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【艦これ】キスから始まる提督業! ①巻上【ラノベSS】
第七章 覚醒、その原因は
昼食を食べるよりも早く、一刻も早く成果を確認したい・・・。
執務を終えた五人の見解は一致して、とにかく一度演習場へ向かうことになった。
執務室として使っている自室からは既にみんな退出してしまって、鎮守府もう一人の空母の少女――翔鶴は出遅れてしまった。
「翔鶴さんも・・・行くよ?」
「あっ・・・はい、今行きますから」
一航戦や妹は廊下に出て先を行っているため、少年と連れ立って部屋を出る。
隣を歩いているのが妹ではなく・・・瑞鶴よりも少し背の低い少年だということに、新鮮味を感じた。
そういえば、少年といる時は常に瑞鶴も一緒にいたため・・・こうして二人きりになるのは初めてだ。
何か、話してみようか?
「先ほどの作戦は・・・提督自身が考えたのですか?」
「うん、兵站は戦争の基本だからね・・・何よりもまずこれを確保しないと」
幼さを感じさせる顔立ちで・・・でも、先ほど見事な方針を打ち出したのは彼なのだ。
15歳にして、歳上の空母四人を前に自分の作戦を認めさせ実行する手腕・・・。
でも・・・この少年の本質はそこではないと、翔鶴は思う。
「ちゃんと、出来ていたかな・・・僕。頼れる提督に見えた?」
不安げな表情で、こちらを覗いてくる碧色の瞳・・・。
上官としての虚勢を脱ぎ捨てた後に残る、この年相応のもろさ。
それは翔鶴にただ上官として仕えるだけでなく、支えてあげたいという気持ちを起こさせる。
瑞鶴の“お姉ちゃん”をやってきたからだろうか、不謹慎にもこの年下の上官が・・・翔鶴には可愛い弟の様に見えてくるのだ。
瑞鶴に向ける親しみや慈しみと全く同じ気持ちを、この少年にも抱く。
意識するまでもなく自然に・・・不安げにこちらを見る少年へと手が伸びていた。
「しょっ・・・翔鶴さん!?」
「ふふ、提督は頑張っていますよ?」
小麦色の柔らかい髪の毛を、ゆっくりと撫でる。
頭頂部から前髪へと、何度も、何度も。
男の子にしては繊細で、サラサラとした感触。
「やめてよぅ・・・」
「ふふ、ダメです」
照れているのだろうか、先ほど自信満々に語った時とは打って変わって弱弱しい声。
抵抗するように腕を動かすものの、本気で頭を撫でる翔鶴の手を抑えようとはしない。
可愛い可愛い、翔鶴の新しい弟・・・たまに、私を困らせるような意地悪もするけれど。
不意に、今翔鶴が少年に対して感じている感情が―瑞鶴が感じているものと同じなのかどうかが気になった。
瑞鶴もまた、自分に弟が出来たような感覚を得ているのだろうか、と。
おそらく、それは違う。
違うと、翔鶴は自答する。
自分が少年に対して抱いた感情と瑞鶴が抱いている感情は、似ている様で全く別のもの。
思えば少年が来てから、自分たちの環境は一変した。
特に妹はそう、何しろ出会いからして衝撃的だったのだから。
あんな体験をしたら・・・瑞鶴が落ち着かない毎日を過ごすのも仕方のないこと。
「提督のおかげで、鎮守府は今までより明るくなりました」
「瑞鶴と加賀さんの仲も良くなったし、今度は資材まで」
「少しずつですけれど、確実に・・・あなたが頑張っているのはみんなが知っていますよ?」
少年を安心させようと、頭を撫でながら優しげな微笑みを浮かべて見つめる。
今度こそ少年は本当に照れてしまったのか、顔を赤くするばかりで何も答えない。
普段、瑞鶴や加賀さんを、少年の柔らかな笑みでそうやって惑わせているのに。
・・・自分が褒められるのには慣れていないのかしら?
そんな見当違いの結論を導き出して、空母の少女はもう一つ、話を進める。
「瑞鶴の爆撃・・・上手くいくでしょうか?」
「ううん、多分・・・このままだと」
予想通りの歯切れの悪い解答。
翔鶴でさえ考え付いているのだから、この利発な少年が気づいていない訳がない。
覚醒の鍵となる、あの行為がないと・・・おそらく瑞鶴の爆撃は―――。
そして問題は、それに対して少年がどういう答えを導き出すか。
「どうなさるおつもりですか?」
「そんなの・・・決まってるよ。瑞鶴さんが嫌がることは出来ない」
瑞鶴が嫌がるに決まっている、という答え。
瑞鶴が嫌がることはしたくない、という答え。
それは決して正しくないけれども、少年らしい優しい答え。
少年の答えに満足は出来ないものの、自分の中の彼に対する好意が増すのを翔鶴は感じた。
それをしてしまえば・・・おそらく簡単に私たち空母の爆撃は安定するようになる。
『提督』として判断を下すのならば、するのが当然・・・そしてそれが咎められることはない。
でも彼は・・・目の前の彼はそれを否とした。『少年』としての答えを導き出した。
そのことが、なんだか自分のことの様に誇らしい。
トクン、と一つ、胸が跳ねる。初めて感じる、締め付けられるような痛み・・・これは?
弟の恰好いいところが見られて、嬉しかったのだろうか。
おそらくまた、瑞鶴とこの幼い提督はすれ違うだろう。これから先、何回も。
では、自分は?
姉として、二人を導いてあげたい・・・少し、頼りないお姉ちゃんだけれども。
さしあたっては、多分この後すぐ対立するであろう二人の仲を取り持ってあげよう。
自分に出来る範囲内で、精一杯。
空母の少女はそう、決意を固める。
まさかその決意のせいで、予想外の事態が自分にも降りかかることなど思いもよらずに。
「赤城さん、加賀さん、見ててよね!」
自信満々に瑞鶴さんが語る。
昨日の爆撃は百発百中だったし、実力を確かなものにした感覚もあるのだろう。
だからこそ、僕は不安になる。
さっき廊下で翔鶴さんが提示したのと、全く同じ懸念を持っているから。
艦娘の不安定な力を確実なものにするための、ある条件。
僕の予想が当たらないことを祈りながら、今はただ見守るしかない。
「五航戦瑞鶴・・・いきます!」
瑞鶴さんを見守る他の空母たちが固唾をのむのが分かる。
放たれた矢は中空で爆撃機へと姿を変えて、大空を羽ばたいていていって。
プロペラの音が、いつになく静かに僕らの耳に響く。
「ようし、そのまま、そのまま」
瑞鶴さんの指示通りに爆撃機は飛行を続け、やがて爆弾の投下ポイントへ。
昨日僕を襲ったあの異常な視覚は、やはり今起きることがない・・・つまり、僕からの進路修正の指示は出来ない。
「あ、あれ・・・? と、とにかく行っちゃって!」
ここにきて瑞鶴さんに違和感が出たのだろうか、それでも今更勢いは止まらない。
投下された爆弾は真っ直ぐに洋上へと落ちていき、そして・・・。
ガツン、と鈍く低い音を的から引き出して、そのまま海へと沈んでいった。
もちろん、何の爆発もないまま。
「えぇー、何で、何で!?」
まさか失敗するとは思っていなかった瑞鶴さんはすっとんきょんな声をあげる。
まあ、仕方ないよなあ。昨日あれだけ成功していたんだもん。
「瑞鶴・・・本当に成功していたの?」
「本当だって、昨日はすごかったんだから!」
「まあ、あなたが言うのならそうなのだろうけれど・・・」
瑞鶴さんを疑いはしないものの、戸惑いを隠しきれないのは加賀さんと赤城さん。
「提督・・・」
「うん、やっぱり・・・」
僕はというと、翔鶴さんと顔を見合わせてため息をつく。
先ほどの懸念が的中してしまったのだから、二人ともどうしていいのか分からない。
一方で僕の台詞を聞き捨てならないのは、失敗した張本人だろう。
失敗すると分かっていたのに黙っていられたなんて知ったら、いい気がしないのも当然。
「ちょっと、提督。やっぱりってどういう事よ・・・翔鶴ねえも何か知ってるの!?」
我慢出来ずにこちらに駆け寄ってくる瑞鶴さん。
あぁ、いよいよ説明しなけりゃいけないか・・・って、近い近い、瑞鶴さん近い!
本人はまさかの失敗しか頭になくて、意識なんてしていないんだろうけれど。
これからアレを説明する僕からしたら、僕のすぐ目の前まで駆け寄ってきた瑞鶴さんが気になって仕方がない。
「ねぇ、とにかくどういう事か教えてよ!」
「ちょ、瑞鶴さんっ」
「教えてくれるまで離さないんだから!」
僕の肩を両手でガッチリ捕まえて詰め寄ってくる。
視線のすぐ前は、道着の襟からチラリと覗く鎖骨と細い首筋。
そこを見まいと顔を上げると、今度は小さくきゅっと窄めた、桜色の綺麗な唇・・・。
なんて綺麗なひとなんだろう。
こんな状況なのに、僕の意識はそこに囚われて動けなくなってしまった。
だってそうだろう?
肩を掴まれて、真剣な表情で僕を見下ろして。
これじゃあまるで・・・いや、恥ずかしくって最後まで意識することなんて出来やしない。
「瑞鶴、落ち着いて?」
「ちょっと、瑞鶴。それじゃあ提督も喋れないでしょう?」
先ほどの瑞鶴さんを労わる口調よりも、加賀さんの言葉尻に若干の冷たさ。
「あっ、ごめんなさい・・・」
「提督は何かご存知な様ですから、みんな一度落ち着いて、お話を聞きましょう?」
それを拾うように赤城さんが仕切りなおしてくれる・・・ありがたい。
「はい・・・」
「提督、教えて? 私、何がいけなかったのかな?」
先ほどの自信はすっかり鳴りを潜めて、今は不安げな表情を浮かべている。
ああ、僕がもう少し早く瑞鶴さんを止めていたら、こんなことにはならなかったのに。
いずれにしろ、もう逃げられないんだし・・・。
ハッキリと言ってしまおうと思う。
「瑞鶴さん、爆撃が成功した日と、今日みたいにしなかった日」
「何か違ったところはなかった?」
「違った・・・ところ・・・?」
「うん」
成功した日にはあった出来事。
成功しなかった日には無かった出来事。
「初日に執務室を爆撃しちゃった時、何があった?」
忘れもしない、あの日の出来事。
僕らのファースト・コンタクトは、最悪の出会いだった。
「何がって、その。私とアンタが・・・しちゃって」
「聞こえないよ、瑞鶴さん」
「私と! アンタが! キスしちゃったでしょ!」
そこまでハッキリ言われると恥ずかしいけれど、今はそんな場合じゃない。
「そうだね、じゃあ昨日は?」
「昨日は・・・その、パンツ見られて・・・」
「うんそれもホントにゴメン」
違う、そっちじゃないんだ・・・。
瑞鶴さんにとってはそっちの方が衝撃的だったのだろうか?
取り敢えず僕を睨めつける加賀さんの表情がこわい。
ああ、何で自分から女の子にしでかした事を発表しなければならないんだろう。
激しく死んでしまいたい気分に駆られながらも、僕は瑞鶴さんに先を促す。
「あと、指吸われちゃって・・・」
「うんそれだでもホントにゴメンっ!」
あれ、僕ってもしかして結構やらかしてる?
・・・セクハラで訴えられなくて良かった。
「でも、それだって言われても私・・・分かんないよ」
今更のように瑞鶴さんが、僕が吸った方の指を大事そうに胸の前で抱える。
心なしか頬が赤いのは・・・可愛いと思うと同時に本当に申し訳ないと思う。
「その二つの、共通点って何かないかな?」
「提督がヘンタイだってこと?」
「それ以外でって、違う違う、僕ヘンタイじゃないからね!?」
全く・・・真面目にやる場面でも瑞鶴さんといるとこれだ。
まあ、そこが彼女の魅力でもあるんだけれど。
「ああ、そんな・・・もしかして」
「赤城さん・・・いえ、そんなまさか」
本当にまさか、と思うような解答。
でも、爆撃が成功した日としなかった日を比べると、もう”それ”しかないんだ。
「ねえ、どういう事?みんな何で顔を赤くしてんの?」
・・・言いにくい事を直球で聞かないで欲しいと思うけれど。
でも、これからもっと言いにくいことを瑞鶴さんに言ってもらわなきゃいけない。
「最初の執務室の爆撃があった時、僕と瑞鶴さんはキスしてしまったね」
「うん・・・しちゃった」
「そして、昨日も僕たちはキスしてしまった」
「え!?」
驚く瑞鶴さんを無視して、彼女の手を取る。
「こうして、怪我をした君の指を手繰り寄せて・・・血を吸った」
「ちょっ・・・やっ」
「後から考えれば・・・これだって見方によっては”キスした”ことに入らないかな?」
「瑞鶴さんは昨日、僕にこうされた時・・・キスされたって思った?」
俯いて、何も喋らない。
・・・恥ずかしがっていることは分かっているけれど。
そこをきちんと聞かないと話が進まないから・・・。
「ごめんね、瑞鶴さん・・・でも、大事なことなんだ」
「・・・・・・・・・」
気が遠くなるほどの沈黙を経て。
「・・・・・・・・・思った」
「・・・・・・・・・手にキスされちゃったって、思った」
もう耳まで真っ赤に染めながら、やっとそう教えてくれた。
その答えを聞いて、僕はこう結論づける。
「これで、決まりだね。艦娘が覚醒する条件、それは・・・」
「キスすること、もしくは・・・キスされたと艦娘が認識することかな」
「冗談じゃないわ、そんなのまた私とキスしたいだけじゃないの!?」
「ええ、そんな訳ないだろ!?」
僕の発言を受けて、瑞鶴さんがヒステリックに叫ぶ・・・一番実害を受けている身とすれば当然かも。
セクハラ目的で言っていると勘違いされてはたまらない。
あくまでも真面目に考えた結果なのだ、これは。
それに僕だって、あんなに嫌そうにする瑞鶴さんに無理矢理キスしようだなんて思わない。
「何よ、私となんかキスしたくないってこと!?」
「そんな事、僕言ってないだろ」
むしろ瑞鶴さんが嫌がるだろうから、今まで言えなかったのに。
「言ったじゃない!」
「いつ言ったさ!?」
「もう、瑞鶴・・・あまり提督を困らせてはいけないわ」
「・・・だって」
翔鶴さんの仲裁に、しぶしぶといったかたちで瑞鶴さんが戈をおさめる。
ああ、やっぱり瑞鶴さんは嫌がると思ってた・・・だから言いたくなかったんだよなあ。
「しかし・・・提督、本当なのかしら?」
「その、キス、で艦娘の力が覚醒するというのは」
加賀さんがキスという単語に躓きながら疑問を呈する。
まあ僕が言うのもなんだけれど、とんでもない理論だから疑うのが当たり前だと思う。
「正確には、不安定だった艦娘の力が安定するといったところかな?」
「それもキスした後の数十分か、何時間か分からないけれど・・・一日はもたないみたい」
昨日あんなに凄かった瑞鶴さんの今日の様子を見るに、そういうことだろう。
だから、今後知らなければならないのは・・・。
第一に、本当にキスで艦娘の力が安定するか。
第二に、どのくらいの時間、効果があるのか。
第三に、うーん、これが一番言いにくいんだけれど・・・。
「瑞鶴以外にも、キスの恩恵が受けれるかどうか・・・知らなくてはなりませんね」
赤城さんにズバリ指摘されてしまって、後に引けなくなってしまった。
「まあ、そういうだね・・・」
艦娘の力を安定させることは、これから先を考えても重要なことだ。
でも、その手段があまりにも・・・じゃあやろう、と言うには戸惑ってしまう。
「何よ、他の艦娘にもキスしたいってわけ?あー、やらし!」
「そんなやらしい気持ちからじゃ・・・でもごめん、やっぱり迷惑だよね」
「あっ・・・そ、そうよ。迷惑だわ!迷惑に決まってるじゃない!」
瑞鶴さんもこんなに嫌がっている訳だし、それは他の艦娘たちも同じだろう。
活躍するためとは言え、好きでもない男とキスするなんて嫌に決まってる。
やっぱりこの手段はお倉入りするべきだな、と僕が決めようとしかけた瞬間。
「私は・・・試してみても良いと思います」
「私にキスしてみて下さい、提督?」
そんな事を口にして一歩前に進み出たのは、僕にして見れば最も意外な人物。
優しい微笑みを浮かべた翔鶴さんが、僕を見つめながら手を差し延べていた。
「ちょっと翔鶴ねえ、正気なの?」
「瑞鶴、勘違いしていないかしら・・・キスといっても、先の方にちょっとだけよ?」
「えっ・・・あ、そっか。そうよね・・・」
そう言って手をかざしただけで瑞鶴さんは納得してしまう。
そりゃあ勿論、力を引き出すだけなんだから唇の先だけのキスになるだろうけれど、でも。
「で、でも」
先ほど納得しかけた瑞鶴さんだけれども、やっぱりと思い直したようだ。
「なあに、私が提督とするのが嫌なの?」
「それとも、逆かしら?」
「しょ、翔鶴ねえ、そんなんじゃないわよ!」
どういう意味だろう、と僕が考える間もなく。
「と、いう訳で提督。一瞬ですみますよね?」
「いやいや、ちょっとでも一瞬でも駄目なものは駄目だよ!」
「そうでしょうか・・・キスと聞いたときは驚きましたが・・・それくらいなら、まあ」
「そうですね、瑞鶴以外にも効果があるのか・・・試してみる価値はあります」
普段はストッパーになるはずの加賀さんも納得の様子。
ええ!?艦娘にとって僕とのキスくらい何でもなかったりするの!?
お姉さんってそういうものだったりするのかな、もしかして大事に感じていたのは僕だけなんだろうか?
「ほら、提督。私の手を取って・・・?」
そう言って再び、手の甲を僕の方に向けてくる翔鶴さん。
本当に?本当にしてしまってもいいのだろうか・・・・・・?
「試さなきゃいけないんですもの、仕方ないわ」
翔鶴さん・・・なんて優しい人なんだろう。
僕や他の艦娘のためにそこまでしてくれるなんて・・・その優しさには、しっかり答えなきゃいけない。
「じゃ、じゃあ・・・いくよ?」
「はい」
差し出してきた翔鶴さんの手を自分の方へよせて、距離を詰める。
翔鶴さんがさらに一歩、こちらに近づいたのを感じて・・・うんと背伸びをしなきゃ届かない。
「えっ・・・・・・・・・提督?」
「翔鶴さん、ごめん!」
唇と唇が重なる、二回目のキスは初めての少女の姉とだった。
一瞬でいいと分かっているから、瑞鶴さんとの時ほど固まらなかったけれど・・・それでも。
普段物静かで、自己主張をしない翔鶴さんとこんな風に繋がっているのを感じると・・・どうしようもないくらいドキドキしてしまう。
僕がこんなにもドキドキしてしまうようなことも、翔鶴さんにとっては何でもないことなんだろうか。
そう思ったけれども・・・あれ!?
普段は穏やかな翔鶴さんの瞳が、驚きに染まっている。
あ、あれ。さっきはちょっとくらいなら大丈夫って言ってたのに!?
「ちょっとアンタ、何やってんのよ!」
「・・・・・・・・・何をしているの、アナタは」
「あらあら、困りましたね」
外野からの戸惑いの声と、翔鶴さんの顔が真っ赤に染まっていくのを見て・・・。
「あの、僕何か変なこと、した?」
「あったりまえじゃない、この馬鹿!変態!」
「何故翔鶴の唇にキスしたのか・・・理由を教えて欲しいものね」
この二人の追求が鋭すぎてこわい・・・けれど。
「だって、翔鶴さんがキスして良いって」
「誰が唇にしろって言ったのよ!」
「昨日指先へのキスで効果が出たのなら、同じ指先にすれば良かったのではなくて?」
「あっ」
得意げに語ったくせに、痛恨のミス。
『指先くらいだったら大丈夫』という意味で言ってたのか・・・だからみんな、割と平気な顔をしていたのだ。
キス、というと瑞鶴さんとのファースト・キスの印象が強すぎて・・・唇にすることしか思いつかなかった。
・・・・・・・・・っと、そうだ。
だとすると、翔鶴さんに謝らなければならない・・・。
「しょ・・・翔鶴さん、ごめん!僕、勘違いして・・・」
でも案外、天然系の翔鶴さんなら意外とショックは受けてなくて、許してくれたり・・・?
「きゅぅぅ」
「ああ、翔鶴ねえ大丈夫!?」
倒れた。
あ・・・やっぱ駄目だよね、そりゃ。
「あ、アンタねえ~~~~!?」
「私、言わなかったかしら。大概にして欲しいと」
倒れた翔鶴さんに代わって、妹の瑞鶴さんはともかく加賀さんまでもがお怒りの様子。
た、助けて、赤城さん!
残るもう一人の空母にとりなしてもらおうと、彼女の方を見ると。
「翔鶴、起きて。爆撃が成功するか試してみましょう?」
「あ、加賀。お仕置きが終わったらこっちへ来てね?」
赤城さん!!??
何でそんなにドライなの、おかしいでしょ!
「ええ、分かりました。なるべく早く終わらせましょう・・・瑞鶴?」
「うん、任せて!」
「えっちょっ・・・艦載機!艦載機はダメェエェぇぇぇぇぇぇ!」
瑞鶴さんと加賀さんを仲直りさせるのは早まったかな、と。
薄れゆく景色の中で僕は、そう思うのであった。
「大変申し訳ありませんでしたあああ!」
「あのう、提督・・・もういいんですよ?」
士官学校でもしなかった生涯初の土下座を、まさか女の子相手にするなんて思いませんでした。
気分はもうお白洲に引っ立てられた罪人、後はお沙汰を待つばかり。
だというのに、こんなことをしでかした僕を翔鶴さんは許そうとしている。
・・・・・・・・・なんて優しいんだ、本格的に翔鶴さんが女神に見えてきた。
流石に笑顔が引きつっているような気がしないでもないけど、とにかく許してもらって良かった・・・。
「さあ、翔鶴の許しもあって一段落したことですし、肝心の爆撃を見てみましょう!」
だから赤城さんは少しドライすぎませんかね!?
ちゃっちゃと本題に入りましょう感が半端ないんだけど。
「納得いかないけど・・・まあ翔鶴ねえが良いっていうなら」
「そうね・・・翔鶴、艦載機を」
はい、と返事をして翔鶴さんが準備をはじめるけれど、こちらを見つめて苦笑する。
うん、僕も同じ思いだ・・・たぶん、この爆撃は。
トン、という、爆撃にしては静かと言わざるを得ない爆発音。
同じ姉妹なのに翔鶴さんの爆撃は繊細でコントロールが良く、ほとんど的に的中させる。
その代わり瑞鶴さんの様な破壊力はなく、的には当たるものの深海棲艦を倒せるほどの威力かと言われると不満が残る。
そんな、いつもどおりの爆撃。
だって、昨日瑞鶴さんに起こった謎の光や、僕の視点の変化も無かった訳だし。
予想通りというか、翔鶴さんの爆撃はやっぱり不十分な結果に終わった。
「瑞鶴・・・よくあんなに正確で、大きな威力を出せたわね」
「うーん、翔鶴ねえが覚醒したら私なんかよりよっぽど凄いと思うんだけど・・・?」
まあ、起こらないことをとやかく言っても仕方がない。
翔鶴さんにはキスをしても何の変化もない、ということが分かった。
・・・あれれ、まてよ。そうなると『キスが艦娘の力を引き出す』という僕の説も揺らいでこないか?
このままみんなに試して、もしも結果が出なかったら・・・・・・?
その場合、僕はありもしない話を振りかざして女の子の唇を奪った最低野郎という事に?
・・・・・・この説、畳んでしまおうか。まだ誰もその事に気がつかない―――
「まさかこの説を撤回するつもりではないわよね?翔鶴に被害を出しておいて」
―――ワケがないのでこのまま突き進むしかない。アーメン。
ええい、ままよと僕は強気で実験を続けることにする。
成果が上がらなければ、それまでだ・・・もう後のことなんて考えてられない!
そんな指揮官としてあるまじきことを考えながら、話の主導権を握るべくこう切り出す。
「まさか、瑞鶴さんには上手くいって翔鶴さんはそうでなかっただけの話さ」
「加賀さん、赤城さんと試してその法則を見つけてやればいい」
ああ、何言ってるんだ僕。見つかるもなにも、覚醒してくれるかさえ分からないのに。
でももう立ち止まるわけにはいかない・・・お次は。
「次は、加賀さんかな?」
「ええ、いつでもどうぞ」
加賀さんはそう言って、スラリと長い指先をこちらへと向けてくる。
きれいなひとは、指先まできれいなんだななんて・・・そんな事を思った僕は少しの間、加賀さんに見蕩れる。
唇じゃなく、手にキスするんだとしても・・・こんなきれいなひとにしてしまって良いんだろうか?
でも、そんな事ばかり言って逃げていても仕方ない。
「じゃあ、いくよ」
覚悟を決めて加賀さんの手を取ろうとした瞬間。
「・・・・・・・・・っ!」
「わわっ・・・加賀さん?」
差し出していた自身の手を光の速さで引っ込める加賀さん。
なんだかその前にビクって震えた気がするけれど・・・?
「・・・何か?」
「いや、今ビクって」
「・・・何か?」
「・・・何でもないです」
「そう」
すました顔でいる加賀さんに何も言えなくなるのは僕だけで。
「あれれ~、もしかして加賀さん、怖いんですか~?」
生意気な後輩の口は、その程度じゃ塞げなかったみたいだ。
仲が良くなったからこそ、瑞鶴さんは生意気にも加賀さんをからかうことができるんだ。
・・・加賀さんの方がそれを喜んでいるとは限らないけれど。
「怖い、何がかしら」
「またまた、強がらなくてもいいんですよ?」
「もう、瑞鶴・・・先輩、すみません」
すまなそうに謝る翔鶴さんに、まだニヤニヤと笑っている瑞鶴さん。
そのどちらの態度にも、加賀さんは火をつけられた様だ。
「こんなのの何が怖いって言うのかしら?」
「ただ手の甲にキスしてもらうだけの事・・・外国の紳士、淑女の間では習慣だと聞きます」
「五航戦の娘たちみたいに唇にされる訳でもなし、怖がる要素がないわ」
「根も葉もない憶測でものを言うのはやめて頂戴」
普段無口な人が動揺すると、饒舌になるものらしい。
こんなにたくさん喋った加賀さんなんて初めて見たよ、僕。
「加賀、そんなに熱くならないで・・・瑞鶴も少し冗談を言っただけなんだから」
「私が熱く?いえ、私はただ、実験をすませるのなら手早くすませたいだけのこと」
「提督も・・・ほら、さっさとすませて頂戴」
そう言って再び手を差し出してくる加賀さん・・・。
でも、僕は気付いてしまったんだ。
加賀さんが僕に向かって差し出したその手が、少し震えていることに・・・。
やっぱり、こわいんだろうか・・・なら、少しでも不安を消してあげたいけれど。
僕だって、ここに来る前は女の子とこんな事になった経験なんてないんだ。
手探りで、なんとか加賀さんが落ち着けるような言葉を絞り出さなきゃいけない。
「加賀さん・・・僕だってこわい・・・いや、すごく緊張しているんだ」
「手とはいえ・・・加賀さんみたいなきれいなひとにキスする訳だから」
しいん、と場が静まり返る。
あ、あれ・・・何で。怖いのは僕も一緒で、加賀さんだけじゃないから安心してって言いたかったんだけれど。
何でこんなに静まり返りますかね!?
「提督・・・」
「赤城さん?」
「もしかして、ワザとやってたりします?」
何がさ!?
「こんなんだから毎日、落ち着かないのよ・・・」
「あはは・・・」
瑞鶴さんは瑞鶴さんで、聞こえないくらい小さな声でボソボソ言ってるし。
位置的に聞き取れただろう翔鶴さんは苦笑いしている・・・何故だ。
「い、いいから・・・」
「いいから、さっさとすませて下さい・・・」
蚊の鳴くような声で、加賀さん。
ものすごく顔が赤いし、本当に大丈夫だろうか?
「それがすんだらいっそ、私を殺して・・・」
そんなに!?
確かに恥ずかしいだろうけど、キスされるのは手の甲にだし、死ぬほどのことじゃないよ・・・?
「じゃ、じゃあ・・・いくよ?」
コクン。
動揺も度が過ぎると饒舌ささえ消え去って、言葉も出なくなるらしい。
ええい、ままよ。
こうなれば勢いだ、行くぞっ!
「加賀さんゴメン!」
「あっ」
差し出された加賀さんの手を取って・・・今度は翔鶴さんの時の様な間違いは犯さない。
身体を引き寄せるのではなく、自分の方から加賀さんの懐へと踏み込んで。
―――そういえば、以前も似たようなことがあって・・・加賀さんに抱きついてしまった
スラリと伸びた、雪のように白い手を、僕の唇が撫ぜた。
それからの1秒1秒が、とてつもなく長く感じる。
「んっ・・・」
加賀さんの口から吐息が漏れ出る。押し殺したような、それでいて苦しいのとは違う、そんな声。
彼女の艶かしい声に理性が飛びそうになるのをかろうじて我慢して。
僕は加賀さんの指先に唇を押し当て続ける。
「ね、ねえ・・・まだなの?」
3秒、4秒・・・加賀さんの手の甲に唇を押し当てたまま動かない僕らに焦れて、瑞鶴さんが言う。
でも、まだ何の効果も現れちゃいない・・・翔鶴さんに続いて加賀さんもそうなのだろうか?
5秒、6秒と・・・僕らの頭に失敗の二文字が浮かび始めたころに、それは起こった。
ポウっと・・・加賀さんの指先から手の甲にかけて、薄靄のかかった輝きが灯る。
「ああ、これ!これよ!」
「昨日、瑞鶴の身体に灯った光と同じものです!」
五航戦の二人の興奮した声が、僕の説を決定的なものにした。
半信半疑だったものが今、ようやく一航戦も含めた全員の共通見解となる。
「何なのでしょう、これ」
加賀さんが、自分の手に宿った輝きをまじまじと見つめている。
ああ、やめて。手を口元に持っていかないで・・・関節キスになっちゃいそうだから!
「加賀、早速艦載機を」
「ええ、赤城さん」
シャラン、という音とともに加賀が艤装を展開して、洋上の的へと視線を移す。
淀みのない手順で弓を構え・・・輝く方の手で矢を番えて、そして。
「一航戦加賀、出ます」
放った。
それは普段の瑞鶴さんが放つ矢よりも高く、高く勢いにのって。
翔鶴さんの放つ矢よりも精緻で、美しい軌跡を描きながら大空へと登っていく。
「うっ・・・」
「提督、どうしたのですか?」
「赤城さん、気にしないで。加賀さんは爆撃に集中」
「え、ええ」
爆撃機――九九式艦爆に姿を変えたあとは、予想通り僕の視覚と繋がっていく。
目の前の空母たちが僕を心配そうに見守る映像と、艦爆が捉える映像。
それはまるで、二つのテレビ番組を同時に見ているような奇妙な感覚。
「高度も狙いも問題ない、完璧だ・・・そのまま爆撃して!」
「当然です」
短く僕に返事をして、爆弾が洋上の的を狙って投下される。
ドカン、と爆弾が直撃し・・・凄まじい音を立てて炎上していく。
九九式という旧式爆撃機が叩き出す火力じゃないぞ、これは。
「やりました」
冷静さをアピールするのなら、思わずとってしまったガッツポーズをやめた方がいい。
おまけに、その誇らしげな声も。
でも、そんな事を指摘するほど今の僕らは野暮じゃあない。
「やった、凄いよ、加賀さん!」
「これは・・・本物かもしれません」
「やっぱりキスの力、あるんだ・・・」
代わりにすべきは素直な賞賛と。
「あのう、提督・・・でも、昨日の瑞鶴と比べると・・・」
「聞いていたほどでは無いような?」
冷静な分析。
それから先、数回の爆撃を加賀さんにこなしてもらったところ。
その全てが大成功といったもの。キスの効果は確かにある、だけれども。
「そうだね、これなら昨日の瑞鶴さんの爆撃の方が、威力は凄かった」
なんせ、遅れてきた爆風で艤装のスカートがめくれるくらいなのだ。
今回の爆風じゃ、陸まで届いた風は微かで、みんなのスカートはそよぐくらいだった。
・・・決してめくれることを期待していたわけじゃないよ?断じて。
「私よりも、瑞鶴の爆撃の方が上だというの?」
うわあ、加賀さんのプライドを刺激しちゃマズイ。
さっさと説明にうつらないと!
「うん・・・でも、昨日と違うところもあるから、それも関係してると思うんだ」
「昨日のあの輝きは、手だけじゃなくって私の全身にあったもの」
加賀さんの手に灯った輝きは、昨日の瑞鶴さんに灯ったものと全く同じもの。
たけど・・・瑞鶴さんは全身が光に包まれたのに対して、加賀さんは指先だけ。
「それに比例してかは分からないけれど・・・艦娘の覚醒、パワーアップも」
「正直、その。空母としての地力は瑞鶴さんよりも、その・・・」
ああ、駄目だな僕は。提督として言いにくいことでもちゃんと言わなきゃいけないのに。
「提督、いいわ、言っちゃって。私よりも加賀さんが上手いのは事実なんだから」
「瑞鶴・・・」
素直に自分と加賀さんの実力差を認める瑞鶴さん・・・これは初めて見る姿だ。
それを隣で見た翔鶴さんが感動している・・・分かる、気持ちは分かるよ翔鶴さん!
でも今の本題はそこじゃあないんだ!
「瑞鶴・・・」
と思ったら加賀さんも感激していた・・・もうめんどくさいや、この人たち。
黙っていると保護者会が始まってしまうと思った僕は、強引に話題を戻す。
「赤城さん、加賀さんと瑞鶴さんの間には・・・どれくらい腕の差があるの?」
「圧倒的です、加賀がこれから全く上達しないと仮定しても・・・追いつくのにどれだけかかるか」
もちろんそれは瑞鶴さんが怠けているとか、役に立たないとか、そういうことではない。
それだけ一航戦の名を冠する者は、高みにいるということ。
血の滲むような研鑽の果てに築いた、確かな実力。
「全身を輝かせた瑞鶴さんの爆撃は、今日のパワーアップした加賀さんの爆撃よりも凄かった」
「うん」
「はい、昨日の瑞鶴の爆撃は、それだけのものでした」
指先にキスという同じ条件の中艦娘の力を覚醒させたはずなのに、二人の伸びしろは大きく違っている。
それこそ、瑞鶴さんと加賀さんの間にある圧倒的な実力差を埋めてしまうほどに。
全く同じ条件をもとにパワーアップして、実力が下の瑞鶴さんが上に行く?
未熟な者にほど効果があるのか・・・でもそれじゃ、翔鶴さんに効果が無かったのは何故?
加賀さんに比べたら、翔鶴さんの方が未熟なはず・・・。うん、やっぱりこれは条件にならない。
まだ僕たちに見えていないモノが存在するのだろうか?
「謎が深まってしまいましたね」
赤城さんの言うとおりだ・・・全く法則性が分からない。
まあ、データが少なすぎるっていうこともあるんだけれども。
やはりこれは・・・もっと詳しく知る必要がある。
同じ結論に行き着いたのか、赤城さんが今度は自分の番だと言うように頷いて。
「では、次は私ですね。提督、お願いします」
「そうだね、最後に赤城さんにお願いして、今日は終わろうか」
「え」
瑞鶴さんが小さな驚きの声を上げたのに気づかないフリをして、僕は赤城さんの指先へと視線を移した。
瑞鶴さんでは試さず、翔鶴さん、加賀さん、そして赤城さんで実験を終了すると遠巻きに宣言する。
そんな僕の臆病さが、このあとの事態を引き起こすのだと知っていれば・・・。
もう一度、この場面に戻れるとしたら・・・勇気を出して、僕は違う行動を取れただろうか?
第八章 すれ違う二人
「や~~っぱ、赤城さんは流石よねえ」
鎮守府の中にある食堂【間宮】にて。
注文の料理を机に置いて席に着きつつ、瑞鶴さんがため息をもらす。
「そんな事はありません、日々の精進です」
自分に寄せられる賞賛を、さも当然のように流すのも含めて流石だ。
自分の実力に対する絶対の自信と、自負。空母のエースとしての誇り。
やはり『一航戦・赤城』は別格だ、と僕は思う。
同じ一航戦である加賀さんでさえ及ばない絶対的な何かを感じるんだ。
だって・・・。
「結局赤城さんには私と一緒で、何の効果もなかったのに・・・」
「昨日の私と同じくらいの威力を出すんだもん、かなわないなあ」
そう、赤城さんは翔鶴さんと一緒で僕のキスの効果が見られなかったのに・・・。
昨日の、覚醒した瑞鶴さんと同等の爆撃をやってのけたのだ。
「当然です、赤城さんはそう容易く超えられる壁ではありませんから」
だから何で赤城さんよりも加賀さんが誇らしげに話すのかなあ。
でも、と切り出す赤城さんの口調は重い。
「私も何かしらのパワーアップが出来るかと思ったのですが・・・残念です」
「もし私にも恩恵があるのなら・・・提督に毎日キスされても良かったのですが」
「それも、指先だけでなく・・・唇の方に。ふふっ」
冗談めかした彼女の声は、それ故に冗談では無い事を物語っている。
赤城さんにここまで言われて・・・僕はドキリとするよりも、危うさを感じた。
少し生き急いでいるような気がしてしまったのは・・・どうやら僕だけのようだ。
他の3人は赤城さんの言葉を額面通り受け取っている様だから。
「ちょっとアンタ、今残念だとか思わなかったでしょうね!?」
「お、思ってない。思ってないよ!?」
「・・・そうですか、残念です。提督にとって私なんて眼中に無いですよね」
「頭に来ました。赤城さんを馬鹿にするなど、例えあなたでも許せません」
さっそくいつもどおりの板挟み、どっちに転んでもこの有様!?
残る翔鶴さんに助けを求めようと、チラリと視線を向けると。
「ま、毎日キス・・・また唇に・・・!?」
口に手を当てて、顔を赤くして混乱している。
うん、それは僕のせいだ本当にごめんなさい!
「いずれにしよ、艦娘があなたのキスで覚醒するというのは事実の様です」
「根拠はありませんが・・・私の中に、そんな確信が生まれつつあります」
『艦娘』としての、感覚。今日の成功をもって新たな感覚が加賀さんに芽生えたようだ。
確かに爆撃の成功という事実がある以上、その感覚はおそらく正しい。
でもそれだけじゃあ、安定してこの力を使いこなすことは出来そうにない。
「せめて、何で瑞鶴さんと加賀さんにだけ効果があったのかが分からないと」
「持続時間もそうです、加賀のあの輝きが続いたのは・・・20分ほどでしたか?」
「ええ、そうね。それくらいです」
「うん、となると実戦投入しても・・・」
「敵と出会う頃にはいつも通りね。やる意味ないんじゃない?」
瑞鶴さんの言うことも最もだ。戦闘が始まるまでに持たないんじゃあ意味がない。
そうやって真剣に考えるフリをして、僕は彼女と向き合うのを放棄していたんだ。
いや、それは今に限ってじゃなくて、爆撃の実験をした時からそうだった。
だから僕たちは、ここですれ違うことになる。
「それならば色々と・・・もっと実験してみる必要がありそうです」
「明日、明後日と続ければ・・・私や翔鶴にも効果が出るかもしれませんし」
そんな赤城さんの・・・当然とも言える意見に、僕は何も返せない。
何故なら赤城さんの意見を採用するということは・・・これからも僕が艦娘たちにキスをし続けるということ。
唇じゃない、例えば今日の様に指先だけだとしても・・・問題は同じことだ。
僕は良い。
こんなに可愛い女の子ばかりなんだから、嫌がる要素がない。
でも、彼女たちからしてみれば・・・どうだろう。やっぱり嫌なんじゃないかな。
そう思ったのも束の間、僕が一番恐れていた人が口を開く。
それは、先ほど勇気を出して踏み出さなかったツケなのかもしれない。
「冗談じゃないわ、これからもコイツにキスされ続けろって言うこと!?」
「瑞鶴?」
「あなた、どうしたの?」
突然の瑞鶴さんの叫び声に、みんながびっくりしているのが分かる。
・・・やっぱり瑞鶴さん、僕とキスしたのが嫌だったんだ。
そう思うと、胸の奥がたまらなく痛くなる。
「私、本当に迷惑してるんだから。これ以上コイツにキスされるなんてありえない!」
その言葉は、久々に僕の心の深いところに突き刺さった。
ここに来て二日目に、僕は赤城さんに叱られて感じた痛みとは、全く違った痛みが僕を締め付ける。
・・・なんだろう、これは?
「瑞鶴、言い過ぎよ?」
翔鶴さんのフォローも、沈んだ僕の心には届かない。
そんな状態で大した解決策を出せる訳もなく。
「そうだね、ごめん」
「あっ・・・そ、そうよ。分かればいいのよ」
だから、こんな見当違いの応えを引きずり出す。
「今後は、瑞鶴さんにはキスしないようにする」
「えっ」
「強くなれるとはいえ・・・こんな方法、試そうとしちゃ迷惑だったよね」
「・・・・・・・・・」
だから、これが今の僕に思いつく精一杯。
「嫌な思いさせちゃって、ごめんね?」
「・・・そ、そうよ。分かればいいのよ!」
瑞鶴さんが嫌がることなんて、したくない・・・例えもう、僕が嫌われていたとしてもだ。
だからそう言ったのに・・・なんで、泣きそうな顔、してるのさ。
「提督・・・」
翔鶴さんたちの、気遣いの表情が逆につらい。
「ああ、翔鶴さんたちもね。嫌だったら言ってくれていいから」
「私は構わないわ」
そう答えてくれたのは、僕にとって一番意外な人物。
「加賀さん・・・本当に?」
「ええ、指先にキスされるくらい、なんてことないもの」
「それに艦娘の力がそれで開放されるというなら・・・試すべきです」
「そうですね、先ほど言った様に・・・私は構いません」
「・・・私も嫌じゃないですから。瑞鶴は、本当にいいの?」
他のみんなには嫌がられていなかったことにホッとしつつも、僕の視線はやはり瑞鶴さんの方へ。
「・・・か、勝手にすれば!」
「良かったじゃない、私みたいなのとキスせずにすんで。他のみんなはオーケーしてくれて!」
「嫌な相手とじゃなくて、翔鶴ねえたちとキスできるんだから嬉しいでしょ!?」
「そ、そんな・・・瑞鶴さんとするのが嫌だったわけじゃ」
「この期に及んで嘘なんてつかないでいいもん!」
ガシャガシャと乱暴に食器をたたんで、瑞鶴さんが席を立つ。
「瑞鶴っ!?」
「先に部屋、帰る!」
そうして瑞鶴さんが立ち去ったあと残ったのは。
気まずい沈黙と、僕を気遣うような三人の視線だけだった。
私、最低だ。
自分の部屋へと繋がる廊下を、瑞鶴は今一人で駆けている。
なんでいつもこうなるのだろう。加賀さんと衝突していた頃もこうだった。
いや、あの頃の方がマシだった。あんなにも相手が傷つく事なんて言わなかったから。
なんでだろう、少年の事になると自分は冷静な判断が出来なくなる。
ううん、なんでだろうなんて・・・そんなの誤魔化しだ。
本当は理由なんてとっくに気づいてるのに、いつも自分は言い訳ばかりで素直になれない。
昨日の夜は、寝付けなかった。
爆撃が成功したことへの興奮で、日中は誤魔化すことができたけれど。
また、少年にキスされたんだ、今度は指先に・・・。
まるで忠誠を誓う騎士に傅かれた、物語の中のお姫様のように。少年と、私が。
一度そのことに気づいてしまうと、もう駄目。一晩中胸のドキドキが止んでくれなかった。
少年にキスされたのが嫌じゃなかったなんて、そんなこと恥ずかしくて誰にも言えない。
だって、それを誰かに言ってしまったら。もしも言葉に出してしまったら。
嫌じゃない、嫌じゃない、嫌じゃない。
それすらも誤魔化しの言葉だと・・・自分自身が気付いてしまうから。
一度認めてしまうと・・・嫌じゃないなんて言葉は簡単に姿を変えてしまう気がするのだ。
丁度瑞鶴が放った矢が、一瞬で艦載機に姿を変えて大空の向こうへと飛んでいってしまう様に。
そして、そうやって姿を変えた言葉が少年のもとへと飛んでいった時、いったい彼はどんな顔をするのだろう?
あの時の言葉と、全く同じことを思うのだろうか?
もし、そうだったら。それを考えると、瑞鶴はたまらなく怖くなってしまう。
だから、声を荒らげた。自分は迷惑したんだとアピールする為に、加賀に告げ口した。
そうして少年がどういう反応を見せるか、知りたかったのだ。自分のことを、自分とのキスをどう思っているのか、知りたかったのだ。
自分は本心を晒さないくせに、少年の心だけは遠くからのぞき見たいという最低な考え。
そんなことしか出来ない自分の小ささに、瑞鶴はうんざりする。
そうして、あいまいな態度を取って問題を先送りにして・・・そう。
一先ず、爆撃の成功を喜ぶことにして問題を先送りにするつもりだったのに。
―――これで、決まりだね。艦娘が覚醒する条件、それは・・・
―――キスすること、もしくは・・・キスされたと艦娘が認識することかな
少年が結論づけたそれは、瑞鶴の逃げ道を狙ったかのように塞いでしまった。
もう自分で自分を、抑えられなくなった。
ねえ、それが分かって・・・アンタはどうするの?
艦娘は、戦果を上げないといけない。もちろん、提督だってそう。
じゃあ、アンタはこれからも私とキスするの?
ねえ、提督・・・教えてよ。アンタはそれで・・・私とキスするのが。
・・・嫌じゃないの?
ううん、きっと嫌なんだ・・・そうに決まってる。
だってあの時、嫌だって言ったもん。
―あれは事故じゃないか、僕だって君とキスしたかったワケじゃないからね!?
―どうせキスするんなら、乱暴な君じゃなく女の子らしい翔鶴さんの方がよかったね!
それはあの初日の事件の後の、少年の台詞。
あの時はただの喧嘩言葉としてしか受け取らなかった。それで平気だった。
なのに・・・あの時の少年の言葉が、今更のように瑞鶴の胸を締め付けている。
やっぱり嫌だったんだ、私となんてキス、したくなかったんだ。
そうに決まってる。だって今日、彼は私に確かめなかった。
だって・・・だって。キスが艦娘の力を引き出す、という彼の説を証明するのなら。
翔鶴ねえたちでなく、真っ先に私にキスして昨日と同じ効果が出るのかを試すべきじゃない。
私が嫌がるそぶりを見せようとやるべきだった、鎮守府の将来を決める大切な実験のはず。
そう考えれば、あそこで少年が引く理由が見当たらない。
瑞鶴に頼み込んでキスの実験をする・・・どう考えても提督として考えるのなら、それが正解。
ガチャリ、と乱暴に音を立てて、翔鶴型の部屋へと入る。
開いたドアをまた閉じて、部屋に一人きりになったのを確認して呟く。
「何でよ、何で私じゃ嫌なのよ」
頭の悪い私にだって分かるんだ、彼が分かっていないハズがない。
瑞鶴と加賀を仲直りさせた時も、鎮守府のスケジュールに船団護衛を取り入れた時も。
彼が何かを打ち出すときは、ちゃんと考えて、完璧な準備をしていた。
何から何までお見通し、という様な感じで・・・それがすごいと思った。
私よりも幼い彼が策略を巡らせて私たちを引っ張っていく姿を見て・・・なんだろう、ドキリとした。
でも今日は・・・翔鶴ねえが手を差し出したあの時から、彼は流されていただけ。
翔鶴ねえや加賀さん、赤城さんに照れながらキスするのを横目で見て。
瑞鶴のことなど眼中になく、それで実験を切り上げると彼が言った途端・・・。
私とはしたくないんだな、って思ったら・・・我慢できなくなって、ついあんな事を言ってしまったのだ。
「やっぱ私って、最低」
もう少年にどう顔向けしたらいいか分からない。
彼だってこの部屋に帰って来るんだから、すぐにでも会う事になるのに。
自分のベッドにこもって、カーテンを締める。
一言、謝ればいい。優しい彼はきっと、それで許してくれる。
キスなんてしたくない私なんかにも、すまなそうに謝りながら。
でも、その優しさが今の自分には痛い。
「もう、どうしていいか分からないよ・・・」
湧き上がる嫌悪感を必死に抑えながら。
瑞鶴はベッドで縮こまるばかりで・・・結局、何も出来なかった。
あれから・・・瑞鶴さんときちんと仲直りをしないまま、数日が過ぎた。
「おはよ」
「うん、おはよう」
表面上はこのとおり、普通に接しているけれど。
お互いに”あの日のこと”は口に出さない・・・そんな日々を過ごしていた。
「今日は、朝に空母のみんなと会議だから・・・」
「うん、分かってるわ。ちょっと顔を洗ってくるね」
「むにゃ・・・待って、じゅいかく~」
寝ぼけ眼を擦っているのは、普段ちゃんとしている翔鶴さんだ。
「もう、翔鶴ねえったら・・・朝は弱いんだから」
「あはは、なんだか瑞鶴さんの方がお姉さんみたい」
「ふふ、翔鶴ちゃんのお世話は任せなさいな」
「じゅいかく~」
「あー、はいはい。お風呂で身支度整えるわよ?」
「行ってらっしゃい」
”あのこと”の話題以外は、こうして瑞鶴さんとも屈託なく話せる。
・・・いや、話すようにしている、だ。お互いに無理し合っている。
馬鹿、変態とか、エッチだとか言われてからかわれることも無くなって。
瑞鶴さんと口喧嘩出来ないことが、なんだか無性にさみしい。
だからといって、あの日のことを瑞鶴さんと話し合うような事を、僕はしていない。
だって、怖いんだ。
艦娘の力の覚醒は、この鎮守府にとってとてつもなく重要なこと。
だから、今のところその恩恵を一番受けられるであろう瑞鶴さんの協力は不可欠。
それは、瑞鶴さんも分かってくれているとは思う・・・だからこそ、こわい。
瑞鶴さんは、本当は優しい人だ。だから、僕が必死に頼み込めばおそらく、受けてくれる。
本当は嫌だと思っているのに、僕のキスを受け入れてくれるだろう。
それが、こわいんだ。
嫌そうに僕のキスを受け入れる瑞鶴さんを想像すると、それだけで胸が張り裂けそうになる。
何でだろう、何で僕は、こんなにもこわがっているんだろう?
赤城さんに叱られた時は、辛かった。
船団護衛任務の追加や、資材の調達方法を提案した時だって、彼女がどんな反応をするのか・・・。
そう、失望されるんじゃないかって、すごくこわかったんだ。
でも、その”こわい”と、この”こわい”は、何だか別物だ。
良く分からないけれど・・・今度の”こわい”の方が、ずっとずっと重要なことのように、僕は思えた。
「さて、鎮守府の資材も潤沢に集まってきたね」
空母四人が集まっての、朝の会議。
いつもやっているワケじゃないけれど、今日は少し話し合うことがある。
「で、少しずつ余裕が出てきたこの資材を、何に使うかだけれど」
大本営に心配事を申し立てた結果。
何故だか、すんなりと要求通りの資材が任務報酬として支払われることになった。
思ったよりも早くこちらの要求が飲まれたことから察するに、よっぽど今度の大規模攻略作戦を成功させたいらしい。
「やはり今回は、空母組の艦載機開発を重点的にやりたい」
「艦爆や艦攻を、ということですね、ありがとうございます」
今現在、この鎮守府で最も火力が高いのは空母の艦娘たち・・・この四人だ。
駆逐、軽巡、空母といった艦娘がいるのだから、将来的には重巡、戦艦といった高火力の艦娘たちが現れるのかもしれないけれど。
今いる戦力の強化を考えれば、これは当然の結論だと思う。
「少なくともみんなに”彗星”や”天山”なんかの上位艦載機が行き渡るようにしたい」
それが終わったら次は戦闘機・・・その後で水雷戦隊の装備の強化。
こちらも砲や電探、魚雷など・・・様々な装備があるので、いくらでもやることがある。
「まずはエースである一航戦の二人から。その後五航戦の装備をまかなおう」
「提督、あなた・・・それは少しおかしくないかしら」
今まで何の疑問も挟まれなかったのに、唐突に意見が挟まれる。
加賀さんが僕に正面切って反対するのは珍しい。
「火力だけ見るならば・・・私は今、三番手なのだけれど」
まさかここでその話題を放り込まれるとは思っていなかった僕は、咄嗟に反応出来ない。
まさかここでその話題を放り込まれるとは思っていなかった僕は、咄嗟に反応出来ない。
「それは・・・でも」
それは瑞鶴さんも同じなようで、出てくるのは意味を伴わないことばばかり。
ここ数日、まともに瑞鶴さんと向き合おうとしなかった僕の曖昧な態度に業を煮やしたのだろうか?
「この場合は、何もしないでいた場合の、純粋な火力で決めたい」
「それは、何故?」
いつもは優しい加賀さんが、今日ばかりは僕の欺瞞を許さない。
僕の逃げを、許してくれない。
「それはその、瑞鶴さんが加賀さんの火力を上回るのは・・・キスした場合だから」
「だったら、キスすれば良いのではなくて?」
「か、加賀さん・・・そのくらいに」
「翔鶴、あなたは黙っていなさいな」
翔鶴さんにまでキツい言葉を向けるなんて、本当に珍しい。
どうやらこれは、本気だということだ。
瑞鶴さんはといえば、さっきからずっと下を向いて黙ったまま。
「これは、鎮守府の将来がかかっていると言っても過言ではない話です」
「ならば、個人の感情を優先するのは・・・提督としておかしくはないかしら」
正論が、何よりも僕を突き刺す刃となって襲ってくる。
正しいがゆえに、その言葉は僕にとっていっそう辛辣にすぎる。
「それでも僕は、嫌だ」
その言葉に、ピクリと瑞鶴さんが反応するのを見る。
「瑞鶴さんが嫌がる事なんてしたくない」
「勿論、他の人も嫌だというのなら、その人にするのもやめる」
意固地になっていた。
瑞鶴さんに嫌がられたという事実が、本当に僕の中で大きなものになっているのを今、改めて実感する。
嫌がる命令を部下に下すのは士気を下げるだけという名分もある。
問題はそれを、当の僕自身が言い訳だと感じていることだけれど。
「そう」
短く加賀さんが返事をして、今度は瑞鶴さんに向き直る。
「瑞鶴、あなたはそれで良いのかしら」
「提督がこれまで、たくさん頑張ってきたことを・・・あなたは知っているはず」
「なのにそれに報いてあげなくて、良いのかしら?」
加賀さんの、僕に対する評価は素直に驚いた。
そんなことを思ってくれていたなんて、感激だ。
でも・・・でも。違うんだ、加賀さん。
そうやって、僕への思いやりから瑞鶴さんに受け入れてもらっても・・・ちっとも嬉しくないんだ。
それでももう、加賀さんの言葉をなかったことには出来ない。
瑞鶴さんが何か、決意を固めたように顔を上げて口を開く・・・。
仕方ないから、受け入れるわ。
そんな事を言われたらもう、瑞鶴さんとの仲は、修復できないものにまでなってしまうような。
そんな予感がする。
「私・・・」
瑞鶴さんが何か、言葉を発しようとしたまさにその瞬間・・・。
「提督、おはようございます~!」
ガチャリとドアが開いて。
雲雀の鳴くような、高くて透き通った声が執務室の沈黙を散らす。
代わりに、みんなの目が声のする方向へと一斉に向けられて。
「あ、あれ・・・。私、何かマズイことでもしました?」
予想もしなかったシリアスな視線を重ねられた、突然の入室者がもう一言、気まずげに呟いた。
第九章 始動、海域攻略作戦!
「ああ、待って待って、閉めないで入ってきていいから!」
「だってだって、これ絶対私、やらかしちゃった感じじゃないですかっ!」
だから、今はそのやらかしがありがたいんだって。
絶対逃がすものか。地獄の道づれは一人でも多い方がいい!
「いいから入ってきて、これ提督命令!」
「提督も案外、良い感じでたくましくなってきましたね」
赤城さんほど図太くはないけどね、この鎮守府にいるとそうなるよね。
・・・・・・主にあなたのせいで!
しぶしぶ、というかすっごい及び腰で先ほどの雲雀の声の主・・・夕張さんが入室してくる。
「アンタは本当に間が悪いわねぇ」
「えぇ、だってしょーがないじゃない。ここに来る用事があったんだから!」
気を取り直した・・・ことにする瑞鶴さんが、親しげに夕張さんと話す。
背も体型も年頃も同じくらいだし、お互い気安い性格なのもあってか、この中で一番夕張さんと親しいのは瑞鶴さんだ。
・・・夕張さんの方が、ちょこっとドジかもしれない。
スラリとした細い脚は黒タイツに覆われていて、それがいっそうきれいさを際立たせている。
背は若干瑞鶴さんよりも高く、その分華奢な印象も強い。
全体的に露出は少ないのにセーラーの裾からおへそだけが覗いていて、それが僕をいつも落ち着かない気分にさせる。
「それで、夕張さん。用事っていうのはもしかして・・・?」
「はい、提督。お待ちかねのものです!」
そう言って僕に、両手で抱えていた書面を差し出してくる。
瑞鶴さんと背格好は似ているけれど、仕草は彼女のほうが女の子っぽい。
瑞鶴さんと同じく切れ長のつり目の持ち主なのに、夕張さんのそれは気の強い印象を与えることはない。
今も満面の笑みをこちらに向けていて、なんだかそれに向き合うのが恥ずかしくなってしまう。
「うん、工廠の改造計画書だね・・・随分まとめるのが早いけれど?」
「そりゃもう、いよいよ大っぴらに開発が出来るんだから・・・張り切るに決まってます!」
そう、資材が潤ってきた今、大規模な開発にはこれまでの工廠の規模じゃ不十分だ。
そう判断した僕は、こういう事が好きそうな夕張さんに計画を一任したのだ。
「題して、”夕張工房・改造大計画”ですっ!やりますよー!」
夕張さんの張り切り具合を見るに、それは正解だったようだ。
これだけ早く計画をまとめて来るなんて・・・嬉しい誤算だ。
「って、自分の名前工廠に入れちゃってるし・・・」
「本当にアンタは・・・火がつくと見境いないわねー」
「これで提督ご所望の艦載機開発が出来るようになります!」
「うん、任せるからまずは夕張さんの好きなようにやってみて?」
「はい!」
当面の鎮守府運営はこの工廠を準備しながら、いつもの任務や演習を並行してやっていく感じかな。
焦らずじっくりと腰を据えてやっていけばいい。
「そうそう、それと。前よりも資材が増えましたから、黒焦げの執務室も直せますけど?」
夕張さんのもうひとつの提案は却下だ。
艦載機開発を整えるまでは、どれくらい資材が要るのか分からないし。
「ふふ、もうずっと私たちの部屋にいても良いのではないかしら。ねえ、瑞鶴?」
「う、うん・・・」
気まずげに、頷いてはくれる瑞鶴さんの反応を見て少し嬉しく思う。
あれから事故も無いし、同居人としては認めてくれているのかな・・・・?
「何を言っているの。修理出来次第・・・将来的に提督は部屋を移して貰います」
「年頃の男女がいつまでも同じ部屋で寝起きするなど、考えられません」
ピシャリと翔鶴さんの意見を叩きのめす加賀さん。
あれ、でも加賀さん・・・最初の頃はどうでもよさげに問題ないって言ってたような?
「提督、何かご不満でも?」
「い、いえ。問題ありません!」
有無を言わさぬ睨みに思わず賛同してしまう。
いやまあ、僕もいつまでも女の子と同居というのは問題だと思っていた所だけれど。
加賀さんの突然の心境の変化は、いったいどういうことだろう?
翔鶴型の部屋の雰囲気に慣れてしまって、今ではここを自分の家のように感じていたから。
ここを出て行くのは少しさみしいと、そんな風に思う。
それにまだ、瑞鶴さんときちんと向き合って話もしてないし。
「加賀さん、でも・・・」
「瑞鶴、どうしたの?」
「・・・ううん、何でもない」
加賀さんに対して何か言いかけた瑞鶴さんも、結局何も言わずに黙ってしまう。
やっぱりそろそろ執務室の修理にも取り掛からなきゃいけないかなあ。
でもやっぱり、そこまでするには資材にも余裕があるとは言えないし・・・。
「あの、それと提督」
夕張さんは僕にまだ、何か用事があるらしい。
そういえば、僕に手渡した報告書以外にも夕張さんは封筒を抱えている。
「これが大本営から提督宛に届いていました」
新しい任務の指示だろうか、封蝋を解いて中身を取り出す。
さてさて、そこに何が書いてあるのか・・・。
「え」
なんだって・・・・・・・・・?
「・・・執務室の修理なんて、やってる場合じゃない」
「提督、どうしたのですか?」
嘘だろ・・・。
僕のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、赤城さんから声がかかる。
「夕張さん」
「へっ・・・何ですか?」
「工廠の改造、どれくらいで出来る?」
「えーっと、私も任務にでながらですし、妖精さんと話し合いながらだと・・・1週間くらいでしょうか」
「明日までにやって」
えっ・・・と、夕張さんだけでなく艦娘たち全員が固まる。
だけれども、今の僕はいちいちそんな反応を拾っている場合じゃない。
「しばらく任務とか演習とかその他の当番とか全部やらなくていいから、急いで」
「え・・・ちょ、いきなりどうしたの、提督?」
「そのお手紙・・・いったい何が書いてあったんですか?」
黙って文面を艦娘たちに見せる。
「これは・・・」
「海域攻略作戦の日取りが決まったみたいだ、そして」
艦娘たちの表情が引き締まる。
「僕たちにも召集がかかった。鎮守府主力4隻を率いて参加する」
当然、それには今この部屋にいる空母四隻が出向くことになる。
だけれども、仕事が増えるのは何も赤城さんたちだけじゃない。
「あ、あのー、提督。聞いてもよろしいでしょうかー?」
「何かな、夕張さん」
「その作戦って・・・何日後なのかなー、って」
「ちょうど2週間後だね」
工廠を整備するために、夕張さんが音もなく駆け出していった。
戦場に赴く者以外にも、課せられた使命があるのだ。
「でもでも、ちょっとおかしいよ・・・2週間ってちょっと急過ぎない?」
「実はこの作戦、僕らの鎮守府は呼ばれない予定だったんだ」
攻略作戦の話がで出した時に、大本営に確認を取ったことがある。
その時は僕たちの鎮守府は呼ばれないとのことだった。
だからこそ船団護衛任務をたくさん引き受けたのだ、戦場には出なくとも資材面での貢献はしたと言えるように。
「急に手が足りなくなっちゃったってこと・・・?困ったから助けてー、みたいな?」
「ふふ、瑞鶴さんは純粋だなあ」
「あ、何よ。また馬鹿にしてるんでしょー!?」
こういう話題だったら、屈託なく話せる。”あの話題”にさえ繋がらなければ。
「違うよ、僕らみたいに捻てないってことさ。ね、赤城さん?」
「何故そこで私に話が振られるのかは後でゆっくりと教えてくださいな、提督?」
うん、主にそこでニッコリ微笑めるところだねそういうところだね。
じゃあ赤城さんは分からないの、と言われると、それはそれで面白くないらしい。
「おそらくは・・・意趣返し、でしょう」
渋々といった形で、僕と全く同じ応えを出す。ほら、やっぱり分かってるんじゃん。
「どういうことかしら?」
大前提として、人間側は艦娘に対してこれっぽっちも敬意を払っていない。
面倒な任務を引き受けても報酬はこちらが言うまで支払わなかったし、今度は急に召集して付いてこい、だ。
「舐めていた相手が正当な報酬を要求を、生意気にも要求してきて」
「あまつさえ払わなければ任務を受けません、だ。相当頭にきただろうね」
お前らは黙って小間使いをしていればいいのに、といった身勝手な感想。
それが通らなかったからといってする、無意味な子供じみた仕返し。
「だから、自分たちが活躍出来る分野に呼び出して見せつけてやろう」
「お前らは活躍させない、自分たちの活躍だけ見ていろ・・・そんなところかな」
実際、大本営の準備している戦力から察するに・・・本当に艦娘がいなくても海域攻略は成るだろう。
それどころか少々戦力過多気味で、効率が悪いとすら言える陣構えだ。
「遊び感覚の戦争なんて、糞くらえだね」
「提督・・・」
ああ、いけないいけない。つい言葉が汚くなってしまった。
しかし、本当にそれだけなのかな。
気に入らない奴らを呼び出して自分たちの勝利を見せつける。
現時点ではそれしか理由を思いつかないからそう判断したけれど、何か他にあるのだろうか?
まあ、そんな事を延々と考えていても仕方ない。出来ることをやらなきゃ。
「せっかくだし、戦場での艦娘っていう見せ場を作れるように頑張ろう」
「指示によると戦場に出す艦娘が2隻、僕と一緒に総旗艦に乗込む艦娘が2隻だ」
この2週間で調整して、成績の良い2人を戦場に出すことにする。
そう宣言して、今日の会議は打ち切った。
・・・具体的に誰を戦場に出す予定か語らなかったのは、またもや僕の逃げだ。
はあ、まだ朝だというのに、もう疲れてしまった。
瑞鶴さんと向き合うという課題を残したまま日にちだけが過ぎていく。
今度の攻略作戦を機に、何かが変わればいいのだけれど。
このままいけば、戦場には赤城さんと加賀さんが出ることになるだろうな。
深夜、ふと目を覚ましてしまった瑞鶴は、そんな事を思いながらベッドを抜け出した。
窓からの月明かりが眩しい。
海域攻略作戦まであと1週間。状況は先週と全く変わっていない。
キスの実験は相変わらず瑞鶴が参加しないままだし、他のメンバーに何か変化があるわけでもない。
それはつまり、瑞鶴が少年と仲直りできずにずるずるとここまで来てしまったと言うこと。
一言謝って、嫌じゃなかったよと伝えればそれですむ話なのに。
何故、自分はそれを言えないんだろう。
何度も何度も、少年に伝えようと思った。
そうしていつも後一歩が踏み出せずに、差し出した手は空を掴んでしまうのだ。
まるで地の底が抜けて、どこまでも、どこまでも落ちていきそうな感覚に囚われて。
気がついたらタイミングを逸している。らしくない自分にうんざりだ。
「ごめんねって、言うだけなのにな」
ふと、寝乱れた自分の寝間着姿が気になったが、構いやしない。
どうせ翔鶴も少年も寝ているのだから、見られることもないだろう。
そう、少年―――。
一度意識してしまうと、駄目だ。もう視線が向こうへと釘付けになる。
自分のベッドがあるのとは反対側の、部屋の隅へと。
テレビとソファがあるそこが、いつも少年が寝ている場所。
足が自然とそちらへ向かっていく。
とっくの昔に、寝るときに部屋を弓矢で区切る習慣なんてなくなっているけれど。
あの時定めた国境を、自分の方から侵すことになるなんて思いもしなかった。
忍び足で近づいて、ソファの背もたれ越しに覗き込んでみる。
寝相は悪い方なのか、毛布代わりのタオルケットは蹴散らしているけれど、寝顔はしっかりと確認できた。
まだ幼さをのぞかせる、少年の純粋で柔らかな寝顔・・・。
最近は・・・特に、気まずくなってからは直視出来なくなったその顔をじっくりと見る。
あの吸い込まれそうになる碧い瞳は今、閉じられているのに・・・まるで見つめられた時と同じように瑞鶴の心臓が高鳴る。
「何で私ばっかりドキドキして、切ない思いをしなきゃなんないのよ」
不公平だわ、と・・・そんな事を思いながら少年にタオルケットをかけてやる。
「ん・・・」
心臓が、違う意味で跳ねた。
・・・起こしてしまっただろうか、といった懸念は数秒後に消え去る。
良かったと胸を撫で下ろす・・・何も起こらない、夢でも見ているのだろうか?
「母さん・・・死なないで」
ああ、と・・・今度は、ついさっき抱いた安堵が崩れ落ちていくのを瑞鶴は感じる。
聞いてしまった。少年が、他の誰かが知ることを許していない彼自身の過去の一端。
図らずもそれを、自分は知ってしまった。それと同時に、少年がここにいることが普通では無いことに改めて思い至る。
15歳。
どんなに才能があろうと、賢かろうと。
この年齢で士官学校を卒業して軍役に就くなんて普通じゃない。
それは人ではない瑞鶴にだって分かるし、他のみんなだって分かっているだろう。
何かしら”そういう事情”があるのだろうとは思っていたけれど、誰も聞くことなんてしなかった。
それは少年が自分から話さない限り、聞くべきではないことだから。
でも今、それを少しだけ知ってしまった。
様々な感情が、瑞鶴の中で渦巻く。
この少年を支えてあげたい。さみしさを分け合ってあげたい。
少年の過去に何があったのか、ちゃんと知りたい。知ってあげたい。
ちょっとでもお姉ちゃんとして、頼りにされたい、抱きしめてあげたい。
そんな気持ちと同時に。
自分なんかにその資格はない。この鎮守府で少年を一番傷つけたのは自分なのだから。
私なんかに同情されても、迷惑かもしれない。もう嫌われているかもしれない。
赤城や加賀や翔鶴に抱きしめられたほうが、嬉しいかもしれない。
そんな臆病な気持ちがまた、沸き起こってくる。
「なんでかな・・・アンタのことを考えてる時はいつも・・・」
こわい。
今感じているこのこわさは、赤城や加賀に叱咤される時の”こわい”じゃない。
少年のことを考える時にだけ襲ってくる”こわい”に、瑞鶴は押しつぶされそうになる。
そうして何もしないまま、ただただ少年の顔を見つめ続けて・・・どれくらいたっただろうか?
キスしよう。
ふいに、そう思った。
少年にキスして、自分が嫌がっていないことを証明しよう。
”嫌じゃない”・・・そう、”嫌じゃない”んだ。
その先にある言葉を見据える勇気はないくせに、進もうとする。
艦載機に変える気もないのに空へ向かって矢を射るような、そんな馬鹿げた行為だ、今自分がしようとしていることは。
それでも・・・胸の内から溢れてくるこの想いは、自分では止めることが出来なくて。
もう一度、少年が起きていないことを確認して、すぅっと息を吸って勢いを付ける。
そうして、今は真っ直ぐに下ろしている髪を片手でかきあげる。女の子の、キスするときの様式美。
目は、ぎゅっと閉じる。相手が見つめてこないとはいえ、流石に無理だ。
ドッドッドッドッド。
この高鳴りが少年に聞こえて、起こしてしまうのではないかと思うくらい、心臓が強く脈打つ。
さらにもっと、ぎゅっと目を閉じる。緊張で身体が縮む。汗ばんだ手を握り締める。
事故とはいえ、もう二度もした行為なのに・・・自分からとなるとなんて勇気がいることなんだろう。
それでも、一度浮かんできた悪魔の誘いを蹴ることは出来ずに。
穏やかに眠る少年の顔に、自分の顔を近づけていく。
それは何度も心の内に思い描いた、自分と彼との理想のシーンよりもはるかにぎこちなく。
心臓のドキドキが、寝ている少年の唇を奪う罪悪感が、最高潮に達しようとした瞬間。
「瑞鶴、それは駄目よ」
この世で最も敬愛する姉の声が、静かに、でも確実に瑞鶴の脳へと響き渡った。
「翔鶴ねえ、何で」
瑞鶴の言葉はそこで途切れる。
起きてたの、と言おうとしたのか、何で止めるの、と言おうとしたのか・・・それは自分でも分からない。
ただ一つ言えるのは、この優しくて少し天然な姉が、こんなにも毅然とした態度を瑞鶴にとるのは初めてだということだけ。
「ちょっと、寝苦しかったから・・・起きてしまったの」
どうやら姉は瑞鶴の発言を前者だと捉えたらしい。
いや、違うかも・・・これは話に入るための枕だ。
「瑞鶴は、本当にそれでいいの?」
うん、やっぱり・・・これが本題。
「ち、ちがっ・・・」
「何が違うの?」
翔鶴ねえが、叱るのではなく、諭すような口調で私の口を塞ぐ。
それきり何も言えず立ち尽くす私の方へと近づいてきて、そっと私を抱いてくれた。
怒られる、と思って身構えていた身体が弛緩して、無意識のうちに翔鶴の身体の柔らかさに身をゆだねてしまう。
「瑞鶴」
「あなたが抱いている気持ちを、まだ私は持ったことがないけれど」
安心させたかった私が、安心させられている。
そんな皮肉でさえ、今はどうでもいいようなことに感じた。
「でもそれは、一方的に示すものではないわ。それじゃあ、きちんと伝わらない」
うん、と小さく返事をする。翔鶴ねえの言葉が染み込んでくるのが分かるから。
でも、直接伝えるなんて・・・そんなの、出来ない。出来るわけがない。
「どうして?」
「だってもう、嫌われちゃってるかもしれないし」
「そんな事ないわ」
そんなの、分かんないじゃない。
この苦しさを知らない翔鶴ねえには、分かるわけがないじゃない。
「分かるの」
「どうして?」
「お姉ちゃんだからよ」
「瑞鶴のことで分からない事なんて、お姉ちゃんには何一つないの」
そう言って、私が憧れる女の子の微笑みを浮かべた翔鶴ねえは。
優しくてちょっと天然な、いつもの翔鶴ねえだった。
「焦ることはないわ、瑞鶴」
「提督も私たちも・・・急にどこかへ行ったりなんかしないから」
「少しずつ、少しずつ・・・素直になれるように頑張ればいいの」
出来るかな、私に。こんな意地っ張りで、素直じゃない私に。
「加賀さんの時は、出来たじゃない」
あうぅ・・・あの人の事を持ち出すなんて、ずるい。
「加賀さんの時とは・・・違うし・・・」
「そうね、”違う”わよね・・・うふふ」
「あ・・・。翔鶴ねえの意地悪・・・」
「提督に抱いている、加賀さんとは“違う”気持ちが溢れてしまったら、瑞鶴」
「その時こそ素直に、気持ちを伝えられるように・・・頑張りなさい」
「うん」
この気持ちを抱いたのは、妹の私のほうが先だったけれども。
やっぱり翔鶴ねえは私の”お姉ちゃん”なんだな、なんて・・・。
そんな、当たり前の事を思った。
「翔鶴ねえ」
「なあに、瑞鶴」
だから、今日は・・・もう少しだけ、お姉ちゃんに甘えよう。
「今日は、一緒に寝よ?」
「あらあら、瑞鶴は甘えんぼさんね?」
そんなの、当たり前だよ。
だって私、翔鶴ねえの妹なんだから。
戦場に立つ艦娘を決めたのは、大規模海域攻略作戦開始の前日のこと。
迷いを抱えつつも、決断を下すべき時はやってくる。
「赤城さん、加賀さん・・・頼むね?」
「選ばれた以上は、全力で」
「お任せを」
最高の一手ではない、最高の一手でもない。
ただ、この二人を戦場へと送り出すことに不安はない。それは自信を持って言える。
装備としてももちろん、できる限りのものを揃えた。
爆撃機は彗星、攻撃機は天山を空母四人に装備させることができたのは僥倖だ。
・・・練習機はまだ旧式しか使えないけれど、これで十分。工廠をわずか三日で新しくしてくれた夕張さんに感謝だ。
作業台に寝そべってぐったりしている彼女に、お礼をするから何でも言って、と言ったけれど・・・寝ていたのか反応は無かった。
今度折を見てまた話しかけるとしよう。
さて、何があってもいいようにみんなの装備を一新したけれど・・・。
やはり・・・正直この作戦では、大本営は僕らを戦力として見ていないだろう。
これは慢心じゃあないけれど・・・送られてきた作戦書を読むならば、攻略する海域も本土からそう離れておらず、強い敵の目撃もないところだし。
大本営は無難に艦隊を動かしていけば自ずと勝利を得られる、そんな戦力を整えている。
僕たち艦娘の鎮守府は座って我らの勝ちを見ていろ、というような戦だ。
こちらが出す戦力としては、赤城さんと加賀さん・・・これで十分なハズ。
・・・だから、迷っちゃ駄目だ。迷っていると思わせちゃ、駄目だ。
「提督」
加賀さんの声に、思考がピタリと止まる。
全力を測りもしない瑞鶴さんを除いて自分が指名されたことに、怒りを感じただろうか?
人一倍プライドが高い彼女からしてみれば、この人選は屈辱かもしれない。
「あなたがこの道を選ぶのであれば、私は私なりに全力を尽くします」
「私を起用して良かった、と思わせてあげます」
そう言って、微かに微笑んでくれた。
「瑞鶴」
「は、はい」
瑞鶴さんも、普段にない加賀さんの調子に焦っている様だ。
「あなたも、今回は選ばれなかったけれど・・・次に向けて精進なさい」
「う、うん・・・ありがとっ」
僕には向けない素直さだけれど、加賀さんには向けれるようになったらしい。
それがなんだか、誇らしくて羨ましい。僕も、頑張らなきゃ。
この戦いを通して、瑞鶴さんとの距離を縮められたら良いけれど。
「加賀、随分変わりましたね」
ああ、でも。この人がいると・・・真面目なだけでは終わらないんだなあ。
「提督が来てから、加賀は随分優しくなったわ」
「なっ・・・べ、別に・・・それは提督の指揮が良いからであって、私情はありません」
「相手が提督だからと言って贔屓はしていませんし、これは正当な評価ですが・・・」
「提督も提督です。男の子なのですからもう少し、シャンとして貰わなければ困るわ」
動揺すると多弁になるくせは相変わらずの加賀さん。
「か、加賀さん・・・」
「もう、喋らない方が・・・」
「うっ・・・くくく・・・ふふ」
「何故です、私は提督のことを贔屓している訳ではないということを―――」
加賀さんをたしなめる五航戦と、まさかの失言に意地悪く笑う赤城さん。
それにしても僕、こんな時どういう顔をしたらいいんだろう?
「・・・何故笑うのですか、赤城さん。私が提督に対して―――」
「あの・・・加賀。ふふふ」
可愛そうだと思うのなら、トドメを刺すのはやめてあげて欲しいんだけど。
・・・逆に、トドメを指すのが優しさなのだろうか、こうした場合は?
「提督が来てから、とは言いましたが・・・提督に優しいとは言ってませんよ、私」
「加賀。私、瑞鶴に対して優しくなった・・・と言ったつもりだったのよ?」
「なっ・・・・・・・・・」
加賀さんが絶句する。
「いや、でも加賀さん、私にも優しくしてくれるし・・・」
「提督にも瑞鶴にも優しいですから、勘違いしても無理はないというか・・・」
「いや・・・その、ちがっ」
ああ、イカン。
五航戦のフォローが逆に加賀さんを追い詰めている。
ここは僕がフォローしないと!
「優しくなった、じゃなくて。加賀さんは元々優しい人だもんね?」
「・・・・・・・・・」
今度こそ加賀さんは顔を真っ赤に染め上げて。
その後、この集まりが終わるまで一言も喋らなかった。
「あっちゃ・・・」
「トドメ・・・」
「流石提督です」
なんだか腑に落ちない評価をもらった気がするけども。
作戦開始前日の会議は、こうして何事もなく・・・うん、何事もなく終わった。
第十章 その名は『ミカサ』
作戦開始当日。
軍港には各鎮守府が引き連れた艦隊が既に停泊している。
作戦開始となる拠点へと参集した僕ら。
横須賀鎮守府は艦娘しかいないため、他の鎮守府の様に自前の軍艦を持たない。つまり、乗込むべき艦がないのだ。
そのため、大本営の指示通り艦隊総旗艦に乗り込むべく身一つでここまで来たのだった。
「本日天気晴朗なれども波高し、か・・・」
乗り込むべき総旗艦の勇姿と背後に広がる大海原を眺めながら、ふとそんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「何言ってんの、提督。確かに今日は晴れてるけど、波はそんなに高くないじゃない」
「瑞鶴・・・そういう意味ではないのよ?」
「全く・・・身体だけでなく、たまには頭も動かしなさいな」
「提督、今度瑞鶴に座学の特別授業をしてはいかがですか?」
赤城さんの提案に、瑞鶴さんがげっ、っとうめく。
うーん、瑞鶴さんは授業をしても途中で寝ちゃいそうだなと思った僕は、曖昧に頷くだけにとどめた。
「それにしても、提督は賢いですね」
翔鶴さんのそれは、どう考えても欲目というものだ。
瑞鶴さん以外はみんな知っていたんだし、そもそも有名な台詞であって。
だってこの船の名前を知ったら、嫌でもそれが思い浮かぶじゃないか。
そうして、改めて見やる・・・今から自分たちが乗込む連合艦隊総旗艦を。
戦艦『ミカサ』
現在、わが軍に昔の軍艦の名を冠した船は、この船しかいない。
それだけこの船は特別な存在なのだ。
奇跡の大勝利を歴史に刻んだ、あの栄光の戦艦と同じ名を付けられた彼女は。
同じように、僕たちにも奇跡をもたらしてくれるのだろうか、と・・・。
この船に乗込む者もそうでない者も、そう思わずにはいられないだろう。
「『ミカサ』、よろしくお願いします」
そんな事を思いながら、彼女に乗込む・・・おっと、普段艦娘を相手にしているからかな?
・・・どうも軍艦というものが、一個の感情を持った生き物の様に思えて仕方がないんだ。
まるでこの洋上に佇む『ミカサ』が、僕たちの到着を喜んで迎え入れてくれたような、そんな錯覚すら訪れる。
さて、目指すは司令部。艦内で一番奥の部屋だ。
「提督・・・少し、緊張していませんか?」
目ざとい赤城さんに気づかれる。うん、実を言うとちょっとどころかすっごい緊張しているよ?
だって・・・いつも鎮守府の中でしか行動しない僕たちがこうして外に出てくると、いかに自分たちが特殊な存在かが分かるから。
まずは、艦娘という存在。
彼女たちが既に大切な仲間になっている僕とは違い、他の人間にとって艦娘なんて初めてみる存在だ。
『ミカサ』の廊下を歩いている間も、すれ違う将校たちの視線が彼女たちに向けられる。
ある者はこの場所に似つかわしくない、若い娘の姿にぎょっとして。
ある者は赤城さんたちが艦娘であることを認識した上で、その意義を図るかのように。
「何よ、みんなジロジロ見ちゃってさ・・・感じわるっ!」
「言いたいことがあるのなら、はっきりと言うべきではないかしら」
「みんな艦娘を見るのが初めてだからね。珍しいのさ」
味方のなかにいるというのに、この圧倒的なアウェイ感。
今後はこれをどうにかしていかなきゃ・・・艦娘たちを活躍させていくというかたちでそれが出来ればいいけれど。
「おい、何で子供がこんなところにいるんだよ」
「またあれか、大提督のところの・・・」
「いや、”特別”提督だろう」
物珍しそうに見られるのは、何も赤城さんたち艦娘だけではない。
15歳にして彼女らを束ねる鎮守府のトップ・・・つまり、僕もそうなのだ。
『ミカサ』に乗り込んだ者のなかで異質な存在、ということにかけては、艦娘たちに引けを取らない。
考えてみれば、左遷――今となってはそう思ってはいないけれど――されたというのに、何故僕は”提督”に任命されたのだろう?
単なる厄介払いなら何も鎮守府の最高責任者にしないでも良かったはず。名誉職につけてどこかの書庫の整理をさせたり・・・そんなでも。
・・・それとも、どうせ何も出来やしないさ、とたかを括られていたのだろうか?
この戦いを通して、艦娘の良さを少しでも喧伝すること。
微妙な関係になってしまった瑞鶴さんとの距離を縮めること。
この二つが出来れば万々歳だと思っていたけれど・・・もう少し、欲張ってみてもいいかもしれない。
「提督・・・あちらでしょうか?」
廊下を渡った奥の奥。突き当たりにある扉は、他のどの部屋よりも重厚で豪華な造り。
出港前に各鎮守府の提督たちを集めた小会議を開く。僕にはそれだけしか指示がなかった。
加えて、横須賀の提督はその会議に艦娘を伴うこと・・・ともあったけれど、さて。
あの扉の向こうが司令部、僕たちを招いた人たちがいる。
形の上では僕の同格である各鎮守府提督たちと・・・そして、彼らを束ねる存在が。
そう意識すると、緊張して倒れそうになるけれど・・・。
艦娘たちが活躍する舞台をつくる。彼女たちの”期待”に応えてあげるんだ。
そう思ったら、弱音なんて吐いていられない。
「よし!」
「あっ」
「・・・ん、なに、瑞鶴さん?」
中途半端にこちらに手を差し出して固まっている瑞鶴さん。
どうしたんだろう、彼女も緊張しているのだろうか?
「大丈夫、君たちは僕の後ろで話だけ聞いていればいいから。緊張しないで?」
「ううん、緊張はしてるけどそうじゃないって言うか・・・」
ますます訳が分からない。
「い、いいから。さっさと行きましょ!?」
「う、うん」
気を取り直して、前へ。
・・・と思ったら、目指す扉の前で誰かが立っている。
あれ、今の今まで気がつかなかったけれど・・・緊張しているから目に入らなかったかな?
「ようこそお越し下さいました。横須賀の”特別”提督と、艦娘の皆様でございますね」
格好から察するに、この船で給仕をするメイドらしい。
低い、嗄れたとも言えるような声に一瞬ドキリとする。
違和感を覚えたのは、地の底から這い出るような、うめきにも聞こえる声自身にではない。
「どうぞ、室内へ・・・他の皆様はもうおそろいでございます」
その老婆の様な声の主が、僕よりも幼い・・・年端もいかぬ少女だったからだ。
「これで全員が揃ったようだな」
艦隊総旗艦を務める『ミカサ』の艦長・・・大提督が僕らの着席を見届けて口を開く。
貴族然とした優美な面立ちには年齢に見合った皺が刻まれており、この場を治めるのにふさわしい貫禄を漂わせている。
寡黙な人柄らしく、この場のトップだと言うのにそれ以上自分から言葉を続けない。誰かが喋りだすのを待っているようだ。
円卓には大提督を上座に据え、各鎮守府の提督がそれぞれ腰を下ろしている。
その後ろには彼らの参謀であったり護衛であったりが起立していたので、赤城さんたちに同じ様な振る舞いを指示した。
・・・僕らの案内をした少女はというと、メイドらしく大提督の後ろに楚々として控えている。
主人の前では出しゃばらない、というのが使用人というものなのだろう。
「全く、新米が一番遅いとは・・・随分と偉そうなものだ」
「不調法者で申し訳ありません、ご指導いただければ幸いです」
そして、僕はというと・・・向かい側の席から早速やってくる牽制を笑顔でいなす。
ここで争っていても仕方がない・・・相手は同格とはいえはるか年上、無難に挨拶しておけばいい。
・・・実際、呼ばれた時間より早く来たのにという不満はあるけれど、それは表には出さない。
仮に言い負かせたとしても、大した得にはならないだろう。
「ふん、この場において教えを乞うとは・・・下士官ではないのだぞ?」
「仕方ありますまい、本来なら下士官として我らのもとで働く身なのですから」
「おっと、士官学校を出ているのだから下士官ではないのか。いやあ、小さすぎて間違えてしまった」
「こんな子供が何を間違って”特別提督”などに任命されたやら・・・」
「未だに何の戦果も上げていないのが情けない、やはり荷が重すぎたのよ」
・・・でも、舐められたままでは良くない。今後の発言に支障が出そうだ。
「至らぬ身であることは承知しております」
「仰っしゃるとおりの若輩ゆえ、色々と至らぬところが有り申し訳ありません」
「今後も船団の護衛任務などを通して、少しでも皆様のお役に立ちたく思います」
苦虫を噛み潰したようなお歴々の顔が見える・・・少しやりすぎただろうか?
彼らの依頼を引き受けていた事実をちらつかせるのは少々、強引だったかも。
「ふふ」
「意外とキツイ皮肉を言うのね」
「・・・」
「よっしゃ、もっと言ってやんなさい!」
四者四様の反応が背中から伝わってきて、それが面白い。
「貴様、小癪な真似を―」
「本来ならこの作戦に呼ばれることすら恐れ多いと言うのに―」
うーん、僕や艦娘の存在を面白くない・・・または軽視している人が大半だという覚悟は固めてきたけれど。
それにしたって少し、というかかなり過剰に反応されている気がする。
逆にもっとこう、置物みたいに相手にされない感じかと思っていたのに、これは・・・?
「やめたまえ」
先程と同じく、落ち着いた威厳のある声が司令室に響き渡る。
ひじを机について、両手を絡ませたまま・・・大提督が再び口を開いて主導権を握る。
「君たちを招いたのは、ここで子供じみた言い争いをするためではないはずだが」
「し、しかし・・・」
「我々は確実に勝たねばならん、この『ミカサ』を引っ張り出す以上、確実にな」
奇跡の戦艦の名を冠する『ミカサ』を出して負けたとなると、大本営の威光は地に落ちる。
勝たねばならない・・・大提督の双肩にかけられたものは、いかばかりの重荷だろう?
だからこそ、無理はしない。戦力過多とも思えるほど各鎮守府の提督や艦隊を呼び寄せて。
それに比べて出撃する海域は、未攻略とはいえそう強い敵がいるわけではない。
手堅い一戦を経て大本営の威光を演出する舞台。
そのためのお膳立てはもう整っているようだ。
「知っているだろうが、今回の作戦を改めて確認しよう・・・」
当然、僕の鎮守府には知らされていないが・・・ここは黙っていよう。
一応、可能な限りはリサーチ済だし。
「今回の出撃で我々は近海の深海棲艦どもを駆逐し、南西諸島海域への足がかりを作る」
「各鎮守府の奮闘のおかげでこの海域は現在、深海棲艦どもの戦力が手薄になっている」
「この瞬間を好機と捉え、大兵力をもって敵勢力を一気に叩く」
「右翼は呉、左翼は舞鶴鎮守府提督に指揮を任せ、『ミカサ』の先鋒は佐世保の提督が務める、よいな?」
その問いかけに各鎮守府、泊地の提督たちが無言で頷く。
「横須賀の艦娘は『ミカサ』と佐世保の艦隊の間を航行、遊撃に加わってもらう」
「承知しました」
艦娘2隻に任せる役割としてはそんなところだろう。
こちらを攻撃してくる敵艦の牽制、逆に味方の撃ち漏らしにトドメを刺すなど・・・。
うまくすれば相当の活躍が出来るかもしれない。
後ろからも自分たちに課せられた任務への意気込みが伝わってくる。
「まあ、横須賀の出番はないでしょうがね」
そんな空気に水を刺すのは、今呼ばれた佐世保の提督か。
「今回の作戦、これだけの戦力を整えるのに手間はかかりましたが・・・」
「それも準備さえ終わればこちらのもの。我が軍の勝利は間違い無いでしょう」
そしてそれに同調する舞鶴と呉・・・有力鎮守府がこぞって主張することで、周りにも今作戦は楽勝か、との雰囲気が漂いはじめる。
うーん、僕らの出番がない、までは仕方ないけれど。
それでも、戦力が整っているから勝つのが当然という空気は危険なように思えた。
「それでも、万一ということがあります。その時のための備えとして艦娘を考えて下されば幸いです」
「君は我々の戦略が不十分だとでも言う気かね。これだけの戦力、勝利は揺るがんよ」
「そもそも、艦娘が備えだと。笑わせてくれる」
「何といったかな。”役立たずの―」
ああ。
自分への当てつけ、嫌味なんていくらでも流せる。
僕が何か言われる分にはどうとでも、好きにすればいい。
だけど・・・だけど。
彼女たちへの侮辱は、絶対に許さない。
今後僕がどんな立場に置かれようと構わない・・・叩き潰してやる。
そう思って、椅子から立ち上がった瞬間。
ガシャン。
「失礼致しました」
給仕をするためか、先ほどの少女がお盆に載せていたグラスを落としたらしく、耳障りな音が室内に響いた。
僕も他の提督たちも勢いを削がれて黙り込む。
少女がカチャカチャとグラスの欠片を拾い集めるのを尻目に、僕は彼女の主であろう大提督へと視線を戻した。
「みな、席に着きたまえ」
機を無駄にせず、大提督の発言がスルリと入る。
「この場に横須賀の提督と艦娘を招いたのは、何も彼らを糾弾するためではない」
「とはいえ、呼んでも出番がなかろうと思ったのは、私も同意見ではあるがね」
あれ、そうなのか?
てっきり槍玉にあげるために僕らを呼び出したものと思っていたけれど。
そして、僕たちの召集が大提督の本意ではない、という様子・・・。
すると僕たちを呼んだのは、この作戦の総指揮権を持つ大提督ではない・・・?
・・・ではいったい誰が、何のために僕らを呼び出したのだろう?
「油断は禁物。さりとて負けることは許されず、今のところその要素もない」
「各鎮守府の提督は作戦通りの行動を、横須賀の提督は万一に備えて艦娘の指揮をこの『ミカサ』にて行う、この大枠に変更はない」
「・・・この作戦における具体的な情報を、もう少し知りたいのですが」
「それは君に必要なものとは思えない。艦娘の指揮だけしていれば宜しい」
この意見は大提督にすげなく却下される。
彼は僕らを蔑視はしないものの、全くといって言い程期待していないという点は他の提督たちと一緒らしい。
「それでは解散、各提督はそれぞれの旗艦に戻り2時間後に出港」
「前線の拠点に寄港し、明朝から戦闘を開始する」
結局僕らが呼ばれた意図も、活躍の機会があるかも不明瞭なまま会議は終わってしまった。
・・・それどころか、謎が深まったような気もする。
「提督、もう行こ!」
ぞろぞろと大提督や他の鎮守府の提督が退出していくのを見送って。
考え込む僕の背後から、すっごく不機嫌な声が聞こえてくる。
うん、絶対瑞鶴さんは怒ると思ってた。
「何笑ってるのよ、アンタあんなに馬鹿にされたりしてたのに!」
「艦娘も馬鹿にされていたけれど?」
「そんなのどうでもいいもん!」
自分が馬鹿にされるのは気にしなくても、尊敬するひとが侮辱されるのは許せない―。
どうやら僕たちは互いに同じことを思っていたらしい。
見れば、瑞鶴さん以外の艦娘たちも一様にムっとしている。
普段は穏やかで優しい翔鶴さんですら形の良い眉を歪ませているのだから、これは相当だ。
「どうやらお互いに同じことを思ってるみたいだよ、瑞鶴さん」
あっと、何を言われたのか察した瑞鶴さんは顔を赤らめて口を噤んでしまう。
僕のために怒ってくれたというその事実が、今は何よりも嬉しい。
ここで黙り込んでしまう瑞鶴さんにあと一言、気の利いたことを言えれば・・・。
でもその、後一歩がいつも踏み出せずにいるんだ。
「提督。後のお話は割当の部屋でした方が良いのではなくて?」
「ここで文句を言っても始まりませんから・・・行きましょう?」
そんな僕らを気遣ってくれる周りの艦娘たちの言葉が、何よりもありがたい。
「よお、優等生のお坊ちゃん。女に守られて、いいご身分だな?」
そんな暖かい空気を冷やすのは、いつだって外にいる関係のない人間だ。
「えっと、君は・・・?」
「おいおい、つれないなあ・・・。士官学校じゃ同期だったろ?」
「お互い着任して1年目でこんな大作戦に呼ばれるたぁ、出世したもんだ」
軽薄で馴れ馴れしい態度は、この司令室の空気に全く似つかわしくないもの。
もちろん僕はこの人のことを覚えているけれど・・・あまりいい印象はない。
士官学校の同期といえど、この人は真面目に座学や討論に参加せず、訓練などの実技もサボっていたから・・・そういう意味ではよく覚えている。
必然的に真面目な僕とは接点がなかったのに、何故今になって話しかけてくるのか・・・?
そんなどうでもいい疑問は、当の本人によってすぐ明かされた。
「お前んトコの部下よー、兵器だってんのにすげえ美人じゃねーか」
「なあ、今夜前線の拠点に寄港したらよー、一緒に遊ばねえ?」
兵器。
その言葉が僕の顔を歪ませたのに、彼は無神経にも気がついていない。
おまけに、”美しい”という言葉に込めるにはおよそ似つかわしくない下卑た考え。
僕がもっとも嫌う人種がそこにいた。
「君は、何故この作戦に?」
呼ばれるだけの能力も無いくせに、という皮肉はどうやら伝わらなかったらしい。
「アン?・・・ああ、親父が呉の提督なんだよ」
当然の様に公言するこの厚顔っぷり・・・うーん、これはある意味大物だ。
七光りパワー、凄い。これで次代の呉鎮守府は安泰だろう・・・。
そんな知りたくなかった事実に頭が痛くなる。
「ちょっとアンタ、提督に何してるのよ!」
「瑞鶴、駄目よ・・・」
「チッ、ガキは黙ってろよ」
「なっ・・・なんですって!?」
こらえきれなくなった瑞鶴さんが喰ってかかる・・・ここで問題を起こすのはまずい。
本当はどちらが悪かったかなど、権力の前では簡単に塗り替えられるのだから。
「瑞鶴、あなたは少し落ち着いて物事を判断なさい」
間に入った加賀さんを見て、男はヒュゥ、と下品な口笛を吹く。
「・・・・・・・・・」
途端に嫌悪をあらわにする加賀さん。
人に注意する割に、加賀さんも沸点低すぎないかなあ!?
「もう、加賀。あなたまで怒っては意味がないでしょう」
そんな(僕たちだけ)気まずい雰囲気に、赤城さんが割って入る。
「申し訳ありません、私どももこれから忙しくなりますので、ここで」
「いやいやいや、これから戦場なんだから、その前くらいパーっと行こうぜ?な?」
どうやら七光りは赤城さんが一番のお気に入りらしい。
腐ってても本物の美しさを見抜ける目はあるんだな、と僕は関心する。
「女ばかりの鎮守府で、たまには男が恋しくなる時もあるでしょう?」
もう黙ってくれないかなあ、鎮守府で一番怒らせたくない人の機嫌を損ねるのはやめて欲しいんだけれど。
「赤城さんの美を汚すなど・・・許せません」
加賀さんも、ちょっと違うベクトルで怒るのはやめて欲しい。
「いえ、提督はとても優しいですから。特にさみしいことは」
「こんなガキしか見たことがないからそう言えるんですよ。どうです、頼りがいのある大人の男と一緒に」
「何なら寄港する街で一番の、高級ディナーでもご一緒に。もちろんお金の心配はなしで」
これくらいグイグイ行けたら瑞鶴さんとの関係もすぐに改善するのだろうか・・・?
いや、なんだかすっごく嫌われそうな気がする。だって今、女性陣のドン引きっぷりが半端ないもん。
腐った目だと赤城さんがタダで高級料理、という言葉に釣られる人かどうかも判別出来ないらしい。
・・・釣られないよね、赤城さん。
あれ大丈夫だよね!?ちょっと不安だよやっぱ!?
出会った頃の、僕と赤城さんの関係を思い出す。
なんの覚悟もなく艦娘に接して、手痛い評価をもらったあの頃を。
あの頃と比べれば少しは信頼されるようになってきた・・・はず。
でも、もしも・・・もしも。
僕のこれまでの頑張りが、赤城さんの”期待”に達しないものであったら。
その評価を奇しくも今、聞くことになってしまった。それが、こわい。
赤城さんが静かに口を開く。
「良禽は木を選ぶと申します」
ああ。
それは臣下にだって主を選ぶ権利がある、という時に使う言葉。
僕の不安は的中してしまうのだろうか・・・?
「あ、赤城さん」
「加賀は少し黙っていて」
そう言って、赤城さんは颯爽と七光りへと向き直る。
「着任されてきたのがこの少年だった、最初はただそれだけでした」
「ですが・・・ですが今は。私たちは選んでいるのです、彼という止まり木で羽を休めることを」
「彼という大樹に身を寄せて、いっときの安らぎを得ることを」
赤城さんの本心の一端が語られる。
飄々としていて、中々大事なところを見せてくれない彼女の心境がいま、少しだけ。
「この人がまだ幼くて、少々頼りなくっても・・・あなたの様な朽ちかけた木にとまりたいとは思えません」
「私から言えるのは、それだけです」
「赤城さん・・・」
「さあ、行きましょうか、提督」
思いもしなかった高評価に、感激のあまり言葉が出ない。
「ああちょっと。そんな事を言わずに」
それでも食い下がれるのは、何を言われたか理解出来ないからだろう。
出来たとしたら、これ僕なら立ち直れないぞ?
断られたというニュアンスだけは伝わったらしく、七光りはなおも付きまとって来ようとしてくる。
そんな中、この場の空気を断ち切ったのは意外な人物だった。
「失礼いたします、皆様。横須賀提督を艦内のお部屋にご案内致しましょう」
先ほど僕らを出迎え、グラスを割ったメイド。相変わらずの嗄れた声が耳に残る。
「そうよ、提督。こんなの相手にしないで行こ行こ!」
「ちっ、ガキが次から次へと」
「おいメイド。俺が誰だか分かっているのか?」
「存じ上げませんわ」
くすくすと、見た目の幼さからは考えられないほど落ち着いた態度で彼女が答える。
まるで目の前の大人の男を、取るに足らない存在であるかのように嘲笑いながら。
「さあ、提督さま、こちらへ」
「てめえ・・・」
流石にこんな小さい女の子に手を上げようとするのは見逃せない。
前に出ようと思ったその時・・・。
「何をやっとるか、この馬鹿息子が」
「ああ親父、このガキが生意気だからよ」
「ガキだと・・・む!?」
先ほどの会議で僕たちに敵意むき出しだった呉の提督。
息子と同調して僕らを責めるかに見えた彼の表情が、一瞬で固まる。
・・・なんだろう、この反応?
「ふん、馬鹿なことをやっておらんで行くぞ」
「ちっ、マジかよお」
そうして呉の親子が引き上げていくのを見て。
「・・・なんだか分かりませんが、助かりましたね」
「もう、赤城さん。あんな断り方やめてよ!」
「ふふ、ごめんなさい。私、提督を馬鹿にされたのがよほど腹に据えかねた様です」
会議でハッキリしなかった、僕らが呼ばれた理由、先ほどの呉提督の態度。
そこに一抹の疑問を感じずにはいられないけれど・・・。
「それでは改めて・・・ご案内いたしますわ」
「うん、よろしく頼むね?」
今は取り敢えず、割り当てられた部屋へと向かうことにする。
「うふ、随分とおモテになるのね?」
「いや、そんなことは・・・」
こちらに向けられる妖しい微笑みにクラリとしながら。
僕よりも背の低いメイドに連れられて、僕たち一行はやっとの思いで退室した。
「こちらでございますわ」
僕たち横須賀鎮守府にあてられた『ミカサ』の一室は豪華なものだった。
奇跡の戦艦、それも提督レベルの人間が泊まるのには相応しいほどの豪華さ。
でも、問題は大いに不満があるんだ。
「何で僕も艦娘も同じ部屋に泊まることになるのさ!?」
「部下と同室は嫌なの、意外と狭量なのね?」
「女の子と同じ部屋なのを気にしてるの!」
僕は先ほどと同じ薄笑いを貼り付けたメイドに慌てて抗議する。
本当は毎日女の子と同じ部屋で寝起きしているんだけれど、今は忘れる事にした。
「それでは大提督閣下にお願いして、もう一室ご用意しましょうか?」
「うっ、それは」
あまり歓迎されていない中、そんなお願いをするのも気が引ける。
弱みを見せるのは得策じゃあない。
「あら、一日くらいなら私は構いません。加賀は?」
「そ、そうね。い、一日くらいなら大丈夫でしょう」
加賀さんあからさまに無理してるんだけど・・・。
でもこれ、今指摘したらムキになるだろうしなあ、加賀さん。
「ま、まあ問題ないわよね!」
「この前みたいなのは駄目よ、瑞鶴?」
「ああ、翔鶴ねえがいじわるするー!」
まあ隅っこの方で僕が寝れば問題ないか。
・・・女の子と一緒の部屋で寝るという事について、段々感覚が麻痺してきた気がする。
「それではわたくしはこれで」
メイドの少女が役目を終えたとばかりに一言。
・・・少し、カマをかけてみようか。
どうしても僕は、この娘がただのメイドだとは思えないんだ。
「ねえ、さっきは助けてくれてありがとう」
退出しようとした少女の足がピタリと止まる。
「さあ、何のことでしょう?」
「二度も助けてくれたじゃない」
一度目は、わざとグラスを落として。
二度目は、七光りとの会話に割り込んで。
どちらもタイミングを選んで僕たちを助けてくれた様に見える。
「提督、どうしたのよ?」
「ああ、瑞鶴さん。実は―」
「実はいま、わたくし提督さまに口説かれていましたの」
「はあ!?」
「へっ!?」
身に覚えのない訴えをされて、驚いて何も言い返せない。
「アンタ、もしかしてこんな小さな子を・・・!?」
「違う違う違う!?」
「提督が私たちに手を出さないと思っていたら、年下趣味だったんですね!」
「そうなんだ、ふーん。歳下の方が好きなんだ」
分かってて言っている赤城さんと、誤解したまま軽蔑の眼差しを送ってくる瑞鶴さん。
この場合、どっちのほうがめんどくさいのだろうか?
「もう、君は一体どういう人なの?」
初戦は完璧に僕の負け。こんなストレートな質問、駆け引きも何もありゃしない。
そう言って改めてこの怪しげなメイドの少女を見やる。
『ミカサ』の重要人物が泊まる部屋とあって、窓に面していないのが悔やまれた。
少女の腰まで真っ直ぐに伸びた長い長い金色の髪は、陽の光を受ければこれ以上ないくらい綺麗に輝くだろうに。
紺を基調としたブラウスに純白のエプロン、編み上げのブーツといった出で立ちは、彼女の西洋風の顔立ちと相まって古風な英国メイドを想起させる。
しかし、そういった属性の組み合わせの中で一番目立つのは髪でも服装でもなく、目だ。
紅耀石を人形にはめ込んだとしか思えない、血のように紅い二つの瞳。
その瞳だけが爛々と輝いて、幼さから発せられるのではない、得体の知れない無邪気さを醸し出していた。
「ただのメイドですわ、提督さま。普段は大提督のお屋敷でお勤めしています」
それが本当だとするならば、先ほどの呉提督の態度も納得出来る・・・のか?
彼が僕たちに遠慮するとは思えない。大提督の下僕である彼女に気を使って戈を収めた・・・そういうことだろうか?
「名前をお聞きしても?」
「いやですわ、提督さま。既に知っていらっしゃるでしょうに、そんな意地悪なさらないで?」
意味のない問いに、意味の分からない答え。
これ以上聞いても無駄、か。
「それでは皆様、失礼いたします」
優雅に一礼して、今度こそメイドの少女が退出していった。
「何、あの子?」
「不思議な子でしたけれど・・・」
「うーん、まあ。気にしても仕方がないし」
「ねえ、キミ。本当なの?」
瑞鶴さんが不安げに聞いてくる。彼女が本当に大提督メイドかどうか、か。うーん?
作戦を前にまたひとつ分からない事が増えてしまって、瑞鶴さんも不安なのだろうか。
「分からない。大提督と何かしら関係があるんだろうけど、様子見かな」
嘘をついているとすれば、確たる何かを突きつけないと彼女は話しそうにない。
それに今は、大事な作戦を控えてそれどころじゃないしね。
「バカ、そっちじゃないっての。あの、歳がね、」
「え、どういうこと?」
「な、なんでもないっ!」
「・・・そ、そう?」
やっぱり瑞鶴さんとの会話は、どこかでギクシャクしてしまうなあ。
明日の作戦でも、瑞鶴さんは翔鶴さんと僕と一緒に『ミカサ』の艦内で待機する。
これは・・・僕が何か踏み出さなきゃ、何もないまま終わってしまいそうだなあ。
いよいよどこかで、勇気を出さなきゃいけないんだろうか?
第十一章 決戦前夜
「眠れないの?」
深夜、ベッドの上で薄明かりをつけて考え事をしていた僕に声がかかる。
「瑞鶴さん・・・ごめん、起こしちゃったかな?」
「ううん、寝付けなかっただけだから」
瑞鶴さんにしては珍しく、寝間着姿が乱れていないものの・・・。
いつもは縛っている髪が下ろされていて、そんな些細な違いが気になって仕方ない。
髪を下した瑞鶴さんは、いつもよりほんの少しだけ大人に見えてしまって緊張するんだ。
何見てるのよ、なんてどやされないうちに目を逸らして話を続ける。
「明日のことがね」
「気になるんだ?」
「うん」
準備は万全だ。
少し迷う決断はしたけれど、赤城さんと加賀さんを戦場に出すことに不安はない。この信頼は揺らぐことがない。
でも。脳裏に浮かぶのは今日あった出来事たち・・・。
大提督をはじめとした各提督の楽観的な戦略思考に、急遽横須賀鎮守府を召集した謎の人物の存在。
もし。もし予測できない”何か”があったとしたら・・・。
僕の決断が一航戦の二人を・・・いや、場合によってはこの『ミカサ』ごと五航戦の二人も、水底へと誘うことになるのだ。
あの日、赤城さんの期待に応えてみせると誓ったあの瞬間から覚悟はしていた。
いや、しているつもりになっていたんだ。自分の決断が誰かを死地に追いやる可能性があるということを。
決断するということは、殺すということだ。
敵を、味方を。場合によっては、自分自身の心でさえも。
指揮官の決断とは、そういうものであるべきなんだ。
分かっているつもりだった。頭では、分かっているつもりだった。
でもそれが今・・・この土壇場になって。
一航戦の二人への指示を取り消せるかも知れない最後の瞬間が訪れたことを意識して、怖くなった。
何でもいい、理由をつけて停泊中のこの船から降りてしまえば・・・。
そんな悪魔の囁きがずっと耳にこびり付いて消えてくれない。
もしも今僕が、“そういう決断“をしたら。
それは僕の軍人としての将来を殺すということになる。
歴史書に愚将と記された人たちと同じ道を辿ることになるんだ。
だけど、誰かを失うかも知れない、味方を殺すかもしれないという恐怖からは逃げることが出来る。
逃げることが、出来る。
「こわいんだ」
これは、指揮官が一人で抱え込むべきもの。部下に悟られてはいけないもの。
そんな不安を、いま結局瑞鶴さんに漏らしている・・・どのみち提督失格だ。
嫌われているかどうかとか、そんな次元の問題じゃあない。
こんな人間を信じて命を懸けるなんて出来るわけがない、それほどの失態を今の僕は演じている。
頭を抱えて、それ以上何も言えなくなってしまった。
瑞鶴さんは今、どういう表情をしているだろうか。
情けない上官の姿に何を感じているだろう?
怒り、軽蔑、嫌悪、失望・・・それとも全く別の何か?
さらけ出してしまった情けなさを恥じて、叫び出したくなる気持ちを必死で堪える。
今の僕に出来る、なけなしのプライドをかき集めた結果がこのありさま。
そんな僕の頭に、今まで感じたことのない優しさが降り注ぐ。
「あ・・・」
「大丈夫、大丈夫よ」
僕のすぐ隣、ベッドのふちに腰掛けて・・・。
瑞鶴さんが、そっと、僕の頭を撫でてくれていた。
いつになく優しい、柔らかい表情に囚われて。何故だろう、泣き出してしまいそうだ。
「アンタは今まで、一生懸命やってきたじゃない。それは、みんなが認めてる」
「赤城さんだって、加賀さん、翔鶴ねえだって。そ、それに、私・・・だって」
優しくて、でもぎこちない慰め方。
それは、ずっと瑞鶴さんのお姉ちゃんをやっていた翔鶴さんにはないものだった。
今、この空母の少女は初めて”お姉ちゃん”であろうとして、僕の頭を撫でている。
その事実に思い至ると、自然と穏やかな微笑を浮かべてしまうのだ。
「ふふ」
「なっ・・・何よ」
「最後の方、聞こえなかった。もう一回言って?」
だから、こんなことも言える。瑞鶴さんを困らせることが分かっているのに言える。
「う、ウソよ絶対聞こえてた、その返しは絶対聞こえてた!」
「しー、静かに。みんな起きちゃうから」
「あ・・・うぅ・・・言わなきゃ、駄目?」
さっきまで感じていた歳上っぽさはあっという間になりを潜めて。
今、隣にいるのはいつもの恥ずかしがり屋の瑞鶴さんだった。
「駄目」
「うぅ・・・バカ」
瑞鶴さんの顔が真っ赤に染まっているのが、乏しい明かりからでも分かる。
そうして、何十秒か、何十分かためらったあと・・・。
「私も」
「私も、アンタを認めてる。アンタが提督で良かったって、そう、思ってるから」
まっすぐな気持ちから放たれたその言葉に、僕は全てが救われた気がした。
初めて、提督としての覚悟が決まった気がする。
それと同時に、心地よい眠気が僕の全身を襲ってくる。
「ありがとう」
「ありがとう、瑞鶴さん。僕も、瑞鶴さんがいてくれて良かった」
それは。
それは、どういう意味?
空母の少女がそう聞き返そうとして少年の顔を見やった時には、もう遅かった。
「なんで・・・」
「なんで、寝てるのよおおおおおおお!」
せっかく、素直になって彼の事を認めてると言えたのに。
あのキスが嫌じゃなかったんだよ、と。今なら言えそうな気がしたのに。
少年は当初の瑞鶴の目論見通りに、穏やかな寝息を立てて眠りについていた。
口では悔しがる言葉を発しているくせに、そのチャンスがふいになったことにホッとしてもいる。
言えなかったことよりも、そっちの方がずっとずっと、悔しい。
「ふん、だ」
「もう、私も寝よ」
でも、寝るのはあと少しだけ・・・いま、ちょっとだけ頑張ったご褒美に。
そうだ。あと少しだけ、少年の寝顔を近くで見せてもらってからにしよう。
ちょっとだけ・・・もうちょっとだけ、少年のベッドの端を借りて。
眠くなったら出て行って自分のベッドに戻ればいいだけの話なんだから。
だから、それまではこうして少年の寝顔を見ていよう。
そうして、翌朝。
少年よりも先に目が覚めた瑞鶴は、部屋中に響き渡る悲鳴を上げることになる。
無論、少年と同じベッドの中で、少年と同じ布団の中で自分が寝ていたことに気が付いて。
第十二章 開戦!
「提督、それでは行ってまいります」
「うん、気をつけて」
戦艦『ミカサ』の甲板から、僕と五航戦の二人は戦場にでる赤城さんと加賀さんを見送る。
送り出したあとは危ないので、一刻も早く退避する予定だ。
「じゃあ、加賀さん」
「はい・・・どうぞ、提督」
結局、加賀さんへのキスの効果は20分から30分ほど。
つまり、この戦いの終わりまでは持たない。けれど、少しでも効果があるのならやっておくべきだろう。
差し出された手をとるこの瞬間は、何度やってもお互いに緊張する。
「んっ」
唇が加賀さんの手の甲に触れると、決まって彼女から吐息が漏れる。
その声がなんだかとても艶かしくて、いつも理性を保つのが大変なのだ。
5秒、6秒・・・やがて、ポウっと加賀さんの手が輝き出して、効果が出たのを確認する。
今艦載機を放てば、僕の視点も変化するだろう。
さて、これで僕のここでの仕事は達成。戦闘が始まったら危ないし、早めに戻るとしよう。
そうして、一航戦の二人から距離を取ろうとした瞬間、赤城さんから声をかけられる。
「提督、提督」
「なに、赤城さん?」
「私にも下さい」
そう言って加賀さんと同じように手の甲を差し出してくる赤城さん。
「ええ、なんでさ!?赤城さんには効果ないでしょ!?」
「あら、分かりませんよ?・・・というのは冗談です」
「お守りがわりに、どうか」
験担ぎじゃあないけれど、こんな事で赤城さんの気が紛れるならなんだってする。
「うん、分かった」
そうして赤城さんの手を引き寄せて、手の甲にキス。
5秒、6秒・・・10秒。やはり何秒たっても効果が出る気配はない。
「ぷはっ。やっぱり効果は無かったみたい」
「・・・そうね、私より長くしても出なかったのだから、そうね」
まあ、長かったといっても数秒の違いだけどね。
決して下心でした訳ではないのだから、加賀さんは仏頂面(不機嫌ver)をやめて欲しい。
「ふふ、加賀は私にも効果が出てしまったら困るかしら?」
「あ、赤城さん!?そんな事は」
「あら、そんな事って、どんな事なの。加賀?」
「そうだよ、加賀さんは自分だけ強くなりたいなんて思うわけないもの」
そうですね、そういう意味では困っていませんね、なんて言って。
掴みどころのない事を言って僕たちをけむに巻くいつもの赤城さん。
よく分からないけれど良かった、特別に気負っているわけじゃなさそうで。
「そ、そんな事より赤城さん、もう行きましょう」
反対に、加賀さんは赤城さんにペースを乱されたまま甲板の先へと歩いていく。
「あらあら、ごめんなさい。少し意地悪しすぎたかしら」
そうして赤城さんも加賀さんの後を追って。
二人とも一度だけこちらを振り向いた後、真っ直ぐに海へと飛び降りていった。
完全に役目を終えて、少し後ろで待機していた五航戦の二人のもとへ行くと。
「何で赤城さんにまでキスしてたのよ」
あなたもそこですか・・・。
瑞鶴さんがまさかの理由で不機嫌になっていた。
それさっき加賀さんにも言われたのでもう許してくれないかな?
廊下を歩きながら、まだむくれている瑞鶴さんに、翔鶴さんが一言。
「瑞鶴は今朝、もっとスゴイことをしているんだから許してあげたら?」
「ちょ、翔鶴ねえ何言ってんの!?私はただ提督のベッドで一緒に寝ただけだからね!?」
「それすっごい誤解を生む発言なんで気をつけて下さい!」
戦闘前とはいえ、時折命令を受けた下士官とすれ違うことを考えると・・・。
もうほんとこの二人には黙っていて欲しい。
結果的に、横須賀鎮守府に割り当てられた部屋に戻るまで無事ですんだけれど。
戦闘が始まる前だというのに、僕の胃はストレスで穴が空きそうだった。
『ミカサ』の主砲斉射を合図に、戦闘が始まる。
各鎮守府の戦艦が長距離から砲撃を始め、水雷戦隊が敵へと肉薄、確実に仕留めていく。
「加賀さん、『ミカサ』の撃ち漏らしを仕留めていくよ」
「分かっています、提督」
『ミカサ』司令部へと行くことを許されていない僕たちは、モニターと無線、それにキスの力による艦載機の視点から一航戦の二人をサポートすることになる。
もっとも、現状は連合艦隊が破竹の勢いで深海棲艦たちを蹴散らしているから、その撃ち漏らしを撃破するくらいしか仕事がないけれど。
「なんだ、提督。楽勝じゃない」
「敵の勢力も事前に調べておいたもの通りですし・・・」
確かにこのままいけば連合艦隊、つまり人間側の圧勝だ。
僕の心配は枯れ尾花に終わるかもしれないし、実際その方がありがたい。
それでもなお。
ドカン、とモニターの中の敵駆逐イ級が加賀さんの爆撃によって爆ぜるのを見ても、何故だか拭いがたい不安が消えない。
100%の勝利が確信出来ない・・・。
「もう一度、敵戦力を確認しようか」
「・・・もう、心配性ね。でもいいわよ、今のところすることないし」
「念には念を、ですね」
モニターの映像を横目で見ながら、今回の大規模作戦の資料を机に広げてみる。
「今のところ存在が確認されている深海棲艦は駆逐級、軽巡級、重巡級、空母級だね」
単純な火力や強度、速度、果たそうとする役割なんかで種別分けした結果がそれだ。
「”戦艦”だったり”潜水艦”だったりが存在するんじゃないかって噂もあるみたいだけど」
「うん、でもそれが確認されたことはなくて、いてもおかしくないってこと。これは艦娘も含めてだけどね」
この戦場には、現在確認されている全ての深海棲艦が展開していて、未知の・・・“戦艦級”だとかもその姿は確認されていない。
「深海棲艦たちは・・・陣形も何もないです。ただ、それぞれが展開しているだけ」
モニターを見ながら翔鶴さんが分析する。
強いて言うならば横に広がっているから単横陣、ということになるだろうか。
ただ単に散らばっているとしか思えない敵のそれは、満足な連携が取れずに『ミカサ』をはじめとしたこちらの砲撃の前に次々と倒されていく。
「作戦の計画書にも、何ら知能を感じさせない下等な生物、とあるね」
紙の上で貶したとしても何がどうこうなるわけじゃあないけれど。
でもこの戦闘を見る限りじゃあ、深海棲艦との戦闘に不安を抱けというのは難しいかもしれない。
そして、今のところ唯一恐るべき彼らの特徴といえば。
「やっぱすごい数よねえ」
そう。
『ミカサ』のモニター越しに見る大海原は今、無数の深海棲艦が描く黒に埋め尽くされていた。
連合艦隊は戦艦が主砲の射程を生かした長距離射撃を、水雷戦隊はその速度を活かして接近と離脱を繰り返す先鋒で戦場を支配している。
このまま戦闘が続けば、2,3時間後には青い海を眺めることが出来そうだ。
「でも、深海棲艦に知能が無くて良かったですね、提督」
「これだけの数を持ちながら戦略を立てられたら、少々マズイかもしれないね」
戦艦に砲撃されれば戦艦へと憎悪を向けて接近しようとし、水雷戦隊や一航戦の爆撃に屠られる。
今度はそちらを追いかけ始めたところへまた、戦艦の一撃。
決まりきったパターンでやられているのに、連中には欠片も学習が感じられない。
「こうして見ると重巡級は人の姿をしてるように見えるのに」
「戦い方を見る限り駆逐や軽巡と同じくらいの知性、といった感じです」
「あの中じゃ一番強くてやっかいだけどねー」
駆逐や軽巡は数、重巡は数こそ少ないものの火力がある。
これは艦娘たちとも共通で、そういった面では似ているのかもしれないけれど。
「にしても、深海棲艦はホントに空母が弱いわよねー。ホントに正規空母?」
そうなのだ。
艦娘側では瑞鶴さんたち鎮守府に四人しかいない空母が圧倒的な戦力となっている。
この戦いに連れてくる四人をその空母勢四人で統一したことが何よりの証明だしね。
「あ。また一隻、赤城さんが仕留めます」
突出した敵の”正規空母ヌ級”。各地で存在が確認されている敵唯一の空母。
そのうちの一隻が持つ戦闘機を加賀さんが全て撃墜して丸裸にした所に、トドメとばかりに赤城さんが爆撃機を放った。
敵”正規空母ヌ級”は、その球状の身体を大きく軋ませた後に爆散。海の藻屑となって沈んでいった。
「私たちと搭載数が違うのよねえ」
深海棲艦の一隻は、こちらの軍艦や艦娘一隻の性能に及ばない。
だからこそ、圧倒的な数が驚異となっているのだけれど、それにしても・・・。
「火力は低く装甲も薄い。搭載数は言うに及ばず。正直、敵の空母は何もこわくないよね」
まだ数が多い駆逐の方が相手にするのが面倒という点でやっかいだ。
深海棲艦と艦娘では、それだけが両者を分ける唯一の違いかも知れない。
おや。モニターの映像を見て、あることに気がつく。
「加賀さんの爆撃・・・火力落ちてきてない?」
「あれ、そうかも」
戦闘が始まってそろそろ20分が経過する。
そろそろキスの効果が切れてきた頃というのもあって、精度が落ちてきたのかもしれない。
ただ、このまま行けば勝利は確実だから問題は無いだろう。
・・・まさか、キスしに戻ってくるということもないだろうし。
一方的な戦闘をモニター越しに見せられて、安堵とともに沈黙が襲ってきた。
慢心するわけじゃあない。
けれど、驚異が見当たらない限り一航戦に指示することもないしということで、瑞鶴さんが先ほどの話を蒸し返す。
「にしても、やっぱ敵の空母が弱いわねー、もう!」
「敵が弱いのは喜ばしいことじゃないか」
クスリと笑って瑞鶴さんに反論する。
多分これは、敵の空母が弱いと自分たち艦娘側の空母まで弱いと思われそうで嫌、みたいな考えだろう。
この戦場で赤城さんや加賀さんが『ミカサ』の撃ち漏らしをメインにかなりの敵を屠っているのだから、そんな評価が下されることは無いだろうに。
そんな僕の落ち着きは、次の翔鶴さんの呟きで雲散霧消することになる。
「そうですね・・・これではまるで”軽空母”のようです・・・」
軽空母。
その言葉が、迅雷の様に僕の頭の中を駆け巡った。
「しょ、翔鶴さん、今なんて言ったの!?」
「えっ・・・きゃ、提督?」
「ちょっと、何翔鶴ねえの手握ってるのよ、変態!」
翔鶴さんに顔を近づけようが手を握ろうが、今はそんな事問題じゃない。
「艦娘には”軽空母”がいるの?教えて!?」
僕の態度が尋常じゃないことを感じ取ってか、五航戦の二人も真剣な表情になって。
それは、翔鶴さんたちにとって人間である僕に報告するまでもないことだったはず。
軽空母の艦娘がいるという概念。それは当然に、確認するまでもなく僕も理解しているだろうと。
艦娘としての常識と、人間の僕の認識の食い違い。それに今まで気がつかなかったなんて・・・。
艦娘が唯一いる横須賀鎮守府―僕の鎮守府に”戦艦””潜水艦”・・・。
そして、”軽空母”がいないからといって、そうした艦娘が本当にいない、今後現れないとは限らない。
そしてそれは深海棲艦側にも言えること。
心臓が悲鳴を上げて、嫌な汗が体中にまとわりつく。
敵のヌ級が”正規空母”だなんて、誰が決めた?敵が教えてくれたのか?
・・・そんな訳が無い。
今まで人間側が観測した深海棲艦空母がヌ級だけだった。
そしてそれを僕らが勝手に”正規空母”と分類して扱っていたというだけの話。
いや、本当に敵の空母がヌ級だけなら、僕の心配はまたしても杞憂に終わる。
それだけのことかもしれない・・・でも。
胸の内に残る、この消えないモヤモヤはなんだ?
「加賀さん、加賀さん!」
「・・・提督?何ですか、珍しく慌てて」
「提督?」
一航戦の戸惑いもこの際、無視して。
「キスの効果、まだ残ってるよね。艦載機の視点が使えるうちに・・・」
「放てるだけの偵察機を敵に向けて放って、早く!」
「分かりました」
加賀さんの持つ全ての偵察機が大空へと放たれる。
代わりに制御しきれなくなった戦闘機たちを着艦させて回収。
守りが薄くなる分は赤城さんがカバーしてくれた。
僕の視点を、次から次へ・・・偵察機から偵察機へと切り替えていく。
目が回るような視界の変化に吐き気を覚えるけれど、今はその時間すら惜しい。
なんとか、加賀さんのキスの効果が終わる前にこの不安を無くしてしまいたい。
「提督、何をなさっているんですか?」
「提督?」
五航戦の二人をも無視して、なおも視点を切り替えて戦場の敵を見渡していく。
「敵前線に駆逐多数・・・駆逐駆逐、軽巡。中盤になるほど重巡や”軽空母”が増えて・・・」
駆逐、軽巡、重巡・・・軽空母。意思を持たぬ下等な化け物たちの群れ。
その、最奥に・・・。
そんな訳がないのに、艦載機の視点越しに”ヤツ”と目があった。・・・そんな気がする。
軽空母ヌ級と同じ様な球状の何かを頭に載せたそれは、まごう事なき人間の体躯を持っていた。
死体のような白い肌と、闇を思わせる黒い艤装に包まれたヤツは。
突出して自分の姿を捉えた偵察機を見て、僕に向かってニタりと微笑んだ・・・そんな気が、した。
ああ、確かに不安は消えた。
絶望という形に切り替わって。
「あっ」
短く加賀さんが声を上げた。丁度、キスの効果が切れたのだ。
視界が元に戻る。再び見ることが出来るのは、モニター越しの黒い敵影のみ。
「我、敵”正規空母”発見す」
「翔鶴さん、艦隊総旗艦・・・大提督にそう報告文を打って」
「瑞鶴さんは甲板まで。加賀さんの偵察機が撮った写真、取りに行って」
乾いた僕の指示と、五航戦の二人が駆け出す音だけが静かに室内に響いた。
「それがどうしたというのだね」
「今、画像を送ります・・・翔鶴さん」
艦載機が捉えた真の敵正規空母の画像を、大提督のもとへと送る。
そして、会話を共有している各提督の元へも。
「ふん、戦闘中に何かと思ったら。下らん」
「単に下等な敵の新種が出てきたというだけの話」
「閣下、私は抜けさせてもらいますぞ」
何故だ、何故みんなこうも戦況を楽観する!?
「今まで我々は、敵・・・深海棲艦が意思を持たぬただの化け物だと判断して戦ってきました」
「今でも、だよ」
「もし、それが違っていたら?」
「・・・何?」
「この新種の正規空母・・・ヲ級と名付けましょうか。ヲ級は明らかに人と同じ体躯を持ち、他の深海棲艦と一線を画しています」
「敵の最後尾に控えていることからして、明らかにこの群れの親玉―”ボス”でしょう」
何故、この危機感が伝わらない!?
僕を敵視している各提督はともかく、比較的柔軟な態度を示す大提督にまで!
「今まで、唯一敵を恐怖する要因があるとすれば、それはあの膨大な数でした」
「もし、あの暴力的とまで言える数に戦略が加わったら?」
「そんな事はありえん。現に、これまでの戦闘を見ろ」
「これまで、このヲ級のような人型の深海棲艦を見た方は?」
沈黙が、何よりも強い肯定となって僕に返ってくる。
やはり、誰もいないのだ。コイツを見たものは、僕以外に誰も。
「ならば一度、撤退すべきです」
「貴様、何を言うか!?」
「この程度のことで怖気づいては、大勝利など掴めぬわ」
「何よ、提督の意見の方が安全で正しいじゃない!」
「役立たずの小娘は黙っていろ!」
「なっ・・・なんですって!?」
瑞鶴さんの言うとおり、僕は自分の考えが他のどんな戦略より正しい自信がある。
大勝利とは言えなくても、今現在こちらはほとんど犠牲を出さずに敵を撃破している。
緒戦は堅実な勝利、ということで一度撤退し、対策を練れば・・・。
そんな僕の献策は、歯牙にもかけられずに叩き潰される。
「横須賀鎮守府特別提督」
他ならぬこの作戦の最高責任者によって、叩き潰される。
「深海棲艦どもが単なる下等生物でなく、戦略を打ち出してくる可能性を証明出来るかね」
「それは・・・このヲ級を見るに、万一を考えて」
「証明出来るかね、確たる論を持って」
「・・・出来ません」
この作戦の中核にいなかった僕に、それが出来ようはずもない。
「決まりだな、各鎮守府諸君は今までどおりの作戦遂行を命ずる」
「今日中にこの海域の敵を殲滅しつくす、以上解散だ」
無力感に苛まれ、無線を切ることもできずに僕は立ち尽くす。
各鎮守府の提督の嘲りを前に、何もできずに。
「緒戦での小勝利など、誰も望んではいないのだよ。横須賀提督」
唯一、僕との無線をまだ切らずにいた大提督がぽつりと呟いた。
・・・どういう事だ?混乱する僕を尻目に、大提督が言葉を重ねる。
「大本営の総力をあげ、奇跡の戦艦『ミカサ』を引っ張り出した」
ああ。
その一言で、僕は理解する。
大提督自身は、僕の見立てを是としていることを。
彼だけは、深海棲艦を相手に少しも驕ってはいないということを。
「その結果、少し敵を蹴散らしただけで安全を取って帰投する」
「それでは満足しない。この計画を立案した者たちは、遠く本土で大勝利の報だけを待っているのだから」
「大きな成功をおさめるためには、相応の”痛み”を伴うのだよ」
「ふざけるな!」
僕の中の何かが弾けた。
「その”痛み”を口にしていいのは、実際に命を落とすかもしれない人たちだけだ!」
「僕の指揮で命を落とすかもしれないのは、僕じゃない・・・。赤城さんや加賀さん、瑞鶴さんに翔鶴さんたちだ!」
「安全な場所にいる奴らが、自分たちの耳触りの良い報を聞きたいがために出していい言葉じゃない。そんなの間違ってる!」
「提督・・・」
「ねえ、きっと・・・大丈夫よ。何も起こらないわ?」
「そこのお嬢さんの言葉が現実になることを信じて、今は進むしかないのだよ」
「情報を、下さい」
「この作戦にあたってかき集めた情報。横須賀に知らされていないモノもあるはず」
「それらをかき集めれば、僕の主張を裏付けられるかもしれない」
無常にも、そのあがきは一蹴される。
「一航戦の空母艦娘の指揮に専念したまえ」
そうして、無線は完全に途絶えた。
戦況は進んでいく。連合艦隊の圧倒的優位なまま、進んでいく。
じりじりと戦線を上げられ、僕たちに押されて後退していく敵を掃討するというかたちで。
海のあちこちで深海棲艦たちが煙と血の泡を吹き出しながら沈んでいくのが分かる。
絵に描いたような大勝利はもう、間近に迫っていた。
踊る踊る。戦艦『ミカサ』は、僕たちを乗せて敵味方ひしめき合うこの洋上を踊る。
大勝利という名の奇跡の舞台を。
あるいは、まさかの大敗北という名の悲劇の舞台を。
幕が降りるまでに残された時間は、おそらくもうあと僅か。
続き
【艦これ】キスから始まる提督業! ①巻下【ラノベSS】


