オリジナルの学生の恋愛小説です。
もしよければ、最後までお付き合い下さい。
元スレ
「Close to …side.Y」(オリジナルSS)
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1442667641/
気がつけば、目で追っている。姿が見えなくなっても、勝手に続きを想像してしまう。
その隣に、自分を並べてみたりして、少し恥ずかしいような気持ちになる。
ノートにぐしゃぐしゃと名前を書き殴って、それは黒板の文字を写しているわけじゃないのに、
人から見ればきっと私は真面目な学生。
所詮、机上の空論だから平気だと思うし、一方で現実には彼と私はなんの接点もないのだと悲しくなることもある。
ちら、と見た一橋綱吉くんの背中は、あんまり頼りがいはなさそうだ。
一橋くんの席は私の席からずいぶん離れている。 学期が始まってすぐは、席順は番号で決まる。
彼はア行で、私はハ行だから、これはもうずいぶんな離れようだ。
早く席替えがあればいいのに。ふっと、ため息が出る。
彼とまともに話したのは、たぶん、高校一年のときの一度きりだけ。
その頃、名門の私立高校の入試を失敗して、滑り止めの公立高校に
――つまり今の、一橋くんのいる高校に――入学した私は、腐っていた。
別に希望の高校に入れなかったことが不満だったわけじゃない。
それよりは落第以来、目に見えて態度を変えた両親とか、不慣れな家事とか、そういうことが理由だった。
私はいつも不機嫌な顔で頬杖をついて、刺々しい言葉を好んで使い、いつも独りを選んだ。
そんな私は、当然ながらクラスから浮いていた。
中学からの貯金で学業面は心配なかったので、教師からうるさく言われることはなかったし、
浮いていること自体はさほど気にするようなことでもない。
ただ、居眠りしたときなんかは、起こしてくれる人がいないというのは、少し心細い。
私は、ある授業の最中に寝てしまった。
自分のレベルと合わない授業進行は退屈で、それに加えて前の晩は洗い物の片付けに手間取って床につくのが遅かったのだ。
トントンと肩を叩かれて、私は目を覚ました。すでに授業は終わっていた。
それどころか、教室には私と、一橋くんだけだった。
彼を見上げると、彼は少し照れくさそうに頬をかいた。
あんまりよく眠っていたから、とか、なんとか言っていたと思う。
私は彼をジロジロ伺いながら、彼の名前が何だったか思い巡らせていた。
私がやっと「一橋綱吉くん」と口にすると、彼はおどけたように「箱崎八重さん」と言った。
それから、彼は人の良さそうな笑みを浮かべて「居眠りなんて意外だな」と言った。
「ほっといて」刺々しい言い方をしても、一橋くんは笑顔を崩さなかった。
その表情に私の頑なな心もほぐれたのか、昨晩の洗い物のこととか、一人暮らしの愚痴をついこぼしてしまった。
「今日も帰ったらね……」と、そこまで言いかけて、我に返る。
一人暮らしだなんて、あらぬ噂が立つには持ってこいの話だ。
しかも、私はクラスで孤立している。この話が知れたら、私を気に入らないクラスメイトがどう思うだろう。
あるいは誰かが押しかけて来たり、最悪、ゴミのたまり場になるかもしれない。
この頃は、考えが悪いほう悪いほうへ向かっていた。
私は鞄を取って立ち上がると、挨拶もそこそこに教室を出た。
心配とは裏腹に、何日経っても私に対する噂が広まる様子はなかった。
一橋くんは目立つタイプではないけれど、よく男友達と談笑しているのを見かける。
あの年頃の男子というのは、見たこと聞いたことをやたらに誇張して(特に女子が絡むと)話すものだと思っていただけに、彼の口の堅さは意外だった。
それから数週間経ち、数ヶ月経ち、なにごともなく(とは言え陰口くらい言われてるのは想像がつくけれど)平和な生活が続けられた。
以来、気がつくと目で追っている。挨拶とか、短いやりとりとか、そういうのは多少なりともあったけれど、話らしい話をしたのはそれきりだった。
二年生に進級してからも一緒のクラスで、それに内心喜んではいたけれど、結局遠くから見ているだけなのは変わらない。
あのとき、もっと違う風に話をしていたら。そう思わずにいられなかった。彼の背中に届くはずもない、私のため息。
のろのろと続くホームルームには教室中の誰もが、教師でさえうんざりしていた。
一橋くんはこっくりこっくりと船を漕いでいる。私の席からもはっきり見えた。つい、くすりと笑ってしまう。
ようやくホームルームが終わって、みんなガタガタと席を立つ。
その音で一橋くんは目を覚まして、一足で遅れた形で荷物をまとめ、席を立った。私は、彼を追った
人の流れて行く廊下の途中で彼と肩を並べると、私は声をかけた。
「一橋くん」
上ずらないようにだけ気をつけて。
「さっき、居眠りしてたでしょう」
「ああ、いや……あんまり退屈だったから」と、彼は頬をかいた。
「箱崎さんは寝なかったのか?」
「寝なかったよ、一橋くんと違って」
「ふぅん、意外だな」
彼がからかい混じりにそう言うので、顔が熱くなってしまう。
一つ、二つと、会話を交しているうちに、昇降口が見えてきた。
お互い、下駄箱から靴を取って、履き替える。こういうときに限って靴紐が変に絡まるものだ。
もたもたと履き替えている傍で、一橋くんは足を止めて待っていてくれた。
私はなにも言っていないけれど、一緒に帰ってくれるんだろうな。
そう思うと身体の内側がなんだかピリピリくすぐったいし、指先が一層不器用になる。
「ご、ごめん。待たせちゃって……」
やっと立ち上がると、二人で昇降口を出た。変な汗が背中を伝っている。
グラウンドへ走って行く運動部員や、これから帰るらしい生徒、忘れ物をしたのか慌てて校内へ戻って行く生徒、教師もときどき混じっている。
様々な人とすれ違った。高校生ともなれば、恋人ができるのも珍しくはない。
私と一橋くんは、すれ違った人から、どんな風に見えているだろうか。
人の流れを泳ぎながら、私は次に言うべき言葉を探していた。
こうして、ちゃんと話すのは一年ぶりくらいだね。
そう言いかけて、やめる。私のほうだけだ、そんなこと気にしてるの。
もっと無難な話題、無難な話題を。
頭を悩ませているうちに校門へ差しかかった。そういえば、彼の家はどこにあるのだろう。
「ねぇ、一橋くんの家って……」
言い終わる前に、不意に飛び込んできた甲高い声が会話を叩き切った。
「つーちゃーん!」
一橋くんのほうを振り返ると、小さな陰が弾丸のごとく彼にタックルを決めていた。
しかしちゃんと加減が効いていたらしい、一橋くんは少しよろけながらも、しっかりと女の子を抱きとめていた。
「隠れて見えなかったよー!」
「なんだナナか」
一橋くんはその女の子の顔を覗き込み、表情に苦笑いを滲ませた。
小柄な身体にショートカット、まるで子供のようだが、私と同じ制服を着ているのを見ると一応高校生らしい。
いきなり飛びついて、しかも一橋くんに少しも怒る様子がないということは、いったい二人の関係はなんなのだろうか。
「恋人?」
最悪の想定を尋ねてみる。二人は顔を見合わせて、きょとんとした。
「一緒に帰ってたの?」
特にこの、奈那と言ったか。私のことなんか他人以下として存在をシャットアウトしているのは、いっそすがすがしい。
「偶然だよ」
一橋くんはそう言って、ちらっと私のほうへ目をやった。
その言葉からは彼なりの優しさを感じる。
私と彼と、並んで歩いているのに最適な理由は、偶然というのが最適解なのだ。
「そう、さっき、偶然ね」
私はそう言って、くいっと口角を上げてみるが、きっと目までは笑ってないんだろう。
奈那と呼ばれた少女は、それですべて片付いたと言わんばかりに一橋くんを見上げた。
「じゃあ、帰ろっか」
その言葉に、一橋くんは少し気まずそうに頷いて、また私のほうへ目をやった。
正直、ナナとかいう少女にはムカついたが、私は一橋くんが少しでも気遣ってくれるのがわかったから、それでよかった。
「私はこっちだから」
二人とは逆方向の道へツカツカと歩いて行った。また明日、と、微かに一橋くんの声が聞こえた。
しばらく道を行ってからも時々振り返っては、一橋くんにまとわりつく少女に舌打ちが出る。
――――
私、待ってるから。
待つから。
ずっと、待ってるから――。
――――
――――
爪を噛む癖が、また出てきた。ナナとかいう少女のせいだ。
あれからたびたび、一橋くんの傍をちょこまかしているのを見かける。
妹かなにかと思いたかったけれど、彼女が一橋くんに向けている行為は家族へのそれとは微妙に違うようだった。
「一橋くん、ちょっといい?」
放課のチャイムと同時に席を立って、声をかけた。
さっきの授業中に何度も言葉を考えていただけあって、口はごくスムーズに稼働した。
「もしよければ、図書室で勉強しない?」
「これから?」
「そう、試験近いし」
「箱崎さんと、一緒に?」
「そう……」と、胸元がぐっと重くなるような感覚がした。
「も、もし先に予定があったなら、いいんだけど」
「いや、勉強はしなきゃと思ってたから」
一橋くんは照れくさそうに頭をかいた。
その言葉を聞いて胸のつかえが下りた気がした。
「今日の授業で、一橋くん、詰まってたでしょう。私も、実はあそこ苦手だから……一緒に勉強したらいいかと思って」
「詰まってたところ? ってどこだっけ……」
「もう、ここよ」
私は鞄からノートを引っ張り出して、彼が詰まっていた箇所を指した。
「ああ、ここね。でも、箱崎さん、ちゃんとできてるじゃん」
「……でも苦手なの」
うっかりしていた。そそくさとノートをしまう。
「ね、じゃあ、行きましょう?」
私がそう言うと、一橋くんは鞄にノートや教科書を詰め、席を立った。
図書室はさほど混んでいなかった。空いている勉強机に二人で並んで座った。
試験前ということもあるし、混んでいたら喫茶店か、なんなら私の家に招待しようかと考えていたのだけれど。
場所は図書室と色気がないし、空いているなりに人もいるけれど、ノートを広げて二人同じ問題を解くのはなんとも言えず甘やかな時間だった。
バカなクラスメイトが、図書室にいなければいいけど。
一橋くんが詰まっていた箇所を丁寧に噛み砕いて説明する。
彼はバツが悪そうに笑って、頭をかいた。
「苦手って言ったけど、箱崎さん、わかりやすく教えられるくらいに理解してるじゃないか」
それはもちろん、授業中に繰り返し教え方を考えていたからだけど、言わないでおいた。
「ところで、一橋くん」と、懐で暖めていた本題を持ちかける。
「この間の女の子、もしかして、恋人だったりするの?」
「この間の女の子……」
「ほら、ナナちゃん、って言ったかしら」
「ああ、奈那ね。秋柴奈那って言うんだけど……ただの幼馴染だよ」
「ふぅん、恋人でなければ、てっきり妹かと思った」
「ああやってベタベタしてくるの、昔っからでさ」
そう言って、一橋くんは苦笑した。幼馴染とはいえ、お互いもう高校生なのだから、とでも言いたげに。
私はとりあえず、二人が恋人として付き合ってないということにホッとした。
それに、奈那のほうはともかく、一橋くんは彼女に対して「妹のような幼馴染」以上の感情を持っていないらしいこともわかった。
私がちょっと身体を寄せたり、偶然を装って顔を近づけたりすると、
少し身を引くところを見ても、よっぽど私のほうが女として意識されているみたいで嬉しい。
「……と、日も落ちてきたし、今日はこれくらいで切り上げないか?」
「あ、うん……じゃあこれくらいで勘弁してあげる」
「意外と箱崎ってキツいのな」と、一橋くんは笑った。
「そ、そうかな」
いつの間にか、箱崎、と「さん」が取れていることに、胸の辺りがくすぐったくなる。
「あのさ、一橋くんがよければなんだけど」
「ああ、なに?」
「また時々、今日みたいに一緒に勉強しない?」
「ああ、いいよ」
「た、楽しかったから……」
「ああ、俺もわからないとこ教えてもらってよかったし、楽しかったよ」
それから、完全に日が落ちてしまう前に、図書室を出た。
「箱崎って、確か家そっちだっけ」
「あ……うん」
「じゃ、気をつけて帰れよ」
「ありがとう。また、明日」
「おう、また明日」
校門を出てすぐに別れなければならないのは寂しいけど、私の心はいつになく満たされている。
帰り道で独り、鼻歌を歌うほどに。
――――
中間試験が終わった。しばらくのんびりできる、なんて周囲は浮かれているけれど、期末試験までは結構すぐだ。
久しぶりに、一橋くんを誘おうと、私は放課のチャイムを待った。
雨がザアザアと降っていたから、誘い文句は「雨宿りがてら、一緒に勉強はどう?」とでもしようかなんて考えながら。
荷物をまとめて、席を立ちかけたところで、後ろの席のクラスメイトに呼び止められた。
「箱崎さん、さっき帰ってきた小テストの答案、僕のと入れ替わってない?」
彼の手にある答案を見ると、私の名前が書いてあった。
「あ、ええ……待ってね」と、鞄にしまった答案を取り出した。
名前の欄を見ると、彼の名前が書いてあった。
「ごめんなさい、慌てちゃってて……はい」
「ああ、どうも。しかし、いつも満点だね。すごいよ」
「……それほどでもないわ」
私は自分の答案をさっさと鞄に突っ込んで、席を離れた。
一橋くんは私がもたもたしている間に、教室を出てしまったらしい。思わず舌打ちをしてしまう。
すれ違う人、先を歩く背中に一橋くんの姿がないか気を配りつつ、雨の音が煙る廊下を足早に歩いて行く。
結局、彼を見つけられたのは昇降口へ着いてからだった。
一橋くんは雨の中、傘を差して歩いていた。
呼び止めようとしていながら、声を出せなかったのは彼の傘の中に奈那の姿があったからだ。
ただの幼馴染、その言葉の意味を頭でミシミシ考えていると、私は知らずの内に爪を噛んでいた。
雨の音が、遠ざかる二人をかき消していく。
二人の姿が見えなくなると、私はのろのろ靴を履き替えて、雨の中、傘を差して一人で帰った。
――――
「一橋くん、期末試験はどうだった?」
こうして、彼に話しかけるのもずいぶん久しぶりな気がする。
期末試験が終わり、明日から夏休みに入る。
半袖のワイシャツから覗く、一橋くんの二の腕につい目が行ってしまう。
「ぼちぼちかな……箱崎は?」
「私も、ぼちぼち」
「俺のぼちぼちと、箱崎のぼちぼちはなぁ」
「あら、違う?」
「月とスッポンだな」
「うふふっ、ね、夏休みは暇?」
「あー、うん、部活も入ってないしな」
「じゃ、一緒に、その、勉強とかどうかな。結局、あれきり一緒に勉強する機会もなかったし」
「遊びの誘いじゃないんだな」と、一橋くんはからかうように言った。
「いいよ。せっかくだ、今回わからなかったとこ教えてもらうかな」
お互いの連絡先を交換してから二人で教室を出ると、ごく自然に並んで廊下を歩いた。
昇降口に着くまで、ずっと期末試験の問題について話していたけれど、
一橋くんからクソ真面目と思われていたらどうしようかと少し心配になる。
それにしたって、私と彼との共通の話題なんて勉強と普段の学校生活くらいのもので、他に話しようもない気がするけど。
「つーちゃーん!」
校門へ差しかかると、いつだかのように陰から奈那が飛び出して、一橋くんにひっついた。
「ごきげんよう、秋柴さん」
「あっ、先輩……」
私は一橋くんのすぐ傍にいたのに、本当に彼以外には目もくれないみたいだ。
「名乗ってなかったわね、箱崎八重よ」
「あれ? 箱崎の名前、知らなかったっけ」
一橋くんは腕にひっついたままの奈那を見下ろした。
「……うん」
彼女の不安気な目に、なんとなく嗜虐心が刺激されるのはなぜだろうか。
今はベタベタまとわりついていい気になっているかもしれないけれど、一橋くんは貴方のことなんとも思ってないのに。
平気で相合傘をしているのを見たときはショックだったけれど、
考えてみればそれだけ「家族同然」にしか思ってないという証明だと気づいて、
時々見かける彼女のまとわりつきも段々と腹も立たなくなってきた。
「じゃ、私こっちだから」
挨拶もそこそこに私は踵を返して歩いて行った。
「おう、またな」
「お疲れ様でした……」
時々振り返って、逆方向の道を行く一橋くんと秋柴奈那の背中を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
――――
私は遠くで、貴方を待つ。ずっと、ずっと待つ――。
――――
――――
夏休みに入ってから、週に二、三回ほどのペースで一橋くんと二人で勉強した。
始めは近くにある図書館へ行っていたけれど、勉強机は私たちと同じような夏休み学生が席を埋めていた。
どうしても座れないときは喫茶店へ移動して、ノートを広げた。
「あ、あのさ、箱崎。ちょっといいか」
今日も図書館へ着いたときには席が埋まっていて、仕方なくいつもの喫茶店へ移動しようと踵を返したところで、
一橋くんが気まずそうな表情で私を呼び止めた。
「どうしたの?」
「いや、その……俺、ちょっと今月厳しくて……」
「あ、……ごめんなさい、全然考えてなかったわ」
「こう、何度も喫茶店は、地味に財布に来てて……今日のところは悪いんだけど」
やめにしよう。なんて、冷や汗のでそうな提案が彼の口から出る前に、
私はここぞとばかりに以前から夢想していた誘いを滑りこませた。
「じゃあ、私の家で勉強しない?」
「えっ、……箱崎の家か?」
「どうせ一人暮らしだから、気を使わなくていいよ」
「一人暮らしだから却って気を使うわけで……」
一橋くんはゴニョゴニョ渋っていたけれど、私が歩き出すとあとについてきてくれた。
おおかた、一人暮らしの女の子の部屋に、自分が訪ねるのはマズいと思っているのだろう。
彼が私のことを異性として意識してくれているというのは嬉しかった。
私も、彼が異性だと改めて意識すると、頬が熱くなる。
「どうぞ、狭いところだけど……」
「それじゃ、お邪魔します」
一橋くんは恐る恐るといった様子で靴を脱いで、私の部屋へ上がった。
私は今更ながら、掃除はちゃんと行き届いているか、見られて気まずいものはないか、気になって仕方がなかった。
二人分のノートやら筆記用具やらを置くと、いつもよりテーブルが小さく感じた。
そういえば、テーブルの色に合った椅子を二脚買ったのはこの部屋に越してくる前だったけれど、両方使うのは初めてかも知れない。
部屋は時計の針がチクタクいうのと、二人のペンが走る音でやけにうるさかった。
「一人暮らしって、やっぱり大変?」
「まあ、それなりかな。今はもう慣れたけど、最初は大変だった」
「そういや、授業中に居眠りしてたもんな」
「も、もう……その話はやめてよ」
私が言うと、一橋くんは意地悪そうにくつくつと笑った。
「いや、でもホント大変だよな。料理とか、俺、できないもん」
「私も別に、自分の料理は……」
「料理しないの?」
「するけど、上手じゃないから」
「ふぅん、でも箱崎って器用だし、料理おいしそうだけどなぁ」
「そうかなぁ」と、首を傾げてみる。
今まで、自分の作った料理を特別おいしいと思ったこともないけれど、もし、一橋くんにおいしいって言ってもらえたなら。
そう考えると、胸の辺りがきゅっとした。
「試しに、食べてみる?」
「箱崎の手料理?」
「あ、うん……えと、今から作れば夕飯にちょうどいいかも、だし」
「迷惑じゃないか? 食費とかも……」
「気にしないで。ふ、二人で、食べるほうが、その、寂しくなくていいし」
「そうか……、そうだな。じゃ、ご馳走になろうかな」
「い、いいの?」
「そりゃこっちのセリフだ」と、一橋くんは苦笑した。
「ちょっと失礼、家にメシ要らないって連絡する」
「あ……うん、わかった。じゃ、えと……私、ごはん作るね」
私はノートや筆記用具を片づけて、立ち上がった。
冷蔵庫の中身とにらめっこして、いつもの何倍も時間をかけてメニューを決め、それから台所に立った。
こんなときが来るとわかっていたら、かわいいエプロンでも買っておいたのだけれど。
いつの間にか電話を終えて行儀よく席についている一橋くんを見て、私はなんとも言えず幸せを感じられた。
――――
楽しいことはあっという間に終わるもので、学校が始まろうとしていた。
けれど、私は夏休みが終わることを憂いはしない。
一橋くんと二人きりで勉強ができた夏休みは楽しかった。
家に招いたし、手料理も食べてもらった。彼は何度も、私の料理を褒めてくれた。
それが嬉しくて、私はその日から料理の本を読み漁り、毎日レパートリーを増やすのに専念した。
そうしているうちに日は過ぎて、今日から、もう学校が始まるのだった。
夏休みの間に、もう一回くらい家に招いて、料理をごちそうしたかったのだけれど、仕方ない。
以前よりも三十分早くセットしておいた目覚ましで起きた私は、手早く二人分の弁当を作り、手ぬぐいで包んだ。
この手ぬぐいは前もって買っておいたもので、一番に手に取ったのは可愛い柄のものだったが、
一橋くんが友だちにからかわれるといけないから、あえて地味なものを選んだ。
でも、中身は色合いにも気を使ってとてもカラフルだから、きっと食べている間も楽しんでもらえると思う。
私は身繕いを済ませて部屋を出た。
もう以前の通学路は使わない。ぐるっと遠回りになるが、まずは一橋くんの家へと向かう。
彼の家の場所はこっそり調べておいた。あんまり驚かなければいいけれど。
ほとんど駆け足で道を行き、一橋くんの家の前に着いたのは午前七時くらい。
彼の部屋のカーテンは閉まっているから、まだ寝ているのだろうか。
一橋くんが望むなら毎日起こしに来てあげてもいいな、ああ、でも、あくまで彼の生活習慣に合わせて、だ。
私が早く来たからって、無理やり起こすことはしない。絶対。
アレコレ考えているうちに、ようやく一橋くんの部屋のカーテンが開いたようだった。
窓のほうを見上げると、ちょうど彼と目が合った。
手を振ると、彼は怪訝な表情を浮かべ、玄関の外へパジャマのまま出てきた。
「おはよう、一橋くん。ふふっ、パジャマのままで、みっともないわよ」
「あ、ああ、いや……えと、どうしたの、朝早くから」
「早くって言っても、もう七時半よ? お弁当渡しに来たの、今日のお昼に食べてほしいなって思って。はい」
一橋くんは私の差し出した包みを受け取って、ぽかんと口を開けた。
「はあ……?」
「じゃ、私、先に学校行くから。遅刻しちゃダメだよ?」
本当は一緒に登校したかったけど、一橋くんの様子を見ると準備には時間がかかりそうだったからやめておいた。
私は何時間でも待てるけれど、彼はきっと気を使ってしまうだろうし。
さすがに八時くらいまでは、教室はガランとしていた。
八時を少し回るとクラスメイトが続々と登校してくる。
一団に紛れて教室へ入ってきた一橋くんと目が合ったけれど、彼はさっと目をそらした。
きっと照れているんだと思う。
それから朝礼を終え、午前の授業が終わり、ようやく昼休みのチャイムが鳴ると、
彼は友人たちと談笑しつつ、私の作ったお弁当を手に食堂へと向かった。
それを見届けて、私はこの上ない満足感と、味はどうだっただろうかと少し不安を覚えた。
私は午後の授業中もずっと彼の背中を見つめていて、お弁当は気に入ってもらえただろうかとそればかり考えた。
やっと放課のチャイムが鳴ると、私が席を立つより前に、一橋くんが話しかけてきてくれた。
「あのさ、箱崎……」
「あ、うん……あの、お弁当、どうだった?」
「そのことなんだけど……あ、えと、弁当箱、洗って返すよ」
「ああ、いいよ。明日もまた使うし、私持って帰るね」
そう言って、私が手を差し出すと、一橋くんは弁当箱の包みを取り出した。
「フツーに食べちゃって、こんなこと言うのなんだけど、えーと、なんだ」
「味はどうだった?」
「申し分なかったよ、って、そうじゃなくって」と、一橋くんは頭をかいた。
「あの、えーと、俺、箱崎に弁当作ってくれるよう頼んだっけ?」
「ううん、私が勝手にやってるだけだから、気にしないで」
「いや、そのさぁ……」
「も、もしかして、迷惑だった……?」
「迷惑というか、箱崎の負担になるだろ? 食費だってばかにならないだろうし」
「そんなことないよ? 私、趣味とか全然ないし、生活費以外にお金使わないもん」
「そういう問題じゃなくってさ」
「あ、あの、私……一橋くんにごはん食べてもらいたくって、ただそれだけなの」
どことなく噛み合わない会話に、私の心臓はブルブル震えた。
「迷惑だったら、やめるから……ね。あの、ホントに、それだけだから」
縋るように言うと、ようやく一橋くんは頷いてくれた。
それにホッと胸を撫で下ろすと、私は次に食べたいメニューはあるかと次々に質問した。
明日は、なにを作ってあげようか。
――――
夏休みが明けてから、私の生活リズムは完全に変わった。それも、一橋くんを中心にして。
朝は六時に起きて二人分のお弁当と、自分の朝食を平行して作り、食事と身繕いを済ませ、軽く部屋を掃除する。
一橋くんが起きるのは七時から七時半の間なので、七時十五分には彼の家に着くように出発する。
一橋くんに「おはよう」と言って、お弁当を渡す。それから、学校へ行く。
一緒に登校するのもいいけれど、それよりも私は、彼が寝起き姿でお弁当を取りに来てくれるのが楽しみで、
この時間に訪ねることを決めた。
パジャマのまま目元をごしごしと擦り、あくび混じりの挨拶をする一橋くんは、写真に収めておきたいほどだ。
「じゃ、行ってくるね」なんて、キスをする妄想をして、朝から顔を真っ赤にしてしまうこともしばしばある。
一日の授業が終わって放課のチャイムが鳴ると、私は真っ先に彼のところへ行って、その日のお弁当の感想を聞く。
おしゃべりしながら途中までだけど一緒に帰る。
自分の家へ帰ってからは家事を済ませ、明日のお弁当のメニューを考えたり、料理の練習、余裕があれば勉強もする。
充実した毎日だと思っていた。ある朝に、あの奈那と出くわすまでは。
いつものように二人分のお弁当を用意して、一橋くんの家の前へ着いたのは七時十四分だった。
私が彼を待つべき場所に、小さな女の子の姿があった。
この頃めっきり見なくなったのでほとんど忘れかけていたが、それが奈那だとわかった。
「……なにしてるの? 貴方」
「先輩こそ、なんなんですか?」
その言葉に、つい鼻で笑ってしまう。
「一橋くんのお弁当を作って、今日も届けにきたのよ」
そう言うと、奈那は顔中に不快感を表した。
「先輩、迷惑なので、やめてもらえますか?」
「迷惑?」
「つーちゃんが嫌がってます」
「嫌がってるのは貴方じゃなくて?」
私はそう言いつつも、一橋くんが嫌がっている。そんなことは――と、喉から胸元までが冷たくなる感覚がした。
「やめてほしいって、言ってました」
「嘘、一橋くんはそんなこと言わない」
「とにかく、やめてください」
「でも、いつも、おいしいって食べてくれてるわ」
「つーちゃん、そういうところ優しいから」
「貴方、私と一橋くんに嫉妬しているんでしょう? デタラメ言わないでちょうだい」
思わず、奈那の肩に掴みかかりそうになる。
すんでのところで止まったのは、玄関のドアから一橋くんが出てきたからだった。
「あっ、一橋くん……おはよう」
「……おはよう、箱崎さん。奈那も、おはよう」
「おはよう、つーちゃん。……ボク、先に行くね」
奈那は私のほうをちらりと睨むと、さっさと学校のほうへと歩いて行った。
「一橋くん、これ、今日のお弁当……」
「あ、ああ、うん……ありがとう」
一橋くんはどことなくためらいがちにお弁当の包みを受け取った。
「……じゃ、じゃあ、私も……行くから」
私は震えそうな膝をなんとか支えながら、一橋くんの家を離れた。
まさか、まさかとぐるぐる、頭の中で奈那の言葉が回っていた。
――――
「あの、一橋くん……」
放課のチャイムが鳴ってから、恐る恐る近づいた。
朝のことが、ずっと引っかかったままだった。
「お弁当、どうだったかな……」
一橋くんは弁当箱の包みを差し出して、なにかぼんやりと考えごとをしているように黙っていた。
「あの……迷惑じゃないよね? 私のこと、嫌いじゃないよね……?」
「箱崎さん」と、彼は私の質問には答えてくれなかった。
いつの間にか、また「さん」がくっついているのが不気味だった。
「俺、奈那と付き合うことになった」一橋くんは言いつつ、荷物をまとめて、鞄を肩にかけた。
「弁当も、アイツが作ってくれるって言うから、これからは要らないんだ。今まで本当にありがとう」
頭の後ろのほうで、思考するためのなにかが停滞しているようだった。
喉元から胸が冷たくなった。なのに、目の周りや、鼻の辺りはやたらに熱くなった。
「あ……えと、うん、おめでとう。ごめんなさい、今まで……」
舌がもつれそうになりながら、最後の質問を投げかける。
「私のこと、嫌いになったわけじゃないよね……?」
聞こえなかったのか、いや、そのはずは――そんなはずはない、私は信じられない。
一橋くんは答えず、私から離れて、教室を出て行った。
――――
気がつけば、目で追っている。姿が見えなくなっても、勝手に続きを想像してしまう。
その隣に、自分を並べてみたりすると、ふと胸の辺りの空っぽに気づいてしまう。
いつだって、彼の姿を追っている。心の中でも、ずっと。
奈那ちゃんと、彼は、あれからうまいこと交際が続いているらしく、一緒に登下校しているのを毎日見る。
私はと言えば、未だに朝六時に起きて二人分のお弁当を作ると、一橋くんの家に行って、部屋の窓を少し離れたところから見ている。
一度、以前と同じところに居たら、奈那ちゃんに咎められた。
一橋くんの部屋のカーテンが開くのを見届けると、踵を返して、学校へと向かう。
お昼は今まで通り、独りで食べていたけど、この間、奈那ちゃんに誘われてからは一緒に食べるようになった。
時々、一橋くんも交えて、三人でごはんを食べる。
私は、三人でごはんを食べるときは、奈那ちゃんと一橋くんが話しているのを黙って聴いている。
放課後は独りで帰って、独りの部屋で、夕飯には渡せなかったお弁当を食べる。
最近、写真を取るのにハマっている。こっそり撮った一橋くんの写真を見ながら、一日が終わる。
できれば声も聴きたいけど、慎重にやらなければ嫌われてしまうだろう。
私は待っている、一橋くんが私を見てくれることを。
以上です。読んでいただきありがとうございました。
関連SS
「Close to …side.N」(オリジナルSS)