関連
晴「11年黒組です!」【前編】
晴「11年黒組です!」【中編】
ヴァレンティヌスが戸惑うほどに
今年のバレンタインデーは土曜日
そのため学舎に通う多くの乙女達は、その前日の金曜日にチョコを渡せるように準備をしていた
しかし黒組に在籍する乙女達はそうはしない
何故なら寮暮らしであるため平日だろうと休日だろうと、会いたい時に会うことが可能だからである
故にまるで祭りの様に沸き立つ2月13日は、彼女達にとって決戦に備える準備の時となっていた
そしてその日、黒組は二つの集団に分かれ行動していた
香子「なあ…私達はこれでいいんだろうか…」
そんなことを神長香子が言い出したのは、昼休みのことであった
兎角「これでって…どういうことだ?」
今この黒組の教室には、東兎角を含め神長香子・犬飼伊介・武智乙哉・番場真昼、そして大量のチョコが入った紙袋を抱える生田目千足がいた
もっともチョコを持っているのは千足だけではなく、全員がある程度のチョコを持っている(千足のは特に数が異常だが)
これらのチョコは彼女達が作った訳ではなく、すべてミョウジョウ学園の一般生徒からの贈り物である
そしてこの大量のチョコをどう処理するかを考えるべく、自然とこのグループが出来ていたのだった
香子の発言は、もらったチョコの数を数えていた矢先であった
香子「この際単刀直入に聞こう。この中で…」
香子「明日のバレンタインのチョコの準備ができているものはいるのか?」
静寂が、場を支配した
この時この集団は2種類に分けられていた
兎角「チョコの準備…何でだ?」
千足「……ああ、そういうことか」
乙哉「そういや普通は送るイベントだったね~」
1つはバレンタインをチョコがもらえる日としか認識していなかった組
これまで大量のチョコを受け取ってきたのが逆に災いし、バレンタインのそもそもの意味を忘れていた者達だ
兎角・千足・乙哉がこれに該当する
伊介「え~、伊介がわざわざ準備するなんてありえな~い?」
番場「……うう」
そして残った三人
その態度や表情には共通点は見られないが、彼女達は共通して指に切り傷や火傷の跡を負っていた
残る一方。それは準備しようと思ったが技術不足で用意が間に合っていない者達である
ここには伊介・真昼・香子が属していた
香子「まず生田目、東、武智。お前ら最近同室の相手が妙に忙しそうだとは思わなかったか?」
兎角「ん…?そういえば確かに晴は最近忙しそうだな…」
千足「柩もそうだ。今週は放課後は毎日どこかに行っているな」
乙哉「しえなちゃんもだね~。なんで忙しそうにしてるのか聞いたら、『まったく誰のためにやってると思って…』とか呟いてたよ」
香子「そこまで分かっていて何故バレンタインに結びつかないんだ、コイツ等…ウチの首藤もそうだ。犬飼、番場、そっちはどうだ?」
伊介「…同じよ。アイツ普段の雑用の仕事もあるのに、毎日どっか行ってるわ」
真昼「す、純恋子さんも…です」
兎角「ほう…それはずいぶんな偶然だな…って、神長。何で私をそんなゴミを見るような目で見る?」
否、香子だけでなく、その場にいる兎角を除く全員が兎角へ、あまり良くない意味のこもった視線を投げかけていた
千足「私でもさすがに気付いたよ…」
乙哉「アタシも。もう、しえなちゃんったら素直じゃないんだから~///」
兎角(何だ!?一体あの限られた情報で何が分かったというんだコイツ等は!?)
香子「はあ…若干一名程見当もつかないという顔をしているからハッキリ言おう。東!」
兎角「なっ、なんだ!?」
香子「彼女たちがなぜ最近忙しそうにしていたか…それはほぼ間違いなく、明日のためにチョコを作っているからだ!!」
兎角「…………………」
兎角「…………ああっ!そういうことか!!」
乙哉「鈍っ!!」
千足「東…さすがにどうかと思うぞ…」
伊介「いや、アンタらも人のこと言えないから」
真昼「あ…あの…」
香子「ん?どうした、番場?」
真昼「最初に言った、『私達はこのままでいいのか』って…どういう意味、なんですか…?」
香子「ああ、そうっだったな。まずおそらく明日私達はチョコを渡されることだろう」
香子「だが私達とて女だ。こちらからは渡しもせずに渡されたチョコをただ貪るだけの存在でいていいのだろうかとふと思ってな」
乙哉「貪るって…」
千足「それで、結局何が言いたいんだ?」
香子「単純な提案だよ。今ここにいるメンバーで…」
香子「放課後チョコを作らないか?」
香子『とりあえず各自で放課後までにどんなチョコが作りたいか考えてきてくれ。その案に沿った形でチョコを作れるようお互いに協力し合おうじゃないか』
意外にも、この香子の提案に反対するものは出なかった
チョコを贈ろうという意識を持っていなかった者も、好意の証としてチョコを贈るということには非常に意欲的だったことが一つの要因だった
また今まで技術的に一人で作れなかった者達からすれば、この協力体制は閉塞した現状を打開しうる解決策だと思えたからという理由もあるだろう
そのため今彼女達はチョコ作りという、なんとも学生らしい悩みに直面しているのだった
兎角(チョコ…晴はどんなチョコが好きなんだろうか…?だが前日にいきなり聞くのもわざとらしすぎるし…)
乙哉(せっかくしえなちゃんにあげるんだもん。特別なヤツにしなきゃね!)
伊介(このアタシが作るんだから、妥協は許されないわ!)
千足(作りやすさも考慮するとなると…)
真昼(……どうしよう)
彼女達は、普段は全く考えないチョコについて、真剣に悩んでいた
そして放課後
6人はあらかじめ予約した(鳰に予約させた)第三家庭科室へと集合していた
香子「さて、集まってもらって早速だが、各自考えた案を聞かせてくれ。まずは東、頼む」
兎角「私からか。いいだろう」
伊介「なに?ずいぶん自信満々じゃない」
兎角「当然だ。これを考え付いたとき、あまりの完璧さに身震いしてしまったほどだからな」
真昼「なんか…嫌な予感が…」
兎角「私の考えたチョコはこれだ!!」バッ
『カレーチョコ』
兎角「これはチョコと完全食であるカレーを半々にして組み合わせるという画期的な…」
香子「却下!!」
兎角「な、何故だ!?それにまだ説明が途中で…」
香子「カレーとチョコを半々って時点でまともな食べ物になるわけないだろ!」
伊介「やっぱり東さんは東さんね~」ケラケラ
兎角「だったら犬飼、お前はどうなんだ!」
伊介「伊介のはちゃんとしてるわよ。少なくとも東さんみたいに食べられないものを考えたりはしてないわ」
香子「ほう、なら次は犬飼だな」
伊介「伊介の案はこれよ!」ババンッ
『世界一華麗なチョコレート』
そこには不死鳥をかたどった見事なチョコ細工を写した雑誌の記事が貼り付けられていた
伊介「伊介が作るんだもの。中途半端なものじゃ…」
香子「却下!!」
伊介「ちょっと、何でよ!」
香子「犬飼、理想がはっきりしているのはいいが私達は菓子作りに関しては素人の集まりだ。それにお前のその手の傷から、相当チャレンジして失敗してきたんだろう?ならその難しさは良く分かるはずだがな」
伊介「くっ…!!」
伊介は絆創膏だらけの両手を後ろに隠しながら小さく唸った
それは今まで作ろうとして、数多く失敗を重ねてきたということを示していた
香子「ハッキリ言ってその案は実現不可能だ」
乙哉「アハハッ、東さんも伊介さんもリアリティが無さすぎるよ~」
香子「ほう…じゃあ次は武智にその現実的な案とやらを聞かせてもらおうか」
乙哉「うんっ!アタシの案は~……これっ!!」ズババンッ
『特別をあなたに ブラッディ・チョコレート』
乙哉「これはチョコに隠し味として自分の血液を…」
香子「却下!!」
乙哉「え~、何で~?」
香子「普通に怖いわ!確実に相手のドン引きされるぞ!」
乙哉「そう…?アタシだったら嬉しいけど」
香子「シリアルキラーであるお前を標準に考えるなよ…」
伊介「さっきから却下ばっかり。そういう神長さんのはちゃんとした案なんでしょうね?」
乙哉「そうだそうだ~!」
香子「ふっ、いいだろう。私の考えだした現実的かつ最も美しいチョコの形を見るがいい」ババーンッ
『究極の美 黄金長方形型チョコレート』
香子「これは最も安定して美しい形である黄金長方形型のチョコを作るという…」
伊乙「却下!!」
香子「何故だ!?お前たちにはこの美しさが分からないのか!?」
伊介「美しさ以前にもうこんなのただの板チョコじゃない!」
乙哉「明○ミルクチョコレートでも買えばいいんじゃないの~?」
香子「なんだと!?」
兎角「何故カレーがダメなんだ…」
真昼「なんか…」
千足「ああ、収拾がつかなくなってきているな…仕方ない…」
パンッパンッ
家庭科室に千足の手を叩く音が響き、言い争っていた3人は静まり返った
千足「静かにしてくれ。言い争うのは私と番場の案を聞いてからにして欲しい」
香子「生田目と…」
乙哉「番場ちゃんの…」
伊介「案…?」
兎角「カレー……」
千足「ああ、私達は実現可能な範囲でどういう物がいいか、事前に話し合っていたんだ」
真昼「特に…実現可能が…重要…」
千足「その観点から私達が出した結論は…」
真昼「これ…です」バンババンッ
『6人合作 チョコレートケーキ』
乙哉「6人…」
伊介「合作…?」
千足「ああ、私達が別々のものを作ろうとしていたのではとてもじゃないが明日までには完成しないだろう。だが6人で一つのものを協力して作るのであれば何とか完成させられる」
真昼「チョコケーキなら…レシピもちゃんとあるし…」
香子「なるほど…確かに実現は十分可能だな」
千足「それにこういうのは、チョコそのものよりも贈る側の気持ちが一番大切なんじゃないかな」
伊介「恥ずかしいセリフをさらっと吐くわね」
乙哉「まぁでも確かに言われてみればそうかもね…」
香子「よし!じゃあ生田目と番場の案の、チョコレートケーキを作るということでいいな!」
伊介「ま、いいんじゃなーい?」
乙哉「異議なーし!」
兎角「カレー…」
香子「東ァ!いい加減カレーから離れろ!!」
冷静な香子もさすがにキレた
そんなこんなで、チョコレートケーキを作ることで無事意見は固まった(若干1名怪しいのがいるが)
しかし癖のある6人が集まった集団において常識は通用しない
船頭多くして船山上ると言うが、彼女達の場合空すら飛びかねない
以下は彼女達の悪戦苦闘の様子を抜粋したものである
香子『東ァ!!さりげなくチョコと一緒にカレールーをレジのカゴに入れるな!!』
香子『ちょっと待て!武智に包丁を握らせるな!』
真夜『ヒャッハーーッ!!面白そうなことやってんじゃねぇか!!』
香子『くっ!番場が暴走した!生田目、奴を抑えてくれ!』
香子『東ァ!!湯煎したチョコにカレールー入れようとするな!!いい加減殴るぞ!!』
…まあ、そんなこんなはあったものの、何とか無事完成させて、6人は翌日を迎えたのだった
―翌日
―金星寮
晴「一体どうしたんでしょうね?兎角さんたちが食堂に集まってほしいだなんて?」
春紀「さあねぇ…でもアタシらが集まってチョコを作っていたように、昨日あっちも何か集まってやってたらしいよ」
涼「ふむ、ということは…」
純恋子「期待してみてもよろしいかもですわね」
柩「楽しみです!」
しえな「ボクはちょっと不安だけどな…」
6人が食堂のドアを開けると、大きな破裂音が連続して鳴り響いた
兎千伊乙真香「「「「「「ハ、ハッピーバレンタイン!!」」」」」」
そこにはクラッカーを持った兎角・伊介・千足・香子・乙哉・真昼がいた
その光景と音に、ドアを開けた6人は驚き、声が出なかった
兎角「…おい、なんか反応がないぞ?」
伊介「やっぱりバレンタインじゃクラッカーは鳴らさないんじゃないの?」
真昼「で…でも…真夜が鳴らした方がいいって…」
千足「ま、まあ、とにかく…今日はバレンタインデーだからな。私達6人でチョコを用意したんだ」
香子「あまり料理が得意でない集団で作ったものだから過度な期待はしないで欲しいが…」
兎角「私達の気持ちだ。どうか受け取ってほしい」
そうして示された方向には、少々形は歪んでいるもののちゃんとしたチョコレートケーキがあった
晴「わあっ!ありがとう!兎角さん!」
兎角「お前が喜んでくれて嬉しいよ」
柩「ありがとうございます。千足さん!」
千足「いや…いつも何かとしてもらってばかりだからな…」
春紀「へ~、伊介様もこれ作ったんだ」
伊介「そ、そうよ。だからありがたく食べなさい!」
涼「ふむ、それではみんなの分を切り分けるかのう」
香子「私も手伝おう」
乙哉「あ、アタシも~!」
しえな「お前は座っとけ」
純恋子「私は紅茶の準備をしましょうか。手伝ってくださいますか?真昼さん」
真昼「は、はい」
こうして、途中経過の割には至極まともに、バレンタインパーティが開催された
そうして兎角たち達6人のバレンタインは何事もなく無事に過ぎていった
しかしバレンタインとはあげるだけの行事ではなく、貰うことも含めての行事である
だが兎角たちは途中から、ちゃんとしたチョコを作ることで頭がいっぱいになり、貰うことにまで意識が回らなくなっていた
そのため、次に行動を起こしたのは晴たち6人であった
彼女達は一瞬アイコンタクトを取り何かを確認してから、行動を起こした
晴「と、兎角さんっ!そろそろ、お、お部屋に戻りませんかっ!?」
兎角「ん?まあ、いいが…」
純恋子「ちょうどケーキも無くなりましたし、お開きということで部屋に戻るのがよろしいのではありませんか?」
真昼「そ、そう…ですね…」
涼「なら後片付けはわしと香子ちゃんがやるとしよう。他のものは部屋に戻っていてよいぞ」
香子「あ、ああ…そうだな」
千足「いや、それなら私も片づけを…」
柩「千足さん、せっかく首藤さんがああ言ってくれているんですから、部屋に戻りましょう?」グイッ
千足「そ、そうか…?じゃあ、首藤、神長、すまないがよろしく頼む」
涼「うむ!」
香子「ああ」
乙哉(あ!これってチャンスかも!)
乙哉「し~えなちゃんっ!アタシたちも部屋に戻ろうよ」
しえな「あ、ああ。そうだな」
しえな(あっちから言い出してきてくれたか…これはかえって好都合だな)
春紀「じゃ、アタシらも戻ろうか、伊介様」
伊介「そうね。それじゃ、後よろしく~」
こうして涼と香子を残し、それぞれは自分の部屋へと戻って行った
これにより、環境が出来上がった
告白の際に必要なものとは何だろうか
自分の思いを告げるための愛の言葉?
相手の気持ち?
それらはもちろん必要だ
しかしそれらと並ぶ重要な要因の一つが環境である
同じ相手に同じ告白をしたとしても、誰もいない二人きりの教室で行うのと、吊り橋を渡っている最中にいきなり行うのでは、当然効果は大きく異なる
まあ要するに、ムードというものは大事だという話である
チョコを渡すことは即ち告白という訳ではない
…訳ではないが、しかしそれでも良いムードを追及してこそ乙女というものだ
二人きりであるというのは、そのための最低条件だ
そして、少々強引ではあるが、彼女達は最低条件をクリアしたのだった
1号室の彼女達
兎角「ふう…」
部屋に戻ってくると、自然とベッドへと足が向かった
まあそれも無理はないか
昨日は慣れないことをして、本当に疲れた
…とはいえ楽しくもあったし、なにより晴があそこまで喜んでくれたのだ
この疲れさえも誇らしい勲章の様に感じる
晴「と、兎角さんっ!」
だがそうしてベッドへ向かう私を背後から晴が呼び止めた
振り向いて見た晴の顔は、なんだか赤くなっていて妙に可愛らしかった
晴「き、今日はチョコレートありがとうございました!そ、それでですね!」
…? 何か緊張している様子だ
それに両手を後ろにして何かを隠しているようだ
一体どうしたのだろう?
すると晴は後ろ手に隠していたものを私の目の前に差し出した
晴「こ、これっ!受け取ってください!」
差し出された物は綺麗にラッピングされた四角い物だった
兎角「これって…もしかして」
晴「晴、そんなに料理とか上手くないですけど…一生懸命作りました!それで、あの…」
兎角「ありがとう」
自然と晴の手を取り、そう言っていた
思ったまま感じたままに出た、行動と言葉だった
一度作る側に立ってみたからこそ、チョコを作るその手間が分かる
その手間が分かるようになったからこそ、嬉しさと愛しさが溢れ出して止まらない
赤さが増していく晴の顔を見つめながら、心の底からもう一度言った
兎角「ありがとう、晴」
晴「あ、あの、と、兎角…///」
晴の顔がゆでダコ寸前になってきたので、チョコを受け取り手を離した
兎角「開けていいか?」
晴「は、はい!もちろん!」
晴は太陽のような笑顔で答えた
丁寧にラッピングを外していくと、透明なプラスチックの箱に入ったホワイトチョコレートが現れた
透明な箱を開け、1つを手に取り晴に聞く
兎角「じゃあ、食べるぞ」
晴「は、はい…」ジーーッ
晴が緊張した顔で私を見つめる
その可愛らしい仕草に、少しクスッっときながら、私はチョコを口に入れた
ホワイトチョコの口どけの良い甘みが舌に伝わる
だがそれに加えて、慣れ親しんだ風味が口の中に広がった
兎角「…っ! 晴!これってもしかして…!」
晴「あ!分かりました?さっすが兎角さん」
これは、これは間違いなく…
カレーだっっ!!!!
チョコの甘さを壊さず、かつカレーの風味を香らせる絶妙なバランスでカレーが入っている!
一度私が考え付いたものの全否定され断念したカレーチョコがまさか…!
気付けば私は涙を流していた
晴「ええっ!?ど、どうしたの兎角さん!?」
兎角「晴…私は今猛烈に感動している!」
晴「え、ああ、うん…?」
兎角「チョコの甘さと共に感じる確かなカレーの存在感…!まさしくこれは今まで私が食べたことのない全く新しいカレーだ!」
晴「チョコだけどね…」
兎角「一度カレーとチョコを混ぜるという考えを全否定された時には、僅かではあるがカレーの万能性に疑いを持ってしまった…!だが今ハッキリと理解した。やはりカレーは完全食なんだ!!」
晴「えっと…喜んでくれてるのは嬉しいんだけど…何か複雑というか…」
兎角「ありがとう、晴!私はこの日のことを一生忘れないだろう!」
晴「……」
・・・数分後
晴が拗ねた
何が悪かったのか見当がつかない
私と違い晴は普通の女の子だ
まったく、普通の女の子の心というものは読みにくいものだ…
これが日向の人間とそうでない人間の、埋めようの無い差というものなのか…
そんな間の抜けたことを考えていた兎角ではあったが、しかしその数分後には何気ない兎角の言葉で笑顔を浮かべる晴の姿がそこにはあった
なんやかんやとありながらも、結局楽しく、幸せで、そして普通の、バレンタインデーを過ごした二人であった
1号室編 完
2号室の彼女達
伊介(アタシは冷静アタシは冷静アタシは冷静……)
アタシは今、春紀の後をついて金星寮の廊下を歩いている
そしてアタシは今、冷静だ
冷静という言葉がゲシュタルト崩壊しそうな程に、頭の中は冷静という言葉で埋め尽くされているくらい冷静だ
だから、アタシの心臓がドクンドクンと大きく高鳴っているのは気のせいだし、握っているこぶしが汗でしっとり湿っているというのも気のせいだし、歩く足が震えて転びそうになるなんてことも気のせいだ
何度だって繰り返す
アタシは今、冷静だ
…………いや、もう自分をごまかすのは止めよう
アタシは今、冷静なんかではない
不安で、心配で、緊張で胸の鼓動が治まらない
アタシは今、とてつもなくドキドキしている
このドキドキの始まりは、ほんの2~3分前
春紀と一緒にバレンタインパーティから帰ろうとした直後に気付いたあることが頭から離れないことが原因だった
『春紀はまだバレンタインチョコをアタシにくれていない』
パーティの熱に浮かされ、アタシはこんなことにも気づいていなかったのだ
春紀がくれないはずはないと頭では分かっている
春紀は最近備品管理や寮の維持作業が終わった後、どこかへ行っている
それはどうやら、他の黒組の面々とチョコを作っているという話らしい
そしてなにより、あの一件以来、春紀とはその…と、特別な関係になったのだから…
アタシにチョコを渡さないということはまず無いだろう
それでもなお、アタシの胸の震えは治まらない
いやむしろ、そうした大切な存在になったからこそ
大好きな目の前の人が、自分から離れてしまうのが、怖くて怖くてたまらない
我がことながら、いつの間にこうなってしまったのだろうと思いはする
だけど、これはもうどうしようもない
世界中で最も多くの人間を悩ませてきた、不治の病に罹っているのだから
そんな似合わないことを考えているうちに、いつの間にかアタシ達のの部屋の前まで来ていた
とにかく考えていても、埒が明かない
部屋に入ったら、意を決して速攻で聞く
伊介(それが伊介らしいやり方ってもんでしょ!)
そうして私は春紀に少し遅れて部屋に入った
伊介「あのさ、はる…」
春紀「はい、伊介様」スッ
部屋に入るなり、春紀はアタシにラッピングされた箱を差し出してきた
伊介「え、これって…」
春紀「ん?チョコだよ。伊介様への」
いや、それは流石にわかるけど
春紀「いやー、流石にみんないるところで渡すってのは抵抗あったからさ。遅れてごめん…って伊介様?変な方向向いてどうしたの?」
それはムードの欠片もない渡し方で
普通は怒りで顔を赤らめるところなんだと思う
なのに…なんでアタシは…
伊介(こんなに嬉しいって思ってるんだろう…)
今は絶対に春紀の顔は見れない
おそらく自分の顔は真っ赤になっていて、しまらない顔になってしまっているのだから
春紀「おーい?伊介様ー?もしかして怒ってる?」
伊介「怒っては…いないわよ…」
春紀「そっか。なら良いや。よかったら開けてみてよ。結構な自信作なんだよ」
伊介「…分かった」
そっぽを向きながらアタシはラッピングを丁寧に解いてゆく
そうして露わになった箱の中身は…
ピンクの小さなバラだった
いや、本物のバラじゃない
伊介「これって…」
春紀「どう?雑誌見てたらちょうどチョコ細工の特集やっててさ。伊介様好きそうだなって思ってやってみたんだ」
伊介「…綺麗」
花はストロベリーチョコで、茶色い葉っぱは普通のミルクチョコで出来ていた
それは一回や二回の挑戦で、簡単に作れそうなものではなかった
伊介(毎日備品管理や寮の掃除とかで忙しいはずなのに、この日のためにわざわざ練習や準備をしてくれていたんだ…)
それを意識すると、また顔が熱くなるのを感じた
だからいつの間にか覗き込むようにしてアタシの顔を見ていた春紀から、また目を背けた
春紀「あれ!?また!?」
素っ頓狂な声を春紀は上げる
なんなのだろう、今日のアタシは
終始春紀に乱されっぱなしだ
春紀「おーい?伊介様ー?」
そう思うと、この春紀の飄々とした態度にイラッと来た
アタシがこれだけ取り乱してるのに、コイツは余裕綽々なんて許せない
伊介(だからその余裕……、乱してやる!!)
アタシは、素早く春紀に向き直って、春紀の胸元を掴んでこちらに引き寄せた
そして慌てる春紀にはお構いなしに…
キスをした
キスというのは不思議だ
ただほんの少し唇を触れ合わせただけ
それだけなのに春紀とすべてが溶け合い、混ざり合っているかのような、不思議な感覚になる
そんな感覚に名残惜しさを感じつつも、アタシは数秒で唇を遠ざけた
これ以上やると、言おうとしたことを忘れてしまうと思ったから
伊介「これはお返しよ。今日のために春紀はたくさん頑張ったみたいだからね」
…いつものように余裕のある感じで言えた、と思う
これで春紀もアタシと同じようドギマギするに違いない
だけど目の前の春紀は、予想に反して優しい笑みを崩していなかった
春紀「お返しありがとう、伊介様。だけどさ、これじゃ釣り合いが取れないよな」
伊介「つ、釣り合い?」
春紀「今日はアタシも伊介様からチョコをもらった。なのにアタシだけがお返しをもらうんじゃ釣り合わないってこと」
伊介「うっ…」
春紀「だからさ…」
春紀「アタシからも、お返し、していいかい?」
そう、アタシをのぞき込むような上目づかいで春紀は言った
その瞬間、アタシは悟った
今日は春紀には敵わない日なのだ、と
伊介「…いいわよ///」
春紀「ホント!?」
伊介「ただし!」
でも、だからって主導権を握るのを諦めるのは、犬飼伊介らしくない
伊介「伊介はアンタよりもっとずーっと嬉しかったんだから!だからアンタからお返しされたら、またアタシからもお返しし返すから!」
そうアタシが言うと、春紀はクスリと笑い言った
春紀「ならアタシは、それよりもっと嬉しかった。だからもっとお返しする!」
まるで子供のような言い合いに、なんだかおかしくなって、二人で笑い合った
そして笑いが治まると、そうあることが自然であるかのように、どちらからともなく、また、キスをした…
溶け合い混ざり合うような不思議な感覚
アタシはそれに、深く深く身を委ねた…
2号室の彼女達 完
3号室の彼女達
首藤との片付けはすぐに終わった
それはもちろん首藤の手際の良さが要因の一つだったが、パーティ開催中から首藤や寒河江が片付けがしやすいようにカップや皿などをまとめていたということも影響していた
それを周りに意識させることなくやっているというのが、こういう作業への経験値の高さのようなものを感じさせた
涼「それじゃあ、部屋へ戻るとするかのう」
香子「そうだな」
密かに感心しながら、私は首藤と自分たちの部屋へと戻っていった
部屋の前に着くと、首藤が突如言い出した
涼「おっとすまんが香子ちゃん。ほんの数分ほど外で持っていてくれんかの?」
特に断る理由もなかったので了承した
それから数分すると、ドアを少し開け、「もう入ってよいぞー」と声をかけられた
そしてドアを開けて部屋に入ると…
涼「ハッピーバレンタイン、じゃ!!」パパパーンッ
クラッカーを炸裂させながら、そう首藤が出迎えた
香子「おお…!」
クラッカーの音に驚き目を丸くする
香子(私たちも同じことをやったというのに、予想できていないとここまで驚いてしまうものなのか…)
そう思っていると、首藤が笑顔で私にラッピングされた長方形の箱を差し出してきた
涼「香子ちゃん、さっきはチョコありがとうの。これはわしからのチョコじゃ」
香子「ああ、ありがとう」
こちらも笑顔でそれを受け取った
首藤からのチョコというのは正直どんなものか予想がつかない
その好奇心から私の心の中に早く中身を見たいという気持ちが芽生えていた
香子「開けてもいいか?」
涼「もちろんじゃ!」
GOサインをもらった私は、破かないよう丁寧にラッピングを外す
そうして現れた白い箱を開けようとした時、首藤が慌てたようにして言った
涼「ああ、すまん。その箱には裏表があるんじゃ。えっと今の状態は…表じゃな!なら問題ないのう」
香子(表裏…?)
箱の構造に少し疑問を持ちながらも、私はその箱を開けた
その中にあったチョコは、おかしな言い方だが、やはり私の予想外のものだった
まずその箱は2層になっていた
1層目には小さい長方形のチョコレートが敷き詰められていた
まるで既製品であるかのような綺麗な長方形だった
香子(ん?この形って…)
香子「なあ、首藤。もしかしてこの長方形って…」
涼「おお!よく気付いたのう!お察しの通り、その長方形のチョコはすべて黄金長方形の比率で作られたものなのじゃよ」
香子「やっぱりか」
涼「作ろうとしたチョコが長方形だったのでな。どうせ作るならより美しいものを作って香子ちゃんには渡したいと思ったのじゃ」
よく見てみればチョコの入っている箱そのものもまた黄金長方形の比率だった
ということは…
香子「首藤、この箱ってもしかしてお前の手作りなのか?」
涼「そうじゃ。なにせ今回のチョコは我ながらちょっと特殊なものを作ったのでの。箱の方もそれに適した形にするために作ったのじゃ」
香子「そうか…」
首藤が自分と同じものを美しいと感じていること
そして自分のためにここまで手を尽くしたものをくれたこと
その両方が非常に嬉しかった
涼「おっと、驚くのはまだ早い。1層目を開けてみるのじゃ」
1層目を持ち上げ見えた2層目は、子供の頃に使った絵の具のパレットのような構造だった
半分半分に区切られており、片方の長方形はさらに4分割されていた
その4分割された長方形にはそれぞれ、なにか粉のようなものが用意されていた
香子「これは…なんだ…?」
半分に区切られたもう片方の長方形には何もない
すると首藤が冷蔵庫から何かを取り出してきた
涼「それはの、これを使って完成なんじゃよ」
首藤が持ってきたのは、白いものが入った小瓶だった
首藤は小瓶のふたを開け、中のものを何もない区間にたらしていく
どうやらあの白いものはクリームの様だ
涼「うむ!これで完成じゃ!」
首藤は満足そうに頷いた
だがこちらは正直どうすればよいのか全く分からなかった
香子「えっと…首藤。これはどうやって食べるものなんだ?」
涼「ああ、これは説明が必要じゃな。まあ簡単なことじゃがな」
そういって首藤は小さな長方形のチョコを取った
涼「まず1層目の小さいチョコにこのクリームを少しつけるのじゃ」
そう言って首藤はその小さいチョコでクリームをすくうように少しつける
涼「そしてそれに好きな粉をつけて食べるだけじゃ。香子ちゃんはまずどれが食べてみたい?」
そうして首藤は4つの粉のある部分を指した
そこには茶・白・ピンク・緑の4種類の粉末があった
香子「…じゃあ、茶色だな」
涼「了解じゃ」
そう言うと首藤はクリームの部分にその粉末をつける
涼「良し、できたぞ!じゃあ、はい香子ちゃん」
ここで意外だったのは、そのできたチョコを私に手渡すのではなく私の口元へ持ってきたことだった
これはもしかして…
涼「ん?どうしたんじゃ、香子ちゃん?はい、あーん」
香子(やっぱりか!)
この年になって食べさせてもらうというのは正直気恥ずかしい
だが首藤はどうやらその点は考慮していないようだった
香子(まあ、いいか…)
結局私は流されて、「ぁー」と口を開けた
それを見て笑顔の首藤は、手に持ったチョコを私の口へと運んだ
まず舌に感じたのは優しい甘み。そしてしっとりとした食感だった
香子(これは…粉の甘みだな。クリームは甘すぎず優しい味だ)
次に歯を立ててチョコをかじってみる
香子(チョコも…そんなに甘くない。ビターチョコだな…でも粉末とクリームの甘さが合わさって甘すぎず美味しい…)
私はチョコレートが好きでいろいろなものを食べてきたが、これはその中でも屈指のものだった
美食にこだわらない私だが、その美味しさには思わず「ほぅ…」とため息が出た
香子「すごい…美味しいな、これ…」
涼「そう言ってもらえて何よりじゃ」
首藤は満面の笑みでそう答える
香子「この粉はチョコレートパウダーだったのか」
涼「うむ。普通のチョコにホワイト、ストロベリー、抹茶と4種類を用意した」
香子「なるほど…じゃあ次はホワイトを試してみるか」
涼「よしきた」
香子「いや、食べさせてもらわんでも自分で食べる」
涼「まあまあ」
香子「いや、だから…」
結局全部食べ切るまで首藤の「あーん」攻撃は続いた
香子(全く…人にわざわざ食べさせて何が面白いんだか…)
まあ結局私もなんだかんだそれに甘えてしまったわけだが…
それに首藤のチョコはその気恥ずかしさを補って余りある幸福感を与えてくうれたのは確かな事実だ
香子「すごいな、首藤は…」
涼「ふふ…お褒めに預かり光栄じゃ」
…この状況は、以前からずっと考えていたことを言う良い機会かもしれない
香子「首藤、お前の作る料理や菓子は本当に好きだ。それこそ…」
香子「毎日、食べたいくらいだ」
涼「…っ!?」
香子「なあ首藤、だから1つ、どうしても、頼みたいことがあるんだ」
私は首藤の目を見て頼みごとをしようとする
涼「こ、香子ちゃん!?なんというか、その、流石にいきなりというか…///」
首藤は顔を赤くして目の焦点が定まっていない様子だった
香子(具合でも悪いのだろうか。これは率直に言って早く済ませた方がよさそうだ)
香子「なあ、首藤…私に…」
涼「あわわわわ……///」
香子「料理を教えてくれないか!!」
涼「デスヨネー」
?? 今度は何故か首藤が遠くを見つめるような虚ろな目つきをしている
香子(これは相当体調が悪いのだろう…早く寝かせてやらないと)
香子「首藤!」
涼「な、なんじゃ、いきなり!?」
香子「とりあえずベッドに行こう!!」
涼「」
その後何故か怒った様子の首藤は、料理を教える代わりに追加で正しい日本語の使い方の講義をすると言ってきた
香子(今更何故日本語の勉強なのかはわからないが、おそらくこれも何か深い考えがあるのだろうな)
涼(香子ちゃんのこの思わせぶりな発言は何とか治さんと…このままじゃクローバーホームと闘う以前に痴情のもつれで夜道で刺されそうじゃ…)
この日、ついに神長香子の天然を治す記念すべき第一歩が始まった
首藤涼の努力が実を結ぶ日はそう遠くはない……かもしれない
3号室の彼女達 完
4号室の彼女達
私の名前は生田目千足
正義に心を燃やすミョウジョウ学園の生徒だ
私は昔暗殺者として動いていた時期もあったため、並大抵の状況では動揺しないと自負している
それでも、今のこの状況…
部屋に戻った途端、柩にベッドに押し倒されるという状況には、少なからず動揺していた
千足「な、なあ、柩。私は今、何故押し倒されているんだ?」
柩「ふふふっ」
柩はそれを笑顔でのみ返す
幼い顔つきとは対照的な妖艶な笑みだった
柩「千足さん。チョコ、ありがとうございます。ぼく、とっても嬉しかったです」
この異常な体勢のまま、柩はごく普通な話をしてきた
千足「柩が喜んでくれたのならなによりだよ」
私は心からの思いを素直に告げる
柩「だからですね、ぼくからもちゃんとチョコを渡したいと思ったんです」
柩「受け取って…くれますか…?」
柩は顔を赤らめ、おずおずとラッピングされた箱を差し出してきた
千足「あ、ああ…」
何を言い出すのかと思いきや、至って普通の、いやむしろ嬉しい申し出だった
千足(これは柩も恥ずかしかったからこんな行動に出たのかもしれないな…)
千足「ありがとう。とっても嬉しい」
私は再び思ったままに感謝の言葉を告げた
千足「開けてみてもいいかな?」
柩「ええ、もちろん!」
千足「ああ、それじゃあ…」
私はチラリと肩を抑えている柩の手を見る
この仰向けの体勢だと…その…胸が邪魔で手元がよく見えないからだ
だが言外に主張した私とは異なり、柩はハッキリと宣言した
柩「この状態で、開けてください」
またもハッキリと言い切られてしまった
千足「そ、そうなのか…」
言い返してこの状況を脱しようと思っていたのに、そこまで強気に言い切られると反論できなくなってしまう…
それも特に柩に対しては…
千足(この流される性質は何とかしないといけないんだけどなぁ…)
だがそれでも、今は柩に言われるまま、仰向けの状態でラッピングされた箱の中身を取り出した
中に入っていたのは、大きめのハート形のチョコだった
柩「ぼくから千足さんへの…素直な気持ちです…」
柩は顔を熟れたトマトの様に真っ赤にしながらも、真剣な目でそう言った
その表情からは、彼女がこのチョコに込めた思いの強さが伝わってくる気がした
千足「ありがとう、柩…」
だから私も普段は恥ずかしくて使わない、この言葉で自分の気持ちを表そうと思った
千足「愛してる」
不意に、私の顔に一粒の水滴が落ちてきた
それは柩の瞳から頬を伝って流れ落ちた、涙だった
柩「あ、これは…違うんです…ただ、嬉しくて…」
それは私も同じ気持ちだった
かつて私は自分勝手な考えから彼女を殺そうとした
だがそんな私を柩は今も変わらず、深く愛し続けてくれている
そんな彼女の気持ちが嬉しく、なにより愛おしくてたまらなかった
柩が泣き止むのと同時に、手の中にあるチョコの感触が変わりつつあるのに気が付いた
千足「な、なあ、柩。そろそろ手の中のチョコが溶けてしまう。いったんどいてくれないか?」
だがそう提案するや否や、柩は再び妖艶な笑みを浮かべた
柩「そうですか…溶けちゃうといけませんから、千足さん…今、一緒に食べちゃいませんか…?」
千足「あ、ああ、それはいいが…」
柩「じゃあ、千足さん。お口、少し開けてくれませんか?千足さんに、食べさせてあげたいんです」
千足「う、うん…」
千足(うん…?一口で入るような大きさじゃないはずだが…まあ、細かくしてくれるのかな…)
そうやって私は言われるまま、ほんの少し口を開けた
だがそこからの柩の行動は私の予想を遥かに超えていた
柩はまず、私の手の中にあるチョコにその小さな口でかじりつき、小さな欠片を口に含んだ
柩「じゃあ、おいしく食べてくださいね、千足さん///」
そう言うと柩は開いた私の口に、唇を押し当ててきた
千足「んむっ…!?」
そして柩の口から私の口の中へ何かが送り込まれてきた
室温と柩の口腔内で、少しとろけ始めたチョコだった
チョコの甘さが口いっぱいに広がる
チョコを口に送り込んでからも、柩はその唇を離さない
そして私も離す気にはなれなかった
私の口の中を二つの舌が絡み合いながらチョコを溶かしていった
その甘さはまるで毒の様に私の体に浸透し、犯していった
この甘さはチョコの甘さなのか、それとも柩のキスの甘さなのか
ふと気になったが、すぐにどうでもよくなってしまった
今はただこの甘さに溺れたいと、そう思ってしまった
やがてチョコは口の中から無くなっていた
柩は口づけを止め顔を上げ、潤んだ瞳で私を見下ろした
その上気した顔を見て、多分私も同じ表情をしているのだろうと思った
柩「もう一口…食べませんか…?」
千足「うん…」
柩「じゃあ次は…千足さんが食べさせてくれます…?」
柩の言葉に逆らおうという気は起きなかった
千足「ああ…分かった…」
今度は私が、手の中にあるチョコを口に含む
そして小さく開かれた柩の口に唇を合わせた
柩の口内へ舌を使ってチョコを送り込む
貰った毒を送り返すように 互いを毒で縛りあうように
私達は口づけを繰り返していった…
4号室の彼女達 完
5号室の彼女達
乙哉「さあ、早く帰ろう!しえなちゃん!」
しえな「ちょっ…分かったからそんなに引っ張るな!」
ボクは今、乙哉に手を引かれ部屋に戻っている
しえな(チョコを渡すのには好都合なんだけど、なんでコイツ部屋に戻るだけでこんなにハイテンションなんだろうか…)
乙哉は一之瀬が部屋に戻る提案をした時に、何故か積極的に賛同していた
チョコを渡すボクとは違って(他の奴らのいる前でチョコを渡すなんていう羞恥プレイにボクは耐えられない)、コイツにはあの場から積極的には慣れる理由なんてなかったはずなのだけれど…
しえな(まあ殺人鬼の思考に合理性を求めること自体が無駄なことか…)
相も変わらず武智乙哉は掴みどころのない、雲のような奔放さを発揮していた
そうこう考えているうちに、ボクたちの部屋の前に到着した
だがボクはこのとき、自分に直面している問題の存在にようやく気が付いた
しえな(…どうやって乙哉にチョコ渡すか、考えてなかった…)
今更という感じであるし、人によってはそれのどこが問題なのかと思うヤツ等もいるだろう
だが「普通に渡す」ということほど難しいものはない
なんと言っても今日はバレンタインデイ
その日に渡されるチョコには当然様々な意味が秘められていると考えるのは不自然なことじゃない
だが今回のチョコは、その…、告白云々とか、そういう理由で作った訳ではない
まあ作った自分から見てもかなり手間暇かかった出来であることは認めざるを得ない
しかしそういう意図は込めずに作った
あくまで、あの、「友チョコ」の感覚で作ったものだ
……「友チョコ」、か…
しえな(改めて言葉にして考えるとなんか物凄い恥ずかしい気がする!)
良くリア充の奴らはこんな言葉を平気で使えるものだ
…いやそんな皮肉交じりに感心してる場合じゃない
本当にどうしようか…
ここで渡し方を間違えれば、乙哉にそのことをからかわれ続けるに違いない
しえな(だから…)
乙哉「し~え~な~ちゃん!」
しえな「うわっ!!なんだ乙哉!いきなり耳元で!」
乙哉「いやさっきからしえなちゃんが上の空だったんじゃん。アタシシャワー浴びてくるから。昨日はチョコ作りで結局浴びそびれちゃったからさ」
しえな「あ、ああ…分かった」
乙哉「それじゃーね~」
そうして乙哉は浴室の方へ向かって行った
ふむ…これはチャンスだな…
正直渡し方を考えていなかったボクからすれば非常にありがたい
これで渡し方についていくつかのシミュレーションを行う余裕ができたを
そしてボクは冷蔵庫から、密かに置いておいたチョコを包んだ箱を取り出した
しえな「これを持ちながらよりリアルに近いシミュレーションを行えば、失敗はないはずだ!」
そうと決まれば、早速渡し方について案を考えなければ…
まず重要な要素として、「ボクが告白とかの目的でチョコを渡すのではない」ということを主張しなければならない、という点がある
ならばつまりこういう渡し方か…?
案その1
しえな「かっ、勘違いするなよ!お前のことが好きだからチョコをあげるんじゃ、ないんだからなっ!!」
うん、どこの安っぽいツンデレキャラだこれは
こういう風にいつもと違う感じを出してしまっては、勘違いの原因となる
つまり「いつもと変わらないようにしなければいけない」ということだ
つまり、こういうことか…
案その2
しえな「あー、乙哉、ほれチョコやるよ」ポイッ
…いやだめだろこれも
子供にお菓子をやる親戚のオッサンか何かかボクは
それに乙哉のチョコにはかなり手間をかけたんだ
だからアイツにはそれ相応のありがたみを感じてもらわなきゃ割に合わない気がする
故にこの案は却下だ
ハイ、次、次
まずそもそも何もない状況からいきなりチョコを渡すというのが難易度を高めている要因の一つだろう
そう考えるとあのパーティから戻った直後というのが最適なタイミングだったのかもしれない
まあ今更の話だが
つまり「自然な状態でバレンタインの話題にしなければならない」ということか…
つまりこうだろうか…?
案その3
しえな「あー、今日って何月何日だっけ?」
2月14日だよ!!
っていうか既にチョコレート貰った状態でそんなこと聞いたらもう怪しいを通り越してただのアホだろ!
まずい、自分に自分でツッコミを入れている場合じゃない
もっと根本的に考えなければ…
煮詰まっている…
思い切ってここで方法を180°変えてみよう
今までは先にあるべき条件を考えてそこから案を練っていた
しかし「やってはいけない渡し方」というのがハッキリしていなければ、どのように渡せばいいかということも明確にはならないのではないだろうか…
つまり一度「やってはいけない渡し方」、つまり告白のように見える渡し方をシミュレーションするべきなのだ
なら、え~と、こんな感じかな…?
案そのEX
しえな「その、お、お前のことが…好きなんだ…。これ、受け取ってくれないか…///」
カシャンッ
その時、背後から何かを落としたような音が聞こえた
しえな「っ…!?」
慌てて振り向くと、そこにはシャワーを浴び終えバスタオルを巻いた乙哉がいた
シャワーを済ませた直後だからか顔は上気し、床には落とした化粧水のボトルがあった
乙哉「……え?ええと、あ、あの、えっと…///」
しえな「ちょっ、ちょっと待て乙哉、誤解だ!落ち着け!というかハサミを持とうとするな!!」
その後珍しく動転した乙哉をなだめ、事の経緯を説明することで何とか命の危機を脱することが出来た
乙哉「な、なんだ~。そうだったんだ~///」
乙哉は顔を赤くし恥ずかしそうに笑うだけで、そこまで追及はしてこなかった
しえな(まあ、あの状況にしては被害は少ない方だな…)
乙哉(あ、あのしえなちゃん…とんでもない破壊力だった…///)
しえな「という訳でお前へのチョコだ。心して味わうように」
乙哉「ははーっ」
自分でやっておいて、なんなのだろうかこの茶番は…
乙哉「じゃ、開けるね~」
そう言うと乙哉は、ハサミを駆使して袋の入り口を縛るテープのみを素早く器用に切り裂いた
しえな「相変わらず器用だな」
乙哉「へへっ、まぁね~」
そして乙哉は袋からチョコを1つ取り出した
乙哉「ふーん、見た目は普通のチョコだね」
しえな「ふふ…まあ食べてみろよ」
乙哉「あ!しえなちゃん悪い顔してる~」
そう笑いながら、乙哉は自分の口にチョコを入れた
すると乙哉は、笑みを止め真剣な目つきになった
乙哉「これ…は…」
乙哉は自分の舌に神経を集中させているようだった
やがて口の中のチョコを食べ切ってから話しかけてきた
乙哉「まずこれお酒、多分ワインが入ってるでしょ」
しえな「おっ、良く分かったな」
乙哉「ただもう1つ、少し酸味を出してる果肉がどうしてもわかんないな。しえなちゃん、これなに?」
しえな「ふっふっふ、まあ分かんないだろうな。普通はチョコに入れないものだし」
乙哉「なになに~?」
しえな「それはな、トマトだ!」
乙哉「ト、トマト!?」
ボク渾身のチョコの意外な材料に乙哉が驚きの声を上げた
しえな「ああ、ミニトマトをオーブンを使ってドライトマトにしたものを細かくして入れてあるんだ。ドライにしたおかげでうまみが凝縮されているからチョコの中でも確かな存在感を出せるんだ」
しえな(まあその分、味の調和には苦労したけどな…)
乙哉「うん、ワインとトマトがあることで味が複雑になってるけど、それぞれがバランス良く味を調えてる。なんか大人の味って感じで好きだな」
しえな「ふふ、そうかそうか」
自分の作ったものが人から称賛されるというのはやはり気分の良いものだ
乙哉「だけど一個聞いていい?」
しえな「うん?」
乙哉「なんでワインとトマト入れようと思ったの?合わせるの大変だったでしょ」
ああ…それか…
しえな「それは完全に思い付きでな。最初はお前に合うチョコって何かって考えてたんだよ。そしたらお前の場合血がイメージされてな」
乙哉「うわ、ひどっ!」
しえな「でも合ってるだろ」
乙哉「まあね」
ケロッとしたような表情で乙哉は言った
しえな「まあだから血に似たものってことでワインとトマトが浮かんで、それでそれらを入れたチョコを作ってみようって思ったんだよ」
乙哉「え~、じゃあしえなちゃんの血は入ってないの~」
しえな「入るか、バカ」ビシッ
乙哉「あいたっ」
乙哉は叩かれながらも笑っていた
しえな(コイツは確かに殺人鬼で、許されざる犯罪者かもしれないけど、同時にこんな顔で笑える、普通の女子なんだよな…)
乙哉の笑顔には楽しいという感情以外のものが無い
嘲りも侮蔑も卑屈も無く、ただ楽しいから笑っている
それは時に狂気を感じさせるものであるのは分かっているけど、ボクはそんな乙哉の笑顔が好きだった
乙哉「ごちそうさまっ!美味しかったよ、しえなちゃん!」
しえな「そうか、それはなによりだ」
チョコ作りは大変だったが、この笑顔を見るためだというのならば、割に合わないものではないと感じた
しえな「そういえばお前、パーティ終わった後なんかやたらと積極的に部屋に帰りたがってたけど、あれなんだったんだ?」
乙哉「あ、そうだった!」
乙哉は何かに気付いたかのように大きな声を上げた
乙哉「あ、しえなちゃん。突然だけど質問です!」
しえな「はあ?」
乙哉「しえなちゃんはプレゼントは物派?それとも思い出派?」
しえな「物だな」
即答した
「物より思い出」というフレーズはあまり好きではない
大したことのない思い出なんて、所詮は風化していくものなのだから
乙哉「ふむふむ…ならこっちだね」
そう言って乙哉は何かを自分のバッグから取り出してきた
乙哉「しえなちゃん!誕生日おめでとーっ!!」
そして、大きめのラッピングされた袋を差し出してきた
しえな「………へ?」
我ながら気の抜けた声を出してしまった
しかしそれほど乙哉の行動はボクにとって予想外のものだった
乙哉「まあ正確には明日だけどさ、今日の方がタイミング的にちょうどいいかなって思ってね」
しえな「あ、ああ…?」
正直まだ思考が追い付いていない
乙哉「ちょっと、しえなちゃん?大丈夫?」
しえな「あ、ああ…うん、すまない、ただ…」
乙哉「ただ…」
しえな「こういう時って…どう返せばいいんだっけって、思ってな」
予想外の行動には、ホントに弱いんだな、ボクは…
乙哉「そんなの簡単じゃん」
乙哉「『ありがとう』の一言でいいんだよ、こんな時は」
しえな「そうか…うん、そうだよな…」
しえな「ありがとう、乙哉」
その時ボクは、数多くの意味を持つ「笑う」という行為の中の、忘れていた意味を思い出した気がした…
改めてお礼を言ったら、なんか妙に恥ずかしい気分になって、俯いてしまう
盗み見れば、乙哉も何故か顔を赤くしてそっぽを向いていた
そのためこの部屋は、良く分からない沈黙に包まれていた
一人でいるなら気にも留めない沈黙だが、誰かといる状況での沈黙というのは流石に居心地が悪い
ここは何か話さなければ…
しえな「お、乙哉!これ、開けてもいいか!?」
ちょっと声が上擦った気がしたが、話題としては悪くはないだろう
乙哉「う、うん!もちろん!」
乙哉も一部声を裏返しながら返事をした
ホントなんなんだろうか、この空気…
袋の中身はゲーム機とゲームだった
しえな「これってお前が前に一緒に買って協力してプレイしようって言ってたやつか」
乙哉「うん、そうだよ♪」
乙哉は殺人鬼としては意外、かどうかは分からないが(ゲーム感覚というやつだろうか)、ゲーム全般が趣味だ
今ボクの手元にあるのは、乙哉がつい最近購入したが、協力プレイでより効率が増すというゲームだった
ちょっと前から一緒にやろう一緒にやろうと言っていたが、まさかこういう手段でそれを実現するとは…
しえな「ボクへのプレゼントと言いながら、お前が協力プレイがしたいから買ったんじゃないのか?」
多少皮肉交じりに意地悪なことを言う
乙哉「でもさ、これならアタシも楽しめるし、しえなちゃんも一緒に楽しめる。Win-winじゃん!」
しかし乙哉は屈託のない笑顔でそう返した
しえな「たくっ…一日一時間までだからな」
いつの間にかボクも微笑みを浮かべながらそう返していた
乙哉「やった!じゃあ早速やろう、しえなちゃん!」
しえな「はいはい…ふふっ…」
まあ今はコイツと一緒に楽しむことに専念するとしようかな
そう思いながら、ボクはゲーム機の電源を入れた
―6時間後
乙哉「あ、あのさしえなちゃん。そろそろ終わりに…」
しえな「まだだ!このボスの弱点がようやく見つかりそうなんだ!」
乙哉「いやそんなの攻略サイト見れば…」
しえな「攻略サイトなんて邪道だ!攻略とは己の手で進めるから価値があるんだ!」
この時乙哉は理解した
しえなと一緒にゲームする際には、それ相応の覚悟押してから望むべきだということを
5号室の彼女達 完
6号室の彼女達
真昼(パーティ無事終わってよかったね、真夜)
真夜(ああ、昨日の時点じゃどうなるか見当もつかなかったけど何とかなるもんだな)
私と真夜、そして純恋子さんは今私達の部屋へ戻る廊下を歩いている
その道中で私は真夜と話しながら(もちろん心の中だけど)歩いていた
真昼(そういえば真夜は気付いた?パーティが終わるときの純恋子さんの様子…)
真夜(ああ、ありゃ各自部屋に戻るように他の奴らと示し合わせてる感じだったな)
真昼(あれってつまり…そういうことだよね)
真夜(ああ…各自が部屋でチョコを渡せるようにする配慮だろうな)
真昼(っていうことはさ、す、純恋子さんも、チョコを渡すんだよね?)
真夜(ああ?そりゃ当たり前だろ)
真昼(そう…なら…)
真夜(だからよ…)
真昼(良かったね、真夜♪)
真夜(良かったな、真昼!)
真昼(……え?)
真夜(……あ?)
真夜(いや、真昼よぉ、チョコもらうのはどう考えたってお前だろ?)
真昼(え?純恋子さんは真夜にあげるんじゃないの?)
真夜(いやいや真昼意外にないだろ。あいつどんだけお前を溺愛してると思ってんだ?)
真昼(で、でも真夜とお話してるときの純恋子さん、私の時よりよく喋るし楽しそうだよ…?)
真夜(それは真昼があんま喋らねーからアイツも喋ってねーだけだろ!)
真昼(あ、あうう…)
真夜(まあでもアイツのことだから俺と真昼の二つ分用意してんじゃねーの?)
真昼(あ!そ、そうだよね。純恋子さんならそうしそう)
真夜(ま、今はとりあえずどんなチョコが来るか、楽しみに待ってようぜ)
真昼(う、うん!そうだね!)
純恋子さんはどんなチョコを、そして誰宛に用意したのか
緊張しながらその時を待っていました
純恋子「今日は本当にありがとうございました。真昼さん。真夜さん」
部屋に戻るなり、純恋子さんは改まって言いました
純恋子「そのお礼、という訳でもありませんが、お二人に渡したいものがあるのです」
そう微笑みながら言う純恋子さんの言葉に、私は胸をなで下ろしました
「二人」ということなので、私と真夜、両方の分をわざわざ純恋子さんは作ってくれたようです
純恋子「受け取っていただけますか?」
真昼「はっ、はひ!」
…思わず噛みました
真夜「俺の分もあるのか?そりゃ嬉しいねぇ!」
純恋子「もちろん!お二人のうちどちらか片方にのみ渡すなんて失態、私は犯しませんわ」
純恋子さんの、私たちを二人の人間として認めているその言葉は、胸に響くものがありました
純恋子「ですが…何分私の手作りですので…お口に合えば良いのですが…」
真昼「い、いえ!そんな…」
真夜「俺はとりあえず人間が食えるモンでさえありゃかまわねぇぜ」
真昼「ちょ、ちょっと真夜!」
純恋子「うふふ…それなら大丈夫だと思いますわ」
真昼(まったく、もう…)
真夜の荒っぽい言い方に少し腹を立てつつも、私は純恋子さんからもらったチョコのラッピングを外していきました
すると2色のチョコがいっぱい入った大きめの円形の入れ物が出てきました
真昼「これって…」
その入れ物はチョコの色によって、歴史の授業で見たことのある形、『太陰大極図』の形をかたどっていました
純恋子「私は料理の腕自体はまだ未熟です。なので今回は味と入れ物にこだわらせて頂きました」
純恋子さんのチョコは、太陰大極図の形の入れ物に、茶色い普通のチョコとホワイトチョコをそれぞれ小さいボール状にして敷き詰めたものでした
純恋子「一応しっとり甘めのホワイトチョコを真昼さんに。甘さを控えたビターチョコを真夜さんにというコンセプトで作りました。どうぞ召し上がってくださいな」
真昼「は、はい」
まずは私が白い方のチョコを手に取って食べました
真昼「はう…///」
そのチョコは口に入れた瞬間溶けてしまったかのように甘みが広がりました
しっとりとなめらかなその甘みに、思わずため息をついてしまいました
純恋子「如何ですか?」
真昼「す、すごく!美味しい…です…」
おそらく甘みにとろけた表情をしながらだったでしょうが、私は素直に感想を伝えました
真夜(おーい、真昼ぅ!俺にも食わせてくれよー!)
真昼「あ、うん。じゃあ変わるね、真夜」
そうして真夜へ体を渡しました
真夜「んじゃ、いっただっきまぁーす」
そう言いながら真夜は一粒ビターチョコを口に入れました
真夜「ん、んむ、ん~ん♪」
真夜が美味しいと思っていることが強く伝わってきました
純恋子「どうですか、真夜さん?」
真夜「うん、美味い!良い風味を出してる。やるなぁ、純恋子」
純恋子「あら、お褒めに預かり光栄ですわ」
純恋子さんも、本当に嬉しそうに笑っていました
ここで再び私が主導権を取り、純恋子さんに聞きたいことを聞くことにしました
真昼「あ、あの…純恋子さん」
純恋子「はい、何ですか真昼さん」
真昼「一つ、聞きたいことが…あって…」
純恋子「…?何でしょうか?」
真昼「どうして…この形に…したんですか…?」
これは素朴な疑問でした
太陰大極図なんて、日常で見るものではありませんし、特に純恋子さんがこの図形にこだわりを持っていたということもありませんでした
どこからこの図が出てきたのか
そのことを、疑問に思っていました
純恋子「そうですわね…」
純恋子さんは、言い表すのに適切な言葉を模索しているようでした
純恋子「何となく…お二人に似ているな、と思ったからでしょうか」
真昼「似ている…」
真夜「どういうことだ、そりゃ?」
そう言うと純恋子さんは説明を始めてくれました
純恋子「この図は白いところが『陽』、黒いところが『陰』を表していると言われています」
説明しながら、純恋子さんはチョコの中の、ビターチョコに囲まれた一粒のホワイトチョコと、ホワイトチョコに囲まれた一粒のビターチョコを摘み上げました
純恋子「そして陰に囲まれた一点の陽のことを『陰中の陽』、陽に囲まれた一点の陰のことを『陽中の陰』と言うようです」
そう言いながら、私達の手にさっき取った一粒をそれぞれ手渡しました
純恋子「これらは陰と陽、どちらかが例え極まったようであっても、逆の性質が消えることはなく両者は永遠に繰り返し続けるということを示しているようです」
純恋子「この話を聞いていて、まるでお二人の様だと思ったんです」
純恋子「真昼さんも真夜さんも、別々の人間でありながら、同時に同じ人間である」
純恋子「だからお二人への贈り物に使うのに適しているのかな、と思ったのですわ」
純恋子さんの話を聞いていて、私は知らず知らずに涙を流していました
真昼「あ、あれ…?」
純恋子「真昼さん!?」
慌てていると、真夜が主導権を取り言いました
真夜「大丈夫だ、純恋子。真昼の奴、泣くほど嬉しかったようでな」
これが嬉しいという感情なのか、私には良く分かりませんでした
ただ、胸が温かくなるような感覚が溢れて、涙となって流れ出たような感じでした
純恋子「そうですか…」
真夜「ああ、誇っていいことだ。それに…」
真夜「涙は流さねぇが、俺ももちろん嬉しい」
純恋子「光栄の極みですわ」
そう言いながら、純恋子さんは優しく微笑んでいました
その顔を見ると、胸の温かさが更に熱を持ったように感じました
真夜「ま、せっかくだから食べようぜ!おい純恋子、お前も食え!」
純恋子「あら、いいんですの?」
真夜「良いに決まってんだろ。こんな美味いもんは俺たちだけじゃなく、みんなで味わうべきだ」
純恋子「そこまで言われると、作り手冥利に尽きますわ」
真夜「という訳で、ほれ、純恋子、口開けろ」
ビターチョコを左手で一粒つまんで、真夜は純恋子さんに言いました
その時感じた感情は…ちょっと良く分かりません
ただ気付いたら私は真夜から主導権を取り返していました
真昼「あ、あ~ん…です…///」
私は右手でホワイトチョコをつまんで、純恋子さんの方へ向けました
真夜(…ふふっ)
何故か真夜は可笑しそうに少し笑いました
真夜(なら、同時にでどうだ?真昼)
そう心の中で言った真夜に、私は自然に頷きました
真昼(そうだ…真夜も私なんだもんね…)
真夜「んじゃ、改めて…」
真昼「あ~ん…」
真夜「あーん」
だからちょっと変だけれども、私達は両手で純恋子さんにチョコを食べさせました
純恋子さんは私達のチョコを同時に口の中に入れました
純恋子「ありがとうございます。とっても美味しいですわ」
真夜「どっちの方が美味かった?」
純恋子「あら、意地悪なことを聞きますわね」
真夜がちょっと意地悪な笑みを浮かべながらした質問を、純恋子さんは笑いながら答えました
私は神様なんて信じていません
例えいるとしても、あの時助けてくれなかった神様なんてものを信じる気にはなれません
だけど私は今、確かに強く願っていまし
こんなふうに三人で笑いあう時間が、ずっと続きますように、と
6号室の彼女達 完
番外の彼女達
金星寮の各部屋には監視カメラが仕掛けられている
正確に言えば「監視」と「保護」を目的としたカメラだ
だがこの日に限っては、監視カメラは電源を切られ、その機能を果たしていなかった
それは恋愛の記念日にその様子を盗み見るという行為の無粋さを考慮したというのが理由の一つである
しかしそれ以上の理由がある
それは理事長室の光景を見れば、理解が出来るものであった
鳰「り、理事長。お、美味しいですか…?」
百合「ええ。とっても美味しいわ。むしろ私の方こそ、ちゃんと美味しくできてたかしら?」
鳰「と、とっても美味しいっスよ!本当に!」
百合「ふふ…それは良かったわ」
理事長室では、走り鳰と百合目一が互いに手作りのチョコを食べさせあっていた
鳰は百合の膝の上に座りながら、である
この光景を見れば、だれであっても理解できる
要するに「こっちはこっちで忙しいから、他の奴らに構っている暇など無い」ということであった
番外の彼女達 完
その日は自然と生まれた記念日
誰かに決められたから祝うのではなく、みんなが祝うから定着した記念日
彼女達も祝い、そして笑う
幸せなひとときを存分に過ごす
ヴァレンティヌスが、戸惑うほどに
ヴァレンティヌスが戸惑うほどに 完
707 : ◆c4CaI5ETl. - 2015/02/20 06:31:55.26 jiynlIPEo 571/770今回の投下は以上です
想像以上に量が多くなり戸惑いました
今夜にでも現在の進捗状況を報告したいと思います
それでは今回はこれで失礼いたします
カイバ×溝呂木×バレンタイン
―2月13日金曜日
―ミョウジョウ学園近くの居酒屋
カイバ「おばちゃーん!ビール、もう一杯!」
金曜の夜ということで、普通のサラリーマンのようにその男--現在はミョウジョウ学園で倫理教師とカウンセラーとして在籍しているカイバが、教師とは思えない有様で飲んだくれていた
否、飲んだくれていたのは彼一人ではない
むしろカイバ以上に、そして悪い方向に酔っている人間がカイバの隣にいた
それはミョウジョウ学園黒組担任、溝呂木辺であった
彼は飲みながらもうなだれ、時々深くため息をついていた
カイバ「溝呂木ちゃんどうしたんだぁ?そんなに悪酔いするなんて珍しいじゃん」
カイバが親しげに話しかける
この二人、真面目と不真面目で一見合わなそうなタイプに見えて、なかなかどうして気が合うようだった
そのためまだ付き合いこそ短いが、二人で飲みに行くというのも、そう珍しいことではなかった。
だが、この日の溝呂木の落ち込み様は異様だった
溝呂木「カイバ先生……僕は、教師失格です……」
そう、絞り出すような声が溝呂木の口から出た
カイバ「いやいや!溝呂木ちゃんが教師失格なんて言ったら世の中の何%の教師が失格じゃないってなんの。俺なんか真っ先に失格になるよw」
そう笑いながらカイバは言う
もっとも彼は、溝呂木と比較するまでもなく、自分の人格が教師として失格であると思っているのだが
しかし今回はそういう話ではないらしい
溝呂木はまだ何かにショックを受けているかのように下を向いていた
カイバ「いったい何があったんだ?とりあえず聞かせてみてくれよ。こう見えて俺はカウンセラーもやってんだぜ」
彼の性格を知る者ならば耳を疑うような話ではあるが、カイバは教師としては「倫理」を担当し、またカウンセラーとしての仕事もこなしている
だが仕事でもないのに相談を受けようなどと、カイバが自身自分で言っていて冷笑がこみあげそうになるセリフだったのだが、今の溝呂木には非常に効果的だったようだ
溝呂木は顔を上げ、ぽつぽつと成り行きを話し始めた
かなり酔っている上、時に泣き出しそうになる溝呂木の話を根気よく聞きまとめると、以下のような話らしい
今日はバレンタインデーの前日
年配の先生に聞けばミョウジョウ学園ではバレンタインに土日が重なるとその前日にバレンタインを行う生徒が多いということだった
事実溝呂木も授業を担当しているクラスの女子達からいくつかチョコを貰っていた
そのためほんの少しであるがこう思ってしまったらしい
溝呂木(もしかしたら黒組の子たちもくれるんじゃないかな…)
溝呂木と黒組の面子との縁は、出会った時点から数えればもう2年にもなる
このような思いを描くのも無理はないことだ
だがそんな思いとは裏腹に、HRが終了しても黒組では誰一人として溝呂木にチョコを渡す者はいなかった
そしてそれにショックを受けた、という話らしい
溝呂木「カイバ先生…僕はね、チョコを貰えなかったことがすごいショックだったという訳じゃないんですよ」
溝呂木は酩酊しながらたどたどしく言う
カイバ「ん?じゃ、どうしてそんなになってんだ?」
溝呂木「僕が一番ショックだったのはですね…教師であるはずの僕がチョコを貰うことを無意識に期待してたってことなんですよ!」
溝呂木「教師というものは教え子に対して無償の愛を与えられる存在であるべき、少なくとも僕はそう信じてこれまでやってきました…」
溝呂木「でも僕は無意識にチョコという見返りを求めていた。そういう自分の心がショックだったんですよ!」
カイバ「はああん……なるほどねぇ……」
苦心して聞きだしたおかげで、ようやく溝呂木の悩みの全貌をカイバは把握した
そうした立場から改めてその悩みを見た、カイバの第一の感想は…
カイバ(相っ変わらずクソ真面目だなぁ、この溝呂木ちゃんはよぉ…)
正直呆れを通りこして感嘆の念が生まれたほどだった
溝呂木辺の教師像は、あまりに理想過ぎる
イメージしている教師というものは、善性にあふれ徳高く、常に厳しく自戒しているまさに“聖職者”である
そのような聖職者が現実にはほとんどまったくいないことは、実際にその仕事をしている教師が良く知っている。
そしてそれ以上に、その教師と一番長く一緒にいる学生達も良く理解していることである
そしてその僅かな聖職者の内の一人だとカイバが密かに評価しているのが、この目の前にいる溝呂木辺だった
教師には前述した聖職者としての理想を抱いた故に、門戸を叩くという例は少なくない
しかしそうした若き聖職者たちは、教師となる過程や実際になった後の現実によって、多くが聖職者から堕落してしまう
そしてただの人へと堕ちる
だが、むしろこれが人間としては普通であり、聖職者であり続けられる人間こそが異常なのだと、カイバは思っていた
そして溝呂木に与えられた堕落の機会こそが、去年の黒組担任だったはずだ
少人数でありかつその内のたった一人を他全員が殺そうとする、まともなクラスとして成立し得ないクラス構成
次々と発生する事件およびそれによる退場者
生徒達を正しく導くという溝呂木の理想とかけ離れたこのクラスは、溝呂木を堕落させるに十分すぎる要素のはずだった
だがそれでも溝呂木辺は堕落せず、今も聖職者としての理想を追い求めている
それこそが普通の青年教師に見える溝呂木の、ある種異常な点であり…
カイバが同じ教師という職業にある者として、溝呂木を評価している所以だった
そのためカイバは、彼にとっては非常に珍しく、善意で以て溝呂木をカウンセリングした
カイバ「溝呂木ちゃん、理想の先生ってのはいつからそういう先生になると思う?」
溝呂木「理想の先生が…いつから…?」
カイバ「そうだ。理想の先生ってのは、生まれた時から理想的な教師なのか?」
溝呂木「それはないです……人は生まれたばかりでは何も知りません。だから知識や知恵を与える教師が重要、なんだと僕は思ってます…」
カイバ「その通りだ。人間ガキの内から完璧な人間なんてのはいやしない。人間には成長し、円熟する期間が必要だ。じゃあそうした成長し、円熟する期間ってのはいつまでなんだろうな?」
カイバは溝呂木に対し、質問を連発する
そして生真面目な溝呂木は、教師に関する質問であるため、酔い、気落ちした状態でも律儀に考えを述べていく
溝呂木「成長し…円熟する期間……」
カイバ「そうだ。教師ってのは人にものを教える立場の人間だ。その考えに立つと教師となる前にすでにその期間を終えてなきゃいけねぇのかな?」
溝呂木「それは違います!実際に人に教えるという経験を経ないで教師として成長するのは限度があります!」
溝呂木「それに何より教師は生徒の見本でなければいけない!生徒が常に成長し続けてくれるよう教師という存在も成長を続けなければいけないはずです!」
気付けば溝呂木は、矢継ぎ早に質問するカイバに対して、気落ちした様子も無く自らの信じる教育論を熱く語っていた
それを見てカイバはニヤリと笑い、一言言った
カイバ「つまり、そういうことだ」
溝呂木「へ?」
カイバ「教師ってのは成長を続けなきゃいけない生き物だ。だがその成長するためにはどうしたって未熟な部分を知る機会が必要だ。今回はそうした、『成長のために必要なプロセス』だったんじゃねえか」
カイバ「アンタは今回の出来事で教師を失格なんてしちゃいない。いや、このまま泣き寝入りして停滞を続けるんだったらそれは教師失格かもしれねぇよ。だが自覚し反省し成長しようとしているんなら、それは教師として正しい在り方だ。教師失格どころかむしろ教師として成長してるってことだ」
溝呂木「未熟な部分を知る……機会…」
カイバ「そうだ。まぁ今回はちょっとした気の緩みを自覚出来て良かったんじゃねぇのか?」
カイバはそう、なんでもないことのように笑い飛ばした
溝呂木「そうですね…よくよく考えてみると、むしろ今回は自分の甘さを知る良い機会だったかもしれませんね」
カイバ(良し!)
この言葉を聞いて、カイバはカウンセリングの成功を確信した
今回の溝呂木の悩みは、起こった出来事が悪いのではなく、溝呂木の受け止め方が悪いが故に生まれた悩みだ
そのためその認識を変えてさえしまえば、後は特別なことをしなくても回復して、カウンセリングは成功に終わるのだ
カイバ「そうそう!ま、それに黒組の奴らもまだくれねえって決まったわけじゃねえんだ。月曜になったらひょっこり渡してくるかもしれねえぜ」
さらに気分が上向いたところで、希望的観測を述べる
希望的観測は受け手の精神状態により、感じ方が変わる
希望的観測を良い方に捉えさせ、気分をさらに回復させるのに、絶妙なカードの切り方だった
溝呂木「アハハ、確かにそうですね。まぁ例え貰えなくてももう今日のように取り乱したりはしません!僕は成長したんです!」
カイバ「カハハハッ、良く言った!」
その後もカイバは、笑い、歓喜し、楽観的に溝呂木に話しかける
笑いや歓喜、楽観主義といった感情は人から人へ伝染する
そうして会話を交わしていくうちに、溝呂木もカイバと同様、楽しく酒を飲むようになっていた
そんな二人の前にビールとこの店の名物の煮込みが差し出された
カイバ「あれ?俺らこれ頼んでないけど?」
おばちゃん「サービスだよ!あんなに沈んでた溝呂木ちゃんを5分もしない会話で立ち直らせるだなんて、怪しい見た目なのにやるじゃないか!」
カイバ「マジか!?おばちゃん愛してるぜ!」
ハイハイと、調子のよいカイバを軽く笑い飛ばしながら、恰幅の良い飲み屋のおばちゃんは他の客の方へと行った
店の雰囲気もいつしか、カイバが入ってきた時に比べ明るくなった気がした
カイバ「よし!気分も良くなったところで楽しく飲みなおそうぜ!」
溝呂木「ハイ!」
そうして教師二人による飲み会は、更に続くのだった
―2月16日月曜日
溝呂木はいつものように黒組のHRを行うために教室へと移動していた
ただその胸の鼓動はいつも通りではなく、有り体に言えば緊張していた
その理由はやはりチョコだった
溝呂木もまだ年若い青年である
親愛や感謝のパロメータとなっているバレンタインチョコは、やはり気にせずにはいられないのである
そして溝呂木は黒組教室の前に着いた
いつもは一切間を空けずに扉を開けるのだが、この日だけは一瞬のためらいがあった
溝呂木「みんなおはよう!HR始めるぞ~!」
いつもと変わらず元気であるように振る舞いながら、溝呂木は教室へと入った
するといつもはすぐに着席する、一之瀬晴と東兎角が溝呂木の方へやってきた
それにいつも年相応に騒がしい(中には年不相応な者もいるが溝呂木はそのことを知らない)クラスも、溝呂木の動向を見守るような妙な静けさに包まれていた
晴「あのっ、先生っ!晴たち、黒組一同から渡したいものがあるんです!」
晴が、隣の無表情な兎角とは対照的な、緊張した面持ちで話しかけてきた
溝呂木「え、な、なんだい」
何だとは言ったが、いくら鈍い溝呂木であっても、晴が手に持った袋や状況から、何が渡されるかは気付いていた
だが例え何が渡されるか分かってはいても、ここはとぼけてしまうのが、この時期の男という生き物の習性だった
晴「どうぞ!晴たちが作ったチョコレートです!」
そういうと晴は溝呂木にラッピングされた袋を差し出してきた
13人分入っているのか、かなり大きい袋だった
溝呂木「こ、こんなに…!」
もちろんこういう物は量が多ければ良いというものではない
しかしそれでも、そのチョコが自分の教師としての頑張りを評価してくれているかのように思い、溝呂木は感動していた
溝呂木「うううっ…ありがとう!先生は…先生は今猛烈に感動している!」
溝呂木は感極まり、その目に薄く涙を浮かべていた
伊介「アハハ、先生ったら泣いてる~」
春紀「まぁ、あんだけ喜んでくれりゃあげる方としても嬉しいけどね」
自分の贈った物を人が喜んでいるのを見るのはそれだけで嬉しいものである
黒組教室が明るく賑わった
兎角「すまない、先生。一つ、頼みがあるんだ」
そうして喜んでいる溝呂木に対し、兎角が少々遠慮がちに話しかけてきた
溝呂木「ん、どうしたんだ、東?」
兎角の方を見ると、彼女は手に持っていた何かを溝呂木の前に差し出してきた
兎角「これは私と武智からカイバへのチョコだ。生憎私たちは今日アイツと会う予定がないんだ。すまないがこれをアイツに渡してくれないか」
乙哉「あ、もちろん義理だから。むしろ作る義理も無いと思ってたけどしえなちゃんや晴に言われて仕方なく義務感から作った、いわば義務チョコだから♪」
溝呂木「……あ、ああ。分かった。渡しておくよ」
この二人がカイバと関わりがあるということは知っていたのだが、乙哉の物言いには少々困惑してしまった
だがすぐに溝呂木は、「まあ、照れ隠しの一種だろう」と持ち前の楽観さを発揮し、ラッピングされた箱を受け取った
溝呂木「よし!それじゃ、そろそろHR始めようか!」
そしてその元気な一声とともに、この日も黒組の一日が始まった
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
それはHRが終わり職員室へ向かう途中だった
溝呂木「あれ、カイバ先生!おはようございます!」
視界にカイバの姿を見つけた溝呂木は、元気よく挨拶をした
対照的に低血圧気味なのか、朝という時間に似つかわしくない気怠そうな雰囲気で、カイバも返事をした
カイバ「おう、おはようさん。相変わらず元気だなぁ……」
そしてすぐに、カイバは目ざとく溝呂木の持つ袋に目をつけた
「ん?そりゃもしかして…」
溝呂木「あっはい!黒組のみんなから貰ったんです!」
カイバ「おお、良かったじゃねぇーか!」
この男にしては珍しく多少は心配していたのか、安心したかのようにカイバは笑った
溝呂木「それと、これなんですけれど…」
溝呂木は兎角と乙哉から受け取った、もう一つのチョコをカイバに見せた
カイバ「ん?もうひとつ?どいつからか個人的に貰ったのか?」
溝呂木「いや、これは受け渡しを頼まれたんですよ。東と武智から」
カイバ「プブフッwwあいつらがチョコwww似w合wわwねwww誰にだよwww」
溝呂木「カイバ先生宛ですよ」
カイバ「…………うわっ、なにそれ…?似合わなすぎてもはや気持ち悪いレベルなんだけど…」
本気で引いていた
それまでの大爆笑から一転、サングラス越しでも目が動揺しているのがハッキリ分かるほど、引いていた
溝呂木「まあまあ、せっかくの生徒からの贈り物なんですから。受け取ってやってくださいよ」
カイバ「…………ケッ。ま、しょうがねえから受け取るとしますか。これも大人の辛いとこってやつかねぇww」
観念したかのように笑いながら、カイバはチョコを受け取った
パシャッ
カイバ「ん?なんか変な音聞こえなかったか?」
溝呂木「音?ありましたかね?」
カイバ「……ま、いいか」
結果からみるとカイバはこの時聞こえた音の発生源をなんとしてでも突き止めておくべきだった
だがこの時のカイバには、その音がミョウジョウ学園全土を揺るがす凄惨な戦いを引き起こすなどということは、分かるはずもなかった…
翌日、不定期に発行される学園非公認ゴシップ新聞、『宵の明星』が久々に発行された
一面の見出しは写真付き(ほぼ意味を為さない申し訳程度の目線入り)で、大々的に掲載されていた
『男性教諭二人、早朝から秘密の密会!!男性教諭Mから男性教諭Kへ、禁断の本命チョコ!?』
『黒組所属N.H氏(仮名)激白!「ボクは前々から怪しいと思っていた」!』
『先週金曜にはKはM宅でお泊りだったという目撃情報も!?』
衝撃的な見出し文で発行された『裏の明星』は校内裏サイトを通じて爆発的に拡散され、ここに「カイバ×溝呂木」旋風は巻き起こった
その後も、一人称「ボク」の黒組生徒N.H氏(自称)からの燃料投下や様々な捏造記事、コラ画像、有志調査員(スネーク)からの情報によりブームは留まることを知らず加速
またその規模が拡大していくにつれ、コミュニティ内で意見の衝突が頻発するようになる
その結果コミュニティは派閥ごとに分裂
これにより、『カイバ強気攻め派』、『溝呂木ヘタレ攻め派』、そして少数ながら強い影響力を持つ『溝呂木豹変俺様攻め派』等、多数の派閥に分裂した
また大量の派閥が生まれたこの時期に、どこからか『校長 カイ溝NTR派』といった独自の路線を歩む派閥も生まれている
※校長・・・コミックス1巻4話に登場
その後、始まりとなったバレンタインの記事で溝呂木がチョコを渡していたという記述から、『カイバ強気攻め派』が『カイ溝原理主義派』を名乗るようになる
この改名をきっかけに、各派閥は正当性を補強するための人員増加を狙い、大規模な布教活動を展開
リバ肯定派から一般人まで老若男女を問わず、熱心な布教活動が行われた
そしてある月曜日にさらに対立が激化する引き金となる出来事が起こる
きっかけは単なる『カイ溝原理主義派』と『溝呂木豹変俺様攻め派』の構成員同士のちょっとした喧嘩だった
双方目立った怪我も無く、非常に小規模で終わった喧嘩だったが、この対立が既存の女子コミュニティ同士の対立と重なり激化
裏サイトで「どっちが多く叩いた」などの水掛け論的な言い合いが頻発し、両派閥の対立はますます深くなった
そうした一触即発の空気の中、衝撃的な出来事が起こる
同じ溝呂木攻め派ながら対立の深かった、『溝呂木ヘタレ攻め派』と『溝呂木豹変攻め派』が、中立派であったミョウジョウ学園新聞部部長の手により和解したのだった
これにより対立していた『カイ溝原理主義派』と『溝呂木豹変俺様攻め派』の両陣営の規模に差が無くなると、両陣営は相手に対抗し同系統の派閥を吸収にかかった
その結果、争いは『カイバ攻め派』と『溝呂木攻め派』の二項対立へと発展
この頃には教師・生徒合わせて校内の女性の7割が関与する問題となっていた
そしてXデー
この対立はその日、後に『ミョウジョウ学園史上最低最悪の事件』と称される事件を引き起こしたのだった
その事件の始まりがこの時撮られた写真なのだが、そのようなことはカイバも溝呂木もこの時は知る由が無かった……
カイバ×溝呂木×バレンタイン 完
769 : ◆c4CaI5ETl. - 2015/06/13 14:39:30.67 HtgjDkKDo 608/770今回は以上です
4月から忙しさが続いてなかなか書けない状態が続いています
あと一か月もすれば忙しさのピークが過ぎると思いますので、そうしたら整理しきれてない長編を投稿していきたいと思います
キャットアンドマウスゲーム
乙哉「しえなちゃん!デートしよう!」
もう日も暮れようかという午後
いきなり乙哉は言い出した
なのでボクはとりあえず、手に持っていた分厚い漫画雑誌の角を、乙哉の頭に叩きつけた
乙哉「痛っつぅぅ~!何するのしえなちゃん!」
しえな「それはむしろお前に聞きたい。いきなり何を言い出すんだ、お前は?」
乙哉「え?だからデートしようってことだよ?」
しえな「いやいや、だからそんな脈絡も無く…だいたいもう夕方だぞ。これからどこへ行くって言うんだ」
乙哉「アハハ、これからは流石に行かないよ」
しえな「ああ、そりゃそうだよな」
乙哉「行くのはもっと夜遅くになってからだよ!」
乙哉によると、今日は雨で乙哉もボクもなんとなくもやもやした感じで一日を怠惰に過ごしてしまった。しかしこのままじゃいけないと思い、そして天気予報により深夜には雨が晴れ涼しくなるということを知り、昔よくやっていた夜の散歩を決行しようと思い至った、ということらしい
その話から数時間後
今ボクは、乙哉と二人で校門の前に来ていた
乙哉「ふんふんふふ~ん♪」
しえな「妙にご機嫌だな」
乙哉「いやさぁ、誘いはしたけどしえなちゃんが一緒に来てくれるとは思ってなくてね。それで嬉しくて♪」
しえな「別に。気まぐれだよ、ただの」
乙哉「ふふっ、それでも嬉しい♪」
そう笑いながら、乙哉は歩きだした
深夜の街は、昼間とは全く違う顔を見せていた
いつもは彩り溢れる店の多くが真っ黒に塗りつぶされ、街灯に照らされた草木は逆に昼間よりも明瞭にその緑を輝かせていた
音は静かだが、全くの無音なわけではない
むしろ虫の声や風の音、遠くで聞こえる車の走る響きが、奇妙な安心感を与えていた
風は雨を受けて冷えたのか、気持ちの良い涼しさを運んでいる
しえな「へぇ…」
それは思いの外、心地良い世界だった
乙哉「ふふふっ、どう?真夜中の街は?」
しえな「うん…あんまり、怖いものじゃないんだな」
乙哉「だよね!むしろ安心するっていうか!」
乙哉がいつもより興奮した様子で話す
夜の世界は、『21世紀の切り裂きジャック』武智乙哉のホームグラウンドだ
それこそ重い思い入れがあるのだろう
今ボクの隣には、世間を騒がせた連続殺人鬼『21世紀の切り裂きジャック』がいる
だがそのことに恐怖する自分は今はいない
武智乙哉という殺人鬼を知り、そして殺人鬼もまた人間なのだということを知り、
乙哉という人間をよりハッキリ見れるようになった
まだ蒸し暑さがある夏の夜だというのに乙哉の夜の散歩に付き合ったのは、今まであまり体験してこなかった深夜の街に少し興味があったからだ
だがその大前提として、乙哉と一緒にいるのが楽しいと思っていたからだ
乙哉の屈託のない笑顔を見るのが好きだと思うボクが、いつのまにかいたからだった
乙哉「しえなちゃ~ん?どうしたの~?」
少し前を行く乙哉がこちらを振り返り言う
街灯の光を受け、花のような笑顔を浮かべている
しえな「ああ、今行くよ」
乙哉のあれだけ楽しそうな笑顔が見られるんだ
今日一晩はこのまま乙哉に付き合うとしようか
そう思いボクは、乙哉と並んで深夜の世界を歩いて行った
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
しえな「で、だ」
あれから数十分
今乙哉はボクの目の前で地べたに正座させられている
しえな「何であのお城みたいなホテルの方に進路誘導しようとしたんだ、お前は?」
乙哉「えっと、その…最初はその気は無かったんだけど…急にムラッときたというかなんと言うか…」
乙哉(あの時にこっち見てたしえなちゃんの顔にムラッときたとは言えない…!)
しえな「へぇ~……何なら一晩そのままでいようか?ん?」
乙哉「ごめん!許して!」
土下座までするかお前…
しえな「まったく…ほら、行くぞ」
乙哉「え?ホテルに?」
しえな「金星寮にに決まってるだろ。そんなにここで正座してたいのか?」ギロッ
乙哉「いえっ!冗談です!こめんなさいっ!」
しえな「はぁ…とにかく、掴まりなよ」
そうして差し出したボクの手を掴み、乙哉は立ち上がった
そして転んだ。ボクを巻き添えに
しえな「お~と~や~!」
乙哉「いやいやいや!わざとじゃないの!足が、痺れちゃって!」
そういえば結構な時間正座させていたからな…
倒れた乙哉に巻き込まれて乙哉を抱きかかえるような体制で尻もちをついてしまった
幸い雨が乾いている道だったので服が汚れたりはしていないが、乙哉の様子を見るにしばらく起き上がることは出来なさそうだった
しえな「やれやれ…わひゃっ!」
突如胸の辺りに変な感触があった
胸を見ると、そこには乙哉の手があった
反射的に乙哉の頭に肘を振り下ろした
しえな「…何か言うことは?」
乙哉「…ついムラッとしてやりました。今は反省しています」
頭を押さえながら乙哉は言った
どこの犯罪者だお前は
まぁ実際犯罪者なんだけど
肘打ちのときにファニーボーン(肘の当たるとやたら痺れる部分)をぶつけて痺れる腕を抑えながら、思わずため息をついた
最近ボクは乙哉に振り回されっぱなしじゃないだろうか
乙哉の行動に驚き
乙哉の言動に怒り
そして乙哉の表情に心が揺れる
乙哉のせいで、ボクがどんどん変えられていく
そうだと思うと少し腹が立ってきた
なので、どこぞのドラマじゃないが『やられたらやり返す』ことにした
ボクはすがりつく乙哉を引き剥がして立ち上がり、スタスタとそのまま帰り道を歩いた
乙哉「ちょっ…!しえなちゃん!待ってー!」
乙哉が情けない声を上げる
それに対しボクは振り返り、
しえな「嫌だったらさっさと起きて来い、このばか乙哉」
そう言って、最後にまぶたの下を指で押さえ舌を出す、あっかんべーをしてからまた歩き出した
乙哉「待ってよ~」
乙哉は痺れる足でひょこひょことボクの後ろをついて来る
その姿を見て、少し胸のすく思いになった
しえな(振り回されっぱなしは性に合わないんだ。そっちがボクを振り回すっていうんなら、ボクはもっとお前を振り回してやる!)
そう思いながらしえなは、乙哉が追いつけるよう少しだけ速度を緩めて、夜の世界を歩いていった
乙哉side
乙哉(何、今の顔!あんなの無意識でやるって、アタシを萌え死にさせる気なの!?)
乙哉は早まる鼓動を抑えながら、しえなをひょこひょこと追いかけた
乙哉(結局今日もしえなちゃんにドキドキさせられっぱなしだったなぁ…今日はこっちがドキドキさせるつもりだったのに…ズルいよ、しえなちゃんは…)
殺人鬼は演技が上手い
特に平静を装うことに長けている
乙哉(よし!今度こそ、次こそは必ずしえなちゃんをドキドキさせてやるんだ!)
だが時にそれは、相手に自分の感情がうまく伝わらないというマイナスの側面を持つ
故にこのいたちごっこ、終わりはまだ当分先となりそうだった
キャットアンドマウスゲーム 完
797 : ◆c4CaI5ETl. - 2015/08/14 03:40:01.50 Z4pSBdnro 625/770最近長編を書いては書き直し、思いついたことを付け加えては書き直しで、想像以上に時間を食ってしまっています
悩みながらもなんとか書き上げていきたいです
次は来週の土日に投稿します
それではどうもありがとうございました
首藤涼とおっぱい戦争
涼(何故……こんな事になったのかのう…)
首藤涼は思う
その体は既に満身創痍
特に腹部に受けたゴム弾の影響が大きく、立つこともままならない
涼(あの時にもう少し注意しておれば……いや、それも今更じゃな)
首藤涼は見る
正面に居る、自分にゴム弾を打ち込んだ人間の姿を
その瞳に映るのは、歪んだ笑みを顔に浮かべた、神長香子の姿だった
―同日土曜日午前9時
首藤涼は校舎へと来ていた
この日は土曜日
部活動でも無い限りまず登校する生徒はいない
そして首藤涼は部活動などには入っていない
だが彼女は校舎に入り、職員室で鍵を受け取りその部屋へと入った
その部屋のドアの上にあるプレートには、『家庭科室』と書かれていた
家庭科室には涼を除いて誰もいない
それもそのはず
涼はこの日丸一日の家庭科室の使用許可をミョウジョウ学園から取っていた
普通の手段では到底無理な事なのだが、鳰を通してミョウジョウ学園理事長百合の協力を得たことにより無理を押し通した
涼「この薬、効果は抜群じゃがいかんせん作るのが難しいからのう……それに失敗すると下手すれば爆発までするし……」
涼は家庭科室を独占しなければいけない理由をひとりごちた
涼のやろうとしていることは薬の調合であり、調理だった
ただしその難易度は極悪
それは調合に用いる素材が理由だった
その植物は“悪魔の植物”と呼ばれていた
生息条件や生態は不明
特殊な方法を用いなければ採取することもかなわず、写真等の光学的記録すら不可能
極めて高い薬効を持つが、同時に極めて高い毒性を持つ
そのため採取することに成功しても、その植物による薬を服用するためには綿密な調合が必要となる
これから行われるのはその植物を素材とした薬の製作だった
涼はその植物と、様々な素材を調合していく
刻む、すり潰す、焼く、煮る、凍らせる
あらゆる調理法を秒単位の正確性を維持しながら同時展開していく
それは普通の人間には到底不可能な“業”である
だがその業を、涼は着々とこなしていく
緊張感の中、集中し続けること1時間
その薬は完成した
だがまだ作業は終わっていない
“調合”が終わり、次は“調理”が待っている
扱う材料は2種類の白い粉に、涼が自ら採取した茶色い豆
涼は特にその茶色い豆を時間をかけ調理する
そして時間が経過し、午後1時頃
涼「終わったっーー!!」
首藤涼の喜びの声が、家庭科室に響いた
それも無理のない事
何故なら涼は、奇跡の薬の製作を考えられる限り最短で終わらせる事が出来たのだから
失敗が何回かある事を考え丸一日の使用許可を取ったが、それが半日の猶予を残して終わったのだ
この喜ばしい誤算には、涼も齢を忘れて大きく声を上げてしまった
今回涼が手間暇をかけ作成した薬
その薬が発揮する効果はまさしく奇跡の産物
この世に生を受けし数多の女性が夢見てきた願い
そして未だ手に入れる事の出来ていない理想
それが首藤涼の手にある薬だった
その薬は調理の結果、一見するとどこにでもある普通の和菓子――大福にしか見えない
だがこの大福という形は毒ともいえる薬を服用可能にするための最適解
安全な服用を可能にし、副作用を無くすために涼が自分の持つ医学・薬学の知識を総動員して生まれた形であり、奇跡であった
その名も『豊胸福』
食べるだけで胸が大きくなる大福だった
涼「さて、早速香子ちゃんに渡しに行こうかのう」
それから後片付けを終え、豊胸福を袋に包むと涼は家庭科室を出た
そしてそれは、家庭科室を出てすぐのことだった
「首藤さん?」
涼は背後から、聞き馴染んだ声で話しかけられた
幕間 ある日の昼休み
香子「ん?首藤、何を書いているんだ?」
昼休み
昼食を購入して教室へと戻ってきた香子が見たのは一心不乱に机に向かっている首藤涼の姿だった
二人は昼は教室で机を並べて昼食を取る事を日課としている
その際、涼はいつも弁当を持参している
涼は香子にも弁当を作ると主張していたが、他人に頼るのが苦手な香子はなかなか首を縦には振らず、結果週の内月水金を涼の弁当、火木を購買部でパンを買う事にするという奇妙な約束事が生まれる結果になった
そしてこの日は木曜日
香子がパンを買ってくると、いつもは弁当を広げて待っているはずの涼が、一生懸命に書きものをしていた
それを見て香子は席に座り、どうしたのかを聞いたのだった
涼「ん、ああ!すまんのう、香子ちゃん。つい作業手順書に修正を思い付いての」
香子「作業手順?何のだ?」
涼「ふっふっふ、わしの持つ製薬技術における最高傑作の薬の作業手順じゃ!」
香子「ほう、なんだか分からんがそれはすごいな」
涼「そうじゃろうそうじゃろう」
香子はこれまで涼からいくつか薬をもらっていた
視力が良くなる薬や、間接が柔らかくなる薬、体の疲労を軽減する薬などであった
そしてそれらはどれも劇的な効果をもたらした
それは香子が思わず他の黒組の生徒に熱く語ってしまうほど、優れた効果だった
そのため香子はほんの少しの期待交じりに涼に訪ねた
香子「そ、それで、今度のは一体どんな薬なんだ?」
涼「うむ!聞いて驚け。今回のはなんと……」
香子「な、なんと……?」
涼「胸を大きくする薬じゃ!!」
涼の声が、教室に響いた
香子「………………」
対する香子の表情は、無であった
この世のあらゆる苦しみを理解し、それを受け止めた悟りの境地のような表情であった
涼「こ、香子ちゃん?顔が怖いんじゃが……」
香子「いや、別に。それで?その私と何の関係も無い薬がどうしたんだ?」
涼「え?いやじゃのう。これは香子ちゃんのためn」
――刹那
香子の右腕は吸い寄せられるかのように涼の顔面をがっちりと捉えていた
アイアンクローである
長い人生の中で戦闘を含む様々な経験を経てきた涼でさえも反応する事すら出来ない、最速の一撃だった
香子「首藤。その話は絶対機密の他言無用。忘 れ た か ?」
涼「ご、ごめんなさい。そうでした」
あまりの迫力に、つい敬語となった涼であった
首藤涼と神長香子
二人はある秘密を共有している
それは香子の持っていた秘密を、涼が暴いてしまった結果であった
神長香子の胸は小さい
その大人びた風貌からは想像もできないが、胸のサイズはA
黒組において幼さ残る桐ケ谷柩と、同率最下位である
しかしそれは一見すると分からない
それは例え神長香子が上半身を露わにしたとしてもであった
NSCP
正式名称Natural Skin Chest Pad
裏の世界で流通している究極の胸パッドの名称である
その特徴は一点、パッドの使用の有無が見ただけでは完全に見分けがつかないという点である
特殊樹脂により自らの皮膚と完全に同じ色調を表現し
胸の形、弾力も限りなく本物に近い
肌に安全な材質の接着溶液で望まない状況では決して外れない仕様
胸を大きく見せたいという女性の意地が集約したかのような商品である
だがその技術はまだ表の世界では一般的でないものも多く、裏の世界でごく僅かな数が流通しているにすぎない商品である
そのごく僅かな商品の利用者が、神長香子だった
香子にとって自分の胸は、そんな商品を用いてまで隠していたいコンプレックスだった
医者などの守秘義務を持つ者ならともかく、少しでも親しい人間には絶対に知られたくないという秘密であった
だがその秘密は墓場まで持っていくことは出来なかった
きっかけは香子の不運と涼のきまぐれ
ミョウジョウ学園全校一斉身体測定の翌日のことだった
その日に起きた出来事がきっかけで香子の秘密は二人の秘密となった
香子「まったく、忘れてもらっては困る」
涼「以後気を付ける……」
香子「…………で?」
涼「で、とは?」
香子「いや、その薬の今後について聞きたいんだが」
涼「ああ。いや香子ちゃんが嫌がるようじゃったらこの薬を作る意味は無いからのう。作業は中止に……」
そう言う涼の肩に、香子の手ががっしりと置かれた
涼「えっと……香子ちゃん?」
香子「首藤。その薬の効果は?」
涼「効果?まぁ、効果には個人差があるが……だいたいカップサイズが一段階上がるくらいの効果はあるじゃろうな」
香子「!!」
香子の瞳と眼鏡が怪しく光った
カップサイズのアップ
それは香子にとって、地獄へと繋ぎ止める鎖の開放に他ならなかった
それを聞いた香子は、急速に涼に顔を近づけた
涼「うぇっ!?ど、どうしたんじゃ、香子ちゃん……?」
急に近付けられた顔にしどろもどろになりながら涼は尋ねる
それに対し、香子は耳元に囁きかけるように言った
香子「首藤……一生のお願いだ……」
涼「な、なな、なななんでしょう///」
その声は密やかで小さい
だが同時に頼みごとをしているためか、どこか甘えるような艶のある響きをしていた
それを耳元で聞かされては、長年生きてきた涼であっても赤面し、動揺せざるを得なかった
香子「恥を忍んで言おう……その薬を、私にくれないか……」
香子としては単なるヒソヒソ話での頼みごとだったのだろう
だが涼にはそれは悪魔の囁きのように、抗いようのないものだった
涼「は…………はひ……///」
この瞬間、正式な香子のGOサインの下、薬の製作が決定した
だがこの時二人はミスを犯した
胸を大きくするというのは数多の女性が願う普遍の夢
それを叶える手段を教室という開放的な空間で行ってしまった
それも、自分の願望のためなら人殺しも厭わないという人間が集まってできた、この黒組の教室で
首藤涼がこのミスに気付くのは、薬を作り終わり、家庭科室から出て程無くしてのことだった
幕間 了
純恋子「ごきげんよう。奇遇ですわね、こんな所で」
話しかけてきたのは、涼と同じ黒組所属、英純恋子だった
涼「英か。確かに奇遇じゃな」
純恋子「家庭科室から出て来た様ですが、何か御作りになっていたんですの?」
涼「うむ、香子ちゃんへのプレゼントじゃ!」
純恋子「あらあら、仲のよろしい事ですわね」
和やかに会話が流れていく
まさに談笑という様子だった
だが不意に純恋子は時計を見て言った
純恋子「あら、いけない。私これから校長室へ行かなければなりませんの」
涼「ほう。英も忙しいんじゃのう……」
純恋子「いえいえ……それでは失礼させて頂きますわ。ごきげんよう」
涼「うむ、ではまたな」
そう言って二人は同じ廊下を異なる方向へ進んで行った
次の瞬間、涼がソレを避けることが出来たのは偶然では無い
微かではあるが、予兆はあった
何故校長室に用事のある彼女は、家庭科室のあるこの階に居たのか
彼女は何故涼とは逆方向、即ち元々やって来た方向へと再び歩いて行ったのか
何故歩く足音が、途中から一人分の物へと変わったのか
何故背後から、こんなにも瑞々しい殺気が放たれているのか
涼は振り向くよりも先に、膝の力を抜き素早くしゃがんだ
そして涼の首があった位置を、猛烈な勢いの手刀が空を切るのを見た
襲撃者はもちろん、先程別れた黒組の同級生
英純恋子であった
純恋子「チィッ!!」
不意打ったはずの一撃を避けられた純恋子は、続け様に攻撃しようとする
だが涼は、後方に純恋子を確認すると同時に前転
その場から距離を取り、すぐさま純恋子に向かい合った
純恋子「あらあら、気付かれてしまわれましたか。出来れば穏便に事を運びたかったのですが」
純恋子は先程の談笑と変わらぬ様子で話し出す
涼「良く言うわ。あれは一般人であれば死に得る手刀じゃったぞ」
純恋子「ええ。ですがあなたは一般人では無いのですから。何か問題が御有りですか?」
問題無い、訳が無い
だが英純恋子の言い放つその態度は、理屈を超えて反論を許さない気迫のようなものを感じさせた
涼「さて、何故じゃ?」
純恋子「既に察しているのではありませんか?現時点のあなたが持つ、襲われる理由なんて明白でしょう」
涼「…………この薬か」
涼は豊胸福が入っているポケットを見た
涼「じゃが判らなかったのはそれでは無い。何故お前がこれを求めるのか、ということじゃ。この薬について知っていたのは教室で話したわしのミスのせいじゃろう。じゃがお前がこの薬に関する部分について不満を持っている様子は無かったと思うんじゃがのう」
純恋子「ええ。私は自分のこの体に納得し、満足していますわ。でも、人は自分のためだけに動くとは限りませんわ」
現に貴女がそうであるように、と純恋子は悪戯めいた笑みを浮かべる
その言葉を聞いて涼も察する
涼「ふむ、つまりは番場のために、か……」
純恋子「ご明察、ですわ」
涼「はぁ……、そちらさんも仲のよろしい事で、じゃな……」
そして――空気が変わった
純恋子「ですからここで引く気はありませんので悪しからず」
涼「はぁ……やれやれじゃな」
張り詰め、ほんの些細な刺激で一気に破裂しそうな緊張感で空間が満ちる
空気の変化に応じて、涼は右手を前に出し半身の構えをとる
だが一方の純恋子は、構えを取らなかった
直立しながら両腕は力を入れず下ろし、自然体を取っている
それは奇しくもマリア像のようであり、気品を漂わせていた
しかしその自然体の戦闘態勢は、純恋子の自身の力への自信からであった
純粋に強いものに構えなどいらない
ただその持てる力をそのまま相手にぶつける
それこそが強者の絶対なる戦い方であると、彼女は信じていた
そしてその自信を裏付ける確かな実力が、純恋子にはあった
そして、火蓋は切って落とされた
先に動いたのは純恋子であった
純恋子は予備動作もなく、弾けるように涼へと飛び掛かった
その様はまるでチーターが獲物に飛び掛かるようであり、しなやかで美しく、そして獰猛であった
純恋子の初動が野生を思わせるものであったのに対し、涼の初動は人間の技術を象徴するようであった
涼の初動は必要最小限
涼は前に差し出していた右手目掛けて左手を出し、素早く交差させ打ち合わせたのみだった
「首藤流柔術 『鉄砲百合』」
だがそうして一瞬合わさった掌から――けたたましい音波が発せられた
それは相撲において『猫騙し』と呼ばれる技である
しかも涼は眼前の相手に一番激しい音が届くよう、手の形を調節して叩いた
相手に音波を弾丸のようにぶつけることで相手を怯ませる
それこそが彼女の持つ技の一つ、『鉄砲百合』であった
この技を普通の人間が受ければ、その音にひるんで突進の勢いを自ら殺し、決定的な隙を作ってしまう
しかし対する純恋子も己の体の一部を鋼に変えてまで、過酷な世界を生き抜いてきた人間だった
純恋子は音にひるむ事無く突撃の勢いを殺さずに、そのまま依然弾丸のように涼目掛けて飛び掛かった
だがさすがの純恋子であっても、人間の反射までは克服出来なかった
【まばたき反射】
人間は角膜や結膜,眼の周囲を刺激すると反射的にまばたきを行ってしまう
これは強い光や音,風などの刺激のほか,異物が眼に入ったり,近づいたりしても生じる現象である
涼の『鉄砲百合』により純恋子に浴びせられた音波はまばたきを呼び、一秒にも満たない僅かな時間ではあるが、純恋子の視覚を完全に奪った
そして純恋子が再び眼を開いた時には
――目の前に首藤涼の姿はなかった
首藤涼がどこへ消えたのか
その問いの解答は、次の瞬間、脚より伝わった感触により判明した
目線を下げるとそこには、低くしゃがみこんだ涼の姿があった
だが純恋子にはその姿を確認する以上のことは出来なかった
『鉄砲百合』にひるまずに突進し続けたのが、かえって災いとなった
勢いに乗り自分に迫る純恋子の脚に、涼は両腕を押し当て勢いを殺さずに、強引に上へとかち上げた
スピードの付いている状態で地面との接点を失くした純恋子の体は宙を舞う
そして直立状態から270度回転した状態で――即ち背中から地面へと叩きつけられた
純恋子「んぐぁっ……!!」
突進の速度がそのまま純恋子の背面へと衝撃となって襲う
そして背面への衝撃は、浸透する
その衝撃が襲ったのは肺
純恋子の横隔膜は叩きつけられた衝撃により一時的に麻痺
これにより空気の循環が行われなくなり、一時的に呼吸が出来なくなった
そしてそれは戦いの最中においては、致命的な隙だった
「首藤流柔術 『彼岸花』」
涼は素早く純恋子の足の側へと回りこむと、純恋子の左足を持ち上げる
そして左足首を右脇で挟み込み、左足で相手の右足の股関節の部分を踏みつけた
それは相手の左足首のアキレス腱を極めると同時に、右足の付け根を踏むことによって相手の下半身の自由を完全に奪う、関節技であった
関節技は人体の構造を利用して、相手の動きを封じる技である
即ち、熟練者のそれは力では決して外すことは出来ない
純恋子「くぅっ……!があぁっ!!」
だが純恋子も呼吸が出来ない状態でありながら即座に対応する
この技は腰から下の下半身の自由を完全に奪う技
そのため、起き上がることは出来ないが肩から腕にかけては完全に自由である
純恋子は関節技がかかったとほぼ同時に手の届く攻撃箇所――純恋子の右脚付け根を踏んでいる涼の左足首へと目掛けて右手を振るった
通常打撃の威力を出すためには、腕力だけでなく腰などの全身の力を腕に伝える必要がある
即ちそれが出来ないマウントポジションなどを取られた状況では、打撃の威力を出すことはほとんど出来なくなる
そして純恋子が陥っているのは、まさにその状況だった
この状況で打撃を選択するのは――明らかな悪手だった
――それが英純恋子でなければの話であるが
英純恋子の膂力は、人間のそれを遥かに超えたものである
幼い頃より命を狙われる環境から失い、そして得た力である
その力は定石を凌駕する
通常であれば全く問題にならないはずの仰向け状態からの打撃
それを純恋子の膂力は、必殺の一撃へと変貌させていた
その威力は、軽くかするだけでこの状況を一転させるものだった
肉食獣の一撃の如き打撃が、涼の左足を襲う
戦闘の定石を超えた一撃
だがそれは、首藤涼の技『彼岸花』を超えるものでは無かった
涼は純恋子の攻撃を予知していたかのように、左足を僅かに上げるだけの最小限の動きで回避した
そして純恋子の攻撃が空振ったのとほぼ同時に、浮かせた左足で純恋子の脚の付け根を強く踏みつけた
純恋子「んぐぅっ……!」
涼「残念じゃが、その攻撃は想定しておる」
涼は全く動じていない様子で、そう言い放った
純恋子は諦めずに二撃目、三撃目を放つ
さらに涼の足が浮いた瞬間を見計らい、脚を動かすことを試みる
だが、効かない
攻撃はすべて避けられる。そしてその度に強く関節部を踏みつける攻撃を受ける
右脚を動かそうとすると、抱えている左脚を引っ張るなどし、バランスを崩される
そして純恋子は悟った
これは釈迦の掌と同じ
『彼岸花』という技に踊らされているに過ぎないのだということを
涼「どうじゃ?勝負ありじゃと思うんじゃがのう?」
純恋子「………………」
涼は純恋子にそう問いかける
涼の言うとおりこの技が完全に決まった時点で、相手には降伏かそれとも苦痛の伴う敗北かの二択しか存在しない
だがそれは、相手が“普通の人間”であった場合だ
そして純恋子には自らにのみ選び得る第三の選択肢が既に見えていた
純恋子「いえ……勝負はまだついてま……せんっ!!」
純恋子は言葉と同時にそれまでと同様、右手で涼の足を狙う
だがそれは当然のように、最低限の動きで避けられた
そして浮いた涼の足が、再び純恋子の足の付け根を狙い踏みつけに来た
その足の動きを見て、純恋子はニヤリと笑みを浮かべた
純恋子「かかり…ましたわねっ!!」
踏みつけに来た涼の足は、純恋子の体を踏むことは出来なかった
しかしそれも当然
何故なら純恋子の胴体は、すでにそこには存在しなかったのだから
英純恋子は幼少の頃から命を狙われており、瀕死の重傷を折った際に自身の体の大半を機械化している
それは純恋子にとっては傷であり、望んで得た物ではない
しかし機械だからこそ出来ることがある
その一つが自らの意思で容易に着脱可能という点である
人は自分の手足を拘束されているせいで身動きが取れないとしても、トカゲの尻尾切りのように腕や足を取り外すというわけにはいかない
しかし純恋子にその縛りはない
腕や足に対しての関節技は、純恋子に対して決め手とは成り得ないのであった
涼への攻撃が避けられた瞬間、純恋子は自らの両足をパージした
それにより純恋子の両足太ももから下が、接合部の金属面を見せ純恋子の胴体から解き放たれる
だが純恋子の行動はそこで終わらない
純恋子は攻撃した腕を素早く戻し、人間離れした出力で地面を強く――押した
脚の筋力は腕の三倍と言われている
そして純恋子の腕の力は、常人の三倍を優に超えていた
即ち純恋子の腕は、充分に脚の代わりを果たす力を有しているということだった
純恋子は両腕を使い、涼の目線の高さまで――跳躍した
一方の涼は、一瞬動きが硬直した
抱えていた脚部が突如重いだけの機械の塊と化し、
踏むはずの胴体が宙に舞い、踏みつけを行う左足が空を切ったからである
純恋子はその一瞬に、勝機を見た
純恋子は理解していた
彼女の腕の力であれば一撃まともに入れば涼を戦闘不能に出来るということを
そして、首藤涼がまともな状態であるなら、自分の一撃が当たる隙など見せる人間ではないということを
故に彼女は初撃で不意を討った
しかしそれでも首藤涼には通用しなかった
そのため今回はその時よりも更に良い状況を作った
関節技をかけており、優位な立場に立っているという涼の意識の死角をつく
さらに片腕は重い左脚を抱えており、バランスも崩している
涼の意識を奪う一撃を放つための、これ以上無い完璧なシチュエーションだった
純恋子「もらい……ましたわっ!!」
純恋子は浮いた状態で意識を刈り取る右手を振るった
だが、首藤涼という人間とその持つ技は、純恋子の想像の上を行った
首藤流柔術『彼岸花』
その技の原型は、プロレスなどで使われるアキレス腱固めにある
しかし単なるアキレス腱固めと一線を画するのは、その自由度
通常アキレス腱固めは正しく極めることが難しいため、両手を使う関節技となっている
しかし『彼岸花』はこれを脇などを用いることにより右手のみで極めている
これにより関節技をかけつつも、左腕は完全に自由となっていた
加えてこの技をかけている時は、常に重心は右脚にかけていた
そのため純恋子の胴を踏む左脚もまた、自由に操ることが可能だった
即ちこの技は関節技を極めつつ、そこからさらに様々な攻撃を仕掛けることを可能とした技だった
自由な左手を使い、足の指や膝を破壊することも可能
左脚を使い、腹、股間、膝を踏みぬくことも可能
脚を抱えたまま前に倒れこむ事により、相手の左脚を完全に破壊することも可能
今回の純恋子に対してのように、相手の動きを封じることも可能
この技は一つの技でありながら、千変万化な攻撃を可能とする
故に『彼岸花』
千以上の名を持つ花の名に、相応しい技だった
そしてその高い自由度は、フェイントをかけることも可能としていた
純恋子は涼がバランスを崩したと判断し、攻撃した
だが涼はバランスを崩してはいなかった
確かに涼の左脚は踏むはずの胴体が無いために空を切った
だが重心は依然として右脚にあり、バランスは崩れてなどいなかった
しかし涼はあえて、左足が空振った事によりバランスを崩したかのように見せた
次に来るであろう、純恋子の攻撃を誘ったのであった
純恋子の攻撃に対し、涼は左腕が自由となっていた
さらにその攻撃は誘導したものであり、不意を突かれたわけでもない
そのため純恋子の振りかぶった腕が届くよりも前に――
涼の左掌底が純恋子の顔面を捉えるという結果になった
その掌打は威力はそこまで大きいものでは無かった
だが純恋子には、その威力に対し踏み止まるための脚が――無かった
既に切り捨てていた
そのため純恋子は否応なく廊下の奥へと吹き飛ばされることとなった
そしてこの一撃で、勝敗は決した
いくら人間離れした出力を発揮できると言っても、両腕部しか無い今の純恋子では、スピードで涼に敵うはずはない
そのため涼がパージした純恋子の両足を持って逃げてしまえば、その時点で純恋子は敗北となる
なぜなら純恋子の勝利条件はあくまで“薬の奪取”である
だが一方の涼は純恋子から薬を奪われず逃げさえすれば、それだけで勝利なのである
純恋子もそれを理解してか、足のない状態で仰向けになりながらため息をつくと残念そうに告げた
純恋子「これは…私の負けですわね…」
涼「ふむ、そうじゃろうな」
純恋子「首藤さん、英家の名に賭けて、貴女にこれ以上危害を加えないと約束します。ですから足を返して頂けませんか?でないと私…」
純恋子「ミョウジョウ学園七不思議の仲間入りをしてしまいますわ」
そうおどけたように純恋子は言い、首藤涼と英純恋子の戦いは決着となった
首藤涼 対 英純恋子
対決場所:家庭科室前廊下
勝者:首藤涼
決まり手:首藤流柔術『彼岸花』からの左掌底
ちなみにここ一年でミョウジョウ学園七不思議には2つの新しい話が追加されていた
一つは、台風の日の深夜の学校でハンマーを振り回し学校を破壊して回る男が現れるという『ハンマーマン』
もう一つは、夜の内に女生徒が屋上から転落死するも、死体がいつの間にか消えているという『消えた転落者』
学園七不思議の仲間入りという意味では、既に手遅れであるのかもしれなかった
涼はその長きに渡る人生において様々な人間を観察してきた
その経験から、純恋子の言葉に嘘はないと判断した
純恋子のような人間が家の名前を賭けてまで誓ったことを、覆すことはありえない
覆すような人間であれば、ここまでの力は持ち得ないのだ
そのため涼は両足を純恋子へと渡した
純恋子「ふう…、しかし残念ですわ。真昼さんの悩みを解決できませんとは」ガチョンッ
足を装着し直しながら、残念そうに純恋子が言う
涼「しかし番場が胸の悩みのう…そんな風には見えんかったがの」
純恋子「ですが私は見たのです!部屋で一人泣いている番場さんを!さらに聞いたのです!番場さんが最近保健室に通って胸の悩みを相談しているという情報を!」
涼「……うん?ちょっと待て。英、今……」
だがその会話は一人の闖入者により遮られた
「あ~?なんでお前がここにいるんだ?」
いや、闖入者という言葉では語弊があるかもしれない
何故ならその人物は、今まさに話題に上がっていた人物なのだから
その顔には縫合跡
その服には黒のネクタイ
その脚には片側だけ二―ソックス
真夜「なぁ、純恋子ぉ?」
そしてその手には、破壊をもたらすスレッジハンマー
番場真夜がそこにいた
戦いは未だ序章
乙女の夢を巡る戦いは、まだ終わらない
874 : ◆c4CaI5ETl. - 2015/10/27 03:46:03.96 5hzrBdEIo 689/770今回は一旦ここまでです
おばあちゃんのトンデモ化が止まらなくなっている……
続き物なので出来るだけ早く上げたいとは思いますが、細かなところが気になり遅くなる可能性も多々あるので気長にお待ちください
今回はこれで失礼します。おやすみなさい
このスレでこの話完結できるかなぁ……
875 : 以下、名... - 2015/10/27 08:44:19.10 FLFjU0bSO 690/770乙…あとこのスレでは純恋子さんは『番馬さん』ではなく『真昼さん』ではなかったか?
877 : ◆c4CaI5ETl. - 2015/10/29 08:01:22.37 F4JUIkmUo 691/770>>875
1.本人以外には共通して「番場さん」呼びであるという設定
2.泣いていたのが誰かを明言しないことによる叙述トリックの可能性
3.大人はウソつきではないのです。ただまちがいをするだけなのです
以上3つから好きなものをお選びください
……正直その部分はあんまり考えずに書いてました
すいません
英純恋子との激闘未だ冷めやらぬ内に現れたのは
純恋子と同室の黒組出席番号12番
番場真夜であった
いつもと同じ不敵な笑み
いつもと違う手にある得物
確かなのは、ただ話をするだけでこの場が収まる事は無いだろうということだけだった
純恋子「し、真夜さん!?あなたこそどうして……!それにその武器は……」
驚き戸惑う純恋子であったが、真夜の目線は一点から動いていなかった
真夜「ああ、そりゃ仕事でな……っ!?ハハッ、悪いな純恋子!話してる暇は無さそうだッ!!」
純恋子「……っ!?」
番場真夜の登場を確認してからの涼の行動は迅速だった
隣にいた純恋子の気が逸れた隙を狙い、真夜が来たのとは逆方向へと廊下を駆け出した
それは純恋子との戦いでもあった、「逃げる」という選択肢
真夜の獲物であるスレッジハンマーは重量があり、そのためどうしても機動力は落ちる
廊下を逆走して反対側の階段を目指せば真夜から逃げ切るのは容易であろうとの判断だった
その判断は間違いではなかった
――だが誤算が一つ
純恋子「――生憎とこう見えて私、走るのは得意ですのよ」
走る涼の前に、後ろから獣の如き速さで追い抜いてきた英純恋子が立ちはだかったのだった
機械で造られた脚は、走ることに関しても人間離れした能力を発揮していた
涼「邪魔をしないと約束したんじゃが……?」
涼はジロリと責めるように純恋子を睨む
対して純恋子は悪びれず言った
純恋子「あら、約束事はキチンと覚えておくべきですわ。あくまで私がした約束は『危害を加えないこと』」
純恋子「たまたま走ってあなたの前に立つことが、危害といえるかしら?」
詭弁、屁理屈としか言えない内容であったがそれを否定する時間は涼には無かった
真夜「ハハッ、助かったぜ純恋子」
何故なら背後には既に番場真夜が距離を詰めてきていた
彼我の距離は約5メートル
両者ともに数歩で間合いとなる距離であった
涼は真夜の方を向きつつ純恋子に嘆息する
涼「まったく……自分のプライドを半分捻じ曲げてまで尽くすとは……とんだ内助の功もあったもんじゃな……」
純恋子「あらあら、照れますわ」
涼「褒めとらんわ」
そうして純恋子と会話をしながらも涼は眼前の敵を冷静に見つめていた
対する真夜は、予想に反してハンマーを構えたまま距離を保っていた
その構えは剣道で言う『脇構え』
得物の長さを隠し、相手の攻撃を誘うカウンター狙いの構えである
涼「さて…どうしたもんかのう…」
涼は真夜をどのように相手取るか、その方針を考える
今回のスレッジハンマーのような長物の武器を相手取る時の戦略は、大別して2つに別れる
一つが相手の攻撃を避け、第二撃が来る前に攻撃するいわば後の先のやり方
長物はそのリーチの長さ故に、一度攻撃した後再び攻撃するのに時間がかかる
そこを突くのが後の先、いわゆるカウンターという戦略であった
そしてもう一つが、相手が攻撃を放つ前にこちらが攻撃をするいわゆる先の先の方法
こちらも長物を振り回すのに掛かる時間を利用し、相手が反応し攻撃する前にこちらの攻撃を加えるというものである
もちろん涼もその2つの戦略を理解していた
だが涼はそれでも、番場真夜のスレッジハンマーにどう対処するか迷っていた
その要因の一つは地の利が相手にあることである
今涼と真夜が向かい合っているのは、ミョウジョウ学園の廊下である
ミョウジョウ学園がいくらマンモス校で巨大な敷地を誇るといっても、その廊下まで極端に広いわけではない
せいぜいが一般生徒4?5人分少々の幅しか無い
そのためハンマーを横薙ぎに振り回されれば、それを躱すほどの幅もない
つまり後の先を取るやり方が難しいのである
さらに真夜はすでに構えを完成させており、涼の一挙手一投足を見逃さんとしている
しかも迎撃に適した脇構え
いくら重いハンマーとはいえ、距離を詰め攻撃するよりもハンマーの一撃が涼を打ち砕く方が早いだろう
即ち先の先もまた難しい
後方には純恋子が控えており、退路は断たれている
攻めるに難く、退くも難し
涼は圧倒的に不利な状況へと追い詰められていた
涼(さてさてまっこと厄介な状況じゃ……)
心の中で何度目か分からないため息をつく
だが状況は停滞も諦観も許さない
そして首藤涼という人間がそういう状況で取る行動は一つ
――前に進む事だった
涼は真夜に向かって一歩を踏み出した
その一歩は力強く、姿勢は明らかな前傾
誰が見ても『先の先』狙いの全力疾走であった
涼の歩幅で換算すると真夜のハンマーの間合いに入るのは3歩目
そして涼の攻撃の間合いに入るのが4歩目だった
真夜「ははっ、それでいいのか?」
しかし迎え撃つ真夜の表情にあるのは余裕だった
涼はさらに加速し、2歩目を地面に刻む
そこに至りようやく真夜はハンマーを振るった
通常であれば明らかに振り遅れのタイミング
だがそれはまるで居合術のように速く、鋭く
降り始めたと思った次の瞬間には、真夜のハンマーは目の前の空間を薙ぎ払っていた
真夜「あぁ?」
だが真夜はハンマーから伝わる感触に違和感を覚えた
真夜のハンマーが薙ぎ払ったものは、空気のみ
それは即ち、突貫してきたそこにいるはずの首藤涼がハンマーを避けた事の証左であった
真夜(どうやったかは知らねえがあの状態から俺のハンマーを避けやがったのか……)
重量のハンマーを高速で振ったことにより、真夜は必然ハンマーの威力を作りだしている遠心力に振り回される
そのため真夜はぐるりと半回転し背を向ける体勢になっていた
それは明らかに隙だらけで、攻撃を加える絶好の状態であった
そしてそのことは――
真夜(じゃあ、コレは避けれんのかよ!!)
――真夜も理解していた
真夜は遠心力の勢いを殺さず、まるでコマのように回転を続けた
二撃、三撃、四撃とハンマーは間髪入れず目の前の空間を抉り取る
真夜が初撃のハンマーを振るってから一歩踏み出す間もないほどの短い時間
その間にハンマーは連撃を以て暴威を振るう
攻撃を仕掛けるどころか、間合いに入ることさえ出来ない
それはまるでその空間に存在する物すべてを吹き飛ばす、荒れ狂う竜巻であった
その竜巻の終わりは早かった
真夜はハンマーの五撃目を横を薙ぐ代わりに自らの頭上へと振り上げた
それにより遠心力を横から上へと昇華し真夜は回転を停止した
ハンマーを振り上げる姿は、これまた剣道の『上段構え』に酷似していた
また停止した真夜の向いている向きは、最初と同じ純恋子のいる方向――即ち正面であった
そのことが、これが力のままに振るわれた暴力ではなく、確かに制御された技術であることを示していた
そして制止した真夜の視界に最初に飛び込んだもの
それは最初に踏み込んだ地点と同じ場所にいる無傷の首藤涼の姿であった
真夜「まったく、何で無事なんだよ、アンタ」
真夜が呆れたように言う
それもそのはず。普通なら真夜は初撃にて涼を捉えていなければおかしいという状況だった
真夜「俺は必ず当たるタイミングでハンマーを繰り出した。アンタの腕前ってのは聞いているが、そいつは別に物理法則とかをブチ抜いた魔法とかじゃねえんだろ。ならなんでハンマーを避けれてんだよアンタは」
真夜は涼の全速全身を見て、それをギリギリまで引きつけてからハンマーを振るった
それは3歩目が着地するとほぼ同時のタイミング
2歩目の動き出しからハンマーを振るったため、前進していた涼は本来避けることなど不可能なはずのタイミングであったはずなのだ
また初撃以降はハンマーの軌道を少しずらし、膝ほどの高さにまでハンマーを振るい潜り込んでの回避も封じた
一見粗野で乱雑に見えるハンマーでの攻撃であったが、そこには以前の真夜にはなかった“熟練”があった
だがそれでもなお平然と目の前に立つ涼に、真夜は上段の構えを脇構えに直しつつ、呆れを通り越し純粋に不思議がっていた
純恋子「その答えの鍵は、2歩目にありますわ」
そんな真夜に後ろから見ていた純恋子が助け船を出す
純恋子は涼の真後ろから二人の駆け引きを見ていた
すべてが見えていた訳ではない
むしろ純恋子の瞳に映ったのは、普通では理解できない光景だった
それでも裏の世界をその身を鋼に変えて生き延びてきた彼女は、その光景の意味を理解していた
真夜「2歩目……?」
純恋子「ええ、そうですわ。前傾姿勢で踏み込んだ1歩目のすぐ後。ありのまま見たように言えば、2歩目を踏んだ首藤さんは、そのままの姿勢でまるでビデオを巻き戻すかのように1歩目の位置へと後退して行ったんです」
私から見れば短距離走で前を走る選手が突然バック走をし始めたようで、なかなかに気味の悪いものでしたが、とからかうように純恋子は笑う
真夜「ん?つまりそれって……」
純恋子「ええ。首藤さんは真夜さんの攻撃圏内には一歩も入っていなかった。ただ入ったように見せかけて、技を空振りさせたんですわ。そうですわね?首藤さん」
涼「…………」
涼は沈黙で以て肯定する
涼が用いた走法は、首藤流柔術『走野老(ハシリドコロ)』と呼ばれるものであった
これは直進する運動エネルギーのベクトルを高度な身体操作により瞬時に全くの別方向へと転換するという技法である
これによりまるでその名前の植物がもたらす幻覚でも見ているような動きを可能とする
涼はこれを用いて真夜の攻撃の隙を見極めようとしたのだった
だがその結果に涼は驚愕していた
真夜に地の利があるとはいえ、真夜の一連の攻撃にはつけこめる程の隙が存在していなかった
脇構えの状態からはまるで居合の様な攻撃が瞬時に飛んでくる
回転してハンマーを振り回している状態は、ハンマーの射程圏内に入るものすべてを打ち砕く
そして回転が終わった時には瞬時に上段構えに移行するため、無闇に攻撃を仕掛ければ上段からの強烈な一撃が振るわれる
一連の技と技の接続の隙も、最小限となるよう工夫されている
涼「相当にその獲物を使いこなしておるわ。よほど鍛錬を積んだようじゃな」
涼もまた真夜と同様相手の技量に驚嘆していた
真夜「ハハハッ、そりゃ嬉しいね。晴ちゃんの時は避けられまくりのやられまくりだったしな」
涼「ほう……それがこうまで変わるとはの……何か心境の変化でもあったのかのう」
涼の時間稼ぎにも似た推測を聞き、真夜は二イィと笑う
真夜「心境の変化ね。さすが上手い事言うぜ。俺と真昼のあの変化を表すのにこれほど的確な言葉はねえわな」
真夜は自分の胸に手を当てて感慨深そうに語る
真夜「そうだ。俺と真昼が時間に縛られることが無くなったのは――心の境目が完全に無くなったのはまさに契機だった。俺は真昼の弱さと芯にある強さを得て、真昼は俺の強さと潜んでいた弱さを得た。だからこそ強いだけじゃない力を得ることが出来た」
真夜は構えを直し涼を強く見据えて宣言する
真夜「さて、今の俺は強えぞ。そんな俺を倒すことが出来るか?」
その顔は自信に満ち
声は活気にあふれ
全身に力がみなぎっていた
それを見て首藤涼は――
涼「――でかい口を叩くのう、童(ワッパ)」
静かに嗤(ワラ)った
正面の真夜はもちろん、背中しか見えていない純恋子でさえも戦慄を感じるその一言を放ってすぐ
首藤涼は再び1歩、前へと踏み出した
この勝負の決着となる一合の始まりとしては、非常に静かな1歩だった
対して真夜は冷静に思考する
真夜(結局のところこの勝負、読み合いで決まる!)
ほとんど隙のない連続攻撃を繰り出す真夜だが、隙がまったく存在しないわけではない
それは回転を停止し、ハンマーを上段に構える瞬間
真夜の一連の技における上段に構えるというのは、回転によりかかる遠心力を上方向へと逃がすという意味合いがある
即ちその振り上げている途中に、軌道を修正して振り下ろして攻撃するということは物理的に出来ないのである
――そしてそのことは真夜も承知している
涼は前傾姿勢
1歩目から次の2歩目へと足を踏み出す
真夜がハンマーを振り上げる瞬間を狙うためには、動き出すのは実際にハンマーを振り上げるより先でなくてはいけない
即ち涼が攻撃するためには、真夜が何回転目でハンマーを振り上げるのかを読む必要がある
これが読み合い
自分の思考を読んで取るであろう相手の行動を、さらに読み取る
ゲーム理論じみた思考が真夜の頭の中で一瞬のうちに駆け巡る
そして――
真夜(だけど、俺がそれに付き合う必要はねぇよなぁ?)
――真夜は読み合いを超越する一手を選択した
涼の2歩目が、地に着いた
真夜「らあぁぁっ!!」
真夜がハンマーを振るう
そしてそのまま流れるように回転へと繋げる
だがその回転には、前回と違う点が一つ
真夜は回転しハンマーを振るいながら、まるで回る独楽のように前へと進んでいった
真夜(アンタが例え後ろに避けて俺の振り上げる瞬間を待とうとしても、振り上げるまでの間に避けるスペースを詰めちまえば問題ねえ!)
涼は前進と見せかけて後退をし、涼の攻撃を避けることが出来る
しかし真夜が回転しながら前に進むことで、涼は後ろに下がってもなお避けれない状態へと陥る
真夜(最大回転数の10連回転!避けれるもんなら避けてみな!!)
真夜は廻り、暴威を撒き散らしながら前へと進む
遠心力の付いたハンマーが、腕の筋肉を軋ませる
激しい回転が、平衡感覚を揺さぶる
だがそれらに構わず、真夜は回転する
そして10回転
真夜はハンマーを振り上げた
正面にあるのは純恋子の姿
これは予想通り
だが予想外は――純恋子の浮かべる表情だった
――それは驚愕
それも真夜を見ての驚愕では無い
真夜のいる位置の――真上を見上げての驚愕であった
真夜「上……って、まさかっ!?」
真夜は瞬時に純恋子の見上げる方向へ首を上げる
――そして見た
天井。そして家庭科室のプレート
そのプレートを支えにし、蜘蛛のように天井に張り付く首藤涼の姿を
真夜はこの戦いが読み合いに発展すると考え、あえてその読み合いそのものをぶち壊す手を選択した
――が、それは涼も同様だった
両者の違い。それはハンマーの当たらない空間の認識の差だった
真夜が両者の距離でしか考えていなかったのに対し、涼は高低を考慮に入れた
そしてこの認識の差は、真夜の見積もりの甘さでもあった
涼の見せた走法“走野老”
これは前進する運動エネルギーのベクトルを全く別方向に転換する技である
この走法を見た際に真夜は予想しなければいけなかった
「後ろに行けるのならば横に行くことも可能なのではないか」
「さらに言えばそれは跳躍として上方向へも行けるのではないか」と
そうすれば、走野老で壁へと走り、跳躍と壁を蹴っての三角跳びで天井へと行く涼の可能性を考慮できたかもしれかった
涼は天井から降りながら、蹴りの姿勢を見せる
だが真夜には為す術は無い
真夜のハンマーは剣術をベースに改良してきた
そのため構えや体捌き、そして弱点は、剣術と共通する
真夜のとっている上段構えは、防御を捨てた攻撃の構え
だがその攻撃は、あくまで同じ地平に立つ者を対象としたものである
即ち、上段はさらに真上からの攻撃に対しては為す術を持たないのであった
真夜「……チクショウ」
真夜が呟くと同時に、降下とともに繰り出された涼の蹴りがハンマーを弾く
そして着地と同時に真夜は、涼に組み伏せられた
涼「さて、まだ続けるかのう?」
そう尋ねる涼に真夜は無言で手を降り白旗を上げた
真夜「たくっ……アンタはスパイダーマンか何かかっての……!」
「許可しない物理的接触(武器含む)を今日一日禁じる」
この誓約を呑まされ、解放された真夜がぶつぶつと呟く
純恋子「まさか人が道具もなしに天井まで跳躍出来るなんて……貴重な物を見せていただきましたわ」
その真夜の隣に寄り添うにしながら、純恋子も言う
ちなみに純恋子に対しても「許可なしの物理的接触を禁じる」という誓約を呑ませている
前回の反省を活かし、拡大解釈の隙を無くした形だ
もっとも二人とも、そんな約束を取り決めることなくとも、もう戦う気は失せているようであった
それから落ち着いたところで、涼は話を聞くことにした
涼「さて、番場よ。お主、仕事と言っておったが、それは誰に頼まれた?」
対象は番場真夜
彼女は自身が薬を欲しているのではなく、仕事として涼を襲撃した
ならばその薬を欲している依頼人こそが真の敵だからである
そんな涼の問いに真夜は特に躊躇う素振りも見せずに答える
真夜「俺に依頼した奴か?それなら――」
しかし真夜の言葉はそこで止まった
涼「ん?どうしたんじゃ?」
真夜は何故かそこで言い淀む
しかし依頼人への配慮や言い訳を考えている様子ではなかった
そして真夜は困惑したような顔で言った
真夜「わりい、首藤。これは誤魔化しとかそういうんじゃないんだけどよ――」
真夜「――覚えてねえんだ。誰が俺に仕事を依頼したのか」
そう言う番場真夜が嘘をついているようには涼には見えなかった
涼「……では、仕事を受けた経緯で覚えていることはあるか?何故この仕事をしようと思ったのかとか」
真夜「何故……それは、この仕事が純恋子のためになるからって言われて……」
純恋子「私のため?」
真夜「でも変だ……それで納得してたはずなのに、誰が言ってたか、何で納得してたかも分からねぇ……」
真夜は珍しく気弱そうな表情を浮かべそう言った
涼は純恋子にも問いかける
涼「英よ。お前は確か番場が悩んでいると誰かから聞いてこの薬を狙ったと言っておったな。それが誰から言われたか思い出せるか?」
純恋子「……無理、ですわね」
真夜の話を聞いて純恋子も自覚したのだろう
伏し目がちになりながらそう言った
それを聞いて涼は確信に至る
涼「精神操作、か」
人の記憶や心を操る
まるでファンタジーのような能力
だが涼は、それを実際に行える人間がいるということを知っていた
そしてそれを活かして、暗殺を行う集団がいるということも
社会の闇は深く、また人間の秘めたる能力の底も深いということだった
涼「そいつが黒幕、ということか」
黒組の人間二人を操った黒幕が、このまま引き下がるとは考えられない
つまりまだ、戦いは終わらない
涼「はぁ……たかが薬一つに、大事になったのう……」
これから待ち受ける戦いに、年相応に深いため息をつく涼であった
それから涼は何事も無く、金星寮の入り口にまで来ていた
家庭科室から出ただけで純恋子、真夜と立て続けに襲われたのだ
加えて明らかになった黒幕の存在
金星寮に帰るまでさらに刺客と出会う可能性が高いと考えていた涼は、少し拍子抜けしながらも安心していた
そして金星寮の入口で涼は――予想外の人物と出会った
涼「香子ちゃん!!」
それは今回薬を作るきっかけとなった人物であり、薬を渡す相手である神長香子の姿であった
涼はこの時点で、香子が拉致誘拐されている可能性も考えていた
人の心を軽々と操る黒幕だ
それぐらいのことはしかねない
その予想が良い方に外れたと、涼は喜んで近寄って行った
涼「一体どうしたんじゃ?こんなところで」
香子「いや、調べ物のために本屋に行きたくなってな。ちょうど今から行こうとしてたんだよ」
涼「おお、そうじゃったか。それはいいタイミングじゃのう」
いつもと変わらぬ様相で言う香子に、涼は笑みを見せる
香子「ところで…その袋に入った大福が今回の薬なのか?」
涼「そうじゃ。これが胸を大きくする薬である『豊胸福』じゃ!」
そして涼は取り出して香子に『豊胸福』を見せた
香子「ふーん……見た目はまるっきり普通の大福なんだな」
涼「これは香子ちゃんのためにと思って、丹精込めて作ったんじゃよ」
笑顔を浮かべ談笑する二人
香子「そうか。じゃあありがたくいただくよ」
そして香子の方はその薬を受け取ろうと手を伸ばした
涼「――じゃからお前には譲れんのじゃ」
だが瞬間、涼の表情から笑みが消えた
そして冷ややかな眼をしながら、目の前の人間の名を告げた
涼「のう…走りよ」
香子?が涼の言ったことにキョトンとした反応をする
香子?「おい?一体何を言っているんだ首藤?走りなんてどこにもいないじゃないか」
涼「おるよ。わしの目の前に」
香子?「いやいや、私が走りって……本当に何を言っているんだ?」
香子?は困惑するが、涼は構わずに話し続ける
涼「確かに今わしの目には香子ちゃんがいるように映っておるし、香子ちゃんがしゃべっているように聞こえておる」
涼「じゃが声の調子がところどころ異なる発音になっている。立っている時の重心のバランスがいつもの香子ちゃんと比べて安定しすぎておる」
香子?「んなっ……!?」
涼「特に決定的なのは匂いじゃな。人は普通に生きていれば多かれ少なかれその人固有の匂いというものを持つ。しかしお主からはそれがまるで感じられん。意図的に消しておるのじゃろうな。わしが知る中でここまで匂いの無い人間はただ一人――」
涼「――走り鳰。お主だけじゃ」
香子?「…………………ハハッ」
香子?「ハハハハハハハッッ!!いやマジなんなんスか、アンタ!!発音とか重心とか匂いとか!!どうやったらそんな人間になれるんスかね?、ホント!」
目の前の香子?は、いきなり笑い出した
それは神長香子という人間には似合わぬ哄笑だった
涼「その口調……諦めたか」
鳰「そうっス、大正解?!ウチの正体はキュートな黒組の裁定者、走り鳰ちゃんっスよ?!」
涼「そうか……しかし、凄い効果じゃな……未だにわしには香子ちゃんが喋っているようにしか見えんわ」
正体を明かされてなお涼の目には、神長香子が見たこともない表情で話しているようにしか見えていない
鳰「そりゃそういう風になるよういろいろ仕込みをしてたっスからね?。調理に使うために首藤さんが予約を取っていた家庭科室だったり真夜さんのハンマーだったりに、気付かない内に幻覚の種を細工をしていたっス。だからこの幻覚、そう簡単に解けるもんじゃないと思ってた方がいいっスよ」
涼「なるほどのう……じゃが走りよ、お主――」
涼「――この程度の小細工でわしに勝てると思っておるのか?」
そう告げた瞬間、その場の空気が一変した
まるで刃物の先を向けられたような威圧感が鳰を容赦なく襲う
鳰「おお……怖っ。やっぱ人間とは思えないほどの威圧感っスね」
だが鳰はその威圧におどけて返す
それは一種の余裕の表れだった
鳰「でもウチも、何の対策も取らずに首藤さんの前に立つほどバカじゃ無いんスよ」
そう言いながら鳰は右手を前に出した
ただそれだけの一見何の意味もない動作
しかし次の瞬間、その何もないはずの右腕から――何かが発射された
涼「……っ!?ゴハッ…!!」
ミシリと肉と骨を押しのける嫌な音が体に響く
何もないはずの右手から弾丸のような何かが発射された
唐突に打ち出されたそれが、涼の腹部にめり込んでいた
鳰「アハハッ、あ?良かった。これが当たんないならホントにどうしようかと思ってたっスよ」
涼はその衝撃に腹を抑えてうずくまった
涼「なん……じゃ、今の……は……」
鳰「ただのゴム弾っスよ。ちょっと威力は強いっスけどね」
それを聞いて涼はすぐさま先程起こった現象を理解した
涼「なるほど…お前、銃すらも…幻覚で隠しておったな?」
鳰はそれを聞いて素直に驚きを現す
鳰「凄いっスね、今のをすぐに理解できるなんて。ええ、その通りっスよ。首藤さんにはおそらく今ウチの姿は、いつもの半袖の服を着た神長さんに見えてるハズっス」
鳰「でも実際のウチは長袖の服を着ている。ウチの技は“服装までも含めて”幻覚にかけることが出来るんスよ。だから服の中に銃を仕込んでいても、気づくことは出来なかった」
鳰「まあさらに今回は相手が首藤さんなんで念には念を入れて、指の動きでバレないように左腕の肘で発射するタイプの仕込み銃を使ったんスよ」
鳰「でも発射された弾丸までは隠すことが出来ないんで、その弾丸を見てから避けられたりしないかちょっと不安だったんスけどね?」
涼「弾丸単体を目視して避けるなど……出来るはずない……じゃろ」
武術を極めた人間であれば、銃による攻撃を避けること自体は不可能ではない
しかしそれは弾丸を見て避けているのではなく、銃口から伸びる射線と相手が引き金を引くタイミングを読んで避けているのである
弾が放たれてから避けるなどというのは、人間の反射神経的に不可能だ
そのため銃口とタイミングの2つが完全に隠されていた今回の鳰の射撃は、如何に涼が優れた武術家であったとしても避けることは出来なかった
鳰「いや?、それを聞いて安心したっスよ」
話しながら鳰は新たに二発、ゴム弾を涼の足目掛けて発射する
涼「ぐあぁっ!!」
鳰「腹部と脚部……これで機動力は奪わせてもらったっス」
香子の姿で笑みを浮かべながら鳰は言う
鳰「でもウチは油断はしないっス。首藤さんが意識を失うまで、このまま遠距離から攻撃を続けさせてもらうっス」
動けない現状
武器による攻撃範囲の大きな差
そしてこの状況でも警戒して接近しようとしない鳰
まさに打つ手がない、絶体絶命と言える状況であった
だが、首藤涼は諦めていなかった
涼「走り……この薬、一体誰にやるつもりなんじゃ?」
鳰「はぁ?いきなり何を言い出してるんスか?」
涼「自分で使うためでは無いじゃろう。お主は胸が大きいほうじゃし、胸に特別なコンプレックスを抱いている様子もない」
鳰「はぁ……だったらどうだって言うんスか?」
鳰は少し苛立った様子で涼の話を聞いていた
涼「この薬を誰かに渡すつもりだというのなら――」
一方涼はニヤリと笑い、そして――
涼「こうしたらどうするかのう?」
――『豊胸福』を袋から取り出し、空高く放り投げた
鳰「ちょっ!!何やってんスか!?」
涼「お主は果たして――地面に落ちてグチャグチャになった大福を、贈り物として差し出すことが出来るかのう」
鳰「くっ……!!このぉっ……!!」
この時鳰に選択の自由はなかった
鳰(地面に落ちてグチャグチャになったものをあの人に渡すことなんて出来ない!!)
そのため鳰は、宙に放られた大福を捕りに行くしかなかった
大福はもう既に放物線の頂点を過ぎ落下を始めている
鳰は落下地点目掛けて走り、大きくジャンプした
鳰らしくもない、全力疾走
その甲斐あって、鳰は大福を両手で無事キャッチすることが出来た
だが――
涼「さて、手の届く範囲に来たのう」
――そこは首藤涼の領域であった
涼は未だ空中にいる鳰の上着を掴み、地面に叩きつけた
鳰「ぐはっ……!!」
強い衝撃を胸に受け、鳰の呼吸が止まる
しかしそれでも手の中の大福を手放さないのは、強い執念の成せる技であった
自分が相手に近づくことが出来ないのならば、相手から自分に近づくように誘導する
涼は鳰の目的を利用して、それを実現させたのであった
涼は大福が無事であることを確認すると、鳰の上着を利用して両手を背中の後ろに縛り上げる
さらに素早く鳰のリボンを外して両足も縛り上げ、両手両足をまとめて束縛する
涼「首藤流柔術 『錦衣(ニシキゴロモ)』」
「錦衣」とはキランソウ属に属する植物である
キランソウ属は学名を「アジュガ(Ajuga)」と言い、ギリシャ語で「束縛」を意味する言葉に由来する名を持つ
その名が示す通り、『錦衣』という技は相手の衣服を利用して縛り上げる、捕縛術である
幻覚しか見えていない今の涼には難易度が高い技であったが、これは今回鳰がいつも着ているミョウジョウ学園の制服を着用していたことが幸いした
結局鳰は、大福を手にしたまま両手両足を縛られ地に伏すこととなった
鳰「くっ……!このっ……!」
鳰はなんとか拘束を解こうともがくも、頑丈に縛られており解ける気配はない
涼「勝負ありじゃ、走りよ」
そう言うと涼は鳰の両手から『豊胸福』を取り上げた
鳰「あっ…!返してくださいっス!」
涼「返しても何もこれは元々わしのものじゃ…」
鳰「じゃあ売って下さい!!望むだけのお金を払いますから!!」
鳰の嘆願は少なくとも本気であるように見えた
涼「無駄じゃ。わしは自分の薬で金儲けする気はない。それにお主もそれが分かっているからこそ、最初から交渉せずに奪おうとしたのじゃろう……?」
鳰「でもっ……!ウチには……あの人には、その薬がどうしても必要なんですよ!!」
涼「あの人…?一体誰じゃそれは?」
鳰は意外にも素直にその名を明かした
鳰「首藤さんも会ったでしょう……この学園の理事長っスよ……」
涼「ああ、あの……」
涼は記憶に残るミョウジョウ学園理事長百合目一の姿を思い返した
スーツを着ていたので正確にはわからないが、胸が大きくないということだけは確かだ
鳰「あの人は……表面上は胸がないことを気にしてる素振りは見せないんスけど、実は相当気に病んでいるんス……」
鳰「この前なんかもウチの胸をチラッと見た後、『私もメロンパンを食べれば大きくなるのかしらね……』とか呟いてて……正直ウチもう見てらんないんスよ!!」
涼「はぁ……まあ確かにそれは災難じゃがな……」
意外な事情に少々肩透かしな気持ちになる
だがだとしてもそれは人の者を奪う免罪符とはならない
故に涼はハッキリと告げた
涼「だからといって譲るわけにはいかん。まぁ、材料は使い切りはしたが、もし新たに見つかったら作ってやる。じゃから……――っ!?」
しかし言葉の途中で異変は起きた
急に涼の脚から力が抜け、涼はその場に跪いた
涼「くぅっ……!これは……?」
否、足だけではない。頭から爪先に至るまで全身から力が抜け、意識が朦朧とする
明らかに異常な状態だった
涼「走り…お主、何をした…?」
鳰「ハハハ…ようやく効いてきたようっスね…」
涼の言葉に鳰は笑う
それは即ちこの状態は鳰の攻撃によるものという証明だった
鳰「ウチは言ったはずっスよ……『首藤さんが意識を失うまで、このまま遠距離から攻撃を続けさせてもらう』って……」
鳰「ゴム弾による攻撃は……相手にダメージを与えるのには適していても、相手の意識を奪う道具としては不適切っス……」
鳰「だったら当然、“遠距離から相手の意識を奪う手段”を用意してないはずが無いじゃないっスか……」
涼「そうか……つまりこの異常な眠気は……」
鳰「そうっス……この場にはあらかじめ、誘眠効果のある無臭の香を焚いておいたっス……」
鳰「長時間これを嗅げば、普通の人間はほぼ100%落ちるっス……まぁ、ウチは耐性があるんで……ほんのちょっと眠くなる程度で済むっスけど……」
それでもやはり眠気はあるのか、鳰は力無く笑っていた
鳰「わざわざ理事長の話をしてまで、首藤さんを引き止めた甲斐があったってもんですよ
……」
涼「あれは時間稼ぎじゃったか……」
鳰「もちろんっスよ……後で挽回して記憶を消せるという確信がなきゃ、軽々しくあの人のことを話したりはしませんって……」
涼は話ながらも意識がさらに薄れていく
涼(この眠気はマズイ……!!ならば……!)
涼は少し深めに呼吸をし覚悟を決めると、自分の腕を食い千切らんとするかのように噛み付いた
涼(痛みで強制的に目を覚ます……!!)
だが――
鳰「無駄っスよ、痛みじゃあ……」
血が出るほど強く噛んでも、涼の意識は薄れていき、噛む力を保つことさえ難しくなる
鳰「この香の効果はかなり強いっスから……たとえ舌を噛みきったとしても起きてはいらんないっスよ……」
涼「くぅっ……!」
涼の様子を見て鳰は香の効果が出ていることを確信した
鳰「ハハハ……ウチも今は拘束されて動けないとはいえ、意識は保ってるっス……あとはここに来た人に拘束を解いてもらえば、眠ってる首藤さんから大福を奪うくらいは出来るっスよ」
鳰「薬のことは黒組の人は皆知ってるっスけど、その大福が薬であると分かるのは、事前に首藤さんが家庭科室を使うと知っていたウチと、6号室の二人くらいっスしね……」
鳰「これで…ウチの勝ちです……!」
鳰は勝利を確信し勝ち誇る
縛られながらの勝利宣言は全く格好がつかないが、このままいけば鳰の宣言した通りになることは明白だった
この状況を打破するのには、涼1人の力ではどうにもならない。しかし――
伊介「あれ?首藤さんに鳰じゃん」
――運はまだ涼にあった
首藤涼に残された唯一の勝ち筋
それは意識が途絶える前に、誰かに大福を手渡して、神長香子の元へと届けてもらうことであった
そしてそのチャンスが、犬飼伊介の来訪というカタチで到来していた
この時運勢の天秤は、確かに涼の方へ傾いていた
伊介「……って、何やってんのアンタ達?」
寮の玄関の前で倒れこむ二人
しかも鳰は自分の服で縛られている
明らかにおかしい状況故に、反応に困る伊介だった
だが一方、涼は薄れゆく意識の中で決断した
一つの賭けに出ることを
涼「い、犬飼よ……すまんが、これを香子ちゃんに届けてはくれんか……?」
伊介「いや、この状況で何言ってんの?というか具合悪いんだったら救急車呼ぶわよ?」
涼「ワシはただ眠いだけじゃ……大丈夫じゃから、これを……!」
伊介「はぁ?、わかったわよ。普段飄々としてるアンタがなんかマジっぽいし……これ、神長に届けに行けばいいのね?」
涼「そ、そうじゃ…」
不確定要素が強いものの、犬飼伊介は根っからの悪人ではない
それに寒河江春紀の影響か、近頃は性格もかなり丸くなっている
故にここは偽らず、素直に頼むという選択を涼は取った
鳰「待って下さいっ!!」
それを鳰が制止する
伊介「はぁ……鳰、アンタは何?」
鳰「その大福を……ウチに売って下さいっス!」
伊介「アンタまで何言ってんの?」
鳰「言い値で構わないっス!なんなら億までだったら出せますから!」
伊介「はぁ!?億って……ふ?ん」ニヤニヤ
驚いた後、少し考える素振りをすると、伊介は何かに気づいたように笑みを浮かべた
伊介「そういえば首藤さんが何か新しい薬を作っているって春紀が言ってたわね……」
鳰「……知ってたんスか」
伊介「この大福がその首藤さんの薬なの。へぇ~……」
伊介はまじまじと手にした大福を見つめていた
鳰「くっ……そうっス。だからウチが言い値で買うっス。ご両親の老後のためにお金が欲しいんでしょう!?」
鳰は伊介が何故黒組に来たのかを知っている
そのため鳰は金銭を積めば解決できると考え、交渉を焦った
――この時鳰はミスをした
まず最初に言い出すべきは、その薬が自分にとって如何に価値があるかではなく、
――その薬が犬飼伊介には無価値であるということだった
伊介「う~ん……まぁ、前まではそうだったんだけどね。でも今は伊介はお金よりも…」
伊介「自分の健康が一番大事なの」
そう、まるでCMで宣伝商品を食べるモデルのように笑顔を浮かべ、伊介は大福を自らの口に入れた
涼「」
鳰「」
涼と鳰は呆然とし、伊介が大福を咀嚼するのを沈黙とともに見ていた
伊介「……うん!意外と美味しいじゃない♪」
食べ終わった伊介がそう報告する
それによりようやく正気を取り戻したのか、鳰が大声で叫んだ
鳰「な、なにやってんスかアンタはーーッ!!!」
伊介「ウフフ、伊介ね~、神長が『首藤の薬はすごい効く』って話してた時から、ず~っと試してみたかったの。パパとママも別荘なんて無くても伊介を愛してくれるって言ってるし」
伊介「それに鳰が億なんて値をつける薬ですもの。きっと凄い効果なんでしょ?そうと分かったら伊介は速攻なんだから。」
犬飼伊介は薬の存在は知っていた。だがその薬がどういう効果かまでは知らなかった
もし涼と鳰のどちらかが、薬の効果を話していれば未来はまた違ったものになったのかもしれない
しかし今回は結果として、『豊胸福』は既に伊介の胃の中に収まった
そのどうしようもない現実は、これまで策を巡らせてきた鳰を絶望させるには、充分すぎるものだった
鳰「ウチの……ウチの努力は、何だったんスか……」
鳰は力なく、縛られた状態でうなだれた
焚いてある香の誘眠効果は、鳰にも多少は効いている
その状況に追い打ちを喰らった鳰の意識は、そこで途切れることとなった
一方涼の方は伊介が大福を口にした瞬間から意識が途切れていた
希望を信じ張り詰めさせていた意識の糸が、犬飼伊介の口により断ち切られたためであった
涼「zzz……そうか香子ちゃん、そんなに嬉しいか……良かったのう……zzz……」
涼は眠りながら幸せそうな笑顔を浮かべている
おそらく惨い現実とは違う、幸せな夢を見ているのだろう
願わくばその優しい世界が、せめて彼女の目が覚めるまでの間続いて欲しい……
事情を知る者全てにそう思わせる、綺麗な笑顔だった
伊介「えっ!?ちょっと!?これどういう状況なの!?」
いきなり話していた二人の人間が意識を失うという状況に、残された犬飼伊介は珍しく慌てふためき、結局二人は伊介が2号室から寒河江春紀を呼んでくるまで地面をベッドに眠っていた
富める者はさらに富み、貧しきものは嘆き続ける
女性の夢を賭けた争いは、まるで皮肉な現実のような結末で幕を引くこととなったのだった
首藤涼とおっぱい戦争 完
953 : ◆c4CaI5ETl. - 2016/03/23 23:38:40.32 7JyGa9YZo 755/770なんというか本当に長い期間投稿できずにすみませんでした
まあ色々理由はありますが、自分としてはエタらせずに完結させるつもりです
一応どこにでも挟める最終話の構想もあるので、漫画版が終わるくらいには完結させたいとは思っています
あと前の話、一応完結としましたが後日談があるのでそれを次は整えて上げるつもりです
長くて次スレを立てた場合はここにリンクを張ります
どうにも遅筆ですがリドル愛の赴くまま書いていきたいと思っています
それではこれで失礼いたします
971 : ◆c4CaI5ETl. - 2016/09/22 21:26:52.92 zuQZgoYno 756/770大変申し訳ないのですが、忙しさからこれまでも満足に更新できない状況が続きまた今後の改善の目途が付かないので、唐突ですが考えていた最終話を上げてこのスレで終わりにさせて頂きます。
本当に申し訳ありません
スレの残りの関係から普段より1レスに詰め込んでいます
次から始まりです
草木も眠る丑三つ時
黒組の面々が集うここ金星寮もまた当然に静寂に包まれていた
朝起きて夜眠る
そんな人間的生活の中の空白の時間
にも拘らず、金星寮の前に一人立つ人間がいた
夜更けの来訪者。しかも学園が関知していない、招かれざる客であった
「あらあら……とうとうと言うかやっぱりと言うか、来ちゃったのね」
そしてその来訪者を画面越しに見つめる者も一人
学園の支配者、理事長百合目一だった
「セキュリティの類は切っておきましょう。どうせこの人には効果はありませんし。壊されでもしたらもったいないものね」
そう言って画面を操作し、普通の相手であれば鉄壁を誇る金星寮のセキュリティを切った
「……」
すると画面の中の人物は、百合の見ているカメラに向かって顔を向け微かに笑みを浮かべた
『賢明な判断だ。褒めてやる』とでも言ったような表情だった
そして来訪者は再び金星寮の方を向き──放った
カメラ越しに見ている百合の背筋に冷たいものが走る
金星寮とは遠く離れた理事長室からカメラ越しで見ているのにも関わらず、だ
「ふう、凄い殺気ね……さすがは伝説、と言ったところかしら」
来訪者が放ったのは、殺気
それも恨みや憎しみ、悦楽や狂気など、どの感情も感じさせない“無機質な殺気”
この殺気を放てる人間はただの一種類
──暗殺者と呼ばれる人間のみであった
──金星寮一号室
東兎角は跳ね上がるようにベッドから起き上がり、構えた
汗が背筋を伝うのを感じる
寝汗ではない
たった今放たれた殺気に反応してかいた汗だった
「誰……なんだ……?」
部屋の中には兎角と同居している晴しかいない
気配などを読み取る暗殺者の感覚としてそれが分かる
しかし即ちそれは、部屋に居ずにしてあれほどの殺気を兎角に感じさせたということだった
東のアズマとして暗殺の英才教育を受けた兎角をしても不可能なことだ
「こんなことが出来る人間なんて……」
そう考えて、ふと思い付く
「まさか……!!」
予想は一瞬の逡巡を経て、毅然たる確信へと至る
だがそれは予想であっても確信であっても──変わらず最悪であった
来訪者はまるで我が家に帰ったかのように自然と金星寮へと侵入した
急ぐ様子も隠れる様子もせず、ゆったりと歩みを進める
だが──
「ちょっとぉ、何我が物顔で人様の敷地に入り込んでんの?」
「アハハ、不法侵入?それって犯罪だよ?」
その行く手を阻む者達がいた
暗夜においてもなお激しく煌く気性と容姿を持つ絢爛たる暗殺者
漆黒の狂気を孕み凶器を鳴らす殺人鬼
犬飼伊介と武智乙哉がそこにいた
立ちはだかる二人を見て来訪者は感心したように言う
「殺気に気付いたか。あながちボンクラだけを集めたってわけじゃあないようだね」
二人は驚く。その声に
そのしわがれた声に
そのしわがれながらも高さを残す、明らかなる老婆の声に
「なにこれ、徘徊老人ってやつ?」
「うーん、おばあちゃんかぁ……正直テンション上がらないなあ」
二人はそれぞれ笑い飛ばすように言う
だがその目に油断の色はない
目の前の老婆の一挙手一投足を見張り、即座に迎撃する体勢にあった
相手が暗殺者として、桁違いの存在であることを肌で感じていたからだ
「どれ、少し遊んでやるかね」
老婆はそう言い──動いた
圧倒的な殺気と圧力に二人は即座に反応
伊介は手にしていた小型スタンガンを、乙哉は愛用のハサミを容赦なく老婆へと振るった
──空振った!
それが意識を失う前の彼女達の最後の思考となった
老婆はあたかも瞬間移動の如く二人の間に立ち、二人の首元に手を当てていた
親指と中指。使用したのは両手のそれだけ
それだけで頸動脈を正確に圧迫
ほとんどもがくことも出来ないまま、二人は締め落とされた
その神業を行った老婆の顔には、何もなかった
神技への誇りも、崩れ落ちる二人への落胆も
何故ならそれは当然のことだから
一般的暗殺者から見れば神業であっても、この老婆には当然の技術
その技術に為す術なく崩れ落ちる相手も、この老婆には当然の光景
異常を当然とする積み重ねが、老婆の身体には受け継がれていた
そして歩き出そうとする老婆を──
「その技……いつ来るかとは思ってたがのう」
──声が引き留めた
年寄りじみた口調に似合わぬ、少女の声
首藤涼がそこにいた
「そうでした、あなたも居るんでしたか。話には聞いていましたが会うのは初めてですね」
「それはお互い様じゃろうて。こっちも噂は耳にタコが出来るほど聞いてきたわ」
涼は呵々と笑う
老婆は淡々と話す
「今日は生憎、授業参観の日ではないぞ。日を改めたらどうじゃ?」
「いえ、時間のかかることではありませんから」
「数年ぶりじゃろうに、淡泊なことじゃ」
「ええ、暗殺者ですから」
「……どうしても、行くか?」
「ええ」
平行線
会話は交わることなく終着する
「ではその前に一つ、手合わせ願おうか」
そして涼は告げる
暗殺者の伝説の名を
そしてその伝説と共に生きてきた者の名を
「東のアズマ現当主──東 麒麟!!」
叫びと共に涼は突貫する
首藤の名は裏社会では知れた名である
百年以上前から、武術を巧みに操る幼さの抜けきらない少女の伝説が各地各時代に残っている
その少女はどの時代でも『首藤』と名乗った
故に裏社会では「首藤流」なる少女にしか伝えられない流派が存在すると噂されてきた
その少女の伝説が、実は一人の首藤涼によるものだということは、裏社会においても知る者は少ないのだが
一方、東麒麟も伝説となっている暗殺者である
東麒麟は東のアズマの名を老齢になっても守り続けてきた
彼女の仕事に失敗はなく、生存者・目撃者は存在しない
即ち誰も、彼女の暗殺を知る者はいない
故に東麒麟は伝説であり、同時に未知の暗殺者だった
共に伝説となっている者だが、その情報格差は大きい
長期戦は涼に不利
故に涼は早々の決着を望んだ
──そして決着は望み通り、一瞬で決した
一瞬の交錯の後、地に伏していたのは──涼であった
勝敗を分けたのは、殺意の差
涼はクラスメイトの縁者故に、不殺を念頭に置いた
だが一方の東麒麟は、覚悟を決めていた
それは相手を殺す覚悟
そして──相手に殺される覚悟を
涼が高度なフェイントの中に繰り出した服を掴もうとする手
東麒麟はその手にあえて、顔を突き出した
そのまま進めば眼球に指が刺さり、致命傷となるように
当然涼はそれを止めるため、強引に手を止める
そしてその隙が、伝説同士の戦闘においては致命傷となった
バチリ!という電気の流れる音とともに、涼は崩れ落ちる
犬飼伊介の手にしていた小型スタンガンを抜け目なく利用し、一瞬での決着となった
「殺す者と殺さぬ者、土俵が違いました。あなたが私を殺す気だったのならばまた結果は違ったのでしょうがね」
東麒麟はそう言い残し、歩いて行った
侵入してから5分と経たず、黒組でも戦闘力の高い面々を撃破していく東麒麟
しかしそれまでの戦いは、正しく前座でしかなかった
そしてついに、老婆の前に真打ちと呼べる相手が現れた
「……ようやくかい。久しぶりだねえ、兎角」
東のアズマを継ぐもの──東兎角がそこにいた
「お前っ……!いったい何の用だ!」
「何の用……?よくもまあ、そんなことが言えたもんだねえ」
叫ぶ兎角に対し、麒麟は静かに睨みつける
「暗殺者が集い殺し合う蟲毒──黒組を勝ち抜いたと聞いた時には少しは成長したかと思ったが……まさかそのまま帰らず常人(タダビト)の暮らしに溺れるとはねえ。結局まだ、東のアズマとしての任が理解できてないようだね」
「ふざけるな!何が東のアズマだ!私は……」
兎角は思い出す
黒組に来るまでの、死んでいたような過去の自分を
晴と出会ってからの、人間となっていったこれまでの自分を
そして想う
晴と築いていく、これからの未来を
「私は!そんなものよりずっと大事なものを、見つけたんだ!」
その言葉と共に兎角は殺気を放つ
暗殺者としての無機質な殺意ではない
自分を、未来を、そして大切なものを──守るための殺意を
「ふん、ならアンタは──“そんなもの”に殺されるんだね」
麒麟も呼応して殺気を放つ
こちらは無機質で色がなく、純粋なまでの暗殺者としての殺意
二つの殺気は中空にて混じり合い、そして──弾けた
東のアズマの戦いとは、概して言えば“殺気”に集約される
殺気を鋭敏に読み取ることで相手の動きを読む
殺気で相手を飲み込むことにより相手の動きを封じる
殺気を込めることによって相手の精神を壊す
技術でも力でもなく、この圧倒的な殺気が東のアズマの名を伝説にまで押し上げたものだった
兎角は黒組での戦いのほとんどを、殺意を封印した状態で戦っていた
つまり東のアズマを伝説たらしめた力は使わずに、枷を付けた状態で戦い続けた
その枷は皮肉にも兎角に様々な経験を与え、暗殺者としての力を鍛えてきた
そしてその枷はすでに、解き放たれていた
暗い廊下に金属音がただ響く
両者のナイフが弾き合う音だ
互いに殺意を読み取り、殺意を放ち、殺意を込めた一撃を打つ
それが東のアズマ同士であれば、拮抗は当然の結果であった
ナイフ術は東のアズマで最初に学ぶものである
在りし日の兎角は訓練で、今と同じように祖母と打ち合ったこともあった
──だが懐古の情は一切ない
兎角にあるのは、守るための殺意のみだった
だが一方の麒麟の殺意は、僅かに緩んだ
対峙するのは、その隙を見逃す普通の暗殺者ではなかった
「はあっ!!」
兎角の一撃は、麒麟の着ていた着物の袖を切り裂いた
それはダメージにこそならなかったが、殺るか殺られるか互いに紙一重の状況にあったことを示していた
「くっ、ふふっ……」
だというのに麒麟の口から息とともに出るのは、喜色を含んだ笑い声だった
「いやはや弛んだ生活で腑抜けたかと思っていたが、意外に成長してるじゃないか。どうやら殺意の呪縛からも解放されているようだしね」
「何が言いたい……?」
「予定変更だ。腑抜けならここで始末して東のアズマは私の代で終わらせるつもりだったが、これなら多少打ち直せばなんとかなりそうだ。嬉しい誤算ってやつだね。となればアンタをここから連れ戻すことにするよ」
麒麟は悪びれずそう言い放つ
「ふざけるなっ!!何を勝手……っ!」
反論しようとする兎角の首筋に冷たい感触
これまでを上回るほどの殺気が込められたナイフが、兎角の首に突きつけられていた
「アンタに拒否権なんてないよ。抵抗してもそれこそ勝手に連れて帰るだけさ」
弱肉強食の世界に弱者の自由などは存在しない
この場の絶対者は間違いなく東麒麟
彼女の決定に逆らえる者はこの場にいない──
「それはさせません」
──はずだった
絶対者の決定に異を唱えた少女は微かに震えながらも、確かにそこに立っていた
「晴っ!!」
兎角が名を叫ぶ
黒組の勝利者にして、東兎角の守る者
一ノ瀬晴がそこにいた
「晴……なるほど、アンタが兎角の……」
晴のことは噂には聞いていたようで、実物を値踏みするかのようにじろじろと見る
「だがねえ、させないと言ったところで、アンタに何が出来るんだい?」
半ば挑発混じりに晴に言う
だが返答はすでに用意されていた
「晴に出来るのは……これです」
そう言って晴は後ろ手に持ったいた物を構える
イングラムM11
サブマシンガンと呼ばれる銃器の一種だった
「ふぅん。で、そのオモチャでどうする気だい」
だが東麒麟は動じない
晴の手にしているものは確かに本物であり、その事は麒麟も理解している
そしてその上でなお、麒麟にとってそれはオモチャに過ぎないのだった
「そんなものであたしをどうにか出来ると思ってたのかい?」
「いえ、思ってません。だから──こうするんです」
だがそこで晴は麒麟の予想を越えた行動をとった
「あなたが兎角さんを放さないのなら──晴が兎角さんを殺します」
銃口が兎角へと向けられていた
「……正気かい?」
さしもの麒麟も困惑の色が顔に浮かぶ
「ええ。兎角さんは前に、晴のために晴を殺そうとしてくれました。そんなことしたくないって気持ちを必死に抑えて……。だから晴も、兎角さんのためなら兎角さんを殺してみせます」
長年裏の世界に生きてきた麒麟には分かった
目の前の少女は、本気で兎角を殺す気だと
(これは……この娘を殺しておくべきか……?)
麒麟は迷いながら微かに晴へと殺気を向けた
──その時だった
「晴に薄汚い殺気を向けるな」
制圧していたはずの兎角から溢れんほどの殺気が放たれた
麒麟は反射的に飛び退き、
二人から距離をとった
そして、背中にヒヤリとした感覚を感じた
(冷や汗……!?この私がかい!?)
身体は何よりも敏感に正確に、相手の力量を察知する
伝説の暗殺者が本気で死を覚悟するほどの殺気を兎角は放っていた
兎角は晴を背に殺気を放ち続けている
そのどんどん強まる殺気を放つ兎角を、麒麟はしばし見つめていた
「…………くっ……!くくっ……!」
そして呆けたように兎角を見ていたかと思うと、麒麟は突然俯いた
二人はそれに警戒する
しかし──
「くっはっはっは!!守ることで力を発揮する暗殺者!そういう暗殺者も有りか!!はっはっはっ!!」
場に響いたのは笑い声だった
今までの麒麟とは違う様子に二人は驚き固まった
「これはこれは予想外の状況じゃのう」
先に麒麟に倒された面子が同室の者に肩を借りながらやって来る
「……うるさいです。せっかく柔らか千足さん枕を堪能していたのに、千足さん起きちゃったじゃないですか」
「そうですわ。私も日課の真夜さん寝相日記がつけれなくなったじゃないですか」
ついでに殺気を早い段階で察知しながら、関係ないと自らの欲望を優先したマイペース組までも起きてきた
そうして黒組が集まったところで、笑い終えた麒麟はさっぱりしたような表情で言った
「兎角、再度気が変わった。ここに残るのを許可してやるよ」
「何っ!?」
「どうやらアンタの殺気は、その嬢ちゃんと居た方が伸びるようだ。ならどこまで伸びるか、見てみたくなったよ」
「兎角さんっ!」
晴は兎角の手を取り喜ぶ
そんな二人を尻目に麒麟は去って行く
しかし去り際に麒麟は──とんでもない爆弾を残していった
「そうそう兎角!次会うときまでにひ孫を作っときな!その方がアンタは強くなれるよ!」
手を繋いでいた兎角は、ゆでダコのように顔を真っ赤にして──叫んだ
「ふっ、ふざけるなっ!!」
孫の怒声を浴びながら闇夜へ戻る伝説の暗殺者の顔は──真底楽しそうな笑顔であった
「──以上が今回の事の顛末っス」
一部始終を確認していた走り鳰は、主たる百合目一にそう報告した
百合はそれをいつものように微笑を浮かべながら聞いていた
「しかしアズマの頭領さんも面白いことを言うわね」
「東のアズマとプライマーのサラブレッドって、最早チートっスよね~」
それを聞いた百合は閃いた
そして席を立ち、鳰の元へと歩いていく
「え、あ、あの理事長?どうしたんスか!?」
突然の不可解な行動に慌てる鳰に構わず、抱き合えるような距離まで近づく
そして耳元で、囁いた
「だったら対抗して、プライマーと西の葛葉のサラブレッド、作りましょうか」
それを聞いて兎角もかくやというほどに赤くなった鳰を見て、クスクスと笑う百合なのであった
黒組とは繰り返されてきた“悪”だ
プライマーと暗殺者を混ぜ合わせての殺し合い
それは数多くの悲劇から成り立ち、また自らも悲劇を生み出してきた
だが黒組は今回、出会いと救いを生んだ
これは黒組という悪が束の間見せた善の顔なのか
それとも黒組とはそもそも絶対なる悪ではないのか
その謎かけは、問いかけてきた悪魔すらも分からない
だがそれでも彼女たちの黒組は続く
卒業までの僅かな時間ではあるが
彼女たちの人生の中で、とても大切なものとなる時間が──続いてゆく
11年黒組 完
985 : ◆c4CaI5ETl. - 2016/09/22 22:07:05.66 zuQZgoYno 770/770悪魔のリドル
自分でも何故ここまでハマったのか分からないほど好きな作品でした
ただそれだけに色々考えていたやりたいことがやりきれなかったのが、悔しくて申し訳ないです
ただ今後も細々とリドルssは書いていきたいと思っています
いつかどこかで目にして頂けたら幸いと思います
二年以上という自分でも驚くほど続いてしまったこのスレもこれで終わりです
それではこれで失礼いたします
長い間お付き合い頂き本当にありがとうございました