406 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:42:00.69 tomrCNk0 1/70





 目が覚めたかい?


そう言って俺を覗き込んだのは初老の医者だった。
見覚えは無い。


 今日の昼食はあなたの好きなお肉ですよ。


そう言ってプレートを差し出したのは薄桃色の看護衣を身に纏った看護師だった。
見覚えは無い。


 おっはよー! ってミサカはミサカはもうお昼だけど朝のご挨拶ー!


そう言って病室に飛び込んできたのは小さな少女だった。
見覚えは――ある。


 …打ち止め?


確かそんなような名前だったはずだ。
コイツはウイルスに侵されて、死にかけていたのではなかったか。
そういえばあの騒動はどうなったのだろう。


 そうだよー! ミサカは打ち止め、あなたのお嫁さ…いたっ!

 こら、打ち止め。嘘はついちゃだめじゃん。

 …なンだ、オマエ?


狭い病室に人間が増えて行く。
医者。看護師。子供。女。
見覚えがあるのは、このキンキンと高い声ではしゃぐ小さな子供だけ――。


 …誰だ、オマエ?


一瞬表情を歪めた女が、俺のベッドの枕元を指さした。
そちらに視線を遣る。にっきちょう、と書かれた小学生向けの薄っぺらいノートが置いてあった。

元スレ
▽ 【禁書目録】「とあるシリーズSS総合スレ」-6冊目-【超電磁砲】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4gep/1276186522/
▽ 【禁書目録】「とあるシリーズSS総合スレ」-7冊目-【超電磁砲】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4gep/1276704040/
▽ 【禁書目録】「とあるシリーズSS総合スレ」-8冊目-【超電磁砲】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4gep/1277220435/
【禁書目録】「とあるシリーズSS総合スレ」-10冊目-【超電磁砲】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4gep/1279299041/
▽ 【禁書目録】「とあるシリーズSS総合スレ」-19冊目-【超電磁砲】
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4gep/1292144549/

407 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:42:33.30 tomrCNk0 2/70

ページをめくる。




―――9月7日
脳に障害があるらしい。
昨日のことを何も覚えていられないと言われた。


―――9月8日
昨日日記書いたらしいけど俺覚えてねーし。意味あんのかこれ


―――9月9日
三日目か。もっと経ってんのか?よくわかんねーけどどうでもいい。
支障といえば知らねー人間が俺のこと知ったようなクチ聞くことくらいか。


―――9月10日
ガキがうるせえ。
昨日の日記を読んだが全く同じことを書こうとしてた。やっぱ意味ねーだろこれ




 …なンだこれ

 お前が書いた日記じゃんよ。まだ今日で五日目だけどな

 あなたの字ってとっても綺麗ね、ってミサカはミサカは感心してみたり。もっとたくさん書いて欲しいなーってミサカはミサカは希望を述べてみる!
 そして出来たらミサカ達のことも書いて欲しいんだけど、ってミサカはミサカは不機嫌そうなアナタにさらなる要望を…

 うるせェガキ

 ひ、酷い!ってミサカはミサカは嘘泣きモード!!ぐすんぐすん


子供が嘘泣きと公言しながらベソをかいている。うるさい。
昨日のことを覚えていられないってのはどういうことだ?
こいつらは俺の事を知っているのに、俺はこいつらのことを知らない。そういうことか?



 とりあえず、今日で退院ってことになってるから。アンタは今晩から、私の家で暮らすじゃん。

 …はァ? 意味がわっかンねェぞ

 ミサカとヨミカワとヨシカワと一緒に、4人で暮らすんだよ! ってミサカはミサカは補足説明を加えてみる!

408 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:43:02.38 tomrCNk0 3/70


 ヨシカワってのは…芳川桔梗かァ? ヨミカワってのは?

 私じゃん。黄泉川愛穂。よろしくじゃん?



黄泉川愛穂と名乗った女は、快活に笑って挨拶をした。
このやりとりも、きっと繰り返されたものなんだろう、と予想する。
俺の記憶は8月31日までしかない。今日は9月11日らしいので、その間の10日間がすっぽりと抜け落ちているようだ。
能力が使えなくなったことについて説明を受け、杖の使い方を練習する。
これといって体調に異常は無かったが、自分の価値がなくなったようでひどく不愉快だった。
練習中、すこし離れた場所で、子供が悲しそうな顔をしていたのも、不愉快だと思った。

女にマンションに連れて行かれる。
医者に笑顔で見送られ、薬の束をいくつも渡された。精神安定剤、とか言っていたが、どうせただの睡眠導入剤だろう。
見知らぬ女について行くことに不安はあったが、退院だと病院を追い出されてしまえば行くところはない。
自分の寮に帰っても良かったが、あそこはたしか壊滅状態だったはずだ。いまから片付けるなんて面倒なことはしたくない。
それに、どうやらこの女と一緒に暮らすことは連中の中ではすでに決定事項のようだ。

その日の晩、日記に「黄泉川愛穂と芳川桔梗と打ち止めと暮らすことになった。面倒」と書き込んだ。

409 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:43:32.12 tomrCNk0 4/70





 おはよう!


そう言って俺を覗き込んだのは一人の少女だった。
重力に逆らうようにくるくると動く、ピンと立った毛束は、アホ毛と呼んで差し障りないだろう。


 まだ居たのかオマエ

 ? 何のこと? ってミサカはミサカは首を傾げてみる


何のことも何も、とっとと出ていっていると思っていた――、 そこまで思考して、あれ、と思う。
景色が違う。自分の部屋とは空気も、置いてあるモノもまったく違う。
背筋に悪寒が走り抜けた。


 どこだ、ここはァ?!

 ここはヨミカワのマンションだよってミサカはミサカは説明してみる!


思わず声を荒げた俺を、ニコニコと笑ったまま子供はいなした。
ヨミカワ? 誰だ、それは。
なんでお前は当たり前のように俺のそばにいるんだ。
そもそもお前はウイルスだかなんだかに侵されていて、ヤバかったんじゃなかったのか?


 意味がわからねェ。 俺は帰る

 ここがアナタのおうちだよ? ってミサカはミサカはアナタを引き止めてみたり!


子供の手が俺の腕をつかんだ。
どういうことだ? 何故反射が効かない。 そういえば、体がベタベタしているように感じる。 ――汗をかいている?


 色々と説明するから、とりあえずそのままで聞いて欲しいなってミサカはミサカはアナタに座るよう促してみる。


いやに手馴れた様子で俺をベッドに押し戻し、子供はがたんがたんと重たそうに椅子を引きずってきた。
すとんと腰掛けて、一呼吸置くとつらつらと話しだした。
荒唐無稽なお笑い話を。

410 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:43:59.94 tomrCNk0 5/70


 はァン? 俺がオマエを助けよォとして、ドジって脳に風穴開いて、マトモじゃなくなっちまった、ってのか?

 大雑把にまとめるとそんな感じだよ、ってミサカはミサカは首肯してみる。 それで今はアナタはこのマンションに住んでるの。
 同居人はミサカを含めて3人。 みんな女の人だけど、手をだすのはNGなんだからってミサカはミサカは釘を差してみたり!

 そっちはどォでもいいが… 確かに能力は使えてねェみてェだな…

 アナタはここに来てもう二週間も経っているから、一応色々揃っているので不自由は無いはずだよってミサカはミサカはフォローしてみる。
 あとあと、アナタのご飯の席は右から二番目で、歯ブラシは赤色だからね!
 アナタの瞳の色と同じなんだから、ってミサカはミサカは由来を説明しつつ、ミサカのも赤色なんだよ子供用の小さいのだけどってニマニマしながら、

 あーあーちったァ静かにできねェのかオマエはよォ?


うざったい子供のぴょこぴょこと動く毛束をぎゅっと引っ張ってやった。
途端に悲鳴が聞こえるが、無視。
それよりも二週間というのが気になる、今は一体何月何日なんだ?
部屋を見回すと壁に掛けられた大きめのカレンダーを見つけた。
何か、びっしりと書き込まれている。
近づいて読もうとして、かくりと両足から力が抜けた。立てない。


 あ、これは言い忘れていたんだけど、ってミサカはミサカは前置きしつつ、アナタは今健常者に必要な演算能力が一般人以下なので身体のバランスが取れなくなっているの、ってミサカはミサカはアナタに杖を渡してみる


バランスが取れなくなっている、と言われて納得した。確かに、自分の意思だけではまっすぐ立って居られない。
思ったよりもよっぽど面倒なことになっているらしい。
子供の細い手から、現代的なデザインの杖をひったくるように受け取った。
無理矢理体重を分散させて、ほとんど伝い歩きに近いような方法でカレンダーまで移動する。
そこにあったのは、幼い子供が必死で書いたであろう小さな想いの集合体だった。

その日の晩、日記に「記憶を保っていられないってのは本当らしい。ガキが辛そうにこっちを見てくるのがうぜぇ」と書き込んだ。


411 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:44:28.13 tomrCNk0 6/70




 おはようじゃん。起きるじゃ~ん!


そう言って俺の布団をひっぺがしたのは、巨乳に黒髪の女だった。
見覚えは無い。
一気に覚醒する。


 だ、れだオマエはァ!? どっから入った、ってかどうやって俺を起こしやがったッ!?

 どうって、普通に大声と衝撃で目覚ましの代わりをしてやっただけじゃん? そしてそもそもここは私の家だぞ一方通行。


事もなげに女は答えた。
まーまー座って、と余裕の態度の女がムカツク。ベッドの上から飛び降りようとして、周囲がぐらりと傾いたのに気づいた。


 あーあ、自分じゃ立てないんだから無茶しちゃだめじゃん? ちょっと水取ってくるから深呼吸でもしておくじゃん。 どうせ歩けないんだから動きまわるなよ、少・年!


そういうと女は俺をベッドに座らせて、スタスタと部屋を出ていった。
腰を上げようとしたが、自力で立ち上がれないことを知ってそのまままんじりともせず女を待つ。
不愉快極まりないが、仕方ない。
ほどなくして戻ってきた女は、宣言通り水の入ったコップを持っていた。


 おまたせじゃん? コレ飲んで、アタマすっきりさせとけ。 ――飲んだら説明を始めるから

 …説明? ンだそれは

 いいから、とっとと目を覚ますじゃん


女はわけのわからない事を言っていた。
実質、絶対能力進化実験の深部についてまでは知らないようだが、おおよそのことについては把握しているようだった。
そしてその後、一方通行という能力者がどうなったのかというところまで。
だがそれは俺にはただの絵空事のように思えた。

412 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:45:05.90 tomrCNk0 7/70


 からかうのも大概にしとけよ、牛女ァ

 からかってなんかいないさ。 実際、お前はその二本の足だけではまっすぐ歩くこともできないじゃん?

 ――、。

 そんじゃもっと説明しておくぞ。お前は今ここに住んでいる。一ヶ月経った。お前はここの住人に、「家族」として認識されているからそのつもりでな

 ――は、はァ? 家族? っつーか、俺の寮は

 引き払った。お前は今、…まあもともと不登校だったらしいけど、学校には通ってないじゃん。
 いちおう所属している学校には名前だけ登録されてるけど、前のところじゃない。転校手続きはすませてあるから

 な…何を勝手な事を言ってやがンだ、オマエはァ!?

 勝手じゃないじゃんよ。そう決めた。お前も一緒にな。 ま、諦めることだ。お前はここから出られない。出たところで、道順も分からないんじゃ迷子になるだけだし。

 俺はンな事了承してねェぞ!

 ――覚えていないだけじゃん、ただ、覚えていないだけ。 それは確かにあったことで、現実だ。


女は快活な笑顔をひっこめて、苦々しげに吐き捨てた。
現実だと言いながら、それを認めたくないと訴えているように見えた。

トタトタと小さな足音が聞こえてくる。ドアの向こうから聞き覚えのある子供の声が聞こえた。


 ヨミカワー! 朝ごはんまだっ? 牛乳の準備はできてるんだからはやくー!ってミサカはミサカは自分の優秀性をアピールしてみる!

 わかったじゃん、すぐ行くからお皿を四枚だしておいてほしいじゃーん?


女はすぐに表情を切り替えて席を立った。
ダイニングに誘導されるままついていくと、アナタの席はここ! と言いたげに子供が椅子を引いて待っていた。
これが、習慣なのだろうか? 覚えていないが、どこか懐かしいと思った。

その日の晩、日記に「昨日も肉だったらしいが覚えてねえから明日も肉にしろ。 って言ったら泣かれた。面倒くせぇ。どいつもこいつも。」と書き込んだ。



413 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:45:53.97 tomrCNk0 8/70



 おはよう。もう朝よ、起きなさい?


そう言って俺を覗き込んだのは、研究員の一員だった女だった。
今更何の用だ? もうあの実験は凍結しているはずだ。


 うぜェ。起こすンじゃねェよ…。 今度はなンの実験ですかァ?

 実験じゃないわ。ただ朝だからよ。 朝は朝ごはんを食べるためにあるのよ? 君が来ないと、朝食が始まらないの。

 何言ってンですかァ?


意味の分からないことを言う女だ。元からコイツは妙なところがあった。妹達にいちいち名前をつけようとしたり、顔を覚えようとしたり。
今度は何の酔狂で、俺に関わってきてるんだかさっぱり解らない。


 …いや待て、芳川

 なあに、一方通行。 ああ、杖ならベッドサイドに立てかけてあるでしょう? 使い方はまだ難しいかしら?

 ――杖? なンの話だ。 いやそォじゃねェ… ここは何処なンだ? なンかの実験で使ってる施設か? にしてはずいぶん小綺麗だし生活感が、

 ここは愛穂の家で、アナタの部屋よ。 君も私も居候。 詳しい説明が聞きたいなら、他の二人がしてくれるわ。

 アイホ? 俺の部屋? 居候? 何の話をしてやがる

 そんなことより朝食よ。ほらさっさと来て頂戴。 お腹をすかせたお子様が、君の到着を心待ちにするあまりパックごと牛乳を飲み干してしまうわ。
 …みんな、「待っている」んだから、早くしてね。

 おい、芳川!


言いたいことだけ言って芳川は足早に立ち去った。追いかけるため立ち上がろうとしてそれが叶わないことに驚愕する。
そういえば杖があるとか言っていた。意味が分からないが、何か起こっているのかもしれない。
能力が使えないのも気になるが、ともかく事情を知っているらしいあの女を問い詰めなくてはならない。
ベッドサイドにある杖を手にとる。使い方はよく分からなかったが、適当に体重を預けた。思ったよりもスムーズに歩くことが出来て、それにも驚かされる。
寝起きだからかそうでないのか解らないが、アタマが上手く回っていない気がする。
外から差し込む日差しは角度も温度も夏のそれでは無かったし、少し肌寒い。
今、一体いつなんだ? 何かの実験の最中なんだろうか。 自分のあずかり知らないところで時間が過ぎている、その現象に軽く鳥肌が立った。

414 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:46:21.30 tomrCNk0 9/70


家の中を歩きながら、気づく事がある。というより、気づかないワケがなかった。 そこら中に張り付けられたメモ用紙。
そこにはどれもコレも、俺に当てた文章が書かれている。

―― 一方通行へ。ここはお手洗いだからノックしてね!

―― 一方通行へ。ここはお風呂だよ☆ 覗いたら死刑

―― 一方通行へ。台所はあっち! コーヒーは冷蔵庫の左の扉を開けたところ。

―― 一方通行へ。玄関は右手のドアだよ。でも出ていっちゃだめだからね

―― 一方通行へ。月初め、新聞屋さんが来たら2970円払っておいてくれ。あとで返す

―― 一方通行へ。黄泉川家 ****-**-****  黄泉川携帯 ***-****-**** 芳川携帯 ***-****-**** 打ち止め携帯 ***-****-**** コレ以外は無視して良し

―― 一方通行へ。…

一体、なにがどうなっているのか。俺にはよく分からない。今日はもう10月の半ばらしい。携帯電話の表示を見て気付かされる。
矢印で示された方向へ歩く。ダイニングは、あっちらしいから。


 あーっ、キタキタやっと来た! 早く食べようよ!ってミサカはミサカはアナタの席の椅子を引いて待ってみたり!

 うるせェ! …つーかオマエ、なンだってンなことやってンだ?

 ミサカはもちろんお姫様なので、本来ならこんなことはしないんだけどアナタのために特別なんだから! ほらほら早く座ってくれないとってミサカはミサカはお腹がペコリーノ…

 いや俺が聞きてェのはそォいう事じゃねェンだが聞いてます? 聞いてませんねこのクソガキ様はァ! だァァ引っ張るンじゃねェよ! 触ンなチビアホ毛!


朝食を取りながら話を聞く。 家中のメモのこともあり、俺はそれをなんとなく受け入れた。 納得出来ないこともたくさんあるが、どうしようもないと言われたならそうなのだろう。
実際、俺の中の時間は一分たりとも進んではいないのに、世間は俺を置き去りにしたまま秋を深めている。
あの夏の日はどこにつながっているのだろう。俺には何も解らない。判るのは、ただ誰一人俺と同じ時間を歩くことは出来なくなったということだけ。
もとからそんなことは望んでいなかったし、別に構わないけど。

その日の晩、日記に
「いい加減説明し飽きたって顔してるんだから書いて置いておけばいいのに難儀な馬鹿どもだ。どうでもいいことは付箋で残すクセに。ということで自分でメモっておく。明日の俺へ。ちゃんと読めよ」
と書き込んで、その下に要点だけ書き込んだ。
ぱらぱらと前のページをめくると、9月の中頃から3日おきくらいに同じことがされていた。 なんだ、馬鹿は俺か。 
消すのも面倒だったのでそのままにしてベッドサイドにノートを放り出し、電気を消した。

どうやら明日も俺は、何も知らずに目を覚まして迷惑をかけるらしい。まあ、知ったことじゃない。どうせ忘れてしまうのだし。




415 : 忘却の空 - 2010/06/13 20:47:10.63 tomrCNk0 10/70





 おっはっよーっ!


そうドデカい声でわめきながら俺を見下ろしているのは、うざったいクソガキだった。
あの青色毛布はどこにやった、その服はなんだ?


 あさあさあさ、朝ですよー!ってミサカはミサカは朝食が待ち遠しいから早く起きてもうこのお寝坊さん! ってアナタの鼻先をつついてみ――…きゃぁあ!ごめんなさいーっ!

 ウゼェうるせェ黙れ消えろ!!

 やーんひどいひどい、ってミサカはミサカは涙を浮かべながらもアナタの上からどいてみたり。

 ったく、何事だよこれはァ!?

 うーんと、えーと、…あああった。とりあえずこれ、この日記のこのあたりを熟読するとだいたい把握できると思うの、ってミサカはミサカは日記帳をばさーっと開いてみたりーっ!

 あァ?! なンだァそりゃ!?

 いいから、読んだら朝ごはん食べに来てね! 早めに来てくれると嬉しいかも♪ ってミサカはミサカは、ああああっもうフレンチトーストのいい匂いがしてる!!急がなきゃ!! と猛ダ―――ッシュ!!!!


どたばたとウルサイ子供が出ていった。ため息をついて日記の開かれたページに目を落とす。書かれたことを何度も何度も読み返して、またため息をついた。
窓から差し込む冬の光と、部屋にこごっている冷たい空気。
確かに、夏ではなさそうだ――。

朝食を取って部屋に戻る。日記の続きに目を通す。何度も何度も何度も何度も。
ノートは3冊あった。始めの方にはほとんど何も書かれていない。後ろのほう、最近になるにつれて行数が多くなって、その日のことが詳細に書かれるようになっていた。

ご飯の内容。同居人の様子。子供と他愛ない喧嘩をしたこと。等々。

そしてたくさんの後悔と、たくさんの謝罪が書き連ねられていた。

全部、自分の筆跡だ。

このノートをあのお人好し達が読んでいるのかどうか、俺には解らない。
それでも、俺は謝らずには居られなくなるほど、この空間で過ごしてきたのだろう。

くだらねぇ、と破り捨てることは出来なかった。 ただ、どうしてこんなに事細かに書いてしまったんだ、と過去の自分を呪う。

涙で大切な日記帳が滲んでしまうではないか。




416 : 忘却の空 おわり - 2010/06/13 20:47:37.77 tomrCNk0 11/70





その日の晩、一日あったことを全て書き留めたら3ページにもなってしまった。そして最後に付け足す。意味はないとわかっていても。






――「これ以上、忘れたくない。」







951 : 忘却の空2 - 2010/06/16 23:57:39.59 WH1rfe20 13/70



ふいに目が覚めた。
誰に起こされるでも無く。


 今…何時だ…?


無意識に手探りで枕元に置いた携帯を取り、時間を確認する。七時。
こんな時間に目覚めるなんて、今までの自分だったらありえない、と思った。
寝ぼけた頭のまま、体を起こす。なんとなく、二度寝してはいけないような気がした。
そこで気づく。見知った部屋では無いことに。


 どこだ、ここはァ?


ひやりとして、脳が冴えて行く。緊張した体から汗が吹き出した。
状況が掴めないまま、気配を探る。特に何も感じない。慎重にベッドの周辺を見回して、奇妙なものを見つけた。
「にっきちょう」と平仮名で書かれた子供向けのノートが、間にたくさんの付箋を残した状態でベッドサイドに置かれている。
それを読めば何か判るかもしれない。俺はそう思って、ノートに手を伸ばした。


 暗いな…


夏だというのに、吐く息が白い。体温を根こそぎ奪おうとするかのように冷たい空気が纏わり付く。
暗くてノートの中を確認しづらかったので、疑問を抱かずカーテンを開けた。
開けきった直後、あまりにも不注意すぎる自分の行動にぎくりとする。しかし、一瞬で頭をよぎっていった不吉な予感は現実にはならなかった。
時計は七時を告げているのに、外はまだ薄暗い。それでも開けないよりはましで、ノートを確認するくらいなら十分事足りた。

そのノートには、俺の字がびっしりと書かれていた。
身に覚えの無い出来事が、止めどなく。

付箋の貼られたページ、貼られていないページ。一通り読んで顔を上げた。
いつの間に入ってきたのか解らないが、打ち止めが脇に佇んでいる。

952 : 忘却の空2-2 - 2010/06/16 23:58:47.66 WH1rfe20 14/70



 おはよう、今日は早かったのねって、起こしに来るまでも無く起床していたあなたにミサカはミサカはいささか驚いてみたり。

 …あァ、

 読んだの?

 …読ンだ

 …じゃあ、今日から説明は要らないよねって、ミサカはミサカはなんだかちょっぴり嬉しくって、なんだかちょっぴり寂しかったり。

 意味がわかンねェよ

 ごはんにしよう、ってミサカはミサカは今朝のご飯が純和風である事を教えてみるね


この子供の様子に、元気がなさそうだとか、どうかしたんだろうかとか。
そういうことを感じるのは、きっとこのノートを読んだからだろう。普段の様子がつぶさにわかる。
いつも元気で明るく、太陽の様に笑う溌溂とした少女。 「自分の記憶」では半日と一緒に居なかったが、その短い間の様子と照らし合わせてみても納得出来る。
なのに今朝は元気が無い。


 どうかしたのか?

 ――何が? って、ミサカはミサカはアナタがミサカの心配をしてくれたことにミサカの今日の運勢がすっごくトンでも無いことになるんじゃないかってミサカはミサカの

心配すらしてみたり!!?

 どォいう意味だ、クソガキ!

 きゃーっ、ウサギさんが怒ったっ! ってミサカはミサカは慌てて戦線離脱ーっ!

 誰がウサギだァ?! 待てコラァ!


駆け出す子供を追うためにとっさにベッドサイドの杖を手にとる。 なぜだかよくわからないが、違和感なく体が動いた。
しっくりと手になじむその杖を乱暴に突きながら、出来る限り早く歩く。
あのお転婆な子供をとっつかまえて、チョップかデコピンでもしてやらないと気が済まない。いつもみたいに。


953 : 忘却の空2-3 - 2010/06/16 23:59:35.75 WH1rfe20 15/70




テーブルに並んだ純和風の朝食を眺め、ふと思った。
これを、炊飯器で作ったのだろうか。いやまさかそんな――。キッチンをちらっと覗いたが、残念ながらシンクに浸かっているのは炊飯器の内釜だけだった。

見覚えの無い部屋。 見覚えの無い廊下。 見覚えの無いダイニング。
なのに体は素直に動く。まるで良く知っている場所のように。少し不気味に思った。
自分のカップがどれなのかはすぐ分かった。 青地に白の矢印のシールが貼ってある。 何の皮肉だ、これは?


 おはよう、今日は自力で起きたじゃん? 偉い偉い

 体に習慣づいてきたのかもしれないわね。さすがに、半年ともなればね

 もーミサカびっくりしちゃった! ってミサカはミサカはお水をグラスに注ぎながら未だに信じられなかったりー

 好き勝手言いやがって…ナメてンですかァ?


打ち止めが四つ目のグラスに注ぎ終わり、ウォーターサーバーをしっかりとテーブルにおろしたのを確認してから手を伸ばす。
キョトンとした顔しやがって。くらえ、クソガキ。


 ぐあっ! い、いきなりデコピンとは酷過ぎる、ってミサカはミサカは額を押さえてうずくまってみたりーっ! ふぉぉ、痛いぃ

 ざまァみろ、からかうからだボケ

 ぐうう…くやしい…


涙目のガキをほっといて、席に着く。
すると、全員がポカンと俺を見つめていることに気づいた。


 …なンだよ

 いや…そこが自分の席だって、よく分かったじゃん

 …日記に書いてあったンだよ

954 : 忘却の空2-4 - 2010/06/17 00:00:16.36 EixKiuA0 16/70



いや、確かに日記には自分の席の位置は書いてあったが、今俺はそんなことを意識して座ったわけではなかった。
なんとなく、それが当たり前であるように、体が動いたのだ。


 そっ、か、。 日記、つけてるもんねって、ミサカはミサカは思い当たってみたり、

 だァから、なンでそこでそンな顔するンですかァ? 楽でいいだろ。俺が勝手に動いてればよォ

 そんな顔ってどんな顔? ミサカわかんないってミサカはミサカはしらばっくれてみる


聞き分けの無い子供だ。
全員が席につき、打ち止めがいただきますと声を上げて食事が始まる。
焼き鮭、おひたしに味噌汁、白いご飯。ガラスの容器にこんもりとつめられたきゅうりのキューちゃん。
コンビニ弁当か冷凍食品ばかりだった自分には馴染みのない温かな食事だと思う。だが、覚えていない心のどこかで懐かしいと感じている。
ぱりぱりと音を立ててキューちゃんを咀嚼しながら、鼻頭が熱くなっていた。


 わ、わわわ、どうしたの!? 嫌いなものでもあった? おひたしなんて食べられないって、また怒ってるの?

 野菜も食べないとだめじゃんよ?

 キューちゃんに、目に沁みる成分は入っていなかったと思うのだけど?

 …ごめン、

 え?


脈絡なく謝っていた。
正直なにを謝っているのか自分でもよくわからなかった。
何もかも忘れてしまうことなのか。面倒を見させていることなのか。ふとした拍子にこのお人好し達を傷つけてしまうことなのか。
日記の中身がフラッシュバックする。まるで全て覚えているかのように情景が目に浮かぶ。

ああこれが、日記という記録ではなく。 自分の記憶だったらいいのに。

自分の茶碗と自分の箸を握りしめたまま、俺は涙が止められなかった。
動揺させて悪かったとは思う。
塩鮭がますますしょっぱくなった。

955 : 忘却の空2-5 - 2010/06/17 00:00:54.39 EixKiuA0 17/70




食事のあとは、部屋に戻るのが普段の俺の習慣のようだ。
昨日の俺に倣って、ベッドの上で日記帳をめくる。
とても楽しい日々。 実験漬けで、誰とも接点の無かった俺には想像も出来ない世界が広がっている。
くるくるとめまぐるしく動く少女の表情だとか。おせっかいで正義感の強い家主だとか。甘いだけだと豪語しながらも、優しい笑みを消さない元研究者だとか。
こんなにも華やかな世界に俺は溶け込めていたのか?
文字を指でなぞるたび、あたかも「思い出」のように俺の頭を埋め尽くす光。
昨日までの俺の跡をたどりながら、ひたすら悲しかった。

あんまり顔がぐしゃぐしゃになっていたので、ティッシュを引き出して涙と鼻水をぬぐった。
俺が堪能できる時間はたった一日分。それも、目が覚めているせいぜい13時間ほど。ぼーっとしている時間なんて無いし、そんな勿体無いことはしたくない。
のだが、日々こうして増えて行く日記を読む時間だけでずいぶんかかっている気がする。勿体無い。勿体無い。勿体無い。
これが記憶として頭の中にとどまっていてくれたら、いちいち読まずに済むのに。ああ、なんて勿体無いことをしてるんだ、。

コーヒーでも飲もうと思い立つ。たしか、冷蔵庫の左側の扉をあけたところだったはずだ。
杖を手に、ドアまで歩いたところで声がした。
そういえば彼女たちは、自分が居ないところではどんな話をしているのだろう。気にならないなんて嘘はつかない。俺は基本的に、他人からの評価が気になる人間だ。
気配を絶って聞き耳を立てる。
ドアと廊下を挟んでいるので、聞こえる声は遠いが――


 …で、…うしてそんなにしょん…りしてるじゃん?

 だって…ってミサカ…あの人を起こ…てあげるのがお仕事…んだからって…サカはミサカは自分の…在意義が…くなっちゃったみた…で…

 …らあら、そんな…とでガッカ…していたの? 椅子を…いてあげるのも、あな…のお仕事だったも…ね。


これは…。今朝の話か。
あのガキ、そんなくだらないことで気を落としてやがったのか。馬鹿馬鹿しい。

俺は踵をかえして日記帳をひらいた。今日の欄の最初に大きく書き込む。



「朝は打ち止めが起こしに来るまで寝たふりすること。打ち止めが椅子を引いてくれるまで座らないこと。」



956 : 忘却の空2-6 - 2010/06/17 00:01:32.21 EixKiuA0 18/70






 ったく、手間かけさせやがって。あのクソガキ。


満足してペンを置く。
自分が書いた、そのらしくない注意書きを読むと、さっきまであんなに悲しかったにも関わらず笑えてきて仕方なかった。
こんな日々も、毎日が新鮮でいいのかもしれない。


明日もきっと、その翌日の自分への注意書きが増えるに違いない。


過去を振り返るばかりじゃなく。未来へ。






434 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:09:32.99 FO8npCA0 20/70



今朝も七時に目が覚める。
ぼーっとしたまま日記を読んで。
春らしい暖かな気候の中で、俺は自分を認識する。

日記を枕元に放り出して。
もう一度毛布をかぶる。もぞもぞと体勢を整えて、1、2、3。


 おっはよー! ってミサカはミサカはねぼすけさんなアナタの目覚まし時計っ!

 あァ…? なンでオマエ、こンなとこに居るンだよォ…?


寝ぼけたフリで。
解っていないフリで。
彼女の仕事を完遂させてやる。

鼻先まで迫る少女の笑顔で、俺の一日は始まるのだ。


 おはようじゃん、一方通行

 おはよう、一方通行


食卓を囲む同居人達。
記憶は無くても懐かしい。
きっとこういうことを、幸せと呼ぶのだろう。
……と、らしくないモノローグを締めくくっておく。


食器を片付け始めた頃、俺はダイニングテーブルに小さな傷を見つけた。


 なンだ、この傷? これ、知らねェ

 ああ、お前がつけた傷じゃないじゃんよ。

 それは昨日の夜、打ち止めがテーブルに乗っかって電気のカバーを外そうとして出来た傷よ。知らないのも無理ないわ

 ふゥン…

 もー、ミサカの失敗は隠しておいてって言っておいたのに、どーして言っちゃうの? ってミサカはミサカはよよよ…と泣き崩れてみる

435 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:10:28.17 FO8npCA0 21/70


馬鹿め。 この同居人は基本的に俺に嘘をつかない。 
今日の日記の一発目は、とりあえず「昨日打ち止めがテーブル壊した」だな。 俺はぶすくれた様子の打ち止めを鼻で笑って、自室へ向かった。
途中、ふと壁の付箋に目がいく。


―― 一方通行へ。玄関は右手のドアだよ。でも出ていっちゃだめだからね


…外。
今、外はどうなっているのだろう。
俺はほんの少しの間、この小さな世界と外界を隔てる扉を見つめていた。
当然のことながら、扉は外の様子など、教えてはくれない――




436 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:12:02.72 FO8npCA0 22/70



 ヨミカワ、遅いねってミサカはミサカは七時半を告げてみる…


ソファに座り、足をブラブラさせながら打ち止めが溜め息を吐いた。
確かに遅い。 日記では、晩飯はいつも七時半から始まっていたはずだ。
しかし、黄泉川の仕事は教師だ。 オマケにアンチスキルとしても働いている。 それを思えば、七時半に夕食というサイクルはずいぶん早いのではないか、と俺は思い至った。


 アンチスキルの仕事が長引いてンじゃねェのか

 はっ、そうかもってミサカはミサカはアナタに同調してみる!

 それにしたって、連絡くらい入れてくれても良いじゃない…お腹減っちゃったわ…


向かいのソファに座る芳川が恨みがましい声をあげた。 背もたれにだらっと全身を預けて、完全に脱力して天井を見つめている。
コイツ……だらしないにも程があるだろ。 打ち止めが真似したらどうしてくれる。


 ヨシカワは料理出来ないの?

 出来ないんじゃないの。やらないだけよ

 腹減ったンなら自分で作りゃ解決だろォが。 それでもかよ?


どうせ作れない言い訳だろ、このニートが。


 炊飯器料理の作り方を私は知らないわ。あ~残念、普通の調理器具があればねー


無難に逃げやがったこのアマ……。
俺は今すぐ家電量販店に走ってフライパンと鍋を買い揃えたい衝動に駆られた。
今朝のチラシに、 《春の新生活応援セール!》 と題して安くで色々売っていた筈だぞこのヤロウ。


 気持ちはわかるけど、口元のひきつりが隠せてないよってミサカはミサカはアナタの袖を引っ張ってみたり

 隠してねェンだよ、バーカ

 あらあら信用が無いわね。傷つくわよ?

 心臓に剛毛生やして何言ってやがる

 私はまだ本気を出していないだけよ。

 ああそォですかァ

437 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:13:05.38 FO8npCA0 23/70


まったく下らない会話の応酬だ。
…だが、俺はこんな無意味なやりとりは嫌いではない、と思う。 たぶん。
口をつぐんで沈黙を保つのも、他人を拒絶するのも、自分を偽るのも。
この住人たちの前では無意味だし、大切な一日をそんなことで磨り減らすのは馬鹿げていると思う。
俺みたいな人間が一体いつからこんな考え方をするようになったかわからないが、きっとこいつらの影響なんだろう。

俺は知らない。 こいつらがどれだけ俺のために奔走してくれているのか。
俺は知らない。 こいつらがどれだけ俺のために手を尽くしてくれたのか。
だから、少しくらい素直でいようと、日記のどこかに書いてあった。

おなかへったー、とソファの上で膝を抱え
てしまった打ち止めの頭をひと撫でして、俺は立ち上がった。
さっきから腹の虫が鳴いているのは俺も同じだ。 この音を聞くと、さらに空腹を強く感じるような気がする。


 どこいくのー? ってミサカはミサカはまさかついに家庭的一方通行が見られ…

 ねェよ。 いくらなンでもカップ麺くらいあンだろ。 缶詰とかよォ


俺はキッチンの戸棚を片っ端から開けては閉めていく。 非常食が入っている棚なんかわからないからだ。
土鍋に布巾の山、タッパー、何故か複数個以上ある弁当箱(SANRIO系統ばかりだ)、なぞの調味料…とハズレを引き続けてようやく買い置きの食料に辿り着く。


 あー、「二分で炊きたて、サイトウのご飯」と「激辛唐辛子肉味噌担々麺★辛さ百倍天馬の輝き! 君は小宇宙を感じた事があるか」をはっけン

 どう考えてもチンするご飯しか選ぶ余地ないじゃない、ってミサカはミサカはそのラインナップはあまりにもひどい…

 お、無難なカップ麺もあンぞ。「カップムードル・謎肉増量」 …謎肉?

 む…そのカップ麺の開発者は解ってないわね…増量とか必要無いのよ、たまにたくさん入っているような気がするのが幸福の元なのよ


芳川は謎肉とやらに何かこだわりがあるらしい。そういえばコイツは研究所でカップ麺ばかり食っていた気がする。
打ち止めは興味無さそうに足をぶらつかせている、と思いきや、小さく「コロチャーしかやだ」と呟くのが聞こえた。
棚の奥にも何かあったので手を伸ばしてみる。
「仏教徒のあなたも安心!大地に額を擦り付け私をおが麺」…?
肉が入っていないであろうことだけはうっすらわかるが、何味かすらわからないとは上級者向け過ぎるだろう。側面を確認すると、販売元が聖域<サンクチュアリ>になっていた。
俺は何も言わずにそのイロモノカップ麺を棚に戻した。

438 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:13:56.03 FO8npCA0 24/70



 愛穂は聖闘士星矢世代だから……


お前もだろうが。というつっこみが口からでかかった。
というか何処に売ってるのか甚だ疑問だ。


 そのへんの物は触らない方がいいかもねってミサカはミサカは解りきったアドバイスをしてみる。 やっぱりご飯だね…

 だなァ。 芳川もそれでいいなァ?

 もうなんでもいいわよ、お腹が減って動けないの


元から動く気のない芳川がそう言ってソファに倒れ込んだ。 だから、打ち止めが真似するからヤメロ。
五個入りのパックの袋を破いて中身を取り出す。 蓋を少しめくって、ひとつずつ電子レンジに放り込んだ。一つにつき二分が長く感じる。
他に何か無いかと冷蔵庫を開けたが、すぐに食べられそうなものは無かった。
黄泉川はいつも自炊派だからか、冷凍食品もほとんど無い。扉のポケットにあった混ぜご飯用のふりかけと、きゅうりのキューちゃんを取り出して冷蔵庫を閉めた。


 打ち止めァー。

 はーいってミサカはミサカは脊髄反射で返事してみたりっ。


トタトタと打ち止めがキッチンに入ってきた。 手を洗わせて、ラップを手渡す。


 …? なあに、どうするの? ってミサカはミサカはこのラップの使い道がわからなかったり…。

 熱いから気ィつけろよ

 へっ? だから何が?? ちょっと、…


現状が飲み込めずに狼狽えている子供の小さな手に、大きめにラップを引き出して乗せてやる。
その上に、混ぜご飯の元を混ぜ込んだ暖かいご飯をしゃもじで掬った。


 !!! もしかしてこれは、おにぎり!!!

 そォだ。 白いメシのままってのも味気ねェだろ。 嫌なら俺が全部やっけど?

 わー! やるやるやる、楽しそう! ってミサカはミサカは俄然乗り気なんだからね! 全部やっちゃだめよ、ミサカの分も残しておいてくれなきゃだめだからね!

439 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:14:54.00 FO8npCA0 25/70



子供のアホ毛がピコンと反応するのは、何度見ても楽しい。 と、日記に書いてあった。
今日俺がコレを見るのは初めてなので、いつかの俺はこの情景を何度も目にする機会があったらしい。 それはつまり、その日はこの子供を盛大に楽しませてやったんだろう。
なんだか悔しい、と思った。


 でーきたっ。 次つぎー、早くっ! ってミサカはミサカはぼんやりしてるアナタを急かしてみる!

 あーハイハイ。 …つーかいびつすぎンだろ、ンだこりゃ? なァンで三角に出来ないンですかァ?

 は、初めてなんだからしょうがないもん、ってミサカはミサカは次こそ三角を目指すんだから


小さな手で真剣に握り飯と格闘する子供は、大きめに出したにもかかわらずラップからはみ出した米粒が指や手首まで飛んでいることに気付いていない。
手の甲にある米粒を一つ取って、そのまま口に運んだ。


 …え?


打ち止めの手が止まった。 ポカンと俺を見ている。


 ポロポロこぼしまくってンぞクソガキ


と、教えてやっても反応が無い。 …よく見ると、顔が赤くなっているようだ。


 も、もう…これだから、アナタって人は、無自覚で…もう…!


何を言いたいのかわからないが、打ち止めは我に返ったように手元に目を落とすと、握りつぶしそうな勢いでラップで包まれた米をこね回し出した。
それでどう三角にするつもりなのか俺には見当も付かない。子供の考えることはわからない、と俺はため息をはかずにはいられなかった。

結果、食卓には丸い握り飯が十個と漬物が並んだ。


 …アナタも三角に出来ないんじゃないってミサカはミサカはあり得ないほど美しい丸さのおにぎりを見つめてみるんだけど…


440 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:15:40.23 FO8npCA0 26/70



うるさい。握り飯なんざ作ったことねえんだ。 つーか、コンビニの三角の握り飯はみんな機械が握ってるんだから俺は悪くない。
三角おむすびというシロモノを作る事が出来るのは昔のおばちゃんだけだ。きっと。


 わーい、おにぎりがいっぱい! いただきまーす。

 ヨシカワ…

 あ、インスタントでいいからお味噌汁無いかしら?

 ねェよ!!

441 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:16:11.15 FO8npCA0 27/70





風呂を沸かして入浴を済ませ、夜十時を過ぎた頃。ようやく黄泉川から電話があった。
遅くなった、悪い、もうすぐ帰る。 ずいぶん酔っているようだ。


 愛穂は仲間から慕われているから、飲み会に誘われることも多いのよ。本人もお酒は大好きだしね。 まぁ最近は断ってたみたいだけど


芳川はそう言ってテレビのチャンネルを回していた。


――最近。 と、いうのは、どのくらい最近の話なのか。
日記帳はすでに5冊を超えている。 とはいっても子供用の薄いノートなので、文章量が多すぎるわけではない。朝起きて、流し読みをするだけなら一時間も掛からない程度だ。
しかし、日記はもう数カ月もすれば一年を迎える。 その中で、黄泉川愛穂が飲み会へ出かけたという記述は、 ――無かった。

俺は知らない。 こいつらがどれだけ俺のために奔走してくれているのか。
俺は知らない。 こいつらがどれだけ俺のために手を尽くしてくれたのか。

大酒飲みの黄泉川愛穂が飲み会を断る理由。
せわしなく街中を駆け回る仕事をしていながら、毎日七時に帰ってくる理由。
愛の出づる瑞穂。名に負けぬ愛を生徒に注ぐ彼女が、子供を守るためのボランティアを切り上げる理由は。

それはきっと、


 ――愛穂ったら、自堕落な私を放って置けないって言うのよ。 自炊が出来ないからですって。 まともなカップ麺さえ買っておいてくれたら私だって生きて行けるのにね?


いつの間にか近くに居た芳川が俺の肩に手を置いてそう言った。
ぽん、と肩を叩き俺の脇をスルリと通りぬけてシンクへ向かう女の背中は、先程とは打って変わってしゃんとしている。
甘いだけだとか。自堕落だとか。どの口がそんなことを言うのか。 この女は、自分で自分を壊すだけの強さを持った人間なのに。
水をぐびぐびと飲む女の横顔に、小さく謝った。 女は、ばかね、とだけつぶやいた。


442 : 忘却の空3 - 2010/06/19 14:17:02.82 FO8npCA0 28/70




黄泉川が帰ってきた。
ひどく上機嫌で、鞄をそこらに放り出してソファになだれ込む様子に、今朝の面影は無かった。 酒で人はここまで変わるものなのかと頭を抱える。
うとうととしていた打ち止めの頭をぐしゃぐしゃとかき回して黄泉川はにこにこと嬉しそうに笑った。


 たぁ~だいーまじゃぁんっ! 遅くなってごめんじゃんよぉ。 なーんかもう携帯の存在とかわっすれちゃってぇ、あっははー!

 うぐぅっ!? お、お酒臭いよヨミカワ!? ってミサカはミサカは距離をとって、とっ…取らせてええええええええ!!!!

 逃がさないじゃんー、一緒にねるじゃんー♪ えへへへ打ち止めは相変わらずちいっこくって可愛いじゃんよぉ。 もおほんと将来美人さんになるじゃ~ん。楽しみじゃんかぁ


ジタバタと暴れる打ち止めを抱きしめてべろんべろんの酔っぱらいが何かわめいている。語尾が普段の三割増しだ。うぜえ…。
だがこの破天荒な部分も、彼女の一部なんだろう。 久しぶりに浴びるように飲んだ酒は旨かっただろうか。本当なら、もっと頻繁に居酒屋に通いたいだろうに。
俺はこの酔いどれた女を責める気にはなれなかった。


 ガンバレよ、打ち止め

 にゃっ!? ちょ、見捨てないでえええええっ!!! ってミサカはミサカの身の安全を確保したいのに無視かよ!


打ち止めを生贄に、俺は安全に部屋へ戻った。 芳川がなんとかするだろう。
もともと打ち止めは黄泉川と一緒に寝ているらしいが、さすがに今夜は芳川が引き受けるに違いない。

日記帳を開いて、一日の出来事を綴る。

テーブルの傷に気がついたこと。 その傷は、打ち止めがうっかりつけてしまったということ。
妙なカップ麺を発見したこと。 打ち止めは三角のおにぎりを作れないこと。 俺も初めて握ったこと。
黄泉川が酒飲みだったこと。 甘く優しい女がいること。 今が幸せであること。


そして最後に明日の俺へ、一言。



「ごめんじゃなくて、ありがとうって言え。」




443 : 忘却の空3 エピローグ - 2010/06/19 14:18:06.40 FO8npCA0 29/70



昨日までの日記を読み返していると、唐突に打ち止めが部屋に入ってきた。俺は驚き、慌てて日記帳をとじる。
枕を抱えたまま、何も言わずに俺を見つめている子供は、どこか不安そうにもじもじとしている。


 …あァ、寝ぼけてンだな。 トイレならこっちじゃねェぞ

 ちっ、 が、 あああああああう!! ってミサカはミサカは否定してみたりーー!!
 っていうか、寝ぼけてないし! むしろ、寝てないし!! ってミサカはミサカに対するあまりのお子様扱いに怒髪天なんだけど!?

 は、寝ぼけてねェならなンの用だァ? 枕抱えて、なーンなーンですか―ァ?

 あ、あぅ…。 えとね、あのそのぉ…。

 うン?

 い、一緒に寝てもいい? って、ミサカはミサカはたどたどしーく訊ねてみたり…

 ……。 却下

 なっ!? まさかアナタそこで却下ということは、ミサカに劣情をいだいているという証拠にほかならな…

 ちっ、 げ、 えええええええよ!! アタマ湧いてンじゃねェのか!

 ぎゃっ


チョップを食らってよろけた子供は、それでも部屋に帰ろうとしなかった。
一体どういった理由で、突然一緒に寝ようなどと言い出すのやら。 やはり子供の考えることはわからない。


 うう。 だってヨミカワお酒臭いんだもん…。

 …はァ? 芳川はどォしたンだよ

 寝ちゃったの。 毛布抱き込んで寝てるから、ミサカが入り込む隙間がなくって、ううう

 あの駄目人間… 見直したと思ったのによォ…

 ヨミカワってばお酒臭いし寝相悪いしいびきうるさいし、もうミサカこれ以上耐えられないのってミサカはミサカは同情をひく涙声で上目遣いに見上げてみる。

 …チッ

444 : 忘却の空3 エピローグ - 2010/06/19 14:18:40.49 FO8npCA0 30/70




ここで了承すれば、明日の俺がどれだけ不幸になるか今日の俺はわかっている。
目覚めた真横に幼女が眠っていて心臓が止まらない自信は無い。 悠長にカーテンを開けて日記を読んで、なんてやっている余裕はきっと無い。
となると、俺は以前の俺のように朝っぱらからこいつらにいらぬ世話をかけてしまうことになる。

ああ。

でも。


 …早く来い


そう言って布団をめくったときのいかにも嬉しそうにピコンと跳ね上がるアホ毛は、やはり何度でも俺を幸せにするのだ。


 …あ、待て、ちょっと書き足すから、。

 えーなになに見せてってミサカはミサカは覗き込んでみるんだけど隠さないで見せて見せて見せてったら!

 だああァ駄目だ見ンなボケ寝ろ今すぐ寝ろっ!




448 : VIPにかわりましてGEPPERがお送りします[sage] - 2010/06/19 15:27:57.11 FO8npCA0 31/70

あ、そうだ書き忘れていましたが、
このお話の芳川は「わざと自堕落に振舞っている」という設定です。
それは黄泉川と二人で決めたことで、芳川は黄泉川が居ない日はことさら努めてダメ人間であるのです。
一方通行に余計な負担をかけたくない、子ども想いのお母さん二人のお話ですが、これはたぶん独立して書かないので暴露しておきます。




632 : 忘却の空4-1 - 2010/06/28 23:50:32.42 KVLR1BM0 33/70



そのページを見るたび、そわそわしてしまう。
そんな自分を認めたくは無いものの、心が浮つくのを止められるはずもなく。
一方通行は、今日も今日とてカレンダーを睨みつけていた。
彼をそんな風にしている原因は、一方通行自身が付けている日記。そこに記された日常の中の、とある記述のせいだった。

発端は、遡ること二十日と三日――七月三十一日の、夜中のこと。




本日の夕飯はハンバーグ。個人的嗜好でチーズを乗せてもらった。大変良く出来ました、とハンバーグを心のなかで褒めてみる。あくまでハンバーグを。
食器を流しに運びこんで、打ち止めが率先して風呂に湯を張る役を買って出て――彼女は最近お手伝いが好きだ――デザートのカットパインを口に運びながら芳川が唐突に言った。

 あら、打ち止めの誕生日まで、ちょうど一ヶ月ね

 ほんとじゃん。 早いもんだなぁ、子どもの成長っていうのは

 やめてよババ臭い…

ひらひらと顔の横で手を振る芳川は、それでもどこか嬉しそうだ。 二十代後半だと記憶しているが、母性愛というのは年齢不問らしい。
それにしても、誕生日とは。 あの子どもはクローンだ。 ということは、彼女の誕生日というとどういう基準で判断しているのだろう。

 オイ、誕生日ってのはどォいう事だ?

 誕生日は誕生日よ。

 一ヶ月後っつゥと…九月か?

 違うわよ、八月三十一日。


それでは計算がおかしい。あのガキはその頃にはすでに培養器から出て一週間が経っていたという。そして、クローニングが始まったのはさらに前。絶対能力進化計画始動はもっともっと前だった。
俺は首を捻った。捻ったところで正解は浮かんでは来ないが。

634 : 忘却の空4-2 - 2010/06/28 23:51:02.07 KVLR1BM0 34/70



 桔梗、そろそろ答えを教えてあげたほうがいいじゃんよ?

 しょうがないわねぇ。…打ち止めが、あなたと出会った日が自分の誕生日だって言って聞かないのよ。


二人の女が、まったく同じ表情で頬杖を付いている。ニタニタと、表現しがたい笑顔で。成分の九十九・九%が優越感と揶揄で構成されているに違いない。
柄にもなく、一瞬ポカンとしてしまった。慌てて表情筋を引きしめて毒づく。この年増共が。毒付くが、今のこいつらには効果が薄いだろうことは明らかだった。


 お前と出逢って、自分は最終信号から打ち止めになったんだ、って言うんだ。
 計画の為に生み出された最終ロット、クローンの中の一個体から、一人の”打ち止め”って名前の女の子になったんだ、ってな

 イヤーン。男冥利に尽きるわねぇ~?

 ぶぁ、あっははは! お、おと、男冥利ねぇ! ずいぶんなよなよした体つきしたカレシじゃん!

 おーし黄泉川、表にでろォ

 じょ、冗談じゃん!


己抱きしてクネクネと身をよじる芳川と、あーだこーだとありもしない”男女の馴れ初め”を妄想する黄泉川を放置して、部屋へ戻る。
くっだらねェ、つっまンねェ、だっせェ。
何を誤魔化したいのやら、俺はそんな言葉ばかりつぶやいていた。 

部屋の壁にかけられた大きなカレンダー。綺麗なアサガオの花の写真。七月の最後の日。
全てのマスが子どもの字で埋め尽くされたそれを、めくってみた。
八月の写真は、海。寄せる波と涼しげな木陰、そして見ているだけで日焼けしそうな砂浜。実際に見たことは無い、海というこの国を覆う大きな水たまり。
その下の三十一個のマスには、何も書かれていない。これから書き込まれていくカレンダー。
八月最後の日――そこも、当然空白だ。

俺はペンを手にとって、そのマスに書き込もうとした。今しがた教えてもらった大切な日を。
そして、書き込めなかったのだ。
――恥ずかしくて。

結局俺は日記のすみっこに、「八月三十一日打ち止め誕生日」とだけ小さく殴り書きして、見直すこともせず枕元に放った。
きっと明日なんのことか解らなくなっているだろう。でもなぜか、その由来だけは忘れそうになかった。 …当然そんな奇跡は起きないのだけれど。


635 : 忘却の空4-3 - 2010/06/28 23:51:52.29 KVLR1BM0 35/70



日記の七月三十一日のページを見るたびに、俺はもやもやとした気分になる。
朝見て言い様のない気分になって、昼間もう一度確認してのしかかる重みを感じて、夜さらに読み返して、今度こそうんうんと唸りだす。
八月に入ってから、日記には「朝から気分が悪い」だの「七月三十一日の俺死ね」だの書かれている。
今日も朝から気が重い。

誕生日、らしい。

誰のって、あの子どもの。
大人二人は誕生日を祝われても、一瞬喜んで次の瞬間には陰鬱な空気を放出するだろう。未だ独り身であるし。

はあ、とため息をついて、カレンダーから目を背ける。
三十一日の欄は空白。当然だ、まだ二十二日だ。あと九日。あと九日で、子どもの誕生日が来るらしい。


 …七月三十一日の俺死ね、マジで死ね。 何考えてンだ死ね。 マジで三回くらい死ね…


ブツブツと自分でも気味の悪い事を呟くことが増えた。
今のところ保護者達には聞かれていない。聞かれていたら多分病院に連れていかれているだろう。
がりがりと壁を引っ掻く。苛立ちがどんどん募っていく。まったく、まったくもって信じられない。俺は何を考えているんだ?
そこかしこに張り付けられた付箋が、そんなこと許さないと睨みをきかせている。
自分でつけている日記の全てが、そんな広がりはありえないと教えてくれている。

その日の夜、俺は意を決して保護者二人に直訴した。


 …外に、出てェンだけど


痛いほどの沈黙。分かっていた。
俺の世界は、このマンションのこの階のこの家の中以外にはあり得ない。自分の部屋から、玄関まで。ソレ以上広がらない世界。
閉塞感は無い。小さくもない。不自由も無い。 けれどどうしようもないほどに、――セカイから切り離された、空間。

真っ青になった二人の顔は、きっと忘れられないだろう。 …今日の俺が眠りにつくまでは。


636 : 忘却の空4-4 - 2010/06/28 23:52:50.51 KVLR1BM0 36/70



外に出るというのがどれだけ危険であるかということ。
第一位という立場は変わらずそこにあって、今も命を狙われることが予測出来ること。
一年という時間は、学園都市の技術が向上するには十分すぎる時間であること。
見慣れた街並みは、もう無いかもしれないこと。

そう言われても、俺は「やっぱりやめた」とは言えなかった。
何故今になって、と言われても、理由を話せなかった。
出て行くつもりなのか、と問われたときは、全力で否定した。

言えない。 外に出たい理由が、まさか――

真剣に俺を心配する二人に、ズキズキと良心が軋みを上げているのがわかる。 が、言えるわけがないのだ。こんなのは自分らしくない。

外に出たい、家出じゃない、ちゃんと帰る、ちょっと散歩したいだけ、日光浴、新しい文化交流、どんどん胡散臭い理由になっていく。
だが本命だけは言えない。言えないのだ。絶対に言うわけにはいかないのだ。その日までは!



結局、ため息とともに二人は折れてくれた。

迷子にならないように、携帯を買ってきてくれること。
その電源を絶対に切ってはいけないこと。
――必ず、この家に帰ってくること。

自惚れでなく俺の事を心から大切に思っている大人二人が、「夕飯までに帰らなかったらフルボッコ」といい笑顔で言ったので、俺はようやく外出の許可を得たのだった。





と、ここまできっちり顛末を日記に書き綴って俺は寝た。
ちゃんと明日、理解出来るように。俺みたいな、昨日のことも覚えていられないドがつく馬鹿でもわかるように懇切丁寧に。

「八月二十四日は買い物。子どもが喜びそうなものを選ぶこと。外出の要件は同居人に内緒にすること、注意」

…コレで俺は明日わかるだろうか? 少し不安になってきた。







422 : 忘却の空4.5-1 - 2010/07/21 23:54:55.07 PCNCFEQ0 38/70



コレはないわ。

コレは…ないわ。

鏡に映った俺は、完全無欠の変質者だった。


 あははははははあぶぶっ、ぶあっははははうげっほうえっほ!!

 やばいじゃん一方通行。もうマジヤバイ。どのくらいヤバイかと言うと、マジヤバイ。

 オマエら、死にたいならそう言ってくれりゃァ良かったのによォ…


心底この駄目人間達が哀れに思えてきた。

変装が必要だ、そういって黄泉川達が買ってきたのはニット帽とサングラスとマスクだった。強盗でもさせる気だろうか。
無理矢理装着させられたそれらの強盗セットは、俺をドンピシャの不審者にしてくれた。
超・絶、似合わない。
せめてもう少しでもガタイが良かったら…と、自分の肩幅の狭さにガクゼンとしてしまった。呆けた俺の顔は、皮肉にも強盗セットが覆い隠している。


 ふっ…こ、これで、絶対バレないじゃん! ぶふっ、。

 ぶはははははは、ムリムリ! こんな不審人物、襲えないわよ!

 むしろこの不審さで襲われる可能性上がりませンか? ねェ…聞いてますか? 馬鹿なの? 死ぬの?


ニット帽を毟り取り、サングラスを握りつぶしてマスクをゴミ箱へ捨てた。
打ち止めに見られたら死ぬ。 死ぬしか無い。 

あの子どもは、別に毎日一日中俺の傍に居るわけではない。 彼女のオリジナルであるとか、脳波で繋がった姉達であるとか。 あるいはもっと他にも、かまってくれる人間はいくらでもいるらしい。
というわけで、今日も朝からどこかへ出掛けていた。 こちらとしては好都合。街で鉢合わせする危険も無いことはないが、最近はリアルケードロデストロイとかいう公園でやる遊びが気に入っているらしいので大丈夫だ。
その遊びがどんなものかは知らない。今朝打ち止めが真剣な目をして、「知らない方がいいと思う」と言っていた。静かに頷く保護者二人も真剣な顔をしていた。
どんなものかは知らん。知らんが。 …危ないことならさすがにダメ人間達が止めるだろうし、まあいいか。
俺は首を振って不吉な妄想を振り払った。

ゲラゲラと笑っていた二人も、そろそろ出かける時間だ。
結局俺は黄泉川の私物の、黒ベースに紫のラインが入りいくつかスタッズが付いた”ややワカモノ向けの”キャップを借りていくことにした。
赤い縁の伊達メガネは芳川のものだ。

423 : 忘却の空4.5-2 - 2010/07/21 23:55:40.40 PCNCFEQ0 39/70


 …若ぶるなよ

 う、うっさいじゃん! こ、これはずいぶん前に買ったものなんだからな! そう、あたしがまだ二十前半くらいの頃にっ! 決して歳誤魔化そうとかそういうことじゃあないし、実際まだ一回も使ってないし、

 見苦しいぜ、いい歳して

 ふ、ふん。 ソレ以上言うなら、貸してほしくないっていう意思表示だと受け取るが構わないな?

 ああハイ、すンませンっしたァ黄泉川せンせェ様ァー


半目になったままの黄泉川を適当に流して、持ち物を確認する。
黒のTシャツに、半袖の羽織。メッセンジャーバッグには財布とハンカチとポケットティッシュと、もしもの時の為に住所と名前を書いたドッグタグと。携帯はポケットに突っ込んだ。
キャップを目深に被って視線を隠し、念のための伊達メガネ。


 …なンか俺、頑張っちゃってる系…?

 い、いや、似合ってるわよ。 似合ってるから問題ないわよ。 っていうか、なんだかすごく メ ン ズ って感じよ

 …ま、まァ堂々としてりゃイイか…。慣れねェ格好だから違和感があるだけだ、大丈夫大丈夫…顔わかンねェし…これなら打ち止めも気づかねェだろうし…

 打ち止め? あの子がなんか関係してるじゃん?

 ウッ!? 別になンでもねェよ!?

 …? おかしな子ね。 まあいいわ、気をつけて行くのよ。何かあったらすぐ連絡するのよ。分かったわね? 買い物が終わったら電話するのよ。わかってるわね?

 ああ。わかってンよ。 …じゃ、行ってくるわ。

 門限は夕飯だからな!


二人の声を受けながら、俺は扉に手を掛けた。

生まれて初めて触れる、この扉のノブ。

この向こうは見たことがない。

ほんの少し怖いと思った。


――でも、踏み出さなくてはならない。

俺は。

今日一日を、しっかり歩かなくては。

424 : 忘却の空4.5-3 - 2010/07/21 23:56:13.37 PCNCFEQ0 40/70



一年。
という時間は、やはり結構な移り変わりを可能にするらしい。
あったはずの店が、別の店舗と入れ替わっていたり。
見たことのないキテレツファッションが、店頭でマネキンに着られて『今年の流行最先端』なんてつまらない文句で飾り立てられていたり。
路地の隙間。そこに溢れていたどす黒い空気が、妙に綺麗サッパリなくなっていることに気付いてみたり。
どっかの誰かが頑張ったんだろう。例えばヒーローが。物語の主人公たちが。

一年。
という時間の中で、俺は何か変わっただろうか。
俺にはよくわからない。きっとそれほど変わっていない。でも、どこか変わったはずだ。
あの野郎に殴り飛ばされて、それだけで俺は何か変わった。
あの子どもを助けたいと願ったとき、やっぱり何かが変わった。
変えたいと思った。

俺は、変われているだろうか。 この一年間、俺はどんなふうになりたいと思っていたのだろうか。 なりたいと思った自分に近づけていただろうか。

じゃりじゃり、とブーツの底で砂が音を立てる。
こういう感触にすら馴染みがなくて、どこか楽しい。
時折杖が石ころをがつっと突いてしまって、ひやりとすることもある。 けれど、家の中にいるよりもよっぽど面白い。
日差しがジリジリと照り付けている。これも、馴染みが無い。
露出している部分には念入りに日焼け止めを塗ったが、帰ったら赤くなっているかもしれない。
キョロキョロと周囲を見回しては物珍しそうにしている俺は、もしかしなくてもかなり浮いているだろう。
けれど、何もかもが新鮮だった。
反射の無い生活。屋根の無い場所。日差しと地面の感触、風が吹くたび揺れる髪。誰もにとっての当たり前が、これからやっと、俺にとっての当たり前になっていくのかもしれない。

どうにもニヤつきが止まらず、肩を震わせながら道をテクテクと歩いた。
杖自体は慣れたもので、多少舗装が悪くても歩ける。 心配なのは知り合いに会うことだ。特に打ち止めとか。


 …にしても、誕生日プレゼントとは…。 俺も、こォいうトコは変わったと断言出来るぜ


「子どもが喜びそうなものを買うこと。」
という文章は、訳すと「クソガキの誕生日プレゼントを買いに行け」、という意味になった。
さて、何を買おうか。
あの子どもが喜ぶものなど詳しくない。 テレビでやっていた魔法少女の変身グッズでも買ってやろうか? …いや、そんなもので喜ばれても困る。
セブンスミスト、その中身も以前来たときとずいぶん変わった。案内板を見ても知らない店ばかり。考えても仕方ない、時間はまだまだあるんだし、上から全部見てまわろう。
そしてあの子どもに似合いのモノを見繕ってやろう。うん、それがいい、。

かつんかつん。足音と一緒に響く杖の音。平日の昼間だ、人はそれほど多く無い。
こんなふうにそわそわしながら買い物をするなんて、生まれて初めてだ。 記憶のあったあの頃にも、こんなことはなかった。
目的があるというのは、楽しい。 しかもそれが自分のためでは無いというのがむず痒い。
子どもの喜ぶ顔が見たい。純粋にそう思った。本人の前では決して言わないでおこう、とも。
頭の中が彼女一色になっている。例えば靴とか買ってやったらどうだろう。出かけるときに、得意げに履いてくれるだろうか。
例えばあのワンピース。いつも水色を好むあの少女に、他にも似合う色を見つけてやりたいな。
帽子。アクセサリ。おもちゃ。テレビでやっていたゲームが欲しい、なんてつぶやいていたこともあったっけ。日記のあちこちに散りばめられた少女の記録。
なんだっけ、パーティー? 大勢でできるゲームが好きだと書いてあった。そうだな、遊べるものでもいいかもしれないな。うん。ぬいぐるみなんかも、

425 : 忘却の空4.5-4 - 2010/07/21 23:56:44.57 PCNCFEQ0 41/70



 ―― 一方、通行…?


だから、ぼんやりしていたから。 その声に思わず振り向いてしまった。
身元がバレないように、絶対に反応しないでおこうと決めていたのに。

振り返った先にいたのは、オレンジ色のTシャツとダメージ加工されている(のか実際にボロボロなのかいまいち判別出来ない)ジーンズ姿の、あの時とはちっとも表情の違う、ポカンとした、

クソふざけた「あの野郎」だった。

瞬時に俺の脳内が色を変えた。 それがたった数日前に起こったことだと認識して思考を返す。


 一方通行だよ、な? お前、こんなところで何やってるんだ?

 …あ? どォだっていいだろォがァ。 それとも何か? 俺のリベンジに付き合ってあげましょーってかァ!?

 何言ってるんだよ!? 一人でこんなところに居たら危ねーだろ! まさか家出でもしてきたのか!?

 …は、あ…?


俺がポカンとする番だった。 こいつ、何言ってる? 俺にはちょっと良くわかりません。
呆気に取られている俺を他所に、このつんつく頭ははっしと俺の手をとった。


 ――な、ァ!?

 いいから、


名前は知っている。上条当麻。 その上条が、俺の顔面をガッツンガッツン殴ってくれた張本人が、今は俺の肩を抱いてずんずん歩いている。
ほとんど引きずられるようにわたわたと歩く俺は転ばないようにするだけでも必死だというのに、こいつときたら大股で一直線に進みまくる。


 ちょっ、まっ、こける、やめろ、

 ちゃんと捕まってろ


歩幅は合わずともなんとかタイミングをあわせて一緒に進むと、どうやらこれでも一応気遣いと言えるモノをしてくれていた事に気づいた。妙に歩きやすい。
杖一本に支えられるより、体ごとがっちり支えてもらって、移動させられるままにふらふらと足を踏み出すだけでいいというのは存外楽なものだ。
通路の真ん中にどんと設置されている大きなベンチまで歩いてきた俺たちは、そのまま隣り合わせで腰掛けた。
ふぅ、と隣で息を吐かれる。 いったいどういうつもりだって言うんだか。 せっかくの気分が台無しだと思った。

426 : 忘却の空4.5-5 - 2010/07/21 23:57:11.00 PCNCFEQ0 42/70


 とりあえず、最初に言っておく事がある

 あンだよ

 ごめん。

 ――はァ?!


何を言い出すんだこの男。 ふざけてるのか。 何に対して謝っているのか解らない。 俺は自分の眉間に深い皺が刻まれているのを自覚できた。


 何言ってんだって雰囲気だな…。 俺はお前の事、黄泉川先生から少し聞いてるんだ。 お前の知らないところで、探るようなことをしてたこと。 だから、ゴメン。

 …黄泉川から、何を…?

 お前が打ち止めを助けようとしたこと、と、その時に、その… 記憶障害を。 んで、今先生達と一緒に暮らしてるってトコか。

 ……いい気味ってか。 だろォな。 なンせ一万人以上ブッ殺した殺人鬼が、自業自得とばかりに脳天ぶち抜かれて一人じゃ歩くことも出来ねェってンだから…


今度は俺がため息を吐く番だった。 何故黄泉川はそんな話をしたんだろう。 同情でも請いたかったのだろうか。 ――まさか、そんなことはあるまい。
だって黄泉川は、俺が一万人を殺したことを知らない。 ただ、後ろ暗い実験に偶然関わったとそう思っている。
自宅で養っている子どもが、大喜びで力を振りかざし途方も無い数の殺人を犯し続けたバケモノだと、あの女は知らないのだ。
だからこれはきっと単純に、心配そうに尋ねたから答えた、それだけなのだろう。 だが恨めしい気持ちは晴れない。


 そんなんじゃねえし、そもそも俺はお前自身に恨みがあるとかじゃないしさ… お前がどう思ってるかは知らないけど、俺はお前はよくやったと思ってるよ。
 ただ、一人で出歩くなんて危ないじゃないか、そんな体調でさ


――なんだ、その上から目線は。
目の前がカッと熱くなった。 俺が俯いているから、多分こいつには見えていない。 


 いや、それにしても意外だったんだぜ。妹達を殺してもなんとも思ってなかったお前がまさか妹達を助けるために命をかけるなんて、知ったときは俺もう驚くやら嬉しいやらで! やっぱり…

 オマエが来ればよかったンだ

 …え?

 オマエに「よくやった」なんて言われる筋合いはねェよ。 俺みたいな悪党に、お優しいお言葉をかけていただいて誠に有難う御座いますゥ。
 俺じゃなくて、オマエだったらきっともっと上手くやったンでしょォね。誰も傷つけること無く、自分も五体満足でよォ。 さっすがヒーローだよなァ? そォ言いたいンだろ?
 全く俺じゃ分不相応にも程があるよなァ? なァ、なンでオマエじゃなかったンだよ?
 一万人助けたくせに、同じ妹達の一人が死にそうに苦しンでる時に、妹達と全世界人類を巻き込んだ絶望に飲まれそうなときに、なンでオマエはあのガキに目もくれずに走って行ったンだよ?
 薄情じゃねェかなァ、そォいうの。 一回助けたなら、最後まで面倒みてやれよ。 オマエみたいな本当のヒーローがさァ。 ちゃンと…

427 : 忘却の空4.5-6 - 2010/07/21 23:57:39.64 PCNCFEQ0 43/70


 一方通行、何怒ってるんだ?

 怒ってねェ、怒ってねェよ。 ただ思い出したらガッカリしてきてよォ。 オマエって、助ける人間を選ぶような、きったねェやつだと、


思っても見なくて。 思いたく、なくて。

支離滅裂でお門違いな、ただの愚痴とも思える嫌味が止まらない。 そして、一度零れてしまった言葉は無かった事には出来ない。
みっともないと思う。どんどん深く俯いてしまって、床しか見えなくなった。
コレが八つ当たりだと気付いている。 あの時、コイツは打ち止めの状態を知る術なんてなかった。 超電磁砲もしかりだ。
俺と、無力な研究員が一人。 たった二人しか知る由もない事だった。 だからこれはとんでもない言いがかりだ。
あの時この男が切羽詰った表情でレストランから出てきたのを見ている。 退っ引きならない事情があったのだと、簡単に予測がつく。

でも。
最強に右手の拳ひとつで向かってきた馬鹿で揺ぎ無いヒーローが、たった一人で一万人を救った救世主が、ただのそこらへんの人間だったなんて思いたくない。
事情を知らなくても、偶然駆けつけてくれるような。 どこからともなく現れてくれるような。 どんなに不可能と思える状況でも、颯爽と全てを解決してくれるような。
テレビの中にしかいないヒーローのように。

無意識にそんな幻想を求めていた。 自分以外の誰かに。 上条当麻という、「困難に向かって立ち上がれる人間」に。


 あのさ、俺は助ける相手を選んだりしたつもりは無い。気に障ったんなら謝る。 けど俺は、お前の事が心配だっただけなんだ。 それに、純粋に嬉しかったんだ!
 俺はたまたまあの時御坂が助けを必要としていたからお前を殴り飛ばしたけど、もしいつかお前が誰かの助けを必要としたとき、俺が傍に居たら必ず助ける。必ずだ。
 お前が怪我して、一人じゃ不自由だって知ってたから心配になっちまったんだよ。話したいこともたくさんあった。打ち止めの事で教えてやりたいことだってたくさんあるんだ!


真摯な声が聞こえる。多分、真面目くさった顔で必死に語ってるんだろう。
でも、こいつだって所詮人間だった。 信じられる根拠なんてないし、あのときコイツが打ち止めに気付いてくれなかったのは事実だし。
俺はコイツを憎んでいなくちゃならないし。そうでないと、つじつまが合わないし。


 お前だってたまたま打ち止めの側にいて、たまたま助けられる力があったから、手を貸したんだろ? 

 ちげェよ。 縋られて放置するのが後ろめたかっただけだ。 ほったらかして、俺以外の人間が全員死ンじまったらメシが食えなくなるしな


嘘はついてないはずだ。 そういう気持ちが大半を占めていたはずだ。
小さく息を飲む音が聞こえたから、髪の隙間から上条当麻を見つめた。ショックを受けた顔をしている、期待を裏切られた顔をしている。
馬鹿が。 こんな悪党にどんな幻想をいだいていたのだか。 

俺は杖に力を込めてベンチから立ち上がった。
こんな馬鹿は放っておかなくてはいけない。はやく買い物を済ませよう。もう楽しくもなんともないけど。
エレベータへ向かう俺を、馬鹿は追いかけてきたりはしなかった。呆れられたのか見限られたのかは知らない。どうでもいい。
コイツと出会ったことは日記には書かないでおこう。そして早く忘れてしまおう。早く。 初めて、明日になったら完璧に忘れられる自分の頭に感謝した。
酷く気分が悪くて、途中で何度もベンチにへたりこむ。
それでも広いフロアをすべて回って、ちいさなウサギがトップについたペンダントを購入して、店員に綺麗にリボンをかけてくれるように頼む頃には、やっと少しだけ気分がよくなった気がした。
これを三十一日に渡せれば、きっともっと気分がよくなるに違いないんだ。 だって俺は本当はあの生意気でこまっしゃくれた子どもを、それはそれは大切に思っているのだから。

428 : 忘却の空4.5-7 - 2010/07/21 23:58:43.11 PCNCFEQ0 44/70





へとへとになって家に帰りついたのは門限の数分前で、しびれを切らしかけた保護者二人が怒ったり泣いたり笑ったりで大変だった。
初めてのお使いに成功した園児を迎えるかのような歓待に辟易しようかという頃、


 今度、休みが取れたら皆で出かけようか


そう言って黄泉川が明るく言うのを、曖昧に笑って誤魔化す自分が情けない。


「打ち止めのプレゼントを買った。ネックレス(引き出し、上から二番目)」
日記に断片を書き込んで、溜息と共にペンを置く。


なかなか寝付けずに、寝返りを打つたび目が冴えていくようだった。 そして久しぶりに泣いた。 実感の無い過去と出会うのは辛い、と思った。


―― 出来ればもう 、 どこにも行きたくない 。



429 : 忘却の空4.5-8 - 2010/07/21 23:59:42.10 PCNCFEQ0 45/70





『都合のいいことを言うなよ』

黒髪の少年が冷めた目で告げた。

『ひとごろしのくせに、ずいぶん楽しそうなのね』

栗色の髪の少女が侮蔑の視線を投げかけた。

『どうして、貴方は笑っていられるのですかとミサカは問いかけます』

ゴーグルを額に押し上げた少女が重たそうな銃の引き金に指を掛けた。

『便利だね、何も覚えてないって。 って、ミサカはミサカは嘲笑ってみたり』

ぴょこんと一束の髪の毛を揺らしながら空色の毛布を体に巻きつけた子どもが無表情になった。

もう疲れた。

という声が、頭の奥で直接反響する。

頭痛に飲み込まれて、まっくらなやみのなかでなにごとかをさけぼうとして、こえがでなくてそのまま、おれは、





430 : 忘却の空4.5-9 - 2010/07/22 00:00:09.23 tQVD.bc0 46/70



「今日はまだ起きてこないの?」

トースターから、美味しそうな焦げ目の付いたパンを取り出しながら芳川がテーブルを拭いている打ち止めに訊ねた。

「あれ? そういえば、今日は遅いかもってミサカはミサカはお寝坊さんなあの人にため息をついてみる。 まったくもう、子どもなんだからってミサカはミサカはお姉さん気取り」

「悪いけど、ちょっと見てきてじゃん。 何もなければいいけど、もしかしたら寝てる間にベッドから落ちて気を失ってるかもじゃん」

「愛穂じゃあるまいし」

「はーいっ。いってきまーっす!ってミサカはミサカはダーッシュ!」


ぱたぱた、とスリッパの音を響かせながら打ち止めは一方通行の部屋へ向かった。
保護者二人は微笑ましそうにそれを見て、視線をあわせてくすりと笑う。テーブルにランチョンマットを敷いて、ベーコンを炒める間にサラダを手際よく並べて。
夏の朝、窓から吹き込む風が濃い緑の薫りを運んでくる。 天気予報では今日も明日も快晴だ。


「よし、ミネストローネもいい感じじゃん。 お寝坊さんはそろそろ――…」


『っンで居やがる、オマエはァッッ!?』

『きゃっ、わ、ま、待ってってミサカは――』

『何処だ此処はァ! フザケやがって、なンで能力(ちから)が――』


一方通行の部屋から、怒号と悲鳴が聞こえた。
保護者は先程とは違った意味で視線をあわせる。


「あら、まずいわね」

「あちゃー。日記読ませなきゃ駄目だなこれはっ、と」


『落ち着いて、お願いこれを――』

『来ンなァ!! 出て行け、死ね!! クソッなンなンだよォ!? あァ、なンで、なンで――ァ、ああああああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!!!!!!』


黄泉川の眼が鋭くなる。 悲痛な叫び声に、異常事態を感じ取った。
二人は頷きあい、大切な子ども達の元へ走りだした。 





325 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:08:30.77 5mSkUdM0 48/70


コン、コン、とためらいがちな音が二回聞こえて、一方通行は表情を険しくしながらドアを振り返った。
内側から鍵をかけ、さらに誰も入らないように言い含めてあるので、ドアの向こうの人物は入室する気はないようだ。

「ね、ねえ、日記読んでくれた? ってミサカはミサカは低い可能性に希望を抱いてみる」

おずおずと、覇気の無い掠れた声。
苛立ちのピークはとっくに迎えている。発散するものも無い。眉間の皺をさらに深く刻み、一方通行はぶっきらぼうに吐き捨てた。

「知るか。 くっだらねェ、俺が日記なンざ書くわけねェだろォが。 とっくに破いて捨てた」

「っ!」

ドアの向こうで息を飲む音が聞こえたが、無視する。

「ごちゃごちゃとうるせェくらい書き込ンであったカレンダーも一緒に捨てた。俺はオマエらと日和るつもりなンかねェ。どンな方法で掻き集めた小道具だか知らねェが、今更なンだよ」

「そ、んな…いっぱい、いっぱい思い出があったのに、破いちゃったの? どうして? 何も思わなかったの? どうして読んでくれなかったの? どうして、」

どうして。どうして。
そんなものは決まっているのに。
「あれ」は「俺」ではないから。

「うるせェンだよ、クソガキがァ! ピーピーわめくンじゃねェ、拾った命、もっぺン捨てますかァ!?」

ガン! と壁を殴りつける。 その瞬間、叩きつけた拳にひどい痛みが襲いかかってきて、一方通行は顔をしかめた。

(チッ……能力が使えねェってのはどォいう事だ…クッソがァ…!)

ひりひりと痛む手を撫でながら忌々しい思いで舌打ちする。

(能力は使えねェ。 知らねェ場所。 ご丁寧に用意されてる小道具。 こりゃ一体なンの実験だァ? あのガキはそもそも本人か? 俺に何をやらせるつもりだ。
 AIMジャマーでも設置されてるってのか。 それにしては、窓の外は普通の街並みに見える… あの日記の筆跡は俺のもンだ。 だが、偽造くらいいくらでも出来る。
 いまさらマットーな道歩ませましょォってか…? ……くっだらねェ、甘すぎンだよ、ンなのは。
 あるいは一旦平和な時間を過ごしたと錯覚させて、もう一度闇に突き落とし、反動と衝撃で絶対能力の糸口でも掴む…マトモな精神じゃレベル6にはなれねェ、ってのは十分承知だろォしな…
 こいつらと仲良くなって殺せ、とか言われるンか…? それを反復させ自分だけの現実を曖昧にし、引き上げる…
 ありえない話じゃねェ、それだけ七面倒臭い事をやらせてまで使い潰す価値がこの俺にあンのかどうかは置いといて、だ)

(あのガキが本人でも偽物でも、一緒に暮らしてるあの女二人も、胡散臭ェ。 信用ならねェ。 信用するな。 誰も信じるな…
 自分の現状がわかってねェ状態で、他人を信用するわけにはいかねェな)

すすり泣く声が遠ざかっていく。
子どもは壁を殴る音に驚いたか、あるいは日記やカレンダーを破かれてしまったことがショックだったのか、泣きながらその場を離れていったようだ。

326 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:09:18.31 5mSkUdM0 49/70






キッチンでぼんやりとじゃがいもの皮を剥いていた黄泉川愛穂は、自分の携帯が軽快なリズムを奏でていることにやっと気づいた。


「…ぁ、ああ、電話か。 …あれ…月詠センセとこのワルガキじゃん」



「もしもし?」

『あっ、黄泉川先生!』

「どしたじゃん、急に。イギリスにいたんじゃなかったか?」

『それが、一昨日帰国したばっかなんですけど……』

「そうだったじゃんか。そうそう、出席日数ならバッチリ足りてないぞ! 籍しかないもんだから、すっかり幽霊扱いじゃん」

『うぐっ……!』

ケラケラと笑いながら教え子をからかう。 教師なんていう職業についていると、顔色を隠すのもうまくなるものだ。

「ははは。…で、どうした? 帰国早々私に連絡するなんて。何かあったか?」

『…そ、そうなんですよ。出席日数のことは置いといて…えっと』

またぞろ面倒事にでも首をつっこんだのかと、黄泉川は呆れ混じりに嘆息しながら上条の言葉の続きを待つ。
しかし、飛び出した単語に思わず顔がひきつった。

『黄泉川先生は今も一方通行と暮らしてるんですよね…?』

「……そ、うじゃん。でもなんでその話題が出る?」

『俺、帰国してすぐ食料と日用品を買いにセブンスミストへ行ったんです。……そこで一方通行に会いました』

「………っ!?」

「上条っ! そのとき、あいつの様子はどうだった…?おかしくはなかったか?苦しそうだったりしなかったか、何か違和感とか―――」

327 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:09:53.38 5mSkUdM0 50/70


気が急いて質問攻めになる。
一昨日一方通行は「外に出たい」と言って買い物に出かけたのだ。「こう」なってから初めての外出だった。
その間、自分が学校へ行っていて様子をみていてやることは出来なかった。
ただ帰宅後なんだか落ち込んでいるようだとは思っていたのに、何も触れなかった。 街の変化が寂しかったのかもしれないし、気疲れもあるだろうからとそっとしておいたのが裏目に出た。

『お、落ち着いて下さい!どうしたんですか? 一方通行に何かあったんですか?』

「何か、というか……。うまく説明出来ないじゃん。ただ、昨日急に一年前と同じで……」

『……本当は一方通行と話がしたかったんですけど…無理みたいですね』

「そう、だな…。 あいつ、今朝も荒れてて…部屋から、出てこないし…」

『先生。 一昨日の事、話せる部分だけでも聞いて欲しいんですけどいいですか?』

「いや、電話じゃまどろっこしい。すぐ行く。 …知ってること、全部教えて欲しい」

黄泉川は三十分後に喫茶店で会う約束を取り付けると、同居人達の食事の準備を済ませるべくじゃがいもの皮むきを再開した。
昼食はコロッケを作る予定だったが、変更だ。
テーブルの真ん中にどっかりと大量のゆでた(だけの)じゃがいもを鎮座させ、唖然とする芳川と打ち止めに一方通行のことを頼んで家を飛び出す。
他に作っている精神的余裕なんてないし、胡椒やマヨネーズの場所くらい把握してるはずだ。 多分。

黄泉川が家を飛び出してからやや経ってから、芳川はため息をついてじゃがいも(ゆで)を菜箸でブスリと刺し、顔の横でふりふりしながら打ち止めに呼びかける。

「ねえ打ち止め。 ポン酢と桃ラー、どっちがいいかしら?」

「…普通にポテマヨがいいって、ミサカはミサカは答えてみる……」

冷蔵庫からキウイジャムを取り出そうとしていた芳川は、冒険心の無い打ち止めにガックリと肩を落とした。

328 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:10:56.03 5mSkUdM0 51/70



「黄泉川先生」

息を切らして約束の喫茶店のドアをくぐると、すでに上条当麻は席について待っていた。

「よう、不良少年。 カノジョとはうまく行ってるじゃん?」

無理に笑って茶化して見せるが、帰ってきたのはかえってつらそうに眉を歪めた、気遣うような苦笑いだった。
上条は、一体いつの時代の言葉ですかとつぶやいてから、挨拶する。

「お久しぶりです、先生。半年くらいは会ってませんよね」

「そうだな。キミがイギリスに行ったのが去年のお彼岸くらいだったから…月詠センセ、寂しがってたじゃんよ」

「泣かせてたらすみません。 また顔を出しに行こうと思ってますよ」

今度は上条が気まずげに笑う番だった。
彼の担任である月読小萌はとっても生徒思いでとっても真面目でとっても情に厚くて、とっても寂しがり屋の教師なのだ。
半年の間に彼女に連絡したことは数えるほどしかない。
うぬぼれではなく、この街を離れた素行のよろしくない無鉄砲な生徒を思って、気丈に笑いながらも心を痛めていただろう。
イギリス土産は紅茶と相場が決まっているが、アルコール大好きな彼女のための今回のおみやげはセブンスミストで見つけたお中元のビールセットにしようともう決めている。

やってきたウエイトレスにアイスコーヒーを頼んで、黄泉川も上条の向かいに腰掛けた。
そして、まっすぐ目の前の少年を見る。 上条はわかっていますと言うようにひとつ頷いて。

「じゃあ、話します。 ほんとうに、大した話じゃないかもしれないです。 けど…一方通行が荒れてるなら、その原因にはきっと俺との会話があるはずです。
 …先生、俺のこと怒ってくださいね。 噛み癖のあるうちのシスターは慰めてくれるばっかりで、こんな時に限って責め立ててくれねぇから」

「私は叱るけど怒らない教師を目指してるじゃん。だけど、今日はもしかしたら怒るかもしれない。感情的に詰られたいなら、まさにうってつけの精神状態じゃん。 まかせとけよ少年」

不甲斐なさに、かみしめた奥歯がキシキシと擦れて頭に響いた。 黄泉川も、上条も。


329 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:11:59.79 5mSkUdM0 52/70




カチ、コチ、カチ、コチ、

アナログ時計の秒針の音だけが響いている。
芳川は食事の前に一度だけ一方通行を呼んで、返事がないのでそのまま『ゆでじゃがいものラー油添え~桃屋風~』を美味しくいただくとサッサと部屋に戻ってしまった。
ビルの屋上から今にも飛び降りそうな顔をした打ち止めに「深刻に考えすぎないほうが、物事は好転するものよ」と言い残して。

打ち止めだって、ただ考えあぐねるだけでいいことが起きるとは思っていない。
けれど、いちど考え始めるとどうしても悪い方にばかり転がっていく想像だけが加速する。
今朝方だってショックな事を言われて、情けなくもグスングスン泣きじゃくって黄泉川と芳川に慰めてもらったのに。
いま滲んでくる涙を堰き止めているのは、すぐにでも折れそうな弱々しい心だけだ。

「日記…破いちゃったんだよね、って、ミサカはミサカは自分の記憶に確認を取ってみる」

大切な日記。一年分の記録。 その事実を言葉に出すだけで、涙腺が決壊しそうになってしまった。

(なにが、どんなことが、書いてあったんだろう。 あのひと以外読むことのなかったあの本。 最初にほんのすこしだけ、頼まれて付箋を貼ったことはあるけど。
 ミサカはあれに何が綴られているのか知らないまま、あれはもう無くなってしまったのねって、ミサカはミサカは勿体無いことをしてしまったなぁ)

椅子の上で膝を抱えて縮こまった自分の姿はきっととても「らしくない」。
けれど、彼女が彼女らしくあれるための支えは今ひどく揺らいでいた。 支えである本人だって、「らしくない」有様なのだから当然かもしれない。
打ち止めの支えは一方通行だったし、一方通行の支えは打ち止めだった。 どちらかが傾けば一緒に転がっていくしか無い二人なのだ。
どこまでもそっくりでどこまでも不似合いでどこまでも不器用な子どもたち。

(…読みたかったな。 知りたかったな。 …あのひとの文字、もっとたくさん見たかったな……)

すと、と足を下ろして、打ち止めは椅子から降りた。
ふらつく足取りでキッチンを出ると、毎朝通った扉の前まで茫然としたまま歩みを進める。

「………見せて欲しいなぁ、ってミサカはミサカは希望を述べてみる」

寝ているだろうか。 それともお腹をすかして怒っているだろうか。
打ち止めには分からないが、この家から出ていっていない事だけはわかる。 だって扉の向こうの空間に、彼を感じるから。

330 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:12:37.80 5mSkUdM0 53/70



コン、コン、とためらいがちな音で、朝と同じようにノックしてみる。
返事は無い。でも、気にしない。

「ねぇ。 起きてる? お願いがあるのって、ミサカはミサカはたとえ貴方が聞いてなくても別にいいからとりあえず主張だけは続けてみるね」

ドアにぺたりと額を押し付けて、凭れかかりながら口をひらいた。 倒れこみそうだからではなくて、少しでも近づきたいだけ。

「貴方が破いちゃった日記、ミサカ読みたいんだけど、集めに入っても構わない? 構わないよね? 入るよ? ってミサカはミサカは貴方の意見はまるっと無視してこっちの都合で事を運ぶつもり満々だったり」

そう言って返答を待たずにドアノブを回した。 そしてドアは予想に反して簡単にひらいてしまった。

(…そりゃそうか。あのひとの非力っぷりじゃバリケードなんて作れるほどの体力も筋力もないし、ってミサカはミサカはべ、別に馬鹿にしてるわけじゃないんだからってツンデレ的思考回路で誤魔化してみる)

半ばまで開いているドアから部屋の中が見える。ベッドの毛布が膨らんでいて、規則正しく上下していた。 寝ているようだ。緊張して損した。
警戒していたはずの一方通行だが、どういうわけかベッドに寝転がると妙に気が落ち着いてしまい、そのまま寝入ってしまったのだ。
すっかり熟睡している彼だが、打ち止めはいつ怒鳴られるかわからないので慎重に慎重に部屋に忍びこみ、そろそろとゴミ箱に近づく。あった。
律儀にゴミ箱につっこんであるあたり、彼は生来からの几帳面なのかもしれない。

(みぃぃぃつけたぁぁぁぁ。いちにーさんしー、よーし六冊全部ある)

にやぁり、と悪い笑みを浮かべて打ち止めはきれっぱしもノートの背もちみちみと拾い集めた。
それほど細かくなっているわけではない。 逆上したからといって人間の腕力が飛躍的に増大するわけではない。
そもそも一般人より非力な彼が火事場の馬鹿力を発揮したところでたかが知れている。薄っぺらいノートの背表紙を横に真っ二つにすることすら不可能である。
ちなみに黄泉川ならばこの厚みのノート、三冊重ねても敵ではないだろう。頼もしい。

(くふふ…いいよね声もかけたし。本人聞いてないけど! ってミサカはミサカは聞いてなかったのはズバリこの人の落ち度だし問題ないって結論づけてみたり)

それほど苦も無く集まった日記帳の残骸を大切に胸に抱いて部屋を出る。
じっとベッドの膨らみを見つめたが、彼が身体を起こす気配はなかった。少し悲しくなる。

音を立てないようにドアを閉めて、それをリビングで広げ、順番もバラバラ、内容も飛び飛びの日記を少しずつ読み始めた。

331 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:13:35.99 5mSkUdM0 54/70



******************************



たったっと小さな少女が街を駆ける。 その顔は今にも泣き出しそうで、それを必死に堪えている表情だった。
そんな彼女を見つめて、行ってらっしゃいと保護者は引き止めず送り出してくれた。きっと彼女も望んでいるのだろう。何かはわからないけれど、おそらく自分と同じものを。
少女が走るのは、彼女にとっては見知らぬ道である。 けれど、誰かが知っている道だった。 だからなんの迷いもなく角を曲がり、正確に道順を辿ることが出来る。
駆け抜けた先にはとある高校の学生寮。 見上げた先にある部屋を確認して、手提げのバッグに詰めた淡い希望とともに鉄製の階段を駆け上がった。

ぴんぽん。 必死に背伸びして押したインターホンは、こちらの焦燥など知った事ではないと言わんばかりの軽い音。
だれもいなかったらどうしよう、という考えがぶわりと広がる。 そもそも「あの人」は黄泉川と話をするそうなのだ。ここに居るはずはない。
けれど、彼の周りにはいつも不思議な力があったことを少女は覚えていた。
打ち止めは、今までそういう超能力とは違う「不思議」と行動を共にしている彼を見たことがあるのだ。彼女の目で。彼女たちの目で。
いつも笑顔に囲まれていた少年。 打ち止めが大切に思う彼とは違う、ちゃんと笑い方を知っている少年。

黄泉川が決死の表情で家を飛び出した。その直前には彼との通話。きっと大切な話だろう。上条当麻という人物はなんでも一人で抱える癖がある、ように思う。

(ということは、大切な話し合いには一人で臨むはず。けど、あの人は半年前からイギリス暮らしだった。
 みんなに愛されてるあのひとが、たった一人で帰国するなんて考えられない。きっと一緒に誰か、来ているはず――そう例えば、「不思議」が使える人。魔術が使える人。
 …………いつも一緒にいた、シスターさん)

きゅ、と手を握りしめた。
小さな手だった。子ども特有の柔らかな、小さな手。 のばせばいつも彼が握り返してくれた、たった一昨日まで繋ぎ合っていた手のひら。

――取り戻して見せる。
全部きっと、絶対に。


すぅ、と深呼吸して、電磁波をソナー代わりに発信する。
キン、キン、という反響の音が打ち止めの脳内にだけ響き、正確に部屋の中を探っていく。

(人がいる。ひとり。もうひとつ生体反応。動物。猫。あ、怯えた。人は動かない。呼吸してる。寝ているだけ)

電磁波の故意的な放出を止めた打ち止めはもう一度チャイムを鳴らした。
人がいる。やはり誰かと一緒に帰ってきていた。
そしてこの部屋で眠りこけるほどの人物なら、きっと打ち止めだって知っているあの少女しか居ないだろう。
というかどいつもこいついも寝すぎだ、昼間っから!

332 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:14:20.21 5mSkUdM0 55/70



一秒が一時間にも感じる。 ともすれば近所迷惑も考えずに連打してしまいそうだ。
打ち止めはあと十数えて反応がなかったらもう一度ならそうと決めた。

「よーし、数えるぞーってミサカはミサカはあえて口にだすことでミサカ自身を落ちつかせようと画策してみたり。 アン、ドゥ、とr……」

『ふぁ、スフィンクスくすぐったいよ…なぁに? どうかした?』

「おっと起きたぁぁぁぁ!! 気づいて気づいてミサカはここにいるよーってミサカはミサカは結局インターホンを一秒間に十六連打ぁぁぁぁ!!!」

十六回には届かないながらも激しく連打されたチャイム。これなら寝ぼけた彼女だって気付くだろう。
案の定、あーとかわーとかどたどたーとか聞こえたあと、カチャリと鍵が開けられた。

「…ど、どちらさまーなんだよ」

そっとドアを開けて顔をのぞかせたのは銀髪の。

「お久しぶり! ってミサカはミサカはミサカの推理がドンピシャばっちりど真ん中過ぎてちょっと興奮してみたり!」

「貴女は…あの時の女の子かも」

「頼みたいことがあるんだ! ってミサカはミサカは一刻もはやくのっぴらきならない状況だからお部屋に入れて? って可愛らしく首を傾げてみたりして」

銀髪の少女――白布と金糸と銀髪に彩られた修道女である禁書目録は、打ち止めの勢いにやや押されながらもにっこりとわらって彼女を迎え入れた。

「狭いしなんにもないけど、いらっしゃいなんだよ。 私は紅茶しか淹れられないけどそれでもいいかな」

333 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:15:01.50 5mSkUdM0 56/70




「それで、お願いしたいことって何かな? わたしはイギリス清教のシスター、迷える子羊を導いてあげるのはわたしの使命なんだよ」

ほかほかと湯気の立つティーカップを前にして、握りこぶしでどんと自分の胸を叩くインデックスはそう言った。
その言葉に打ち止めは心強さと希望を感じて、思わず満面の笑みになる。

「うん! あのね、あなたの不思議な力で、あのひとを助けてあげてほしいの!!」

「あのひと? えっと…不思議な力っていうのはもしかして魔術のことかな」

「あのひと…ミサカのとっても大切な人なの。 でも傷を負ったせいで、何も覚えられなくなっちゃったんだよってミサカはミサカは前提を本来あったあの熱く切ない美しくも悲しいドラマをまるごと省いて説明してみる。
 だから貴女の不思議な…魔術を使ってあのひとの怪我を治してください。 そして記憶も取り戻して欲しいの。今までの、覚えていられなかった一年分の記憶を!
 ってミサカはミサカはミサカの瞳をキンキラキンにしてシスターさんを見つめてみたりー!」

魔法なら、脳の傷などあっという間に治せるに違いない。瞬きひとつの間で、杖を一振りするだけで、こぼれ落ちた記憶を蘇らせることだって。
なのに、インデックスは表情を曇らせてしまった。

「…らすとおーだー…それは、…難しいかもなんだよ…」

「え…どうして…? ってミサカはミサカはキョトンとしながら理由を問いただしてみる」

「えっとね。 そもそも魔術は万能ではないし…それになにより、私自身には魔術を使うことは出来ないから、なんだよ…」

「…ど、え? どういうこと? シスターさんは、だって魔法使いなんでしょ? 不思議な力で何でもできるんじゃないの…ってミサカはミサカはアニメやゲームの魔法使いの万能っぷりを思い出してみる」

「魔法じゃなくて、魔術。 これは世界の法則からはずれたことを可能にする、生命力を源にして具現させる術式の事。 …術式だけでも、生命力だけでも使えない。
 わたしはたくさんの知識――術式を覚えているけど、それを具現化するためのマナは全部『他のところ』へ回してしまっているから、魔術を使うことが出来ないんだよ…」

儚い希望が、落ちて砕ける音がした気がした。

334 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:15:38.70 5mSkUdM0 57/70



「そんな… じゃあ、あのひとは…誰にも助けられないの…? って…ミサカは、ミサカは…」

「助ける、っていうのは…記憶を取り戻したり、怪我を治すことでしか完成されないものなのかな? 他に道はない?一緒に考えようよ」

「…わかんない。わかんないよ…。 だってミサカは一年間、それでもいいって思って、傷が治らなくても、覚えていられなくても、きっと大丈夫だって思ってた…
 でも、でもね。 ミサカがよくても、なんの解決にもならないの。 ずっと不安定な状態を維持することにしかならない……、ってミサカはミサカは悩みを打ち明けてみる。
 あの人は忘れるたびに本当は苦しかったんだと思う。 忘れないようにしてあげたい。 病院では不可能だって言われた。 だから…、」

ぐすっ、と打ち止めが鼻水を啜った。
話しているうちにぼろぼろと涙が溢れて、結局我慢していた涙腺の堤防はあっさり崩壊してしまった。
頬も耳も鼻の頭も真っ赤にして、ずるずると音を立てて鼻を啜り上げながら涙を手の甲でぬぐう。

「…ごめんなさい、らすとおーだー…わたし、シスターなのに、何も出来なくて…」

ポケットから真っ白なハンカチを取り出し、インデックスはテーブルを回り込んで打ち止めの傍に跪いた。
やさしく涙で濡れるまぶたを押さえてやりながら、どうしたものかと思案する。
すると、打ち止めが持ってきた手提げかばんが目に入った。

「ねぇらすとおーだー、そのかばんには何がはいってるの?」

「ひぐっ、う、これは…これはね、あのひとが今まで書いた日記なの。 あなたに、元に戻してもらおうと思って、持って、ぐすっ、きたの。でも…」

使えないんだよね、魔法。 涙声に飲まれた先は聞こえなかったが、そういうことだ。

「日記…?」

「や、やぶかれちゃって、。あの人、忘れちゃったから。書いたこと。だから読みたくないって思ったんだと、思う、。って、ミサ、見解を述べてみたりっ、く」

「…らすとおーだーの大切な人は、その日記を破いて、読んでくれなかったんだよ、ね…?」

「う、うん」

「らすとおーだー! 破けちゃった紙を元に戻すのは魔術だけじゃないかも。 科学でも出来るよ! 科学の結晶、セロハンテープで!!」

「………………………、。 へ?」


335 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:16:15.93 5mSkUdM0 58/70



そこからインデックスの活躍は目覚しいものだった。
泣きじゃくってべたべたになった打ち止めを洗面台まで連れて行って顔を洗わせ、その間にセロハンテープを用意。
上条当麻が学園都市を離れる前、お徳用のセロハンテープ(十個組)を購入していたのが幸いした。
打ち止めが戻ってくると、ばらばらになったそれぞれのピースをパズルのように少しずつ組み合わせていく。

打ち止め一人では何時間もかかったであろうその作業を、インデックスはみるみるこなした。
どの紙片がどういう破け方をしていたか。 さっき見かけたあの形の紙切れをどこに置いたか。文字と文字の切れ方、つながるのはどの紙片か。
インデックスは完璧に覚えて、効率よくパズルを完成させていく。
打ち止めはそれに驚き、魔法だと喜び、インデックスが組み合わせた紙を丁寧に慎重に、しわが寄らないようにセロテープでつなぎ合わせた。
二人で協力してつながりを探すこともあったし、一人が紙を押さえて一人がセロテープをちぎるという共同作業をすることもあった。
一枚完成するたび、二人は顔を見合わせて微笑んだ。

―ーそして、世間一般でおやつの時間と呼ばれる時刻、6冊のノートは復活した。

「出来たーーー!ってミサカはミサカは達成感と心地よい疲労感に身をゆだねてみる!」

「うわぁーい! やったんだよーっ! …でももうおなかぺこぺこかも! まったくとーまは何をやってるのかな!?」

「へへ…。 これでちゃんと読めるんだねってミサカはミサカは本当に、本当に嬉しいよ」

セロテープで貼り合わせたせいで、もとのノートよりもずっと分厚くなってしまった日記帳。ごわごわしているし、端もところどころ折れている。
けれどそれは確かに一方通行が書いた日記そのものだった。
ぺらぺらとめくりながら、貼っている途中でちょこちょこと読んでいた内容を思い返す。




『これ以上、忘れたくない。』



『朝は打ち止めが起こしに来るまで寝たふりすること。打ち止めが椅子を引いてくれるまで座らないこと。』



『ごめんじゃなくて、ありがとうって言え。』


336 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:16:54.00 5mSkUdM0 59/70




どのページを見ても、懐かしくて涙が止まらない。もとから「だれかの涙」でよれているページもたくさんあるので、これ以上滲ませてはまずいのに。

そして最後の。



『打ち止めのプレゼントを買った。ネックレス(引き出し、上から二番目)』



日記帳の最後の日付、八月二十四日の日記の最終行。
打ち止めは知った。 彼が何故突然出かけたいなどと言い出したのか。


「ミサカの誕生日、だから…」


「らすとおーだー、よかったね。 …これ読ませれば、絶対解ってくれる。わたしが、保証するんだよ」

ぎゅっと打ち止めを抱きしめるインデックス。悲しさと嬉しさが入り混じった雫はもう零れ落ちない。 全て、教会の中に吸い込まれていった。



暗くなる前に家に帰り着いた打ち止めは、先に帰宅していた黄泉川にこってりと絞られた。
当然、黙って行かせた芳川も先にごってりと叱られていたようだった。

上条当麻から聞かされた先日のことを黄泉川に教えられた打ち止めは日記の表紙を見つめる。 セロハンテープでてかっている日記。
それは記録であって記憶ではないけれど、たしかに彼が綴った思いの形だ。

コンコン! と元気良く一方通行の部屋をノックする。
中から『あァ!?』といらだった声が聞こえるが、気にしない。

「ねぇ。 起きてるよね? お願いがあるのって、ミサカはミサカは貴方に聞く気が無くても勝手にするから最後まで黙っててねってこれまた貴方の意見はまるっと無視して要件を果たすべく突撃ーッ!!」

「だから殺されてェのかァァァァ!」


337 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:17:33.10 5mSkUdM0 60/70




そして、八月三十一日。


「黄泉川ァァァ―――ッ!!!」

朝っぱらから少年の部屋から叫び声がする。 緊迫した雰囲気だが、別段慌てることもあるまい。

「はいはい、なにごとじゃん…」

「黄泉川! オマエ、この日記のこれ、知ってっかァ!?」

「んえ? なんじゃんよ…私はお前の日記なんて…」

ビシィと指差されたセロテープのつぎはぎだらけの日記帳の一ページを覗き込むと、そこにはなにやら書いてある。

「えーと…プレゼントは机の二段目? これがどうかしたのか?」

「ねェンだよ、机の!引き出しの!二段目にっ!」

「…んじゃ他のところに直したじゃん」

「わっかンねェかなァ!? 覚えてねェの! わからねェの! オマエなンか知らねェかよ、俺がなンかどっかに直したとかしまってたとか!」

「知るわけないじゃんそんなの! お前の部屋なんかほとんど入らないのに」

「使えねェェェェェこの女ァァァァァァァ」

「お前よっぽど殴られたいじゃん!?」

びきりとこめかみに青筋を浮かべた黄泉川が拳をにぎるが、一方通行はそちらを見もせずがたがたと引き出しの二段目を漁っている。
くっそ、と一人ごちて拳を下ろした彼女はおや、と表情を変えた。

一方通行が漁りまくっている机の、いちばんわかりやすい真正面にでんとこれ見よがしに置いてある、長方形の箱を綺麗にラッピングしてあるそれはどうみても。

「…あー…お前さぁ、ちょっと他のところも探してみたほうがいいじゃん?」

「探した! もォあっちこっち探したンだよ! あのガキに見つかりづらそうで俺にはわかりやすそォな場所を!!」

338 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:18:11.43 5mSkUdM0 61/70



わき目もふらず、相変わらずがさごそやっている彼は、そもそもどんなサイズのものなのか想像もついていないのかもしれない。 ペンケースの中まで覗き込んでいる。
おそらく昨晩、翌日のパーティのためにすぐわかる場所に置き直したのだろうが、どうやらそれを日記に綴り忘れているらしい。
お前が探しているものは、箱に入っていてラッピングされていてリボンがかかっていて丁度目の前にありますよーと言えば事は収まるのだが。

「…まあ、打ち止めの誕生パーティーは夜だから。 それまでにがんばってみつけるじゃーん? ファイトー」

黄泉川は意地悪をすることにした。 どうせ自分は使えない女だし?
ひらひらと手を振って部屋を後にする。 夕方までに見つけられなかったら指差して大笑いしながら教えてあげよう。





八月三十一日の日記の最後には、こんな文があった。


覚えていなくても、多分俺の中にはちゃんといろいろと積み上がってるもんがあるんだと思う。
この家もベッドもキッチンもマグカップも何もかも懐かしいのに、全部初めてのものばかりだ。
初めて出逢った奴と一緒に、一日しか一緒に居なかったガキの誕生日を祝ってる。
すげー不思議だけど、どきどきしてる。毎朝新鮮すぎて困るくらいだな。

なんか、毎日この世界に初恋してるみてぇ。

いつもありがとう。あしたもよろしくな。



おわり。







339 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:21:37.85 5mSkUdM0 62/70

ここで、ハッピーエンド。です。
忘却の空、結局短編程度の長さにまとまってしまいましたが、応援してくださった皆さん、ありがとうございました。
前半は一方通行の一人称で進んだので、最後は打ち止め中心で書いてみました。
小ネタスレから始まった妄想ですが、完結させられてよかったです。
あと、上条さんは動かしづらすぎて筆ストッパーなので退場していただきました。すみません。
主人公すぎて動きませんでした。ごめんねせっかく出てきたのに。

ここから先はバッドエンドバージョンです。

340 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:22:44.84 5mSkUdM0 63/70

※BADENDルート。最初はこっちでした。



「ごめん…なさい。 自動書記【ヨハネのペン】は…もう、壊れちゃったの」

打ち止めが訪ねた白い少女は、そう言って俯いた。
金糸を織り込んだ白磁のティーカップのような修道服を身にまとう銀髪のシスターは、美しいローブの裾をきつく握り締める。

「…そん…な」

「わたしには、もう力は無いの。 本当にただの図書館になってしまったの。
 私は――インデックスは、ただの無力なシスターだから…っ、 …あなたの大切なひとを、助けてあげられない…っ」

ぱたぱた、と床に雫が落ちた。 魔道書図書館と呼ばれ、膨大な「奇跡の業」を記録する小さな少女は己の無力を悔いた。
彼女の自動書記はかつて中途半端に破壊され、その後体調と精神を保持するために一旦完全に取り除かれた。そして、蓄積された魔道書は容量を圧縮され、本人からも外部からも干渉を受け付けない術式が施されたのだ。
だから、彼女にはもう魔術は使えない。
使えるのは、英国のスリートップが揃って頷き遠隔操作霊装を揮った時だけ。
霊装も禁書目録も、英国のためだけに起動する。 そう「設定」されたから。

「ま、魔術は…! 魔術は、犠牲や媒体なく何かを生み出すことは出来ないの。 誰かの正は、誰かの負になるんだよ。
 信仰が、対立を生むように。 世界の人々が、今の今まで経ってもひとつになれないように。
 誰もが望む最高のハッピーエンドを作り出せる奇跡は、魔術じゃ起こせないんだよ…!」

「じゃあ、あの人は…どうやっても助けられないの…?」

「…どうしても治さなきゃならないの? そのひとは、今を嘆いているの?」

「…ミサカは、治らなくても大丈夫だって…思ってた。 だってあの人は、記憶が毎日リセットされているのに、段々ミサカ達に優しくなって…ミサカ達との日々を覚えているみたいに、振舞ってくれるから。」

「だから大丈夫だって思ってたの。 きっとこのまま幸せになれるって。 このままの日々が続いていってくれるって信じてた。
 でも駄目だった。 …あの人はもう日記を読まない。積み重ねた記録に怯えてる。自分が見えなくて苦しんでる。 ミサカ、もう見ていられないの。ミサカをあんなふうに見つめるあのひとの視線に耐えられないの!!」

「らすとおーだー…」

「全然大丈夫じゃなかった。 あの人の中には何も無かった! 増えたのは記録だけ。 あの人の心には何も残ってない!!」

悲痛な声だった。
打ち止めが望んでいるのは、暖かな日々。 ただそれだけでよかった。 今までそれが叶っていると思っていた。 優しい幻想。

341 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:23:28.67 5mSkUdM0 64/70



インデックスは瞑目する。 泣きながら大切な人を想う打ち止めの姿は、まるでかつての自分のようで辛い。 
大切な人にほんの小さな怪我ですらしないでほしかった。何事も無く幸せになりたいだけだった。穏やかでなだらかで温もりのある平穏を信じていた。 でも、本当のそれを手に入れるまでたくさんの痛みを味わったのだ。
インデックスの小さな体にも、上条当麻のたくましい体にも、たくさんたくさん傷が残った。 心のなかにも数えきれない後悔が残っている。
それでもあがき続けて手に入れたちいさな現実は、ふたりをいつも笑顔にしてくれている。

だからインデックスは、傷だらけのこの少女を救いたいと心から思った。

「らすとーだー。 らすとおーだーはどうしたい? 記憶を取り戻すのはとってもムズカシイ。 科学技術で手も足も出ないケガを、魔術の理で完治させるのもムズカシイ。
 ただ、ちょっとだけ誤魔化すことはできるかも。 …それでも、大きな代価が必要だけど」

「…だいか、って?」

「術式にはあなたのクローン全員の協力が必要になる。 そして、術式に関わった全ての人物の事を完全に記憶からデリートする。 それで初めて、”毎日忘れる”を”毎日を覚える”にずらすことが出来る『かもしれない』」

「ど、どういうこと…?」

「あなたが助けたいあの白い人は今、みんなに助けられながら生きてる。 でも、怪我を治す生命力は突然生まれたりしないの。 どこかから持ってくるの。
 助けるための力は、いまあの人が繋がっているすべての人。 その記憶」

「あくせられーたが積み重ねた15年間の記憶と、今あくせられーたを支えている人々の思い。 全てを代償に…これから15年を、覚えていられるように、なる、かもしれない」

小さく区切るように、不安を滲ませた声でインデックスは言う。

「忘れられてしまう悲しみを、今以上に背負わせることになるよ。 覚えていない苦しみを、今以上に背負わせることになるよ。 …でも、これから積み重ねていける希望は、ある」

「そんなの…ミサカは…ミサカは…」

「急がなくってもいいんじゃないかな…。 …正直、あまりオススメしたくない方法なんだよ。 だって、この術式を使ったら、あの人がらすとおーだーを覚えていないばかりか、らすとおーだーもあの人の事を思い出せなくなる。
 揺るがない絆があっても、繋がりを取り戻すのは困難だと思う。 わたしにも、思い出したくても思い出せない大切な人達がたくさん、いるから…」


342 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:24:17.79 5mSkUdM0 65/70



黙りこくってしまった打ち止めを見つめて、インデックスは悩んでいた。
このことを話してしまっても良かったのだろうか。
こういう術式は、確かにある。 自分は魔術を使えないが、記憶に関する魔術について造詣が深い友人がいるからそちらに頼めばどうにかなると思った。
インデックスの記憶を消さずに済む方法を必死で探してくれた、大切な友達がいる。 彼らに記憶を消す魔術を頼むのは気が引けたが、それでこの少女が助かるのならきっと協力してくれるはず。
だが、悩みはそれだけではなかった。
だって、これで本当に救われるのだろうか? 
打ち止めの事をかろうじて記憶している今の一方通行と、過去を全て忘れた一方通行。
どちらを打ち止めは望んでいるのかなんて、その点だけを見れば明らかなのに。


みんなで一緒に幸せになれる道はどこにもない。




343 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:25:02.69 5mSkUdM0 66/70







「打ち止め、一方通行は?」

「まだ寝てる、ってミサカはミサカは答えてみる。 さっきまですごくうなされてたけど、ちょっぴり落ち着いたみたい」

「…参ったわね…」

病室。
それは、一ヶ月の間ずっと一方通行が過ごしたあの個室だった。
すこし空気が篭っているな、と黄泉川愛穂は判断し、窓のロックを外した。 全開にしてしまうと寒いので、半分ほど開けて空気を入れ替える。
白いカーテンがふわふわとはためいて、止まった室内に風を導いた。

「…空気が冷たくなってきたわね」

「ああ。 …また、一年前と同じだな」

「…ミサカが、ミサカが、あの人にちゃんと日記を渡してあげられたら、何かかわってたのかな…」

「詮無いことを言うのはよすじゃん。 たらればで話しても目の前の現実が変わるわけじゃなし。 今は一方通行が目を覚ますのを祈るしかない」

8月31日――― 打ち止めが一方通行と出会い、そして一方通行が打ち止めを救った日。 ちょうどそれから一年経って、一方通行は再び覚めない眠りへと落ちていってしまった。
それでも、前回は一週間ほどで目を覚まし、リハビリを兼ねて大覇星祭に出歩く余裕もあった。
だが今回は、彼は目覚めない。 深い眠りの奥底で、毎日魘されている。 叫んでも揺すっても目を開けようとしない。 頑なに、何かを拒むように、そのまぶたは閉じられたままだ。









そして。





344 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:25:54.88 5mSkUdM0 67/70




少年は血溜まりの中で目を開けた。
その血は自分のものではない。ただ粛々と、赤くそれはあった。

「……だ、れ?」

彼は何も覚えてはいない。それなのに、何が起きたのか全て理解してしまった。
すぐそばの血溜まりに沈む小さな少女が、何をしたのかを。
目を開いた自分の代わりに、目を閉じた幼気な少女。

茫洋とした時間が流れる。それが一瞬だったのか、一時間だったのかは判然としなかった。

ふと、指先に触れるものがあった。
かさりと乾いたそれは、いくらか血飛沫を浴びてから固まったちいさな紙切れ。でこぼことした質の悪い表面に、インクが滲んでいる。たしかこういう紙を、羊皮紙というのだったか?

そこに描かれた不思議な模様と無数の記号の羅列。

読めない文字を辿っても、なんのことだかさっぱりわからない。
ただ、奇妙な重圧を発する紙片だった。

徐に、震える手で子供に触れる。
ひんやりとした――けれどまだほのかにあたたかい体は、ぴくりとも動かない。
確かに呼吸をして生きている少年のほうが凍えたように震えているのに、少女は今にも止まりそうなか細い呼吸を、数拍おきに繰り返すだけ。
ぐ、と抱き上げ、膝に抱えあげた。 だらりと垂れ下がった少女の細い腕が、液体をバシャリと撥ね上げる。
子供の軽い身体は、力が抜けているせいでひどく重たい。非力な彼には尚更その重みが、命の重みがのしかかった。
だくだくと流れすぎた生命力は、にじむ程度にしか残っていない。
だが確かにそこに、僅かに、幽かに、残ってはいる。
鮮やかな赤色だった命溜まりは、急速な酸化によってどす黒く色を変え始めていた。


345 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:26:34.56 5mSkUdM0 68/70



少年は何もかもわからないまま、ギシュリと音が鳴る程羊皮紙を握り潰し、


「――――――――――――大丈夫だ」


なにが。

そんなものは自分にだってわからない。
自分が誰かもわからない。
この少女のことなどもっとわからない。
この状況を理解するような知識も記憶もない。
それでも。
だとしても。

なぜか、
何を失ってもこの血溜まりに沈む少女の、こぼれ落ちる命を、留めなければならないのだと確信出来ていた。


わらう。
冷たく暖かく鋭く優しく痛みを伴うほどの決意をもって。
魂を握りしめて嘲笑う悪魔のようにも、神の身許で祈りを捧ぐ天使のようにも見える奇怪な表情で。


難しい数学の知識などなくとも、大仰な霊装などなくとも、人は魔法を使える。
ボン! と前触れなく唐突にその背に噴出した真っ白な翼が、まるで鮮血を吸い上げていくかのように根元から切っ先まで一気に真っ赤に染まり上がる。
少年の鼓動に合わせて燐光を発する紅の翼は、幾重にも幾重にも空間に折り重なり、部屋中にチョークで書き綴られた幾何学的な紋様をなぞってゆく。
握り締めた意味を持たない紙切れが切り裂くような鋭く局所的な光を放ち、ジリジリと焼け焦げ、一方通行の拳の中で燃え尽きた。


命を詠う天使は吟い続ける。 引き裂く笑みで、名も知らぬ少女に捧げる祈りを。


346 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:27:10.51 5mSkUdM0 69/70








打ち止めは生温いぬめりを頬に感じ、うっすらと目を開けた。
眼前に広がる赤の中に、白い部分とまだらになった赤い塊は――。
失敗した、瞬時にそう判断した打ち止めは即座に羊皮紙を探した。 体に痛みは無く、バネ仕掛けの人形のように跳ね起きるとぬるつく床に溜まった液体をパシャパシャと掻き回す。
―――無い、何処にもない。


どす黒い赤を絡みつかせながら、チャプ、と液面を揺らして打ち止めはへたりこんだ。

「……ねぇ」

かろうじて人の形をしている塊に静かな声で話しかける。

「…………ミサカ、諦めないから」

打ち止めは大きく息を吸い込み、夢の中で聞いた旋律を奏で始める―――――――――――




歌声は響く。 遥か遠く、忘却の空の彼方まで。





おわり


348 : 忘却の空5(最終) - 2010/12/16 00:28:36.69 5mSkUdM0 70/70

はいというわけで、もったいないので投下したバッドエンドルートもこれでおしまいです。
魔術の解釈や一方サンマジ天使とかいろいろアレですがノリと雰囲気で読んでもらえればいいかと思います。
深く突っ込んだら黒歴史に飲まれて死ぬのでやめてくださるとありがたいです。

では、ありがとうございました。
バイビー

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