4月4日。午前4時。
ぱっくりと割れた隙間からその身を零れ落としながら、物言わぬ脳みそは朝を待ち続けていた。
元スレ
唯「憂ー。脳みそが少しこぼれちゃったから、掻き集めてくれない?」
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4月2日。午後4時。
コンコン。
病室にノックの音が響く。
その数秒後、恐る恐ると言った様子でドアは開かれた。
憂「お姉ちゃん。体調の方はどう?」
ドアの隙間から身を滑り込ませ、憂が姉である唯へと声をかける。
ほんの六畳ほどの個室は、壁もカーテンもシーツも全てが真っ白で、それらが大きな窓から差し込む西日を反射させていて、眩しいくらいだった。
憂「……」
ベッドの上で上体を起こし、こちらに背を向け、電源の入っていないテレビをぼんやりと眺めている唯の反応を、憂は根気強く待っていた。
憂「……」
焦っちゃダメだ。憂は自分に言い聞かせる。
しかし、こうして、変わってしまった姉を目の当たりにすると、どうしても思い出してしまう。
あの日の”事故”のことを。
ピンク色のパジャマを着た唯の上体が、ゆっくりとこちらへ向けて回り始める。
まるで、ゼンマイの切れかかった機械仕掛けの人形のような、緩慢な動きだ。
焦点の合っていない瞳が憂を少し通り過ぎたところで、唯は体の向きを固定させる。
唯「憂ー。来てたんなら声かけてよー」
憂「ごめんね、お姉ちゃん。起こしたらいけないと思って」
無理に笑顔を作った憂の言葉に、唯は首を傾げた。
唯「私、寝てないよ? 今だってずっとテレビ見てて」
背後を指さしながら、先程とは打って変わって素早く上体を回転させた唯は、途中で言葉を止めた。
憂「……」
そして、何も映っていない真っ黒な画面を十数秒ほど眺め、そのまま視線を戻すこともなく、憂へと疑問を投げる。
唯「あれえ……。憂、テレビ消した?」
憂「……カードの度数が、切れちゃったんじゃないかな」
この病院では、通常の病室と違って、個室のテレビはカードなど無くとも見ることができる。
しかし、憂は姉に対して嘘をついていた。
唯「そっかぁ。……憂、悪いんだけど、後でカード買ってきてもらえる? テレビでも見てないと、退屈で退屈で死んじゃいそうなんだよぉ」
憂「うん。分かったよ、お姉ちゃん」
うんざりとした様子を気取られないように、憂は努めて明るくそう言った。
実は、以前にも似たようなことが何度かあって、困ったことがあったのだ。
その時は『最初からテレビなんてついてなかったよ』とか、
『お姉ちゃんと話したいから私が消したんだよ』とか、
憂もこんな風に答えていた。それに対して、唯は突然怒りをあらわにしたのだった。
『憂! 何言ってるの!? 私は今まで見てたんだよ!?』
『勝手なことしないで! ここは私の部屋なのに!』
狂ったように暴れる姉をなだめる方法が思いつかず、憂は嘘をつくことに決めたのだった。
どうせ、リモコンの使い方も分からないのだろうから。
憂はそう考えていた。
憂「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
1時間ほど他愛のない話をした後、憂はそう切り出した。
(もっとも、会話をしている時間よりも、唯が沈黙していた時間の方が圧倒的に長かったが)
唯「あ、そうだ」
相変わらず、焦点の合っていない瞳を上の方へと向けながら、何かを思いついたように唯が手を打った。
唯「さっきね、律ちゃん達が来た時に、おいしそうなお菓子を置いていったんだけど」
その言葉に、憂の心臓が大きく跳ねた。
反射的に胸に手を当て、苦しげに呻く。
――お姉ちゃん。律さん達は、もう……。
唯「あっれぇ。おっかしいなぁ」
そんな憂の様子には目もくれず、唯はサイドテーブルの引き出しや戸棚をガサゴソと漁っている。
しばらくして、探すのを諦めた唯は顔を上げ、困ったように笑った。
唯「憂ごめんねぇ。どうしても見つからないや」
4月2日。午後5時半。
憂は病室を出ると、足早に病院を後にした。
姉や、姉の友人たちのことを思うと、今にも泣き出してしまいそうだったためである。
憂「……」
陰鬱に沈み込んだ気持ちがそうさせるのか、ここへ来る時よりも重くなった体を引きずるように、憂はノロノロと家路につく。
冬に比べれば日が長くなったとは言っても、この時間になるともう太陽もその役目を終えようとしていて、夜の足音がそろりそろりと近づいてきていた。
ひんやりとした春風が、頬を撫でつける。
ふと、憂は立ち止まり、顔を上げた。
電球が切れかかっているのか、等間隔に並んだ街灯のひとつがしきりに明滅を繰り返している。
――ああ、あの時もそうだったな。
憂は思い出した。
――律さんの運転する車が突っ込んで、真ん中より下部分がひしゃげた街灯も、こんな風にチカチカとみんなを照らしていたっけな。
10月5日。午後4時。
唯「すっごーい! 律ちゃん、車の免許取ったの!?」
律「おう! いいだろー?」
紬「いいなぁ、律ちゃん」
澪「こ、怖くないのか? 運転とか」
律「なんだー? 澪ちゅわんは怖がりですなー」
澪「わ、私はだな。律、お前のことを心配して」
唯「澪ちゃんは律ちゃんのこと大好きだねぇ」
澪「な、な、な……」
律「平気だよ。オートマ限定だし、あんなのおもちゃみたいなもんだ。走らないようにドラム叩く方がよっぽど難しいぜ」
梓「律先輩!」
律「ん? どうした梓。目ぇキラキラさせて」
梓「私、ドライブ行きたいです!」
唯「あー! いいね、いいねぇ! 今度の連休にでも、みんなでどこか行こうよぉ!」
紬「私も賛成!」
律「じゃあ親父に車借りないとだなあ」
澪「……」
律「澪は行かないのか?」
澪「……く」
律「んん?」
澪「……私も行く」
10月10日。午前10時。
律「ひゃっほーい!」
紬「ちょ、ちょっと律ちゃん! 飛ばし過ぎよ!」
澪「ひぃぃ……」
律「ムギ、固いこと言うなって! 高速なんて飛ばしてナンボだろ」
唯「そうだよぉ。あ、律ちゃん! あの黒い車抜かそう!」
律「オーケー! 私のドライビングテクしっかり見とけよ!」
澪「降ろして降ろして降ろして降ろしてぇ……」
紬「もう……」
律「いえーい!」
梓「かっこいい……」
10月10日。午後12時。
澪「この馬鹿律! なんであんなに危険なことをするんだ!」
律「な、なんだよ。サービスエリア来た途端元気になりやがってよお」
紬「澪ちゃんの言う通りよぉ……。さすがに160キロは出し過ぎじゃない……?」
唯「まだまだだよ! 黒い車に追いつけなかったし!」
梓「そうです! まだ行けますよ!」
澪「二人も煽るようなことを言うな! 交通法規を守らずに事故起こしたら、誰も同情なんてしてくれないんだぞ!」
律「澪ちゅわんは頭が固いでちゅねぇ」
澪「なんだとっ!」
紬「コンパクトカーであの速度はさすがに自殺行為よ……」
10月10日。午後4時。
澪「はぁ……。ようやく帰れるのか……」
律「……」
紬「律ちゃん大丈夫? 半日も一人で運転したから、さすがに疲れたんじゃないかしら」
律「疲れたけど……、私以外に運転できるやついないしな」
唯「私、代わろうか!?」
梓「私も運転してみたいです!」
澪「馬鹿! やめろ!」
唯「う……、冗談なのに……」
梓「す、すいません」
律「……お前ら少し黙ってろ。気が散る」
10月10日。午後5時半。
澪「高速降りたからもう安心だな」
紬「律ちゃん、適当なところで降ろしてくれて平気よ。私達、電車で帰るから」
律「……いいよ。全員家まで送る」
梓「ここからだと唯先輩の家が一番近いですかね。ちょうど助手席にいるんだし、ナビしてあげたらいいんじゃないでしょうか」
唯「あ、じゃあそこの信号右ね」
律「……無理。今左車線いるし」
唯「なんでよー。ケチー」
律「……」
紬「律ちゃん。イライラしないで、落ち着いてね……?」
唯「えっとぉ、それでぇ」
律「もうナビはいい。なんとなく道に見覚えあるから」
梓「わっ!?」
澪「な……。おい律! なんでアクセル踏み込んで……」
律「うっせぇ。どうせ人なんて通らねぇだろ」
紬「ちょっと……、ここ住宅街よ!?」
唯「きゃっほー!」
律「さっさとお前ら送って、早く家に帰りたいんだよ。私は」
紬「危……っ! 危ないわよ! 律ちゃん!」
律「……」
澪「律! いい加減にしろ!」
律「なんだよ! 触るな! 放せ!」
梓「わわわわわ……」
紬「律ちゃん! 前見て! 澪ちゃんも律ちゃんから手を放して!」
澪「だってこいつが……」
律「こっちは運転中なんだぞ!? いいから放せよ!」
唯「わああああああーーー! まえー!!! 前ーーーー!!!!!!!」
律「あ……っ。うおお……っ!?」
紬「きゃあああああああああああっ!!!!!」
律「……っ!」
4月2日。午後6時半。
どれだけ時間が過ぎただろうか。
ほんのりと明るかった空も、完全に夜の闇へと落ちている。
薄ぼんやりとした頭の中を占めている、嫌な思い出を断ち切るように、憂は首を軽く横に振った。
意を決したように、再びのそのそと歩き始める。
あの時、外から聞こえたただならぬ激しい物音に、憂は弾かれたように家を飛び出した。
そこで見たものは、原型を留めないほどに大破した車と、ひしゃげた街灯。
そして、血塗れで動かないみんなの姿。
憂が慌てて救急車を呼んでいる間に、比較的軽症だった紬と梓の二人は、自力で車の後部座席から這い出してきた。
運転席に座っている律も、痛みで動けないだけで、意識はあるようだった。
しかし、真に憂が案じていたのは残りの二人。
フロントガラスを突き破り、車外に投げ出されている唯と澪のことだった。
服があちこち破け、血塗れで、死んだように動かない二人の姿を、倒れかかった街灯が、頼りない明かりでチカチカと照らしていた。
10月10日。午後6時半。
憂「大丈夫ですか!? 二人とも……」
紬「私は、平気だけど……。みんなが……」
梓「ゆ、唯先輩……。み、みお……」
憂「触らないで!」
梓「ひっ……!」
憂「お姉ちゃんも、澪さんも、頭を打っているかも知れないから……。下手に動かさない方が、いいと思う」
梓「憂……、ごめん……」
憂「ううん。私の方こそ怒鳴ってごめん。もうすぐ救急車が来るから、それまではそっとしておこう」
紬「ねえ、憂ちゃん。梓ちゃん」
憂「なんでしょうか」
梓「? なんですか?」
紬「あれって……、何かしら」
憂「あれ? あれとは……」
梓「……!」
紬「唯ちゃんの、頭から出てるの……」
憂「お姉ちゃんっ!」
梓「ダメだよ! 憂!」
憂「放して……。放してよおっ! お姉ちゃんが……! お姉ちゃんがぁ……っ!」
梓「動かしたらダメなんでしょ!? 救急車が来るのを待たないと……!」
4月2日。午後8時。
憂は気付くと、電気もつけていない自室の隅で一人、背中を丸めていた。
どうやら、記憶を辿っているうちに、いつのまにか家に帰っていたらしい。
憂「あー……。あー、あー」
意識的に声を出すことによって、憂は現実の世界に無理やり自分を引き戻した。
もやがかかったような頭の中が覚醒するにつれ、まるで、思い出そうとしても思い出せない夢から覚めたばかりのような、妙な喪失感に襲われる。
憂「……喉、渇いたな」
時間の感覚もはっきりしないまま憂は立ち上がると、喉の渇きを癒すため、キッチンのある階下へと降りていった。
4月3日。午後1時。
翌日はあいにくの空模様だった。
どんよりと曇っていて、昼間だというのに薄暗く、ただでさえ沈んでいる心にさらに陰をささせる。
ちょうどあの事故のあった日も、空はこんな様子だったと、憂ははっきりとそう記憶している。
唯が手術を受けている間に、外は観測史上まれに見るほどの豪雨に見舞われた。
『10月10日はね、一年で一番雨が降らない日なんだよ』
真偽のほどは定かではないが、姉はそう言ってはしゃいでいたのに。
憂はそのとき、空が泣いているんだと思った。
当時、手術室の前で姉の無事を祈りながら、それでも万が一のことが脳裏をよぎって、憂の心は悲しみに包まれていた。
その、今にも叫び出してしまいそうなほどの自分の強い感情が、空気感染のように伝播していって雨を降らせたのではないか、とそう思っていたのである。
憂は、そんなことを考えながら玄関をくぐると、空を見上げた。
そして、何かを思い直したように再び家の中に取って返し、鞄に折り畳み傘を詰め込んだ。
10月11日。午前4時。
憂(手術中のランプが消えた……)
医者「……」
憂「先生! お姉ちゃんは……!」
医者「……手術は、無事成功しました。未だ予断を許さない状況ですが、平沢唯さんの命に別状はありません」
憂「そうですか……。良かった……」
紬「だ、大丈夫……? 憂ちゃん……」
憂「はは……。大丈夫です。安心したら、ちょっと腰が抜けちゃって」
梓「……良かったね。憂」
医者「ですが」
憂「……?」
医者「唯さんの意識が戻るか、今の時点では分かりません」
憂「ええっ……。さっき、手術は成功した、って……」
医者「はい。一命はなんとか取りとめましたが、その先については」
憂「なんとか……、なんとかしてくださいっ! 私に出来ることだったら、なんでもしますから!」
医者「……心中お察しします。こんなことを言うのは、少しはばかられるのですが」
憂「……?」
医者「唯さんは、車外に放り出された際に、コンクリートの塀に強く頭を打ち付けてしまっています。その衝撃により、頭蓋骨に大きな穴が開いてしまっていました」
憂「……はい。私も見ました」
医者「そこから零れ落ちてしまったために、唯さんは脳の一部が失われてしまっています。これで生きてるのが、奇跡なくらいなんですよ」
憂「そんな……」
4月3日。午後1時半。
憂がいつものように病室に入ると、唯は珍しく窓の外を眺めていた。
憂「お姉ちゃん。調子はどう?」
その背後から声をかける。
ピンク色のパジャマが、少し揺れた。
唯「ねぇ憂。お空が悲しんでる」
姉妹だから、考え方が似るのだろうか。
それとも、同じ苦しみを胸の内に抱えているから、自然と思考が近づいてしまうのだろうか。
憂「そうだね、お姉ちゃん」
複雑な気持ちを心の中に押し留め、憂は感情を込めずにそう答えた。
そのとき、長い病室暮らしで痩せ細り、小さくなってしまった姉の背中が、さらに頼りないものへと変化したのを憂は見逃さなかった。
唯はしょんぼりと肩を落とし、そして、ため息混じりに口を開く。
唯「お空と一緒で、私も悲しいんだよ。律ちゃん達が来てくれないから」
憂「律さん達は」
言いかけて、憂は言葉に詰まった。
胸に刺すような痛みを残して湧き上がってきたものが、目から溢れだしそうになる。
唯「久々に会いたいなぁ。もう何日も会ってないんじゃないかな」
相変わらず、窓の外に広がる灰色の空を眺めながら、唯は感慨深げにそう言った。
唯「一緒にティータイムやって……。あ、そうだ。さっき律ちゃん達が来た時に置いていったお菓子があるんだけど」
目を真っ赤にした憂を気にする素振りすら見せず、唯はサイドテーブルをガサゴソと漁り出した。
「あれぇ、ヘンだなぁ」としきりに首をひねりながら、それでも唯は探すのをやめなかった。
11月7日。午後2時。
律「あ……」
憂「律さん。お身体の方はどうですか?」
律「憂ちゃん……。その……、ごめん。到底許せないことだってのは分かってるけど……。本当に、悪かった……」
憂「……頭を上げてください。律さんも大怪我してるんですから」
律「でも……! 唯のこと……。私がちゃんと、前を見てたら……」
憂「過ぎたことを言ってもしょうがないですし。それに、全員”命だけは”助かったんですから。今はそのことを喜びましょう」
律「……」
憂「律さんをはじめ、梓ちゃんに紬さん。それに」
律「憂ちゃん……」
憂「お姉ちゃんと、澪さんも」
律「……」
憂「”命だけは”助かりましたから」
律「ごめん……。本当に……」
憂「だからいいですって。もう謝らなくても」
律「……」
憂「お姉ちゃんも脳みそが出ちゃって、ずっと意識が無いままだけど生きてますし。お医者さんが言うには、奇跡的に意識が戻っても、確実に障害は残るらしいですよ」
律「……ぅ」
憂「泣かないでください。お姉ちゃんだってきっと怒ってませんよ。お姉ちゃん、律さんのこと大好きでしたから」
律「あああああぁぁぁぁ……ッ!」
憂「澪さんも、左腕が無くなって、あの綺麗だった顔もぐちゃぐちゃになっちゃったけど、全然怒っていませんでしたし。この間会ったときなんて、律さんに早く会いたいって笑っていましたよ」
律「全部私が悪いんだ……! 私がぁ……ッ!」
憂「……じゃあ、私は帰ります」
律「ああ……っ。ごめんなさい……。ごめんなさい……」
憂「あ、そうだ。明日もお見舞いに来ますから。早く元気になってくださいね、律さん」
4月3日。午後2時半。
唯「ダメだぁ。見つからないや」
ようやく諦めたのか、唯は照れ笑いを浮かべながら顔を上げた。
憂はハッと我に返り、壁にかけられている時計に視線を移す。
病室に来てから、もう1時間ほど経過しているのが分かり、憂は驚いた。
唯「また律ちゃん達とドライブ行きたいなぁ」
焦点の合っていない瞳で天井を見上げ、唯は笑みを浮かべる。
だらしなく緩んだ口の端からよだれが一筋垂れていて、それに気づいた憂は優しくタオルでふき取った。
唯「運転してる律ちゃん、カッコよかったんだよぉ」
唯は意識を取り戻してからも、ずっと夢の続きを一人で見ている。
憂は当然そのことに気付いてはいたが、あえて訂正はしなかった。
どうせ言ったところで理解できないだろうし、それに、その方が、姉にとっては幸せだと確信していたからだ。
唯「びゅーんって車飛ばしてねぇ」
ただ、憂は時々気になることがある。
自分のせいで律達が死んだことを知ったら、姉はいったいどんな反応をするだろうか、と。
天井の手前にある何もない空間を見つめながら、ぶつぶつと独り言を漏らしている姉を視界の端に捉え、憂は自分の罪について考えていた。
憂の”お見舞い”が連日に及ぶと、律に明らかに見て取れるほどの変化があった。
最初は、人が部屋に来ると怯えた態度を示す程度だったが、徐々に小さな物音にすら過剰に反応するようになっていった。
そんなある日、奇跡的に意識を取り戻した唯に対して謝罪の気持ちを綴った手紙を残し、律はカーテンレールにかけたタオルで首を吊った状態で死んだ。
その日、律の見舞いを予定していた梓と紬は、それ以来病院に寄り付かなくなった。
一報を聞いた澪も、ふさぎ込んでしまったのか、自身の病室からあまり外に出なくなったらしい。
そして、律が死んでから数日後、律とほとんど同じ状態で死んでいる澪が、病室から発見された。
今でも唯は、律達の幻影を追い続けている。
その度に、憂はいたたまれない気持ちになった。
自身の引き起こしたことが、結果的に唯を孤独にさせてしまったのだと、自責の念にかられてしまったのである。
1月22日。午後3時。
憂「その……、お姉ちゃんが寂しがっていて」
紬「……ごめんなさい。病院へ行くと、律ちゃんのことを思い出しちゃって。それに、澪ちゃんも……」
憂「そう、ですか」
梓「憂、ごめんね……? 私も、その、ムギ先輩と同じで……」
憂「……いいよ。二人の気持ちも分かるから」
紬「他に手伝えることがあったら言ってね? 毎日唯ちゃんのお見舞いじゃあ、憂ちゃん、自分のこともろくにできないでしょう?」
憂「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで十分ですから」
紬「そう……」
梓「憂、困ったことがあったら、なんでも相談してね」
憂「うん。ありがとう。……じゃあ私、お姉ちゃんのお見舞い行ってくるね」
紬「……梓ちゃん。私、ああ言ったけど、本当は」
梓「分かります。……多分、私も同じこと思ってます」
紬「……私ね、あんな唯ちゃん、もう見たくないのよ」
梓「……はい」
紬「ごめんなさい、梓ちゃん。思い出すのもつらいわよね」
梓「……」
紬「あんなに突然怒り出したり、かと思ったら急に笑ったり……。同じこと何回も言うし、何もないところ見ながら話したり、人の言うこと聞かなかったり……」
梓「……」
紬「私、唯ちゃんのことが大好きだから……、余計に……」
梓「……分かります」
4月3日。午後3時。
憂「お姉ちゃん、ごめんね」
先程からずっと一人で喋っていた唯に、憂は謝罪の言葉を投げる。
唯のフラフラと彷徨う視線の先は、憂の左側後方に飾られている造花の位置に落ち着いた。
唯「ごめんって、何が?」
首を傾げた唯の口元から再びよだれが垂れた。
憂がタオルでそれをさっと拭う。
憂「ひとりぼっちにしちゃって、ごめん」
唯は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに、大きく目を見開いたまま笑い声を漏らした。
唯「あはは。ひとりぼっちって、憂がいるじゃん。それに。ああ、そうだった。さっき律ちゃん達が来ててね、お菓子を置いていったんだった」
サイドテーブルの中身を引っ掻き回している姉の姿を、憂が寂しげな目で見つめていた。
4月3日。午後3時半。
病院から外に出ると、憂は空を見上げた。
相変わらず曇ってはいたが、どうやら鞄の中の折り畳み傘は必要ないらしい。
しかし、この空模様だ。いつ降り出すとも分からない。
湿った風に髪を揺られながら、憂は家路を急ぐ。
いつもと変わらない景色の中で、憂の頭の中を占めるのは、姉と、姉の友人達のことだった。
――私の、頭の中。
ふと、憂は思った。
――お姉ちゃんのからっぽの頭の中には、何が詰まっているんだろう。
とても馬鹿げた考えだった。
――そして、私の頭の中には、いったい何が詰まっているんだろう。
11月27日。午後3時半。
律「ひっ……!? ひいい……っ!」
憂「あはは。ドアが開いたくらいで、そんなに怯えないでください」
律「う……、憂ちゃんか……」
憂「ところで。ちゃんとやってくれました?」
律「え……?」
憂「出してありましたよね。宿題」
律「あ、ああ……! ちゃ、ちゃんと書いたよ……。唯に対する謝罪の手紙……」
憂「そうですか。ありがとうございます」
律「……」
憂「……」
律「ど、どうかな?」
憂「……謝罪というか、なんだか遺書みたいですね」
4月3日。午後7時。
梓「珍しいね、憂の方から連絡くれるなんて」
広い公園の中に、ひとつぽつんと立っている外灯の下にあるベンチ。
梓はそこに腰かけていた。
空を見上げると、いつの間にかできた雲の隙間から、やや欠けた月が覗いている。
憂「ごめんね。こんな時間に」
横に腰を下ろしながら発した憂の言葉に、梓が首を横に振った。
憂「お姉ちゃんのお見舞いから帰ってくる途中、なんだか無性に梓ちゃんと話したくなっちゃって」
梓「……その」
何かを言いあぐねるように、梓は憂から視線を外した。
憂は先を促すこともせず、黙ってその横顔を見つめている。
しばしの沈黙が流れた後、意を決したように梓は言葉を続けた。
梓「唯先輩、元気?」
憂は無言のまま立ち上がった。
ぎょっとした顔で、梓がそちらを見上げる。
梓「憂……?」
外灯の照らす明かりが逆光になっているため良く見えないが、梓の目には、憂が笑っているように映った。
憂「元気だよ、とっても」
ひどく、抑揚のない声だ。
憂「梓ちゃんの”頭の中”にいるお姉ちゃんは、どう?」
ゆらゆらと、憂の影が揺れる。
まるで金縛りにでもあったかのように、梓は身動きが取れなかった。
憂「見たいなぁ。梓ちゃんの”頭の中”」
12月6日。午後3時半。
憂「お邪魔します」
澪「う、憂ちゃんか……。その……、律が自殺したって、本当なのか……?」
憂「……はい。残念ですが」
澪「どうして……。あいつが責任を感じることなんてないのに……」
憂「……」
澪「事故を起こしたのだって、私がしがみついたのが悪いんだ……。なんで律が……」
憂「そうですよね」
澪「憂ちゃん……?」
憂「残酷なことを言うようですけど、澪さんのその怪我は自業自得ですよ。律さんもね。でも、私のお姉ちゃんは何かしたんでしょうか?」
澪「……」
憂「答えてください。お姉ちゃんが、何かしたんでしょうか」
4月3日。午後11時半。
もう日付も変わろうかという時刻、平沢家のリビング。
テーブルの向こうにいる憂にまっすぐに見つめられ、たまらず紬は視線を逸らした。
憂「思い出って綺麗なものなんですよ。なぜだか分かりますか?」
突然の憂の質問に、困ったように眉尻を下げた紬が、俯いたまま口を開く。
紬「ごめんね、憂ちゃん。唯ちゃんのお見舞いに全然行けなくて」
憂「そんな話はしていません」
憂はため息を吐き、語気を強めた。
言葉を遮られる形となった紬は、そのまま黙り込んでしまう。
憂が再びため息を吐く。
憂「なぜ綺麗なのか。思い出って言うのは、現実ではなく、”頭の中”にあるからなんですよ」
紬「憂ちゃん……」
顔を上げかけた紬は、何かに気付いたようで、憂の手元に視線が釘づけになった。
場の空気が張り詰め、双方の動きが止まる。
紬の喉がごくりと鳴った。
紬「袖に付いてるの、血……じゃないわよね?」
憂は何も言わなかった。
紬「お魚でも、捌いていたのかしら」
自分でも声が震えているのが分かるほどだった。
紬はゆっくりと顔を上げ、うかがうように憂の目を覗き込んだが、そこからは何も読み取れない。
しばしの間、そのまま二人は見つめ合っていたが、無言の憂が突然立ち上がったかと思うと、部屋の奥にあるキッチンの方へと引っ込んでいってしまった。
憂「お魚なんかじゃないですよ。これです」
少しして戻ってきた憂の右手には、透明なビニール袋が握られていた。
……その中には。
つんざく様な悲鳴が家中に響き渡った。
憂は眉根を寄せ、表情を『さも迷惑だ』と言わんばかりのものへと変化させる。
憂「もう時間も遅いですから。少し声のトーンを落としてもらえると助かります」
異形のモノから逃げるかのようにして、紬は青ざめた顔で身をよじっていた。
口元に当てた両手は震え、見開いた目からは涙が零れ落ちている。
憂「梓ちゃんの”頭の中”を見ようと思ってわざわざ掻き集めてきたんですが、なんだか、よく分からないんですよね」
ビニール袋の中に入っている物を、紬はいつだったか見た覚えがあった。
いくら自分に「違う」と言い聞かせても、憂の言葉が如実に語っている。
それは、あの事故の日に、唯の頭からこぼれていた物とそっくりだった。
紬「うう、う、うううう」
呻きとも、泣き声とも取れるものが、紬の喉の奥から漏れ出ていた。
頭を抱え、身は丸めて、紬は、ただただ震えていることしかできなかった。
憂「申し訳ないなぁって気持ちはもちろんありましたけど、律さんと澪さんが死ねば、以前のお姉ちゃんが帰ってくるって思っていたんですよ」
目の前で嗚咽を漏らす紬を無視して、憂は言葉を続ける。
憂「でも、ダメでした。だから梓ちゃんの”頭の中”にいるお姉ちゃんを取り出そうとしたんです。ただ、やり方がよく分からないんですよね」
そんなことは考えたくもないのに、紬の脳裏に、頭部の砕けた梓の姿が浮かんだ。
恨めしげに血の涙を流す梓の佇む横で、首を吊った状態の律と澪の二人が、ゆらゆらとその身を揺らしていた。
憂「こんなことなら、律さんと澪さんの”頭の中”も取り出しておくべきでした」
壁掛け時計の時を刻む音がうるさいくらいに聞こえる部屋に、地を這うように静かな声が響く。
憂「どうせ、殺すんだったら」
呼吸が、出来ない。
胸に手を当てた紬が、「はっ。はっ」と短く息を吐き出し続けていた。
心臓が狂ったように跳ね、まるで水の中にいるかのように視界がぼやける。
憂「まぁ、今さら言ってもしょうがないことですけどね」
今度は、けたたましい笑い声が室内を占める。
完全に腰が抜けてしまった紬は、必死に頭を働かせていた。
先程、彼女はなんと言った?
『どうせ、殺すんだったら』
おそるおそる、紬は顔を上げる。
そして、大きく見開いた目で、気でも触れてしまったかのように笑い続ける人物を視界におさめた。
紬「憂……、ちゃん……」
色を失ったその瞳からは、やはり何も読み取れなかった。
紬「二人は、自殺じゃなかったの?」
ひどくかすれた声だった。
確か、あの二人は、カーテンレールにかけたタオルで首を吊って死んだはずだ。
紬の質問に、憂は氷のように冷たい視線を投げた。
憂「普通はそうですよね」
何が”普通はそう”なんだろうか。
元より冷静さを欠いている紬の頭では、その答えを出すことはできなさそうだった。
ただ、黙って目の前の人物を眺めていることしかできない。
憂「紬さんにも分かりませんか」
表情を不機嫌に歪めて、憂は吐き捨てる。
憂「あれだけのことをしたんですから。普通は自殺しますよね、ってことです」
憂「別に最初から殺そうだなんて思っていませんでしたよ。だって、二人とも、お姉ちゃんの友達ですから」
動揺を隠し切れない紬とは対照的に、憂は淡々とした様子で語った。
憂「私、律さんがどうしても許せなくて、お姉ちゃんに対する謝罪文を書かせたんです」
憂「変なことが書かれてないかなって、お姉ちゃんに渡す前に内容を確認したんですけど、おかしくて、思わず笑いそうになりましたよ。だって、それって、謝罪文というよりも、まるで遺書みたいだったからです」
憂「その時、ピンときました。以前から殺意に似たようなものは持っていましたが、明確に行動に移そうと思ったのはそれが最初です。まさか、本当にこんな日が来るなんて、自分でも想像していませんでした]
憂「私は、気が付くと律さんの首にタオルを巻きつけていたんです」
紬「ま、待ってよ……」
憂「なんでしょう?」
やっとのことで紬が声を発すると、憂は無表情のまま首を傾げた。
紬は一呼吸を置き、なんとか気を落ち着けるように努めながら、言葉を続けた。
紬「澪ちゃんも……?」
憂「はい。私が殺しました」
即答だった。
憂の静かな佇まいは、耳元で半鐘が鳴り響いたかのような衝撃を残して、紬の世界を揺さぶった。
紬「でも」
口を開きかけた時、紬は吐き気を催した。
テーブルの上にあったティーカップに震える手を伸ばし、冷めてしまった紅茶を這い登ってきた胃液ごと飲み下す。
乾燥した唇が、カップの淵に張り付いた。
紬「警察の人は、自殺に間違いないって」
両手に持ったカップを膝の上に乗せ、紬は俯いた。
瞬きと同時に、数粒の涙が零れ落ちる。
憂「そうですね。うまいこと偽装できましたから」
憂「それにしても、あれだけの大怪我をした人がちゃあんと自殺できるなんて、どうしてそう簡単に判断出来たんでしょう」
憂「警察なんてね、ほとんどまともに捜査なんてしないんですよ。こと病院内での自殺に関してはね」
憂は変わらず、感情を表に出すことはしなかった。
憂「元々、あの二人も死にたかったんじゃないでしょうか。抵抗なんて、全くと言っていいほどしませんでしたし」
憂がテーブルの上に手を伸ばしたのが、紬の視界に入った。
どうやら目当てはティーカップのようだ。
紬が俯いたままでいると、クピクピと喉の鳴る音が聞こえた。
憂「だって」
テーブルの上に置かれたカップが、コトリと音を立てる。
憂「お姉ちゃんをあんな目に合わせたんですから」
紬「別に、律ちゃんと澪ちゃんだけが悪いわけじゃ――」
憂「紬さんもあの二人の肩を持つんですか!」
激しい怒号と、何かを叩きつけるような音が響いた。
それは、憂の右手に持たれた小ぶりなハンマーが、テーブルの上にあるティーカップを砕く音だった。
――殺される!
紬は直感する。
慌てて逃げ出そうとしたが、腰が抜けて立ち上がれず、赤ちゃんがするハイハイのような姿勢で窓のある方へと向かった。
憂「おかしいんですよ。紬さんも、梓ちゃんも。”頭の中”がどうにかなってるんですか」
背後から冷たい声が響いたかと思うと、すぐに追いつかれてしまった。
紬はわき腹を蹴り上げられ、小さな呻き声を挙げながら仰向けに転がる。
憂「紬さんなら分かってくれると思っていました」
紬の上に馬乗りになりながらも、憂は表情を全く変えなかった。
そのまま、静かに右手のハンマーを振りかぶる。
紬「や、やめて。憂ちゃん」
怯えの色を全面に貼り付けた顔を両腕で必死に守り、紬は懇願した。
が、無慈悲にも、殺意にまみれた一撃は打ち下ろされるのだった。
何度目かの打撃で、右前腕の尺骨が砕けた。
紬の顔は苦痛に歪み、喉の奥から悲痛な呻き声が漏れ出る。
憂「抵抗しないでください。余計に苦しむだけですよ」
憂はそう言って、空いている左手で紬の歪んだ右腕を力いっぱい握りしめる。
絞り出すような唸り声は叫びに変わり、そして、荒い喘ぎとなった。
憂「紬さん。痛いですか?」
紬は、そんな質問に答える余裕などなく、右腕の痛みから逃れようと必死にもがいていた。
固く閉じた瞼から、大粒の涙がいくつも零れ落ちている。
憂「もっと、痛かったと思いますよ」
容赦なくハンマーは叩き下ろされ、そのたびに紬の身体は悲鳴を上げた。
憂「お姉ちゃんは、ね」
血だまりの中で、憂はしばし呆然としていた。
かたわらには、動かなくなってしまった紬が静かに横たわっている。
――お姉ちゃんのからっぽの頭の中には、何が詰まっているんだろう。
憂は考えていた。
ふと、ビニール袋に入った、梓の”頭の中”が目に留まる。
――そして。
憂は、律のことを思った。澪のことを思った。梓のことを、紬のことを思った。
ひとりぼっちでいる、姉のことを思った。
――私の頭の中には。
今は、結果だけが残っている。憂の頭の中に。
――いったい。
4人を殺したという。
――何が。
記憶。
5月14日。午後1時。
唯「あー。今日も来てくれてありがとねぇ。みんなー」
大きな窓から入る太陽光を、真っ白な部屋が反射していて眩しいくらいだった。
病室のベッドの上で一人、唯が笑顔で話し続けている。
「何、あれ」
換気のためにそうしたのだろうか。
開け放たれたドアの前に、中年女性が立っている。
「あの子、事故で頭おかしくなっちゃったんですって。いもしない友達や家族と、ずっと一人で話しているらしいわよ」
クスクス、という笑い声。
「私たちも脳の病気だけど、ああはなりたくないわね」
「ほんとそうよねぇ。現実と妄想の区別くらいはつけておきたいわ」
笑い声がひとつ、病室から遠ざかって行った。
――お姉ちゃん。
唯「あー。憂も来てくれたんだぁ」
――思い出って、どうして綺麗だか知ってる?
唯「なんだかすごく久しぶりに会った気がするよぉ。毎日会ってるはずなのにねぇ」
――それはね。
唯「律ちゃん達が持ってきたお菓子があるから、一緒に食べようよ」
――”頭の中”に、あるからなんだよ。
終わり
184 : 以下、\... - 2015/05/14 22:20:24.21 j/74ImbHM.net 62/62読んでくれた方、レスくれた方、ありがとうございました。


非常に鬱っぽい気分になったけど、鬱展開嫌いじゃないから批判する気にはならない
悪くないSSでした