関連
やはり雪ノ下雪乃にはかなわない第二部『はるのん狂想曲編』【前編】
やはり雪ノ下雪乃にはかなわない第二部『はるのん狂想曲編』【中編】
第22章
7月1日 日曜日
目の前にいたはずの石川は、陽乃さんの顔を見るや忽然と消えうせる。
そして、どこに行ったかというと俺達の足元にいた。
地面に頭をこすりつけながら肩を震え上がらせている。
いや、まあ、陽乃さんは、どんだけトラウマ植え付けたんだよと、少々かわいそうに思えてしまう。
なにせ陽乃さん見た瞬間に条件反射的に土下座だもんな。
ここまで怖がってるんなら、ストーカーなんかしなければいいのに。
陽乃「玄関先で話すようなことでもないし、中に入れてくれないかしら?」
石川「はっ、はいっ」
地面に向かって大きく返事をすると、腕の反動を使って立ち上がり、玄関のドアを抑えて陽乃さんが中に入りやすいように誘導する。
陽乃さんは、誘導に従い部屋の中に勝手に入っていく。
俺もついていかないわけにはいかなく勝手に入らせてもらうが、石川は特に気にしていないようだ。
靴を脱ぐとき、ちらりと石川を観察すると、俺より背は低く、いわゆる中肉中背って感じで、これといった特徴もない男であった。
玄関周りも綺麗に片付いており、部屋の中の方も綺麗そうだ。
本人は今、脂汗をだらだら流しながら小刻みに震えているから、みすぼらしく見えてしまうが、身なりを正せば、そこそこまじめな大学生といえる。
陽乃「早く来なさい」
部屋の奥で勝手にソファーに腰をかけている陽乃さんは、時間が惜しいわけでもないのに石川をせかしたてる。その石川も、陽乃さんの声に反応して駆け足で部屋の中に戻ってくるんだから、どんな楽しい話し合いだったか想像がつかない。
石川「今すぐ行きます」
陽乃「私が来た理由、わかるわよね」
石川「はいっ」
石川は、自分の部屋だというのに、部屋の隅で正座している。背筋を伸ばし、顎を軽くひいて、まっすぐと陽乃さんを見つめる。
俺は、ふと、躾が厳しい昔の日本の風景を思い浮かべてしまう。
厳格な父が、小さい子供にものさしかなんかをもって、少しでも姿勢が崩れればびしっと叩くような、古き日本の家庭。
目の前にあるのは、厳格な父でも小さな子供でもない。
オブラードに包んだ言い方で、女王様と下僕がいいところ。
まあ、女王様に忠実なのはあってそうだから、ますますこいつがストーカーを再開した理由がわからなくなった。
陽乃「じゃあ、全て話しなさい」
石川「はいっ」
そう威勢よく返事をすると、デスクトップパソコンのモニターに一通のメールを表示させる。
陽乃「これは?」
石川「はいっ。これは僕宛てに送られてきた陽乃SFC入会案内です」
八幡「は?」
えぇ~と、SFC? 慶應SFCじゃなくて、陽乃SFC?
おもわず間の抜けた言葉を発してしまう。
陽乃さんはちらっと俺の事を見たが、陽乃さんも俺と同じ感想らしい。
陽乃「SFCって?」
石川「はいっ。SFCとはS(そっと見つめる)、F(ファン)、C(クラブ)の略称です」
陽乃「そ、そう・・・・・・・」
陽乃さんでさえ、唖然としている。そっと見つめるってなんなんだよ。
そっと見つめているから、誰も陽乃さんに接触してこなかったってことか?
あと、Sは、「ストーカー」と「そっと見つめる」の頭文字をかけたダジャレかな、って思ってしまったことは、黙っておこう。
たぶん、冷たい目で叩き潰されるだけだな・・・・・・。
だとしても、誰だよ、この馬鹿げたファンクラブの会長さんは。
石川「はいっ。でも、僕は、SFCのサイトを見ることはあっても、活動そのものはしていません」
陽乃「でも、昨日私の事つけ回していたでしょ?」
石川「違いますっ! 僕は、サイトの情報を使って、ストーカーの方を監視していたんです。僕は陽乃さんの教えに従って、自分にできることをするって決めたんです。だから、ストーカー行為なんかしてません」
石川は、身を乗り出し、汗を散らせながら懸命に訴えかけてくる。
その必死な形相からして真実なんだろうけど、いまやストーカーというよりは下僕のような気もしなくはない。
いったいどんな楽しい話し合いしたんだよっ。
聞いてみたいような気もするけど、聞いたら後に戻れない気もするからやめておこう。
陽乃「私の家を張り込んだりはしていないのね?」
陽乃さんは、無表情に近い笑顔で石川を観察する。
明らかに作り笑いだってわかるくらい寒々しい笑顔。
俺は、怒ったり、ヒステリックになってもいいような場面でさえも笑顔を作り上げてしまう陽乃さんに、おもわず手をさし伸べたくなってしまった。
だって、辛すぎるだろ。感情さえも抑え込んで自分を演じている。
小さい時からの習慣なんだろうけど、あまりにも過酷な幼少期に思えてしまう。
きっと本人は、自分を憐れんだりはしない。憐れむのは、他人の勝手。
でも、憐れみなど受け入れはしないし、憐れまれることも望まない。
陽乃さんが雪乃の昔話をしてくれるって言ってたが、無性に陽乃さんの昔話を聞いてみたい自分がいた。
石川「はいっ。陽乃さんに誓って、そのようなことはいたしておりません」
陽乃「わかったわ。でも、今すぐ石川君を信じてあげられないのは、わかってるわよね」
石川「はいっ」
陽乃「よろしい。じゃあ、一応信じてあげるから、話を続けてちょうだい」
石川「はいっ。SFCのメンバーは、会長が集めてきた陽乃さん信仰者たちで構成されています。どこから集めてきたのかはわからなかったのですが、最近わかってきたのは、以前陽乃さんのストーカーをしていて、一度はやめた人が多いということです」
陽乃「それは、聞いてみたの?」
石川「いいえ。横のつながりはほとんどありません。陽乃さんの情報をサイトにあげて共有したり、写真をアップするだけです。僕が以前ストーカーをしていた人物だと気が付いたのは、張り込みをしてわかったことです。僕がストーカーをしていたときにも、僕と同じようにストーカー行為をしていて気が付いていましたから。たぶん向こうも僕に気がついていたと思います」
陽乃「具体的には、何人?」
石川「そうですね。名前はわかりませんが3人です。あと4人ほどいますけど、こちらの方は始めてみる顔でした」
すげぇ。元ストーカーすごすぎる。もう探偵とかやっちゃったらいいんじゃないの?
それとも、この石川君って人がすごすぎるのか?
陽乃「そう・・・・・。会長って人は、どんな人?」
石川「おそらくSFCの入会メールを送ってきた人物だと思うのですが、顔を見たことはありません」
陽乃「そもそも会長は、どうやって石川君のメールアドレスを手に入れたのかしら?」
石川「さあ・・・。それはわからないです」
陽乃「そっかぁ。他には情報ある?」
石川「すみません。あとは実際にサイトを見ていただくことくらいしか・・・・・」
陽乃「ううん、ありがとう。じゃあ、見せてくれない?」
石川「はいっ」
石川君はPCを操作し、SFCのHPを表示させる。
俺も陽乃さんの後ろから顔を出し、覗き込んでみるが、意外とシンプルなサイトであった。
トップページには、IDとパスワードのみが表示され、サイト名はない。
ログインすると、陽乃さんのスケジュールとそれに基づくストーカー記録。
あとは、陽乃さんの写真。
ストーカー達のコメントも陽乃さんの様子に対するものしかなく、石川君が言っていたように横のつながりを匂わす発言はなかった。
八幡「石川君が知っているストーカーが3人いるらしいけど、それって、陽乃さんが直接見れば、名前とかわかるんじゃないんですか?」
陽乃「うぅ~ん。それはちょっと難しいかな。会長って人が誰だかわからないし、私が石川君と一緒に行動したら怪しまれるでしょ。それに、石川君が遠くから見て、電話で教えてくれたとしても、私がストーカーを凝視だなんてしたら、向こうも気がついてしまうでしょうね。私が以前関わったストーカーの写真を持っていればよかったんけど」
石川「僕の方こそ、望遠カメラを持っていれば」
八幡「いや、石川君も怪しい行動は控えられてよかったんじゃないかな。だって、向こうは何人いるかわからないし、もし捕まったりなんかしたら危ないからな」
陽乃「そうね。石川君も無茶な行動はしないでね」
石川「はいっ」
まじで石川君、感動しちゃってるなぁ。憧れの存在に心配してもらって嬉しそうだ。
でも、陽乃さんの裏の顔とまではいかないまでも、雪乃からしてみれば、ちょっかいしてくる迷惑な姉にすぎないんだろうけど、人の評価ってわからないものだな。
陽乃「SFCのサイトだけど、毎日データを転送してくれないかしら。私が直接ログインしたほうがいいんだけど、向こうに気がつかれる恐れがあるのよね。・・・・・・比企谷君」
そう言うと、陽乃さんは俺に視線を向け、石川君に視線を送る。
あぁ、俺のメアドを教えろってことね。
一応事前に捨てアドを用意してきたけど、本当に必要になるとはね。
もしかして、陽乃さんは石川君のことを信じていたのかな?
俺は石川君とメアドの交換をする。元ストーカーとメアド交換なんてシュールだよな。
しかも、元ストーカーの家で、他のストーカー対策してるんだし、人生ってわからないものだなと、しみじみと感じてしまう。
変な繋がりを持ってしまったものだよ、まったくな。
・・・・・・繋がり?
そっと見守るから、横の繋がりは必要ない。
むしろ、誰かが捕まったりでもしても切り捨てることができて好都合。
でも、会長って、どこから元ストーカーとか、現役ストーカーを集めてくるんだ?
それこそ石川君じゃないけど、ストーカーしているのを観察でもしてたのか。
SFC入会を送ってくるってことは、メアドも知っていなければならない。
メアドの入手経路から探りを入れてみてもいいが、素人の俺になにができる。
初めから知っている人から聞くくらいしかできないぞ。
・・・・・・・初めから知っている?
八幡「あの、陽乃さん。石川君の住所とか知ってるのって、陽乃さん以外では誰がいるんですか?」
陽乃「え? 石川君を見つけ出すのに協力してもらった友達はみんな知ってるはずよ」
八幡「ということは、安達さんも知ってるってことですよね?」
陽乃「あっ。・・・・・・・そういうことね」
八幡「おそらく」
陽乃さんも気が付いたようだ。
元ストーカー達の連絡先を知っていて、なおかつ陽乃さんのスケジュールを知っている人物。
あまりにもお約束の展開で、あまりにもお粗末な犯人。
今回安達・馬場・千田の中で嘘情報でふるいをかけてしまっているから安達がSFC会長にもっとも近い人物といえる。
こんな推理なんか穴だらけだって言われてしまうだろう。
世に出回っている探偵小説であるのならば、三流以下の評価が下されると思う。
でも、これはリアルであって、小説ではない。
可能性が高いものからふるいにかけ、そこから地道にハズレを潰していって、当たりを見つけ出す。
けっしてスマートな方法ではないかもしれないけど、俺は小説の名探偵じゃない。
どこにでもいる大学生であって、手がかりから突然犯人がひらめくわけでもない。
だから、ぐだぐだに走り回って、穴だらけの迷推理を繰り返して、そこからどうにか犯人にたどり着いたとしても、問題を解決できるのならその過程はなんだっていいと思っている。
ようは、陽乃さんや雪乃が笑顔になればいいわけだ。
石川君にも一通り俺の推理を披露すると、安達への憤りは激しかった。
自分がストーカーだったという負い目はあろうが、陽乃さんに協力していた安達が今度はストーカーだなんて、許せはしないのだろう。
八幡「明日、放課後にでも問い詰めますか?」
陽乃「うぅ~ん。ちょっと待ってね。考えをまとめるから」
腕を組み、渋い顔をして天井を見つめたり床を見たりする。
何を迷っているのだろうか?
既に犯人は見つかったのだから、やるべきことは一つじゃないか。
俺の不満をよそに、陽乃さんはさらにしかめっ面になって、唸るばかり。
俺と石川君は、陽乃さんが納得する答えを探し出すまで、その様子を見守ることにした。
陽乃「うん、決めた」
十数分後、ようやく出た解答は、俺の予想を裏切るものであった。
陽乃「安達君には、まだ何も言わないわ」
八幡「どうしてです。犯人が分かったんですよ」
俺は、納得ができない。こう言っちゃ悪いが、今や陽乃さんだけでなく、雪乃だって危うい立場に陥りそうである。だから、早く解決できるのならば、解決すべきだ。
陽乃「まだ証拠がないでしょ」
石川「元ストーカーの僕の情報じゃ、信用ありませんよね」
石川君は、自嘲気味につぶやく。そりゃ、信じない奴もいるだろうけど、証拠能力がないわけでもない。げんに、陽乃さんを助ける為に行動だってしてるんだ。
過去を悔い改め、再出発している人物をののしるやつがいるんなら、俺が・・・・・。
陽乃「そうじゃないのよ」
俺が石川君を励まそうと口を開く瞬間、陽乃さんの言葉が俺を思いとどめさせる。
陽乃「そうじゃないの。大学院って、大学と違って学生の数が極端に少ないの。ほとんどの人が顔見知りって感じね。だから、人間関係を壊すんなら誰も文句が言えない証拠が欲しいのよ。だって、私たちが手にしている証拠って全部、私達の推理も含まれているでしょ。それだと、決定打に欠けるわ」
八幡「そうかもしれないですけど・・・・・・・・」
陽乃さんならば、多少強引にでも事を進めると思っていた。
だけど、下した結論は捜査続行。安達を問い詰めることはしない。
由比ヶ浜じゃないけど、陽乃さんも人間関係のバランスを良く見ているとは驚きだ。
存外、人を良く観察しているからこそ、大胆な行動もできるのかもな。
そりゃ、まわりの反応も無視して独断行動ばかりしていたら、ただの痛い子だもんな。
陽乃「でも、黙ってる気はないわ。やるなら徹底的に叩き潰してやるんだから。私と、私の大切な人たちを傷つけようとした報いは受けてもらうわ」
そう冷淡につぶやくさまは、まさに悪役。
陽乃さんを女神のごとく崇拝していた石川君でさえ、表情を堅くし、震えおののくありさま。
俺も背中に嫌な汗が流れ落ち、ぞっと身震いをする。
冷たい空気が雰囲気を重くし、俺達二人は、石のようにかたまって、嵐がやむのを待つしかなかったのであった。
7月4日 水曜日
月曜、火曜と日曜日にあったことなどなかったように、大学生活は進む。
陽乃さんも、表面上は安達ともいつも通り接している。
さすが強化外骨格の持ち主。どんなことがあっても、その仮面は崩れさることはない。
年季が違うね。俺だったら、態度に出て、不審がられるだろう。
その安達は、今日も軽薄そうな感じで、他の友人たちとつるんでいる。
俺の勝手な判断だけど、お調子者で、責任感が欠けてるように見えてしまう。
実際は責任感があるかもしれないけど、見た目がマイナス材料になっている。
まあ、見た目を信じてはいけないと思うけど、雪乃曰く、見た目にはその人の人のなりと育ちを映し出してしまうから、判断材料の一つになってしまうとか。
たしかに、第一印象って大事だしな。いくら本当はいいやつでも第一印象で失敗したら、それを挽回するのは大変だ。
むしろ、ずっと第一印象を引きずってしまうこともあるほどだ。
ま、陽乃さんも俺の安達の印象には賛成らしい。
仮に、私の重い結婚話なんか聞かせたら、すぐさま逃げ出しそうねと笑いもしていたが、それがどうにも悲しそうに笑っているように見えてしまった。
この数日、陽乃さんの内面を覗き込む機会がある分、陽乃さんのことを考えてしまう。
きっと俺が見ている陽乃さんも、陽乃さんのほんの一部分なんだろうけど、陽乃さんがひた隠しにしていた部分のように思えてしまう。
さて、ストーカー問題もあるが、俺には目の前の英語勉強会も待っている。
だけど、こっちの方はもう大丈夫そうだ。
なにせ、俺が講義をしなくても、各自が自分の担当箇所を説明していくれている。
俺の仕事といえば、なにかあれば軌道修正したり、スケジュールを立てるくらい。
そもそも元々勉強できるやつらであるわけで、自転車と同じく、のれてしまえば、すいすいいってしまう。
そんな感じで、今日の英語の授業も、授業後の小テストさえも問題なかったはずだ。
きっと明日の勉強会では、ほくほく顔のあいつらを見ることになると思えた。
弥生「比企谷君ですよね?」
雪乃と陽乃さんの講義はあるが、俺は空き時間ともあって、適当に時間をつぶそうと図書館に向かおうとすると、聞き覚えがない女性の声が俺を呼びとめる。
年の感じは、20代後半か、いやもう少し若いか。学生って感じでもないし・・・と、やや警戒気味に振り返り観察する。
そこにはスーツを着込んだ背が高くスレンダーな女性が立っていた。
背は170は超えており、几帳面そうに身なりを整えている。
しっかりと整えられた髪型とよれがないネクタイが、几帳面さをより印象付ける。
ただ、細いメタルフレームに納められた薄いレンズからのぞかせる目からは、緊張している様子もうかがえた。
八幡「はい。そうですけど」
俺の警戒心も伝わったらしく、すぐさまその女性は簡潔に自己紹介をした。
けっしておどおどした感じはなく、はっきりした口調が、人前で話すことが場馴れしていることを示していた。
弥生「私は、1年生のDクラスで英語を教えている弥生夕といいます。比企谷君の事は、Dクラスの生徒から聞きました」
八幡「そうですか」
もしかして、やばい? 余計な事をしてくれたなって、釘をさしにきちゃったのか?
悪いことをしたわけじゃないけど、先生としてのプライドもあるし、ちょっとやばいかも・・・・・・。
俺は、一歩足を後ろに引きたい気持ちを押しとどめる。
それでも体は正直で、嫌な汗が噴き出てきた。
弥生「そんなに警戒しなくても。私は、お礼を言いに来たんですよ」
俺の警戒心を読みとって、先回りしてくる。
俺が警戒心丸出しだっただろうけど、人の機微には敏感なのかもしれない。
そうなると、Dクラスの連中の態度も丸わかりだったんだろうな。
裏では、冷血・サディスト・鬼畜・役立たずなんて陰口を言われていることも知っていたはず。
Dクラスの連中も言ってたと思うけど、それについては俺はなにも言ってこなかった。
人の印象は、第一印象が勝負。俺があれこれいっても覆りはしない。
覆るとしたら、真相を知って、なおかつ、そいつらが相手に歩み寄ったときのみ。
八幡「お礼ですか? 俺はなにもやってませんよ。小テストの点が良くなったのも、あいつらが勉強をした結果です。俺がテストの点をとれるようにしたわけじゃないです」
弥生先生は、俺の発言を聞くと、目を丸くしてから、小さく笑いを洩らす。
弥生「笑ってしまって、すみません。いや、ね。Dクラスの子たちが言う通りの人だなと思って」
八幡「どうせ、噂ですよ」
弥生「そうかな。結構的を射てる内容でしたよ」
八幡「そうですか」
弥生「今日は、もう帰りですか?」
八幡「いいえ。連れが今の時間の講義があるんで、それが終わるまで待ってから帰る予定です」
弥生先生は、年季が入ったシルバーの腕時計を確認すると、俺に提案してくる。
弥生「それだと、しばらく時間があるってことですよね。食事でもどうですか?」
八幡「構いませんけど」
ちょうど小腹がすいてきたことだ。夕食までには、またお腹もすいているだろうし。
それに、むげに断って、Dクラスの連中に悪い影響を与えるのもよくないだろう。
ただ、俺の弥生先生に対する第一印象からすると、その可能性は低いか。
ちょっと待て。俺の弥生先生に対する第一印象は既に訂正しないといけないか。
大学の英語講師をやってるっていう事は、既に大学院を出ているわけだし、しかも、何年かは既に講師として活躍しているはずだから、弥生先生の年齢って、もう30代なのか?
それにしても若く見えるものだな。
大学院生・・・・・・、大学4年生あたりでもいけるんじゃないか。
弥生「それでは、行きましょう。美味しいラーメン屋がこの近くにあるんですよ。もしかしたら比企谷君も知っているラーメン屋かもしれませんね」
俺は、弥生先生の横にならび、ついていく。
大学周辺にもラーメン屋はいくつかあるし、俺が行ったことがあるラーメン屋である可能性は高い。
どれもそこそこ以上の味だったはずだし、どこへ行っても大丈夫だろう。
たしか行ってない店もあったよな。
行くとしても、できるなら行ってない店の方がいいか。
初めての店に一人でいくのもいいけれど、誰か知っている人にお勧めを聞くのも悪くはない。
俺は一人、まだ見ぬラーメン店への幻想を抱き、心躍らせる。
でもなぁ、初めて会った人間に、しかも男子生徒相手にラーメン屋って、どこの平塚先生だよ・・・・・・。
第22章 終劇
第23章に続く
第22章 あとがき
実はDクラスの英語講師。設定が何度も変わったキャラクターなのです。
性別も変わったし、性格やバックグランドも変わりましたし、名前なんかは、数回変わっています。
最初は、単なる英語講師Dとか雑に扱ってたきたキャラクターなのに、もしかしたら一番出世したキャラクターかもしれませんw
来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので、また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
第23章
7月4日 水曜日
俺は、弥生先生に連れられ、正門を抜ける。
前の講義が終わってからしばらくたっていることもあり、学生の数は少ない。
別に大学教師と一緒のところを誰かに見られてもかまわないが、陽乃さんのストーカー騒動もあって、人の目を気にしてしまう。
弥生「比企谷君。Dクラスの子たちを見て、どう思いましたか?」
突然の質問に身構えてしまう。
ラーメン脳を頭の隅に追いやり、目の前の問題に意識を向けた。
Dクラスの担当講師に会った時点で、聞かれる可能性が高い質問であると警戒はしていた。
そりゃあ、いきなり小テストの点数が上がったら、俺でも気になる。
八幡「そうですね・・・・・・・」
俺は一呼吸置き、弥生先生の様子を観察するが、俺を警戒するそぶりはない。
ここは、正直に答えておくべきか。
八幡「頭がいい奴らだとは思っていましたよ。今は点数が落ち込みはしていますけどこの大学に入れた時点で優秀なのは証明されていますからね」
弥生「それは、自分も優秀だといいたいわけですか?」
八幡「いや、そういうわけでは」
俺もあいつらと同じ大学だし、俺の言い方だと、俺も優秀だって事になってしまう。
でも、そういう事を言いたいわけじゃないって、弥生先生もわかっているはずだから、思いがけない返答に慌ててしまう。
弥生「すみません。意地悪な事を言ってしまって」
八幡「いや、大丈夫です」
弥生「私も、比企谷君の意見に賛成です。大学受験で燃え尽きてしまう生徒もいますが、Dクラスの子達は、少し事情が違いますね。中にはいるでしょうけど、それは少数派でしょうね」
八幡「はぁ・・・・・・・」
何を言いたいのか、注意深く探る。遠くを見つめ、まるで今までを振り返っている気がした。
今年のDクラスの生徒は十数人だけど、何年も続ければ数もそれだけ増えていく。
きっと、今までも毎年同じことが繰り返されてきたに違いなかった。
弥生「うちの大学は、全国クラスで見ても優秀な方だと思います。だから、全国から優秀な子たちが毎年入ってきます。きっとその子たちは、地元の高校では優秀な成績だったのでしょうね。クラスメイトからは羨ましがられたり、尊敬されたりしてたのでしょう。先生達からの信頼もあったはずです。でも、そういう子達が一か所に集められてしまったら、優秀な子達だけで順位が付けられてしまい、今までトップ集団であっても、いきなり下位グループに落とされてしまう子達が必ず出てしまうのですよね」
八幡「そうですね」
俺と同じことを考えていたことに、驚きを覚える。
いや、そうでもないか。当然のことだ。この人は、毎年見て、実感してきている。
俺よりも深く関わってしまっている。
弥生「今まで挫折を知らなかった子達は、打たれ弱い。一度沈み込んでしまったら、立ち上がるまで時間がかかってしまう。大学を卒業するまでかかってしまう子もいるし、卒業しても無理な子もいる。でも、どの子たちにも共通して言えることは、大学で勉強している間に立ち上がれる子は極めて少ないということです。立ち上がろうにも、化け物のような才能の持ち主が毎年入学してきますからその子たちには勝てないって、諦めてしまうのでしょうね。勉強は勝ち負けだけではないというのに」
八幡「理屈からすれば、そうなんでしょうね。でも、理屈ではわかっていても人間だれしも強くはありませんし、簡単には立ち上がれませんよ」
弥生「そうでしょうね。私も一人だったら立ち上がれなかったでしょう」
立ち上がれなかった? うちの大学で、英語講師にまでなったこの人が挫折してるのか?
弥生「そんなに驚いた顔しないでくださいよ。私も長く生きていますから、挫折くらい何度もしています」
八幡「すみません」
弥生「いいんですけどね。私もね、うちの大学のDクラス出身なんです」
八幡「はっ?」
俺は盛大に驚きの声をあげてしまった。
その声を聞いた弥生先生は、無邪気に俺の顔を見て笑っている。
俺の反応が予想通りだったのか、俺の顔が変だったのか、それとも他の要因かはわからないけれど、弥生先生は満足している感じであった。
弥生「ふつうは、比企谷君のような反応しますよね。私だって、私が大学で英語講師になってるなんて夢にも思っていませんでした。でもね、私の場合は、挫折しても手を差し伸べてくれた友人がいたんです。彼女はAクラスで、どの教科であっても優秀でした。今は、就職して、出世街道まっしぐらって感じですかね。勉強だけではなく、人当たりもよかったですし、彼女ならどこであってもうまくやっていけると思いますよ」
八幡「そうでしょうね」
俺もそういう奴を知ってるが、そういう奴はどこであっても根をしっかり張り、ぐいぐい成長していくはずだ。
弥生「だから私は、自分がDクラスのときそうだったように、今のDクラスの生徒たちにも、再び立ち上がって勉強を楽しんでもらいたいんです」
やはり人からの噂はあてにならない。だって、この人はDクラスの為を思って行動していた。
きっと、きつくあたっていたのは、彼らに頑張ってほしいから。
きつく当たるだけではなく、フレンドリーに接してみたり、講義内容も初歩からやったりと、長年思考錯誤を繰り返してたのかもしれない。
だけど、弥生先生だけが頑張ったとしても、人は簡単には変われない。
本人が変わりたいって望み、行動しなければ変わることなんかできやしない。
きっと、このまま手を引っ張り続けていたならば、弥生先生は重みに耐えられなくなって、いつかは弥生先生まで引っ張りこまれて倒れてしまったことだろう。
弥生「だからね、本当の事をいうと、比企谷君がDクラスの子たちを立ち直らせてくれたのを見て、悔しくもあったんですよ。だって、私が何年かけてもできなかったことを数週間で解決してしまったのですから」
八幡「俺は、彼らに動いてもらっただけですよ。動かざるをえない状態に追いやっただけです。そして、動きだしてしまえば、あとは勝手に動いてくれているだけなんですよ」
弥生「それをやるのが難しいんですけどね」
弥生先生は、頭をかきつつ、あきれ顔をみせる。
だけど、そんなこと言われても、俺が成功したのも運があったからとしかいえない。
俺も勝算があってやったわけでもない。
俺が思い付いた方法が、たまたま当てはまっただけ。
八幡「運が良かったんですよ」
弥生「そうですか? それでも、君には人を引き付ける魅力があったことだけはたしかですよ」
八幡「そうだったら、いいんですけどね」
弥生「失敗続きの私が言っても、説得力に欠けますか」
八幡「そんなことは・・・・・・・」
弥生「いいですって。・・・・・・あっ、ここですよ。私の行きつけのラーメン屋は」
目の前には見覚えがある店舗がそびえている。それもそのはず。
俺も平塚先生もよくこの店に来ているのだから。
俺は、弥生先生との会話に集中しまくってて気がつかなかったけど、歩き慣れた道ならば、違和感もなく歩けるわけだよな。
店ののれんには、総武家と書かれていた。
弥生「もしかして、比企谷君もここ知っていましたか?」
八幡「あぁ、はい。よく来ています」
弥生「そうですか。それはよかった。私もここの大ファンでしてね。でも、今度の道路拡張工事でこのビルも取り壊しになってしまい、店も閉店しなくてはならなくなり、とても残念ですね」
八幡「それを聞いたときは、急なことで驚きましたよ」
今でも覚えているあの感覚。自分は無力だって思い知らされる脱力感。
人生思い通りにならないことが多々あるけど、大切なものほど失った後にたくさん後悔する。
過去を振り返らないなんて無理だ。きっと何度も思い出してしまう。
時間がたつにつれて、記憶が薄れてはいくけれど、いつかまた何かのきっかけで鮮明に思い出し、より深く傷つく。
弥生「それにしても、この辺の再開発は大規模ですね。ここの道路だけじゃなくて、隣の道路のほうも拡張工事らしいですから」
八幡「えっ? 向こうの道路の拡張工事するんですか」
弥生「ああ、これはまだ内密にしておいてほしいんだけど、いいかな」
八幡「あ、はい」
弥生「私の同級生に議員の秘書をやってる人がいましてね。この前食事をしたときに聞いたんですよ。彼女も議員の秘書をやってるのだから、秘密にしなければいけないこともあるのでしょうに。私みたいなしがない大学講師に話しても実害はありませんけどね」
弥生先生は、苦笑いを浮かべる。きっと酒が入ってしまうと、本当に言ってはいけない事までも話してしまっているのかもしれない。
その辺は推測にすぎないけれど、もしかしたら、それだけ弥生先生が信用できる人ってことなのかもな。
八幡「その辺は、弥生先生を信じてるんじゃないですか。でも、話す方もどうかと思いますけど」
弥生「そうですよね。今度きつく言っておきます」
八幡「あの・・・・・・」
弥生「なんでしょう?」
八幡「拡張工事って、最初から両方ともする予定だったんですか?」
弥生「違いますよ。正確に言いますと、ここの道路の拡張工事は既に公示されていますので秘密でもなんでもないんですよ。ただ、向こう側の道路の方が現在交渉中といいますか、内密にことを進めているらしいです」
八幡「そうなんですか」
弥生「あっ、でも、比企谷君も秘密でお願いしますよ」
八幡「はい」
俺の返事を見届けると、食券を2枚購入して弥生先生はのれんをくぐって店内に入っていく。
俺は弥生先生の話を検証してみたい気持ちが強かったが、待たせるわけにもいかない。
はやる気持ちを抑え、俺は後に続く。
やはり裏で何か動いているのかもしれない。
公共工事ならば、雪乃の親父さんに聞けば何かわかるかもな。
でも、今は目の前のラーメンだな。
店内に充満するラーメンの臭いの誘惑には勝てる気がしなかった。
陽乃「へぇ・・・。そんなことがあったの。私は弥生先生の講義とったことなかったけど、結構よさそうな先生だったのね」
弥生先生とラーメンと食べた後、俺は急ぎ待ち合わせの場所に戻る。
時間はたっぷりあったはずなのに、時間を忘れ、話に夢中になっていた。
もちろん拡張工事の話をもっと聞きたかったが、これ以上の情報は期待できなかったと思う。
それよりも勉強論というか、大学の実情や問題点の話が興味深かった。
俺は将来先生になりたいわけでも大学に残りたいわけでもないが、弥生先生の人柄に強く関心を持ってしまった。
人の縁って不思議だよな。
些細なきっかけで、縁がないと思っていた弥生先生と巡り合ったわけだ。
そう考えて過去にさかのぼると、雪乃に会わせてくれた平塚先生には一生頭が上がらないかもな。
八幡「それで、拡張工事について、お義父さんに聞いてもらえませんか?」
陽乃「それは構わないけど、大したことは聞けないと思うわよ」
雪乃「姉さん、私からもお願いするわ」
雪乃は、紅茶をトレーに載せてソファーに戻ってくる。
リビングには、うっすらと紅茶のフルーティーな香りが囁きだす。
コーヒーのように強烈な香りってわけでもないけれど、優しい香りが心を緩める。
陽乃さんは、満足そうに紅茶を一口飲むと、いつもの頼れる姉の顔をみせる。
陽乃さんも一時はどうなるかと心配はしていたが、最近は明るさを取り戻しつつある。
やはり犯人の目星がついたことが大きいかもな。
それでも、決定打にかけるのがつらいところだけど、味方も増えた。
きっとうまくいくさ。
陽乃「善処するけど、あまり期待しないでよ。お父さんったら、仕事の事はあまり話してくれないから」
八幡「そこをなんとか頑張ってください」
陽乃「わかったわ。比企谷君には迷惑かけてるからね」
八幡「迷惑なんかじゃないですよ。陽乃さんだから手を貸しているだけです」
陽乃「そう?」
陽乃さんには意外な答えだったらしく、わずかに驚く。
しかし、雪乃を見つめると、少し残念そうな笑顔を見せ、目を伏せる。
まあ、拡張工事の裏事情を調べたところで総武家が助かるとは思えない。
だけど、急な立ち退きだ。きっと何か裏で動いているはず。
わずかな望みかもしれないけど、これも弥生先生からの縁だ。
当たってみて、損はないだろう。
7月5日 木曜日
前日、弥生先生からテストの点数具合を聞いてはいたが、あまりにも好調すぎて
俺でも驚いてしまう。
弥生先生が暗躍している俺の事を気にする気持ちもわからなくもない。
短期間でここまで改善するとは誰も思っていなかったはずだ。
俺は朝からすこぶる機嫌がよかった。
こんなに晴れ晴れとした朝はひさしぶりだと思う。
英語の勉強会もそうだが、今朝陽乃さんを迎えに行くと、昨日の解答を聞くことができた。
それによると、総武家に面している道路を計画したのは親父さんとは別グループのものらしい。
それに対抗して打ち出した計画が、親父さんが所属するグループが推し進めている隣の道路の拡張工事だったようだ。
素人の俺としては、隣接する道路を二つも拡張しても税金の無駄遣いだって思えてしまうが、実情としては総武家の方の道路は通学路、主に人の通りがメインの工事らしい。
そして、親父さんの方の道路は、トラックや車などの交通渋滞を改善する為のものらしい。
どちらも必要な工事だとは思うけど、やはりそこには利権問題が絡まっていた。
その辺は推測が含んでしまうが、所属するグループの議員の利益になるように動いていることはたしかである。
もちろん陽乃さんであっても親父さんからお金がらみの事は聞き出せはしなかったけど、あの道路には雪ノ下の企業のビルもあるらしかった。
あとでこっそり雪乃が教えてくれたけど、きっと陽乃さんも知ってたはず。
身内のちょっと汚い裏事情。それは陽乃さんであっても隠したいはずだけど、俺は親父さんが汚い大人だとは思ってはいない。
それは俺が一歩大人に近づいたことなのかもしれないけど、企業の経営者としての判断としては間違いではないと思えてしまった。
7月7日 土曜日
7月7日、七夕。今日は天候にも恵まれ、各地でイベントが行われるのだろう。
街のあちらこちらには、七夕特有の飾りがにぎやかになびいている。
毎年新しいのを買ってるのならば、無駄な遣いじゃないかって捻くれてた意見をもってしまう。また、去年のを使っているのなら、ほこりがかぶったものを頭上につるすなよと、これまた皮肉を言ってしまう。
まあ、どっちにしろ邪魔なディスプレイだって思うんだけど、七夕を感じるには見慣れ過ぎた光景が広がっていた。
駅前もひときわ盛大な七夕飾りと、笹が飾られ、否応にも今日が七夕だと実感する。
浴衣を着飾った女性たちも多くいて、駅の中へと消えていく。
街はいつもより活気づき、落ち着かない雰囲気を醸し出す。
しかし、俺達が発する落ち着かない雰囲気は意味が違う。皆堅い表情をしていた。
結衣「いよいよだね」
雰囲気に敏感な由比ヶ浜は、場を和ませようとあれこれ画策するが、全て霧散していた。
なにせ、今日の為に考えうる手は打ってきたし、協力も取り付けてきた。
陽乃さんや雪乃だけではなく、ここにはDクラスのメンツも勢ぞろいしている。
本当に他にやれることはなかったのか?
あとで後悔するのは自分なんだぞと、何度も自問してきたけれど、効果はない。
雪乃にしたって、陽乃さんであっても、万能ではない。
それは、この数日間で実感してきたことでもある。
人は失敗するからこそ、成長する。いや、ちがうか。
失敗して、そこから這い上がるからこそ成長する。
這いつくばったままの奴は、それまでだ。
だけど、一人でなんでもやろうだなんて、子供じみた考えはもはや俺にはない。
高校時代の俺が知ったら笑い転げるかもしれないけど、事実だからしょうがないじゃないか。
自分の限界を知っているはずの高校時代の俺であっても、自分の限界を知った上で行動している高校時代の俺であったとしても、みっともなく這いつくばりながらも懸命に立ち上がろうとしている奴の方が強いって今の俺なら胸を張って言える。
だって、かっこいいだろ弥生先生やDクラスの連中。
一度は泥水にまみれながらも、今は懸命に前に突き進んでいる。
まあ、俺に手を貸してくれているっていう個人的な理由も加点事由かもしれないけど、それは、まああれだ。人の印象だからしょうがない。
それに陽乃さん。なんでもできるスーパーウーマンって勝手に思ってたけど、それも間違いであった。笑いながらトラブルをぶん投げてくる迷惑な人っていう強烈な印象もこびり付いているけれど、それは陽乃さんの一つの側面でしかない。
この数日間で俺が勝手に抱いた印象もほんの少しの陽乃さんのでしかなく、きっと俺が知らない一面がまだたくさんあるのだろう。
そして、陽乃さんもやっぱり女の子であった。
俺は、役に立ちもしない男かもしれい。それでも、守ってあげたいと思ってしまう。
そういう普通すぎる女の子でもあったんだって気がついてしまった。
その普通すぎる女の子の笑顔を取り戻せるかどうかがかかった七夕祭り。
準備は整っている。あとは臨機応変にやっていくしかない。
八幡「準備はいいか」
結衣「たぶん大丈夫」
八幡「たぶんかよ」
雪乃「由比ヶ浜さんのサポートは私がするのだから問題ないわ」
結衣「ゆきのん」
由比ヶ浜は、雪乃の腕をとりじゃれつくが、最近雪乃はそれを嫌そうにはしない。
慣れかもしれないけど、雪乃も丸くなったものだな。
作戦前の緊張を和ませるゆりゆりしい光景を堪能したところで、今日の主役が登場する。
ま、由比ヶ浜は雪乃と一緒に行動する予定だから問題ないか。
むしろ雪乃が無理をしないように由比ヶ浜が見張ってると言ってもいいほどだけどな。
陽乃「みんな、今日はほんとうにありがとう。感謝しきれないほどのことをこれからしてもらうけど、いつかきっと恩は返します」
俺、雪乃、由比ヶ浜。それに、Dクラスの連中。石川君は、俺達と一緒のところを他のストーカー連中に見られるとやばいので別行動中だけど、みんな頼もしい連中だ。
八幡「そういうしんみりする言葉は、全てが終わってからにしてくださいよ」
雪乃「姉さんらしくないわ」
結衣「そうですよ。もっとこう、元気になるような檄を下さいよ」
陽乃「そう? だったら・・・・・・、私の雪乃ちゃんに害をなそうとする連中は一人残らず皆殺しよ!」
いや、まあ、雪乃も危ない立場かもしれないけど、ちょっと違わなくない?
陽乃さんの隠れシスコンが公になっただけで、みんなどんひきじゃねえか。
雪乃なんかは、他人のふりしてるぞ。
今さらだけどよ・・・・・・・。
八幡「なにかあったらすぐに連絡してくれ。危険だと思ったら逃げていい。みんなの安全が第一だけど、今日だけは、ちょっとだけ力を貸してくれると助かる。だから今日一日、俺達に力を貸してくれ」
あれ? 俺、けっこういいこと言ったよね?
でも、なにこの静けさ。
雪乃や陽乃さんに助けを求めて顔を見ると、なんだか意地悪そうな笑顔をしている。
由比ヶ浜は、失礼にも笑いをこらえようと悶えてさえもいる。
やはり慣れないことはすべきじゃねぇなあと、Dクラスの連中の顔を見回すと、各々表情は違うけれど、どうにか俺の思いは届いてはいた。
腕を組んで場の雰囲気を満喫してい者、ニヤニヤ笑いながらも頼もしい目をしている者、頷く者、手を取り合い緊張を共有している者。
人それぞれのリアクションが違うけれど、なんとも頼もしいことか。
陽乃「さ、みんな打ち合わせの配置に着く時間ね。ちょっと痛い事言う子もいたけれど、それは寛大な目で見てくれると助かるわ」
そう陽乃さんが身も蓋もないことをいうと、皆何故だか失笑を洩らす。
俺って、そんなに恥ずかしい事いったか?
陽乃「じゃあ、みんなよろしくね」
陽乃さんが作戦開始を宣言すると、皆それぞれの場所へと散っていく。
ただ、散っていく前に、俺の肩やら手を叩いていった。
それは、これから戦いにいく戦士の別れのようでもあり、なんとも頼もしく、
俺に勇気を奮い立たせる気もした・・・・・・なんて、どっかのワンフレーズを思い出す。
ちょっとはかっこつけた言葉を言ったかいもあったかなと、小説のワンシーンのような光景に思いがけず感動してしまった。
第23章 終劇
第24章に続く
429 : 黒猫 ◆7XSzFA40w. - 2014/10/30 17:37:28.25 oXMFQ7UX0 166/212
第23章 あとがき
ちょっと急展開かもしれませんが、最終局面へと入っていきます。
今思えば、もう少しつなぎの部分をしっかり書いておけばよかったなと反省しているところです。
7/7の前日あたりに、八幡、雪乃、陽乃の決戦前の不安を打ち明ける会話とか入れておけばよかったorz
来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので、また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
第24章
7月7日 土曜日
午後0時35分。約束の待ち合わせ時間まで、あと5分。
安達の性格からすると、待ち合わせ時間からわずかに遅れてくるらしい。
よくて時間ちょうどくらいで、遅れてきても悪びれもしない態度にみんないつも内心イラっとくるとのこと。
それでも、陽乃さんのことだからにこやかに出迎えるんだろうな。
裏事情を知らないって、ほんとに幸せだよ。
でも、陽乃さんがストーカーの事で相談にのってもらっているお礼として映画に誘いだしたのだから、いつもよりは若干早くは来るかもしれない。
誰もが振り向く美人に映画に誘ってもらったんだ。
うきうきしない男はいない。
前日の夜は早めに寝ようとするけど、なかなか寝付けることはできないだろう。
それでも、目覚ましより早く目が覚めてしまうあたりは、人間よくできているものだ。
約束の時間までは十分すぎる時間があっても、家にいてもそわそわしてしまって、早めに家を出てしまうかもしれない。そうしても、早く待ち合わせ場所についてしまって、今度は早すぎないか、とか考えだしてしまって、余計な悩み事さえ増えてしまう。
それが一般的なデート慣れしていない男かもしれないけど、俺は違う。
もし、初めて誘われたデートならば、相手が待ち合わせ場所に来ているかをまず確認する。
そして、周りにクラスメイトなどが潜伏していないかを用心深く観察するだろう。
なにせ、どっきりの可能性が高い。
だから、用心深く行動してもしきれないほど、用心したほうがいいに決まってるじゃないか。
一応どっきりである場合の返しの言葉もいくつか考えておき、翌日学校であっても、俺は空気になって、静かに過ごすことになるだけだ。
被害は最小限に。
でも、せっかく女の子から誘われたんだから、罠であっても行きたいってものなんだよ。
さて、現場の陽乃さんはというと、手首を返し、腕時計で時間を確認していた。
俺もつられて時間を確認すると、0時41分。
秒針がもうする頂上に戻ってきそうだからほぼ42分か。
安達はデートだというのに、いつもと同じペースで、しかも遅刻して登場かよ。
それとも、俺と同じように警戒しているのか?
と、少し不安になってきたところで安達が登場。
不安にさせるなって。せっかくデートなんだから、早く来いよと悪態をついたのは俺だけじゃないはずよ。
とくに、あとで女性陣からの意見を聞いてみたいかも。
そう考えると、女子会トークなんかで、自分のデートを採点なんかされた日には当分寝込みそうだな・・・・・・。雪乃は、由比ヶ浜であっても話すとは思えないけどちょっと怖いかも。あっ・・・・・、今度雪乃にデートの不満点とか、日常の不満点とか聞いておこうかな・・・・・・・・。
安達「お待たせぇ。今日は七夕だし、人が多くて、まいっちゃうよな」
陽乃「そうね。七夕祭りとかあるし、しょうがないんじゃないかな」
安達「浴衣女子がわんさかいちゃって、目がいっちゃってさ。俺もおっさんになってきちゃったかもって思うと切ないわ」
陽乃「そう・・・・・」
わぁ・・・・、めっちゃ陽乃さんひいてないか。
確かに七夕だし、浴衣来てる女性多いけど、これからデートの相手の事も考えろよって、男の俺でも思ってしまう。
たしかに映画だし、陽乃さんも浴衣は着てこないだろうけど、他の女の事を誉めるのはやばいだろうに。
ただ、それさえも気にしないのが安達クオリティー。我が道を行くつわものだった。
陽乃「はい、映画のチケット。今日はお礼だし、私のおごりだから」
安達「あ、サンキュ~」
安達はチケットを受け取ると、一人映画館の中に入っていく。
陽乃さんも、俺に目配せを送ると、その後を追いかけるように中に入っていった。
中では既にDクラスのうち4人が二手に分かれて待機中のはず。
後ろの両隅を抑えてると連絡があったから、これで監視は万全。
あとで遊撃部隊として、俺が中に入っていけばいい。
外のことは雪乃達に任せておけば十分。
ま、中の仕事なんて、とりあえず監視するだけだし、楽なもんだよな。
陽乃さんたちの少し後ろに座らないといけないんで陽乃さんがチケットを買った後に自分のチケットを買ったがリバイバル上映らしいんで、席もたいして埋まってはいない。
なんか南極基地に行かされた料理人がひたすら料理しまくる映画らしい。
そんなの見て面白いのか?
デートだし、もっとこう恋愛ものとか選ぶかと思ってたけど、まじで陽乃さんの趣味で選んだのかもな。
なにせ料理が趣味だって言ってたし、あとで聞いてみっかな。
そうだな、陽乃さんらしいイメージの映画って何だ?
マフィアの抗争とか似合うか? それとも本格的な社会派映画?
うぅ~ん、いまいち思い付かないものだな。
そう考えると、料理の映画って似合ってるのかもしれないか。
安達に顔を見られないように、いそいそと後ろの席に着くと、安達は俺の事など気にする余裕などなかった。
陽乃さんばかり見ていた。
陽乃「映画館で携帯がならないようにするのがマナーだけど、マナーモードにするだけというのもマナー違反だと思わない?」
安達「なんで?」
陽乃「だって、時間やメール確認したりすれば、必然的に画面が光るじゃない。ほんの小さな光であっても、暗い映画館の中で突然光を発するだなんて迷惑だわ」
安達「あぁ・・・・そうかもね。さっそく携帯の電源切っとこうかな」
陽乃「そうね」
陽乃さんはにっこり笑顔で頷いているけど、実は本心なんじゃないか。
しかし、きっと安達は上映中だろうと携帯いじるタイプだろうな。
携帯持ってると腕時計なくても時間わかるから、腕時計持つ人は少なくなってるらしい。
「高級腕時計」イコール「ステイタス」みたいなのは残っているけど、一般人が使うような普通の腕時計の必要性は減少している。
それはそれで時代に即したスタイルだと思う。
だけど、そのおかげで、今まであり得なかったマナー違反も出来上がってしまったことも事実であり、マナー意識の改善が追い付いていないよな。
陽乃「せっかくだから、今日は携帯なしで楽しもうっかな」
安達「え? それいいかもね。縛られない感じが、フリーダムで面白いかも」
陽乃「でしょう。携帯持ってると、便利だけど、縛られた感じがすることもあるからちょっと面倒に感じてしまうことがあるわよね」
安達「いいね、いいね。じゃあ、今日は携帯フリーデイでいこう」
陽乃「そうね」
と、頬笑みながら返事をする。でも、俺は知っている。
顔が引きつっていると。あの不自然なまでも自然な笑みを作り出せる陽乃さんに頬笑みを失敗させるって、ある意味安達ってすごいやつだよな。
俺が話相手しろって言われたら、5分も経たないうちに逃げ出す自信がある。
雪乃だったら、相手に話す暇を与える間もなく言葉で叩き潰すだろうな。
ま、安達タイプの相手をできるのは、陽乃さんか由比ヶ浜ぐらいか。
そうこう無駄話を聞き流しているうちに上映時間になる。
最後にもう一度メールを確認するが問題はないと思われる。
最後尾列のDクラスの仲間を確認すると、皆辺りを警戒しつつも、映画を楽しむようだ。
さてと・・・・2時間半。映画でも楽しみますか。
多少は防音処理がなされているといっても、隣の部屋からの歌声は漏れてくる。
陽気なメロディーに、ちょっと音程が不安定ながらも、曲のコミカルな陽気でおしきって歌い続ける。それがちょっと調子っぱずれていても曲のイメージは壊していない。
終盤にいくにつれ、マイクの主は勢いに任せて声を張り上げていく。
一緒に楽しいんでいる同室の連中ならば楽しいだろうけど、隣の部屋の連中にとっては、はた迷惑極まりなかった。
それも本来ならば、自分たちも歌を歌いさえすれば、他の部屋からの歌声も気にはならないだろう。
でも、ここに集まった3人は、誰一人してマイクを掴もうとはしない。
皆、PCモニターと時計の針に注目していた。
ここはカラオケボックスなのだから、歌うのが普通だが、雪乃・由比ヶ浜・石川の3人は、作戦本部として利用していた。
映画館が見渡せる喫茶店のほうが都合がよさそうだが、石川と雪乃が一緒のところをみられるのはまずい。SFC会員に陽乃のスケジュールがばれていないといってもいつどこで遭遇するかわからない。
だから、人目を忍べる場所としてはカラオケボックスは最適であった。
結衣「そろそろ時間だね」
石川「はじめていいですか?」
雪乃「ええ、お願いするわ」
石川は、雪乃のゴーサインに頷くと、あらかじめ作っていた文章をSFCサイトにアップする。いつもの日曜日なら賑わっているはずのSFCサイト。
でも、今日はぱったりと情報更新は止まっている。
それもそのはず。情報提供者である安達が、陽乃とのデートを邪魔されない為に陽乃のスケジュールをアップしていないからである。
だから、ときおり街を巡回でもしているやつの「陽乃情報求む」「陽乃行方不明」などの書き込みはあるが、陽乃さんの足取りはつかめてはいない。
すると、石川がコメントをアップしてから1分も経たないうちに返答がくる。
いつもと違う日曜日。情報に飢えているメンバーも多いはずだ。
計算通りなんだが、これほどまで注目されているSFCサイトだと思うと、背筋が凍りもしたが・・・・・・。
石川があげた情報は、いたってシンプルだ。
「SFC会員の抜け駆け報告! メンバーの一人が陽乃さんと千葉駅の映画館に入っていくところを確認。至急制裁決議を問う」
ちょっと大げさかもしれないけれど、餌としての効果はあるはずだ。
現にさっそくおひとり様ご来店。
「本当なら死刑。今すぐ映画館に向かうべし」
さすが最初の来訪者。根っからのストーカーかもな。
結衣「なんか怖いね」
雪乃「大丈夫よ。私がついているし、八幡もいるわ」
結衣「うん」
石川「ごめんなさい」
結衣「あぁうん。いいよ、大丈夫。今は改心したって陽乃さんが言ってたから石川君の事は信じているよ」
石川君も元ストーカー。ストーキングしていた相手ではないにしろ、生の女の子の感想は身にしみるだろう。
しかも、今回はストーカー壊滅作戦をしているから、なおさらストーカーへの批判は根強い。Dクラスの女子生徒の友人にも被害者がいたわけで、その話を横で聞いていた石川君の表情は青ざめていた。
俺や雪乃、由比ヶ浜、そして陽乃さんしか石川君が元ストーカーだとは知らされはしていなかったけれど、石川君は居づらそうであった。
こっそりと由比ヶ浜が声をかけてフォローしてはいたが、これも罰だとまっすぐと受け止めていたとか。
停滞していたSFCサイトは、石川君の発言が波紋を広げ、盛り上がりをみせていく。
過激な発言も多いが、事が事だけに慎重論も根強い。
たしかに今まではSFCの理念の通りに「そっと見続けて」いたわけだ。
それを破棄して目の前に出るとなると躊躇してしまうだろう。
でも、過激に踊る発言は、普段は慎重な性格であってもつられて踊り始める。
一度感情が流されてしまえば、理性はけし飛び、過剰に反応せざるを得ない。
一人、また一人と過激派が生まれるたびに、加速的にSFCメンバーは過激派へと変貌していった。
たった一つの波紋。激動を引き寄せるには十分すぎる一石であった。
スケジュールを隠しているだけあって、SFCメンバーは映画館の中にはいないようだ。
一応俺もDクラスの仲間も警戒はしているが、時間がたつにつれて映画に夢中になっていた。
いやな、まじで面白い。最初は、南極で料理するだけで、あとは食事のシーンくらいしかないんだろうとたかをくくっていたが、今や俺達全員が画面に引き付けられている。
陽乃さんは見たことある映画だそうだが、それでも時折笑いをこぼしながらも映画に集中していた。
ま、安達だけは、映画始まってしばらくは陽乃さんを横目で観察していたけど、それも飽きたのか、30分も経たないうちに眠りこけていた。
そのほうが都合がいいから起こさないけどな。
映画も終盤に入り、残り30分ほどで終わるはずだ。
俺は、予定通り一度トイレに行くふりをして、外に出る。
率直な話、まじで映画見いっていた。本当は外に出たくなかったけど、これも仕事だ。
今度DVD借りようかな。最初の方は全然集中できていなかったし・・・・・・・。
今は、作戦に集中しないとな、と雑念を追いやり、携帯を取り出す。
辺りを見渡しで人がいないことを確認すると、雪乃に電話をかけた。
雪乃「そちらは異常ないかしら?」
八幡「あぁ、大丈夫だよ。安達は寝こけてるし、SFCメンバーもいないようだ。そっちの方はうまくいってるか?」
雪乃「うまくいってるわ。映画館になだれ込もうとするのを抑えるのが難しかったけれど、そこはどうにか予定の場所の方に誘導したわ」
八幡「よく誘導できたな」
雪乃「そうね。今思うと理屈じゃないってよくわかるわ。戦争のときなんてよく引き合いに出されるけれど、異常な興奮状態であると妄想が現実になってしまうみたいだわ。予定の場所で安達さんが告白なんてする確定要素などあるわけないのに、それでも興奮している集団には理屈など必要ないようね」
八幡「そうか、うまくいってくれてよかったよ」
雪乃「でも、ちょっと怖いわね。私も姉さんもうまくいくと思ってはいたのだけれど、こんなにも盲目的に人は行動できるだなんて、わかってはいても実際に体験すると怖いものね」
八幡「悪かったな。嫌な役押し付けてしまって」
雪乃「いいの。私は八幡の役に立てれば、それで」
八幡「それはありがたい発言だけど、でも、それって、雪乃がいう盲目的に信じるってやつじゃないか?」
雪乃「そうかもしれないわね。ふふ・・・・、可憐な美女を虜にできてうれしい?」
みんな緊張して作戦に励んでいるというのに、どこか場違いな明るい笑い声が携帯のスピーカーから聞こえてくる。
からかい成分が混じっている分、受け入れられることができる内容だと思う。
ただ、ほんのわずかだけ本気の部分があるのは、雪乃の偽らざる本心だろう。
人を愛せば盲目的になってしまう部分もある。
はたから見れば、滑稽であると思う。俺も高校時代はそう思っていた。
結婚なんて打算だし、恋人も一時の気も迷い。
ふとしたきっかけで現実を直視し、破局に繋がる。
でも、実際破局しないのは、今ある生活を守る為の打算的な妥協。
そんな冷めきった目をしていたけど、今なら盲目的もいいじゃないかって感じている。
だって、永遠の愛なんてありえはしないだろうけど、いつかは嫌いな部分もみつけて、毛嫌いするかもしれないけれど、一生側にいたいっていう気持ちだけは本物だって信じたいじゃないか。
八幡「すっげえ、うれしいよ」
だから、俺は本心をマイクに向かってつぶやく。
雪乃「そう・・・?」
雪乃は、不意打ちを喰らい、ちょっとうわずった声を洩らす。
可愛らしい戸惑いに、俺の嗜虐心は満足を覚える。
虜にしたのはどっちだよと言ってやりたい。
俺を変えたのは雪乃であって、孤独な檻から引っ張り出してくれたのも雪乃なんだ。
だから、すでに俺は雪乃の虜なんだけどな。
言っても信じやしないから、これから少しずつ教えてあげればいと思うと俺の嗜虐心は再び頬笑みだしていた。
トイレに行って用を足し、席に戻ると映画はラストシーンが終わるらしい。
もうちょっと早く戻ってきて、ラストシーンくらいは見たかったと本気で後悔しかける。
まじでDVDを借りようと心に誓うと、映画も終わり、席を立つ者も出始める。
陽乃さんは、エンディングが終わるまで座っていると言ってたから、まだ動く必要はないはず。
トイレから戻ってくるときに、問題なしとサインは送っていたから大丈夫だとは思うが、これからが本番なので自然と肩に力が入っていった。
陽乃さん達が席を立つと、俺も少し離れて後を追う。
Dクラスの仲間の一方は陽乃さん達より先に席を立って、出口を確認している。
俺は、なるべく安達からは死角になる位置を取り、二人を追った。
用心して、キャップと伊達メガネをして変装もどきもしてあるから大丈夫なはず。
それでも、安達が気がつくわけないと分かっていても緊張はしてしまう。
一応もう二人のDクラスの仲間は、最後まで映画館に残ってもらい、全員が退室した後に出てもらう予定だ。
ここまで用心深くする必要があるのか疑問に思ったが、陽乃さんと雪乃がいうのだから必要なのだろう。
真っ直ぐ出口に向かうもの、一度トイレに向かうものの、おおむね二つの流れが出来上がる。
パンフとかは開演前に買っているから少数派だろう。
もし安達がパンフやトイレに行くとなると、不自然にならないように映画館に残らなければならなくなり面倒だ。
しかし、どうも出口に向かうようであった。
これで一安心と思いきや、出口を見やると、見覚えがあるお団子頭が・・・・・・・。
お前、たしかカラオケボックスに詰めていたはずだよな。
たしかにこれから予定の場所に集合だけどさ、安達も由比ヶ浜の事も知ってるだろうから、危ないだろって・・・・・・、雪乃もるのかよ!
遅いかもしれないけど、メールを送るか。
着信のバイブで反応して気がついてくれるかもしれないし、と淡い期待を抱き携帯を覗くと、湯川さんからメールが届く。たしか、映画館前で待機していたはず。
湯川(安達の弟が来ています。このまま安達と弟を会わせると危険ですから、雪乃さんと由比ヶ浜さんが注意をひきつけます)
まじかよ。安達弟がSFCメンバーかは不明だ。
でも、予定の場所に行かないとなると大問題になってしまう。
ここは雪乃達に任せるしかない。雪乃って人見知りだし、大丈夫なのか?
由比ヶ浜がいればフォローしてくれるか。
あれ? あいつら安達弟と面識あるのか?
面識ないとしたら、どうやって話しかけるんだよ。
映画がそろそろ終わるころ、緊急連絡が由比ヶ浜に届く。
電話の相手は、工学部の湯川さんであった。
湯川(緊急事態です。安達の弟が映画館の前に来ています。おそらく安達を待ってるんじゃないでしょうか?)
結衣(安達って、弟いたんだ。うぅ~ん、でも、どうなんだろ。ふつうに映画館に来ているだけってこともないかな?)
湯川(それは、わかりません。でも、偶然にしては出来過ぎていると思いませんか)
結衣(そうかなぁ・・・・。ちょっと待ってね。ゆきのんに聞いてみるから)
雪乃は、由比ヶ浜が電話で話している内容からだいたいの事情は把握していた。
そして、由比ヶ浜から説明を受けると、断片的な把握は正しかったと結論づける。
すると、あらかじめ用意してた解決策を実行に移した。
雪乃「由比ヶ浜さん。緊急メールをお願い。安達弟と面識がある人がいるかどうか聞いてくれない」
結衣「うん、わかった」
由比ヶ浜は素早くメールを作成すると一斉送信する。
すると続々と返事がくる。八幡をはじめとする映画館組の返送はなかったが、あいにく安達弟と面識がある人はいなかった。
サークルにでも所属していたら面識くらいあったかもしれないが、大学1年生と2年生。面識があるほうが奇跡かもしれなかった。
雪乃は予想通りの返事を確認すると、次の行動に移る。
雪乃「今すぐ私たちが直接確認に行くわ。そうみんなに伝えてくれるかしら」
結衣「うん、わかった」
由比ヶ浜がみんなににメールを出すのを確認すると、次は隣に待機いしていた石川にも指示を出す。
雪乃「私と由比ヶ浜さんは、このまま映画館に向かうわ。石川君は、時間になったら、公園の側で待機してください」
石川「わかりました」
雪乃の行動は早い。メール待ちをしている間に自分の荷物もまとめていた。
雪乃は、カラオケボックス代を全額テーブルの上に置くと、由比ヶ浜を引き連れ、映画館に向かう。
足取りは速く、テンポがよい足音が鳴り響く。もうすぐ映画が終わってしまう。
その前に安達弟を捕獲しないといけない。
カツカツと響く足音は、いつしか力強く跳ねるような音へと変わっていった。
第24章 終劇
第25章に続く
第24章 あとがき
本編に出てくる映画は、『南極料理人』です。
堺雅人主演の映画で、好きな映画の一つでもあります。
とりあえず、陽乃との料理繋がりという事で。
とくに考えることもなく、頭をからっぽにして、ぼぉっと観るにはちょうどいい映画です。
来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので、また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
第25章
7月7日 土曜日
雪乃達が映画館に着くと、湯川さん達と合流して映画館の入り口を見張る。
映画館からわずかに離れた陰に身をひそめた。
湯川「あの派手なシャツを着ている人が安達弟です」
雪乃「あの蛍光色みたいな?」
湯川「はい、それです」
雪乃「人の趣味をどうこういうのはどうかと思うのだけれど、ああいった服を着て、恥ずかしくないのかしら?」
湯川「さあ・・・・・」
湯川は曖昧な返事を返すしかなかった。仮にも安達は2年生で先輩にあたる。
その辺の礼儀はいくら作戦対象であってもわきまえていた。
結衣「湯川さんの友達が安達弟と同じサークルなんだよね」
湯川「はい、そうです。何度か友達が話しているところを見たことがあるのでたしかです」
結衣「そっかぁ・・・。その友達を今すぐ呼ぶことってできない?」
湯川「呼ぶことはできますけど、もう映画終わってしまいますよ」
結衣「そだね・・・・・・」
映画が終わる。安達弟が作戦の破滅を引き寄せる情報を安達に渡す可能性は未知数。
焦る気持ちが現場にたちこめる。
知り合いでもない相手に突然話しかけるのは危ない。
ここはいっそのこと、逆ナン?でもしてみようかと、小さな勇気を振り絞ろうとしたが、そもそも経験がないので却下。
いや、雪乃の自尊心が許しはしなかった。
フェイクとはいえ、八幡以外の相手に好意を持つ「ふり」であっても耐えがたい。
そうこうあてもない打開策を模索していても、時間が過ぎていくだけであった。
結衣「ねえ、ゆきのん」
雪乃「なにかしら」
とくに作戦が思い付くわけでもないのに、思考を中断されて棘がある返事をしてしまう。
それでも由比ヶ浜は気にする様子はない。
それよりも安達弟を凝視していた。
結衣「あの人ってさ、工学部の2年だよね」
雪乃「そうだったわよね、湯川さん」
湯川「はい、工学部の2年です。だから雪ノ下さんと同じ学部ですね」
結衣「そうだよ。前にゆきのんに話しかけてきたグループにいたじゃん」
雪乃「そうなの?」
見覚えがない。声をかけてくる男は学年、学部を問わずに現れる。
それをいちいち全部覚えているはずもなく。
結衣「そうだよ。何度か声をかけてきたグループだったから覚えていたんだ。だって、ゆきのん、すっごく迷惑そうだったから。あのさ、ゆきのん。・・・・・その時助けてあげなくてごめんね」
由比ヶ浜は申し訳なさそうにつぶやく。そして、雪乃の反応を探ろうと伏し目がちながら、しっかりと雪乃の出方を待った。
雪乃「由比ヶ浜さんにお礼を言うことがあっても、批難することはないわ。いつもの事だし、もし言うとしたら、自分で言うべきよ」
雪乃の柔らかい笑みをみて、由比ヶ浜の緊張もとけていく。
結衣「ううん、でもぉ・・・・・・」
雪乃「それで由比ヶ浜さんが嫌な目にあったり、批難を受けてしまう方が私にとっては悲しいわ。もし、今度同じようなことがあるのだったら由比ヶ浜さんに相談するわ」
結衣「うん、相談してくれたら、私頑張るね」
由比ヶ浜は、大きく頷くと、雪乃の腕に絡みつく。
これが平常時であったのならば、雪乃も由比ヶ浜が満足するまでじゃれつかせていただろう。
いかんせ今は時間がない。既に映画は終わり、観客が外に出始めていた。
雪乃「由比ヶ浜さん。悪いのだけれど、今は時間が惜しいわ。由比ヶ浜さんの記憶が正しいのならば、私と安達弟には面識があるということね」
結衣「そうだよ」
雪乃「そう・・・・・」
雪乃は由比ヶ浜をやんわりと引き離すと、顎に手をあて思案する。
その間、数秒。即断した雪乃は、由比ヶ浜の手を引いて、歩きだしていた。
雪乃「湯川さん。ここはまかせるわ」
湯川「はい」
雪乃「由比ヶ浜さん。私は安達弟の事は覚えていないし、うまく話をする自信もないの」
由比ヶ浜は、手を引かれるまま、雪乃の言葉を待つ。
雪乃「私は、誰にであっても物怖じしないで話ができる由比ヶ浜さんを尊敬しているわ。だから、期待してもいいかしら。彼と面識がある私が話をするきかっけを作るわ。でも、その後の話は出来そうもないから、由比ヶ浜さんに任せても」
結衣「任せておいて」
由比ヶ浜は、歩く速度を上げ、雪乃の隣に並び立つ。
大学では、いつも雪乃に勉強の世話になってしまっている。
雪乃も自分の勉強に忙しいのに、嫌な顔を見せたことがない。
だから、雪乃が素直に頼ってくれることは、なによりも嬉しく思える。
由比ヶ浜は、雪乃が損得で由比ヶ浜の友達をしていないってわかっていても、頼られたことが心地よく感じられた。
雪乃は安達弟の前に躍り出ると、由比ヶ浜と二人で映画館から出てくる客からは安達弟が見えないポジションを選びとる。
安達弟の方が背が高く、安達兄に気がつかれてしまう恐れもあるが。
まずは安達弟の動きを抑えなければ作戦が崩れ去ってしまう。
雪乃「安達君・・・ですよね?」
安達弟「あっ、雪ノ下さん」
雪乃「安達君も映画ですか?」
安達「えっと・・・、そんなところかな」
安達は予期せぬ来訪者にうろたえていた。それも、普段声をかけても邪険に扱われていた相手ともなると、緊張と警戒の色が混じり合っている。
雪乃「私は、友達と遊びに来ていて」
安達弟「へぇ・・・」
安達弟は、由比ヶ浜の顔を確認すると、大きな胸へと視線を落とす。
そりゃあ、目がいくよな。大きいし、雪乃のとは違って、インパクトでかいしさ。
雪乃達が安達弟にくいついたのを確認した湯川さんは、雪乃から指示されていた作戦を決行する。
これはタイミングが重要だ。なにせ、湯川さん達と映画館での見張り役が、偶然映画館の出入り口で友人が出くわし、そして、邪魔にならないように雪乃達のほうへと移動するというタイミング命の壁作戦。
日曜で人も多いし、多少は位置がずれても修正できるが、大きく位置がずれると不審に思われてしまう。
雪乃「それで・・・・・、普段私、大学では一人でいることが多いでしょ。それでも、私に声をかけてくれる人はいるのに、何を話せばいいのかわからなくて、冷たい態度を取ってしまうことが多いの」
安達弟「そうなんだ」
雪乃「だからその・・・・、友達に言われてしまったの。もう少し話をするのを頑張ってみたほうがいいって。それで、この前声をかけてくれた安達君がいたから、迷惑かもしれないのだけれど、声をかけてみたの」
雪乃は、言葉を選び、しどろもどろに声を絞り出す。
実際緊張しまくっているんだろう。全く知らない相手に好意的な雰囲気を出しながら話をしなければならないんだから。
これが相手を非難して、叩きのめすのなら得意中の得意だろうけど・・・・・・。
雪乃は、ここまでのセリフは考えていたみたいだ。
しかし、これ以上は無理そうだ。雪乃は由比ヶ浜の顔を不安そうに何度も見て、援護を待っている。
この不安そうな雪乃の顔さえも、効果的な演出になり、安達弟は不審がってはいなかった。
と、このタイミングでDクラスの連中がうまく合流する。
雪乃達の背後から湯川さん達の明るい声が聞こえてくる。
そして、湯川さん達が雪乃達の方へと位置をずらすと、由比ヶ浜はそのタイミングで一歩安達弟の前に詰め寄った。
結衣「ごめんねぇ。私がゆきのんたきつけちゃったんだ。私達、高校では一緒の部活だったけど、大学では別々の学部でなかなか会えなくて。それで、ゆきのんに友達できたかなぁって心配してたら、やっぱ簡単にはね・・・」
安達弟「そうなんだ」
結衣「うん、それでね。安達君を見かけて、安達達がゆきのんに話しかけたことがあるってきいたんで、これだぁって思って、声かけちゃったんだ。ごめんね、びっくりしたよね」
安達弟「いや、大丈夫だよ。びっくりはしたけど、・・・・そっか。そうなんだ」
安達弟はうまく雪乃たちが食い止めたようだ。これなら大丈夫なはず。
そして、安達兄が出口をくぐる時がやってくる。
安達兄からは見えないとわかっていても緊張してしまう。
雪乃も、後ろに回した手でスカートの裾をいじり、落ち着かない様子であった。
ましてや、湯川さん達はみるからにして緊張している。
幸い、安達兄を目で追ったりはしてないので、問題はないはずだ。
安達兄と陽乃さんが出口を出たところで二人は立ち止まる。
左右どちらの道へ行こうか迷って止まったのだろうか。
雪乃達のほうを見られるとまずい。
公園とは逆方向であるのもあるが、安達弟に気がつく可能性もある。
この瞬間、息が詰まったのは俺だけではないはずだ。
もはや俺達に打つ手はない。あとは運しか・・・・・・。
そう願った瞬間、陽乃さんが安達兄の腕をひき、公園の方へと歩み出す。
陽乃さんは、メールを見ていないし、陽乃さんからだって安達弟を見ることはできないはず。
雪乃を見て反応したのだろうか? それとも、公園に行く予定であったわけだし、その一環の行動だろうか?
陽乃さんに聞かなければ答えはでやしないが、とりあえず助かったことは確かだ。
これで目の前の問題は解決された。あとは雪乃を安達弟から撤退させないとな。
俺は携帯を手に取り、雪乃のアドレスを呼び出す。
いやまてよ。由比ヶ浜の方がこういう人間関係の時は機転がきくか。
俺は改めて由比ヶ浜のアドレスを呼び出しと、メールを作成し出した。
そして、送信ボタンを押すとき、少しばかり目線を上げると、由比ヶ浜はすでに携帯を確認している。
あれ? 俺はまだ送信ボタン押してないぞ。
そして、俺が携帯と由比ヶ浜の二つを行ったり来たり見つめていると、雪乃達は安達弟と別れ、公園へと向かっていく。
唖然とその光景を見ていると、安達弟が映画館の中をのぞきだす。
このまま居ても危ないし、早く公園に行かないとな。
俺は、俯き加減で素早く映画館を後にする。
しばらく歩いてから振り返ると、安達はまだ映画館の中をのぞいていた。
安達弟がSFCに関係しているかはわからない。
仮にSFCメンバーだとしたら、早く公園でSFCメンバー達と安達兄を会わせないと時間が足りなくなる。
もう少しなら時間を稼げるかなとふんだ俺は、早足で最終地点の公園へと急ぐ。
そういえば、雪乃の事だ。逃げ出す準備もしているよな。
なにも策もなしでつっこむわけないか。
となると、俺の心配なんて無駄だったわけで、俺が今さら到達した問題などとうにわかりきってて対応策を考えているか。
やっぱり、陽乃さんにしろ、雪乃にしろ、かなわない。
ならば、俺が公園に着いたころにはクライマックスかな・・・・・・。
今度こそラストシーンを見逃すわけにはいかなかった。
俺が公園に着くと、すでににらみ合いが始まっている。
SFCメンバーの数は、なんと予想以上の人数がいて驚いた。
なにせ安達兄と石川を抜きにしても、14人。
芸能人の追っかけじゃないんだから、大すぎやしないか。
これもネットの力というか、安達がよくも集めたと誉めるべきかわからない。
それでも、今はその多すぎる数が作戦をうまく誘導していた。
SFC「会長! 抜け駆けは禁止のはずですよね。なんで、陽乃と一緒なんですか」
SFC「抜け駆けして陽乃さんとデートだなんて、ずるすぎます!」
SFC「よくも俺達を利用してくれたな」
とうとう、口々に安達兄を非難する。
安達兄は慌てふためき、明らかに動揺している。
安達兄「お前たちだって、面白がってやってたじゃないか。お互い利用し合ってたんだから、お互い様だ。俺がデートできたのも、俺の努力が実ったにすぎない」
売り言葉に買い言葉。SFCメンバーの安い挑発にのった安達兄は、自分の正当性を陽乃さんがいるのに叫び、SFCメンバーを糾弾する。
SFC「なに言ってんだよ。お前の努力なんて大したことないだろ。いつも陽乃のスケジュールをリークするだけで、あとの面倒事は俺達に押しつけやがって」
安達兄「頭脳労働と肉体動労の間には、大きな壁があるんだよ。俺は頭脳派だから、肉体動労はお前達の仕事だ」
その後も、陽乃さんを忘れて怒号が飛び交う。
大騒ぎではないが、道を行き交う人々は、関わらないようにと公園を側に来ると足を速めている。俺も、無関係だったらそうしてたはず。
だって、面倒だし、逆恨みほど怖いものはない。
陽乃「そろそろいいかしら」
陽乃さんの凛とした声が怒号を収める。それはけっして大きな声ではなかった。
むしろ、怒号の前ではかき消されるほどの普通すぎる声量。
それなのに、誰しも注目してしまうのは、陽乃さんのカリスマ性なのだろうか。
みんな声の主のほうへと顔を向ける。
興奮していた安達兄さえも振り返り、陽乃さんを見つめている。
そこには無表情までの笑顔が待ちうけていた。
その笑顔はいつもの笑顔にすぎない。
けれど、いつもの笑顔ということは感情を押し殺した笑顔と同じだ。
けっして誰にも本心を見せない為の仮面。
陽乃「ねえ、安達君。なんで私をつけ回しているストーカーの顔を知ってるのかしら?」
顔は笑顔のはずなのに、声は凍えるほど冷たい。
安達兄「なんで知ってるかだって・・・・・」
安達兄は、SFCメンバーを見渡す。手を握っては閉じ、握っては閉じと落ち着かない。
非常に焦って出した言葉は、意外にも冷静であった。
安達兄「それは・・・、雪ノ下と一緒に解決したストーカーでしょ。だから、知ってるに決まってるだろ」
陽乃「そう・・・・・」
安達兄は、わずかに熱を帯びた陽乃さんの声に安堵する。
けれど、手の動きは激しさを増すばかりであった。
陽乃「でも、私が知らない顔もあるんだけど?」
安達兄「それは・・・・・・」
陽乃「それに、さっき自分で自分がSFCの会長だって言ってたじゃない」
安達兄「俺は会長だなんて言ってない。言ったのはあいつらだ」
陽乃「そう? でも、SFCって、メンバー同士、お互いの顔を知らないんでしょ。それでも、安達君は、彼らを見てすぐにSFCメンバーだって気が付いた。それは、あなたが会長で、彼らを集めたから知ってるんじゃなくて?」
安達兄の手の動きが止まる。今や力強く手を握りしめていた。
陽乃「それにね、あなたがさっき散々自分がSFCで活動してた内容言ってたじゃない」
安達兄「あっ・・・・・・」
陽乃さんも人が悪すぎる。自分は全てわかっているのに、それなのに相手を泳がして、その後にとどめをさすなんて容赦ないよな。
安達は、陽乃さんの言葉に体から力が抜け落ち、手のひらもだらんと垂れさがっていた。
安達兄「俺だって、告白して振られはしたけど、友達でもいいやって思ってたんだよ。でも、弟がSFCなんてものを作ったりするから、いけないとわかっていても淡い夢を見ちまったんだ」
陽乃「え?」
陽乃さんの笑顔から消え去り、驚きを見せる。
俺もそうだし、雪乃やDクラスの連中もそうだろう。
だって、SFC会長は安達兄だと思って行動していた。
陽乃「安達君が会長じゃないの?」
安達兄「だから、俺が会長だなんて言ってないだろ。言ってたのはあいつらであって、俺は否定したじゃん」
陽乃「そうかもしれないけど・・・どういうこと?」
安達兄「だからぁ、弟が雪ノ下の妹の方には恋人がいるけど、姉の方にはいないとわかると俺が同級生だからって、どういう人か教えてくれってしつこかったんだよ。それで、ストーカーを退治した話もして、その時の名簿もちらっと見せたのがいけなかったんだ。あいつったら、俺の目を盗んで勝手に名簿持ち出して、挙句の果てにはストーカーを集めてSFCなんてものを作っちまった」
陽乃「あなたの弟が私と雪乃ちゃんに好意を持ってたってこと?」
安達兄「どうだろうな。好意は持ってたと思うけど、なんか変なこだわりみたいのをもってたんじゃないか」
陽乃「そっか。あれ? 安達君って私に告白したって本当?」
安達は陽乃の言葉に完全に体から力が抜け、その場に座り込む。
こればっかりは陽乃さんを擁護できない。告白した事さえ忘れるのはひどすぎやしないか。
俺も若干じとめで陽乃さんを見つめてしまう。
安達兄「したよ。したけど結構前だから、忘れたちゃったのかもな。雪ノ下はもてるし」
陽乃「ううん、完全に覚えてない」
安達兄「大学3年の夏、定期試験の打ち上げでカラオケ行っただろ。酒覚えたばっかで、飲めない酒飲みまくって、酔いつぶれが続出したやつ。それも覚えてない?」
陽乃「それなら覚えてるかな」
安達兄「みんな酔いつぶれて、俺と雪ノ下が会計に行ったよな」
陽乃「たしか、そうだったような」
安達兄「そのとき、告白したんだよ」
陽乃「うぅ~ん・・・・・・」
陽乃さんは腕を組み考えだす。安達兄の顔をまじまじを凝視するもんだから、
安達兄も照れて顔をそらすしまつ。
陽乃「あっ、うん。あったね」
安達兄「だろ」
陽乃「でも、あれって冗談じゃなかったの?」
安達兄「そんなわけあるかよ」
陽乃「でもね、あまりにも軽い感じのノリの告白で真剣身がなかったじゃない。しかも、普段から軽いノリだし、友達としてなら楽しいけど、恋人はNGかな」
無念。思いもしないタイミングで2度振られるとは同情してしまう。
それも、日ごろの行いだよな。
うなだれる安達を横目に、陽乃さんはSFCメンバーを見つめる。
元々ネット弁慶の連中だけあって、対人スキルは低い。
目の前にいる陽乃さんに委縮して、動けないでいた。
しかし、・・・・・・。
安達弟「兄ちゃん、なんでまんまと罠にひっかかっちゃうんだよ。せっかく俺が作り上げたSFCがぱあじゃないか」
一足遅れてやってきた安達弟が、怒りを兄に向ける。
兄の方はもう観念したのか、表情がうつろだ。
安達兄「もういいだろ。終わりだよ」
安達弟「くそっ!」
陽乃「兄弟喧嘩はもういいかしら?」
怒りにまかせてやってきた弟は、状況を判断できてはいなかった。
陽乃さんに、SFCメンバー。多勢が弟を囲んでいる。
それに気が付いた弟は、逃げ出そうとするが、SFCメンバーが壁になる。
陽乃「説明してもらえるかしら」
陽乃さんの迫力に弟の勢いは止まる。兄の元へと戻ると、俯き加減で話しだした。
安達弟「SFCを作った経緯は、兄ちゃんが話した通りだよ。妹の方に話しかけても邪険に扱われて、取り合ってさえもらえなかった。しかも恋人までいやがって。だから、姉がいるって知ったときは嬉しかったよ。顔は似てるし、いいかなって。でも、兄ちゃんに姉の方のこと聞いても彼女にするきっかけ思い付かないし、だったらなにか共通の話題とか見つければいいかと思って始めたのがSFCだったんだ」
陽乃「ちょっとそれって、飛躍しすぎてない?」
安達弟「そうか? 兄ちゃんにあんたのこと聞いても、なんかいまいちなんだよな。顔は好みだけど、上っ面だけみたいで、どこかふわふわして掴みどころがない。だから、兄ちゃんを介して話しかけても意味ないって思って、どうにかして裏の顔を覗いてやろうって思ったんだよ」
陽乃「そう・・・・・・」
意外や意外。安達弟は陽乃さんの本質を見抜いていた。
俺を同じように、斜めから世間を見ているから気が付いたようなものだ。
真っ直ぐ正面から世間を見ている一般人なら、陽乃さんの笑顔はまさしく笑顔なんだろう。
第25章 終劇
第26章に続く
第25章 あとがき
もうちょっとで『はるのん狂想曲編』も終わり、次の展開に進みますねぇ。
というわけでではないのですが、『やはり雪ノ下雪乃・・・』の第一部といいますか、高校生編の短編でもある初めてネットにアップした小説を読みなおしました。
なんだか、つっぱしって書いているなぁって気がしました。
たぶん今書き直したら別物になるんだろうなって思いますw
来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので、また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派
第26章
7月7日 土曜日
陽乃「弟君の経緯はわかったわ。でも、なんで安達君まで参加してるの?」
安達兄「未練が復活したんだよ。弟の活動を知って、雪ノ下をもう一度知りたいって思ってしまったんだ。だから、スケジュールも提供した」
陽乃「なるほどね」
安達兄「俺達を警察に突き出すのか?」
安達兄の覚悟に、SFCメンバー達の顔が青くなる。
今は被害者面してるけど、彼らも立派な犯罪者に変わりない。
陽乃「ねえ、あなたたち」
陽乃さんの呼びかけにSFCメンバーは、さらに表情が曇る。
中には、逃げ出そうとしている者もいる。逃げてもすぐ住所わかるのに。
陽乃「この中に、私とストーカーやめるようにって楽しい話し合いした人いるよね?」
この言葉に反応した数人は、顔色を失い、震えだす。唇は震え、手はガタガタと大きく震わせていた。
陽乃「その後、SFCに入るまでにストーカーしていた人いる? 素直に答えてくれるとありがたいわ」
陽乃さんの問いに、楽しい話し合い経験者は、一斉に顔を横にふる。
奇妙な一体感に、不思議な感覚を覚えた。一体なにやったんだよ、陽乃さん・・・・・。
陽乃「そう? だったら、あなた達がどういう経験をしたか他の人たちにもお話してくれると助かるわ。でも、してくれないっていうんなら、もう一度、みんなでしようか?」
陽乃さんの抉るような問いかけと圧力を与える笑顔が彼らを追い詰める。
答えなど聞かなくても俺でもわかる。
だって、俺も逃げ出したいし・・・・・・。
陽乃「助かるわ。じゃあ、もうSFCは解散して、ストーカーもしないわよね。あと写真とかも処分してね。もちろんネットに散らばった画像もできる限り死ぬ気で回収するのよ」
もう笑顔じゃないよ、あれは。プレッシャーしか感じやしない。
笑顔という名の凶器。
SFCメンバー達は、陽乃さんの要求を受け入れ、呆然とことが終わるのを待っていた。
陽乃「さて、安達君兄弟だけど、警察に突き出したりしないわ。だって、せっかく大学に入ったのに、今さら大学やめたりしたら親が悲しむでしょ。それにね、安達君はノリが軽くてどうしようもないところはあるけど研究に関しては尊敬してるとこともあるのよ。それなのに、大学やめちゃったら、もったいないわ」
安達兄「雪ノ下は、それでいいのか?」
陽乃「別にかまわないわ。でも、今まで通りにあなたと関われるかって聞かれると難しいわね。だから、みんなには、ちょっと喧嘩しちゃったって言っておくわ。でも、もうプライベートでは話すことはないでしょうけど、研究では、今まで通りにしてくれると私も助かるわ」
安達兄「俺の方こそ、すまなかった。怖い目にあってるの知っていながら、それを利用して」
陽乃「そのことに関しては許してないわ」
安達兄「そうだよな」
安達兄は、陽乃さんをゆっくりと見つめると、陽乃さんの鋭い視線にひるみ、視線をそらす。もはやそこには笑顔など存在していない。
あるのは、むき出しの憎しみがあるだけであった。
陽乃「弟君のほうも、それでいいかな」
安達弟「わかったよ。ごめん」
陽乃「雪乃ちゃんにも、今後近づかないでね」
安達弟「あぁ? さっきよろしくって言われたんだけど」
陽乃「あれね。嘘に決まってるじゃない。あなたを引き止める為よ」
安達弟は、文句を言おうと顔を上げる。見つめる先には、兄が経験した以上の憎しみがこもった陽乃さんの表情が待ちうけていた。
俺も遠目で見ているけど、感情むき出しの陽乃さんの方がらしい気がして好感が持ててしまう。いやでも、憎悪の視線は丁重に辞退すますよ。
それでも、感情的な陽乃さんは、人間っぽくて、デパートや自宅で見た陽乃さんが幻じゃなかったんだって、俺に伝えてくれた。
7月8日 日曜日
安達弟も観念すると、あとはあっという間に事は終わった。
もとよりSFCメンバーは、その場から逃げ出したかったはず。
だから解散の合図とともにいなくなった。
あいつらも楽しい話し合いのことは知っていたのかもしれない。
知らなくても後で仲間から聞いて青ざめることだろう。
安達兄弟も、すごすごと去っていった。
兄の方は、ノリは軽いし、時間にルーズなところもあるが、もうストーカー行為なんてしないだろう。
弟の方は反省しているか不安なところもある。そこは兄に任せるしかないか。
で、俺はというと、今、雪ノ下邸にて、雪乃の両親と楽しい話し合いを繰り広げようとしていた。
八幡「総武家のテナント受け入れ、ありがとうございました」
雪父「かまわないよ。ちょうどテナント探していたし、総武家は私も通っていてね。だから、総武家さんがうちのビルに入ってくれるというなら、大歓迎だよ」
八幡「そうはいっても、急な話でしたので」
陽乃「大歓迎っていってるんだから、素直に受け取っておきなさい」
雪乃「そうよ。お父さんがビジネスに私情は挟まないのだから、利益が出ると踏んだんでしょうし」
雪父「雪乃は鋭いなぁ」
雪乃の母一人は、厳しい顔で俺達を見つめている。
女帝以外の俺達は和やかに話をしていると言ってもよかった。
話を戻すと、総武家の移転先は現在工事予定の道路の向こう側の新たな道路拡張予定地に面している雪ノ下の企業所有のビルに移転する予定だ。
現在の道路も人の通りがよい。しかし、移転地は車の通りも多いながら道路拡張も行われることで人の通りも大幅に増加すると予想される。
こういってはなんだが、現在の場所に残るよりも、新店舗の方が利益がだせるはずだ。
雪乃「普段の行いのせいよ」
雪父「まいったなぁ・・・」
親父さんは、雪乃に鋭い突っ込みを入れられるも、頬笑みながら受け止めている。
雪乃もそんな父を軽く苦笑いを浮かべながらも、会話を楽しいんでいる模様だ。
ただ、いくら対立議員グループが計画していた道路拡張工事の横に親父さんの議員グループが新たな道路拡張工事をするからといって、こうも簡単に総武家を受け入れてくれるものだろうか?
陽乃「母さんも、いつまでもしかめっ面してないでよ。いつもお父さんの事目の敵にしている議員に、一泡喰らわせることができたって喜んでいたじゃない。あの議員ったら、自分のビルに人気チェーン店のラーメン屋を入れるらしいけど総武家が隣の道路に新店舗作るって知ったら、どう思うのかしらねって豪快に笑ってた気もするなぁ」
雪母「わ・・・私は、そんな下品な物言いはしていないわ。たしかに、いつも嫌がらせばかり受けていて、歯がゆい思いをしていたわ。・・・・あなたも何か言ってください。いつも嫌がらせを受けても何食わぬ顔をしていたのは、あなたの方なのよ。私がどんな思いであなたを心配していたことか」
女帝は、頬を少し染め上げながら親父さんに詰め寄る。
女帝も照れたりするんだなと、意外すぎる一面を見て驚くが、雪乃と陽乃さんは特に反応はない。
ということは、いつもの光景なのか?
え?
女帝って、親父さんだけには弱い・・・・でいいの?
雪父「いいんだよ。お前が心配してくれるだけで、私は十分助かってるんだから」
親父さんは、ゆっくりと女帝の手の甲に手を重ね合わせる。
ちょっと待て。なんだこのラブラブしすぎる甘ったるい空気。
娘がいる前で、よくもまあ・・・・・・。
再び、雪乃と陽乃さんの様子を見るが、変わりはない。
やはり日常茶飯事だったのか!
もう、いいや。俺の負けです。
と、やけくそになりつつ、女帝が満足するまでの間、紅茶でも飲んで待とうとする。
しかし、以前にも感じた見られている感覚が俺を襲う。
顔を上げ、視線の元に顔を向ける。そこには奇妙な光景が待ちうけていた。
なにせ毎日鏡で見ている腐った目が俺の事を見ている。
一瞬鏡があったのかと疑いもしたが、目の持ち主は俺ではない。
そこにいたのは、雪乃の父親。つまり親父さんが俺を見ていた。
親父さんは、いつもは腐った目などしていない。
たまに仕事がかったるいとか、疲れているとか、面倒事は自分にばかりまわってくるとか、休みがないのは社会が悪いとか・・・・・・・、あれ?
なんか聞きおぼえがあるようなセリフだよな。
思い返してみれば、穏やかな雰囲気はある。仕事もきっちりこなし、責任感も強い。
だけど、それは仕事をしているときの親父さんであって、プライベートの親父さんではない。
俺と会ってるときも、最初は雪乃の彼氏で、お客さんにすぎない。
だから、今目の前にいる親父さんこそがプライベートの本来の姿というわけか。
もう一度親父さんを見やると、腐って目をしている。
俺が凝視していると、親父さんの目は、穏やかな目に変わっていく。
やはり親父さんも自分をある程度作ってたのかよ。
さすがは陽乃さんに似ているだけはある。
・・・・・・・俺は、ここで重大な事実に直面する。しかも、二つもだ。
一つ目は、親父さんが腐った目をしていること。
そして、その腐った目の持ち主を心底愛している女帝がいるんだが、
もしかして、雪ノ下家の女性って男の趣味が悪いのか?
こういっちゃなんだが、俺はもてない。
それなのに雪乃が彼女なわけで、一生分とさらに来世での運も使いはたしているはず。
そんな俺と付き合ってくれている雪乃には悪いが、腐った目をした俺や親父さんに惚れているなんて、ある意味男の趣味が悪いって断言できる。
さて、二つ目の重大事実だが、それは俺が親父さんに似ていることだ。
そのことはさらに親父さんが陽乃さんに似ていることに直結し、陽乃さんは俺にも似ていることとなるわけで。
たしかに論理の飛躍はある。欠点だらけで、穴ぼこだらけの推理に違いない。
それでも、俺と陽乃さんが似ている一面を持ってるとかもしれない可能性があることは、ちょっとなぁ・・・と、俺を複雑な気持ちへと引きずりこんでいった。
雪父「そうだ。陽乃に言うことがあったんだろ」
親父さんは、女帝の背中を柔らかく押しだす。女帝は、親父さんに抗いながらも陽乃さんの顔を見て一度逡巡するが、たどたどしく話し始めた。
雪母「陽乃」
陽乃「はい」
雪母「お見合いの件、なかったことにしてもいいわ」
陽乃「え?」
突然の宣告に俺も、陽乃さんも、雪乃だって、うれしい戸惑いをみせる。
どういう心境の変化が? また、面倒な条件をつけるのか?
俺は、すぐにでも聞きだしたく身を乗り出しそうになるが、雪乃がそっと俺の膝に手を載せ、俺を押しとどめる。
陽乃「本当にいいの?」
雪母「ええ、後継者候補ができたから、もうよそから後継者を連れてくる必要がなくなったわ」
女帝は、俺を一瞥すると、軽く鼻を鳴らしてから陽乃さんと向きあう。
雪母「だから、自由に結婚してもいいし、いつまでも独身でもかまわないわ」
陽乃「えっと・・・・・、独身はちょっと」
陽さんは苦笑いを見せるが、それも一瞬。自由になった喜びが陽乃さんを襲いかかる。
そこにはもはや「笑顔」はない。陽乃さんによって作られた仮面の笑顔はもはや存在していなかった。
陽乃「それに、いいなぁって思う人もできたんだ。だからね・・・・・」
陽乃さんは照れくさそうにそうつぶやくと、静かに温かい涙をこぼし始めた。
雪母「比企谷君」
女帝から呼ばれた俺は、身を堅くする。だって、俺に話すことってないだろ。
いったいなんでだ?
八幡「はい」
反射的に背筋を伸ばし、腹に力を込めて返事をしてしまった。
ほのぼの雰囲気でも、女帝オーラは健在かよ。
雪母「あなたが後継者候補として、世界ランク一ケタのMBAに入って、一ケタの順位で卒業するという条件を覚えているかしら」
八幡「覚えています」
雪母「そう・・・・・・・。だったら、その条件をクリアしなさい」
八幡「え?・・・・・・はい、努力します」
あの陽乃さんを助ける為の条件って、本気だったのかよ。
ってことは、俺はこれから勉強漬けの毎日?
由比ヶ浜の受験勉強じゃないけど、あれが英検3級の試験だって思えるくらい生易しいレベルに思えてくる。
雪母「はぁ・・・・。そんな意気込みでやっていけるのかしら。でも、いいわ。もしできなかったら、雪乃と別れればいいだけですからね」
八幡「え?」
雪母「当然でしょ。約束を守れない男に用はないわ」
雪乃「ちょっと待ってお母さん。私も留学するわ。もし八幡が達成できないとしても、私が条件を満たしてみせるわ」
雪母「そう? だったら、それでもいいわ」
女帝は満足そうにうなずくと、俺への関心は途切れ、紅茶に興味を移していった。
雪父「悪いね。これでも大変感謝してるんだよ」
八幡「感謝されるようなことはなにも」
雪父「総武家の件も感謝しているし、ストーカーの件については感謝しきれないほどに感謝している」
八幡「総武家の事は、こっちがお願いしたことで、感謝されることはなにも」
雪父「そんなことはない。ライバル議員に一泡吹かせてくれたじゃないか」
八幡「それは偶然であって、結果論にすぎません」
雪父「そうかい? じゃあ、ストーカーの件は、陽乃の父親として感謝してるんだけどな」
八幡「それも、俺だけが頑張ったわけじゃないです。陽乃さんや雪乃、大学の友達も大勢協力してくれたからできたことです」
雪父「でも、それができたのも、君が大学で人脈を作ったから成し得たことじゃないかい」
たしかに、大学での人脈を作れって言われたけど、偶然にも作れている。
これがこの先どうなるかなんてわからない。
損得で付き合ってるわけでもない。
だけれど、これからも長い付き合いになっていくってことだけは、不思議と確信してしまう。
雪父「君に人脈はあるかって、きつい問いかけもしたけど、これさえも成し遂げた。だからね・・・・、あれも君の事を認めているんだよ」
親父さんは、そっと女帝に視線を向ける。女帝も俺達の会話が聞こえているはずだけど、ダンマリを決め込んだようで、一切反応をみせようとはしない。
雪父「今日はゆっくりしていきなさい。きっと陽乃が美味しい料理をつくってくれるはずだから」
穏やかな時間が紡ぎ出され、いつしか日が傾いてくる。
雪乃と陽乃さんは、夕食の準備をしにキッチンに向かい、ここにはいない。
陽乃さん曰く、ささっと簡単に作ってくるわ、とのこと。
前回ご馳走になったことを思い出すと、その簡単にのレベルが非常に高い。
きっと俺の予想以上のご馳走がくるはずだ。
だから、俺は目の前の光景を直視することも耐えられれるはず。
なにせ、実際にいちゃついてはいないけれど、雪乃の両親、目で語っちゃってるだろ。
しかもそうとうのろけている。
俺がこの場にいなければと思うと、気まずいくなってしまう。
俺は、目のやり場を適当に泳がせながら、この数日間を思い出す。
そういえば、平塚先生って、誰から総武家の立ち退き話を聞いたのだろうか?
誰かしらから聞かないと、平塚先生が知ることはない。では、誰からか。
そして、雪ノ下の企業所有のビルが、「たまたま」1階のテナントを募集しているのは偶然なのか。
しかも、新しい道路計画に合わせて、客が入る見込みがある場所で。
仮に、平塚先生が雪ノ下の誰かから、話を聞いたとする。
そして、仮定だが、平塚先生が俺とよくラーメン屋に行っていたとすれば、なおかつ、総武家の常連だと知っていたとすれば、総武家の事を聞いた直後に平塚先生と俺は総武家に行く可能性が高い。
また、俺と平塚先生がラーメンを食べに行くって約束していたのさえ知っていたとしたら。
もはや仮定の連続であるが、最後の仮定として、陽乃さんが親父さん似であることは、逆をいえば、親父さんも陽乃さん似であるわけで。そうなると、その陽乃さん似の親父さんが陽乃さんのような策略を展開する可能性も高いわけで・・・・・・。
と、仮定に仮定を重ねまくる机上の空論が出来上がる。
もし、これが正しいとしたら。
もし、途中の仮定が若干違くとも結論までたどり着くことができるとしたらと憶測を重ねずにはいられなかった。
夕食も終わり、家に帰る時間となる。
雪乃は、女帝から家に持って行けと、あれこれ紙袋を渡されているようだ。
ほんと素直じゃないところも多いけど、どこにでもいる親子でもあるんだよなぁ。
親父さんも席をはずしていて、リビングには俺と陽乃さんの二人が残っていた。
八幡「なんか、うまくまとまってよかったですね」
陽乃「そうね。なんか、終わってみると拍子抜けかも」
陽乃さんは、両手を伸ばし、軽く体を伸ばす。
この数日、ストーカー問題が出てから、いや、生まれて物心がついた時から陽乃さんは常に緊張を強いられていたのかもしれない。
その枷が外れた今、仮面をかぶっていない素顔の陽乃さんが屈託のない笑顔でくつろいでした。
陽乃「何か顔についてる? そんなに真剣にじぃ~っと見られたら、お姉ちゃん、ちょっと恥ずかしいかも」
八幡「いや、そんなことは。ちょっと気が抜けただけです」
陽乃「そうなの?」
陽乃さんは、俺が面白い事を言ったわけでもないのに柔和な笑顔をはじけ出す。
八幡「そうです」
陽乃「そっか」
八幡「あの、陽乃さん」
陽乃「なぁに」
俺は自分の鞄から、リボンでラッピングされたプレゼントを陽乃さんの前に差し出す。
陽乃「これは?」
八幡「昨日は忙しかったんで、あれでしたけど、一日遅れの誕生日プレゼントです」
陽乃「そっか。誕生日だったね」
八幡「そうですよ。雪乃も誕生日会やるつもりで、今度の休みでもやるみたいですよ」
陽乃「えぇ~、雪乃ちゃんが? 意外。・・・・ねえ?」
八幡「はい?」
陽乃「それって、由比ヶ浜ちゃんが発案したんでしょ」
八幡「そうですかね? もしそうだとしても、計画したのは雪乃ですよ」
陽乃「そうなんだぁ・・・・・・・。あぁ、エプロン」
陽乃さんは、丁寧にラッピングをはいでいくと、中から深い藍色のエプロンをとりだし、頭上に掲げる。
八幡「料理が趣味って言ってたんで、エプロンなら気にいらなくても、適当に使いつぶせるかなって」
陽乃「そんなことないって。すっごく気にいってるよ。うれしすぎて抱きつきたいくらい」
陽乃さんは、真剣に笑みを俺に示すと、さっそくエプロンを試着する。
陽乃「どう? 似合ってる?」
八幡「似合ってますよ」
陽乃「そっか。似合ってるか。でも、比企谷君の私のイメージって、こんなのなんだ」
八幡「インスピレーションですよ。そのとき思った色がそれだっただけです」
陽乃「ふぅ~ん・・・・・・」
陽乃さんは、俺の顔をしばらく観察すると、なにか納得して離れて行く。
そして、くるくる回りながらエプロンを確認していく。
普段の陽乃さんだけを知っていたら、きっと地味な色のエプロンなんだろう。
オレンジとかよく似合ってそうだと思う。
だけど、俺が見ている陽乃さんは、情が深くて、そしてなによりも、人とために自分を犠牲にできる強い女性であった。
陽乃「ねえ、比企谷君」
八幡「はい? えっと、かわいいし、似合ってますよ」
陽乃「なにその適当な感想」
八幡「すみません」
陽乃「まっ、いっか。誕生日の七夕には間に合わなかったけど、しっかりと彦星様が来てくれたんだから。一日遅れっていうのが比企谷君らしくていいわね」
八幡「それだと陽乃さんが織姫様ですか?」
陽乃「私じゃ不満かしら?」
陽乃さんは、そう意地悪そうに呟くと、俺に詰め寄る。
このままだと、陽乃さんのおもちゃにされそうで、今すぐ逃げ出したい。
しかも、なんて答えればいいかなんてわかるはずもない。
でも、逃げようにも体が密着しすぎていて逃げられないし、逃げれば逃げたで後が怖そうだ。だから俺は、観念するしかなかった。
八幡「不満なんてないですよ。むしろ光栄ですって」
陽乃「そう? だったら、今度このエプロン着て、ご希望の裸エプロンで八幡の為に料理作ってあげちゃうね。でも、料理が出来上がる前に私を食べちゃってもいいわよ」
陽乃さんは、軽くウインクをして、冗談とも本気ともとれる申し入れを告げてくる。
またもやどうこたえればいいか途方に暮れたが、親父さんがやってきてどうにか難を逃れることができたのであった。
俺から体を離して玄関向かう陽乃さんの後姿は、根拠はないが、どこか寂しさを漂わせていた。だから俺は、声をかけてしまう。
八幡「陽乃さん?」
陽乃「ん?」
振りかえって見せた陽乃さんの笑顔は、もはやいつもの笑顔の仮面ではなかった。
どこか崩れ去りそうな、ぎこちないながらもどうにか作り上げた儚い笑顔。
ちょっと触れただけでも崩れ落ちそうな寂しさを漂わせていた。
八幡「陽乃さんの手料理、楽しみにしていますよ」
陽乃「うん。楽しみにしておいて」
八幡「二人前だろうが三人前だろうが全部食べますから、盛大に作っちゃってください」
陽乃「うん。期待してる」
八幡「あと、・・・・・・来年の七夕は遅刻しませんから、盛大にやりましょう」
陽乃「うぅ~ん・・・。そっちのほうは・・・、期待しないでおこうかな」
陽乃さんは、少し困ったような笑顔を見せると、俺に背を向ける。
八幡「そうですか? じゃあ、俺が勝手に迎えに行きますから、そのときは、うまい飯でも用意してくれると助かります」
陽乃さんは、俺の声に何も反応を見せず、一歩また一歩と玄関に向け足を進める。
そして、4歩目の足を上げようとした時、その体は硬直する。
堅く握られていた両手のこぶしを広げると、ゆっくりと俺の方へと振り返る。
陽乃「やっぱり期待はしないでおくけど、食事の材料だけは用意しておくわね」
そう俺に宣言する顔には、もはや儚さは消え去っていた。
いつもの陽乃さんのように前をしっかり見つめ、自分の意思で突き進む凛々しさがよみがえっていた。
しかし、もはやそこには作りものの笑顔はない。
優しい温もりを俺の心に満ち溢れさせていく、とても魅力的な笑顔がそこにはあった。
陽乃さんが残した甘い香りが俺の鼻をくすぐるのを、俺は気持ちよく受け入れていた。
第26章 終劇
第27章に続く
第26章 あとがき
次週で『はるのん狂想曲編』は終了します。
といっても、そのまま新章突入しますので、もうしばらくお付き合いただけると嬉しく思います。
来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので、また読んでくださると、大変うれしいです。
お詫び
今週より、深夜のコメントアップはしません。
あとがき、コメントのネタがつきました。ごめんなさい。
あとがきだけは、もう少し頑張ります。
黒猫 with かずさ派
第27章
7月10日 火曜日
激動の週末を過ごし、疲れと興奮が収まらない中、月曜を迎える。
週の始まりといえば、かったるくて、その日から週末までを指折り数えだす日と決まっていた。
一週間前の俺だったら同じようにカウントダウンを開始していただろう。
しかし、この週の月曜日だけは特別であった。
そわそわして落ち着かない。
目覚ましよりも早く起床すると、すでに雪乃は目を覚ましている。
なにをしているわけもなく、俺の頭をゆっくりと撫でて愛でているだけだが、やっと平穏な日常を取り戻したことを実感させてくれた。
俺達は平穏な大学生活を取り戻し、いつものように大学に通う。
以前と同じ日常もあれば、変化した日常もある。
日常は、俺達が気がつかないうちに毎日緩やかに変化していく。
劇的に変化することなんて稀だ。
先の騒動で大きな変化をもたらすとは考えてはいない。
ストーカー騒動の前に戻っただけ。
仮に変化があったとしても、それは俺が気がつかないうちにゆっくりとゆっくりと変化を繰り返して、やっと芽が出て、俺が気がつく状況まで変化したにすぎない。
ストーカー問題は解決されたから、もう陽乃さんを送り迎えをする必要はない。
これから新たなストーカーも現れる懸念も捨てきれないが、当分は大丈夫なはず。
ただ、危険は過ぎ去りはしたが、陽乃さんの送り迎えは続いている。
陽乃さんの強い要望によって。
雪ノ下家から車を預かっている身としては断れないし、たいした遠回りでもないので、これからも続くと思われる。
雪乃は、話を聞いた直後はふくれっ面であった。抗議もしようとしたが、いかんせ実家での事なので、強くもいえず、あっというまに決定事項となってしまった。
もちろんマンションにもどってから散々俺に対して文句を言っている。
それは彼氏としては受け止めたが、陽乃さんも姉妹の仲を深めたいんじゃないかって思えてもいる。
だから、俺としては陽乃さんの提案は賛成であった事は、雪乃には内緒である。
そして、もうひとつ変化があったことといえば、雪乃と陽乃さんがDクラスの勉強会で先生役として参加するようになったことだ。
二人とも元々優秀であることから、みんな大歓迎で迎え入れた。
週末までの騒動も、仲を深めるきっかけになっていたはずだ。
今も二人に授業後の質問をする生徒で溢れている。
湯川「陽乃さん。今度大学院について質問してもいいですか。私、できれば大学院に行きたいって思ってて。今は曖昧で、ぼんやりとした目標しかないんですけど、もっと勉強したくて」
陽乃「いいよ、いいよ。いつでも大歓迎。湯川さんみたいな後輩ができるんならお姉さん協力しちゃうよ。それに教授にも紹介してあげるから、いつでもおいでよ。工学部って男ばっかだし、みんな喜んでちやほやしてくれるはずよ」
湯川「ありがとうございます。ちやほやはいいですけど、実際研究室を目にした方が明確なビジョンができて、もっと頑張れる気がするんです。それに私、Dクラスに入ったとき、諦めていたんです。地元の高校ではずっと1位だったんですよ。先生も同級生もみんな私をちやほやじゃないですけど、頼ってくれて。だけど、大学に入ったら、一番下のクラスじゃないですか。すっごく落ち込んだし、地元にも帰りたくなくなっちゃって、地元の友達からメール来ても、当たり障りのない内容ばっかで・・・・。でも、私にもチャンスがあるってわかって、もう一度頑張ろうって」
陽乃「そっか。でも、うちの大学院って倍率高いし、大変だよ。Aクラスだろうが、Dクラスだろうが、他の大学からも勉強したい、研究したいって望んで入ってきてるしね」
湯川「そう・・・ですよね」
湯川さんの跳ねるような勢いは、陽乃さんによって叩き落とされる。
陽乃さんが自ら通ってきた道である分説得力があった。
陽乃「でもね、今の気持ちを4年間忘れずに勉強を続けられたら、きっと道は開けてくるんじゃないかな。もちろん大学院だけがゴールじゃないし、色々勉強しているうちに、うちの大学院じゃなくて海外留学なんて考えちゃうかもしれないよ」
湯川「そんな。私が海外留学だなんて」
陽乃「その考えはいただけないなぁ。自分で限界を作っちゃってる」
湯川「あっ・・・」
陽乃「でしょ?」
湯川「はい、私、今の気持ちを大切に、頑張ってみます」
陽乃「うん、頑張ってね」
湯川さんは、陽乃さんからエールを貰うと、足取り軽く廊下で待っている友達のもとへと小走りで戻っていく。
俺は、陽乃さんも後輩にいいこと言うなぁと感心して陽乃さんを見つめると、ニヒルな笑顔を俺に返す。
これって絶対俺に対しても言ってるだろ。
俺が聞いてるとわかってて言ってるあたり、憎みきれない。
むしろありがたいんだけど、ありがたいお言葉言ったんだから誉めてよって顔で訴えなければ、もっと最高なのに。
陽乃さんは、最後に満面な笑顔を見せると、自分も授業に行こうと荷物をまとめ出した。
もし劇的変化があったとしたら、それはきっと陽乃さんの素顔だろう。
今までは、なにかにつけて演じてきた部分が表層を覆い隠し、本心を見せてはこなかった。
それが今回の事件をきっかけに、いつもではないが、ときおり本心を見せてくれるようになったのは大きな成果だと思える。
世間一般では、今までも十分すぎるほどに魅力的な女性であったし、女性からも好かれもしていた。
これからは、ふとしたきっかけに見せるなにげない本音が出た表情に魅了されてしまう信者も増えてくるのだろう。
個人的な見解としては、本音を見せた陽乃さんのほうが、カリスマ性を演じた仮面よりも数段も魅力的だと思っている。
楓「それでですね、聞いてくださいよ」
雪乃の方の質問も終わり、今は雑談の花を咲かせていた。
英語の質問ではないので、ここぞとばかり前に出る由比ヶ浜が輝いて見えるのは気のせいだろうか。
大丈夫。勉強だけがすべてじゃないぞ、由比ヶ浜。
結衣「それで、どうしたの?」
楓「はい、この前の安達弟なんですけど・・・」
安達の名前が出ると、その場にいた全ての生徒の顔がこわばる。
陽乃さんも、バッグにノートをしまう手を止めてしまい、楓の声に耳を傾けてしまう。
雪乃も顔から表情が抜け落ち、顔がこわばる。
楓と葵は、雪乃の変化を察知して、言葉を詰まらせてしまった。
雪乃は、やんわりと微妙な笑顔をむけて、話を促すが、二人は遠慮してしまう。
由比ヶ浜だけは、場を盛り上げようと楓達の話の相槌を打つ。
結衣「へえ、弟の方がどうしたの」
葵「弟のほうが雪乃さんを好きだったけど、比企谷さんが恋人だってわかり諦めたって言ってたじゃないですか」
結衣「うん、まあ、そうだったね」
楓「それだけでも軽い男だってわかって失格なんですけどね」
結衣「そだね」
葵「実は、ストーカーをするだけじゃなくて、デマまで流してたんです」
結衣「それは知らなかったなぁ」
葵「はい。男子生徒中心にまわっていたらしくて、女子生徒の方へは流れてこなかったから、今まで知らなかったんですけどね」
ということは、雪乃がいる工学部2年から広まった雪ノ下姉妹がストーカー被害にあっているっていう噂も安達弟ルートから流れてきたものだろうか。
どんな理由で噂を流してのかはわからないが、もはやそんな理由を聞きだしたいとは思えなかった。
結衣「で、どんな内容なの?」
葵「比企谷さんが、財産目当てで雪乃さんに近づいているって」
結衣「ゆきのんち、お金持ちだし、そう思ってしまう人もいるかもね」
楓「違うんですよ。それだけじゃないんです」
葵「比企谷さんは、雪乃さんだけじゃなく、保険として陽乃さんまで手をだして、ゆくゆくはお父様の会社までも手に入れようとしてるって」
結衣「そこまでは・・・・できないんじゃないかなぁ?」
由比ヶ浜は、明らかに不可能なデマを聞き、顔をひきつらせてしまう。
さすがに雪乃の両親を少しは知っている由比ヶ浜は、会社乗っ取りなんてできないってわかっている。
もし会社を手に入れようとするんなら、雪乃や陽乃さんだけじゃ不可能すぎる。
いっそ、親父さんや女帝までも騙さないと、うまくいくとは思えなかった。
でも、俺なら絶対そんな面倒な事はしない。
自分で会社を立ち上げて雪ノ下の企業まで成長させる方がよっぽど現実的だと教えてやりたいほどだ。
葵「それに、由比ヶ浜さんも被害者なんですよ」
結衣「私?」
ストーカー騒動。
今までずっと蚊帳の外にいた由比ヶ浜までもが被害者になっていたとは驚きだ。
由比ヶ浜の名が呼ばれた時、雪乃の肩がわずかに震えたのを俺は見逃さなかった。
葵「そうです。比企谷さんの愛人として、囲ってるって。いつも一緒にいるのは愛人契約してるからとか」
結衣「それ、ぜったい違うから。ヒッキーと一緒にいるのは勉強を教えてもらってるのもあるし、・・・・・・友達・・・でもあるからさぁ」
由比ヶ浜は、胸のあたりでぶんぶんと両手をふって否定する。
楓「そうですよね。私も男子から話を聞いたとき、それは嘘だって言ったもん」
葵「でも、どの噂も嘘しかなくて、笑っちゃったよね。・・・・・・あっ、ごめんなさい」
結衣「いいよ、いいよ。私もゆきのんも、その場にいたら一緒に笑ってたと思うし」
葵「それでも、ごめんなさい」
その後もあらぬ噂を延々とお披露目されていく。
よくもまあ、ここまでたくさんのデマを考えたって、そっちのほうを感心してしまう。
由比ヶ浜も表情をころころを切り替えながら相槌を打つもんだから、楓も葵も話の勢いが止まらなくなって、延々と話が止まらなかった。
しばらく好きなように話をさせておくかと、ほっとくことにする。
本でも読んでるかと鞄を取ろうとしたとき、室内を見渡すと、話をしている由比ヶ浜、葵、楓しか室内には残ってはいなかった。
雪乃と陽乃さんは、先に行ったのか?
ということは、そろそろ時間かなと時計をみると、朝の講義までは時間があった。
それでも、このまま話を続けられてもやばいし、そろそろ終わりにさせるかなと、椅子代わりにしていた机から腰を上げる。
俺たちも遅れないようにしようと、話に夢中の三人に声をかける決意をした。
昼休み。これも俺達の日常の変化の一つであるといえよう。
お弁当を食べようと空き教室に集まった四人は、持ち寄ったお弁当を囲んでいる。
昨日は、陽乃さんが4人分のお弁当を持ってきてくれたので豪勢であった。
ただ、雪乃は俺の分も入れて二人前。由比ヶ浜も最近お弁当を作るようになったので自分の分を持ってきている。
そこに陽乃さんの四人分となると、合計7人前のお弁当が勢ぞろいとなる。
由比ヶ浜の弁当は、まさに女の子のお弁当って感じで量は少ない。
雪乃のは、俺の分は俺に合わせて作って、自分の分は少なめだ。
しかし、陽乃さんの豪勢すぎるお弁当は、まさに運動会のお弁当。
男性4人がめいっぱい食べられる量が詰まっていた。
7月に入り、気温も高くなってきているので、冷蔵機能もない昼の弁当を夕食として食べるわけにもいかず、唯一の男の俺が頑張って食べたが、食べきることはできなかった。
その後、俺の様子を見て判断してくれたのか、翌日の今日からはお弁当当番らしきものが作られたらしい。
「らしい」というのは、俺の意見が全く聞き入れてもらえず、勝手に取り決めを作られたからなのだが、俺自身もお弁当を作らないといけないのは
なんとかならないのだろうか?
家に帰ってから、雪乃に弁当作るの手伝ってほしいと懇願したが、笑顔で断られた時は、ちょっと絶望してしまったのは内緒だ。
でも、そのあときっちりと
雪乃「だって、八幡が作ったお弁当、食べたいから」
って、恥じらいながら笑顔でアフターケアーもなさるんだから、雪乃にはかなわない。
結衣「ねえ、ゆきのん。朝はごめんね。話に夢中になって、ゆきのんが先に行っちゃったの気がつかなかったよ」
雪乃「いいのよ。私の方も急用ができたから」
結衣「そう? だったらいいけど」
由比ヶ浜は、雪乃の返事に満足してか、うまそうに弁当をパクつき始める。
それを見た雪乃も、優しく由比ヶ浜を頬笑みながら、自分も食事に入っていった。
八幡「陽乃さんも、朝の勉強会、ありがとうございました。勉強会の後にお礼を言おうと思ってたんですけど、いなかったんでいまさらですけど、ちゃんとお礼が言いたくて」
陽乃「いいのよ。私が好きで手伝ってるんだから。それに、私もちょっと急用ができちゃってね。だから、何も言わないで行っちゃってごめんね」
八幡「いや、いいですよ。あの後、時間ぎりぎりまで由比ヶ浜たちは喋りまくってたんですから」
楽しいお弁当タイムは続く。
雪乃と陽乃さんの朝の急用がなんだったかだの、なにも疑問を感じることもせず。
勉強会の後、工学部の教室で「楽しい話し合い」があったなんて、気がつくことなどありはしなかった。
火曜日の朝。誰の元にも平等に訪れる月曜日の次の日。
一昨日までの休日の疲れも月曜日に別れを告げ、どうにか平日に慣れつつある。
慣れない者は、通勤通学ラッシュにもまれて、水曜日までには強制的に平日を実感するようになるはずだ。
それは、工学部の教室であっても等しく訪れ、朝一番の授業を憂鬱と共に過ごすことになるのだろう。
ここにいる二人を除いて。
雪乃「おはよう、安達君」
陽乃「元気そうでよかったわ」
雪乃達は、それぞれ若干ニュアンスは違うが、安達弟に朝の挨拶をする。
それを聞いた安達は怪訝そうな顔をするも、一応挨拶の返事をする。
安達弟「おはよう・・・ございます」
そりゃそうだ。もう関わりもないと思っていた相手からの朝一での訪問。
安達弟にしろ、雪乃達にしろ、金輪際関わりたいとは思っていないはず。
朝が苦手で、授業開始ギリギリに入ってくる連中なら、いつもと同じ光景を見るだけですんだかもしれない。
しかし、今の時間帯に入ってくる生徒は、いつもと違う光景に目を疑った。
雪乃も、挨拶をされれば、丁寧に挨拶を返す。
それは、長年にわたって身につけてきた礼儀作法によるものだが、雪乃が安達の元へ自分から赴いて挨拶することなんて、今まであり得なかった光景であった。
しかも、姉の陽乃さんまでいるのだから、誰しも驚いただろう。
そして、ただならぬ雰囲気が雪ノ下姉妹を中心に教室中に侵食していき、いつしか朝の憂鬱な雰囲気が一転する。
緊迫した雰囲気に捕まり、一人、また一人と雪乃たちを注目してしまう。
これから始まるであろうまだ見ぬ展開に恐怖心と好奇心を同居させ、教室内にいた生徒は事の顛末を探ろうと声を押しとどめて、静かに三人に目を向けていた。
雪乃「2年の工学部から流れている噂、聞いたわ」
雪乃の目は安達弟を捉えて離さない。安達弟は昨日の事もあって、落ち着かない様子である。
そっと雪乃から目をそらすが、それさえも雪乃にとっては興味の対象にはならなかった。
雪乃「私と・・・・、ここにいる姉さんのことは構わないわ。でもね、私の恋人と友達を傷つけるような真似を今後もするんなら、社会的に殺します」
背筋が凍りつくセリフをこともなさげに宣言する。
雪乃の顔からは表情が冷たく砕け散り、ただ事務的に決定事項を伝えているだけであった。
身を震わせる他の生徒たちは、声をわずかに洩らしはしたが、場の雰囲気にのまれて沈黙を守る。
後から来た生徒は、ただならぬ雰囲気に、遅刻したわけでもないのに身をかがめて、逃げるように席についていった。
陽乃「あなたがどんな社会的な影響力を持つ後ろ盾を持ってるかなんて知らないわ。でも、使いたいならご自由に。私は、大切な人を守る為に、その後ろ盾やそのシステムごと叩きの潰すだけだから、安心してね」
口調も笑顔も、以前の陽乃さんそのものであったが、それがかえって人の心を委縮させる。
震え上がる安達弟に、楓たちから聞いた噂のうっぷんを全て吐き出した雪乃達は、ようやく晴れ晴れとした笑顔で、自分の場所へと戻っていく。
もはや安達弟のことなど、日常の記憶からは抹消されていることだろう。
残っている記憶といえば、攻撃対象リストの記載のみ。
朝から工学部二年の教室を震え上がらせた騒動は、翌日までには他学部まで広がっていく。
ただ、誰一人、雪ノ下姉妹を批判する者など現れはしなかった。
日ごろからの行いってものもあるが、正面切って雪ノ下姉妹にたてつく者などは、よっぽどの変わりものかマゾしかいないだろう。
7月14日 土曜日
首元やら鼻やら目元など顔中がこそばゆい。
まだ起きる時間ではないはずなのに、どうやらちょっかいを受けているらしい。
まどろみの中、薄く眼を開けると、雪乃が長い漆黒の髪でくすぐってきていた。
綺麗な髪をそんなくだらないことで使うなって説教してやろうかと思いもしたが、甘ったるい朝の空気が俺を駄目にする。
雪乃「おはよう」
俺の目覚めをいち早く察知した雪乃は、柔らかな笑みとともに朝の挨拶を告げる。
俺もしゃがれた声で、すかさず返事する。
八幡「おはよう。・・・・いま何時なんだ?」
雪乃「さあ?」
八幡「さあって・・・・。まだ5時過ぎじゃないか」
俺は目覚まし時計を確認すると、軽く非難の声をあげる。
さすがに早すぎる。少なくとも6時までは寝ていても大丈夫なはず。
・・・今日は土曜日か。だったら、もっとゆっくりしていても。
雪乃「そう?」
八幡「そうって・・・・・、くすぐったいって」
俺は、優しく黒髪を押し戻す。
おはようの挨拶をしているときだって、雪乃はずっと俺をくすぐり続けていた。
悪くはないんだけど、さすがにこそばゆい。
雪乃「もうっ」
雪乃は全然怒った風でもないのに、一応は怒ったつもりの非難を洩らす。
と思ったら、今度は俺の頭を雪乃の小さな胸で包み込み、優しく撫で始める。
たしかに、色々トラブルもあって忙しかったし、今朝みたいに甘美な朝がここ数日続いてはいた。
それでも大学もあり、ゆっくりと朝を楽しむ時間は限られていた。
そう考えると、今日は貴重な朝だよな。
俺は、雪乃の背中に手を回し、小さく力を込めてると、ゆっくりと雪乃の香りを肺に満たす。
雪乃は、胸元で動かれたのがくすぐったかったのか、小さくとろけるような吐息を洩らした。
色っぽく身悶える雪乃を下から覗き込むと、視線が交わる。
雪乃「もう・・・・・・」
はにかんだ笑顔が俺を幸せに導く。
今日は最高な一日になるはずだ。
だって、最高の朝の目覚めを得られたんだから、今日一日うまくいくに決まっている。
そして、きっと明日の朝も最高なはずだ。
なにせ、俺の隣には、いつも雪乃がいるから。
第27章 終劇
はるのん狂想曲編 終劇
第28章に続く
インターミッション・短編
『その瞳に映る景色~雪乃の場合』に続く
第27章 あとがき
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
第27章のラストの朝の目覚めが、『狂想曲編』開始の第10章の初めとの対比となっております。
今振り返りますと、後半もうちょっと書いてもいいかなって気もします。
ただ、そうしますと容量が大幅に増えてしまい、本一冊のものが、本二冊の前後篇ものへと切り替わってしまう感じですかね。
次週は、息抜きというわけでもありませんが
インターミッション・短編『その瞳に映る景色~雪乃の場合』
をお送りいたします。
アップするのは、このスレです。
一応、第28章という扱いになります。
来週も、木曜日、いつもの時間帯にアップできると思いますので、また読んでくださると、大変うれしいです。
黒猫 with かずさ派