姉妹百合
胸くそ注意
お姉ちゃんは私にとって都合の良い存在だった。
「お姉ちゃん、宿題やっといてよ」
「うん、いいよ。どこ、したらいいかな?」
何を頼まれても、嫌な顔一つ見せない。
「お姉ちゃん、ジュース買ってきてよ」
「うん、いいよ。何がいいのかな?」
それに気が付いたのは、私が中学二年生、お姉ちゃんが高校一年生の時だった。
お母さんに頼まれたことも、近所の人に頼まれたことも、学校の友達や先生に頼まれたことも、
すべて嫌な顔一つ見せずに、お姉ちゃんは請け負っていたようだ。
お姉ちゃんが何かを断ったりする所を一度も見たことがなかった。
お姉ちゃんはなんでも言うことを聞いてくれるし、
きっとお姉ちゃんは頼まれごとをするのが好きなそういう性格なんだと思っていた。
もちろん、両親の前であんまりお姉ちゃんに我がままを言っていると怒られるので、
ばれないようにこっそり頼んでいた。お姉ちゃんは、絶対に告げ口しないのも分かっていた。
昔から大人しくて、おばあちゃんには思慮深な子だと言われ、
私が同じ高校に上がった時には、そういう大和撫子的な雰囲気から、
一部の男子から熱狂的な支持もあった。
でも、私たちの誰もが本当のお姉ちゃんを知らなかった。
元スレ
怒れない姉 (オリジナル百合)
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1441181856/
―――
――
―
外資系の企業に勤めている両親が、急な海外出張のため一ヶ月ほど家を空けることになった。
教育ママのお母さんがいなくなって、私は悠々自適にお姉ちゃんを扱き使っていた。
「みゆき、新聞取ってきて」
「ちょっと、待っててね。今、お弁当包んでるから」
「今すぐ読みたいの」
「ごめんね、わかったよ」
手を休め、水気をタオルで拭いてお姉ちゃんは玄関に向かった。
「ふわあ……学校、だる……」
両親の前では絶対にこんなこと言えない。
きっと、ビンタが飛んでくるに違いない。
机の上に並べられた皿から、卵焼きをを一つ摘み上げる。
「あむ……んぐ」
「しいなちゃん、新聞ここ置いておくね」
「ん……みゆき腕上げた? これ、めっちゃ美味しい」
「ありがとう。しいなちゃん、甘い方が好きでしょ」
笑って、またお皿を洗い始める。
「お弁当にも入れてあるからね」
「はーい」
母親がしていた家事の全てを、お姉ちゃんであるみゆきがしていた。
一応、母親が出かけてから私も何か手伝おうかと言ってはみたけど、
大丈夫と言われたのでそのまま今に至る。
新聞を広げてテレビ欄を一通り見て、
この時間帯に特に面白い番組はないことを再確認する。
ぱらぱらと一面から適当にめくっていく。
「お姉ちゃん、お茶」
「ちょっと待ってね」
こぽこぽとお茶がつがれる音。
なんか、家政婦みたい。
「はい、しいなちゃん……あ」
「なに?」
私は新聞から顔を離した。
「その人……」
どの人だ。
記事に視線を転じる。
『中学校教諭――太田正信さん(38歳)暴力的・差別的な発言で保護者から非難の声――』
端っこの方に顔写真があって、
無表情で細身の河童顔が写っている。
「あっれ、これってみゆきの中三時の担任じゃん」
「うん……」
「こいつうざかったよねー。私よく目つけられてたっけ。そのたんびにお姉ちゃんが呼び出されてさ」
「そうだね」
「やっぱちょっと異常だと思ってたんだよ、よく切れるし。怒り方も半端ないしさ」
「……」
「こいつホント嫌いだった。みゆきもでしょ?」
「ちゃんと怒ってくれるいい先生だったよ」
「お姉ちゃんってほんと心広いよねー」
私はお茶をすする。
「なんか修行でもしてるのかって言うくらい。菩薩?」
「そういうんじゃないよ」
「でも、私さ、なんでも言うこと聞いてくれるお姉ちゃん優しくて好きー」
「ありがとう」
お姉ちゃんは笑っていた。
――――
―――
―
同じ高校に通っていた私たちは、登下校はいつも一緒だった。
用がない限り、帰りはほとんど一緒だった。
両親が家を空けて半月程経った放課後の事だ。
「しいなちゃん、今日はちょっと用事があるから先に帰ってていいよ」
「え、やだ。一緒に帰る。いいじゃん、待ってるし」
お姉ちゃんは一瞬だけ困った顔を見せた。
珍しい。
そんな表情をする用事ってのは何なのだろうか。
「じゃあ、正門で待っててくれる?」
「おっけー」
足早に校舎裏に向かうお姉ちゃん。
私たちは二人とも帰宅部だ。
特に学校に居残ってすることはない。
「……なんだろ」
気になる。
私は気づかれぬように、後をつけた。
丁寧に雑草が刈り取られた校舎裏の花壇の前に、男女が二人。
お姉ちゃんと、もう一人は校内でもけっこう有名な野球部のエースだった。
壁際にぴたりと張り付いて、耳をそばだてた。
「あのさ、みゆき……好きな人とかいんの?」
「いないよ」
青春臭い台詞が聞こえてきた。
「俺さ、みゆきのこと好きなんだ。付き合って欲しい」
頭の中でエースなだけに直球、なんて妄想しながらお姉ちゃんの様子をうかがう。
頭を下げていた。
「ごめんなさい。私、そういうのは……よく分からなくて」
私はなぜかほっとしていた。
「分からない……?」
「うん……」
なんせお姉ちゃんのことだ。
告白されても、一つ返事で了承してしまいかねない。
さすがにそれはなかった。
「そっか……、じゃ、じゃあ一回だけ、一回だけでいいからデートしてくれない?」
エースは簡単には引き下がらなかった。
お姉ちゃんが顔を上げる。
「一回だけなら……」
やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんだった。
告白を断っておいてその安請け合いはどうかと思うけどね。
「それじゃ、明日放課後に街に行こうよ」
「うん」
「あ、携帯持ってる? メアド交換していい?」
エースは断られたにも関わらず、ぐいぐいとお姉ちゃんに近寄って、携帯を差し出していた。
きっと、お姉ちゃんは困った顔も見せず、あの笑顔で無駄な期待をさせているに違いなかった。
そういう所、嫌い。
八方美人。
そういうの、私だけでいいじゃん別に。
他の人に良い顔して、なんのメリットがあるんだろう。
やり取りが終わって、お姉ちゃんが振り返ってこちらに向かってきていた。
「やば……」
音を立てないように、正門へ急いだ。
次の日。
お昼休みにエースとお姉ちゃんとすれ違った。
「妹いたんだ」
エースが私に笑いかける。
「だれ?」
愛想笑いで返しながら、おねえちゃんを見た。
「柿島くん。ほら、野球部の」
「あ、エースの人だ」
わざとらしく言ってみたけど、柿島先輩は特に気にした風もなく、
「おう」
と、スポーツマンっぽい返事をしていた。
「なに、彼氏?」
そっけなさ100%で柿島先輩を睨む。
姉は柿島先輩を傷つけまいと、少し迷うようにして、
「ううん、違うよ」
と優しい声音で言った。
ふと、横目で見た柿島先輩は笑っていた。
それが、なんだか怖くて、私は適当に喋ってその場を去った。
「しいなー、柿島先輩と知り合いだったの?」
「え、違うよ、お姉ちゃんが同じクラスなだけ」
前を歩いていた友人に追いつくと、肩をこづかれた。
「柿島先輩って、めっちゃ俺様らしいって噂だから、気をつけなよ」
「そうなの? そんな風には見えなかったけど」
「でも、あんたの姉ちゃんはそういうの好きそうだよね」
「わかる? たぶん、マゾ入ってると思うんだよね、うちのみゆき」
「じゃ、お似合いじゃん」
「そうだね……」
ふざけんな。
そんなわけないだろ。
友人を張り飛ばしそうになったけど、我慢して一緒に教室へ戻った。
教室へ戻ると、同じ中学だった生徒が声をかけてきた。
「ねね、太田が捕まったらしいよ」
「うそッ」
「うちの弟が速報してきた」
椅子に座って寝そべっていた私はすぐに興味を惹かれた。
「なんか、生徒のエロい写真大量に持ってたって話」
「うええ……気持ち悪い」
「太田のクラスだった元生徒に今事情聴取始まってるって……あんたのとこ警察とか来なかったの?」
「えー、来てないと思うけど」
「みゆき先輩って、太田のお気に入りだったじゃん」
「……そうなの?」
知らない。
聞いたことない。
「あんたもだけど。よく怒られてる奴はだいたい太田のお気に入りだって噂」
「ひいい……」
鳥肌が立った。
その日の放課後、お姉ちゃんはデートに出かけた。
私には友達の家に宿題をしに行くと言って、
夕飯にミートソースのパスタを作り置いて出かけて行った。
私は、イライラしながらそのパスタを食べている。
テレビをつけると、太田のことが報道されていた。
「うわあ、ホントに捕まったんだ」
太田は未婚で、一人暮らし。
部屋の映像が映し出される。
モザイクをかけつつ、部屋の壁に貼られた女子中学生の写真が――。
「……ッ」
体操服で四つん這いにされている子。
スカートをめくり上げている子。
太田とツーショットの子。
「……お姉ちゃん?」
フォークが手から滑り落ちる。
ソースが机に飛び散った。
モザイクがかけられ断定はできない。
ただ、その写真はどことなく、似ていた。
恐ろしい予感はだいたい当たるものだ。
経験的な予感はだいたい――。
お姉ちゃんと思われる少女は、太田の膝の上に載せられ抱きしめられていた。
太田に殺意を抱いたが、もうすでに捕まっていたのを思い出す。
知らなかった。
こんなこと。
お姉ちゃんは一度だって素振りだってみせていない。
母親にも父親にも言ったことがないはずだ。
なら、やっぱりこれはお姉ちゃんじゃないんだ。
だって、もしそんなことがあったなら、
今何事もないように暮しているお姉ちゃんは何なのだ。
高ぶっていた気持ちが、落ち着きを取り戻していく。
けれど、お姉ちゃんを含む太田の受け持ちの生徒達には胸くそ悪い話のはずだ。
「てか、みゆき遅いし……」
イライラとテレビを消して、
静かになったリビングで夕食を再開した。
お姉ちゃんが帰ってきた。
時刻は9時を回っていた。
玄関に出ると、エース先輩もいた。
お姉ちゃんは担がれるように、立っていた。
「は……?」
「気分、悪くなったみたいで」
と、柿島先輩。
お姉ちゃんは、なぜかジャージだった。
それも、柿島先輩の。
「あの、これ制服……洗ってます」
「は、はあ」
渡された百貨店の紙袋に制服が一式。
「ジャージ返すのはいつでもいいからって、言っておいてもらえる?」
柿島先輩はそう言って、逃げるように去っていった。
暗がりに消えていく柿島先輩。
お姉ちゃんは支えを失って、玄関の柱に背中を打ち付けた。
「あッ……」
それから、ずるずると地べたに座り込む。
「どうしたの?」
お酒でも飲まされたのだろうか。
私はしゃがみこんで、お姉ちゃんの顔をのぞく。
「立って」
と言うと、
「はい……」
と言う通りにふらつきながら立った。
「しいなちゃん……」
「虫入るから、早く家に入ってよ」
「うん……」
よたよたと丈の長いジャージを引きずる。
それから、力尽きたように玄関に倒れこんだ。
「はあ?」
びっくりして、私はやや声を荒げた。
お姉ちゃんの肩が震えた。
「ひッ……あ」
また、すぐに立ち上がる。
「な、なに……熱でもあんの」
「ごめんね、違うの」
靴を脱いで、リビングへ向かう。
私は呆然としていた。
「みゆき」
玄関から声を張り上げる。
「は、はいッ」
お姉ちゃんが丁寧に返事を返す。
それから、すぐに私の方を振り返る。
「太田先生、捕まったって」
「そうなんだ……」
「なんか、ホント気持ち悪いんだけどさ、当時の生徒のエロい写真部屋に貼ってたらしいよ」
「……」
お姉ちゃんは少し虚ろな瞳を私に向けた。
「ちょっとみゆきに似てた子いたけど、まさかね」
「……そんなわけないよ」
「だよね」
お姉ちゃんが嘘をついたのが分かった。
「しいなちゃん、私……」
「なんで嘘つくの、お姉ちゃん」
「え」
「太田先生に写真撮られたんじゃないの」
沈黙。
やっぱりそうなんだ。
「なに、そういう趣味?」
私は冗談めかして言った。
「違うよ……」
弱弱しく否定するその態度になぜか腹が立って、
私は怒鳴った。
「違わないでしょ!? なんで言わないのさ!」
キモオヤジが私のみゆきをいたずらした事実が、
頭の中を熱くさせた。
「ごめ……ごめんなさいッ」
私は、お姉ちゃんに怒鳴ったことなんてこれまで一度もなかった。
それは、お姉ちゃんが私を怒らせるようなことをしなかったからだ。
だから、ここから先のことを本当に、これっぽちも私は予想していなかった。
「謝って欲しいんじゃないの!」
「し、しいなちゃん……ッ……」
どもりながら、お姉ちゃんは廊下に座り込んだ。
体を震わせながら、両腕を顔の前に掲げた。
自分を守るように。
「……なんなの、お姉ちゃん? 人の言いなりになって、怒鳴られても言い返せないの?」
私を拒絶するようなその態度が悔しかった。
どうして何も話してくれないのか。
お姉ちゃんのそばに近寄って、ジャージの胸倉を掴んだ。
「いやあッ……いやあ!?」
瞬間、足元に生暖かい感触。
「え」
「あああああ?! やめて!? 怒らないでッ……!! せんせえッ……!?」
お姉ちゃんがお漏らししたことに気が付いて、
「わ……ッ」
私も後ろに後ずさって尻もちをついた。
わーわーと泣きじゃくるお姉ちゃん。
「み、みゆき……」
私は、一体何のスイッチを押してしまったんだろう。
悪い夢を見ているのか。
お姉ちゃんは泣きながら、四つん這いで私の方に近寄って、
私の方に背を向けて、太ももの間で体育座りをした。
何をしているのだろう。
しばらくすると、小さくピースをしていた。
「これで、いい……?」
「え、な、なにが……?」
お姉ちゃんが振り返る。
私と目が合う。
「の、のいてくれる?」
恐る恐る言った。
お姉ちゃんは焦りつつ、すぐに横へ移った。
私のスカートは少し湿っていた。
次の日――。
お姉ちゃんは普通に朝ごはんを作っていて、
お弁当をよそおってくれて、
私と一緒に登校した。
お姉ちゃんの手には紙袋が握られていた。
そして、正門に柿島先輩の姿があった。
「あ、よお……」
先輩は小さく手を振っていた。
「おはよう」
お姉ちゃんも控えめに挨拶を交わす。
「これ、ジャージありがとう……」
「ああ」
「それじゃあ」
私は柿島先輩が口をパクパクと開けているのを見て、
お姉ちゃんの袖を掴んだ。
「どうしたの……」
「あ、あのみゆきッ」
お姉ちゃんは振り返る。
振り返りたくなかっただろうに。
お姉ちゃんは絶対に振り返るのだ。
「昨日は怒鳴ってごめん」
柿島先輩が頭を下げた。
私はそれで、どういう経緯かはわからないが、昨日のお姉ちゃんの姿をこの男も見たのだと悟った。
それから柿島先輩は昨日の夜を彷彿とさせるように、急ぎ足で校舎へ向かった。
「ねえ、昨日柿島先輩と何があったの……」
お姉ちゃんは黙る。
私は声のトーンを下げる。
「言えってッ」
「あ、あのね」
そして、もう、姉が人の言葉に滅多に歯向かうことができないのだと知った。
たどたどしく話してくれた内容はこうだ。
一日だけと言って、食事や映画、ゲーセンに遊びに行った後、柿島先輩の知り合いと出会ったらしい。
で、どうやら見栄っ張りだった柿島先輩は、その人達に、自分の彼女だと紹介してしまった。
で、去り際にダブルデートの約束をしようとした柿島先輩を止めるために、彼女じゃないと伝えたらしい。
知り合いの人達は柿島先輩をひどく笑っていたと。
知り合いと別れた後、柿島先輩はかなり怒っていたらしく、二人きりになった時に物凄い剣幕で怒られて。
話を聞き終えた頃にはもう授業も始まりそうだったので、
私は色々言いたいことを抱えて、教室に戻った。
「ねえねえ、聞いた? やばいよね?!」
「なに……」
最高に不機嫌なオーラで振り返る。
「みゆき先輩さ」
「お姉ちゃんが何!?」
私は掴みかかる。
「いたッ……落着きなって。知らなかったの?」
「なにを……」
「いや、中学校の部活の先輩らがさ教えてくれたんだけど……みゆき先輩、あんたを庇っていつも太田の所に行ってたらしいじゃん」
「どういうこと……」
「あんた、よく怒られてたじゃんか……それで先輩自分が代わりに罰を受けるからって」
「なにそれ……」
「ショーゲキ的だよね……あんた、先輩に何も聞いてないの?」
知らない。
聞いたことない。
そんなことになってたなんて知らなかったんだもん。
「他の被害にあった子達、今引きこもってたり高校中退してるんだって……ねえ、先輩大丈夫?」
『先輩大丈夫?』
その言葉が授業の最中、ずっと頭の中を回っていた。
お姉ちゃんは昔から、ああだったじゃん。
昔から?
本当に?
お姉ちゃんは感情を表に出さない人だと思っていた。
内心ではきっと溜め込んでて、抑えて抑えて感情がサビちゃった人。
お母さんがお姉ちゃんを厳しく育てたから、そうなったのかと思っていた。
お母さんのせいじゃない。
でも、太田先生の事知らなかったよ。
私、お姉ちゃんが言うことを聞くのが楽しかった。
お母さんはお姉ちゃんの事ばっかりだったから。
我がままを言っても、聞いてくれなかったから。
私の我がままは全部お姉ちゃんが聞いてくれてたから。
だから、
私、
悪くないよね。
そうだよね。
放課後、お姉ちゃんと一緒には帰らなかった。
私は中学校の時の部活の先輩の家に来ていた。
会うのは、中学以来だった。
インターホンを押した。
「こんにちは」
すぐに、年配の女性の声がした。
「あの、沙織さんの中学の時の後輩で……」
女性が息を吸い込んだような気がした。
「帰ってもらえますか」
「え、あの」
「沙織はもうおりません」
「え」
ブツと気味悪く音が途絶えた。
カメラが監視するようにウイインと動いていた。
もう一度インターホンを押すような度胸もなく、
私は近くに住んでいるもう一人の先輩の所に向かった。
二人とも、お姉ちゃんと同じクラスだった。
その家はインターホンはなかった。
玄関はしまっていた。
躊躇したが、扉を叩いた。
「すいません!」
古い日本家屋で、
庭には鯉が泳ぐ池があった。
確か、農家だった気がする。
「はい……」
割烹着を着た白髪のおばあちゃんが出てきた。
「あの、私……透さんの後輩で」
「透ちゃんの後輩……?」
おばあちゃんは不審そうにこちらを見やる。
「あの、会って聞きたいことがあって」
「……まあ、そうかい」
おばあちゃんは少し悩んで、
「お上がり」
私を透先輩の部屋の前まで案内してくれた。
ぎしぎしと来客を知らせる廊下。
扉の向こうで、物音が聞こえた。
「私は向うにおるね……」
「は、はい……」
急に暗がりの廊下に一人になった。
何度も話たことのある先輩だ。
でも、どうして玄関で話せないのか。
本当に引きこもっているのだろうか。
右手でゆっくりとドアをノックした。
「あの、先輩覚えてますか。しいなです」
しいなと言う名前は中学の時、私しかいなかったので、
他に迷う相手はいない。
ただ、中学という単語を出すか迷った。
迷ったあげく、言った。
「中学の時の後輩の、しいなです」
返事はない。
無音。
エアコンの室外機の音が聞こえた。
5分くらい私は突っ立っていた。
この部屋にホントにいるのかとさえ疑問に思えてくる。
もしやいないのでは。
「あの……うちの姉のみゆきのことで」
ベッドのスプリングのような音がした。
『みゆきちゃん……?』
かっすかすの声。
答えてくれたことで私は少し安心してしまい、太田先生のことを口に出した。
「はい、太田先生が中学の時に……え」
扉が勢いよく蹴破られたらしかった。
私はそのまま扉に当たり、後方に吹っ飛んで壁に盛大に体を打ち付けた。
視界の隅に、足を上げて立つパジャマ姿の女性が映っていた。
「うぐッ……」
一瞬呼吸が止まって、咳込む。
「ごほッ……ッ」
「しいな……」
「げほ……ッ透先輩」
「みゆき……どうしたの? あの子も自殺したの?」
「は……?」
透先輩は驚くほど白かった。
そして、驚くほど骨ばった体をしていた。
「みゆきが一番……酷い目にあってたからね。当然か」
「し、してませんッ……生きてますから」
「あんたは……何しに来たの」
「お姉ちゃんが……今、ちょっとおかしくて、それで」
聞こうと思っていたことを言う前に、透先輩がせせら笑った。
「今さら、何? ……警察も、学校も、今さら……知って、何ができんの……」
「し、知りません……」
「遅いのッ……今さら、あのクソ田に謝罪されたって……遅いんだよッ」
「き、来たんですか太田先生」
「来るわけないじゃんッ」
「は、はあ……」
錯乱してるのか。
どたどたと、足音。
「透ちゃんッ、大丈夫かい?」
「お、おばあちゃんッ……」
お婆さんは透先輩の体を抱き抱える。
私は背中の痛みに顔をゆがめながら、
二人を黙って見ていた。
透先輩は嗚咽を漏らしていた。
短かった髪は、いつの間にかポニーテールになっていて。
私の知っている天真爛漫な透先輩はもうどこにもいないのだと分かった。
『先輩大丈夫?』
言葉が耳に残っている。
どうしよう。
お姉ちゃんはもしかしたら、
もう手遅れなのかもしれない。
帰宅する足取りがあまりにも重い。
あの家にいる人間は、本当に私の知るお姉ちゃんなのだろうか。
家に帰ると、誰もいなかった。
電気はついていて、テレビもつけっ放しだった。
何か用事を思い出して、出かけたような状態だった。
夕飯はできていた。
グラタンだった。
牛乳とバターの濃厚な香りが、漂っている。
「……」
一人、席についてお皿の上にかかったサランラップを外す。
まだ、熱い。
スプーンで一口すくって食べる。
美味しい。
30分くらい、テレビを見ながらそれを食べてお姉ちゃんの帰りを待った。
開けっ放しの窓から風が入ってきた。
少し肌寒くて、窓を閉めようとして、手をかけた。
「しいなちゃん……」
「え……」
振り返る。
お姉ちゃんが食器棚の前に立っていた。
「お、驚かせないでよッ……いるならいるって言って」
「ごめんね」
耳の中で、脈の音が聞こえるくらい波打っていた。
何をびびってるんだろう。
私は食べ終えた食器を自分で片づける。
黙々と食器を洗う。
「……今日は洗ってくれるの? ありがとう」
「……別に」
頼めない。
私、今までどうやってお姉ちゃんに命令してたっけ。
そもそも命令って何。
どうしてそんなことしてたの。
自分のしていたことが急に怖くなった。
「でも、私がやるからいいよ」
お姉ちゃんが隣に立った。
体が触れた。
「ひッ……」
なんでもないことだったのに、
私はお皿を取り落とし、
そして、半歩程後ずさった。
「じ、自分でできるからこれくらいッ」
「……そう、だよね。お節介だったね」
お姉ちゃんは席へ座って、自分の分のグラタンを食べ始めた。
「か、柿島先輩さ……」
唐突に話題を振る私。
「うん……」
「付き合わなくて正解だったじゃん」
「そうだね」
その日を境に、私はお姉ちゃんに何かを頼むことを止めた。
止めたことによって、だんだんとお姉ちゃんへの依存心も薄れていくような感覚だった。
そして、私の行為に反して、お姉ちゃんは私に付きまとうようになっていた。
両親が家を空けてから、3週間が経った。
その頃、私はお姉ちゃんがどうして普通の生活を装うことができたのか理解し始めていた。
お姉ちゃんは前にも増して静かになっていた。
学校でも家でも。
ただ、私の世話だけは相変わらず焼きたがった。
うっとおしく感じる時もあって、怒鳴りそうになるのをこらえた。
そんなことも、もうできなくて、それが私のストレスになり始めていた。
その日、隣の家から怒鳴り声が聞こえてきた。
夫婦喧嘩のようだった。
横に座っていたお姉ちゃんは椅子から降りて、
机の下に入って、まるで地震の時みたいな恰好で震えていた。
私はそれで、どこか緊張の糸がぷつりと切れて笑った。
「あははッ……そんなに?」
お腹を抑えて、もぞもぞと這い出てくるお姉ちゃんを見た。
顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにしていた。
「……怖くないの?」
今日、初めて聞いた言葉だった。
久しぶりのお姉ちゃんの声は、やはりかっすかすだった。
怒鳴り声だけで、お姉ちゃんは何かを思い出し、震える。
自分を守るだけで精一杯。
怒りと言う感情が歪曲して、恐怖に変わる。
そして、その恐怖は私と言うどうしようもない妹がいたことで、
自分よりもろくでなしな私を守っていたことで緩和されていた。
姉としての責任感からなのか。
「怖くないよ。お姉ちゃんさ……どうして、自分がそんな風になったか結局教えてくれなかったけどさ……なんでなの」
「こういう性格だから……」
「今まで言わなかったけど、私、透先輩に全部聞いたから。中学の時の事。それと、沙織さんのことも……」
お姉ちゃんの体が固まった。
「みゆき……私、知らずにずっと酷いことしてた……あのさ」
棒立ちのお姉ちゃんに抱き着く。
「ごめんね……。そうやってびびんの疲れたでしょ……?」
背中をさすってやる。
「みゆきの怖いものはもうないよ……ね、今度は私が守るから……もう、怖がらないでよ。私、妹じゃんか……」
隣の家から物が割れる音が聞こえた。
そして、また、怒鳴り声の応酬。
お姉ちゃんはびくりとした。
「んッ……」
下半身から、温かいものが流れていた。
「たくッ……何やってんの。いい年して」
半泣きのお姉ちゃんの服を脱がせ、洗濯機に放り込む。
適当に洗剤を入れてスイッチを入れた。
「……早く入んなよ。風邪ひくよ」
「うん……しいなちゃん」
「なに」
「一緒に入らない?」
「はあ? いいけど……」
私はさっさと脱いで、服を洗濯機に放り込んだ。
久しぶりだった。
気恥ずかしい。
でも、頼られるのは悪くなかった。
頭と体を洗いあって、お姉ちゃんが先に湯船に浸かる。
狭いお風呂に二人も入れるかと思ったけど意外といける。
向かい合わせで座る。
足は伸ばせない。
「お姉ちゃん、落ち着いた?」
「たぶん……」
たぶん、て。
どんな気持ちでたぶんて言ってるんだろうか。
気持ち悪い現実から切り離されたような湯船の中で、
私たちは二人きり。二人きりの姉妹だった。
「憎いとかって思わない? 復讐したいとか」
それなら、私はけっこうノリノリで参加するんだけど。
「思わないよ……」
だけど、こう答えるもんだから。私は心の中で呆れるし、同情する。
聖人君子か。
「みゆきはさ、これから普通に生活していけると思う?」
「ううん……」
即答されて、私はぎくりとした。
「しいなちゃん……私、まだ自分が今どんな状態なのかよくわからないの。中学の時の記憶が昨日のことのように思えて、あれから私の中では時間なんか経ってないようなそんな……」
そんなことない、と否定したかったけれど、それはお姉ちゃんを傷つけるような気がしてしまって言葉を飲み込んだ。
「上手く言えないけど、みゆきは歩き出してると思う。記憶って、そこで止まったまんまだから、そんな風に錯覚しちゃうのかもしれないけど……嫌な記憶がいつも追いかけてきてそう感じるのかもしれないけど、でも、みゆきは前よりも大きく歩き出してるよ……」
どこに向かって歩き出したのかは分からない。
ごめんね。
私はざぶんと両手を広げた。
お湯が跳ねる。
「ほら」
お姉ちゃんは一瞬ぽかんとしたけど、意を得たように私の胸にゆっくりと体を寄せた。
もしかしたら、ずっと待っていたのかもしれない。
私の胸の音を聞くように頬を当てている。
「もし、またお漏らししても私が何とかするから」
「や、しいなちゃんッ……」
いたずらっぽく笑ってみせる。
私の首に腕を回す。
胸と胸が当たっていた。
こそばゆい。
胸が熱いのは、そのせいだ。
じゃあ、顔が熱いのは。
私はお姉ちゃんの頬に右手を添えた。
睫毛を震わせて、一度瞬きをしていた。
「一生……何とかするから」
こんな言葉軽々しく使っていいのだろうか。
わかんない。
でも、明日からまた残酷で危険な記憶と戦っていかなくちゃいけないお姉ちゃん。
いつ終わりが訪れるのかわからないから。
私にできることはそれくらいだから。
私、ずっとそばにいるよ。
おわり
41 : ◆/BueNLs5lw - 2015/09/03 00:15:08.64 ghnIwVUu0 35/35いつも駆け足ですいません
読んでくれてありがとなのん