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「奈緒ちゃんは、鈴木さんとレイナさんの間に生まれた子どもなんですか?」
このあたりで何となくこの話については、あたしには察しがついていたけど、あたしは念のためにそう聞いた。
「君にこんな話をしちゃっていいのかな。理恵ちゃんは君には黙っていたんでしょ」
「聞かせてください。あたしには重要なことなんです。いったい何で」
何で子どもたちの世話を放置して博人さんを裏切って浮気した麻季さんが、奈緒の親権を取れたのか。何で、姉さんたちは三人の子どもたちと平穏で幸せな家庭を築けなかったのか。その答えは目の前にあるのだとあたしは思った。
「あたしね」
川田さんが決心したようにカップを置いてあたしのほうを見た。
「あたしはさ。多分、部外者の中じゃ一番いろいろわかってるのかもしれない」
「どういう意味ですか」
「結城君と君のお姉さんとは同期だし、仲も普通によかったし。あと、一期下の麻季ちゃんと怜菜ともサークルが一緒だったし」
あたしは息を飲んで川田さんの言葉を待った。こんなところで偶然にも真相を知っているかもしれない人と出会ったのだ。運命の出会いに感謝すべきくらいの偶然としかいいようがない。
「結城君と麻季ちゃんが付き合い出したとき、理恵は多分結城君に失恋したんだと思う」
「はい」
その話自体には驚くべき要素は何もなかった。姉さんが自ら公言していた話でもあるし。
「何かなあ。今さらだけど、新勧コンパのときから結城君と麻季って怪しかったのよ」
川田さんは何だかもう早く帰る気をなくしたみたいで、むしろ噂好きな主婦と化しているみたいだった。
「そうなんですか」
「うん。まず、結城君が麻季ちゃんのことを気にしていることはすごくよくわかったのよ。先輩たちに囲まれている彼女のほうをちらちら見ていたし」
「あの結城さんが」
「うん。あの頃は結城君はフリーだったし、麻季ちゃんって新入生のわりには目立っててさ。新歓コンパのときは先輩たちが周りに群がっている状態だったしさ。とにかく綺麗というか可愛いというか」
「麻季さんがですか」
「そう。だから、結城君に限らず麻季さんに目を奪われていた男はあの日、いっぱいいたんだろうけどね」
「それだと結城さんが一方的に、麻季さんのことを好きだっただけじゃないですか」
「あたしも最初はそう思ったの。ちょっと結城君らしくなく高望みしすぎかなって」
「高望みですか?」
博人さんが麻季さんを自分の彼女をと望むのは高望みと言われることなんだろうか。何だかそれだと、博人さんを子どものころから好きだったであろう姉さんの気持ちが報われない気がする。
「ごめん。うまく言えないけど高望みと言うと少し違うかな。麻季ちゃんてさ。もともと結城君と付き合うような子じゃないって言うか」
ますますわからない。でも、今までベールに隠れていた博人さんと姉さん、それに麻季さんと奈緒の過去のことを知ることができる機会がやっと訪れたのだ。あたしは諦めるつもりはなかった。
「麻季さんと博人さんがお似合いじゃなかったってことですか?」
「うん」
川田先輩ははっきりと、大きく頷いた。
「全然お似合いなんかじゃないよ。あれだけ無理なカップルも珍しいね」
「どういうことですか」
「あたしが知る限り、つまり学内でいつも一緒にいた二人を見てた範囲で思ったのはね。あの二人って、対等な関係じゃないなあってこと」
「麻季さんがわがままだったということですか」
「わがままというか。まあ、間違ってはいないのかもしれないけど。むしろ、精神的に麻季は過度に結城君に依存しているように見えたな」
「高望みって、麻季さんがもてていて博人さんじゃあ釣り合わないって意味じゃないんですね」
「うん。そういう意味じゃない。ごめんね、説明が下手で」
「じゃあ、どういう意味なんです? 麻季さんが博人さんに依存してたっていうのは聞きましたけど」
「高望みって言ったのはね。結城君も自分が救える、自分が上手に扱える範囲の女の子を相手にすべきだったんじゃないかってこと。別に麻季の方がもててたとか人気があったとかって意味じゃない。まあ、彼女は男の子にもててたのは本当だけど」
「結城さんは麻季さんを持て余していたってことでしょうか」
「はっきり言うとそうだね。あそこまで振り回されているのに、何で結城君がプロポーズするまで麻季に執着したのか今でもよくわからないんだ」
「川田先輩はよく二人のことを知ってたんですね」
「そうなの」
ちょっとだけ皮肉に意図を込めたあたしの言葉をスルーした先輩は言った。
「あたしさ。結構見たり聞いたりしちゃったことがあるの」
「どんなことをですか」
「結城君と麻季が付き合い出してさ。理恵が遠慮したのか結城君に話しかけなくなったのね。一時期、あんなに楽しそうに幼馴染の結城君と大学で再会しちゃったとか話していたのにね」
「そうですか」
姉さんの心中を思うと悲しくなる。というか川田先輩の話はどんどん生々しくなってくる。さっきはもう昔の話だよって言っていたのに、その語り口は妙に生々しい。ひょっとしたらこの人は、誰にも言えずにずっと何かの秘密を胸に抱いていたのかもしれない。それが今日偶然、話す相手を見つけたということなのか。もしかしたら今日の出会いはお互いにとってすごく幸運なことなのかもしれない。
いや。あたしにとって幸運かどうかはわからない。さっきまでは知りたくてしかたなかったことが、何だか今ではあまり聞きたくないような気がして、そしてお腹が痛くなるような感覚すらする。
「あとさ。すごく仲が良くていつも一緒だった怜菜と麻季があまり一緒に過ごさなくなったんだよね」
「ああ。そういうことはあるのかもしれませんね」
少しだけ、何か言いた気な表情で川田先輩はカップを置いた。
「まあ、それだけじゃなくてさ。あたし見ちゃったんだけど」
「はい?」
「メンタルが多少おかしくたって、お互いがお互いしか見えてなければそういう恋愛もありだと思うのね。でもさ」
やっぱり川田先輩は自分の見聞きしたことを吐き出せる機会を探し続けていたのだ。あたしは何となくそう確信した。
「2限が終った頃だったかなあ」
川田が見かけたとき、彼女はキャンパスの人気のない隅で一人きりだった。それなのに川田の耳には麻季の会話が聞こえてきたのだ。
「あたしには博人君がいるのよ」
「一方的に好き好きって言ってどうなるのよ。ちょっとは頭を使いなさいよ」
「どういう意味?」
「先輩に付き合ってあげたら?」
「あたしは結城先輩・・・・・博人君しか興味ないよ」
「だから、駆け引きだって。博人の心を自分に引きつけたいんでしょ」
「それはそうだけど」
「じゃあ、もうわかってるでしょ。別に先輩と寝ろって言ってる訳じゃないじゃん。一緒にデートくらいしてあげたらって言ってんの」
麻季は一人でその場所にいたのだけど、川田の耳には二人の声が輻輳していた。
どういうことよ。彼女はそう思った。
「わかったよ」
麻季が諦めたように言った。
「そう。それでいいのよ」
その声も麻季の声みたいだ。「鈴木先輩にメール返しなよ。明日は楽しみですって」
よくわからないけど、関わりになるのはよそう。そう思った川田が踵を返したとき、目の前に理恵がいた。
「それはないでしょ」
理恵が憤ったように言った。「それはないよね」
「理恵・・・・・・どしたの」
「博人が夏目さんを好きなのなら、諦めなきゃって思ってたのに。それなのに」
「ちょっと。理恵、よせ」
川田は一人でぶつぶつと鈴木先輩との浮気計画を喋っている麻季に近寄ろうとしたので、彼女は理恵を抱きかかえるようにしてそれを阻止した。
「ちょっと落ち着きなよ」
「離してよ」
この子、少し目がヤバイ。どっちかと言うと、麻季の方が精神的にヤバイんじゃないかと思っていたけど、これじゃあ理恵の方が危ないみたいだ。これまでは、この子は理性の塊みたいで、自分の感情を論理で抑制できる子だと思っていたのだけど。
学内のカフェに、半ば無理矢理引きずるようにつれてきた理恵を席に座らせると、川田は嘆息しながら理恵の正面に座った。なんであたしはこんな面倒くさいことに関っているのだろうか。別にこの三人が、いや。怜菜を含めれば四人が修羅場状態に陥っても、別に自分には関係のないことじゃないのか。
「真紀子。ごめん」
「別に謝らなくてもいいけどさ」
「ごめん」
「理恵ってそんなに感情を見せる人だっけ?」
「うん。さあ、どうだろ」
「何よそれ」
「もう平気だから」
「涙を流しながら何を言ってるんだあんたは」
「真紀子が気にすることじゃないよ」
それは確かにそのとおりだし、こんなことに自ら好き好んで入り込む気もないけど。けれど。この状況でさすがに理恵を放ってはおけないじゃない。結城君と理恵は一年の頃から知り合いだし。それに麻季と怜菜だってサークルの後輩であることには違いない。
「あんたさ。結城君のこと本気で好きだったの?」
「うん」
「じゃあ、何で麻季に結城君を譲ったりしたのよ。黙って身を引いたじゃん、あんた」
理恵は俯いた顔を上げた。そして涙が残る瞳を黙って手で拭った。
「結城君が本気で夏目さんに引かれているなら、あたしは彼の邪魔をしたくなかった」
「理解できん。本当に好きならダメモトで告ればよかっただけじゃん」
「あたしたちってさ。偶然に再会した幼馴染ってだけで、そこには何もちゃんとした絆とか関係とかなかったしね。それは、ここで再会したときは、お互いに付き合っている相手もいないからひょっとしたらこのままって思ったこともあったけど」
「けど、何よ」
「新入生の夏目さんにさ。すぐに心を奪われちゃうようじゃね。あたしには彼の側にいる資格なんかないんだと思ったのよ」
「じゃあ、何でさっき」
「許せないから」
理恵はもう泣いていなかった。
「何よあれ。鈴木先輩のことが気になるなら結城君に言い寄るべきじゃないでしょう」
「う~ん。あれはさ。麻季って鈴木先輩と一緒にいるところを結城君に見せつけて嫉妬させようと思っているんじゃないかな」
「それがそもそも違うでしょう。博人の誠実さをあの子は信じていないってことじゃん」
「落ちつきなよ。結城君が誠実かどうかなんて誰にもわからないでしょう」
「何ですって」
「だから落ちつけ。あんた以外はみんな結城君なんて大学に入って知り合った男子に過ぎないんだってば」
「そうなのかな」
「そうだよ」
「夏目さん・・・・・・麻季さんもそうなの?」
「どうだろう。よくわからないや」
別に結城君の恋愛事情なんかフォローする義理はなかったのだけど、川田は翌日、再びこの騒動の巻き込まれた。今度は相手は理恵ではなく怜菜だった。暗い顔をして一人で講義に出席している怜菜に、川田は思わず声をかけたのだ。
「怜菜?」
「あ・・・・・・おはようございます」
「おはよ。最近、麻季と一緒じゃないんだね」
「ああ」
彼女はそれまでの暗い顔を一変させ綺麗な笑みを見せて言った。怜菜は本当に綺麗な笑い方をする。育ちがいいせいかもしれないけど、上品で押し付けがましくなくあざとくもない。その気怜菜微笑みに一瞬だけ少し心が痛んだ。
「麻季は結城先輩にべったりですよ」
きっと無理しているんだろうなと川田は思った。多分、彼女は親友麻季の彼氏である結城君のことが好きなのだろう。でも、こういうことはよくあることだ。音大というのは何となく外部の人からは華やかな環境のように勘違いされているようだけど、実態は全然違う。特に、このレベルの音大になると幼い頃から先生に付いて厳しいレッスンを続けてきた学生が多く、他の大学のように高校時代を恋愛で費やした者など皆無に等しい。だからこそ逆説的に言うと、大学生になって開放感を味わった学生たちは不器用に、かつ積極的に男女関係に挑むようになる。特に、周囲の友人たちの才能に圧倒され早々と演奏家を諦めた学生ほどそうだ。これではまるで川田自身のことのようだけど。
「寂しいでしょ」
「そうでもないですよ。麻季が落ちついてくれたし、それだけでもいいかなって」
本当にこの子はいい子だな。確かにピアノ演奏の能力という点ではあまり目立たない怜菜だけど、この子はそれでいいのだろう。両親共に弁護士の家庭で育ち、実のお兄さんも弁護士をしているという境遇で、何が何でも演奏にしがみつく必要はないのだから。こういう子はいいお嫁さんになるのだろう。そして、結城君への恋愛感情も昔のいい思い出として昇華されるに違いない。だから、川田はこのときはあまり心配していなかった。むしろ、理恵の方が心配だったけど、それも杞憂だったようで結城君と麻季は相変わらず大騒動を起こしながらも結局は仲のいいカップルとして過ごし、そのうち同棲し、結城君が音楽の出版社に就職したタイミングで、二人は無事に結婚した。
川田自身も、出身校の中高一貫高の音楽の教師として採用されたため、しばらくは彼らの関係のことなど気にする余裕はなかった。新米教師にとっては毎日が戦争のようで、大学時代の恋の鞘当のことなどすっかりと記憶から消えていた。
川田自身も同じ学校に勤める数学の教師と恋愛に落ち、そして結婚することになった。この学校法人は、いくつかの中高と大学を運営していて、同じ学校の教職員同士が結婚した際には、どちらかの職員が他の学校に転出するルールとなっていた。閉鎖された社会でもあったので、意外と職場結婚が多かったということもこのルールの背景にはあった。
こうして旧姓多田、婚姻後は川田という苗字になった彼女は転勤先の学校で出産して娘を授かった。将来、この子がどんな職業に就こうとも構わないけど、少なくともピアノだけは教えておこうと彼女は思った。娘が小学生になったとき、彼女は娘を大学時代の恩師が開いているピアノ教室に連れて行った。
郊外の駅で初めて降りたった土地で、川田は娘の手を引いてあらかじめ調べておいた住宅地の中にある佐々木ピアノ教室を目指した。自宅からは結構距離があるのだけれど、自分の娘を預けるのは先生しかいないと彼女は考えたのだ。
受付にいる女性に話しかける前に、川田はその女性が麻季であることに気がついた。
「夏目ちゃんじゃない。久し振り」
「多田先輩? ご無沙汰してます」
麻季は一瞬驚いたように川田を見て、それから微笑んで言った。今ではもう結城君と結婚して奥さんをやっているのだろうけど、見かけは相変わらず綺麗なままだ。
「やだ、夏目ちゃんって佐々木先生のとこで働いてたんだ。知っていればもっと早く連絡できたのに。あたしは今は結婚して川田っていう姓なんだけどね」
「先輩って、学校の先生をしているんでしたっけ」
「そうそう。まだちゃんと働いているんだけどさ。中学生って面倒でね。音大じゃなくて教育大の音楽科行っとけばよかったよ。あたしって教育とかって全然苦手だしさ」
「こちらはお嬢さんですか」
「そうなの。小学校の低学年なんだけど早い方がいいと思ってさ。麻季が指導してくれるの?」
「ちょっと待ってくださいね」
ロビーの椅子を勧めてから麻季は教室の奥に消えていった。多分、佐々木先生に話をしてくれているのだろう。
やがて戻って来た麻季は、佐々木先生が直接娘を見てくれるという話をしてくれた。正直、彼女にはそれが嬉しかった。
「佐々木先生が直接レッスンしてくれるの?」
「はい。とりあえずは最初は多田先輩のお嬢さんなら自分がみるとおっしゃってましたよ。その後は全部佐々木先生というわけにはいかないと思いますけど」
「光栄だわ。美希、落ちついて頑張るのよ」
麻季は美希を連れて佐々木先生の待つ部屋の方に消えていった。
「美希落ちついてた?」
麻季が川田の待つロビーに戻るのを見ると、彼女は心配そうに聞いた。
「ちょっと緊張してましたけど、みんなそうですから」
麻季が笑った。
佐々木先生の美希への初レッスンが終るまで、川田は娘の出来についてはもうあまり考えず、気楽に大学時代の思い出を麻季に対して語った。娘が帰って来るまで時間を潰さないといけない。
「そういえば夏目ちゃん、結城君と結婚したんだってね。おめでとう」
「ご存知だったんですね」
「うん。あんたと仲良しだった怜菜から聞いたよ。ああ、もう夏目ちゃんじゃないのか。というか、そういや怜菜も結婚したんだってね」
「・・・・・・そうなんですか? あたし聞いてないです」
「え? 怜菜も水臭いなあ。あんたと怜菜って親友だと思ってたのに」
「怜菜、いつ結婚したんですか」
「先月だよ」
「そうですか」
麻季は少しだけショックを受けたようだった。ちょっと無神経な発言だったのかもしれないな。川田は少し後悔した。親友のはずの怜菜が麻季を披露宴に呼ばないどころか、結婚することすら伝えていなかったとすると麻季が傷付いてもしかたない。ただ、そうだとすると、怜菜が麻季に自身の結婚を伝えなかった理由も想像に難くなかった。
「怜菜ってどういう人と結婚したんですか」
怜菜への失望を押し隠しすように麻季は聞いた。
「怜菜の結婚のことを知らないんじゃ相手のことも知らないか。えーとね。あたしより一年上の鈴木雄二って先輩・・・・・・というか、あんたの元彼じゃなかったっけ」
「・・・・・・鈴木先輩はあたしの元彼じゃありません。あたしが大学時代に付き合ったのは今の旦那の博人君だけですから」
「ああ、そうだよね。あんたと結城君っていつも一緒だったもんね」
少しだけ慌てて川田は取り繕うように言った。「何かさ。怜菜と鈴木先輩って卒業後に鈴木先輩のオケの定演でばったり出会ったんだって。怜菜って首都フィルで事務やってるでしょ? 鈴木先輩の横フィルと首都フィルってよく合同でイベントとかしてるみたいで、その縁でそうなったみたい」
怜菜はその恵まれた家庭環境のせいか、演奏家としての道に執着することなく、地方のフィルの事務局に就職した。そして、そのことに彼女自身は満足していたようだった。怜菜と偶然に出会ったときの彼女の様子が川田の脳裏の思い浮んだ。
あのときの怜菜は、スーツを着て小脇にブリーフケースを抱えて駅前でタクシーから降りてきたのだった。
「あ。先輩」
タクシーから降りたとき、目の前にいる川田に気がついた怜菜は微笑んだ。何となくその微笑みを見た川田は安心した。
「久し振りだね」
「ご無沙汰してます」
「仕事中?」
怜菜が演奏を諦めて地方のオケの事務局に就職したことは、川田も聞いていた。
「いえ。今日は半日だけお休みをもらいました」
「いいなあ。半休でショッピングとか?」
「違いますよ」
怜菜は再び微笑んだけど、その微笑は少しだけ寂しさを表情の傍らに残しているような複雑なものだった。
「うん? どうかした」
「いえ。あの。今日は婚約者と式場の下見に」
「結婚するの?」
「ええ、まあ」
これで過去の因縁の一つが時間薬によって癒されるのだろう。願わくば、理恵の方も解決しますように。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「お相手は? 怜菜ちゃんのことだから司法関係の人?」
「いえ。実は川田先輩もご存知の人で・・・・・・。同じ大学の鈴木先輩です。鈴木雄二さん」
これは珍しい名前を聞くものだ。鈴木先輩は確か、麻季に執着していたはずだけど、でももうあれから何年も立っている。それに鈴木先輩は今では横フィルで若手のエースと言われるほどもてはやされ出しているみたいだし。さすがに大学時代に自分を袖にした麻季に執着しているなんてことはないのだろう。
それはいいのだけど、鈴木先輩に関しては、その売れ方が問題だと川田は考えていた。世間にちやほやされるほど、鈴木先輩の技量は高いのかどうか、彼女にはよくわからなかった。いい演奏家であることには間違いはないのだろうけど、その人気には彼の見た目の良さが相当貢献しているのではないか。
でも、それは一介の音楽教師が言ったって説得力はないし、何よりも怜菜の婚約者を貶めることになる。
「何か意外だなあ。大学時代って、怜菜と鈴木先輩って接点あったっけ」
「それがまるでないんです」
怜菜が言った。
「そうだよね。正直、びっくりしたよ」
あの遊び人の鈴木先輩と怜菜か。なんだかすごくちぐはぐなカップルのように思えるけど、それをこれ以上口に出さないだけの理性は、まだ備わっていたようだ。
「地方のオケ同士で、交流会があって。そこで再会したっていうか」
「そうなんだ」
この子はもう結城君には未練はないのだろうか。まあ、結城君に関しては理恵の件もある。少なくとも怜菜のことが解決しただけでもいいじゃないか。
「おめでとう」
川田は再びそう言った。それ以外にかけるべき言葉は思いつかない。
「ありがとうございます」
怜菜もさっきと同じ答を繰返した。
「じゃあ、彼を待たせちゃいますので、もう行きますね」
結婚が決まって幸せの絶頂にいるはずの怜菜だけど、気のせいか表情に精気がないような気がする。でも、それは川田が心配するようなことではなかった。
「うん。お幸せに。また、会おうね」
麻季にとって、親友からその結婚を知らされなかったことがショックだったのか。麻季は黙ってしまったままだ。
「麻季?」
俯いて何かを考えている麻季に川田は話しかけた。
「はい」
「怜菜の披露宴に呼ばれなかったのは気になるかもしれないけどさ。怜菜なりに気をつかった結果だと思うよ」
「何でですか」
「旦那は鈴木先輩でしょ。あんたは否定するかもしれないけど、学内では一時期、あんたの彼氏と噂のあった人だし」
「あたしの彼氏は、当時から博人君だけで」
「あとさ。怜菜の気持だってあるでしょう」
「え」
「あ。ごめん、それはいいや」
麻季も何かを察したのか再び黙ってしまった。
そのとき、佐々木先生が娘を連れて教室の奥から姿を現した。
「あ、佐々木先生。ご無沙汰しています」
川田は慌てて立ち上がってレッスン室から美希を伴って出てきた先生に声をかけた。
「多田さんお久し振り。元気だった?」
「おかげさまで元気です。それで美希はどうでしょうか」
「うん。まだわかんなけど、弾き方の癖とかあんたにそっくりだわ。しばらく結城さんにレッスンさせるけどいい?」
「はい。ありがとうございます」
川田は感激したように声を出した。「麻季ちゃん、娘をよろしくね」
「結城さん?」
黙っている彼女を不審に思った先生が麻季に声をかけた。
「あ、はい。わかりました」
「娘をよろしくね、麻季」
「はい。ちゃんと教えますから安心してください」
麻季はどこか放心したように言った。
「じゃあ、夏目ちゃんじゃない、結城麻季ちゃん。来週から娘をよろしくね」
「はい。わかりました」
佐々木先生は言うことだけ言うと、さっさと自室に戻ってしまったので、川田は見送ってくれた麻季にそう言った。
「あの」
「どした?」
「怜菜と理恵さんは幸せですか」
あんたがそれを聞くか。反射的に麻季に反感を覚えたけど、川田は冷静に対応した。
「うん。あんたが心配しなくてもいいと思うよ」
「わかりました。来週からお待ちしてます」
「うん。ほら、美希。先生にごあいさつしなさい」
「せんせい、さようなら」
怜菜の披露宴のあと、そして川田が麻季に再会してから一月ほどたって、今度は理恵からの披露宴の招待状が自宅に届いた。これで、ようやくみんなが落ちつくべきところに落ちついたのね。川田はそう思って、封筒の中の二つ折りのカードを眺めた。
高木という男性には心当たりがないから、東洋音大とは無関係の人なのだろう。理恵は卒業後、音楽関係の出版社に就職したので、その関係で知り合った人かもしれない。怜菜の結婚には手放しで喜べない部分もあった。あの遊び人の鈴木先輩が相手であることとか。でも、理恵の結婚に対して川田はほっとするような感覚を抱いた。ようやく、理恵も結城君から卒業したのだと思って。
川田は美希を旦那に預け、理恵の披露宴に出席した。
「おめでとう。理恵」
「ありがとう。真紀子」
あのときの理恵の満面の笑みはフェイクじゃない。別に直接自分に関りのあることじゃないけど、清算し忘れていた過去がようやくすっきりと解決したようだった。二次会の会場で、友人たちの求めに応じてキスしている理恵とその旦那を眺めながら川田はそう思った。
理恵が結婚してから数ヶ月経った頃、川田は理恵から自宅に招待された。理恵とその旦那が、大学時代の友人たちや職場の友人たちをホームパーティーに招待したのだった。新婚家庭のお披露目のようなものだろう。結構知っている友人も多かったので、川田は美希を旦那に預け、途中で買ったワインの入った袋を抱えながら、理恵の新居を訪れた。
高層マンションの20階まで上がると、既にドアが開いていて満面の笑みを浮かべた理恵が川田を迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「改めておめでとう。理恵」
「ありがと。来てくれて嬉しいよ。さあ、入って。もう大学の時の子たちも来てるから」
「うん。これ」
「ワイン? ありがと。早く上がって」
うきうきしたような理恵の後に続いて高層階のマンションに入ると、川田は既にお酒が入っているらしい集団から拍手で迎えられた。東洋音大の頃の懐かしい顔のほか、知らない男女の姿もちらほら見受けられた。
室内にいる理恵とご主人の友人ちはもう既にだいぶ酔いが廻っているようだった。十人弱の招待客の中には、川田の知人が数人混じっていて、川田が室内に入っていくと大袈裟に声をあげて歓迎してくれた。
「お久し振りです。多田先輩」
「おおー。真紀子おひさ。つうか、もう多田じゃなくて川田だし」
「初めまして」
そうあいさつしてくれたのは、旦那さんの方の友人の男女みたいだ。川田は無難にあいさつを返しているうちに、すぐに理恵と旦那さんを祝福する集団に馴染んでいった。
理恵の結婚相手の高木さんは、想像していたとおり理恵の業界の関係者だった。
「高木さんと理恵との馴れ初めを聞きたいなあ」
そう言った彼女は音大時代の同期だ。彼女はあたしの持ってきたワインを自分のグラスに注ぎながらそう言った。そんなに遅れてきたつもりはないのだけど、彼女はもう既にだいぶ酔っているようだ。
「そういう話やめようよ」
照れ笑いしながら理恵が言った。理恵の傍らに座ってワイングラスを揺らしている旦那さんも苦笑している。
「同じ会社じゃないんでしょ」
「違うよ」
理恵が笑いながら答えた。
「じゃあ、どうやって知り合ったの」
「彼はフリーの音楽関係のライターなの。あたしが、彼に仕事を依頼してさ。打ち合わせとかしているうちに」
理恵の正直な告白に旦那さんは少しだけ笑った。
「そうなんだ。あ」
同期の女の子は何かを思い出したようだった。
「結城君もさ。確か、音楽之友の編集部に勤めてなかったっけ」
余計なことを。あたしははらはらしながらそう思った。
「もうよしなよ」
もう一人の女の子が彼女を遮った。自己紹介からすると同じ大学の同期らしいけど、川田には見覚えのない人だ。
「何でよ」
「そうだよ」
理恵が冷静に割り込んだ。
「理恵ったら」
「博人君は音楽之友に就職したみたいよ。でも、それが何?」
「何って」
「あんたは何が聞きたいの?」
まずい。理恵の目は本気で怒っている感じだ。そこにいる理恵の友人だけではなく、旦那さんの友人たちまで少し引き気味に沈黙してしまっている。あたしが話を逸らそうとしたとき、手にしたワインをぐっと飲み込んだ旦那さんが口を開いた。
「音楽之友の結城さんの記事はいいですよね」
彼はそう言って理恵に笑いかけた。理恵は俯いたままだったけど。
「川田さんも、そんなに気をつかってくれなくていいですよ」
突然、理恵の旦那に名前を呼ばれてあたしうろたえた。
「結婚する前に、理恵は全部僕に打ち明けてくれましたから。結城さんへの愛情とか憧れとか、彼に失恋したときの苦しみとかまで、全てね」
彼に言葉に、楽しいはずのホームパーティーはお通夜のようにしーんと静まってしまった。今まで怒っていたはずの理恵も今では俯いて下を見つめている。
「あの」
沈黙に耐え切れなくなった川田が声を出した。
「・・・・・・」
「川田先輩?」
「ごめん。ここまで話しといて悪いけど、やっぱりこれはあたしの話していいことじゃないと思う」
「そうですか・・・・・・」
「ごめんね。でも、あなたがどうしても知る必要があるなら、結城君か理恵に聞いた方がいいと思う。教えてくれるかどうかはともかく」
「そうですね」
これ以上は聞いても無駄だろう。それに、姉さんと博人さんが幸せなら、今さら過去をほじくりかえす必要なんかないのかもしれない。明日香が奈緒人を嫌っている様子なのは気にはなったけど、それは別にこの家に引き取られなかった奈緒ちゃんのせいだという証拠もないのだ。
「何でそこでやめるのよ。核心に迫る前で止めちゃうなんて」
明日香が叔母さんに文句を言った。思っていたより軽い口調に思える。
「でも、川田先輩はここで話をやめちゃったし、それにさ。これ以上、深い部分は先輩にもわからないんだと思う」
玲子叔母さんはそう言った。何かを隠しているような感じはしない。
「どうして? あたしの話していいことじゃないと思うってことは、それ以上に何かを知っているって意味じゃないの?」
「それはわからないけど。でも、あのときの先輩からはこれ以上は、聞きだせなかったのよ。というかさ」
叔母さんはいつもと違って真面目な表情で明日香を、そしてその次に僕を見た。
「そろそろ、姉さんや博人さんに直接聞いてみたら? 川田先輩だってしょせんは単なる傍観者、というか目撃者にすぎないでしょ?」
「ここまで話しておいて、最後は突き放すって何でよ」
明日香が言った。
「突き放すっていうか、これ以上はあたしも何も知らないし」
「そういうことじゃないでしょ。叔母さんのせいだなんて思わないけど、少なくとも叔母さんはリアルタイムでこのことに関与してたんでしょ?」
「関与って。あんたは難しいことを言うね」
「難しくないでしょ。あたしは・・・・・・あたしとお兄ちゃんと、それに多分奈緒だって、過去の出来事のせいでここまで振りまわされてるんだよ? 叔母さんが悪いとは言わないけど、それでも覚えていることを全部話してくれてもいいと思う」
明日香が突然、僕を見た。
「ね? お兄ちゃん」
「え。あ、ああ。そうかもしれないけど、叔母さんを責めてもしかたないじゃん。悪いのは叔母さんじゃないのに」
「そんなことはわかってるよ」
「知ってることは全部話したよ」
「あのね」
「わかってるんだから」
叔母さんが何かを言おうとする前に明日香が言った。
「知っていること話してくれたのかもしれないけど、推察したことはまだでしょ」
叔母さんのマンションを出ても、明日香は僕の方を見ようともしなかった。抱きつくでもなく手を握るでもなく。僕は明日香の兄だけど、それ以上にこいつの婚約者じゃなかったのか。明日香にプロポーズしたときの思い出が未練がましく脳内に再生される。
「ねえ」
明日香は僕の手を握ったりはしないし、僕に寄り添ったりもしない。それでも彼女は僕を見上げるようにして声をかけてくれた。
「何?」
「あのさ」
明日香の表情は今までの表情と違っていた。僕に無関心な様子でもなければ僕にいいよっていた頃の表情でもない。
「そろそろ、はっきりさせないとね」
「どういうこと?」
僕は戸惑った。普通に声をかけてくれたのはいいけど、言っている意味はよくわからない。
「・・・・・うん」
「はっきりさせないとって?」
そこで明日香は立ち止まって、僕の方を見た。
「あのさ」
「だから何だよ」
「あたしね」
明日香が薄暗い街角で照れたように笑って言った。
「あたし、本当にね」
「・・・・・・本当に?」
「お兄ちゃんのこと好き」
一瞬だけ驚いた僕に明日香は言った。
「大好きだけど。でも奈緒ちゃんもきっとそうだよね」
明日香はそう言った。また、その話を蒸し返すのか。僕は一瞬そう思ったけど、玲子叔母さんの話を聞いた今では、彼女の気持ちもよくわかった。
「奈緒は・・・・・・今ではどうかな」
「うん。それは確かによくわからないの。奈緒ちゃんはお兄ちゃんのことは好きだと思うけど、それが昔の記憶を引きずった仲のいい妹としてか、異性としてお兄ちゃんを好きなのか、今じゃ全然わからなくなっちゃった」
「そうか」
「そして、何でわからないかもよくわかるんだ。過去の出来事とか背景とかがわからないからなんだよ」
明日香の言うとおりだ。もうこれ以上は推測しても意味がない。むしろ、過去を知ってから考えるべきなのだろう。それでも、過去のこと、もう終ってしまったことを探ることを本当に今すべきなのかどうかは疑問が残った。
「結局、過去のことを知らないで判断できるなんて甘い考えだったのね」
でも、明日香は言葉を重ねた。奈緒や明日香の気持ちを理解するためには、やっぱり過去のことを理解しなければならないのだろうか。
そんな必要はなかったんだろうけど、僕はその時、渋沢と明日香の情事を想像してしまった。
「明日香ってさ」
「うん」
「池山以外に好きになった男っているの?」
「いるよ。つうか一番好きなのはお兄ちゃん」
僕は意表をつかれて言葉を失った。
「いや。その・・・・・・そうなんだろうけど。つまりさ、それ以外でっていうか」
「・・・・・・もしかして明さんのこと?」
明日香が顔色を変えないで言った。まるで隠す気はないみたいだ。明日香は人の心が読めるようだ。僕はそう思った。渋沢と明日香のことなんか、僕は一言だって話題にしていないのに。
「うん。渋沢のこと好きなの? 池山よりも」
そう言ってから、一瞬だけためらったけど、結局僕は次の言葉を口にした。
「・・・・・・僕のことより?」
明日香は面食らったように僕を見つめた。やがて、意味のわからない笑みが彼女の表情に浮上した。
「池山より? それはそうかもね。でも、お兄ちゃんとは違うよ」
明日香の返事に僕は完全に不意討ちを食らった。何が違うのだろう。
「池山のことはそうかも。明さんと池山を比べたら。でも、お兄ちゃんは全然違う」
「明さんにはね」
明日香が渋沢の名前を口にした。何のためらいもなく。
「明さんには抱かれたことがあるの。あたしの方から彼を誘惑するようなシチュで」
僕はそれに対して何も応えられなかった。それは、志村さんの思惑が真実だと思い知らされた瞬間だったのだ。
「・・・・・・いったい何で」
「何でって言われても。あの頃はお兄ちゃんと付き合っていなかったし」
「何か僕に言うことはないの?」
「いっぱいある。けど、よく考えればお兄ちゃんに言い訳する必要はない気もする」
「どっちなんだよ。結局お前の言い訳ってよくわかんないし」
「別に言い訳しているつもりはないよ。それに、お兄ちゃんだって奈緒と付き合おうと思ったんでしょ。それでイーブンじゃん」
「僕は奈緒とは寝てない。というか、何にもしてないよ、彼女には」
「それは自分の実の妹だと思ったからじゃないの?」
「実の妹だなんて知る前からだよ」
「それじゃあ、ますますわけわかんない。たかが一回会っただけで付き合い出したんでしょ? お兄ちゃんも奈緒ちゃんもあたしのことをどうこう言えないじゃん」
「僕たちは・・・・・・。僕と奈緒はそんなんじゃない。誰もがみんなおまえみたいなビッチだと思うなよ」
思わずきつい言葉が口から出てしまった。これは言いすぎだ。僕はそう思った。
「そうだね」
言いすぎたと思ったのだけど、明日香は微笑んだ。
「あのさ過去のことなんかどうでもいいって思ってたの。現在のあたしとお兄ちゃんと奈緒の気持ちだけが全てでしょって」
「ああ」
「でもね。今は昔の出来事の全部を知りたい。何でレイナさんが奈緒ちゃんのことを奈緒って名付けたのか。何で、パパが奈緒ちゃんの親権を諦めたのか」
「今さらそんなことを知っても」
「きっと過去のことを知った方が、奈緒の気持ちとか」
「とか?」
「ママの気持ちとかがわかると思う」
僕はその言葉に意表をつかれた。レイナさんや奈緒の気持ちはともかく、母さんの、理恵さんの気持ちにまで考えが及んでいなかったからだ。でも、明日香にとっては理恵さんは実の母親だし、そこは重要な話だったのだろう。
「どうするの?」
「ママに聞くのよ。昔の出来事を全部」
「本当に聞くの」
もう明日香は僕に答えず、僕の方を見ることもなく、くるりと方向を変えて家の方に歩き出してしまった。
でも、いつものことだけど、それから二日間は母さんは仕事で会社に留まることになり、結局ちゃんと話せたのは三日目のことだった。
「ちょっと聞きたいんだけど」
軽い口調で、明日香は珍しく早く帰宅して、食事の用意を始めた母さんに話しかけた。
「どしたの」
母さんがビニール袋の中から食べ物を出してキッチンのカウンターに並べながら言った。やはり、手づくりとはいかないようだ。
「ちょっと真面目な話なんだけど」
「進学のこと? ようやく真面目に勉強して、お兄ちゃんと同じ高校に行きたくなったんでしょ」
母さんが微笑んで言った。
「それは無理」
明日香はあっさりと母さんの期待に満ちた表情を切り捨てた。「今から勉強したって明徳なんて無理だよ」
「始める前から諦めることはないでしょ。というか受験の話じゃないなら後にしてよ。食事の支度してるんだから」
「受験の話より大切なことだよ。つうか明徳は無理だけど大学はお兄ちゃんと同じ大学に行けるように頑張るよ」
母さんは少しだけ微笑んだようだった。
「あら。明徳に行けないのにそんな大風呂敷を広げていいの? あんた、奈緒人君の成績知らないんじゃないの」
「知らないけど」
「この間の期末試験で学年三番なのよ。その前の全国模試では」
「もういいよ」
僕は照れくさくなってそう言った。仕事で多忙な母さんが僕の成績なんかを覚えているとは思いもしなかったから。この家庭で育ってよかったんだ。僕はそのときしみじみとそう思った。
「わかったよ。自信はないけど明徳目指して頑張るから」
「それでいいのよ。じゃあ、もう邪魔しないでね」
「だから、聞きたいことがあるの」
「いったい何よ」
「過去のことが知りたいの。怜菜さんの娘の奈緒ちゃんが何でパパと麻季さんの娘で、お兄ちゃんの妹として育てられていたのか。何で麻季さんと離婚したとき、奈緒ちゃんだけは麻季さんに引き取られたのか」
母さんが凍りついたように沈黙した。それから、母さんは一瞬複雑な表情をした。その表情に僕は一瞬怯んだ。何か、いろいろと諦めたような、それでいてちょっとだけほっとしたような表情だった。明日香がそれに気がついたかどうかわからない。でも、僕はこのとき何か嫌な予感がしたのだ。こんなことを問い詰めるべきではなかったかもしれない。
嫌なら別に無理に教えてくれなくてもと言いかけたけど、もう遅かった。
「うん。結局こうなっちゃうんだね」
母さんが下を向いて言った。
「こうなっちゃうって、どういう意味?」
明日香が聞いた。
もうやめようよ。僕は心の中で呟いたけど、もちろんそれは母さんには伝わらなかった。
「ごめんね」
「はい?」
面食らった様子の明日香と僕を母さんはじっと見つめた。
「本当にごめん」
「何言ってるのよ」
明日香が驚いたように言った。自分の母親の初めて見る涙に狼狽したようだった。
明日香も僕もこのとき、少し気楽に考えすぎていたのだろう。過去を知ることに若干の恐怖とためらいを覚えながらも、まさかそれを追求することで、今のこの家庭が壊れるかもしれないなんて考えもしていなかった。ヒントはあったのだ。最近の父さんと母さんの諍いを思い出せば。
母さんはキッチンから離れ、僕と明日香が並んで座っているリビングのソファの向かい側に力なく崩れるように腰かけた。
「・・・・・・いつかは話さなきゃいけないときが来ると思ってた。再婚したときからいつも思ってた」
母さんが俯いたままそう言った。
その夜、私は某音楽雑誌の出版社主宰のパーティーに出席していた。これも仕事のうちだ。こういうのはあまり好きではないのだけれど、今日だけは別だった。博人君が来るかもしれないのだから。
同じ業界の友人から聞いた。博人君が「音楽之友」の編集部を離れ、「ジャズ・ミューズ」というジャズ関係の雑誌の編集長になったって。別にそれを聞いたのだって偶然というわけじゃない。あたしは、旦那がなくなってから、いや。もっと言えば大学時代のあのときから、どうしようもないあの喪失感とずっと戦ってきたのだから。
大学で博人君と再会したとき、運命って神様って本当にあるんだってびっくりしたことを思い出す。照れて少しだけ微笑んだ、幼馴染の彼の表情は今でも胸の片すみに残っている。本当にそれは私にとってすごい偶然だった。毎晩、泣くほど後悔していたその対象の男の子が、同じキャンパスにいたのだったから。
大学時代に再会した私は、かつて幼かった頃の淡い恋愛が復活するかもという期待に震えたのだけど、それはそう都合よくはいかなかった。博人君と再会し、何となくうまくいきそうな雰囲気のところに、綺麗な後輩の女の子が割り込んできたのだ。
私は素直に身を引いた。引くしかなかった。彼が麻季ちゃんのことが気になるのなら、それはそれでしかたがない。私は自分に自信がなかったし、それ以前に博人君とは偶然に再会した幼馴染以上の関係に持ち込むことが出来なかったから。私には当時も今も自分に自信がないのだ
だから私は身を引いた。黙って博人君と麻季ちゃんの騒々しい恋愛を見守った。時にはらはらしながら。時に身もだえするほどの嫉妬を覚えながら。
傍から見ていて非常に危なっかしい恋愛だったけど、二人は無事にゴールインした。博人君の就職の内定と同時に二人は婚約し、やがて結婚したのだ。私はようやく終わったのだと思った博人君への長く報われない恋愛が。それは私の心を楽にしてくれた。もう悩む必要はないのだ。全てが終ってしまった今では。
落ちつかない気持ちで、きょろきょろと辺りを眺めていた私は、そこに探し続けていた人の姿を見つけた。高鳴る胸の動悸を意識しながら私は彼のそばに寄った。深呼吸してから、あたしは自然に驚いたような表情を作って彼に話しかけた。
「博人君」
自分の名前を呼ばれた彼が振り返った。
「・・・・・・理恵ちゃん」
博人君は驚いたように私を見た。
梅雨の雨が私の心を暗くする。もう、旦那の不慮の死から一年も経つ。仕事をしていて多忙な業務に向き合っているときだけは、旦那がもう私の側にいないという事実に向き合わなくてすむ。目の前に山積された業務を片付けていると、自分の胸を苛み続けている事実を忘れることができるからだ。逆に言うと、職場で悩む暇もなく多忙に過ごしている時間以外は、亡くなった旦那の記憶がしつこく私を苛む。
その嫌なつらい感情は、一人娘の明日香の面倒をみているときにも容赦なく襲ってくる。
一人娘を育てるためには泣き言を言わないで私が働くしかないの。
私は、実家の両親と妹にそう泣きついた。それは嘘ではない。旦那の収入が途絶えた以上、私が働かないと明日香を育てていけないことは事実だった。でも、そのときの私の本心はそうじゃない。旦那がいない家に帰るのが嫌だった。旦那がいないことで、こんなに心に打撃を受けている自分のことも納得できなかった。
私は亡き旦那に負い目を感じていたのだ。そしてそのこころの負債を、いつか旦那に返済するつもりだった。明日香の成長や心安らぐ家庭を築くことによって。
そんな私の思惑を知ってか知らないでか、そこはよくわからないけど、玲子と両親は仕事にのめり込む私の代わりに、明日香の面倒を見てくれた。特に玲子は大学生になったばかりだったのに、華やかな大学生活を諦めて、明日香の母親代わりになってくれた。明日香は最初心配していたよりずっと玲子に懐いた。最初は私の姿がないと泣きながら必死になって私の姿を追い求めていた明日香は、やがて玲子の姿がないと泣き始めるようになった。久し振りに早く帰宅した私が側にいたのにも関わらず。
今でも、明日香が私より玲子の方を信頼しているのは、その頃の生活のせいだ。つまり私の自業自得なのだ。
こうして私は実家に戻って生活するようになった。といってもほとんどは職場で生活していたようなものだけど。そうして日々を重ねていると、少しづつ旦那を失った悲しみも癒えていくようだった。そして同時に、その頃のあたしは大学時代の失恋とか博人君のことも思い出すことはなかった。
「高木さん。下山先生から電話ですよ」
「あ、うん。わかった」
この忙しいときに。ぎりぎりの時間に取材に出かけようとしていた私は、いらいらしながらデスクの電話を取った。
「高木さん? 申し訳ないんだけどさあ」
ロック音楽評論家の下山先生ののんびりとした声が耳に響いた。
申し訳ないとはどういうことだ。
「締め切りを過ぎちゃってさ。何とか頑張って明後日にはとりあえず」
「先生、何言ってるんですか。先生は来月号は掲載はないですよ」
「そうなの? 僕、何か勘違いしちゃったかなあ」
「はい。先生の次の原稿は十月号ですよ。八月号にはありません」
「そうか。それならよかったよ。忙しいのに邪魔しちゃってごめんね」
「いえいえ。十月号は締め切りを守ってくださいね」
「わかったよ。そういやさ。音楽之友の最新号って見た?」
「見てません。私はクラッシク音楽は所掌範囲外ですので」
「またまた。東洋音大卒のくせに」
「仕事は全くジャンル違いですからね。それより、音楽之友がどうしたんですか?」
「すごくいい記事が載ってるんだって。自社取材なのに、その辺の評論家よりいい記事だったってさ」
「はあ? 先生がクラッシクに興味を持つなんて珍しいですね。どんな記事ですか」
「オーストリアの音楽祭のレポートなんだけど、何だか音楽旅行記みたいで評判いいんだって」
「・・・・・・うちの仕事とは関係なさそうですけど。まあ、そういうのも参考になるのかもしれませんね」
「そうそう。だからさ、僕も読みたいんだけど、自宅に送ってくれないかな」
このハゲ。自宅近くの本屋で買えよ。私はそう思ったけど、もちろん口には出せなかった。それに下山先生の相手をしている時間がもったいない。あとで本屋に寄って音楽之友を買って先生の自宅に送付すれば済むことだ。
「わかりました。十月号の原稿はお願いします」
私は言った。
「あの若造バンドの記事でしょ? 気は進まないけど君のところが押しているなら、おもいきりよいしょしておいてあげるよ」
電話口から先生の笑いが響いた。
取材を終えた私は、実家近くの駅前の本屋に立ち寄った。忘れる前に下山先生のオーダーした雑誌を購入しなければいけない。今日やっておかないと忘れてしまいそうだった。音楽書籍のコーナーに、老舗のクラッシク雑誌が平積みされているのを見つけることはたやすかった。
「おかえり」
実家に帰ると、玲子が明日香を抱いたまま私を迎えてくれた。私の期待に反して、明日香は私のことに興味を示さず、自分を抱っこしている玲子の興味を引こうと必死だった。これは自業自得なのだ。私が娘に好かれようなどと、考えることさえ図々しい発想なのだ。
「明日香さ。今日もいい子だったよ」
「そう。玲子、いつもごめんね。明日香の世話を押し付けちゃって」
玲子が笑った。
「何よ、今さら」
「・・・・・・そうなんだけど」
「早くお風呂入って食事しちゃって。あまり遅いと明日香は寝ちゃうよ。少しくらいはこの子を構ってあげないと」
「うん。ありがと」
・・・・・・でも、私がお風呂から出た時点で明日香は既に夢の国に旅立ってしまっていた。
「今日は明日香も保育園で身体を動かしたんで疲れていたみたい。いつもより早く寝ちゃった」
玲子が申し訳なさそうに言った。
「今日って何かあったの」
「運動会だよ、保育園の」
「えーと。それって誰が」
「あたしが参加した。明日香と二人で一緒にダンスもしたよ」
今度は私が申し訳ない気持ちになる番だった。
「ごめん。あんた講義休んだんでしょ」
「うん。でも、明日香のためだから」
「本当にごめん」
「いいよ」
玲子はさばさばした表情だった。
「姉さんの気持ちもわかるし、立場もわかる。それに、あたしは明日香が大好きだから」
娘と触れ合う時間さえなかった私は、自分の寝室で寝疲れない時間を過ごした。明日香は以前から、母か妹と同じ部屋で寝ている。私は結婚前の自分の部屋で一人で過ごしている。同じ家に娘がいるのに。
もちろん、そのことを恨むのは筋違いだ。普段は滅多に早い時間に帰宅しない私の代わりに、母や妹が明日香と一緒に寝てくれているのだから。
変に目が覚めてしまった私は、さっき購入した音楽之友をめくった。大学を卒業してロックやポップ音楽系の出版社に就職してから、この手のクラッシク音楽の雑誌を読むのは初めてだった。
それはいい記事だった。クラッシク音楽の音楽祭の記事を読むなんて大学を卒業してから初めてだったかもしれない。会場周辺の街路のリアルな表現や多少加えられている地元のグルメ記事も興味をそそられたけど、何より本命の音楽祭における演奏のレポートがすごかった。文字を追ってここまで演奏の表現を想像できたのは初めての体験だった。まるで音楽が文字列の間から浮かび上がってくるかのようなイメージを私は抱いた。
これは下山先生の勘が正しかったのだ。短い記事を読み終わると私は、記事に添えられた写真を未練がましく眺めた。もう一度読み返そうか。こんな感情に囚われたのは就職してから初めてだった。東洋音大にいた頃なら、もう少し違った感想を抱けたかもしれないけど。
ふと、私は記事の末尾を見た。そこには、取材・執筆・撮影:音楽之友編集部 結城博人という署名があった。
翌日、私は取材先に直行した。遅く起きたせいで結構ぎりぎりの時間になってしまっていた。目覚めたときには明日香はおろか、玲子さえ大学に出かけていて、家にいたのは母親だけだった。
「あら、おはよう。今日は遅いのね」
自室のある二階から階下に下りていくと、リビングのソファに座ってテレビのニュースを見ていた母親が私に声をかけた。
「ああ、うん。今日は直行だからぎりぎりセーフ」
「朝ご飯食べていくの?」
「ううん。そこまで時間ないからいいや。もう行くね」
母にそう答えながら、私はこんな自分を情けなく感じた。これでは独身時代とか学生時代とかと一緒だ。結婚して明日香を産んだのに、私のやっていることは母親の行動じゃない。いくら、稼がないと生活できないという言い訳をしたとしても、大学生なのに朝明日香を送ってくれている妹への言い訳にはならない。それは、朝食を用意し夕方に保育園に迎えに言ってくれている母親に対しても同じだ。家族は私を責めない。むしろ旦那を亡くした私を気遣い、家族総出で私を助けてくれている。
こんなことじゃだめだ。いつまでも玲子や母に甘えてはいられない。そう思った私はいつものとおり、思考を停止せざるを得なくなる。では、どうすればいいのだ。仕事をやめれば、明日香の面倒はみられるけど、それでは食べてはいけない。実家に100%寄生するつもりなら別なのだろうけど、それは一度実家を離れて外に家庭を持った私が選んでいい選択肢ではない気がする。
直行した取材先のスタジオで、新しいアルバムの曲を録音中のバンドのメンバーのインタビューを終えた私は、帰社する前に食事をしようと考えた。もう、夕方だし今日は朝から何も食べていない。帰社してから自分を待っている仕事の量を考えると、なるべく時間をかけずにお腹を満たすべきなのだろう。ちょうど、スタジオの入っている雑居ビルの一階に、なんだかクラッシックな雰囲気の喫茶店があるのを見つけた。店の古びたショーウィンドウには、サンドイッチやスパゲッティーのメニューが表示されていた。
ここでいいか。私はそう思って店に入った。
意外と老舗なのかもしれない。革張りの椅子や磨きこまれたテーブルをを見て私はそう思った。ただ、メニューを開くと半ば予想していたとおり、喫茶店のメニューらしく食べ物はミートソースとナポリタン、それにハムサンドくらいしか見当たらない。私はコーヒーとサンドイッチを注文してから、音楽之友の最新号の欧州音楽祭特集記事に再び目を通した。
何度読んでも秀逸でいい記事なのだけど、私の目に留まるのはやはり記事の最後の署名だった。
「取材・執筆・撮影:音楽之友編集部 結城博人」
ふと気がつくと目の前にコーヒーとサンドイッチが並べられていた。運ばれたことを完全に覚えていないくらい、私は結城博人という名前を凝視していたらしい。コーヒーが既に冷めていたことを考えれば、その時間は相当なものだったのだろう。
でも、無理もない。私は自分に言い訳した。何しろ、亡くなった旦那と出会うまで、私は幼馴染の博人君のことだけを、本当に彼のことだけを見て、追い続けてきたのだから。
人に聞かれたら鼻で笑われるような恋だった。幼い頃に家が隣同士だった私と博人君は、小学校低学年の頃まではすごく仲が良かった。小学校の登下校も、放課後もいつも二人きりで、過ごしていた。特別な何かがあったわけじゃない。彼に優しくされた思い出とか、辛いときに慰められた出来事とかも、多分なかったはずだ。私は博人君のことを好きだったけど、本当にその想いを自覚できたのは、父の転勤に伴って他県に引越しをして、彼と会えなくなった後だったのだ。
さよならとか、わすれないでねとか、手紙を書くよとか電話をするとか。そういう話はあったのかもしれないけど、今では別れの様子はあまりよく覚えていない。博人君のことが好きだったけど、本当に自分の感情を自覚したのは、別れがあったからじゃないかと思う。子どもだった私は、かけがいのない人を失ったことよりも、電車に乗って遠い土地に引っ越すというその行為自体にわくわくしていた。今にして思うとバカそのものだ。せめて、もう会えなくなるとわかっていた彼に対して、好きの一言ぐらいは言ってもよかったのに。いくら幼なかったにしても
その代償か、その後私は小学生高学年、中学生、高校生、その間、ずっと博人君を失った事実を引きずっていた。告白されたことは何度かあった。正直に言うと自分が気になっていた男の子から告られたことさえあったのだ。でも、そういうとき脳裏にまだやんちゃな小学生だった博人君の姿が目に浮かぶ。それだけで、私にはもう無理だった。
だから、奇蹟的な偶然で大学で博人君と再会したときは、自分でも押さえようもないくらいに興奮した。一応、冷静に対応しようと試みて多分それは出来たはずなのだけど。
博人君の方は冷静だった。少なくとも私にはそう見えた。
「結城君」
ありえないはずの偶然で、キャンパス内で見つけた幼馴染の背後で、私は彼に呼びかけた。私はひどい様子だったに違いない。ひょっとしたら泣いていたかもしれない。
「・・・・・・もしかして理恵ちゃん? 神山さんちの」
ようやく彼が驚きから冷めた様子で声を出した。
「うん。博人君でしょ。わぁー、すごい偶然だね。同じ大学だったんだ」
動揺を必死になって押し隠して私は声を出した。
「久し振りだね」
博人君は私に微笑みかけた。
これは奇蹟だ。私はそう思った。長い間別離していた二人が再会する特別な奇蹟なのだ。私はその後も博人君に攻勢をかけることはできなかったけど、彼を見かけたらその側に近づいて話しかけることくらいは継続して行った。そのうちに彼に告白するのだと自分に言い聞かせながら。そのうち、私と彼はキャンパス内で出会えば一緒に話し込む仲になった。幼い頃と同じように。私は彼と一日のうち出会った五分間だけ話せることにも幸せだった。
麻季ちゃんが博人君の気持ちをさらっていくあの日までは。
「・・・・・・あれ? ひょっとして神山先輩ですか」
喫茶店で、冷めたコーヒー前に物思いにふけっていた私は、誰かの声に思考を中断させられた。
「わあ。懐かしいな。覚えてます? 大学の後輩だった結城麻季です。旧姓は夏目ですけど」
話しかけれれた私の目の前には、綺麗な女性が立っていた。夏目麻季。今では博人君の奥さんになっている女性だった。
「え・・・・・?」
「先輩、ひょっとしてあたしのことを忘れちゃったんですか」
・・・・・・そんな訳はない。忘れられるものなら忘れたいと思ったことは何度もあるけど、私の人生を通じてほとんどの時間、彼女のことは忘れられなかったのだ。唯一、旦那と出会って付き合いだし、結婚し、明日香を身ごもった頃だけは、博人君のことを思い出すことはなかったけど。
「覚えてるよ。麻季ちゃん、お久し振り」
「何年振りでしょうね。先輩、同席させてもらってもいいですか」
博人君との過去を思い出していた私は、その博人君の奥さんと同席し、二人の幸せな生活の話を聞かされるのは正直、気が重かったけどここで同席を断る方が奇妙に思われるだろう。ひょっとしたら私がまだ麻季ちゃんの旦那に気があると思われかねない。そう考えると、私は麻季ちゃんに微笑みかえるしかなかった。
「もちろんいいよ。どうぞ」」
本当にこれは何という偶然なのだろうか。麻季ちゃんは私の向かいの椅子に座ると、慣れた様子でこの店のオリジナルブレンドをオーダーした。
「ここのブレンドって美味しいですよ」
麻季ちゃんが言った。
「この店によく来るの?」
「ええ。旦那の会社の近くですから。旦那を迎えに来るときとか、よくここで待っていました」
音楽之友社がこの近くにあったとは思わなかった。偶然、私は博人君の勤務場所の近くに来ていたようだった
「そうだよね。君は大学時代から旦那さんのことが大好きだったもんね」
「今でも大好きですよ」
落ち着き払って麻季ちゃんが言った。
「それは確かに、離婚されそうな状態だし子どもの親権まで争っていますけど、博人さんのことは本当に今でも誰よりも大好きなんです」
「何で泣くのよ」
泣きたいのはこっちの方よ。
「というか、離婚されるとか親権とかどういうことなの?」
私は麻季の言葉に混乱していった。麻季と博人君は幸せな家庭を築いていたのではなかったのか。
「先輩、あたしの話し聞いてくれますか」
「聞くよ」
私は即答した。いったい二人の間に何があったのか。麻季に言われなくても私にはそれが気になってしようがない。
「先輩?」
「うん」
「全部ね。全部、怜菜のせいなの」
こちらを見つめる目の中に、不思議なほど透明な涙を湛えて彼女が言った。
「・・・・・・ちょっと。こんなところで泣かないでよ。目立ってるじゃない」
「ごめんなさい」
「でもさ、あんたと博人君って結婚したときはラブラブだったじゃない。それが離婚とかいったい何があったの?」
「ラブラブ? 先輩は本当にそう思ってたんですか」
「え。違うの?」
「・・・・・・質問を変えましょう。先輩は何であたしに博人さんを譲ってくれたんですか」
「譲るって。あんた。相変わらす意地が悪いね。彼は君を選んだんでしょ。そんな私に何が出来たっていうのよ」
「本当に好きなら。博人君を本当に愛していたのなら、できることはあったんじゃないですか」
ふざけんな。私は彼女の涙を忘れるほど憤った。上から目線にも程度というものがあるだろう。確かに私は博人の気持ちを麻季に持っていかれた。そのことは確かなんだけど、その当事者の麻季に面と向かってはっきり言われると腹が立つ。
「そういう意味じゃないです」
私が怒り出すより先に彼女は言った。
「先輩が思っているような意味じゃないです」
「どういうこと?」
「怜菜のことです」
私は聞いた。その答えは意外な話だった。あの怜菜が博人君のことを好きだった。愛していたと言うのだった。
「どういうこと? 怜菜は君の親友だったんでしょ」
「そう思ってましたよ。少なくとも私はね」
「いったいどうしたの? あんたと怜菜は」
「どうもこうもないです」
どうもこうもない。というか私は今何をしたいのだろうか。今さら大学時代の博人の恋愛事情を知ったからといってどうしようもない。
「常識的に考えて、自分の娘に、自分が片想いをしていた相手の息子の名前にちなんだ名前をつける親って、どう思いますか」
「どうって。そんな人は普通はいないでしょ」
「いたんですよ」
麻季が半ば泣きながら微笑んだ。
「怜菜の一人娘の名前は奈緒です。うちの息子は奈緒人というんですけどね」
私は言葉を失った。
・・・・・・そもそも、私の知る限りでは、怜菜は私と同じで博人君を諦めたはずだった。つまり、博人君を麻季に譲ったのだ。
その瞬間に私は思った。怜菜は天使なんかじゃない。博人君に執着する醜い女だったのではないか。私は麻季が嫌いだ。大嫌いだ。それでも彼女が博人君に縋りつきたいと願う気持ちは理解できる。それは、私の願望と一緒だったからだ。でも、なんで怜菜が? 彼女は麻季のために身を引いたのじゃないかったのか。彼女らしく友人や博人君の感情を慮ってに。
「あたしと博人君の仲が危うくなったとき、怜菜は旦那に接近しました。まるで聖女のように、天使のように自分を取り繕って」
このときの麻季の涙は偽りではなかった。彼女が正しいかどうかはわからないけど、少なくとも彼女の言動は自らを偽った態度ではなかった。
「それってどうなの? 聖女のようにってさ。あんたは怜菜の気持ちとか」
私は少しだけためらった。
「・・・・・・私の気持ちとか少しも考えなかったんでしょ? あのときは」
「そう言われてもしかたないと思います。あのときは」
「じゃあ、今さら何言ってるのよ。怜菜とか私とか博人君に振られたのに。優越感? 博人君が君を選んだんでしょ。それだけで満足してればいいじゃん」
「ある意味ではあたしと先輩は立場が同じなのかもしれません」
「何言ってるのか理解できない」
私は麻季に負けたのだ。それだけは確かな事実じゃないの。私はそう思った。
「立場は一緒だと思います。怜奈に負けたという意味では」
私は最初は麻季が何を言っているのわからなかった。私が負けたというのなら麻季本人だろう。博人の心を掴んで独り占めしたのだから。
でも、彼女の話は私が考えていたほど単純ではなかった。
「怜菜のことなんです」
麻季がそう言った。
あたしはこのとき少しだけ自分を取り戻した。大学時代を思い出せば、被害妄想で博人君を振り回していたのは麻季の方だ。
一瞬、あたしの脳裏に怜菜の姿が浮かんだ。確かに私は麻季の話を聞いたとき、怜菜のことを疑ったのだった。彼女は天使のような女の子じゃなかったのではないかと。でも、よく考えれば麻季と怜菜のふたりのうち、どちらが信頼できるかと考えれば自ずから結論は出た。メンヘラ女だったのは麻季の方だ。気まぐれな感情に身を任せ、博人君を振り回していたのは麻季だったじゃない。
私は怜菜に対する疑いを捨てた。これは全て有希の行き過ぎた被害妄想だとわかったから。
「怜菜のことはいいよ。それよか、麻季って結城君と離婚するの?」
絶対に別れません。どうせ、麻季からはそんな言葉が返されると予想していた私は、彼女の言葉に驚いた。
「言ったじゃないですか。離婚とか親権とか。別にふざけて言ったわけじゃないです。彼とは本当に離婚調停中なんですよ」
麻季が平静な態度でそう言った。
「ちょっと待て。あんたは博人君のことが好きだったんじゃないの?」
「ふふ。過去形で言われるなんて、ちょっと嫌だな」
麻季が微笑んだ。
「何よ」
「これまでも。今も、これからも、あたしが愛する男性は夫だけです」
「夫って」
「ごめんなさい、わかりづらくて。博人君だけ」
「あのさあ。怜菜ちゃんは確かに博人君のことが好きだったのかもしれない。でも、それはもう過去の話じゃないの?」
「・・・・・・先輩」
「うん」
「自分の娘の名前に、奈緒なんて名付ける母親がいたとして、その母親が奈緒人の父親の子とをもう過去のこととして消化しているなんて、先輩なら信じますか? 仮に先輩が奈緒人の親だったとしたら」
私はそれにはすぐに返答できなかった。
「・・・・・・何で怜菜は自分の娘にそんな名前を付けたの?」
「どう考えても理由は一つしかないですよね」
「いや、それおかしいでしょ。と言うかよくそんな名前を鈴木先輩が許したよね」
「奈緒生まれて名前を授けれらる前に、怜菜は鈴木先輩と離婚していましたから」
「・・・・・・何で、怜菜は鈴木先輩と離婚したの」
「それは」
「何よ。何で黙っちゃうの」
「・・・・・・多分、話しても信じてもらえるかわからないから」
「ここまで話しておいて何よ。言ってよ」
「じゃあ、話します。多分、先輩には嫌われちゃうと思うけど、言います」
「・・・・・話してみ」
「怜菜の離婚原因は、表面的には旦那さんの不倫です」
「そうか。まあ、あの鈴木先輩なら有りえる話かもね」
「でも、本当の離婚理由は違うと思います。怜菜は、博人君のことを狙っていたんです」
「それは考えすぎなんじゃないの」
また、この子の思い込みが始まった。私はその時はそう思ったのだ。
「そうでなきゃ理解できないんですよ。怜菜の行動って」
「行動って? 名前のこと?」
「それが一つです。離婚後に出産した自分の娘に、奈緒なんて命名をしませんよね? 普通は」
「・・・・・・それで?」
確かにそうだと思いながら、私は次の根拠を促した。
「もう一つは怜菜の死です。彼女は娘を・・・・・・奈緒ちゃんを暴走車から庇って事故死しました」
「え。怜菜って亡くなったの?」
「はい。彼女の大切な奈緒を庇って死にました」
私は麻季の話に衝撃を受けた。あの明るく聡明な怜菜はもういないのか。混乱している私の感情にはかまわず、麻季が話を続けた。
「怜菜は生前、奈緒の出産前に博人君に接近して、私と鈴木先輩が不倫していることを博人君に言い付けたんです。それで、あたしと博人君は今、離婚調停中なんですけど」
「だけど、あたしは博人君のことが好き。別れるつもりなんかなかったんです。それなのに」
麻季が涙を流した。
「怜菜に、博人君にそれを言い付けられたらもうどうしようもなかった。だから、あたしは最善の道を選んだんです」
この子は何を言っているのか。私は混乱した。麻季の不倫。その相手は怜菜のご主人の鈴木先輩。これだけでも非は麻季にあるとしか思えないではないか。何で麻季はこんなに被害者面をして怜菜を非難しているのか。
「怜菜はあたしから博人君を奪おうとして、自分の旦那の雄二さんにあたしを誘えって密かに示唆してたんですよ。そのうえで、博人君に会って旦那に浮気されて可愛そうな自分をアピールしてた。それでも効果がなく、博人君があたしを選んだことを知った怜菜は、最終手段に出たんです。自分の娘に奈緒人の名にちなんだ命名をすること。タイミングを計って自殺して、博人君の思い出の中に自分を永遠に焼き付けること。最後に、自分が果たせなかった想いを自分の娘に託すこと」
「あたしはついこの間、博人君に会って全てを告白しました」
麻季がそう言った。
「博人君の方こそ逃げないで考えて。怜菜が何で雄二さんと結婚したか。怜菜が何で雄二さんにあたしと接触するよう唆したのか。何で怜菜はあたしと雄二さんの浮気を責めずに黙って離婚した挙句、あたなに会って愛の告白みたいなことをしたのか」
「怜菜の死が不幸な偶然だと信じ込んでいるのね」
「相手が神山先輩なら恐くない。でも死んだ怜菜にはあたしはどうしたって勝てないもの。自業自得なことはわかってるけど博人君とやり直せない以上、奈緒人と奈緒は一緒には過ごさせない。でもあんなでっちあげた内容ではあなたに勝てないことはわかってた」
「だからあたしは雄二さんに再び近づいたの。博人君の心は怜菜から奪えないかもしれないけど、雄二さんをあたしに振り向かせるのは簡単だったわ。そして奈緒の実の父親である雄二さんなら、奈緒の親権は勝ち取れるかもしれない」
「本当に心配しないで。今でも怜菜のことを愛していて彼女のことを忘れられないあなたに約束します。奈緒のことは愛情を持って育てるし不自由だってさせない」
「今でもこの先もあたしはずっと博人君だけを愛してる。でももう他に方法がないの。だからもうこれでいいことにしようよ」
「あたしは自分のしたことの罪は受けます。凄くつらいけどあなたがあたしを許してくれるまではもう二度と奈緒人には会いません。だから奈緒のことだけはあたしに任せてちょうだい」
博人君に対して向けた言葉と感情の全てを話し終えた麻季は最後に付け加えた。
「奈緒人のことよろしくお願いしますって、博人君にお願いしました。あたしは、もう奈緒のことだけを幸せにしようと思います」
麻季は顔を上げて改めて私を見た。
「先輩にお願いがあります」
「何?」
「怜菜はもういません。あたしも、今後は奈緒を引き取って雄二さんと生きていくことになります」
だから何。これだけの秘密を聞かされてしまった私は、すぐには新しい話題には対応できなかった。麻季の話が自分の中で消化しきれていなかったのだ。
「先輩のご主人は亡くなられたってお聞きしました」
「知ってたの?」
ほんの一瞬、亡くなった旦那のことを思いだして胸の奥がちくりと痛んだ。
「先輩は博人君と幸せな家庭を築いてください。奈緒と先輩のお嬢さんと、博人君と先輩の四人で新しい家庭を」
「あんた。いったい何を言ってるのか自分でわかってるの」
「わかってます。奈緒人と奈緒を不幸にしないためなんです」
「それに」
いつの間にか麻季が涙を流していることに私は気づいた。
「それに。先輩と一緒になったら、あたしと一緒にいるより博人君は幸せになれます。だから先輩。お願いします」
泣きながら麻季は私に向かって頭を下げた。
にわかには言葉どおりに信じられない話だった。私は帰社してからも、仕事を終えて深夜に実家に帰宅してからも、麻季の話とその非常識な提案について、考え続けた。
予想どおり、娘は妹と一緒に寝入ってしまっていた。でも、このときの私はそれを寂しく思うよりも今日聞いた麻季の話ばかり気にしていたのだった。
麻季と怜菜。本当に博人君を苦しめたのはどちらなのだろう。私は麻季のことが嫌いだった。博人君の気持ちを奪われたからだけではない。こんな、メンタルな女の子では博人君を幸せにはできないだろうと思ったからだ。
麻季に関しては、それは間違いようもない事実だった。メンヘラ女は、付き合いだした頃に博人君を振り回しただけではなく、二人の間に息子を儲けたのに、麻季は鈴木先輩と浮気したのだ。
私は怜菜と親しいわけではなかった。それでも、麻季が怜菜を気にした理由は本当によく理解できる。私はほんとんど怜菜と話をしたことがなかったのだけど、麻季が怜菜に対して嫉妬した理由は理解できるような気がした。多分、大学時代の麻季の強烈なアプローチがなければ博人君は麻季と付き合ったり、結婚したりすることはなかっただろう。自分のことを横において考えれば、博人君の好みは麻季よりも怜菜なのではないか。
本当に悪いのはどちらだろう。麻季か、それとも怜菜か。
麻季とも怜菜とも大学時代にはそんなに親しいわけではなかった。学年も下だしサークルだって違う。私が麻季を認識したのは、博人君を巡る敵としてだったし、怜菜に至っては麻季の親友らしいということで、私は辛うじて大学時代に彼女を知っていただけだった。
それでも私は怜菜のことは嫌いではなかった。麻季はいい意味でも悪い意味でも自分勝手と言える。彼女は自分の気まぐれで周囲を振り回す。博人君を含めて。でも、そこには悪意はないんだろうと私は考えていた。でなければ、あの博人君があそこまで麻季に入れ込むはずがない。いい意味でもと言ったのはそういう理由だ。
その麻季の言葉を信じていいのだろうか。怜菜は本当に見かけどおりの純真な女ではなく、博人への執念の塊なのだろうか。麻季以上にメンヘラで執念深く博人君のことを求め続けていたのだろうか。自分が結婚した後までも。いくら考えても答えは出そうにない。麻季の感情的な主観を判断材料にすべきじゃない。だけど、麻季が話した事実そのものは判断材料にすべきかもしれない。
奈緒。奈緒人という名前から二字だけを取って付けられた名前。それから怜菜が鈴木先輩に麻季との不倫をさりげなく勧めるようなことをしていたらしいこと。真実は検証のしようもないけど、この二つが真実なら、麻季と鈴木先輩がとたとえ不倫の関係だったったとしても、鈴木先輩の奥さんだった怜菜のしたことは最低だし、それに関して麻季が責められるいわれはないのかもしれない。
しかし、いったい本当なのだろうか。麻季が嘘をついているとは思わない。彼女は昔から思い込みが激しく、自分が信じたことだけが真実だと確信し、その考えを基にして行動する女だった。だから、周囲からは外見は綺麗だし可愛いけれど、エキセントリックな性格の女だとも思われていたのだ。正直、私だってそう考えていた。その考えは今でも変わらない。ただ、それは逆に言うと麻季は嘘をつかない子だという証左になる。少なくとも麻季の主観的な観点で言うと、彼女は嘘をつかないのだ。それが事実かどうか、真実かどうかは別にして。
麻季は嘘はついていない。そしてそれが事実かどうかは今の私には判断できない。それでも、麻季の言葉が実際に起こったことだと仮定するとどうなのだろう。
怜菜は、博人君のことが大学時代から好きだったけど、その気持ちを告白する前に、親友の麻季が博人君に告白し麻季と博人君は恋人同士になった。怜菜は麻季の元彼(?)の鈴木先輩と卒業後に再会し、二人は結婚した。
ここまではいい。この先は完全に麻季の主観になる。
怜菜は、旦那になった鈴木先輩に麻季の情報を与え、鈴木先輩が麻季に接触するように働きかけた。その結果、鈴木先輩と麻季が不倫の関係になると、怜菜は博人君に接触し、二人が不倫関係にあることを示唆した。怜菜の行動にも関わらず、博人君が麻季を許し、やり直そうと努力する姿を見て、怜菜は鈴木先輩に離婚を切り出した。つまり、彼女は最後のカードを切ったのだ。
鈴木先輩と離婚した怜菜は、一人で娘を出産する。そして、彼女は娘に奈緒という名前を授けた。ただ、彼女の娘の名前は彼女の生前は博人君に伝えられることはなかった。
麻季の被害妄想的な話にあって、一番説得力があるところがここだった。娘の命名に当って、奈緒人の名前を知っていた怜菜が、奈緒という名前を選んだ。さすがに単なる偶然では片付けられない。いったい怜菜は自分の娘に名付けるにあたって、どういう感情を胸裏に思い浮かべたのだろうか。
麻季の話で説得力のあるのはここまでだった。逆に、怜菜の死を自殺だと断言した麻季の話は全く信用できない。さすがにこれは自殺するほどの話ではないだろう。まして、聞いている限りでは、怜菜は娘を庇って事故死したと言うのだ。それは博人君の思い出の中で自分が永遠に生きるために、自分の生命だけでなく一歩間違えば奈緒まで死に至らしめたのかもしれない行為なのだ。そんなことを普通の母親が出来ることではない。
怜菜は彼女に対してそれほど面識がない私が考えていたように、清純で裏表がない天使のような女の子だったのだろうか。それとも、麻季が言うように自分の感情のためには娘さえ犠牲にするようなどうしようもないビッチだったのだろうか。
私は自室の時計を見た。もう日付けが変わっている。このとき、別れ際の麻季のセリフが心に浮んだ。
「先輩。博人君は今では異動して、音楽之友の編集部にはいないんですよ」
「そうなの? つうか何で私にそんなことを言うのよ」
「彼は今はジャズ・ミューズっていうジャズの専門誌の編集長なんです」
どういうわけか誇らしげに麻季がそう言った。編集長というところを強調して。
「博人君ってジャズよりも」
「そうなんですよ。彼はクラッシク音楽研究が専門でしたしね」
麻季が誇らしげな表情を変えて、何だか切ない泣きそうな顔で私を見た。
「ジャズ雑誌なら、先輩の勤めているポップミュージックの雑誌とも少しくらいは共通点があるんじゃないですか」
翌日、出社した私はスケジュールをチェックした。直近だと明日に交流パーティーがある。私はその担当を呼んで招待者リストを見せるように言った。博人君の名前もそのリストの中にあった。
「音楽之友社 ジャズ・ミューズ 編集長 結城博人」
大学時代の再会と違ってこれは奇蹟でもなんでもない。博人君が出席するであろうパーティーに、デスク権限を振りかざして、出席予定の部下の代わりに自分が出席するように調整しただけなのだ。
その夜。いつ博人君に会えるのか、落ちつかない気持ちでょろきょろと辺りを眺めていた私は、そこに探し続けていた人の姿を見つけた。パーティー序盤にも関わらず彼は帰ろうとしているようだった。私はビジュアル系のバンドのメンバーと談笑している下山先生を放置して、博人君の方に近づいていった。
高鳴る胸の動悸を意識しながら私は彼の側に寄った。深呼吸してから、私は自然に驚いたような表情を作って彼に話しかけた。
「博人君」
自分の名前を呼ばれた彼が振り返った。
博人君は驚いたように私を見た。
自分の名前を呼ばれた博人君が呆けたように私の方を見ていた。私は緊張感が極限まで高まっていたけど、無理に自分を制御し、彼の方を見て微笑んで見せた。
「・・・・・・理恵ちゃん」
博人君がようやく私の名前を呼んだ。
「わぁー、すごい偶然だね。博人君ってこういうところにも顔出してたんだね」
私が話しかけているうちに、彼の方も冷静さを取り戻したようだった。
「久し振り」
博人君はようやく眠りから覚めたように私を見つめてそう言った。
私は人ごみから抜け出して、彼の側に寄っていった。
「少し話そうよ・・・・・・・それとももう帰っちゃうの」
「少しなら時間あるけど」
この機会を逃したら、もう真実を知ることはできないのかもしれない。知らなくってもいいじゃない、亡くなった旦那のために娘のことだけを気にしていれば。一瞬、そういう思いが胸をよぎったけれど、私は結局博人君を誘った。
私は博人君と再会した次の日の夜、私は彼と待ち合わせし、彼と結ばれた。
待合わせをした居酒屋で、麻季に出会った。偶然かどうかはわからない。麻季は鈴木先輩ではない知らない男とべたべたしていて、それは彼女が博人君と私が一緒にいるところを見つけた後も変わらなかった。だから私は博人君にキスをして、その様子を麻季に見せつけた。麻季の目に涙が浮んでいて、その様子は博人君にもわかったのだけれど、私たちが店を出て行く際、博人君が会計をしているときに私は再度、麻季の方を見た。
麻季は相変わらず男の肩に寄り添うようにしなだれかかっていたけど、私と目を合わせた彼女は涙を拭きながら、私に向かって微笑んだ。
そう。それでいいんですよ、先輩。
頭の中で麻季の声が私にそう言った。
私と博人君の再婚が決まってからも、博人君の二人の子どもを巡る争いは泥沼だった。全く出口が見えないのだ。
最初は二人の子どもの親権を求めていた麻季は、やがてその主張を取り下げて新しい要求を出してきた。奈緒人君の親権を放棄する代わりに奈緒ちゃんの親権を要求すること。
博人君や唯ちゃんはその要求に驚いただろうけど、私はやはりそう来たかと考えただけだった。麻季が今一番恐れているのは、博人君を亡くなった怜菜に奪われることだ。
「デスク。結城さんという方から電話です」
「ああ、うん」
「4番に回します」
博人君だろか。このときはお互いの両親にも再婚を報告していたし、奈緒人君、奈緒ちゃんと明日香の顔合わせも終っていた頃だった。お互いに再婚なので式はあげないことになってはいたけど、いきなり五人家族になるので一軒家を購入しようという話になっていた。その話かもしれないな。ただ、博人君はいつも携帯に電話をくれるのに社に電話とは珍しい。
「はい。高木です」
「お仕事中にごめんなさい。麻季です」
完全に油断していた。離婚前なので、麻季はまだ結城姓を名乗っていたのだ。
「ああ。麻季ちゃん」
「今、少しだけいいですか」
「別に平気だけど」
「博人君と順調にお付き合いしているみたいですね」
「・・・・・・うん」
「何だか嫉妬しちゃうなあ」
「ふざけんな。あんたがけしかけたんでしょ。それにあんたと博人君は離婚調停中で夫婦関係は破綻しているじゃない。文句を言われる筋合いはないよ」
「文句なんか言うわけないじゃないですか」
「・・・・・・いったい何の用なの」
「あたしね。昨日、博人君と会って一緒にあそこの居酒屋でお酒を飲んだんです」
一瞬、血の気が引くような感覚に襲われた。博人君と麻季が二人きりでデートをした?
まさかこの二人のよりが戻ったのか。
「神山先輩は心配しなくていいです。私と博人君がよりを戻すことなんかありえませんから。残念ですけど」
「いったい何なの?」
「昨日、私は博人君と合意できたと思います。多分、これで長かった調停も終わりになると思うんです」
麻季が落ちついた口調で言った。
「合意って? あんた、奈緒ちゃんの親権を諦めるの?」
「逆です。博人君は、多分奈緒の親権をあたしに譲ってくれると思います」
「そんなわけないでしょ」
私は言下に否定した。
「何でですか」
「奈緒人君と奈緒ちゃんは本当に仲がいいの。あの二人を引きはがして別々に育てるなんて犯罪だよ」
「仲がいいからそうするんですよ。わかりませんか」
「全然わからない」
「博人君は理解してくれましたよ」
「んなわけないでしょ」
私は吐き捨てるように言った。そんなことはありえない。あの仲の良い二人を本当に愛している博人君なら。
「奈緒人と奈緒はお互いにお互いのことが好きすぎますからね。このままじゃ怜菜の思う壺じゃないですか。先輩はそれでもいいんですか」
「何の話よ」
「怜菜の自殺の理由。怜菜は自分の果たせなかった夢を娘に託したんですよ。自分と博人君は結ばれなかった。せめて、奈緒人と奈緒を付き合せたかったんでしょうね。自分の子どものことを、そしてあたしの大切な奈緒人のことを何だと思ってるんでしょう。まるっきり道具扱いじゃないですか」
私はこのとき何も反論できなかった。本当に何も。冷静に考えれば自分の娘に、自分が片想いをしていた男の息子の名前にちなんで命名することなんかありえない。
「先輩は博人君の決定に従ってください。奈緒人は博人君とあなたに任せますから、奈緒はあたしに任せてください。それで、縁があれば奈緒人君と明日香さんが付き合うことになるかもしれませんよ」
私は電話を置いてからしばらくの間、ずっと考え込んでいた。
博人君がその決断をした結果、私と博人君の双方の実家から祝福されていた私たちの再婚は、双方の親から反対されることになった。いや。もういい年で自活できているのだから両親のことはいいとしても、それまで私と博人君のことを積極的に応援し、双方の両親の根回しまでしてくれていた唯ちゃんと玲子の反対には、正直堪えた。
博人君のことを大好きだった唯ちゃんは彼に絶縁を申し渡した。無理もない。麻季が子どもたちを放棄して以来、奈緒人君と奈緒ちゃんの面倒を看てきたのは彼女だった。その彼女が、仲のいい兄妹を引きはがすような結論を出した博人君を許すはずはない。
そう。彼女は怜菜の意図を知らないのだから。
妹の選択は、もっと私を悩ませた。彼女は言った。
「お姉ちゃんが何を考えているのかわからない」
「玲子」
「それ以上に結城さんが何を考えているのかわからない。短い間だったけど、あたしは奈緒人君と奈緒ちゃんと仲良くなったから。だから、何であの人が二人を引きはがそうとしているのかわからないし、それを認める結城さんと、その結城さんの決定に従う姉さんのことがわからない」
私は一言だって玲子に言葉を発することができなかった。ただの一言も。
「でも。あたしは明日香の面倒を看るよ。姉さんが何を考えているのかわからないけど、明日香はあたしの大切な娘だもん」
それでも玲子は子どもの面倒を看ると言うのだ。明日香は私の娘だ。でも、そんなことくらいで反論できる育児の実績も根拠も、今の私にはないのだ。
「奈緒人君もあたしが引き受ける」
妹がそう言った。それは違うでしょ。麻季の息子であるにしても、博人君の実の子どもであることは間違いない。彼のことは私が責任を持って面倒を看るべきなのだ。
「だって姉さんには無理でしょ」
実際にそのとおりだった。
その後、私と博人君は再婚し、奈緒人君と明日香は兄妹の仲になったのだけど、その過程で双方の親族からは村八分のような扱いを受けることになった。うちの実家も含めて。
私は麻季の話に半ば洗脳されていたのかもしれない。確かに、自分の娘に奈緒なんて名前を命名する女はそうはいないだろうから、ある程度までは怜菜の気持は麻季が確信していたとおりなのではないかと私は考えていた。
妹に言われるまでもなく、この当時のあたしの目標は博人君と結ばれることだったから、麻季の話の多少の荒は目を瞑ろうと思ったのだ。ひょっとしたら奈緒ちゃんには可愛そうなことになるのかもしれないということを理解したうえで。
私は別に奈緒人君と奈緒ちゃんが結ばれることを恐れていたわけではなかった。麻季は脅迫的にそのことを恐れていたみたいだけど、私は違う。怜菜と奈緒は違う人格だし、博人君と奈緒人君だって全く違う人格だ。奈緒人君と奈緒ちゃんがたとえ結ばれたとしても、それは博人君と怜菜が結ばれなかったことへの代償行為になるわけではないのだ。
それにこれからは家族四人で仲良く暮らすのだし、奈緒人君だって奈緒ちゃんのことを忘れる日が来るだろう。そうしたら、博人君とあたし、奈緒人君と明日香の四人で仲のいい家族を築けばいいのだ。私は、麻季の働きかけに乗ったわけじゃない。自らの意思でこの家族を築いたのだ。私はその時はそう思っていた。
奈緒人君が奈緒ちゃんのことを忘れるのは早かった。というかそれは忘れたというより記憶を消去させられたみたいだった。それは記憶喪失に近かった。麻季と奈緒の記憶が奈緒人君から完璧に失われたことに、最初に気がついたのは玲子だった。さすがに様子がおかしいと思った玲子は、私にではなく博人君に相談した上で、奈緒人を総合病院の小児精神科に連れて行った。妹の話によると、診断はつかず病名もはっきしりしなかったそうだ。一時的な外因性のショックのせいで、彼は記憶の一部を事故遮断したのではないか。医師はそう言ったらしい。それは人間の自己防衛機能の一種だ。トラウマとかPTSDとかの類いらしい。こういう経験を記憶から遮断するのは大人より子どもの方が巧みなのだという。
理屈はわかっても対処方法はなかった。あたしは自分が博人君や麻季に加担したことで、奈緒人君の記憶喪失の原因の一端を担ったのではないかと思った。こうなったら救いは明日香だけだった。明日香は奈緒ちゃん同様可愛らしく育っていた。奈緒人君が明日香と仲良くなり、そして将来彼らが結ばれれば奈緒人君も救われるのではないか。あたしはそれだけを期待していた。もう、怜菜のことなど気にする余裕すらなくなっていた。
そんな私の思い込みに反して、明日香と奈緒人君の仲はうまく行かなかった。小学校の高学年に達した頃からだろうか、明日香は反抗的になった。博人君ばかりではなく私にも。中学生になった頃、彼女は服装が派手になり生活が乱れ始めた。仕事で忙しかった私に代わって、玲子は何度も中学校の担任の先生に呼び出され、注意されたらしい。この頃は、もう玲子も大手の出版社に就職していた頃だったので、本当は私が行くべきだったのだけど、玲子は明日香と奈緒人君のことに関しては全て引き受けてくれていた。文句も言わずに。
新年早々、仕事の帰りに玲子と落ち合って食事をすることになった。よくないことだけど、最近では二人を家庭の放置する日々が続いている。高校生と中学生なのだから留守番くらいは出来るだろうけど、何日も連続するのは心が痛む。痛むけど、現実的に博人君も私も仕事の都合がある。帰宅は深夜になるのが普通で、朝だけは睡眠時間数時間で頑張って起きて朝食を作り子どもたちと共にすることはあったけど、最近ではそれすらまれになっていた。
「玲子」
「姉さん、ごめん。呼び出しちゃって」
「今夜は旦那が早目に家に帰るって言ってたから大丈夫だよ。それよか電話じゃすまない用?」
「うん。明後日から取材で北海道に行くのね。だからこれ渡しておこうと思って」
私は玲子から二枚の紙片を受け取った。
「去年の年末に明徳高校と明日香の中学校に面接に行ったのね。そこで担任から渡された」
それは通知表だった。
「いつもごめんね。今ではあんたの方が忙しいのに」
「別にいいよ。あたしはあの子たちは自分の子どもだと思ってるから」
玲子には感謝してはいるけど、何か少し引っかかる言い方だった。この子たちは間違いなく私の子どもだったのに。でも、言葉尻を捉えて玲子に文句を言える立場じゃないことは理解していた。
「それ、二人の通知表ね。保護者の欄に押印しておいて、冬休みが終ったら二人に渡して学校に持って行かせて」
そんなことすら私は意識できていなかったのだ。私は一枚の通知表を開いて眺め、そして微笑んだ。
「奈緒人君すごいね。こんなに成績いいんだ」
進学校の明徳高校に合格したときも思ったことだけど、あの子は本当に頭がいい。博人君に似たせいもあるんだろうけど。
「奈緒人君は優秀だよ。話してていつもそう思うよ」
玲子が浮かない顔で言った。
「どうしたの?」
「明日香の通知表を見て」
それはひどいものだった。五段階評価すらしない近所の公立の中学校では三段階評価が取り入れられていたけど、明日香の成績はCだらけだった。いったい何でこうなったのだろう。確かニ学期はここまで酷くはなかったはずだった。そもそも、私は博人君と相談して、子どもたちには中学受験をさせようと考えていたけど、まず奈緒人君がそれを拒否した。公立の進学校である明徳高校に行きたいという理由で。明徳ならしかたない。並みの中高一貫校よりも進学実績は上だったから。それでも明日香は中学受験を希望するのだと思っていた。富士峰女学院のセーラー服を着たいと日頃から言っていたのだから。それに、あの頃の明日香の学力は別に低くはなかった。
その明日香も中学受験を断った。それは別にいいのだけど、進学した中学でこんな成績になっているとは。
「これはひどいね」
この成績について玲子を責めるわけにはいかない。子どもたちを放置したのは私なのだから。
「それは別にいいのよ」
「いいって・・・・・・よくないでしょ」
「明日香は地頭はいい子だよ。その気になれば成績なんかすぐに元に戻せると思うよ」
玲子は狼狽する私を気にする様子もなく話を続けた。
「むしろ、成績欄の下を読んで。担任の先生の所感が書いてあるでしょ」
『前々からご注意していたと思いますが、明日香さんの素行はますます酷くなっています。授業をさぼって登校しない日が多いし、提出物はほぼ全て未提出であり、たまに登校しても宿題もしていません。服装や持ち物も校則違反が目立ちます。ご家庭でもう一度よく明日香さんと話し合っていただければと思います。このままだと進学できる高校もないです』
「これって・・・・・・。明日香は相変わらずなのね」
私には何の論評もする資格はない。正直、明日香の態度や服装や奈緒人君への態度には気がついていた。ただ、私は仕事以外のことに煩わされることを嫌って、玲子に言われるまま最低限の注意をしていただけだった。やはり、そんな言葉くらいで明日香の態度は改善しなかったらしい。
「まあ、これはあたしが取材から帰ったら明日香と話すから、姉さんは気にしなくてもいいんだけど」
「あんたにだけそんな負荷はかけられないよ。ごめんね、玲子」
「いいよ。つうか、姉さんが明日香に注意してももう何も意味はないと思う」
玲子はそう言った。私は今さらながら、その言葉にショックを受けたのだ。
「今日姉さんを呼び出したのはこのことじゃないんだ。姉さんには言っておかないとって思って」
「何よ」
「奈緒人君と奈緒ちゃんが再会して、頻繁に会っているって知ってた?」
「え」
「やっぱり知らなかったのね。まあ、無理はないよ。あたしだって大晦日に初めて知ったんだし、多分博人さんだって知らないでしょうね」
「・・・・・・あんた。それ、本当なの」
「本当だよ」
玲子はそう言って、私の目を見つめた。
あの夜はまだ仕事が片付いていなくて、最後の打ち合わせをするために社の近くのファミレスに行ったの。記事の企画制作を委託しているプロダクションの編集者と二人でさ。
玲子は淡々と語り始めた。
ファミレスでいい雰囲気の若いカプッルだなと思って眺めたらら、それは明日香と奈緒人だったの。
「あんたたち、こんなとこで何してるのよ。兄妹でデートでもしてたの?」
「叔母さんこそデート?」
「・・・・・・こんな時間に外出とか結城さんや姉さんは知っているんでしょうね」
あたしは微笑んでそう言った。
「だってパパもママも全然連絡してこないんだもん」
明日香が口を尖らせた。
「何? 大晦日も二人きりだったの? あんたたち」
「そうだよ」
仕事の相い方を追い返したあたしに明日香が声をかけた。
「叔母さん仕事いいの?」
「よくないけど・・・・・・。それよか姉さんたちは二人とも本当にこの間からずっと帰って来ないの?」
「うん。年末には帰るって言ってたけど連絡もないよ」
明日香が言った。「それよかさ。まだ注文してないんだけど。叔母さんも何か食べるでしょ」
「明日香さあ。親が二人揃って大晦日に連絡もないっていうのに寂しがり屋のあんたが何でそんなに平気なんだよ」
「だって今年は一人じゃなくてお兄ちゃんもいるし」
「・・・・・・なるほどね。そういうことか」
「じゃあ何か食べるか。そういえばあたしも昼から何にも食べてないや」
「叔母さんご馳走してくれるの」
「相変わらず人の奢りだとあんたは容赦ないな」
注文を終えた明日香に対して仕事用の眼鏡を外したあたしは笑った。今日はもう仕事は終わりだ。姉さんと博人さんが面倒を看ないならあたしがこの二人の面倒を看ないといけない。
「そういや年越し蕎麦とか食べたの?」
「うん。お兄ちゃんがコンビニのざる蕎麦も結構美味しいって言うから」
「どうだった?」
「お兄ちゃんに騙された」
「いや、あれはあれで美味いだろうが。それに別に手打ち蕎麦なみに美味しいなんて言ってないし」
「だったら最初からそういう風に言ってよ。期待して損しちゃった」
「おまえに嘘は言ってないだろ」
「あんたたち、最近仲いいじゃん。まるで昔からの恋人同士みたいよ」
「ちょっとトイレ。お兄ちゃんデザート持ってくるように頼んでおいて」
「うん」
明日香と奈緒人の関係についてはその両親の望みもわかっていたし、あたしも応援していたこともあり、仕事は半ば放置したにも関わらずあたしは幸せな気分だった。大好きな明日香と奈緒人が結ばれるのならそれにこしたことはないのだ。
「何でニヤニヤ笑ってるんの」
「奈緒人。あんたさあ、あの短い時間の間に急速に明日香と仲良しになったみたいんじゃん」
「ああ、まあ昔よりは仲良くなったかもね」
「何を冷静に言ってるんだか」
あたしは精一杯の虚勢を張っているらし奈緒人のことがおかしかった。
「しかしわからんものだよねえ。仕事の打ち合わせでたまたま入ったファミレスにさ、妙にいい雰囲気の若いカップルがいるなってあって思ったら、あんたたちだったとは。まあでもよかったよ。あんたたちが仲が悪いとあたしも居心地が良くないし」
「ごめん」
「まあ、別にいいさ。しかしさあ、仲直りするのを通り越してまるで恋人同士みたいにイチャイチャしだしてるのはちょっと急ぎ過ぎじゃない? 血が繋がっていないとはいえ一応兄妹なんだしさ」
「そんなんじゃないって」
「おう。奈緒人が珍しく照れてる」
心外そうに笑った奈緒人の表情が少しだけ気になったけど、あたしの幸福感とか達成感はそれ以上にあたしを満たしていた。
「心配するな。あんたたちの両親はあたしが責任を持って説得してやる。だから明日香を泣かせるんじゃないぞ」
「確かに僕と明日香は仲直りしたといってもいいけど、叔母さんが想像しているような変な関係じゃないよ」
「変な関係なんて言ってないじゃん。でもほんと?」
「本当だよ。それに、僕も最近は彼女ができたし」
「彼女って・・・・・・明日香じゃないの?」
「だから違うって。 鈴木奈緒って子で」
つまり、奈緒人君は奈緒ちゃんと再会し、男女の仲として付き合い出していたというこらしい。
「玲子・・・・・・あんた」
玲子を責めても仕方ない。それに。
玲子は奈緒人君と奈緒ちゃんが血が繋がっていないことすら知らないで行動したのだから。
「姉さんごめん。でも、まさか奈緒人が奈緒ちゃんのことを忘れているなんて思わなかったの」
「今さら過去を蒸し返して、奈緒人君にトラウマを思い出させるようなことをあんたは言ったの」
そうじゃないでしょ。玲子を責めてどうする。
「それは本当に悪いと思っているよ。あのときはあたしもうろたえていたし。でもさ、奈緒人って奈緒ちゃんのこと忘れちゃったなんて思っていなかったし。それに、お互いに記憶がないのに、何であの二人は再会して付き合い出したりしたんだろう?」
「それは」
私は言葉が続かなかった。奈緒人と奈緒ちゃんが何で偶然に再会してすぐにお互いに惹かれあったのか。
いつぞやの麻季の電話での言葉が思い浮んだ。
『怜菜は自分の果たせなかった夢を娘に託したんですよ。自分と博人君は結ばれなかった。せめて、奈緒人と奈緒を付き合せたかったんでしょうね。自分の子どものことを、そしてあたしの大切な奈緒人のことを何だと思ってるんでしょう。まるっきり道具扱いじゃないですか』
結局、麻季の被害妄想気味の予想が正しかったのだろうか。
「ねえ」
「何?」
「姉さんは心配しなくていいよ。あたしが奈緒人君とちゃんと話すから」
「・・・・・・ちゃんとって」
「あの子たちにはかわいそうだけど、実の兄妹じゃ結婚できないって話す」
結局、何かのアクシデントが起きるたびに物事は曖昧にして済ませようとした考えを侵食して破壊していく。もう、玲子に事実を告げるときが来たのかもしれない。
「玲子は知らないでしょうけど。あの二人は、奈緒人と奈緒ちゃんはね」
私は玲子の目を見つめながら話し出した。
奈緒人君と奈緒ちゃんが実は血の繋がった兄妹ではないと聞いたとき、最初玲子は呆然としていたけど、しばらくすると何かに気がついたような明るい表情を見せた。
「驚いた。詳しいことも知りたいけど。で、でもさ。それが本当なら奈緒人君は救われるじゃない。すぐにでも彼に電話して、奈緒ちゃんと付き合ってもいいんだよって教えてあげないと」
「だめ」
「明日香にも言っておかないとね・・・・・・って。え? 何で」
「言わなくてもわかるでしょ」
「わかんないから聞いているんでしょ! 奈緒人は気を失って倒れるくらい衝撃を受けたのよ。初めて好きになって付き合い出した女の子が実の妹だって勘違いして。少しでも早く誤解を解いてあげなきゃ。それくらいのことは、子どもに興味のない姉さんにだってわかるでしょ」
そうじゃないのよ。憤っている怜子を前にして私は考えた。結局正しかったのは誰だったのか。
奈緒人君と奈緒ちゃんに博人君と怜菜を重ねること自体どうかという考えは、麻季の話に半ば洗脳されていた私だって考えていたことだった。それでも現実にこういう事態が生..じた以上、自分の娘に奈緒と名付けた怜菜の非常識な意図は、あるいは麻季の被害妄想として切り捨てていいことではなかったのかもしれない。
それでも、たとえそんなことを生前の怜菜が企んでいたとしても、それが彼女の意図どおりに実現するわけはないと私は考えていた。人生には不確実性が多すぎるし、奈緒ちゃんのの人生における選択肢は無限にある。たとえ怜菜が意図したとしても亡くなった怜菜がその先の二人の人生をコントロールできるはずはどう考えてもないのだから。
ただ、それならばこの結果はどうなのだろう。玲子の話によれば、奈緒人君は奈緒ちゃんとある朝偶然に出会い、そして二人は恋に落ちたのだと言う。こんな偶然があるものか。恋に落ちるなら、奈緒人君と明日香の方だろう。二人はお互いに血が繋がっていないのだし(そのことは昨年、私と博人君から二人に伝えてあった)、いつも家で二人きりなはずだったのだし。
怜菜の執念か。それとも運命というものが本当にあるのか。
いや。残されたその子どもが成長した後、死者の意図に従って行動するなんてことはありえない。その人間が生きていて常に身近にいる子どもを洗脳しているのなら別だろうけど、麻季にはそんな意図はないはずだ。むしろ彼女は怜菜の意図に反するように行動してきたのだ。奈緒人君と奈緒ちゃんを恋愛関係にさせないため、怜菜の意図を阻止するために、大好きな博人君と離婚することにより奈緒人君と奈緒ちゃんを引きはがすようなことまでするくらいに。
やはり考えられないほどの偶然なのか。それとも運命なのか。考えあぐねたあたしは、怜子に聞いた。
「奈緒人君と奈緒ちゃんの出会いって偶然なの? 何か聞いてない」
怜子は少しだけためらったようだった。
「もうここまできたら、知っていることは全部話して」
「うん」
少しだけ間をおいて怜子は何かを決めたかのようにうなづいた。
「明日香はね。奈緒ちゃんのことを疑っていたよ。彼女は事情を知っていてわざと奈緒人君に接近したんじゃないかって」
私はその言葉に意表をつかれた。怜菜の意図とか運命とか、そういう非現実的な発想ばかり考えていた私は、奈緒ちゃんが自分の母である怜菜の意向とは別に、自ら悪意を持って奈緒人君に接近した可能性なんか考えてもいなかったのだ。
「それって」
私の声が震えた。
「明日香はね。奈緒人君を救おうとしていたの。奈緒ちゃんが自分の兄だと知っていて奈緒人君に接近し、彼を誘惑して。それで、その上で奈緒人君をこっぴどく振るとか、あるいは自分たちは実の兄妹だと暴露することによって、奈緒人君を苦しめようとしたんじゃないかって、明日香はそう疑っていた。だから、あの子はあれだけ嫌っていた奈緒人君に近づいた。明日香の想像が真実かどうかはわからないけど、それでも結果的に奈緒人君が救われたのは明日香のおかげなのよ」
「・・・・・・明日香は奈緒人君のことが本当に好きなの? それとも奈緒ちゃんから救おうとしていただけなの」
「本当のところはあたしにはわからない。でも、多分彼女は奈緒人君のことが好きなんだと思う」
・・・・・・私はこのとき、明日香のことを自分の娘のことを誇りに思った。うっすらと目に涙まで浮んでくるほど。真実は相変わらず霧の中だけど、実際に奈緒ちゃんの悪意を疑った明日香の行動のせいで奈緒人君が救われたこともまた事実なのだ。
「だったら、やっぱり奈緒人君と奈緒ちゃんが実の兄妹でないことはまだ奈緒人君には話すべきじゃないね」
「でも。奈緒人君は苦しんでいるし」
「明日香が考えているとおり、奈緒ちゃんに悪意がある可能性があるのなら、今はこのまま黙っているべきだよ」
「別に確信があるわけじゃないのよ」
「あんたは奈緒人君と明日香が付き合うことに反対なの?」
「そんなわけないじゃん。そうなったらどんなにいいかって思ってる。でも、奈緒人君や奈緒ちゃんがお互いに好意を抱いているなら、少なくとも二人には血が繋がっていないことは話してあげないとフェアじゃないと思う」
「二人の気持ちは私が確認する。だからあんたは黙ってて」
「確認って・・・・・・どうやって?」
麻季に連絡を取るのだ。もうそれしか方法はない。
かつて奈緒人君と奈緒ちゃんは独力で障害を乗り越えて再会したことがあった。あれはまだ二人が小学生だった頃だ。奈緒人君は私と博人君に黙って、毎週土曜日に佐々木先生のピアノ教室に通う際に密かに会っていたのだ。
あのときの私は、二人を引き裂いた。つまり、離婚騒動時の麻季と同じ仕打ちを二人に対してしたのだ。あのとき、私は何でそんな行動に出たのだろう。今ではよく思い出せないけど、土曜日に突然何も言わずに外出する奈緒人君の後を付けた際に生じた出来事だった。あの頃は、私は奈緒人君と奈緒ちゃんの再会を恐れてはいなかった。死者の意図が生者の行動をコントロールするなんて思ってもいなかったからだ。ただ、私に黙って奈緒ちゃんと幼いデートを繰り返していた奈緒人君に、あのときの私は、旦那と麻季を重ね合わせたのだ。言いかえれば奈緒ちゃんに嫉妬したといってもいい。
今の状況はあのときより更にひどい。怜菜の遺志は奈緒ちゃんの行動をコントロールしているのだろうか。奈緒ちゃんは亡き怜菜の遺志に従って、奈緒人君に迫っているのだろうか。でも、それならば明日香の考えたように奈緒ちゃんには悪意があるはずはい。それが怜菜の遺志であれば、怜菜には奈緒人君を苦しめようとする意図はないのだろうから。
いくら考えても思考はループしている。もうこうなったら出来ることは一つしかない。
二人の親として保護者としては最悪の選択だったかもしれないけど、私はこのとき麻季の考えを聞こうと思った。もう、麻季に頼るしかないと考えたのだ。
どうしてこの店を選んだのか自分でもわからない。麻季がどこに住んでいるのか不明なため、昔あった場所を指定するしかなかったのだけど、それにしてもこの喫茶店は博人君にプロポーズされた特別な場所だ。そんな聖地で私は麻季を待ったのだ。
扉に取り付けられた小さな鈴がチリリンと鳴った。
顔を上げると麻季が喫茶店の扉を開いて店内に入ってきた。そのときの店内は打ち合わせをするビジネス客や近隣の大学の学生で溢れていたのだけど、その男性客たちは一斉に麻季を眺めた。
麻季ももう世間では中年女と言われる年齢になっていたのだけど、周囲の男性客は若い女を見る目で麻季を見つめていた。麻季より二十歳くらい年下のはずの若者まで、まるで飢えた獣が獲物を見るような目で麻季の肢体を凝視している。店内の男性全員が麻季を見つめているようだった。
「麻季」
「・・・・・・先輩」
店内の男性陣の視線を一手に集めている麻季は、そのことには全く動じずに私の向かいに座った。注文を取りに来たウェイターも不自然なほどに麻季を見つめながら注文をとった。
「お久し振りですね。まさか、先輩から呼び出されるとは思わなかったです」
注文を済ませた麻季が周囲の男性の熱い視線のことは無視してそう言った。
「それで、いったい何のご用ですか」
「奈緒人君と奈緒ちゃんが接触した」
「・・・・・・本当ですか」
あたしに呼び出されたこととか、若者や中年男性にいやらしい視線で見つめられたくらいでは動じなかった麻季は、ここで初めて狼狽を見せた。
「本当。奈緒ちゃんと奈緒人は偶然かどうかはわからないけど、二人は出合って一時期は付き合っていたみたい」
「嘘でしょ」
「私だって嘘だと思いたいよ。でも、本当」
「一時期はって、どういうことです?」
「怜子って覚えている? 私の妹」
「そんなこと知ってますよ。というか博人君のことなら今でも全部覚えてます」
「あんたの旦那さんって、今では、というか前からずっと鈴木先輩なんでしょ」
「そうですけど」
「うちの旦那のことを全部覚えているとか言うなよ。自分の旦那のことならまだしも」
「だってしかたないでしょ。あたしが一番好きなのは今でも博人君だもん」
「いい加減にしなよ。あんたのことなんか、うちの旦那はとっくに忘れているのよ。あんただけだよ。今だに粘着しているのは」
「じゃあ、何でそんなあたしを、先輩は今になって呼び出したんですかね」
「・・・・・・何でって。だから、奈緒人君と奈緒ちゃんが」
「二人が出合って恋に落ちた。そのことが先輩は気に入らないんですか」
「それは」
「奈緒人と明日香ちゃんが結ばれればいいって思ってたんでしょ」
「まあ、そうなれば嬉しいって」
「奈緒人の母として言いますけど、あたしも奈緒人には明日香ちゃんと結ばれて欲しい」
「あんたさあ。奈緒ちゃんのこと、嫌いなの?」
このとき麻季は微笑んだ。喫茶店の片隅の席で静かに微笑む麻季はすごく綺麗だった。
「大好きですよ。可愛いあたしの娘ですもの。もう、あたしには奈緒しかいないの」
「話が逸れましたけど、一時期はっていうのはどういうことですか、先輩」
「怜子は奈緒人君と奈緒ちゃんが、本当は実の兄妹じゃないって知らなかったからね。奈緒人君に奈緒ちゃんは実の妹なのにって言っちゃったの」
「そうですか。奈緒人も奈緒もかわいそうに。絶対にこうなるってわかっていたから、あたしは二人を引きはがしたのに」
「君が考えていたことはそうじゃないでしょ。二ろが付き合うことを、博人君を怜菜に奪われたように考えてしまったからでしょ。奇麗事言わないでよ」
「別にそれは否定しません。でも、あたしの感情の話とは別に、奈緒人と奈緒が付き合ったら二人が不幸になるの事実ですよ。」
「私には理解できない。奈緒人君と奈緒ちゃんは確かに今は不幸だし苦しんでいると思うけど、それは二人が自分たちが実の兄妹だと思い込んでいるからでしょ。その後書いを解いてあげれば」
自分から怜子に口止めをしたくせに、私はそう言って麻季を責めた。
そのとき、今まで冷静だった麻季の言葉が乱れた。今まで冷静に話していた麻季の感情が突然乱れたのだった。
「どうしたの」
「まさか」
「まさかって・・・・・・怜子に口止めしておいたし、二人は自分たちが血のつながっていない赤の他人で、付き合おうと思えば付き合える関係だなんて思ってもいないと思うよ」
麻季は私の話なんか聞いてもいないようだった。
「この日のためだけにですよ。正直、考えすぎかなって不安に思ったことだってありました。こんな無駄な不安や死んだ人への嫉妬のために自分の幸せや子どもたちの幸せを潰しちゃったのかもかなんて、毎日不安に思ってました」
「あんた、何を言ってるの」
そうは言ったけど、半ばは彼女の言っていることは理解できていた。彼女は自分の中の声に従ったことを、これまで疑ったり後悔したりしながら生きてきたのだ。せめてもの罪滅ぼしに、引き取った怜菜の遺児である奈緒ちゃんに誠心誠意尽くしながら。その彼女が唯一認めなかったのが、奈緒ちゃんと奈緒人君との接触だろう。それは麻季の人生における唯一の目的、大好きな博人君を傷つけた彼女が守るべき最後のアイデンティティだったのだろうから。
「まさか。犯人は有希ちゃんか。それともまさか太田先生かな」
「誰?」
「有希ちゃんは怜菜の姪です。太田先生は、あたしが離婚調停を委任した弁護士で、有希ちゃんの父親ですよ」
「姪って」
「太田先生は、怜菜のお兄さんです。唯ちゃんのブラコンよりひどいシスコンではありますけど」
その弁護士の名前には聞き覚えがあった。麻季との離婚調停にあたって博人君が依頼した弁護士の交渉相手だったはずだ。というか、奈緒ちゃんの従姉妹って。
私は新しい情報に混乱しつつ、麻季の次の言葉を待った。もう、反論するとかそういう気にすらならない。とにかく自分が知らなかった情報を麻季から得よう。私はそう思った。
「奈緒・・・・・・可愛そうな子」
「どういう意味なのよ」
「怜菜の怨念に縛られるなんてことは、二人を引きはがしちゃえばあり得ないとあたしは思っていました。一緒に育っちゃえばともかく」
それはそうかもしれない。そう思ったからこそ、私は今でも奈緒ちゃんが怜菜の遺志に従っているとは思えなかったのだ。死者には口がない。言葉を発することもできないのだから、まだ幼い自分に母親である怜菜を亡くした奈緒ちゃんが、怜菜の遺志を継げるわけがない。
「じゃあ、奈緒人君と奈緒ちゃんの再会って、二人が付き合い出したのって本当に偶然なの」
「そんなことがあるわけないじゃないですか」
吐き捨てるように麻季はそう言った。
「そんな考えられないような偶然、というか奇蹟なんてあるわけないでしょ」
「じゃあ。やっぱり奈緒ちゃんは悪意を持って奈緒人君に・・・・・・」
麻季は目をつぶった。多分、心の声を聞いていたのだと思う。しばらくして、彼女は目を開いて私を見た。
「油断していました。あたしが馬鹿でした」
「どういうこと」
「犯人は有希ちゃんですよ」
「奈緒ちゃんの従姉妹だという子?」
「前から有希ちゃんのことは警戒していたつもりだったんですけど。こんなに早く手際よくされるとは思ってもいませんでした」
「もうちょっとわかるように説明してよ」
「亡くなった怜菜の遺志を奈緒が継げるわけなんてないでしょ。そのためにわざわざ奈緒と奈緒人を引きはがしたのだから」
「じゃあ何で二人は」
「有希ちゃんに唆されたんですよ。二人が本当に出合ったのなら、それ以外は考えられません」
険しい表情で麻季はそう言った。
麻季の表情は深刻だった。麻季のことを嫌悪しながらも彼女なら全てをコントロールできているだろうという期待が実は私の中にあったのかもしれない。だから、私は麻季に会おうと考えたのだろうか。
その麻季が本気で狼狽し混乱している様子を見て、私は今まで以上にこの事態を憂う気持ちになった。
「有希さんがいったい奈緒ちゃんに何を唆したって考えてるの」
「唆したっていうほど大袈裟なことじゃないんです。彼女にとっては簡単なことだったんです。何でもう少し真面目にこのことを考えなかったんだろう」
「何を言っているのかわからないよ」
「有希ちゃんは全部知ってましたから。父親の太田先生から、もっと言えばあたしからも事情を聞いていたし」
事情ってどういうことだ。有希ちゃんは、奈緒ちゃんを引き取って博人君と離婚した麻季の意図を、そして自分にとって叔母にあたるはずの怜菜の意図を知っていたというのか。
「先輩の考えているとおりだと思います。有希ちゃんが奈緒に全部話したんでしょうね。そうでなければ、奈緒が奈緒人に会いに行ったりするわけがないし」
「博人君と奈緒ちゃんは定期的に面会していたでしょ。その情報を元に奈緒ちゃんが奈緒人君に会いに行ったのかも知れないじゃない」
「そうじゃないでしょ」
「何でそう言いきれるのよ」
「だって付き合ってたんでしょ? 奈緒が単純に兄に会いたいだけだったら告白とか付き合いとかするわけないじゃないですか」
「今話したとおり、二人は兄妹だと知らないで再会したのよ。それで二人は恋に落ちた。でも、実は二人は兄妹だった。そう話したでしょ? 私の悩みはね。二人は本当は血が繋がってないってあの子たちに言っていのかどうかだよ」
「そんな偶然、先輩は本当に信じているんですか」
「わからない。奈緒人はそれですごく苦しんだのに。それが奈緒ちゃんの目的だったって言うの?」
「違うと思います。でも、あたしの計画は有希ちゃんと太田先生のせいでだいぶ狂ってしまいました。何よりも、今、奈緒はすごく苦しんでいると思います。とにかくそれを何とかしないと」
「苦しむって。奈緒人と付き合えないから?」
麻季は俯いた。
「こういうことだけは絶対に避けたかったのに。奈緒が苦しんでいるのは自分の存在意義を見失ったからでしょう、奈緒人のことじゃなく。自分が何のために生まれ、何で仲のいい兄と引き離され、そして何より今では自分の母親である怜菜に何を期待されていたのか。そういうことで悩んでいると思いますよ」
「どういう意味よ」
「奈緒人と奈緒が付き合うなんて許せませんけど。でも、もう今では奈緒の悩みは奈緒人のことじゃないかもしれない」
「じゃあ何よ。いい加減にはっきり言ってよ。奈緒人君は今では私の可愛い息子なのよ」
「あたしにとってもそうですよ。でも、あたしと違って先輩は奈緒のことはどうでもいんでしょ」
「そんなことは」
「奈緒は私の大切な娘です。たとえ血が繋がっていなくても」
「・・・・・・」
「でもね。仮に有希ちゃんが奈緒に、真実を話していたとしたら。奈緒の悩みは、実の兄を好きになったとかそれくらいのことじゃすまなくなってしまうでしょ」
「あんた。さっきから何を言って」
「奈緒はあたしのことを恨んでいるでしょうね。全然気がつかなかった。かわいそうな奈緒」
「わからないなあ。奈緒ちゃんは奈緒人君のことを苦しめようとしたんじゃないのね」
「多分、違いますね」
「奈緒ちゃんが従姉妹から情報を得ていたとしたら、彼女は奈緒人君に何をしたかったの? 引きはがされた兄妹の再会? それとも奈緒人君のことが好きだから?」
「奈緒が奈緒人に会いに行ったのは、真実を知りたかったのだと思います。そういう風に有希ちゃんに唆されたんでしょうね」
「情報って」
「自分が奈緒人の名前にちなんで名付けされたとか、自分が奈緒人と結ばれることだけを母親に望まれていたとか、そんなことを奈緒が知ったら」
麻季が一筋の綺麗な涙を流しながらそう言った。
このときようやく私も奈緒ちゃんに何がおこったの考え出した。
そうだ。奈緒ちゃんが全てを従姉妹の有希ちゃんとやらに知らされていたとしたら。奈緒ちゃんの行動の理由が、自分の出自を、自分が奈緒と名付けられた理由を知りたいという一心から行われていたとしたら。
玲子の話によれば、奈緒ちゃんが奈緒人君と出会ったときは、互いに面識もなく予備知識もない初対面の様子だったという。つまり、彼女は自分が奈緒人君と世間的には兄妹となっていることを伝えずに奈緒人君の傘に入れてもらったのだ。
次に彼女が奈緒人君を待っていたとき、二人は名前を名乗りあった。奈緒人と奈緒。もっと言えば、奈緒人君の苗字である結城姓もこの日奈緒ちゃんは知ったことになる。それでも彼女は何の反応も見せなかった。
最初から、奈緒ちゃんは自分たちが兄妹ではないということを知っていたとしても、それは奈緒ちゃんが奈緒人君のことを初対面の一目ぼれした相手として認識していたことと同義ではない。麻季の話が正しいとしたら、奈緒ちゃんの行動には二重の嘘があったのだ。
奈緒ちゃんは、最初から奈緒人君が自分の実の兄ではないと知っていた。有希ちゃんとやらに聞かされて。それを承知の上で彼女は奈緒人に接近したのだ。
でも、その理由は。
つらい別れ方をした奈緒人君のことを求めていたのだと、私は思っていた。明日香が疑っていたように奈緒ちゃんには悪意はないのだと。確かに悪意はなかったかもしれない。でも、麻季の話のとおりだとすると、奈緒ちゃんは自分の出自を知っていたことになる。自分が奈緒人君の実の妹ではないことを。それを承知した上で奈緒人君に近づいた彼女は、いったい何を目的としていたのだろうか。奈緒人君を彼氏として、昔のとおり一緒に暮そうと考えたのか。それとも、自分がなぜ奈緒と名付けられたのか、自分の母親はなぜ死んだのかを調べようとしたのか。
「奈緒ちゃんが自分のことを知っていたっていうのは、確かなの? 単なる想像じゃないの」
「間違いないと思います。太田家の親子は最初から全部知っていましたし、有希ちゃんはああいう性格ですし。彼女は奈緒のことが大好きでしたから、可愛さあまって憎さ百倍ってところでしょうね」
その時、私は一つの事実に思い当たった。
「ということはさ。奈緒ちゃんって、実は麻季のことを・・・・・・」
「ええ。奈緒は私が奈緒の実の母親ではないってこと、自分が怜菜の娘だってことを知っていたんだと思います」
麻季が言った。
「奈緒、あたしの奈緒。かわいそうに」
僕はその日の朝、普段より早く起き過ぎってしまった。
母さんを起こしたくない。特に母さんからああいう話を聞いた翌日の朝は。僕は反射的にそう思って、爪先立って僕と妹の部屋が並んでいる二階の部屋の間を通って階下に降りた。この時の僕はとにかく熱いコーヒーが飲みたかった。それで今日の日を迎えてしまったストレスが紛れるわけでもないのに。
「おはようお兄ちゃん」
キッチンで朝食の支度をしていたらしい明日香がこちらを振り返って僕にあいさつした。
「おはよう明日香」
「まだ朝ごはんできないよ」
「そう」
僕はリビングのソファに座ってテレビをつけた。今日はいい天気だ。テレビの中の人も今日一日の晴天を保証している。まだまだ気温は低いけど、春の気配はもう少しです。彼女は画面の向こうからそう言った。
「今日は晴れて暖かいって」
「同じ天気天気予報を聞いてたんだもん。あたしにだってわかるよ」
明日香が焼き上げた目玉焼きを皿に移しながら笑った。
「いや。テレビなんか聞いてないかと思ったから」
「聞いてるよ。目玉焼きを作るくらい、テレビを聞きながらだってできるもん」
「まあ、そういうことにしておいてあげるよ」
「・・・・・・なによ。嘘じゃないし」
「確かに最近の明日香は料理に慣れてきたよね」
「上から目線うざい」
「まあ、前から怜子叔母さんよりは全然ましだったけど」
「お兄ちゃん。あたしの話ちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「また、そんなに適当な返事をする。お兄ちゃんのこと嫌いになっちゃうよ?」
「それは勘弁して」
「何で? そんなにあたしに嫌われたくない?」
「もちろんだよ」
「適当な返事しないでって言ったのに」
「適当じゃないって。本心だよ」
「ならいい。朝ごはんできた」
明日香が微笑んだ。
「うん」
明日香が用意したトーストを噛む音と、ハムやベーコンさえ添えられていない焦げた、いびつで黄身が流れ出した目玉焼きを食べる音。
「ねえ」
「うん」
「何回くらい料理すれば目玉焼きを上手に焼けるようになるのかな」
「さあ。でも、味は一緒でしょ」
「焦げたとこは苦いじゃん」
それはそうだけど。でも、妹が朝食を用意してくれているこの幸せな朝と以前の家庭の朝を比較すれば、多少苦いことくらいなんて何でもない。
「ねえ」
明日香が流れ出した黄身を器用にすくってトーストに乗せながら言った。
「今度は何?」
「多分、今夜もママとパパは遅いと思う。つうか泊まりかも」
「うん」
「だからさ。あたしが夕食を作るけど、お兄ちゃん何が食べたい?」
「何でもいいよ。明日香が作ってくれるなら」
「何でもいいは禁止ね」
「本当に何でもいいのに」
「まあ、いいや。お兄ちゃんがそう言うなら気が楽だ。何か適当に用意しとくよ」
「うん」
「ご馳走様。じゃあ、学校行って来るよ」
僕は食べ終わった食器をキッチンのシンクに運んだ。
「洗っておくからそのまま置いておいて」
「うん。じゃあ」
「うん・・・・・・行ってらっしゃい。今日は何時ごろ帰って来る?」
「ごめん。わからない」
「そうだよね・・・・・・お兄ちゃん?」
「え」
明日香は僕の首に両腕を巻きつけて僕にキスした。多分、これが最後になると思ったのかもしれない。そのせいか、明日香のキスは普段よりもだいぶ長かった。
春の気配はもう少しだ。
長い坂道を駅の方に下りながら、僕はそう思った。
待ち合わせはいつもの場所だ。だんだんと明日香と和やかな朝食を過ごしてりラックスしていた感情が尖りはじめた。道の周囲の小さな庭に植えられている梅の花が開花し、ほのかに甘い香りが漂っている。それでも僕は緊張していた。あんな話はわかっていた。母さんに聞くまでもなく。有希の意図がどういうところにあるのかは不明だけど、彼女が奈緒や明日香に、曝露したことは。
僕と奈緒が実の兄妹ではないことは、奈緒にだけでなく明日香にも告げられていた。だから、僕たちに親切で心の底から僕と明日香を愛してくれている玲子叔母さんの気遣いも、無用のものだった。同時に母さんの心配も意味のないものだったと言える。奈緒に真実を告げた有希が、明日香と僕だけを情けによって見逃すことなんかあり得ない。明日香が僕を避け、悩んだのだって彼女からの告げ口のせいなのだ。
だけど、それはどういう理由からなのだろう。有希が奈緒に真実を告げることや明日香に同じことをすることに、いったい何の動機があったのだろう。有希が明日香を嫌っているのが事実なら、話はまだわかる。奈緒が実の妹ではないと知った僕が、奈緒に言い寄れば明日香は僕に失恋することになるのだから。同じ理由で有希が奈緒に真実を話したとしたら、その行為は奈緒のためを思ってなのかもしれない。実の兄だと知って自分の恋心を封印しようとしている奈緒を応援しようとして。
だけど、多分それは違う。母さんの話では、麻季さんが取り乱したのはそういう理由ではない。彼女は、僕のことで一喜一憂する奈緒を心配したのではない。むしろ、もっと根源的な悩みを奈緒が抱いたのではないかということを、麻季さんは恐れたのだ。
自らの存在意義。生まれたときから、母親の願いをかなえるためだけに命名され、その名前で生きてきた奈緒にとっては、僕のことなんかもはやどうでもいいと考えるほど、その事実は衝撃的なものだっただろう。
このあたりで僕はもう確信していた。奈緒は自ら告白したように、僕のことを男性として求めてくれたのかもしれない。そうでなくても、少なくとも仲のいい兄としての僕を欲していたのかもしれない。前者であれば、有希の告げ口は奈緒にとって救いになったはずなのだ。僕と奈緒が実の兄妹ではないということがわかったのだから、僕らは初めてであったあの雨の日の朝までさかのぼってやり直せたのかもしれないのだから。
奈緒は賢い女の子だ。そんな程度の期待で思考が留まるわけではないじゃないか。僕はそう思いなおした。やはり、麻季さんのいうとおり、そして多分有希の狙いどおり奈緒は悩むことになったのだ。自分の本当の母親にとって自分が何の存在意義があったのか。自分は何で奈緒と名付けられたのか。
そう思うと、僕はいても立ってもいられなくなった。とにかく奈緒に会おう。そして、出来る限り彼女の助けになろう。柔らかな朝の日差しを頬に感じながら、僕は駅前の高架下まで来た。
そこには先客がいた。
僕はその女の子を眺めた。
華奢な肢体。背中の途中くらいまで伸ばした黒髪。セーラー服に包まれた細い体つきの女の子。
「おはよう。お兄ちゃん」
落ちついた笑顔で奈緒は僕にあいさつした。
「おはよ」
僕は奈緒に微笑みかけた。本当にそれ以外にどうすればいいのかわからなかったから。
「今日は電車で待ち合わせじゃないんだね」
僕は時間稼ぎであまり意味のない質問を奈緒にした。奈緒。辛い時間を共有した僕の大切な妹。でも、奈緒は僕の妹じゃない。明日香が僕の実の妹ではない意味よりもさらに僕の妹ではない、僕の大切な妹。
「うん。お兄ちゃんと再会したのって、この場所だったでしょ。最後くらいはもう一度あのときの感動を味わいたくて。でも、そう考えたとおりにはいかないね」
「うん。僕もそう思う」
「やっぱりお兄ちゃんもそうなんだ。あたしたちってさ。こんなに昔から強い縁で繋がっているのに、何でうまくいかないのかな」
僕は黙ってしまった。答えようと思えば答えられる質問だけど、今、その疑問に答えていいのかすらわからない。
「そろそろ学校に行こ」
奈緒が微笑んだ。
ただでさえ奈緒に何と話していいのかわからないのに、このうえ志村さんや渋沢が登場したらどうしようとおもったのだけど、この日は明徳高校の最寄り駅に着くまで、僕たちは車内で知り合いに邪魔されることはなかった。
「有希と有希のお父さんがいなくなったの」
別に悩んでいる風でもなく、奈緒がそう言った。
「いなくなったって?」
「逮捕とか補導とかそういうことみたい。ママがそう言ってた」
「どういうこと?」
「さあ。あたしも詳しくは知らないの」
女帝とかそっち絡みの原因なのかもしれない。それでも父親の太田さんまで逮捕されるとはどういうことだろう。一瞬、悩んだけど今の僕にとってはそれはどうでもいい。奈緒の心の中を知りたいだけなのだ。奈緒がどうしたいかによって、僕と明日香のこの先にも影響する。明日香にとっては理不尽な結論だったと思うけど、結局今朝の明日香はそれを許容した。
「あたしね。留学するの」
突然、奈緒がたいした話でもないような気軽な口調でそう言った。
「お兄ちゃん?」
「いや・・・・・・留学って。夏休みに何週間とか?」
「そうじゃないの。大学を卒業するまでずっと。ひょっとしたらその先もずっと暮らすかもしれない。パパがいる国だし」
「どこ」
「ドイツだよ。パパが演奏しているオケの本拠地なの」
「ドイツのどこ」
「デュッセルドルフってところ」
「・・・・・・いつから?」
「五月に引越しするんだって。それで六月からむこうの高校に通いながら、ピアノ教室に行くの」
「音楽の高校とかじゃないんだ」
「うん。だからちょっと不安。普通の高校とかってドイツ語も出来ないのに大丈夫なのかな」
「さあ。でも奈緒なら何とかなるでしょ」
「また、適当なことを言って」
奈緒が微笑んだ。
「適当じゃないよ。本当にそう思ってるよ」
「気持ちは嬉しいけど、お兄ちゃんはちょっとあたしのことを買いかぶりかも」
「そうかな」
・・・・・・こんなことじゃない。こんな話を奈緒としたいんじゃないのに。それでも、今の僕には奈緒が何を考えているのかわからなかったから、自分が話したいことを奈緒にぶつけていいのかさえわからない。
「留学って、どのくらいの期間?」
「まだ、わかんない。こういうのって人によるから」
「どういうこと?」
「向こうで人気が出て、永住しちゃう人もいるし、日本に帰って来る人もいるしね。行ってみなければわからないよ」
こんな話を続けていても意味がない。僕はそう思った。きちんと自分の思っていることを奈緒に言うべきだ。僕には奈緒に対して引け目がある。どんなに奈緒が僕のことを好きだとしても、今では奈緒が僕のことを実の兄じゃないと認識していたとしても、僕は奈緒の気持ちには応えられない。今の僕には、僕を救ってくれた明日香がいるのだから。
だけど。本当に僕と明日香のことなんか、今の奈緒にとって重要なことなのか。
怜子叔母さんや母さんの話を聞くに、奈緒にとって今重要なのは僕の心の中なんかじゃないんだろう。僕は、そこと自体には少しだけ寂しさを感じたのだけれども、彼女たちの話を信じるならば、奈緒がその胸に感じた衝撃は僕が感じたどころではない。奈緒は、自分の存在意義そのものを疑っているかもしれないのだ。
「いったい何で?」
僕はこのときその答を知っていると確信していた。母さんや理恵さんからから聞いていた話は、今も僕の心に浸透し、染み渡り、僕の心を染めていたのだから。
奈緒は悩んでいるのだ。自分が生まれてきた意味に。自分が本当の母親である怜菜さんに期待されていた役割に。自分が本当の母親だと信じてきた今の母親に、自分の幸せを消し去られた理由はいったい何かということに。
僕はそのとき、奈緒の悩みを全て理解していたつもりだった。でも、奈緒が話し出した言葉は、僕の理解やほんの少しの期待を裏切った。
「お兄ちゃんは、やっぱりママのことが嫌い? 許せない?」
それが今の僕の母さんのことではなく、麻季さんのことを話していることはすぐに理解できた。理解は出来たけど、正直好きとか嫌いとか判断するほど彼女の記憶は僕の心の中にはない。他聞に属する範囲で判断するのならば、仲の良かった僕と奈緒をマンションに放置し、ネグレクトした麻季さんのことなんか好きになれるたっ一つの要素すらない。
有希の悪意が溢れた告げ口の前には、奈緒は自分の実の母親が亡くなった怜菜さんであることを知らなかったはずだ。つまり、麻季さんが自分の実の母親でなかったこと、つまり僕は自分の実の兄貴ではなかったことを、このときはもう悟ってたはずなのだ
「どうでもいいって感じかな。僕には父さんと今の母さん、それに妹がいてくれればもうそれでいい」
「妹って。あたしのこと?」
胸が痛む。でも、ここに及んでもう嘘はつけない。
「いや。僕にはもう明日香がいてくれればいい。明日香は僕の彼女なんだ」
意外なことに奈緒はそれを聞いて微笑んだ。
「よかった」
奈緒はそう言ったのだ。
「よかったって?」
僕は面食らって聞いた。生意気なようだけど、僕は奈緒には好かれていると信じていたから。それが実の兄妹の関係だと互いにわかったときですら。まして、今なら奈緒は僕のことを求めてくるはずだった。世間の噂なんて気にせずに、恋人同士になったとしても誰に陰口を聞かれる心配はないのだ。僕と奈緒は。僕と奈緒は、血なんて一滴だって繋がっていない、そういう間柄だったのだから
僕は妹に言った。明日香のことはどう誤魔化そうかと考えながら。
「おまえさ」
「うん」
「怜菜さんのこと、聞いたんだろ」
「うん。聞いたよ」
「僕とおまえは・・・・・・その」
「うん。血の繋がっていない赤の他人なんだね」
「他人ってさあ」
「お兄ちゃんが明日香ちゃんのことが好きなら、あたしも少しだけ気が楽だし」
やはりそうなのか。奈緒は僕のことが嫌いではないんだろうけど、今ではそれどころではないほどの悩みを抱えているのだろう。それは、自分の存在理由だ。
怜菜さんが意図して行った行為。それを阻止しようとして麻季さんが行った行為。そのどちらも奈緒を傷つけ、悩ませたであろうことは僕にだってわかる。それを理解してしまった奈緒が、僕のことや僕と明日香の関係のことに今さら関心を割く余裕なんかないことも理解できた。
「お兄ちゃん、ごめんね」
「うん、いいよ」
「今のあたしには、お兄ちゃんのことより大事なことがあるの」
「ああ。それはわかってる」
「ごめんね、お兄ちゃん」
「おまえが謝るなよ。むしろ悪いのは僕の方だ」
「・・・・・・うん」
「怜菜さんのこと、怜菜さんがおまえにしたことが、気になっているんだね」
僕はようやくそう言った。
奈緒は少しだけ僕の言葉に戸惑ったようだった。
「え? っていうか、お兄ちゃん。何か勘違いしてるんじゃないの」
「勘違いって。してないよ。奈緒が悩むのも無理はないよ。実の母親が、怜菜さんが僕たちの父さんにああいう想いを抱いたうえ、君を捨てて」
「違うの。あたしは怜菜さんのことや、怜菜さんに何を期待されたかなんて気にしているんじゃない。あたしが心配しているのはママのことだよ」
そう奈緒は言った。「そして、この感情だけはお兄ちゃんと共有できるはずだよね。怜菜さんはともかく、ママは、ママだけはお兄ちゃんの本当の母親でしょ」
「おまえ・・・・・・。自分が怜菜さんの娘だったことにショックを受けていないの?」
「有希にそれを聞かされたときはびっくりしたよ。ショックも受けた。あたしがママの本当のこともじゃないってわかって。お兄ちゃんとも血が繋がってないってわかったんだもん。驚かないわけがないでしょ」
それはそうだろう。奈緒の気持ちは当然だ。だけど、だけど何かが違う。聞かされたときの驚きや悩みは、きっと奈緒の言うとおり自分が麻季さんや父さんの実子ではなかったこととか、僕が実の兄貴ではなかったこととかそういうことだったはずだ。では、今の奈緒の悩みは何なのだ。そこで衝撃を受けた奈緒が次に悩むことは、自分の実の母親だとわかった怜菜さんの行動に対してに違いなかった。怜菜さんが父さんのことを好きだったことはとにかく、自分の死を持って父さんの心の中に永遠に住もうとしたことや、何よりも奈緒に対して僕の名前にちなんだ命名をし、自分と父さんが結ばれなかった代償行為として、奈緒と僕の仲に期待しながら亡くなったことは、奈緒にとっては大きな心の負担になっているに違いなかった。
「あたしが今気にしていて、そしてもう今後の人生はそのためだけに捧げてもいいと思っていることは一つだけだよ」
僕のことか。一瞬僕はそう思い、そして今朝の明日香の平静を装った表情を思い浮かべた。
「あたしが心配しているのはママのことだけ」
奈緒はそう言って今までと異なり苦しそうな想いを表情に出した。
「麻季さんのこと?」
麻季さんは加害者側の人間だ。父さんにとっても、僕にとっても。そして奈緒にとってもそうではないか。その奈緒が、実の母親ではないことがわかったばかりの奈緒が、なぜ麻季さんのことを心配するのだろう。
僕は今では関係者の中で一番、過去に何が起きたのか、なぜそれが起きたのかを理解できたのだと思っていた。母さんや怜子叔母さんから過去の出来事を聞いた今では、多分僕が一番よくわかっているはずなのだ。だいぶ過去の記憶も蘇ってきたということもあるし。
それでもまだ過去の知識が足りないのだろうか。なぜ奈緒は実の母親である怜菜さんの意図に関して悩もうとせず、奈緒自身に辛い想いをさせた麻季さんのことを、彼女の心情を心配するのだろう。僕には全く理解できなかった。
「ママの立場になって考えてみればわかると思う」
奈緒が僕を見上げてそう言った。さっきまで冷静だった彼女の表情は今では泣きそうだ。
「麻季さんの立場って」
「被害者意識をちょっとだけ忘れてママの感情を想像してみて」
そう言われても、なぜ僕ならできると思うのか。僕は麻季さんのことはずっと忘れていたのだけれど、それを思い出した今、彼女のことを懐かしく思えるかというとそんなことは全然ない。むしろ、放置されていた辛い記憶とか奈緒と引きはがされたもっとつらい記憶しか思い出せないのだ。
「そう言われても何も浮ばないや」
僕は奈緒に正直に言った。「むしろ、負の感情ばかり浮んでくる」
「そうなんだ」
奈緒が少し困ったように微笑んだ。
「奈緒は全然麻季さんを恨んでないの? 僕とおまえを自宅に何日間も放置した麻季さんを」
「子どもってね。自分の身近にいて自分を守ってくれて、自分のことを愛してくれている人のことは本能的にわかるんだよ」
奈緒がそう言った。
「お兄ちゃんと別れて以来、あたしを守ってくれて、大事にしてくれて、何よりも心から愛してくれたのはママだけだったから」
「僕にはわからないな」
「ピアノを習いに佐々木先生のところに連れて行ってくれたのもママ。一緒に外出して洋服を買ってくれたのもママなの。だから、あたしは今、ママのことしか考えられないの」
「怜菜さんのことはどうなる? 奈緒が麻季さんのことが好きだったとしても、実の母親のことは気になるんじゃないの?」
「考えても仕方がないことは考えないよ。怜菜さんが実の母親だとしても、ママがあたしと血が繋がっていないとしても、あたしが今こういう自分であることは全部ママの愛情のおかげだもの」
「怜菜さんの意図とか」
「わからない。でも考えてもしかたないじゃない。もうとうに亡くなった人なんだよ」
「そうか」
「ママは確かにお兄ちゃんにひどいことをしたと思う。お兄ちゃんがママを恨むのは無理もないよ。でもね、あたしはそのひどい人とずっと暮してきたの。その生活の中で、ママがあたしにしてくれたことには感謝しか感じない。今、そのママはすごく悩んでいる」
それはそうだろう。彼女の非常識な行動の目的が、僕と奈緒の仲を引き裂くことだったとしたら。今では僕も奈緒も互いに血が繋がっていないことを知ったのだ。彼女の悩みはそれだけしかないだろう。家族を捨ててまで、家族を傷つけてまでしてきた事の意味が失われたのだ。それはつまり、彼女の人生そのものが無意味なものとなったということのだから。
僕はそういう意味のことを奈緒に話した。
「そうじゃないの」
奈緒が言った。
「そうじゃないよ。ママが悩んでいるのはあたしのことなの。さっきお兄ちゃんが言ってたことと同じことでママは悩んでいたの」
「どういうこと」
「お兄ちゃんが言っていたように、あたしが実の母親である怜菜さんの意図を知ったことで、あたしが自分の存在意義を疑うだろうって考えてママは苦しんでいるの」
「ということはさ。奈緒ちゃんって、実は麻季のことを・・・・・・」
「ええ。奈緒は私が奈緒の実の母親ではないってこと、自分が怜菜の娘だってことを知っていたんだと思います」
「奈緒、あたしの奈緒。かわいそうに」
「あたしだって、お兄ちゃんと同じくらい悩んだし苦しんでいた。記憶がはっきりと残っていただけ、お兄ちゃんより辛かったこともあったかも。でも、そんなあたしを支えてくれたのがピアノだった。そして、あたしに佐々木先生を紹介してくれてピアノを与えてくれたのはママだったの」
「そうか」
「ママだって辛かったはずなのに。大好きなパパとお兄ちゃんと会えなくなったんだもん」
でもそれは。僕が口を開く前に奈緒が自分で僕が言おうとした言葉を引き取った。
「自業自得だとは思うよ、今となっては。でも、それでもママはあたしのことだけを考えるようにしてくれた。お兄ちゃん?」
「うん」
「あたしもね、ママのことだけを考えてたわけじゃないのよ」
「どういう意味?」
「ママのしたことは間違っていたと思うけど、してしまった以上は、もうそれを前提で最善の道を考えるしかないよ」
「それって・・・・・・」
「昔なら違ったかもしれない。あの頃に戻ってやり直せるなら。でも、そんなことはできないから。今ならもう、あたしとお兄ちゃんが血縁じゃないからって結ばれても、もう誰も幸せになんかなれない」
奈緒は寂しそうに微笑んだ。
「だから、もう。もうお兄ちゃんとは会わない方がいいの」
このとき僕は唐突に奈緒の想いを悟った。
あの頃に戻ってやり直せるなら。それは奈緒の言うとおりだと僕は思った。いろいろ聞かされた話が真実だとしたら、あの時点で麻季さんが決断して実行したことは、最悪の選択だったと思う。
怜菜さんは亡くなっていた。そして僕と奈緒は仲のいい兄妹として、父さんと麻季さんの間で、何一つ欠けるものなくなく幸せに育っていたのだという。そういう状況下で、怜菜さんの自殺を疑い、そのうえあろうことか将来僕と奈緒が男女として付き合いだすことが、自殺した怜菜さんの目論見だと信じ込み、父さんとあえて離婚の道を選んだ麻季さんのメンタリティは、やはり今でも僕には理解できない。
それでも、今奈緒が考えていることがだんだんと僕にも理解できるようになってきた。
今となっては。最初から時間を巻き戻して歴史を訂正できない以上、今はどうすることがベターなのか。多分、奈緒が考えついたのはそのことだった。奈緒は、自分の存在が実の母親にとってどういう意味を持っていたのかなんて気にしていたのではない。自分と僕が血縁ではないことを知り、それでもなお自分がどう行動すべきかを考えていたのだ。
言うまでもなく、奈緒が僕と恋人同士になることを望んだとしたら。その場合、麻季さんが自分の幸せを捨ててまでしようと試みたことが、彼女の人生そのものが壮大な無駄と化すだろう。今は自分の不幸を省みず奈緒の心配をしている彼女だって、いつかは自分の人生を眺め直す日が来る。父さんを不幸にし、僕と奈緒を別れさせた彼女の行動が、結局奈緒と僕のカップルの登場に終るとしたら、そのことを考え出したとき麻季さんの精神はその事実に耐えられるだろうか。
そればかりではない。父さんと理恵さん、僕と明日香の家庭だってどうなってしまうかわからない。理恵さん、つまり僕の今の母さんは僕と明日香がいつまでも一緒にいることを望んでいた。その気持ちは明日香だって同じだろう。その期待を裏切って僕と奈緒が男女の仲になったとしたら。
つまりこれは、奈緒の決断は非常によく考えられた回避策なのだ。麻季さんによって始められてしまったことは全然誉められたことではないけれども、それでも始められてしまった以上、もうこうするしかないと奈緒は判断したのだ。もちろん、始まりの時を除けば、麻紀さんが自分にずっと誠心誠意尽くしてくれたことを、奈緒は考慮に入れているはずではあるにせよ。
「わかったよ」
「ごめんね」
奈緒の決定によって辛い想いをするのは、多分僕と奈緒の二人だけだ。僕が明日香と付き合い、奈緒が今までどおり麻季さんの娘でいれば、周囲に及ぼす不幸は最小限に抑えられるのだ。
「完全に納得させられたよ。やっぱり奈緒は頭がいいね」
「そんなことないよ。お兄ちゃん」
「うん」
「ごめんね。そしてありがとう。少しの間だけでもあたしの彼氏でいてくれて」
奈緒の瞳から涙が溢れ、それは彼女の色白の頬を濡らした。
「・・・・・・ありがとう」
僕もそう言った。
「何も覚えていなかった僕に声をかけてくれて。僕に告白してくれて」
「ううん。あたしの方こそいっぱいありがとう。小さいときからお兄ちゃんだけが好きでした。本当の兄だと思っていた頃も。本当の兄じゃないと知ったときも」
奈緒は泣きながら微笑んだ。
「今日はもう学校に行かなくていいんだ。このまま空港に行くね」
「何で」
「何でって。最後にお兄ちゃんと話したかったから」
「何で制服を着てるの」
「そんなことを聞きたかったのか」
「そうじゃないけど」
「お兄ちゃんと雨の日に最初に再会したときに着ていたのが、富士峰の制服だったからね」
奈緒はもう泣き止んでいた。
「お別れのときくらいは、あのときと同じ格好をしたくて」
僕は何も言えなかった。次の停車駅のアナウンスが車内に響いた。
「じゃあね。次で降りる。この先まで行っちゃうと空港に間に合わないし、先に行っているママも心配すると思うから」
「奈緒?」
混雑した電車の車内で、このときだけは人目を気にせず奈緒が僕に抱きついてきた。
「お兄ちゃん・・・・・・ごめん。そしてありがと」
そのままホームに降りていく奈緒はそっと胸の前で僕にむかってひらひらと小さく手を振った。
「ここでいいのかな」
「よくわかんないけど少なくとも最寄り駅は間違ってないでしょ」
「北口の方に来ちゃったけど、これでいいの」
「わからないよ」
「わからないって・・・・・・じゃあ、違った方に来ちゃったのかもしれないよ」
「いちいちうっさいなあ。文句ばかり言うならお兄ちゃんが案内してよ。あたしは黙って着いて行くからさ」
「いや別に明日香に文句なんか言ってないよ」
「言ってんじゃん。誰が聞いたって文句でしょうが」
だいたいマンションを探してくれると言ったのは明日香の方だ。怜子叔母さんに聞いてくれるって言ったのは。
「どこに行けばいいかわかってる?」
「多分平気だよ。だからお兄ちゃんは少し黙ってて」
都内とは聞いていたけど、教わった場所は都内というよりはほとんど隣県との境に近い場所だった。この辺りに来たのは初めてだ。初めて訪れた臨海部の駅に降り立つと、海の景色はまるでないのに潮の香りがした。不安に思いながらも教わったとおり駅の構内から姿を見せない海の方に向って歩いて行くと、駅から十分も歩くまでもなくそのマンションに着いた。
外見は湾岸によくあるマンションだ。それなりに高層で、それなりにお洒落な外見の。彼女がまだ独身だとしたら、それなりに収入があるのだろう。こういうマンションって普通は所帯を持っている人が購入するものだと僕は思った。それとも、もう結婚して子どももいるのだろうか。
「ここだ」
事前の案内を引き受けていた明日香が胸を張って威張るように言った。自分のなすべきことをやり遂げたような笑顔で。
「そうみたいだね」
僕はそう言って、事前に聞かされていた部屋の番号をインプットして、「通話」と記されているボタンを押した。湾岸部にあるこのマンションには、あの困難な時期に僕と奈緒を育ててくれた唯さんが暮しているのだ。彼女は麻季さんが僕と奈緒を育児放置した後、僕たちを救ってくれただけではなく、僕と奈緒が引き剥がされたとき、僕たちに携帯電話を密かに渡してくれた。奈緒と別れて、僕が以前から決めていたとおりこの先の人生を明日香と暮すにあたって、僕は唯さんに会って見たかったのだ。
その選択を明日香は非難しなかったし反対もしなかった。それどころか、唯さんの住所を調べておくとまで言ってくれた。怜子叔母さんに聞き出すからって、彼女は笑ったのだ。そして、明日香は自分も同行するということだけは譲らなかった。
「はい」
女性の声がインターフォンのスピーカーから響いた。僕と明日香は顔を見あわせた。
最近蘇ってきた記憶の中では、優しい唯さんの声が頭の中に再生されることはあったのだけど、その声は脳裏に浮ぶその声とは違っているように思えた。
「唯さんだ」
でも、明日香はその声を聞いて即座にそう言った。明日香がそう言うならそうなのだろう。記憶が戻ってきているとは言え、明日香のそれの方がずっと確かなものだろうと僕は思った。続いて上層階に上ってドアが開き、唯さんが姿を現すと、声はともかくその姿は僕が思い出したかつての彼女の姿そのものだった。
「いらっしゃい。久し振りだね、奈緒人君」
そう言って微笑んだ唯さんの笑顔は確かに記憶に残っていた。これがあの辛かった時期に僕と奈緒の味方になり僕たちを助けてくれた彼女の笑顔なのは確かだった。僕のあやふやな記憶でも、これだけは否定のしようがなかった。
「叔母さんお久しぶ」
言葉の途中で僕はいきなり唯さんに引き寄せられ抱き寄せられた。隣にいる明日香が驚いたように僕の方を見上げた。もう、今ではだいぶ背丈が違う。昔のことは明確な記憶にないのだけれど、昔の唯さんは僕より背が高くて大きかった。僕は彼女に抱き上げられて、乱暴に振り回されるのが大好きだったのだ。
「・・・・・・大きくなったね。奈緒人」
唯さんが僕を抱きしめながらそう言った。抱きしめると言っても、昔と違って今ではまるで僕の首に腕を巻きつけて僕にぶら下がっているみたいだ。
「唯さん?」
「お姉ちゃんってさ・・・・・・」
唯さんが僕にしがみつきながら少しだけ湿った声でそう言った。
「お姉ちゃんってさ。君は昔は私のことをそう呼んでたんだよ」
「・・・・・・お姉ちゃん」
僕は思わず彼女にそう呼びかけた。
「あの」
そのとき放置されていた明日香が遠慮がちに話しかけた。
「ああ。ごめんね。明日香ちゃんは私のことを覚えてる?」
「はい。ちゃんとは覚えていないかもですけど。ママや叔母さんたちと一緒によくファミレスとかで会ったことは覚えてます」
「うん」
唯さんはようやく僕を解放してくれたけど、僕と明日香をリビングに案内してくれて、ソファに座るように勧めてくれる間、彼女は一瞬たりとも僕から目を離そうとしなかった。
唯さんに勧められて目の前のコーヒーテーブルに置かれたカップを手にとって、少しだけ熱く少し苦い紅茶を口に入れて、ソーサーにカップを戻したとき、唯さんが再び口を開いた。
「ごめんね。いきなり抱きしめたりしちゃって。びっくりしたでしょ」
「いえ」
「玲子ちゃんからすごく久し振りに電話をもらってね。奈緒人君と明日香ちゃんが私に会いたいって言ってるけど、私の住所とか電話番号とか教えてもいい? て聞かれたときにね」
「あ、はい」
「自分をしっかり保とうって・・・・・・もう今度は泣いたり衝動的に抱きしめたりするのはやめようって思ったのに。私ってば全然だめだ」
この人が、あの辛かった時期に僕と奈緒を救ってくれようとした人なのだ。その努力は結果的に無駄だったのかもしれないけど、それでもこの人がいなかったら僕たちはもっと辛い想いをしていたのかもしれない。あの携帯電話のことといい。
「今度はって」
「あ、うん。ちょっと前に奈緒ちゃんが会いに来てくれたの。次の日に海外に行っちゃうって、多分もう当分は私に会えないからって」
「奈緒が唯さんに会いに来たんですか」
「うん。その時は突然だったから、今みたく奈緒ちゃんを抱きしめて泣いちゃってね。多分、奈緒ちゃんを相当困らせたみたい。だから、今日は同じ徹を踏まないって思ってたのになあ。私って全然だめだ」
奈緒は唯さんに何を話したのか。何を話さなかったのか。
「もう大丈夫。私は落ちついたから。もっと紅茶飲む?」
「いや。もう十分です。それより」
「うん」
「奈緒がここに来たんですね」
「そうだよ」
唯さんが少しだけ面白そうに笑った。
「今までさ。昔の関係者とは誰とも無関係に生きてきたのよ、私は。それなのに、突然先週に麻季さんから電話が来るわ、昨日は玲子ちゃんから電話が来るわ」
「それは奈緒から聞いているんじゃないですか」
「聞いたよ。奈緒ちゃんからは」
「あたしたちからも、あたしたちに何が起きたのか知りたいですか」
明日香がそう言った。
「ううん、いいや」
「・・・・・・どうしてですか」
「明日香ちゃんも大きくなったね。私のこと覚えてる」
「はい。怜子叔母さんとかと一緒にファミレスで会ったことは覚えています」
「そうだよね。覚えていてくれたんだ」
「お兄ちゃんと違ってあたしは、だいたいその頃の記憶はあるんです」
「そうか。明日香ちゃんはあれからずっと兄貴の、奈緒人君のそばで一緒に暮してきたんだものね」
「はい。小学校の低学年の頃から今までずっと一緒でした」
「それならわかるな」
「わかるって・・・・・・何が」
明日香が戸惑ったように聞いた。
「奈緒ちゃんの言っていたことも、それならまあわかるな」
そして、彼女は僕たちの方を向いて微笑んだ。
「君たちは幸せになるべきだよ」
唯さんが、真面目な顔でそう言った。
「はい?」
僕と明日香は顔を見合わせた。
「それが奈緒ちゃんのためにもなるんだろうね」
「あの。いったい何の話ですか」
「君たちが今日なんで私に会いに来たのかはよくわからないけど」
唯さんがそう言った。
「・・・・・・僕は、ただ昔助けてもらったお礼を一度唯さんに言いたくて」
「そんな必要はないよ」
「はい?」
「そんな必要はないって。私はただ兄貴のために、家族のために君と奈緒ちゃんの面倒をみただけ。君たちにお礼を言われる筋合いはないって」
「いや。だけど、携帯とか」
「ああ、そうね」
唯さんは少しだけ懐かしそうに微笑んだ。
「そういうこともあったわね」
「奈緒から全部聞いたんですか。その。つまり再会してからあったこととか」
「うん」
「そうですか。唯さんはどう思いました?」
「私がどう思ったなんてどうでもいいくせに。つうか、奈緒人君はこの結論に不満なわけ?」
「不満はないです」
僕は自分にとっては初対面に等しい唯さん、つまり僕の父さんの妹に自分の考えを全て語った。隣で明日香が聞いていたのだけど、僕はもう明日香に隠し事をするのはやめようと思ったのだ。
麻季さんによって始められてしまったことは全然誉められたことではないけれども、それでも始められてしまった以上、もうこうするしかないと奈緒は判断したのだ。もちろん、始まりの時を除けば、麻季さんが自分にずっと誠心誠意尽くしてくれたことを、奈緒は考慮に入れているはずではあるにせよ。
僕はそういうことを唯さんに語った。でも、彼女は別にそれに共感してくれる様子はなった。少し戸惑ったように微笑んでいるだけで。
「君は勘違いをしていると思うな」
「勘違い・・・・・・ですか」
「まあ、あのときはあたしもそうだったからね。人のことは言えないんだけど」
「どういうことです?」
「あたしはあのとき、麻季さんの決定を受け入れた兄貴のことが許せなかった。それで、あれ以来兄貴とは話もしていないんだけど。でも、奈緒ちゃんの話を聞くとね。結果的にだよ? あくまでも結果論に過ぎないんだけど、麻季さんの判断もあながち間違っていなかったんじゃないかって考えさせられたよ」
「どういう意味ですか」
「君と奈緒ちゃんが、兄貴と麻季さんの下で一緒に育てられていたとしたらさ。君と奈緒ちゃんがほんの一時期とは言え、恋人同士になるなんてあり得なかったから」
「え」
「麻季さんが君と奈緒ちゃんをつき合わせる気がなかったことは説明するまでもないでしょ」
「それはわかります」
「それでね。兄貴だってそこは一緒なんだよ。兄貴が考えていたのはあの頃は麻季さんと一緒だよ。君と奈緒ちゃんを実の兄妹同様に育てようということだけが、兄貴の望みだったんだよね」
「はあ」
「つまりさ。作為なのか奇蹟なのかはわからないけど、君と奈緒ちゃんが一時期だけでも付き合うことができたのは、君たちが兄妹として育てられなかったおかげだよね」
「君と奈緒ちゃんが仲のいい兄妹としてさ、ずっと一緒に過ごせた未来もあったのかもしれないけど、少なくともあたしが会った奈緒ちゃんはね。君のことを男性として意識できて幸せそうだったよ。って、ごめん。明日香ちゃん」
「いえ」
「それだけじゃないんだ。君と明日香ちゃんだって、麻季さんの行動がなければ一生知り合うことだってなかったはずだよ。麻季さんが兄貴に離婚を求めなければ、君と明日香ちゃんは恋人同士になっていなかったはずだもん」
「いいも悪いもないし、正しいかどうかもわからないけど、結果的には麻季さんの一見非常識な行動が、今の君と明日香ちゃんと奈緒ちゃんの関係を生み出したんだね」
「奈緒人君」
「・・・・・はい」
「だから、君と明日香ちゃんは幸せになるべきだよ。そして、奈緒ちゃんも今では彼女に許されたは限りで幸せを感じていると思う。彼女が大切に考え続けていた君と、一時期だけでも男女の関係になれたことだし。つまり、過去に戻ってやり直せない以上、これが最善だとかじゃないないんだ。麻季さんの行動も含めて、今思えば今までの全てが最善の結果をもたらしたんだよ。少なくとも、そう思うべきだと思う」
「意外ですね」
「何が?」
「あなたは父さんと麻季さんが下した決定に不満なんだと聞いていました」
「うん。そうだった。怜子ちゃんからはそう思われていたかもね。兄貴からも」
「でも、この間奈緒ちゃんに会ってわかった。少なくとも彼女は現状に不満を感じていないのよ。少なくとも、今の彼女には人生をかけるくらいの目標があるものね」
「ピアノですか」
「麻季さんの幸せだと思うよ」
唯さんは笑った。そしてゆっくりとした動作で立ち上がった。
「じゃあ、追い出すようで悪いけど、今日はもう帰ってもらおうかな。私は明日も仕事で朝早いのよ」
「わかりました」
「ごめんね。これからはいつでも訪ねて来てね。あなたたちが来てくれると私も嬉しい」
「・・・・・父さんにはまだ会わないんですか?」
「うん。兄貴には会う気はないよ。じゃあね。気をつけて帰ってね」
マンションを出て、海風に吹きさらされたとき明日香が僕に抱きついた。唯さんのとの面会を終えても、明日香は別に何か感想を言うでもなく、ただ僕の腕を引いて駅の方に歩いていくばかりだった。その様子が僕を安心させてくれた。
「スーパーに寄って行くよ」
明日香が言った。
「うん。夕食の準備?」
「今日はパパとママが帰って来るって」
この忙しいときに二人が帰って来るのなら、それは奈緒の情報が怜子叔母さんあたりから二人に入ったのだろう。
「そうか」
「何を作ればいいと思う? 夕食に」
明日香が聞いた。
「そんなことを聞くほどおまえのレパートリーってないんじゃね?」
明日香が不満そうな表情をしたけど、僕の言っていることは間違いではない。
「じゃあ、聞くけどさ。お兄ちゃんは何が食べたい?」
「明日香が作ってくれるなら何でもいいよ」
「また、そういう適当なことを言う」
「慣れておかないとね。この先、一生明日香の料理を食べて生きていかないといけないしな」
明日香が赤くなって俯いた。
「・・・・・うっさいなあ。あたしだってすぐに上達するよ」
「うん。期待しているよ」
明日香の手がいったん僕の腕から離れ、そして僕の手を握り締めた。
「・・・・・・うん」
明日香が言った。
「期待していいよ。頑張るから」
from:太田怜菜
to:結城先輩
sub:ご無沙汰しています
『でも今になってみると先輩の気持ちがわかります。今では本当にこの子のためなら何でもできると考えている私がいます。正直一人で育てていますので辛いことはいっぱいあります。でもこの子の寝顔を見ていると頑張らなきゃって思い直す日々を送っています』
『もう結城先輩とお話する機会はないでしょうし、ご迷惑でしょうからメールもこれで終わりにします』
『お互いに伴侶の不倫を慰めあっているうちに恋に落ちる二人。そんな昼メロみたいなことをわたしは期待して先輩をあの喫茶店に呼び出しました。そして、先輩はわたしが旦那と別れるなら自分も麻季と別れるって言ってくれました。もちろんそれは先輩がわたしに好意があるからではないことは理解していました』
『でも奈緒人君への愛情を切々と語る先輩の話を聞いているうちにあたしは目が覚めました。奈緒人君から母親を、麻季を奪ってはいけないんだと。そしてその決心は自分の娘を出産したときに感じた思いを通じて間違っていなかったんだなって再確認させられたのです』
『これでわたしの非常識なメールは終わりです。先輩・・・・・・。大好きだった結城先輩。こんどこそ本当にさようなら。麻季と奈緒人君と仲良くやり直せることを心底から祈ってます』
fin
552 : 以下、名... - 2015/11/13 23:06:01.26 Pdi5/GxHo 442/442
以上で終了です
もう少ししたらHTML化を申請します。それまではスレが残っていてもご了承ください
それではここまで読んでいただいてありがとうございました

