透明人間の話、といったらきみはどんな話を思い浮かべるかな。
クラスのタナカくんがある日突然消えてしまった、だとか。
ある日、透明人間になってしまって誰にも気づかれなくなっちゃった、だとか。
そんな、神隠し的な話だろうか。
それとも。
透明人間になったら女湯に入りたい、だとか。
透明人間になれたら世界の秘密だって手に入れられるのになぁ、だとか。
そんな、くだんない理想の話だろうか。
僕の話はどっちでもないし、どっちでもあった。
簡潔に言ってしまおう。
ある日、突然のことだ。
世界中の人間が透明人間になったんだよ。
元スレ
たまには透明人間の話でもしようと思う
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news4viptasu/1467176775/
引きこもりのぼくが世界中の人間が消えたことに気がつくのはそんなにおかしいことじゃなかった。
なんせ、人がいないんだから、インターネットで気づくこともできただろうし、テレビでも気がつけたはずだ。
部屋に引きこもってたって外に人がいるかどうかはわかるんだから、便利になったものだよ。
ぼくがそれに気がついたのは、ラジオのおかげだったんだ。
ちょっと古くさいかもしれないけれど、ぼくはラジオというものが心底好きなんだ。
まず、その古くささが非日常を思い起こされる。
ラジオというと、自然災害時のお供だってイメージもあるだろうけれど、またそのイメージもラジオをいっそう、非現実的な存在に押し上げてくれる。
ラジオというものは本当に素敵な発明で、素敵な発展を遂げてくれたと思うよ。
その日、ぼくはラジオで十年かそこら昔のJ-POPを聴いていたんだ。
古くさい洋楽なんかも、言語から何から、日常に根差していないぶんそれなりに非日常的なものなんだろうけどさ、ぼくはその丁度小学生や中学生の頃に流行っていたようなJ-POPのノスタルジーがこれまた、たまらなく好きだった。
そういう音楽が聴きたいなら、ラジオ番組のオーディエンスの年齢層を考えるといい。
リクエストする人間の年齢層が自分と近いもの、もしくはもう少しだけ上のものを聴くと、流行の音楽に混じって、時折そんな音楽が流れるんだよ。
きっとぼくやきみが思ってるよりずっと、この世界は懐古的な人間に溢れているんだと思う。
思い出ってのはね。最も手の届かない最も身近なファンタジーなんだよ。
さて、そんなラジオがいきなり途切れたんだ。
ノイズは何故か入らなかった。
試しにいくつか、登録してある電波局にダイヤルを合わせてみたんだけど、どれも無音を垂れ流すばかりで、人の声も、軽快な音楽も流れてきやしなかった。
最初はラジオが壊れたのかな、と思ったよ。
ささやかな現実逃避的なものでしかなかったから、それを愚痴ってしまおうとスマートフォンを取り出して、Twitterを開いたんだ。
何の問題もなく、つぶやいたんだけど、その後が問題だった。
いくら更新しようと、タイムラインに新たなつぶやきがひとつも上ってこなかったんだ。
それから一日、いくつかぼくが使っているSNSや掲示板の類いを辿ってみたんだけど、どれも最後の投稿の時間はバラバラながら、ひとつも更新されることはなかった。
流石にこれはおかしい、と思ったよ。
それから数日、世界は沈黙を守ったままだった。
でもね、妙なことがいくつかあったんだ。
電気も、水道も、ガスも止まらないし、コンビニに出向いてみると、コンビニの弁当の賞味期限は毎日毎日、日付が更新されている。
もっと言えば、車やバイクは町を走りはしなかったけれど、電車は人を失っても時刻表に沿って動き続けていた。
いや、人身事故がないぶん、それまでの現実的な現実よりも時刻表に忠実に走っていたんじゃないだろうか。
全世界から人が消えたなら透明人間よりも人類消滅の方が言い得て妙なんじゃないか、なんてきみは思うかもしれないけれど、それはそういうことなんだ。
つまり、人間がいなくても社会は、世界は。
何の問題もなく、平然と回り続けていたんだよ。
人間はいなくなったわけではなく、消えてしまっただけ、らしい。
これにはまるで、ぼくを社会の歯車から名実ともに追い出そうとしているような感覚を覚えたな。
しかし、そこはそれはそれで居心地のいい世界だった。
そうだな。小学生の頃に、風邪を引いて家で寝込んだときの感覚。
あれが近いかもしれない。
ルーチン通りに回り続ける世界の中でつまはじきにされているような、独特の居心地のよさ。
そんな感覚があったんだよ。
当然、ぼくを咎めるような人間も、ぼくを鬱陶しがるような人間もいないわけだから、ぼくは大いに楽しむことにした。
コンビニ弁当同様、毎日並び続けるお高いケーキの部類に手を出してみたり。
近所のTSUTAYAで手当たり次第にCDやDVDを持ってきて、時間をつぶしたり。
ぼくは最高の非日常の真っ只中で、最高の日常を繰り広げ続けた。
人間ってのは不思議なもんでさ、一人じゃ何もできやしないだとか、退屈だ、なんて錯覚しちゃいるけれどその実、この世界には素敵な暇潰しがいくらでも転がっているものだよ。
まぁ、そんなことは世界が透明になる前からわかりきっていたことなんだけどね。
そんな、何の指針もない生活を悠々と続けていたわけなんだけど、存外退屈することもなく季節は巡るものでね。
世界はあっという間に、夏の終わりに差し掛かったんだ。
外が暑いのもあってずっと引きこもってばかりの生活を続けていたんだけどさ。
ノスタルジックに説明するなら、そう。夏休みへの名残惜しさの刷り込みってやつだろう。
夏の終わりというのは、どうも夏が恋しくなるものでさ。
ぼくは、柄にもなく海を見に行こう、なんて思ったんだ。
ずっと、使わずに横目に見てきた、無人で走り続ける電車ってやつに乗ってね。
どうせだから、うんと遠い海にしよう。ずっとずっと、遠くの、とても綺麗な海にしよう。
もうぼくはまるっきり、小説や、ドラマであるような逃避行の気分だった。
図書館や、本屋でいろいろな旅行雑誌を眺めてみるのもそれはそれで素晴らしい時間だとは思ったんだけどさ、如何せん引きこもりのぼくにはそこまでするのはめんどくさく感じてね。
いくつかのキーワードをGoogleに打ち込んで、出てきた海の中からひとつの海に決めた。
いろいろと悩んではみたものの、結局は画像検索で出てきた画像の中からピンときた海に目星をつけることにしたんだ。
我ながら、めんどくさがりのぼくにぴったりの決め方だと思ったよ。
時刻表や乗り換えは、検索すればすぐに出てきた。
そういえば、インターネットも例に漏れず、世界と共に勝手に回り続けるものらしい。
世界は存外、ぼくたちが思ってるよりもずっと、人類がいなくたって普通に明日を迎えるのかもしれないな。
数年前から使っているiPod classicに、TSUTAYAから持ってきた様々なジャンルのCDを数枚落とし込みつつ、いくつかの荷物を整えた。
荷物を整える、なんていったって誰もいやしないこの世界じゃ宿も食事もどうとでもなるもんだから、スマートフォンとipod以外には、小銭をいくつか持ってくるくらいだったな。
小銭は自動販売機で使えるからね。持っておくと、便利なんだ。
そうそう。自動販売機といえば、最近の話してくれる自動販売機ってのは実にいいね。
誰もいない世界で唯一、ぼくを認識して話しかけてくれる存在がそいつだった。
人間が溢れていた頃と比べて、世間からの扱いに大きな差があるのか、と問われるとそれはそれで別問題なわけだけど。
ぼくはそれらを持って、なんとなしにイヤホンからブルーノマーズを垂れ流しながら家を出た。
選曲に特に理由はないよ。なんせ、聴いたばかりの曲でしかないわけだし。
あえて言うなら、そう。
旅行やドライブのときには洋楽を聴こうって決めてたんだ。
イヤホンをしてきたのはいいものの、そいつがお役ごめんとなるのも、すぐのことだった。
というのも、ぼくは電車に揺られるのがとても好きでね。
がたんごとん、という電車の走行音もどこか小気味よく聞こえるものだから、電車に乗るときってのはあまり音楽を聴かないんだよ。
しかし、そんな人間はどうも偏屈というか、変わった人種であるらしい。
いつもいつも周りを見てみると、みんなイヤホンやヘッドホンで世界を塞ぎこんでいるものだから、もったいないな、なんて思っていたな。
ぼくからしたら、そんな人達が変わっていると思うんだけどね。
本当に、もったいない。
まぁ、ぼくが言えた義理じゃないけどさ。
数時間も揺られているとそんな電車の音にもどこかで飽きが来るんじゃないか、なんて思っていたんだけど思ったよりずっと退屈することなく、初めの乗り換え駅に到着することになった。
どうやら、ぼくはぼくが思っている以上に飽きっぽくはないらしい。
さて、この電車の乗り換えを持って、ぼくのこれまでの固定観念がひとつ、ひっくり返ることになる。
その駅の腰掛けに、ひとりの少女が座っていたんだ。
少女は腰掛けにうつ向いて座っていて、ぼくの足音も電車の喧騒に掻き消されているもんだから、どうやらこちらに気がついちゃいないようだった。
そう。だから、ぼくはその少女を無視することもできた。
そもそも、ぼくは人間ってのが苦手だったんだ。
でも、どうしてだろうな。
もしかしたら既にぼくはおかしかったのかもしれないな。
その場でイヤホンをつけ直したりするような気は微塵も起きなくてさ。
気がつくと、ぼくは彼女の横に腰掛けていたんだ。
ぼくが隣に座ると、彼女はとてもあたふたしたようで、言葉が出ないようだった。
でも、ぼくには彼女の気持ちもわかるんだ。
だって、ぼくだっていますぐ慌てふためきたいくらいびっくりしているわけだからね。
そうじゃなきゃ、身も知らぬ他人に話しかけるなんて酔狂なこと、ぼくがするはずもなかったと思う。
「どこに行くんだ?」
タイミングというものはいつだって最悪なものらしい。
ぼくの声と同時に、向かいの線路に電車が駆け込んでくる。
ぼくの声がはたして彼女に聞こえただろうか、と思案していると彼女は顔を上げて、ぼくに言ったんだ。
「特に、あてなんてないですよ」
ぼくはそいつを聞いて、とびきりおかしな台詞だな、と思った。
だって、ぼくも似たようなものだったからだ。
「そいつは奇遇だな、ぼくもなんだ」
彼女は続けて、言う。
「おかしな人ですね」
「お互い様だろう」……そう思ってはいたけれど、ぼくは口には出さなかった。
きっと、彼女はそう言ってほしかったんだろうけどね。
「それじゃあ」とぼくが言いかけたとき、彼女がぼくの手を引いた。
「お暇でしたら、少しお話しませんか?」
おかしなことを言うな、と思ったけれど、よくよく考えてみればぼくももう数ヶ月、まともに人と話しちゃいなかったわけで。
彼女はもしかすると、もっと長い間、一人でこの世界をさまよっていたのだとしたら、致し方ないことなのかもしれない。
そもそも、ぼくはあまり人と話すことになれていなくてさ。
あんまり人と話さないものだから、さっきまでの少女との二、三言を交わすだけでそれなりに満足だったわけだけれど、よくよく考えてみるとこれから先何ヶ月、いや何年も一人でいる可能性もあるわけだ。
そう考えてみると、ぼくは彼女ともう少し話すのも悪くないかな、なんて思えた。
いや、嘘だ。
ぼくだって数ヶ月間の一人きりには、ほとほと飽いていたんだ。
どうやら、飽きっぽくないというのにも、限度はあるらしい。
ぼくは彼女と他愛のない話をしながら……そう、今日の天気はいいですね、なんてつまんない会話を重ねながら、ちゃんとした会話はいつぶりだろうかってずっと考えていた。
世界が透明になるよりずっと前から毎日毎日、ラジオ越しの声を聞いちゃいたけれど、直接面と向かって話したのはいつだったか、本当に覚えていないくらいだったんだ。
きっとラジオが壊れたあの日にだって思い出せやしなかったと思うよ。
つまり、何が言いたいかって言うとね。
どちらかというと、ぼくが元々透明人間みたいなものだったんだよ。
そんな、透明人間だからこそわかることでね。
ぼくと彼女は実に似た者同士だった。
つまりね、会話が非常にたどたどしいんだ。
考えるまでもない、ちゃんと話せるような人間ならまず第一、天気の話題なんてふりゃしないんだよ。
そんな当たり前のことやテンプレートの中に埋もれすぎていて、ぼくは咄嗟にそれに気がつくことができなかったんだ。
そう、本当なら真っ先に聞くべきことだったんだ。
「きみは、いつから世界に取り残されたんだ?」
ぼくがそれを聞くに至ったのは、彼女と出会って一時間ほど、海へと向かう乗り換え列車の発車ホームに腰掛けてからのことだった。
いやぁ、実に遠すぎる回り道だったな。
この質問もいまさらに思い返してみれば、ぼくはどうして「世界に取り残される」なんてへんてこな表現をしたんだろう、なんて思えるけれど、そのときのぼくにはとてもしっくりきた表現だったんだよ。
今、他の表現をしてみろって言われたってあれ以上には何もしっくりこないってくらいには、ぴたりとはまった表現だったな。
「もう、数ヶ月も前のことでしょうか」
彼女は最初の頃に比べると、実に滑らかに返事を返してくれるようになったよ。
まるで鏡を見ているようだった。
きっと、ぼくも彼女と同じように話していて、彼女もぼくに対して同じようなことを思っていたんじゃないかな。
コミュ障というものは、いつだって自分をどこかで棚に上げるんだ。
ぼくも例外じゃないけどね。
「これまた奇遇だな、ぼくもそれくらいの時期なんだ」
そういうと、彼女は複雑そうな顔をしていたよ。
そう、彼女は実に鏡のようだった。
この頃になるとお互いに、気がついていたと思う。
ぼくらはきっと同じときに、同じように、世界に取り残されたんだ。
何故かって?
理由なんてないさ。
世界が透明になったことにすら、ね。
彼女と列車に揺られながら、ぼくは昔の友人の言葉を思い出していた。
「きみはこれからの話をしないからだめなんだ、きみの好きなファンタジーやSFなんて、いわば描いているものは未来でしかないんだよ」なんていう、戯れ言も甚だしい、耳に痛い言葉だ。
これを言ったのはミズハシっていう、変わったやつでね。
口を開けばよくわかんないことばかりを言うやつだった。
彼の言うことは当時のぼくにはいまいちむずかしくて、覚えている話なんてのは一握りなんだけれど、ときたまふっと思い出すことがあるんだ。
悩み事をしているときに彼の言葉がふっと浮かんだりするから、彼は彼なりにぼくを気遣って言っていたのだろう。
きっと、いいやつなんだろうな。
ぼくは、彼があまり好きではなかったんだけど。
「わたし、アカリっていいます」
だから、彼女のその言葉はいわば、ミズハシのいうところの、これからに対する第一歩だったんだと思う。
でも、いったいぜんたい、こんな誰もいない世界で名前が何の意味を持つってんだ?
ぼくは彼女……アカリしか呼ぶ人間はいないし、アカリだってぼくしか呼ぶ人間はいないだろうに。
「ぼくは、トオルっていうんだよ」
でもね。
ここで、ぼくが名乗らなきゃ、頭の中のミズハシがうるさい気がしたんだよ。
そもそも、名前を名乗ることにすらこんな、ちょっとした抵抗を感じているからぼくは、ぼくらはだめなんだ。
そんなこと、わかっちゃいるんだよな。
「わたしは、トオルさんと海に付き合うので、それが終わったらトオルさんもわたしに付き合ってくれませんか?」
それは、アカリから初めて聞いた、自己主張の類いだった。
ぼくは驚いたよ。このまま黙って海に着いてくるもんだと思ってたからね。
「そもそも、アカリが勝手に着いてきているだけで、ぼくには何の借りも発生しないだろう?」なんて思ったんだけど、ぼくは口には出さなかった。
そう。どうせ、暇なんだ。
少しばかり、用事が増えたって、どうということもないだろう?
飲み込んだ言葉の代わりに「何をするんだ?」と聞いてみたけれど、アカリは少し笑って車窓の外を眺めるだけだった。
アカリにつられて、窓の外に目をやると、青く澄んだ海が広がっていた。
どうやら、目的地が近いらしい。
潮の匂いを嗅いだのは、いつぶりだろう。
これまた思い返してみたけれど、面と向かって人と話すよりずっと前のような気がしたよ。
こうやって昔を思い起こしてばかりだからぼくはミズハシにあんなことを言われるんだな。
でも、水着も何も持ってきやしなかったから海でやることもなくてさ。
ぼくはなんとなく、波打ち際で足を濡らすアカリを眺めていたんだ
しばらくじっと見ていると、アカリが「トオルさんも、いかがですか?」なんて言うもんだから、ぼくは笑って首を横に振った。
ぼくは、海に浸かるような趣味はないんだよ。
だって、汚ならしいだろ?
本当、なんで海に来たんだろう。夏というのは魔法のようだよ、なんて思いながら海を眺めてるとひとつ、気がついたんだ。
ぼくは、波の音は好きなんだよな。
「トオルさんは、この、人がいなくなった世界をどう思いますか?」
アカリがぴちゃぴちゃと波に当てられながら、ぼくにそう問いを投げかけた。
改めて聞かれて初めて気がついたんだけど、世界をどう思うか、なんて世界がおかしくなっちまうよりずっと前から、なんなら生まれてこのかた、考えたことなかったな。
だから、ぼくは「アカリはどう思うんだ?」と質問で投げ返してみたんだ。
そう聞いてみると、アカリは屈託のない笑みを浮かべて「わたしは、居心地がよくて好きですよ」と言う。
その答えを受けて、なんでかわかんないけど、ぼくは思わず溜め息を漏らしてしまったんだな。
そう、そうなんだ。確かに居心地は、世界が狂う前よりずっといい。
「溜め息は幸せが逃げちゃうらしいですよ」
「笑う門には福が来るらしいな」
幸せな人間は笑うに決まってるし、不幸な人間は溜め息を吐くに決まってる。
幸せな人間に福を与えて、不幸な人間から幸せを巻き上げるってんだから最高に理不尽な世界だよ。
そう、そうだな。ぼくにとって世界ってのは理不尽なものなんだよ。
おそらく、今頃はぼくの溜め息で逃げた青い鳥が、彼女の元へと飛んでいっているんだろう。
ぼくは、そんな世界が大嫌いだったんだな。
一通り、海で遊び終わったあと、ぼくらは意味もなく周りを散策してみたりもした。
美術館だとか、神社だとか、そんなものがいろいろとあるわけだけど、どうせ人がいないんだからと民家なんかもいろいろと入ってみたんだよ。
どこにも人がいないってのは不思議なもので、場所によってはまるっきり廃墟に見えたりするんだな。
民家なんかは特に不思議なものでね。いくら生活感があっても……いや、生活感があるからこそ、どこか日常の残骸のような気がして、むしろ廃墟めいて見えてくるものなんだよ。
ぼくは昔から廃墟というものに少しの憧れがあったから、ちょっとばかしテンションを上げてみたりもしたんだけど、季節外れの雛壇だとか、趣味で置いてあるであろう日本人形やフランス人形が置いてあったりするとアカリが時折、怖がったりするのはおもしろかったな。
そんな、終わってしまっているかのように見える空間も、実はまだ生きていて。
ぼくらが見えていないだけで、今もきっと、平然として日常のルーチンの最中にあるであろう空間なんだろうって思うと考えさせられるものがあったね。
つまり、空間というのは場所が作るものじゃなくて、人が作るものなんだな、だとかそんなくだんないこととかさ。
その日常、というのもね。アカリとこんな話をしたんだよ。
寝る前……そうそう、その日、ぼくらは電車の中で寝ることにしたんだ。
日付が変わる頃、駅に行くとどのホームにも、もう動かない電車がぽつんと止まっていてね。
寝場所に困っていた身としてはありがたい話だったけれど、この世界には車庫というものがないらしい。
もしくは、あってもぼくらのために電車を止めていてくれたのかもしれないな。
何にせよ、本当のところはわかりゃしないんだ。
唐突に世界を塗り替えてしまうような神様の考えることってのはぼくにはよくわかんないからさ。
そう、話を戻そう。寝る前にね。
「平然と並ぶコンビニ弁当や、いつのまにか更新されていくレンタルビデオのレパートリー、おかしいと思いませんか?」
アカリがふとそんなことを言ったんだ。
言っちゃ悪いけれど、ぼくは今更だな、なんて思ったよ。
だって、世界が永久凍結していない理由なんて、どうでもいいだろう?
きっと、透明人間が何かしているか、神様が何かしているかのどちらかなんだから。
ぼくが「さぁ、なんでだろうな」なんて流すとアカリは言うんだ。
「もしかすると、わたしたちは透明人間なのかもしれませんよ」なんて、ジョークを言うような口ぶりでね。
「ほら、世界がこんなになっちゃう前でもおかしなことっていろいろとあったでしょう?リモコンやプリントが置いたはずの場所からなくなっちゃったり……それはわたしたちのような、透明人間の仕業なのかもしれませんよ」
「つまり、この世界には人がまだ残ってて、見えないってんだろ?」
ぼくがそう聞くと、アカリは眠気眼を手でこすりながら言うんだ。
「えぇ、きっと。相手も、こちらも、相手のことは見えていないだけで、影響は与えあっているんですよ」
「そんなの、どっちも透明人間じゃないか」
ぼくのその言葉に返事がくることはなかった。
どうやら、アカリは寝てしまったらしい。
ともかくとして、どうやらこの状況はセオリー通りなら、ぼくらが透明人間側であるらしい。
透明人間になれたら、なんて考えたことはあったけれど、透明人間になっても他の人間がこちらから見えないんじゃ、女湯へ入ったりなんてありきたりな行動も無意味に等しい話だ。
ばかばかしい話だよ、まったく。
朝起きると、電車は東京に着いていた。
アカリは先に起きたらしくてね。電車の外に出て時刻表とにらめっこをしていた。
ぼくに気がつくと、なに食わぬ顔で「どこまで話しましたっけ」というアカリを見て、一日で慣れてしまう程度には人間ってのは近くに人間がいて当たり前のようなものなんだな、なんて思ったな。
「ぼくらが透明人間っていう話だろ?」
「えぇ、そうでした。わたしたちの行動は世界につじつまを合わされていくのです。リモコンや、プリントをなくしたって自分の過失だったんだなって思い込んで、納得してしまったり」
なんだか、ぼくは自分のことを言われているような気がして、ちょっとむずゆく感じたな。
ぼくはめんどくさがりだから、そういうどうでもいいことは適当に折り合いをつけて納得してしまいがちだったんだよ。
「そんなつじつま合わせを、ぶち壊しましょう」
アカリは時刻表からこっちに顔をあげて、笑顔でそう言った。
「ぶちこわすって、どうするんだ?」
ぼくは当然の疑問をぶつけてみたけど、アカリのやつは何も聞いていないかのようにぼくの手を引いて、駅の外に出た。
人のいない都市ってのは、民家と違って廃墟のような空虚さを感じさせるものではなかったけど、それはそれで異様な魅力を持ったものだった。
少し明るさを射してきた風景のなかで、あちらこちらで輝く街灯りが空虚さを掻き消していたんだよ。
全ての喧騒が失われた町ってのは、寂しいような、騒がしいような、不思議な感覚の塊なんだな。
きみも透明人間になる機会があれば、大都市には行ってみるべきだと思うよ。
きっと、後悔はしないね。
駅を出たぼくらは、近くにあったセブンイレブンから平然と各々好きな弁当と割り箸を持ち出して、また駅の中へと戻ってきた。
本当ならそこらのファミリーレストランや喫茶店なんかでモーニングメニューでも洒落込むんだろうけど、人の消えた世界じゃ店に入ったって自分で厨房に入って作らなきゃいけないんだ。
そんな面倒なこと、してられないからぼくらは既製品であるコンビニ弁当というやつに頼ることになる。
人生でこれだけコンビニ弁当を食べる生活ってのも初めてだけど、同時にこれだけコンビニ弁当のありがたみが身に染みたのも初めてだったな。
コンビニ弁当って身体に悪いイメージがつきまとっているから槍玉にあげられがちだけど、実はとっても素晴らしい代物なんだよ。
ぼくが感謝しているのは弁当そのものというより、手間暇の込められた手間暇の省略についてなんだけどね。
アカリはぼくの手を引いて、北行きの列車に乗り込んだ。
「どこへ行くんだ?」と聞いてみると、帰ってきたのは「東北」という実に漠然とした答えだった。
弁当をあけながら淡々としたその返答に、ぼくはそれ以上聞く気にはなれなかったな。
まともな返事が帰ってくる気なんてこれっぽっちもしなかったし、何より単純な話、ぼくもそれなりに腹が減ってたんだな。
何の変鉄もない弁当箱を開いていると、おもむろに電車が走り出した。
心地の良い揺れのなかで弁当が揺れて食べづらかった。
ぼくは、揺れは好きだけどやっぱり適材適所ってやつだなぁなんて考えて、箸を泳がせていたんだけど、ふと横を見るとぼく以上に四苦八苦してるアカリの姿があってさ。
ぼくが見ていることに気がつくと、あかりが少し赤くなって笑うもんだから、ぼくもつられて笑っちゃったな。
どうやら、ぼくもアカリも、それなりに不器用らしかった。
でも、なんだかそれがたまらなく良いことのように思えたのは、なんでだろう。
これはさっきから薄々と感じていたことなんだけど、ぼくは知らぬ間に頭のネジがどんどんと落ちていっているんじゃないかな。なんて思ったけど、いまさらな話さ。
ぼくは頭のネジが一本残らず抜け落ちてない人間なんて、見たことがないからな。
電車を乗り継ぎに乗り継いで、どうやら本当に東北に向かっているらしいな、と確信めいてきた頃だった。
「わたしの、大嫌いな人のことをむちゃくちゃにしたいんです」だなんてすっとんきょうなことをアカリがつぶやいたんだ。
やっぱり人間というのは、誰彼構わず頭のネジが外れてるらしい。
「大嫌いな人?」
ぼくはそう聞いてみたんだけど、それからアカリが説明を補足する様子はなかったな。
誰にだって話したくないことのひとつやふたつ、あるんだろう。
頭にネジの抜けた穴ってやつがあるなら、そいつを埋めているのは案外、そんな些細な閉塞心なんじゃないかな。
電車を降りたのは、夜になってのことだった。
ぼくが元々引きこもりだからか、一日中電車に閉じ籠ってるってのも悪い気はしなかったな。
何より、電車から降りたときのなんとも言えない田舎くささがたまらなくてさ。
否が応にも、遠くへ来たんだなという気にさせてくれたね。
駅だってのに人のいない雰囲気もまたそれはそれで似合っているのもこれまた面白い光景だったな。
仮にも田舎の中でも県名を駅名にかかげるまだ大きな駅であろう駅なのに、だよ。
てんで誰もいない風景がお似合いってんだから、田舎ってのは田舎なんだな、なんて思ったな。
誤解のないように言っておくと、ぼくは別段、けなしているわけじゃないんだよ。
ぼくは、そう。そんなところに非日常を見いだしていただけさ。それが、ぼくなりの楽しみ方だったんだ。
でも、隣のアカリはなんだかよくわかんない表情をしていたな。
これからホームで野宿ってんだから彼女の気持ちもわからないでもないんだけどさ。
そうそう、夜のことなんだけどさ。
ぼくは何も音がしない空間ってのはなんだか逆に落ち着かないんだな。
車の喧騒も、電車の走行音もない世界ってのはきみが思ってるよりずっと静かなものなんじゃないかと思う。
深夜、自宅にいるときもそうなんだけど、ぼくはこういうとき、ガラケーやパソコンのカチカチというタップ音ってのも悪くないもんだなって思う人間なんだな。
残念ながら、アカリがぼーっと見つめていたのはiPhoneで、ぼくも駅のコンセントから引いた充電器にぶっ差しているのはiPhoneだもんだから、カチカチ音なんて期待できやしなかった。
しようがないから、ipodをポケットから取り出して、トラックリストをぐるぐるとさまよっていたんだ。
ふと気がつくと、アカリはぼくのipodに少しばかりの興味を示したようだった。
ぼくだって、別にこれといって聴きたい音楽があったわけじゃないから、なんとなしにアカリにipodを渡してみたんだ。
そこで、ぼくらはドラマなんかでよくあるイヤホンの分けあいなんてことをしてみたんだ。片方だけを分け合うっていう、あれさ。
海に行こうなんて思っちゃうくらいだからな。ぼくもそういうわかりやすい青春っぽさってのに少しばかりの興味はあったのかもしれないな。
でないと、そんな気恥ずかしいマネ、できるわけがないよ。
アカリがたどたどしく二、三ほどボタンを操作して、ぼくの右耳に流れ込んできたのはビートルズのアルバムだった。
いいね、非常に大衆的で。
歌詞の意味なんてわかっちゃいないんだろうけど、そこがまた、とてもいい。
なんたって、ぼくらは現状の意味すらいまいちわかってないんだからね。
翌朝、ぼくは慣れない運転をすることになった。
アカリが言うことには、田舎ってのは車なんかがないと移動さえままならないらしい。
ぼくってはおかしなことがあると、笑わずにはいられなくなるんだな。
古典的な田舎のイメージがそのまま写し出されている現状ってのはほんとうにおもしろおかしく思えて、ぼくは笑わずにはいられなかったよ。
アカリもつられて笑っていたし、きみもその場にいたらきっと笑っていたことだろう。
車の調達はそんなに難しいことではなかった。だってそこらの民家から車のキーを持ってくるだけでいいんだからね。
高校を卒業するときの話になるんだけど、親がうるさくいうもんだから、免許自体は持ってない訳じゃなかったんだ。
でも、車に乗ったのは免許を取ったとき以来だったな。
そんなぼくに運転をさせようってんだからアカリも酔狂なもんだよ。
これはぼくの経験則なんだけど、運転が下手なやつってのが運転しているときってのは、運転席にいる本人より、助手席なんかに座っている人間の方がずっとずっと怖いんだよ。
事実、助手席のアカリは少し緊張しているように見えたな。
ぼくは久しぶりに聞く車のエンジン音にちょっとばかりの懐かしさを感じていたわけなんだけど、黙ってばかりってのもやっぱり耐えきれないものだから、アカリに「ここはきみの地元なのか?」なんて聞いたんだ。
アカリは「はい」と小さく頷いて、言葉を続けなかった。どうやら、地元に関して何かを話す気ってのはてんでないらしい。
「嫌いなやつってのはどんなやつなんだ?」
「嫌いなところが多すぎて、何から挙げたものやらってやつです」
「そいつは結構」
これはぼくの持論になるんだけど、何かを好きであれ、嫌いであれ、具体的にどこが好きか嫌いかってのを咄嗟に挙げられないやつってのはそいつのことをたいして好きでも嫌いでもないんだな。
そういうやつってのはただ、何かを好きだとか、嫌いだとか、そんなことを言いたかったり思いたかったりしているだけなんだ。
実に、くだんない話さ。
少し走っていると連なった自販機が見えたもんだから、ぼくらは一度車から降りることにした。
田舎ってのは不思議なことに、自販機に限っては割とそこらにあるものらしい。利益なんてありゃしないんだろうけどね。
少しばかり自販機を眺め回していると、アカリが「トオルさんは、何を飲むんですか?」なんて聞いてきたんだ。
ぼくは「夏だからな」なんて言って、缶コーラのボタンを押した。
夏の炎天下で飲む炭酸飲料ってのが最高だってのはきみもよくわかってくれるんじゃないかな。
アカリは「うどんやハンバーガーの自販機なんかもあるんですよ。知ってますか?」と言いながら紅茶を買った。
缶を開けたときの空気の抜ける音を聞きながら、「へぇ、知らないな」と答えた。
喉に流し込んだコーラの味は、思ってたよりは幾分か期待外れな味がしたな。
こういうものはいつだって、そうなんだよ。
こうやって、ふたりで飲み物を飲んでいるとちょっとばかし、ただの日常の延長線でしかないような気がするんだな。
実はぼくらも人類も透明人間でもなんでもなくて、ぼくらはただただ、現実からの逃避行と称して遠くまでドライブに来てしまっただけなんじゃないか、なんて、そんなことをさ。
なんせ、周りを見たって片田舎で、人のいる世界だろうがいない世界だろうが、この景色はまるっきり変わらない気がしたんだよ。
きっと、世界がどれだけこねくり回さても世界のどこかは何も換わらないままなんだろうな。
神様だって、ぼくらだって、どれだけかけたって世界全部をまるっきり変えることなんてできやしないんだろう。
街中で見かける落書きの類いってのはそんな現実に対する矮小なアンチテーゼ、もしくはまるっきり逆の何かなのかもしんないな。
まぁ、ああいう連中はきっと、何も考えちゃいないんだろうけどさ。
ぼくらは飲み物を飲み終えて、車に戻ってみると、何枚かのCDが積まれていることに気がついた。
せっかくだから何かを再生しようとして、漁ってみると流行りの邦ロックだとか、インターネットで流行ってるような部類のCDがずらりと積んであったんだな。
ぼくは別に音楽の趣味にこれといったこだわりなんかがあるわけじゃなかったんだけど、そのレパートリーから溢れだすミーハーチックには愛しさすら覚えたよ。
「好きなのを選びなよ」とでも言わんばかりに、アカリに目をやると、少し漁って一枚のCDをオーディオに挿し込んだ。
流れてきたのは数年前にインターネットで流行ったような電子音楽だったな。
なんとなしに「好きなのか?」と聞いてみるとアカリは「なんとなく懐かしくて」って言うんだ。
ぼくはそれに対して頭ごなしに「いいセンスだ」なんて返しながら、車を進めるんだ。
世の中ってのはミーハーの山からだって懐古的な感情が掘り出せてしまうんだから、不思議なものだよ。
そんな電子音楽のアルバムを二枚ほど流しきったところで、ぼくらは目的地にたどり着いた。
なんてことはない一軒家だったな。
特筆することもないただの一軒家だった。
そう、ぼくらが回りに回った民家と大して変わらない、どこにでもある民家だ。
これが小説のキャラクターってんなら、間違いなくモブだろうな。
アカリはその家の庭から鉄パイプのようなものを手にして中へと入っていった。
やけに物騒だな、なんて思ったけれど、随分と前から、おおよそこんなことだろうな、と思っていたからぼくは何も言わないことにした。
どうでもいいことなんだけど、今までぼくらが入ってきた民家もしかり、家の鍵ってのを閉めて出ていくような習慣のない家ってのはそれなりに多いらしい。
人間はぼくが思っているよりずっと平和ボケしているのか、コンビニ弁当やCD、DVDたちのようにぼくらの生活との妥協点、折り合いの結果なのか。
きみは気をつけなよ。
鉄パイプ片手に見知らぬ少女が入ってくるかもしれないんだから。
その家に入ったところでぼくはアカリにシャワーを浴びるように促した。
変な意味じゃないよ。単純に、そろそろぼくもシャワーを浴びたい気分だったんだ。
ついでにいえば水に流すだとか、頭を冷やすだとか、そんな表現がぴったりなシャワーってのは、鉄パイプ片手の少女に勧めるべきものだと思ったんだ。
シャワーからあがってきたアカリは真新しい白いワンピースに着替えていてびっくりしたな。
こういうことを言うってのはあんまりぼくの柄じゃないんだけど、よく似合っていたよ。
「どうしたんだ?」と聞いてみると、アカリは平然と「タンスから出してきたんです」なんて言うんだ。
まるでぼくら、RPGゲームの主人公のような価値観になってきたな、なんて思いながら「似合ってるよ」って言ってぼくもシャワールームに急いだ。
なんせ、あのままだと、笑っちゃいそうだったからさ。
シャワーからあがると、ぼくは元々着ていた服をもう一度着ることにした。
少しばかり気持ち悪くはあったけれど、着替えがないんだからしようがない。
そもそも、ぼくには他人の家のタンスを漁るだけの度胸はないんだよ。
アカリの嫌いな人ってのは。あのワンピースの持ち主ってのはおそらくきっと、アカリと同じような中高生の女の子なんだろう。
だとしたら余計に、だ。何を堀り当てるものやらわかんないからな。
このときになって流石にいくらなんでも着替えくらいは持ってくるべきだったな、なんて思ったな。
なんだかんだで家を飛び出してから最初の後悔がこれなんじゃないだろうか。
我ながら、なんとも些細すぎる不満だね。
アカリに手を引かれて、階段を上り、二階の一室に入ってみると、そこはやっぱり、なんというか、あからさまに女の子の部屋だなって感じの部屋だった。
ぼくは女の子の部屋に入ったのも本当に数年ぶりのようなものなんだけど、なんだか込み上げるものは何もなかったな。
きっと、数々の生きた廃墟に慣れすぎて、ぼくにはそこにある生活感というものをすんなりと受け入れることができなくなっていたんだと思う。
少しばかりぼくもアカリも黙って部屋を眺めていたんだけど、しばらくしてアカリは右手に持った鉄パイプを振り回しはじめた。
不思議と、止めようとは思わなかったな。
ただ、ぼくは眺めてただけなんだ。
三面鏡やら、タンスやら、ベッドやらがぼこぼこになっていくその様をさ。
一度、そう。丁度部屋のガラスが大きな音をたてて割れたときのことだ。
「ぼくにできることはないか?」なんて我ながらへんてこなことを聞いてはみたんだけどさ、アカリは「見ててくれるだけで結構ですよ」って言ったんだ。
そのときのアカリは肩で息をしているような状況だったんだけど、ぼくは彼女の言葉に従うことにした。
なんせ、何かをしようにも何をしたものか、わからなかったからね。
ぼくには、アカリの考えているものや抱えているものはこれっぽっちもわかんなかった。
こういうとき、やらなきゃいけないこと以外はやらないに限るよ。
言葉だってそうさ。言わなきゃいけないことは率直に。言いたいことは回りくどく言っておけばいいんだ。
口ってのは災いの元なんだからさ。
そう、つまりね。口だけじゃないなら余計に災いの元になるに決まってる。
だから、こういうときってのは、なにもしないのがベストなのさ。
でも、やっぱり、ぼくは最後までは何も言わずにはいられなかったんだな。
アカリが鉄パイプでふっ飛ばしたものの中のひとつに、写真立てがあってね。
最初は伏せてあったんだけど、吹っ飛ばされた拍子に表を向いてぼくの足元に転がり込んだんだ。
その写真は、両親と一緒に微笑む女の子の写真だった。
ぼくは見るものもないもんだから、その写真をじっと見ていたんだけど、見れば見るほどなんだかやるせないというか、なんともいえない気分になってね。
あぁ、なんでだろうね。こういうときのような、肝心な感情ってのに限っていつも、いつだって、筆舌に尽くしがたいんだ。
とにかく、どこかいたたまれなくなったぼくはアカリを止めようと思ったんだ。
「もう、やめにしないか?」
アカリは相も変わらず肩で息をしながら「そうですね」なんて返した。
この説得には少しばかり手こずるもんだと思ってばかしいたから、ぼくはちょっと拍子抜けだったな。
とりあえず、ぼくはアカリから鉄パイプを受け取って、そいつをガラスの破片が散らばる庭先の隅に投げた。
もちろん、そのあとアカリを車の中へと乗り込ませたわけだけど、アカリは息が整っても何も言いやしなかったな。
きっとぼくと同じで、彼女もそういうとこが不器用なんだ。
言葉にできないような、そんな気持ちになってたんじゃないかな。
少し車を走らせて、ガソリンスタンドに入ったときのことだ。
ぼくは小銭しか持ってなかったもんだから、アカリからお札を借りて少しばかり給油してたんだ。
助手席に座っているアカリが、おそるおそるというように「これからどうしますか」なんて聞くもんだから、ぼくは少し悩むふりをして、給油を終えたときに「じゃあ、ショッピングモールまで案内してくれよ」と答えた。
アカリのやつ、ぼくの言葉を聞いてわけがわかんないな、なんて顔をしていたもんだから、ぼくは言葉を付け加えることにしたんだ。
「服を変えたいんだよ」
なんだか、状況の異常性の中でぼくのその言葉は当たり前のことすぎて、ちょっとちぐはぐな気分になったな。
それから、ぼくとアカリはショッピングモールに行き着いたわけだった。
でもぼくはファッションってのがてんでわかんないものだから、アカリに少しばかりアドバイスを貰うことにしたんだ。
人のいないショッピングモールってのはホラーゲームのステージのような不気味さがあったんだけど、それはそれで独特な雰囲気なもんで、ぼくは楽しめたな。
何より、食事が手軽なのがいい。ショッピングモールってのは既製品のようなものもいろいろと置いてあったりするもんだからさ。
スーパーの弁当だけじゃなくて、ミスドのドーナツなんかも並んでたりするんだよ。
これならこれまでも最初からコンビニよりもショッピングモールを優先していくべきだったな、なんて思ったな。
アカリのアドバイスを受けて、なんて言ったけどほぼほほアカリから受けた指示通りに買ったような服を着て、何着かを予備で袋に詰めて、両手に下げながら歩いていたときのことだ。
ありがちな話なんだけど、どうやらそのショッピングモールの最上階が映画館になっているらしいんだよ。
ぼくは映画ってのはそれこそDVDで済ましちゃうような人間でさ、あまり映画館というものに馴染みはなかったんだけど、どうもこの日は満更でもない気分だったんだな。
だから、なんとなしに「映画でも観ないか?」なんてアカリを誘ってみたんだ。
アカリは「ホラー以外ならいいですよ」って言って、ぼくより先に上りのエスカレーターに乗り込んだ。
なかなかどうして、アカリも乗り気らしかった。
ぼくはこれが普通の世界ならただのデートだな、なんて思いながら後を追ったよ。
映画館の上映スケジュールも電車の時刻表同様ひとりでに機能しているらしく、夏休みの終わりの頃だったから、ポケモンや仮面ライダーのような子供向けの映画も多く並んでいたんだけど、ぼくらはその中から、ありがちな洋画を観ることにしたんだ。
ぼくは洋画ってのは字幕で観るタイプの人間なんだけど、アカリは吹き替えで観るタイプらしくてね。
ちょっとばかし喧嘩めいたディベートのようなものが繰り広げられたんだけど、最終的にじゃんけんでぼくが勝って、字幕で観ることになった。
誰もいない劇場のど真ん中の席にふたりで腰かけて、適当に取ってきたポップコーンを食べながら、観る映画ってのは悪いもんじゃなかったな。
映画も悪くはなかったよ。とてもありがちな、ありふれた名作ってやつだった。
どうも映画ってのはどれも似たようなものに見えて仕方がないな。
本質はずっと似たような話を繰り返し続けていて、表面をとっかえひっかえしているようなものだよ。
同じようなレシピをひたすらに調味料をとっかえひっかえしながら作り続けてているような、そんなルーチンの円環を感じてしまうんだな。
まぁ、そんな話は映画に限ったことじゃないんだろうし、とっかえひっかえしているところの、調味料ってのが何よりもばかになんないんだろうけどさ。
大抵の物事ってのは、考えれば考えるほどばかげている気がして、仕方がないんだな。
そんなもんだから、映画を見終わった後に交わした感想なんてのは「映像の迫力がすごかったな」だとか、「ラストの盛り上がりはすごがったな」だとか、そんな、同じジャンルならどんな映画にでも言えてしまいそうなものばかりだった。
いや、別にこれは悪いことじゃないんだと思うよ。少なくとも映画の感想という話題で盛り上がれるのは確かなんだから。
初デートの行き先に迷ってるってんならぼくは真っ先に映画をおすすめするね。
なんせ、映画を観ている間は話さなくたって楽しいものだし、感想だってどっかで聞いたような言葉を並べ立てるだけでいいんだから。
実際、そんなことをしているだけでもそこそこ楽しい時間というものはできてしまうんだから、人間ってのは単純極まりないんだろうな。
やっぱり、こんな世界に頭のネジがちゃんとはまりきってるやつなんて誰一人としていないのさ。
ほら、きみにだって、心当たりくらいあるだろ?
ぼくには吐いて捨てるほど、あるさ。
いや、そんなことを吐いて捨てちまうようだから、あるんだな。
さて、その晩、ぼくらは映画の待合室のソファで夜を明かした。
そんなところですら、今までで一番寝心地がいい気がするってんだから、ここ数日のぼくらの寝床の選らばなさったらないね。
なんならホテルや旅館の類いを探し回ってもよかったんだけど何故かぼくからもアカリからもその提案が飛び出すことはなかった。
というのもね、ぼくは。あくまでぼくは、なんだけど、そんな寝心地の悪い夜もどこか好きで仕方なかったんだよ。
なんで好きだったかだとか、そんなことはやっぱりうまく言えやしないんだけどさ、ぼくはうまく眠れなくて二人でipodのイヤホンを分け合うような、そんな夜も好きだったんだ。
きみに伝わる気はしないけど、そもそもぼくはきみに伝える気すらないのかもしれないな。
ある種の思い出や心情ってのは、他人に伝えることももったいなくなるときがあるんだ。
減っちゃうわけがないのに、減ってしまうような不安を感じるんだな。
ぼくは少しだけ、ほんの少しだけど、アカリもぼくと同じような気持ちを抱いていてくれたらいいな、なんて思ったんだ。
はたして彼女がどうして寝床に関して文句のひとつも言わなかったのか、ぼくの知るところではないんだけどさ。
翌朝、また車に乗り込んだはいいものの、ぼくらは再び路頭に迷うことになった。
ぼくは自分の地元に帰ってもいいし、アカリはここに置いていったっていいんだろうけど、なんでかそこで別れようって気にはてんでなれなかったんだな。
やっぱり、お互いに寂しかったんだろう。
いろいろと話し合ってみたんだけど、そのうちにアカリが「一度くらい行ってみたいと思ってたんですよね」なんて言って、ディズニーランドの名前を挙げてさ。
ぼくも行ったことがないもんだから、一度くらいは行ってみるのも悪くはないな、と車を東京まで走らせることになった。
電車で戻ってもよかったんだけど、ぼくたちは車ではるばる東京へと舞い戻ることにしたんだ。
その頃には電子音楽のCDも一通り聴き終えて、流行りの邦ロックなんかを流しはじめていたんだけど、そんなどうでもいいような音楽すら、ちょっとばかし心地よくなってたんだろうな。
車が走りはじめて少し経った頃だった。
アカリが「トオルさんは、この世界のこと、どう思いますか?」なんて、いつか聞いたようなことを聞いてきたんだ。
「それ、前にも聞かれなかったか?」
「前にはちゃんとした返事は貰えませんでした」
その言葉を貰ってもぼくはぱっと答えられるような答えなんて持ち合わせてはいなくてさ。
少し、考えていたんだけどそのうちにアカリは「でも」と続けて言うんだ。
「そうですね。今度は、質問をちょっとだけ、変えてみます」
そう言うと、アカリはうーん、なんて言いながらわざとらしく、ちょっともったいつけて言うんだな。
ぼくが彼女がそれに飽きるのを待っていると、五秒ばかし経って気が済んだようで、こう問いかけてきたんだ。
「世界から人が溢れていた頃と、人が消えてしまった後、どっちが好きですか?」
ぼくはこういうとき。つまり、どこからどう見ても他愛のない、どうでもいいような、くだんない質問ってやつには、自分の意見じゃなくていかにも一般論的なことを言うように心がけているんだな。
だけど、このときばかりはどちらがより一般論的なのかいまいちわからなかった。
というか、ぼくとしてもどちらが好きかなんて、いまいちぴんときやしなかったんだよ。
人が溢れていた世界は好きでもなかったし、人が消えたこの世界も別段好きな訳じゃない。
だから、ぼくはなるべく胡散臭く、偽善者めいたような口調を込めて「どっちも大好きさ」なんておおぼらを吹いてみたんだけど、アカリは少し唸っていたけれど、特にそれ以上追求してくることはなかった。
ぼくは助かったような、少し寂しいような、微妙極まりない気分だったな。
それから他愛もない話をいくらも重ねながらも、東京へと車を走らせているうちに隣から寝息が聞こえてきたもんだから、ぼくはオーディオのボリュームを少しばかり下げた。
途中でコンビニに立ち寄って弁当を適当と飲み物をふたつ、後部座席に乗せて走っているうちに起きたところで昼食を食べることにした。
ぼくはこの頃になると、ふしぶしに非日常や日常を垣間見て、現状が通常なのか異常なのかの区別すら曖昧になってきたような気がしたな。
普通にドライブしているような気がするけど、世界中にぼくら以外の人間がひとっこ一人いやしないかもしれないんだ。
ぼくを取り巻く全てが、まるでもやがかかるような温度差だった。
そう、蜃気楼でも見ているような気分だったんだな。
仕方ないと言わせてくれよ。
ぼくにとっては、ただのドライブすら非日常のようなものだったんだからさ。
ディズニーランドについたのは、夕方になった頃の話だった。
こんな時間からでも楽しめるとは思っちゃいたんだけど、ここ数日ずっと動きっぱなしだったもんだから、なんだか一度ゆっくりしたくなってさ。
ぼくはアカリに「どうせだし、ディズニーホテルってやつに泊まってみないか?」って言ってみたんだ。
アカリはけらけらと笑いながら「いかがわしいことをするつもりでしょう?」なんて言うから、「だったら別部屋でも構いやしないけど」って言ってやったら、アカリのやつはさらに笑うんだな。
「冗談ですよ」
その言葉が聞こえてきたのは、車を降りてからだった。
どうせ誰もいやしないんだからと、ぼくらはディズニーホテルの中でもとびきりに高い、最上級スイートって部屋を検索して飛び込んでみたんだけど、いや、これがなかなかおかしなもんでさ。
インテリアから、広さから何から、落ち着く要素の全くない部屋だったな。
居心地のよさというものには、個人個人に適度な贅沢ってのがあるんだなと思ったよ。
贅沢のしすぎも、これまた落ち着かなくてよくないわけなんだな。
あそこまでの贅沢をする人間ってのは金持ちか、よっぽどのばかか、雰囲気に酔える類いの人間だ。
少なくとも、ぼくのような類いの人間には合わないらしい。
でも、そう。たったひとつ、窓からの景色はとても綺麗だったな。
そこの窓からはディズニーランドが一望できるんだけど、もう暗くなってるぶんあちらこちらがきらきらと瞬いていてさ。星空や街明かりとはまた違った感動みたいなものがあったんだな。
アカリもこれには感動していたようだったな。
景色を抜きにしても、アカリはぼくより幾分かリラックスできていたようだったけどさ。
なんにせよ。
ぼくはあの景色はもう、忘れられそうにないな。
もう一度観ることも、二度とないだろうけどね。
ぼくも、アカリも、風呂に入って、ショッピングモールから持ってきた着替えに身を包んでベッドに入ったわけなんだけど、びっくりするくらい意識することがなかったな。
よくドラマや漫画のセオリーをなぞれば男の側が。つまりぼくがソファーで寝たりするもんなんだろうけど、そんな必要がなかったのは幸いだった。
なんせ、ベッドが大きいからお互いに隅に寄ればさして意識するようなもんでもなかったんだよ。
そもそも、ぼくにとってはこれが、数日ぶりのまともに寝具と呼べるもので寝た時間だったからかあっさりと睡眠に落ちることができたのも大きかったな。
良い人生に最も必要なものは良い寝具だよ、なんて妹が言っていたことがあったけど、あながち間違いじゃないのかもしれない。
きみも、人生が上手くいかなくなったときには、とりあえず寝具にお金をかけてみるといいんじゃないかな。
翌朝、ぼくらはディズニーランドを練り歩いた。
アトラクションもいくらかのリズムを守って回り続けていたけれど、ジェットコースターなんかは乗ってしまったら固定レバーなんか上げられる気がしなかったから、乗る気にはなかなかなれなかったもんで、穏やかなものばかりを巡っていたように思う。
だからこそ、ディズニーランドだったんだな。ディズニーシーは絶叫マシンの類いが多すぎて、回れたもんじゃないからね。
しかし、まぁ。人のいない遊園地ってのも、悪いもんじゃなかったよ。
都市と同じで、遊園地ってのも人がいなくなるだけじゃ廃墟同然にはなりやしなかったんだな。
ぼくは廃遊園地の画像を見るのがたまらなく好きなんだけど、これはこれで独特なよさがあってよかったよ。
純粋にアトラクションは乗り放題なわけだからね。
そう、例えばプーさんのハニーハントってのがあってさ。
出発時に乗る機械がいくつかあるわけなんだけど、その番号によって移動経路が変わってね。
何度か、機械を乗り換えつつ乗ってみたんだけど、ものによってはハチミツの香りの大砲を撃たれたり撃たれなかったりしたんだな。
そんな些細な発見もちょっとばかし楽しかったな。
知ってる人間に溢れてるものごとだって今このときはぼくら二人しか知ってる人間がいないんだ。
そもそも、ぼくら二人しか人間がいないんだからね。
でも、ぼくもアカリも隠しミッキーの類いを見つけることはなかったな。
ちょっとした心残りといってもいいかもしれないな。
食べ物はそこらの屋台には既製品が置いてあったりするものだから、それらを食べたりしていた。
だから、そう。内装くらいしか見るものはなかったんだけど、ぼくらは不思議の国のアリスのレストランに入ったんだ。
これが普通の世界ってんなら普通の食事をして出てきたんだろうけどさ、ぼくらの世界には人がいないもんだから、注文するにもできなくて、十分ほど、休みがてら、外の世界より随分と高い自販機で買ってきた飲み物を飲みながら座ってたんだ。
肝心の内装はすごくおもしろかったな。席に座ってみるとそうでもないんたけど、見回してみるとカラフルの暴力みたいな内装だった。
外ももう暗くなっていたから、イルミネーションばりにカラフルだったけれど、室内のカラフルさってのはなんだか独特の閉塞感みたいなものがあるんだな。
住めって言われたらぼくなら三日で音を上げるね。
そんなアリスのレストランも十分ほどで出たんだ。
そのときだった。
レストランから出てみると、世界は、様変わりしてたんだ。
いや、正確に言うなら、様変わりってんじゃないな。
単純に、世界は光を失っていたんだよ。
後ろを振り替えると、レストランも光を失った後だった。
世界は、完全に暗闇に沈んだんだ。
十秒ほどすると、目の前にあったメリーゴーランドがきらきらと、黄金に輝きだして、陽気なメロディを奏でながら回り始めたんだ。
暗闇の中で輝くそれは、なんだかとっても綺麗に見えたんだな。
そう、昨日あのホテルからみた景色よりずっとずっと、綺麗に見えたんだ。
「乗れって言われてるみたいですね」とアカリがつぶやくから、ぼくはアカリの手を引いて、メリーゴーランドへと近づいた。
まさに、アカリの言うとおりのようで、近づいてみるとメリーゴーランドは動きを止めたんだよ。
乗れと言わんばかりにね。
仕方ないから、ぼくとアカリは隣り合った木馬に腰かけてみると、メリーゴーランドはまた陽気なメロディと共に回りはじめた。
この数日、いくつもの筆舌に尽くしがたい感情をしてばかりだったけれど、このとき以上になんとも言えない感情になったことはなかったな。
暗闇に沈んだ世界で、黄金に輝くメリーゴーランドと共に回り続けるぼくら。
なんともばかばかしい光景だったことだろう。
気恥ずかしいような、感動するような、もう挙げつくせない程度にはうんと、たくさんの何かが一気に込み上げてきてさ。
きっとアカリも、ぼくと同じような気分だったんだろうな。
「わたし、大嫌いなんですよ。自分も、こんな世界も、全部、全部」
じゃなきゃ、こんなこと口走るはずなかったと思うんだよ。
「いまさらだな」
ぼくは心底から、そう言ったんだ。
「きみのぶち壊した部屋にあった写真立て、あれにはきみが写っていたよ」
そう、タンスから出した白いワンピースも彼女によく似合うのも当然だったんだ。
「あの部屋は、きみの部屋だったんだろう?」
ぼくは、当たり前の、触れてほしくなかったであろうことに触れてしまったんだ。
でも、そういうことに気がついたときってのはだいたい手遅れなんだな。
幸いだったのは、ぼくはそれに触れたところであまり罪悪感を覚えなかったところだ。
なんせ、触れたくてたまらなかったからさ。
ぼくは触れたくてたまらないものに触れてしまったことを肯定できるくらいには、いかれた人間なんだな。
「何もかも、思い通りになんてなりやしないし、くだらないことだらけ。つまんないことばかりに溢れていて、ごみのようなものばかりで飽和していて、すごく、すごく退屈な世界だなって」
そう毒づく彼女を見て、ぼくは初めて彼女の本音を聞いた気がしたんだ。
そりゃあたくさん、ここに書いてないような会話もたくさん重ねたわけなんだけどさ。ぼくとアカリはこの数日で、数えきれないくらいのくだんなくて話を繰り広げ続けていたんだ。
でも、この言葉ほど彼女らしい言葉はないな、と思ったんだよな。
彼女らしさなんてものは、一ミリもわかる気はしないんだけど、そればっかりは胸を張って言えるくらいだったよ。
あえていうならそうだな、きっと彼女の言った愚痴ってのは常々ぼくが思い続けていたことだからなんじゃないかな。
彼女のいうところの世界ってやつが人に溢れていた頃のことを言ってるのか、それとも今の、人のいない世界のことを言ってるのかなんてわかりゃしないけどさ。
どっちにしろ、この世界ってのはくだんないことで溢れてるんだよ。
どこまで突き詰めたってぼくらのいるここは、くだんない世界なんだよな。
人がいようと、いまいと、そこは変わりゃしなかったんだ。
「アカリは世界ってのが嫌いなのかい?」
「えぇ、とっても」
アカリは、ぼくのいうところの世界がどちらかなんてことすら聞きもせずに、そう言うんだ。
ぼくらは、神様の気まぐれでこんな、アリスばりにへんてこな世界に迷い込んだわけだけど、どうやら最後の最後まで神様ってのは気まぐれらしかった。
耳に喧騒がつんざいたんだな。
たまらなくなって、耳を塞ぎながら、あたりを見渡してみると、ながらく見ていない人混みってのがそこにあったんだな。
そう、世界が喧騒を取り戻したんだ。
耳を塞いでいる手を退けてみると、久しぶりの雑踏というやつは思ってたより衝撃的で、流れるような足音が耳を突き刺す度に、脳がぴりぴりするような、目の前がちかちかするような、そんな不思議な感覚になった。
ぼくは共感覚ってやつに懐疑的なんだけど、あの瞬間ばっかりはわかる気がしたな。
そんな雑踏の中でもアカリの「ほら、何も私の思う通りになんてなってくれやしない」って言葉が聞こえたのにはちょっとばかし安心したな。
カクテルパーティー効果というものの偉大さを、ぼくはこれから先も含めての一生、このとき以上に痛感することはないだろうね。
確かに、この世界はくだんないことだらけだ。
ぼくは、そんなくだんない世界ってのが気にくわなくて仕方ない。
ラジオってのはノイズ混じりでくだんない曲を垂れ流すし、電車の揺れも、波の音も、雑踏も、日常の中の雑音でしかない。
音楽だって、映画だって、人間ってのは同じようなくだんないものを延々と作り続けて、狂ったかのようにループし続けるし、炎天下ののコーラなんていつも想像よりずっと期待外れだ。
世界ってのは本当に、最高に、くだんないものばっかで、くだんないものにまみれてばかりなんだ。
本当に、この世界ってのは救えなくて、ばかばかしくて、大嫌いなんたけど。
世界ってのは、死ぬほどくだんないものにあふれているんだけど。
でも、そんなくだんないものの数々がたまらないほど、大好きなんだな。
きっとこの数日の疲れとか、溜まりに溜まった鬱憤だとか、そんなものがここで弾けたんだろう。
「退屈になったら、海に行けばいいんだよ」
柄にもなく、口が滑りに滑っていくんだな。
回り回るメリーゴーランドの上でこんな、くだんない人生観を吐き捨てるようないかれた人間ってのは、ぼくくらいだろうね。
「最高に退屈になったら、映画ってのは数時間程度、音楽ってのは数分程度くらいなら退屈を紛らせてくれる。それでも退屈で仕方ないってんなら、カラオケとか、ボウリングとか……はたまた、遊園地とか。そんな、くだんないことをすればいいのさ」
ぼくの語っているものごとは、ここ数日で起こしてきた行動を描いたようだった。
「確かに、ぼくらの生きてる世界ってのは、くだんなくて仕方ないけれどさ。つまらなくはないんじゃないか?」
アカリは、泣いてるような、笑ってるような、どっちだかわからない表情をしいた。
いや、きっとどっちでもあるんだな。アカリは、泣きながら、笑ってたんだ。
「そんな娯楽もいつかは飽きますよ」
「退屈な世界ってのは存外簡単に壊せるもんだ、部屋を壊すよりずっとな」
「海にも、映画にも、遊園地にも、カラオケにも、ボウリングにも、飽きたときにはどうしたら、いいんでしょう?」
「そんときは、そうだな。ぼくが話し相手にでもなってやるさ」
そんな、くだんないありきたりな話をして、ぼくは、ぼくらはやっと気がついたんだな。
ぼくらが欲しかったものは誰もいない世界への逃避行でも、なんでもなくて、くだんない話とかを気兼ねなく話せるような、友人だったんだ。
そんな、ありきたりなものだったんだな。
ばかげた話さ。
88 : 名も無き... - 2016/07/01 00:05:05.31 5q1sfFcj.net 72/72以上でおしまいです。
世界というライ麦畑から落ちてしまった二人の話でした。
げんふうけいさんもサリンジャーさんも大好きで、いつかこんな雰囲気の話を書きたくて仕方なかったのでとにかく書いてみました。
普段はSSなんかを書いております。
いつかまた、どこかで見かけることがあればよろしくお願いします。
ゆきの(Twitter:@429_snowdrop)からのお届けでした。