?明日、俺たちを泣かすんじゃなかったのか?」
あっははははは。
ぷっぷっぷっぷー。
口笛をひゅーひゅー鳴らしたりおどけたり、ぴよぴよぴよと鳥の真似ごとをしたりして、徹底的にルッチーアをバカにして挑発する男たち。
「この……この…!」
ルッチーアはとにかく怒っていた。
魔法少女をインチキ扱いするぜったいにこの男どもを許せないし、叩きのめしてやりたいし、ここまでバカにされて勝負事を降りる気なんかまったくない。
だが問題があった。
そもそもルッチーアの持つ全財産はいま、手元の銀貨25枚だ。昨日の魔獣退治の報酬を市庁舎て受け取って、銀貨25枚。
とても金貨50枚なんて大金張れない。銀貨があと1000枚あってもたりない。
「くぬう…!」
ルッチーアはくやしがることしかできない。
思えばそれがこの男どもの作戦だったのかもしれない。
まともに力で喧嘩すれば魔法少女に勝てないことを認めた上で、金で殺しにきたのかもしれない。
大金を賭ける博打にふっかけ、力ではなく、金銭的に相手を殺す。
まんまとその作戦にのっかったわけだ。
頭に血が昇って、つい挑発にのったが、すべて踊らされていたってこと。
そう思うと、ますます腹が立ってくる。
煮えくり返る思いだ。
「あらあら、どうしたの?言葉をなくしちゃって」
騎兵団の男どもはまだ挑発してくる。片足を椅子にのっけ、片足だちになり、手を広げ、眉をひそめ、困った顔をした素振りみせ、おどけた口調で質問してくる。
「もしかして逃げんの?」
二人組みの男も笑っている。
「へっ、さんざん、俺たちを明日泣かすだなんだいっときながら、金貨を賭けた途端、言葉のひとつも喋らなくなったよ。本心じゃ主人の勝利なんか信じちゃいないってことだ」
「くっだらねえ」
男はけたけた笑う。「魔法少女ってのは、こうも意気地なしだったのか?へへったいしたことねえ」
「そっちのイカレ紋章官も大概さ。みろよ、へっ」
騎兵団の男は円奈を指差す。
「ふらっふらしやがって。ひょろひょろの、べろべろの、頭くらくら女。雷を呼び寄せる女騎士だなんだばかばかしい話ばかりしやがって。おまけに紋章官のくせに紋章を試合場で読み間違えて、恥さらしやがって! 俺たちの紋章にまで泥を塗りやがった!」
ダンッ!!!
と、大きな音たてて、男は小刀のナイフをテーブルに突き刺す。
肉の油焼きソテーを食べるための小刀だった。小刀はテーブルに突きたった。
「なんだよあんたら、めっちゃ根にもってるじゃんか」
ルッチーアが呆れたように呟いた。その額に汗が垂れた。
「覚悟しとけよクソ女ども!明日の五回戦は、我らが主人が、名誉にかけて、ジョスリーン卿を馬から叩き落してやる。無様に負かしてやる。おれたちがうけた恥を、思い知るがいい。そのくそっれイカレ紋章官が、俺たちにかけた恥のすべてを、倍にして返しにしてや───」
男が言い終わるか終わらないかのうちに、円奈が大声で叫んだ。
「さっきからきいていれば!」
ピンク色の髪した少女は、店主に配られたソテー料理の小刀を、ダンと机に突きたてた。
食器の皿と蝋燭皿がテーブル上で跳ね、浮いて、カチャチャと揺れ動いた。
男たち三人組が、突然の少女の怒りの爆発に、ちょっとだけ身を退いた。
「なによもう!イカレ紋章官イカレ紋章官って!わたしのどこがイカレてるっていうの!」
円奈はふらふらした頭を持ち直し、席からたちあがると、男たちを睨んだ。
顔が真っ赤で、酔いがすっかり回ってしまっている。
「その頭だ」
男たちは本調子を取り戻して、自分の頭をついついと指の先で叩くと、答えてみせる。
「そのイカレた髪だ」
ちょいちょいと、自分の髪の一本を掴んで持ち上げる。
「もう怒った!」
円奈は顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
「その勝負、うけてたってあげる!」
ピンク色の髪の毛が逆立った。
「はあっ!?」
ルッチーアがくるりと身を翻して、円奈をみた。その目が驚きに丸くなっている。
だが円奈をみるとどうも本気らしい。
あわててルッチーアは円奈に駆け寄り、肩をつかみ、目の前にたって、自分の話を言い聞かせた。
「落ち着けよ円奈!相手がもちかけてきた金額を考えてみろ。金貨50枚だぞ。そんな金どこにある? 受けて立つだけ無駄だ。私たちにそんな金ないってしられたら、恥かくのはこっちだぞ。とっとと別の酒場にいこう。明日、ジョスリーンがこいつらの主人を叩きのめしてくれるさ」
すると円奈はチュニックの服から金貨袋をとりだした。ジャララっ。袋のなかでこすれあう金貨の音がする。
「金貨ならここにあるもん」
「……はっ?」
ルッチーアの目が白黒する。ぱちくり。信じられないものを見るような驚きの目で、円奈の行動を見やる。
円奈は騎兵団の男たち三人組のテーブルの前へ進み出る。
騎兵団三人組のテーブルへでた円奈は、この金貨袋をテーブルの中心に落とした。
バサっ。ジャララ。
音を立ててテーブル面におちる、金貨袋。布の袋は、テーブルにおちて、くにゃりと形を崩す。
男たち三人が言葉を失ってその大きな金貨袋を見おろす。
「金貨50枚なんてちまい賭けはいらない」
円奈ははっきりそう告げた。
「私とあなたたちで、金貨100枚を賭けよ?明日、どうせジョスリーンさんが勝つから」
「ひゃ……」
男たちの目に怯えが映る。「100枚!?」
「100っ!?」
ルッチーアも慌ててテーブルに駆けつけてきた。男たちのテーブルに乗り出し、円奈の落とした金貨袋を見た。
すると円奈は、一度テーブルに落とした金貨袋を持って紐を解くと、袋の中身をテーブルへ落とした。
ジャラララララっっ。
次々と滝のように落ちてくる金貨の数々。
ぴかぴか光る金色の硬貨が、みるみるうちにテーブルに満たされ、山になっていく……。
金ぴかの山がそこにできた。
円奈が金貨袋から落としてみせたのは、金貨99枚と、銀貨20枚ほど。
「ルッチーアちゃん。銀貨10枚ある?」
円奈が訊いてきた。
ルッチーアはしばし言葉をなくして金貨の山を見つめていたが、はっと我に返って、答えた。
「ああ…あるよ」
「ここにのせて」
円奈にいわれ、圧倒されるまま、ルッチーアはいわれたとおりに銀貨10枚を金貨の山にのっける。
金貨99枚と銀貨30枚。
「これで金貨100枚。わたしの全財産。これぜんぶ賭けるね」
円奈は言った。
「もちろん、明日はジョスリーンさんが勝つって信じてるから。で、あなたたちは?」
といって、ピンク色の目で男たちを見回す。
「お……おろ…」
騎兵団三人は、金貨100枚の山の迫力に、すっかり言葉を失くしている。
「ねえ、どっちなの?」
円奈は腰に手をあて、厳しく男たちに迫る。
「あなたたちから持ちかけてきた勝負だよ?私は金額を倍にしただけ。ちまい賭け事する気ないから。勝負するんでしょ?」
「ねえさ、頭を冷やせってば!円奈!」
ルッチーアは円奈の頬をぱちぱちたたいた。
「全財産をここに賭けてどうするのさ?負けたら?わたしが悪かった。あんたに酒なんかのませるからだ。あんた初めて酒のんで、酔いが回ってるんだ。さあ、正気に戻りな」
「酔いなんてしらない!ジョスリーンさんは負けない!」
円奈は言い張る。
「わたし怒ってるの!わたしが紋章官するまで、どれほど苦労したかわかる?寝る間もおしんで紋章と騎士の名前いっっぱい覚えてただから。それをさんざんバカにされて。私黙っていられないの!」
「わかった…わかった、だがよ、お嬢さん」
騎兵団の一人が、怯えた声しながら、話した。
「あんたの怒りはわかった…けどさ、金貨100枚はさすがにきついぜ……互いのためにならない。というより、俺たちにさえそんな金貨はねえんだ。こんな、まるで破滅を賭けるような賭け、やめにしようぜ」
「へえっ!自分たちの主人の勝ちが信じられないわけ!」
円奈は男の騎士たちに詰め寄る。
男が一歩あとさがる。
「度胸がないのはどっちだか!金貨がない?なら足りない50枚をいますぐ借りてきてよ。お金貸すとこあるんでしょ?そうでしょ?ルッチーアちゃん?」
といって、ルッチーアをみる。
「あ……ああ…まあね…」
ルッチーアは、円奈の迫力にたじろきつつ、どうにか言った。「高利貸しがこの都市に……」
「じゃあいますぐそこから残りの50枚借りてきて!そして100枚賭けて私たちと勝負!」
「おい、これまずいぜ」
騎兵団の一人は、すっかり顔を青ざめさせている。
「この都市の高利貸しは、血も涙もねえ暴利だっていうぞ。そんなところで金貨50枚も借りて、もし負けたら…」
「そもそも、担保がない!」
他の男も必死になって言い繕う。「金貨50枚も借りる担保が!そんな借りられるわけない!」
さっきまでとは打って変わった、あわてふためく男たちの様子に。
ルッチーアはだんだん、心に火がついてきた。そう、この男どもをこらしててやろう、という加虐心だ。
「担保か……ふーん、そうだな」
考える仕草しながら魔法少女は、騎兵団三人の身なりを確かめていく。
「このダブレット、金糸の刺しゅういりか……貴族じゃないと着れない、高価なもんだよねえ」
男たちが顔を固くしていく。
黒髪の魔法少女は、騎兵団の身なりと装飾品、持参品、すべて丁寧にしらべあげていく。
「この剣!鞘も金糸入りか。ベルト!金メッキ飾りか。すごいねぇ。高く売れそうだ。剣そのものも、いいのつかっているね。ロングソードかい?おおっ、鋼と鉄の合金じゃないか?さぞ高級の職人の手による剣なんだろうねえ。指輪、靴、下着、絹のストッキング!どれも高値がつく。しかも三人分ある。大丈夫さ。金貨50枚ぶんの価値はある」
男たち、三人そろって、顔が真っ青。
「明日を楽しみにしてな」
ルッチーアは男たち三人に告げた。「素っ裸にしてやる」
243
「いっとくが、逃げるなよ」
すっかり元気をなくした男たち三人は、並んで頭を垂れ、すっかり落ち込んで、ルッチーアに念押しされていた。
「もし逃げたら、明日の勝負のとき、みんなの前であんたの主人に、今日のことを暴露してやるよ。”自分たちから賭け事ふっかけてきて、金額を倍にされたら逃げ去った”ってな」
男たち、三人揃って黙って地面をみつめている。
まるで母親に叱られる子供三人だ。
「すぐに高利貸しから50枚借りて、もどってこい。担保はあんたらの身に着けてる装備品すべてでまかなえるだろ。そしてちゃんと金貨100枚にして、ここにもどってくるんだな」
「…」
騎兵団の三人は、俯いたままこくっと頷いて、静かに店をあとにした。
「楽しみにしてるよ!」
ルッチーアは手をふりながら三人を見送り、笑顔をみせた。
それからテーブルの円奈のほうにむきなおった。
飲み散らかされたビールと、山のように積まれた金貨。
それをルッチーアは慌てて金貨袋に詰め直す。
「客をみたらどろぼうと思えってな」
ルッチーアはまわりを目だけで見回す。何人かの客が、隙をねらって金貨の山に手をつけようとしている。
「一枚でもかけたらダメだ。はやく詰め直さないと」
全部金貨袋につめなおし、円奈の前にルッチーアは座りなおした。
「それにしても、えらい展開になってきたなあ……あれ?」
ルッチーアはこのとき初めて気づいた。
目の前で円奈が、意識朦朧としていて、目を閉じたまま、頬を熱くさせて、ふらふらしていることに。
そして、はうううと声だして、バッタンと気を失うと、テーブルに突っ伏し、そのままテーブルの側面から身を転ばせて落ちた。
「おい、しっかりしなよ!」
ルッチーアは慌てて酔いつぶれた円奈を抱き上げる。
この少女はすっかり眠っていて、すうすう寝息たててルッチーアに全体重を預けていた。
「おもっ、この女」
だらーんと肩に寄りかかってきた円奈を抱きとめ、困ったルッチーアは、店主を呼んだ。
「マスター!二階は宿屋なんだろ?この女泊まらせていいかい?空きは?」
「ああ、いいよ。銀貨三枚だ」
ルッチーアは円奈を支えながら、自分の持分の銀貨から三枚、店主に渡した。
「この女一人でいいのかい?」
店主がたずねる。
「ああ、いいよ。わたしはもう少しここで飲んでから、家に帰るよ」
魔法少女は答え、円奈を、二階の客室へ運んで言った。
眠りにおちた少女の寝息が首にかかる。
「くそ、私にこんなことさせやがって」
一人愚痴をこぼすルッチーア。
円奈という少女を抱きとめて、二階へ。
「まあ……私が酒飲ませたのがわるかったな……こんなことになるなんて」
男たちは、ちゃんと金貨100枚もってくるのだろうか。
もし本当にもってきたら、とんだ間抜け野郎たちだ。
そのまま逃げてしまえばいいのに。
別に明日の大会四日目に、暴露する気なんかないし、逃げてくれれば、こっちも金貨100枚を賭けるリスクが消えて、見事後腐れなく解決。
というか、この都市の高利貸しのえげつなさは多くの人が知っているわけだし、そんなところから、自分の装備品の全てを担保にして借りてきたら、ほんとに大バカどもだ……。
と同時に、こっちも、やばくなる…。
「や、やわらかい、な…」
円奈を抱きとめて階段を運んでいるうち、ルッチーアは、そんな感想を呟いた。
「ふにゃふにゃしやがって、鳥肌がたってくるよ」
円奈という少女の身体のやわらかさに、同じ少女として背筋に悪寒を感じてしまうルッチーアであった。
244
ルッチーアは円奈を客室にねかせ、毛布をかけてやった。
そして自分は一階の酒場に戻り、また、ビールを飲んだ。
まさかもどってくることもないだろうな…なんて思いながら、期待しないでジョッキのビールを飲んでいると。
男たちが、もどってきた。
「たのもう!あほんだら魔法使いのルッチーアあ!」
騎兵団の男どもはやけくそになって叫び、驚いた顔してみあげるルッチーアのテーブルに、金貨百枚を宝箱に入れてドンとテーブルにたたきつけた。
「…えっ?」
ルッチーア、仰天。目を大きく見張り、黒一色になった。
「本当に借りてきたの?」
「ああそーだ!」
男たち、もう何もかも投げやりであった。「俺たちの装備品、すべて担保にしてきた!そして借り入れてきたぞ、金貨50枚!これで100枚だ。疑うならたしかめな。だが、明日、笑うのは俺たちだ。てめーらが裸になるんだよ」
「まさか本当に借りてきたのかこりゃまいったなあ…」
ルッチーア、頭を悩ます。
だが、これではひけまい。
「まあ、うけてたつよ。金利って、どれくらいだった?」
ルッチーアは純粋に興味があって、たずねてみた。
すると、男は胸張って答えた。
「一ヶ月六割だ!」
ルッチーアは内心きょどりながらも、頷いた。「そりゃあ、たまげた金利だね」
心うち、男たちに同情した。
「なに、どうせ、てめーらが負けるから、かまわねえけどよ。」
男たちは、あくまで胸を張って堂々としている。
ある意味、すべてを失う未来がみえているとき、人間はこうも堂々とできるのかもしれない。
「たしかに見届けた。じゃあ、明日ね」
ルッチーアは自分まで内心ひやひやしながらも、それを隠して、余裕な口ぶりで答えた。
「楽しみだよ」
「ああ、まったく、明日が楽しみだよ!」
男たちもニタニタ笑いながら言った。
でも内心ひやひやしていて、冷や汗を隠すのに必死だった。
つまりルッチーアも騎兵団も、気持ちではまったく同じだった。
できれば賭け事なんかなくなって、もう何事もなかった頃にもどりたい、であった。
でも互いにそれができない。
もうやめよう、が言い出せない状況。
ああ、博打とは、恐ろしいものだ。
「じゃあ明日のジョストでまた会おう」
男はビッとルッチーアを指さし、彼女に告げると、宝箱を持って、三人とも酒場の店を去った。
ルッチーアはしばしそのまま自分のテーブル席にすわっていたが、やがてぶるぶる身体を奮わせだした。
「金貨100枚…まけたらどうするのさ…」
自分には到底払えない。
なのにまけたら?
こんどは自分が高利貸しに借りる?100枚も?
恐ろしい予感にぶるっと肩を震わす。
「ああまずい、明日のジョスト…ジョスリーンが落馬したら、わたしそのまま失神して円環の理に導かれていっちまいそうだよ」
ぶつぶつぶつ呟きだす魔法少女。
何人かの常連客たちがそれを見つめていた。
「うん?」
そのなかにひとつ、ただならぬ視線あることにルッチーアは今ごろきづく。
左手の指輪が鈍い灰色の光を放ち、反応している。
それは、魔獣に対するそれではない。
「この店に、魔法少女は一人じゃないってことか」
ルッチーアはさっと店内を見回す。
酒場の隅っこ、一番光のないところに、黒いふわふわの獣皮を肩に巻いた、鋭い赤い目をした少女が、フードをかぶって、こちらを見つめていた。
赤い目の少女は、フードに顔を隠していて、口元だけがやっとみえる暗がりにいた。
蝋燭の火にあたりながら、グラスのワインを手に持っている。
「ふーん」
ルッチーアは鼻をならして、自分のテーブルに向き直ると、店主をよぶ。
「マスター、あのコウモリみたいな目をしたあいつ、誰だい?」
店主は赤い目をした、ふかふかの黒い獣皮を纏う少女をみた。
「ああ、ここ最近、エドレスの都市のあちこちで見かけられてるんですよ。いつも酒場の隅のほうで、誰と話すこともなく、酒場に佇んでるっていうね。」
店主が顔をルッチーアの耳に近づけると、手を口に寄せ、そっと小声で耳打ちしてつけ加えた。
「我々は”さすらい魔女”と呼んでいます」
「さすらい魔女?」
ルッチーアは訝しげに目を細める。「都市に住んでるやつじゃないんだね……まあいいか」
席をたち、新たに頼んだビールのぶんの銀貨を店主に渡し、店をでる。
ルッチーアは夜の街路へと出て、自分の家へと戻る。
エドレスの都市はまわりをぐるり、市壁に囲まれている城のような城郭都市なので、帰路は短い。城壁に囲まれた都市のなかを歩くだけ。
ちょうどそのころ、宿屋では円奈が、目をこすって、ベッドのなかで目を覚ましていた。
245
ルッチーアは家に帰った。
とはいえ、まさかあの修羅の母親に、金貨100枚を賭けたギャンブルに挑んだなんて話せない。
家を閉められないうちにぱぱっと扉から入り、家にあがった。
「ルッチーア、もどったね」
しかし母親にさっそくみつかった。
「魔獣狩りとやらはしたのか?」
「うん、したよ。そして銀貨25枚あるよ」
ルッチーアは答えた。その表情は澄ましていた。
「そうかい、じゃあ渡しな」
母親はさも当たり前、というように手を差し出してくる。
いつものルッチーアなら渡していた。
けれども、今日だけは、もうそんな気持ちにはなれなかった。
「母さん」
ルッチーアは一言、小さく、母親を呼ぶ。
「どうした?」
母親は眉を細めた。娘をみる不審な顔つき。「リッチーネには、いいお嫁さんになってもらわないといけない。銀貨をよこしな」
「私の銀貨は、わたしのもんだ」
勇気をだして、ルッチーアは言い切った。
「私は魔獣って化け物を都市から追い払った。その対価として受け取った報酬なんだ。私は私でこの銀貨25枚を使う」
本当は、その銀貨の大半が、明日の大博打のために張られて円奈の手元にあるのだが、そんな事実は話せない。
でも、自分の力で手に取ったこの銀貨は、自分で使いたい。それは本当の気持ちだった。
しかしこれが、ルッチーアに、大きな転機をもたらすのであった。
「なんだって?」
母親はしわがれた声をだし、娘をにらみつけた。信じられないというような目で娘を見つめ、それから、叫び始めた。
「だれのおかげで食べられると思っているんだ?だれのおかげで寝るところがあると思ってるんだ? ああ?ふざけたこといってんじゃないよ、あんたが生きていけるのは、わたしがいるからさ」
ルッチーアは無視する。
「出来損ないの娘め!」
母親は娘にむかって金切り声で叫び、糾弾する。
「あんたなんか産まなきゃよかったんだ!私ら家族のことは考えもしないで、一人魔法少女だなんだって正義の味方ごっこしやがって、ただの一銭も家族に落しもしないで!恩知らずめ、あんたなんか娘じゃないよ!」
「あんたこそ私のことなんか全然考えてくれちゃいないじやないか!」
ルッチーアも叫び返した。
もうその目に涙がたまっていた。
リッチーネが、母と姉の口論を見物しに、さっそく二階から降りてきた。
「わたしを金稼ぎの道具みたいに考えてばっかりで、私がどんな思いで魔法少女してるのかもしらないで! あんたこそ、私の母親なんかじゃないよ!」
「ふざけやがって!」
母親は怒りで顔を真っ赤にし、憤激して、エプロンを破けそうになるくらい握りしめ、狂ったように絶叫した。
「でてけ!勘当だ!二度と家にもどってくるなバカ娘!とんじめ!産み落としたクソが!」
母親の激しい罵倒と謗言が浴びせられるなか、ルッチーアはぼろい木造の家のなかをあるき、扉へむかった。
「わかったもう二度とここにはもどってこないよ!そうとも!二度ともどってくるもんか!」
逆上しながら扉をあけ、荷物なにひとつ持たないで、外へ飛び出した。
「あとで泣いて帰ってきたって入れやしないぞ!」
母親はルッチーアが本当に視界から消えてしまうので叫びづつける。
ルッチーアはダン扉を閉じた。
そしてカタカタカタ…と足音たてながら、人気のない夜の都市へと歩きだしていった。
ほんとうに長女の姿がきえてしまうと、頭にのぼった血が冷めてきたのか、母親は不安そうに呟き始めた。
「ル、ルッチーア?」
母親は娘の消えた扉にむかって名を呼ぶ。「本当に、もう帰ってこないのかい?」
返事はない。
母親は顔を青ざめさせて、自分のしてしまったことに気づき、リッチーネを抱きしめた。
「ああ、リッチーネ。ルッチーアは、かえってくるよね?そう思うかい?」
「お母さん、きっと帰ってくるわ。」
母親の抱擁のなかで、妹は答えた。「それも、たくさんのお金をもって、帰ってくるわ。」
「そうかいならいいんだ」
母親はリッチーネの頭を撫でた。
「いい子だね」
妹の予言は、半分までは当たっていた。
246
鹿目円奈は酒場の二階、宿屋の客室で目を覚ましていた。
蝋燭に火を灯し、テーブルに馬上競技の騎士参加者名簿をひろげ、その羊皮紙を睨みながら、紋章と騎士の名前の総復習をする。
なにかこの酒場にきてから、とんでもない約束事をしてしまったような記憶があるが、あまり覚えてない。
ただ、とんでもなく頭がふらふらして、くらくらして、どうしようもなく世界が回り続けていたことだけは覚えている。
その間になんか自分がいろいろ喋っていた────自分でも信じられないくらい────とにかく喋りまくっていたような気もするけれど、その記憶がない。どうしても思い出せない。
それに、たぶん、ちゃんと明日の対戦相手の紋章と名前を覚えることのほうが、よっぽど大切だろう。
「ディーテル家、アンフェル家」
この辺りが紛らわしい。
ディーテル家とアンフェル家は、どちらも赤色ベースに白という色の組み合わせで、間違えやすい。
ただディーテル家は赤色に白のV字、アンフェル家は赤色に白の十字、というちがいだ。
「あと、フーレンツォレルン」
円奈は、復習する。
鷲が横向きになっているのがフーレンツォレルン家の紋章。鷲がこっち向いているのがベルトルトーイライヒェナウ家。円奈は今日ここを間違えてしまった。
ついでいえば、ウルリック・フォン・エクター卿の紋章は、鷲は鷲でも、鷲が三匹描かれている。
他にも銀色の月が描かれた紋章とか、海を描いた青色の紋章やら、太陽に顔があって笑っている紋章やら、いろいろあるが、そのあたりは分かりやすくて、間違えないだろう。
「はあ…そろそろ寝ようかな」
ふうと息をつき、蝋燭の火を手の平で消そうとしたら。
コンコンコン。
扉を叩く音がした。
「はあい?」
円奈が扉に掛ける鉄の閂をとってあける。
「どなたですか……え?」
そこには、円奈のよくしる少女がいた。
「邪魔するよ」
黒髪の少女は部屋に上がりこんでくるや、腰に手をあて、振り返って円奈をみた。
肩まで伸びた黒い艶やかな髪がゆれた。
「今日はわたしもここで寝る」
「どどど…どーして?ルッチーアちゃん!」
いきなり部屋にあがりこんできた魔法少女の名を円奈は呼ぶ。
「宿代は……」
「それならもう払ってきたさ」
ルッチーアは言い、部屋を見回した。「寝心地がよさそうな部屋だねえ。北にむいているし」
「でも、家は?」
円奈が心配そうにたずねると、ルッチーアは、顔を赤くさせて怒った。
「家なんかもうない!」
と、大きな声で叫ぶのだった。
「私にはな、帰る家がないんだ。冗談でいってない。本当にいってるんだ。だから今日はあんたと寝る」
「は…はあ…?」
円奈は、訳が分からないという顔をしている。
「寝床が一つしかないぞ」
部屋を見回したルッチーアが不満そうに文句を漏らすと。
「一人部屋だもん」
円奈は冷静に指摘した。
「部屋を別にすれば?」
「いいんだよ」
ルッチーアは円奈から目を逸らした。
「わたしはここで寝るって決めたんだ」
「いや、だから、ね?寝床がひとつしかないから…」
「うるさいなあ、いいだろお!二人でそこで寝れば!」
ルッチーアは大きな声で円奈の声を遮った。
「わたしがそんなに嫌か!」
「いや、嫌なんて思ってないけど……」
「なら、ここで寝るからな、私は」
といって、ルッチーアは勝手にもう寝床を独占して、そこの毛布にくるまった。
円奈はすっかり困り果てた。
一つしかない寝床を魔法少女に独占されて、どう寝たらいいのか分からなくなってしまったのだった。
とほほとため息ついていると、寝床についたルッチーアが、がばっといきり起き上がった。
「お、おい、勘違いするなよ!」
ルッチーアは毛布にくるまった身を起こして、円奈をみると、言うのだった。
「わたしは別に、寂しくなったからって、あんたのところに来たわけじゃない。この部屋が北向きで、いちばん寝心地がいい部屋だからだ。知ってるか?北向きに寝るのが、一番よく眠れるんだ。人間の身体に流れる血の流れってやつと、地上の磁場がそぐうからだよ」
と、この時代における迷信の一つを披露して、また、毛布にくるまって寝た。
さっきとは違い顔までぜんぶ毛布にかぶせて寝た。顔を覆い隠すみたいに。
円奈はわけがわからなかったが、とりあえず北向きに寝るのがいいということだけは分かった。
478 : 以下、名... - 2014/08/15 02:08:48.94 Z1VqBb360 1315/3130今日はここまで。
次回、第32話「馬上槍試合大会・四日目」
第32話「馬上槍試合大会・四日目」
247
その翌日、ルッチーアは円奈とともに、ホーレンツォレルン卿との対決を見守っていた。
「いいかい」
ルッチーアは女騎士のジョスリーンに、再三念押しする。
「大金がかかってるんだ。絶対に負けないでくれ。絶対だ。なんならいますぐここであんたが魔法少女になって、勝ちたいって願って契約してもいいよ」
「バカなこというな」
女騎士は兜を着込み、両手で兜もって向きを調整すると、バンドを首元でとめる。
槍をもち、相手騎士と対峙する。
「大金がかかってるってなんだ?なにがあった?」
「まあ、簡単にいうと、あいつの首には金貨100枚の賞金がかかってるってことさ」
ルッチーアがいうと、隣の円奈も、必死にうんうんとうなづく。
「だから、殺すつもりでたのむよ」
「まあ、負けるつもりはないが…」
ジョスリーンは困ったように言いながら槍をしっかり握る。
「さて、いくか」
「たのんだよ!落馬しないでよ!」
ルッチーアは叫ぶ。隣で円奈もうんうんうんと首を三回縦にふって頷く。
「まけないでくださいっ!ジョスリーンさん!」
「なんたかいつもにまして激烈な応援だな。まあその気持ち、受け取ろう」
ジョスリーンは馬を進ませる。
審判が合図旗をだし、そしてふりあげる。
「ほおっ!」
掛け声あげ、馬を走らせだすジョスリーン…ゆれる金色の髪…ゆれる女騎士の体…ゆれる槍。
「槍を留め金にかけちまえ!」
ルッチーアがジョスリーンを激励する。「それで相手を刺し殺せ!」
「槍を固定してえ!」
円奈も目をぎゅっと閉じてめいっぱいに叫んでいる。
「うおおおおっ!」
女騎士は、槍を前へ伸ばし、しっかり前へむけて、フーレンツォレルン卿へ。
…が!
槍先は空ぶる。狙いがずれ、仕留めそこね、次の瞬間には。
ドゴォッ───ッ!!!
バココ!バキ!
相手騎士の激しい突きが命中する。
それは急所、左肩にあたった。敵の伸ばした槍が直撃すると、バラバラに砕け、飛び散る。
ジョスリーンは馬上で大きくぐらつき、バランスを失い、槍を手放してしまった。
あわてて手綱を両手に握ろうとしたが、その判断がまちがい。
右へと大きく体がぐらつき、ジョスリーンの体は落ち始める。
おおおおおおっ!!
この急展開に観客が沸き立つ。
「おおおおおいおいおい、冗談だろ?」
ルッチーアの顔が凍る。
「持ち直してえ!」
円奈も両手の指を絡めて、祈りように叫んでいる。
が、その思いもむなしく……。
槍の破片が砕け散り、飛び散るなか、ジョスリーンは右へと体を傾けてゆき、その角度をどんどん深めて、ぐにゃっと体を横向きに倒してゆき、耐え切れなくなって、馬から落ちた。
ドダダッ。
女騎士の体がうつ伏せに落ち、地面で跳ねる。
長い金色の髪が地面にひっつく。そして、ガタっと大きな甲冑の重たい音たてて、みっともなく地面にころげた。
おおおおおおっ。
観客席で、雄たけびがあがる。
善戦を演じた女の騎士も、とうとう敗れたのだった。
フーレンツォレルン卿が勝ち誇ったように槍を折れたふりあげ、自分の勝利姿をアピールしている。
観客席からのどよめき声に包まれる。
「0-3でアダマー・フーレンツォレルン卿の勝利!」
審判が旗を左にあげる。
「うわああああっ!」
ルッチーア、悶絶。「破産だああああ!」
「あああああっ?」
ルッチーアは宿屋の寝床で飛び起きた。
悲鳴あげながら。
「はっ!?」
きづくとそこは、宿屋の客室で、まだ夜だった。
「心配しすぎて嫌な夢みた…」
ふうと額を腕でぬぐう。冷や汗だらけだった。
部屋を見回すと、もう蝋燭も燃え尽きていて、真っ暗だ。窓の外もなかもみえない。
部屋は冷えていて、物音ひとつしない。
「現実味がありすぎるぞ今の夢……」
からだじゅうが冷たい。さむけがする。ぶるぶると。
「はあ…正夢にならないことを祈るばかりだよ」
毛布をまくって、立とうとしたら。
首にひっかかるものがあった。
「ん…?」
首筋を流れる妙にくすぐったくて、やわらかな感触のするものは。
いつのまにか隣で眠る少女の腕だった。
寝床が一つしかないから、二人一緒になって眠っているのだった。
「人の寝床に夜な夜な入り込んできやがってまったく」
ルッチーアは、まったく人のことをいえない文句を呟いて、頭を横にしてまた眠る。
「うっとおしいな」
首筋に絡まった円奈の腕をとろうとする。
円奈の指同士が絡まっているので、それ指同士を切り離そうとする。
するとルッチーアの背中に密着してひっついて寝息たてる円奈が、苦しそうに眉をひそめ、呻いた。
「いやだ…いかないで…椎奈さまっ…」
「椎奈さまってだれだよっ」
ルッチーアは円奈の腕を解こうとする。「誰の夢みてるんだ?」
「いかないでっ…」
目を閉じながら囁く円奈の目に粒がたまって、溢れてくる。「わたしを一人にしないで…」
「あのな私は椎奈ってやつじゃないんだよ」
ルッチーアは言うが、寝言を囁く円奈の耳に入らない。
「私を連れてって…」
円奈は、目を閉じたまま、夢のなかで囁きつづけるのだった。「神の国に…連れてって…」
「神の国だとお?」
ルッチーアは振り向いて円奈をみた。
目の前の円奈の顔があった。
円奈の頬を涙の筋が伝っていた。
「そういえば聖地にいくっていってたな…人間のくせして聖地に巡礼する気か」
ルッチーアは、円奈の旅の目的を、初めて知るのだった。
「聖地、かあ…」
ルッチーアは天井をみつめて思い描く。心地よさそうに、目を閉じる。
「わたしは修道院出禁だけど…聖地ってどんなところなんだろうなあ」
そこは、円環の理が誕生した場所。
全ての魔法少女の魂を救済する場所。
魔法少女の、すべての因果を受けとめる国。
円環の理に導かれ、やがて辿り着く魔法少女の天国がある国。”天の御国”。
ルッチーアは目を開いて現実にもどる。
まだ、鹿目円奈に背中を密着されたままだった。
首筋に絡まる腕を解こうとしたが。
「…まあ、いいや…」
ルッチーアは諦めて、円奈に抱きとめられるままに眠りにおちた。
248
次の日の朝は、円奈の叫びによってはじまった。
「ええっー!」
口をあんぐり開けている。「ひゃ…100枚っ!?」
「そう。金貨百枚」
ルッチーアはうんと頷く。
「私とあんたの全財産。そのうち99枚の金貨はあんたのだけど…」
朝になってルッチーアは、鹿目円奈に、二人で金貨100枚という破格の賭け事に受けて立つ羽目になったいきさつを説明していた。
円奈は自分がその賭け事を倍にして挑んだ記憶がまったくなかった。
「ちょっ…ちょっちょっまってわたしそんなの聞いてない!」
円奈が慌てふためき、金貨袋をチュニックから取り出す。
慌てて中身を確認する。
「いや、まだ取られてないさ。失くすとしたらこれからだ」
ルッチーアが指摘していうと。
「昨日私になにかした!?」
円奈はまず、ルッチーアを疑った。「昨日、わたしが寝ちゃったときに、勝手に……」
険しくピンク色の目を細めて、魔法少女を見る。
「まってよそれはないでしょ!」
ルッチーアは怒った。両手を広げて自分の潔白を示す。「わたしはなにもしてないさ。あんたが、ちまい賭けはいらないっていって……賭け金にした。そして今日の朝になる」
「そんな覚えないよお…」
うううと悶絶をはじめてしまう。「どうしよう…この都市をでれなくなる…」
ルッチーアは一瞬、眉ひそめたが、その不機嫌な顔を隠した。
「勝てば大丈夫さ、ジョスリーンが勝てばいいんだ」
ルッチーアはいうと、宿屋の客室を歩いて、二階の窓から外の街路を見下ろした。
すでに都市の人々が激しく行き来し、噴水の横を通り過ぎ、路地へ進んで、馬上競技場へむかっている。
レンガ造りの街路を渡り歩く人々。
切り妻壁をした宿屋の窓からそれを見下ろしたルッチーアは、円奈に身支度を促す。
宿屋の屋根は、木造の柱が、急勾配な斜め向きに組み立ってる洋小屋の木造だ。
「びびってるひまはないぜ、競技場にいこうじゃないか」
と、魔法少女は告げる。
「”賽は投げられた”ってやつさ、もういくしかないよ。私も紋章官をするからさ」
「もう二度とお酒なんて飲まない」
円奈は口からぼやきを呟きながら、髪を持参の櫛で整える。
「あんな苦くて、気づいたら賭け事なんかしゃちゃってる、へんな飲み物……」
なんて文句いってる円奈も、この先に、王都の城下町に辿り着いたときは、たくさんまた、お酒を飲むハメとなる。
城下町のギルド議会の娘たちの恋話の嵐の渦中にて。
それから、リンネルの下着を替えて、赤いリボンを髪に結びなおした。
ルッチーアがその赤いリボンに目を留めた。
魔法少女の興味の視線がそこへいく。円奈の髪へ。
「そのリボンはなんだ?」
と、ルッチーアはたずねた。
「これは、大切な人から…」
円奈は答えながら、一本の赤いリボンを結び、ポニーテールの髪型にする。
「受け取って…」
「椎奈さまってやつかい?」
ルッチーアが訊くと。
円奈は、驚いた顔して目を大きくさせる。
「どうしてその名前を?」
ルッチーアは首を横向きにして円奈から目を逸らすと、ぼそっと言った。
「きのう、わたしのことをずっとそう呼びながら、あんたは寝てた」
「え……ええっ?」
円奈は一瞬きょとんとし、表情が固まって、やがて恥ずかしそうに俯いた。
「ご……ごめんね…」
「いや…別にいいけどさ…」
なんか微妙な雰囲気が二人に流れる。
「で、その椎奈さまってのは?」
ルッチーアがきいてくる。
「私が生まれ育った農村の領主だったの……」
円奈は話した。「私を騎士にしてくれて……」
「なるほど、騎士の称号を授かったわけね」
ルッチーアは分かった、というような顔して、頷く。
「で、それにはなんの意味が?」
赤いリボンを指差して、またたずねる。
「私が聖地に無事辿りつけるようにって…そういうお守りみたいなものだって」
円奈はリンネルの下着を替えたあと、チュニックを着込んだ。下から持ち上げ、袖に腕を通して着込む。
「ふーん…そっか」
ルッチーアは赤いリボンに興味津々といった様子だったが、そこまで円奈が答えてくれると納得して、赤いリボンから目を離した。
「無事、聖地に辿り着けるといいね。私の代わりに円環の理様に挨拶しておくれね」
と言葉を漏らし、円奈と一緒に、都市の街路へとでた。
四日目の馬上槍競技場へと。
アデル・ジョスリーン卿のジョスト五回戦目へと!
優勝までは7回戦あるから、この五回戦を勝ち進めたら、準決勝進出となる。
249
二人は身支度を整え、エドレス都市を歩く。
街路を歩き、広場へとでる。市庁舎の鐘がガラーンゴーンと鳴り渡るなか、盛り上がりをみせる市場のベンチに並べ立てられるさまざまな家禽類、卵、ワイン樽、異国の地からの果物などが売られているなか、馬上競技場へと一直線にむかう。
「なあ、買ったりするなよ?」
ルッチーアは円奈に念押しする。
「たったの一枚の銀貨も足りちゃいけないんだから」
「わ、わかってるってば!」
視線が市場の果物類に奪われていた円奈が慌てて答え、頬を膨らませる。
二人は広場を通り抜け、ごまごました狭苦しい酒場の立ち並ぶ街路へ。
臨時的に建てられた鍛冶職人の修理場が混在したりしていて、余計ごまごましている。
ジョストや剣試合、フレイル試合にのぞむ騎士たちが、度重なる試合の連続で傷ついた甲冑を鍛冶屋になおしてもらってる。
木材を焚いた火で焼かれ、ふいごで空気をふかれ、真っ赤にやける剣やら鎧の各部が、カンカンカンと叩かれ続けている。
さらにそこを、酒場へ持ち運ぶ運搬屋の荷車が、大量の樽を搭載して行き来する。
とてつもない人ごみだ。
たまに騎士と運搬屋がぶつかって、荷車からごろごろごろとワイン樽の列が落っこちる。
すると運搬屋は騎士に怒鳴り散らす。
騎士は逆上して、運搬屋に剣を突きつける。
喉元に剣をつきつけられた運搬屋は、両手をあげて降参の意をしめす。
「昨日、嫌な夢をみたんだ」
そんなごみごみした街路を急いで進みながら、ルッチーアは語った。
「金貨100枚を失う夢さ。いや、わたしの場合、もとからないから失うというより、借り入れだけど…」
「ジョスリーンさんが負けたってこと?」
円奈もルッチーアに負けないくらいの早足で、急いで魔法少女のあとを追って話をする。
「うん、そりゃあもうハデに落馬してさ、嫌な汗かいた。もっと早くに起きていれば浴場にいってたね」
ルッチーアはいいながら競技場の前へときた。
黒髪の魔法少女とピンク色の髪の少女。
この二人の組み合わせは都市ではすっかり有名だった。
無茶振りを披露してみせた二人の紋章官姉妹。
それが都市での二人の知られ方であった。
「おうおうおう、名物紋章官姉妹!」
すでに酒でできあがっている見物客の男たちが、からかってくる。
「今日は読み間違えるなよ!」
「余計なお世話ですっ!」
円奈は男に叫び返した。そしてつっぱねた。
「あんたらが登場すると、騎士のジョストというよりあんたらの説明が”本番”だ」
別の女も絡んで、声をかけてくる。とんとんとんと肩を叩いてくる。
都市の人々は、スキンシップが激しい。
「こっちはひやひやどきどき、聞くはめになるからねえ」
「うるさいなあ、もう!」
円奈が女の手を肩から振り払って、怒りっぽい声をあげると。
「私たち、すっかり人気者だねえ?」
ルッチーアは呑気なことをいった。
そして二人は揃って、馬上競技場の入り口へ。
木造建築の長細い劇場。この中には競技場のフィールドがある。
「今日、ここで金貨100枚が動く」
とルッチーアは呟き、息をのんだ。
「さあて……我らが女騎士様はどこだあ?」
あちこち見回す。
「あ…」
円奈が先に、ジョスリーンを見つけた。「あそこ…」
指をゆっくりと伸ばす。
「ふん?」
目の上の額に手の平かざして、日差しを防ぎながら目を細めると。
「ああいた」
と呟いた。
そして円奈の背中をトンと叩いた。「いこうよ、円奈」
「うん」
二人は一緒に足揃えてジョスリーンの背後へと近づく。
するとおかしな様子にきづいた。
「ん?」
「あれ?」
二人同時に声をあげる。
二人が見つめる背中は間違いなくジョスリーンの後姿だった。
甲冑姿で、腰まである金髪をさらさら、風に受け流し、美しくなびかせる女騎士の姿だった。
しかしその女騎士の声は、いま、はげしくて、目の前の男と口論している最中だった。
「だから、昨日のことはしょうがなかったんだ!」
よく知るジョスリーンの声は、怒っている。「なにも勝手に棄権にするなんて!納得できん!」
「だがきみは昨日、”剣試合”の第四戦目をすっぽかした。試合にこなかったのだ。相手のシュペー卿の不戦勝としたまでだ」
「ちがうすっぽかしたわけじゃない!たまたま昨日はジョストの第四戦と時間が重なっただけだ!」
ジョスリーンは叫んで、相手に強く抗議している。
口論の相手は、剣試合の審判のようだ。
「私に体二つになれと?ジョスト試合にいっている最中に剣試合はいけないだろう。だから、しょうがなかったんだ!」
「だが不戦敗は不戦敗だ。きみは試合にこなかった」
審判は冷たく言い放つ。腕組んだまま、女騎士を見下ろし、言い切る。
「試合にこなかった以上は、棄権処分とするほかない」
「ジョストが終わったらすぐその事情を説明するつもりだった。だが昨日はいろいろあって…」
「忘れた?」
審判がその続きを自分の言葉で告げる。
「それは、棄権と同じだ」
「ちがう、私に戦う意志はある!シュペー卿と話させてくれ今日再戦する!」
ジョスリーンは懸命に抗議しつづける。
「そもそも、ジョストの第四戦と剣試合の第四戦の時間がぱっちり重なるように試合を組むきみらにも責任はないか?どちらか片方を捨てざるをえなくなる!こんなの不平だ!私に異議申し立ての権利はある!」
「昨日まではね」
審判は女騎士の主張を受け付けない。
「だが今日は無理だ。きみは剣試合を第三回戦まで勝ち進み、四回戦目で棄権した。そういう処理で決定したのだ」
「そんなのみとめん!みとめられんぞ!」
ジョスリーンはとうとう怒って、甲冑の兜をダーンと地面に叩きつけてしまった。
「融通のきかん、めんどくさがりの、無責任な審判め!」
不平不満を大声で張り上げながら貴婦人の女騎士は踵を返し、馬上槍競技場のほうへ向きを変える。
するとそこで円奈たちとばったり目があった。
トンと女騎士は足をとめる。
「悪い知らせだ、不当な扱いを受けて剣試合を棄権させられた」
ジョスリーンは、地面に落とした兜を拾った。
ぱっぱとついた泥をはらうと、それを脇に挟みこんで持つ。
「まったく腹がたつ!」
イライラとぼやく。
「そうかい、あっちでもこっちでも問題が起こっているんだね」
ルッチーアがいうと、ジョスリーンは不思議そうにこちらを見てきた。
翠眼が二人の紋章官を見据える。
「あっちこっち?」
「ああいや…こっちの話さ」
黒髪の魔法少女は笑ってごまかす。「まあとにかく、ジョストは進めるんだろ?」
「まあそうだが…次で五回戦だ」
ジョスリーンは答える。「今は、メッツリン卿とムルファトナール卿が対決している。その次は私たちの番だ…ん?」
彼女は目を凝らして二人を見る。
「なんか、様子が変じゃないか?」
「そんなことないさ…ねえ?」
ルッチーアは円奈の肩をたたく。
「うん…別になにもないよ…」
円奈も笑う。
「まあとにかく、勝ってよ」
ルッチーアが言う。「勝って六回戦まで勝ち進んでおくれ」
「まあいわれなくてもそのつもりだが…」
女騎士は鼻で息をつく。「メッツリン卿の対戦を見学しよう」
といって、二人の間を割って、槍競技場へと先にむかう。
ルッチーアと円奈の二人はまた顔を見合わせて、しばらくにらみ合ったあと、女騎士をおいかけた。
250
会場ではメッツリン卿がムルファトナール卿と対決しているところであった。
観客の熱狂が包み込むなか、メッツリン卿の槍がムルファトナール卿の顔面に直撃する。
槍の破片が無数に飛び散り、ムルファトナール卿は馬上でぐらっと体勢をゆるがせ、そのまま気絶してしまった。
ぐでーっと頭を垂れて馬にゆさぶられるまま、ジョストを走りきる気絶した騎士。
バランス失って馬の背からドサッと身を落とした。
フィールドの地面へ突っ伏して倒れる。甲冑の重たい音が地面に響く。
従者たちがあわてて、意識のない騎士を助け起こした。
「2-0でメッツリン卿の勝利!」
審判が白旗を右に掲げながら宣言する。
おおおおお。
わああああああっ。
観客席からの歓声と拍手。
メッツリン卿が折れた槍を上に掲げ、ポーズをとっている頃。
次のジョストに出場することになるジョスリーンは馬にのり、出撃準備をしていた。
「さすがにジョストも五回戦にもなるとまるで殺し合いだな…」
女騎士は胸を撫で下ろしていた。
メッツリン卿の槍が相手騎士を気絶させる場面を目の当たりにして、不安そうに呟くのだった。
「ああ、殺し合いだよ、そりゃあもう…私らの命かかってるんだから…」
ルッチーアも釣られるように呟いた。
するとジョスリーンは、顔を下ろしてルッチーアを見た。「なんだって?」
「いや、こっちの話だよ、うん…」
ルッチーアはジョスリーンから目を逸らした。
「だが、勝っておくれよ。もしここで、あんたが負けたら、私は円環の理に導かれてしまうよ」
「なんだそれは?」
ジョスリーンが馬上で笑う。「魔法少女の冗談はわからん」
「さあ、出番がきたよ」
ルッチーアは告げ、出番がくると、歩を進めて熱狂の沸き立つ会場の入り口へ進んだ。
「優勝まであと三回だ」
「三回…か」
ジョスリーンは呟き、ふうと息をつくと、ドンと胸を一度たたいて神経研ぎ澄ませてから、会場へと進んだ。
そのあとを円奈が追った。彼女もごくりと喉をならして。
金貨100枚の大勝負だ。
251
二人の紋章官は審判の前にいた。
審判が露骨にいやそうな顔して二人の少女をみる。
「ううう…」
円奈は、それだけでしょげてしまう。
「昨日のことなんか忘れちまいなよ」
ルッチーアはコツンと円奈の頭をたたく。円奈はそれをとても痛がった。
それから黒髪の魔法少女は、審判のほうに向き直って、ニコと笑って持ちかける。
「やあ…どうも…今日も紋章官するからね。昨日もいったとおり、私たち、姉妹で、どちらもジョスリーン卿の侍女なんでね…」
「きみの言葉を借りるなら私とキミも兄弟姉妹だ」
審判が皮肉をいっぱいこめていう。「だが侍女にはなれんな」
「やだなあ審判ったらきつい冗談いう!」
ルッチーアはわざとらしく笑う。「まったくもうったら!それで、相手の騎士はもう到着してるので?」
審判は苦い顔しながら、しぶしぶと頷く。
ルッチーアは相手の騎士をみた。
フーレンツォレルン家の紋章を描いた盾が相手側の入場門に掲げられる。
そして現れた騎士と、それに従う三人の従者。
「でたな、あいつらあ…」
ルッチーアはあの三人を睨む。
騎兵団の三人だ。
そのうちの二人組みが、てくてくてくと足揃えてこっちに歩いてきた。
審判の前に躍り出る。
「アダマー・フーレンツォレルン卿の従者です」
「証明書をみている」
審判はテーブルにおいた羊皮紙に目を通す。「キミらが、ジョアール騎兵団のサイモンとメフィストか?」
「ええ、いかにもです」
あの騎兵団の二人組は胸を張る。「紋章官もします。南方エドレスの反乱を静めたとき、敵味方を見分けました」
「では紹介をしてくれたまえ」
審判は告げた。
騎兵団の二人組みは丁寧にお辞儀した。
もちろんこの二人組みは、昨日の酒場で、ルッチーアたちに賭け事をふっかけてきたあの従者たちのだ。
昨日の敵であり今日の宿敵だ。
ちらりちらりと、何度も互いに視線をぶつけ合わす魔法少女と騎兵団たち。
ピリピリとした電流が流れている。
”絶対まけねえ”
”裸にしてやるよ、覚悟してな”
無言の戦いがすでにそこで始まっていた。
だが戦いの前に紋章官と従者による騎士の紹介が先だ。
まず騎兵団たちのほうから、主人の騎士のことを、説明しはじめた。
「私どもの主人は、輝ける騎士のなかの騎士」
と、騎兵団は、胸を張って、観客席のほうへ、語りはじめる。
「へ、なにが騎士のなかの騎士だ」
ルッチーアが野次を軽く飛ばす。
「傭兵団を率いて────」
騎兵団の男はルッチーアをきっと睨み説明をつづける。
「南方エドレスで”勃起”したエドワード王への反乱を鎮めました」
ぶっ。
ぶっはははは。
観客で沸き起こる笑い声。男も女も笑う。
ルッチーアは顔をしかめて、へっと思い切り相手をバカにするあざける声をたててみせていた。
252
そのころ出撃位置についていたジョスリーンは、メッツリン卿とすれ違いざま、言葉を交わしていた。
絶好調に優勝へと勝ち進んでいるメッツリン卿は、五回戦も勝ち進み、のこり二戦となった余裕を、ジョスリーンにみせつけて笑う。
「私との結婚は考えてくださいましたかな、ジョスリーン卿」
ジョスリーンは答えた。
二人とも、甲冑姿で、馬上に騎乗している。
「その話は何度かお断りしたはずですがね、メッツリン卿」
「あなたの美貌の前では───」
メッツリン卿は顔を朗らかにしていう。「優勝の栄光などかすんでしまいます」
「では私に優勝を譲ってもらえるかね」
貴婦人の女騎士は嫌味をいった。
「ええ。いいでしょう。私との結婚を引き受けてくださるのであれば」
メッツリン卿はすぐに切り返した。余裕の喋りだ。
「できん相談だ。だが優勝も譲れん」
ジョスリーンは首を横にふる。
「相変わらず誇り高き女騎士だ」
メッツリン卿はそんな相手をみてふっと笑う。その笑い方はあくまでにこやか。
「ではこうしませんか」
彼はジョリーンを見つめながら得意そうに笑い、そして。
「もし、私が決勝戦であなたとあたり、一騎打ちとなったら───」
こんな勝負事をふっかけてきた。
「私が勝てば結婚してくださいますか?」
ジョスリーンの険しい目がメッツリン卿を睨む。
つまり一騎打ちして、私が勝てば私と結婚しろという要求であった。
「あなたが勝てばわたしはあなたを諦め───」
メッツリン卿は朗らかな顔をしつつ、話し続ける。
「私はもう貴女には近づきません。いかがです?この勝負。騎士らしい取り決めと思いませんか」
女騎士は考え込んだ。
しばし無言になり、何もいえず、ただただ求婚してくる男を見返すだけ。
「それとも、不満な条件ですかな?」
メッツリン卿はすると、先に喋った。挑発的にふっと笑いかける。
「男と女がジョストで勝負を決するのは、不公平であると?」
「いいだろう」
この挑発にのり、ジョスリーンは勝負を受け入れた。
「その勝負、受けて立とう」
するとメッツリン卿は嬉しそうに歯をみせて微笑んだ。
「あなたなら受けてくださると思っておりましたよ」
馬に一合図くれて、メッツリン卿は馬をすすめ、ジョスリーンの前から去った。
「勝負が楽しみです」
「…」
ジョスリーンは鼻だけならした。
彼女も馬をすすめ、第五回戦に挑むべく会場へとむかう。
「負けるものか。私は騎士になるのだ」
と小声をだし、ジョスリーンは兜の面頬を閉じて五回戦へと出場した。
253
おおおおおおおおっ。
ジョスリーンが第五回戦の会場へ躍り出ると、さっそく会場は大きく盛り上がり、歓声が沸き起こった。
競技場のフィールドは、すでにやりの破片だらけで、ここで行われた激しいジョストの痕跡を伺わせる。
それだけ騎士たちが激しく槍をぶつけあった証拠であり、五回戦にまで生き残った猛者の騎士たちの苛烈なる戦いぶりが、そこに顕れているが如くであった。
円奈とルッチーアの二人がさっそくジョスリーンのもとに駆け寄ってきた。
二人とも足を揃えて同じ速さで駆けつけてくる。
こっちからみると、まるで二人が本当の姉妹にでもなったような錯覚さえ感じる。
「ねえ、たのむから落馬しないでよ!」
まずルッチーアがジョスリーンをみあげつつ言ってきた。
「あいつを殺すつもりでジョストしてくれ!大金がかかってるんだ。絶対に負けないでくれ。絶対だ。なんならいますぐここであんたが魔法少女になって、勝ちたいって願って契約してもいいよ」
「バカなこというな」
女騎士は兜を着込み、両手で兜もって向きを調整すると、バンドを首元でとめる。
槍をもち、相手騎士と対峙する。
「大金がかかってるってなんだ?なにがあった?」
「まあ、簡単にいうと、あいつの首には金貨100枚の賞金がかかってるってことさ」
ルッチーアがいうと、隣の円奈も、必死にうんうんとうなづく。
「だから、殺すつもりでたのむよ」
「まあ、負けるつもりはないが…」
ジョスリーンは困ったように言いながら槍をしっかり握る。
「さて、いくか」
「まけないでくださいっ!ジョスリーンさん!」
円奈も必死になってルッチーアの隣で懸命に応援してくれる。
「なんだかいつもにまして激烈な応援だな。まあその気持ち、受け取ろう」
ジョスリーンは馬を進ませる。
審判が、合図旗もちながらフィールドへでる。
「五回戦!ジョスリーン卿、フーレンツォレルン卿、準備はいいか?」
ジョスリーンもアダマー・フーレンツォレルン卿も、二人同時に槍を上へ持ち上げる。
審判が頷いた。
合図旗がゆっくりと下へ一度降りる。
これが持ち上がれば五回戦開始だ。
「…っ」
円奈が思わずその場で息をのみこんだ。
その隣でルッチーアも顔を硬くしてジョスト開始の瞬間に目が離せないでいる。
そして。
ばさっ。
合図旗が都市の青空を大きく仰ぎ、はためいた。
おおおおおおおっ!!!!
観客席から轟く数百人の市民の声。興奮の渦一色に、競技場が染まる。
五回戦がはじまった!
フーレンツォレルン卿、銀色の甲冑を着込んだ騎士が発進する。
ドダダっ。
素早く馬が走りだし、五回戦の相手騎士は、ここまで勝ち進んできた貫禄をみつせけながら、怏々しく馬を馳せ、槍を前へむける。
「やぁ!」
一方ジョスリーンも馬に駆歩の合図をだした。
鐙で馬の腹をトンと蹴り上げ、すると馬はまず前足大きくふりあげ、ヒヒーンと鳴くと、蹄でフィールドの地面を踏みつけ、四足をだして走り出した。
フィールドを二分する木造の柵のすぐ横を、二人の騎士は槍を前に突き出しつつ馬を進め、勢いをはやめる。
何百人という観客がどよめきをたてて応援の声あげているなか、二人の騎士は互いの距離が縮まるまでのあいだ、槍をしっかり脇に固定し、途中で落っことしたりしないように、しっかり抱えもってバランスを保つ。
この調子でいけば、二人の騎士は正面から柵ごしにすれ違い、激突することになるだろう。
二人とも快調な滑り出し。槍はぐらつかず、馬は着実に速度を速め、ルートをよれたりしない。
柵から離れすぎれば失格だ。
わーわーわー。
おーおーおー。
会場をぐるりと囲った観客席の何百人もの声に包まれ、熱狂が高まるなか、ルッチーアは、声をあげつづけた。
「槍を留め金にかけちまえ!」
と、ルッチーアはジョスリーンに聞こえるかどうかもかまわずに、呼びかけ続ける。「これで刺し殺しちまえ!」
「槍を固定してえ!」
円奈も叫び、そして目をぎゅっと閉じて、手の指同士を絡めて祈るように試合の経過を待った。
ジョスリーンのゆたかな金髪が馬の走行にあわせて激しく上下にゆれる…浮き上がる…昼の晴天の下でなびく…
槍をしっかり前へむけ、フィールド上を突き進む。
上下にゆさぶれるそのタイミングすら読みきって、相手の騎士の顔面を狙う。
いよいよ二人の距離が縮まり、衝突寸前となる。
ますます馬の走るスピードが速くなる。ドダダッ。馬はまっすぐ突っ走る。
「うおおおおっ!」
女騎士は、槍を前へ伸ばし、馬の速さにのせた槍先をフーレンツォレルン卿へ。
突き出す!
…が!
槍先は空ぶる。狙いがずれ、仕留めそこね、次の瞬間には。
ドゴォッ───ッ!!!
バココ!バキ!
激しい相手の突きが命中する。
それは急所、左肩にあたった。
ジョスリーンは馬上で大きくぐらつき、バランスを失い、槍を手放してしまった。
あわてて手綱を両手に握ろうとしたが、その判断がまちがい。
右へと大きく体がぐらつき、ジョスリーンの体は落ち始める。
おおおおおおっ!!
この急展開に観客が沸き立つ。
「おおおおおいおいおい、冗談だろ?」
ルッチーアの顔が凍る。
「持ち直してえ!」
円奈も両手の指を絡めて、祈りように叫んでいる。
が、その思いもむなしく……。
槍の破片が砕け散り、飛び散るなか、ジョスリーンは右へと体を傾けてゆき、その角度をどんどん深めて、ぐにゃっと体を横向きに倒してゆき、落馬寸前となる。
「やめてええええ!」
ルッチーア、思わず絶叫。
「だめええええ!」
円奈も叫び声を会場にあげた。
ジョスリーンはぐでーんと首を仰向けにたらし、すっかり馬上でねころんだ体勢になってしまった。
だが、そのまま、ジョストを走りきった。
落馬はせず。
「0-1でフーレンツォレルン卿の優勢!」
「ふっ…ううう」
とにかく落馬はせず、胸を撫で下ろすルッチーアと円奈の二人。
「死ぬかと思った…ほんとに…」
黒髪の魔法少女は胸に手をあて、弱々しく微笑む。
「賭け事なんてするもんじゃないね…」
「はあああ…」
円奈もため息ついた。「こわすぎるよ……」
ジョスリーンはふらふらしたまま出撃位置にもどってきた。
兜をとる。
その顔は汗だくだった。
「あの騎士、私の上手だ」
女騎士は最初にそう感想を口に漏らした。
「私より強い。間違いなくトーナメントに普段から慣れてる騎士だよ。私の槍を防いだ!」
「防いだって?」
ルッチーアがどきまぎしながら、訊く。
「槍の交差の瞬間、私の攻撃をみきって、邪魔してきたんだ。自分の槍で、わたしの攻撃を逸らしたんだ。私は顔を狙ったが、途中槍先同士がぶつかって、わたしの攻撃は逸らされたんだ。相手の槍が勢いを増し、肩にあたった。あんな技みたことがない。このままじゃ勝ち目はない」
「そ……そんなの困るよ!」
ルッチーアは体をぶるぶる、震わせはじめた。
「なんとしても勝ってよ!」
「もちろん勝ちたいが難しい」
ジョスリーンは答えた。兜をまたかぶり、首のバンドをとめる。
兜のズレを両手で調整する。
「相手に読みきられない攻撃をしなければ」
といって女騎士は、再び出撃位置についた。
「ねえねえ円奈まずいよこれは…」
ルッチーアは円奈の手をとり、握った。
「わたしたち破産しちゃうかもしれないよ」
「そのときはそのときだよ…」
円奈はルッチーアの手を握り返した。その手が震えていたので、円奈は優しく包み込んだ。
「それにわたし、もともと文無しで旅してたし…元にもどるだけだし…」
「気楽なやつだね、あんたは」
ルッチーアはふうと息をつき、いった。
「わたしには返せる金がないってのに」
会場の向かい側では、賭け事をふっかけてきた騎兵団の三人が、相手側の入場門のあたりで、にやにやとこちらを見ていた。
「ジョスリーン卿!フーレンツォレルン卿!準備はいいか?」
二人の騎士は槍を上へ掲げる。
それを確認した審判は合図旗をばさっと晴天に仰がせる。
ジョスト二回戦!
観客は大いに沸き立ち、興奮と熱気も頂点に達した。
歓声の嵐、熱狂と興奮の渦、見物客の煽りと歓声。
すべての声が混ざり、どよめき声となり、ジョスト二回戦ははじまる。
二人の騎士は同時に走り出し、フィールド上をまっすぐに駆け抜け、相手騎士へと突撃する。
騎乗する騎士たちの背中を、高い位置の観客席から、見物客たちが目で追う。
ものすごい速さだ。ちょっと目を離せば視界から消えてしまう。
旗をふりあげ、それぞれの騎士を応援する。ジョスリーン卿を応援する見物客の旗は金色、フーレンツォレルン卿を応援する見物客の旗は緑色。
二つの色の旗が観客席じゅうではためき、ゆれ動く。
怒鳴り声にも近いすさまじい声援の嵐。熱気。
その数百人の見物客が観戦するなか、ジョスリーン卿とフーレンツォレルン卿の槍同士が、また激突。
なんとそれは文字通り槍同士の激突で、槍先と槍先が激突しあって、互いの鎧まで届くことなく二人の槍はへし折れ、折れ曲がった。
バキッ!
ドコココ!
鈍く大きな音がし、馬のすれ違いざま、二人の槍は割れ相打ちとなる。
女騎士の手から槍は手放され、手綱を握って、必死にジョストを走りきる。落馬せず耐えて走りきった。
わあああああああああっ。
ハイレベルな戦いになってきて、観客たちの興奮は高まりっぱなしだった。
「現在、0-1でフーレンツォレルン卿の優勢!」
審判が旗を右向きにあげる。
「三回戦へうつります!」
ジョスリーンはまた、円奈たちのところに戻ってくる。
二人は手を合わせていた。
不安そうな顔で二人はジョスリーンをみあげる。
「私の攻撃が完全に見切られて、かつ弾かれる。こんな相手とは戦ったことがない」
ジョスリーンは告げた。
「どう勝てばいいのか分からない。息がくるしい」
うっうと呻き、鎧の腹の部分、胴甲を叩いたあと、苦しそうに深呼吸する。しかし、ごほごほっとむせた。
馬で走る速度の槍をまともに受けると、人間はしばらく呼吸もできなくなる。
「くそっ…」
ルッチーアは円奈から手を放して、鼻をひくつかせ、さんざんに悔しがった。
というのも、会場の向かい側で、騎兵団の男三人が、にやにやこちらを見て笑っているからだ。
「ん?」
ジョスリーンがルッチーアの視線にきづいて、振り返る。その目が、あの三人の男を捉えた。
「あの従者どもは私たちを挑発しているのか?」
向こう側で笑う相手騎士の従者たちのにやにやに気づいたジョスリーンは訊いた。
「ああ、そうなんだよ」
ルッチーアは答え、それから、ジョスリーンに、ある話をする腹を決めた。
「それはもう、ひどい話でねえ……」
「ひどい話?」
ジョスリーンが顔の向きをルッチーアのほうへ戻す。馬上から不思議そうに見下ろし、首をかしげ、尋ねる。
兜の面頬をかしゃと開けた。「あいつらのことを知っているのか?」
「まあね。魔法少女をしていると、思わず人の心をみることがあってね……本当は口外しちゃいけないんだけど…」
ルッチーアはわざとらしく、向こう側でにやにや笑う騎兵団のほうを睨みつける。
「あの醜い笑いした連中。みたか?あいつらがどんなに心を汚した連中なのか、私は知っているんだ」
「どういうこどだ?」
ジョスリーンがもう一度馬上で振り向いて騎兵団の三人を見やる。男たちはまだニヤニヤ笑っている。
「人の心をみることがあるだって?」
「そう」
ルッチーアはいい、指をたてると、その場を行き来しつつ、語り始めた。
「あの騎士どもがもたらしたその都市への絶望…わたしは一度それと戦った」
「絶望だと?」
ジョスリーンが聞き返してくる。
「そう。絶望だ。魔法少女の敵だ」
ルッチーアは指たてたまま、話をつづけた。
「あの騎士たちと騎兵団たちは、それはもう悪党でね…この都市でも悪をまき散らした」
女騎士が目を細める。
「都市の貧民をあぶり出し、金にこまった連中を高利つけて金を貸し付けて、案の定返せなくなれば財産と土地を没収、略奪婚の繰り返し…やりたい放題で、あの騎士が略奪して娶った女は20人は越えるって話でね。私は魔獣の結界でそれを見てまってね」
「なんだと?」
女騎士の目が、いきなり険しくなった。
「まあそういうやつだから、わたしは負けてほしくない。本当の気持ちさ」
ルッチーアはいう。
「20人も女を妻にして、”お馬さんごっこ”させてるって話だから」
「…」
ジョスリーンは無言になった。
しばらく表情を固くしていたが、やがて決意に満ちたような顔をすると、面頬を閉じた。
怒りに満ちたような顔つきで歯軋りしながら、甲冑兜のバンドを荒っぽく結んだ。
「負けられん!」
とジョスリーンは口にだし、ぎゅっと手を握り締めると、槍をにぎり、馬を歩かせると三回戦へと臨んだ。
さっきまでの二回戦までとはまるで別の雰囲気をだした後姿になった。
金髪をゆらしながら、馬を進めて、出撃位置につくや、ぎりりと歯を噛み、相手を面頬のひさしから睨みつける。
「いまの話ほんと?」
ジョスリーンが勝手に出撃位置にいってしまうと、円奈がそっと、ルッチーアにたずねた。
「いまの話かい?」
するとルッチーアはいたずらっぽく笑って、円奈に耳打ちして答えた。
「私が魔獣の結界でみた光景にかなりの脚色をつけくわえてみた。ちなみに、あの騎士じゃない」
「えー…」
円奈が眉をさげる。そして呆れたように呟いた。「ルッチーアちゃん、ウソはだめだよ…」
「ちがう現実を脚色しただけさ」
ルッチーアは言い返した。それから首だけくいとだして、ジョスリーンのほうを示した。
「あの女だってしていたことさ」
「それはルッチーアちゃんを助けるためなんだよ?」
なんか姉みたいに諭してくる円奈だった。
「ウソはいけません!」
「うるさいな、だまってみてなよ、おかげでジョスリーンは本気になったんだから」
254
審判が合図旗をおろす。
この旗があがるまでの瞬間、ジョスリーンはひたすら相手の騎士を睨みつけていた。
「まけられん」
女の騎士は呟く。自分に言い聞かせるみたいに。「邪道を打ち負かしてやる」
いまでは、向かい側でにやにや笑っている騎兵団三人の醜い笑いも理解できる。
やつらは挑発しているのではない。まして主人の勝利を喜んでいるのでもない。
ただ、汚い手段で土地と女を没収しつづけ、あまつさえジョストとの名誉すら独り占めしようとする邪な思惑に笑っているのだ。
「ゆるせん!」
ジョスリーンは槍を力込めて持ち、ぎゅっと握り締める。
合図旗がはためくと、馬が走り出す。
「やぁ!」
掛け声あげながら馬を走らせ、上向きにしていた槍を降ろしてまっすぐにし、相手にむけ、伸ばす。
ばばはばっ。
槍を前に伸ばしながら馬を駆ける。
相手も槍を伸ばしてきた。
互いの馬が、最後の力をだして走りきる。蹄で地面を蹴り、土を跳ねながら駆ける。
二人の騎士は互いに槍を相手へ向け。
会場のなかを互いに接近しあう。
やがて二人の距離は一気に縮まり。
いままでにないくらいの速度で、馬に乗る二人は衝突、すれ違う。
「うおおおお!!」
ジョスリーンは、槍を伸ばし、相手と激突しながら、雄たけびをあげた。
馬に乗る二人の槍同士が互いに相手を突く。最後の対決。
ドカッ!
バキキキ!
それは同時の激突だった。
騎士同士の間で槍の破片がハデに飛び散る。あたりじゅうに槍の破片が舞い上がる。
フーレンツォレルン卿は大きく仰け反り、晴天をみあげた。
女騎士の伸ばした槍が首という急所に直撃し、バランスを大きく乱したのだ。
あまりに体が仰け反ったので、彼は思わず馬の手綱を力いっぱい引っ張ってしまう。
ヒヒーン!
馬が、強く強く手綱ひっぱられ、ブレーキをかけられ、フィールドの途中でとまった。
大きく足をふりあげ、後脚たちになり、すると馬の背で騎士が後ろへころげた。
「うわ!」
騎士がころげると、馬までやがて、横向きになって倒れ始めた。
馬は300キロある巨体をぐらっと傾け、よろけさせて、競技場の隔て柵に倒れこむ。
すると木造の柵はバキキと軋んで折れ、馬は地べたに横たわった。
騎士は落馬、馬は転倒。
折れた柵の木片が、あたりに散らかった。
決着だ。
「いやったあああああああ!!」
ルッチーアと円奈、二人して大喜び。
「かったあああ!」
ピンク髪の少女と黒髪の魔法少女は手をとりあって喜び、その場で飛びあがった。
何度も何度も飛び跳ねて喜び、主人の勝ちに酔いしれた。
ルッチーアは円奈と一緒に飛び上がりながら、有頂天になって歓喜の声をあげた。
目に涙ためて、飛び上がりつづける。
騎兵団の男たち三人は、顔を蒼白にしながら馬から落ちたになった主人を助け出す。
ジョスリーンは折れた槍をばっと投げ捨て、腕をふりあげる。
おおおおおおおおおっ───!
準決勝進出を果たした女騎士の勇姿を。
観客席の誰もが拍手し、歓声をだし、讃えた。
255
「88…89…」
ルッチーアと円奈の二人は、ジョアール騎兵団の男三人と、再び昨日の酒場で落ち合っていた。
昨日と違うのは、いま円奈たちの前で、賭け事をふっかけてきたあの騎兵団三人は、すっからかんの素っ裸になっている、ということだ。
「90枚…91枚…」
裸の男たちが、死人のように沈んだ顔をしながら、金貨をルッチーアの持つ金貨袋にいれていく。
ルッチーアはその枚数をひとつひとつ声をだして丹念に数え上げていく。
「92枚…93枚…」
暗く沈んだ表情をした全裸の男たち三人が、下に俯きながらまた手の金貨を一枚ぽとっと、金貨袋に落として入れる。
「94枚…」
ルッチーアがまた数え上げる。
騎兵団の男がまた、指に持った金貨を、手放してルッチーアの金貨袋に投げ入れる。
ギン。
金貨が落ち、金属同士のぶつかりあうような音が鳴る。
「95枚…」
ルッチーアはあくまで丁寧に金貨の枚数を数え上げる。
一枚たりともまけるつもりはない。
「96枚…97枚…」
男たちが金貨一枚いれるごとに、丁寧に一枚ずつ数え上げる。
「98枚…99枚…」
裸の男は、無口無表情で、なんともいえない暗い悲愴感を醸し出しながら、100枚目の金貨を、ついにルッチーアの金貨袋に落として入れた。
「100枚!」
ルッチーアは100枚の金貨を数え上げた。
顔に満足が浮かぶ。
金貨袋の紐をしっかりぎゅっと閉じ、それから、裸の男三人と握手した。
「どうもありがとうアダル騎兵団…いや、アゲルだっけ?ジョアールか…いい勝負だったね。ほんとうに。熱い戦いだったよ」
裸の男たちは、無口のまま魔法少女と手を握り合って握手する。というより、される。
男たちの手にはまるで力がこもっていない。意志抜けたように。魔法少女の小さな手に一方的に握られるだけ。
「ほら、どうしたのさ、元気だしなよ」
するとルッチーアは男たち三人の肩を叩いた。
「これで酒でも飲みな」
そう声がけして魔法少女は、金貨を一枚だけ金貨袋から取り出し、ピンと親指で弾いて飛ばした。
宙を舞う一枚の金貨。くるくる回りながら光を反射しつつ、天井へ飛ぶ。
男たち三人が急に息を吹き返したように宙を舞う金貨一枚を奪いあった。
「それじゃあまたどこかでな」
ルッチーアは告げると、男たちに背をむけ、円奈をつれて酒場を去った。
「ディドルディドル!えっさほいさ!そこでお皿とスプーンはおさらばさ!」
と歌を口ずさみながら、酒場を去った。
裸の男たちは、金貨一枚を三人で取り合い、この一枚でどう生き延びるか相談をはじめていた。
256
そのあとルッチーアと円奈の二人は、別の酒場に入り、金貨100枚入りの金貨袋を二つ、テーブルに並べていた。
円奈は嫌がったが、半ば強制的にルッチーアに連れられた。
「信じられない!」
ルッチーアは円奈の目の前で、顔を赤くし、山のように金貨の詰まれた金貨袋の中身を何度も見下ろしながら、高級ワインを注文しまくり。
酒場の高級店へいって、銀貨25枚が要求される、高級ワインを飲みまくり。
「ワインも飲みたいって思っていたんだ。それも、とびきりうまいの」
とルッチーアはいい、幸せそうに笑い、口をぬぐう。
「貧民のたわしには無縁の飲み物が、今じゃいくらでも飲める!奇跡だよ…そうだ、奇跡!」
円奈もワインの入ったグラスを見つめた。
鉛のグラス。
血のように赤いブドウ酒の水面の円奈の顔が映っている。
真っ赤な水面に自分の顔が映る。独特のワインの香りがする。水面が真っ赤なので、自分の顔が血だらけみたいだ。
ところでこのワインは山椒入りワインだった。
この時代の人々は、尋常じゃないくらい、いろんな料理に香辛料を使った。
魚にふりかけるソースにしても、デザート料理の味付けにしても、ことワインにしても。
ワインという飲み物には山椒をいれて楽しんだ。
円奈は、この山椒入りワインの香りは好きだと思った。
でも飲むことに苦手意識が消えないでいた。
「円奈、どうしたのさ、飲まないの?」
ルッチーアは、円奈の顔をのぞいて、そっと訊いてくる。
「私ら二人の勝利が嬉しくないの?」
「いや…嬉しい…けど…」
どちからかというと、嬉しいというより、ほっとした、という気持ちの円奈は、困ったように首をおろして答える。
背中まげて、俯き加減になる。「どうしてもこの飲み物が慣れなくて…」
二人の目の前には鳩と雉のロースト料理がある。
「ねえ、二人で賭け事して、勝ったんだ。私一人だけ喜んでてもむなしいじゃんか」
ルッチーアは山椒入りワインを注いだ鉛グラスを持ち上げる。
「一緒にこの勝ちを分かちあおうよ。ね?さあ、じゃ、乾杯」
「うん…」
困り果てた円奈は、しかし断りきれない。
鉛グラスを持ち上げて、ルッチーアのグラスと当てあった。
カツン…
二人のグラスが音をたてる。
二人一緒にグラスのワインを飲む。山椒入りのスパイスが効いたワインを。
一緒に飲んだルッチーアは楽しそうに笑い、円奈に話かけてきた。
「わたしが魔法少女になったとき、どんな願いをしたか分かる?」
円奈は首を横にふるふる、振った。
「誰でも考えることさ、お金持ちになることだよ!」
楽しそうに笑いながらルッチーアは言う。「奇跡だ、そう、わたしはやっと願いを遂げたんだ…こんな幸せな気持ちはじめてなんだ!」
ルッチーアがあまりに幸せそうに笑っているので、円奈もなんだか釣られて、あはは…と小さく笑ってみせた。
「どうしたのさ円奈、わたしたちがいま持っている金貨が分かるかい?200枚だよ?信じられない大金さ大金持ちだ!」
興奮気味な魔法少女はワインの酔いが回るまま喋りつづけ、周りの視線を集めていることに気づいていない。
「もうなにしようが生きていける!そりゃあもちろん、魔獣狩りはしないといけないだろうけど……もう家なんて知らないし、ギルドの弟子入り口さがしてあちこちまわらなくていいし、自由に生きていける気がする…そう、都市の空気は自由なんだ!」
ルッチーア、豪語しながら、またワインを飲み干す。
かおを赤くして魔法少女は、ブドウ酒を全部ぐいっと飲むと、鉛グラスをテーブルにおく。
「ああ…いい酔いだなあ…」
独り言を呟きながら、遠目になって気分に浸りきる。
「最近、魔法少女になってよかったって思うこと…あまりなかったんだ……でも今日は久々にそう思える日なんだ」
しんみりとそう言葉を口から漏らす。
すると円奈は、小さく顔を俯かせる。
「はあ…」
それからなぜか、ため息を吐く円奈だった。
ルッチーアはそれをみて、むっとする。
眉が釣りあがり、怒った顔になった。
「どうしたのさ円奈?さっきから元気なくしちゃってさ…私と勝ち取った金貨100枚が嬉しくないの?」
「ううんと…だって…」
円奈はちょっとだけルッチーアに怯える。「わたし…金貨200枚も持っても…なにしたらいいのかわからないし…」
「なんだってできるさ!」
ルッチーアはすぐに言う。ガタっとテーブルで身を乗り出し、両手をついた。
「これからは私の好きなように生きる!いままでの鬱憤がたまる日々とはおさらばさ。自由に生きる。魔法少女として…」
「好きなように生きる?」
円奈は不思議そうな顔をして、たずねてくる。「どんなふうに生きるの?」
「どんなふうにっ…て…」
ルッチーアは乗り出した身をまたひっこめてしまう。
顎に手をつけ、天井に目をむける。
「そんなこと…これから考えるさ…」
「帰る家がないって…昨日…」
円奈は、遠慮がちではあるが、しかし、ルッチーアにとって耳に痛いところをつく。
「家には戻らないの?」
「……」
ルッチーアは、不機嫌な顔して目を閉じると、鼻を鳴らした。
「ふん、だ。そうさ、もう家には戻らない」
「…それでいいの?」
円奈のピンク色の瞳は、心配そうに、ルッチーアをまじまじ、見つめている。
「家に戻らなくて…いいの?」
「いいさ、私は締め出されたんだ!母から、おまえなんかいらない、産まなければよかった、っていわれたんだから!」
ルッチーアは大声で怒鳴り、怒った顔を赤くさせ円奈を睨む。
「そんなこと、どうだっていいだろ。金貨200枚があるんだ。私とあんたで、使っていけば、どんな生き方だってできるさ」
「そうかもしれないけど…」
円奈の声は、また遠慮がちになる。
「私は…聖地を目指すよ?」
「ああ…そうだったね」
ルッチーアは鉛グラスにまた口をつける。
すっかり、顔は不機嫌になっていた。眉は釣りあがりっぱなしで、怒った顔をしている。
だが、そんな自分を落ち着かせるように、ふうと深く息をついた。
「ねえ…久々に幸せな日なんだ。楽しい話させてよ……家に戻れなんて、いわないでよ」
途端に落ち込んだ様子になるルッチーア。
円奈も気まずそうに唇を結び、俯いてしまう。
沈黙の空気が二人の間に流れるなか、ルッチーアが先に沈黙を破り、ぼそっと…囁いた。
「今日はさ、久々に…魔法少女になってよかった、って思えた日なんだ。
だから……家に戻れなんて、いわないでよ」
円奈が顔をあげた。
ルッチーアは円奈から目を逸らした。
532 : 以下、名... - 2014/08/21 22:04:22.96 4J4+ts6u0 1365/3130今日はここまで。
次回、第33話「夜警魔法少女」
第33話「夜警魔法少女」
257
その日も円奈とルッチーアは二人で宿屋をとった。
「あうう…」
円奈は、寝静まった都市の窓にむかってあくびする。
「クフィーユ…元気にしてるかな…」
ルッチーアは宿屋の部屋の寝床で、参加者名簿一覧の羊皮紙に目を通している。
円奈が紋章を必死に覚えていたあの羊皮紙だ。
「明日の対戦相手、トマス・コルビル卿じゃないか?」
ルッチーアはんんっと目を細める。「いつか当たると思っていたけどね……さすがに準決勝の相手は強いぞ」
「しっているの?」
円奈が窓から振り向いてルッチーアを見る。
「三日目のジョストを観客席から見ていたんだ」
ルッチーアは羊皮紙をおろし、円奈の顔を見返すと、言った。
「トマス・コルビル卿の試合を見た。ありゃ強いと思うよ。とにかく技が完璧だ。私の隣でみていた市町議員の男の感想だけどね、それは」
「うん……」
円奈は窓際からと部屋の中心にもどって、テーブルの台においた蝋燭の火を手で消した。
ぶっと風の音散らして蝋燭は消えた。
そして部屋は真っ暗になった。
「明日が最終日だよ」
ルッチーアは寝床に寝ろがる。「準決勝と決勝。明日で優勝者が決まる」
明日のジョスリーンの相手はトマス・コルビル卿。
この大会で最も実力をみせ、無敗にも近い戦績をのこしている正体不明の騎士。
エドレス国内ではメッツリン卿が最強の騎士として有名だったが、それにも負けず劣らずのコルビル卿の素性が知れない。
が、その思わぬ素性と正体を、明日、円奈たちは知ることになる。
「奇跡も魔法もある…ルッチーアちゃんはそういってたよ?」
円奈も寝床に入った。
昨日とちがい、二人部屋だったので、二人の就く寝床はちがっていた。
「んー…それなんだけどね、ジョストに魔法はいけないと思うな、魔法少女の私だからいわせてもらうけど」
円奈が笑う。
「そっか」
天井をみあげたまま、目を瞑り、息をすう。
だんだんそれが寝息に変わってくる。
二人とも目を閉じ、無言になり、暗闇のなかで寝床に横になりつづける。
会話もない。二人とも寝るだけ。
いよいよ、すうーすうーという円奈の寝息がルッチーアの耳にはいってきた頃、ルッチーアは、円奈を呼んだ。
「円奈」
ピンク髪の少女は寝息をたてつづける。
「円奈ってば」
ルッチーアはしつこく呼ぶ。
「…へ?」
円奈が目をあけた。
それから寝床で体を横向きにして、ルッチーアのほうをむいた。
ルッチーアも体を横向きにして円奈を見ていた。
「円奈はさあ…」
眠そうな円奈がルッチーアに聞き耳たてる。
「私が魔法少女だから…変なふうに思ったり…しないの?」
「へんなふうに?」
円奈の目がわずかに見開いた。寝床で横向きになったまま、不思議そうにルッチーアに訊く。
「どういうこと?」
「いや…だから…さ」
ルッチーアは目を落とす。黒い瞳が悲しそうに下向きになった。
「私が魔法少女だから……ソウルジェム見せてよ、とか、変身してみせてよ、とか…そういうの…」
呟くように声を漏らす。
円奈の目が驚きを湛えて、目をこすった。
「魔獣と戦っている、って話を半信半疑にしてしてたり…そういうの、円奈はないの?魔獣と戦う魔法少女のこと、どう思ってるのさ?」
「どう思ってる…」
円奈は体を仰向けにして天井をみつめる。
「そんなこと……考えたことなかったかも…」
「考えたこともなかったって、へんなやつだな」
ルッチーアは眉を細めた。
「聖地を目指すってのに?」
「…ごめん」
なぜか謝る円奈。
悩むような、でもやわらかな顔つきで、天井をみあげると、話した。
「私には、魔法少女が当たり前すぎちゃって…」
「当たり前すぎ?」
ルッチーアは円奈を見ながら聞き返す。
「うん…私、故郷で暮らしていたときは、椎奈さま…来栖椎奈さまって魔法少女のひとにずっと守られて生きてたから…私には魔法少女の存在が、大きくて…なんていったらいいのかな?その人がいなかったら、今の私もなかったんだろうな…って思うと、私には魔法少女がなくちゃならないような存在で…」
「…」
ルッチーアは無言で円奈の話をきいている。
「だから私は」
円奈は胸元で両手の指を絡めて握りしめると、来栖椎奈という魔法少女のことを思い出しながら、目を閉じた。
夢みるように。優しい顔つきになった。
「その人にずっと憧れてて…魔法少女に憧れて…だから私は、魔法少女の聖地を目指すの」
「魔法少女に憧れてるのか?」
ルッチーアが訊く。
「憧れてた…でも」
円奈は少しだけ顔を悲しそうにする。
「世界の魔法少女が…どんな人たちなのか、私には分からなくて…私、ここにくるまで、ひどいことする魔法少女も、たくさん…みてきた。人間に対してひどいことをする魔法少女…」
「…」
ルッチーアは無口になる。
「だから私は魔法少女が…どんな人たちなのかって…考えてみても分からない…というのかな…あれ…ごめん…さっきといってること違うや…」
といって円奈は弱々しく笑った。
「ふーん…そうなんだ…」
ルッチーアはあまり面白くない、という顔をして、鼻をならした。
「私はさ…魔法少女になったけどさ、なってからは、よく人にいわれるよ。”俺にどんな魔法かける気だ?”とか、”魔獣狩りしてるなんていかれてる”とか。”変身してみせてよ”とかもいわれるぜ。都市の人間にとっちゃ魔法少女はさ、好奇心とかの対象でしかないんだ。そうじゃなきゃ、バカにされて、敬遠されて、誤解ばっかされて…誰も私の言葉を真に受け止めてくれない」
「…」
こんどは円奈が無言にってルッチーアをみつめる番だった。
ルッチーアは円奈と目を合わせながら、過去の魔法少女としての自分の思い出を語る。
「だからさ、魔法少女に憧れなくていいと思うよ、円奈は…。毎日、つまらない日々を送るだけさ。魔獣を狩るだけ、人間には奇異な目でみられるだけ。私、好奇心で魔法少女に近づいてくる人間が嫌いなんだ。でも…円奈になら」
ルッチーアは一度言葉をきった。
暗くて円奈は気づかなかったが、わずかにルッチーアの頬に赤みが差した。
「円奈になら…私の変身、みせてもいいよ」
小さくニコリと笑うルッチーアだった。
円奈が驚いたように目を大きくさせる。
ルッチーアが円奈と目があい、笑う。
「私の変身、みてみる…?」
その顔はまだちょっと、赤かった。
「本当は見世物じゃないんだけどね…円奈がみたいっていうなら、いいよ?」
円奈は考える素振りをした。
見てみたい気持ちは確かにあった。
魔法少女に対する円奈の憧れの気持ちは、やっぱり強かった。その変身をみれると思うと心の焦げる想いもした。
けれども、なにかが違う気がした。
するとルッチーアは、くるりと体の向き寝床で回して、円奈に背をむけた。
「なんて、ね。冗談さ」
ルッチーアは背をみせつつ、いう。
「私が本気で見せるとでも思ったか?魔法少女の変身は見世物じゃあないんだからな」
258
それから時間が経って、夜も深くなった。
すっかり寝静まった二人の宿屋。
円奈はすーすー寝息たてて、目を閉じ、眠りについている。
ところがルッチーアは、瞳を開けたままじっと天井を見つめ続けていた。眠りにつこうとしていなかった。
「…なんだよ、もう」
ルッチーアは一人、呟く。
「私の変身には興味なしかよ」
ぼそっと、ふて腐れたように呟き、そして毛布を顔にかける。
「魔法少女に憧れてるっていったくせに……私の変身は見る気なしかよ」
毛布で顔まで隠し、目を閉じる。
まったく眠気がおきない。
左手のはまった鈍い光を放つ指輪をみつめる。
白と黒のあいだの、灰色の光を仄かにポワーンと放っている指輪を。
「私の起こした奇跡じゃなかった…」
と、ルッチーアは毛布のなかで、指輪を目の前に翳して見つめつつ、独り言をいう。
「私がお金持ちになれたのは、円奈がいたから……いやちがう」
ルッチーアはわずかに首を横にふる。
「それは私が、円奈が紋章読み間違えたとき割って入ったからじゃないか……じゃあ私が掴んだ奇跡か?」
ルッチーアは考える。
「奇跡…って、なんなんだろうなあ…」
家のことを考える。
もう二日、戻っていない。
いやこれから二度と、戻ることはないだろう。だって、勘当されたんだから。
明日は馬上槍競技大会の決勝。
そしたら円奈は、この都市を去るだろう。
私はそしたら、これからどんなふうに生きていくのだろう?
指輪の光がわずかに強くなる。
「────ッ!」
ルッチーアの顔が強張る。
ばっと毛布をめくり、起き上がる。
ルッチーアが感じ取ったのは、魔法少女の気配。
近づいてくる。
まっすぐこの部屋に。
レーヴェス?フュジェ修道院長?ちがう。
この気配は。
ミシ…ミシ…
廊下を歩く小さな足音は、ゆっくりまっすぐこっちに近づいてくる。
ルッチーアはそっと耳を扉につける。
ミシ…ミシ…
廊下を歩く音は、まさにルッチーアの扉のすぐ向かい側で、とまった。
扉のすぐ向こう側に、ヤツがいる。
ルッチーアは警戒しつつ、ゆっくり蝶番扉の、閂をとった。
カチャ。
扉がわずかに開く。
「…あんたか」
ルッチーアは、やってきた魔法少女の顔をみあげる。「コウモリ女」
そこにいたのは、漆黒のようにどす黒い髪を伸ばした、赤い目をぎらぎら光らせる魔法少女だった。
黒い獣皮を肩にのせ、ルッチーアをきつい目で睨む。
「なんの用だ?」
ルッチーアは優しいとはいえない目で相手を睨み返す。
「昨日から、私らをつけているみたいだけど」
首を少しだけひねる。
「酒場じゃ”さすらい魔女”って有名になってたぜ」
扉むこうの魔法少女が、顎をもちあげて赤い目でルッチーアを見下し、それから、ついに口を開いた。
「酒場で話を耳にした。”エドワード王に会う”と」
するとルッチーアはすぐにいい返した。
「私じゃないエドワード城に向かうのはそこのピンクだ」
奥の壁際で眠る円奈を指差す。
「おまえなんだ?エドワード王の親衛隊かなにか?」
「同じ魔法少女として警告しておく」
赤い目の魔法少女は告げながら、フードをそっと頭にかぶり、髪を隠した。
「エドワード城には近づくな。いま、魔法少女があの城に近づいてはいけない」
「どういう意味だいそれゃあ?」
ルッチーアは分かりかねている。首をひねり、問いかける。
「エドワード城で何が起こってるんだ?」
「警告はした」
赤目の魔法少女はフードをかぶって、フードを手でつかみながら顔は横向きになり、静かにルッチーアの前から去った。
宿屋の廊下を静かに歩き去り、蝋燭の燃える階段をくだっていく。
「それでもエドワード城にゆくのなら、こんど”ヴァルプルギス前夜祭”で落ち合おう」
「なんだあ?あいつ」
ルッチーアは変な目で去る魔法少女を見送った。
それから部屋に戻り、寝床につく。
「…」
寝床についてしばらくしたが、それでも眠気が起きない。
家のことをまた思い出す。
家に戻るつもりはないけれども、母のある言葉を思い出した。
そしてあることへ思い至り、ルッチーアは再び寝床でたった。
灰色の光を放つ指輪を撫で、扉に手をかけた。
そのキイイという扉の蝶番が軋む音に円奈が気づいて、目を開けた。
「ルッチーアちゃん…?」
円奈が目をこすりながら、部屋を出ようとする魔法少女を呼ぶ。
「どこかにいくの…?」
するとルッチーアは振り返って円奈をみて、ニヤリと笑った。
「ああ、でかけるよ」
「こんな夜遅くに?」
「まあね」
ルッチーアは肩をすくめる。わずかに首をかしげ、言った。「久々に正義の魔法少女でもしようと思ってね」
「正義の魔法少女…?」
円奈の眠たそうな声が問いかけてくる。
「そうさ」
ルッチーアは円奈に念押しした。「いっとくが、絶対についてくるなよ」
といって、部屋をでて、扉をバタンと閉めた。
しかし数秒後、また扉が開いた。
ルッチーアが顔だけみせて、円奈をみた。
「鍵はしめといてくれ」
とだけ言い残し、またバタンと扉が閉まった。
しかし数秒後、また扉が開いた。
またルッチーアが顔だけみせて、円奈を見た。
「けど、私が戻ってきてノックしたら、開けてくれよ」
とだけ言い残し、またバタンと扉が閉まった。
「はい…?」
円奈はルッチーアの言動がわからない。
目だけこすって、頭を悩ますだけ。
とりあえず、扉の鍵は閉めておいた。
そして眠気を邪魔されたことを苛立つみたいに、はあああと大きなあくびだして、また寝床についた。
259
ルッチーアは寝静まった都市の街路を歩いた。
宿屋を出て、噴水の横を通り、狭い路地へ。
もちろん、この時間帯の裏路地には、娼婦たちが男を誘って出没している。
ルッチーアはこの裏路地をあえて歩く。
母の言葉を思い出したからだ。
母によると、娼婦たちが体を張って稼いだ身銭を、剥ぎ取る悪辣な魔法少女がいるらしい。
都市には夜間の犯罪を取り締まる夜警騎士はいるけれども、相手が魔法少女ではとてもとめられない。
それに娼婦自体、夜警隊の保護対象にもならない。
そういう、法律の網をくぐって、泥棒を働く悪の魔法少女を。
「私が代わってやっつけてやる」
ルッチーアは意気込んでいた。こんな気分になるのは久々だった。
「名づけて、夜警魔法少女…なんて、ね」
その昔、ルッチーアは、人助けするのが大好きな魔法少女だった。
というより、魔法少女こそ、そういう、正義の、人々の希望なる存在だと信じていたから。
最近はそれを忘れていた。
都市で酒場に入り浸り、魔法少女をからかってくるバカな人間どもを相手に、暴れる日々が続いた。
だって人間たちは、魔法少女を、道化みたいにみなしているから。
正義の魔法少女なんて、バカらしくなって、やめていた。
でも。
「元々はそういうのに憧れて私も魔法少女になったんだよね」
ルッチーアは呟きながら都市の裏路地を歩く。
ソウルジェムを手の平にのせて巡回する。夜間の路地裏は、真っ暗で、静けさが支配している。
でももっとその闇の奥には、娼婦と魔獣、魔法少女、悪意の諸悪が眠っている。
「あいつはそれを思い出させてくれた」
ルッチーアは自分の言葉を、すぐに言い直した。「いや、あいつら、だね」
裏路地の奥の奥まで歩きつづけていると、女と女の叫びが聞こえだした。
必死に叫びまくる女の金切り声と、脅しつけるような少女の声。
「どうやら本当にいるんだな、悪の魔法少女は」
ルッチーアはソウルジェムのに反応した気配をたどって、路地を曲がった。
彼女の目に飛び込んできた光景は、路地の市壁に追い詰められた娼婦の女と、それに迫る変身姿の魔法少女の二人の姿。
娼婦は顔をぐちゃぐちゃにして泣き叫んでいた。
レンガ造りの市壁によりかかって尻をつき、魔法少女をみあげて、懇願したり悲嘆したりでとにかく泣き叫ぶ。
「やめろ…」
娼婦は泣きながら、顔を真っ赤にして、魔法少女むけて哀れっぽく叫ぶ。
「やめろ!どうしてこんなひどいことするんだい?」
「ひどいこと、だって?」
変身姿の魔法少女は、緑色のサーコートのような変身姿をしていた。その魔法少女が、娼婦へ迫る。
ダンとブーツを履いた足で地面を踏みしめ、娼婦に詰め寄り、冷たい目で見下ろす。
「男に身を売るあんたみたいな女と、命かけて都市の魔獣を倒す私とで、どちらが銭を持つべきかって話をしているだけだ」
「やめてよ!」
娼婦はまた、泣き叫ぶ。身をよじらせ、縮み上がって壁へと寄せる。「私だって命かけてるんだ!このあいだは、針で乳を貫かれて…」
「あーあー、愉快な趣向の男にあたったわけさね」
魔法少女は壁に身を寄せる女に詰め寄る。
「でもね、それは命かけたっていうんじゃないんだ。男を満足させるために、命を売ったってんだ。その命の値段がこれだ」
といって、女の服をまさぐり、銭をとりだす。
「やめて!」
娼婦は悲鳴をあげる。「私の金だよ!」
「穢れを浄化するのも魔法少女の役目でね」
魔法少女は冷たく告げる。
「そんな薄汚れた金は、私が責任もって、正しい使い方に改めてあげるさ。そしてあんたは、こんな稼ぎ方はやめて、ギルドに職をみつけて、清き道に戻るんだ。そうなるまで、私は責任をもって、あんたが汚い金をとるたびに、没収、浄化しにきてやるさ」
「いちど娼婦になった女が、ギルドに加入できるわけないだろ、偽善者!」
娼婦は叫ぶ。「偽善者!くそったれ!魔女ども!」
この呼ばれ方に、魔法少女の顔つきが変わった。
冷たくなって、穢れをみるような目で女を見下ろす。
「正しい道に戻る気のない穢れはどう浄化したらいいのかな」
といって、女をはげしく蹴りだす。
娼婦は怯え、泣いた。
「穢れ!穢れだ!魔法少女の敵、穢れはどう浄化したらいいのか!」
魔法少女は娼婦をけり続ける。容赦なかった。まるでこれじゃ虐待だ。
娼婦は蹴られながら、壁に身を寄せて腕だけで身を守っている。
「…こんなやつ、都市にいたのかよ」
ルッチーアははあとため息つく。
それから、ソウルジェムの力を解き放つと変身姿になる。
修道女を思わせるような黒色に近い灰色のワンピース。
フリルのついた裾は少女チックで、魔法少女らしい、かわいらしい衣装。パニエをはいて、ふわりとする少女チックなワンピース。
胸元には三日月。
靴は黒色のブーツ。長靴。
きっ、とその黒色の瞳が怒りに見開く。久々に正義に目覚めた魔法少女の瞳が。
ルッチーアが解き放った光で、娼婦を虐待していた魔法少女がこちらに気づく。
「なんだ、おめえ!」
緑色の魔法少女はこっちをみて怒鳴る。
あらたな魔法少女の登場に、娼婦はますます怯える。ぶるぶるぶると体を奮わせる。
「私は夜警魔法少女、といったところかね?」
変身したルッチーアは、ニヤと笑い、口を開くと、答える。
「はあああ?なんだぁそれ?」
緑色の衣装の魔法少女は呆れた声をだす。
それから娼婦を見下ろした。
「いま、楽しんでいるところだ。邪魔しないでおくれ。見てのとおり嗜み中でね」
「嗜み中、へえ?」
ルッチーアはふんと鼻を鳴らす。
「そこの女、泣いているように私にはみえるけど」
「泣くほど激しいことしてるってことさ」
緑色の衣装の魔法少女は答える。
「過激なほどに」
「そうかい?じゃあ今度は私があんたを泣かせてあげるよ」
ルッチーアは魔法少女へと迫った。
「私もその嗜みに混ぜてくれっていってるのさ」
相手がなにか受け答えしようとするかしないかのうち、ルッチーアは魔法少女の顔を殴りつけた。
「うぶっ!」
市壁とは反対側の、路地の外壁にすっころぶ魔法少女。
「さあ激しいことしようじゃないか?」
すっころんだ魔法少女をつかみあげ、また、顔面を殴った。
「がっ!」
路地の奥へふっとんでいくサーコート衣装の魔法少女。
「てめえこの!」
サーコート衣装の魔法少女はかんかんに怒って、ルッチーアに反撃してきた。
武器を召喚する。
それは斧だった。
「あんたは嗜みに斧を使うのかい?どういう用途だそりゃあ?」
ルッチーアは挑発しながら、相手へちかづく。
「こう使うんだっ!」
魔法少女は思い切り斧を横向きに振る。
ルッチーアは首を屈めてくぐり抜けると、サーコートの魔法少女の肩をつかみあげ、壁へ放り投げた。
「あがっ!」
サーコートの魔法少女は壁に身をぶつけ、歯を噛み締めて苦痛を味わう。
そのままバタリと地面に倒れこんだ。
手からカランと斧が落ちた。
「ちなみに私はこういうのが好きでね」
ルッチーアはいい、倒れこんだ魔法少女の短い茶髪を掴み、顔だけ浮かせた。
「ううう…」
前髪だけひっぱられ、もちあげられるサーコートの魔法少女。
その顔は苦しそうで、肌色の額がぜんぶ露わになっている。
ルッチーアは前髪をひっぱると、その顔面に、空いた左手に召喚したクロスボウをつきつけた。
「うう…!?」
サーコートの魔法少女が目を恐怖に血走らせる。
口元にクロスボウの発射口が押し込まれた。
「さあ咥えな」
ルッチーアはクロスボウの先を魔法少女の口の中へ。「これこそ過激だろ?」
引き金に手をかける。
「な…な…」
だんだん、恐怖に引きつっていたサーコートの魔法少女の目が、怒りにかわってきた。
「なめんなこの!」
ルッチーアの両肩をがしと捕まえる。そして。
ブッ!
「おぶっ!」
次の瞬間、ルッチーアは顔面から魔法少女にゴツンと頭突きされて、地面にスッ転んだ。
鼻から血がでる。
痛そうに鼻筋おさえ、指先についた赤い鼻血を目で確認しながら、ルッチーアはサーコートの魔法少女を地べたで睨みあげた。
「このやろう…」
「好き勝手させてりゃ調子のりやがって、え?」
サーコートの魔法少女は倒れこんだルッチーアの胸元をつかみあげた。
「なにが夜警魔法少女だ?バカか!」
ルッチーアの体が宙に浮いた。
グーがルッチーアを殴り飛ばす。
「ふぐ!」
ルッチーアは市民の家へと殴り飛ばされた。
体の背中がレンガ壁へと打ちつけられて、体を衝撃が襲い、その口からうめき声が漏れる。
「うっ…!」
顔をしかめてまた地面へ倒れこむ。
「そういう正義気取りの魔法少女、嫌いなんだよね。ああ、大嫌いだ」
サーコートの魔法少女はルッチーアの肩をまたもちあげ、自分の目前へ掴みあげる。
魔法少女の顔とルッチーアの顔が正面から睨みあう。
ルッチーアの顔は傷だらけ、鼻からでた血が垂れている。
「なめた面しやがって」
魔法少女はまたルッチーアの顔面をグーで殴る。
またルッチーアの身が吹き飛んだ。
ガシャンと市壁にあたり、レンガ壁が崩れた。ガララとレンガの数枚が雪崩れを起こした。
「そんな正義面の魔法少女なんざ、わたしがとっちめてやる!」
崩れたレンガの瓦礫の突っ伏すルッチーアの髪をつかみあげ、さらに頭突き。
「ぐっ!」
ルッチーアの顔面に血が増す。
ルッチーアは鼻をおさえながらまた倒れこむ。
倒れこむルッチーアの背中をつかみあげ、両手に持ち上げる。
持ち上げた彼女を、槌みたいにふるって、ルッチーアを思い切り顔面からレンガ壁へたたきつけた。
ガシャーン!ガラガラ。
レンガ造りの壁がまた、なだれを起こした。
ルッチーアは顔面から地べたに垂れ伏してのびた。だらーんと。黒い髪が背にひろがった。
「くそったれが、息の根をとめてやる!」
サーコートの魔法少女はルッチーアの落としたクロスボウを拾い、それをルッチーアにむけた。
「これが私好みの嗜みだ!」
といい、引き金をひいた。
ルッチーアはどうにか立ち上がって足で逃げ出した。
直後とんできたクロスボウの魔法矢がレンガ壁を射ぬいた。
魔法矢は爆発を起こして、レンガ壁を粉々に砕いた。
ものすごい量の砂塵と煙が捲き起こり、無数の瓦礫と砂埃があたりじゅうにちりばめられた。
「それがあんたのたしなみかい?なかなかだね!」
顔面血だらけのルッチーアはまっすぐサーコートの魔法少女へ迫る。
魔法衣装もぼろぼろで、あちこち破けて、露出していたが、もうそんなことは気にしない。
「でもまだ過激さが足りないと思うな」
「そうかいじゃあもっと苛烈にしてやる!」
サーコートの魔法少女がクロスボウの引き金をまたひいた。
ルッチーアは素早く相手に近づき、相手の腕を掴んで弓の向きをそらした。
クロスボウの魔法矢は見当違いなところへとんでいった。
バシュ!
紫色の矢が閃光迸らせながら、飛んでゆき、都市の市壁、娼婦のすぐ近くを射ぬいた。
「いやあ!」
壁際で身をすくめる娼婦。
魔法の矢は爆発して、砕けたレンガが破裂し、煙とともに四散した。
一歩まちがえたら、娼婦にあたっていただろう。
「二人ともやりすぎだよ!」
娼婦は泣き叫んだが、二人の魔法少女はきいていない。
「くたばれくそっれが!」
ふたたびサーコートの魔法少女が、怒りにまかせてルッチーアを狙いたててクロスボウの引き金をひいたが。
弦がしなっただけで、矢が装填されていなかった。
どうやらこの魔法少女はクロスボウの仕組みに詳しくないらしい。
「くたばるのはあんただ」
驚いた顔して絶句しているサーコートの魔法少女の腕をとり、ひっぱり、自分の元に寄せ付け、その勢いのまま相手を背にのっけて投げ飛ばした。
「うごあ!」
ルッチーアに背負い投げされる魔法少女。背中をドンと地面に打ちつけ、苦しそうに唸る。
するとルッチーアは、手元に落ちていた魔法少女の斧を手にとった。
相手めがけて斧を振り落とす。
「あわっ!」
危機を感じ取ったサーコートの魔法少女は身を回して斧からにげる。
二度三度、ルッチーアの斧が魔法少女を追い立て、振り落とされ、地面に亀裂が走る。
そのたびに懸命に地面をころげて相手は逃げる。
石畳が割られる。
「どうだ?なかなか苛烈だろ!」
「いやまだこんなものまだ苛烈とはいわないね!」
相手の魔法少女はクロスボウを鈍器のようにブンと横向きに振り、ルッチーアの頬をなぐった。
「へべ!」
ルッチーアは弩弓本体に頬をぶったたかれて、斧を手から手放しながらふっとんだ。
民家の壁際に頭をぶつける。ダランと身を壁に寄せながらずるずると崩れ落ちる。
「死ね!」
そのルッチーアめがけて、再装填されて魔法矢がクロスボウからとんだ。
ルッチーアは間一髪、起き上がってその場から逃げた。
魔法矢は市家の外壁にあたり、壁に穴があいた。またあたりじゅうに砂塵と瓦礫の断片が飛び散った。
「これだから魔法少女は!」
娼婦は泣き叫びながら、二人の喧嘩を見届けた。
ルッチーアはすばやく、手元におちた喧嘩相手である魔法少女の斧をまた拾い、持ち上げると、それを相手めがけて投げつけた。
クルクルクル…
斧は宙で回転しながら飛び、魔法少女の手に握られたクロスボウに命中してたたっきる。
クロスボウは、紫色の閃光散らしながら、故障し、七色の火花散らした。
使い物にならなくなった飛び道具に、サーコートの魔法少女は毒づき、唾はくと、それを投げ捨て、ルッチーアへせまった。
「もうそれを殴るようには使わないのかい!」
目も鼻も口元も血だらけのルッチーアが、相手に言った。
「うるせえ!」
サーコートの魔法少女はルッチーアにつかみかかった。
ルッチーアも相手につかみかかった。
肩と肩、互いにつかみあい、力のぶつけあい。
だがそれはルッチーアの負けにおわった。
「うわ!」
そしてひょいともちあげられたルッチーアは、相手に投げ飛ばされて、民家のガラス窓に身を投げ入れた。
ガシャーン!
窓ガラスが木っ端微塵に割れ、破片を飛び散らせながらルッチーアが民家の部屋へと落っこちる。
そこらじゅうあちこちがガラス破片だらけになる。
サーコートの魔法少女もバラバラに砕けたガラス窓にのりこみ、ルッチーアを追って、民家へと入った。
蝋燭だけがついている、薄暗い民家だった。
ルッチーアは全身にパラパラとガラス破片をかぶっていたが、身を起こすと、地面に散りばめられたガラス破片のうちのひとつを手に握ると、振り返りざまに相手の顔を裂いた。
「あぎいっ!」
血の筋がサーコートの魔法少女の目元に走り、鼻から頬まで裂かれ、鮮血が飛び散った。
彼女は反射的に顔を手で覆った。「てめえこのやろう!」
一階での乱闘騒ぎに気づいて飛び起きた民家の主人が、慌てて二回の寝室から駆け下りてきた。
そして二人の魔法少女をみて怒鳴った。
「また魔法少女の喧嘩か!くそが!」
男の主人は怒り心頭している。
「このあいだも俺の家でハデに喧嘩しやがって!どーしていつもいつも俺ん家で喧嘩する!ここはてめーらの喧嘩のためにはねえ!」
「だまってな!」
ルッチーアは男主人へと怒鳴り返す。
「わたしにはこいつを懲らしめる使命がある!」
「なにが使命だ、バカが!」
相手の魔法少女が、顔を血だらけにしながら、ルッチーアをギロリと血で真っ赤な目で睨む。
「私には、こいつに魔法少女の現実をわからせてやる義務がある!」
「なんだとこいつう!」
ルッチーアがむかっとして相手に対峙すると。
その頭を男主人の金棒が叩いた。
カーン!
鋭い金属音がなって、ルッチーアがそのまま糸きれたように気絶する。
なにが起こったのかわからないでいるサーコートの魔法少女。
コーン!
次の瞬間、サーコートの魔法少女の頭にも金棒が命中し、彼女もまた、ルッチーアに重なるように倒れこんだ。
「魔法少女が!」
男主人は気絶した二人をみくだし、罵った。
一階の騒ぎにきづいた娘が、階段を駆け下りてきた。
「パパどうしたの?」
娘は目をぱちくりさせて、首をひねる。それから、唇に指をあてながら、のびている二人を見下ろす。
「悪い魔法少女をやっつけたの?」
「ああやっつけた」
男主人はため息ついた。
金棒を壁際へ寄せておく。「かわいい娘、おまえはあんなふうになってはいけないよ」
「わたし、ああはならないもん!」
娘は父親をくりくりした目でみあげる。
「あんな、喧嘩ばかりする悪い子になんてならないわ」
「いい子だね、私の娘は」
父は大事そうに娘を抱き、頭を撫でる。「ああ、コイオニー、おまえはいい子だね」
父が二人の魔法少女を殴った金棒は、チェインメイル職人が鎖造りに使う、巨大なやっとこだった。
260
ルッチーアとサーコート姿の魔法少女の二人は家から追い出された。
壁側にたたき出され、二人ともほぼ同時に、目を覚ました。
二人とも変身衣装は解けて、私服だった。
でも私服も、ローブもチュニックも、ぼろぼろに破けて、ひどい有り様だった。
でもいちばんひどい有り様なのは顔だった。
二人とも顔がぼこぼこだった。
傷だらけで、血だらけで、膨れていた。
「…はあ」
ルッチーアがさきにため息ついた。
「もうやめにしようか」
息はきながらいうと、相手の魔法少女も静かに頷いた。
「…ああ、同感だよ」
「…」
二人の間に沈黙が流れる。
戦いはやんだが、かといって二人は動けない。傷がいえない。
「……あんたさあ」
ルッチーアが口を開いた。
「なんで娼婦から金をまきあげようとしたのさ?」
その疑問を口にする。
「…ふん」
ローブ姿の、茶髪で短髪の魔法少女は鼻をならし、澄ました顔した。
「弱い人間を魔獣が食う。強い魔法少女は魔獣も人間も食う」
ルッチーアのほうを見やる。
「弱肉強食ってやつだ。この世で一番強いのは魔法少女だ。一番強いやつは弱いやつをなぶっていい」
「そんな考え方じゃ、敵ばかりつくっちゃうだろ…」
ルッチーアがはあと血の垂れた口で呼吸をする。
「そうだ、魔法少女は自分だけが味方だ。他は全部敵だ」
魔法少女は説きはじめる。
「魔獣も敵、他の魔法少女も敵、人間も敵、狼も狐も敵だ。自分以外みんな敵だ。そういうものだろ? ちがうか?」
「まあ、わかるけどねえ」
ルッチーアは言いながら、自分も魔法少女として、孤独を生きてきた人生を振り返る。
「たしかにさ、魔法少女はさ、味方なんていない、自分のためにいきていくだけだ、そんなふうにやさぐれるときもあるさ。私もそうだったしね。でもさ、あんたはやさぐれすぎだ。もうちょっとまともにいきなよ。そしたら…」
「そしたら、なんだ?」
相手の魔法少女は少し怒っている。不機嫌さが声に交じっている。「ご利益があるとでも?奇跡の対価を支払った私たちに?」
「そしたら、さ」
ルッチーアは思い出すような遠目をした。
「ひょっとしたら……孤独じゃなくなるかもしれないよ」
「…へっ、これだから正義面の魔法少女は」
ローブの魔法少女は嘲笑し、ルッチーアから顔をそむけ、起き上がった。
それから彼女は、娼婦から奪いとった銀貨15枚を、ルッチーアに渡した。
「私の負けだ。先に停戦をいいだしたのはアンタだった。だからアンタの勝ちだ」
と言い残し、銀貨をばららっとルッチーアの胸元に落とし、魔法少女は、裏路地を静かに歩き去った。
都市の、底知れぬ夜街へとまた、魔法少女は去り行く。
その歩き去りゆく後姿は、とても孤独で、寂しそうだった。
「そう…わたしも…」
ルッチーアはその後姿を見送りながら、静かに、そっと呟くのだった。
「わたしも…あんな後姿をしていたんだ…」
261
血だらけになったルッチーアは都市の夜の娼街を一人歩き、娼婦を探した。
娼婦はまだ、市壁の壁際に身を寄せて、ぶるぶる身を震わせながら、あひる座りで、そこにいた。
「娼婦の宿屋にはかえらないのかい」
ルッチーアがたずねると。
「その金もイカレちまったんだよ」
娼婦はぶるぶる身を震わせながら、答えた。「売女が寝る床もない!みじめだよ……」
「返すよ」
ルッチーアは銀貨15枚、女の足元においた。
「私がここにきた理由、これだけ」
「…はあ?」
娼婦は変な顔してルッチーアをあげる。
あひる座りのまま、くしゃくしゃの髪を垂らして魔法少女をみあげ、唖然とする。
「バカじゃないのあんた?娼婦に金返す?都市の笑い者になる気か?」
「あー、そうだね。魔法少女って都市の笑い者でさ」
ルッチーアは路地を歩き去った。
「あ、そうそう。私の名はウスターシュ・ルッチーアだよ。困ったことあったら私の名を叫びな。すっとんでくるかもしれないよ」
背中みせながら手でばいばいする。
「あんた、イカレてるぜ」
娼婦は魔法少女にぼやいた。
銀貨を握り、さらけ出した生足をローブの裾にかくすと、娼婦宿へ帰った。
「だけどさ……ありがとう」
娼婦の声は、ルッチーアに届いたかは、わからない。
262
ルッチーアは宿屋へと戻った。
二階へあがり、廊下を歩くと、円奈ととった客室の扉までくる。
ダンダンダン。
ルッチーアは三回くらい、強く扉をノックする。
強く叩かないと、円奈が気づかないかもしれない。
「おーい、円奈、私だよ、扉をあけてくれ」
返事がない。
ダンダンダン!
さっきよりももっと強く、ノックする。
ほとんど扉の強打だ。
「おーい!円奈ったら!夢の世界に旅立ってるのか?扉を開けろってば!」
まだ、返事がない。
するとルッチーアは、むかっと眉を引きつらせ、扉をにらみつけた。
「おい!円奈ったら!聞こえてるだろ?私を締め出す気か?」
母親みたいに?
ますます、むかついてくる。
「怒ったぞ」
ルッチーアはその場で変身した。
修道女を思わせる、でもフリフリのワンピース姿になり、ふぁさあっとドレスの裾を不思議な光の風に回せると、魔法少女衣装に変身して、クロスボウを手ににぎった。
「私を締め出そうたってそうはいかないからな」
魔法の弩弓を扉の、閂部分があるであろう箇所に突きつける。
「魔法少女の力をみせてやる」
とルッチーアは怒った声だして呟き、クロスボウの引き金をひいた。
バシュ!
どっかーん。
扉は大破した。
木の扉は蝶番ごと外れ、閂は吹っ飛び、多量の砂埃が部屋に舞った。
扉は部屋の奥へとふっとび、倒れ、使い物にならなくなった。
「へえっ!?はあっ!?」
あまりの爆発音に円奈が飛び起きた。
「なに?なんなのこれ!」
破壊された扉を見下ろし、ピンク色の髪と瞳をした少女は驚愕している。
ルッチーアは破壊された扉を長靴で踏みしめ、部屋に入ってきた。
クロスボウを両手に構えながら、変身姿のまま部屋に登場する。
そんな魔法少女姿の彼女は室内の夜霧に砂埃が舞うなか、ニカリと笑い、口を開いた。「戻ってきたぜ」
「戻ってきたぜじゃないよルッチーアちゃん!」
円奈は慌て、ルッチーアが初めて魔法少女姿を円奈に披露したことなどはお構いなしに、彼女の顔の傷を心配した。
「傷だらけだよ!どうしたの?外でなにしてたの?これ、ひどいよう!」
円奈は、ルッチーアの前であたふたするばかり。たまに曲げた指をくひぢるにあて、がたがた震える。
「だから、ちょっと正義の魔法少女をしてきたんだってば」
ルッチーアはクロスボウを手から落とし、目を閉じると、答えた。
「よくわかんないけどどうするのこれっ!?」
円奈はルッチーアの話よりも、扉のことを気にしていた。
「部屋がめちゃくちゃだよ!これ戻せるの?もう…」
円奈が呆れた声だし、壊れた扉を調べ始める。
「どうやって修理するんだろう…」
「なんだよもう!」
するとルッチーアはかんかんに怒った。
「感想なしか!」
「はっ?」
円奈が、きょとんとして、大破した扉を調べていた視線をルッチーアにむける。
その目が変身姿のルッチーアを見る。
「だから、」
顔を赤くさせたルッチーアが、地団駄ふみながら、大きな声をだす。
「私の変身姿をみた感想はなしか!」
「なに?……あ」
初めて円奈は、ルッチーアが変身している衣装であることに気づいた。
まじまじと見上げる。
「……」
無言でルッチーアも円奈を見返す。鼻筋赤く染めて。目に涙溜めて。
円奈の視線をかんじつつ。
わずかに緊張して、魔法の衣装の裾を手でぎゅっと掴んだ。
「く……」
「く?」
ルッチーアが聞き返す。
「黒い、ね…」
円奈は、相手がなにか期待しているとき、どう答えたら相手が喜ぶのか知らないで育った少女だった。
「ああもう!」
ルッチーアは悔しそうにダンと足で地面を踏む。
「なにさ!もう!このとんちんかん!」
「なんかよくしらないけどこの扉、どうするの!」
円奈の関心事は扉にもどった。
「もう…魔法少女ってすぐなんでも壊すんだから…」
大破した扉の蝶番、板の破片、繋ぎ合わせる折れた釘などを手元に集めだす。
「…」
ルッチーアは無言で扉のことを丹念に調べる窓円奈を見つめていた。
だんだんそれが怒りの顔に変わってきて、とうとう我慢できなくなって、叫んだ。
「このバカ!」
すると今度は円奈がむっとする番だった。
「バカってなに!」
口を尖らしてルッチーアをみあげる。
「扉壊したルッチーアちゃんのほうがバカだよ!こんなのダメだよ!」
「しるかバカ!円奈のバカ!私は魔法少女なんだぞ!他に同類なんていないんだぞ!」
ルッチーアは円奈に背をむけた。
「……この大バカやろう」
「なんでわたしがバカにならなくちゃいけないの!」
円奈にはさっぱりわからない。
「いきなり部屋飛び出して、戻ってきたら扉を壊して。なんでそれで私がバカにされなくちゃいけないの?」
「それはあんたがバカだからだ」
「ああもうぜっぜんわからないよ!今日のルッチーアちゃん変だよ!」
「変ってなんだ!変で悪いか!魔法少女なんかみんな変だ!あんたら人間からみたらそうだろうよ!ついでいうとあんたはバカだ」
「だから、それなに!」
あーだこーだ口論がはじまる二人。
「この扉どうするの?魔法で修理できる?」
「できるかそんなこと!」
ルッチーアは大声で叫ぶ。
「そんなことできたら、ギルドの職人、いらないだろ。ほらみろ、アンタはバカだ」
「な、なに、それ!?」
相手の理不尽な論理に腹を立てる円奈。
「魔法少女ならなんでもできると思いやがって!」
先にルッチーアが言った。
「そんなインチキな存在じゃない!なかにはできるやつもいるだろうけど、私にはできないんだよ!」
「じゃあなに、直せないのに、壊したの?」
円奈の険しい目がルッチーアを睨み、言い返す。
「そんなルッチーアちゃんがバカだよ。宿屋の主人に見つかったら?私たちどうなるの?」
「しるか、ノックしてもあんたが扉を開けてくれないからだ!」
ルッチーアと円奈の口げんかは、とどまることをしらない。
「私を締め出そうとしたな!だがそうもいかないからな!」
「私、寝てただけだってば……夢みてたの!」
「へえ…夢?どんな?」
「うるせえんだよてめえら!」
いきなり隣の部屋の客人が、扉の壊れた入り口からぬっと顔をだして、二人にむかって怒鳴った。
「静かに寝ろ!こっちまできこえてんだよ!こんな深夜になに喧嘩してやがる! なんで静かにできねえんだこのじゃじゃ馬ども!眠れやしない!」
「じゃじゃ馬だと?」
変身姿のルッチーアが客人の男を睨む。
「このくそったれ!人の眠りを邪魔しやがって!頭にくる連中だ!」
隣の客人は怒鳴り散らしてくる。
その口は止まらない。
「俺は旅人として、隣に泊まってんだ!明日からまた商人と隣町にでるんだよ。なのに夜漬けできいきい喚きやがって、おかげで頭が痛くてしょうがねえ!」
ルッチーアが男に近づいた。
円奈はすぐに嫌な予感がした。
「わるかったねそれは」
ルッチーアは男のすぐ前にでる。
すると男はルッチーアの変身衣装をみつめた。
ツインテールというこの時代にはほぼありえない髪型も。
「なんの道化だそりゃあ?」
男は目を丸めて、奇人をみるような目をルッチーアにむけ、また怒鳴りはじめる。
「さっさと口喧嘩を終わらせろクソ女ども!きいきい喚きやがって猿が!俺はいますぐここで寝たいんだ! てめえらの声きいてると頭がむず痒くなる!」
といって頭をわしゃわしゃとかきむしる。
「あんた、魔法少女って知ってるかい?」
ルッチーアは男にたずねる。
「魔法少女?」
男が変な顔をする。「どこの売春宿だそりゃあ?」
バシッ。
「うごっ!」
ルッチーアは男を殴った。男は気絶してのびた。
「喧嘩を売っちゃいけない相手のことさ」
ルッチーアはのびた男を見下ろして告げた。
そして部屋に戻る。
円奈が、問いかけてきた。「あの男の人は?」
「うん?あいつ?」
ルッチーアは振り返ってのびた男をみる。円奈のほうにむきなおって、肩すくめた。「そこで寝たいんだとよ」
263
円奈は扉の修理をあきらめた。
はあとため息つくと、蝋燭に火を灯し、テーブルの皿にたてた。
「こんなに傷だらけになって…」
円奈はテーブルの前に正座して座り、その隣にもルッチーアが座っていた。
テーブルを囲う二人。
ルッチーアは変身姿のままだった。解くタイミングがなかったからだ。
円奈は蝋燭をたてると、その火の明かりを便りに、ルッチーアの顔の傷を確かめ、まじまじ見るのだった。
「いったい何があったの?」
「魔法少女にはよくあることさ」
傷だらけの顔のルッチーアは、円奈とは目を合わせない。まだ、不機嫌だった。
「そうかもしれないけど……私になにもいわずに…」
「正義の魔法少女してくるっていっただろ」
ルッチーアはそっぽ向く。「それに、私はもう自分の好きなように生きるって決めたんだ。これからは……帰る家もないしね」
「…」
円奈はなにもいわなくなる。
そっと、荷物袋から、ナプキンをとりだした。
静かに身を乗り出し、ルッチーアに近づいて。
ルッチーアの顔についた血をふきとった。
頬についた傷跡から滲み出ている血を、ナプキンにふきとる。
「そのナプキンはなんだよ?」
頬をナプキンに撫でられながら、ルッチーアは嫌そうに、たずねた。
「もらい物」
円奈が答える。
「椎奈さまってやつの?」
ルッチーアは不機嫌な顔のまま、訊く。
「ううん。これは、漁師の女性から」
「なんだそれ?」
うわずった声をだす。
「たまたまね、都市の噴水でしりあって…その人は、やみい…あ」
女の人との約束を思い出し、慌てて言いなおす。
「一緒に水を汲みにきてて…そしたらナプキンをくれたの」
「ふーん…まあいいけど、さ」
ルッチーアの顔から血が消え、きれいになってきた。
円奈は、ルッチーアの変身衣装にも滴り落ちた血の滴をナプキンにふきとる。
不思議な材質だった。
円奈の触れたことのない、ビロードの素材であった。
二人はとりあえず、大破した扉を立て、応急処置的に壊れた入り口に寄せておいた。
もちろん蝶番が外れているのだから、もう扉としての機能がなく、大きな板を開口部に立てかけて置いているだけみたいな状態。
閂もはずれて、部屋を守れない状態。
外側の廊下の人が蹴ればまた扉が部屋に倒れ落ちてくるような状態。
男は廊下でのびたままだ。
完全に放置されていた。
「明日はジョスリーンさんの準決勝と、決勝戦の日なのに…」
困ったように円奈はいう。
「ルッチーアちゃんがいなかったら私やだよ…」
「ふん、そう」
ルッチーアは鼻をならす。
「私もう一人で紋章官できる自信なくしちゃったもん…」
「明日はせいぜい、準決勝でトマス・コルビル卿とあたらないことを祈ろうじゃんか」
ルッチーアはいうと、その場でたちあがって、寝床についた。
ついて、変身したままの自分を思い出し、部屋を一度でた。
壊れた扉を横にどかし、廊下へ。
「みるなよ」
ルッチーアは念押しし、廊下のむこうで変身を解いた。
そして部屋にもどってきた。
「ねる」
ルッチーアは寝床につき、毛布を頭までかぶった。
円奈は血だらけになったナプキンをみつめ、これをどうしようと悩んだ挙句、テーブルに置いて、乾かせることにし、自分も寝床についた。
明日は、ジョストの決勝戦だ。
580 : 以下、名... - 2014/08/28 00:14:14.37 i9jECk0c0 1412/3130今日はここまで。
次回、第34話「馬上槍試合大会・五日目 準決勝」
第34話「馬上槍試合大会・五日目 準決勝」
264
円奈とルッチーアが一悶着していたころ、アデル・ジョスリーンは。
明日の決勝戦むけて、寝床につこうとしていた。
円奈たちには見せていないが、そのリンネルの下着の下には、体のあちこちに包帯を巻いている。
包帯には鎮痛剤が含められていた。
鎮痛剤の薬剤は、たとえば酢とクロッカス油の混合液などである。そこに樹脂からとった乳香液もふくんだ止血圧迫包帯を、使っていた。
五日間連続する馬上槍試合の度重なるジョストの対決で、身はぼろぼろだった。
胸にも、肩にも腕にも包帯を巻く。
ジョスリーンの家系は裕福な、都市を治める騎士の家系だったから、その部屋も豪華であった。
寝床は天蓋ベットだし、蝋燭の燭台も豪華。装飾にこった銅合金製の燭台で、三脚タイプ。
壁は石造りだが、一流の石工屋がたてた石造りの部屋は、でこぼこがない。
隙間風も入らない。
そのほか、鏡台、棚、チェス盤、ウールの絨毯。
多くの衣装、つまりは青のビロード上着などの衣装をいれる衣装収納箱、金具つき長持、櫃。
鳥籠のなかには鷹が飼われている。
狩りで獲物をしとめた猪の皮をなめして、壁際にかざったり。
大きな猪で、かつての狩猟で、鷹をつかって追わせ、犬も駆使して、最後にはジョスリーンが自ら槍でしとめた猪だ。
騎士をめざすたる者、猪や狼を、自らの力でしとめなければならない。
壁際の紋章を描いた掛け軸は、金色の鷹が描かれ、赤色の生地のなかで翼をひろげている。
口ばしをあけ、獰猛さを示している。
ジョスリーンはさっきまでの父親との会話を思い出していた。
今は寝静まった部屋だが、ついさっきまで、ここでジョスリーンは父と口論していた。
父は明日のジョスト準決勝出場に猛反対してきた。
「いつまで騎士ごっこしているのだ」
さっきまだこの部屋にいた父親は、ジョスリーンにそう問い詰めてくる。
壁際にもテーブルにも、蝋燭の火が燃えている。
もちろん、このくらいまんべんなく蝋燭の火を燃やさないと、明るさが保てない。
「ジョスリーン、いま都市で開催されている馬上槍試合に出場しているそうだな。今日もでたのか?」
ジョスリーンは無言だ。
「ジョスリーン!」
父親は彼女の衣服をかってに取り去り、包帯に巻かれた半裸を露にした。
ジョスリーンが怒った顔をした。
「父上、いくら肉親でも、こんなことは娘にしてはいけません」
剥がれた衣を元にもどす。
しかし衣のなかの、包帯だらけの体は、父にみられた。
父はアデル・ヴァイガント。
アデル公爵の第二子。
「婚姻前にこんな、体に傷をつくりおって!」
父親は娘の非難を無視はしたが、また衣をきちんと着せなおした。その動作には愛情がおこもっている。
「よいか、ジョスリーン。女は騎士にはなれん。いままで騎士ごっこするのはまあ許してきたが、模擬でない馬上槍試合に参加することは禁じたはずだぞ。どんな手をつかって紋章官を召したのはしらんが──」
父の厳しい説教がはじまる。
「都市開催の槍試合は野蛮だ。おまえの身に何があるかわからん!」
「父上、模擬試合の経験だけでは実戦にでれません」
ジョスリーンは反論する。
「実戦などとんでもない!」
案の定父親は怒った。
「明日の試合にはでるな。お前を明日一日、この部屋に閉じ込める。いいな?明日の馬上槍試合は棄権しろ。騎士になるなんて夢はやめろ。もっと自分を大切にするのだ」
ジョスリーンは押し黙る。
天蓋ベットに腰掛けて、蝋燭の火のゆらめきをじっと瞳に映してみつめる。
金髪の豊かな髪がベッドに流れておちる。
「自分を大切にしろと仰るならば、私の意志も大切にしてほしい。父上」
「ジョスリーンは、お前はまだ若いから、」
老いた父親はいう。
「そうやって騎士をめざすなどといって、非日常的な夢物語に憧れているにすぎないのだ。そのうちわかるだろう。だがわからないうちは私のいうことを聞け」
「メッツリン卿と結婚しろと仰るのですか?」
ジョスリーンは父親に翠眼をむける。
「それで私に騎士をやめて、女になれと?」
「お前の幸せだ、それが」
父親は諭す。
「メッツリン卿には地位も名誉もある騎士だ」
父親はすると、ジョスリーンの隣に腰掛け、ベッドそばのチェス盤の駒に触れた。
「おまえがめざしているのは”騎士(ナイト)”だが───」
チェス盤の白い、馬の頭を象った駒を手に取り、盤上を二歩ほど、進める。
「メッツリン卿の求婚を受け入れれば───」
父親はチェス盤に並んだ駒のうち、クイーンの駒を、騎士(ナイト)の駒よりも前に進める。
「”クイーン”になれるのだぞ」
「そんなうまい話にはのりませんよ、父上」
ジョスリーンはチェス盤を眺めながら顔を横にふる。
「騎士道物語の貴婦人は自由で、気高いですが、現実がそうじゃないのは、私でもわかっています」
父親は悲しい目をする。
「私の友人は、みな結婚して、いまや立派な”鼻まがり貴婦人”です」
鼻曲がり貴婦人とは、男の暴力に振るわれた貴婦人を指す言葉だった。
と同時に、騎士道物語に描かれているような、貴婦人に忠誠を尽くす男の騎士としての理想像と、現実との違いを揶揄する言葉でもあった。
つまり、短気な夫に顔を殴られすぎて、鼻が折れて曲がってしまった貴婦人の顔のことをいう。
「それがクイーンなのですか?」
ジョスリーンはいい、するとチェス盤のクイーンの駒をナイトの駒の後ろに倒した。
コロン…と、倒れたクイーンの駒がチェス盤の上をころげた。
「そういう現実がわかっているなら、お前にもわかるだろう」
父親は諦めず、優しい口調で説得をつづける。
「ただでさえそうなのだから、実戦の世界がもっといかに残忍なのかが」
「そんな実戦の世界で、戦う”少女”たちがいるんです」
ジョスリーンがその単語に口にすると、父は途端に、はあとため息ついた。
「そんなヤツらは無視しろ」
ジョスリーンは首を横にふる。
「彼女たちのために戦いたいんです」
「アイツらは人間とみてはいかん。悪魔か何かだ」
父親は厳しくいう。
「悪魔に魂を売った災厄どもだ」
声に怒りさえこもっている。
「父上、”彼女たち”に私たち人間は守られています」
ジョスリーンは反論する。
「かつて私も命を救われました」
「ならもうそれでよいだろう!」
父の声も荒くなっていく。
「なにもヤツらのために、おまえほどが、世の戦にでることはない。それにヤツらは、好きで国境で戦を繰り返しているだけだ」
「本当にそうですか」
ジョスリーンの声は冷静だ。
「都市のなかに居場所をみつけられず、戦場へ追いやられてしまったのが本当ではないですか」
父はまた、ふうと息をはく。
困り果てたように首を横にふる。
「それが市民の望みだ。お前もわかっているだろう。お前も20を越えているのだから」
ジョスリーンは部屋の石壁を無表情になってみつめる。
「たしかに我らは”あいつら”に守られているらしい。信じがたい話だが……もうそれは市庁舎のだした結論だ。魔法少女は」
ここで話題にでる”あいつら”の本当の名称をだす
「市民にとっては脅威なのだ。前も酒場を荒らしたヤツがいたそうではないか。それにあいつらはすぐに喧嘩する。市民から被害苦情が市庁舎にあがった数を?」
ジョスリーンは無言のまま、部屋の壁をじっと虚ろに見つめている。
ただただ父の説得に、イヤイヤ耳を貸している、というように。
「あいつらに守られている、そこまでは本当だとしても、」
父はジョスリーンに訴えかける。
「同時に脅かされてもいる。それに喧嘩っぱやい連中なんだ。戦場にだすのが適任というものだろう」
ジョスリーンの眉がピクと動く。
「戦場に繰り出せば市民は安心する。ジョスリーン、ここは都市だ!市民を守らねば!」
父の声は必死だ。
「なぜ市民を脅かす存在に味方しようとする?」
といって、ジョスリーンの手を握る。
ジョスリーンはその父の手を拒んだ。
「父上は、わかっていないのです」
ジョスリーンは話し出す。
「彼女たちが、どんな想いで都市を生きているのかを。命がけで魔の獣と戦っているんです。なのに、市民からは敬遠されるか蔑まれる毎日…都市のなかで、自分の居場所もみつけられず…いき続けるために、ときには同じ魔法少女同士で戦わないといけない。そんな日々を生きているんです」
「そんなものは自業自得だ!」
父はあくまで、魔法少女には否定的な立場であった。
「自分で巻いた種を自分で被っているだけだ!この世界で起こっていることはなんだ?魔法少女の戦いに巻き込まれる人間たちのどれほど多いことか?そういう時代なのだ!」
怒鳴る父の声は、いまやひときわ荒い。
「この都市に魔法少女不可侵という法律があるのは知っているだろう。これは、表向き、魔法少女の立場を守るという法律だが、本質はちがう。狙いは人間と魔法少女の切り離しだ」
ジョスリーンの目つきが変わる。
わずかに瞳孔が開く。
「魔法少女を罵ってはいけない、傷つけてはいけない…その法律があれば、魔法少女に近づこうとする人間はいなくなる。それだけで犯罪になってしまうからだ。人間を守るのがこの法律の本当の意図だ!だがバカ正直に、人間を傷つけてはいけない法律を、魔法少女に突きつけたら、あの連中はまた、暴れるだろう。だからこんな遠まわしな方法になった。あいつらの機嫌をとりながら人間を守らないといけない」
ジョスリーンの目に怒りがこもってくる。
「この法律で、魔法少女はギルドにでれなくなり、都市社会からははじき出される。だがこれは人の世間を守るためだ」
「そうして居場所がなくなって、戦場へ駆りだされて行く…そういうことですね」
父は優しいものいいに戻った。「適材適所というものだ」
「そんな彼女たちの気持ちを考えたことはあるのですか?」
ジョスリーンは父とはちがい、魔法少女に味方する立場をとる、女騎士だった。
「戦場へだされていく彼女たちの気持ち…世間から弾かれて、魔の獣と戦うことでしか都市に存在できる意義がない……悲しすぎます」
「修道院で傷をなめあっていればよいだろう」
父は呆れたように言葉を吐いた。
「父上、もしその法律が人間と魔法少女の切り離しなのであれば」
ジョスリーンは天蓋ベットを起き上がった。
その翠眼には強い意志が宿った。
「私はその橋渡しになれる騎士になりたい」
「ジョスリーン、おまえは”あいつら”に心酔しすぎだ」
父の声にはいよいよ、諦めと呆れが含まれはじめていた。
「そうやって魔法少女に憧れて心焦がして、その存在に近づきたいだけだろう。その年頃じゃあ仕方ない。夢物語がどうせ好きなだけだ」
父は娘との議論をうちきって、自ら部屋の扉へむかった。
そして出口の扉に手をかけつつ、背中だけで告げた。
「前もいったように、お前を明日、この部屋に閉じ込める。明日のジョストは棄権扱いするよう手配する。結婚前にお前の身に傷がついてはならん」
バタンと扉がしめられ、その奥で、鎖の結ばれるジャラジャラという音がした。
ここは三階。
出口は一つだけ。
窓から出ようとしたら大怪我するだけだ。
ジョスリーンは明日、どうこの部屋を抜け出してジョストの六回戦、準決勝に出るか考えをめぐらせた。
鹿目円奈と、ウスターシュ・ルッチーアとともに。
決勝戦まで出るための方法を。
考えた。
265
次の翌朝がきた。
宿屋で目を覚ました円奈とルッチーア二人の朝は、口論からはじまった。
「もうすぐ宿主人がくるよ!」
円奈は頭を抱えている。
「この壊れた扉をどう説明したら?」
「そんなこと自分で考えろよ」
昨日と一昨日と同じ服のルッチーアは円奈を指差す。
「あんたのせいで扉がこうなったんだから。自分で考えろよ」
「なんで私のせいなの!」
こんな調子で二人は朝っぱらから喧嘩していた。
「人のせいにして!」
「だってあんたが鍵しめたまま私を締め出すからだろ」
ルッチーアは昨日のことを指摘する。
「だから私は扉を壊した。もとはといえばあんたが扉をあけないせいだ」
「はあ!?なにそれ!」
円奈は相手のメチャメチャな理屈に唖然とする。
「誰がどう考えたって、ルッチーアちゃんのせいだよ!それに、廊下で男の人ものびてるし……あれもルッチーアちゃんのせいでしょ!」
「なんだよ円奈まで魔法少女を悪者にして!」
するとルッチーアはすねてしまうのだった。
「私がそんなに嫌か!」
「だから、そうじゃなくてね……はあああ、もう」
大きくため息ついて、額を手でおさえる。
「どうしたらいいの…これ…」
「あいつ、昨日私の変身姿みて道化つったんだぞ!魔法少女が売春宿のどうとかいったんだぞ!」
ルッチーアは一度怒り出すと、もうなかなかとまらない。
「なのに私が悪者なのか!バカ!円奈のバカ!」
「ああもうわかったよごめんね!」
わけがわからず円奈はとりあえず謝る。
「とにかく、ジョスリーンさんが待っているから……部屋をでようよ」
二人がでるためには、出口を塞いでいる破壊された扉の板をどかさないといけない。
「ああそうだね。そうしよう」
ルッチーアは扉の両端を持った。
「壊さないでよね!」
魔法少女が扉をもちあげると不安になる円奈だった。
「振り回したり、投げ飛ばしたり、折り曲げたり、しないでよね!」
「するかそんなこと!どこまで私を乱暴だと思ってるんだ!」
ルッチーアは怒って、叫び、腕に力をこめた。
するとバキと音がなり、手にもたれた扉の中心に亀裂がはしった。
「ほら!それ、やめてってば!」
慌てて円奈が制止する。
「扉こわさないで!力ださないで!」
「なんだよもう!人がせっかく扉もってやってるのに!」
「扉もってやってるなんていわれたの、はじめてだよ」
「はあ?なんだそれ!」
ルッチーアは扉を壁のよこにたてかける。
すると出口が開いた。
二人とも荷物をまとめ、宿の出口へ。
駆け足で廊下を走り、一階へくだる。
「お世話になりましたー!」
と宿主人に声掛けして、さっそく外の街路へ飛び出そうとした円奈とルッチーアの二人だったが。
「まちな!」
宿の女主人に二人は呼び止められる。
二人ともピタと動きがとまる。
気まずそうに汗流した円奈とルッチーアが目線同士を交し合う。
「このままでていけると思ったか?」
女宿主人の目は怒りに光っている。
「もどれ。昨日てめーらがつかった部屋にだ」
円奈とルッチーアは、二人同時に額の汗を腕でぬぐった。
そして、二人ともふうと諦めの息をついた。
266
「昨日随分大きな音がしてね」
野次の主人は二階へとのぼる。
円奈とルッチーアの二人が階段を昇りながら、落ち込んだ顔をしている。
「あたしは目が覚めたのさ。まったく驚いたね!」
主人は蝋燭を灯した燭台を手に持ちながら、ぐちぐち呟く。
「扉が吹き飛んでるんだから。驚くなというほうが無理さね。そう思わないか?あんたらも?」
ルッチーアと円奈は、女主人のその一言一言が、耳に痛くてたまらない。
馬上槍試合の準決勝に遅刻ができないのに、宿を出たくても出られない。
女主人は階段の手すりに手をかけつつ、直角の階段を曲がって、蝋燭立てを手元にもって、二階の廊下へきた。
そこには、扉のついていない入り口があった。
「これはどういうことだい?」
女主人は静かにたずねてきたが、その音色の奥底に眠る怒りは烈火のごとしだ。
「なぜこの部屋には扉がないんだ?たまげたねえこれは!昨日まではあったはずなんだが」
「あーそれはですね」
ルッチーアが先に述べた。
「昨日、隣部屋の男が私らの部屋に乱入してきたんですよ。そのとき外れて…」
「二度と私の宿屋にくるな魔法イカレ女!」
宿主人の怒りは爆発した。
「昨日の私の聞いたあの音が、そんな音だったわけあるかい。あれは爆発の音だ。大方魔法でも使ったんだろうよ! 私の宿屋をメチャクチャにしやがって!ええ?どう償いしてくれる?おまえさんの首でも差し出すか!」
ガッシヤーン!
思い切り床に叩きつけられる蝋燭台。とびちる蝋燭と火。金具。
女主人の怒声に、二人は圧倒されてあとずさる。ただただ呆然と、怒り狂う宿主人をみあげるだけ。
「ああそうさ処刑台につれていって、私が斧であんたらの首を切り落としてやる!え?どうだ?どうなんだ! この壊れた扉をどう治すんだってきいているんだよ!」
「…」
無言の二人。
「この悪女ども!」
宿主人の顔は怒りに歪みすぎている。
歯も唇もいびつで、がなるたび唾が勢いよくとぶ。
「人ん家ぶっこわして平気な面しやがって!はねっかえりどもが!二度と私の宿の前をうろつくな。あーまったく魔法少女って連中は頭にくる!このやるせなさ!どうしたらいいんだくそっ!あたしの腹の虫がまったく収まらない!胸やけがする!」
ルッチーアはごそごそ、自分の服をまさぐった。
服のなかから金貨袋をとりだし、中身の金貨何枚かを女主人の手に握らせた。
「わるかったね」
魔法少女は逆上を抑えて、女主人の手に金貨を渡す。
「もう二度とこないよ。あんたが私に腹立てるのも、もっともだし。だからこれで賠償させておくれよ」
金貨10枚。
それは、扉の修理代なんかよりも、遥かに高価な、服だけ貴族になれてしまうかのような金額だった。
途端に女主人の目が驚きに瞠り、そして大きく丸めた目でルッチーアをみつめた。
その視線がじろじろと、ルッチーアの金貨袋、多量の金貨があるであろう布袋へといく。
「じゃあね」
ルッチーアは円奈をつれて女主人の横を通り過ぎる。
すると女主人はルッチーアの肩をつかんだ。
「またきてもいいよ!」
女主人はそういう。
「は?」
ルッチーアが振り返る。
「ええ、あなたなら、いつでも!ええ、あたしもちょっとやりすぎたね。いいすぎたよ。わるかったねえ。いつでもあたしの宿をつかっておくれ。どんな使いかたでもいいさ、そう窓でも扉でもなんでも好きに使いなさってくださいな!」
「いいよもう」
ルッチーアは女主人の手を肩から振り払う。「もうこないってば」
「いいよいいよ、いつでも気楽に使ってくださいってば!」
女主人はルッチーアをおいかける。
「都市の裏話、いつでも、またきてくだされば、なんでも話してあげるよ!あたしは都市には顔がひろくってね。どんな話でもしっているのさ。そう、たとえば、実はいま、エドワード王子さまがこの都市にきてるって話とか……」
「もういいから」
ルッチーアは女主人を無視した。「これから槍試合があるから、失礼するよ」
「またきてくださいな!」
宿主人は喜びいっぱいの笑顔で、手を振った。「いい酒だすよ!」
267
二人は激烈な宿主人の見送りを受けながら、街路へ出た。
すでに馬上競技大会の準決勝と決勝戦を見物しようと市民が、急ぎ足で噴水の横を通り過ぎ、木骨造の家々が立ち並ぶ街路を行き来している。
「このままじゃ遅刻だ急ごう」
ルッチーアは円奈の手をひっぱる。
「さっさくいかなきゃ、剣試合どころか槍試合まで棄権だぞ!」
円奈はルッチーアに手を引っ張られながら持ち出し構造をした木造の家々の街路を走る。
木造の持送り、斜めバッテンに張られた柱と、泥を塗り固めた壁…切り妻壁。古い建物群。
床は石畳で、真ん中部分がへこんでいる。
「足元に気をつけろよ」
ルッチーアは街路を走りながら、円奈に呼びかける。
「床の溝に気をつけな。糞を踏みたくなかったら」
「えっ?」
円奈がルッチーアに手を引っ張られ、前のめりになって走りながら、聞き返す。
「溝……に?」
「この時間帯、みんな糞を窓からここに投げ捨てる」
ルッチーアは走りながら言った。
まさにそのとき、家々の持ち出し構造をした壁の窓から、エプロン姿の女が顔をだして、バケツを傾けると、その中身をばしゃあっと街路の床に流した。
それは悪臭放つ汚物であった。
二階の窓から地面へ投げ捨てられる糞尿。
「気をつけな、糞まみれになるぞ」
ルッチーアはふっとわらい、円奈にふりかえる。「都市じゃ汚物の処理は役人の仕事なんだ。農村みたいに煮たりしないからね」
街路に流れ落ちた汚物は、だんだん、通路の真ん中の溝へと流れ、集められる。
円奈が唖然とした顔で、汚物まみれになる通路をみつめた。
「昔、こういう糞を掃除する魔法少女の友達がいたんだ」
と、ルッチーアは過去を語った。
「その人は掃除屋だった。誰もが目を背けた都市の汚れを取り払い、魔獣とも戦っていたんだ。いま、エドワード城に雇われてるって。明日、そっちにいくんだろ。会えるかもれしないよ」
円奈は神妙な顔つきをした。
268
二人は準決勝開催の槍試合会場に辿り着いた。
「間に合ったみたいだ」
二人はようやく手を放した。
「いま、ヴィルボルト卿とコルビル卿が昨日の五回戦の続きをしてる。その勝者が準決勝進出だね」
「それはいいんだけど…」
円奈は何か思い悩んでいるみたいだった。
「ん?どうしたのさ円奈、準決勝になるってのに、浮かない顔して!」
ルッチーアが円奈の表情の変化にきづく。
「いや…宿屋の主人には悪いことしたなって…」
気弱な声でそう小さく呟く。
「なんだいそんなこと!」
ルッチーアは円奈の心配性ぶり、気遣いぶりに呆れてしまう。
「たんまり賠償してみせたろ?気にすることないさ!それにしても、お金っていいもんだねえ!」
金貨袋を大切そうにぎゅっと握り締める。
「こいつを振りまくだけで、人を幸せにできるんだぜ。みたか?あの女の幸せそうな顔!魔獣と戦ってるよりよっぽど人のためになってる気がしてくる」
「うーん…」
円奈はあまり納得していない反応をしていた。
「なんか違う気がする……」
「違うもんか、あの嬉しそうな女主人の顔!一目瞭然さ!」
ルッチーアと円奈の二人はこうしてまた口論はじめながら、馬上槍競技場の入り口へ。
そこには、今までに馬上試合に参加し敗れ去った騎士たちが、準決勝・決勝を見物しに集まっていた。
敗退した騎士たちはさっそく、準決勝に勝ち進んだ女騎士の侍女二人(そういう設定で知られている)をからかいはじめる。
「わっはっは、女騎士さまの紋章官のご登場だぜ。」
敗退した騎士たちが、円奈とルッチーアの二人をみてけたけた腹を抱えて笑い始める。
しかしこれは悪意や、恨みでからかっているのでなく、準決勝に勝ち進んだ女の騎士とその侍女たちへの彼らなりの挨拶、敬意、愛嬌であった。
「アデル・ジョスリーン卿にあらせられまする!」
といって他の騎士もおどけた様子でテキトーなお辞儀をしてのせる。手をくねくね伸ばしてふらふら身体をやらしながらお辞儀する。明らかなおちょくりだった。
「はっはっは。準決勝、がんばってくれたまえよ。」
他の騎士もいう。
もう彼らはジョストに参加しないので、甲冑を着ていなかった。ダブレット姿だ。
他国の大きな国の領主になると、もっと高級な服装で、ウプランドを着込む。腰元をまく、金メッキの施した豪勢なベルト。
そこに鞘を差し、剣を治める。生足はさらさず、羊毛のタイツを履き美しく見せる。
立派な井出達の、領主たる騎士たちだ。
二人は敗退した騎士たちの猛烈にいやみったらしい歓迎を通り抜け、競技場へ。
そこにジョスリーンの姿はない。
「ジョスリーンはどこさ?」
ルッチーアがいうと、円奈もきょろきょろ、埋め尽くされた観客席のまわりを見渡す。
「みあたらない」
円奈は答えた。
「まさか!もう準決勝はじまるんだぞ!」
ルッチーアは焦る。いまここに、ジョスリーンがきてくれないと……。
私は……。
試合競技場では、すでにヴィルボルト卿とコルビル卿のジョストが、二回戦を終えている。
「0-4でゴルビル卿の優勢!」
審判の声が競技場で高らかにあがっている。
途端に、わあああああああっと沸き立つ埋め尽くされた観客席の熱気。
いつもに増した熱狂振り。
決勝戦まで開催されるから、今までで一番の盛り上がりになるのも無理はない。
「ジョスリーンはどこなのさ!」
ルッチーアは悲痛な声をあげ、目をぎゅっと閉じた。
「ジョスリーン!お願いだからきてってば!
269
そのころジョスリーンはまだ、家に軟禁されていた。
一つしかない出口の扉は外側から鎖をぐるぐる巻きにされ、塞がれている。
窓はあるが、部屋は三階。
飛び降りれば、ただではすまない。
それに、ジョスリーンの侍女一人が、部屋にいて、監視役を担っていた。
円奈やルッチーアという、ポッと出の侍女ではなく、長らくジョスリーンに仕えてきた侍女だった。
ジョスリーンの性格も言動もよくわかっている侍女だ。
侍女は、軟禁されたジョスリーンの部屋で静かに手を結び、じっと下をむきながら、丁寧に佇んでいる。
侍女はビロードのガウンを纏っていた。
赤色のガウンで、侍女いえども、かなり豪勢で優雅な衣服だった。
「レミア」
ジョスリーンは侍女の名をよんだ。
ジョスリーンはいまリンネルだけの下着姿で、ふつう男には晒さない姿だ。
「おまえまで、こんな部屋に閉じ込められて…」
鳥かごのなかの鷹が、けーっと鳴き声をあげた。
鋭い鉤爪を鳥かごのなかの枝にのせて、二人のやりとりを鋭い眼で見守っている。
「私はよいのです」
侍女は丁寧な姿勢で佇んだまま、伏せ目のまま答えた。
こういう目線をするのが侍女の主人に対する礼儀作法であった。
「お嬢様の身のためであれば…」
ふううう、ジョスリーンは深い息をつく。
それから侍女の説得を試みはじめた。
「レミア、わたしの性格を知っているだろう。こんなこと好きじゃない。私にこんな……」
「ええ。わかっています」
侍女は小さく微笑み、伏目になりながら、言った。
「お嬢様は、女らしい礼儀作法を習うのが、幼い頃から嫌いでしたね。いつかご結婚なさる騎士の方に無礼のない礼儀作法を…」
「そんな言い方やめてくれ!」
ジョスリーンは侍女の話を遮る。
閉じ込められた部屋のなかをせわしなく行き来する。
「私はいま結婚する気なんてないんだ。というか、父が勝手に決めてばかりだ。レミア、もうすぐ馬上槍試合の準決勝があるんだ。お願いだ、部屋を開けてくれ。私に試合へ出させてくれ」
「できません。お嬢様」
侍女の視線は下向きで伏目だが、声はきっぱりしていた。
「私もあなたも共にこの部屋に閉じ込められているのです。私にこの部屋を出る手段は持ちません。あなたも同じです。お父様は、あなたの身を案じて…」
「私の身を案じているのではない。一族の顔を案じているだけだ!」
ジョスリーンは怒り出す。
「私が結婚さえすれば、あとはどうでもよいのだ。一家の顔さえ保てればそれでよいのだ。そして私は鼻曲がり貴婦人になってしまうよ」
この時代、夫の騎士によって貴婦人はいつもひどい暴力にさらされていたけれども、それでもまだマシなほうで、実は一番悲惨なのが侍女と召使いの女たちだった。
というのも、鼻曲がり貴婦人は、男に暴力ふるわられても、逆らえないわけで、男に仕返しはできない。
離婚を申し出もことさえできない不自由さだ。
そこで貴婦人は、普段夫の暴力によって溜まりに溜まる鬱憤を、侍女や召使いの女に当り散らした。
櫛で髪を梳かすとき、ちょっと櫛を髪にこんがらせるだけで、貴婦人は発狂したように侍女に怒鳴りちらし、キイーッとヒステリックになって、のびた爪で侍女の顔を引っかいた。
侍女の顔は血だらけになった。
すると今度は侍女に鬱憤がたまって、侍女は召使いの女に当り散らした。
皿の洗い忘れ、食器の運び忘れ、いつも位置に戻さない、挨拶が不器用、伏目で話さない…ちょっとしたミスあるたびに侍女はそれはもう陰湿に召使いの女をいじめ抜き、雇用の辞退者を続出させた。
今も昔もそれは、同じであった。
ジョスリーンの家ではそういう陰湿なことがなく、主人と侍女の関係は良好であった。
それはジョスリーンが、いまのところ、結婚することもなく、自ら騎士になると決め込んで一家の家系の騎士たちと模擬の槍試合と剣試合に明け暮れているからであった。
「もうすぐ私は本当の騎士になれるんだ」
そんな、こんな時代には珍しく良好関係にある主人たるジョスリーンは、侍女に懸命の説得を試み続ける。
「私の夢が叶う。わかってる。私一人で戦場に赴くなんて無謀だ。だが、魔法少女と共に戦場にでれれば……」
「そんなこと、お許しになれませんよ、お嬢様」
侍女は平静さを乱さず、現実を主人に伝える。
「あなたは大切な一家の子女です。婚姻前にお体に傷なんてつけるわけには」
「お願いだ私を部屋から出してくれ!」
ジョスリーンはもう、そう頼み込むことしかできない。
「棄権なんて不名誉だ!こんなのあんまりではないか!準決勝まで勝ち進めたのに!」
侍女は心を揺り動かさない。
「それでも、いけません」
「…」
ジョスリーンの頭に血が昇ってくる。
部屋を見回し、扉を破壊できそうなものはないかと見回した。
椅子、鏡台、衣装箱、テーブル、燭台、壁に飾った剣、なめした猪の皮…
いろいろあるけれども、それをさせないためにいまレミアが扉の前に立ちふさがっている。
扉をぶち破ろうとしたら、まず、この侍女も倒さないといけない。
ジョスリーンはさらに部屋を見回した。
ふと、青空から風が吹き込んでくる窓に、気がいった。
ふううっと部屋に舞い込んでくるやわらかな風。窓の外はひろがる真っ青な空。きれいな空。
三階から見渡せる都市に広がる空。
高さは、18メートルくらい。
都市の家々の赤い屋根と、市壁と、市庁舎の鐘楼やら修道院やらが一望できる、三階の窓。
外の世界をのぞかせる窓。
ジョスリーンは思いついた。
この部屋を脱出する方法を……。
それは、いまさっき侍女に”身を傷つけるわけにはいきません”の、まさに真逆をいく方法だった。
だが成功のためには、侍女の目を欺かないといけない。
「それにしても喉もかわいたし、空腹だ」
ジョスリーンは急に話題を変え、部屋を行き来しはじめた。
石壁の隅から隅へと。いったりきたり。
侍女の目が伏目ながらもそれを追う。
「朝からなにもお召しになっていませんもの」
「そうなんだ。軟禁されて。これじゃトーナメント試合に負けて捕虜になった囚人よりひどい扱いだ」
ジョスリーンはリンネルの下着姿のまま行き来する。
そのたびにふわりと、やわらかな素材の下着がゆれてそよいだ。
たまに、豊かな腰まである艶やかな金髪も、青空が見える窓から吹き込む風にふかれてなびく。
「朝食を用意してくれ、レミア。はちみつが食べたい」
「その気持ちは山々なのですが……」
侍女は申し訳なさそうに、伏目を深くさせて、俯くと答える。
「わたしもこの部屋から出れませぬゆえ。食事の用意は今日の私にはできません」
「では他の侍女を呼んでくれ。リリト、ヴィイ、クリアーノ、デンタータを呼んできてくれ」
アデル家は、たくさんの侍女を雇い入れていた。
そのうちでもジョスリーン好みの侍女の名を連ねて呼ぶ。
「今日はどうも晴れ空で、気分がいい。この部屋で盛大に朝食会を開こう」
侍女、驚いた顔をしてジョスリーンをみあげる。
上目で。
「朝に、ですか?しかし…」
「今まで遠慮してきたが、ビロードでも着てみようかな」
ジョスリーンは侍女に疑念が生まれるよりも前に、先手をうった。
すると侍女は途端に、驚いた顔を、嬉しそうにした。
「ビロードを?」
侍女の目が輝く。途端に、喜んだ声をだし、すっかり上機嫌になりはじめた。
「なんとすばらしい!」
侍女は感激に浸っている。
その場で飛び跳ねる。
「いままで”女のガウンなど!”と毛嫌いしてなさっていたのに!とうとうお召しになるつもりになったのですね! やっとご自身の女としての美しさに気づかれたのですね!」
「ああ、まあ、そんなところかな…たぶん…」
ジョスリーンは適当に答えて、ベッドの隣に置かれた衣装箱に目をむけた。
この大きな衣装箱の中身には、青色のビロードの上着がある。
それは数ある貴婦人の衣装のなかでも最高級品だった。
なにせ青色である。
この時代の青色ビロードは、最も高価な染色原料をつかっていて、その専門の職人の腕も一流。
すなわち青色のビロードを召す貴婦人こそ、最も優美にして優雅なる貴婦人なのであった。
ジョスリーンはいままでそれを一度も着たことがなかった。
文字通り衣装箱のなかに封印され、お蔵入りしていた。
それを着てみようなどというのだから、侍女はすっかり嬉しくなり、ご機嫌だった。
「今日は記念日ですわ!」
侍女はさっそく扉にむかって、仲間侍女たちを呼び出す。
「やっと、お嬢様のビロード姿がみれるのですね!」
ダンダンダンと扉を叩いて、音をだし、大きな声で仲間を呼ぶ。
「リリト、ヴィイ、クリアーノ、デンタータ!朝食の準備を!お嬢様の部屋へ!」
侍女は扉に顔をむけて、叫んでいる。
もちろん、すぐには反応がないので、侍女は何度も扉に顔を寄せて、大声をだす。
「リリト!?クリアーノ!?聞こえてるの!?お嬢様に食事のご用意を!」
そんなふうに、扉むけて侍女が大声だしつづけているその背後で、ジョスリーンが、窓に足をのせていた。
まず片足から。
窓の天井を手でつかみながら、つづいてもう片足も、窓にのせる。
窓に乗りだすと、途端に視界に広がる都市の外観。
三階建ての高さに思わず足がすくむ。遥か下の地面を人々が歩いている。ここから見降ろすと人々が小さく見える。
だが、躊躇している時間はない。
「デンタータ!きこえてる?」
侍女はまだ扉にむかって話しかけている。「お嬢様がビロードをお召しになるんですって!」
ジョスリーンは窓から外側の壁へと身を這わせ、窓からでた。
三階建ての壁の、"コーニス"というわずかな出っ張りに足をかけ、壁にしっかり手をかけ、這うようにして窓から建物の外へ。
抜け出す。
私宅の窓の裏側へ。
一歩間違えれば転落だ。
ゴシック様式の修道院や、市庁舎の鐘よりも高い、三階建てのジョスリーン宅の外壁を、窓から抜け出して這う。
慎重に慎重に足を横にすすめ、ぴったり密着ひっつきながら外壁を移動をする。
「これじゃまるでアサシンだ」
ジョスリーンは自宅の外壁にしがみついて、這い進みながら、まいった様子で呟いた。「実在するかはしらないが」
その顔は真っ赤だ。
あまりの緊張と、恐怖で、体は震え、血はどくどく巡り、命がけの脱出作戦を遂行していく。
空に晒され、外気にあてがられながら、壁を這う。
5インチもないわずかな出っ張りに足を掛けながら。ずるずると足を慎重に動かして。
路上から見ればそれは、三階建ての石造住宅の外壁を、一人の女性がへばりついて這っている状態。みるからに危険だ。
思わず下を見下ろしてしまう。
自分が足をかけている壁際のわずかな出っ張りのほかは何もない。空気しかない。
遥か下に待ち受ける地面は石。石の地面。その高さは18メートルくらいか。
びゅううう!
激しい風がふきつける。
ジョスリーンの服と長い金髪がなびいてゆれる。
この風にのって、遠くの槍競技場のほうから波のような歓声がきこえてくる。
恐らく、トマス・コルビル卿が活躍しているのだろう。
次は自分の番だ。
「なのに、なんでこんなことをしているのだ、私は」
外壁に張り付きながらジョスリーンは毒づいた。
ジョスリーンが足をつけて外壁を這っている出っ張り部分は、構造上"コーニス"と呼ばれる水平の突出部分だった。
しかし、こんな箇所を足場にして外壁を渡るなど、ニンジャでもアサシンでもしないことだ。
その頃ようやくレミアが仲間侍女たちを呼んで、食事の用意をさせて、ジョスリーンの部屋に侍女たちを招きいれた。
だがそこにジョスリーンの姿はなかった。
「…お嬢様?」
レミアはジョスリーンの名を呼ぶ。返事はない。気配もない。
窓からはやわらかな風が吹き込むだけ。
主人は部屋から消え去った。
「…やられましたわ!」
途端に顔を青ざめさせて、侍女たちに命令をくだした。
「すぐにおじさまにお伝えして!」
まさか壁の外側にいるとは侍女は思い至らなかった。
そして仲間の侍女の一切が慌てふためいてジョスリーンの部屋をでると。
レミアは、悔しさのあまりに、きいいいっと歯軋りして、手にとったナプキンをブチンと真っ二つに裂いた。
ナプキンは無残にもただの布切れになってしまう。
この時代の侍女は、やっぱり、ヒステリックを起こしやすかった。
270
ジョスリーンは家の外壁を這い続けた。
それはあたかも端からみると大の字になって、壁に這いより、ズズズと地味に横向きに
なって進むかのよう。
家の端までくる。
すると、ジョスリーンは覚悟をきめて。
ぎゅっと目を閉じ、深呼吸したあと、がたがた震える身に鞭うって。
「はあああっ!」
と大声だして、隣の家の屋根へと飛び移った。
貴婦人のからだが一瞬、都市の空を舞う。
一瞬、ものすごい逆風がジョスリーンの身を包み、心臓に穴があいたようなヒューっという感覚が全身に走る。
それがあまりに恐ろしくて、ジョスリーンは目を閉じた。
次の瞬間、衝撃。
ドタ!
体が隣家の赤い屋根にはりつく。
切り妻屋根は三角形で、急勾配だ。ズズズとジョスリーンの体がずり落ち始めたので、あわててジョスリーンは屋根を掴んだ。
そして急勾配の切り妻屋根をのぼる。
両手両足を、蜘蛛みたいにつかって、這い登る。懸命に這い登る。おちたら大怪我だ。
とても、身体を大事にしろと伯爵の父から説教を受けた貴婦人の行動とは思えない。
赤い三角形をした屋根を懸命に登り、折り返し点にくると、逆に屋根をくだる。
都市に長いこと暮らしていたが、屋根から隣の屋根に飛び移るなんて初めての経験だった。
それに屋根に立ってみえる都市の景色も、自分のいつも知っている都市とはまるで違ってみえた。
青空がひろがり、都市のごちゃごちゃに乱れ建った家々が、城郭のなかで迷路のように連なっているのが一望して見渡せるのだ。
そのなかでも市庁舎やゴシック建築の尖塔が特に高くて目立つ。都市を囲う第一市壁と第二市壁が、ぐるりと眺められる。
囲壁のなかに立ち並ぶ建物と家々の数々。川とレンガ橋。眺めは、すばらしかった。
それにちょっとした感動を覚えるジョスリーンだった。
「だがそんな場合じゃない」
ジョスリーンはこうして屋根から屋根へと飛び移り、馬上競技場を目指した。
急勾配の屋根を降りるときが特に恐ろしかった。
屋根を降りて体をずり下ろすと、そのまま地面に落っこちてしまいそうになる。
それをこらえ、屋根を降りるとき手で体を支え、ゆっくりとずり落ちながら屋根を降り、するとまた家の赤い屋根から屋根へと、飛び移る。
ジョスリーンは魔法少女じゃない。
生身の人間だ。落下すれば大怪我する高さの家々の屋根と屋根とを飛び移っているのだ。
271
「遅すぎるぞ!」
いっぽう、馬上槍試合会場。
都市開催の選手権、トーナメント五回戦。
ついにヴィルボルト卿とコルビル卿の対決は、三回戦へ。
円奈とルッチーアは二人、主人の登場を待っていた。
とくにルッチーアは歯軋りして、いらいらと、ジョスリーンの遅刻に苛立ちを露にしている。
だがそんな二人の心配を吹き飛ばす出来事が、ここ馬上槍競技場で起こった。
それは、いまジョスト三回戦へと臨もうとするヴィルボルト卿とその従者たちの会話から、はじまった。
「トマス・コルビルめ!」
ヴィルボルト卿はぜえぜえ息をはき、汗だくになりながら、文句を垂らす。
「まるで歯がたたん!なんて強さだ!」
いま、ヴィルボルト卿とコルビル卿の差は4点差。普通4点差ついたらジョストのルールでは勝ち負けがひっくり返らない。
それでも相手に一矢を報いるとすれば、相手を落馬させることだ。
「落馬させてやる!」
ヴィルボルト卿はやはり、そう考えていた。
「そうすれば私の名誉は守れる」
次の試合のために待機している円奈とルッチーアの二人が、なんとなくそのやり取りを聞いている。
この普通にみえる騎士と従者の会話は、しかし驚愕の会話へと変わっていった。
それは、相手側の騎士の偵察にでていた、もう一人の従者が、顔を青ざめさせて慌てて駆け戻ってきたときに発せられた言葉だった。
偵察役は本来、何食わぬ顔して相手側の騎士のそばに聞き耳たて、相手の作戦を盗み聞きする役目だ。
だが今回彼の偵察役は、相手の騎士についてとんでもない素性を突き止めてしまっていた。
「大変です!ウィルボルトさま!」
偵察役の従者はすっかり気を動転させている。
顔に焦燥がでている。
「あのトマス・コルビル卿ですが───」
従者は偵察に出て得た真実を告げる。「その正体はエドワード王子です!間違いありません!」
途端にヴィルボルト卿と従者たちに衝撃が走った。
はっ、という顔をして戦慄する地方諸侯たち。
「身分を偽って──」
ヴィルボルト卿の声が恐怖に震えている。「ジョストに出場しているのか?」
この会話を耳に挟んでしまった円奈とルッチーアにも衝撃が走る。
「なんてことだ、私は王家を落馬させようとしていたのか」
ヴィルボルト卿は絶望の声を吐き出す。
それから従者に合図をだした。「このままでは私は地位を失う。棄権させてくれ」
「はっ!」
従者は慌てて棄権用の白旗を持って、会場の入場門に掲げた紋章の掛け台へと躓きながらも突っ走った。
そんなことも知らず、審判は三回戦開始の合図旗をフィールドへ持ち出す。
それを下向きに降ろす。
これが振り上げられれば試合開始になってしまう。
従者はあわてて白旗をヴィルボルト卿の紋章にかぶせ、覆い隠す。
彼の紋章は白旗をかぶって、真っ白になる。これは、戦う意志なし、という表示だ。
おうううう。
観客席から野次とブーイングが飛ぶなか、お構いなしに従者たちは棄権の意を表明する。
すると対面のトマス・コルビル卿────白馬に乗った王子は、槍を従者に渡した。
彼はふうと残念そうにため息つき、エドワード城直属の従者たちと談じた。
「どうやら正体を知られてしまったらしい」
王家の従者たちは丁寧に頷く。
「そのようですね」
白馬に乗った王子は、相手側の、棄権を表明する地方出身の騎士たちのお辞儀を見る。
ふう、失望したように軽く息をはく。
「準決勝の相手は誰だ?」
王子はたずねた。
従者は答えた。
「都市の領主一家、アデル家の子女ジョスリーンです」
「子女?」
王子が態度を変える。
「はい。子女であるにも関わらず、騎士としてジョストに出場しています」
従者は自分の調査で得た正確な情報を丁寧に王子へ述べる。
「その紋章官は偽物です。アリエノール姫を護衛した騎士、異国出身の鹿目円奈が身分を偽って自らを侍女と名乗っています。屋根葺き屋の魔法少女が偽った紋章官も連れています」
王子はその話をきくと、楽しそうに微笑んだ。
「身分を偽ってジョストに参加か」
王子は口元をゆるめながら呟く。「私と似たもの同士だ」
従者たちが互いの目を合わせあう。
「興味深い連中だ!」
王子は笑い、面頬のプレートを閉じると、準決勝へと出場した。
272
円奈とルッチーアは顔を固めて準決勝へと狩り出された。
「五回戦の試合はすべて終了、準決勝へと移ります!」
審判が高らかに宣言すると、一気に興奮だつ観客席の見物客たち。
円奈とルッチーアの二人が、途方に暮れた気持ちで、数百人の見物客たちの歓声の渦中に突っ立った。
「準決勝に勝ち進んだ騎士は四名!そのうち一人が優勝になります。準決勝の初戦は、アデル・ジョスレーン卿とトマス・コルビル卿の一騎打ちです」
おおおおおおおおおっ。
アデル・ジョスリーン卿も人気、トマス・コルビル卿も人気。
今回の馬上槍試合で最も人気のある名物騎士たち同士の対決となっては、見物客たちの興奮も計り知れなくなる。
飛び交いまくる大喝采。大歓声。
ひゅーひゅーひゅー。わーわーわー。大勢の口笛とさわぎ声。
それがぐるりと囲む競技場の観客席の壮観。
女騎士のジョスリーン卿と、トマス・コルビル卿の絵を描いた旗とが観客席じゅうにはためく。
その数は百以上。
だれもがこの二人の一騎打ちを楽しみにしている。
注目の準決勝。
そんな真っ只中にたたされる円奈とルッチーアの二人。
「どうすんだよ?」
ルッチーアは途方に暮れたまま、なにもかも諦めたように声を漏らした。
「ジョスリーンはいないし、しかも相手の騎士の正体はエドワード王子……どうすんだよお」
どうにもならない、という顔をするルッチーア。
いくらジョスリーンが優勝をめざすといっても、相手が王家では文字通りどうにもならない。
王の実の子なのだ。
次期国王の候補。王位継承権の第一子。
そんなとんでもない相手とあたってしまった。
だというのに円奈ときたら、その事の重大さを露知らず、呑気のことを呟いた。
「すごーい…」
うっとり、小さな両手の指同士を絡めて、うるうるうっとり、乙女の目をしてトマス・コルビル卿をみつめている。
「白馬に乗った王子様……初めて見た……」
ルッチーアはコンと円奈の頭をついた。
「あいたっ」
円奈が痛がって我に戻る。
「そんな絵本みたいないい話じゃないっての」
ルッチーアはトマス・コルビル卿を指差す。
「その白馬の王子様が、ジョスリーンを叩きのめしてやろうって、いまジョストにきてんだぞ! 騎士は強さの順だ。つまりあの相手が一番残酷なんだよ!」
しかし審判は試合を進めてしまう。
「トマス・コルビル卿!準備はよろしいか?」
正体を隠した王子は槍をふりあげる。
審判は頷く。
「アデル・ジョスリーン卿!準備は?ん?」
審判は相手の騎士がまだ試合に現れていないことに気づく。
すると観客と貴婦人、騎士たち、審判の視線が、円奈とルッチーアの二人に集まった。
「う…」
二人の顔がひくつく。
「ジョスリーン卿はいないのか?」
審判が大声で二人の紋章官に呼びかける。
「それにしてもお前たちは、なにかと面倒ごとを起こすな」
はっはははは。
げらげら笑い出す観客席。
「いなければ棄権だぞ?」
審判にせままれ、答える言葉がない二人。
従者なのに、主人がそこにいないのでは、どうにもならない。どんな言い訳も無駄だ。
すると審判はふう、と諦めた顔つきして、旗をあげかけた。
「この試合、トマス・コルビル卿の不戦勝────」
「まて!」
どこからか女騎士の声がした。
間違いなくジョスリーンの声だ。
「ジョスリーンさん!」
円奈が顔をみあげる。
だが声はしたもの、姿が見当たらない。
円奈がきょろきょろあたりを見回す。
円奈だけではない。
審判も、騎士たちも、貴婦人も、観客席の誰もが、声のした方向を求めて首をきょろきょろ動かす。
「あそこだ!」
ルッチーアが最初に叫んだ。
「えっ?」
円奈が声をあげる。
ルッチーアが指を差している先は────。
なんと、”空”だった。
「ええっ?」
円奈が顔を見上げて観客席に囲まれた競技場の空に目をむける。
そこには、観客席の一番上の天井の屋根にドーンとたった、女騎士がいた。
「私ならここにいる!棄権はしないぞ!」
馬上競技場の屋根に立ったジョスリーンは、大声で宣言した。
観客席の客たちが、空を背景にして屋根にとつぜん現れたジョスリーン卿の姿に、わあああああああっと沸き立ち、一気に熱狂一色となる。
「あのバカ!またへんな演出ばっかり考えて!」
ルッチーアは目を手で覆う。「相手が誰かもしらないで……」
審判が変な目をして、屋根に突然あらわれたジョスリーン卿をみあげ、呼びかけた。
「ジョスリーン卿!なぜそこに立っているのかは知らないが、試合をするなら降りてきなさい」
「それが降りられないんだ!」
女騎士は屋根の上で叫んだ。
「屋根から屋根へ飛び移ってここには辿り着けた!けど降り方がわからない!」
「そんなこと私にもわからん!」
審判が怒って言い返すと、観客席がわっと笑い出した。
「なんでもいいがさっさと飛び降りなさい!」
「飛び降りたら大怪我してしまう!」
ジョスリーンが屋根上から叫び返す。
「ロープをだしてくれ!それで降りる!」
審判は毒づき、心底あきれた顔しながら、副審判に命令した。「ロープをだせ」
「はい」
副審判はロープを出すため馬上競技場の審判席をあとにした。
従者たちにロープをもってきさせ、長さが十分にあることを確認すると、ジョスリーンのほうに持っていく。
それを見届けた主審は首をひねり、はあというため息とともに、忌々しそうに呟いた。「あの女騎士は訳がわからん」
そんな、屋根上の女騎士と審判のやり取りをみていたトマス・コルビル卿は。
楽しそうに見て笑っていた。
「こんな愉快なジョストは生まれて初めてだ」
「しかし、相手はアデル家の子女ですよ」
従者が静かに諫言する。
「傷つけてしまっては…」
「かまわん!」
コルビル卿は従者の意見をつっぱねる。
「そんな危険も承知でジョストに出場しているあの女の、自分の責任だ!」
273
ジョスリーンはロープをつたって馬上槍競技場の屋根から降り立った。
スタっと地面に両足が着地する。
ゆたかな金髪がふわっと捲き起こった風にそよぐ。
「なにしてるのさ!」
さっそくルッチーアがジョスリーンにつっかかった。
「バカなことばっかりしてさ!円奈に変な文は読ませるし!今度は準決勝だからって空からご登場か! 張り切りすぎだよ!」
「いや、別に意図的じゃない」
ジョスリーンはロープを手から放し、ルッチーアにむきなおった。
金髪翠眼の美しい貴婦人騎士、ジョスリーン卿の派手な登場に、すっかり会場全体は、熱気だっている。
今か今かと準決勝の開始を待ちわびている。
「いろいろあってだな…」
「いったいどんなことがあれば屋根からの登場になるんだよ?」
ルッチーアは相手を追及する。「劇的に登場したかっただけだろ?」
「そんなんじゃない命がけでここにきたんだ!」
ジョスリーンは魔法少女に言い返し、それから従者たちから鎧と馬を受け取った。
「おまえたちには貴婦人の不自由さがわからんのだ」
「へっ、わるかったねえ貧民で!」
ルッチーアがふて腐れた顔をする。
「仰せのとおりにもってきました」
部下たちは鎧を渡してくれる。
「ありがとう、助かるよ」
ジョスリーンは部下たちに礼をいい、鎧を着込みはじめる。
この部下たちは、あの軟禁を計画した侍女たちとは違う、本当に自分のために働いてくれる部下たちだ。
腰元で鎧のバンドをとめ、最後に兜をかぶる。
兜のバンドを首元でとめる。
素早い武装だった。
部下たちが持ち運んだ踏み台に乗り、何人もの部下たちに手伝われて、やっと思いで騎乗する。
槍も手に受け取ると、すっかり貴婦人は女騎士の姿になった。
甲冑に、槍に、馬に騎乗した万全の体勢。ジョストに挑む準備が整った。
当たり前だけど、円奈よりよっぽど手際のよい従者たちだった。
なんとなく悔しい思いでそれを見守る円奈は、口を噤み、むーっとうなり声をだす。
「さていくぞ、準決勝だ!」
張り切った調子のジョスリーンは兜の面頬を閉じ、会場へむかう。
が、それをルッチーアがとめた。
「だめだ!」
黒髪の魔法少女は女騎士の前に立ちふさがる。
「なんだ?」
ジョスリーンが馬上から地面に立つ魔法少女を見下ろす。「どうした?」
「トマス・コルビル卿はエドワード王子だよ」
ルッチーアは応仁立ちになって、険しい顔で告げる。
「アンタが戦っちゃいけない相手だ」
「なに?」
ジョスリーンの兜に隠れた翠眼に驚きがあらわれる。
「王家が馬上槍試合にでることはあるが、まさか身分を偽って……」
さすがに声が動揺している。
ジョスリーンは、馬上競技場の向かい側に立った白馬の騎士に視線を移す。
美しい白馬を乗りこなす黒い甲冑の騎士。トマス・コルビルを名乗るその正体は王家。
もちろんアデル家はエドレスの都市を取り締まって治める役目を、王家から選ばれて任命された家系である。
一言でいえば、ようするに王家の家来。
家来にあたるアデル家が、王家のしかも王子に牙をむくなど、できるはずがない。
まして騎士ならなおさらだ。
騎士は、王家に絶対の忠誠を誓ってこその騎士。
女騎士だってそれは変わらない。
「…」
これにはジョスリーンも悩みが生じている。
いや、悩みとは生易しい。葛藤だ。もし、王家に楯突こうものなら……。
アデル家は地位を失う。
「だから、あんたが戦っちゃいけない相手なんだ。気づけてよかった」
ルッチーアは腕組みながら言うと、女騎士を足止めしたあと、棄権用の白旗を持った。
「棄権を表明してくる」
ルッチーアは掛け台に掲げられたアデル家の紋章に白旗をかぶせた。
棄権の合図。
うーうー。
ルッチーアが紋章に白旗をかぶせると、観客席から猛烈な野次と不満の声があがる。
アデル家の、猛々しい鷹を描いた紋章は、白に被われ、戦うという意志を隠してしまう。
向こう側で準決勝に挑む気マンマンだったエドワード王子も落胆した。
準決勝まできたであろう騎士が、情けない。
彼はうんざりといったようにふうと息を吐き、がっかりしつつ槍を従者に渡す。
「でも…」
ジョスリーン卿のジョスト棄権に対して不満の声があがっているなか、円奈はふうと息を安堵したようにつく。
「仕方ないよね…相手が王家じゃ……逆らうわけにはいかないもんね……」
すっかり安心しきっている。
まるで棄権が安全な選択だったとでもいいたげだ。
女騎士はぎりっと歯を噛み締めた。
審判が今にも棄権を受け取れ、発表しようとしている。
「ここまできたのに棄権なんて……」
ジョスリーンは我慢ならなかった。
「いやだ!」
「えっ!?」
安心しきった表情にゆるんでいた円奈が急に顔をあげた。
ジョスリーンの槍を握る手に力がこもる。
「鹿目さま」
とジョスリーンは、円奈を紋章官としてではなく、騎士としての呼び方で呼びかける。
「私はあなたと約束しました」
「約束…ですか?」
円奈が恐る恐るたずねる。恐ろしい予感を身に感じながら。
「そうです」
ジョスリーンは相手側に立つエドワード王子という相手を見据え、眼を鋭くさせ、決意をかためる。
彼に戦いを挑むという捨て身の決意を…。
「”もし私の紋章官をしてくれるのなら──”」
決意に闘志を滾らせる女騎士の眼が鋭くなり、そして彼女は円奈に、かつて交わした約束を語る。
「”二度と私は不正をしない”と」
たしかにそんな会話した気がする。
でも円奈はすっかり忘れていた。
「”騎士として正々堂々戦って”と!」
ジョスリーンはついに、王家に勝負を挑む腹を決めた。
「だからここでは退けません!」
ルッチーアが、額にたまった冷や汗をぬぐいながら戻ってきた。
試合開始前になんとか棄権ができてよかったと安堵しながらもどってきた彼女だったが、おかしな様子にきづいた。
ジョスリーンが馬の腹をけったのだ。
鐙でトンと馬のわき腹が叩かれ、そして次の瞬間には───。
「え?ちょっと」
ルッチーアが口をあんぐりあけながら愕然としている横を女騎士は通り過ぎ───。
「やぁ!」
掛け声あげて、槍を前の伸ばし、馬上槍試合のフィールドへと飛び出していった。
「ま、まって、ジョスリーンさん!」
円奈があわてて女騎士を呼び止めている。「ダメだよ!相手は王子さまだよ!ジョスリーンさんっ──!」
が、女騎士はとまらない。
あっという間に馬でフィールドのむこうへ離れていってしまう。
沸き起こる会場じゅうからの歓声。
一方反対側のエドワード王子は、すっかり相手が棄権したものだと思っていたから、槍も従者に渡していた。
失望のやるせなさのなか兜の面頬を開ける。
だが、その王子の目がふと、自分のほうへ突っ込んでくる女騎士の姿にとまる。
相手は棄権などしなかった。
エドワード王子は嬉しそうに笑って、プレートの面頬を閉じ直すと、従者に呼びかけた。
「槍を渡せ!」
槍を手にうけとり、王子はトマス・コルビル卿としてフィールドへ飛び出した。
美しい白馬が優雅に走り出し、舞うように駆け、女騎士とぶつかりあう。
王子と女騎士のジョスト対決───
ものすごい歓声が会場に溢れ帰る。
女騎士の馬と、王子の白馬が、競技場を駆け抜け、柵を隔てつつすれ違う。
すると馬上で槍と槍の激突が起こる。
トマス・コルビル卿と偽名を名乗る、王子の槍の一撃が女騎士の胴へ。
女騎士も反撃する。
それは鋭く正確な一撃。
ジョスリーンの槍は狙いが定まり、王子の胸に命中した。
二人の槍が交わる準決勝の戦いは、どちらも負けるに劣らない。
どちらの槍もバギっと叩き割れる。
二人とも槍を交えてぐらっと馬上でぐらつき、攻撃を受けた衝撃にふらつきながらジョストを走りきった。
「なんてことを…するんだよ」
ルッチーアは喪失感すら感じながら脱力し、棄権用の白旗を投げやり気味に地面に捨てた。
「王子に傷がついたら?」
魔法少女は王子と戦った女騎士を見ながら、独り言で責めた。もちろん、その声はジョスリーンには届かない。
王子と女騎士は出撃位置にもどるべく、フィールドの走った道を戻っていると、途中ですれ違った。
「いい一撃だった」
王子は自陣の位置に戻る途中、女騎士とすれ違うと、相手の一撃を褒めた。
「技に華がある」
「あなたこそ」
ジョスリーンも微笑み、相手に答えた。
「トマス・コルビル卿。いえ───」
女騎士は、相手の正体を言い当ててしまう。
「”エドワード王子”」
するとコルビル卿はふっと笑い、まいったとばかりに兜を頭からとった。
王子として知られた顔が観衆の明るみにでる。途端に、おおおっと驚嘆する観客席の見物客たちの声が漏れた。
「しっていたか!」王子は笑って顔をみせる。
「ええ」
女騎士は答えた。
「馬上からの謁見をお許しください」
ジョスリーンは兜をとる。
金髪がさらっと風にながれた。兜を胸元で丁寧に抱え持ち、馬上からではあるものの、女騎士はジョストを戦った王子に礼を示した。
ますます王子は、嬉しそうな顔をする。
「おまえは私を王家としっていながら───」
ジョスリーンの翠眼を王子は優しくみつめる。
「私と戦ったのだ」
「ええ」
兜を胸元に丁寧にもった女騎士は王子に答える。その額は汗だくで、金髪の前髪がでこに張りついていた。
「エドワード王子。わたしは優勝をめざします」
「そうか」
王子は首をひねる。
「なら決勝戦に進むとよい」
女騎士が意外そうな顔をした。
「私は棄権しよう」
王子はきっぱりそう告げてしまう。
「観衆は私を知った。私の今回のジョストはここまでだろう」
女騎士は王子に言った。
「残念です。最後まで戦ってみたかった」
王子は笑う。
「私もだ」
それから王子は声を小さくして、いきなり真剣な顔になると女騎士に告げた。
「私が王都を離れ、都市にきたのは、”闇ジョスト”を突き止めるためだ」
闇ジョスト。
聞きなれない単語にジョスリーンは顔を強張らせる。
「決勝戦まで時間がある。この試合が流れたあと、中央広場の噴水で待っている」
王子は小声で囁いたあと、手をふりあげ観衆たちの声援に応えると、棄権の意を示した。
ジョスリーンは馬を並足で歩かせ、ルッチーアたちのもとにもどった。
「王子がケガでもしたらどうする気だったんだ?」
ルッチーアはじとーっときつい目でジョスリーンをみあげ、さっそく責めた。
「自分の責任だ」
ジョスリーンは答え、馬を降りる。
トマス・コルビル卿の棄権によって、ジョスリーンは決勝進出。
因縁のメッツリン卿との一騎打ちを残すのみとなった。
「次の試合は、ベルトランド・メッツリン卿とウルリック・フォン・エクター卿の対戦です」
白馬に乗った本物の王子という、思わぬ大物ゲストに、きゃーきゃーきゃーと都市の女たちが叫ぶなか、審判は声を負けじとだして懸命に司会役を務める。
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「まったくどうなるかと思ったよ!」
ルッチーアと鹿目円奈、ジョスリーンの三人は都市の広場へと出ながら、王子との待ち合わせ場所にむかっていた。
三人のうちルッチーアが先頭を進み、さっきの準決勝について、口を尖らせ愚痴をこぼしている。
「棄権に間に合ったかと思えば進撃してさ!」
ジョスリーンと円奈の二人はどこか楽しげに、文句を垂れ続ける魔法少女を見守っている。
「私がせっかく白旗だしたのに無視しちゃってさ!私の心遣いは無視か!そうか!」
すっかりふて腐れている魔法少女の愚痴はとまらない。とどまることをしらない。
「一歩まがえたら反逆罪、不敬罪だったぞ!」
円奈とジョスリーンはルッチーアの愚痴をほどほどに聞き流しながら二人うちで会話した。
「決勝戦はメッツリン卿だ」
「いよいよ、ですね…!」
円奈の声が強張る。
「メッツリン卿には結婚を申し込まれている」
女騎士は歩きながらいう。その姿はもう甲冑もすべて脱いでいて、従者に渡していた。
「”私に負けたら妻になれ”と要求してきた」
「それ、絶対に負けられないですね…!」
円奈が張詰めた声で緊迫気味にいうと。
「ああそうだ。絶対にまけられん。私は貴婦人の女になるんじゃない。騎士になるんだ」
ジョスリーンも頷いた。
「ちょっとあんたら、きいてるのかよ!」
ルッチーアがとうとう怒った。
「もし王家を敵に回していたら?この国じゃ生きていけなくなってたぞ!」
「あー、わかったわかった」
ジョスリーンはルッチーアの前まで歩くと、ぽんぽん黒髪の頭髪を叩いたあと、動物でもなだめるみたいに撫でてやった。
「心遣いに感謝するよ。でも、優勝を譲る気はなかったもんでね」
「触るな気持ち悪い!」
ルッチーアはジョスリーンの手をはらった。「わたしをなんだと思ってる!魔法少女だぞ!あんたら人間が生きて生けるのは私らのおかげだぞ!」
「そうだその通りだ。感謝しているよ。本当だ」
「私を子供か何かと思っているのか?」
ルッチーア、ますます怒ってくる。
「適当にあしらいやがってさ、それで私の機嫌が直るとでも?」
「駄々捏ねちゃって、ルッチーアちゃん、ほんとうに子供みたいだよ…」
円奈がぼそっと呟くと。
「だ、だ、だ」
ルッチーアが円奈を睨んだ。
「だれが子供だあ!」
「静かにしてくれ、王子を探そう」
ジョスリーンは結局最後までルッチーアを適当にあしらいきった。
「ここで待ち合わせするようにいわれたんだ」
噴水のところまでくると、三人は王子の姿を探した。
一人のローブ姿の男が立っていた。
ローブで全身と顔を隠して覆っていたが、まるで漂う風格がちがう。
ジョストを交えたジョスリーンは、彼が王子であると見抜いた。
王子はフードを脱いだ。
「私について従え」
エドワード王子は三人に命令をくだす。
もちろん、アデル家の侍女という設定である円奈もルッチーアも、王子の命令には逆らえない。
そのうち王冠を頭に載せる騎士なのだ。
「”闇ジョスト”の地下競技場は、場所をもう突き止めてある。きみたちと一緒に”闇ジョスト”の観客席に紛れ込む。私はトマス・コルビル卿として”闇ジョスト”に入る」
三人は緊張気味に互いに顔を見合わせた。
つまり自分を王子とは呼ぶなという王家からの直々の緘口令だ。あくまでコルビル卿と呼べという意味だ。
「はい」
だが女騎士に逆らう道はなかった。「仰せのままに」
丁寧にお辞儀したあと、ジョスリーンは、王子のあとに従って歩いた。
円奈とルッチーアも応じのあとについて歩いた。
641 : 以下、名... - 2014/09/04 22:10:31.74 68HPW8YF0 1472/3130今日はここまで。
次回、第35話「闇ジョスト」
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