【関連】
◇01-01[Sad Fad Love]
◇01-02[Xavier]
◇02-01[Mr.Droopy]
◇03-01[FOXES]
◇04-01[Nightmare]
◇04-01[Come Down]
◇01-02[New Year's Eve]
元々、高校では部活に入るつもりはなかった。
別に、受験勉強の反動で燃え尽きてたってわけでもない。
そりゃ、たしかに勉強はそれなりに大変だったけど。
そういう話とは別に、高校では部活はしなくていいかな、と思っていた。
もともとそんなに活力のある方じゃなかったし。
中学では一応陸上をやっていたけど、べつに競技の内容が好きだったわけでもない。
だから高校では部活は何もせずに、バイトでもしながらぐだぐだ生活しようと思っていたのだ。
そんな俺の高校生活に対する気怠い夢は、ひとつの誤算によって阻まれた。
その誤算が何かという話は後に回すとして、結果として俺は文芸部に入ったわけだ。
文芸部の部長は、ちびっこい、よく分からない、ちょっと気味悪くさえある女の先輩だった。
「文章を書いてみたらどうですか?」
部長がそう声を掛けてきたのは五月のある放課後のことだった。
「何か分からないことがあるなら、書いてみるといいと思いますよ」
「でも、頭の中では、何が分からないのかすら、はっきりとしていないんです」
「考えてから書くんじゃないんです。考えながら書くというのとも、違います。
書くことで、考えるんです。書くことによって、初めて考えられるんです。そういう場合があるんですよ」
俺には彼女の言っていることがさっぱり分からなかった。
だから、結局その日以降、部室にはあまり顔を出さなくなった。
それでも、今俺はノートに向かって文章を書こうとしている。
あの部長の言葉を、少しくらいは信用してもいいと思ったからだ。
もちろん、文章を書くことは得意じゃないし、うまくまとまらないかもしれない。
それでも、一度、自分を取り巻く状況について考えてみるのは、必要なことだという気がする。
文章を書くことによって、起こったことを整理する。
そして、起こった物事に対して、どのような態度を採りうるのか、それを考える。
もともと順序立てて考えるのは得意な方じゃない。
だから、文章の力を借りてみよう、そう思った。
記号や図表でまとめてみても、いまいちうまくいかないから。
文章を書いてみようと思った。
◇
いろいろ書いてしまいたいことは、たくさんある。
でも、それを未整理のまま紙面に放り出したら、きっと収拾がつかなくなる。
だから、順を追って書いていくことにする。
まずは、出会いから。
俺が彼らと初めて出会ったのは、小学校の低学年の頃だった。
俺は親の仕事の都合でこの街に引っ越してきた。
彼ら二人は、この街にもともと住んでいた。そうして、同じ小学校に通うクラスメイトになったわけだ。
当時の俺は……というか、今もなんだけど、結構引っ込み思案な方だった。
シャイとか恥ずかしがり屋とか女々しいとか、言葉はなんだっていいんだけど。
人と話すのが苦手で、新しいクラスにもなかなか馴染めなかった。
もちろん転校生ってだけで、クラスメイトたちはいろいろ良くしてくれた。
でも、かといって、友達と呼べるくらい親しい相手は、なかなかできなかったのだ。
そんな俺に声を掛けてきたのが、サクラだった。
明るくて、男勝りで、かわいい女の子。だからサクラは人気者だった。
たぶん何人かのクラスメイトは、彼女に思いを寄せていただろうと思う。
でも、サクラに告白しようとする奴はいなかった。
まだ子供だったからっていうのも大きいのかもしれない。
けど、それ以上の理由があった。
つまり、サクラには、その当時から相棒みたいな立ち位置の男子がいたのだ。
サクラは、クラスの男子とも女子とも、あまり仲良くなかったみたいに見えた。
でも、今となって考えて見ればそれは真逆で、彼女は誰とでも仲が良かったのだ。
ただ、たったひとりの男子生徒と特別親しげにしていたせいで、他の生徒にはどこか遠く感じられただけで。
サクラは、俺に何度も話しかけた。
そして、彼女は自分の相棒をつれて、俺を遊びに誘った。
当時は本当に男の子みたいだった。
遠くに探検に行きたがったのもサクラだったし、夜の学校に忍び込もうとしたのもサクラだった。
奇妙な話で、俺と彼女ともう一人は、一度出会って以来、ずっと同じクラスに所属し続けた。
そんな日々が続くと、自然と話すようにもなって。
気付けば俺たちは、いつも一緒に行動するようになった。
いつでも一緒だった。
そんな友達ができたのは、俺には初めてだった。
だから俺は、こんな関係がずっと続いたらいいよなあ、なんて、当時はそんなことばかり考えていたのだ。
◇
もう一人の友達。サクラの相棒。
サクラもわりかし変わった奴だったけど、こいつもこいつで変な奴だった。
そうでもなければ、正体不明の活力を暴走させていた当時のサクラの相手をするなんて、無理だっただろうけど。
暴走しがちのサクラを止めるブレーキ。
頭が良くて、物静かで、ぼんやりしていて、物腰が落ち着いていて。
そっけなくて、ぶっきらぼうで、冷たく見える。
時間の流れが、人とは少し違っているような、そんな感じの、変わった男子。
誰かが何かに困っていると、何気なく気付いて、さりげなく助ける。そんな奴だった。
サクラの手綱を握っていたのはこいつだった。
サクラとは違った意味で目立つ奴ではあった。
もともとサクラとは、保育園に入る前からの知り合いだったらしいけど、詳しくは知らない。
女みたいな整った顔をしていて、表情の変化も口数も少なくて、気付くといつも眠っていた。
だから彼は、ヒメと呼ばれてた。
◇
サクラ、ヒメ、それから俺の三人は、わけもわからないままずっと一緒にいた。
ふたりが俺のことをどう思っていたのかは分からない。
俺はふたりのことを友達だと思っていたけれど、でもどこかで遠く感じていた。
サクラとヒメの距離感はとても近くて、他の人間が入り込む隙間はなかったように見えた。
だから俺は、ふたりの近くにいたはずなのに、心のどこかで自分が余計者だと感じていたんだと思う。
だから、中学に入って、サクラの性格が徐々に落ち着き始めた頃。
きっと二人は付き合うことになるんだろうなと、ぼんやり感じていた。
ところがそうはならなかった。
中学にあがってから、男女の別は無意識にくっきりとしてきて。
だから、俺とヒメ、サクラとの間には、微妙な隙間のようなものができてしまった。
もちろんそれでも、特別仲のいい関係だったことは間違いなかったわけだけど。
そんなふうに、少し距離ができたせいかもしれない。
サクラは『三人一緒』であることに奇妙なこだわりを示すことが多くなった。
いや、あるいはそれは、ヒメの変化が原因なのかもしれない。
◇
ヒメの態度が急に変わったのは、小学校高学年の頃だった。
たぶん、おばさんが死んだのと関係がある、とサクラが言っていた。
本当にそうなのかどうかは、分からない。
もちろん、ヒメの家に遊びに行ったことはあった。
ヒメの両親や妹とだって、毎日みたいに顔を合わせていた。
でも、ヒメの母親が死んでから、俺もサクラも、彼の家には近付かなくなった。
よっぽどショックだったんだろう、と想像することしかできない。
俺が知らない事情もあるのかもしれないけど、ヒメはそれ以来、人が変わったみたいだった。
笑う数が少なくなって、物思いにふけることが多くなった。
うつむきがちになって、話しかけると、ときどきおどおどするようになった。
皮肉っぽい言い回しを使うことが多くなった。
もちろん、俺たちは小学生だった。
だから、今考えて見て初めて、そういえば、と思うだけであって。
当時はそんな変化、ほとんど気にもとめていなかったんだけど。
ヒメがそんなふうになって、サクラとの間にもなんとなく近づきがたい空気ができて。
それでも俺たち三人は、つかず離れずの距離のまま、三人でぼんやりと過ごしていた。
サクラだって何もかも変わってしまったというわけではない。
ときどき男勝りだったときの面影みたいなのを出すことはあった。
俺たち三人の中で、イニシアチブを握っていたのはいつもサクラだった。
ヒメだって、べつに四六時中ぼんやりしているわけじゃなかった。
基本的にはやさしくて視野が広い奴だったし、こっちが気付かないくらい自然と気を使うことだってたくさんあった。
ぼんやりとすることは増えたけど、それでもいざというときの判断は早かった。
怪我をした子猫が車に轢かれそうになったとき、俺とサクラは、とっさに動けなかった。
でも、彼は、瞬時に車の前に躍り出て、転がるみたいに猫を助けて見せた。
俺の中でヒメは、そういう英雄的な性質を持っていた。
猫を助ける。家族を大事にする。頭がいい。運動だってそれなりにできる。
そんな相手だったから、俺は自分がサクラを好きになったと気付いても、張り合おうとは思わなかった。
◇
だいたいの知り合いは、俺のことを、佐藤、という苗字で呼ぶ。
平々凡々の代名詞みたいな苗字だけど、このあたりの土地ではけっこう珍しい名前らしく、誰とも重なっていない。
小学生の頃は転校生だったこともあって、みんな俺に対して、壁みたいなものを作っていた気がする。
その名残で中学でも苗字で呼ばれ、その流れで高校でも苗字で呼ばれている。
下の名前で呼ぶのは、サクラとヒメの二人だけだった。
中学三年の冬のある日、ヒメと俺はふたりきりになった。
そのときのヒメの態度は、ごく普通の、自然なものとして、俺の目には映っていた。
「ユキト」――と、ヒメは俺のことをそう呼ぶ。
「おまえ、ひょっとしてサクラのことが好きなのか?」
ヒメの言葉は平坦で、表情の変化も希薄だった。
だから俺は、彼の気持ちが読み取れなくて、妙な不安に襲われた。
答えに窮して黙り込むと、沈黙を勝手に解釈したのか、ヒメは長い溜め息をついて、「そっか」と言った。
ヒメはもともと感情が読み取りにくい奴だったけど、中学に入ってからその傾向は一層強まった。
彼の感情の動きを漠然とでも理解できたのは、たぶん、サクラと、あとは本人の妹くらいだったんじゃないかと思う。
俺には、ヒメの気持ちがまったく分からなかった。
分からなかったけど、俺はなんとなく、ヒメはサクラが好きなんだと、そう考えていた。
今でも、そう考えてる。思い込みかもしれない。
いずれにしても、その会話以降、ヒメは俺やサクラのことを、徐々に避けるようになった。
たぶん、ヒメはサクラのことが好きだったんじゃないかと思う。
でも、俺がサクラに好意を寄せていると気付いて、“身を引いた”。
そう考えるのが、一番しっくりくる。
そしてヒメは、中三の冬から高一の初夏に至るまで――つまり、今の今まで――俺たちのことを避け続けている。
◇
ヒメが俺を避けるようになった、と書いたけれど、あれは間違いだったのかもしれない。
こうして文字にしてみるまで、事実そうであるように感じていたけれど、よく考えると違うような気がする。
彼からすれば、先に距離を作ったのは、俺とサクラだったのかもしれない。
サクラは、三人で同じ高校に行こう、と言った。
俺はべつに将来の目標があったわけでも、行きたい高校があったわけでもなかった。
だから反対はしなかった。ヒメの方も、手近に通える学校ならどこでもいいと思っていたようだった。
それでも、ヒメが志望していた高校のレベルは、俺たちにはちょっと厳しかった。
俺たち三人の中で、成績がずば抜けてよかったのはヒメだった。
さすがに、俺とサクラの為に志望校を変えろと言ってしまえば、それは少し話が違う。
だから俺とサクラは、ふたりで猛勉強をするはめになった。
中三の夏、俺たちふたりはヒメには内緒で勉強会を始めた。
どちらか一方の家や図書館に集まり、一緒に勉強をするようになった。
それが特別なことだとは思わなかった。
俺たちは幼馴染だったし、勉強会の目的は、ヒメを驚かせることだったから。
ふたりで勉強をしていても、サクラの頭を支配しているのはヒメだと思っていた。
だから、俺にはそれが、三人で遊んでいる時間の延長線上に存在しているように思えていたのだ。
サクラがそんなことを言い出したくなる気持ちも、分からないではなかったし。
授業中に居眠りをしたり、それでなくてもぼーっとしてばかりいるヒメが、学校では高い成績を維持していたんだから。
ヒメの鼻を明かしてやろう、とサクラがたくらみ、俺がそれに乗ったのは、ごく自然な成り行きだった。
夏から始まった俺たちの勉強会は、受験の日までずっと続いた。
今思えば、ヒメはその事実に気付いていたのかもしれない。
……というか、気付いていなかったわけがない。
俺とサクラは、ヒメに内緒で何度も勉強会を開いていた。
そのちょっと前まで、サクラはうるさいくらいにヒメに付きまとっていたのだ。
ヒメが気付かなかったわけがない。
だからこそ、ヒメは訊いてきたのだろう。
ひょっとしてサクラのことが好きなのか? と。
◇
もちろん、俺はサクラのことが好きだった。
俺の数少ない友達。
彼女がいなかったら、俺はきっとまともな学生として生きられなかったかもしれない。
だからといって、サクラとすぐにどうこうなりたいという気持ちはなかった。
俺はサクラを好きだったけど、サクラとの関係はいつだってヒメの存在を前提にしていた。
ヒメがいること。
サクラがいること。
そこに俺がいること。
それが俺たちの関係性だったし、たぶん、俺も、サクラも、それを望んでいた。
ヒメがどうだったのかは、分からないけど。
◇
……とにかく、順序だ。話を順番に辿る。
俺とサクラの勉強会は、もっぱら俺の家で行われるようになった。
うちは両親が仕事で留守にしがちだし、他に家族もいない。サクラの家からも近かった。
近所の人の目は多少意識したけれど、普段から一緒に遊んでいるせいで、気に掛ける人もそんなにいなかった。
思い返してみれば、俺とサクラは相当長い時間、ふたりきりで勉強したのではないかと思う。
当時は、あまり意識しなかったけど。
……いや、嘘だ。
ほんとうはすごく意識していた。
二人きりで勉強するということ。長い時間一緒に過ごすこと。
俺はそこに特別なものを感じていた。
俺が妙な勘違いをせずに自制していられたのは、そうした時間のすべてが、ヒメの存在を前提にしていたからに過ぎない。
サクラはヒメのことを考えている。そう思うことで、俺は自制することができていた。
最初は、そうした秘密も楽しかった。
ヒメの驚いた顔を想像すると、ワクワクして、心地よかった。
でも、何度も繰り返すうちに、奇妙な罪悪感と、据わりの悪いような気持ちが生まれた。
サクラも、きっと同様だったんじゃないかと思う。
俺はあからさまにサクラを意識していたし、サクラにも少なからず、そういう部分があったような気がする。
それでも、勉強会を途中でやめてしまえば、それこそ意識しているという事実を認めることになる。
関係を維持するためには、お互いに気付かないふりをするしかなかった。
本当なら、テストの成績があがったら、ヒメに勉強会の存在を教えるつもりだった。
それをすぐに伝えることができなかったのは、そうしたさまざまな感情が綯い交ぜになった、罪悪感が原因だったんだろう。
十一月のある日、俺たちふたりは、部屋で勉強していた。
その日は朝から肌寒くて、俺たちはこたつに向かって勉強を続けた。
会話もなく、ただ黙々と勉強をした。それ以外の態度が見つからなかった。
夕方頃、俺がふと顔をあげると、サクラはノートに頭を載せて居眠りをしていた。
俺はそのとき息を飲んだ。
窓から差し込む夕日に照らされた、朱に染まった頬。
そのときのサクラの寝顔のイメージ。
それはしばらくの間、瞼に焼き付いたまま、俺を眠れなくさせた。
本当のことをいうと今でも焼きついたままだ。
思い出すと、夜も眠れない。
◇
そんなことが続いていたせいで、ヒメと話すとき、俺もサクラも、どこかぎこちなくなることが多くなった。
たぶん。自覚はなかったけど、相当おかしかったのかもしれない。
そうじゃなければ、ヒメはあんな質問をしてこなかったはずだ。
例の質問以来、ヒメは俺たちを避けるようになったが、もちろんサクラはこれを良しとしなかった。
その頃、学校は既に冬休みだった。
ちょうど年の瀬だったし、俺とサクラの間では、勉強の骨休めを兼ねて、ヒメを誘って久しぶりに遊ぼう、ということになった。
受験も近付いてきたし、いいかげん、隠れて勉強会をしていたことを、ヒメに話さなければならない。
サクラはそう言ったし、俺もそれには同意した。そもそも、それまで秘密にしていたことが予定外のことだったのだ。
サクラはクリスマスの日、三人で集まろうと、俺には直接、ヒメには電話で伝えた。
けれどヒメは、予定があるから会えない、と言って断った。
たぶん、このとき断られたことで、俺たちは明確に「避けられている」という事実を意識しはじめた。
「このままではまずい」という意識を持ち始めた。
だったら大晦日は? とサクラは聞いた。
大晦日はいいよ、とヒメは言った。
あとになって分かったことだけど、ヒメの答えは気まぐれな理由からではなかったらしい。
ヒメは妹の都合に合わせていたのだ。
クリスマスは妹が家にいるから、夕飯を準備しないといけない。
でも、大晦日は友達と一緒に遊ぶらしいから、大丈夫だ、という。
けれど、俺とサクラはそんなことを知らなかった。
ヒメがクリスマスを避けたせいで、俺たちはなんだか責められているような気分になった。
それはもちろん、俺たちの罪悪感が原因だったんだろうけど。
とにかく、それでも、俺たちは大晦日に集まることになった。場所は俺の家だった。
冬休みに入ってから三人で集まったのは、そのときが初めてだった。
そんなに長い期間会わないでいるというのは、初めてのことだった。
だから俺たちは焦っていた。
焦っていたのだ。
◇
この文章を書き始めてもう五日目になる。五日書き進めて、これだけなのかと思うと愕然とする。
文芸部に所属していたっていっても、まともに何かを書こうとしたのなんて初めてだった。
こんなことをみんなが続けているのかと思うと、愕然とする。
一度書くのを中断すると、どこからどう再開したらいいのか、分からなくなる。
それでも書こうと思って文章を読み返してみると、気恥ずかしくなってページをすぐに破り捨てたくなる。
入学してから二ヵ月以上経った。俺は、ヒメとも、サクラとも、ろくに話せていない。
クラスメイトが良い奴ばかりで、助かっている。話相手には困らないから。
でも、案の定というか、一緒に昼食をとったりするような相手はいない。
我ながら「引っ込み思案」で済ませられるような年齢でもないはずなのだが。
まあ、それに関してはいいだろう。
大晦日に何が起こったのかについて書く。
たいして難しいことではないはずなのに、いざ書こうとすると、どうしても困ってしまう。
なぜだろう、と考えてみて、分かった。何も起こらなかったからだ。
何も起こらなかったのだ。
あの日、俺たちは何をしたんだろう。思い出そうとしても難しい。
たぶん浮かれていたんだと思う。
ヒメと会うのは久しぶりのことだったから。
大晦日の夜、うちの両親は揃って外出していた。
もともと夫婦仲がよくて、機会があれば夫婦だけで旅行するような親たちだった。
子供の頃はもちろんついていっていたけれど、もうそういう年でもない。
とはいえさすがに、年の瀬に家に一人息子をほったらかすのはどうなんだと思わないでもないが。
どうせ友達と集まるだろ、なんてあっさり言っていたので、ある意味では気を使っていたのかもしれない。
実際、両親がいなかったのは、場所の確保の上で役立った。
サクラの家には両親がいるし、ヒメの家は……なんとなく近寄りがたい。
ヒメの承諾が得られた以上、問題はサクラの両親の許可がとれるかどうかだった。
大晦日に集まるとなれば、自然な流れとして年が変わるまで一緒にいることになる。
男二人と女一人で集まるなんて(俺たちの関係からすれば自然だったにせよ)、年齢を考えればおかしな話だ。
その困難を、サクラは嘘をつくことで乗り切った。女友達だけで集まる、という。
もともと彼女の家の両親はおおらかな方だったし、深く問い詰められはしなかったらしい。
大晦日の朝、ヒメとサクラは揃って俺の家を訪れた。
大掃除を前日のうちに終えて、普段よりは多少片付いていた俺の部屋を見て、サクラは感心した。
「いつもより綺麗だね?」と言った。
耳聡いヒメがその言葉を聞き流すはずはなかった。
おかげで俺とサクラは、会って早々、彼に気の重い話をしなければならなかった。
結果的にはよかったのかもしれない、とそのときは思った。
今となっては、どうなのか分からない。
俺とサクラは正直に話した。
ヒメを驚かせるつもりで、黙ってふたりで勉強をしていたのだ、と。
なるべく軽い調子を心掛けて。ヒメもそれで笑ってくれた。
「最近ふたりでなにかこそこそやってるなって思ってたけど、そういうことだったのか」って。
俺たちはヒメが笑ったことで安心した。それで浮かれた。
そして、朝から晩まで遊んだ。
スナック菓子やジュースを近所のコンビニで買い集めた。
どんな会話があったのか、もう覚えていない。
俺の部屋の小さなコタツにあたりながら、俺たちはテレビを眺めながら花札をしながら過ごした。
夜九時を過ぎた頃、年越しそばとか、初詣とか、そういう話題が出るようになった。
たしか、新年の抱負を言い合おうって言ったのはサクラだった。
ああいうのは年が明けてから言うもんだろ、と笑いながらヒメが答えていたのを覚えている。
じゃあ、初詣いったらどんなお願い事する? とサクラは続けた。
初詣ってお願いしていいんだっけ? とヒメは真顔で首を傾げていた。
俺は不思議なくらいそのやりとりを覚えている。
とにかくサクラは、願い事と抱負を言い合うっていう遊びを思いついて、それを実践したがった。
そうなると俺たちは従うしかなかった。いつもそうだったし、大晦日みたいな日は特にそうだった。
言い出しっぺのサクラは、お金がたくさんほしい、と言った。俗物だなあ、とヒメは溜め息をついていた。
それから、受験、合格しますように。とってつけたみたいに彼女は続けた。
俺たちは笑った。新年の抱負については、サクラはとくに触れなかった。
じゃあ、次、ヒメは? サクラはそう言って彼の方を見た。ヒメは肩をすくめた。
思いつかないな、と彼は言った。そして俺に話を振った。ユキトは? と。
彼は当たり前みたいに俺の名前を呼んだ。俺はその事実がなんとなく嬉しかった。
嬉しかったから、俺はそのとき、あんなことを言ったんだと思う。
ちょうど、そういう発言をしても許されそうな機会だったし。今となっては照れくさくて頭を抱えるけど。
「こんな日が続けばいい」と、そう言った。
ふうん、と感心したような溜め息を漏らしたのはサクラだった。ヒメは何も言わなかった。
「本当に、こんな日が続けばいいのにな」
俺はそう繰り返した。本心からそう思ったのだ。
それに、ヒメに秘密を明かし、後ろめたいところがなくなった以上、実際にそうできるのだ、とも思った。
俺たちは年越しそばを食べて、除夜の鐘をきいて、テレビと部屋の灯りを消して初詣に出かけた。
その夜は本当に楽しくて、目に見える景色も手に触れる感触も、すべてはふわふわしていた。
何もかもが穏やかで静かなのに、心だけが騒がしいくらいに沸き立っていた。
きっと他のふたりも、そんなふうに感じているんじゃないかと思った。
たぶん、いちばんはしゃいでいるのはサクラだった。二番目は俺だった。
単に、イベントごとに気分が左右されやすい性格、というのもあるけど。
長いあいだ自分を悩ませていた隠し事から開放された、というのも、たぶん大きかった。
だから、俺とサクラはすごく明るかった。
でも、ヒメはどうだったんだろう?
今になって考えてみれば、ヒメは逆だったんじゃないだろうか。
俺たちふたりの隠し事になんとなく気付いていたとしても、実際にそれを事実だと明かされたら?
俺ならきっと、安心なんてしない。
きっと、強烈な疎外感に支配されていただろうと思う。
ヒメは、どうだったんだろう。
◇
何かが起こったわけでもない。
今年に入ってから、ヒメは以前と同じように、俺たちと過ごしてくれるようになった。
大晦日から、高校に入学するまでずっと。
でも、高校に入学して少し経った頃から、また、俺とサクラを避けるようになった。
どうしてなのかは分からない。
俺は高校に入ってからも、ヒメと一緒に過ごせると思っていた。
だから、当初は帰宅部でいようとした。ヒメもそうだろうと思って。
でも、彼は文芸部に入るって言い出して、サクラもまた、美術部に入ってしまった。
俺は仕方なくヒメにあわせて文芸部に入ったけど、ヒメとの距離を保てたわけではなかった。
ヒメとの間に距離ができると、自然と、サクラともあまり話さなくなった。
部活が違うというのも大きかったし、そもそも俺とサクラは、二人きりで話をするのに、まだ抵抗があった。
後ろめたさのような気持ち。
……たぶん俺は何かを見逃したんだろう。そういう感覚が、ここ最近ずっとある。
ヒメは、入学してから、頻繁に屋上に通うようになった。そこで、いつも誰かと話している。
女の子。
彼はサクラが好きなんだと思っていた。だから、混乱した。
ヒメが何を考えているのか分からなかった。
俺も屋上に何度か行ってみたけれど、特に何も感じられなかったし、不思議と誰もいなかった。
だから俺は屋上に行かなくなった。部活にも顔を出さなくなった。
サクラとも話さなくなって、ただ毎日を黙々と消化した。
何もかもがあからさまに、予兆もなく変化していくことだけが、おそろしかった。
それでも、何もせずにそれを見過ごすのは嫌だった。
そんなふうにして、彼らとの関係を失うのが嫌だった。
なんとか踏み止まらなくてはならない、と。
そして、先月。六月のある日、俺は屋上に向かった。そこにはヒメしかいなかった。
だから俺は訊ねた。
どうしてまた、俺たちを避けるようになったんだ、と。
べつに理由があってのことじゃないよ、と彼は言った。
家のこととか、学校のこととか、ばたばたして忙しかったんだ、と。
避けようとしたわけじゃない。でも、そういうものだろ。
「いつまでもずっと同じままではいられないんだよ」、と、ヒメは言った。
俺はその言葉にショックを受けて、何も言い返せなかった。
◇
でも、たしかにそうなのかもしれなかった。
俺はまだ、サクラの寝顔を夢に見ている。その瞬間は、いつもヒメのことを忘れている。
俺はサクラのことが好きだ。
ヒメが俺たちを避けるようになって、二人きりの時間が増えたとき、俺は自分が満ち足りた気持ちになるのを発見した。
いつまでも同じままではいられない、という言葉は、じわじわと俺の頭の中を侵食していった。
屋上でのその会話以来、俺とヒメは言葉を交わしていない。
サクラの方も、話をしていないらしい。
喧嘩したのか、とサクラに何度も問いかけられたけど、あれを喧嘩と言っていいのかも分からない。
なんであれ、ヒメの言葉をサクラに告げるわけにはいかなかった。
結局、ヒメの言う通りなのかもしれない。
いつまでも変わらない関係なんてない。サクラのことが好きだ。
"三人一緒"が無理ならば、ヒメがそれを拒むならば、俺はサクラの手だけでも掴むべきなのかもしれない。
だって俺は彼女のことが好きなのだ。
……卑怯な言い訳のようでもある。
自分のことがよくわからない。
七月に入ってから、俺はもう一度だけ屋上に向かった。
ヒメがいるかもしれない、という期待(……なのだろうか?)もあったが、結局彼はいなかった。
夏休みが近かったかもしれないけど、屋上は気持ちよかった。
陽射しはぽかぽかで、風はさらさらで、居心地がいい。
思わず伸びをして、制服のままで寝転んだ。
太陽がまぶしくて、あたたかい。目を閉じると、世界は赤みがかった肌色に覆われた。
蝉の鳴き声。
そこに、サクラが現れた。
何を言われるのかな、と俺は思った。彼女と話すのは久しぶりだった。
彼女は、ちょっと怯えたみたいな態度で、
「喧嘩、した?」
と、そう訊ねてきた。俺は知らないふりをした。
そしてヒメのことを考えた。彼の言葉を思い出した。
それから急に悲しくなった。
だからだろうか?
一緒に帰ろう、と俺は言って。
彼女を誘って。
コンビニに寄ったとき、夏祭りのポスターを見つけて。
気付いたらサクラを誘っていた。
「ふたりで?」とサクラは訊き返した。
「ふたりで」と俺は頷いた。
「うしろめたくない?」と彼女は言った。
もちろんうしろめたかった。
◇
頭の中で、考え事は堂々巡りを繰り返している。
俺はひょっとしたら、ヒメが自分たちから距離を置いたことを、喜んでいるのかもしれない。
分からない。
とにかく俺はもう、彼女を誘ってしまった。
ヒメに対する後ろめたさはあった。不思議な話だ。距離を置いたのはヒメの方なのに。
それでも、実際に行動を起こしたという充実感のようなものが、俺の胸をついた。
いま、なんとなく分かった。俺はサクラのことが好きで、そのことを彼女に伝えてみたいのだ。
言ってしまいたいとは、ずっと前から、思っていたけど。
彼女が望んでいるのは"三人一緒"であって、それを壊すことになるから、言えなかった。
もっと言えば、うまくいくわけがないと分かっていたから、言えなかった。
でも、仕方ないか、と思う。
とにかく告げてみよう。それで何かが壊れるとしても、それは今更なのだ。
少し、気分が晴れた。部長が言っていた通り、文章を書くことにもたしかに効用はあるのかもしれない。
とにかく、サクラに気持ちを告げよう。そうしなければ、どうにもならない。
……でも、と、どうしても考えてしまう。
ヒメはいったい、どう思うだろう?
◇
今日が一学期の終業式だった。
俺はサクラと一緒に駅前の喫茶店に行った。
最近できた店らしいが、なかなかに盛況で、彼女が噂に聞いたとおり、シュークリームが絶品だった。
例の決意を固めてから何日も、俺はただぼんやりと日々を消化してしまっていた。
それが今日、なんだか揺らいでしまった。
喫茶店にはヒメの妹が来ていた。
顔を合わせるのは久しぶりだったけど、俺には彼女のことがすぐに分かった。
ここ最近ずっと顔を合わせていなかったのに、どうして、よりにもよって今、会ってしまったんだろう。
ヒメのことを考えないようにしていたこの時期に。
誰が悪いというわけでもないのに、まとわりつくみたいに離れてくれない。
別に疎んでいるわけでもないのに、不安になっている自分を見つけて、嫌気が差す。
俺と一緒にいるとき、サクラはときどき不思議そうな顔をする。
なにかに気付いたみたいな顔を。
「どうしてこの場にヒメがいないのだろう?」というような顔を。
俺はその表情について、努めて考えないようにした。
今となっては既に、俺はヒメと仲直りしたいとは思わなくなってしまった
ヒメと一緒にいられることよりもむしろ、サクラと二人でいられることの方に、心が傾いてしまっている。
けれど、サクラはきっと、ヒメと居たいんだろう。
猫を助けられる人。走る車の前に飛び出せる人。
俺には、同じことはきっとできない。
……これ以上考えるのはよそう。
そういえば、最近公園にいた女の子。彼女はいったい、なんだったんだろう?
この辺りの子だと言っていたけど、どうにも見覚えがない。
願い事がひとつだけ叶うなら、なんて言っていたけど。
妙に印象に残る女の子だった。
とはいえ、まあ、あれ以来話してないから、関係ないんだけど。
彼女の話は面白くはあったけど、俺はきっと何も願ったりはしないだろう。
そんな都合の良く叶う願いなんかに頼ったら、きっといろんなことが分からなくなってしまう。
願いがあるなら、それを自分の手で叶えられるように努力するべきだ。
まあ、子供の話に真剣な返事をしたって、なににもならないんだけど。
とにかく、夏祭りの日だ。
夏祭りの日、俺はサクラに告白する。
その結果どうなるか、分からない。
いいかげん日記のようになってきて気恥ずかしいし、この文章も終わりにしてしまおう。
書き慣れていないから、どう結べばいいのか分からない。……まあいいか。
話はあちらこちらを行ったりきたりして、ちっともまとまった文にはなっていない。
でも、とにかく、頭が書き始めるまえよりもすっきりした気がする。
思っていたほど、無意義な行為でもなかったのかもしれない。
たぶん、明日の朝には破り捨ててしまうような気がするけど。
とにかく、これでおしまいだ。
続き: ◆05-01[Nowhere]
【関連】
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◇04-01[Come Down]

