【関連】
最初から: ◇01-01[Sad Fad Love]
◇01-02[Xavier]
どうでもいいような話だけど、高校にあがってから真っ先に驚いたのは、屋上が開放されていたことだった。
小中と両方開放されてなかったから、屋上が開放されている学校なんてフィクションの中にしか存在しないと思ってた。
でも開放されてた。このことを喜んだ新入生はたぶん俺だけじゃないと思う。
どきどきしながら鉄扉を押し開くと、春先の乾いた風が俺の髪をぐしゃぐしゃにした。
目に入ったのは灰色のフェンスと高い空。振り向けば給水塔。そのスペースまで昇るための梯子。
バカと煙は、というわけではないと思いたいけど、俺は昔から高い場所が好きだった。
だから、屋上にあがれると知ったときはすごくうれしかった。
期待した通り、空に近くて、爽快で、風が気持ちいい場所だった。
俺は一週間、毎日、昼休みになるたびに屋上に出た。
でも、屋上には誰もいなかった。その理由は、一週間後には理解できた。
屋上って、別にたいした場所じゃないのだ。
風は埃っぽくて、春先だったから花粉でくしゃみも出る。
そもそもちょっと肌寒い。それから天気によっては別に爽快でもない。
夏なら陽射しが厳しいだろうし、秋なら風が冷たいだろう。さらに冬には雪が降る。
しかも、ちょっと汚い。いつのものとも分からないゴミが引っかかっていたりする。
昭和の不良でも煙草を吸うなら別の場所にするだろう。
この屋上には、俺が憧れたような利便性もなければ、劇的な要素もありそうもなかった。
これは勝手な期待と勝手な失望かもしれない。
それでもときどき屋上に出たり、一時は通っていたりもしたが、結局、今では近寄らなくなってしまった。
理由はいろいろあるけれど。
◇
そして、七月のある日の放課後、俺はひさしぶりに屋上を訪れた。
特別な理由があったわけではないけれど、もうすぐ夏休みになると思うと、なぜか、覗いておきたい気がした。
ひょっとしたら誰かいるかもしれない。
そういう期待(……なのだろうか?)もあったけど、結局誰もいなかった。
それでも、長い休みが近いせいか、屋上からの景色は春先に見たときより、ずっと開放的で、爽快に見えた。
陽射しはぽかぽかで、風はさらさらで、居心地がいい。
思わず伸びをして、制服のままで寝転んだ。
太陽がまぶしくて、あたたかい。目を閉じると、世界は赤みがかった肌色に覆われた。
蝉の鳴き声。
じっと寝そべっていると、なんだかうたた寝しそうになって、俺は睡魔との格闘することになった。
そんなときだった。不意に、
「なにしてるの?」
と、声がした。一瞬、錯覚かと思うくらい、自然な声だった。
びっくりして体を起こして振り返ると、立っていたのは幼馴染の女の子だった。
「日焼けするよ」と、彼女は呆れたような顔で言った。
俺は少し唖然としてから、返事をした。
「びっくりした。なんでこんなとこに来たの?」
「お互い様じゃない?」
呆れたように笑ってから、彼女は俺の隣に腰を下ろした。
「こんなところにいるなんて、珍しいね?」
からかうでもなく、いぶかるでもなく、世間話でもするみたいな調子で、彼女はそう言ってきた。
「太陽の光がね……」
「太陽?」
「あ、いや」
「なに?」
「……いや。ちょっと、日の光を浴びたくなったっていうかさ」
変なの。彼女はそんなふうに笑った。それからちょっと気まずそうな顔をする。
「そっちは?」
俺が訊ねると、彼女は困ったような顔をした。
「きみがここに来るの見かけたから、追いかけてきた」
「用事でもあった?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
ふわふわとつかみどころのない、感情を読み取りにくい声。
表情の変化は曖昧で、何を考えているのか、すぐには分からない。
物静かだけど口数少ないというわけではない。
黙っていれば、そこにいることにも気付けないような、うっすらとした存在感。
空気のような。
「ねえ、聞きたいことがあるんだけど」
彼女は俺の顔を見ながら口を開いた。数秒、目が合ったままになる。
気まずくなって、先に視線を逸らしたのは俺の方だった。
「喧嘩、した?」
「誰と?」
「心当たり、ない?」
「ない」
と言えば嘘になる。つまり俺は嘘をついた。
「制服、汚れるよ」
寝そべったままの俺を見下ろして、彼女は困ったようにそう呟いた。
俺は仕方なく立ち上がって、ぐっと伸びをする。
夏の日差しは眩しい。
「このあと、何か用事、ある?」
座り込んだままの彼女に、今度は俺が見下ろすようにして、そう訊ねてみた。
「わたし?」
「ここには他に誰もいない」
「ないよ」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
彼女はまた困ったような顔をした。
「アイス奢るからさ」
彼女は楽しそうに溜め息をついて、結局、「仕方ないなあ」と笑う。
それから少し、ほんのちょっとだけ、真面目な顔になった。
俺は気付かないふりをした。
◇
屋上から校舎に戻ると、空気が切り替わるのを感じた。
陽射しがない分、いくらかマシだと感じたのは一瞬のことで、すぐに風通しの悪さに嫌気がさす。
「夏休みのご予定は?」
俺がおどけながら訊ねてみせると、彼女は「特には」とそっけなく答えた。
「部活とか、夏期講習とか、いろいろ」
「夏期講習?」
「夏期講習」
ふうん、と俺は思った。
「まだ一年なのにたいへんだなあ」
「他人事みたいに言わないでよ」
「他人事だよ」
思わず笑ってしまったけれど、彼女は笑わなかった。
俺はなんだか損したような気分になった。
「そっちは?」
「なにが?」
「夏休み」
「特には、なにもないかな」
「部活は?」
「あー」
俺は少し唸った。部活にはほとんど顔を出していなかった。
「サボり魔」と、見透かしたように彼女はぼそりと呟く。
「もともとサボるつもりで入ったから」
「ふうん?」
俺の返事に、彼女はちょっと怪訝げに相槌を打った。
彼女が美術部に所属しているのだって、べつにやる気があってのことじゃないと思うのだが。
昇降口を出ると、また陽射しにさらされたけれど、さっきよりは遠かった。
「自転車?」
訊ねると、彼女は首を横に振った。
バス停まで向かう途中で、コンビニに立ち寄ってアイスを買うことにした。
冷房のよく効いた屋根の下には、何人か同じ学校の生徒もいた。
「奢ってくれるんだよね?」
「ひとつだけならね」
「飲み物もほしいな」
「自分で買って」
「詐欺だ。けち」
「図々しいなあ」
彼女はちょっと笑った。
俺は二人分のアイスを買って先に店を出た。
再びうざったい蝉の鳴き声の下に出ると、なんだか暑さが二割増しになったみたいに感じられる。
この暑さでは、すぐにアイスは溶けだしてしまうだろう。
ふと店頭のガラスに目を向けると、このあたりの商店街で行われる夏祭りのチラシが貼られていた。
夏休みがはじまってすぐの三日間。去年行ったときは三人だった。
ぼんやりとそのチラシを眺めていると、不意にうしろから声が掛けられる。
「サボりですか?」
幼馴染の声ではなかった。俺が振り返ると、文芸部の部長が立っていた。
「あ、いや……」
とっさに言い訳しようとしたけれど、事実俺はサボっていた。
「はい」
「素直でよろしい」と彼女は楽しそうにうなずく。
「部長は?」
「サボりです」
俺はちょっと呆気にとられた。
「嘘ですよ?」
「……ですよね」
後輩をからかうのはやめてほしいものだ。反応に困る。
子供みたいな見た目をしているくせに、つかみどころがなくて、飄々としていて、油断ならない。
見た目だけなら愛らしいとすら言えてしまうのに、この人を前にすると、俺は妙に緊張してしまう。
「わたしは用事があって、部活はお休みしました」
訊いてもいないのに、結局説明してくれる。良い人なんだか悪い人なんだか。
冗談を言ったあとに、真面目に訂正しないと気が済まない。そういう性格なのかもしれない。
「用事ですか」
「はい。家に帰ってお昼寝です」
……用事が昼寝?
「気持ちいいものですよ」
「冗談ですよね?」
「はい」
「すみませんけど、笑いどころが分かりません」
「そうでしょうね」
部長はどうでもよさそうに笑った。たぶんどうでもいいんだろう。
「それじゃあ、わたしは行きます。ときどきは、部にも顔を出してくださいね」
「……はい」
「みんな寂しがってますよ」
「嘘ですよね?」
「はい」
彼女はにっこり笑って、そのまま本当に歩き始めてしまった。
けれど、少し歩いてから、ふと思い出したように立ち止まって、肩越しにこちらを振り返る。
「近頃事故が多いみたいですから、気をつけて帰ってくださいね」
小学生か、と思いつつも、俺は頷いて頭をさげた。
◇
バス停の古びた屋根の下のベンチに腰かけて、俺と彼女はふたりで並んでアイスを食べた。
会話は特になかったけれど、居心地が悪いわけでもない。
「久しぶりだね」
不意に彼女が口を開いた。やっぱりその声は自然すぎて、一瞬錯覚かと思うくらいだ。
現実か幻聴かをたしかめようと思って俺が目を向けると、彼女はこちらを見つめていた。
実際の声だったのだろう。
「なにが?」
「一緒に帰るのが」
たしかに久しぶりだった。特に理由もなく溜め息が出る。
「たしかにね」
「ねえ、後ろめたくない?」
俺はその質問に答えなかった。
「なあ、あのさ」
沈黙を挟まずに言葉を投げかけると、彼女は少し意外そうな顔でこちらを見た。
「夏祭り、あるだろ」
「商店街の?」
「うん」
「一緒に行かないか?」
答えが聞こえるまで、少し間があった。俺は緊張のせいで、相手の顔を上手く見ることができなかった。
「ふたりで?」
「ふたりで」
彼女は少し考え込むような様子で俯いていたけれど、やがてぽつりと、ささやくように呟いた。
独り言のように。
「うしろめたくない?」
◇
バスから降りて、ふたりで家まで並んで歩く。
俺の家と幼馴染の家は同じ住宅地のすぐ近くにある。
だからこそ昔から仲が良かったのだとも言えるのだが、それも奇妙な話だ。
俺は隣を歩く幼馴染の横顔をちらりと覗いた。
彼女はぼんやりと視線を前方に向けて歩いている。
昔は活発で、黙っていてくれと頼んだって黙っていてくれないようなところがあったけど。
中学に入ったあたりから、態度が落ち着いてきて、柔和になった。
「なに見てるの?」
不機嫌そうに見返されて、俺はさっと目を逸らす。
「美人になったよなあって思って」
「バカみたい」
彼女はちょっとむっとした様子だった。
「いや、ホントにさ」
彼女は疑るような目で周囲に視線をめぐらせはじめた。
「からかってるわけじゃなくて、しみじみとそう感じたってだけ」
「へんなの」
確かに変だったかもしれない。彼女と一緒に帰るのは久々だったから、少し気分が落ち着かない。
「考えてみれば長い付き合いだよな」
そんなふうに話を振ると、彼女はちょっと困った顔をしてから頷いた。
「子供の頃からだもんね」
諦めたように溜め息をつくと、恨みがましい目でこちらをじとっと見つめてくる。
「なに?」
「なんでもない」
拗ねたような口調。すこし戸惑う。
それから不意に、立ち止まった。
「なに?」
と思わず訊ねると、
「猫」
と答えが返ってきた。
見れば、白い猫が、前の方からゆっくりと歩いてきた。
幼馴染はとことこと静かに走っていくと、ゆっくりと歩くその猫に近付いて屈みこみ、両手で持ち上げた。
俺が動物にああいうことをしようとするとすぐに逃げられる。なんでなんだろう。
「かわいいなーおまえ」
彼女はひとりで猫に話しかけていた。
猫の方は持ち上げられたまま、「やれやれ」とでも言いたげな表情でそっぽを向いている。
「人懐っこいな。飼い猫かな」
「道路で屈みこむなよ。危ないから」
住宅地の間を縫うように伸びる道路には、歩道もなければ路側帯もほとんどない。
車の通りは少ないとはいえ、通ろうとすれば邪魔になる。
「うん」
猫の方を見ているから表情はよくわからないが、名残惜しそうな声をしている。
こういうことだと、けっこう分かりやすい態度を示してくれるんだけど。
肝心なこととなると、いつも煙に巻くような態度をとる。
「公園で遊んでく?」
「いいの?」
彼女は俺の方を笑顔で振り向いた。べつに好きにすればいいと思うんだけど。どうせすぐ家につくし。
「あっ」
と彼女が声をあげる直前、猫は腕の中から抜け出して、思いのほか俊敏な動きで道路を駆け抜けていった。
「逃げられた」
「公園の方に向かったな」
俺の声を最後まで聞かず、彼女は猫を追いかけ始めてしまった。
仕方なく、俺も公園の方に向かう。
彼女は入口のところで立ち止まっていた。
結構な広さのこの公園には、昔はたくさんの遊具があった。
回転式の円形ジャングルジムにブランコ、シーソー。
でも、そのほとんどの遊具が、今では使用禁止になったり、撤去されたりしている。
何年か前、学校や公園の遊具で児童が怪我をする事故がそこら中で多発した。
その影響で、子供を持つ付近の親たちの不安も高まり、最終的には……という事情。
ジャングルジムやシーソーは撤去された。
残されたのは鉄棒と、スプリング式の動物の木馬、それから砂場と水飲み場。
使用禁止になって鎖を縛られたブランコは、ちょっとしたモニュメントみたいに見える。
公園は公園のままなのに、何かの跡地、何かの残骸になってしまったようだった。
それでも住宅地の公園だから、人はなにかと集まる。
花壇にだって、地域の自然愛好会が集まって植えたらしい花々が、ちゃんと咲いている。
この公園は、住宅に囲まれているせいで、どこか視界が悪く、空が狭い。
遊べるものもそんなにないから、子供たちもあまり近寄らない。
俺は入口で立ち尽くしている幼馴染の横に立って、彼女の顔を覗き込んだ。
視線を追うと、花壇の傍のベンチに向かっている。
そこには女の子が座っていた。
膝の上には、さっきの猫が、眠たそうに瞼を閉じて、くつろいでいる。
少女は俺たちに気付くと、やわらかく笑って、頭をさげた。
俺たち二人も、慌てて頭を下げる。幼馴染がベンチに向かって歩き始めたので、俺も追いかけた。
「こんにちは」
と少女が先に言った。「こんにちは」と俺たちも返した。ずいぶんしっかりした子だ。
笑顔に怯えや戸惑いがない。手慣れた感じがある。
歳は、小学の高学年くらいだろうか? 荷物を持っていないから、確信は持てない。
見た目からはそのくらいという感じがするが、態度がやけに大人びている。
控えめな、綺麗な笑み。
気付けば辺りは夕陽で赤く染まっていた。夏だから日が長いとはいえ、暮れはじめればあっという間だ。
「あなたの猫?」
そう訊ねたのは幼馴染だった。少女は笑顔を貼りつけたまま、首を横に振る。
「野良猫。いつもこのあたりにいるんだよ」
猫は少女の膝の上であくびをして、尻尾を左右に揺らした。
少女は白猫の首の後ろのあたりを指先で撫でている。
「知り合いがね」
と少女は言葉を続けた。
「この猫のこと、いつもかわいがってるの。だから人懐っこいんだよね」
「そうなんだ」
幼馴染はどうでもよさそうに相槌を打ちながら、猫を膝の上に乗せた少女を羨ましそうに見つめていた。
「だっこする?」
少女はおかしそうに笑って、提案した。
「いいの?」
言うが早いか、幼馴染は少女の横に腰かけて、わくわくした瞳で猫に手を伸ばした。
猫は、自分の体が人の膝から人の膝へと受け渡されている間、身じろぎひとつしなかった。
幼馴染が猫に夢中になっている間、手持無沙汰そうに見えたのだろうか、少女は俺に話しかけてきた。
「付き合ってるの?」
真面目な顔でそんなことを言われて、俺たちふたりは一瞬硬直した。
思わず幼馴染の方に視線を向けると、彼女もこちらを見ていた。
目が合って、気まずくなって、思わず逸らしあう。
「付き合ってない」
「そうなんだ」
少女は何かを察したみたいに笑った。困った話だ。
話をすぐに変えてしまいたかったのと、本当に気になっていたこともあって、今度は俺が少女に質問をぶつける。
「きみは、この辺りの子?」
「そうだよ」
「そうなんだ」
間髪おかない肯定に、それ以上訊ねられなくなる。
この辺りで、こんな子を見かけたことがあったっけか。
「学校からの帰り?」
彼女は一瞬、答えに躊躇したように見えたけれど、すぐに取り繕ったように笑みを浮かべた。
その仕草には、なんだか奇妙な違和感があった。
「そうだよ」
たぶん錯覚だろう。そう割り切って、荷物は家に置いてきたのかな、と勝手な想像をする。
それからしばらくのあいだ、幼馴染は少女と一緒に猫の毛並みを堪能していた。
俺は立ったままぼんやりと空の変化を眺めていた。
幼馴染が満足するまでたっぷり三十分ほど掛かって、その頃には辺りもだいぶ暗くなってきた。
東の空は濃紺に、西の空は夕陽の名残で赤く染まっていく。
不意に、少女は、笑顔のままで、変なことを言い始めた。
「願い事って、ある?」
俺と幼馴染は顔を見合わせてから、もう一度少女の方を見た。
彼女は付け加えるように言葉を重ねた。
「もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?」
「どうしてそんなことを訊くの?」
俺が訊ね返すと、少女はちょっとごまかすみたいに笑った。
「単なる例え話だよ」
俺はちょっと怪訝に思ったけれど、とにかく少しだけ考えてみた。
「お金がほしいかな」
そんなことを呟くと、
「俗物」
と幼馴染が尖った声で呟いた。ちょっとひどい。けれど少女は真面目な声音で、俺に言葉を返す。
「お金は手段でしょ?」
「……え?」
その声は、鋭利な刃物みたいに、今までの親しげな雰囲気を切り裂いた。
笑顔を浮かべたまま、少女は言葉を続ける。
「お金を手に入れて、何がしたいの? 何かが欲しい、どこかに行きたい、誰かと会いたい。
不安を消したい、優越感に浸りたい……。お金はそのための手段でしょ?
わたしが訊いてるのは、手段じゃなくて、その先」
さっきまでと、声の雰囲気も、表情も、何も変わらないのに、なぜか、居心地が悪くなった。
「……思いつかないな」
俺はそう言ってごまかした。少女は仕方なさそうに溜め息をついて、笑った。
「そっか。みんな、意外と無欲だよね」
つまらなそうに、というよりは、困ったように、少女は呟く。
それから、それまでの話題を全部忘れてしまったように、猫の顎をくすぐりはじめた。
「さて、と」
声をあげて、幼馴染は猫を抱き上げ、少女の膝の上に戻す。
「そろそろ帰らなきゃ」
少女も猫を膝の上から地面の上におろし、立ち上がった。
幼馴染はごそごそと制服のスカートのポケットをまさぐり、何かを取り出す。
「手を出して」
幼馴染の声に、少女は従い、手の甲を差し出す。
「手のひら」
「うん」
少女の手のひらに、飴玉がのせられた。
「今日はありがとね」
少女は少しの間きょとんとしていたが、やがて、「こちらこそ」、とまた笑った。
「何か願い事ができたら、すぐに教えてね。わたしはいつも、ここにいるから」
少女は、そんな言葉を、ちょっと切実そうな響きを込めて、ささやいた。
それから、俺たちに向けて小さく手のひらを振って見せた。
狐につままれたような気持ちで、俺たちは帰路につく。
「かわいい子だったね」
「たしかにね」
十歳の頃だったら恋に落ちてたくらいに。
俺は歩きながらもう一度空を見上げた。
逢魔が時だ。
◇
「なんだったんだろう?」
俺がそう訊ねると、幼馴染は首をかしげた。
何が言いたいのか分からない、と言いたげに。
「なにが?」
「さっきの子。願い事がどうこうって」
「さあ?」
どうでもよさそうに、彼女は振り返る。
「ランプの精か何かだったんじゃない?」
「流れ星の化身とか?」
「七夕の織姫とか」
彼女はからかうみたいに笑いながら言った。
願い事。
「ねえ、何かある? 願い事」
「思いつかないって、さっき言ったよ、俺は」
「なんでも叶うよって言われたら、どんなことを願う?」
なんでも、と言われれば。
いくつも願うようなことはないんだけど。
「……自由すぎるのって不便だよなあ」
「どういう意味?」
「ある程度制限があった方がいろいろ思いつくだろ」
「そういうもの?」
「一万円以内で買えるものの中で、何か欲しいものがあるかって言われたら思いつくけどさ。
いくらでもいいから何か欲しいものがあるかって言われたら、簡単には思いつかない」
彼女はちょっと納得いかないような様子だった。
指先で前髪をくるくるといじっている。
「そっちは?」
俺が訊ね返すと、彼女は少し驚いたようだった。
「わたし?」
「うん」
彼女は黙りこんでしまった。
今の話の流れで、自分が訊かれないと思っていたわけでもないだろうが。
「シュークリーム食べたい」
「……」
それでいいのか、という疑問を口に出す気にはなれなかった。
「最近、駅の方に新しい喫茶店ができたらしくてね、シュークリームが絶品なんだって」
「……それを食べたいの?」
「うん」
「願い事を使って?」
「……」
おお、という顔をしている。話の趣旨を忘れていたらしい。
「あれ? でも絶品なのはパンケーキだったかも」
どうでもいいことを真剣に思い悩み始めてしまった。
そうこうしているうちに、幼馴染の家の前につく。
俺は意識的に真面目な声を作った。
「シュークリーム」
声を掛けると、彼女はぼんやりとこちらを向いて、続きを促すように首を傾げた。
「今度食べにいこうか」
彼女は少し迷うような素振りを見せた。
「ふたりで?」
俺は頷いた。
「ふたりで」
「……今日は、なんか変だね?」
「そうでもない」
彼女はやっぱり、疑わしそうな視線を向けてきた。
たしかに唐突だったかもしれない。
「どうかしたの?」
その質問に、答えてしまえばよかったのかもしれない。
今のタイミングで。真剣に。伝えればよかったのかもしれない。
ずっと言い損ねてきたこと。
でも、それはなんだか、ひどく後ろめたいことのように思えた。
ズルをしているような気がした。
だから結局、俺はその罪悪感に押しのけられて、
「いや、どうもしない」
なんでもないことのように否定する。
否定してしまえば、彼女も当然、それ以上は何も訊いてこない。
何かを言いたげな目で、彼女はこちらを見ている。
それでもやがて、諦めたように溜め息をつくと、
「ばいばい」
それだけ言い残して、あっさり家の中に入っていった。
俺はドアが閉まるのを見届けてから、自分の家へと歩き始めた。
◇
そんなふうにぼんやりとした日々が続いて、一学期が終わった。
終業式の日は、昼過ぎから細かな雨が降り始め、蒸し暑くなった。
俺と幼馴染はその日、約束通り、シュークリームが絶品らしい喫茶店に立ち寄った。
俺と二人で並んで歩くとき、彼女はときどき不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
そう訊ねると、決まってハッと気づいたように、
「なんでもない」
とごまかし笑いを浮かべる。俺は気付かないふりをして、それとなく彼女の方に注意を向ける。
彼女が考えていることは、なんとなく分かるような気もするのだ。
店の中は洒落た雰囲気だった。内装はあまり派手ではなくて、落ち着いている。
俺たち以外の客も何人か来ていて、大半が俺たちと同年代くらいの女子ばかりだった。
その中に、見知った顔があった。
「あれ?」
先に声をあげたのは幼馴染の方だった。相手の方も、こちらに気付いたようで、頭を下げてくる。
「ひさしぶりだね」
幼馴染が当然のように声を掛けたので、俺も歩み寄って挨拶をする。
「お久しぶりです」
と彼女は丁寧に頭を下げた。共通の友人の妹だった。
中学の友達と一緒に来ていたらしい。
「久しぶりだね」
俺が声を掛けると、彼女は少し緊張した様子で頷きを返してきた。
まあ、あまり話したこともないし、当然かもしれない。
俺にとっても、同じ中学の後輩、という程度でしかない。
「近くに住んでるはずなのに、全然会わないよね。昔は毎日みたいに遊んでたのにさ」
幼馴染は、久しぶりに会うというのに、くだけた調子で話しかける。ためらわない奴だ。
実際、昔は毎日みたいに顔を合わせていた。
それがなくなったのは、俺たちが高校に入る前くらいからか。
近所に住んでいるから、たしかにもっと顔を合わせる機会があってもいいはずなのだが。
俺はとっさに、
「お兄さん、元気?」
と、そう訊ねてしまったのだけれど、むしろ怪訝そうな顔をされてしまった。
「学校で、会ってないんですか?」
「あ、いや……」
どう言い訳しようかと思っていると、幼馴染が勝手に話を引き継いでしまった。
「なんか喧嘩してるみたい」
「そうだったんですか。よかった。兄貴、ちゃんと学校には行ってるんですね」
彼女はほっとしたように溜め息をつく。あいつはどうも信用されていないようだ。
「お二人はデートですか?」
「そうそう」
俺が何かを言う前に、幼馴染が勝手に答える。
好きにしてくれ、と思う。別に悪い気はしないから。
「奢ってもらうんだよ」
「……待て。そんな話はしてない」
えー、という目で見られる。第三者を利用して言質をとろうとしないでほしいものだ。
俺たちのやりとりを見て、後輩の女の子はくすくす笑った。
「ねえ、ここのシュークリーム美味しいってホント?」
今から食べるのだから、すぐに分かることだろうに、幼馴染はそんなことを訊ねる。
後輩は律義に頷いた。
「絶品ですよ。……わたしたちは、そろそろ帰りますね」
そう言って、彼女は一緒にいた友人たちと帰り支度を始める。
「雨、降ってるよ」
俺がそう声を掛けると、
「傘、持ってますから」
あっさりと答えが返ってくる。頭のよさそうな反応だなあとぼんやり思った。
「そう。それじゃあね」
幼馴染が大袈裟に手を振ると、後輩は小さく振りかえしてから店を出て行った。
俺たちはシュークリームを食べてしばらく休み、雨が止むのを待って店を出た。
確かに美味しかった。
◇
夏祭りの前日まで、幼馴染は「本当に行くの?」と俺に何度も訊ねた。
そして当日の約束の時間、俺が待ち合わせ場所に姿を現すまで、ずっと疑わしそうな顔をしていた。
彼女は水色の浴衣を着ていた。
普段は下ろしたままにしている髪を、高めの位置で結っているせいか、いつもとは印象が違う。
「浴衣か」
見たままの言葉を出すと、彼女は「うん」と頷いてから、しばらく黙り込んでしまった。
それから俺の方を見て、
「なんとか言え」
と助けを求めるみたいな声で言った。
「いいと思うよ」
「……そっか」
俺の心臓はなんだかばくばくしていたけれど、あんまり気にしないようにしようと決めていた。
不思議なことに、普段ならほとんど途切れないはずの会話が、その日だけは何度も途切れた。
俺は相手の方をまともに見ることができなかったし、彼女もこちらをあまり見てこなかった。
片田舎の寂れた商店街の祭りとはいえ、たくさんの人がごった返していた。
「なんだか、さわがしいね」
落ち着きのなさをごまかすみたいに、彼女は言った。
「お祭りだから」
囃子の音が遠くから聞こえた。
眩暈がしそうな緊張も、夜店を冷やかしたり、偶然会った知り合いと話をしたりしているうちに和らいでくる。
特設ステージから演歌の歌声。配られる団扇。氷水の中で冷やされたラムネ。
金魚にスーパーボール。当たりそうもない景品ばかりが並んだクジ屋。
かき氷を買って人ごみを外れて、座りながら休んでいると、夏休みなんだ、とふと思った。
これから夏休みなんだ。たくさん時間があるんだ、と思った。
「ねえ、どうして……」
俺が、かき氷を慌てて食べて、例のきーんという頭痛に苦しめられていると、不意に幼馴染が口を開いた。
「どうして、二人でなんて言ったの?」
なんとなく訊かれるような気がして、あらかじめ用意しておいた答えを、俺は告げた。
「二人で来たかったからだよ」
「どうして?」
「来たかったから、じゃ駄目か?」
「駄目ってわけじゃないけど……」
彼女は自分でも何が言いたいのか分からないというように首を振った。
それからいちご味のかき氷を一口頬張る。その仕草が、ちょっと色っぽく見えた。
たぶん祭りの熱気のせいでどうかしてしまっているんだろう。
「わたしが聞きたいのは、どうして……」
「言いたいことは分かるよ」
彼女が言わんとしていることは、本当によく理解できた。
「でも、いつかはこうなってたんだよ。今じゃなくたっていつかは。
あるいは、ここにいたのは俺じゃないかもしれないし、ここには誰もいなかったかもしれないけど」
彼女は黙り込んでしまった。
「だって俺はずっと前からおまえのことが好きだったし、だから、いつまでも仲のいい友達ってだけじゃ嫌なんだよ。
いつまでもずっと変わらない関係なんかじゃ、最初からいられなかったんだ」
思いのほかさらりと言ってしまって、俺は少し後悔した。
もうちょっとタイミングというか、そういうものを考えたかった。
まるで話の流れで言ったみたいな感じだ。
どうせ今日告げるつもりだったんだけど。
彼女は俺の方をぼんやりと見つめていた。三秒くらい。それから頬が染まって、顔が背けられる。
「……バカみたい。またそんな冗談言って」
「俺はたぶん、ここ一年くらいで一番真面目な話をしてる。とっくに気付かれてるもんだと思ってたけど」
「そんなの、知らない。わたしは……」
「すごく真面目な話をしている」
話を逸らそうとする幼馴染の方を、俺はじっと見据える。
「俺はさ、おまえと一緒にいると楽しいし、おまえが笑ってると嬉しいんだよ。
おまえが他の男子と話しているのを見るだけで一日中腹のあたりがむかむかしてきて憂鬱になるんだ。
だからできるならおまえのことを独り占めしたいんだよ。……俺、いますごくバカなこと言ってる?」
「……バカみたい」
か細い声でそう言いながら、彼女は俯いた。
「だから、付き合ってくれ」
「……」
返事がなかった。
「シュークリーム奢るから」
「普通、こういう話するときに、食べ物で釣ろうとしないと思うんだけど」
「……すまん」
返事がなかったから、ついズルい手を使ってしまった。
遠くから花火のあがる音が聞こえる。その音と重なって、
「……いいよ」
と、かすかな声が聞こえた気がした。
「今なんて言った?」
「……バカなの?」
「都合のいい幻聴かと思って」
「……いいよ、って言った」
「つまり?」
「……付き合おう、ってこと」
言葉よりもむしろ、普段のぼんやりとしたものとは違う、彼女の緊張した表情に心を乱される。
心臓が、またばくばく言い始める。
「本当に?」
「嘘」
「……」
「……って、言ったら?」
「すごく悲しいかな」
「……そっか」
まるで何かを確認するみたいな言葉。
それから、自分に言い聞かせるような調子で、彼女は繰り返した。
「嘘じゃないよ」
なんだか胸の内側がむずむずとしてくる。
「わたしも……たぶん、きみのこと、好きだから」
「……たぶんって、どういうことだよ」
「わかんないけど、一緒にいると楽しいから」
「……そっか」
「それに、シュークリームもおごってくれるみたいだし」
まだ少し赤くなったままの頬に、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
胸焼けするまでおごってやってもいいような気分だった。
◇
「付き合うって、何をするの?」
かき氷を食べ終えて、ふたたび立ち上がり、歩き始めると、彼女はそんなことを訊ねてきた。
「一緒に出掛けたりするんじゃないか」
「今みたいに?」
「そう」
「それから?」
「……いろんな場所に行くんだよ」
「出掛けるだけなの?」
「わかんないけど」
「他には?」
俺は少し考えてからちょっと試すような気持ちで、言った。
「手を繋いで歩く」
「……そうなんだ?」
彼女は不思議そうな顔のまま、俺の手を握った。
お互いに言葉を失う。
俺たちはあまりにも子供のころから一緒に居過ぎたせいで、ろくに手を繋いだこともなかった。
あったとしても、遠い記憶の彼方の出来事。
俺はなんだか、ひどく不安になってきた。
「こういうのも、悪くないかもね」
彼女はまた、悪戯っぽく笑う。俺はなんだかかなわないなあという気持ちになった。
「夏休みだから、明日からいろんなところに行こう」
「わたし、夏期講習あるよ」
「……暇なときにさ」
「そっか。うん」
「たくさん時間があるんだ。思いつくこと、たぶん、全部できる」
「バカみたい」
彼女は楽しそうに笑う。
「今日みたいな日がさ」
俺が話を続けると、一瞬、彼女が手を握る力を強めた。俺も真似して、軽く握ってみる。
なんとなく、お互い笑ってしまった。
「……今日みたいな日が続けばいい」
彼女は一瞬おかしそうに笑って、それからちょっと真面目な顔になった。
俺はその瞬間、彼女が誰のことを考えたのか、理解できるような気がする。
そのことをあえて考えないようにして、俺は思いついたことを口に出す。
「なあ」
「なに?」
「浴衣、似合ってる」
「……いまさら、なに?」
「照れくさくて言えなかったんだ。超かわいい」
「……ばかじゃないの」
彼女は顔を背けた。そんな仕草すら、いつもと違っていた。
たぶん俺は、それまでの人生で一番って言っても言い過ぎじゃないくらい満たされた気持ちになれた。
現実感が希薄で、感覚がふわふわとしていて、まるで夢の中にいるみたいだった。
俺たちは雑踏の中を並んで歩いていく。
手を繋いだまま。
◆
――もし、なんでも願いが叶うって言われたら、どんなことを願う?
――ひとつだけだから、よく考えてから決めてね。
――後悔しないように。
続き: ◇02-01[Mr.Droopy]
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◇01-01[Sad Fad Love]


