1 : 以下、名... - 2014/11/26 23:37:38.21 incPBixuo 1/442
以前中断したSSを再開します。SSと言っても地の分&固有名詞設定ありなので、苦手
な方は回避してください。
あと、前作はプロットを広げすぎたので、二作に分けて投下しようと思います。具体的に
は犯罪性の強い「女帝」関係は、次のSSに譲り、今回はナオトとナオ、明日香の関係に
フォーカスする予定です。
かけもちなので後進速度は非常に遅くなると思うし、最初の方は前のSSとほとんど同じ
内容の再投下になるので、前作をご覧になった方にはまとめ読みをお勧めします。
※管理人より注記
以前に公開しました、ビッチ(改)の、改行位置を調整したものです。
内容に違いはありません。
第一部
僕はその日の朝、普段より早く起き過ぎってしまったのだった。
母さんを起こしたくない。僕は反射的にそう思って、爪先立って僕と妹の部屋が並んでいる二階の部屋を通って階下に降りようとした。この時の僕は熱いコーヒーを飲みたかった。冬の身が凍るような早朝のことだった。
妹の部屋の前を通り過ぎようとした時、その部屋のドアが少し開いていることに 気づいた。
何気なくドアの向こうを覗くと妹がだらしない姿勢でベッドの上にしどけなく横になっている姿が目に入った。妹は剥き出しの腕を伸ばしたまま仰向けに寝ていて、普段はうざいくらいに口うるさくやかましいことが嘘のような子どもっぽい表情だった。
妹の部屋から暖房の熱気が漏れ出していた。またエアコンを付けっぱなしで寝たのだろう。こいつは何をするにもこういう具合にだらしない。
暖房のせいで暑かったのか妹はTシャツとパンツしか身にまとっていなかった。子どもっぽいあどけない表情を裏切るように、成長中の妹の悩ましい肢体が目に入ったけど、僕は慌てて目を逸らした。
こいつの体を見つめているところなんかをこいつに見られたらどうなるのかは僕にはよくわかっていた。以前にも同じようなことがあったからだ。
こいつはわざとらしい悲鳴をできる限りの声量でわめきたて、何事かと駆けつける父さんと母さんに対して「お兄ちゃんがあたしの裸を覗いたの」と騒ぎ立てて訴えるのだ。
そんな騒ぎは二度とはごめんだった。僕は妹から目を逸らして妹の部屋を通り過ぎて階下に降りた。
思ったとおりこの時間の朝のキッチンにはいつもは家中で一番早く起きる母さんの姿はなかった。
僕はやかんに少しだけ水を入れてコンロに火をつけた。このくらいの量の水ならすぐに沸騰するだろう。
早起きしてしまったせいで登校するまでにはまだ時間が十分あった。何でこの日だけ早起きしてしまったのかはわからないけど、その恩恵には十分にあずかれそうだった。
僕は父さんのことも母さんのことも嫌いではない。この二人から高校生活のことや部活のこととかを質問されながら朝食の時間を過ごすのも悪くはない。
ただし、それは妹が一緒に食卓についていなければだ。あいつがいると、僕のこの間のテストの成績を誉めようとしてくれた母さんは口をつぐみ、部活のことを楽しそうに聞いてくれている父さんまで黙ってしまう。
要するに妹がいると父さんと母さんは僕とまともに会話できなくなってしまうのだ。
あいつはこういう時いつも僕の話に水をさす。
「お兄ちゃん(と両親の前では昔のように妹は僕のことを呼んでいた。二人きりのときはあんたと呼ぶか人称さえないことが普通だったけど)のことばっか話すよね、母さんたちは。どうせあたしはお兄ちゃんみたいないい子ちゃんじゃないし成績もよくないよ。でもだからといってあたしのこと無視しなくてもいいじゃない」
こうなると父さんと母さんは気まずそうに僕から目を逸らして黙ってしまうのだ。
だからせっかくたまに早く目を覚ました朝なんだし、朝食抜きでお湯が沸いたらコーヒーだけ飲んでさっさと高校にでかけてしまおう。今日は友人の渋沢がコンプしたゲームソフトを貸してくれることになっていたから、DSを忘れずに持って行こう。
そう考えると僕は早い時間にも関らず少し焦ってきた。誰も起きる前にメモを残して家を出なければならない。メモには用事があるから早めに登校しますと書いておけばいいだろう。
そこまで考えたときにやかんがピーッと鳴ってお湯が沸いたことを告げた。
僕はインスタントコーヒーの粉を入れたマグカップにお湯を注ぎ、リビングのソファに座ってテレビを点けた。早朝の天気予報が画面に映し出される。
今日は突然集中的に雨が降ることがあるらしい。窓の外の冬の朝の様子からは降雨の予感は少しも感じられないけど、天気予報で気象庁がそう言っている以上傘を用意した方がよさそうだ。
僕はコーヒーを飲み干すとカップを流しに片付けてから登校の準備にかかった。顔を洗って歯を磨き制服に身を通してもまだ家族が起きてくる様子はなかった。着替えるのとカバンを取るために一度自分の部屋に戻る途中で妹の部屋をちらっと眺めたけど、妹は相変わらずだらしなくでもしどけない格好で自分の体を晒しながら寝息をたてていた。
僕はこの日、両親には用事があるので早く登校するというメモだけをテーブルに残して家を出た。
今朝は偶然に早起きしたせいで妹と顔をあわせずに済んでよかった。僕は駅への坂道を下りながら思った。僕がいないだけなら両親と妹はそれなりにうまくやっていける。ちょっと早起きして早出するだけで両親も僕も、そして多分妹も朝から余計なストレスを感じずにすむのだ。
父さんだけではなく母さんも仕事を持っているのだし、朝から嫌な想いなんてしたくないだろう。それでも懲りずに妹の前で僕に話しかけてくれる父さんと、特に母さんには僕は感謝していた。
駅に向う坂道の途中で僕はほほに雨滴を感じた。雨が降るようには思えなかったけど天気予報は正確なようだった。でもこの程度の小雨のうちに駅まで辿るつけるだろうと僕は思った。傘は持っていたけど開かずに済むならその方がいい。僕は込んだ電車の中で濡れた傘を持つのは嫌いだった。濡れた傘が自分の足にべっとりとついてズボンが濡れることも嫌だったけど、それ以上に他人の服に自分の濡れた傘が当たるのも気が引けて嫌だった。
でも込み合った電車の車内ではそれを回避するのは難しかった。
もう少しで駅が見えてくるところで、突然アスファルトとの路面に雨が叩きつけられる音が響き出した。結構な雨量だった。
傘を開こうとしたとき、目の前に電車の高架下のスペースが目に入った。とりあえずあそこなら雨には打たれない。そこまで行ってから傘を開こう。僕は高架下の濡れない場所に向かって走り出した。
そこには先客がいた。
僕はその女の子を呆然として眺めた。
華奢な肢体。背中の途中くらいまで伸ばした黒髪。セーラー服に包まれた細い体つきの女の子。
中学生くらいのその子は戸惑ったように高架下から雨の降りしきる景色を眺めていた。これでは傘がなければここから動くこともできないだろう。
それまで彼女だけしか存在しなかったその空間に迷い込んだ僕は自分の傘を眺めた。とりあずこの傘を開けば駅まで辿り着ける。天気予報を見ていてよかったと僕は思った。
その時、誰かが高架下に入ってきたことに気がついた女の子が振り返って僕の方を見た。それで初めて僕はその子の顔を見ることができたのだった。
それは僕がこれまで実際に会ったことのないほどの美少女だった。これまで僕は女の子と付き合ったことはなかったし、年頃の女の子については妹のだらしない生活ぶりを目の当たりにしていたおかげで全く幻想を抱いていなかったけど、その朝その子を見た時、僕の中で何かの感情が揺り動かされた。
普段から女の子と話すことが苦手な僕には考えられないことだったけど、僕はその子と視線を合わせた時、自然に彼女に話しかけることができた。
「君、傘持ってないの?」
僕の言葉に彼女は戸惑った様子だった。でも彼女は思ったよりしっかっりした声で僕に返事をしてくれた。
「あ、はい。今日は雨が降るなんて思わなかったから」
彼女の表情は僕に気を許したものではなかったけど決して警戒しているものでもなかった。
「君も駅に行くの?」
僕は彼女に聞いた。
「はい。でも駅まで行く途中で濡れちゃいそうで」
「じゃあ駅までしか送れないけどそれでもよかったら一緒にどうですか」
その女の子の顔に一瞬だけ警戒しているような表情が浮かんだけど、彼女はすぐにその表情を消した。
「いいんですか?」
「うん」
この時の僕は少女の整った可愛らしい顔を呆けたように眺めていたに違いない。
「多分降りる駅が違うから、そこの最寄り駅までしか送れないけど、それでもよかったら」
「ありがとう、じゃあお願いします」
女の子が言った。「駅まで行けば売店で傘を買えると思いますから」
僕は傘を開いて彼女の方に差しかけた。彼女は遠慮がちに僕の方に身を寄せてきた。
その朝、僕は偶然登校中に出会った女の子を駅まで送っていったのだった。彼女と出合った場所から駅までは十分もかからない。駅に着くまでの間、僕は何を話していいのわからなかったし、傘に入れたくらいで馴れ馴れしく振る舞う男だと思われるのも嫌だった。
そして彼女の方も特に何を話すでもなかったので僕たちは傘に強く降りかかる雨の中を無言のまま駅に歩いて行った。
駅の構内に入ると傘を叩いていた雨音が突然途切れ、通勤通学客でにぎあう構内の騒音が僕たちを包んだ。僕は傘を閉じた。そのままお互いにどうしていいのかわからない感じで僕たちはしばらく黙ったまま立ちすくんでいた。
やがて彼女は僕の側から離れ恐縮したようにお礼を言ってから、僕とは反対側のホームに向うエスカレーターの方に去っていった。
僕はその場に留まってしばらく彼女の方を眺めていた。その時ふいにエスカレーターに立っていた彼女がこちらを振り向いた。少し離れた距離で僕たちの視線が絡み合った。
僕が狼狽して彼女から視線を逸らそうとした時、初めて少し微笑んで僕の方に軽く頭を下げている彼女の姿が僕の目に入った。
学校の最寄り駅に着いて電車を降りる頃には突然の雨はもう止んでいた。その雨は天気予報のとおり突然集中的に振り出し突然降り止んだようだ。
これが夏ならこういうこともあるだろうけど、十二月もそろそろ終るこの季節にこういう天気は珍しい。でも夏と違って雨の後に晴れ間が広がったりはせず、天気は雨が降り出す前の暗い曇り空に戻っただけだった。
僕は閉じたままの傘を抱えて学校に向う緩やかな坂道を歩き出した。
確かに嫌な天気だったけど、あそこで突然に強い雨が降り出さなければ僕があの子を傘に入れて駅まで寄り添って歩くこともなかった。
今思い出そうとしても今朝出会った少女の顔ははっきりと思い浮んではくれなかった。無理もない。最初にこちらを驚いたように振り向いた時以外は僕は彼女の顔を直視できなかったのだから。
それでも僕は名前すら知らない少女に惹かれてしまったようだった。ただその甘い感傷の底の方にはひどく苦い現実が隠されていたことにも気がついてはいた。
いくら僕がさっき出合った少女に惹かれようがその想いには行き場がないのだ。僕は彼女の名前も年齢も学校も知らないまま彼女と別れたのだから。
時折思うことだけど、僕がこんなに内向的で自分に自信のない性格でなければ、例えば同級生の渋沢のように相手の女の子にどんなにドン引きされても図々しくメアドを交換しようとか積極的に言えるような性格なら、ひょっとしたら今頃僕は今朝出合った少女のアドレスを手に入れていたかもしれない。
そして僕がそういう社交的で積極的な性格に生まれていたら、ひょっとしたら妹との関係だって今とは違っていたかもしれない。あの妹だって理由もなしに僕のことを毛嫌いしているわけではないだろう。多分うじうじしていてはっきりしない僕の性格を妹は心底嫌っているのだろう。
でもそれは考えても仕方のないことだった。
「何でそんなに暗い顔してんだよ」
教室中に響くような声で渋沢が話しかけてきた。いつもより早目に教室に入ったせいで登校したた時には教室内にはまだ誰もいなかった。
それで僕は自分の席でさっきの少女との出会いを思い返していたのだけど、そんなことをしている間にいつのまにか登校してくる生徒たちで教室は一杯になっていた。
僕は登校してきて隣の席に座ったばかりの渋沢の方を見た。
「何でもないよ。つうか僕、暗い顔なんてしてるか?」
「してるしてる。おまえってもともといつも暗い顔してんだけどよ。今日は特にひどいよ」
「まあ、昨日もちょっと家で揉めたからね」
僕は少し苦々しい声でそれを口に出してしまったようだった。渋沢の表情が真面目になり声も少し低くなった。
「それは悪かったな」
「いいよ、別に」
「おまえ、また義理の妹と喧嘩したの?」
「僕は別にそんな気はないけどさ。あいつがいつもみたいに突っかかって来たから」
「それでまた気まずくなちゃったってことか」
「まあね」
そこで渋沢は少し真面目な顔になった。
「前にも聞いたけどさ。何でおまえの妹ってそこまでお前のこと毛嫌いするのかね。ここまで来るとおまえが言ってたみたいにおまえの性格が気に入らないだけとも思えねえよな」
「知らないよ。あいつに嫌われてるって事実だけで十分だろ。原因なんてあいつが言わなきゃわかんないし」
「ひょっとしたらさ。そういうおまえの淡白な態度に問題があるじゃねえの」
「・・・・・・どういうことだよ」
「うまく言えねえけどさ、おまえの妹って何かおまえに気がついて欲しいこととかがあってわざと突っかかって来てるんじゃねえかな」
それが正しいかどうかはわからないけど、渋沢の言っていることは僕がこれまで考えたことがあった。あいつが何かを訴えている? そのために僕に辛く当たっている?
そうだとしても僕にはあいつが僕に訴えたいことなんか見当もつかなかった。
「ひょっとしたらさ。おまえの妹っておふくろさんとおまえの親父の再婚のこと面白く思ってないんじゃねえのかな」
それは僕もこれまで何度も考えてきたことだったから、それについては僕は渋沢に即答できた。
「それはない。あいつは僕の父さんとは普通に仲がいいんだ。だからあいつが僕を嫌っているのは父さんたちの再婚とは別の話だと思う。だいたい再婚って言ったってもう十年くらい前の話しだし」
「じゃあ、やっぱりおまえに原因があるんだ」
渋沢がさらに話を続けようとした時、担任が教室に入って来た。
渋沢に義理の妹の話を持ち出されて僕は思わず真面目に答えてしまったけど、妹の態度については昔からなので僕はそのことについては半ば諦めていた。
妹とのことは別に今に始ったことではない。僕にはどこかで僕とは無縁に生活しているはずの実の母親の記憶はないし、物心ついた頃から今の家族と一緒に生活してきたのだ。だから僕は母さんが自分の本当の母親ではないなんて考えたこともなかった。
去年のある夜、僕と妹が両親に呼ばれて初めて事実を告げられた日、僕はその時に自分の本当の母親が他にいることを知って動揺したのだけど、妹はその時もその後も別にたいして悩んでいる様子はなかった。
きっと妹は前から知っていたのではないか。僕と妹が本当の兄妹ではないことを。
普通に考えれば両親が再婚した時、妹は僕以上に幼かったのだから彼女が真実を覚えていることは考えづらういけど、きっと親戚か誰かに聞いていたに違いない。
だから去年両親から僕たちが本当の兄妹ではないことを知らされたそれ以前から、妹は僕のことを嫌っていたのだろう。再婚に反対してではなく、多分実の兄妹なら許せることでも、赤の他人である僕の優柔不断な性格が妹の気に触っていたのかもしれない。
でもそのことは去年から考えつくしていたことだったし、授業に集中できない僕がその日一日中考えていたのは妹のことではなくて、今朝出会った少女のことだった。
ほんの一瞬だけ僕の人生に現われた少女。でも僕と彼女の関わりはその一瞬だけだ。
彼女のこの先の人生に登場する人物の中に僕の名前はないのだ。そしてもう二度と僕は彼女と会うことはないだろうし、たとえ偶然に出会ったとしても無視されるかせいぜい黙って会釈されるかだろう。
そんな自虐的な考えを僕はその日一日中繰り返していたのだった。
授業が終わり部活に行こうとしている兄友に別れを告げると僕は学校を出た。校門の外に出た時、渋沢が今日持ってきてくれるはずのゲームソフトを受け取っていないことに気がついたけど、それはもう後の祭りだった。
僕が自宅に着いてドアを開けようとした時、逆側からそのドアが開き妹が出てきた。
妹は相変わらず中学生とは思えな派手な姿だった。爪には変な原色の色彩が施され冬だというのにすごく短いスカートを履いている。アイシャドウも濃い目、手に持っている小さなハンドバッグはラメが一面にごてごてと派手に刺繍されているものだ。
僕は思わず今朝出会った彼女のことを思い出して妹と比較してしまった。多分彼女も妹と同じで中学生くらいだと思う。はっきりとは見ていないので確かとは言えないけど、彼女は目の前の妹と違って普通に清楚な美少女だった。それは短い僅かな言葉のやり取りにも表れているように僕は思った。
何で同じ中学生なのに妹と彼女はここまで違うのだろう。僕はそう思った。
でも今はトラブルは避けたい。ただいまとだけ妹に向ってもごもご呟いた僕は、これからどこかに遊びに行く様子の妹を避けて家の中に入ろうとしたその時だった。
「あんたさ」
妹が僕に話しかけてきた。
「え」
「今朝どっかの女と相合傘してたでしょ」
行く手を遮るように僕の正面に立った妹が言った。
「何でおまえが知ってるの」
いきなりの奇襲に面食らった僕は何とかそれだけ言い返すことができた。
「何でだっていいでしょ。あれあんたの彼女? つうかキモオタのあんたにも相合傘するような相手がいるんだ」
最初僕は正直に偶然出会った女の子を駅まで傘に入れただけだよと言い訳するつもりだったけど、悪意に満ちた妹の声を聞いているとそんな言い訳する気すら失われていった。
「それこそどうだっていいだろ。おまえには関係ないじゃん」
僕の言葉を聞いた妹は目を光らせた。いつもなら戦闘開始の合図だった。僕は少し緊張して立ちはだかる妹の方を見た。
「・・・・・・何じろじろ見てんのよ。そんなに女の体が珍しいの? 気持悪いからあたしの体を見るの止めて欲しいんだけど」
こんなやりとりは僕にとっては日常のことだ。僕は必死に自分の感情を抑えた。早く妹にどっかに行ってしまって欲しい。そうすれば僕は一人で心の平穏を保てるのだ。
「あんた、彼女いたんだ。あの子どう見ても中学生くらいだったけど」
僕はもう何も言わないことにした。むしろ早く家の中に入ってしまいたいけど玄関前に立ちはだかる妹をどかそうとすれば彼女の体に触れざるを得ない。
僕に自分の体を触れられた妹がどういう行動を取るのかは、これまでの苦い経験でよく学んでいた。だから僕にはひたすら沈黙し、妹が出かけていってしまうことを待つことしかできなかった。
「その子もきっと無理してるんだろうな。会うたびに自分の体をあんたにじろじろ見られてるんでしょ? きっと」
「だんまりかよ。まあいいや。今日父さんも母さんも帰り遅いって。あたしは出かけてくるから」
「ああ」
僕はそれだけ返事した。
「ああ」
妹は鸚鵡返しに僕の言葉を真似して言った。「あんたコミュ障? ゲームの中の女としか喋れないわけ? そんなことないか。可愛い中学生の彼女がいるんだもんね」
ひたすら言葉の暴力に耐えているとようやく妹は僕を解放してくれた。
そして妹はもう僕のことなんか振り返らずに大股で雨上がりの夕暮れの中を駅前の方にずんずんと歩いていってしまった。
その夜、両親は帰って来なかった。あいつは父さんたちが今日遅くなると言っていたけど、多分正確な伝言は今日は帰れないだったのだろう。僕への嫌がらせに間違った伝言を僕に伝えたに違いない。
両親が帰って来ると思っていた僕はその晩夕食を食べ損ねた。キッチンにあったポテトチップスを少し食べて空腹を紛らわせた僕は、そのままベッドに入って寝てしまおうと思った。
昨日に続いて今朝も早朝に目を覚ませてしまった。重苦しい気分で目を覚ました僕は傍らで抱きついて寝入っている妹を見てぎょっとした。
何だ、これは。
妹は僕の脇に横たわってぐっすりと熟睡していた。さっき感じた重苦しさは昨日妹に嫌がらせをされた精神的なものではないかと思っていたのだけど、実はベッドの中で妹の体重支えていた身体的な重苦しさなのかもしれなかった。
妹の寝顔は彼女のいつものこいつの酷い態度と異なって子どもっぽいものだった。昨日こいつの部屋で覗いた妹の表情と同じだった。
何で妹が僕のベッドにいて僕に抱きついているのかはわからない。でもこのままこいつが目を覚ませば自分の行為はさておいて、僕に無理矢理レイプされかかったくらいのことを両親に言いかねない。ひょっとしたらそのためにわざと僕のベッドに入ってきたのかもしれない。
僕は妹を起こさないよう極力そっと自分のベッドから抜け出した。そして、そのまま着替えと学校に持っていくカバンだけ持ってリビングに向った。
やはり両親は昨晩は帰宅していないようだった。僕は朝食もコーヒーも全て省略し、急いで制服に着替えて家を出た。
何とか妹の罠から脱出することができた。駅に向かっているとようやく僕は緊張から開放されるのを感じた。
妹の理不尽な態度に酷い目に会ったのこれが初めてではないけど、ここまで直接的な嫌がらせをされたのは初めてだった。でも僕は幸いにもその罠にかからずに済んだのだった。
僕が妹のことを考えながら駅前の高架下を通り過ぎようとした時、誰かに声をかけられた。
「あの・・・・・・おはようございます」
僕はその声の方に振り向いた。昨日出会った所に真っ直ぐに立って僕に声をかけたのは、二度と会うことがないだろうと思っていた昨日の少女だった。
突然のことに声を失っていると彼女は僕の方に寄って来て言った。
「お会いできて良かったです。会えないんじゃないかと思って心配してました」
彼女は僕の方を見て微笑んだ。
「ああ、偶然だね」
その時僕は彼女に会えたことに驚いて呆然としていたのだけど何とか間抜な返事をようやく口にすることができた。
「偶然じゃないんです」
相変わらず僕に微笑みかけながら彼女は僕の言葉を否定した。
「昨日はちょっと急いでいてちゃんとお礼を言えなくて」
「お礼って・・・・・・傘に入れただけだよ」
「どうしようかと思って困っていた時に、傘に入らないって自然に声をかけてくれて本当に嬉しかったんです。でもあの時は何か照れちゃってずっと黙ったままだったし。だから偶然じゃないんです。ひょっとして同じ時間にここにいればまたお会いできるんじゃないかと思って」
「じゃあ、わざわざ僕を待っていてくれたの?」
これは恋愛感情ではないかもしれない。でも一度だけそれも十分程度傘に入れた男に会うためにここまでする必要なんてあるのだろうか。
「はい。無駄かもしれないと思ったんですけど、お会いできて良かったです」
彼女は頭を下げた。「昨日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
僕も頭を下げた。高校生の男と多分中学生の少女が向かい合って頭を下げあっている光景は傍から見たらずいぶんと滑稽な様子に見えたに違いない。
多分彼女も同じことを考えていたのだろう。頭を上げた彼女は再び恥かしそうに微笑んだ。
だいぶ緊張がほぐれてきた僕には、普通に彼女に話しかける余裕が戻って来たようだった。
「君さ。昨日はずいぶん急いでいたみたいだけど、今日はこんなところで話していて学校は平気なの?」
僕は昨日に引き続き普段よりもずいぶん早く家を出たから別に急ぐ必要はなかったけど、彼女は昨日の同じ時間に慌しく僕とは反対側の方向に向うホームに向っていたはずだった。
「あ、はい。大丈夫です。昨日は課外活動で朝早く現地集合だったんです」
そこまで詳しくは聞いたつもりはなかったんだけど、彼女は自分の事情を話し出した。
「だから昨日は雨のせいで遅刻しちゃいそうで急いでたんですけど、普段ならもっと遅い時間に登校してるんです。あとあたしの学校って昨日の集合場所とは反対の電車の方向だし」
では彼女の学校は僕と同じ方向にあるのだろう。
ここまでの僅かな会話でも僕は彼女との距離が縮まっていくのを感じた。
・・・・・・誤解するなよ。僕は改めて自分の心の中に警鐘を鳴らした。高校の同級生の志村由里さんの時も今と同じような状況だったじゃないか。親しげに僕に擦り寄ってきた志村の態度を誤解した僕はあの放課後に彼女に告白したのだ。
その時の彼女の返事やその時感じた喪失感はだいぶ時間が経った今でも胸の奥に小さな痛みとして残っている。あの時志村さんは戸惑い、困ったような表情で僕に謝ったのだった。
『何か誤解させちゃったとしたらごめん。あたし君のこと嫌いじゃないけど、本当に好きなのは渋沢君なの』
しばらくして二人が付き合い出して、今ではいつも一緒にいる姿を見ることにも大分慣れてきた。慣れざるを得なかった。渋沢は友だちの少ない僕にとって唯一の親友だったから。
今の状況は志村さんの時よりもっと頼りない。額面どおりに受け取れば礼儀正しい女の子が傘に入れてもらったお礼を改めてしたくて僕を待っていただけのことじゃないか。
そう考えようと必死になった僕だけど、一度胸の中に湧き上がった期待はなかなか理性の指示するとおりに収まってはくれなかった。
「そう言えばお名前を聞いていなかったですね」
少女が言った。「あたしは、鈴木ナオと言います。富士峰女学院の中学二年生です」
それでは彼女は僕の高校より一つ先の駅前にある学校に通っていたのだ。確か富士峰は中高一貫校の女子校だった。
「僕は結城ナオト。明徳高校の一年だよ」
僕も名乗った。でもこれで彼女の名前を知ることができた。
「あの」
再び彼女が言った。これまで僕とは違って冷静に話していた彼女は、少し紅潮した表情で僕の方を見上げた。
「図々しいお願いですけど、よかったらメアドとか連絡先を教えてもらっていいですか」
女の子に耐性のない僕にとってそれはとどめの一撃といってもよかった。自分への警鐘とか女さんの時の教訓とかが僕の頭の中から吹っ飛んだ。
僕と彼女はメアドと携帯の番号を交換した。その事務的な作業が終わると少しだけ僕たちの間に沈黙が訪れた。でもそれは決して気まずいものではなかった。
「そろそろ行きませんか?」
ナオが僕に言った。相変わらず僕に向かって微笑みながら。
「そうだね。同じ方向だし途中まで一緒に」
思わず言いかけてしまった言葉に僕は後悔したため、僕の言葉は語尾が曖昧なままで終ってしまった。
でもナオは僕の言葉をしっかりと拾ってくれた。
「うん、そうですね。同じ方向だし、ナオトさんとまだお話もしたいし一緒に行きましょう」
僕たちは目を合わせて期せずしてお互いに微笑みあった。
11 : 以下、名... - 2014/11/26 23:56:01.72 incPBixuo 12/442
今日は以上です
しばらく以前のスレの再投下が続くと思います
その時、僕の腕が誰かに強く掴まれて引き寄せられた。
「こんなところで何してるの?」
僕の腕にいきなり抱きつき甘ったるい声で上目遣いに僕に話しかけてきたのは私服姿の妹だった。
その派手でケバい姿は清楚なナオと同じ中学二年生とは思えない。突然僕に抱きついてきた派手な女の子の登場に、ナオも驚いて微笑みを引っ込めて黙ってしまっていた。
何でこいつが僕のことを名前で呼びかけて、しかも僕の腕に抱きつくのか。こんなことは今までなかったのに。
そう思った時、僕はさっき僕のベッドの中で僕に抱きついたまま寝入っていた妹のことを思い出した。
嫌がらせか。僕は珍しく本気でこいつに腹を立てていた。昨日僕とナオが一つの傘に入って一緒に駅に向うところを目撃した妹は、今日も僕たちが一緒なのではないかと思いついたに違いない。そしてこいつは僕とナオが恋人同士だと思い込んでいた。
もう間違いない。こいつはわざわざ僕に嫌がらせをするために、こいつが勝手に思い込んでいる僕とナオの関係を邪魔することにしたのだろう。
「どした? ナオト、この人誰?」
妹が僕の腕に抱きついたまま僕の方を上目遣いに眺めながら言った。何か妹の柔らかなものが僕の腕に押し付けられている感触があった。
人というのはこんなんに純粋な悪意によって行動できるのだろうか。父さんたちの再婚以来こいつが僕のことを徹底的に嫌っていることは十分にわかっていた。
自分の部屋のドアを開け放してあられのない姿を僕に見せ付けるのだって、そんな自分の姿を覗こうとする僕のことを父さんたちに言いつけるための嫌がらせだった。
でもそういう妹の行為に対して僕は一定の範囲で理解して許容していたのだ。父さんと母さんは僕のことをいつも誉めてくれる。成績も素行もよく両親の言うことをしっかりと守るいい子だと。そのことが妹にとって強いプレッシャーになっていたことは間違いない。次第に彼女は両親に対して反抗し、僕に対しては攻撃的なまでの嫌がらせを繰り返すようになった。
同時に僕と違う自分を演出しようとしたのか、妹は勉強とか部活とかには背を向けて遊び歩いているグループに入って、両親の帰宅が遅いのをいいことに夜遊びを繰り返ようになったのだった。
僕はこいつの彼氏という男とこいつが一緒に歩いているところを見たことがある。派手な格好で大きな声で傍若無人に振る舞う工業高校の高校生。その時の僕は、自分には関係ないと思いつ自分の妹がこんなやつのことを好きだということに無意味に腹を立てたのだった。
「お邪魔してごめんなさい。あたしもう行かないと」
ナオが戸惑ったような声を出した。さっきとは打って変って笑顔もなく僕に視線も向けてくれなかった。
「いや、ちょっと」
僕がナオにこいつは自分の妹だよと言おうとした時、妹が僕を遮るようにナオに話かけた。
「あ、そう? 何か邪魔したみたいでごめんね。あたしいつもナオトとは一緒に登校してるからさ」
僕は妹に反論してこの一連の出来事が嘘だよとナオに言いたかったけど、その機会を与えてくれずナオは僕と僕の腕に抱き付いている妹にぺこりと頭を下げて、駅の方に去って行ってしまった。ナオはもうこちらを振り向かなかった。
「・・・・・・何でこんなことした」
僕は怒りを抑えて妹を問い詰めた。きっと嘲笑気味に答が帰って来るだろう。僕はそのことは承知していたけど、それでも今朝の妹の仕打ちは許せなかったのだ。
「何でこんなことをしたのか言えよ」
案の定、妹はナオがいなくなるとすぐに僕の腕から手を離した。もともと僕に抱きつくなんて嫌で仕方なかったのだろう。
「あんただって同じことしたじゃん」
僕から離れた妹が目を光らせた。「前にあたしが彼氏と二人で歩いている時、あたしたちのこと邪魔したじゃない」
「ちょっと待てよ。僕は別におまえとおまえの彼氏のことなんか邪魔した覚えはないぞ」
「したよ。町で偶然に出会った時、あんた彼氏のこと虫けらでも見るような目で見てたじゃん」
それは本当のことかもしれなかった。妹のことなんてどうでもいいとは思っていたけど、それにしてもあんなクズと付き合っているとは思ってもいなかったから。だから、意識してしたことではないけど、妹の彼氏らしい男に無意識に見下すような視線を向けていたとしても不思議なことではなかった。
「あんたは確かにあたしたちを見ただけで何もしなかったよ。でもね、ああいう目で見下されただけでも心は痛むんだよ。あの後、彼氏が悩んじゃって大変だったんだから」
妹が言うには自分を侮蔑的な目で見ている奴がいるからちょっと喧嘩を売ってきていいかと妹の彼氏が言ったそうだ。妹があれはあたしの兄貴だよと話すと、そいつは今までの威勢の良さを引っ込めて、俺って本当に駄目なやつに見えるのかなあと言って落ち込んだそうだ。
「その仕返しのためにわざわざ早起きして僕の後を付いて来たのか」
「それにあの子はあんたとは付き合えないよ」
「誰もそんなことは言ってないだろ」
でも妹はもう何も話そうとしなかった。
僕はその場に妹を置いて黙って駅に向って歩き出した。確かに妹の言うことにも一理あるのかもしれない。でも、妹とその彼氏を目撃する前から、妹は僕に対して数々の嫌がらせを仕掛けていたわけで、こんなことは理由にならない。
こいつには言葉が通じない。これ以上話しても無駄だ。そう考えたことは今回が初めてではないのだけど。
ざわめく心を静めながら電車の中で吊り輪に掴まっていた時、携帯電話が振動した。僕は携帯に着信したメールに目を通した。
from :××××@docomo.ne.jp
sub :さっきはごめんなさい
本文『ナオです。教えていただいたばかりのアドレスにメールしちゃいました。彼女さんと一緒で迷惑だったら読まなくてもいいですよ(汗)』
『さっきは待ち伏せしたりお名前を聞いたりとか図々しくてごめんなさい。あと、彼女さんと待ち合わせしてるなんて思わなかったんで、そもそもあんなところでふたりきりでお話ししたこと自体がご迷惑でしたよね』
『本当に昨日のお礼を言いたかっただけなんですけど、万一彼女さんにが誤解したとしたらすいませんでした』
『もう彼女さんに誤解されるようなことはしませんので安心してくださいね』
『それではさっきはほんとにすいませんでした。彼女さんにもごめんなさいとお伝えください』
『ナオ』
ナオからだ。このままナオの誤解が解けないのは嫌だ。そして誤解さえ解いてしまえばこの先もっとナオと親しくなれるかもしれない。僕はその時もうどんなに恥をかいてもいいと思った。
ナオが僕のことを好きでなくてもいい。もうこれ以上僕の心には嘘をつけない。
普段臆病な僕だったけど、この時は妹との関係への誤解を解いてナオと親しくなりたいということしか考えていなかった。
from :○×○@vodafone.ne.jp
sub :Re:さっきはごめんなさい
本文『さっきの女の子は僕の妹です。あまり仲が良くないのですぐにああいう悪ふざけをするんで困ってるんですけど、あいつは僕の彼女ではないよ~』
『せっかく知り合えたのでナオちゃんともっとお話ししたかったです。一緒に登校できなくて残念だよ。また会えたらその時はよろしくね。じゃあさっきは本当にごめんなさい』
送信してたいして間も空けずにナオは返信してくれた。
from :ナオ
sub :Re:Re:さっきはごめんなさい
本文『そうだったんですか。妹さんの冗談だったんですね。まじめに悩んじゃった自分が恥かしいです(汗)』
『でも安心しました。これからも朝一緒に登校していただいたらご迷惑ですか』
『え~い。もう勇気を出して言っちゃえ! ナオトさんって彼女いますか? 正直に言うと昨日雨の中で出会ってからナオトさんのことが気になって昨日夜も眠れませんでした』
『面と向って告白する勇気はなかったんですけど、妹さんのおかげでメールすることができたので頑張って告白しますね』
『一目惚れとか軽い女だと思われるかもしれないけど、ナオトさんのこと気になってます、と言うかはっきり言うとナオトさんのことが好きです』
『明日の朝も駅前の高架下のところで待ってます。よかったらその時に返事してくださいね』
『それではまた明日』
『ナオ』
「ふ~ん。そんなことがあったんだ」
渋沢が学食のカツカレー大盛りを食べながら言った。
昼休みになってすぐ、僕は渋沢に昨日と今朝の出来事を全部話して相談した。
「よかったじゃんか。初めて会って気になってた子が次の日におまえに告ってくるなんて、何かのアニメみてえだな」
それは渋沢に言われるまでもなく自分でも考えていたことだった。こんな僕にはもったいないほどの幸運としか言いようがない。
「まあ素直におめでとうと言っておこう。由里もこのことを聞いたら喜ぶよ。どういうわけかあいつ、やたらおまえのこと気にしてるしさ」
志村さんは約束どおり僕の恥かしい勘違いの告白のことを誰にも言わなかったようだ。彼女は彼氏の渋沢にさえ、その告白を黙っていてくれたのだ。
「そんで明日も駅前で待ってるんだろ、その富士峰の中学生の子って」
「うん」
「きっちり決めろよ。おまえいざと言う時無駄に迷うからな。こういう時は余計なことを考えずに素直にただ一言、俺もおまえが好きだ、でいいんだからよ」
「・・・・・・僕も君が好きです、じゃだめかな?」
「それでもいい。僕とか君とは普通は言わねえけど、おまえはそれが口癖になっちゃってるしな。変に気取ってもすぐにばれるだろうしよ」
渋沢に相談していると僕はだいぶ気が楽になってきた。ナオのメールを見た時の興奮や歓喜は時間が経つにつれ僕の中でプレッシャーに変化していた。
こんなに都合よくあんな美少女が僕に告白するはずがない。だとしたら何で彼女は出会った翌日にろくに会話したこともなくどういう男かわからない僕なんかに告白したのだろう。しかも今朝は妹の嫌がらせもあったわけで、彼女の僕に対する印象は最悪のはずだった。
でも渋沢はそんな僕の心配なんか今は考える必要なんかないと言った。
「おまえのことが気になって夜も眠れないとかメールにはっきり書いてあるじゃん。これ以上彼女に何を求めてんの? おまえ」
「とりあえず彼女のことが気になるんだろ? それなら明日君が好きって言えよ。付き合ってみてこんなじゃなかったって愛想つかされることなんか心配してたらいつまで経っても彼女なんかできねえぞ」
多分渋沢の言うとおりなのだろう。
彼に励まされ背中を押された僕は明日の朝、彼女に僕も君のことが好きだと返事することにした。明日までの緊張に耐えられそうになかったので、できれば今日中にメールで返事をしたかった。渋沢もメールでもいいんじゃね? って言っていたけど、彼女からは明日の朝返事をするように言われていた僕は、とりあえず緊張に耐えながら彼女の言葉に従うことにしたのだった。
帰宅すると家には誰もいなかった。両親は今夜も遅いか職場で泊まりなのだろう。もともとうちは昔から両親が家にちゃんといる方が珍しいという家庭だった。
僕にとって幸いなことに、最近では珍しく二日間も連続して僕に嫌がらせをしてきた妹も今夜はまだ帰宅していなかった。多分彼氏と夜遊びでもしているのだろう。妹は両親がいない夜は家にいる方が珍しいのだ。
そしてそんな妹のことを、僕は余計なトラブルを起こすのが嫌だったから両親に告げ口とかしたことはなかった。妹がよく言うようにあいつのことは僕とは関係ないのだ。
とりあえず今日は簡単な食事を作って寝てしまおう。僕は明日の朝、ナオの告白に返事をしなければならない。そんな重大な出来事を抱えて普段のように夜を過ごすことなんか考えられなかった。実際、今だって胃がしくしく痛むほどのストレスを感じているのだから。
僕は妹がいないことを幸いに、義務的に味すら覚えていないカップ麺だけの食事を済ませるとさっさとベッドに入って目をつぶった。
ようやく眠りにつきそうだった僕は、階下でどたんという大きな音が聞こえたせいで目を覚ましてしまった。
大きな物音に続いてけたたましい笑い声がリビングの方から響いてきた。僕は強く目をつぶって階下の出来事を無視しようとした。明日は早起きしてナオに告白しなければいけない。こんな夜に階下に下りていくのは心底から嫌だった。少しだけこの騒音を耐えていればすぐに収まるに違いない。僕は無理にもそう思い込もうとした。
父さんと母さんが深夜に帰宅したときは僕たちを起こさないようひっそりと帰宅して、できるだけ音を立てないようにシャワーを浴びたりしてくれていることを僕は知っていた。だから階下のこの騒音は夜中に帰ってきた妹に違いないのだ。
階下の騒音を無視することして毛布を頭からかぶろうとしたとき、ポップミュージックの音が強烈な音量で流れ始めた。ここにいてさえやかましいくらいのボリュームだ。
しばらくして、僕はついにこのまま寝入ることを諦めた。これでは近所の人たちにも迷惑なほどの音量だったし、このまま放ってはおけない。
階下に下りてリビングに入った僕はまっすぐにオーディオ機器の方に向かい、アンプの電源をオフにした。突然静まり返ったリビングのソファには、思っていたとおりだらしなく横たわっている妹の姿があった。
リビングの床には脱ぎ散らかした妹の派手な服が転々と乱れている。当の妹はお気に入りの音楽を消されて、ソファから起き上がり何か聞き取れない声で怒鳴りながら僕に掴みかかってきた。
妹の顔が僕のそばに寄ってくると強く酒の匂いがした。やっぱり飲んでいたのだ。
「何で勝手に音楽消すのよ。あんたには関係ないでしょ」
妹が僕を睨んだ。でもその声は呂律が回っていなかった。
「近所迷惑だろ。何時だと思ってるんだよ」
「うっさいなあ。あたしのそばに来ないでよ」
妹は明らかに泥酔しているようだった。
「とにかくシャワー浴びて寝ちゃえよ。ガキの癖に酒なんか飲むからこんなことするんだろうが」
僕は本当にイラついていた。明日は早起きしてナオに告白しなければいけないのに。何でこういう日にこいつはこんなトラブルを持ち込むのだろう。
「ガキって何よ、ガキって」
妹はふらつきながら再び僕を睨んだ。
「とにかくシャワー浴びて寝ろ。今ならまだ母さんたちにばれないから」
こういうことは前からたまにだけどあったけど、ここまで酷いのは初めてだった。僕は妹との間にトラブルを起こすのが嫌だったから、こいつが飲酒していることはこれまで両親には黙っていた。
それでも今夜のこれは酷すぎる。ここまで来ると黙っている僕さえも同罪かもしれない。僕は一瞬両親にこのことを話そうかと思ったけど、すぐにその考えは脳裏から失われた。
今の僕はそれどころではない。中学生の妹の飲酒癖は早めに直した方がいいに決まっているけど、結局は妹の自己責任というか自業自得じゃないか。
僕は明日早起きして駅までナオに会い、彼女の告白に返事をしなければならない。こんな深夜に妹の面倒をみている場合ではないのだ。
「どいてよ」
突然妹がそう言って僕の横をすり抜けリビングを出て行った。しばらくすると浴室の方からシャワーの音がした。僕はほっとした。これで少しは妹も正気に戻るだろう。
僕は妹が脱ぎ散らかしたコートとかハンドバッグとかを拾い集めた。もうこんな時間だから両親は泊まりで仕事をしているのかもしれないけど、万一遅い時間に帰宅したときにこんなリビングの様子を見られるわけにはいかない。
それは姑息な誤魔化しだったけど今の僕には他にいい手段は思いつかなかったのだ。
ソファを片付けているとその片すみにバーボンの小さいボトルが転がっているのが見えた。粋がっている中高生の飲酒なんてせいぜいビールとか缶入りの梅酒とかだろうと思っていたのだけど、それはアルコール度数40の強い酒だった。仮にこんなものをどこかで飲んでいたとしたら妹が家に酔っ払って帰ってきたとしても不思議はない。
僕はため息をついてそのボトルに残っていた酒をキッチンのシンクに流して捨てた。
リビングがだいたい片付いた頃、リビングのドアが開いて全裸の妹が戻ってきた。
茶髪が濡れているところを見るとシャワーを浴びていたのは本当だったようだ。こいつはろくに髪も体も拭いていないのだろう、髪も体もびしょ濡れのままだ。
「お兄ちゃんの言うとおりにシャワー浴びたてきたよ」
さっきまで激怒していた妹が嫣然と僕に微笑みかけた。
「どう?」
「どうって何が・・・・・・つうか服着ろよ」
僕は妹の裸身から目を逸らした。何でこいつが突然僕にお兄ちゃんなんて話しかけるのだろう。そもそも何でこいつは服を着ていないのだ。
「お兄ちゃん、ちゃんと見て。これでもあたしはガキなの?」
先入観から僕は妹の肌とかは穢れていて汚いという印象を持っていた。彼氏がいたり夜遊びするような妹が清純な少女のはずはない。
でも目を逸らさなきゃと思いながら思わず見入ってしまった妹の裸は綺麗だった。あれだけ遊んでいるビッチとは思えないほど。
白い肌。思っていたより控え目な胸。細い手足。
「ねえ。これでもあたしってガキなの?」
妹が僕の方に近づいてきた。「あたしを見てどう思った?」
クスクスと笑う妹の声。
「あ、そうか。お兄ちゃんってキモオタだから見ただけじゃわかんないのか」
「おい、よせよ。僕たちは兄妹だろ」
「何言ってるのよ。本当の兄妹じゃないじゃん。それにそんなことは今関係ないじゃん」
妹が裸の腕を僕の首に巻きつけようとした時だった。
「あれ、何か揺れてるよ。あれ」
シャワーを浴びたことも効果がなかったようだった。妹は酔いが回って目を廻したのだろう。
妹が床に崩れ落ちる寸前に僕は妹の裸身に手を廻して辛うじて彼女を支えることができた。
妹は僕に抱きかかえられたまま寝入ってしまった。酔いつぶれている人間を二階の部屋のベッドに運び込むことがこんなに大変なことだと僕はその日初めて思い知らされた。
手っ取り早くお姫様抱っこしようとしてもぐんにゃりとした妹の体はとても持ち上げることはできなかった。結局僕は妹をの肩を抱きかかえて半ば無理に立たせた彼女を引き摺るようにしながら、ようやく二階の彼女の部屋に運び込むことができた。
もう下着とか服を着せるのは無理だった。僕は妹をベッドに投げ出してこいつの裸身に毛布をかけてから自分の部屋に戻った。
泣きたい気分だった。仲の悪い酔った妹から裸を見せつけられるような悪ふざけをされた。早寝するどころではないうえ、明日、というか今日の早朝には寝不足のまま、ナオに会って告白の返事をしなければならないのだ。
いや、そんなことを嘆いている場合ではない。とにかく寝過ごしてはいけない。僕は目覚まし時計のアラームを確認すると携帯のアラームもセットした。明日だけは何としても遅刻できない。
僕は再びベッドに潜った。ようやく眠りについたとき、その短い眠りの中で夢を見た。夢の中の少女はナオでもあり妹でもあった。そしどういうわけか夢の中の少女は清楚で恥かしがりやで、でも積極的な女の子だった。
夢の少女は全裸で僕に微笑んだ。
『一目惚れとか軽い女だと思われるかもしれないけど、お兄ちゃんのこと気になってるの、と言うかはっきり言うとお兄ちゃんのことが好きです』
『ナオトさん、これでもあたしってガキなの?』
『ナオトさんあたしを見てどう思った?」
クスクスと笑う妹の声。いやそれはナオの声だったのか。
「あ、そうか。ナオトさんってキモオタだから見ただけじゃわかんないんですね」
俺に抱きつこうとするナオ、いやそれは妹なのだろうか。
その時、時計と携帯のアラームが同時に鳴り出し僕は目を覚ました。嫌な汗が全身を濡らしていた。
朝食を省略しシャワーだけ浴びて昨日の夢と汗を洗い流して、僕は早々に家を出た。
妹の部屋を覗くと妹はぐっすりと寝入っているようだった。ただし、昨夜僕がかけた毛布ははだけていて、ベッドの上の妹は一糸まとわぬ全裸のままだった。僕は妹から目を逸らした。
緊張したまま駅前の高架下に着くと、所在なげに立ちすくんでいるナオの小柄な姿が目に入った。このまま黙って通り過ぎたいと思うほど、僕の胸は激しく動悸がし、胃は痛んだ。でもここでへたれるわけにはいかない。僕は渋沢の言葉を思い浮かべた。そうだ、既にメールで僕は告白されているのだから、万に一つだってナオに断られることはないのだ。
「あ」
ナオが僕に気がついて顔を赤くして頭を下げた。
「おはようナオちゃん」
「おはようございます。ナオトさん」
彼女は恥かしそうに微笑んだ。でも体の前で震えている手が彼女の余裕を裏切っていた。
こんなに美少女のナオちゃんだって告白の返事を聞くときは緊張するんだ。何だか僕は新しい発見をしたよう気分になり、少し気が楽になった。同時に僕は妹との酷い夜のことを忘れていくのを感じた。
「遅くなってごめんね」
「いえ・・・・・・あたしが早く来すぎただけですから」
しばらく僕たちの間に沈黙があった。でも今日だけはその沈黙を破るのは僕でなければいけない。
「メール見たよ。僕もナオちゃんのこと好きだよ。よかったら付き合ってもらえますか」
僕の前に立っている華奢な少女の目に少しだけ涙が浮かんだようだった。僕は言うことを言ってじっと彼女の返事を待った。
「・・・・・・はい。嬉しいです」
ナオは僕に抱きついてきたりしなかったけど、潤んだ目で僕を見つめてそっと自分の白く華奢な手を伸ばして僕の手を握ってくれた。
それから僕とナオは並んで駅の方に向かって歩き出した。歩き出してからもナオは僕の手を離そうとしなかった。
妹が昨日酔ってたせいで僕は辛い思いをしたのだけれど、結果的に考えるとそのおかげで大切な告白の時間を妹に邪魔されずに済んだのだ。あの酔い具合ではあいつは僕の後をつけて僕の邪魔することなんかできないだろう。そう思いついたからか、無事にナオと付き合えたせいか、僕は急にさっきまでのストレスから解放されて身も心も軽くなっていった。
こんな綺麗な子と手を繋いで歩いているのだ。普段の僕なら緊張のあまり震えていたとしても不思議はなかったけど、さっきまであり得ないほどのストレスを感じていたせいか、今の僕の心中は不思議と穏やかだった。
「僕の降りる駅までは一緒にいられるね」
何でこんなに落ち着いて話せるのか、自分でも可笑しくなってしまうくらいだ。
「そうですね。三十分は一緒にいられますね」
ナオが微笑んだ。もうその顔には涙の跡はなかった。「ナオトさんっていつもこの時間に登校してるんですか」
「普段はもう少し遅いんだ。この間はちょっと事情があってさ」
「そうですか。じゃあ明日からは」
彼女はそこで照れたように言葉を切った。考えるまでもなくこれは僕の方から言わなきゃいけないことだった。
「よかったら明日から一緒に通学しない? 時間はもっと遅くてもいいしナオちゃんに合わせるけど」
彼女は再びにっこり笑った。
「今あたしもそう言おうと思ってました。でもいきなり図々しいかなって考えちゃって」
「そんなことないよ。同じこと考えていてくれて嬉しい」
僕は僕らしくもなく口ごもったりもせず普通に彼女と会話ができていることに驚いていた。緊張から開放され身も心も軽くなったとはいえ、何度も聞き返されながらようやく告白の意図が伝わった志村さんの時とはえらい違いだ。
そこで僕は気がついたのだけど、きっとこれはナオの会話のリードが上手だからだ。赤くなって照れているような彼女の言葉は、実はいつもタイミングよく区切りがついていて、そのため、その後に続けて喋りやすいのだ。
この時一瞬だけ僕はナオのことを不思議に思った。
わずか数分だけそれもろくに口も聞かなかった僕のことを好きになってくれた綺麗な女の子。まだ中学二年なのに上手に会話をリードしてくれるナオ。
何で僕はこんな子と付き合えたのだろう。
それでも手を繋いだままちょっと上目遣いに僕の方を見上げて微笑みかけてくれるナオを見ると、もうそんなことはどうでもよくなってしまった。渋沢も言っていたけど僕には昔から考えすぎる癖がある。今はささいな疑問なんかどうだっていいじゃないか。付き合い出した初日だし、今は甘い時間を楽しんだっていいはずだ。
やがてホームに滑り込んできた電車に並んで乗り込んだ後も、ナオは僕の手を離そうとしなかった。ナオは僕の手を握っていない方の手で吊り輪に掴まるのかと思ったけど、ナオはそうせずに空いている方の手を僕の腕に絡ませた。つまり揺れる電車の車内でナオを支えるのが僕の役目になったのだ。
そういう彼女の姿を見ると最初に彼女を見かけたときの儚げな美少女という印象は修正せざるを得なかった。むしろ出会った翌日に僕に会いに来たりメールで告白したり、彼女はどちらかというとむしろ積極的な女の子だったのだ。でもその発見は僕を困惑させたり幻滅させたりはしなかった。
むしろ逆だった。僕は積極的なナオの様子を好ましく感じていた。何となく大人しい印象の女の子が自分の好みなのだと、今まで僕は考えていたけど、よく考えれば初めて告白して振られた志村さんだって大人しいというよりはむしろ活発な女の子だった。
まあそんなことは今はどうでもいい。僕の腕に初めてできた僕の彼女が抱きついていてくれているのだから。
「ナオちゃんってさ」
僕はもうあまり緊張もせず僕の腕に抱き付いている彼女に話しかけた。「そう言えば名前って・・・・・・」
「あ、あたしもそれ今考えていました。ナオトさんとナオって一字違いですよね」
「ほんと偶然だよね」
「偶然ですか・・・・・・運命だったりして」
そう言ってナオは照れたように笑った。
「運命って。あ、でもさ。ナオって漢字で書くとどうなるの?」
そう言えば僕とナオはお互いの学校と学年を教えあっただけだった。これからはそういう疑問もお互いに答えあって少しづつ相手への理解を深めて行けるだろう。
「奈良の奈に糸偏に者って書いて奈緒です・・・・・・わかります?」
え。偶然もここまで来ると出来すぎだった。
「わかる・・・・・・っていうか、僕の名前もその奈緒に最後に人って加えただけなんだけど。奈緒人って書く」
奈緒も驚いたようだった。
「奈緒人さん、運命って信じますか」
彼女は真面目な顔になって僕の方を見た。
奈緒と一緒にいると三十分なんてあっという間に過ぎていってしまった。学校がある駅に着いた時、僕は自分の腕に抱き付いている奈緒の手をどうしたらいいのかわからなくて一瞬戸惑った。このまま乗り過ごしてしまってもいいか。そう思ったとき、そこで彼女は僕の高校のことを思い出したようだった。
「あ、ごめんなさい。明徳ってこの駅でしたね」
奈緒は慌てたように僕の腕と手から自分の両手を離した。彼女の手の感触が失われると何だかすごく寂しい気がした。
「ここでお別れですね」
「うん・・・・・・明日は時間どうしようか」
「あたしは奈緒人さんに合わせますけど」
「じゃあ今日より三十分くらい遅い時間でいい?」
「はい。また明日あそこで待ってます」
ここで降りるならもう乗り込んできている乗客をかき分けないと降車に間に合わないタイミングだった。
僕は彼女に別れを告げて乗り込んできている人たちにすいませんと声をかけながら、何とかのホームに降り立つことができた。
「何の話してるの?」
昼休みの学食のテーブルで僕と渋沢が昼食を取っていると志村さんが渋沢の隣に腰掛けた。
「おお、遅かったな。いやさ、奈緒人にもついに彼女ができたって話をさ」
「うそ!」
志村さんは彼の話を遮って目を輝かせて叫んだ。「マジで? ねえマジ?」
「おう。マジだぞ。しかも富士峰の中学二年の子だってさ」
「え~。富士峰ってお嬢様学校じゃん。いったいどこで知り合ったの?」
以前の僕なら一度は本気で惚れて告白しそして振られた女さんのその言葉に傷付いていたかもしれなかったけど、実際にこういう場面に出くわしてみると不思議なほど動揺を感じなかった。
「通学途中で偶然出会って一目ぼれされた挙句、メアドを聞かれて次の日メールで告られたんだと」
渋沢が少しからかうように彼女に説明した。
確かに事実だけを並べるとそのとおりだけど、何だか薄っぺらい感じがする。でもそれが志村さんにどういう印象を与えたとしても、今の僕にはさほど気にならなかった。
「奈緒人君にもついに春が来たか。その子との付き合いに悩んだらお姉さんに相談しなよ」
志村さんが笑って言った。
「誰がお姉さんだよ」
僕も気軽に返事をすることができた。
「奈緒人さあ。今度その子紹介しろよ。ダブルデートしようぜ」
渋沢が言った。
「ああ、いいね。最近、明と二人で出かけるも飽きちゃったしね」
志村さんも渋沢の提案に乗り気なようだった。
「おい。飽きたは言い過ぎじゃねえの」
渋沢が言ったけどその口調は決して不快そうなものではなかった。「そうだよ。四人で遊びに行こうぜ。昨日イケヤマと彼女が別れちゃってさ。それまでは結構四人で遊びに行ったりしてたんだけどな」
「イケヤマって君の中学時代の友だちだっけ?」
「おう。何か年下の中学生の子と付き合ってたんだけど、昨日いきなり振られたんだって」
「イケヤマ君、あの子と別れちゃったの?」
志村さんが驚いたように言った。
「昨日イケヤマからメールが来てさ。振られたって言ってた」
「ふ~ん。でもイケヤマ君の彼女って中学生の割には結構遊んでいるみたいなケバイ子だったし、他に好きな子ができたのかもね」
「まあそうなんだけどさ。イケヤマって遊んでいるように見えて結構真面目だからさ。彼女に突然振られて悩んでるみたいでな。ちょっと心配なんだ」
「イケヤマ君の彼女って明日香ちゃんって言ったっけ?」
「そうだよ。ていうか名前も覚えてねえのかよ。結城明日香だって・・・・・・ってあれ?」渋沢はそこで何か気づいたようで少し戸惑った表情を見せた。
「奈緒人の中二の妹ってアスカちゃんって名前だったよな?」
「え? 結城って奈緒人君の姓だよね? まさか・・・・・・」
「そのイケヤマってやつ、工業高校の生徒で髪が金髪だったりする?」
僕は聞いてみたけどどうもこれは妹で間違いないようだった。でもどうしてあいつは突然彼氏と別れたのだろう。
兄友はイケヤマとかいう妹の彼氏のことを結構真面目な奴と言っていたけど、僕にはそうは見えなかった。むしろ先々を考えずに刹那的に遊び呆けているどうしようもない高校生にしか見えなかった。きっと妹の飲酒だってそいつの影響に違いない。
「多分それ、うちの妹の明日香のことだ」
僕は淡々と言った。
「何か・・・・・・悪かったな、奈緒人」
「奈緒人君ごめん。あたし妹さんのこと、結構遊んでいるみたいなケバイ子とか酷いこと言っちゃった」
志村さんは僕に謝ってくれたけど別に彼女は間違ったことは言っていない。
「いや。志村さんの言ってることは別に間違ってないよ」
僕は彼女に微笑みかけた。「本当に妹の生活ってすごく乱れてるんだ。妹は僕の一番の悩みの種だよ」
「でも・・・・・・」
彼女さんは相変わらず申し分けそうな表情で俯いていた。
放課後になって僕が部活に行く渋沢と別れて校門を出ようとした時、そこにたたずんでいる志村さんに気がついた。
「誰かと待ち合わせ?」
僕は彼女に話しかけた。「渋沢は部活だよね?」
「・・・・・・そうじゃないの。もう一度ちゃんと奈緒人君に謝っておこうと思って」
「あのさあ・・・・・・」
「うん」
「僕は全然気にしてないって。それにさっきだって言ったでしょ? 君の言ったことは本当のことだよ」
彼女は俯いていた顔を上げた。
「それでも。誰かに家族のことを変な風に言われたら嫌な気分になるでしょ? あたしだって自分の兄貴のことをあんなふうに馬鹿にした言い方されたら嫌だもん。だから・・・・・・ごめんなさい。君の妹とは知らなかったけど、明日香ちゃんのこと酷い言い方しちゃっててごめん」
明日香のことをビッチ呼ばわりされた僕だったけど正直に言うとあの時はそのことについてそんなに不快感を感じなかった。志村さんに言われるまでもなく、かなり控え目に言っても、実際の妹はビッチというほかにないような女だと僕は思っていた。
それでもあいつは僕の家族だった。志村さんが他人の家族のことを悪く言ったことを思い悩む気持ちもよくわかった。渋沢たちはああいう風に言ったけど妹がビッチと呼ばれても仕方がないことは事実だった。僕だって妹のビッチな行動の直接的な被害者だったのだ。
それでもやはり家族というのは特別なのかもしれない。それが全く血がつながっていない義理の妹であっても。
今までだって誰かの口から妹の悪口を聞くと、僕はすごく落ち着かないいたたまれないような気分になったものだ。指摘されていることは普段から僕が思っていた感想と全く同じものだったとしても。
「もういいって」
それでも僕は志村さんに微笑んだ。「本当に気にしてないよ」
「ごめん」
「途中まで一緒に帰る?」
「いいの?」
「渋沢が嫉妬しないならね」
「それはないって」
不器用な僕の冗談にようやく志村さんは笑ってくれた。
「でも何で妹はそのイケヤマってやつと別れたのかなあ」
ようやく僕はそっちの方が気になってきた。「遊び人同士うまく行ってそうなものだけど」
志村さんは少しためらった。でも結局僕にイケヤマと妹の印象を話してくれた。
「あたしも何度か四人でカラオケ行ったりゲーセンに行ったくらいなんだけど、さっき明が言ってたのは嘘じゃないよ。イケヤマ君って見かけは酷いけど中身は結構常識的な男の子だった」
その真偽は僕にはわからないけど、一度外で妹と妹の彼氏を見かけたことがある僕としては素直には信じられない話だった。
「それでね・・・・・・ああ、だめだ。また奈緒人君の妹さんの悪口になっちゃうかも」
僕は笑った。
「だから気にしなくていいって」
「うん。明日香ちゃんって別にイケヤマ君じゃなくても誰でもいい感じだった。妹さんって、別に本気で彼氏なんか欲しくないんじゃないかな」
「まあ、そういうこともあるかもね。背伸びしたい年頃っていうか、自分にだけ彼氏がいないのが嫌っていうことかもね」
「それとはちょっと違うかも。何て言うのかなあ、彼氏を作って遊びまくって何か嫌なことから逃げてる感じ?」
「そうなの?」
そうだとしたら妹はいったい何から逃げていたのだろう? 再婚家庭の中で唯一気に入らない僕からか。
「まあ、あんまりマジに受け取らないで。実際に明日香さんと会ったのってそんなに多くはないしそれほど親しくなったわけでもないから」
「うん」
「そんなことよりさ」
ようやく元気を取り戻した彼女さんが突然からかうような笑みを浮べて言った。「富士峰の彼女ってどんな子?」
「どんな子って」
「どういう感じの子かって聞いてるのよ? 大分年下だけどどういうところが好きになったの?」
僕が奈緒にマジぼれしていなければそれはトラウマ物のセリフじゃんか。僕は志村さんに振られたことがあるのだし。でもこの時の僕は彼女さんのからかいには動じなかった。多分それだけナオに惹かれていたからだったろう。
僕が志村さんと別れて帰宅し自分の部屋に戻る前にリビングのドアを開けると妹がソファに座ってテレビを見ていた。
僕に気がついた妹は僕の方を見た。どうせ無視されるか嫌がらせの言葉をかけられるのだろう。僕はそう思った。昨日のこいつの醜態に文句を言いたいけどそんなことをしたって泥仕合になるだけだ。そのことを僕は長年のこいつとの付き合いで学んでいた。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
妹が言った。
え? 何だこの普通の兄妹の間のあいさつは。無視するか悪態をつくかが今までの妹のデフォだったのに。
その時僕は奇妙な違和感を感じた。そしてその違和感の原因はすぐにわかった。
どうしたことか妹の濃い目の茶髪が黒髪に変わっているのだった。そして帰宅したばかりなのか、まだいつものスウェットの上下に着替える前の妹の服装は、いつもの派手目なものではなかった。
平日に制服ではなく私服を着ていること自体も問題だと思うけど、そのことを考えるよりも僕は今は妹が着ている服装から目が離せなかった。
どういうことだ?
薄いブルーのワンピースの上にピンクっぽいフェミニンなカーデガンを羽織っている。僕は奈緒の制服姿しか見たことがなかったけどきっと清純な彼女ならこういう服装だろうなって妄想していたそのままの姿で、妹がソファに座っていたのだ。
「どしたの? お兄ちゃん。あたしの格好そんなに変かな?」
僕はやっと我に帰った。
「いや変って言うか、何でおまえがそんな格好してるんだよ?」
「そんな格好って何よ。失礼だなあお兄ちゃんは」
妹は落ち着いてそう言ってソファから立ち上がるなりくるっと一回転して見せた。
「そんなに似合わない? お兄ちゃんにそんな目で見られちゃうとあたし傷ついちゃうなあ」
「いや、似合ってる・・・・・・と思うけどさ。それよりその髪はどうした? 何で色が変わってるんだよ」
「何でって、美容院で黒く染め直しただけだし」
僕は妹をの姿を改めて真面目に見た。その姿は正直に言うと心を奪われそうなほど可愛らしかった。外見が内面と一致しているようなら僕は自分の妹に恋をしていたかもしれない。でもそうじゃない。僕は昨日の妹の醜態を思い出した。こいつが珍しくワンピースを着ていることなんかどうでもいいんだ。
僕は昨日のこいつの酔った醜態のことで文句でも言おうと思ったのだけど、こいつだって彼氏と別れたばかりだったことを思い出した。
昨日や一昨日のこいつの嫌がらせのことは少し忘れよう。
「おまえさ、何かあったの?」
妹は僕を見て笑った。そしてどういうわけかその笑いにはいつものような憎しみの混じった嘲笑は混じっていないようだった。何か両親に紹介されてお互いに初めて出会った頃のような照れのような感情が浮かんできた。
「何にもないよ。お兄ちゃん、今日は何か変だよ」
変なのはおまえだ。僕は心の中で妹に言った。それにしても妹の黒髪ワンピ、そしてお兄ちゃん呼称の威力は凄まじかった。これまでが酷すぎたせいかもしれないけど。
それからしばらく僕は呆然として清楚な美少女のような妹、明日香の姿を見つめ続けていた。
「お兄ちゃん?」
明日香がそう言って僕の隣に寄り添った。
「何だよ」
僕は無愛想に言って、近寄ってくる妹から体を離そうとした。ただ僕の視線の方は突然清楚な美少女に変身した妹の容姿に釘付けになっていた。
「お兄ちゃん・・・・・・何であたしから逃げるのよ」
「何でって・・・・・・。おまえこそ何でくっついて来るんだよ」
「ふふ」
妹が笑みを浮べた。それは複雑な微笑みだった。僕にはその意味がまるで理解できなかった。
「何でだと思う? お兄ちゃん」
そう言って妹は僕の腕を引っ張った。いきなりだったために僕は抵抗できずに妹に引き摺られるままソファに座り込んだ、妹が僕に密着するように隣に座った。
「いや、マジでわかんないから。僕は自分の部屋に行くからおまえももう僕から離れろ
よ」
「そんなに慌てなくてもいいでしょ。あたしが近くにいると意識してドキドキしちゃう
の?」
「そうじゃないって。つうかいつも僕に突っかかるくせに何で今日はそんなに僕にくっつくんだよ」
その時妹の細い両腕が僕の首に巻きついた。
「何でだと思う? お兄ちゃん」
再び妹がさっきと同じ言葉を口にした。
僕は妹の体を自分から引き離そうとしたけど、妹は僕に抱きついたままだった。
「何でだと思う?」
妹は繰り返した。「そう言えば、この間お兄ちゃんと一緒にいた子って中学生でしょ? 何年生?」
僕は明日香の突然の抱擁から逃れようともがいたけど彼女の腕は僕の首にしっかりと巻きついていて簡単には解けそうになかった。
「二年だけど」
仕方なく僕は妹に答えた。本当にいったい何なのだろう。
「お兄ちゃん・・・・・・本当にあの子と付き合ってるの? あの子何って名前?」
「・・・・・・おまえには関係ないだろ」
「いいから教えて。教えてくれるまでお兄ちゃんから離れないからね」
ここまで来たら全て妹に明かすしかなさそうだ。妹を振り放すには今はそれしか手がなかった。
「付き合ってるよ。つうか今日から付き合い出した」
「え? じゃあ相合傘してたのとか昨日待ち合わせしてたのは?」
「あの時はまだ付き合い出す前だよ」
「いったいいつ知り合ったのよ」
「だから傘に入れてあげた時からだけど」
「じゃあ知り合ったばっかじゃん。お兄ちゃんってヘタレだと思ってけどそんなに手が早かったのか」
それには答える必要はないと僕は思った。
「で、あの子の名前は?」
「鈴木奈緒」
「ふーん。で、そのナオって子のこと好きなの?」
「・・・・・・好きじゃなきゃ付き合うわけないだろ」
妹は僕に抱きついていた手を放して俯いた。僕はほっとして自分の部屋に戻ろうとした。その時ふと覗き込んだ妹の目に涙が浮かんでいることに気がついた。
僕は立ち上がりかけていたけど再びソファに腰を下ろした。
「泣いてるの? おまえ」
「・・・・・・泣いてない」
僕は最初、明日香が僕に彼女ができて寂しくて泣いているんじゃないかと考えた。でもそんなはずはなかった。長年、明日香は僕のことを嫌ってきた。しかも嫌って無視するだけでななく直接的な嫌がらせまでされてきたのだ。それほどに憎悪の対象である僕に彼女ができたからといって寂しがったり嫉妬したりするはずはないのだ。
その時、ようやく僕は思いついた。
妹にとって彼氏と別れたのはかなりの衝撃だったのではないか。渋沢の話では妹の方からイケヤマとか言う彼氏を振ったということだったけど、妹にはそいつを振らざるを得ないような事情があったのだろう。
渋沢と志村さんはイケヤマのことを外見と違って真面目な奴だと考えているようだったけど、一度見かけたそいつの様子からは真面目なんて言葉はそいつには似合わないとしか言いようがなかった。
そうだ。妹はイケヤマの何らかの行為、それもおそらく粗野な態度に嫌気が差してそいつのことを振ったのだろう。それでもそれは、心底そいつを嫌いになっての別れではなかったのかもしれない。
だからこいつも今は辛いのだ。
「おまえ無理するなよ」
今度は僕の方から妹の肩を抱き寄せた。こんな行為を妹にするのは生まれて初めてだった。でも、どんなに仲の悪い兄妹だとしても妹が悩み傷付いているならそれを慰めるのが兄貴の役割だろう。自分だけ部屋にこもって奈緒のことを思い浮かべて幸福感に浸っているわけにもいかないのだ。
突然僕に肩を抱き寄せられた妹は一瞬驚いたように凍りついた。それからどういうわけか妹の顔は真っ赤に染まった。僕は妹の肩を抱いたままで話を続けた。
「彼氏と昨日別れたんだろ? それで辛くて悩んでそして気分転換に髪を黒くしたり服を変えたんだろ?」
僕は話しながら妹の顔を覗き込んだ。その時は自分では親身になって妹の相談に乗っているいい兄貴のつもりになっていた。
「悩んでいるなら聞いてやるからふざけてないでちゃんと話せよ。おまえが僕のことを嫌っているのは知ってるけど、こんな辛い時くらいは僕を頼ったっていいじゃないか」
妹は僕の言葉を聞くと突然僕の手を振り払って自分の体を僕から引き剥がした。
その時の妹はもはや照れたような紅潮した表情ではなかった。そしてその清楚な格好には似合わない怒ったような表情で言った。
「あんた、バカ?」
「え?」
「あんたが珍しくあたしを抱いてくれるから期待しちゃったのに、あんたが考えてたのはそっちかよ」
妹の話し方には今まで取り繕っていた仮面が剥がれて地が表れていた。僕はその時いつものように罵詈雑言を浴びせられることを覚悟した。結局いつもと同じ夜になるのだろうか。でも妹は気を取り直したようだった。喋り方もさっきまでの普通の妹のようなものに戻っている。
「まあお兄ちゃんなんかに最初からあんまり期待していなかったからいいか」
突然機嫌を直したように妹は笑顔になった。「まあそんな勘違いでも一応あたしのことを慰めようとしてくれたんだもんね。ありがとお兄ちゃん」
「いや。でも彼氏と別れたのが原因じゃないなら、いったい何で髪の色とかファッションとか今までがらりと変えたんだよ」
「ナオって子を見てこの方がお兄ちゃんの好みだとわかったから」
妹は、明日香は僕の方を見つめて真面目な顔で答えた。「明日からはもうギャルぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」
妹は照れもせずに平然とそう言い放った。
僕のため? 僕は僕のことを大嫌いなはずの妹の顔を呆然として眺めた。
自分の部屋でベッドに入ってからも僕は妹の言葉が気になって眠ることができなかった。付き合い出した初日だし奈緒のこと以外は頭に浮かばないのが普通だろうけれども。
でもこの瞬間にベッドの中で僕の脳裏に思い浮ぶのは妹だった。
明日香は僕と奈緒が一緒にいるところを目撃し、奈緒が僕の好きな人だということを知った。そして彼氏と別れた。その後美容院に行って髪を黒く染め服装も大人し目で清楚っぽい服に着替えた。思い出してみれば妹の爪もいつもの原色とかラメとかの派手なマニュキアではなく、普通に何も手を加えられていないほんのりとした桜色のままだった。
その全ては僕の好みに合わせたのだと妹は言った。いったいそれは何を意味しているのか。本当は妹は昔から僕のことを好きだったのだろうか。妹の言動からはさすがにそれ以外の回答は導き出すことはできなかった。少なくとも妹の変化に対して唯一僕が思いついた理由、つまり妹が彼氏と別れたから妹はイメチェンをしたのだということは、妹に一瞬で否定されてしまった。
あと今さらながら気になるのは何で妹が彼氏を振ったのかということだった。もちろん彼氏のどこかが許せなくて別れたということなのだろうけど。
それにしても妹が僕のことを好きなのかもしれないという前提でそれを考えると、僕が奈緒に出会ったことを知ってすぐに彼氏を振った妹の行動には、僕のことが気になるからということ以外の理由は考えづらかった。
僕と奈緒のことを気にして自分もフリーになったということか。
そうなるともうこいつが僕のことを好きななのではないかということ以外に僕には思いつくことはなかった。
もう今日は考えるのをやめて寝よう。そう思って携帯のアラームをセットするために携帯を手に取った僕はメールの着信があることに気づいた。僕はメールを開いた。それは奈緒からのメールだった。
from :ナオ
sub :無題
本文『こんばんは。用事なんて何もないんですけど奈緒人さんのことを思い出していると全然眠れないからメールしちゃいました。まだ夜の七時だからいいですよね』
『今日初めて奈緒人さんと一緒に登校できて嬉しかったです。』
『何かあっという間にお別れの時間が来ちゃった感じでしたよね。本当はもっともっと奈緒人さんに抱きついて一緒にいたかったです(汗)』
『あたし男の人と付き合うのはこれが初めてだからよくわからないんですけど、こういういつまでも一緒にいたいっていう気持ちは付き合ってれば普通に感じるものなんでしょうか』
『それともあたしにとって奈緒人さんが特別な人なのかなあ。名前が似ているのもそうだし、出会い方だってロマンティックでしたよね?』
『明日また奈緒人さんに会うのを楽しみにしています。じゃあそろそろ寝ないと万一遅刻したら嫌だし』
『おやすみなさい奈緒人さん。大好きです』
『奈緒』
このメールは大分前に来ていたものだった。多分僕と妹がリビングで話をしていた頃に。今からでは返信するには時間が遅すぎる。返事がなかったことに奈緒を失望させてしまったかもしれないと思うといてもたってもいられなかったけど、もう後の祭りだった。
明日の朝、奈緒に会ったら忘れずにフォローしよう。僕はそう考えた。そしてナオのメールのおかげで妹のことを忘れることができた僕はそのまま携帯を握り締めながら眠りについたのだった。
翌朝、登校の支度を済ませて僕が階下に下りていくと、珍しく父さんと母さん、それに妹まで既にキッチンのテーブルについて朝食を取っていた。
昨日僕が眠ってしまった後の遅い時間に両親は帰宅したのだろう。この様子だとあまり眠れなかったではないかと僕は両親を見て思った。
「おはよう奈緒人」
「おはよう奈緒人君、何か久しぶりね」
両親が同時に僕に微笑んで挨拶してくれた。久しぶりに両親に会って笑って声をかけてくれるのは嬉しいのだけど、こういう時いつも僕は妹の反応が気になった。
父さんはともかく母さんは常に僕に優しかった。母さんが自分の本当の母親ではないと知らされたとき、僕は母さんが途中で自分の息子になった僕に気を遣って優しく振る舞っているのだろうとひねくれたことを考えたこともあった。
でもそういう偽りならどこかでぼろが出ていただろう。それに気に入らない義理の息子に気を遣っているにしては母さんの笑顔はあまりに自然だった。
それでいつの間にか僕はそういうひねくれた感情を捨てて、素直に母さんと笑顔で話ができるようになったのだった。今の僕は父さんと同じくらい母さんのことを信頼している。
ただ唯一の問題は妹の明日香だった。無理もないけど、明日香は昔から自分の母親を僕に取られたように感じていたらしい。僕が母さんが義理の母親だと知ってからも母さんを信頼し、むしろ前よりも母さんと仲良くなってから、明日香は僕のことをひどく嫌って、反抗的になった。
挙句に服装が派手になり髪を染めるようになり遊び歩くようになったのだった。僕とは違う自分を演出するつもりだったのだろうけど、もちろん母さんと明日香の関係においてもそれは良い影響なんて何も及ぼさなかった。
やがて母さんは明日香の生活態度をきつく注意するようになった。母さんに「何でお兄ちゃんはちゃんと出来てるのにあんたはできないの」と言われた後の妹の切れっぷりは凄まじかった。その時明日香はやり場のない怒りを全て僕に向けたのだった。
こういう両親と過ごす朝のひと時は、妹さえいなければ僕の大切な時間だったのだけど、両親の僕に向けた柔らかな態度に明日香はまた一悶着起こすのだろうと僕は覚悟してテーブルについた。
「おはよう」
僕は誰にともなく言った。妹がそう思うなら自分に向けられた挨拶だと思ってくれてもよかった。
「おはよお兄ちゃん」
明日香が柔らかい声で言った。「今日は早く出かけなくていいの?」
え? 一瞬僕は自分の耳を疑った。朝こいつから普通に挨拶されたのは初めてかもしれない。僕は一瞬言葉に詰まった。それでも僕はようやく平静に妹に返事をすることができた。
「う、うん。別に早く出かける用事はないし」
「ないって・・・・・・待ち合わせはいいの?」
そういえば妹は僕と奈緒が待ち合わせの時間を変更したことを知らないのだった。きっといつもと同じ時間に待ち合わせするものだと思っているのだろう。でも何で明日香が僕とポ奈緒の待ち合わせの時間を心配するのか。
一瞬、僕の脳裏に昨日の妹の言葉が思い浮んだ。
「明日からはもうギャルっぽい格好するのやめたの。お兄ちゃんのためにこれからはずっとこの路線で行くから」
その言葉を思い浮かべながら改めて妹を眺めると、昨日の今日だから髪がまだ黒いのは当然として、中学校の制服まで心なしか大人しく着こなしているように見えた。とりあえずスカート丈はいつもより大分長い。
「別に・・・・・・それよりおまえ、その格好」
「昨日言ったでしょ? お兄ちゃんがこっちの方がいいみたいだからこれからは大人しい格好するって」
明日香は両親の前で堂々と言い放った。
僕が妹に返事をするより先に母さんが妹に嬉しそうに話しかけた。
「あら。明日香、今朝はずいぶんお兄ちゃんと仲良しなのね」
「そうかな」
「そうよ。いつもは喧嘩ばかりしてるのに。それに明日香、今日のあなたすごく可愛いよ。いつもより全然いい」
「そう?」
妹は少し顔を赤くした。「お兄ちゃんはどう思う?」
突然僕は妹に話を振られた。とりあえず僕は口に入っていたトーストをコーヒーで流し込みながら思った。妹が僕のことを好きなのかどうかはともかく、妹のこの変化は良いことだ。
「うん、似合ってる。と言うか前の格好はおまえに全然似合ってなかった」
言ってしまってから気がついたけどこれは明らかに失言だった。似合っているで止めておけばよかったのだ。何も前のこいつのファッションまで貶すことはなかった。僕は今度こそ妹の怒りを覚悟した。
妹は赤くなって俯いて「ありがとう、お兄ちゃん」と言っただけだった。
「本当に仲良しになったのね。あなたたち」
母さんが僕たちを見て再び微笑んだ。
「おはようございます。奈緒人さん」
奈緒はいつもの場所で僕を待っていてくれた。今日は彼女より早く来たつもりだったのだけど結局奈緒に先を越されてしまった。
「おはよう、奈緒ちゃん。待った?」
「いえ。あたしが早く来すぎちゃっただけですよ。まだ約束の時間の前ですし」
奈緒が笑った。やっぱり綺麗だな。僕は彼女の顔に見入ってしまった。
「どうしました?」
不思議そうに僕の方を見上げる奈緒の表情を見ると胸が締め付けられるような感覚に捕らわれた。いったいどんな奇跡が起こって彼女は僕のことなんかを好きになったのだろう。
「何でもないよ。じゃあ行こうか」
「はい」
奈緒は自然に僕の手を取った。「行きましょう。昨日と違ってゆっくりできる時間じゃないですよね」
「そうだね」
僕たちは電車の中で初めて付き合い出した恋人同士がするであろうことを忠実に行った。つまり付き合い出した今でもお互いのことはほとんどわかっていなかったのでまずそのギャップを埋めることにしたのだ。奈緒の腕は今日も僕の腕に絡み付いていた。
とりあえず奈緒についてわかったことは、彼女が富士峰女学院の中学二年生であること、一人っ子で両親と三人で暮らしていること、同じクラスに親友がいて下校は彼女と一緒なこと、ピアノを習っていて将来は音大に進みたいと思っていること。
何より僕が驚いたのは彼女の家の場所だった。これまでいつも自宅最寄り駅の前で待ち合わせをしていたし、最初の出会いもそこだったから僕は今まで奈緒は僕と同じ駅を利用しているのだと思い込んでいたのだ。でも奈緒の自宅は僕の最寄り駅から三駅ほど学校と反対の方にある駅だった。
「え? じゃあなんでいつもあそこで待ち合わせしてたの?」
「何となく・・・・・・最初にあったのもあそこでしたし」
「じゃあさ。昨日とか相当早く家を出たでしょ?」
「はい。ママに不審がられて問い詰められました」
奈緒はいたずらっぽく笑った。
「最初に出会った日にもあそこにいたじゃん?」
「あれは課外活動の日で親友とあそこで待ち合わせしたんです。彼女は奈緒人さんと同じ駅だから」
ちゃんと確認すればよかった。僕は彼女にわざわざ自分の最寄り駅で途中下車させていたのだ。
「ごめん。無理させちゃって」
「無理じゃないです。あたしがそうしたかったからそうしただけですし」
「あのさ」
僕はいい考えを思いついた。「明日からは電車の中で待ち合わせしない?」
「え?」
「ここを出る時間の電車を決めておいてさ。その一番後ろの車両の・・・・・・そうだな。真ん中のドアのところにいてくれれば僕もそこに乗るから」
「はい。奈緒人さんがそれでよければ」
彼女の家の場所を聞いてみてよかった。これで余計な負担を彼女にかけずに済む。
僕自身のこともあらかた彼女に説明し終っても、学校の最寄り駅まではまだ少し時間があった。僕はさっきから聞きたくて仕方がないけど聞けなかったことが気になってしようがなかった。でもそんなことを聞くと自分に自信のない女々しい男だと奈緒に思われてしまうかもしれない。
奈緒は楽しそうに自分の通っているピアノのレッスン教室の出来事を話していたけど、気になって悶々としていた僕はあまり身を入れて聞いてあげることができなかった。そしてその様子は奈緒にもばれてしまったようだ。
「あの・・・・・・。奈緒人さん、どうかしましたか?」
奈緒は話を中断して僕の方を見た。
「いや」
駄目だ。やっぱり気になる。僕は思い切って彼女に聞いた。
「奈緒ちゃんってさ」
「はい」
話を途中で中断された彼女は不思議そうな顔で僕の方を見た。
「あの、つまりすごい可愛いと思うんだけど、やっぱり今まで彼氏とかいたんだよね?」
奈緒は戸惑ったように僕を見たけど、すぐに笑い出した。
「あたし可愛くなんてないし。それにずっと女子校だから男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」
「そうなんだ・・・・・・」
「ひょっとして奈緒人さん、あたしが男の人と付き合ったことあるか気にしてたんですか?」
「違うよ・・・・・・・いやそれはちょっとは気になってたかもしれないけど」
僕は混乱して自分でも何を言ってるのかわからなかった。でも奈緒のその言葉だけはきちんと胸の奥に届き、僕はその言葉を何度も繰り返して頭の中で再生した。
「男の人とお付き合いするのってこれが初めてです」
「奈緒人さん。顔がにやにやしてますよ」
奈緒が笑って言った。
「そうかな」
「そんなにあたしに彼氏がいなかったことが嬉しかったんですか」
「僕は別に・・・・・・」
不意に奈緒がこれまでよりもう少し僕に密着するように腕に抱き付いている自分の手に力を入れた。
「でも気にしてくれてるなら嬉しい。奈緒人さんは今まで彼女とかいたんですか? 中学も高校も共学ですよね?」
「いないよ。僕も奈緒ちゃんが初めての彼女だよ」
それが奈緒にどんな印象を与えたのかはわからなかった。自分が初めての彼女で嬉しいと思ってくれるのか、もてない男だと思って失望されるのか。でも何となくこの子には正直でいたいと思っている僕がそこにいた。そしてそれは決して嫌な感覚ではなかった。
「嬉しい」
奈緒は言った。「お互いに初めて好きになった相手でしかも名前も似てるんですよ」
「うん」
「本当に運命の人っているのかも」
僕と奈緒は改めて見つめ合った。
「お、奈緒人じゃん」
僕たちはその時大きな声で僕に話しかけてきた渋沢に邪魔された。
「あ、奈緒人君だ。って富士峰の制服の子だ」
これは志村さんだった。「奈緒人君の彼女って人でしょ? もう一緒に登校してるんだ」
「おはよう」
僕はしぶしぶ二人にあいさつした。
僕は二人に奈緒を紹介した。二人のところを邪魔されたわけだけど、奈緒は僕の友人たちに僕の彼女として紹介されることが嬉しかったのか、高校の最寄り駅で別れるまでずっと機嫌が良かった。正直に言うと僕の方はもっと奈緒と二人きりで話をしていたかったのだけど。
「じゃあ、奈緒人さん。また明日ね」
奈緒が控え目な声で言った。「明日は電車の中で待ち合わせだから忘れないでくださいね」
「うん、大丈夫だよ」
「渋沢さん、志村さん。これで失礼します」
「またね~」
「気をつけてね」
僕は渋沢と志村さんのせいで何か消化不良のような気分になりながら奈緒に別れを告げ、邪魔をしてきた二人と連れ立って電車から降りた。
「奈緒ちゃんってさ」
志村さんが校門に向って連れ立って歩いている時に言った。「どっかで見たような気がするんだよね」
「前からいつもあの電車みたいだから登校中に見かけたんじゃない?」
僕は言った。
「いや、そういうのじゃなくて。何だっけなあ。ここまで出かかってるんだけど」
彼女は首をかしげて考え込んだ。こうなると僕も志村さんがどこで奈緒を見かけたのか気になってきた。
「おまえの記憶力は怪しいからな」
渋沢がそこで茶々を入れた。「奈緒人もあまりマジになって受け止めない方がいいぞ」
「本当だって・・・・・・でも、ああだめだ。思い出せない」
「しかし綺麗な子だったなあ。しかも富士峰の生徒だし、深窓の美少女って言うのは奈緒ちゃんみたいな子のことを言うのかな」
渋沢が感心したように言った。
「本当にそうね」
志村さんも同意した。
「本当にそうだよなあ」
思わず僕もそれに同意してしまった。自分の彼女なのだからひょっとしたらもっと謙遜しなきゃいけなかったかもしれないのだけど。
「おまえが言うな」
案の上渋沢に突っ込まれた。「彼女の自慢かよ」
「そうじゃないよ。でも自分でも何で彼女みないな子と付き合えることになったのか自分でもいまいち理解できてなくて」
「そういうことか」
渋沢が笑った。「まあ、あんまり考えすぎなくてもいいんじゃね? さっきの奈緒ちゃんを見ていてもおまえのことを好きなのは間違いないみたいだし」
「そうかな」
「そうだよ。奈緒人君はもっと自分に自信を持った方がいい」
志村さんも言った。
渋沢と志村さんの言葉は嬉しかった。やはり奈緒は本当に僕のことが好きになってくれたのだ。何でああいう子が僕なんかをという疑問は残るけど、今は奈緒が僕のことを本気で好きになったということだけで十分だと思うべきなのだろう。
「よかったね、奈緒人君。君ならきっとああいう、感じのいい女の子に好かれるんじゃないかと思ってた」
志村さんが言った。
「何だよ。奈緒人にだけそういうこと言っちゃうわけ? 俺は?」
「・・・・・・あんたにはあたしがいるでしょ? 何か不満でも?」
「ないけどさ」
かつて志村さんに告白して振られた僕としては複雑な気持ちだった。彼女が今の言葉を真面目に言っているのだとしたら、あの時僕が振られた理由は何なのだろう。そのことがちょっとだけ気になったけど、もうそれは今では過去の話だった。それに志村さんは彼氏である渋沢には、僕から告られたことを黙っていてくれている。その彼女の気持ちを蒸し返す余地はなかった。
僕には今では奈緒がいる。そう考えただけでも僕は心が軽くなった。明日は奈緒と会ってから車両の位置を変えようか。そうすれば通学中に渋沢たちと出くわさないで済む。
決して渋沢たちと四人で過ごすが嫌だったわけではない。でも僕たちはまだ出合って恋人同士になったばかりだった。四人で楽しく過ごすより今は二人きりで話をしたい。
奈緒は気を遣ったのか本心からかわからないけど、渋沢たちと一緒にいることを楽しんでくれたようだった。でも彼女だって最初は二人きりがいいに違いない。僕たちはまだお互いのことを知り始めたばかりだったのだ。
授業が終り部活に行く渋沢と別れて下校しようとした時、志村さんが僕に話しかけてきた。
「奈緒人君もう帰るの?」
「ああ。帰宅部だしね。君は渋沢が部活終るの待つの?」
「まさか。何であたしがそこまでしなきゃいけないのよ」
「・・・・・・何でって言われても」
「奈緒人君、帰りも彼女と一緒なの?」
「帰りは別々だよ。前から親友と一緒に帰ってるんだって。あとピアノのレッスンとかあるみたいだし」
「ああ、やっぱりそうか」
「え?」
「一緒に帰らない? あ、言っとくけど明はあんたとあたしが一緒に帰ったって嫉妬なんかしないからね」
「まあいいけど」
それで僕たちは並んで校門を出て駅の方に向かって坂を下って行った。
「あたしさ。思い出したのよ」
電車に乗るといきなり志村さんが言った。
「思い出したって何を?」
「ほら、今朝話したじゃん。奈緒ちゃんってどっかで見たことあるってさ」
それは僕にも気になっていた話題だった。思ったより早く志村さんは記憶を取り戻してくれたようだった。
「はい、これ」
彼女から渡されたのはどっかのWEBのページをプリントした数枚のA4の紙だった。
「何これ」
「さっきIT教室のパソコンからプリントしたんだよ。奈緒ちゃんってさ名前、鈴木奈緒でいいんでしょ?」
奈緒の苗字や名前の漢字まで志村さんは知らないはずだったのに。
「・・・・・・そうだけど」
「じゃあ、もう間違いないや」
彼女は僕の手からプリントを取り返してそのページを上にして僕に渡した。
「ここ見て」
『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
プリントに印刷されているのはそれだけだったけど奈緒の名前の横に小さく顔写真が掲載されていた。荒い画像だったけどその制服と何よりもその顔は奈緒のものだった。
「これさ、あたし生で見てたんだよね」
志村さんが言った。「従姉妹のお姉ちゃんがこの大学生部門に出場したんで応援しに行ったの」
「その時にさ、あたしピアノの演奏の善し悪しとかわからないんだけど、何か中学生の部に出てた子がやたら可愛かった記憶があってさ。それで奈緒ちゃんのこと覚えてたみたい」
思い出せてすっきりした。そう言って志村さんは笑った。
僕は駅から自宅に歩きながら再び気持ちが落ち込んでいくのを感じた。
奈緒が僕のことを好きなことは今となっては疑いようがない。だからなんで奈緒のような子が僕のことなんか好きになったのだろうとうじうじと考えることは止めにしようと思っていた。でもピアノコンクールで一位とかっていう話を聞くとまた別な不安が沸いてきたのだ。
今現在奈緒は付き合い出したばかりの僕のことが好きかもしれない。でもあれだけ容姿に恵まれていて、それだけではなくピアノの方もコンクールで受賞するレベルとなると、この先も彼女が僕のことを好きでいてくれる保証は何もない。ここまでくると世界が違うというほかはない。奈緒からピアノのレッスンの話とか音大志望のことは聞いてはいたけど、ここまで本格的に取り組んでいるとは考えもしていなかった。
単なるお嬢様学校に通う生徒の嗜みくらいならともかく、入賞レベルだとすると中高は彼氏どころじゃないのが普通じゃないのか。僕はこの世界のことはよく知らないけど、ここまで来るには相当厳しいレッスンに耐えてきたはずだった。
それにその世界にだっていい男なんていっぱいいるかもしれない。僕ではピアノの話には付き合えないけど、彼女と同じくこの世界を目指している男にだって奈緒の容姿は好ましく映るだろう。そういう奴らと比較された時に奈緒は僕を選んでくれるのだろうか。
どう考えても将来は不安だらけだった。
帰宅して自分の部屋に上がる前にリビングを覗くと、僕に気がついた妹がソファから立ち上がった。
「おかえりなさい」
妹は相変わらずいい妹路線を続けているようだった。髪が黒いままなのは当然として化粧もしていないし異様に長かったまつげも普通になり爪も自然な桜色のままだ。
こいつが昔からこうだったらあるいは僕は明日香に惚れていたかもしれない。一瞬そんなどうしようもないことを考え出すほど、前と違ってこいつの顔は少し幼い感じでその印象は可愛らしい少女のそれだった。
「ただいま」
「今日もお父さんたち帰り遅いって」
「そう」
「お風呂沸いてるよ」
僕は少し驚いた。風呂の水を入れ替えてスイッチを入れるのはいつも僕だった。妹は僕の沸かした風呂に入るか、シャワーだけかいつもはそんな感じだったのだ。
「先に入っていいよ。ご飯用意できてるから」
え? こいつが夕食を用意するなんて初めてのことじゃないのか。妹は僕の好みに合わせて服装を変えるとは言ったけど生活習慣全般を見直すとは思わなかった。
「先に入っていいのか」
「何で聞き返すのよ。変なお兄ちゃん」
妹は笑って言った。
僕が風呂から上がってリビングに戻ると妹は相変わらずソファに座って何かを読みふけっていた。
「おい・・・・・・勝手に読むなよ」
それは風呂に入る前にうっかりカバンと一緒にリビングに放置してしまった奈緒のコンクールのプリントだった。
「ああ、ごめんお兄ちゃん。片付けようとしたらお兄ちゃんの彼女が載ってたからつい」
僕は一瞬苛々したけどこれは放置しておいた僕の方が悪い。それに奈緒と付き合っていることは妹にはばれているのだし、今さらコンクールのことなんか知られても別に不都合はないだろう。
「コンクールで優勝とかお兄ちゃんの彼女ってすごいんだね」
妹が無邪気に言った。「そんな子をいきなり彼女にできちゃうなんてお兄ちゃんのことをなめすぎてたか」
妹は笑った。嫉妬とか嫌がらせとかの感情抜きで妹が奈緒のことを話してくれるようになったことはありがたい。でも奈緒のことをすごいんだねと無邪気に言われると、改めて自分の奈緒の恋人としての位置の危うさを指摘されているようで、少し気分が落ち込んだ。
「ほら、これ返すよ。ご飯食べる?」
驚いた僕の様子に、帰宅して初めて妹は少し気を悪くしたようだった。
「さっきから何なの? 妹がお兄ちゃんにお風呂沸かしたり食事を用意するのがそんなに不思議なの?」
「うん。不思議だ。だっておまえこれまでそんなこと全然しなかったじゃん。むしろ僕の方が家事の手伝いはしてただろ」
僕は思わず本音を言ってしまった。
「ふふ。これからは違うから」
でも妹は怒り出しもせず微笑んだだけだった。
テーブルについて妹が用意してくれた簡単な夕食を二人きりで食べた。何か不思議な感覚だったけど別にそれは不快な感じではなかった。
「そういえばさ」
機嫌は悪くなさそうだったけど妹がずっと沈黙していることに気まずくなった僕は気になっていたことを尋ねた。
「何」
「おまえさ、僕の友だちと知り合いだったんだってな」
「え? お兄ちゃんの友だちって?」
「渋沢と志村さんっていうカップル。おまえの彼氏だったイケヤマとかというやつとおまえと四人で遊んだことがあるっていってた」
「渋沢さんが? お兄ちゃんの知り合いとかって言ってなかったけど」
「知らなかったみたい。この前偶然おまえの名前で気づいたみたいだな」
「ふ~ん」
妹は関心がなさそうだった。
「お兄ちゃんが二人から何を聞いたのか知らないけど、それ全部過去のあたしだから」
「はい?」
「あたしはもう彼氏とも別れたし遊ぶのも止めたの・・・・・・それは今さらピアノを習うわけには行かないけど」
「おまえ、何言ってるの」
妹は立ち上がって僕の隣に腰掛けた。
「いい加減に気づけよ。あたしはあんたのことが、お兄ちゃんのことが好きだってアピールしてるんじゃん」
僕が避けるより早く妹は僕に抱きついてキスした。
次の日は週末で学校は休みだった。このまま両親不在の自宅で妹と過ごすのは気まずいと思った僕は、まだ妹が起きる前に朝早くから外出することにした。
別に目的はなかったのでどこかで時間を潰せればよかった。そう思って駅前まで行ってはみたものの十時前ではろくに店も開いていなかった。
とりあえず電車に乗ろうと僕は思った。休日の電車なら空いているし確実に座れるだろう。図書館とか店とかが開くまで車内で座って居眠りでもしていよう。よく考えれば最近はあまり睡眠が取れていなくて寝不足気味だった。僕はとりあえず学校と反対方向に向う電車に乗り込んだ。どうせならいつもと違う景色の方がいい。
昨日の妹のキスは今までの悪ふざけとは少し違った感じだった。僕はすぐに妹を押し放して「もう寝るから」と言い放って自分の部屋に退散したのだけれど、僕に突き放されたときの妹の傷付いたような目が気になっていた。
でもやはりそれは正しい行動だった。今では僕には彼女がいるのだから。
それに、たとえナオと付き合っていなくたって妹と付き合うなんて考えられなかった。いくら血が繋がっていないとはいえ家族なのだ。妹と恋人同士になったなんて両親や渋沢たちに言えるわけがない。そう考えると昨日の明日香のキスはとてもまずい。というか明日香は違うかもしれないけど僕にとってはそれは初めてのキスだった。
もう考えることに疲れた僕は席について目をつぶった。すぐに眠気がおそって来てきた。電車の心地よい振動と車内の暖房に誘われて僕は眠りについた。
「・・・・・・さん」
心地よい声が耳をくすぐった。
「奈緒人さん」
え? 僕は目を覚ました。さっきまで誰もいなかった隣に座っている女の子がいる。それは私服姿の奈緒だった。その時ようやく意識が覚醒した僕は密着して話しかけている奈緒の顔の近さに狼狽した。
「奈緒人さん休みの日にどこに行くんですか」
奈緒はそんな僕を見てくすくすと笑った。
「確かに偶然だけどそんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
突然現われた奈緒の姿に驚いて固まっている僕に彼女は親しげな口調で言った。
「・・・・・・いつからいたの?」
「一つ前の駅から乗ったら奈緒人さんが目の前で寝てるんですもん。びっくりしちゃった」
奈緒は笑った。
「奈緒ちゃんはどこかに行くところ?」
ようやく頭がはっきりした僕は相変わらず密着している奈緒に聞いた。
「ピアノのレッスンなんです」
奈緒は言った。
「こんなに早くから?」
僕は驚いた。僕にとっては土曜日の朝なんて十時ごろまで寝坊するのが普通だっただけに。
「毎週土曜日の午前中はお昼までレッスンなんです」
「大変なんだね」
僕はそう言ったけど同時にコンクールの入賞のことを思い出して、それなら無理はないなと思った。
「好きでやっていることですから」
奈緒はあっさりと答えた。
「それよりも偶然ですよね。奈緒人さんはどこにお出かけなんですか。学校とは逆方向ですよね」
僕にぴったりと寄り添うように座っている奈緒と会話を始めると、さっきまで悩んでいた明日香とのことも忘れられるようだった。
でも、妹と一緒に家にいたくないから目的もなく外出しているとは言えない。
「いや、特に何でって訳じゃないよ。本とか探したくてぶらぶらと」
「本屋なら奈緒人さんの最寄り駅に大きなお店があるのに」
「たまにはあまり降りたことのない駅に降りてみたくてさ」
苦しい言い訳だったけどどういうわけかその言葉は奈緒の共感を呼んだようだった。
「ああ、何となくわかります。あたしもたまにそういう気分になるときがありますよ」
「そうなの」
「奈緒人さんと初めて会った時ね、あの駅で初めて降りたんですよ。駅前の景色とかも新鮮で何かいいことが起こりそうでドキドキしてました・・・・・・そしたら本当にいいことが起こったんですけどね」
奈緒は少しだけ顔を赤くして笑った。
「でも週末は奈緒人さんと会えないと思ってたから今日は得しちゃったな」
それは僕も同じだった。妹のことで胃が痛くなって自宅から逃げ出した僕だったけど期せずして奈緒に会えたことが嬉しかった。
「奈緒ちゃんのピアノのレッスンってどこでしているの」
「ここから、えーとここから四つ目くらいの駅を降りたとこです」
僕は車内に掲示してある路線図を眺めた。
「降りたことない駅だなあ。あのさ」
「はい」
「奈緒ちゃんさえ迷惑じゃなかったらピアノの教室まで一緒に行ってもいい?」
「本当ですか」
奈緒は目を輝かせた。「夢みたい。偶然電車で会えただけでも嬉しかったのに」
「そんな大袈裟な」
その時もっといい考えが思い浮んだ。もっとも奈緒に午後予定がなければだけど。一瞬だけためらったけど勇気を出して奈緒に言った。
「それとよかったらだけど。奈緒ちゃんのレッスンの終った後、一緒にどこかで食事とかしない?」
「え?」
調子に乗りすぎたか。びっくりしているような奈緒の表情を見て僕は後悔した。奈緒の好意的な言動に調子に乗ってまた志村さんの時のようにやらかしてしまったか。
でもそれは杞憂だったようだ。
「でも・・・・・・いいんですか? レッスンが終るまで三時間くらいかかりますよ」
「うん。本屋とかカフェとかで時間つぶしてるから大丈夫」
「じゃあ、はい。奈緒人さんがいいんだったら」
「じゃあ決まりね」
僕はその時財布の中身のことを思い出した。一瞬どきっとしたけどよく考えれば大丈夫だった。今月はお小遣いを貰ったばかりで全然使っていないし、先月の残りも一緒に財布に入っている。食事どころか一緒に遊園地に行ったって平気なくらいだった。
「じゃあ、あたし後で家に電話してお昼は要らないって言っておきます」
「家は大丈夫?」
「大丈夫・・・・・・と思います。大丈夫じゃなくても大丈夫にします」
「何それ」
僕は笑った。
「本当に今日はラッキーだったなあ。一本電車がずれてたら、あと車両が一つずれてたら会えなかったんですものね」
奈緒は嬉しそうに言った。
僕と奈緒は並んでその駅から外に出た。奈緒にとっては毎週通っている町並みだったのだろうけど、僕はこの駅に降りたのは初めてだった。
駅から出ると冬の重苦しい曇り空が広がっていた。そのせいで初めて来た町並みはやや陰鬱に映ったけれど、よく眺めると静かで清潔な駅前だ。駅前には開店準備中の本屋と既に開店しているチェーンのカフェがあった。これで奈緒を待っている間時間を潰すことができる。
僕は奈緒に言われるとおりに駅から閑静な住宅地への続く道を歩いて行った。いつのまにか奈緒が僕の手を握っていた。
曇り空の下を奈緒と手を繋ぎ合って知らない街を歩く。何か奇妙なほど感傷的な想いが僕の胸を締め付けた。初めて訪れた街だけど奈緒と二人なせいかどこか静かな住宅地が身近な場所のように感じられる。
前に奈緒は僕に運命を信じるかと聞いたことがあった。正直運命なんて信じたことはなかった。それでも今この住宅地をと二人で並んで歩いていると、その様子に既視感を覚えた。しかもその感覚はだんだんと強くなっていく。
「奈緒人さん?」
奈緒が奇妙な表情で僕に言った。
「うん」
「笑わないでもらえますか」
「もちろん」
「あたしね。この道は幼い頃から何百回って往復した道なんです」
「うん」
「幼い頃からずっとここの先生に教えてもらってたから」
「そうなんだ」
「でも今日は初めてちょっと変な感じがして」
「変って?」
「あたし、前にも奈緒人さんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかなあ」
それは僕の感じた既視感と同じようなことなのだろうか。僕自身のその感覚は強くなりすぎていて、今では夕焼けに照らされたこの道を奈緒と並んで歩いてるイメージが鮮明に頭に浮かんでいた。
「あたし、奈緒人さんと手を繋いでここを歩いたことあると思う」
奈緒が戸惑ったように、でも真面目な表情で言った。
「奈緒人さん、運命って信じますか」
そう奈緒に聞かれたのは二度目だった。最初のときは曖昧な笑いで誤魔化したのだけど。
僕は超常現象とかそういうことは一切受け付けない体質だ。世の中に生じることには全て何らかの合理的な説明がつくはずだと信じている。でも前にもこの場所で奈緒と一緒にいたことがあるというこの圧倒的な感覚には、合理的な説明がつくのものなのだろうか。
「よくわかんないや」
僕は再びあやふやに答えた。
「そうですか。あたしひょっとしたらあたしと奈緒人さんって前世でも恋人同士か夫婦同士だったんじゃないかって思いました」
奈緒は真面目な顔で言った。「奈緒人さんと一緒にここを歩いていた記憶って前世のものなんじゃないかなあ」
「どうだろうね」
僕にはよくわからなかった。でも奈緒が感じたというその記憶は、その時僕も確かに感じていたのだ。
「運命とか前世とかはよくわからないけど・・・・・・昔、奈緒ちゃんと一緒にこの道を歩いたことがあるんじゃないかとは僕も思ったよ。その時は夏だった感じだけど」
「それも夕方だった思います」
奈緒が言った。
「うん。僕も同じだ。まあ前世とかはわからないけど、僕と奈緒ちゃんって結ばれる運命なのかな」
僕は真顔で相当恥かしいことを言った。
「それです、あたしが言いたかったのも。きっと運命的な出会いをしたんですね。あたしたち」
奈緒が考え込んでいた表情を一変させて嬉しそうに言った。
こんな話を聞いたら渋沢や志村さん、それに妹だって腹の底から笑うだろうな。僕はその時そう思った。まるでバカップルそのものの会話じゃないか。でも僕にはそのことはまるで気にならなかった。僕は奈緒の小さな手を握っている自分の手に少しだけ力を込めた。
奈緒の手もすぐにそれに応えてくれた。
閑静な住宅地の中にそのピアノ教室はあった。外見は普通のお洒落な家のようだった。
「本当にいいんですか? 待っていただいて」
奈緒が言った。
「うん。駅前に戻って時間を潰して十二時半くらいにここへ戻って待ってるから」
「じゃあお言葉に甘えちゃいますね。あたし男の人に迎えに来てもらうのって初めてです」
僕は笑った。
「僕だって女の子を迎えに来るなんて初めてだよ。待っている間に食事できるお店を探しとくね」
「あ、はい。何だか楽しみです。今日は練習にならないかも」
奈緒が赤くなって微笑んだ。
「それはまずいでしょ。都大会の中学生の部で優勝した奈緒ちゃんとしては」
「・・・・・・何で知ってるんですか?」
奈緒は驚いたように言った。
「まあちょっとね」
「何か・・・・・・ずるい」
奈緒が言った。
「ずるいって・・・・・・」
「あたしは奈緒人さんのこと何も知らないのに。何であたしのことだけ奈緒人さんが知ってるの?」
僕は思わず笑ってしまった。知っているのはこれだけでしかもそれは志村さんの情報だった。あとでそれを奈緒に説明しよう。
「話は後でいいでしょ。ほら早く入らないと遅刻しちゃうよ」
「・・・・・・奈緒人さんの意地悪」
奈緒はそう言って恨めしそうな顔をしたけど結局笑い出してしまったので、彼女の恨みは全然切実には伝わらなかった。
「後で全部話してもらいますからね」
奈緒はその家のドアを開けて中に姿を消した。ドアを閉める前に奈緒は僕の方に向ってひらひらと手を振った。
奈緒が入っていった家のドアを僕はしばらく放心しながら眺めていた。
奈緒が言っていたような前世とかを信じていたわけではなかったけど、運命の恋人とか言われることは気分が良かったので僕は特にそのことに反論しなかった。でも、確かなことは一つだけだ。僕が好きなのは、僕にとって一番大切な子はわずか数日前に付き合い出した奈緒だけだ。そろそろ妹のアプローチに鈍感な振りをしているのも限界かもしれなかった。もし本当に妹が僕のことを好きなのだとしたら。
結局妹を傷つけるなら少しでも早いうちに自分の本心を妹に告げたほうがまだしもあいつの傷は浅いかもしれない。
そんなことを考えながら僕は時間を潰すために駅前の方に向った。無事に駅前に着いたとき再び僕は違和感を感じた。僕は昔から方向音痴だった。方位的な感覚がなく地図を見るのも苦手なので、初めて来た土地でこんなにスムースに駅前に戻れるなんてあり得ない。まして行きはナオの指示のままに何も考えずに着いて行ったのだし。
やはりここには来たことがあるのだ。そして体がそれを覚えていたのだろう。奈緒の言うような前世とかではなく、この世に生まれてから僕はこの駅とあのピアノ教室の間を歩いたことがあるのではないだろうか。でもそれがいつのことでいったい何のためにピアノ教室になんか行ったことがあるのかまるでわからない。僕はピアノなんて習ったことはないのだ。
駅前に戻ったときにはもう本屋が開店していた。本屋で適当に時間つぶしのための雑誌を買った僕はカフェに行こうとしてふと気づいた。そういえば一緒に食事をする約束ができたのはいいけどいったいどこに行けばいいのだろう。奈緒には偉そうにお店を探しておくよと言ったけど本当は当てなんか何もない。女の子がどんな店を好むのかさえよくわからなかった。そう言えば渋沢と志村さんに誘われて放課後三人でファミレスに入ったことがあった。ドリンクバーだけで二時間くらい粘ったっけ。ああいう店なら無難なのかもしれない。僕はカフェに行くのを止めて駅前を探索することにした。お店の当てすらないけど幸い時間だけは十分にあった。確か駅の自由通路を抜けた反対側が少し繁華街のようになっていたはずだった。
僕はそちらの方に向けて駅の中を抜けて繁華街の方に行ってみた。幸いなことに西口の方はお店だらけだった。駅前広場に沿ってファミレスが数軒。その他にもちょっとお洒落そうなパスタ屋とかカフェとかも結構ある。そのほとんどが営業中だった。これなら大丈夫だ。この中のどこかのファミレスに入ればいいのだ。ようやく重荷を下ろした僕はほっとして東口のカフェに入った。
カフェで窓際の席に落ち着いた僕はさっき買った雑誌をめくる気がおきないまま、ぼんやりとレストランを探していたときのことを思い出していた。ピアノ教室までの道もそうだけど、初めて降りたこの駅の西口が繁華街だなんて僕はどうしてあの時何の疑問も持たずに思いついたのだろう。早く店を決めたくて焦っていた僕は、あの時は何も考えずに心の声に従って行動した。その結果、思ったとおり西口は繁華街で僕は探していた店を見つけることができた。覚えていないだけでやはりこの街に来たことがあるのか。それが一番妥当な回答だった。
まあいいや。今はそんなことを考えるよりもっと考えなきゃいけないことがある。雑誌なんて買う必要はなかったのだ。今日は期せずして奈緒とデートできることになったのだから、食事の後どうするのかも決めておかなければならない。よく考えれば時間をつぶすとか言っている場合じゃなかった。
とりあえずファミレスで食事をする。ドリンクバーも頼んで少し長居したいものだ。それで奈緒とずっとお喋りするのだ。いつもなら僕の学校の最寄り駅まで三十分くらしか一緒にいられない。感覚的にはあっという間に別れの時が来ているような感じだった。だから今日は奈緒さえよければずっと一緒に話をしていよう。その後は。
奈緒は何時までに家に帰らなければならないのだろうか。とりあえず遊園地とか動物園とか水族館とかそういうのは時間的に無理だから、ファミレスを出た後はもう帰るしかないかもしれない。でもナオさえよければ彼女を家の途中まで送っていくことはできるだろう。さすがに家まで送るのは僕には敷居が高かったけど、駅までとかなら。
そんなことを考えているうちにすぐに時間が経ってしまい、そろそろ奈緒をピアノ教室まで迎えに行く時間になっていた。
思ったとおり奈緒が案内してくれなくても心の中の指示に従って歩くだけで、住宅街の複雑な道筋に迷うこともなくさっき彼女と別れたピアノ教室の前まで来ることができた。その建物のドアの真ん前で待つほど度胸がない僕は、少し離れたところで教室のドアを見守った。もう少しで十二時半になる。
やがて教室のドアが開いて中から女の子たちが連れ立って外に出てきた。華やかというとちょっと違う。でも決して地味ではない。その子たちは何か育ちのいいお嬢様という感じの女の子たちだった。彼女たちは笑いさざめきながら教室を出て駅の方に向かって行った。そういう女の子たちに混ざって女の子ほどじゃないけど男もそれなりに混じっているようだった。こちらはやはり少し真面目そうで、でも女の子に比べると地味な連中ばかりだった。少なくとも渋沢みたいなタイプは一人もいない。でもよく考えれば僕だって外見はこの男たちの仲間なのだ。しかもこいつらは外見はともかく音楽の才能には恵まれているんだろうけど、僕はそうじゃない。それなりに成績が良かったせいでこれまであまり人に劣等感を抱いたことがなかった僕だけど、それを考えると少し落ち込んでいくのを感じた。奈緒にふさわしいのはこの教室に通っているような男なんじゃないのか。ついにはそんな卑屈な考えまで僕の心に浮かんできた。
そのとき唐突に妹の姿が目に浮かんだ。明日香はビッチな格好を卒業したみたいだけど、中身はいったいどうなんだろう。少なくともこの教室に通っている女の子たちとは全く共通点がない。どういうわけか僕はこの時明日香のことが気の毒になった。あいつだって色々悩んだ結果、大人しい外見に戻ることを選んだのだろうに、やっぱり僕の目の前を楽しそうに通り過ぎて行く華やかで上品な女の子たちには追いつけないのだろうか。
やがて奈緒が姿を現した。彼女はドアから外に出て周りを見回している。僕を探してくれているのだ。少し離れたところで半ば身を隠すようにしているせいで奈緒はすぐには僕が見つからなかったようだ。僕が奈緒の方に寄って行こうとした時、誰かが彼女に話しかけるのが見えた。
それは黒ぶちの眼鏡をかけた高校生くらいの男だった。彼は馴れ馴れしく奈緒の肩に片手をかけて彼女を呼び止めた。奈緒もその男に気づいたのか振り向いて笑顔を見せた。その男が奈緒に何か差し出している。どうもピアノの譜面のようだ。譜面を受け取りながら奈緒は彼に何か話しかけた。彼にお礼を言っているみたいだった。奈緒の方に行こうとした僕はとっさに足をとめ、隣の家の車の陰に半ば身を隠すようにした。
何でこんな卑屈なことをしているのだろう。僕は自分のしたつまらない行動を後悔した。奈緒はさっき僕のことを運命の人とまで言ってくれたんじゃないか。奈緒は笑顔で譜面を渡した彼に話しかけていたけど、目の方は相変わらずきょろきょろと周囲を見回しているようだった。僕を探してくれているのか。その時奈緒と目が会った。
奈緒はその彼に一言何かを告げると嬉しそうに真っ直ぐに僕の方に向かって来た。その場に取り残された男は未練がましく何かを奈緒に話しかけたけど、彼女はもう彼の方を振り向かなかった。
「お待たせしちゃってごめんなさい」
奈緒はそう言っていきなり僕の手を取った。「奈緒人さん、待っている間退屈だったでしょ」
僕が心底から自分の卑屈な心の動きを後悔したのはその時だった。こんなに素直に僕を慕ってくれている奈緒に対して、僕は卑屈で醜い劣等感を抱いていたのだから。
「いや、お店とか探してたら時間なんかあっという間に過ぎちゃった」
「そう? それなら良かったけど」
僕たちの話を聞き取れる範囲には、その男のほかにも同じピアノ教室に通っているらしい女の子たちがまだいっぱいいたけれど、奈緒はその子たちの方を見ようとはしなかった。上目遣いに僕の顔を見ているだけで。さっきまでの卑屈な考えを後悔した僕だったけど、新たな試練も僕を待ち受けていた。周囲の女の子たちの視線が突き刺さるのを僕は感じた。ここまで周りを気にせずに僕に駆け寄っていきなり男の手を握る奈緒の姿は、周囲の女の子たちの注目を集めてしまったようだった。
案の定そのうちの一人が奈緒に話しかけてきた。
「奈緒ちゃんバイバイ」
奈緒も僕から目を離して笑顔でそれに答えた。「ユキちゃん、さよなら」
「・・・・・・奈緒ちゃん、その人って彼氏?」
ユキという子は別れの挨拶だけでこの会話を終らせるつもりはないようだった。彼女の周りの女の子たち、それにさっきから僕の手を握る奈緒をじっと見つめている、奈緒に話しかけた男も聞き耳を立てているようだ。
奈緒はちらっと僕の顔を見た。それから彼女は少し紅潮した表情でユキという子に答えた。
「そうだよ」
周囲の女の子たちがそれを聞いて小さくざわめいたけど、もう奈緒はそちらを見なかった。
「じゃあねユキちゃん。行きましょ、奈緒人さん」
僕は奈緒に手を引かれるようにして駅前の方に向った。
「ごめんね」
奈緒が言った。
「ごめんって何で」
「みんな噂好きだからすぐにああいうこと聞いてくるんですよ」
「別に気にならないよ。君の方こそ僕なんかが待っていて迷惑だったんじゃないの」
僕は思わずそう言ってしまってすぐにそのことに後悔した。奈緒が珍しく僕の方を睨んだからだ。
「何でそんなこと言うんですか? あたしは嬉しかったのに。奈緒人さんが待っていてくれるって思うとレッスンに集中できないくらいに嬉しくて、集中しなさいって先生に怒られたけどそれでも嬉しかったのに」
「ごめん」
僕は繰り返した。またやらかしてしまったようだ。でも奈緒はすぐに機嫌を直した。
「ううん。あたしこそ恥かしいこと言っちゃった」
奈緒は照れたように笑った。
この頃になると周りにはピアノ教室の生徒たちの姿はなくなっていた。
「一緒に食事して行ける?」
僕は奈緒に聞いた。
「はい。さっきママに電話しましたし今日は大丈夫です」
「じゃあファミレスでもいいかな」
ファミレスでもいいかなも何もファミレス以外には思いつかなかったのだけど、とりあえず僕は奈緒に聞いた。
「はい」
奈緒は嬉しそうに返事した。
相変わらず空模様はどんよりとした曇り空だったけど、その頃になると駅の西口もかなり人出で賑わいを増していた。そう言えばもうすぐクリスマスだ。目当てのファミレスで席に着くまで十五分くらい待たされたけど、その頃になると再び僕は気軽な気分になっていたせいで、奈緒と話をしているだけで席に案内されるまでの時間が長いとは少しも思わずにすんだ。
「ご馳走するから好きなもの頼んで」
僕は余計な念を押した。渋沢とかならこんな余計な念押しはしないだろう。一瞬僕は余計なことを言ったかなと後悔したけど、奈緒は素直にお礼を言っただけだった。
とりあえず料理が来るまで僕は自分が待っている間にこの駅前を探索したこと、不思議なことに初めて来たはずのこの街で少しも迷わなかったことを話した。
「う~ん。あたしと一緒に教室までの道を歩いた記憶があるというだけなら、前世の記憶だって主張したいところですけど」
奈緒が少し残念そうに言った。「奈緒人さん一人でもこの辺の地理に明るかったとしたら、奈緒人さんは昔この街に来たことがあるんでしょうね。忘れているだけで」
「何で残念そうなの」
僕は思わず笑ってしまった。
「だって、前世でも恋人同士だったあたしたちの記憶が残っていると思った方がロマンティックじゃないですか」
「それはそうだ」
「まあ、でも。よく思い出したら昔何かの用でここに来たことがあるんじゃないですか」
奈緒は言った。
「さあ。記憶力はよくない方だからなあ。全然思い出せない。逆に言うとここに来たのが初めてだと言い切るほどの自信もない」
「それじゃわからないですね」
奈緒は笑った。その時注文した料理が運ばれてきた。
食事をしながら奈緒と他愛ない話を続けていたのだけど、だんだん僕はあの男が気になって仕方なくなってきた。変な劣等感とか嫉妬とかはもうやめようと思ったのだけど、これだけはどうしても聞いておきたかった。
「あの・・・・・・気を悪くしないでくれるかな」
奈緒がパスタの皿から顔を上げた。
「何ですか」
「さっきの―――さっき君の肩に手を置いた男がいたでしょ? 随分馴れ馴れしいというか、結構親しそうだったんだけど彼は奈緒ちゃんの友だちなの?」
奈緒はまた不機嫌になるかなと僕は覚悟した。でも彼女はにっこりと笑った。
「嫉妬してくれてるんですか?」
その言葉と奈緒の笑顔を見ただけで既に半ば僕は安心することができたのだ。
その日僕たちはそのファミレスで二時間以上も粘っていた。さっき奈緒の肩に手をかけて呼び止めた男がただのピアノ教室での知り合いで、奈緒にはその男に対する特別な感情は何もないと知って胸を撫で下ろした僕は、いつもよりリッラックスして奈緒と会話することができた。
「何で奈緒人さんがコンクールのこと知ってるんですか?」
いろいろとお互いのことを質問しあう時間が一段落したときに奈緒が思い出したように尋ねた。そこで僕は種明かしをした。志村さんの情報だということを知った奈緒は自分が載っているWEBページのプリントを見せられて驚いていた。
「写真まで載ってたんですね。初めて見ました」
そう言って奈緒は自分の記事をしげしげと眺めていた。
偶然に出会って始まった土曜日の午後のデートだったけど、この出会いで僕は奈緒のことが大分わかってきたし、奈緒にも自分のことを教えることができた。奈緒も僕も離婚家庭で育った。幸いなことに奈緒は再婚した両親のもとで幸せに普通の暮らしをしているみたいだし、妹のことを除けば僕だってそうだった。でもここまで境遇が似ていると、奈緒が言う運命の人っていうのもあながちばかにできないのかもしれなかった。
話はいつまでたっても尽きないしここでもっと奈緒とこうしていたいという気持ちもあったけど、そろそろ帰宅する時間が近づいてきていた。曇った冬の夕暮れは暗くなるのが早い。窓の外はもう完全に暗くなっている。
「そろそろ帰ろうか。結構暗くなって来ちゃったし」
僕の言葉に奈緒は顔を伏せた。
「そうですね。もっと時間が遅く過ぎればいいのに」
「また月曜日に会えるじゃん。あと、よかったら今日家の近くまで送っていくよ」
奈緒が顔を上げた。少しだけ表情が明るくなったようだった。
「本当ですか?」
「うん。君さえよかったら」
「はい・・・・・・うれしいです」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
僕は伝票を取って立ち上がった。
僕たちは寄り添って帰路に着いた。さっきファミレスではあれほど話が盛り上がって、僕のくだらない冗談に涙を流すほど笑ってくれた奈緒だったけど、駅に向う途中でも、そして電車が動き出した後も彼女はもう自らは何も話そうとしなかった。
奈緒はただひたすら僕の腕に抱きついて身を寄せているだけだったのだ。週末の車内は空いていたので僕たちは寄り添ったまま座席に着くことができた。奈緒は黙って僕の腕に抱きついているだけだったけど、その沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。
「・・・・・・この駅です」
途中の駅に着いた時奈緒が言った。
「じゃあ、途中まで送って行くね」
奈緒はこくりと頷いた。
さっきのピアノ教室があった駅と同じで、駅前は完全に住宅地の入り口だった。何系統もあるバスがひっきりなしに忙しく駅前広場を出入りしている。
「こっちです。歩くと十分くらいですけど」
「うん」
「もっと家が遠かったら一緒にいられる時間も増えるのに」
奈緒がぽつんと言った。
僕の腕に抱きついて顔を伏せているこの子のことがいとおしくて仕方がなかった。僕にできることなら何でもしてあげたい。僕は奈緒に笑顔でいて欲しかったのだ。
閑静な住宅街であることはさっきのピアノ教室と同じで、奈緒の家がある街は綺麗な街並みだった。道の両側に立ち並ぶ瀟洒な家々からは暖かそうな灯りが洩れて通りに反射している。
「あの角を曲がったところです」
奈緒が言った。
「じゃあ、僕はこの辺で帰るよ」
奈緒は僕の腕から手を離した。そして再び黙ってしまった。
僕は奈緒の両肩に手をかけた。彼女は目を閉じて顔を上げた。僕は奈緒にキスした。
それから二週間くらい経った土曜日の午後、僕は奈緒のピアノ教室の前で彼女を待っていた。それはクリスマス明けの二十六日のことだった。クリスマスには陰鬱な曇り空だった天気は、どういう気まぐれかちらほらと降る雪に変わっていた。
結局、臆病な僕は付き合いだしたばかりの奈緒に対して、イブを一緒に過ごそうと持ちかけることはできなかった。でも誘わなくて正解だったようだ。富士峰はイブの日とその翌朝は校内の礼拝堂で礼拝と集会があるのと彼女は僕に言った。イブの日のデートに勇気を出して奈緒を誘っていたら、結局僕は彼女に断られることになっていたはずだ。
でもその話を聞いた渋沢と志村さんは笑い出した。
「何だよ。そんなのおまえに誘ってもらいたかったに決まってるだろ」
「だって学校の行事があるからって」
「そこで、じゃあ何時になったら会える? って聞けよアホ」
「そう聞いたらどうなってたんだよ。勝手なこと言うな」
僕は二人の嘲笑するような視線に耐え切れなくなって言った。
「まあまあ、落ち着きないさいよ」
志村さんがそう言った。
「落ち着いているって」
「でもあたしも明の言うとおりだと思うな」
「どういうこと?」
「奈緒人君が彼女を誘っていれば、学校行事はサボるとかさ。そこまでしなくても、夕方には時間がありますとか絶対言ってたよ、奈緒ちゃんは。むしろ期待してたんじゃない? 可愛そうに」
志村さんにまでそう言われてしまうとこの手の話題には疎い僕にはもう反論できなかった。
「じゃあ二十六日とかに一緒に遊びに行くか」
「それでも何もしないよりましかもね」
渋沢と志村さんが目を合わせて笑った。
そういうわけで僕は、クリスマスの日の夜、勇気を振り絞って奈緒に電話した。ピアノ教室が終った後に渋沢と志村さんと四人で遊びに行かないかと。あいつらが言うように奈緒が僕にクリスマスに誘われなくてがっかりしたのかどうかはわからないけど、その時の僕の誘いに奈緒は目を輝かせるようにして答えてくれた。
「はい。大丈夫です。絶対に行きます」
「じゃあ明日の土曜日、君の教室が終わる頃にまたあそこで待ってるね」
「お迎えに来るのが面倒だったらどこかで待ち合わせてもいいですけど」
奈緒が僕に気を遣ったのかそう言った。「わざわざ来ていただくもの申し訳ないですし」
渋沢や志村さんに言われなくてもさすがにこのくらいの問題には僕だって回答することはできる。
「奈緒ちゃんさえよかったら迎えに行くよ。その方が渋沢たちに会うまで君と二人で一緒にいられるし」
「・・・・・・うん」
奈緒は微笑んだ。やはりあいつらの言っていることにも一理あるのだろうか。「すごく嬉しいです。奈緒人さん」
ここまで直接的に愛情表現をしてくれる奈緒に対して僕は臆病すぎるのかもしれない。
奈緒は少し赤くなった顔で僕に言った。
「じゃあ待ってます」
「うん」
「・・・・・・あの」
「どうしたの」
「明日は教室の前で待っていてくださいね。前みたいに離れたところで待っていたらだめですよ」
僕は面食らった。
「どうして? というか堂々と教室の前で待つのは何か恥かしい」
「恥かしがらないでください」
奈緒が真面目な表情になって言った。「あたしたち、お付き合いしているんですよね?」
「う、うん」
「じゃあ教室の目の前で堂々と待っていてください。あたしも教室のお友だちにあたしの彼氏だよって紹介できますから」
「うん・・・・・・」
「それに・・・・・・いつも一緒に帰ろうって誘われる先輩がいるんですけど、奈緒人さんが教室の前で待っていてくれればその人にもちゃんと断れますし」
「わかった」
僕は戸惑ったけど奈緒がここまできっぱりと言葉にしてくれているのだ。恥かしいとか言っている場合ではなかった。「そうするよ」
僕はちょうどピアノ教室が終る時間に教室の前に着いた。その建物の正面で待っているのは目立ちすぎだと思ったけど、これは奈緒との約束だった。
落ち着かない気持ちが次第につのって行く。結構胃が痛い感じだった。そうやって待っていると他にもそこで誰かを待っているやつがいることに気がついた。
金髪とピアス。強面そうな顔。
そいつは明らかにこの閑静な住宅街の中では不自然な存在だった。僕以上に。でもそいつのことを僕は以前に見かけたことがあった。
間違いない。こいつは僕の妹の前の彼氏のイケヤマとかいうやつにに違いない。でもどうして彼がここにいるのだ。もしかして僕と一緒でここに通っている女の子を迎えに来たのだろうか。
いくら女に対して手が早そうな外見だからといって、妹と別れたばかりでこんなに早く次の彼女ができているということも信じがたいし、偏見かもしれないけどここに通っているような真面目な女の子とこいつが付き合うというのも考えづらい。
その時イケヤマが不意に振り向いたので僕たちの視線が合った。イケヤマに強い目で睨まれて僕は一瞬ひるんだ。イケヤマとは前に一度出くわしたことがあるし、僕が明日香の兄であることを知っているのかもしれなかった。妹も前に僕の視線にそいつが傷付いたみたいなことを言っていたし。でもイケヤマの睨みつけるような視線が絡んだのは一瞬だけだった。すぐに彼は視線を逸らし早足でピアノ教室から遠ざかって行った。僕はイケヤマの背中を眺めたがらいったいこいつはここで何をしたかったのだろうかと考えていた。
角を曲がって姿が消えたイケヤマの背中から目を離すと、ちょうど教室のドアが開いて奈緒が少しだけ急いでいる様子で外に出てきた。一番先に出てくるとは思わなかったけど、さっき恥かしいからと言った僕を気にして他の子より早くで出てきてくれたのかもしれない。約束どおり今日は隅の方に隠れていないでドアの正面に立っている僕の方に向かって奈緒は小さく手を振って小走りに近寄ってきた。そのまま奈緒は僕の腕に抱きついた。こんなどうしようもない劣等感の塊の僕の上に天使が降ってきたようだ。今までも何度となく考えていた感想が再び僕の胸を締め付けた。
僕は柄にもなく抱きついてくる奈緒に向って微笑んだ。僕が奈緒に声をかけようとしたとき、それまで奈緒の背後に隠れていた小柄な女の子が目に入った。僕と目が合ったその女の子はにっこりと笑った。
「こんにちは」
「有希ちゃん、何でいるの?」
奈緒も少し戸惑ったようにユキという子に言った。
「何でって、帰り道だもん。それよか紹介して」
「まあ・・・・・・いいけど。前にも話したと思うけどあたしの彼氏の奈緒人さん。奈緒人さん、この子は富士峰の同級生で有希ちゃんっていうの」
「はじめまして奈緒人さん」
有希ちゃんは好奇心で溢れているという様子で、それでも礼儀正しく僕にあいさつしてくれた。
「あ、どうも」
もともと女の子と話すことが苦手な僕にはこれでも上出来な方だった。とにかく今まで奈緒とここまで普通に会話できていることの方が奇跡に近いのだ。僕と奈緒の出会いが彼女の言うように運命的な出来事だったせいなのかもしれないけど。
「奈緒人さん。有希ちゃんは親友なんです。学校もピアノのレッスンも一緒なんですよ」
「そうそう。それなのに最近土曜日のレッスン後は奈緒ちゃんは一緒に帰ってくれないし。何でだろうと思ってたら彼氏が出来てたとは」
「ごめん。でも前にも話したでしょ」
「奈緒人さん、奈緒ちゃんは奥手だけどいい子なんでよろしくお願いしますね」
有希が笑って僕に言った。
「何言ってるの」
「そうだ、奈緒人さん。親友の彼氏なんだしメアドとか交換してもらってもいいですか」
え? 僕は一瞬ためらった。奈緒の親友には冷たくするわけにはいかないし、かといって会ったばかりの有希とメアドを交換することに対して、奈緒がどう考えるのか僕にはよくわからなかった。
僕は一瞬有希に返事ができず奈緒の顔色を覗った。奈緒は心なしか少しだけ不機嫌そうな気がする。そんなにあからさまな様子ではなかったし僕の思い過ごしかもしれないど。それでも彼女の親友にメアドを教えてって言われたくらいで気を廻してそれを断る勇気は僕にはなかった。奈緒が有希に何か言ってくれればいいのだけど、奈緒は相変わらず微妙に不機嫌そうな雰囲気を漂わせたままのすまし顔だ。
「うん、いいよ」
僕はそれ以上考えるのを諦めて有希に返事をした。
「やった」
有希が可愛らしく言った。別に彼女に興味を持ったわけではないけど、やはりこの子も奈緒と同じくらい可愛らしい子だった。
有希にさよならを言って駅の方に歩き出した僕たちだったけど、いつのまにか奈緒の手は抱き付いていた僕の腕から離れ、僕たちは手を握り合うこともなく微妙な距離を保ったまま歩いていた。少し遅れ気味に僕の後からついてくる奈緒を思いやって僕は後ろを振り向いて声をかけた。
「ごめん。歩くの速かったかな」
奈緒はそれには答えずに僕から目を逸らした。
何だと言うのだろう。仕方なく僕はまた歩き出して少しして奈緒の方を振り返った。
奈緒は俯いたままでその場に立ちすくんでいた。
・・・・・・いったい何なんだろう。もちろん僕にだって思いつく理由として有希とのメアド交換が思い浮んだけど、あれは僕のせいでも何でもないだろう。
有希を紹介したのは奈緒だったし、有希がメアド交換を言い出した時だって別に奈緒はそれを制止したわけでもない。正直に言えば奈緒しか目に入っていない僕が有希とメアドを交換したのだって奈緒の友だちだということで気をつかったからだ。それなのに多分奈緒はそのことに拗ねている。僕は少し理不尽な彼女の態度に対する怒りが沸いてくるのを感じた。
僕は生まれて初めてこんなに女の子を好きになったといってもいいほどに奈緒に惹かれている。彼女のためなら多少の理不尽はなかったことにしてもいいくらいに。でも罪悪感を感じていないことに対して謝罪してはいけない。奈緒がついてくるかどうかわからないけど僕は再び駅の方に歩き始めた。
僕は今まで妹に謝ったことがない。両親の再婚と母さんの愛情が半分だけ僕に向けられたことによって妹が傷付いたことは間違いない。そのせいで僕は妹に散々嫌がらせをされた。多分その張本人の妹だって期待していないくらいに傷付きストレスを感じた。でも僕はそのことで本気で妹を責めたことはなかった。それは妹の痛みを、幼かった妹にはどうしようもなかった出来事で彼女が傷付いた痛みを理解できたからだった。
同時に辛い思いをさせたかもしれない妹に対して謝ろうと思ったこともなかった。確かに明日香は、父さんと母さんの再婚の結果、母さんの愛情と関心を僕に奪われたと感じ、そのせいで傷付いているかもしれない。でも、去年両親に真相を知らされてから考えていたことだったけど、そのことに関して僕は明日香に対して罪悪感を感じる理由はない。
そのこととこれとを一緒にする気はないけど、いくら奈緒がさっきのできごとで怒ろうと拗ねようと、そしそのせいで僕のことを嫌いになろうと自分の今までの考え方を曲げる気はなかった。
僕は足を早めた。これで終るなら終わるだけのことだ。僕は確かに奈緒に惹かれていたし彼女と付き合えて嬉しかったけど、自分のポリシーを曲げてまで彼女の機嫌を取る気はなかった。もう後ろを振り向かずに寒々とした曇り空の下を歩いていく。やはり見慣れない街のはずだけど迷う気は全くしなかった。もう駅がその姿を見せていた。
考えてみれば奈緒には今日、渋沢と志村さんと一緒に遊ぼうと誘っただけで待ち合わせ場所も待ち合わせ時間も話していない。このまま奈緒がついてこないままで、改札を通ってしまえば今日はもう奈緒とは会えないのだ。渋沢と志村さんが僕を責める言葉が聞こえてくるようだった。渋沢なら僕のポリシーなんてどうでもいい、一言奈緒に謝るだけじゃないかと僕を責めるだろう。そして志村さんは、取り残された奈緒ちゃんが可哀そうとか言うに違いない。
僕は息を呑んだ。これが初めてできた僕の彼女との別れになるかもしれない。
今からでも遅くない。振り返って奈緒のところまで行ってごめんといえば、僕には二度とできないかもしれない可愛い彼女と仲直りできるかもしれない。でも僕はそうしなかった。僕はパスモを取り出して改札口から駅の中に入ろうとした。
その時背後に軽い駆け足の音が響いてそれが何かを確かめるよリ前に僕は後ろから思い切り抱きつかれた。
「ごめんなさい」
泣き声交じりの奈緒の声が僕の顔の間近で響いた。
「奈緒人さん本当にごめんなさい」
僕は抱きつかれた瞬間に力を込めてしまった全身を弛緩させた。
「・・・・・・どうしたの」
僕の背中に抱きついた奈緒が泣きじゃくっている。
「ごめんなさい。怒らないで・・・・・・お願いだからあたしのこと嫌いにならないで」
「どうしたの」
さすがに僕も驚いて奈緒に聞いた。
「嫌な態度しちゃってごめんなさい。あたしが悪いのに」
僕はこの時ほっとした。それまで僕を縛っていた頑な思いが解きほぐされていくようだった。僕はどうして自分のほうから奈緒に手を差し伸べてあげられなかったのだろう。僕の方こそこんなにも奈緒に執着しているのに。
僕は振り向いて奈緒を正面から見た。
「・・・・・・怒ってないよ。僕の方こそ辛く当たってごめん」
妹に対する僕の態度と比べるとダブルスタンダードもいいところだった。でも気がついてみると僕もピアノ教室から駅までの短い距離を歩く間に相当緊張し悩んでいたのだ。僕は改めてそのことに気がつかされた。
奈緒は正面に向き直った僕にしっかりと抱きついた。
「有希ちゃんは親友だしあたしの方から奈緒人さんに紹介したのに」
やっぱり地雷はそこだったようだ。
「有希ちゃんとメアド交換している奈緒人さんを見てたら嫉妬しちゃって。そしたら何か素直に振る舞えなくなって。こんなこと初めだったからどうしていいかわからなくて」
「もういいよ。わかったから」
奈緒は涙目で僕の方を見上げた。
「僕こそごめん。有希さんとメアド交換していいのかわからなかったけど、奈緒ちゃんの友だちだし断ったら悪いと思ってさ」」
「・・・・・・本当にごめんなさい」
「いや。僕こそ無神経でごめん。あとさっきは先に行っちゃてごめんね」
「そんな・・・・・・奈緒人さんは悪くない。あたしが悪いの」
週末のせいかその時間には駅前には人がたくさんいた。そんな中で抱きあっていた僕と奈緒の姿は相当目立っていたに違いない。
僕は奈緒の肩に両手を置いた。周囲の人混みが視界からフェードアウトし気にならなくなる。奈緒がまだ涙がうっすらと残っていた目を閉じた。
渋沢と志村さんとの待ち合わせ場所は隣駅の駅前のカラオケだった。いろいろと揉めたせいで余裕があったはずの待ち合わせ時間にぎりぎりなタイミングになってしまった。
仲直りしてからの奈緒は電車の中でいつもより僕に密着しているようだった。
「本当にあたしのこと嫌いになってない?」
僕に抱きついたまま席に座った奈緒が小さな声で言った。
「なってない」
僕はそう言って奈緒の肩を抱く手に力を込めた。いつもの僕と違って周囲の人たちの好奇心に溢れた視線は気にならなかった。その時唯一気にしていたのはどうしたら僕がもう気にしていないということを奈緒に信じてもらえるかだけだった。
「・・・・・うん」
奈緒が僕の胸に顔をうずめるようにしながら小さくうなずいた。彼女にも周りの視線を気にする余裕はないようだった。でもこれで奈緒と仲直りできたのだ。
「もう泣かないで」
「うん」
やっと奈緒は顔を上げて泣き笑いのような表情を見せた。
数駅先の繁華街にあるカラオケに着く頃には奈緒は元気を取り戻していた。
「ここで遊ぼうって言われてるんだけどカラオケとか平気?」
何せ富士峰のしかもまだ中学生なのだから僕は念のために聞いた。
「大丈夫です。お友だちと何度か入ったこともありますし」
「よかった。じゃあ行こう」
「はい」
渋沢と志村さんはもうカラオケのフロントで僕たちを待っていた。
「よう奈緒人」
「奈緒人君こっちだよ」
「やあ」
「こんにちは」
「奈緒ちゃんも今日は~」
「じゃあ行こうぜ。俺が受け付けしてくるよ。とりあえず二時間でいいな」
渋沢がチェックインするために受付のカウンターの方に向かって言った。
クリスマスの後の昼間のせいかすぐに待たずに個室に案内された僕たち十人以上は座れそうなボックスを見て戸惑った。
「どう座ろうか」
やたら広い室内を見ながら志村さんが言った。「これは広すぎるよね」
「まあ狭いよりいいじゃん。適当に座ろうぜ」
「奈緒ちゃん一緒に座ろう」
志村さんが奈緒の手を引いてモニターの正面のソファの方に彼女を連れて行った。奈緒は手を引かれながら何か言いたげにちらりと僕の方を見た。
「じゃあ俺たちはこっちに座ろうぜ」
渋沢が言った。僕の方を見ていた奈緒の視線が脳裏に浮かんだ。僕はもう迷わず奈緒の隣に腰掛けた。奈緒は微笑んで僕の手を握ってくれたけどもちろんそれは渋沢や志村さんにも気がつかれていただろう。
「何だよ。こっち側に座るの俺だけかよ」
渋沢がぶつぶつ言った。「何でお前ら三人だけ並んで座ってるんだよ」
「じゃあ、あんたもこっち座れば」
志村さんが自分の隣の席を叩いて見せた。「ここおいでよ」
「何でこんなに広いのに片側にくっついて座らなきゃいけないんだよ」
渋沢は文句を言いながらも志村さんの隣に納まった。確かに広い部屋の片隅で身を寄せ合っている姿は傍から見て滑稽だったろう。でも僕は多分奈緒の期待に応えたのだ。僕は隣に座っている奈緒を見た。奈緒もすぐに僕の視線に気が付いたのかこちらを見上げて笑ってくれた。
これなら今日は奈緒と色々話せそうだった。ところがしばらくするとそれは甘い考えだったことがわかった。曲が入っているときは話などまともにできなかったし、曲の合間は渋沢と志村さんが好奇心に溢れた様子でひっきりなしに奈緒に話しかけていたからだ。
最初は戸惑っていた奈緒も志村さんや渋沢に親しげに話しかけられているうちに次第に二人に心を許していったようだった。
学校のこと、ピアノのこと、趣味のこと。そして僕との馴れ初めやいったい僕のどこが気に入ったかという質問が二人から奈緒に向けられ、最初はたどたどしく答えていた奈緒も最後の方では笑顔で志村さんと渋沢に返事をするまでになっていた。
彼女が僕の友だちと仲良くなるのは嬉しかったけど、僕抜きで盛り上がっている三人を見ていると少しだけ気分が重くなってきた。
「そういや昼飯食ってなかったじゃん。ここで何か食おうぜ」
渋沢が言った。
「そうだね。ここなら安いしね」
「ピザとチキンバスケット頼んでくれよ」
「あんた一人で食べるんじゃないっつうの」
志村さんはそう言ってメニューを広げた。「奈緒ちゃん、二人で選んじゃおう」
「はい」
奈緒は楽しそうに女さんに答えた。二人はしばらくメニューを見てからにぎやかに注文している。
「おい奈緒人。おまえさっきから何も歌ってねえじゃん。奈緒ちゃんだって歌ってるのによ」
「僕はいいよ、歌苦手だし」
「何だよ、うまいとか下手とかどうでもいいじゃんかよ」
僕が言い返そうとしたとき、客が少ないせいか早くも注文した食べ物や飲み物を持った店員が部屋に入ってきた。
「何か話してばっかで全然歌えなかったね」
結局二回時間を延長したために外に出たときはもう薄暗くなっていた。あちこちのビルの店舗から洩れる灯りが路面をぼんやりとにじませている。
「おまえが奈緒ちゃんにペラペラ話かけていたせいだろうが」
渋沢が笑って言った。
「何よ。あんただって奈緒ちゃんに興味深々にいろいろ質問してたくせに」
「そりゃまそうだけどさ。奈緒ちゃん」
「はい?」
「奈緒ちゃん歌上手だね。あと君は本当にいい子だな」
「え」
「奈緒人をよろしく。こいつ口下手だし根暗だし真面目なくらいしか取り得がないけどさ」
ちょっとだけ改まった口調で渋沢が言った。
「あんたそれ言いすぎ」
志村さんが真面目な口調になって渋沢に注意したけど渋沢は気にせず言葉を続けた。
「でもいいやつなんでよろしくね」
奈緒は少し驚いたようだったけど、顔を赤くして渋沢に答えた。
「ええ。よくわかってます。心配しないでくださいね」
「うん。じゃあまたな。奈緒人、おまえ奈緒ちゃんを送って行くんだろ」
「あ、あたしは大丈夫です」
「送っていくよ」
僕は奈緒の顔から目を逸らして言った。
電車を降りて奈緒の家の方に向かっている間中、僕は黙って奈緒の先に立って歩いていた。これではさっき奈緒をピアノ教室に迎えに行った時と同じだ。そしてさっきは奈緒の理不尽な怒りに頭がいっぱいだったのだけど、今の僕のこの感情に対して奈緒に責任がないことはわかっていた。ただ形容しがたい寂しさが僕の中にあるだけだった。
これは理不尽な怒りだ。奈緒には何も責任はない。奈緒は僕に誘われて渋沢たちと会い社交的に彼らと話しただけだ。これでは怒りと言うよりも相手にされなかった子どもが拗ねているのと同じだ。
僕の脳裏に今まで思い出すこともなかった記憶が蘇った。
母親がいない夜。
自分も半泣きになりながら、僕は誰もいない家で怯え抱きついて泣いていた妹を抱き締めた。
でも僕には両親が離婚前の記憶はないはずだった。何でこんなにリアルにこんな情景が浮かぶのだろう。それに僕には義理の妹の明日香がいるだけだ。実の妹がいるなんて聞いたこともない。
突然脳裏に押しかけてきた圧倒的にリアルな悪夢を頭を振って追い払った時、奈緒が僕の背後から不安そうな声で僕に声をかけた。
「あの。奈緒人さん、何か怒ってますか」
おどおどとした奈緒の震え声を聞いた途端、突然僕の心が氷解した。僕は振り返って奈緒に手を差し伸べた。この子がいとおしくてしかたがない。一瞬の幻想の中で怯えて僕に抱きついていた幻の妹の姿が奈緒と重なった。奈緒は差し伸べられた僕の手をそっと握った。
「ごめん。奈緒ちゃんがあいつらとずっと楽しそうに話していたし、僕は君とあまり話せなかったんで少しだけ嫉妬しちゃったかも。僕が悪いんだよ」
その時奈緒は少しだけ怒ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな複雑な表情を見せた。
「あたし、奈緒人さんのお友だちと仲良くしてもらって嬉しくて」
「うん、わかってる。僕が勝手に君に嫉妬したんだ。本当にごめん」
「でも、さっきあたしも有希ちゃんと奈緒人さんに嫉妬しちゃったし、おあいこなのかもしれないですね」
「いや。今のは僕が悪いんだよ」
奈緒は僕を見つめた。
「あたし、渋沢さんと志村さんとお話できて嬉しかったですけど、やっぱり奈緒人さんと二人きりでいたいです」
「そうだね。今後は二人でカラオケ行こうか」
「はい。今度は奈緒人さんの歌も聞かせてくださいね」
奈緒はようやく安心したように僕の腕に抱きついて笑った。
その晩僕が帰宅すると珍しく玲子叔母さんがリビングのソファに座って妹とお喋りしていた。
「叔母さんお久しぶりです」
僕はとりえず叔母さんにあいさつした。叔母さんは今の母さんの妹だ。
「よ、奈緒人君。元気だった?」
叔母さんはいつものように陽気に声をかけてくれた。僕はこの叔母さんが大好きだった。本当の叔母と甥の関係ではなかったことを知ってからもその好意は変わらなかった。
この人は僕は自分の本当の甥ではないと昔から知ってたにも関らずいつも僕の味方をしてくれていた。
「元気ですよ。叔母さん、久しぶりですね」
「元気そうでよかった」
叔母さんはそう言って笑った。でも叔母さんは少し疲れてもいるようだった。
「相変わらず忙しいんですか? 何か疲れてるみたい」
「まあね。ちょうど年末進行の時期でさ。今日なんかよく定時に帰れたと思うよ」
仕事が仕事だから叔母さんはいつもせわしない。
「今日は突然この近くの予定が無くなっちゃったんだって」
叔母さんの隣に座っていた妹が口を挟んだ。
僕はさりげなく妹を観察した。やはり自分で宣言したとおり真面目で清楚な女の子路線を守っているらしい。僕がここまで本気で奈緒に惚れていなければ、結構真面目に妹に恋してしまっていたかもしれない。それくらいに僕好みの女の子がその場に座って僕に笑いかけていた。
「何・・・・・・?」
僕の呆けたような視線に照れたように妹が顔を赤くして言った。なぜか叔母さんが笑い出した。
「笑わないでよ」
妹は僕の方を見ずに顔を赤くしたまま叔母さんに文句を言った。
「ごめんごめん。あたしもまだまだ若い子の気持ちがわかるんだと思ってさ」
「叔母さん!」
なぜか狼狽したように妹が大声をあげた。
「悪い」
叔母さんが笑いを引っ込めて言った。
「父さんと母さんは今日は帰ってくるの」
僕は何だかまだ少し慌てている様子の妹に聞いた。
「今夜は帰れないって」
「そうか。せっかく叔母さんが来てくれたのにね」
「いいって。あたしは久しぶりに奈緒人君の顔を見に来ただけだからさ」
叔母さんはそう言って笑った。
「でもどうしようか。あたしもさっき帰ったばかりで夕食の支度とか何にもしてないんだ」
妹が少しだけ困ったように言った。
こいつが突然いい妹になる路線を宣言してから数日たっていたけど、やはり妹のこの手の発言には違和感を感じた。そもそも両親不在の夜に明日香が食事の支度をすることなんてもう何年もなかったのだし。
「叔母さんも夕食はまだなの?」
明日香が聞いた。
「うん。ここに来れば何か食わせてもらえるかと思ってさ。まさか姉さんがいないとは思わなかったから当てがはずれちゃったよ」
「そんなこと言ったって電話とかで確認しない叔母さんが悪いよ。だいたい叔母さんほどじゃないかもしれないけど、毎年年末はほとんど家にいないよ。ママもパパも」
明日香の言ったことは本当のことだった。父さんと母さんはお互いに違う会社に勤めているけど業種は一緒だった。そしてあるとき業界のパーティーで出会ったことが二人の馴れ初めだったということも、昨年のあの告白の際に聞かされていた。
「何で年末にそんな忙しいんだろうな。音楽雑誌の編集部なんて暇そうだけどな」
叔母さんがのんびりとした声で言った。「こう言っちゃ悪いけど、あたしのいる編集部みたいなメジャーな雑誌を製作しているわけじゃないしさ」
「まあ、業界なりの事情があるんじゃないの」
明日香が訳知り顔で言った。「それより叔母さん、夕食まだならどっかに連れて行ってよ。あたしおなか空いちゃった」
明日香は昔から玲子叔母さんと仲が良く、お互いに遠慮せずに何でも言えるのだ。僕の方もあの夜の両親の告白までは、明日香同様、あまり叔母さんに遠慮しなかった気がする。叔母さんにはそういった遠慮を感じずに接することができるような大らかな雰囲気が備わっていたからだ。
でも実の叔母と甥の仲じゃないことを知った日以降、僕は叔母さんには心から感謝してはいたけど、前のように無遠慮に何でも話すことはできなくなってしまっていた。
「未成年のあんたたちを勝手に夜の街中に連れ出したら、あたしが姉さんに叱られるわ」
叔母さんがにべもなく言った。
「え~。黙ってればわからないじゃん」
明日香が不平を言った。
「そうもいかないの。じゃあ、出前で寿司でも取るか。ご馳走してやるから」
「じゃあお寿司よりピザ取ろうよ。あとフライドチキンも」
寿司と聞いて嫌な顔をした明日香が提案した。こいつの味覚はお子様なのだ。
「ピザねえ・・・・・・奈緒人君は寿司とピザ、どっちがいい?」
どっちかと言えばもちろん寿司だった。さっきカラオケでピザとフライドチキンを食べたばかりだし。最初渋沢のリクエストをあさっりと却下した志村さんだったけど、実際に注文した食べ物が運ばれてくると、ピザとチキンバスケットもその中にちゃんとオーダーされていた。
渋沢に厳しい様子の志村さんも結構気を遣ってあげてるんだと、僕はその様子をうかがって妙に納得したのだった。
それはともかく決してピザもチキンも嫌いではないけど昼夜連続となると正直あまり食欲が沸かない。まあでもそれは僕だけの事情だから、ここでわがままをいう訳にもいかない。
「どっちでもいいですよ」
僕がそう言うと叔母さんは少しだけ僕の顔を眺めてから微笑んだ。
「相変わらずだね、君は。もう少しわがままに自己主張した方が結城さんも姉さんも喜ぶんじゃないの」
時々この人はこっちがドキッとするようなことを真顔で言い出す。僕はどう反応していいのか戸惑った。こんなことはたいしたことではない。わがままな明日香に譲歩するなんていつものことだったし、両親不在の夕食は今まではカップ麺とかで凌ぐのがデフォルトになっていたのだ。
「明日香さあ、あんたのお兄ちゃんはお寿司の方が食べたいって。どうする? あんたが決めていいよ」
何を訳のわからないことを。僕はその時そう思った。当然、ピザがいいと騒ぎ出すだろうと思った僕は、妹が少し考え込んでいる様子を見て戸惑った。
「お兄ちゃんってお寿司が好きなんだっけ」
明日香の意外な反応に僕は固まってしまいすぐには返事ができなかった。
「いや。別にピザでも」
「じゃあお寿司でいいや。特上にしてくれるよね、叔母さん」
「あいよ。あんたが電話しな。好きなもの頼んでいいから」
叔母さんは明日香に言いながらも僕に向かってウィンクした。
三十分くらいたってチャイムの音がした。
「やっと来た。叔母さんお金」
「ほれ。これで払っておいて」
「うん」
明日香が玄関の方に向って行った。
「さて」
叔母さんが僕に言った。
「・・・・・・どうしたんですか」
僕の言葉を聞いて叔母さんの表情が少し曇った。
「あのさあ。奈緒人君、何で去年くらいから突然あたしに敬語使うようになった?」
「ああ。そのことですか」
「ですかじゃない。君も昔は明日香と同じで遠慮なんかしないであたしに言いたい放題言いってくれれたじゃんか」
「・・・・・・ごめんなさい」
「あんた。あたしに喧嘩売ってる?」
「違いますよ」
「じゃあ何でよ。あんたがあたしに敬語を使うようになったのって、結城さんと姉さんからあの話を聞いたからでしょ」
「まあ、そうですね」
「水臭いじゃん。それにあんた姉さんには敬語で話してる訳じゃないんでしょ」
僕は黙ってしまった。
「明日香にだって、普通におまえとかって呼べてるじゃん。何であたしにだけ敬語使うようになったの?」
叔母さんは別に僕を責めている口調ではなかった。むしろ少し寂しそうな表情だった。余計なことを言わずに謝ってしまえばいい。最初僕はそう思ったけど、そうして流してしまうには叔母さんの口調や表情はいつもと違って真面目なものだった。だから僕は思い切って言った。
「叔母さんって僕が去年真相を知らされる前から僕のことは、奈緒人君って呼んでたでしょ。妹には明日香って呼び捨てなのに。何で妹と僕とで呼び方を分けるんだろうって昔は不思議に思ってたんです。でも、あの日両親から聞いてその理由がようやくわかりました」
叔母さんは少し驚いた様子だった。多分無意識のうちに僕と明日香を呼び分けてしまっていたのだろう。多分この人は僕の父さんと僕が他人だった時から僕たちのことを知っていたのだろう。そして両親の再婚前から僕のことは君付けだったのだろう。
「そういやそうだったね」
叔母さんが珍しく俯いていた。「あたしとしたことが、無意識にやらかしてたか」
「よしわかった。あたしが悪かった。これからは奈緒人って呼び捨てにするからあんたも敬語よせ」
・・・・・・何でだろう。僕はその時目に涙を浮べていた。
きっと幸せなのだろう。去年の両親の告白以来初めて感じたこの感覚はそう名付ける以外思いつかない。相変わらず家には不在気味だけど、以前と変わらない様子で僕を愛してくれている両親。その好きという言葉がどれだけ重いものなのかはまだわからないけど、これからは僕のいい妹になると宣言しそれを実行している明日香。僕に向かって敬語をよせと真面目に叱ってくれる玲子叔母さん。
そして、何よりこんな僕に初めてできた理想的な恋人である奈緒。
「叔母さんありがとう」
僕は涙を気がつかれないようにさりげなく払いながら叔母さんに言った。
「ようやく敬語止めたか」
叔母さんは笑ったけど、どういうわけか叔母さんの手もさりげなく目のあたりを拭いているようだった。「明日香遅いな。たかが寿司受け取るくらいで何やってるんだろ」
「さあ」
「よし、奈緒人。おまえ玄関まで偵察して来な」
さっそく叔母さんに呼び捨てされたけど僕にはそれが嬉しかった。
「じゃあ、見てくるよ」
そう言って僕がソファから立ち上がろうとしたとき、明日香が手ぶらで戻って来た。
「お寿司屋さんじゃなかったよ」
ぶつぶつ言いながら戻って来た明日香に続いて父さんがリビングに入って来た。
「あら結城さん。お帰りなさい」
「何だ、玲子ちゃん来てたのか」
父さんはそう言ってブリーフケースを椅子に置いた。
「久しぶりだね。でもよくこの時期に会社を離れられたね」
父さんは叔母さんに笑いかけた。「うちみたいな専門誌だってこの時期は年末進行なのに」
「たまたまだよ。たまたま。それよか結城さんご飯食べた?」
何だか叔母さんがうきうきとした様子で言った。
「まだだけど」
「じゃあ、特上の寿司の出前も頼んだことだし今夜は宴会だ。鬼の・・・・・・じゃなかった、姉さんのいない間に息抜きしましょ」
「やった。宴会だ」
明日香が楽しそうに言った。僕はそんな妹の無邪気で嬉しそうな顔をしばらくぶりに見た気がした。
「ほら、結城さん。とっととシャワー浴びたらお酒用意してよ。さすがに勝手に酒をあさるのは悪いと思って今まで我慢してたんだから」
父さんが苦笑した。でも僕にはすぐわかった。仕事帰りで疲れた顔はしているけど、父さんの表情は機嫌がいい時のものだ。
「じゃあ久しぶりに子どもたちにも会えたし宴会するか」
「あたしに会うのだって久しぶりじゃない」
叔母さんが笑って父さんに言った。
父さんがシャワーを浴びている間に寿司屋が出前を届けに来た。明日香が珍しくつまみを用意すると言い張ってキッチンに閉じこもってしまっていたので、僕が寿司桶を受け取りに行った。
「奈緒人、あんたが受け取っておいで」
もうすっかり呼び捨てに慣れたらしい叔母さんからお金を受け取った僕は玄関でいつものお寿司屋さんから寿司桶を受け取ってびっくりした。
これっていったい何人前なんだ。
明日香は叔母さんに対しては好きなだけ甘えられるのだろう。叔母さんから預かった二万円を出して小銭のお釣りを受け取った僕はそう思ったけど、今では僕もその仲間なのだ。
僕はリビングのテーブルの上に寿司を置いた。
「お~。相変わらず人の奢りだと明日香は遠慮しないな」
「父さんが帰ってこなければ絶対余ってたよね、これ」
「うん。ちょうどよかったじゃん。たまには明日香もいいことをするな」
明日香がサラミとかチーズとかクラッカーとかを乗せた大きな皿をキッチンから運んできた。こういう甲斐甲斐しい妹を見るのは初めてだったけど、それよりも明日香が運んできたオードブルらしきものは母さんがよく用意していたものと同じだった。
母さんの真似をしているだけといえばそれだけのことだけど、中学生のくせにどうしようもないビッチだと思っていた妹を僕は少し見直していた。意外とこいつって家庭的だったんだ。
「お兄ちゃん、何見てるのよ」
明日香が不思議そうに聞いた。
「あんたのこと見直してるんでしょ。意外と僕の妹って家庭的だったんだなあって」
「叔母さん・・・・・・」
「よしてよ。気持悪いから」
明日香は赤くなって、でも僕の方は見ずに叔母さんに向かって文句を言った。それは決して機嫌の悪そうな口調ではなかった。
「さっぱりしたよ。お、豪華な寿司だな。つまみまでちゃんとあるし」
父さんがシャワーから出て着替えてリビングに入ってきた。
「そのオードブル、明日香が作ったんだって」
叔母さんがからかうように言った。
「パパ、どう? ママが作ったみたいでしょ」
そう言えば明日香は昔から実の親である母さんより父さんの方が好きみたいだったな。
僕はぼんやりと考えた。
そしてさっき感じた幸福感はまだ僕の中に留まっていた。母さんがいないのは残念だけどこれは久しぶりの家族団らんだった。今度会った時に奈緒にもこの話をしよう。
「それ結城さんに作ってあげたの? それとも奈緒人に?」
叔母さんがからかった。
「うるさいなあ。酔っ払いの叔母さん用に作ったんだよ」
「よくできてるよ。ありがとう明日香」
「どういたしましてパパ・・・・・・お兄ちゃん?」
「奈緒人」
父さんが僕の方を見て笑った。
「うん。うまそう」
とりあえず僕は当たり障りなく誉めた。
明日香はまた赤くなった。そんな明日香を見て父さんと叔母さんが笑った。
リビングの片方のソファには父さんと叔母さんが並んで座っていて、叔母さんは楽しそうに僕をからかっている。僕と並んで座っている明日香は、さっきから何か考えごとをしているようだった。
「しかし明日香が料理をねえ。あたしも人のことは言えないけど、明日香の料理じゃおままごとしているみたいなもだよなあ。正直に言ってごらん奈緒人。美味しくないでしょ?」
結構きついことをおばさんが言ったけど、こればかりは明日香と叔母さんの関係を知らないと理解できないかもしれない。二人の仲のよさはこの程度の悪口で破綻するような関係じゃない。両親が再婚して僕と明日香には血縁がないのだと聞かされたとき、母さんから聞いたことがある。前の夫を交通事故で亡くした後、そのショックで抜け殻のようになってしまった母さんに代わって明日香の面倒を一手に引き受けたのは、当時まだ音大生だった玲子叔母さんだったと。明日香にとっては叔母さんは母さん以上に母親なのだ。
「明日香のご飯って僕は好きだよ。残さず食べてるし。な、明日香」
「ごめん。お兄ちゃん今何って言ったの」
明日香が物思いから冷めたように聞いた。
「いや。叔母さんがさ。最近よく作ってくれるおまえの料理なんて美味しくないでしょって言うからさ。僕は全部食べてるよなっておまえに聞いただけ」
「無理してるんだろ奈緒人。いいから正直に明日香の料理の感想を言ってごらん・・・・・・あ、結城さんありがと」
玲子叔母さんが言った。後半は自分のグラスにお酒を注いだ父さんへのお礼だった。
「いや玲子ちゃん。明日香はやればできる子だからね。このつまみだってママと同じくらい上手にできてるよ」
父さんが明日香に微笑んだ。
「上手にできてるって、それ出来合いのチーズとかサラミとか盛り合わせただけじゃん」
叔母さんが言った。どうも酔ってきているらしい。でも叔母さんの皮肉っぽい言葉には明日香への悪意なんてないことを僕はよく知っていた。
「いや盛り付けだって才能だしな。な、奈緒人」
「うん。最近明日香が作ってくれる夕食は美味しいよ。少なくともカップ麺とかコンビニ弁当よりは全然いいよ」
「またまた、奈緒人は昔から如才ないよな。あんたいい社会人になれるよ。あはは」
叔母さんは豪快に笑って空いたグラスを父さんに突き出した。
「パパ?」
明日香が父さんにに話しかけた。
「うん? どうした明日香」
「パパとママって今度はいつ帰ってくるの」
父さんの表情が少し曇った。そして申し訳なさそうに言った。
「大晦日の夜まではパパもママも帰れないと思う。今日だってよく帰れたなって感じだしね」
「うん。じゃあ夕食の支度頑張らないと」
「・・・・・・本当にどうしちゃったの? 明日香。最近気まぐれで奈緒人に飯を作ってたのは知ってたけどさ。これからずっと姉さんの代役をするつもり?」
叔母さんが嫌がらせのように言った。
「気まぐれじゃないもん。もうちょっとで学校休みだし、それくらいはね」
「明日香は偉いな」
父さんが微笑んだ。
「じゃあ明日は食材とか買い込んでおかないとね」
明日香が父さんの言葉に顔を赤くしながら言った。
「ママからお金貰ってるか」
「うん。お金は大丈夫だけど、いっぱい買い込むからあたし一人で持てるかなあ」
「どんだけ買うつもりだよ」
叔母さんが明日香をからかった。
「そうだ。叔母さん一緒に買物に行ってよ。明日日曜日じゃん」
「アホ。あたしは明日から会社に泊まりこみで校正地獄だわ」
「どうしようかなあ」
明日香は呟いた。
「明日は予定ないし荷物持ちくらいなら僕でもできるかも」
そう口に出したとき、僕は明日香にキモイとか罵倒されることを覚悟していた。
「じゃあ手伝ってよ。兄貴だって食べるんだから」
でも、明日香はあっさりとそう言っただけだった。
明日香と僕の会話を聞いていた父さんとと玲子叔母さんは、どういうわけか目を合わせて微笑みあった。
その夜の騒ぎは日付を越えるまで続いた。母さんがいたら間違いなく十時過ぎには子どもたちは退場を言い渡されていたと思うけど、この夜は父さんも叔母さんも心底楽しそうにしていて、僕と明日香を早く寝かせようとは考えつかなかったみたいだった。
そのことをいいことに僕も明日香もこの場に居座って父さんと玲子叔母さんの会話を聞いたり、時折話に混じったりしていた。僕にとっては本当に久しぶりに貴重な時間だった。そして僕の隣に座っていた明日香も以前のようにひねれることなく父さんや叔母さんに素直に笑いかけていた。多分この場に母さんがいなかったせいだろう。明日香は父さんや叔母さんに対しては、いつもといわけではないけどだいたいは素直に振る舞っていたのだから。
それより僕を驚かせそして本当にくつろがせてくれたのは、明日香が僕の話に噛み付いたりせず普通に反応してくれたことだった。最近の明日香は本人が宣言したとおりいい妹になろうとしてくれていたみたいだけど、僕はその態度を心底から信用したわけではなかった。いい妹になるとか僕が好きだという明日香の宣言は二重三重の罠かもしれない。僕は戸惑いながらも密かに警戒していたのだった。
でもこの夜の団欒の席の明日香の楽しそうな態度はすごく自然でリラックスしていたものだった。父さんや叔母さんに対してだけではなく、僕に対しても普通に楽しそうに笑って受け答えしてくれている。僕はいつのまにか妹に対する警戒を忘れ、僕たちは仲のいい兄妹の会話ができていたみたいだった。そして僕と明日香が穏やかな会話を交わすたびに、父さんと叔母さんは嬉しそうに目を合わせて微笑みあっていた。
心穏やかな時間はまだ続いていたのだけど、僕にとっては今日はいろいろ忙しく疲れた一日だった。奈緒を迎えに行きはじめて彼女と心がすれ違ったり、仲直りしたり。叔母さんともまた昔のように仲良くなったり。楽しかったけどいろいろ疲れてもいたのだろう。僕は父さんたちの会話を聞きながらうっかりうとうとしてしまったようだった。
一瞬、転寝した自分の体が揺れて倒れかかったことに気がついて僕は目を覚まして体を起こそうとした。
「いいよ。そのままで」
明日香の湿ったようなでも優しい声が僕の耳元で響いた。「お兄ちゃん疲れたんでしょ。そのままあたしに寄りかかっていいから」
僕は妹の肩に体重を預けながら寝てしまっていたみたいだった。体を起こそうとした僕の肩を手で押さえながら明日香が続けた。
「このまま少し休んでなよ」
僕はその時何とか起きようとはしたけれど、結局疲労と眠気には勝てずにそのまま目を閉じた。
しばらくして僕は目を覚ました。寝ている間中、夢の中で柔らかな会話が音楽のように意識の底に響いていたようだった。僕は体を動かさないようにして、何とか視線だけを明日香の方に向けた。明日香は軽い寝息をたてて目をつぶっている。僕と明日香はお互いに寄りかかりながらソファに腰かけたままで眠ってしまっていたのだった。
そろそろ明日香を起こして自分も起きた方がいい。そして静かに会話を続けている父さんと叔母さんにお休みを言おう。そう思ったけど明日香の柔らかい肩の感触が心地よく居心地がよかったため、僕は再び目を閉じてしばらくの間半分寝ているような状態のままじっとしていた。
そうしているとさっきまで心地よい音楽のようだった会話が意味を持って意識の中に割り込んできた。僕は半分寝ながらもその会話に耳を傾けた。
「二人とも寝ちゃったか」
「起こして部屋に行かせた方がいいかな」
「よく寝てるしもう少しこのままにしてあげたら? 明日香と奈緒人のこんな仲のいい姿を見るなんて何年ぶりだろ」
「そうだな。最近二人の仲が昔のように戻ったみたいなんだ。玲子ちゃんのおかげかな」
「あたしは関係ないですよ。でもこうして見ると本当に仲のいい兄妹だよね」
「うん。最近、明日香は妙に素直なんだよな」
「明日香は昔から結城さんには素直だったじゃない。本当の父親のように結城さんに懐いているし」
「そんなこともないよ。それに最近母親にも素直だからあいつも喜んでる」
「姉さんはちょっと気にし過ぎなんだよね」
「それだけ気を遣ってるんだよ、子どもたちに」
「・・・・・・全く結城さんは姉さんに甘過ぎだよ。それは一度はお互いに諦めた幼馴染同士で、奇跡的に結ばれたんだから結城さんの気持ちはわかるけどさ」
「おい・・・・・・玲子ちゃん」
「大丈夫。二人ともよく寝てるみたいだから。よほど楽しかったんだろうね」
「子どもたちには悪いと思っているよ」
「最近どうなの? ナオちゃんとは面会できてるの?」
「うん。僕に娘と面会させるっていう約束は守ってくれているよ」
「大きくなったでしょ。マキさんと似ているならきっと可愛い子になってるんでしょうね」
「だから、子どもたちが」
「寝てるって。でもさ。真面目な話だけどさ、結城さん編集長なんだからもう少し部下に仕事任せて家に帰るようにしなよ。うちのキャップなんてあたしの半分も社にいないよ」
「うちもあいつの社も零細な出版社だからね。玲子ちゃんとこみたいな大手みたいにはいかないよ」
「勝手なこと言ってごめん。でも奈緒人と明日香を見ていると二人とも無理してるなあって、たまに思うの」
「君がフォローしてくれて助かっているよ。玲子ちゃんだって忙しいのにね」
「あたしはこの子たちが大好きだから。好きでやってるだけだよ」
僕は今では完全に目が覚めていたけど、父さんと玲子叔母さんの会話を聞きたくて寝た振りをしていた。罪悪感はあったけど父さんが僕たちのことをどう考えているかなんて直接聞いたことがなかったので、僕の中で好奇心が罪悪感に打ち勝ったのだった。それにナオって誰だ。もちろん奈緒のはずはないけど、このタイミングでその名前を聞かされるとびっくりする。マキっていう人も知らない人だし。
「だいたい結城さんとこの雑誌ってクラッシクの専門誌でしょ? 本当にこの時期そんなに忙しいの?」
「また馬鹿にしたな。零細誌は零細誌なりにいろいろあるんだよ」
「あ・・・・・・」
「どうした?」
「そういや結城さんの『クラシック音楽之友』の先月号読んだんだけどさ」
「どうかした?」
「ジュニクラの都大会の記事書いたのって結城さん?」
「そうだよ。ピアノ部門だけだけど」
「中学生の部の優勝者の批評って・・・・・・」
「おい。ちょっと、それは今はまずいよ」
「・・・・・・大丈夫。二人ともよく寝てるから。あの記事ちょっと恣意的って言うか酷評し過ぎてない?」
「・・・・・・」
「カバンに入ってたな、確か・・・・・・ああこれだ」
『鈴木奈緒の演奏は正確でミスタッチのない演奏だった。きわめて正確に作曲者の意図に忠実に演奏するテクニックは、中学生とはとても思えないほど完成度が高い。ただ、同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコンクールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いないが、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人とも富士峰女学院の同級生だそうだ』
「・・・・・・これって酷すぎない?」
「感じたままを書いたんだけどな」
「別に無理にナオちゃんを酷評する必要なんかないのに」
「別に無理にとかじゃないよ。こういう仕事をしている以上、身びいきじゃなく正確に感じたことを書かないとね。あの時の一位と二位の受賞の結果は正しい。でも将来性に関しては太田の感情表現の方が将来楽しみだというのがあの記事の趣旨だよ」
「何かさあ。昔姉さんから聞いたんだけどさ」
「何?」
「大学時代に先代の佐々木の婆さんがさ」
「・・・・・・ああ」
「結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なくて感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ」
「・・・・・・」
「あれと同じじゃん。結城さんの批評ってさ」
もうすっかり目が覚めていた僕は、寝た振りをしながら志村さんからもらったWEBのコピーを思い出した。
『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
父さんの雑誌の批評はこの時の奈緒の演奏に関するものらしかった。やはりこの会話は僕の彼女に関する話題だったのだ。二人ともこのとき優賞したナオが今では僕の彼女だということを知らない。それでも仕事柄父さんは奈緒のことを批評記事の対象としてよく知っているようだった。でもそれだけではないかもしれない。奈緒と面会とはいったい何のことなのか。
父さんの仕事がクラッシク音楽の雑誌の編集である以上、こういうことがあっても不思議はないのだけど、それにしても父さんのような職業で音楽を聞いている人に注目されるほど奈緒は有名だったのだ。
僕は、二人の会話の中で面会のこと以外にも気になることがあることに気がついた。
『別に無理に奈緒ちゃんを酷評する必要なんかないのに』
叔母さんのこの言葉はどういう意味なのだろう。どうして父さんが無理に奈緒のことを酷評する必要があるのだろうか。父さんは職業の必要上から都大会のピアノ部門中学生の部の優勝者の批評記事を書いただけではないのか。
それから僕は初めて自分の実の母親の情報も耳にしたことになる。
『結城さんの前の奥さんの演奏に対してよく注意してたんでしょ。演奏のふり幅が少なくて感情が表現できていないって。メトロノームが演奏してるんじゃないのよ、ってさ』
父さんと僕の本当の母さん、それに話からすると玲子叔母さんも同じ大学に通っていたのだろうか。そして実の母さんも奈緒と同じでピアノの演奏をしていたのだろうか。僕はこのとき、閑静な住宅街にあるピアノ教室の玄関を思い出した。今までは気にしたこともなかったけど、あの教室には一枚の看板が控え目に掲示されていた。
『佐々木ピアノ教室』
「それはだな」
父さんが何かを話し出そうとしたとき、明日香が身じろぎして目を覚まして起き上がった。
結局楽しかったひと時の集まりが解散したのは夜中の一時前だった。起き上がった明日香に対して父さんはもう寝た方がいいよと声をかけた。
「うん。もう寝る。叔母さん一緒に寝よ」
明日香は叔母さんに言った。叔母さんは笑い出した。
「明日香が珍しくあたしに甘えてるからそうするか。結城さん、いい?」
「うん。そうしてやって。さて、じゃあもう寝るか。おい奈緒人も起きるなさい」
もともと起きていた僕だけど、父さんに声をかけられて目を覚ました振りをした。
「奈緒人もちゃんと起きたか? 歯磨いてさっさと寝た方がいいよ」
叔母さんが笑って言った。
こうしてこの夜の小宴会は解散になった。叔母さんは洗い物をすると言ったけど明日も仕事があるんだからと父さんは叔母さんを止めて明日香の方を見た。
「明日あたしがやっておくよ。叔母さん行こ」
「明日香も大人になったなあ。じゃあ明日香に甘えるか。結城さん、奈緒人。お休み」
「お休み玲子ちゃん」「お休み叔母さん」
父さんと僕が同時に言った。二人が出て行くと父さんが伸びをして眠そうにあくびをした。歯磨きを済ませて自分の部屋に戻った僕は、誰かからメールが来ていることに気がついた。
from :有希
sub :こんばんは~
本文『メアドを教えてもらった直後に図々しくメールしちゃいました(汗)』
『親友の奈緒の彼氏ならあたしの親友ですから! 奈緒人さんそこで引かないでくださいね。奈緒に彼氏ができたって聞いてびっくりです。昔からピアノ一筋だと思っていたのに裏切られた~(笑)でもよかったと思います。奈緒って昔からもてたけどその割には男の子に興味がないみたいだったから少し心配だったんです。本当は今まで奈緒が気に入る男の子があらわれなかっただけなんでしょうね。奈緒人さんは初めて奈緒が付き合いたいと思った男の子だったのね。奈緒のことよろしくお願いします。あと奈緒に対する十分の一くらいでいいからあたしのことも相手してね』
『それでは図々しいメールでごめんなさい。これからもよろしくお願いします(はあと)』
翌日僕は妹に起こされた。時計を見るともう十時近い。
「お兄ちゃん起きてよ。買物に一緒に行ってくれるって約束したじゃん」
僕は眠気を振り払ってベッドに起き上がった。
え?
「あのさ」
「どしたの?」
「どしたのって・・・・・・」
「ああ」
明日香は同じベッドの中で僕の隣に横たわっていた。半ば半身を起こして僕の方に抱きつくようにしながら僕に声をかけて起こそうとしたらしい。
「ああじゃなくてさ。何でここにいるの?」
「叔母さんと一緒にあたしの部屋で寝てたんだけどさ。叔母さんすごくお酒臭いし寝相も悪いのよ」
「・・・・・・おまえが叔母さんに一緒に寝ようって誘ったんだろうが」
「よく覚えてるね。お兄ちゃん寝てたんじゃなかったの」
僕は一瞬どきっとした。
「何となく記憶があるだけだよ」
僕は曖昧に言った。
「ふ~ん。それでさ八時になったら叔母さん、突然起き上がって会社に行っちゃった。パパと一緒に仲良く出かけたみたいだよ」
「そうか・・・・・・。っておまえなあ」
「何よ」
「それとおまえが僕のベッドに潜り込むのとどういう関係があるんだよ」
「何となく寂しくなってさ。祭りの後って言うの?」
珍しく感傷的な妹の感想は僕にも素直に共感できるものだった。昨日の夜が楽しかった分だけ父さんと叔母さんがいなくなったこの家はいつにもまして寂しい感じがする。
血の繋がっていない兄のベッドに潜り込むとは、深夜アニメに登場する妹じゃあるまいしどうかとは思うけど、明日香が人恋しいと思った気持ちには僕は素直に共感できた。今までは両親不在で兄妹別々に過ごしていて寂しいなんて感じたことはなかったのに、たった一晩の幸せに僕と明日香は打ちのめされてしまったのだった。
「もう少しこのまま寝るか? それとももう起きて買物に行くか?」
僕は傍らで毛布に潜り込もうとしていいる妹に聞いた。
「・・・・・・もうちょっとこうしていようかな」
妹は顔を毛布の中に隠して呟くように言った。
「何だよ、人のこと起こしといて」
僕は妹にそう言ったけど妹が今感じている気持ちはよく理解できた。
「寝よう!」
妹が元気よくそう言って再び体を横たえた僕の上に自分が被っていた毛布をかけてくれた。
次に目を覚ましたそれから一時間後くらいだった。妹は僕から少し離れた場所で横向きになって寝入っていた。明日香のことだからまたいつかのように抱きついてくるんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかったようだ。
少しお腹が空いていた。昨日は叔母さんに特上寿司をいっぱいご馳走になったとはいえ、もうお昼過ぎなのだ。よく寝ているので少しかわいそうだとは思ったけど僕は妹に声をかけた。このまま寝ていたら一日が無駄になってしまう。それに今日は食材の買出しをするって明日香も言っていたのだし。体に触れるのは気が引けたので普通に声をかけると、さすがによく寝たせいか明日香はすぐに目を覚ました。
「今何時?」
明日香が目をこすりながら言った。
「十一時くらい」
「そっか。よく寝た―――ってまずい」
妹が跳ね上がるように飛び起きて言った。「何で起こしてくれなかったのよ。十時には家を出たかったのに」
「何言ってるんだ。さっき十時ごろ自分で起きてたじゃん。それでまた寝るって言ったのおまえだろ」
理不尽な言いがかりだったけど以前のようなとげは感じられない。同じベッドで一緒に寝るとか仲が悪かった兄妹の関係が、普通の関係を通り越して極端に逆側に振れてしまっている様な気もしたけど、それでもまだ昨夜感じた家族の安心感のような感覚は今でも続いていた。どうやら昨夜のことは夢ではなかったみたいだ。
「早く起きて仕度して。買物に出かけるよ」
妹は慌しく起き上がって僕を急かした。
「そんなに慌てなくてもまだ時間はあるのに・・・・・・」
「いいから。あ~あ、失敗しちゃったなあ」
「失敗って?」
「何でもないよ。ほら早く起きて着替えてよ」
「わかったよ」
明日香が何で慌てているのかはわからない。それでも明日香と二人で買物に出かけることを楽しみに感じている自分に気がついて僕は驚いた。奈緒に会えないのは寂しいけど、今日だけは奈緒と約束をしていなくてよかったのかもしれないと僕は思った。
明日香と二人きりで外出するのは、多分初めてのことだったと思う。今までのことを考えると、明日香と並んで冬の曇り空の下を喧嘩もせず刺々しい雰囲気もなく歩いていること自体が奇跡のようなものだ。
僕たちは別に手を繋ぐでもなく寄り添うでもなく、でもお互いに疎遠というほどの距離感を感じることもなく並んで歩いた。今でも昨夜の魔法は解けていない。去年のあの夜以来僕にすっぽりと覆いかぶさっていた暗く思いベールがはがれて、急に周囲が明るくなったような感覚はまだ続いている。これは明日香のおかけでもあるし玲子叔母さんの助けもあったことは間違いない。僕は明日香の隣を黙って歩きながら改めて考えた。それでも僕の生活が急に明るい方向に転回したのは奈緒と知り合ったためだった。まるで合理的な関係などないのかもしれないけど、僕は不思議にそう確信していた。
明日香は駅ビルの中のスーパーマーケットで買物をしたいと言ったので僕たちは近所のスーパーを素通りして駅前に向っていた。近所の店と何が違うのかはよくわからないけど、わからない以上は言うとおりにした方がいいのだろう。
駅ビルについたとき僕はすぐに買物をするのかと思ったのだけれど、明日香は僕の先に立ってビルの中のファミレスの中に入って行った。朝食も昼食もまだなのだから先に食事をする気なのだろうか。別にそれでもいいけど一言言ってくれればいいのに。明日香は店の中に入ると寄ってきた店員には構わずにきょろきょろと店内を見回していた。
「あ、いた。あっちに行こう」
僕はいきなり明日香に手を取られて窓際の席の方に連れて行かれた。
「有希ちゃん遅れてごめん」
窓際のテーブルには可愛らしい少女が一人で座っていた。一瞬僕には何が起こっているのかわからなかったけど、よく見るとそれは奈緒の友人の有希だった。
「いえいえ。あたしも来たばっかだし」
有希は妹の方を見て笑った。
「本当にごめん。兄貴ったら男の癖に支度するのが遅くてさ」
「明日香ちゃん、ちゃんとメールくれたからわかってたよ。あ、奈緒人さん今日は」
「こんにちは・・・・・・って、君たち知り合いだったの?」
ぼくは驚いて明日香と有希の顔を交互に眺めながら言った。
「お兄ちゃんこそ有希ちゃんと知り合いだってあたしに黙ってたくせに」
「いや、おまえと有希さんが知り合いだなんて知らなかったし。それに有希さんとは一度会っただけで」
「昨日はいきなり変なメールをしてごめんなさい」
有希が話をややこしくした。明日香が疑わしげに僕を見たけど、妹の表情は柔らかかった。昨夜の久し振りの家族団らんからずっとそうなのだ。
それにしても僕が明日香と有希と一緒にファミレスのテーブルを囲む意味がわからない。有希とメアドを交換しただけで奈緒とは気まずくなったというのに、これを奈緒に見られたら今度こそ本当に僕は破滅だ。そう思うなら席を外せばいいのだけど、昨夜の父さんと玲子叔母さんの会話を思い起こすと、ここはもう少し有希と仲良くなった方がいい気もする。別に記憶にない自分の過去にそれほど執着があるわけではないけど、その過去の話に奈緒と有希の名前が出ているのなら話は別だ。
「お兄ちゃんはそっちに座って」
明日香が有希の正面に腰をおろしながら有希の隣を指差した。
「え? 何で」
「何よ、お兄ちゃんあたしの隣がいいの? あたしは別にそれでもいいけど有希ちゃんにシスコンだと思われちゃうよ」
本当に何なんだ。
「奈緒人さんさえよかったら隣にどうぞ」
有希が飽きれたように笑いながら言った。僕は恐る恐る有希の隣に腰掛けた。今、僕の隣にいる小柄な女の子が奈緒の親友だと思うとなぜか少し混乱する。正面には明日香がいる。自分の家族と僕の付き合い始めたばかりの彼女の友だちと一緒にいることは悪い気持はしないけれど、なぜ僕の知らないところでこの二人が親しくなったのかはどうしても気になる。
「有希ちゃん何頼んだの?」
「うん。モンブランと紅茶。先に注文しちゃってごめんなさい」
「全然OK。でもあたしもお兄ちゃんも朝から何も食べてないから食事してもいい?」
有希は明日香の顔を不思議そうに見た。そして笑い出した。
「何よ」
「明日香ちゃんってさ。あたしと二人きりの時は奈緒人さんのこと『兄貴』って呼ぶのに、奈緒人さんと一緒にいる時は『お兄ちゃん』て呼ぶのね」
何かよくわからないけどこれは恥かしいかもしれない。妹は赤くなって口ごもってしまった。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
赤くなって狼狽している妹を見て少し後悔したように有希が言った。「別に変な意味じゃなの。何か羨ましいなあって思って」
「うらやましいって・・・・・・何で?」
「よくわかんないけど、あたしって一人っ子だからかなあ。お兄さんがいるのってうらやましい」
「そんなにいいもんじゃないけどね、実際にお兄ちゃ・・・・・・兄貴がいても」
「それよかさ、何で二人は知り合いなの?」
僕はさっきから気になっていることを質問してみた。有希は奈緒の親友のはずだ。その有希と明日香が知り合いということはまさか明日香は奈緒とも知り合いなのだろうか。
「何でって言われても。最近ちょっといろいろあって知り合ったんだよ」
明日香が素っ気なく答えた。全く答えになっていない。
「そうなんです。でも知り合ったばかりの明日香ちゃんのお兄さんが奈緒の彼氏だなんてびっくりです」
そう言った有希は少しも驚いていないように見えた。
「それよか何食べる? お腹空いたよ」
明日香が話を変えた。
「・・・・・・ピザとフライドチキン?」
「何でよ」
「食べたかったんだろ? 昨日は寿司に付き合ってもらったからな」
「・・・・・・よく覚えてたね」
「まあね」
「変なところだけ無駄に優しいんだから」
明日香はまた少し赤くなって小さい声で言った。
「いいなあ。あたしもお兄さんが欲しい」
有希が再び明日香をからかうような目で見ながら言った。さっきもそうだたけど明日香が同学年の女の子にこういう風に扱われていることが僕には少し新鮮に感じられた。
「こんなのでよかったらあげようか」
まだ赤い顔をしたまま明日香が有希に言い返した。
結局この二人の関係やなぜここで待ち合わせをしていたかということは、いつの間にか曖昧にされてしまった。二人は身を乗り出すようにしてテーブルに開いたメニューを眺めている。こんなことなら明日香が有希の隣に座ったらよかったのに。有希がケーキだけではなく自分も食事しようかなって言ったのがきっかけだった。
「じゃあ二人で一緒にピザ食べない? ここのピザ大きいから一人では食べきれないし」
結局ピザを頼むのか。明日香と有希がどのピザを注文するのか楽しそうに話しているのを聞きながら僕は考えた。その時、僕はふと昨晩の父さんと叔母さんの会話を思い出した。父さんの書いた記事の話だ。確か一位に入賞した奈緒より二位入賞のオオタユキという子の演奏の方が感情表現が豊かだったとかいう内容の記事だったはずだ。そういえば以前志村さんから貰った奈緒の入賞記事には二位以下の記載はなかっただろうか。奈緒のことしか気にしていなかったのでよく覚えていないけど。僕はポケットからその記事を取り出して眺めた。恥かしいけど僕はこのプリントをいつも持ち歩いては時々奈緒の小さな顔写真を眺めていたのだ。僕は改めてその記事を眺めてみた。
『東京都ジュニアクラッシク音楽コンクールピアノ部門中学生の部 受賞者発表』
『第一位 富士峰女学院中等部2年 鈴木奈緒』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金30,000円の贈呈』
ここまでは暗記するほど眺めている。問題はその次の部分だ。やはり載っていた。一位の奈緒の記事との違いは写真がないというだけだ。
『第二位 富士峰女学院中等部2年 太田有希』
『演目:カプースチン:8つの演奏会用練習曲 作品40 第5番「冗談」』
『表彰状、トロフィー、記念品、賞金20,000円の贈呈』
演目も一緒だ。まあでもこれは意外でも何でもないだろう。同級生で同じ先生についてピアノのレッスンを受けている二人は、ただの親友というだけでなくピアノでも競い合うライバル同士でもあるということだ。これで僕にはまた奈緒に関する知識が増えたのだ。
注文したいピザが決まったのだろう。二人はメニューを閉じて何やら携帯の画面をお互いに見せあっている。
「有希さんって、太田有希っていう名前だっけ?」
有希が僕の方を見た。並んで座っている有希との距離が近かったせいで彼女の顔は一瞬どきっとしたほど僕のすぐそばに近寄っていた。
僕は以前どこかで読んだことを思い出した。対人距離という概念があって、人によってその距離感は異なるそうだ。相手との距離がだいたい50センチ以下になる距離は密接距離と呼ばれている。それは格闘をしている場合などを除き、愛撫、慰め、保護の意識を持つ距離感であるそうだ。逆にそういう親密な関係にない他者を近づけたくない距離と捉えた場合、同じ距離であってもそれは排他域とも呼ばれる。
多分僕はこの排他域が人より大きいのだと思う。ついこの間まで僕の持っている排他域に踏み込んでくる人は誰もいなかったし、僕はそのことに満足していた。でも最近は僕の排他域に入り込んでくる人が増えていた。いつの間にか抱きついたりベッドに潜り込んでくるようになった妹の明日香。僕の腕にしがみついて身を寄せてくれる奈緒。
奈緒は僕の恋人だからそれは密接距離だ。奈緒に対して愛撫・・・・・・、はともかく慰めや保護欲は感じているし、彼女と密着していることは素直に嬉しい。妹について言えば今までは妹の接近は居心地がいいとは言えなかった。僕はいつも明日香のことを警戒していたのだ。でも今朝明日香が僕の隣に寝ていることを知っても僕は別に居心地の悪い思いをしなかった。むしろ昨晩の楽しいひと時が終って寂しそうな妹を慰めたいとまで思ったくらいに。もちろん思っただけで口に出したりはしなかったけど。
妹との距離も確実に縮まっているのだろう。別にそれは悪いことではない。まあ明日香が僕を好きだと言った言葉があまり重いものだとそれは問題ではあるけれど。その距離の中に突然踏み込んできた有希は別に居心地が悪るそうな様子はなかった。
「そうですよ。奈緒人さん、それ奈緒ちゃんから聞いたの?」
僕は有希に受賞者の一覧が掲載されたプリントを渡した。
「ああこれで見たのね。あたしいつも奈緒ちゃんより下なの。でも奈緒ちゃんは特別に上手だから」
そのことをあまり気にしている様子もなく有希は笑った。
「本当に奈緒ちゃんと仲がいいんだね」
「うん。でも明日香ちゃんと奈緒人さんだって仲がいいじゃない。何度も言うけどうらやましいなあ」
有希はいつの間にか敬語を使わなくなっていた。どうも人見知りしない子らしい。そして明るい笑顔と一緒にそういう言葉が出ているせいか、僕は年下の女の子にタメ口で話されても少しも不快感を感じなかった。
明日香も同じことを考えているようだった。
「ちゃんはやめて。明日香でいいよ」
「そう? じゃあ明日香も有希って呼んでね」
明日香は何かを期待しているかのように僕の方を見たけど、そういうわけにはいかない。少なくとも今はまだ。そのうち僕が奈緒を呼び捨てできるようになり、奈緒もそうしてくれるようになるといいのだけど、そうなる前に奈緒の親友とお互いを呼び捨てしあうような仲になるのはまずい。有希の件では地雷を踏んだばかりだし、こうして会っていることすら本当は心配なくらいなのだ。
「ピアノといえばさ」
僕は明日香の視線から目を逸らした。「『クラシック音楽之友』っていう音楽の専門誌を知ってる?」
「もちろん知ってますよ」
「先月号は読んだ?」
「あれって千五百円もするんだもん。高いから滅多に買わないの」
「そう」
僕は自分のバッグからクラッシク音楽之友を取り出した。今朝、不用意にもソファの上にぽつんと置き去りにされていたのだ。父さんの書いたという記事をゆっくりと見たいと思った僕は家を出がけに自分のバッグに入れてきていた。目次からコンテストの批評記事を探しあててそのページを開いた僕は、ざっとその内容に目を通してから開いたままのページを有希に見せた。
『『鈴木奈緒は正確でミスタッチのない演奏をしてのけた。きわめて正確に作曲家の意図に忠実に演奏するテクニックは、中学生とはとても思えないほど完成度が高い。ただ、同じ曲を演奏して第二位に入賞した太田有希は、技術的には鈴木奈緒に劣っていたし改善すべき点も多いが、演奏表現の幅の広さや感情の揺らぎの表現は素晴らしかった。これがコンクールでなければ、そして審査員ではなく観客の投票だったら太田の方が鈴木より票を集めただろう。コンクールの順位としては鈴木の一位は妥当な結果であることは間違いないが、演奏家としての将来に関しては太田の方が期待を持てるかもしれない。奇しくも二人とも富士峰女学院中学校の同級生だそうだ』
「専門の雑誌で誉めてもらえるなんて嬉しいけど」
有希が記事に目を通してから言った。「でもちょっと誉めすぎだよ。先生とかに将来を有望視されているのは奈緒ちゃんの方だもん」
「何の話してるのよ」
話について来れない明日香が不思議そうに聞いた。
「父さんの記事が有希さんを誉めてるんだよ」
「パパの記事?」「え? お父さんの記事?」
二人が同時に驚いたように声を出した。
「うちの父親ってその雑誌の編集長してるんだ。その記事を書いたのも父親だよ」
「え~。それ早く言ってよ。あたし記事に文句つけちゃったじゃない」
有希が恨めしそうに僕を見た。「奈緒人さんの意地悪」
「何々、パパってその雑誌を作ってるの?」
「・・・・・・父親の職業くらい覚えておけよ」
ピアノなんかに興味がないのか明日香の感想は的外れなものだった。
「気になくていいよ。これ有希さんにあげるよ」
後で考えたらその雑誌は玲子叔母さんの忘れ物だったのだけど。
「いいの?」
「うん。一応有希さんが良く書かれている記事だから記念にして。あ、でも奈緒ちゃんには・・・・・・」
「わかってる。見せないから安心して」
有希は雑誌を抱きかかえるようにしてにっこりとした。「奈緒人さん、ありがとう。大事にするね」
有希とは一緒に食事をして一時間ほどしてから別れた。明日香と有希は仲良くピザを半分こした挙句、有希が最初に注文していたケーキまで二人でシェアしていた。その様子は僕から見ても微笑ましかった。それに何より明日香が派手で中学生離れした女の子とではなく、有希のような子と仲良くしていることが僕には嬉しかった。それでも知り合ってから間がないらしい明日香と有希のおしゃべりに、僕が付き合わされた理由は最後までわからなかった。
「お兄ちゃん買物に行くよ」
ぺこっと一礼して帰って行く有希の後姿をじっと眺めていた僕に明日香が声をかけた。
「何ぼけっと有希のこと見つめてるの? もしかして有希に惚れちゃった?」
「いや・・・・・・そんなことないけど」
「なに真面目に返事してんのよ。冗談だって」
明日香が笑った。
「じゃあスーパーに行こう。今夜は何食べたい?」
もちろんそんなことを妹から聞かれたことは初めてだった。
from :奈緒
sub :無題
本文『さっきは本当にごめんなさい。そしてあたしのわがままを許してくれてありがとう。奈緒人さんに冬休みは一緒デートしようって言われたときは嬉しかった。それだけは本当です。でもあたしには自由な時間はないの。学校のないこの時期にすることは随分前から先生に決められていました。そもそも練習曲の進度が他のライバルの子とくらべてあまり進んでいないし、来年からは佐々木先生とは別な先生についてソルフェージュと聴音も勉強しなければいけないので、この休み中にある程度練習曲を進めておかなければならないのです』
『奈緒人さんはあたしにとって初めての彼氏だし、あたしもせっかくの休みは奈緒人さんと一緒に過ごしたかった。でもピアニストになる夢を捨てるのでなければやるべきことはやらなければいけません。これは誰に言われたわけでもなく自分から希望してしていることですから。さっき奈緒人さんは気にしなくていいよと言ってくれたけど、多分本心ではないと思います。あたしがナオトさんの立場だったらピアノとあたしとどっちを選ぶの? くらいの ことは言っていたと思うから』
『奈緒人さん大好きです。心から愛してます。でもやっぱり冬休みはあなたと会えないと思います。本当にごめんなさい。あと、今までの土曜日のように毎日あたしを教室まで迎えに来てくれると言ってくれてありがとう。嫌われても仕方ないのに奈緒人さんはこんなことまで考えてくれたのですね。でもこれも無理です。ごめんなさい。休み中は夜の十時まで個人レッスンがあって、終る時間が遅いのでいつもママが車で迎えに来てくれるのです。一応、一人で帰るからお迎えはいらないとママに言ってみたらすごく怒られました。中学生が夜中に一人で電車に乗るなんて許さないそうです』
『だからナオトさんがあたしに提案してくれたことは全てお断りすることになってしまいました。嫌われても仕方ないですよね。それでも図々しいけどナオトさんに嫌われたくない。でもよかったらせめて毎日寝る前にメールとか電話でお話したいです。勝手なことばっか言ってごめんね。今日はまたこれから二時間くらい練習です。本当にごめんなさい』
もう何度読んだかわからないくらい読み返した奈緒のメールを、僕は再び読み返していた。本文中にいったい何回ごめんなさいと書いてあるのか思わず数えたくなるくらい、ひたすら僕に対して謝罪している内容のメール。確かにがっかりしたのは事実だけど、そんなことくらいで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてありえないのに。いったい何で彼女はこんなに狼狽し不安をさらけ出しているようなメールをよこしたのだろう。
お互いに年内最後の登校日だった朝、冬休の予定を聞いた僕に対して奈緒は俯きながら休み中は会えないのだと言った。その時は時間がなかった。もうすぐ僕の学校の最寄り駅に電車が到着するタイミングだったから。確かに奈緒に会えないと言われたとき、一瞬僕は奈緒に振られたのかと思ったけれど、駅に着く前の短い時間でピアノのレッスンの過密な予定を説明された。それで僕は、奈緒と別れる直前に、気にしなくていいよと言うことができたのだ。あとピアノ教室に迎えに行ってもいいかとも。
それでも奈緒は僕の誘いを断ったことを気にしていたのだろう。今日は午前中で授業が終ったので、最後まで部活がある渋沢を残して、志村さんと二人で学校を出ようとした時、奈緒のメールが届いた。
朝の会話でもだいたい事情はわかっていたので奈緒に対して含むところなんか何もなかったのだけど、僕の誘いを断ったことに対して奈緒は随分気にしていたようだった。志村さんの好奇の視線を無視して、帰りの電車内で僕はそのメールを読んだ。そして再びそんなに気にしなくていいこと、もちろんこんなことで僕が奈緒のことを嫌いになるなんてあり得ないという返事をした。でも彼女からは返事はなかった。多分、もうあの教室でピアノのレッスンに集中していたのかもしれない。奈緒のメールは僕をますます彼女のことを好きにさせるだけの効果しかなかった。普段の土曜日の午後のようにピアノ教室に迎えに行くことさえ断られたのは、正直少しショックだったけど。
こうして冬休の間僕は奈緒に会えないことを知った。奈緒のピアノに対する情熱と、そのために費やさなければならない時間を思い知った僕は奈緒を恨むどころか、それだけの過密な日程をこなさなければならない彼女が、それでも僕に対して気を遣ってくれていることに心温まるような気持ちを抱いた。
僕とピアノとどっちを選ぶのかなんていう感想を僕が抱くわけがない。むしろこれほどまで情熱を傾けているピアノの練習を邪魔しようとした僕に対してここまで奈緒が気にしてくれていることが嬉しかった。事実としては長い休み期間中、僕は奈緒と会えないということだった。自分の勝手な妄想の中では、二人でクリスマスにデートをしたり初詣に行ったりする予定だったのだけど、それは全て実現しないことになったのだ。
孤独な休暇期間なんて今に始まったことではない。一人でも僕にはすることはある。新学期に備えて勉強をしておくと後が楽だし、コンプしていないストラテジーゲームもパソコンの中に放置してある。要するにいつもと同じ冬休を過ごせばいいのだ。寂しいけど奈緒には寝る前にメールをするようにしよう。
でも、意外なことに僕の冬休は忙しいものとなった。明日香と有希が常に僕のそばにいるようになったのだ。
「起きて・・・・・・。もう十二時になるよ。奈緒人さん早く起きて」
耳元で女の子の柔らかい声が響いていた。今まではアニメの中でしか起こるわけがないと考えていたシチュエーションがリアルでも毎日起こることに、この頃になると僕はだいぶ慣れてきていた。何しろ明日香がいい妹宣言をした日以降、ほぼ毎日妹は僕の部屋に勝手に侵入して僕を起こそうとするのだ。それも冬休に入ってからはその行為はだんだんエスカレートして、とりあえず僕に声をかけた後、勝手に僕の隣に潜り込んで二度寝するようにすらなっていた。
こんなことは奈緒には言えない。でもそんな明日香を拒もうとは思わなかった。仲が悪かった兄妹が、僕を毛嫌いしていた明日香が僕に心を許し始めていたのだから。それでもその朝、僕を起こそうとするその声には少し違和感を感じた。最近の明日香ならとりあえず僕に声をかけるだけで何が何でも起こそうとはしない。それなのに今日に限って穏やかなその声は執拗に僕を起こそうとしていた。
僕は諦めて瞼を開いた。僕の部屋のベッドの前に立っていたのは有希だった。僕はその時本気で慌てていた。何で僕の部屋に有希がいるのだ。夢でも見ているのだろうか。
「あ、やっと起きた」
有希が顔を赤くして言った。
「え? 何々、有希さん?」
「あ、はい」
赤くなった有希はそう言ったけどそれは何の答えにもなっていない。
「有希さん、何で僕の部屋にいるの?」
有希は顔を赤くしたままで何かを必死で訴えようとしていたみたいだけど、結局何も言わずに僕にルーズリーフに何かを書きなぐったメモを渡しただけだった。
『お兄ちゃんへ。明日は大晦日だからおせち料理を用意しなければいけません。でも今日はあたしは用事があるので買ってきて欲しい物をメモにしておくので、今日中に揃えておいてね。万一お兄ちゃんが夕方まで寝過ごすといけないので、有希に鍵を預けてお兄ちゃんを起こしてくれるよう頼んでおいたから。あと、買物にも付き合ってくれるみたいだから、有希と一緒にメモに書いた物を買って来ておいてください。あたしは夕方には家に戻るからね。お兄ちゃんはあたしがいなくて寂しいかもしれないけど、いい子にしていてね』
『買っておいて欲しい物 おせち料理』
「明日香から奈緒人さんに渡してって頼まれたの。あとお昼ごろ奈緒人さんの部屋に行って起こしてって」
「うん、ありがと。目を覚ましたよ」
僕は言った。ようやく意識がはっきりとしだすと、僕の部屋に明日香以外の女の子がいるという違和感が半端でなくすごい。
「明日香め。有希さんに無理言ったみたいだね。本当にごめん」
「ううん。奈緒人さんは気にしないで。おかげで奈緒人さんの部屋にも入れたしあなたの寝ているとこも見られたし」
有希が笑って言った。
冬休に入ってから明日香と有希が毎日のように会っている場所にどういうわけか僕も同席していたのだけど、それは明日香に荷物持ちを強要されていたせいだった。有希も僕に対してはあくまでも親友の彼氏で、友だちの明日香の兄貴というスタンスで僕に接してくれていた。なので有希は過度に馴れ馴れしい態度を僕に向けることはなかった。でも今、僕の部屋に入って僕を起こしてくれた有希の態度は今までとは何か違う。僕の寝ているとことを見られたしって、そんなものを有希は見たかったのか。
「ちゃんと起きた?」
有希が言った。
「うん。本当にごめん。妹が無理なことお願いしちゃって」
「別にいいの。全然無理じゃないし」
もともと誰とでも親しくなれる子だとは思っていたけど、今日の有希は何だかいつも以上に親し気だ。妹の友だちで奈緒の親友。僕にとっては有希はそれだけの存在なのに。僕が気にし過ぎているだけで有希にとってはそれだけのことなのかもしれない。でも今僕の部屋に僕と有希は二人きりだ。そのことを正直に奈緒に話せるかといったら、もちろんそんな勇気は僕になかった。
「あのさ」
「はい」
「着替えようかなって思うんだけどさ」
「あ、ごめんなさい」
有希はにっこりとした。「あたしはリビングに行ってるね。奈緒人さんと一緒に買物しろって明日香に言われてるから外出する格好に着替えてね」
それだけ言って有希は部屋を出て行った。
その日は結局明日香抜きで有希と二人で過ごすことになってしまった。明日香の指示は明確だった。あいつはもともとおせち料理なんて作る気はなかったのだ。要するに出来合いのおせち料理を買っておけということだった。有希と僕は明日香の指示にしたがってデパ地下とか名店街みたいなところを回ったのだけど、どの店に行っても予約なしではお売りできませんと断られた。
「まあ最初からわかっていたけど」
有希が苦笑した。「明日香って世間知らずだよね。おせち料理なんて予約なしで買えるわけないのに」
「そうなんだ」
世間知らずという点では僕も明日香と同類らしい。
「僕もこの時期なら普通に買えるもんだと思ってたよ」
「そんなわけないでしょ。高価な商品なんだから売れ残りのクリスマスケーキみたいに売ってるわけないじゃん」
「有希さんさあ・・・・・・・知ってたなら最初からそう言ってくれればよかったのに」
ここまで明日香の指示どおり出来合いのおせち料理を入手しようとして、僕たちは相当無駄な努力を強いられていたのだ。
「うん。最初から絶対無理だと思っていたんだけど、一応明日香に頼まれたんでさ」
「無理なら無理って、明日香に言ってくれればよかったのに」
「でもあたしにとっては無駄でもなかったから」
「どういうこと?」
「・・・・・・奈緒人さんといっぱいお店を回ったりできたでしょ? まるで二人でデートしてるみたいだったし嬉しかった」
有希は何を言っているのだろう。妹を通じて有希とも親しくなれた僕だったけど有希に対して恋愛感情を抱いたことは一度もない。奈緒の親友である有希だって僕が奈緒と相思相愛だということはよくわかっていたはずだ。何か今日の有希は様子がおかしい。どうおかしいかと言えば僕のことが好きだと宣言した時の何か吹っ切れたようだった明日香とそっくりだ。
僕は少し疲れたという有希をいつもの駅前のファミレスに連れて行った。そこは明日香と有希がよく待ち合わせしている場所だったので、買物帰りに一休みする場所としては違和感はなかったのだけど、有希と二人でこの店に入るのは初めてだった。
「お昼食べてないからお腹空いちゃった」
有希はそんな僕の感じている違和感なんか全く気が付いていないように言った。有希は平気なのだろうか。彼氏でもない男と二人きりで買物をしてファミレスに入ることなど気にならないのだろうか。
「そういや起きてから何も食べてないね」
「中途半端な時間だけど食事しようか」
「うん」
「ピザ食べたいな。でもここのピザ大きくて食べきれないんだよね。いつもは明日香と二人で食べてるんだけど」
「うん」
「半分食べてもらってもいい?」
ここまで有希をうちの大晦日の準備に付き合わせておいてここで断る理由はなかった。やがて注文したピザとかサラダが運ばれてきた。
「すいません。取り皿をください」
有希は遠慮せずそう言った。彼女は自分が注文したサラダやピザを取り分けて僕の前の皿に入れてくれた。
「・・・・・・それ多すぎだよ。有希さんの分がほとんど無くなっちゃうじゃん」
「奈緒人さんは男の人なんだからいっぱい食べてね」
やっぱり今日の有希は何だか様子がおかしかった。有希にとって僕の彼女の奈緒や僕の妹の明日香とはどんな存在なのだろう。僕の勘違いでなければ、有希は僕に好意を抱いているとしか思えない。僕は決心した。明日香のことはともかく奈緒のことを考えずに無自覚に有希と仲良くなるわけにはいかない。奈緒とは親友の有希にだってそのことは十分にわかっているはずだった。
「あのさあ」
「あの・・・・・・」
僕と有希は同時に話し始めた。
「先にどうぞ」
僕は有希に話を譲った。
「明日香の指示通りにおせち料理買えなかったわけだけどどうするつもりなの?」
「どうするって・・・・・・予約なしでは買えないんだから仕方ないでしょ」
「いいの? 明日香に怒られますよ」
「両親が何か考えてくれるでしょ。それに叔母さんだって新年はうちに来てくれると思うし。大晦日は出前の蕎麦とかで過ごすよ」
「出前の蕎麦とかって・・・・・・それこそ予約した?」
「してないけど」
「じゃあ無理ね。奈緒人さんと明日香って本当に世間知らずなのね」
「そうかな」
「うん、そうだよ。わかった、あたしがおせちも年越し蕎麦も面倒みてあげる」
「いいよ、そんなの。カップ麺の天蕎麦だって全然大丈夫だし」
「あたしが嫌なの。そんなものを明日香と奈緒人さんに食べさせるのは」
ここまでくるといくら奈緒が明日香の友だちなのだとしてもいくらなんでも行き過ぎだ。
「そこまで君に迷惑かけられないし気にするなよ」
そう言うと有希は目を伏せた。
「奈緒人さん、もしかして迷惑?」
「そんなことないよ。でも有希さんだって忙しいのに」
「あたしは休み中は暇だから」
僕は有希の返事にひどく違和感を感じた。有希はコンテストでは奈緒の後塵を拝したかもしれないけど、それでも二位に入賞するくらいの実力がある。そして一位の奈緒があそこまで過酷な練習スケジュールを組んでいいる以上、有希だって状況はほとんど同じではないのか。
「有希さんだってピアノの練習とかで忙しいでしょ。音楽科のある高校とか音大を目指すなら休みなんかないらしいじゃん。君だってピアノで忙しいんじゃないの?」
それを聞いた有希は驚いた様子だった。
「随分詳しいのね。奈緒に聞いたの?」
有希が僕を見つめて言った。
「うん」
「そう」
有希はもうおせち料理のことなどすっかり忘れたようだった。そして真面目な表情で言った。「奈緒人さんには納得できないかもしれないけど、彼女と付き合うってそういうことなんだよ」
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